Soranoha

平和運動と文学者

へいわうんどうとぶんがくしゃ

宮本 百合子

私は体を悪くして、去年の夏から、いろいろな講演をお断りしてまいりました。けれども今日は昨日と今朝の新聞を見まして、どうしても、一言皆さんと一緒に話して考えたいことがあったものですから、いわば少し無理をしてきているのです。大変失礼ですけれども腰掛けさせていただきます。

今日、私どもが、自分達の生活を少しでも民主的にして、文学も人間らしい文学を作っていきたいと思っております時に、昨日や今日の新聞は私たちに何を感じさせたでしょうか。戦争が済んでからもう三年たち四年目になりつつありますが、その年の終りに極東裁判が終結しまして、そうして七人の首謀者達は処刑されました。一応それでもう日本のいままでの十数年間続いていた暗い、重い、人間らしくない、私どもの命も生活も文化も自分たちに確保されていなかった生活は終りがきたようにみえますけれども果してそうでしょうか。昨日と今朝の新聞を御覧になった皆さんに聞いてみたいと思います。あの新聞を御覧になった皆さん方は一九四九年という年がほんとうにはっきりと、より民主的な日本に進みつつあると期待おできになったでしょうか。私はそうは思わなかったのです。なぜかと申しますと、たとえば新聞は処刑された東條の葬式についてあれだけ、いわば華やかに写真を載せております。それから処刑された人の家族にいろいろの話を聞いてインターヴューしております。特に東條の家族はなんといっているでしょうか。「お父さんは死んだのではありません、生きたのです、なぜならば、彼は最後まで信念を守りましたから」といっております。それが、民主国たろうとする日本の新聞に出ていることにおどろかない人があるでしょうか。同じ新聞は、極東裁判においてその人の侵略戦争に対する謀略が有罪と判決され、処刑さるべき宣告をのせた。つい先頃のことだったのに、きのうは、日本のすべての新聞が戦争謀議責任者の家族のインターヴューをのせています。これはどういうことを意味するでしょうか。それは結局東條は死んだのではないということをいい得るだけの社会的基盤がまだあることを家族の人が知っているからです。ファシズムが死んでいないということを知っているからです。同時に今日の新聞はA級の容疑者が十九名釈放されたと伝えています。そして写真が出ました。あの写真を御覧になった皆さんは、ここにいらっしゃる方々は若い方が多いから、直接自分の体の上にお感じになっていないかもしれません。だけれども私はあの人達が何をしたかということをこの私の体の上に知っています。なぜかといえば、たとえば安倍源基という人は、日本の治安維持法による特高警察というものがつくられ、言論や出版の自由をすべて人民から奪って、十何年かの間戦争を遂行して参りましたその治安維持法改悪のたびに立身してきた人間です。安倍源基という人ははじめ警視庁の特高課長であり、その次は警視総監になり、次は内務大臣になって、それから企画院に入った人です。その間に日本の私達人民の自由と文化とは、どういう目にあったでしょう。小林多喜二を殺したのは安倍源基とその配下です。岩田義道を殺したのも野呂栄太郎をころしてしまったのも安倍源基です。治安維持法が改悪されて日本の民主的なすべての理性、合理的な平和を愛するすべての人の心を踏みにじってしまったのは治安維持法の仕事でその実行者である検事局、憲兵のために働いた安倍源基を筆頭とするその部下です。ですから安倍源基の出世物語というものは一頁ごとに人民の血に赤く塗られています。治安維持法のギセイ数万人、共産党の内に入りこませたスパイ組織の功績によって彼は勲章を貰い、企画院総裁になったのです。そういう人が果して、人道的に、道義的に云って無罪でしょうか。私たちがあの人たちをここに立たせて、おじぎをすることが出来るでしょうか。裁判では、法律的な範囲内では無罪として釈放されました。皆さんは公務員法を御承知です。それからいろいろの新聞の記事の扱いにあま下りもあって決して自由でないことも知っていらっしゃる。出版が自由でないことも知っていらっしゃいます。そういう時に、選挙を前にして、私どもが既成政党の政治の腐敗を心から嫌って、新しい人生を明日につくりたいと思っている時に、こういう人民抑圧によって出世した人物、スパイ陣の組織者、治安維持法の残酷な使用法を実行した人が無罪として現れてきたこの意味はどこにあるでしょうか。それは明瞭だと思うのです。こんにち、こういう経験の深い人達はひとつも表に立って働く必要はありません。組織が残っておりますから。その組織はもとのままの特高課とか、憲兵とかいう世界の民主主義からはっきり誰でも非難を向けられるようなものよりも、もっと微妙に、もっと拡がって様々の形をかえたそういうものです。そういうものが今日残っております。たとえばA級の戦争犯罪者、つまり世界の人類に向って罪を犯した人が数人処刑されたとしても、ファシズムが残り、底が残っていればそれはなんの意味もありません。蔭でよく働く人が自由に活動できれば、そういう人達は日本の民主化を邪魔する仕事がいくらでも出来る。そして彼らはそれをはっきり知っています。自分たちがまだ利用される余地があったということを、したがって、自分たちとして利用する力もある、ということを。これは、私どもの明日の発展的な運命に対立した立場であり、その立場についてのはっきりした自覚でもあるでしょう。ファシズム、日本の旧軍部の力が生きている実感が与えられていないならば、どうして東條の家族が「お父さんは生きている」というふうなおそろしいことをいえるでしょう。この言葉は極東裁判の、長い間の調査、それからまた最後の判決決定――世界の理性を嘲弄しているものです。東條は死んでも信念は死なないと云い、ファシズムの存続が明言されていることは、きわめて厳粛に、きわめて真面目にわたしども人民が考えなければならない。現在私どもはいろいろの点でだまされています。私どもの人民としての知慧も決心もまだ十分でないんです。たとえばこんど釈放された人の中に天羽英二という人がいます。けれども、この情報局の局長であった人が、情報局というところで軍部が要求した日本の言論の自由の抑圧、出版の自由のはくだつ、文化、文学、学問の自主性を奪って、戦争宣伝に従わせ、つまりきょうの世代に青春をうしなわせた、その仕事のためにどういう責任をとわれる立場にあるかということを、この人が自由になった日本では用紙割当が内閣に移って、内閣が言論出版の物的基礎を握ってしまったということときりはなせないこととして理解しなければならないのです。同じグループの児玉誉士夫というのは児玉機関といわれた特務機関のような一種のファシズムのボスですが、彼は或る種の右翼的な作家、名前をいうことを止めますが、そういう作家達と近い関係にあったという話があります。

すべてのこういう事情はこんにちの文学の上にどういうふうに反映しているかといえば、皆さんはあの七戦犯の判決が公表された翌日、新聞が作家石川達三の話を載せたのを読まれたでしょう。判決の結果に対しては何もいえない、ただ将来に期するしかないという意味を石川達三談として書かれていました。この同じ作家が戦争が終結した時にどういうことをいったかといえば、日本がまた再び過ちを犯すならば自分も犯すだろうとはっきりいっています。その石川さんが世界平和のために、人類の平和と文化のための機関であるユネスコの役員になっていられます。そういう矛盾は日本にしか見られないと思います。そして矛盾はどこによりどころをもっているかと云えば、「お父さんは生きています。信念を貫いたのですから」という言葉が公然と云われた、その同じ根拠です。この人たちはみんな生きているファシズムの顔を見て声もきいているでしょう。私どもはつまりきょうの日本のこういう現実を掴んで私どもが自身の運命を托してそのために努力している日本の民主化がどういう状態におかれているかということをいまこの瞬間に通じる自分の問題として知らなければならないと思うのです。日本にファシズムは生きています。同時に日本のファシズムを寄生的に生かす世界のファシズムが存在しています。イギリスのバーナード・ショウはああいう皮肉やですからその点ははっきりしています。彼はファシズムが、自分の国にながく生きがよく存在していることを新聞でいっています。日本のファシズムは便乗してお墨つきで生きているのです。

世界文学について真剣に考える時、このことを忘れてはいけないと思います。口の先であるいはいろいろ印刷物の表面では民主化、民主化といって、日本の民主化は進行している、きわめてスムースに進行しているというようなことをいいながら、その半面で露骨にファシズムを植えつけて行くことが可能なような社会意識に日本を止めておくことは私ども日本の人民にとって非常に恐ろしいことです。そして、人民としての恥辱だと思います。なぜかといえば、毒がどれだけわれわれの体に廻るかということを知らないうちに、毒が注射されているからおそろしい。

そういう注射を心づかないでいるなんて、云いわけにもなりません。ドイツがヒットラーのナチスのためにあれほど悲劇的壊滅をした。すべてのドイツの人がファシストだとか、そこに責任があるというのでなく、地主、軍需生産者、旧軍人の権力であるファシズムの権力を、動揺的な小市民層、学生などがうけ入れたということが今日のドイツの人々をあれほど悲惨にし、食べるものもない、着るものもないという状態に陥れた。それはどういうことであったかといえば、ドイツの第一次大戦後の社会的動乱期に小市民的な人たちが、あの時のドイツの社会主義を民主的に徹底したものにすることをおそれ拒み、そうかといってもとのままの資本主義にもこりたと迷ってとうとうナチスにひっかかったのです。ナチスには外国の独占資本、反社会主義的であり反人民的な資力が投資しました。これはジュール・ロマンの「世界の七つの謎」にはっきりかかれています。そして、ドイツの迷っている人達を愛国心だの復讐心などに統一して、そして、ヤング案に反対する、農村では地主が納税に反対するというような、きわめてうまい人心収攬のきっかけ、目先の利益にくらまされる人々の気分をヒットラーが掴んでナチスはああいうように擡頭しました。そうしてドイツの人民は自分の運命というものをナチスのためにふみにじられるいとぐちを開いてしまった。この事実を私どもはよく理解しなければならないと思います。日本の民主化のこういう片輪な状態、云いかえると露骨な妨害によって歪められようとしている日本の民主化の事情において、今日私どもの文学の問題は直接どういうふうであるかというと、日本の民主主義文学の課題は、日本民主化そのもののすべての革命的課題と一致したものであります。ファシズム反対と平和のためのたたかいの諸相は日本民主主義文学のテーマであるし、人民の民主的能力の典型としてのソヴェト社会に対する支持もそのテーマの一つです。それらの一つとして古い私小説から社会小説への解放があります。ブルジョア文学の私小説では自我というものを問題にして来ました。ちょうど『近代文学』の人達が敗戦ののあとすぐ日本文学における「自我」の問題をとりあげたのも一例です。日本にはブルジョア民主主義が確立されなかったから、ブルジョア民主主義社会における意味での「自我」、「個」というものを確立させて、それからより社会的にひろい人民的な民主主義に発展させてゆくべきものだというふうに、自我の確立が、個人主義的なブルジョア的な立場で主張されました。それも一九四五年の秋から四六年のはじめぐらいまでの期間には、ある発端的な意味があったかもしれません。なぜなら、そういう発言そのものが、戦争にかりたてられた日本の人民がどんなに基本的人権を失っているかということの証拠でありましたから。しかしそれから後、日本における民主主義革命は人民的民主主義へ急速にすすむ歴史的本質をもっていることが明瞭にみんなにわかってから、ブルジョア民主主義の立場に立って確立されていた筈の「自我」の現実の姿はどのようにあらわれたか。非常におもしろい例がでてきました。

皆さん新聞で御承知のことと思いますが、部落解放運動の長老として有名な代議士の松本治一郎氏が開院式のとき天皇に拝閲することを拒絶して問題になりました。なぜ松本氏が拒絶したかといえば「蟹の横這い」が厭だったというのです。天皇がまっすぐに向っているのに、同じ人間の議員は体を横にして横這い歩きをして出たり入ったりする。自分は人間だから厭だ、人間は元来まっすぐに歩くものなのだから御免蒙るといったのでした。あの当時「横這い」ということはずいぶんわたしたちの印象に残ったと思うのです。ブルジョア文学において最も「自我」を主張し、それについて一番潔癖な、一番完成したといわれている志賀直哉を、松本治一郎と対比してみるとどうでしょう。あんなに自我というものをたいへん潔癖に守ったような人が結構、横這いをしているのです。天皇も人間になったのだから、そして生物学者ということを押し出しているのだから、文化的な雰囲気をもたせなければならないというわけでしょう。この頃は芸術院(これは各専門分野から養老院という辛辣な別名を与えられていますが)の会員と会食したり、安倍能成、志賀直哉そのほかを招いて天皇の前で文化・文学座談会というようなものをやるのだそうです。けれども、その話しかたが横ばいなんだそうです。普通にあいたいで話すんじゃなくて――天皇がみんなから別のところにいて、その下に安倍さんや何か固まって話してね、お互い同士は友達ですから、こういうことはどうなんだろうね、たとえば天皇はこういうときどういう言葉を使われるのだろうね、というようなことをお互いの間でいうと、侍従か何かがそこにいて、天皇に適宜にとりつぎ、またその答えは側のものが答えるんだそうです。だからこれは松本さんが厭だといった「横這い」の会話でしょう。それは天皇という人は、奥さんに額の汗を拭いてもらってほんとうに満悦している写真があったように、その人とすれば悪い人でもないし、不幸にも人間ばなれした偶然の境遇に生きてきた人でしょう。しかし主権者として、わたしたちと同じ人権に立って存在している正常な人格なら、天皇が侵略戦争について責任無しなどということはない筈です。責任なし、ということを宣言されてたとき、彼はたいへん喜んで、よろしくお礼をことづけてくださいといっていました。が、あれはつまり、天皇というものは法律の上でも無能力なものであるということを自分から承認したことであり、どうぞこれからも悪しからずという挨拶です。天皇という地位にうまれた一個の人を無人格な者にするのならば、天皇制なんかはこの点からもない方がいいものです。普通の人間になって生きられるような社会を作ってやらなければ皇太子だって可哀想です。英語ばかり話せるようになったって、大事なことはなんだってアイ・ドント・ノー、アイ・ドント・ノーではね。しかしそういう社会は、天皇制をくいものにして、旧権力を温存させようとしているものには決してつくれません。人民がつくる力をもっているだけです。ブルジョア文学の旧い「自我」の限界は志賀直哉のような文壇的自我が、それほどの横這いを横這いと思わなくなっている、というところに、はっきりあらわれている。天皇制を批判したりするものに娘を嫁にやらないなどと、世間のおやじが酔っぱらった時にあぐらをかいていうような啖呵たんかを、文学者としていえるということは日本の過去の社会感覚の中で「自我」がいかに低い内容をもち、いかに封建的であり、隷属的であるかということをはっきり私どもに知らせていると思うのです。

おくれて、しかも速く進む日本の歴史の中ではブルジョア民主主義と人民的な民主主義と並んで重って或る期間進展してゆくから、人民民主主義を否定しようとするなら(社会党にいたるまでのすべての保守陣営がそうであるように)いや応なく反人民的になり、国際的ファシズムに結ばれなければ、その一環とならなければ、資本主義としての存在が保てないところへ来ています。国際的にそういう風に歴史が前進しました。ですから私どもが新しい民主的な人民生活をつくりつつそのなかで新しい人民的な内容での自我を確立させていくということは、結局勤労階級の推進力が確立しなければできないことなのです。働く人民の生活安定と自由と建設がなければそのうちに育て鍛えられる新しい人民的自己というものの確立はありません。ですから、さっき一番始めに申しましたように安倍源基が市民生活の中へまぎれ込んで来るとか、にせ気違いかなんか知りませんが、東條の頭を叩いて松沢に行っていたファシズムのイデオローグである大川周明が全治したとかいうとき私どもははっきりとファシズムは生きていることを知りそれに対して闘って自分たちの民主的なすべての可能性を守らなければならないのです。これは、わたしたちの義務です。もしわたしたちが基本的人権を主張する権利を認めるなら、その権利を守るためにたたかうということは当然の義務であり、云わば権利そのものの表現です。私ども正直でつつましい人民すべてが世界の平和を愛し、恒久的な平和を守ろうと決心した場合には、ちょうど私どもがいいことをしたいという時と、やりかたが同じだと思います。いい一つのことをするには悪いことと闘っていかなければならないとおり、平和を守る場合には、必ず、平和を乱すあらゆる条件に対して、はっきりとその本質を見きわめ、理性的に聰明につよく闘っていかなければ平和は守れない。

文学的創作は一つの社会的行動でしょう。書くということは社会的な行動です。書く時に私どもはなんのテーマもなく書くでしょうか。まず第一に自分たちの書きたいと思うテーマをしっかりとらえようとします。われわれの頭のなかにはいろいろの問題があって、くれにさしかかっている今は今年の正月は餅が何枚つけるか、蜜柑が買えるか、ボーナスがいくら貰えるだろうか、貰ったらどう使うか、また靴の新しいのを買わなければならない、いまはいている靴は底がぬけたとかいろいろな考えが頭にあります。そのなかで靴の底が抜けたから新しい靴を買わなければならないというテーマについて書きたいと思うときは、ほかのことは一応整理して、どけなければならない。それから、第二段のこととして私どもがものを書こうとする場合には、自分の未熟さにも抵抗して、全力的にそれとたたかってゆかなきゃならない。表現のむずかしさ、読む人に書こうとしていることがよくわかるように書いてゆくためには、自分のあらゆる貧弱さにも抵抗しなければならない。働く人は時間の少いという条件ともたたかっているのです。そういうさまざまの抵抗とたたかいながらなお且つ新しい文学が生まれようとしているという希望、何かいわずにいられないものが、わが胸に鳴っているという希望によって書いているんです。平和という仕事もその通りです。現代の歴史ではファシズムとの闘いをぬきにしては私たちの基本的人権はもちろん文学をつくってゆくすべての人間的可能のまず第一のところ――生きて判断して、表現してゆく自由が守れない。つまり私たちの命、私たちの人生そのものがついこの間までそうであったように私たちのものでないようになってしまうわけです。今日そのことについて知らない人はないし、そのことを思わない人はなくなりました。それだからこそ、世界に平和擁護運動がおこっているし、日本に「日本文化を守る会」「民主主義擁護同盟」等があり真に文化を守ろうとする人が、民主民族戦線に無関心ではあり得なくなっているのです。

今日ここに来ていらっしゃる方々は、なんかの形で文学を愛好している方でしょうし、民主的な新しい文学を書こうと思っていらっしゃる方も多いでしょう。そういうわたしたちがファシズムに対して闘い、平和を守り、新しい自分たちの才能をもこめて自分というものがほんとうに社会的に生かされてゆく社会をつくってゆくためには何をしなきゃならないか、ということは、もうくりかえす必要がありません。それははっきりしています。わたしたちはわたしたちの人民としての人生を守り、主張し、うちたてるのです。ファシズムに対する戦いは、すべての組織においてあらゆる方法で具体的に実際的に行われなければならない。労働組合でも人民の政党によってもわたしたちの日常的な行動のすべてにおいて、行われなければいけない。それについてここに一つの新しい提案があるのです。

文化の社会的基礎は経済問題であり、同時に政治問題であるから、その文学の社会的基盤の向上のために文学を愛好する人はたとえば組合なら組合の活動、政党なら政党の活動に積極的に結びつかなきゃならないということまではこれまでもいわれて来ました。それはもっともだし当然です。だけれども、どういう形で結びついてゆくかというこまかいことになると、皆さんにも煩悶がおありになると思います。もし煩悶がないとしても、組合の仕事などとの間に何かの不一致、何か気持のぴったりしないということなどが、しばしばサークルにいる人たちの間などで問題になっています。民主的な小説を書きたいと思っている、だけれども労働者には時間がない、組合の活動は積極的に働けば非常に時間をとります、だからいま小説を書きたいと思っているんだから当分、組合の仕事は少ししかしないで置こうというような気持。実際そう思うときもあるでしょうが、それは新しい文学を生もうとする人としては間違っています。なぜかといえば、組合の仕事やその他の組織の活動で私どもは新しい社会感覚、それに立つ文学表現を蓄積していくのです。その経験こそいわゆる「才能」を解放する力です。谷崎潤一郎にしろ、永井荷風にしろ、どんなにしたって自分たちの生涯のなかで経験することの出来なかった一つの新しい、ほんとうに民主的な文学の基盤というものが、今日の若い人民的世代のためにひらかれているというのは実にここです。そこにわれわれの人生があり、題材、テーマがあり、私どもの詩と小説がある。ですから組織生活を否定してしまったのでは新しい文学も生きている手足をかっ浚さらわれて、「民主主義文学」という頭だけで机の前に坐っているのと同じです。だからといって文学の現実の問題は、ふくざつです。二・一までのストライキの時に多くの方が経験しておられることですけれども、全く文学に関心のない組合員と同じようにビラを貼り、メガホンで叫び、かけずり廻って、そして疲れて帰る。それだけでは何となく心がみち足りない。文学が恋しくなる。そして、文学恋いから太宰だの、椎名麟三だのを腹ばいになって読む。その人の現実と読まれる文学の間に何の必然のつながりがあるでしょう。一人の労働者として組合の仕事とふれてゆく文学の間に非常にギャップがある。そういうギャップが現実にあるから舟橋聖一・田村泰次郎がこの不況にトップをきって売れているのです。

ここにAさんという人があります。Aさんという人は工場に働いています。それで文学好きです。文学を好きだという人は必ずより人間的な要求をもっています。自分たちの人生には金や力で解決しない、尊いものがあるということを感じています。何か求めています。ですから職場の闘争で賃金の値上げをたたかいとったにしろ、その闘争の過程で自分が人民的な組織労働者としての人間的な体験を豊かにしたというような経験のし方をしないと、金がよけいとれても侘びしい、組合の闘争や政治教育が低くて経済主義的な活動にとどまると勤労者であるという階級意識がそこに在っても、やっぱり何かしばしば満たされないものを心に残します。ぼんやりした哀感が残ります。その場合そういう心理が文学的にどういう反応を示すかというと、やっぱり文学というものは闘争を描き、同じような生活環境を描いている労働の文学よりも何かもっと違ったところに文学の本質はあるのじゃないかと、逆にブルジョア文学の雰囲気的なものにひきつけられる気持にもなってゆきがちです。

この点は、働く人の職場での文学の趣味の内容をよく知っている皆さんなら理解なさると思います。

あらゆる民主的組織の文化・文学的活動は、こういう風に勤労者の生活感情に複雑に影響してくるブルジョア文化の反映と注意深く闘ってゆかねばなりません。これもファシズムとの闘いへのはっきりした一翼です。人間の人間らしい文化的な欲求を階級の発展する歴史の必然に一致させて、それをのばし主張してゆくこと、ほんとに自分たちの文化を闘いとってゆくことは、口でいうほど簡単でありません。また、組合活動の中心課題がストライキは一段落だから今度は文化活動へという考え方で成り立つものでもありません。わたしたちは、人間らしくこの人生を愛するからこそ自然に職場で活溌に働くようになるのだし、その経験から革命的にもなるのです。自分にぴったりした人生の現実として階級の意味を理解し、それをいとおしむからこそ、わたしたちのヒューマニズムにおいて人民的な民主主義の立場をとらないわけにはゆかないのです。

文学サークルに属す人々と、組合指導部との間に何か気分のぴったりしないところがあったということは、こんにちわたしたちがファシズムと闘って日本に民主主義をおしすすめてゆくために、生きてゆく感情として注意深くみなおされていい時期だと思います。文学の非常に好きな組合員が組合活動の忙しい時は、文学には眼をつむって、ある時期だけは死んだ気になって組合活動をやる。実際そういう気持を経験している人があるのです。そして組合の方がひまになったから文学へかえるという風な――一日は二十四時間しかないから時間的にはこういうこともさけがたい実際です。けれどももう一歩つっこんで考えてみると、働く者の文学、人民の文学が育ってくる過程にある問題として、この「死んだ気になって」ということは相当重大な意味をもっていると思います。組合活動が非常に忙しいという時は、大体に云って階級的感情の発露や集団的討論・行動の高揚した時期です。いいかえれば、その人としての階級的・人生的な経験の豊富ではげしい時であるはずです。その時期にその人が死んだ気になって機械的なストライキマンの役割で働いたとしたら、その経験を通じてその人がどうして政治的・文学的にゆたかにされることができるでしょう。ストライキを描いた小説に事件と筋しかなくて、文学的な人間性が欠けていた原因がこういうところにあります。

大体文学的に人生を生きるということはどういうことでしょう。ブルジョア・ジャーナリズムのあれこれの作品について受け売り批評をすることでもなければ、口の先だけで民主主義文学創作方法あれこれをしゃべることでもないでしょう。毎日のテムポの早い内容の実に複雑な生活の上に起るさまざまの事件、さまざまの気持、さまざまの人間関係などは、多くの人にとってその本質的な意味を考えたり、ちらりと心にひらめいた感じを追求してそれを事柄の本質にまで追いつめて自分に受け入れてゆくということはできなくて、一日一日とすぎています。文学を愛し、文学を志す人の気持というものは、おしながそうとする生活の波に対して盲目であり得ないというのが本質です。だからくりかえし云っているこの度の十九名のファシスト達の問題についても、形式的なブルジョア権力の道徳からいえば、法律が無罪としたならばそれは罪がないということにおさめて平気です。だけれどもトルストイの「復活」でさえもカチューシャという女主人公をとおしてブルジョア法律の非人間性を暴露しています。

治安維持法という全く権力擁護の悪法によって血ぬられた立身出世の階段を一段一段と経のぼった人間が人民の正義と自由に対して罪のない者であるということは、人間としての正義感が承知しません。こんにち、権力をもっている支配者たちの法律がそれをどう擁護するにしろ、正直な人民の正義感はそれに承服しません。ブルジョア文化・文学の感覚では、こういう種類の憤りの実感をいわゆる「イデオロギー的表現」として型にはめています。頭で考えていわゆる階級性でそういうことをいうのだと思っている。でもわたしたちのこの感じは、本当にそう感じるのです。ブルジョア文学がいつも大事に創作のモティーフとして、純粋性として主張する実感そのものなのです。こういうところにはっきりブルジョア文学の文学感覚と、わたしたち人民の文学を生み、またこれから生もうとしている者の本質的な人生と文学との感覚のちがいがあらわれています。人民的な階級性をもった世界観という言葉の実体は、印刷された箇条書きではなくて、わたしたちの心臓の鼓動とともに高鳴っているものであり、わたしたちが生きているとともに生きているものです。職場の若い娘さんが「私はいやよ」という一言の中にこめられているものであり、是非民主的に生きたいという人々の欲望そのものの中にあります。

一人の文学を愛する労働者が、いつもより本質的に人生の波を感じとる人として、またそれを再現する人として自分を分裂させずにあらゆる場面を生きとおしてゆくということ、そのように機動的な文学性をきたえてゆくということ、これが人民の文学の新しい発展の基礎訓練です。スキーや水泳の選手が、基礎練習として体操を忘れないように。

これまで新しい人民の文学の発端としてルポルタージュを書くようにということが、文学サークルでもしばしば云われてきています。しかしルポルタージュというものは、もう既に一定の文学様式のジャンルをしめるもので、文学製作のいろいろの条件を必要としているものです。ルポルタージュは非常に構成力を必要とします。情景の描写に相当の描写力を求めます。ルポルタージュがさかんにすすめられているにもかかわらず、案外にこのジャンルが新しい書き手をおくり出さない理由は、こういう風にルポルタージュは案外むずかしいということによります。ルポルタージュが書ければもう短篇が書けるのです。文学サークルの雑誌・文学新聞・アカハタ、いろいろの民主的出版物は、いつも読者との直結をのぞんでいながら通信員を育てあげることについて消極的でした。組合の文化部が壁新聞については馴れてきたけれども、自分たちの通信員をもつことにはまだ無関心です。わたしたちの文学的成長のために、ひとの書いた小説を十冊、二十冊とよんで、巧者な批評をするということと、たった二枚だけれども生活と文学についての文章を読者にのみこめるような具体性で書いてみることとの間には、案外深刻な違いがあるものです。勤労階級があてがわれる文化の消費者であるか、自分たちの文化をつくってゆく者であるかとの大きなちがいは、こうやって話すと面白くもないようなこの小さい一点に対する態度から分れます。

その人は一生小説を書かないかもしれない。詩は書かないかもしれない。だけれども、いきいきした精神をもって生きていて、批判と主張と希望とをどっさりもっている人として、今日の現実から感じとることがないはずはありません。その考えなり、感情なりを大衆的に表現して職場仲間よりももっと広い階級感情にアッピールし、その反響を自分にも受けとって激励を感じることは、果して意味の小さいことでしょうか。通信を書くという仕事は、文学の基礎体操のようなものです。そこでは、事件そのものがその本質において語られ、その本質が働く人民の生活にどんな影響をもっているかということが発見されていればよいのです。このことは通信を書くという仕事が、広い多面な闘争についてお互いに知り合い励まし合うばかりでなく、正直に通信を書こうとするわたしたち一人一人に、現実を正確に観察して主観的な誇張なしにそれを書いてゆくというリアリズムの大切な訓練を与えます。民主主義者にとって、革命家にとっては現実をそれがあるよりも大きくもなく小さくもなくつかんで、そこから見通しをたててゆくということは、過去のブルジョア政治家、ブルジョア文化人、ファシストのもてない根本的な武器です。もっとも高いこういう文化性は、もっとも高い政治性に通じます。アカハタの読者から集めた批判の欄に、主観的な誇張のない記事をのせてくれという一項目がありました。このことは、日本の人民が三年間の闘いを通じて現実の複雑さに対してリアリスティックな成長を遂げてきたことの証拠です。職場の通信員であった人の中から、特に文学的表現にすぐれた人が生れて、それが作家となってゆくというような階級の歴史の健全さの中から民主的な勤労者作家の出現が期待されます。だから文学サークルが目下小説を書いている人たちだけの中心勢力で指導されていて他のより多くの人はいわゆる文学愛好家の水準にとどまって、心まかせの投書雑誌向きな詩や小品ばかりを書いているという状態は、できるだけ早く発展させられなければならないでしょう。わたしたちは誰も彼もが民主的政治家になるのではありませんし、組合の委員になるのでもありません。一人残らず共産党員になるわけでもありません。けれどもわたしたちは、人民の幸福を守る民主的政治家と政党とを選んでそれに投票します。わたしたちの人民的世論というものがそのように表現されて自然であるということが分っていれば、小説家にならないからといって、階級人としての現実観察とその評価、批判を通信として書くのがおかしいとか、馬鹿らしいとかいうのが妙だということははっきりしていると思います。文学が階級の文化生産物とならなければならないということは、政治の優位性ということについてはもっと具体的に研究されていいのではないでしょうか。つまり文学というものに連関して私たちの感情の中にとかく刺戟されやすいブルジョア的な個人的ヒロイズムや、それに対する個人的な反感などというものをわたしたちは、階級の全線的な関係からみてゆけるように文学感覚そのものにおける政治性をたかめてゆかなければならないということがいえると思います。

ファシズムとの闘いは、こんにち世界各国で全面的な歴史の課題となっています。第二次大戦の結果は、世界に民主的勢力をより大きくしました。けれどもファシズムはこの地球から消されていません。最後の段階として資本主義が存続しつづけるかぎり、ファシズムは生きています。生活のこまかいこまかい根にまで寄生している封建思想と小市民的な動揺と、それを餌に育つきのこのようなファシズムと闘ってゆくために、わたしたちは民主民族戦線という大きい筋を必要に応じてどんなにもこまかく生かしてゆかなければならないと思います。そしてファシズムと闘う文学活動について考える場合、いきなりぱっとジャーナリスティックな敏感さでフランスのレジスタンスの作家たちというような飛躍をするだけでなく、本当に闘う者の腰のすわりで階級的通信活動という形の小さいしかし機能の大きいものにまでほりさげて感覚し、実践してゆくことこそ具体的なファシズムへの抵抗と勝利の道であると信じます。

わたしたちは生活の間に喜びとはげましのこもったやさしい慰めとを求めています。文学はこれに答えるものとして求められています。美しいものを感じたいわたしたちの気持、やさしさを受けとりたいわたしたちの人間らしさ、そういうものがわたしたち自身の表現をもつことなく、与えあうことがなく、肉体の文学ややくざの世界の物語のどぶの中に流されてしまうとしたら何と悲しいことでしょう。ファシズムの持ち前である生物的な同時に権力的な幻想の世界は、一種のロマンティシズムのようにあらわれて若いひとびとを戦場にかりたててきたことをみてきました。ファシズムとの闘いには、こういうやわらかい人間の心をわたしたちが正しい方向にもりたててゆく文学的努力もこもっているわけです。

追記 この速記録は例によってわたしの早口から混乱したものになっていたので補足したと一緒に後半の通信活動の分を整理して殆ど新しく書きました。サークル活動が種々の問題を提起しているし、民主主義文学の成長の基盤が漠然と人民的とか労働者生活とかいわれている折から、世界の民主主義文学が歴史的な発展の足がかりとしてきた通信員の問題について特にみなさんの研究を求めたいと思っています。〔一九四八年十二月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「新日本文学」
1949(昭和24)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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リリース / Release
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TEI
/works/002998_000311/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「平和運動と文学者──一九四八年十二月二十五日、新日本文学会主催「文芸講演会」における講演」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十三巻』新日本出版社、1979年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002998_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite