Soranoha

政治と作家の現実

せいじとさっかのげんじつ

宮本 百合子

一

深大な犠牲をはらって西欧におけるファシズムを粉砕したソヴェト同盟では、平和が克復するとすぐ、物質と精神の全面に精力的な再建がはじまった模様である。たとえば、ドニェプルの大発電所は、第一次五ヵ年計画時代の全ソヴェト人にとってじつに愛着と誇りの象徴であったが、ナチス軍がドニェプル地区に侵略してくる危険が迫ったとき、大発電所はそれを建設した労働者の手によって破壊された。その記事を新聞でよんだとき、果敢な人々の行動に心をうたれたものはけっして一人二人でなかったろうと思う。またふたたび自分たちの手でこれを造る日を、どんなに心に誓って、それを破壊したであろうか、と。そのドニェプル発電所の再建からはじまって、スターリングラードの名誉ある復興、ウクライナ全地域、ドン全区にわたる生産復興は、短波できくニュースでもわかるとおり世界をおどろかせる能率で捗はかどっている。

文化の分野でも、戦後における再検討、より高い段階への発展のための研究がさかんに着手されている様子である。『雄鶏通信』十一月号やその他の雑誌にも、ごく断片的な報道がのせられた。除村吉太郎氏の翻訳で、私たちはレーニングラードの二雑誌『星』と『レーニングラード』を中心とするジダーノフの報告をよむ機会をもった。同時に、新日本文学会から「現段階における中国文芸の方向」という、毛沢東が一九四二年五月延安で行った文芸座談会の記録も刊行された。私たち日本の作家は、計らずこの興味のふかい二つの記録をよむ便宜を得た。そして、深く感じたことは、現代に真に民主的になろうと正直に努力している国々では、どんなにそこの人民の問題として、文学その他の芸術を重大に評価し、研究しているか、ということである。フランスや、ナチから解放された戦後の若いドイツがやはり民族の課題として、文学・芸術の問題を本気で扱っている。それらの事情も、きれぎれではあるが、日本の私たちにきこえてきはじめた。日本で、やっと半封建の圧力からのがれはじめた人民が、民主社会を実現しようとする複雑な努力のかたわら、どんな自身の文学・芸術を持とうとしつつあるだろうか。文学者たちは、そのためにいかなる貢献をしているだろうか。ジダーノフの報告や毛沢東の記録は、私たちの反省と研究心とを刺戟するのである。

ジダーノフの報告の前半は、主として、ゾシチェンコの「猿の冒険」という作品とアンナ・アフマートヴァの詩の批判に当てられている。ところが、日本の読者にとって、ゾシチェンコはほとんどまったくなじみがない。作品で翻訳されているのもおそらくないだろう。これは日本の出版屋が、目ざとくて、すこしでも評判な作品なら、最も誇大にかついで翻訳を売りだしてきた慣例に照らしあわせてみて、なかなか興味ふかい現象であると思う。つまりゾシチェンコは、少くとも外国へ、これがソヴェト作家の代表であるとおし出すにしてはあまり陋小な文士であったのだ、ということである。これは私たち日本の作家が外国人に、誰を推すか、と訊かれたときの心持を思い出してみればよくわかる。

ほんとうの文学作品であるとはいえないけれども、国内ではなにかの理由で存在している作家や作品というものは現実にある。現在日本のジャーナリズム文学を大幅に流れているデカダンティズムやエロティシズムの傾向とその作家たちは、けっして日本の現代文学の代表として推される文学的価値はもっていない。「横になった令嬢」を外国語に翻訳させたいと思う日本人はいない。だが、国内のジャーナリズムにはそういう作品も作家も存在している。文学の問題は、そんな作品が、なぜ今日の日本の社会とジャーナリズムの上で発生し存在するかというところにあるのである。日本でこの文学上の問題を追求すると意外に深刻な答えが出てくる。それは紙の問題である。営利出版は一巻の紙から最も高率な利潤を求め、必ずうれることを求める。その結果一番うれる最低の安全性としてエロティシズムに陥っている。これは出版関係の専門家の解剖である。

『星』や『レーニングラード』は営利雑誌ではない。先ごろ来朝していた作家シーモノフが、日本の出版界にもそれを衷心から希望したとおり、ソヴェト同盟の出版事業は直接に人民文化の仕事として企画され運営されている。どうしてそんないい条件の『星』や『レーニングラード』が、くだらないゾシチェンコに叩頭こうとうしたり、アフマートヴァを魅力あると思いちがえしたりしたのだろう。ジダーノフの報告には、それらの雑誌の編輯者が、「友誼上」公私混同したと表現されている。ジダーノフは二つの雑誌の編輯者が、苦しまぎれにした弁明を、いちおうまともに受けてやっているのだとしか思われない。なぜならこのごろ、日本のような稚い民主社会の編輯者たちでさえ、まさか社長や主筆の「友誼的」推薦原稿をそのままのせたりはしなくなっている。『星』に編輯会議はなかったのだろうか。『レーニングラード』編輯局はただ一人で構成されていたのだろうか。

読者にうけるという編輯、出版者にとっての最大誘惑に、『星』も『レーニングラード』も負けたのだと思う。作家もこの誘惑には負けやすくて、思わぬ作家が思わぬ顛落ぶりを示した例は、日本にもどっさりある。いちじるしい顛落はしなくても、「中国文芸の方向」のなかで警告されているとおり、作家がこれによって自大主義に毒されやすい。文学上のボスになりやすい。

ゾシチェンコやアフマートヴァが、それなら、どうしてソヴェト市民の一部に好かれたのだろう。ちょうど第一次五ヵ年計画のはじまる前後、一九二〇年代の後半、私がモスクワにいた時分、エセーニンの詩が一部に愛好されていた。エセーニンは、さまざまの問題はあろうとも、詩というものをつくった詩人であったことは疑いない。彼の哀愁にみち、生きる目的を見失った、旧きロシアの魂のメロディーをくつがえす詩は、一部の人にもてはやされた。そしてある種の外国人はソヴェト文学はファデーエフやショーロホフによって代表されるという概括に反対して、いや、今でもエセーニンの人気は大したものだ、と抗議した。微妙な心理から、ニュアンスをもって、エセーニンの名を執拗にあげた。そういう人々はソヴェト同盟の社会生活の心理には、いつでも『プラウダ』の肯定しているのとは違った底流れがあるということを、生活感情が分裂懐疑している自分たちの文化の本質を計らずむき出しつつ、興味をもってつつきまわす人々であった。

ジダーノフの報告にあげられているゾシチェンコやアフマートヴァの例を、二十数年昔にエセーニンについて示したと同じような感情で見る人々も、ひろい世界にはあるだろう。しかし人類の発展を良心的に歴史の歩みにしたがって理解しようとしている文学者にとって、第二次大戦のなかった昔と、その後の今日とでは、類似の文学現象にたいしても同一の感想はもちえないのである。

アメリカ人は日本人よりも、しんから笑う、ということをよりよく知っているといわれる。さまざまの社会的矛盾があるにもせよ、民主的社会としての伝統をもち、市民の権利の実感に立って、自分たちの社会の失敗も成功も批判してゆく自信をもつ民衆は、罪のない大笑いを好む。アメリカの漫画の発達、ナンセンスな遊戯の趣味、軽音楽、サローヤンの軽い文学。それらはみんなアメリカの旺盛な生産力、激甚な自由競争、充実緊張した実務時間の半面におこる文化的要求の反映である。世界生産の諸部門において、ソヴェト同盟はアメリカに近接しつつあるし、ある部分ではそれを凌駕しつつある。勤労人民の生活条件の安定は、最もソヴェト同盟がまさっているだろう。社会主義的民主主義は社会生産の形態を、利潤の要求から直接生産者への享受に進展させているから。そういう社会生活の上に生じた笑いの欲望につづいて、五年間ソヴェト同盟が耐えて来たナチとの闘争は、七百万人の命を犠牲とする苛烈なものであった。永い忍耐のいるこの血闘は勝利で終った。ソヴェト市民は、そのときにあたってどんなに気分の快い転換を欲しただろう。たのしい音楽を! たのしいみもの(スペクタークル)を! そして読みものを! 美味いボルシチと久しぶりでの清潔なシーツとともに、それらを欲した。家具のにかわまでたべたソヴェト市民に、それらを欲する権利がなかったとでもいうのだろうか。

すべてのアクティヴな作家は、前線に、また前線に近い銃後に赴いて、彼らの文学的記録・通信を送っていた。十数年前には、モスクワの細長い書斎で、日本から来た女を前におきながら、私は退屈してしまったわ、曲芸チュルクも見あきたし……というようなことをいっていたベラ・イムベルでさえも、包囲されたレーニングラードに翔んでいって、その都市防衛の生活記録を日記風に書いた。「前線通信員」の歌の文句のとおり、活気をもったソヴェト作家のほとんどすべてが「東に西に、南に北に」祖国防衛のために協力した。戦争が終ったとき、これらの作家たちが、疲労を休めながら、戦争中の文学的収穫の整頓・出版に忙しかったことは想像される。そのために、ソヴェト市民が求めているくつろぎと笑いとに答えるゆとりをもたなかったことも想像される。

このすき間にゾシチェンコが登場したと考えられる。ゾシチェンコは中央アジアのどこかに避難していて、羊の焙肉をたべていて、やせもしなかった体と、脂肪の沈着した脳髄とをもって、やつれはて、しかし元気は旺盛で、笑いを求めているレーニングラードに帰ってきた。そして自分の店をひろげはじめた。

ソヴェト市民が欲しがっていたのは、ハァハァと陽気闊達に笑う哄笑であり、仲間の脇腹を突つきながら、快心をもって破顔する公明正大な笑いであったのだろう。ソヴェト市民の生活感情に、そういうユーモアがないならば、イリフ、ペトロフ二人のような辛辣で人間らしく、しかも新社会の感覚にみちた諷刺作家は生れなかったはずである。ソヴェトの新しい軽音楽を開拓している諷刺的な流行歌(シャストシュカ)の歌手、「陽気な連中」の主役を演じたような歌い手も出ないはずである。今も『鰐』という諷刺雑誌が出ているかどうかわからないけれども、これも辛子からしのきいた諷刺雑誌であった。自己批判としての諷刺は、自己批判を発展のモメントとしてはっきりつかんでいるソヴェトの生活感情の中では、自然で健全なあり場所をもってきた。

ゾシチェンコは昔からいつもいかがわしい、清潔でない、裏のぞきふうな曝露を盛った作家であった。「猿の冒険」でゾシチェンコがその猿に経験させたスキャンダルはだいたい想像される。レーニングラードの市民たちは、はじめ求めていた快活な爽やかなハァハァ笑いから、いつしかゾシチェンコごのみの、ゲラゲラ笑い、ヒヒヒヒ笑いに誘いこまれたのであったろう。

一般読者の要求とジャーナリズム編集の上に生じるギャップの現象は、日本の一九四五年末から一九四六年中ごろまでにも生じた。戦時中日本の作家の大部分は侵略戦争の協力者であったし、民主的な作家は強圧されていた生活からぬけたばかりで、いわゆる「浄らかな手」で書かれた新しい歴史の展開にふさわしい文学作品が求めにくかった。そこでその手が血に染んでいないことだけはたしかな永井荷風の作品、谷崎潤一郎の作品などが、当時の営利雑誌に氾濫し、ある意味で今日デカダンティズム流行の素地をつくった。そして、戦争の永い年月、人間らしい自主的な判断による生きかたや、趣味の独立を奪われていた一般読者は、無判断に、ほとんど封建的な「有名への」屈伏癖でそれを読み、うけ入れた。これははっきり自分たちの運命の民主化をおくらすことなのであったが――。

ソヴェト市民は一九一七年以来文盲撲滅を努力的に行って、もとはインド、中国と並んでいた文盲のロシア人民を、啓発してきた。本を読む人口は全人口の尨大な部分をしめている。これはシーモノフなどの文学作品の発行部数が数百万部というのでも想像される。これらの新しい読者階級は、もとのようにすでに読むことにすれている有識階級の範囲にとどまっていない。男女の農民・兵士・工場の労働者・学生・教師・政治活動家・芸術家、広範囲にひとしくよまれる。したがってその理解の段階も複雑であることが思われる。

民衆精神のうちにはいつも鋭い諷刺の精神がある。日本の徳川末期、町人階級はそれを川柳・落首その他だじゃれに表現した。政治的に諷刺を具体化する境遇におかれていない鬱屈をそのようにあらわした。十八世紀のイギリスで、当時の上・中流社会人のしかつめらしい紳士淑女気質への嘲笑、旧き権威とその偽善への挑戦として、スウィフトの「ガリバア旅行記」が書かれた。その国で、諷刺文学がどんな形式と内容とをもって発展してきているかということは、意味ふかい観察眼である。ゴーゴリの「検察官」と「死せる魂」その他の意義はどこにあったろう。ガルシンの「赤い花」が西欧の読者の胸をうったのは、そのシンボリズムが何を語っていたからであったろう。

公然と条理をもって、しかも人間的機智と明察をもって、どこまでもユーモラスに、だが誰憚らぬ正気な状態において諷刺文学がありうる処と時代に、スカートの中を下からのぞくようなゲラゲラ笑いが、笑う人間の心を晴やかにするとは思われない。自分たちの社会主義社会を防衛するという必死の集団的行動において、おのずから英雄的であったソヴェト市民の一人のこらずが、その難の終った後、いっそう深くその行動の世界史的価値を自覚するということは期待しにくかろう。少なからぬ人にとって、それは当面したさけ難い困難・必要として全力を傾けて克服したのだが、その経験は感性的に経験されたにとどまったであろう。感性的経験は時間に洗いながされる。それだからこそ、勇士と生れついていないすべてのおとなしい平凡な人々さえも、生存の必要に当って英雄でありうるのだともいえる。すべての女性が生みの痛苦に耐えうるように。しかし個々の意識人の人生において、経験は蓄積されなければならず、批判・発展が継続してされなければならず、その結果としての閲歴がもたれなければならない。社会の歴史にも同じことが必要である。感性的にだけ生きた人にとって生存はあったが、生活と人生とはもたらされないし、創りだされない。きわめて意識的に、計画的に、具体的諸方法をもって、この地球五分の一の地域に、最も前進した民主主義社会を築きあげているソヴェト同盟の市民の一部にしろ、自身の偉大な勤労とその献身の意味、自身の刮目かつもくすべき力闘と勝利とが、全世界の平和とその推進のために、どんなに重大な価値をもっているかということを、全生活感情で自覚しないとすれば、それはこの市民たちが現にその中に生きつつあり、それを建設し豊富にしつつある社会の本質にたいして、あまり意識する能力が立ちおくれているということになる。なぜならば、社会主義的民主主義の社会は、現世紀における人類の最も覚醒した全目的の社会形態なのだから。二世紀昔のスウィフトの馬には及びもつかないゾシチェンコの猿にひきまわされて、自身の尽瘁じんすいと価値の上にゲラゲラ笑いのつばをとびちらしているとしたら、それは忍びがたい光景ではないだろうか。ちょうど私たちの日本で、天皇制権力の犯した狂気のような国際的暴行と国内における抑圧を、ひしとその運命にうけてきながら、そこからの完全な解放をかち得ようともしない民衆と作家とがあるとすれば、そのあまりの暗愚と卑屈さがくちおしいことであるのと同様である。「魂の技師」として責任ある作家の一人であるゾシチェンコがソヴェト市民の無邪気な意識の立ちおくれを、次第にあくどい嘲弄のための嘲弄の方向へ導いた場合、心ある読者が沈黙していられようか。民主的推進こそ日本のわれわれの生きる力の根源である時に、インテリゲンツィアにたいしては哲学ぶった「絶対無」の説教を与え、勤労階級には『赤と黒』『リベラル』その他の猥本類似の刊行物を氾濫させ、新聞は用紙不足で半紙ほどのものにした支配者たちの文化政策にたいして、心ある日本の市民が黙視できないのと同じことである。

ゾシチェンコ、アフマートヴァなどの実例によってソヴェトでは文学・演劇・音楽・映画の全部門に自己批判がひきおこされた。文学分野でのことは、ソヴェト作家同盟が処理すべきことで、ジダーノフの報告をまたないでもよかろうという考えかたもあり得る。しかし実際問題として、レーニングラードの作家同盟、もしくはモスクワの本部が、それらの具体的な現象ならびに、文学の一部におけるよくない傾向の発生について適切な注意をくばる実力をもっていたのなら、そもそも『星』のような場合は起らなかったかもしれない。党の文化問題として批判の発端がとりあげられたということで、他国の知識人の間には三十年来それが一つのマンネリズムになっているとおりソヴェト同盟における芸術の自由その他にたいする反撥が予想されるかもしれない。けれども、毛沢東が中国民衆の人間らしい生活の確立のために、あれほど懇切に、あれほど初歩の問題から文芸の課題について語っているとき、誰がそれにたいして反感を抱きえよう。とくに日本の読者のある種の人々は中共にたいして同情的であることも興味ふかい。ソヴェト同盟において、党は全社会生活にたいする指導の責任をもっているのだし、その上、ソヴェト同盟においては彼ら組織人そのものが、直接文学の読者の一部でもある。まず読者として批判の権利をもっている。この生きた関係は、現在の日本の社会感情や、前衛党とその外との知的関係のありかたのすこし前方に進出したものである。合法党として存在しはじめてわずか一年を経たばかりの日本の党が、よしんばまだ十分豊饒な文化性を溢れさせていないとして、また組織人の大部分が文芸作品の真剣な読者である暇がないほど活動に多忙であるからといって、日本の民主的革命とその文学の発展のために、党が重大な関心を示すのが、誤りであるとどうしていえるだろう。最近極東委員会で日本の労働運動に関する決定十六項が発表された。その中には、日本の民主化のために骨髄的諸項――たとえば労働組合の政治活動の自由・政党支持の自由・組合員であるからといって不当なとり扱いを蒙ることはないし、検挙をうけたりすることもないようにという条項など――が明文化された。ここまで、日本の労働運動の実状について極東委員会の注意を喚起し、基本的人権を現実のものとするようにと日本的限界を拡げていったのは、どういう日本の官僚たちの仕事だったろう。これこそまったく、勤労大衆の実行力と組合の献身とその前衛である党とが、自身の犠牲においてかち得たものである。勤労人民の組織的な生活向上のためにそれだけ努力する党が、日本の他のどの既成政党ももたない文化政策の大綱を公表していることも自然である。そして世界の各民主国家が、その民主的進展の歴史的段階に応じて、それぞれの経験と成果とを研究しあい摂取しあうことこそ、最も真実な親睦であると思う。世界の民主的文学運動を貫いて、そこに共通の研究題目のあるのは当然である。資本家・企業家たちの組織するロータリー・クラブばかりが、世界文化をつなぐ輪であるべきはずはないのだから。

二

第二次世界大戦に際して、ソヴェト同盟の市民は、最近十数年間に高められた彼らの能力の全幅を世界に実証した。ソヴェト同盟に向けて計画された出血の諸企図は、ついにこの国の社会生活を貧血死に導くことができなかった。このことには人類史的な意味があり、歓喜があるのである。

ソヴェト同盟では、集団農場・国営農場があって、機械化された農業が行われている。この一事は、ロシアのムジークを社会主義的生産の農業労働者にしたばかりではなかった。トラクターをのりこなす若者たちはタンクに苦労する必要がなかった。ソヴェト式に自分たちの仕事を分担し組織する能力と習慣とをもった農村出身者たちは、東ドイツの村落へ行っても、その能力を発揮した。勤労者の技術学校があるということは、そこの共学の教室へ娘たちを愉快に通わせたのみでなかった。「春」という小説にかかれているような愛らしい誇ある婦人無電手をもたらした。そして、各雑誌・新聞などを中心とする労・農通信員ラブ・セル・コルの広汎な発達は、大戦前後に、どっさりの前線報道員を生んだ。日本によく知られているシーモノフやゴルバートフの経歴は、いかにも新しい社会の作家らしい、経営内の文学サークルから彼らの文学的才能を開花させ、やがてその地方の作家同盟の組織に結ばれてきている。このように、ソヴェト同盟という社会主義社会では、一人一人の男女市民がその能力・才能と生活経験において独特な幅と質とを賦与されているという事実を、しいて無視し、さげすみ、誹謗して自身の壊滅の素因をつくったのがナチスであった。

こんどの大戦に際して、ソヴェト同盟で書かれたすべての前線文学・報道文学が、文学的に優秀であったろうと想像することはできない。きっと型も出来、紋切り型の感情描写もあり、敵が貼り紙をつけた固形物のように扱われた場合もあったろう。しかしながら、どうしても無視できない一つの現実がある。それは一九一七年から国内戦にかけての時代に存在したソヴェト作家の数・質と、一九四〇年代、この第二次大戦に際して世界的に活躍したソヴェト作家たちの数と質とに見られる必然的な飛躍である。これは世界文学史的な現象としてまじめに観察され、含味されなければならないことではなかろうか。

資本主義の社会で、芸術上の才能がその発展開花のためにふさわしい条件をもつということは、その可能の大部分をつねに境遇の偶然にゆだねられている。それだからこそ、映画女優を志願して、故郷のオクラホマからハリウッドへは行かずニューヨークへ出たミス・スチュアートが、メトロ映画会社に認められて契約を結んだ、というような小事実が、僥倖の一つとして日本の読者にまで写真入りで伝えられるのである。才能が「世に出る」機会が偶然にゆだねられているばかりでなく、人民のうちに潜在する能力としての才能の存在の可能そのものが、全然自然発生にまかせられている。既往の世界で、文化というものは上層社会でしか花咲かないものときめられていた。

一七年から国内戦時代に出現した新しいソヴェト作家たちの才能は、やはりもとの社会からひきついでの、偶然性と自然発生によるものであった。十月がツァーの重圧をとりのぞいた。デニキン、コルチャック、ウランゲルらによる国内戦と飢饉と大移動と、それにたいするボルシェヴィキの奮闘などは、ロシアの全人民に無限の経験とエピソードとをもたらした。全人口が「語るべき何事かを」生きたのであった。私たちに近親な作家として、たとえばフールマノフやファデーエフ等の作家たちは、彼の「赤色親衛隊」や「叛乱」の政治的・文学的意味を自覚して創作したであろうし、ファデーエフの「壊滅」は偶然の作品ではなかった。単にゲリラに参加した若者の手記ではなかった。けれども、同時代の作家でたとえばピリニャークが、馬鈴薯の袋をかついで、鉄道の沿線を、あっちにゆきこっちにゆくうちに、蓄積された印象に文筆の表現を導かれはじめたのは偶然であったにちがいない。イヴァーノフが「装甲列車」を書いたのにも、積極的な意味での環境の偶然性があったと思う。十月によって人民の文化の生れる社会的可能は拡大され、その基盤は拡大されたが、そのころは文学的才能の存在には「天賦」的事情が多かった。

「私は愛す」の作者アヴデンコが革命当時「保護者のない子供たち」ベス・プリゾールヌイの一人であったということには深甚な意味がある。ソヴェト同盟の社会がベス・プリゾールヌイのために「子供の家」を建設し、彼らの人間性の尊貴と有能性とを腐敗から防衛したことは、映画芸術で「人生案内」の感動的作品を生む動機ともなった。これから日本語に翻訳されようとしている「教育的叙事詩」という卓抜な文学作品となって現れた。そしてソヴェト社会建設の各分野に働く生ける何万人かのアヴデンコとして。

国内戦時代のたたかいの結果、失明し全身不随となった若いオストロフスキーが、同志と家族にたすけられつつ、その生涯の終りに「鋼鉄はいかに鍛えられたか」という長篇小説をのこした。このことは、ただ彼が成功した一人の素人作家であって、十九世紀ロシアのリアリスト劇作家オストロフスキーと、輝やかしい同姓異人であるということだけではない。除村吉太郎氏の紹介に記されているソヴェト同盟の第一次五ヵ年計画達成以後の文学的年代は、その大なる積極面として、はっきり、ソヴェト社会の特殊性によって生みだされ、育てられ、人間となった新しい市民としての作家を、素人作家という形でおくり出したのであった。この時代、ソヴェト文学の消極面が、安易な些末主義に陥ったということは、むしろその一つ前の時代に旧い偶然性によって登場し、あるいは新しい社会への転換に伴う現象的影響で溌剌と亢奮を示した古い社会からの既成作家たちが、彼ら自身の習慣に戻ったのだ、とも見られる。つけやき刃なら、それがはがれる時になっていたとも見られよう。

民主的文学の歴史にとっては重要なこれらの推移を経たのち、第三段目として現在が来た。何年もの間『文学新聞』一枚さえその手には入らなかった日本の作家たち、そしてまたソヴェト文学の熱心な支持者たちが、びっくりするほど多勢の、新しい名前で充満した今日ソヴェト文学の領野があらわれた。これらの作家たちのほとんどすべての人々は、男も女も十月には赤子であった人々である。あどけない、碧い眼をしたオクチャブリャータ(十月の子)であった。ピオニェール、コムソモールとしてソヴェト社会生活のうちに育ち、ラブ・セル・コル活動をとおして、文章というものをかきはじめ、やがて一つの物語を綴るようにもなり、正規の文学活動家となった人々である。ソヴェト同盟の社会的達成そのものとして現れ、最近三十年の新社会の歴史がこれらの人々の血肉のうちに脈うっているのである。農村・工場・学校・諸経営から前線に赴いて民主主義を防衛して闘った勇ましい一人一人の人生が、ナチ軍の狂信的な一個のオットウだの、あわれに強制された一人のカールだのの過去三十年の運命とは、一つも似たところないものであった。ソヴェト同盟の今日から明日への文学の根は、ここにこそある。現代史において人間らしい生活というものにたいして最も意識的である社会から、その成果として成長した文学者、人生の諸経験にたいして最も意識的であるはずの文学者・芸術家「魂の技師」が、自身そこに属しその中から生れた人民生活の価値について、曖昧な評価しかもちえないということが認められようか。

ロシアの近代には、人類精神史の底石をなすようにベリンスキー、ニェクラーソフ、ドブロリューボフらの文学者があった。ゴーリキイという一九〇〇年代からの民衆の革命史そのもののような作家がある。ジダーノフがその報告のなかで、現代ソヴェト作家が、これらの民主的文学の業績を、健全に発展させるようにと力説していることは、当然の上にも当然である。ソヴェトの社会はその諸現実でレーニン、スターリンの時代と経てきた。スターリンの文体は、その明確さ・簡明さ・溢れる生命力の美で、言語芸術の領域に新時代を画している。第二次大戦中の十月記念日に、メーデーに、スターリンがおくった激励の挨拶の、あの人間らしい暖かい具体性、肺腑にしみ入って人々にソヴェト市民たる価値と歓喜とを自覚させるあの雄勁なリズムは、ソヴェト市民が、誇りとするにたりない詩であるだろうか。雄々しくその線を守って倒れた七百万人の生命とともに、それをもったことを愧はじるような、そういう表現であるのだろうか。雄勁であるからこそほとんど優美であり、堅忍でありえてはじめて湛えられる柔和の情感にみち、彼らの科学のようにリアリスティックであり、彼らの生産プランのようにテーマと様式の統一にたいして本気である、そういう文学が、彼らの偉大な勝利ののちに生みえないとどうして信じられよう。

日本の作家にとって、眼に浮ぶ涙なしに、このページは書けなかった。日本の近代文学のどこにただ一すじのベリンスキー、ニェクラーソフの伝統があるだろうか。われわれは、たとえようもない貧寒さに立っている。だが、私たちはシューマンの荘重な一つの歌曲を思いおこさずにはいられない。その歌はうたっている。「私は、悲しまない」と。先にゆく人影がないのならば、まずその道を行った人々によって伝統が始められたことを知らなければならない。日本の人民のための文学の狼火として存在したプロレタリア文学運動の歴史と、文学についてのその基本的認識が、よしやどんなに大まかなものであり、不幸な傷をうけているにしろ、絶対的に存在価値をもっている所以である。

三

ソヴェト同盟の作家に、有名なイリヤ・エレンブルグという人がある。一九二七・八年ころメイエルホリドが表現派風の上演をした「トラストD・E」の作者であるが、このエレンブルグの作家としての活動の形は、四〇年までのソヴェト文化の上では、一つの特殊例であったのではないかと思う。エレンブルグは非常にしばしばフランスその他国外に暮し、フランスが中心になって反ファシズム闘争の人民戦線運動をおこした当時、活溌なルポルタージュを発表した。ヨーロッパ資本主義の国々における民主的であり進歩的である集団と、ソヴェト同盟の達成との間の、文化的輸送管のような役割を占めていた。イリヤ・エレンブルグは私たち外国作家の目に、ソヴェト作家中のハイカラーな人の一人として見えていたのであった。

こんどの大戦を境として、ソヴェト全市民の国境は拡大された。シーモノフに「ユーゴスラビアの手帳」という短篇集があるとおり、ソヴェト市民の生活感情の圏はひろげられて、ドン河をこえたことのなかったものが、その岸をふんだばかりではなかった。話できいていたよその国々の民族とその社会生活とを見た。ただそこへ行って、「郷に入っては郷に従え」という生きかたをしたのでもなく、侵略者の暴力で臨んだのでもなく、これら数百万のソヴェト市民ははっきりその眼、その心で、自分たちの建設しつつある社会主義社会の生活面を、旧世界の中世封建の霧がかかった中部ヨーロッパ諸国の人民生活と対比しないではいられない立場におかれたのであった。このことは、ソヴェト社会生活と文化との将来の発展とその独自性の確立のために、じつに深い影響をもっていると推察される。一九三〇年ころ、ソヴェト市民はドイツから機械工をよんで、精密機械製作について学ばなければならなかった。造船技術はピョートル一世がオランダ人から学んだ。ソヴェト市民の淳朴な感情には、民族的偏見というものがなくて、文明的な先進国として、資本主義国の文化にたいするものめずらしさや、判断を加えることを遠慮する感情があった、最も単純な列として、女のひとたちのフランス白粉や靴下への愛好があったように。生産技術の面でのこういう後進者としての自覚は、ソヴェト市民に「追いつけ、追いこせ」の二十五年間を可能にした。同時にまた、文化の面では、アンナ・アフマートヴァのフランス香水の残り香のする老いた桃色と紫色との詩にちょっと魅せられるような気分をも伴った。ソヴェトの美術・音楽の上にあるフランス美術・音楽の影響は顕著で、ショスタコヴィッチのような現代の才能でさえ、初期には混乱したフランスの近代音楽に追随していた。シーモノフが日本へ来たとき、文学者の座談会で、ソヴェトでよまれている外国作家はどういう作家たちか、という質問をうけた。彼はそのとき、アメリカの作家としてスタインベック、フランス古典第一位にバルザック、つづいてフローベール、モーパッサン、スタンダール、メリメ、マルセル・プルーストらの名をあげた。バルザック研究がソヴェトの学者グリフツォフ博士によって行われているというのは肯けたが、「脂肪の塊」「女の一生」のあとは大したもののないモーパッサンが数種出されていて、ロマン・ローランやマルタン・デュ・ガールがよまれていないのは奇妙な気がした。メリメの面白さは、その手法とともにソヴェト作家に与えるもののあることが理解されたが、マルセル・プルーストは、単なるエクゾチシズムでよまれるのだろうか。潜在意識の世界に文学をうちたてようとしたプルーストたちのイギリスでの後輩ヴァージニア・ウルフの生と死とは、私たちに、現代ソヴェト文学の道とプルーストの道がどこかでつながっているものとして理解しがたかった。「スクタレフスキー教授」の作者の心理主義の傾向に、こういう外国文学との近似性が感じられるにせよ、ソヴェト社会は、その構成と運行の基本をフロイド風の「無意識」の決定権にゆだねているのではないのだから、作品もリアリティーにおいて分裂し失敗している。リベディンスキーの作品「英雄」が一九三〇年前後のソヴェト大衆から逃げ場のない批判をうけたのも、彼が新しいおもちゃとしかけた心理分析の興味とそれによる失敗のせいであった。

シーモノフは若い強壮な肉体と精神をもち、人生をたのしむ力も学ぶ力も大きい作家だと思われる。日本へ来て、モスクワへ帰ってすぐアメリカへ行った。シーモノフのような作家がアメリカの社会生活を経験するということは非常に有益である。彼自身のために、またソヴェト社会とその文学のために。なぜならば、日本に来ても、ユーゴスラビアへ行っても、彼には彼の手帳をとり落すほど気を奪われる何ものもなかった。彼の自若性、客観性はテストにかからなかった。それらの国々での社会生活は、彼のもちあわせた判断力を惑乱させるほど豊饒でないから。アメリカでシーモノフは、一個のソヴェト市民とし、一個の社会主義作家として、これまでのどこにおいても経験しなかったいくつかの経験にめぐりあわないわけにゆかない。シーモノフの年代の作家たちは、辛苦にたいし、窮乏と危険とにたいして耐える自信は身につけた。資本主義社会というものの性質も、わかっていると思われている。けれども、ニューヨークの昼と夜とのあらゆる生活の表裏は、けっしてけっして彼の英訳された「昼と夜」と等しいものではない。愚劣なもの、醜悪卑劣なもの、同時に賢明、純良、壮大であり横溢的で、すべての現象が、現世界の全保有量の過半をしめるアメリカ的社会の上に満開している。その失業やストライキや住宅難もともに。ソヴェト作家シーモノフは、このアメリカの巨大な有機体のなかに入って、自身の社会主義的自覚を、自身の人間的内在性すべての亢奮をとおし、自然発生の諸眩惑と誘惑とをとおして、対決させないわけにはゆかない。自身の理性の最大を働かすだけの刺戟をうけるのである。

シーモノフにおけるこの経験は、エレンブルグのアメリカにおける経験よりも、ソヴェト文学にじかにつよい作用をうつすであろう。エレンブルグは、その気質、年齢、外国生活のながい経験などによって、アメリカの社会生活と自分との関係を一定の規準で設定する技術をもっている。コンスタンチン・シーモノフは旺盛な三十歳という年齢、彼の感性的な素質、経験の追求、観察の追求における作家らしい生活性などは、日本の浅く乏しい社会生活の流れの上に立った期間においてさえ、私たちに感受された。彼の横溢性はアメリカの横溢性と向いあい、まじりあって、彼が社会主義の段階に到っている民主国の市民、その人民の作家であることを、どのようなおどろきをもって再確認するであろうか。ここに、一つの大なるみものがある。ジダーノフの報告に警告されている、ソヴェト作家の外国文学追随の弱点というようなことは、シーモノフの一例でも見られるとおり、ソヴェト社会が、人類の歴史にもたらしつつある寄与の大きさによって、国際的となりはじめた若い有能な作家・技術家・諸市民が、自身の生活的実感において国際的になりつつある、その現実からこそ、揚棄されてゆくのである。

ソヴェトの人民国家が、あらゆる偏見の内部においてさえ確実に占めつつある国際的な存在意義にともなうその文化・文学の国際性は、ドストイェフスキー、トルストイ、ツルゲーニェフらがむかしも今も有名であり、ゴーリキイがパリで演ぜられ、チェホフはイギリスにガーネット夫人という自身の翻訳者をもった時代にくらべれば、本質的に飛躍している。前時代の大作家たちは、西欧のひととおりの「文明」が、真摯にとりあげる習慣を失った社会的矛盾の諸苦悩、無知の歎き、無権利な人間の高貴な憂悶などにおいて、西欧とアメリカの知識人をうった。彼らを快よく厳粛にし、彼らに人間的自覚のよろこびを与えた。この大戦中から、ソヴェト文学が世界にもちはじめた読者との関係は、前時代のこの段階をとびこした。それは動きだした。自身の出血に耐えながら人類の正義と解放のためにその社会主義祖国を防衛することで、同時にフランスとドイツの人民的自由を、アメリカとイギリスの進歩的な良識を、防衛し解放する実行者、そのリアルな語りて、平和のための不屈なたたかいてとして、ソヴェト文学は世界の関心にたち現れているのである。二十世紀のはじめピータア・クロポトキンがボストン大学で「ロシア文学の理想と現実」という有名な講義を行った。その当時の内容では、とても予想されがたかった達成が、ソヴェト文学の本質となりつつあるのである。

ジダーノフの堂々として正確な、心情に訴えるソヴェト作家への忠言は、わたしたち日本の作家からみれば、まだまだソヴェトの作家の独自性のよろこびと自覚とにたいして、ひかえめの注意しか喚起していないとさえ感じられるのである。ソヴェト作家が、ソヴェトの人民国家の諸経験、諸成果、痛苦なその失敗から学び、描き、物語らないで、どこに彼らの創造的情熱の源泉がありうるだろう。ソヴェト作家は、ソヴェト人民国家の一員である以外にありようはない。この現実のうちに、かぎりない未来の達成と今日の未完成とがあり、文学の生粋なモティーヴがある。そこに作家が生きている社会は、過去のどんな社会の模倣でもないとき、作家がどうして、旧いもの、おくれたもの、足の萎なえたる文化の模倣をしなければならないのだろう。そこの社会こそ人間らしい立体的人間性の発展のためにつくしているのに、なぜ作家は、陳雲が諷刺しているような畸型的「家」に自分をしばりつける必要があるだろう。私たち日本の民主的作家は、過去の日本の半封建の社会生活が、東洋においても西欧においても、どんなに貧弱にしか人類の幸福のために貢献しなかったかということを認めている。そのためにこそ日本文学は、その古典も現代作品も、世界にひろく生存していない。けっして、保守的で独善的な一部の人のいうように言語・風俗の特殊性だけが決定的条件ではない。それらの不便は、より重要な必要が生れ、要求がおこるなら、なにかの方法が発見され必ず克服されるのである。東京裁判の進行を見よ。

日本の民主化をのぞみ、そのために努力する人民とその作家は、いまこそ、世界において侵略のモメントでばかり自己の存在を示してきた日本を、別のものにしようとしている。東洋における民主化の推進者、その参加者、平和の確保力の一つとしてあらせようとしている。これが日本の社会の発展的な方向であり、これが各個人・各才能・各幸福の実現に通じる道である。日本における民主的文学の高揚といっても、それは実際において日本の社会生活の諸面での民主化が進捗しなければ不可能である。そのために、民主的文化人・芸術家・技術家すべてが、精力をつくして働かなければならない。ちょうどソヴェト社会が社会主義に徹底すればするほど、ソヴェト文学とその作家の存在価値は国際的重要性をもち、しかもそのためにこそ、すべての芸術家が、その芸術を通じてある必要の時期には五ヵ年計画に協力したし、必要の危機にはその生命を前線にさらした。私たちは率直に、まず自分の存在のためにあるべき社会をあらしめなければ、自分のありようもないことを、認めなければならないと思う。昨今、日本では、いためつけられつづけた日本のインテリゲンツィアらしいひきつれ、歪んだ方法で、政治と芸術の課題がいわれはじめてきた。政治と文学との最もひろい血肉関係は、ジダーノフの報告を学びつつここまで触れてきた、社会と文学との関係の検討のうちに暗示され、語られたと思う。あまり暴圧的な少数者の施政と政策との犠牲となってきているものだから、おじけづく癖がついてしまっている。政治ときくと、ただちに命令・統制・拘束を思って、手足をこわばらせ息をつめ、鞭を見た奴隷のように理解力を失い愚鈍に陥ってしまう。その同じ人々が、三十五倍の都民税をはらう義務は遂行し、所得を実質的には1/3にしてしまう所得税をはらい、言論抑圧に等しい紙不足に服し、あれこれの投票をして社会生活をしていることについて我から怪しまないのはふしぎである。現に自分が屈伏しつつある少数者政治には無抵抗であるが、そこから解放しようとする政治――自分も民衆の一人と知るならば、その民衆生活の向上と文化の確立のための階級的な進歩的な闘争を意味することが、どうして不自然なのだろう。今日の日本のインテリゲンツィアのいじめつけられた病的な思考力は、文化・文学にたいする政治の優位という言葉そのものをさえ、情報局的本質にしかのみこまない。自身の生きる人民階級の歴史的達成の方向・方法のうちに包含される人間の社会現象としての文学として自然に感じとれない。これはこれまでの日本人民が、有識人でさえも、自分で自分の社会を進展させ、破壊し、建設してきた経験がなく、社会的な自主的なやりかたを知らないということの告白にほかならないのである。今日の日本において、政治と文学と、政治の優位性の課題は、深甚な意味をもっている。この課題に、日本の民主化の人民的な実感性がかけられている。

ジダーノフの報告も、「中国文芸の方向」も、ともに政治と文学との関係を正当自然に、それぞれの社会生活の現実関係に即して理解させようとしている。どこの国でも、政治の優位性ということは誤解と偏見とを招く危険があると見えて、陳雲は、いかにも東洋の賢こさで次のように表現している。「われわれの規律は、ただあの非無産階級的な、革命を妨害するものどもを束縛するだけで、それはちょうど游泳術が游泳する人にたいして、ただ彼が溺死しないように束縛するだけであるのと同じ」である、と。

最後に、ジダーノフの報告のうちに、警告とし強調されている政治性、階級性、思想性などが、文学的創作の具体的経過のうちで、どのように生き高めらるべきかという問題がある。私たちに、わかりやすい実例をとるならば、そのために、ソヴェト作家同盟はゴルバートフに時間を与え「降伏なき民」を、もう一度手入れさせ、真の現代古典としてのこるにふさわしいだけもっと大切な歴史的細部を充実させ、もっと主要な諸人物を典型として確立させる機会を与えることも、一つの方法である。全篇の構成をもっと研究し、ある部分ははるかに短縮され、ある部分は描写の場所をその必然にしたがっておきかえられ、ある箇所は、もっとリアリスティックにたっぷり惜しみない描写を与えられるべきである。そういう作品に即した根気づよい研鑽こそ階級人として創作するその動機、主題、手法の統一について、真剣な現実追求を作家に要求する。そして一人の作家を、成長させる。

トルストイが「アンナ・カレーニナ」を書いていたとき、家出をしているアンナが、愛する息子セリョージャの誕生日の朝、こっそり良人の家へしのんでセリョージャに会いにくる場面にかかった。このとき、トルストイは、不幸なアンナが切迫した愛の思い、屈辱感、憎悪と悲しみとの混乱のなかで、カレーニンの玄関に入ったときヴェールを脱ぐだろうか脱がないだろうか、外套はどうするだろうと、作者トルストイが何日も苦心したということが伝えられている。トルストイは彼の芸術の限界のなかで、しかしリアリティーに忠実に、特殊な感情に必然な一定の行動を探求したのであった。現代の民主的、または社会主義的文学は、リアリティーの把握を、現象と現象との間にある個体的連関の理解という範囲からひろげた。現象の個別的必然の底によこたわる社会的・階級的な歴史の必然をその実感の範囲にとりこむところまでのびてきている。個々の作家の社会的な生活感情は深められ、ひろがり、有機性を高めてきて、個々にあらわれる現象の普遍性を理解し、感じとり、生ける典型として把握するところまできているのである。この点は、とくに第二次世界大戦後の精神における顕著な動向である。人類の文化において、第二次世界大戦後、個人主義が地盤を縮小したということは、個人や個性が消滅したということではなくて、真に個性や価値や自由な発展を確保するためには、その個人の生きつつある社会が、民主的条件を現実にもっていることがどんなに重大であるかということを、学んだという意味なのである。個人生活はいや応なくおしひろげられていて、小市民風な保守の個人主義の枠内で、つじつまは合わせきれなくなってきている。個的財布の中の円が百分の一の価値になってきたという事実につながって、A氏B夫人の個的経験がいかに複雑微妙に個的であろうとも、このような異常な金の価値変化を正常になおすためには、個的経験の主張の範囲ではなんの方策も立て得ない。社会・文化の諸現象についても同様であろう、という意味なのである。

〔一九四七年三月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「文学」
1947(昭和22)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「政治と作家の現実」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十三巻』新日本出版社、1979年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002974_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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