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        <title type="main" xml:lang="ja">明日の知性</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">あすのちせい</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>宮本</surname><forename>百合子</forename><idno type="aozora-person-id">000311</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>みやもと</surname><forename>ゆりこ</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Miyamoto</surname><forename>Yuriko</forename></persName></author>
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        <bibl><title>宮本百合子全集　第十三巻</title><publisher>新日本出版社</publisher><date>1979（昭和54）年11月20日</date><note type="input-edition">1986（昭和61）年3月20日第5刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「女性改造」1947（昭和22）年2月号</bibl>
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      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
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      <p style="text-indent: 10em" rend="first-line-indent(10)"><seg source="#source-430-467">一</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-467-1000">第二次ヨーロッパ大戦は、私たち現世紀の人間にさまざまの深刻な教訓をあたえた。そのもっとも根本的な点は国際間の複雑な利害矛盾の調整は、封建的で、また資本主義的な強圧であるナチズムやファシズムでは、できなかったという事実である。もっと進歩した、もっと合理的な方法でなくては――ただ殺戮、侵略、武力では、国際間の問題は解決しないということを血をもって学んだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1000-1887">このたびの大戦の結果は、二十五年以前の第一次世界大戦のときよりも、いっそうまざまざと人間理性の勝利の意味、民主的社会の価値を教えたのだが、それにつれて、世界の女性のうごきも、独特の飛躍発展を示してきている。日本はこの十数年間、鎖国の状態で、世界事情は知られなかった。そのために、スペインの民主戦線に有名なパッショナリーアと呼ばれた婦人がいたことも知らなければ、大戦中フランスの大学を卒業した知識階級の婦人たちの団体が、どんなにフランスの自由と解放のためにナチス政権の下で勇敢な地下運動を国際的に展開したかということも知らなかった。耳も掩われ、眼もかくされ、日本の女性は戦争の犠牲とされた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">去年の春ごろ、内山敏氏が、ある雑誌にトーマス・マンの長女のエリカ・マンが、弟のクラウス・マンと共著した「生への逃亡」について、エリカ・マンの活動を紹介しておられた。この短い伝記は、感銘のふかいものであった。知識階級の若い聰明な女性が、そのすこやかな肉体のあらゆる精力と、精神の活力の全幅をかたむけて、兇暴なナチズムに対して人間の理性の明るさをまもり、民主精神をまもったはたらきぶりは、私たち日本の知識階級の女性に、自分たちの生の可能について考えさせる多くのものをもっているとおもう。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">トーマス・マンというドイツの民主的精神をもつ作家の名は、日本にもよく知られている。「ブッテン・ブーローク」や「魔の山」「ロッテかえりぬ」などは翻訳でひろくよまれている。マンには六人の子供たちがある。長女エリカ・マン。そのつぎのクラウス・マン。この人は反ナチ作家で、ヒトラーが政権を確立させてからはオランダで、『ザンムルング』という反ナチの文学雑誌を発行していた。ロシアの作曲家チャイコフスキーを題材とした「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-3227-3284"><rb>悲愴交響曲</rb><rt>パセティックシムフォニー</rt></ruby>」という作品がある。二男は歴史家であるゴロ・マン。次女モニカはハンガリーの美術史家の妻。三男ミハエルはヴァイオリニスト。末娘のエリザベート・マンがピアニストで、イタリーの反ファシスト評論家ボルゲーゼと結婚しているそうである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3622-4323">内山氏の紹介によると、エリカ・マンは一九〇五年生れで、日本流にかぞえれば四十四歳になっている。幼年時代を、たのしく愛と芸術的な空気にみちたトーマス・マンの家庭に育って、十八歳で学校を卒業すると、ベルリンへ出て、マックス・ラインハルトの弟子になった。ラインハルトといえばドイツの近代劇と演出の泰斗である。（ナチスきっての芝居気の多かった男ゲーリングも、ひところ門下に加っていた。ナチスの大がかりな舞台効果は、はからずもゲーリングのこの経歴が役立ったといわれている。）</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ラインハルトの下で女優となったエリカ・マンは、やがてハンブルグでおなじ俳優であるグリュントゲンスと結婚した。グリュントゲンスは才能はあったが、あとではナチスに加って、ベルリン国立劇場支配人と立身したような性格であったため、エリカの結婚生活はながくつづかず、離婚して故郷のミュンヘンにかえった。そして、国立劇場や小劇場に出演した。ショウの「セント・ジョン」でジャンヌ・ダークを演じたりして好評をえている。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">エリカ・マンには、女性にめずらしい特長があり、疲れを知らない行動力、強靭な運動神経がある。ヘンリー・フォードが催したヨーロッパ早まわり競争に参加して、十日間に六千マイルを突破して一等になり、フォードより自動車を一台おくられたことがある。この早まわり競争の道づれも弟のクラウスであり、しかも早まわり記事を新聞におくり、あとから一冊にまとめて「欧洲一周」として本にした。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5485-5653">一九三〇年に入ってから、ヒトラーのナチスは総選挙で多数党となり、ドイツの全人民が知識階級をもこめて、その野蛮な</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5653-5671"><rb>軛</rb><rt>くびき</rt></ruby>の下に苦しむ第一歩がふみ出された。どうして、第一次ヨーロッパ大戦後のドイツに、ヒトラーの運命が、そんな人気を博したのであったろうか。内山氏の紹介は、「まったく敗戦後のドイツの姿は、今日の日本を彷彿させるものがある」と当時の事情にふれている。大戦後の混乱は有名なマークの暴落をひきおこし、一方にすさまじい成りあがりを生み出しながら、中産階級は没落して、エリカ・マンさえ靴のない春から秋までをすごさねばならぬ状態におちいった。絶望し、分別を失ったドイツの民衆は、それがなんであろうと目前に希望をあたえ、気休めをあたえるものにすがりつき、いかがわしい予言者だの、小政党だのが続々頭をもたげた。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6552-7235">ヒトラーのナチスも、はじめはまったくその一としてあらわれた。当時のドイツは軍国主義教育でやしなわれていたから、戦争に敗けさえしなかったなら、という感情が民衆の心につよくのこっていた。そこへ巧みにつけ入って、ドイツ民族の優秀なことや、将来の世界覇権の夢想や、生産の復興を描き出したヒトラー運動は、地主や軍人の古手、急に零落した保守的な中流人の心をつかんで、しだいに勢力をえ、せっかくドイツ帝政の崩壊後にできたワイマール憲法を逆転させる力となったのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">アメリカにわたってから、エリカ・マンが語った意味ふかい警告が、内山氏の紹介に録されている。それはエリカ・マンが「私はドイツにいるあいだ（中略）政治のことは政治家にまかせておけばよいというあやまった見解でした。私ども多くのものがそう考えたために、ヒトラーが権力を握ったのです」そして「事実上ドイツ文化を代表するすべてのものが亡命する」結果になったのであるといっている点である。ドイツの知識人たちは、ナチスの運動がその背後にどんな大きいドイツの軍国主義者と資本家の大群をひかえているかということを洞察せず、馬鹿にしていたために、祖国とその文化とをナチスに<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-8063-8090"><rb>蹂躙</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby><seg source="#source-8090-8113">されつくした。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">一九二〇年代のドイツは、左翼が活躍し、ドイツ共産党も公然と存在していた時代であった。その時代に育ったエリカ・マンが民主主義の精神をもち、日に日につのるナチスの暴圧に反抗を感じたのは自然であった。エリカ・マンは、はじめ小論文や諷刺物語を書いて反ナチの闘争をはじめたが、一九三三年一月一日、ミュンヘンに「胡椒小屋」（ペッパー・ミル）という政治的キャバレーをひらいて、おなじ名の諷刺劇を上演したり、娯楽と宣伝とをかねた政治的集会を催し、演劇的才能と行動性とを溌剌と発揮して活動しはじめた。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8841-9332">ところが二月二十七日の夜、ドイツ国会放火事件がおこった。真の犯人はナチスであるが、それを口実に共産党への大弾圧を加えるために、計画された陰謀であった。また反ナチ派の勢力の下にあったバイエルン州のミュンヘンでは、この報知をきいても、ナチの悪計とは知らず、エリカ・マンの胡椒小屋は謝肉祭の大陽気で、反ナチの寸劇などに興じていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9332-9782">あくる朝、すべての興奮は恐怖にかわって、全ドイツの人々が国会放火の真実の意味を知った。ナチスは、その火事を機会として、ドイツ中の共産党員、社会主義者、民主論者、平和論者、自由主義者、ユダヤ人の大量検挙をはじめたのであった。ヒトラーの手先がミュンヘンにも入ってきて、公共建物のすべての屋根に気味わるい</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-9782-9800"><rb>卍</rb><rt>マンジ</rt></ruby><seg source="#source-9800-9847">の旗がひるがえることになった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9847-10326">トーマス・マン夫妻は、おりからスイスに講演旅行に出かけていてエリカとクラウスとは、もう一刻も安住すべきところでなくなったドイツを去る決心をなし、スイスの両親にそちらにとどまるようにと電報して、ただちにスイスのアローザへおもむいた。こうして、ドイツの知識人の代表的なトーマス・マン一家の亡命生活がはじまったのであった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">当時トーマス・マンは、「ヨゼフとその兄弟」という作品の執筆中で、原稿があわただしくみすてられたミュンヘンの家にとりのこされたままであった。トーマス・マンのために、このたいせつな原稿は、どうにかしてとり出さなければならない。父を愛するエリカは、農婦に変装した。そして、いつぞやの早まわりで賞品としてもらった小型フォードにのりこみ、ミュンヘンに潜入し、危険をおかしてひとたびはすてた家に忍びこんだ。そして原稿を盗み出し、真夜中に、もう二度とみる希望のないその家を去った。</p>
      <p style="text-indent: 10em" rend="first-line-indent(10)"><seg source="#source-11032-11069">二</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">エリカ・マンの「胡椒小屋」は四年間、オランダ、スイス、オーストリヤ、チェコ、ベルギー等を巡業し、いたるところで喝采をえた。小粒ながらも胡椒のきいたその移動演劇は、ナチスにとっては小柄な蜂のように邪魔であった。エリカは、舞台のうえにいていくたびか狙撃された。が、無事に千回以上の公演をつづけたが、一九三六年、解散させられた。チューリッヒで、「公安妨害」の口実で公演禁止されたのをはじめとして、ナチス外交官が出さきの外国でまでエリカの活動を妨害して、とうとう、それを解散させてしまったのであった。この時分に、エリカ・マンはイギリスの詩人ウイスタン・オーデンと結婚した。スペイン人民戦線軍に従軍したオーデンは進歩的な作家で、のちには中国の抗日戦にも参加し、「戦線への旅」という作品がある。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">スペインの内乱とともにヨーロッパはますます戦争の危険にせまられた。エリカ・マンは、一九三六年、アメリカへゆき、スペイン救済の必要と、ナチス・ドイツが、戦争の温床であることを警告した。第二次大戦が勃発してから、エリカ・マンの反ナチ闘争と民主主義のためのたたかいはいっそう広汎におこなわれ、「生への逃亡」ではドイツの亡命知識人の物語を描いた。これらの人々がなにゆえにドイツを去らなければならなかったか、ということについて劇的に描かれた物語である。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">大戦直後に刊行された「もう一つのドイツ」も弟クラウスとの共著であるが、ここには、ナチス・ドイツ以外のもう一つのドイツのあることを訴えたものであった。ドイツの国民性を解剖し、ワイマール共和国の功罪を論じ、一知識人の日記の形でナチス運動の発展のあとをたどり、ナチス以外のドイツが、ヒトラー打倒のためにどうたたかっているかを訴えた。「野蛮人の学校」では、ナチス治下の教育が、どんなにドイツの少年たちを毒しているかをあからさまにしたもので、映画化され、世界に深甚な影響をあたえた。エリカ・マンはまた子供のための冒険物語「シュトッフェルの海外旅行」をも書いているそうである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13616-14095">ナチス・ドイツの絶滅した今日、エリカ・マンはふたたび故国のドイツの土をふんでいるであろう。が、行動性にとみ、民主精神に燃える彼女に、敗れはてたドイツの姿はどううつっているであろう。ことばにつくせない犠牲をはらったドイツの民主主義のために、エリカ・マンの美しいエネルギーは、まだまだ休む暇はあたえられていないのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14095-14709">ふかい犠牲をはらった民主主義への道と書かれている内山氏の紹介の文章をよむとき、私たちの魂にひびく共感がある。ほんとうに！　私たちの日本が、民主主義の黎明のためについやした犠牲は、なんと巨大なものであったろう。かぞえつくせない青春がきずつけられ、殺戮された。知性もうちひしがれた。民主の夜あけがきたとき、すぐその理性の足で立って、嬉々と行進しはじめられなかったほど日本の知性は、うちひしがれていたのであった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14709-15293">日本にエリカ・マンはありえなかった。けれども、いまやっと、人間の基本的人権の確立がいわれるようになったとき、日本の知識階級の若い女性たちは、自分たちめいめいの運命の開花の問題として民主主義社会建設の課題を、どのように真剣にとりあげはじめているであろうか。自分の才能の達成と、愛の達成そのもののために、民主社会の諸条件がどんなに必須なものであるかを、どのように理解しはじめているだろうか。</seg></p>
      <p>「キュリー夫人伝」を書いて、日本にもしたしまれているキュリー夫人の二女エヴ・キュリーは、一九四三年に「戦士のあいだを旅して」という旅行記をニューヨークから出版した。それがさいきん「戦塵の旅」という題で、ソヴェト同盟旅行の部分だけ翻訳出版された。一九四一年十一月より五ヵ月ばかり、連合軍側の戦時特派員という資格で、アフリカ、近東、ソヴェト同盟、インド、中国を訪問し、ファシズム、ナチズムに対して民主主義をまもろうとする国々のたたかいの姿を報道した。「ポーランドに生れ、フランスに眠るわが母マリー・スマロドオスカ・キュリー」という献辞のついたこの旅行記は、日本語に翻訳されている部分だけでも、ふかい感興をうごかされ、エヴの公平な理解力と人間としての善意にうたれる。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16285-16533">エリカ・マンの各国巡業、エヴの戦時中の旅行。それらはどれもすべて、民主主義と、平和と、民族自立のための旅行であった。侵略に抗する世界の善意としての旅行者であった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16533-17198">東京裁判のラジオをきいている私たちの心の苦痛はいかばかりであろう。私たちは、世界の女性に向って叫びたいとおもわないだろうか。私たち日本人がすべてこういう兇暴な本性をもっているとはおもわないでください！　と。日本にあふれている寡婦の涙をおもってください！　と。けれども、同時に私たちは、身の毛のよだつおもいで省みずにいられないとおもう。日本の半封建の権力は、なんと文化そのものを美しさにおいて無力な、血なまぐさいものにしていたのだろうか、と。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17198-17941">日本の婦人作家が幾人か、戦時中、海をわたって、彼女たちにとってはじめての海外旅行をし、他国の人々に接触した。そのとき、それらの人々のおかれた役割はなんであったろう。侵略の銃につけられた花束であったというのだろうか。それとも、故国にとりのこされている無数の妻や母たちに、女のあたしたちも行くところ、と侵略の容易さや、いつわられた雄々しさのうらづけをするためであったろうか。客観的に歴史のうえにみたとき、これらの旅行者は決してエリカ・マンや、エヴ・キュリーのような善意の旅行者ではありえなかった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17941-18429">婦人の知性は、洗われ、きよらかにされ、明日の生命をあたえられなければならないとおもう。去年の春の選挙に婦人代議士がどっさり出て、そのことは、知識階級の婦人たちをかえって失望させもした。そして、その騒々しさからは幾歩か身をはなしておいて、政治的には発展せず、政治屋ふうになった一部の婦人のうごきを眺めている気分も感じられる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">けれども、私たちは、自分の身につける肌着が清潔であるか、ないかという責任を、誰にゆだねているだろう。わたしたち自身が自分の身のしまつはしている。そうだとすれば、どうして自分の一生の価値のため、そのゆたかさと多様な希望の実現をもたらす生きかたとして民主的方法の確立のために、素直になり、まじめにならないでいられよう。私たちの心情には一つの熱望がある。それは日本の女性の真の心を、世界の女性につたえたいおもいである。だが、それには世界に通じることばがなければならない。「民主的日本の女性から」という生きたことばが確立されなければならない。</p>
      <div type="layout" source="#source-19235-19280" style="padding-inline-end: 0em; text-align: right">
        <p><seg source="#source-19253-19280">〔一九四七年二月〕</seg></p>
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        <note type="source-attribution" source="#source-19288-19651"><seg type="source-line">底本：「宮本百合子全集　第十三巻」新日本出版社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1979（昭和54）年11月20日初版発行</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1986（昭和61）年3月20日第5刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">底本の親本：「宮本百合子全集　第十一巻」河出書房</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1952（昭和27）年5月発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「女性改造」</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1947（昭和22）年2月号</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-19651-19993"><seg type="source-line">入力：柴田卓治</seg><lb/><seg type="source-line">校正：米田進</seg><lb/><seg type="source-line">2003年4月23日作成</seg><lb/><seg type="source-line">2005年11月14日修正</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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