Soranoha

戦話

せんわ

岩野 泡鳴

十年振りの会飲に、友人と僕とは気持ちよく酔った。戦争の時も出征して負傷したとは聴いていたが、会う機会を得なかったので、ようよう僕の方から、今度旅行の途次に、訪ねて行ったのだ。話がはずんで出征当時のことになった。

「今の僕なら、君」と少し多言になって来た。友人は、酒のなみなみつげてる猪口を右の手に持ったがまた、そのままおろしてしまった。「今の僕なら、どうせ、役場の書記ぐらいで満足しとるのやもの、徴兵の徴の字を見ても、ぞッとする程の意気地なしやけど、あの時のことを思うたら、不思議に勇気が出たもんや。それも大勢のお立て合う熱に浮されたと云うたら云えんこともなかろう。もう、死んだんが本統であったんやも知れんけど、兎角、勇気のないもんがこない目に会うて」と、左の肩を振って見せたが、腕がないので、袖がただぶらりと垂れていた。「帰って来ても、廃兵とか、厄介者とか云われるのやろう。もう、僕などはあかん」と、猪口を口へ持って行った。

「そんなことはないさ、」と、僕はなぐさめながら、「君は、もう、名誉の歴史を終えたのだから、これから別な人間のつもりで、からだ相応な働きをすればいいじゃアないか?」「それでも、君、戦争でやった真剣勝負を思うたら、世の中でやっとることが不真面目で、まどろこしうて、下らん様に見えて、われながら働く気にもなれん。きのうもゆう方、君が来て呉れるというハガキを見てから、それをほところに入れたまま、ぶらぶら営所の近所まで散歩して見たんやけど、琵琶湖のふちを歩いとる方がどれほど愉快か知れん。あの狭い練兵場で、毎日、毎日、朝から晩まで、立てとか、すわれとか、百メートルとか、千メートルとか、云うて、戦争の真似をしとるんかと思うと、おかしうもなるし、あほらしうもなるし、丸で子供のままごとや。えらそうにして聨隊の門を出て来る士官はんを見ると、『お前らは何をしておるぞ』と云うてやりとうなる。されば云うて、自分も兵隊はんの抜けがら――世間に借金の申し訳でないことさえ保証がつくなら、今、直ぐにでも、首くくって死んでしまいたい。」

「君は、元から、厭世家であったが、なかなか直らないと見える。然し、君、戦争は厭世の極致だよ。世の中が楽しいなぞという未練が残ってる間は、決して出来るものじゃアない。軍紀とか、命令とかいうもので圧迫に圧迫を加えられたあげく、これじゃアたまらないと気がつく個人が、夢中になって、盲進するのだ。その盲進が戦争の滋養物である様に、君の現在では、家族の饑餲が君の食物ではないか。人間は皆苦しみに追われて活動しているのだ。」

「そう云われると、そうに違いないのやろけど」と、友人は微笑しながら、「まア、もッとお飲み。」傾けた徳利の酒が不足であったので、「おい、お銚子」と、奥へ注意してから、「女房は弱いし、餓鬼は毎日泣きおる、これも困るさかいなア。」

「それはお互いのことだア。ね」と、僕が答えるとたん、から紙が開いて、細君が熱そうなお燗を持って出て来たが、大津生れの愛嬌者だけに、

「えろうお気の毒さまどすこと」と、自分は亭主に角のない皮肉をあびせかけ、銚子を僕に向けて、

「まア、一杯どうどす?――うちの人は、いつも、あないなことばかり云うとります。どうぞ、しかってやってお呉れやす。」

「まア、こういう人間は云いたいだけ云わして置きゃア済むんですよ。」

「そうどすか?」と、細君は亭主の方へ顔を向けた。

「まだ女房にしかられる様な阿房やない。」

「そやさかい、岩田はんに頼んどるのやおまへんか?」

「女郎メロウどもは、まア、あッちゃへ行とれ。」

「はい、はい。」

細君は笑いながら、からの徳利を取って立った。

友人は手をちゃぶ台の隅にかけながら、顔は大分赤みの帯び来たのが、そばに立ってるランプの光に見えた。

「岩田君、君、今、盲進は戦争の食い物やて云うたけど、もう一歩進めて云うたら、死が戦争の喰い物や。人間は死ぬ時にならんと真面目になれんのや。それで死んでしもたら、もう、何もないのや。つまらん命やないか? ただくたばりそこねた者が帰って来て、その味が甘かったとか、辛かったとか云うて、えらそうに吹聴するのや、僕等は丸で耻さらしに帰って来たんも同然やないか?」

「そう云やア、僕等は一言も口嘴をさしはさむ権利はない、さ」

「まァ、死にそこねた身になって見給え。それも、大将とか、大佐とかいうものなら、立派な金鵄勲章をひけらかして、威張って澄ましてもおられよけど、ただの岡見伍長ではないか? こないな意気地なしになって、世の中に生きながらえとるくらいなら、いッそ、あの時、六カ月間も生死不明にしられた仲間に這入って、支那犬の腹わたになっとる方がましであった。それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でもない、速射砲の音でもない、実に、僕の隊附きの軍曹大石という人が、戦線の間を平気で往来した姿や。これが、今でも、幽霊の様に、また神さまの様に、僕の心に見えとるんや。」

「何か意味のありそうな話じゃないか?」

「詳しうすれば長なろけれど、大石という人はもとから忠実で、柔順で、少し内気な質であったと思い給え。現役であったにも拘らず、第○聨隊最初の出征に加わらなかったんに落胆しとったんやけど、おとなしいものやさかい、何も云わんで、留守番役をつとめとった。それが予備軍のくり出される時にも居残りになったんで、自分は上官に信用がないもんやさかいこうなんのやて、急にやけになり、常は大して飲まん酒を無茶苦茶に飲んだやろ、赤うなって僕のうちへやって来たことがある。僕などは、『召集されないかて心配もなく、また召集されるような様子になったら、その前からアメリカへでも飛んで行きたいんを、わが身から進んでそないに力んだかて阿房らしいやないか? て』冷かしてやったんけど大した意気込みで不平を云うとって、取り合わん。『こないなことなら、いッそ、割腹して見せてやる』とか、『鉄砲腹をやってやる』とか、なかなか当るべからざる勢いであったんや。然し、いよいよ僕等までが召集されることになって、高須大佐のもとに後備歩兵聨隊が組織され、それが出征する時、待ちかまえとった大石軍曹も、ようよう附いてくことが出来できる様になったんで、その喜びと云うたら、並み大抵ではなかった。どうせ、無事に帰るつもりは無いて、細君を離縁する云い出し、自分の云うことを承知せんなら、露助と見て血祭りにする云うて、剣を抜いて追いまわしたんや。」

こう云って、友人は鳥渡ちょっと僕から目を離して、猪口に手をかけた。僕も一杯かさねてから、

「実際離縁したのか?」

「いや」と、友人は少し笑いを含みながら、「その手つづきは後でしてやると親類の人達がなだめて、万歳の見送りをしたんやそうや。もう、その時から、少し気が触れとったらしい。」

「気違いになったのだ、な?」

「気違い云うたら、戦争しとる時は皆気違いや。君の云い方に拠れば、戦争というものは気違いが死を喰うのか、死が気違いを喰うのか分らん。ずどん云う大砲の音を初めて聴いた時は、こおうてこおうて堪らんのやけど、度重なれば、神経が鈍になると云うか、過敏となるて云うか、それが聴えんと、寂しうて、寂しうてならん。敵は五六千メートルも隔ってるのに、目の前へでも来とる様に見えて、大砲の弾丸があたまの上で破裂しても、よそごとの様に思われ、向うの手にかかって死ぬくらいなら、こッちゃから死ぬまで戦ってやる云う一念に、皆血まなこになっとるんや。かすり傷ぐらい受けたて、その血が流れとるのを自分は知らんのやし、他人も亦それが見えんのも尤もや。強い弾丸が当って、初めて気が付くんや。それに就いて面白い話がある。僕のではない、他の中隊の一卒で、からだは、大けかったけど、智慧がまわりかねた奴であったさかい、いつも人に馬鹿にされとったんが『伏せ』の命令で発砲した時、急に飛び起きて片足立ちになり、『あ、やられた! もう、死ぬ! 死ぬ!』て泣き出し、またばッたり倒れたさかい、どないにやられたかて、同隊の軍曹が調べてやると、足の上を鳥渡敵弾にかすられたんであった。軍曹はその卒の背中をたたいて、『しっかりせい! こんな傷ならしばっとけばええ。』――」

「随分滑稽な奴じゃないか?」

「それが、さ、岩田君、跡になれば滑稽やが、その場にのぞんでは、極真面目なもんや。戦争の火は人間の心を焼き清めて、一生懸命の塊りにして呉れる。然し、こおうなればどこまでもこわいものやさかい、その方でまた気違いになるんもある。どッちゃにせい、気違いや。大石軍曹などは一番ええ、一番えらい方の気違いや。」

「うちの人もどっちかの気違いどす」と、細君は再び銚子を変えに出て来て、直ぐ行ってしまった。

友人はその跡を見送って、

「あいつの云う通り、僕は厭世気違いやも知れんけど、僕のは女房の器量がようて(奥でくすッと笑う声がした)、子供がかしこうて、金がたんとあって、寝ておられさえすれば直る気違いや。弾丸の雨にさらされとる気違いは、たとえ一時の状態とは云うても、そうは行かん。」

「それで、君の負傷するまでには、たびたび戦ったのか、ね?」

「いや、僕の隊は最初の戦争に全滅してしもたんや。――さて、これからが話の本文に這入るのやて――」

「まア、一息つき給え」と、僕は友人と盃の交換をした。酔よいもまわったのであろう、友人は、気質に似合わず、非常にいい気持ちの様子で、にこにこ笑うている。然し、その笑いが何となく寂しいのは、友人の周囲を僕に思い当らしめた。

「久し振りで君が尋ねて来て、今夜はとまって呉れるのやさかい、僕はこないに嬉しいことはない。充分飲んで呉れ給え」と、酌をしてくれた。

「僕も随分やってるよ。――それよりか、話の続きを聴こうじゃないか?」

「それで、僕等の後備歩兵第○聨隊が、高須大佐に導かれて金州半島に上陸すると、直ぐ鳳凰山を目がけて急行した。その第五中隊第一小隊に、僕は伍長として、大石軍曹と共に、属しておったんや。進行中に、大石軍曹は何とのうそわそわして、ただ、まえの方へ、まえの方へと浮き足になるんで、或時、上官から、大石、しッかりせい。貴様は今からそんなざまじゃア、大砲の音を聴いて直ぐくたばッてしまうやろ云われた時、赤うなって腹を立て、そないに弱いものなら、初めから出征は望みません、これでも武士の片端やさかい、その場にのぞんで見て貰いましょ。――それからと云うものずうッと腹が立っとったんやろ、無言で鳳凰山まで行進した。もう、何でも早う戦場にのぞみとうてのぞみとうて堪えられなんだやろ。心では、おうかた、大砲の音を聴いとったんやろ。僕は、あの時成る程離縁問題が出た筈やと思た。」

「成る程、これからがいよいよ人の気が狂い出すという幕だ、な。」

「それが、さ、君忘れもせぬ明治三十七年八月の二十日、僕等は鳳凰山下を出発し、旅順要塞背面攻撃の一隊として、盤龍山ばんりゅうざん、東鷄冠山ひがしけいかんざんの中間にあるピー砲台攻撃に向むこた。二十日の夜行軍、翌二十一日の朝、敵陣に近い或地点に達したのやけど、危うて前進が出来ん。朝飯の際、敵砲弾の為めに十八名の死者を出した。飯を喰てたうえへ砲弾の砂ほこりを浴びたんやさかい、口へ這入るものが砂か米か分らん様よであった。僕などは、もう、ぶるぶる顫ふるて、喰う気にもなれなんだんやけど、大石軍曹は、僕等のあたまの上をひゅうひゅう飛んで行く砲弾を仰ぎながら、にこにこして喰っておった。「腹が出来んといくさも出来ん。」僕等の怖こおなった時に、却って平気なもんであった。軍曹が上官にしかられた時のうわつき方とは丸で違ちごてた。気狂いは違たもんやて、はたから僕は思た。僕は、まだ、戦場におる気がせなんだんや。それが、敵に見られん様に、敵の刈り残した高黍畑の中を這う様にして前進し、一方に小山を楯にした川筋へ出た。川は水がなかったんで、その川床にずらりと並んで敵の眼を暗くらました。鳥渡でも頸を突き出すと直ぐ敵弾の的になってしまう。昼間はとても出ることが出来なかった、日が暮れるのを待ったんやけど、敵は始終光弾を発射して味方の挙動を探るんで、矢ッ張り出られんのは同じこと。」

「鳥渡聴くが、光弾の破裂した時はどんなものだ?」

「三四尺の火尾を曳いて弓形に登り、わが散兵線上に数個破裂した時などは、青白い光が広がって昼の様であった。それに照らされては、隠れる陰がない。おまけに、そこから敵の砲塁までは小川もなく、樹木もなく、あった畑の黍は、敵が旅順要塞に退却の際、みな刈り取ってしもたんや。一歩踏み出せば、もう、直ぐ敵弾の餌食は覚悟せにゃならん。聨隊長はこの進軍に反対であったんやけど、止むを得ん上官の意志であったんやさかい、まア、半分焼けを起して進んで来たんや。全滅は覚悟であった。目的はピー砲台じゃ、その他の命令は出さんから、この川を出るが最後、個々の行動を取って進めという命令が、敵に悟られん様に、聨隊長からひそかに、口渡しで、僕等に伝えられ、僕等は今更電気に打たれた様に顫たんやが、その日の午後七時頃、いざと一同川を飛び出すと、生憎諸方から赤い尾を曳いて光弾があがり、花火の様にぱッと弾けたかと思う間ものう、ぱらぱらと速射砲の弾雨を浴びせかけられた。それからていうもの、君、敵塁の方から速射砲発射の音がぽとぽと、ぽとぽとと聴える様になる。頭上では、また砲弾が破裂する。何のことはない、野砲、速射砲の破裂と光弾の光とがつづけざまにやって来るんやもの、かみ鳴りと稲妻とが一時に落ちる様や、僕等は、もう、夢中やった。午後九時頃には、わが聨隊の兵は全く乱れてしもて、各々その中隊にはおらなかった。心易いものと心易いものが、お互いに死出の友を求めて組みし合い、抱き合うばかりにして突進した。今から思て見ると、よく、まア、あないな勇気が出たことや。後について来ると思おもたものが足音を絶つ、並んどったものが見えん様よになる、前に進むものが倒れてしまう。自分は自分で、楯とするものがない。」

「そこになると、もう、僕等の到底想像出来ないことだ。」

「実際、君、そうや。」

「わたしは何度も聴かされたんで、よく知っとります」と、細君がまた銚子を持って出て来て、僕等のそばに座り込んだ。

「奥さんがその楯になるつもりです、ね?」

「そうやも知れまへん」と笑っている。

友人は真面目だ。

「僕はなんでこないに勇気が出るか知らん思おもたんが気のゆるみで、急に寂しい様な気がした。僕独りで、――聨絡がなかった。こないな時の寂しさは乃ち恐怖や、おそれや。それに、発砲を禁じられとったんで、ただ土くれや唐黍の焼け残りをたよりに、弾丸を避けながら進んで行たんやが、僕が黍の根を引き起し、それを堤としてからだを横たえた時、まア、安心と思たんが悪かったんであろ、速射砲弾の破裂に何ともかとも云えん恐ろしさを感じた。仲間どもはどうなったか思て、後方を見ると、光弾の光にずらりと黒う見えるんは石か株か、死体か生きとるんか、見分けがつかなんだ。また敵の砲塁までまだどれほどあるかて、音響測量をやって見たら、たッた二百五十メートルほかなかった。大小の敵弾は矢ッ張り雨の如く降っとった。その間を平気で進んで来たものがあるやないか? たッた独りやに「沈着にせい、沈着にせい」と云うて命令しとる様な様子が何やらおかしい思われた。演習に行てもあないに落ち付いておられん。人並みとは違た様子や。して、倒れとるものが皆自分の命令に従ごて来るつもりらしかった。それが大石軍曹や。」

友人は不思議ではないかと云わぬばかりに、僕と妻君との顔を順ぐりに見た。

「戦場では」と僕が受けて、「大胆に出て行くものにゃア却って弾が当らないものだそうだ。」

「うちの人の様にくよくよしとると、ほんまにあきまへん。」

「そやかさいおれは不大胆の厭世家やて云うとる。弾丸が当ってくれたのはわしとして名誉でもあったろが、くたばりそこねてこないな耻さらしをするんやさかい、矢ッ張り大胆な奴は仕合せにも死ぬのが早い――『沈着にせい、沈着にせい』云うて進んで行くんやさかい、上官を独りほかして置くわけにも行かん。この人が来なんだら、僕は一目散に逃げてしもたやも知れんのや。僕はこわごわ起きあがってその跡に付いてたんやけど、何やら様子が不思議やったんで、軍曹に目を離さんでおったんやが、これはいよいよキ印になっとるんや思た、自分のキ印には気がつかんで――『軍曹どの危あぶの御座ります』僕が云うたら、

『なアに、くそ! 沈着にせい』

『みなやられたらしいです。あたりには、軍曹どのとわたしとばかり。打たれるくらいなら先ずこッちゃから打って、敵砲手の独りなと、ふたりなと射殺してやりましょ』

『なにイ――距離を測量したか?』

『二百五十メートル以内――只今計りました。』

『じゃア、やれ! 沈着に発砲せい!』

『よろしい!』て、二人ともずどんずどん一生懸命になって二三十発つづけざまに発砲した。之に応じて、当の目あてからは勿論、盤龍山、鷄冠山からも砲弾は雨、あられと飛んで来た。ひかって青い光が破裂すると、ぱらぱらッと一段烈しう速射砲弾が降って来たんで、僕は地上にうつ伏しになって之を避けた。敵塁の速射砲を発するぽとぽと、ぽとぽとと云う響きが聴えたのは、如何にも怖いものや。再び立ちあがった時、僕はやられた。十四箇所の貫通創を受けた。

『軍曹どの、やられました!』

『砲弾か小銃弾か?』

『穴は大きい』

『じゃア、後方にさがれ!』

『かしこまりました!』て一心に僕は駆け出したんやだど倒れて夢中になった。気がついて見たら『しっかりせい、しつかりせい』と、独りの兵が僕をかかえて後送してくれとった。水が飲みたいんで水瓶の水を取ろうとして、出血の甚しかったんを知り、『とても生きて帰ることが出来んなら、いッそ戦線に於て死にます』云うたら、『じゃア、お前の勝手に任す』云うて、その兵はいずれかへ去った。この際、外に看護してくれるものはなかったんさかい、それが矢ッ張り大石軍曹であったらしい、どうやら、その声も似とった。」

「それが果して気違いであったなら、随分しッかりした気狂いじゃアないか?」

「無論気狂いにも種類があるもんと見にゃならん。――僕はそれから夜通し何も知らなかったんや。再び気が付いて見たら、前夜川から突進した道筋をずッと右に離れたとこに独立家屋があった。その附近の畑の掘れたなかに倒れとった。夜のあけ方であったんやけど、まだ薄暗かった。あたまを挙げてあたりを見ると、独り兵の這いさがるんかと思た黒い影があるやないか? 自分もあの様にして這いさがろ思てよく見ると、うわさに聴いた支那犬やないか? 戦争の過ぎた跡へかけ付けて、なま臭い人肉を喰う狼見た様な犬がうろ付いとる間で、腰、膝の立たんわが身が一夜をその害からのがれたんは、まだ死をいそぐんではなかろて、勇気――これが僕にはほんまの勇気やろ――を出して後方にさがった。独立家屋のあたりには、衛生隊が死傷者を収容する様子は見えなんだ。進んだ時も夢中であったんやが、さがる時も一生懸命――敵に見付かったらという怖さに、たッた独りぽッちの背中に各種の大砲小銃が四方八方からねらいを向けとる様な気がして、ひどう神経過敏になった耳元で、僕の手足が這うとる音がした。のぼせ切っておったんや。刈り取られた黍畑や赤はげの小山を超えて、およそ二千メートル後方の仮繃帯場へついた時は、ほッと一息したまま、また正気を失うしのてしもた。そこからまた一千メートル程のとこに第○師団第二野戦病院があって、そこへ転送され、二十四日には長嶺子定立病院にあった。その間に僕の左の腕が無うなっとった。寝台の上に仰向けになったまま、『おや腕が』と気付いたんやが、その時第一に僕の目に見えたんは大石軍曹の姿であった。この人をしかった上官にも見せてやりたかったんやが、『その場にのぞんで見て貰いましょ』と僕の心を威嚇して急に戦争の修羅場が浮んできた。僕はぞッとして蒲団を被ろうとしたが手が一方よりほか出なかった。びっくりした看護婦が、どうしたんや問うたにも答えもせず、右の手を出してそッと左の肩に当って見たら二三のとこで腕が木の株の様に切れて、繃帯をしてあった。――この腕だ。」

と、友人は左の肩を動かした。

「如何に君自身は弱くっても、君の腕はその大石軍曹と同じく、行くえが知れない程勇気があったんだ」と、僕は猪口を差した。

友人は右の手に受けて、言葉を継ぎ、「あの時の心持ちと云うたら、まだ気が落ち付いとらなんだんやさかい、今にも敵が追い付いて来そうで、怖いばかりのまぼろしを見とったのや。後で看護婦の話を聴いたら、大石軍曹までを敵に思たんであろ、『大石が来た、大石が来た』云うてたびたびうなされとったそうや。して、その軍曹は而も僕を独立家屋のそばまでかかえて来て呉れた命の親だ。よくよく僕は卑恐ひきょうの本音を出したもんやらしい。」

「それは僕に解釈さして呉れるなら」と、僕は口を出して、「気狂いとまで一方に思った軍曹の、大胆な態度に君が深く打たれたので、夢中な心にもそれを忘れかねたんだろう。」

「それ、さ。」友人は卓を打って、「僕は今でもその姿が見える様なんや。岡見伍長に大石軍曹は神さんや」と、気の弱いにも似ず、何となく威だけ高になった友人の姿には、一種の神々しいところがあった。その寂しいほほえみは消えて、顔は、酒の酔いでなく、別の力の熱して来た目つきであった。僕は、周囲の平凡な真ん中で、戦争当時の狂熱に接する様な気がした。

「大石軍曹は」と、友人はまた元の寂しい平凡に帰って、「その行くえが他の死者と同じ様に六カ月間分らなんだ、独立家屋のさきで倒れとったんを見た云うもんもあったそうやし、もッとさきの方で負傷したまま戦ことった云うもんもある。何にせい、聨隊の全滅であったんやさかい、僕の中隊で僕ともう一人ほか生還しやへんのや。全滅後、死体の収容も出来できんで、そのまま翌年の一月十二三日、乃ち、旅順開城後までほッとかれたんや。一月の十二三日に収容せられ、生死不明者等はそこで初めて戦死と認定せられ、遺骨が皆本国の聨隊に着したんは、三月十五日頃であったんや。死後八カ月を過ぎて葬式が行われたんや。」

「して、大石のからだはあったんか?」

「あったとも、君――後で収容当時の様子を聴いて見ると、僕等が飛び出した川からピー堡塁に至る間に、『伏せ』の構えで死んどるもんもあったり、土中に埋って片手や片足を出しとるもんもあったり、からだが離ればなれになっとるんもあった。何れも、腹を出しとったんはあばらが白骨になっとる。腹を土につけとったんは黒い乾物見た様になっとる。中には倒れないで坐ったまま、白骨になっとったんもある。之を見た収容者は男泣きに泣いたそうや。大石軍曹はて云うたら、僕がやられたところよりも遙かさきの大きな岩の上に剣さきを以て敵陣を指したまま高須聨隊長が倒れとった、その岩よりもそッとさきに進んだところで、敵の第一防禦の塹壕内に死んどったんが、大石軍曹と同じ名の軍曹であったそうや。」

「随分手柄のあった人どす、なア」と、細君は僕の方に頸を動かした。

「そりゃア」と、僕が話しかける間もなく、友人は言葉をついだ。

「思て見ると、僕は独立家屋のそばまで後送して呉れた跡で、また進んで行て例の『沈着にせい、沈着にせい』をつづけとったんやろ。――まア、ざっとこないな話――君の耳も僕の長話の砲声で労れたろから、もう少し飲んで休むことにしよ。まア、飲み給え。」

「酌ぎましたよ」と、すすめる細君の酌を受けながら、僕は大分酔った様子らしかった。

「君と久し振りで会って、愉快に飲んだし、思いもよらない君の戦話を聴いたし、もう、何にも不満足はない。休ませて貰おう。」

「それでは二階へ行こか?」

「まア、鳥渡待っておくれやす」と、細君は先ず僕等の寝床を敷きにあがった。僕等は暫くしてあがった。

家は古いが、細君の方の親譲りで、二階の飾りなども可なり揃っていた。友人の今の身分から見ると、家賃がいらないだけに、どこか楽に見えるところもあった。夫婦に子供二人の活くらしだ。

「あす君は帰るんや。なア、僕は役場の書記でくたばるんや。もう一遍君等と一緒に寄宿舎の飯を喰た時代に返りたい」と、友人は寝巻に着かえながらしみじみ語った。下の座敷から年上の子の泣き声が聞えた。つづいて年下の子が泣き出した。細君は急いで下りて行った。

「あれやさかい厭になってしまう。親子四人の為めに僅かの給料で毎日々々こき使われ、帰って晩酌でも一杯思う時は、半分小児の守りや。養子の身はつらいものや、なア。月末の払いが不足する時などは、借金をするんも胸くそ悪し、いッそ子供を抱いたまま、湖水へでも沈んでしまおか思うことがある。」

こういう話を聴きながら、僕はいつの間にか寝入ってしまったが、酔よいの覚めて行くに従って、目も覚めて来て、再び眠られなくなった。神経が段々冴えて行くのであった。

その間に、僕のそばでぐッすり寝込んでいるらしい友人の身の上や、昔の寄宿舎生活などを思い浮べ 、友人の持っていた才能を延ばし得ないで、こんな田舎に埋れてしまう運命が気の毒になり、そのむくろには今どんな夢が宿っているだろうなどと、寝苦しいままに幾度も寝返りをするうちに、よいに聴いた戦話がありありと暗やみに見える様になった。

然し、大石軍曹なる者の『沈着にせい、沈着にせい』の立ち姿が黒いばかりで分らない。どんな顔をしていたろうと思いめぐらしていると、段々それが友人の皮肉な寂しい顔に見えて来て、――僕は決して夢を見たのではない――その声高いいびきを聴くと、僕は何だか友人と床を並べて寝ている気がしないで、一種威厳ある将軍の床に侍はんべっている様な気がした。

(一九〇八年五月)

底本 / Source edition

底本:「日本プロレタリア文学大系(序)」三一書房
1955(昭和30)年3月31日初版発行
1961(昭和36)年6月20日第2刷
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月27日公開
2012年9月13日修正
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/002944_000137/

岩野 泡鳴「戦話」(新字新仮名)、底本『日本プロレタリア文学大系(序)』三一書房、1955年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002944_000137, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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