## 一

この巻は<ruby><rb>安房</rb><rt>あわ</rt></ruby>の国から始めます。御承知の通り、この国はあまり大きな国ではありません。

信濃、越後等の八百方里内外の面積を有する、それと並び立つ時には、僅かに三十五方里を有するに過ぎないこの国は哀れなものであります。むしろその小さな方から言って、<ruby><rb>壱岐</rb><rt>いき</rt></ruby>の国の八方里半というのを筆頭に、<ruby><rb>隠岐</rb><rt>おき</rt></ruby>の国が二十一方里、<ruby><rb>和泉</rb><rt>いずみ</rt></ruby>の国が三十三方里という計算を間違いのないものとすれば、第四番目に位する小国がすなわちこの安房の国であります。

小さい方から四番目の安房の国。そこにはまた小さいものに比例して雪をいただく高山もなく、大風の動く広野もないことは不思議ではありません。源を<ruby><rb>嶺岡</rb><rt>みねおか</rt></ruby>の山中に発し、東に流れて外洋に注ぐ加茂川がまさにこの国第一の大河であって――その源から河口までの長さが実に五里ということは、何となく滑稽の感を起すくらいのものであります。

さればにや、昔の物の本にも、この国には鯉が<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>まないと書いてありました。鯉は魚中の霊あるものですから、一国十郡以下の小国には棲まないのだそうです。そうしてみれば一国四郡（今は一国一郡）の安房の国に、魚中の霊魚が来り棲まないということも不思議ではありますまい。

こうして今更、安房の小さいことを並べ立てるのは、背の低い人をわざと人中へ引張り出してその<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>の<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>を測って見せるような心なき<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>に似ておりますが、安房の国の人よ、それを<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>り給うな。近世浮世絵の大宗匠<ruby><rb>菱川師宣</rb><rt>ひしかわもろのぶ</rt></ruby>は、諸君のその三十五方里の間から生れました。源頼朝が石橋山の合戦に武運<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>く身を以て逃れて、諸君の国に頼って来た時に、諸君の先祖は、それを温かい心で迎え育てて、ついに日本の政権史を二分するような大業を起させたではありませんか。それからまた、形においてはこの大菩薩峠と兄弟分に当る里見八犬伝は、その発祥地を諸君の領内の<ruby><rb>富山</rb><rt>とやま</rt></ruby>に求めているし、それよりもこれよりもまた、諸君のために嬉し泣きに泣いて起つべきほどのことは、日蓮上人がやはり諸君の三十五方里の中から<ruby><rb>涌</rb><rt>わ</rt></ruby>いて出でたことであります。

「日蓮は日本国東夷東条、安房の国海辺の<ruby><rb>旃陀羅</rb><rt>せんだら</rt></ruby>が子なり。いたづらに<ruby><rb>朽</rb><rt>く</rt></ruby>ちん身を法華経の<ruby><rb>御故</rb><rt>おんゆゑ</rt></ruby>に捨てまゐらせん事、あに石を<ruby><rb>金</rb><rt>こがね</rt></ruby>にかふるにあらずや」

日蓮自ら刻みつけた銘の光は、朝な朝な東海の上にのぼる日輪の光と同じように、永遠にかがやくものでありましょう。

その日蓮上人は<ruby><rb>小湊</rb><rt>こみなと</rt></ruby>の浜辺に生れて、十二歳の時に、同じ国、同じ郡の<ruby><rb>清澄</rb><rt>きよすみ</rt></ruby>の山に登らせられてそこで出家を遂げました。それは昔のことで、この時分は例の<ruby><rb>尊王攘夷</rb><rt>そんのうじょうい</rt></ruby>の時であります。西の方から吹き荒れて来る風が強く、東の方の都では、今や屋台骨を吹き折られそうに気を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んでいる世の中でありましたけれど、清澄の山の空気は清く澄んでおりました。九月十三日のお祭りには、房総二州を東西に分けて、我と思わんものの<ruby><rb>素人相撲</rb><rt>しろうとずもう</rt></ruby>があって、山上は人で埋まりましたけれど、それは三日前に済んで、あとかたづけも大方終ってみると、ひときわ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっそり</span>したものであります。

周囲四丈八尺ある門前の<ruby><rb>巨杉</rb><rt>おおすぎ</rt></ruby>の下には、お祭りの名残りの<ruby><rb>塵芥</rb><rt>じんかい</rt></ruby>や落葉が<ruby><rb>堆</rb><rt>うずたか</rt></ruby>く掻き集められて、誰が火をつけたか、<ruby><rb>火焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>は揚らずに、浅黄色した煙のみが<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>として、杉の梢の間に立ち迷うて西へ流れています。その煙が<ruby><rb>夕靄</rb><rt>ゆうもや</rt></ruby>と溶け合って峰や谷をうずめ終る頃に、千光山金剛法院の暮の鐘が鳴りました。

明徳三年の銘あるこの鐘、たしか方広寺の鐘銘より以前に「国家安康」の文字が刻んであったはずの鐘、それが物静かに鳴り出しました。その鐘の声の中から生れて来たもののように、一人の若い僧侶が、山門の石段を踏んでトボトボと歩き出しました。

身の丈に二尺も余るほどの金剛杖を右の手について、左の手にさげた<ruby><rb>青銅</rb><rt>からかね</rt></ruby>の<ruby><rb>釣燈籠</rb><rt>つりどうろう</rt></ruby>が半ば<ruby><rb>法衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>の袖に隠れて、その裏から洩れる白い光が、白蓮の花びらを散らしながら歩いているようです。

<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>はこうして人並より、ずっと小柄であるのに、頭部のみがすぐれて大き過ぎるせいか、前こごみに歩いていると、身体が頭に引きずられそうで、ことにその頭が<ruby><rb>法然頭</rb><rt>ほうねんあたま</rt></ruby>――といって、<ruby><rb>前丘</rb><rt>ぜんきゅう</rt></ruby>は低く、後丘は高く、その間に<ruby><rb>一凹</rb><rt>いちおう</rt></ruby>の谷を隔てた形は、どう見ても頭だけで歩いている人のようであります。

「え、何ですか、どなたが、わたしをお呼びになりましたか」

この頭の僧侶は急にたちどまって、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻しました。見廻したけれども、そのあたりには誰もおりませんでした。いないはずです、実は誰も呼んだ人は無いのだから。それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、かんのせいか知らん、しきりにその異様な頭を振り立てて、聞き耳を立てていました。どうも、この人は眼よりは耳の働く人であるらしい。いや、眼が全く働かない代りに、耳が一倍働く人であるらしい。

「弁信さん」

今度は、たしかに人の声がしました。姿はやっぱり見えないけれども、それは焚火の燃え残っている四丈八尺の<ruby><rb>巨杉</rb><rt>おおすぎ</rt></ruby>の幹の中程から起ったことはたしかであります。

「エ、<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>ちゃんだね」

頭の僧侶はホッと息をついて、金剛杖を立て直して、巨杉の上のあたりを打仰ぎました。

杉の枝葉と幹との間に隠れている声の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>は誰やらわからないが、それが子供の声であることだけはよくわかります。

「弁信さん、お前また<ruby><rb>高燈籠</rb><rt>たかどうろう</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けに行くんだね、近いうちに<ruby><rb>大暴風雨</rb><rt>おおあらし</rt></ruby>があるから気をおつけよ」

木の上の主がこう言いました。

「エ、近いうちに大暴風雨があるって？　茂ちゃん、お前、どうしてそれがわかる」

「そりゃ、ちゃんとわかるよ」

「どうして」

「蛇がどっさり、この木の上に登っているからさ」

「エ、蛇が？」

「ああ、蛇が木へのぼるとね、そうすると近いうちに雨が降るか、風が吹くか、そうでなければ<ruby><rb>大暴風雨</rb><rt>おおあらし</rt></ruby>があるんだとさ。それで、こんなにたくさん、蛇が木の上へのぼったから、きっと大暴風雨があるよ」

「いやだね、わたしゃ蛇は大嫌いさ、そんなにたくさん蛇がいるなら、茂ちゃん、早く下りておいでな」

「いけないよ、弁信さん、おいらはその蛇が大好きなんだから、それを<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まえようと思って、ここへ上って来たんだよ、まだ三つしか捉まえないの」

「エ、三つ！　お前、そんなに蛇を捉まえてどうするの、食いつかれたら、どうするの、気味が悪いじゃないか、気味が悪いじゃないか、およしよ、およしよ」

「三つ捉まえて懐ろに入れてるんだよ、食いつきゃしないさ、慣れてるから食いつくものか、あたいの懐ろの中で、いい心持に眠っていらあ」

「ああいやだ、聞いてもぞっとする」

<ruby><rb>盲法師</rb><rt>めくらほうし</rt></ruby>は木の上を見上げながら、ぞっとして立ち<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>みました。

「だっていいだろう、なにも、あたいは蛇を<ruby><rb>苛</rb><rt>いじ</rt></ruby>めたり殺したりするために、蛇を捉まえるんじゃないからね」

木の上では申しわけのような返事です。

「それにしたってお前、蛇なんぞ……早く下りておいで」

「もう二つばかり捉まえてから下りるから、弁信さん、お前、あたいにかまわずに燈籠を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けに行っておいで」

木の上の悪太郎は下りようともしないから、盲法師は<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>で金剛杖をつき直しました。

## 二

浪切不動の丘の上に立つ高燈籠の下まで来た盲法師は、金剛杖を高燈籠の腰板へ立てかけて、左の手首にかけた合鍵を深ると、<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>戸</rb><rt>ど</rt></ruby>がガラガラとあきました。杖は外に置いて、釣燈籠だけは大事そうに抱えて中へ入った盲法師、<ruby><rb>光明真言</rb><rt>こうみょうしんごん</rt></ruby>の唱えのみが朗々として外に響きます。

<ruby><rb>唵阿謨迦毘盧遮那摩訶菩怛羅摩尼鉢曇摩忸婆羅波羅波利多耶呍</rb><rt>おんあもきゃびろしゃのまかぼだらまにはんどまじんばらはらはりたやうん</rt></ruby>――

コトコトと梯子段を登る音が止んで暫らくすると、六角に<ruby><rb>連子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>をはめた高燈籠の<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>に、<ruby><rb>紅々</rb><rt>あかあか</rt></ruby>と燈火が燃え上りました。光明真言の唱えは、それと共に一層鮮やかで<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて響き渡ります。

その<ruby><rb>余韻</rb><rt>よいん</rt></ruby>が次第次第に下へおりて来た時分に、前の潜り戸のところへ姿を現わした盲法師の手には、前と同じような<ruby><rb>青銅</rb><rt>からかね</rt></ruby>の釣燈籠が大事に抱えられていましたけれど、持って来た時とは違って、その中には光がありませんでした。そのはずです、中にあった光は、高くあの六角燈籠の上へうつされているのですもの。その光をうつさんがためにこうして、トボトボと十町余りの山道を杖にすがってやって来たのですから、今はその<ruby><rb>亡骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>を提げて再び山へ戻るのが、まさにその本望でなければなりません。

「え、何ですか、どなたか、わたしをお呼びになりましたか」

前に腰板へ立てかけておいた金剛杖を、再び手に取ろうとして盲法師は、また聞き耳を立てました。これがこの盲法師の癖かも知れません。誰も呼ぶ人はないのにまず自分の耳を疑わないで、あてもないところを咎め立てしてみるのは、今に始まったことではありませんでした。金剛杖は手に持ったけれども、やはりその場は動かないで、怪しげな頭を振り立てて、前後左右の気配をみているようです。

しかしながら、ここは前と違って、あたりに大木もなければ人家もありません。往来の山道よりは少し離れて高く突き出したところですから、わざわざでなければ、この夕暮に人が上って来ようとは思われないところです。

それにもかかわらず、盲法師はその人を見つけたかのように、いったん手に取った金剛杖をまたもとのところへさしかけて、

「どう致しまして、これは、わたしから<ruby><rb>御前</rb><rt>ごぜん</rt></ruby>にお願いして、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>ってやらせていただく役目なんでございます、決して言いつけられてやっているお役目ではございません。わたしですか、今年十七になりました、エエ、このお山へ参ったのが日蓮上人と同じことの十二歳でございました。こんなに眼の不自由になったのはいつからだとおっしゃるんですか。それは、つい近頃のことですよ。もっとも小さい時分から眼の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>はあまりよくはございませんでしたがね、この春あたりからめっきり悪くなりました、桜の花の咲く時分に、ポーッとわたしの眼の前へ<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>がかかりましたよ、その霞が一時取れましたがね、秋のはじめになると、またかぶさって参りましたよ、今度は霞でなくて霧なんでしょうよ、その霧がだんだんに下りて来て、今では、すっかり見えなくなりました。へえ、そりゃ随分悲しい思いをしましたよ、心細い思いをしましたよ。けれども泣いたって<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いたって仕方がありませんね、前世の<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>というのが、これなんです、つまり<ruby><rb>無明長夜</rb><rt>むみょうちょうや</rt></ruby>の闇に迷う身なんでございますね。その罪ほろぼしのために、こうやって毎晩、この燈籠を点けさせていただく役目を、わたしが志願を致しました、自分の眼が暗くなった罪ほろぼしに、<ruby><rb>他様</rb><rt>ひとさま</rt></ruby>の眼を明るくして上げたいというわたしの心ばかりの<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>のつもりでございますよ。ナニ、雨が降ったって風が吹いたって、そんなことは苦になりませんよ、毎晩こうやってお<ruby><rb>燈明</rb><rt>とうみょう</rt></ruby>をつけに行く心持と、高燈籠へ火をうつして油がぼーと燃える音、それから勤めを果して、こうしてまた帰って来る心持と、それが何とも言えませんね……雨風といえば、近いうちに<ruby><rb>大暴風雨</rb><rt>おおあらし</rt></ruby>があるって、あの茂太郎がそう言いました、大暴風雨のある前には、蛇が<ruby><rb>沢山</rb><rt>どっさり</rt></ruby>樹の上へのぼるんだそうですがね、本当でしょうか知ら、まあ、お気をつけなさいまし」

誰も相手が無いのに、盲法師はこう言ってから、金剛杖を取り上げてそろそろ歩き出しました。

## 三

けれども、その夜から翌日へかけては、べつだん雨風の模様は見えませんでした。三日目になって朝から曇りはじめたといえば曇りはじめた分のことで、これまた急には雨風を呼ぼうとも思えません。江戸の方面とても無論それと同じ気圧に支配されているのですから、その日の<ruby><rb>亥</rb><rt>い</rt></ruby>の<ruby><rb>刻</rb><rt>こく</rt></ruby>に江戸橋を立つ<ruby><rb>木更津船</rb><rt>きさらづぶね</rt></ruby>は、あえて<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>を見直す必要もなく、若干の荷物と二十余人の便乗の客を乗せて、<ruby><rb>碇</rb><rt>いかり</rt></ruby>を揚げようとする時分に、<ruby><rb>端舟</rb><rt>はしけ</rt></ruby>の船頭が二人の客を乗せて、<ruby><rb>大童</rb><rt>おおわらわ</rt></ruby>で漕ぎつけました。

その二人の客の一人は、どうも見たことのあるような年増の女です。つとめて眼に立たないようにはしているけれど、こうして男ばかりの乗客の中へ、息をはずませて乗り込んでみると、誰もその<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>の乗った<ruby><rb>年増盛</rb><rt>としまざか</rt></ruby>りに眼を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれないわけにはゆかないようです。この女は、両国橋の女軽業の親方のお角であります。

「庄さん、それでもよかったね、もう一足<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れると乗れなかったんだわ」

「いいあんばいでございましたよ」

お<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>であるらしい若い男は、歯切れのよい返事をして、

「皆さん、少々御免下さいまし、おい、小僧さん、ここへ敷物を二枚くんな。親方、これへお坐りなさいまし、ここが荷物の蔭になってよろしうございます」

船頭の子から敷物を二枚借り受けて、酒樽の蔭のほどよいところへ、それを敷きました。帆柱の下にあたる最上の席は、もう先客に占められているのだから、まあ、この若い者が見つくろったあたりが、今では<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>のところであろうと思われます。

お角は遠慮をせずにその席へつくと、若い者がその傍へ、両がけの荷物を下ろして、どっかと坐り込みました。

「なんだか天気がちっとばかりおかしいけれど、明日の朝の<ruby><rb>巳</rb><rt>み</rt></ruby>の<ruby><rb>半</rb><rt>はん</rt></ruby>ごろには木更津へ着くって言いますから、案じるがものはありますまいねえ」

若い者が空を仰ぐと、お角も空模様を見て、

「降りはすまいけれど、なんだか、いやに蒸すようじゃないか」

程経てこの船が海へ乗り出した時分に、帆柱が押立てられて、帆がキリキリと捲き上げられると、船は<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に勢いを得て、さながら<ruby><rb>尾鰭</rb><rt>おひれ</rt></ruby>を添えたようであります。乗合の人も、大海へ出た心持になりました。そこへ船頭が立ちはだかって、乗合の客の頭数を読み上げて、

「ちょっとお待ちなさいよ、乗合の衆はみんなでエート二十三人でござんすね、二十三人、間違いはございませんね」

駄目を押すと乗合の客は、いずれも<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見合せて黙っています。そこで船頭はもう一ぺん乗合の頭の上を見渡して、

「それで、女のお客さんは……エート、おかみさんお一人ですね、女のお客さんは一人しか<ruby><rb>無</rb><rt>ね</rt></ruby>えんでございますかね」

と言って船頭は、例のお角の面をじっと見つめています。

「ええ、わたし一人のようですよ」

お角はわるびれずに答えました。

「そうですか、それじゃあ、どうかこっちの方へおいでなすって下さいまし、その帆柱の下においでなさるお年寄のお方、済みませんがそこんところのお席を、このおかみさんに譲って上げておくんなさいまし」

「え、ここをどうするんだね」

「済みませんがね、船のオキテですからね、女の方が一人客の時には、その方に上座を張らして上げなくっちゃならねえんです、それというのは船は女ですからね、腹を上にして物を載せるから、女にかたどってあるんでござんさあ、だから<ruby><rb>船玉様</rb><rt>ふなだまさま</rt></ruby>も女の神様でござんさあ、女のお客がよけいお乗りなすった時は、そうもいかねえが、一人っきりの時は、その女のお客様を上座へ据えて船玉様のお<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にいていただくんでさあ、船に乗った時だけは野郎の幅が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かねえんだから、ふしょうしておくんなせえな」

こう言われると年寄のお客、それは深川の炭問屋の主人だというのが<ruby><rb>納得</rb><rt>なっとく</rt></ruby>して、

「なるほど、そういうわけでしたか。そういうわけならば、さあ、おかみさん、こちらへおいで下さい、若い衆さんもここへおいでなさいましよ」

快く席を譲ってくれました。その<ruby><rb>因由</rb><rt>いわれ</rt></ruby>を聞いてみるとお角も、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いてそれを遠慮するような女ではありません。

「まあ、ほんとにお気の毒に存じます、では、船のえんぎでございますから、あとから参りまして、女のくせにお高いところで御免を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>ります。庄さん、お前もそれでは御免を蒙ってここへ坐らせていただいたらいいでしょう」

こんなわけで、座席の入れ替えが無事に済みました。お角はこの船の中で、神様から二番目の人にされてしまいました。

まもなくお角は、その隣席にいる例の深川の炭問屋の主人と好い<ruby><rb>話敵</rb><rt>はなしがたき</rt></ruby>になりました。

「どちらへいらっしゃいますね」

炭問屋の主人がまずこう言って尋ねると、お角がそれに答えて、

「はい、木更津から<ruby><rb>那古</rb><rt>なこ</rt></ruby>の観音様へ参詣を致し、ことによったら<ruby><rb>館山</rb><rt>たてやま</rt></ruby>まで参ろうと思うんでございます」

「ごゆさんでございますかね」

「そういうわけでもございません、少しばかり尋ねたい人がありまして」

「ははあ、なるほど」

炭問屋の主人は<ruby><rb>腮</rb><rt>あご</rt></ruby>を撫でて、ははあなるほどと言いましたけれども、それは別に見当をつけて言ったわけではありません。本来この女が今時分、房州あたりまでゆさんに出かけるはずの<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>でもないし、また、そちらの方に尋ねる人があってという言い分も、なんだかお座なりのように聞えます。と言って、今日はいつぞや甲州まで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百を追いかけて行ったような<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>でもなく、お供をつれておちつき払って構えているのは、何か相当の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたり</span>がなければならないはずです。すでに相当の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたり</span>があって出かける以上は、転んでも只は起きない女だから、何か一<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やま</span>当てて来るつもりなのでしょう。炭問屋の主人は、そこまで<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>してみようという気はありませんから、いつしか自分の案内知った房州話になってしまいました。

那古へ行くならば<ruby><rb>鋸山</rb><rt>のこぎりやま</rt></ruby>の<ruby><rb>日本寺</rb><rt>にほんじ</rt></ruby>へも参詣をするがよいとか、館山あたりへ行ってはどこの<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>が親切で、土地の人気はこうだというようなことを、お角に向って細かに案内をしてくれるのであります。お角がそれを有難く聞いていると、ほかの乗合までが、それぞれ口を出して、炭問屋の主人の案内の足らざるを補うものもあるし、また突込んで質問をはじめる者も出て来ました。はじめはお角と炭問屋の主人だけの房州話であったのが、今はお角をさしおいて、<ruby><rb>最寄</rb><rt>もよ</rt></ruby>りの人たちが炭問屋の主人を中に置いての房州話となりました。

その話のうちで最も多く一座の興味を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたのは、鋸山の日本寺の千二百<ruby><rb>羅漢</rb><rt>らかん</rt></ruby>の話でありました。その千二百羅漢のうちには必ず自分の思う人に似た首がある。誰にも知られないようにその首を取って来て、ひそかに供養すると願い事が<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>うという迷信から、近頃はしきりにあの羅漢様の首がなくなるという話が、誰やらの口から語り出されると、一座の興を湧かせます。

羅漢様の首を盗む者のうちには、妙齢の乙女もある。血の気に燃え立つ青年もある。わが子を失うて、その悲しみに堪えやらぬ母親もある。最愛の妻を失うた夫、夫を失うた妻もある。そうして一旦盗んで来た首をひそかに供養して、更に新しい胴体をつけて、また元へ戻すと、生ける人ならばその思いが叶い、死んだものならばその魂が浮ぶ……という話が興に乗った時分には、もう日が暮れて風がようやく強く、船が著しく揺れ出したように思われるけれど、話の興に乗った一座の人々は、それをさのみ気にする様子もなく、

「それからまた、<ruby><rb>芳浜</rb><rt>よしはま</rt></ruby>の茂太郎は、ありゃどうしましたろうね」

酒樽の蔭から、若いのがこう言いました。

「芳浜の茂太郎は、今あすこにはおりませんよ、あんまり<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>が過ぎたもんだから、なんでも清澄のお寺へ預けられてしまったということでござんすよ」

と答えるものがありました。

日本寺の千二百羅漢に次いで、芳浜の茂太郎なるものが多少でも問題になることは、それが何かの意味で土地の名物でなければなりません。

「エ、芳浜の茂太郎が、清澄のお寺へ預けられたんですって？」

それにいちばん驚かされたらしいのが、芳浜の茂太郎なるものとは、縁もゆかりもなかりそうなお角であったことは意外です。

「とうとう清澄のお寺へ預けられてしまったというこってす」

「そうですか、それは惜しいことをしましたね」

心から力を落したようなお角の言いぶりでしたから、

「おかみさん、あなたもあの子を御存じなんでございますか」

「エエ、ちっとばかり……」

「左様ですか」

炭問屋の主人が改めてお角の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見直しました。<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>房州あたりへは初めてであると言った人が、芳浜の茂太郎なるものを知っているということが、どうやら<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちなかったもののようです。

「その清澄のお寺とやらまでは、あれからまだよほどの道のりがあるんでございましょうか」

「そうですよ、遠いといったところが同じ房州のうちですから、<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>にしては知れたものですが、なにしろ、内と外になっておりますからな、道はちっとばかり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おっくう</span>なんでございますな、上総分で天神山というのへおいでなさると、あれから亀山領の方へかけて間道がありますんで、その間道をおいでになるのがよろしかろうと思いますよ。あの道は、昔、日蓮様なども清澄から鎌倉へおいでなさる時は、しょっちゅうお通りになった道だそうですから、それをお通りなさるのが芳浜からは順でございましょうよ。左様、里数にしたら六里もありましょうかな」

こんな話をしている時に、船が大きな音を立てて著しく揺れました。それは東南から<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>った風が波を捲いて、<ruby><rb>竜巻</rb><rt>たつまき</rt></ruby>のように走って来て、この船の横腹に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どう</span>と当って砕けたからです。

「エ、冷てえ」

薄暗い中に坐っていたものの幾人かが、ブルッと<ruby><rb>身慄</rb><rt>みぶる</rt></ruby>いをして、自分たちの肩を撫でおろしました。

## 四

それはいま砕け散った波のしぶきを多少ともにかぶったからのことで、その時に、はじめて海の風が穏かでないのみならず、天候もなんとなく険悪になっていたことを気のついた者もありました。左へ<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく揺れた船は、それだけ右へ押し戻されました。立っていた人は、よろよろとして帆柱の縄に身を支えて、危なく転げ出すことを免れたものもありました。

「おい、船頭さん、大丈夫かい、なんだか天気が危なくなったぜ、風がひどく<ruby><rb>吹募</rb><rt>ふきつの</rt></ruby>るじゃねえか」

船頭に向って駄目を押すものがありました。船の中にあっては船頭の<ruby><rb>一顰一笑</rb><rt>いっぴんいっしょう</rt></ruby>も、乗合の人のすべての心を支配することは、いつも変りがありません。

「ナニ、大したことはござんせんがね、これが<ruby><rb>丑寅</rb><rt>うしとら</rt></ruby>に変らなけりゃあ大丈夫ですよ。そんなことはありゃしませんよ。それでもこの分じゃ、ちっとばかり荒れますよ」

船頭はこう言って乗客の不安を抑えておいて、一方には<ruby><rb>水主</rb><rt>かこ</rt></ruby>の方へ向って、

「やい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つか</span>せてやれ、開いちゃ悪いぜ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まき</span>り直して乗り落すようにしねえと<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎがよくねえや、そのつもりでやってくれ、いいかい」

大きな声で怒鳴りました。

「おーい」

<ruby><rb>水主</rb><rt>かこ</rt></ruby>や<ruby><rb>荷揚</rb><rt>にあげ</rt></ruby>が腕を揃えて帆を<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>しにかかろうとする時に、<ruby><rb>飈弗</rb><rt>ひょうふつ</rt></ruby>として一陣の風が吹いて来ました。

「あ、こいつは堪らねえ」

その<ruby><rb>沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>を浴びた者が、荷物の蔭へ逃げ込むと、

「上からも落ちて来たようだぜ」

果して水は、横から吹きかけるのみではありません。

真暗になった<ruby><rb>天</rb><rt>そら</rt></ruby>から、パラパラと雨が落ちて来たのを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>った時分に、船は大きな丘に持ち上げられるような勢いで<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り出しました。そうして或るところまで持って行かれるとグルリ一廻りして、どうッと元のところへ戻されて行くようです。

「さあ、いけねえ」

乗合はそれぞれしっかりと、手近なものへ<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まりました。

「下へ降りておくんなさい、急いじゃ駄目だ、この綱へつかまって静かに、静かに」

船頭と<ruby><rb>親仁</rb><rt>おやじ</rt></ruby>は声を<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>らして乗客を一人一人、船の底へ移します。船の底の真暗な中へ移された二十三人の乗合は、そこで見えない<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をつき合せて、

「どうも、あたしゃ、この<ruby><rb>暴風</rb><rt>しけ</rt></ruby>というやつが<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>に合わねえのさ。だからいったい、船は嫌いなんですがね、都合がいいもんだから、つい、うっかりと乗る気になって、こんなことになっちゃったんでさあ。困ったなあ。どうでしょう、皆さん、間違いはありゃしますまいねえ」

おどおどした声で不安を訴えるものがあると、また一方から、

「なあに、大したことがあるもんですか、どっちへ転んだって<ruby><rb>内海</rb><rt>うちうみ</rt></ruby>じゃございませんか、これだけの船が、内海で間違いなんぞあるはずのものじゃございませんよ」

存外おちついた声でそれをなだめるものもあります。

「ですけれどもねえ、内海だからといって風や波は、別段にやさしく吹いてくれるわけじゃありますまいからね。昔、<ruby><rb>日本武尊様</rb><rt>やまとたけるのみことさま</rt></ruby>が大風にお遭いになったのはこの辺じゃございますまいか。あの時だってあなた……あの通りの荒れでござんしょう」

情けない声をして、太古の歴史までを引合いに出してくるから、

「ふ、ふ、ふ、あの時はあの通りの荒れだったといったってお前さん、あの時の荒れを見て来たわけじゃござんすまい、第一あの時代と今日とは、船が違いまさあ、船が……」

と言った時に、その船が前後左右からミシミシミシと<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み立てられる音に、一同が鳴りを静めてしまいました。

暫らくは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うんが</span>の声を揚げる者がありませんでした。外はどのくらいの荒れかわからないが、今まで木の葉のように<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ばれていた船が、グルグルと廻りはじめたかと思うと、急にひとところに停滞して、何物かに揉み砕かれているらしい物音です。

そこで、「船が……」と言ったものから真先に口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでしまって真暗な中に、おのおの<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の色を変えたが、幸いに、船は揉みほごされて<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>りを取られたように、真一文字に走り出したらしい。どこへ走り出すのか知らないが、ともかく、揉み砕かれるよりは走り出したのが、いくらかの気休めにはなったと見えて、

「船は違いましょうけれど、風は昔も今も変りませんからね」

今度は誰も返事をする者がありません。船は、やはりミシミシと音を立てながら、矢のように進んで行くらしい。

「いよいよという時は、なんだってじゃあありませんか、みんな、それぞれ持っているいちばん大切なものを一品ずつ海の中へ投げ込むと、それで風が静まるというじゃありませんか。身につけた大切なものを、わだつみの神様に捧げると、それで難船がのがれるというじゃありませんか。もし、そういうことになったら、私共あ、私共あ……」

その時に、甲板の上、ここから言えば天井の一角から、不意に<ruby><rb>強盗</rb><rt>がんどう</rt></ruby>が一つ、この船室へつりさげられて来ました。それは鉄の輪を以て幾重にもからげて、どっちへ転んでも、壊れもしなければ油もこぼれないように工夫してある強盗が、天井の一角から下って来ると、その光を真下に浴びていたお角の姿がありありと浮き出して、二十余人の他の乗合は、影法師のように真黒くうつッて見えます。

「風が変った、<ruby><rb>丑寅</rb><rt>うしとら</rt></ruby>が<ruby><rb>戌亥</rb><rt>いぬい</rt></ruby>に変ったぞ、気をつけろやーい」

船の上では船員が、挙げてこの恐ろしい突発的の暴風雨と戦っています。こう言って悲痛な叫びを立てた船頭の声は、山のような高波の下から聞えました。

<ruby><rb>水主</rb><rt>かこ</rt></ruby>も<ruby><rb>楫取</rb><rt>かじとり</rt></ruby>もその高波の下を潜って、こけつ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びつ、船の上をかけめぐっていたのが、この時分には、もう疲れきって、帆綱にとりついたり、荷の蔭に<ruby><rb>突伏</rb><rt>つっぷ</rt></ruby>したりして、働く気力がなくなっていました。事実、もう、積荷を保護しようの、船の方向を誤るまいのという時は過ぎて、飛ぶだけのものは飛ばしてしまい、投げ込むほどのものは投げ込んでしまい、船の甲板の上は、ほとんど洗うが如くでありました。

ただ船の上にもとのままで残っているのは、帆柱一本だけのようなものです。けれども、こうなってみると、その帆柱一本が邪魔物です。その帆柱一本あるがために、よけいな風を受けて、船全体が帆柱に引きずり廻されているような形になります。ただ引きずり廻されるのみならず、それがために、ほとんど船が<ruby><rb>覆</rb><rt>くつが</rt></ruby>えるか、または引裂けるように、帆柱のみがいきり立って動いているとしか思われません。順風の時は帆を張って、船の進路を支配する大黒柱が、こうなってみると、船そのものを<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いつくさねば<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むまじきもののように狂い出しています。

船の底では、たかが内海だと言って気休めのようなことを言っていたが、上へ出て見れば、内も外もあったものではありません。

風はもとより、内と外とを境して吹くべきはずはないが、海もまた、内と外とを区別して怒っているものとも覚えません。いったい、どこをどう吹き廻され、或いは吹きつけられているのだか、ただ真暗な天空と、<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>え立てる風と、<ruby><rb>逆捲</rb><rt>さかま</rt></ruby>く波の間に<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>されているのだから、海に慣れた船人、ことに東西南北どちらへ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れても大方見当のつくべき海路でありながら、さっぱりその見当がつかないのであります。ややあって、

「やい、外へ出ろ、外へ出ろ、<ruby><rb>只事</rb><rt>ただごと</rt></ruby>じゃねえぞ、お姫様の<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りだ。さあ、帆柱を叩き切るんだ、帆柱を。斧を持って来い、斧を二三挺持って来い。それから、<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>と<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をいくらでもさらって来い、そうして、左っ手の垣根から<ruby><rb>船縁</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>をすっかり<ruby><rb>結</rb><rt>ゆわ</rt></ruby>いちまえ、いよいよの最後だ、帆柱を切っちまうんだ」

帆柱の下で躍り上って、<ruby><rb>咽喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>の裂けるほどに再び叫び立てたのは船頭です。ひとしきり烈しく吹きかけた風が、帆柱を弓のように、たわわに曲げて、船は<ruby><rb>覆</rb><rt>くつが</rt></ruby>えらんばかり左へ傾斜しながら、<ruby><rb>巴</rb><rt>ともえ</rt></ruby>のように廻りはじめました。この声に応じて、

「おーい、おーい」

むくむくと、波風を潜って、一人、二人、三人、四人、船頭の許まで腹這いながら<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せつけて来ます。走せつけて来た彼等は船頭の耳へ口をつけ、船頭は手を振り、声を<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>らして、何事をか差図をします。やがて、これらの船人はまた右往左往に船の上を走りました。或る者は<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をさらって左手の垣へ当てて結え、或る者は筵をかかえて船縁へ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りつく。

この間に、帆柱からやや離れて<ruby><rb>上手</rb><rt>かみて</rt></ruby>へ廻った背の高いのが、<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>に斧を振り上げて、帆柱の眼通り一尺下のあたりへ、かっしと打ち込む。

風下にそれを受けた、背の低いのが、それより五寸ほどの下をめがけて、かっしと打ち込む。両々この<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>の中で斧を鳴らして、かっしかっしと帆柱へ打ち込みます。暴風雨はいつか二人の腰を吹き倒して、二人は幾度か転げ、転げてはまた起き直り、かっしかっしと打ち込んではまた転びます。

やがて背の高いのが、斧を投げ捨てたと見ると、腰に差していた脇差を抜いて、はっしはっしと帆綱に向って打ち下ろすと、斧で打ち込んでおいた帆柱の切れ目が、メリメリと音を立てて柱は風下へ、さきに<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>や<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を巻きつけておいた<ruby><rb>船縁</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>へ向って、やや斜めに<ruby><rb>摚</rb><rt>どう</rt></ruby>と落ちかかりました。

こうして船の底へ下りて来た船頭の姿を見ると、真黒くなって<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いていた二十余人の乗合は、一度に<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を上げて、

「おい、船頭さん、いったいどうなるんだね、ここはどこいらで、船はどっちへ走ってるんだね、大丈夫かね、間違いはないだろうね」

「皆さん、お気の毒だがね……」

「エ！」

「今日の<ruby><rb>暴風</rb><rt>しけ</rt></ruby>は只事じゃあございませんぜ、永年海で苦労した<ruby><rb>俺共</rb><rt>わっしども</rt></ruby>にも見当がつかなかったくれえだから、こりゃ海の神様の<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りに違えねえ」

「エ！」

「もう船の上で、やるだけの事はやっちまいましたよ、積荷もすっかり海へ投げ込んでしまった、わっしどもも<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>を切ってしまった、帆柱も叩き切っちまった、そうして船はもう<ruby><rb>洲崎沖</rb><rt>すのさきおき</rt></ruby>を乗り落してしまった」

「何だって？　洲崎沖を乗り落したんだって？　それじゃあ、もう外へ出たんだな」

「うむ、もうちっとで外へ出ようとして、巴を捲いているんだ」

「南無阿弥陀仏」

中から一人、跳り上って念仏を唱えるものがありました。それを音頭として、つづいて題目を声高らかに唱え出すものがあります。<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>かまわず<ruby><rb>喚</rb><rt>わっ</rt></ruby>と声を上げて泣き立てる者もありました。

「まあまあ、皆さん、まだ脈はあるんだからお静かになせえまし、気を<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>めておいでなさいよ……ここでひとつ、一世一代の御相談が始まるんだ。というのはね、今いう通り、どうもこりゃあ人間業じゃあござんせんよ、たしかに海の神様に見込まれたものがあるんだ、それで、海の神様が、いたずらをなさるんだから、海の神様をお鎮め申さなけりゃ、この難を<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>れっこなし。海の神様というのは、竜神様のことよ。こりゃあ今に始まったことじゃねえのさ、大昔の日本武尊様でさえ、この神様につかまっちゃあ、ずいぶん悩まされたもんだ。だから、その海の神様に何か差上げなけりゃア、この御難は逃れっこなし。どうです皆さん、気を揃えて、ひとつその相談に乗っておくんなさいまし」

<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>に打たれたままの<ruby><rb>赤裸</rb><rt>あかはだか</rt></ruby>で、腰帯に一挺の斧を挿んで、仁王の立ちすくんだような船頭が、思いきった顔色をしてこう言って相談をかけると、

「いいとも、いいとも、今もそのことで<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>をしていたところだ、難船の時には、自分の身についているいちばん大事なものを海へ投げ込むと、竜神様のお腹立ちがなおるということだから、わたしゃあもう、この胴巻ぐるみ投げ込むことに、こうしてちゃんと<ruby><rb>了見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>をきめてるんですよ」

「わたしゃあまた、ここに持っているこの金ののべの<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>が、親ゆずりで肌身はなさずの品でござんすが、これをわだつみの神様に奉納するつもりで、こうして出して置きますよ」

「わしゃまた……」

「まあ待って下さい、皆さん、そんな物を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めて投げ込んでみたって、この荒れは静まらねえよ」

「それじゃ、どうすればいいんだ」

「この船でいちばん大切なものを、たった一つ投げ込めばそれでいいでさあ」

「エエ！　この船でいちばん大切な、たった一つの物というのは、そりゃ何だ」

「それがなあ……お気の毒だがなあ……」

と言って船頭は<ruby><rb>強盗</rb><rt>がんどう</rt></ruby>をかざして、凄い眼をしてお角の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をじっと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みながら、

「<ruby><rb>人身御供</rb><rt>ひとみごくう</rt></ruby>ということですよ」

「エ、人身御供？」

「昔、日本武尊様が、この海で難儀をなすった時の話だ、<ruby><rb>橘姫様</rb><rt>たちばなひめさま</rt></ruby>という女の方が、お身代りに立って海へ飛び込んだことは先刻御承知でござんしょう、それがために<ruby><rb>尊様</rb><rt>みことさま</rt></ruby>をはじめ、乗合の家来たちまで、みんな命が助かったのだ、つまり橘姫様のお命一つで、船の中の者が残らず救われたんだ、だから……」

船頭がお角の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見つめたままでこう言いかけた時に、お角は<ruby><rb>颶風</rb><rt>つむじかぜ</rt></ruby>のように身を起して、

「だから、どうしようと言うの、だから、わたしをどうかしようと言うの」

お角の船頭を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ眼もまたものすごいものでありました。それでも船頭はやっぱりお角を睨み返しながら、

「いや、お前さんをどうしようというわけじゃあございません、お前さんの量見に聞いてみてえんでございます」

「エ、わたしの量見ですって？　わたしの量見を聞いてどうするの」

「この船の中で、女のお客はお前さんだけなんですね、今まで女一人のお客というのはなかったこの船に、今日に限ってお前さんが乗り込むとこの通りの<ruby><rb>暴風</rb><rt>しけ</rt></ruby>だ」

「それがどうしたの、それじゃあ、わたしが一人でこの暴風を起しでもしたように聞えるじゃないか」

「お前さんが暴風を起したんじゃないけれど、お前さんがいるために暴風が起ったようなものだ」

「何ですと、わたしが暴風を起したんじゃないけれど、わたしがいるために暴風が起ったようなものですって？　同じことじゃないか、それじゃあ、やっぱり、わたし一人がこの暴風を起したということになるんじゃないか、ばかばかしいにも程があったものさ」

外の<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>よりも船頭の言い分が、お角にとっては決して穏かに聞えませんでしたから、<ruby><rb>躍起</rb><rt>やっき</rt></ruby>となって抗弁しました。

「船頭さん、お前、なんだかおかしなことを言い出したね」

お角に附添って来た庄さんという若い男も、<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>り兼ねて喧嘩腰になりました。

「いいや、おかしいことじゃねえのです、今日に限ってこんなことになるのは、こりゃあ<ruby><rb>必定</rb><rt>てっきり</rt></ruby>、船の中に見込まれた人があるのだ、その見込まれたというのはほかじゃねえ、船ん中でたった一人の女のお客様を、海の神様が<ruby><rb>嫉</rb><rt>そね</rt></ruby>んで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>をなさるに違えねえのだから、お気の毒だがその人に出て行って、海の神様にお<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びがしてもらいてえのだ。なにも、こりゃ俺が無慈悲でいうわけじゃありませんよ、船の乗合みんなの衆のためですよ、もし、お前さんがみんなの衆の命を助けてやりてえという思召しがあるんなら、あの大昔の、あの橘姫の<ruby><rb>命様</rb><rt>みことさま</rt></ruby>の思召しのように……」

と船頭がここまで言い出すと、お角は<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えられません。

「おっと、待っておくれ、待っておくれ、<ruby><rb>人身御供</rb><rt>ひとみごくう</rt></ruby>というのはそのことかね、つまり、わたしにその大昔の橘姫の命様とやらの真似をしろとおっしゃるんだね」

「それよりほかには、この<ruby><rb>難場</rb><rt>なんば</rt></ruby>を逃れる道がねえのだから、お前さんにはお気の毒だが、乗合の衆のためだ。ねえ、皆さん、この船頭の言うことが不条理かエ」

「…………」

「ここで人身御供が上らなけりゃあ、みすみす三十何人の乗合が残らず<ruby><rb>鱶</rb><rt>ふか</rt></ruby>の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>になってしまうのだ、それでようござんすかエ」

船頭はこう言って、乗合の者の頭の上をずらりと見渡したけれど、誰あってこれに返答する間もなく、お角は<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>り立ちました。

「ふざけちゃいけないよ、やい、ふざけやがるない、こんな<ruby><rb>暴風</rb><rt>しけ</rt></ruby>が起ったのは時の災難だよ、なにもわたしが船に乗ったから、それで暴風が起ったんじゃないや。船に女が一人乗り合せたのがどうしたんだい、はじめのうちは船は女の物だの、正座を張れのと、さんざん人を<ruby><rb>煽</rb><rt>おだ</rt></ruby>てておいて、この<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>になると、みんなわたしにかずけて、<ruby><rb>人身御供</rb><rt>ひとみごくう</rt></ruby>に海へ沈んでくれとはよく出来た。そりゃ昔の橘姫というお方と、わたしたちとはお人柄が違わあ、第一、この中に日本武尊様ほどのお方がいらっしゃるならお目にかかろうじゃないか、みんな自分たちの命が助かりたいから、それで、わたし一人を人身御供に上げようと言うんだろう、虫のいい話さ、ばかにしてやがら。<ruby><rb>雑魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby>の餌食になろうとも、<ruby><rb>我利我利亡者</rb><rt>がりがりもうじゃ</rt></ruby>の手前たちの身代りになって沈めにかかるような、そんなお安いお角さんじゃないよ。死なばもろともさ、乗合が一人残らず一緒に行くんでなけりゃ、<ruby><rb>冥途</rb><rt>めいど</rt></ruby>の道が淋しくってたまらないよ」

「おかみさん、もうこうなりゃ、ジタバタしたって仕方がねえ」

船頭は<ruby><rb>猿臂</rb><rt>えんぴ</rt></ruby>を伸べて、お角の二の腕をムズと<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みます。

「おや、わたしを掴まえてどうしようというの」

お角は、船頭に掴まった二の腕を烈しく振りほどいて、血相を変えると、

「野郎、おかみさんをどうしようと言うんだ」

附添の若い男が、お角を<ruby><rb>掩護</rb><rt>えんご</rt></ruby>するつもりで、船頭に武者ぶりついたけれど、腰が定まらないのに船頭の一突きで、無残に突き飛ばされて起き上ることができません。

船頭に掴まった二の腕を烈しく振りほどいたお角は、そのまま荷物と人の頭とを跳り越えて外へ飛び出しました。

この時分、甲板へ飛び出すことの危険は、人身御供になることの危険と同じようなものであることはわかっているけれど、この女はそれを危ぶんでいるほどの余裕がなかったものらしくあります。

若い男を突き飛ばしておいた船頭は、腰に差していた斧を無意識に抜き取って、右の手に<ruby><rb>引提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げたまま、透かさずお角の後を<ruby><rb>追蒐</rb><rt>おっか</rt></ruby>けました。

乗合全体は総立ちになる途端に、大揺れに揺れた船が何かに触れて、<ruby><rb>轟然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>たる音がすると、そのはずみで残らず、<ruby><rb>摚</rb><rt>どう</rt></ruby>とぶっ倒されてしまいました。

「わーっ、水、水、水が……」

そこで名状すべからざる混乱が起って、残らずの人が<ruby><rb>七顛八倒</rb><rt>しちてんばっとう</rt></ruby>です。七顛八倒しながら、かの上り口のところへ押しかけて、前にお角と船頭とがしたように、先を争うて甲板の上へ走り出そうとして、押し合い、へし合い、蹴飛ばされ、踏み倒され、泣き<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いて狂い廻ります。船の外は真暗な天地に、<ruby><rb>囂々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>と<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>ゆる風と波とばかりです。船は木の葉のように<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ばれて、すでに振り飛ばすべきものの限りは振り飛ばしてしまいました。綱を増した<ruby><rb>碇</rb><rt>いかり</rt></ruby>も<ruby><rb>引断</rb><rt>ひっき</rt></ruby>られてしまい、唯一の帆柱でさえも、目通りのあたりから切り折られてしまった坊主船は、真黒な海の中で、跳ね上げられたり、打ち落されたり、右左にいいように揉み立てられ、<ruby><rb>散々</rb><rt>さんざん</rt></ruby>に翻弄されて、それでもなお残忍な波濤の間に、残骸を見せつ隠しつしている有様です。

尋常では腰の定まるべくもないこの場合の甲板の上を、転びもせずに、吹き荒れる雨風をうまく調子を取って、ひらりひらりと物につかまりながら走って来るのは、むかし取った<ruby><rb>杵柄</rb><rt>きねづか</rt></ruby>ではなく、むかし鍛えた軽業の身のこなしでもあろうけれど、この女の勝気がいちずに、不人情を極めた手前勝手な船頭の手から逃れて、これに反抗を試みようとして、思慮も分別も不覚にさせてしまったものと見るほかはありません。

片手に斧を引提げて、こけつまろびつ、それを後ろから追いかける船頭とても、本来が決してさほどに、不人情でも、手前勝手でもあるわけではなく、ただ危険が<ruby><rb>間髪</rb><rt>かんはつ</rt></ruby>に迫った途端に、その日ごろ持っている海の迷信が逆上的に働いて、こうせねば船のすべてが助からぬ、こうすれば必ず助かるものだと思い込ませたその魔力がさせる<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>でありましょう。

けれども、つづいて先を争うて甲板の上へハミ出した、二人のほかの乗合は無残なものでありました。出ると直ぐに大風に吹き飛ばされて、或る者は切り残された帆縄につかまって助けを呼び、或る者は船の垣根の板に必死にとりすがって海へさらわれることをさけ、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて帆柱の方へ<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>って行く者も、雨風に息を塞がれて、助けを呼ぶの声さえ立てることができません。

真先に、かの切り残された帆柱の切株にすがりついたお角は、

「さあ、こうしていれば、わたしゃこの船の船玉様さ、指でもさしてごらん、<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>が当るよ。乗合がみんな死んで、わたし一人が助かるんだろう。いやなこった、いやなこった、人身御供なんぞは御免だよ」

こう言って<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じき<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>を切ったけれども、<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>むべし、このとき吹き<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>った大波は、お角のせっかくの啖呵を半ばにして、船もろともに呑んでしまいました。

## 五

その翌日の朝は、風の<ruby><rb>名残</rb><rt>なご</rt></ruby>りはまだありましたけれど、雨もやみ、空も晴れて、昨夜の<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>はどこへやらという天気であります。

<ruby><rb>洲崎</rb><rt>すのさき</rt></ruby>の、もと砲台の下のいわの上に立って、しきりに<ruby><rb>遠眼鏡</rb><rt>とおめがね</rt></ruby>で見ている人がありました。

「清吉」

「はい」

「お前の眼でひとつこの遠眼鏡を見直してもらいたい、拙者の眼で見ては、どうも人の姿のように見える」

「お前様の眼で見て人間ならば、わたしの眼で見ても、やっぱり人間でございましょうよ」

と言って、清吉と呼ばれた若い男が、<ruby><rb>巌</rb><rt>いわ</rt></ruby>の上に立っていた人から遠眼鏡を受取りました。受取って危なかしい手つきをしながら、眼のふちへ持って行って、

「なるほど、人間でございますね、人間が一人、浜の上へ波で打ち上げられているようですね」

「もし、そうだとすれば、このままには捨てて置けない」

と言って、再び清吉の手から遠眼鏡を受取った巌の人は、駒井甚三郎でありました。前に甲府城の勤番支配であった駒井能登守、後にバッテーラで石川島から乗り出した駒井甚三郎であります。

あの時に、吉田寅次郎の二の舞だといって、横浜沖の外国船へ向けてバッテーラを漕ぎ出させて行ったはずの駒井甚三郎が、こうして房州の西端、洲崎の浜に立っていることは意外であります。

それで<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>にいる清吉と呼ばれた男も、あの時バッテーラの<ruby><rb>艪</rb><rt>ろ</rt></ruby>を押していた男であります。二人はあの時、目的通りに外国船へ乗り込むことができなかったものと思われます。外国船へ乗り込むことができなかったものとすれば、いつのまにここへ来てなにをしているのだろう。しかし、いまはそれらを調べるよりは、遠眼鏡の眼前に横たわる人の形というものが問題です。昨夜あれほどの暴風雨であってみれば、海岸に異常のあるのはあたりまえで、それを検分するがために、甚三郎は遠見の番所から出て、わざわざ遠眼鏡をもって、この巌の上に立っているものと思わなければならないのです。

「そうですね、行ってみましょうか」

清吉が鈍重な口調で、甚三郎の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をうかがうと、甚三郎は遠眼鏡を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して片手に提げ、

「行こう」

「おともを致しましょう」

そうして二人は巌の上から駆け下りました。甚三郎は王子の火薬製造所にいた時以来の散髪と洋装で、清吉もまた<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>を取払って、陣羽織のような洋服をつけています。二人とも、足につけたのは<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>でも下駄でもなく、珍らしい洋式の柔らかい長靴でありました。

二人ともこうして砲台下を南へ下りて、海岸づたいに走り出しました。

「<ruby><rb>平沙</rb><rt>ひらさ</rt></ruby>の浦は<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>でも浪の荒いところですから、あんな<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>の晩に、一つ間違うと大変なことになりますね」

「左様、平沙の浦には<ruby><rb>暗礁</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>が多いから、晴天の日でも、ああして波のうねりがある、漁師たちも恐れて近寄らないところだが、もし、あれが人間であるとすれば、洲崎沖あたりで船が沈み、それが岸へ吹寄せられたものであろう、おそらく土地の漁師などではあるまい」

「そうでしょうかね、もし、房州通いの船でも沈んだんじゃないでしょうか」

「或いはそうかも知れん」

遠見の番所の下から、洲崎の鼻をめぐって走ること五六町。

「ああ、やっぱり人だ」

「なるほど、人間ですね」

二人は、その見誤らなかったことを喜びもし、また悲しみもし、その浜辺に打上げられた人間のところをめがけて、飛ぶように<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せつけました。

磯に打上げられている人間は、女でありました。もとよりそれは息が絶えておりました。着物も乱れておりました。肌もあらわでありました。けれども、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>そのものは極めて無事なのであります。それは波に打上げられたというよりは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そっ</span>と波が持って来て、ここへ置いて行ったという方がよろしいと思われるくらいであります。

もし、昨夜の暴風雨が、この沖を通う船を砕いて、その乗合の一人であったこの女だけをここへ持って来たものとすれば、それは特別念入りの波でなければなりません。そうでなければ海とは全然違ったところから、何者かがこの女を<ruby><rb>荷</rb><rt>にな</rt></ruby>って来て、寝かして行ったものと思わなければならないほど、安らかに置かれてあるのであります。さりとて一見しただけでも、これはこの辺にザラに置かれてあるような女ではありませんでした。

「女ですね、江戸あたりから来た女のようですね、ここいらに住んでいる女じゃありませんね」

鈍重な清吉もまた、それと気がつきました。

「うむ、昨晩、沖を通った船の客に相違ないが、しかし……それにしては無事であり過ぎる」

駒井甚三郎は、ずかずかと立寄って、横たわっている女の身体をじっとながめました。髪の毛はもうすっかり乱れていましたが、右手はずっと投げ出して、それを手枕のようにして、左の手は大きく開いているから、真白な胸から乳が、ほとんど<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>わです。けれども、帯だけはこうなる前に心して結んでおいたと見えて、その帯一つが着物をひきとめて、女というものの総てを保護しているもののようです。

駒井甚三郎は腰を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて、女の胸のあたりに手を入れました。

「どうでしょう、まだ生き返る見込みがあるんでございましょうか」

清吉は気を揉んでいます。

「絶望というほどじゃない、生き返るとすれば不思議だなあ」

駒井甚三郎は、まだ女の乳の下に手を置いて、小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げています。

「不思議ですねえ」

清吉も同じように、首を傾げると、

「平沙の浦の海は、全く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>者だ」

駒井甚三郎は何の意味か、こう言って微笑しました。

「エ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>者ですか」

清吉は、何の意味だがわからないなりに、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をすると、

「うむ、平沙の浦の波は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>者とは聞いていたが、これはまたいっそう皮肉であるらしい」

「皮肉ですかね」

清吉には、まだよく呑込めません。

「そうだとも、あの暴風雨の中で、波の中の一組だけが別仕立てになって、ここまで特にこの女だけを持って来て、そーっと置いて帰ってしまったところなどは、皮肉でなくて何だろう。見給え、どこを見てもかすり傷一つもないよ、着物も形だけはひっかかっているし、帯も結んだ通りに結んでいる、水も大して呑んじゃいない」

駒井甚三郎は、女そのものを救おうとか、助けなければならんとかいう考えよりは、こうまで無事に持って来て、置いて行かれたことの不思議だか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>だか、波に心あってでなければ、とうてい為し難い仕事のように思われることに好奇心を動かされて、ほとほと<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れているようです。

この時分になって清吉も、漸く知恵が廻って来たらしく、

「そうですね、ほんとにわざっとしたようですね」

と言いました。

「ともかく、早くこれを番所まで連れて行って、手当をしようではないか」

「エエ、わたしが<ruby><rb>背負</rb><rt>おぶ</rt></ruby>って参ります」

清吉は女の手を取って引き起し、それを肩にかけました。

## 六

それから三日目の夕暮のことでした。駒井甚三郎は鳥銃を肩にして、<ruby><rb>西岬村</rb><rt>にしみさきむら</rt></ruby>の方面から、<ruby><rb>洲崎</rb><rt>すのさき</rt></ruby>の遠見の番所へ帰って見ると、まだ<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>がついておりません。こんなことには極めて<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>である清吉が、今時分になって燈火をつけていないということは異例ですから、甚三郎は家の中へ入ると直ちに言葉をかけました。

「清吉、燈火がついていないね」

けれども返事がありません。甚三郎の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>には一種の不安が漂いました。まず、自分の部屋へ入って<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>をつけました。この部屋は、甲府の城内にいた時の西洋間や、滝の川の火薬製造所にいた時の研究室とは違って、尋常の日本間、八畳と六畳の二間だけであります。ただ六畳の方の一間が南に向いて、窓を押しさえすれば、海をながめることのできるようになっているだけが違います。

部屋の中も、昔と違って、書籍や模型が雑然と散らかっているようなことはなく、眼にうつるものは床の間に二三挺の鉄砲と、<ruby><rb>刀架</rb><rt>かたなかけ</rt></ruby>にある刀脇差と、柱にかかっている<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>の着替と、一方の隅におしかたづけられている測量機械のようなものと、それと向き合った側の六畳に、机腰掛が、おとなしく主人の帰りを待っているのと、そのくらいのものです。

それでも、いま<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けた蝋燭は、さすがに駒井式で、それは白くて光の強い西洋蝋燭であります。蝋燭を点けると、燭台ぐるみ手に取り上げた駒井甚三郎は、さっと窓の戸を押し開きました。窓の戸を開くと眼の下は海です。この洲崎の鼻から見ると、二つの海を見ることができます。そうして時とすると、その二つの海が千変万化するのを見ることもできます。二つの海というのは、内の海と外の<ruby><rb>洋</rb><rt>うみ</rt></ruby>とであります。内の海とは、今でいう東京湾のことで、それは、この洲崎と、相対する相州の三浦三崎とが外門を固めて、浪を穏かにして船を安くするのそれであります。外の<ruby><rb>洋</rb><rt>うみ</rt></ruby>というのは、<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>までつづく太平洋のことであります。ここの遠見の番所は、この二つの海を二頭立ての馬のように<ruby><rb>御</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>してながめることのできる、絶好地点をえらんで立てられたものと見えます。

甚三郎が蝋燭を片手に眺めているのは、その外の方の海でありました。内の海は穏かであるが、外の海は荒い。ことに、外房にかかる洲崎あたりの浪は、単に荒いのみならず、また<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る皮肉であります。船を捲き込んで沈めようとしないで、<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ぼうとする癖があります。<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>ろうとするものを<ruby><rb>誘</rb><rt>おび</rt></ruby>き込んで、それを活かさず殺さず、宙に迷わせて楽しむという癖もあります。試みに風<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>ぎたる日、<ruby><rb>巌</rb><rt>いわ</rt></ruby>の上に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで遠く<ruby><rb>外洋</rb><rt>そとうみ</rt></ruby>の方をながむる人は、物凄き一条の<ruby><rb>潮</rb><rt>うしお</rt></ruby>が渦巻き流れて、伊豆の方へ向って走るのを見ることができましょう。その潮は伊豆まで行って消えるものだそうだが、果してどこまで行って消えるのやら、漁師はその一条の波を「<ruby><rb>潮</rb><rt>しお</rt></ruby>の路」といって怖れます。

外の<ruby><rb>洋</rb><rt>うみ</rt></ruby>で<ruby><rb>非業</rb><rt>ひごう</rt></ruby>の<ruby><rb>最期</rb><rt>さいご</rt></ruby>を遂げた幾多の亡霊が、この世の人に会いたさに、<ruby><rb>遥々</rb><rt>はるばる</rt></ruby>の波路をたどってここまで来ると、右の「潮の路」が行手を遮って、ここより内へは一寸も入れないのだそうです。さりとてまた元の大洋へ帰すこともしないのだそうです。その意地悪い抑留を蒙った亡霊どもは、この洲崎のほとりに集まって、昼は消えつつ、夜は燃え出して、港へ帰る船でも見つけようものならば、恨めしい声を出してそれを呼び留めるから、海に慣れた船頭漁師も<ruby><rb>怖毛</rb><rt>おぞけ</rt></ruby>をふるって、一斉に<ruby><rb>艪</rb><rt>ろ</rt></ruby>を急がせて逃げて帰るということです。

こんな<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>の悪い洲崎下の外洋を見渡して、やや左へ廻ると、それが<ruby><rb>平沙</rb><rt>ひらさ</rt></ruby>の浦になります。

「平沙の浦は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>者だ」と、おととい駒井甚三郎がそう言いました。

平沙の浦も、その皮肉なことにおいては相譲らないが、それは洲崎の海ほどに荒いことはなく、かえって一種の茶気を帯びていることが、愛嬌といえば愛嬌です。

平沙の浦がする<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>のうちの第一は、舟を岸へ持って来ることです。ほかの海では、船を捲き込んだり、<ruby><rb>誘</rb><rt>おび</rt></ruby>き寄せたり、突き放したり、押し出したりして興がるのに、この平沙の海は、ずんずんと舟を岸へ持って来てしまいます。岸へ持って来て、いわに打ちつけるような手荒い振舞をせずに、砂の上へ、そっと置いて行ってしまいます。

このおてやわらかな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>は、幸いに船と人命をいためることはありませんが、船と人を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てこず</span>らせることにおいては、いっそ一思いに打ち壊してしまうものより、遥かに以上であります。

平沙の浦の海へ入って見ると、下には恐ろしい暗礁が幾つもあって、海面は晴天の日にも、大きなうねりが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のた</span>打ち廻っている。漁師たちはそのうねりを「お見舞」と<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>えて、怖れています。いい天気だと思って、安心して舟を遊ばせていると、いつのまにか、この「お見舞」がもくもくと舟を打ち上げて来ます。その時はもう遅い。舟は大きなうねりに乗せられて、岸へ岸へと運ばれてしまう。帆はダラリと垂れてしまって、<ruby><rb>舵</rb><rt>かじ</rt></ruby>はどう<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>っても利かない。そうしているうちに舟と人とは、砂の上へ持って来て、そっと置いて行かれてしまいます。

その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>な平沙の浦の海をながめていた駒井甚三郎は、ふいと気がついて、

「そうだそうだ、あの婦人はどうしたろう、今日はまだ見舞もしなかったが、清吉がいないとすれば、誰も看病の仕手は無いだろう、<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>もついてはいないようだし」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いて窓を締め、蝋燭を手に持ったままで、壁にかけてあった<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を取り下ろしてその蝋燭を入れ、部屋を出て縁側から下駄を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて番小屋の方へ歩いて行きました。小屋の戸を難なくあけて見ると、中は真暗で、まだ戸も締めてないから、障子だけが薄ら明るく見えます。

「清吉は居らんな」

甚三郎は駄目を押しながら、その提灯を持って座敷へ上ると、そこは六畳の一間です。その六畳一間の燈火もない真暗な片隅に、一人の病人が寝ているのでした。

その病人の<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>へ提灯を突きつけた駒井甚三郎は、

「眠っておいでかな」

低い声で呼んでみました。

「はい」

微かに結んでいた夢を破られて、向き直ったのは女です。かの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>な平沙の浦の磯から拾って来た女であります。

「気分はよろしいか」

甚三郎は提灯を下へ置いて、蝋燭を丁寧に抜き取って、それを手近な燭台の上に立てながら、女の<ruby><rb>容体</rb><rt>ようだい</rt></ruby>をうかがうと、

「ええ、もうよろしうございます、もう大丈夫でございます」

はっきりした返事をして、女は駒井甚三郎の姿を見上げました。

「なるほど、その調子なら、もう心配はない」

甚三郎もまた、女の声と血色とを蝋燭の光で見比べるように、燭台をなお手近く引き出して来ると、

「もし、あなた様は……」

急に昂奮した女の言葉で驚かされました。

「ええ、なに？」

甚三郎が、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と女の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見直すと、

「まあ<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ない、あなた様は、甲府の御勤番支配の殿様ではいらっしゃいませんか」

女は床の上から起き直ろうとしますのを、

「まあまあ静かに。甲府の勤番の支配とやらの、それがどうしたの」

甚三郎は、女の昂奮をなだめようとします。

駒井甚三郎は、ここでこの女から、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの前身を聞かされようとは思いませんでした。女をなだめながら、もしやとその<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を熟視しましたけれども、どうも心当りのある女とは受取ることができません。

「わたくしは、あの時から殿様のお姿を決して忘れは致しません」

女は何かに感激しているらしい声でこう言いましたから、甚三郎は、

「あの時とは？」

「それはあの、甲州へ参ります小仏峠の下の、駒木野のお関所で……」

「ははあ、なるほど」

ここにおいて駒井甚三郎は、さることもありけりと思い当りました。そうそう、初めて甲州入りの時、一人の女が<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>になって、手形なしに関所を抜けようとして関所役人に食い留められた時、駒井能登守の情けある計らいで、わざと目的地の方の木戸へ追い出させたことがある。それだ、その女だなと思いましたから、

「拙者はトンとお見忘れをしていた。そなたは、あれから無事に、尋ねる人を探し当てましたか」

「はい、おかげさまで……かなり長い間、甲州におりました。その間も、よそながら殿様のお姿をお見かけ申しました。一度、お訪ね申し上げて、あの時のお礼を申し上げたいと思わないではありませんでしたが、何を言うにもこの通りの<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しい女、恐れ多い気が先に立つばかりで、ついつい御無沙汰を致してしまいました」

「それを承ってみると、縁というものは不思議なものじゃ。拙者も今は、こんなふうに変っているが、そなたはまたどうして、あのような目に遭われた」

「それをお話し申し上げると長いのでございますが、この房州の芳浜というところまで、人を雇いに参ったのでございます、その途中、舟が<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>に遭いまして、わたしが、いちばんヒドい目に遭わされるところでしたが、そのヒドい目に遭わされようとしたわたくしだけが助かって、こうして殿様のお世話になっているのかと思うと、ほんとに何かのお引合せのように思われてなりません」

「しかし、よく助かったものじゃ、拙者も自分ながら不思議に堪えられない」

「今朝になりまして、清吉さんから、わたくしをお助け下された委細のお話をお聞きしまして、わたしは、ほんとうに神様に守られているんじゃないかと、<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>なくて、涙がこぼれてしまいました」

「ところで、その清吉が見えないが……何とかいうて出て行きましたか」

「いいえ、お<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>少し前までここにお見えになりましたが、それから、わたくしは今まで眠っておりました故、何も存じませぬ」

「はて……」

甚三郎は、いよいよ清吉のことが不安になってきました。

そうして、次の一本の蝋燭に火をうつして、それをまた提灯に入れ、

「淋しかろうが、そなたは一人で、暫らくここに留守している気で待っていてくれるように。拙者はこれから清吉を<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>して参る」

「まあ、ほんとにあのお方はどちらへおいでになったのでしょう……いえ、もうわたしも起きられます、どうぞ、お心置きなく。どんなところにおりましても、淋しいなんぞと決して思いは致しません。歩けさえ致せば、わたしもお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>を致すのですけれど」

「ちょっと、その辺の様子を見て、ことによると<ruby><rb>碇場</rb><rt>いかりば</rt></ruby>まで行って来る、その間に、もし清吉が帰ったならば、そのように申してくれるよう」

「<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まりました」

甚三郎は病人のお角にあとを頼んで、提灯をつけて外へ立ち出でました。

駒井甚三郎が出て行ったあとのお角には、夢のように思われてなりません。

甲州城の勤番支配として、<ruby><rb>隆々</rb><rt>りゅうりゅう</rt></ruby>たる威勢で乗り込んだ駒井能登守その人を、こんな方角ちがいの<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>なところで、こうしてお目にかかろうということは、夢に夢見るようなものです。

あの<ruby><rb>凜々</rb><rt>りり</rt></ruby>しい、水の<ruby><rb>垂</rb><rt>したた</rt></ruby>るような若い殿様ぶりが、今は頭の髪から着物に至るまで、まるで打って変って異人のような姿になり、その上に昔は、仮りにも一国一城を預かるほどの格式であったが、今は、見るところ、あの清吉という男を、たった一人召使っているだけであるらしい。その一人の男の姿が見えなくなると、御自分が提灯をさげて探しに出て行かねばならないような、今の御有様は、思いやると、おいとしいような心持に堪えられない。

このお<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>とても、決して三千石の殿様の御別荘とは受取れない。ほんの仮小屋のようなものとしかお見受け申すことはできない。僅かの間に、どうしてこうも<ruby><rb>落魄</rb><rt>おちぶ</rt></ruby>れなさったのだろう。お角は、そのことを考えると、ふいに頭に浮んで来たのは、同じく甲州城内に重き役目をつとめていた神尾主膳のことであります。

駒井能登守様が、甲州城をお引上げになると、まもなく神尾の殿様も江戸へお引取りになった。神尾へはその前後に亘ってお角は始終出入りをしている。それで酔った時などに甲州話が出ると、神尾主膳は、きっと駒井能登守の<ruby><rb>悪口</rb><rt>あっこう</rt></ruby>をする。その悪口が、いかにも意地悪く、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざま</span>を見ろと言わぬばかりなので、お角はそれを聞くと、なんとなくイヤになるのでした。

神尾主膳については、お角とても決して善良な人だとは信じていないけれど、あれでなかなか話せば話のわかる人だと思っている。あの人を箸にも棒にもかからぬように言うのは、それは、あの人を<ruby><rb>噛締</rb><rt>かみし</rt></ruby>めていないからで、その悪いところだけを避けて、良いところを附き合えば、ずいぶん力になる人であると思っている。けれども、その神尾が、ひとたび駒井能登守の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>になると、酔っているとは言いながら、口を極めて悪く言うことが、お角には不服でもあり、不快でもあるのであります。

何となれば、駒木野の関所以来、お角の眼にうつっている駒井能登守は、男ぶりといい、その情けある仕方といい、若くして人に長たるの器量といい、芝居の中で見る人のように見えるのであります。どこといって一点でも、難を入れるところのない殿様ぶりに見えるのであります。その学問や見識のことは、お角はまるきり見当がつかないけれども、あんな男らしい男ぶりの殿御を、前にも後にも見たことはないとまで思っているのでありました。

それを神尾主膳が、頭ごなしにするからその時は不服で、つい抗弁をしてみる気になると、神尾はいやみな笑い方をしながら、

「お前も存外<ruby><rb>人形食</rb><rt>にんぎょうく</rt></ruby>いだ、あんなのが、それほどお気に召すようでは甘いものだ」

なんぞと言われると、お角もムキになって、

「人形食い結構、あんな方に好かれたら、ほんとにわたしは、三年連れ添う御亭主を<ruby><rb>打棄</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>っても行きますわ、けれどもお気の毒さま、あちら様で、わたしなんぞは眼中にないのですからね」

というようなことを言ったこともありました。

それは<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>にしても、神尾と駒井との間に、何かの<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>りのあることは<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うに見て取らないわけはありません。その後、神尾へは相変らず親しく出入りしているに拘らず、能登守の方は、ほとんど消息も打絶えて、滅多に思い出すことさえなかったのが、今日、このところで偶然、こんなにお世話になることは、やっぱり何かのお引合せと見ないわけにはゆかないのであります。

お角は、それを思うと、なんだか嬉しいような心持になって、清吉の見えなくなったことよりは、早く甚三郎が帰って来てくれることのみが待たれるのであります。このままでお帰りを迎えては恐れ多いというような心から、床を起き直って、乱れた髪などを撫で上げました。二時間ほどして駒井甚三郎はかえって来ましたから、お角は、

「おわかりになりましたか」

「わからん」

甚三郎は、安からぬ色を深くしていました。

「まあ、どうなすったのでしょう」

「そなたを得たことも不思議だが、清吉を失ったことも不思議だ」

甚三郎がこう言った言葉のうちには、多少の絶望が含まれているようです。

「海の方へでも行ったのでしょうか」

「どのみち、海へ行ったのであろうけれど……」

「お怪我がなければようござんすね、この辺の海は荒いそうですから」

「今宵は、もう<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて、明朝早く探しに行こう。それから、<ruby><rb>夜中</rb><rt>やちゅう</rt></ruby>何ぞ急用でも起った時は、その柱の下にある小さなボタンを、三ツばかり押してみるがよい、それが拙者の枕許まで響いて来る。拙者の方でも、何か用事の起った時は、同じような仕掛で、この丸いものが鳴り出すようにしてあるから」

これはおたがいの部屋に通ずる電気仕掛のベルでありました。駒井自身の工夫と設計にかかるものであることは申すまでもありますまい。これを押せばむこうのお居間の鈴が鳴るということが、お角にはなんだか魔術のように思われます。けれども、甚三郎はそれだけの注意を与えたきりで、この小屋とは棟を別にしている番所の内の、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの居間へ帰って行きました。

もし明朝になっても、明日になっても、清吉の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>がわからなかったらどうでしょう。またもし、お角の身体がほんとうに回復したのならよいけれど、これが一時の元気であって、明日からまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶり</span>返して枕が上らないようになったらどうでしょう。

いったん、捨てられた洲崎の遠見の番所は、まるで孤島の中にあるようなものです。前方は海で、陸続きは近寄る人もありません。

駒井甚三郎と、清吉とは、特にここをえらんで、たった二人きりで無人島同様の生活を好んで、ここに送っていたものと見えます。それがその共同生活の唯一人を失ったとすれば、あとに残るのは駒井甚三郎一人です。更にまた一人を加えたところで、その一人が枕も上らぬ病人であるなれば、その看病人も駒井甚三郎でなければなりません。

三千石の殿様に、自分の看病をさせることが<ruby><rb>女冥利</rb><rt>おんなみょうり</rt></ruby>に尽きると思うなれば、お角は、どうしても明日から起きて働かねばならないのです。

その翌日、早朝から駒井甚三郎は、またもこの番所を立ち出でました。けれども、お<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>少し前に帰って来た時には、出て行った時と同じことに、たった一人でした。ついにその尋ぬる人を探し当てることができないで、<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>として番所の門を潜りました。しかし、それと打って変ったように元気になったのはお角です。甚三郎が帰って来た時には、もう起き上って、甲斐甲斐しく働いていました。多分、海へ張って置いた網を引き出しに行って、浪に捲き込まれて行方不明になったものだろうと甚三郎は推察して、それをお角に話し、一方に浪に打上げられた人を救い、一方に浪に捲かれて人を失うのは、偶然とは言いながら、この辺の海は魔物のようであるということを、つくづく歎息しました。

お角は、それを聞いて気の毒がって泣きました。

その日から、ここにまた変った二人の生活が始まりました。二人というその一人の主は、変らぬ駒井甚三郎ですけれども、それを助けるは男でなくて女です。

「というても、そなたは江戸へ帰らねばならぬ人」

甚三郎に言われた時、

「いいえ、もう帰らなくってもよろしうございますよ」

お角は、きっぱりとこう言いました。ナゼこんなに、きっぱりと言い得るだろうかということが不思議でした。何かの当りがあればこそ、ああして房州へ出て来たのだから、その当りは途中の災難で外れたにしても、この女が江戸へ帰らなくてよいという理由はなかりそうです。江戸でなければこの女の仕事はありそうにもなし、またとにもかくにも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百といったような男を江戸には残して来てあるはずです。

けれども、駒井甚三郎は、それをよいとも悪いとも言いませんでした。

お角の料理してくれた昼飯を食べてから、また海岸へ出かけて、どこで何をしていたのか、夕方になって帰って来ました。

そうして番小屋の炉の傍で、お角の給仕で夕飯を食べながら話をしました。清吉のことは、もう諦めてしまっているようです。その話のうちに、甲州話がありました。けれども、その甲州話も、政治向のことや勤番諸士の噂などは、おくびにも出ないで、甲州では魚を食べられないとか、富士の山がよく見えるとか、<ruby><rb>甲斐絹</rb><rt>かいき</rt></ruby>が安く買えるとか、そんな他愛のないことばかりでしたからお角は、この殿様がどうしてかの立派な御身分から今のように、おなりあそばしたかということを尋ねてみる<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>がありませんでした。

それから、お角の身の上を<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに甚三郎が<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>を始めました。詮索というと角が立つけれど、実はそれからそれと穏かに尋ねられるので、お角も、つい<ruby><rb>繕</rb><rt>つくろ</rt></ruby>い切れなくなって、<ruby><rb>女軽業</rb><rt>おんなかるわざ</rt></ruby>の一座を引連れて、甲府の一蓮寺で興行したことから、このごろ再び両国で旗上げをするために、実はこの房州の芳浜というところに珍しい子供がいるそうだから、それを買いに来て、途中この災難ということを、すっかりと甚三郎に打明けてしまいました。打明けねばならぬように話しかけられてしまって、打明けてから、つい悔ゆるような心持になりましたけれど、甚三郎は一向、そんなことを念頭に置かぬらしく、

「それは面白い仕事であろう、拙者はまだ軽業というものを見たことがない」

「お恥かしうございます」

さすがのお角も、なんだか赤くなるように思いました。

話が済むと甚三郎は、さっさと立って自分の居間へ行ってしまいます。そうして夜おそくまで何かの研究に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>るらしくありましたが、お角は、ひとり取残されたように炉辺に坐っておりました。前に言ったように、この洲崎の遠見の番所は、離れ島のような地位に置かれてあります。前は海で、陸地つづきは、ほとんど交通を断たれているのであります。

お角も、かなりおそくまで、炉の傍に、ぼんやりとして燈火を見つめたり、火箸を取って灰へ文字を書いたりしていましたが、

「わたしゃ、あの殿様はわからない」

と<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>のようなことを言って、帯を解いて男の着物を<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>にして、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>をかぶって寝てしまいました。

けれども、その翌朝は、早く起きて、水を汲んだり、御飯を炊いたり、掃除をしたり、いっぱしの女房気取りで、気持のよいほどの働きぶりであります。

朝の食事が終ると、甚三郎はまた海岸へ出て行きました。<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>時分にいったん帰って、居間へ<ruby><rb>閉籠</rb><rt>とじこも</rt></ruby>ったが、しばらくすると、またどこへか出て行きました。そうして夕方になって戻って来ました。

夕飯の時は、またお角を相手にして、軽快に<ruby><rb>四方山</rb><rt>よもやま</rt></ruby>の話を語り出でました。

「そう改まって給仕には及ばん、そなたもここで一緒に」

甚三郎は、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いてお角にすすめて、一緒に<ruby><rb>夕餐</rb><rt>ゆうさん</rt></ruby>の膳に向いながら、

「人間の一芸一能は<ruby><rb>貴</rb><rt>たっと</rt></ruby>い、そなたの仕立てた芸人たちの業を、そのうち一度見せてもらいたいものじゃ」

<ruby><rb>真顔</rb><rt>まがお</rt></ruby>になって、こんなことを言い出しましたから、お角もおかしくなって、

「ねえ……殿様」

思わず膝を進ませると、

「殿様と言っちゃいかん、昔は殿様の端くれであったかも知れんが、今は船頭だ」

「では、何と申し上げたらよろしうございましょう」

「駒井とでも、甚三郎とでも勝手に」

「駒井様、駒井の殿様……なんだかきまりが悪うございますね。駒井様、そんなことを申し上げると口が曲りそうですけれど、わたしたちには、どうしても、あなた様の御了見がわかりません」

「わからんことはあるまい、浪人して<ruby><rb>詮方</rb><rt>せんかた</rt></ruby>なく、こうしているまでのことじゃわい」

「どうして、あなた様ほどのお方が、これほどまでに<ruby><rb>落魄</rb><rt>おちぶ</rt></ruby>れあそばしたのでございましょう」

「自分が悪いからだ」

「殿様……また殿様と申し上げました、あなた様のようなお方に、お悪いことがおありなさるのですか」

「なければ殿様でおられるのだが、あるからかように落魄れたのだ」

「それは一体、どういう罪なんでございましょう、あんまり不思議で堪りませんから、それをお聞かせ下さいませ」

「それはな……」

駒井甚三郎は、お角の疑いに何をか<ruby><rb>嗾</rb><rt>そそ</rt></ruby>られて沈黙しましたが、急に打解けて、

「隠すほどのこともあるまい、実はな、恥かしながら女だ、女で<ruby><rb>失策</rb><rt>しくじ</rt></ruby>ったのだ」

「エ、まあ、女で……」

お角は眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>って<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れました。その眼のうちには、幾分かの<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>が交っているのを隠すことができません。御身分と言い、御器量と言い、そうしてまた、このお美しい殿様に思われた女、思われたのみならず、これほどのお方を<ruby><rb>失敗</rb><rt>しくじ</rt></ruby>らせたほどの女、それは何者であろう。憎らしいほどの女である。その女の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見てやりたい。お角は、そう思って呆れている時に、自分の背にしている裏の雨戸に、ドーンと物の突き当る音がしたので<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>しました。

## 七

お角は吃驚しましたけれども、甚三郎は驚きません。

「何でございましょう、今の音は」

「左様……」

甚三郎は、なお暫く耳を澄ましてから、

「やっぱり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>者だろう」

と言いました。

「え、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>者とおっしゃるのは？」

「向うの松原に、小さな<ruby><rb>稲荷</rb><rt>いなり</rt></ruby>の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>がある、あれの主が<ruby><rb>三吉狐</rb><rt>さんきちぎつね</rt></ruby>というて、つい、近頃までも、その三吉狐がこの<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>に出没して、人に戯れたそうじゃ。ことに美しい男に化けて出ては、若い婦人を悩ますことが好きであったと申すこと。ところが、我々がここへ来てからは、とんとそれらの物共が姿を見せぬ、化かしても化かし<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>がないものと狐にまで見限られたか、それとも、彼等には大の禁物な飛道具や、<ruby><rb>煙硝</rb><rt>えんしょう</rt></ruby>の臭いで寄りつかぬものか、絶えて今まで<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>らしい形跡も見えなかったが、たった今の物音でなるほどと感づいたわい」

こんなことを言いました。お角はさすがに女だから、それを聞いて、襟元が急に寒くなったように思い、

「そんなに<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>の悪いお稲荷様があるんでございますか」

「全く、<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>のよくない稲荷じゃ。ことにその三吉狐とやらは先祖が男に化けて、村の若い娘と<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>り、かえって娘の情に引かされて、<ruby><rb>大武岬</rb><rt>だいぶみさき</rt></ruby>の鼻というのから身投げをして、心中を遂げてしまったということから、どうもその子孫の狐が<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>み<ruby><rb>心</rb><rt>ごころ</rt></ruby>が強くて、男と女の間に水を<ruby><rb>注</rb><rt>さ</rt></ruby>したがると申すこと」

「いやですね」

「だから、この界隈で、男女寄り合って話をしていると、必ずその三吉狐が邪魔に来る、それは<ruby><rb>相思</rb><rt>そうし</rt></ruby>のなかであろうともなかろうとも、男女がさし向いで話をすることを、その狐は理由なしに<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>む、そうしてその<ruby><rb>腹癒</rb><rt>はらい</rt></ruby>せのために、何か悪戯をして帰るとのことじゃ。それを思い合せてみると、なるほど、こうして、そなたと拙者、罪のない甲州話をしているのも、三吉狐に嫉まるるには充分の理由がある、怖いこと、怖いこと」

駒井甚三郎はこう言って笑いました。お角も、それに釣り込まれて笑いましたけれども、それは自分ながら笑っていいのだか、笑いごとではないのだか、全く見当がつかなくなりました。

そう言われてみると、今夜、この場合のみならず、この頃中のことが、すべてその三吉狐とやらの悪戯ではあるまいか。三千石の殿様が、こうして<ruby><rb>落魄</rb><rt>おちぶ</rt></ruby>れておいでなさることも夢のようだし、その殿様と自分が、こうして膝つき合わせて友達気取りでお話をしているのも疑えば際限がないし、美しい男に化けるのが上手だという三吉狐が、もしや駒井の殿様に化けて、わたしを引っかけているのではなかろうか。それにしては、あんまり念が<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>り過ぎる。そんなにしてまで、わたしを化かさなければならぬ因縁がありようはずはない……お角はいよいよ気味が悪くなってきた時に、今度は自分の坐っている縁の下で、ミシミシと一種異様な物音がしましたから、

「あれ！」

と言って甚三郎の傍へ身を寄せました。

それは確かに、縁の下を物が<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>っている音であります。

その時に駒井甚三郎は、懐中へ手を入れると、革の袋に納めた六連発の短銃を取り出しました。

お角は、駒井甚三郎なる人が、砲術の学問と実際にかけては、世に<ruby><rb>双</rb><rt>なら</rt></ruby>ぶ者のない英才であるということを知りません。また、大波の荒れる時にはあれほどに気象の張った女でありながら、稲荷様の<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りというようなことを、これほどに怖がるのを自分ながら不思議だとも思いません。

「わたし、なんだか怖くなりました」

こう言って、甚三郎の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を流し目に見ると、取り出した短銃を膝の上へのせて微笑しているその<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>が、なんとも言われない男らしさと、水の<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>るような美しさに見えました。

そこで、縁の下が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっそり</span>としてしまいました。ミシミシと音を立ててお角の坐っていた下あたりに這い込んだらしい物の音が、急に静まり返って、兎の毛のさわる音も聞えなくなりました。

「逃げてしまいましたろうか」

「いや、逃げはせん、この下に隠れている」

お角が、おどおどしているのに、甚三郎は相変らず好奇心を以て見ているようです。

「いやですね、いやなお稲荷様に見込まれては、ほんとにいやですね」

お角は、座に堪えられないほど気味悪がっているのに、

「動けないのだ……」

と言って、甚三郎は膝の上にのせた短銃をながめているのであります。

「おや、小さな鉄砲。殿様は、いつのまにこんなものをお持ちになりました」

お角はその時、はじめて甚三郎の膝の上の短銃に気がついて、そうしてその可愛らしい<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>が<ruby><rb>島</rb><rt>しま</rt></ruby>であることに、驚異の眼を向けました。

「いつでもこうして……」

甚三郎が、それを手に取り上げて一方に<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>いをつけると、なぜかお角はそれを押しとどめ、

「殿様、おうちになってはいけません」

「なぜ」

「でも、お稲荷様を鉄砲でおうちになっては、<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>が当ります」

「罰？」

「ええ、そんなに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あらたか</span>なお稲荷様を鉄砲でおうちになっては、この上の<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りが思いやられます」

「ばかなことを」

甚三郎はそれを一笑に附して、

「拙者も好んで<ruby><rb>殺生</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>はしたくはないが、畜生に<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>されて捨てても置けまい」

「いいえ、どうぞ、わたしに免じて助けて上げてくださいまし、わたしはお稲荷様を信心しておりますから」

「稲荷と狐とは、本来別物だ」

「別物でも、おんなじ物でも何でもかまいませんから、そうして置いて上げてくださいまし、そのお稲荷様が<ruby><rb>嫉</rb><rt>そね</rt></ruby>むなら嫉まして上げようじゃありませんか、ね、そうして置いてお話を承りましょうよ、わたしゃ化かされるなら化かされてもようござんす」

「きつい信心じゃ」

駒井甚三郎は苦笑いして、また短銃を膝の上に置くと、そのとき縁の下で、うーんとうなる声が聞えました。

「おや、殿様、人間でございますよ、お稲荷様じゃございませんよ」

「不思議だなあ」

最初から心を静めて観察するの余裕を持っていた駒井甚三郎が、その物音や、気配を察して、人間と動物とを見誤るほどの未熟者ではないはずです。

科学者であるこの人は、狐に関する迷信の類は最初から<ruby><rb>歯牙</rb><rt>しが</rt></ruby>にかけず、ほんの一座の座興にお角を怖がらせてみたものとしても、人と獣の区別を判断し損ねたということは、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの学問と技倆との自信を傷つくるに甚だ有力なものと言わなければなりません。そこで甚三郎は短銃を片手に、ついと立ち上って、畳の上を荒々しく踏み鳴らしました。

甚三郎が畳の上を踏み鳴らすとちょうど、仕掛物でもあるかのように、それといくらも隔たってはいないところの、<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>の傍の揚げ板が下からむっくりと持ち上りました。

「御免なさい」

甚三郎もお角も<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られてそれを見ると、現われたのは狐でも狸でもなく、<ruby><rb>一個</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>の人間の子供であります。

「お前は何だ」

あまりのことに甚三郎も拍子抜けがして、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの大人げなきことが恥かしいくらいでした。

「御免なさい、御免なさい」

と言って子供は、揚げ板の中から炉の傍へ上って来ました。

鼠色をした筒袖の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を着て、両手を後ろへ廻し、年は<ruby><rb>十歳</rb><rt>とお</rt></ruby>ぐらいにしか見えないが、色は白い方で、目鼻立ちのキリリとした、<ruby><rb>口許</rb><rt>くちもと</rt></ruby>の締った、頬の豊かな、一見して賢げというよりは、美少年の部に入るべきほどの<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>を持った男の子であります。

「お前さん、どうしたの」

最初は怖れていたお角も、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ人間並み以上の子供であったものだから、落着いて<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め立てをする勇気が出ました。

「助けて下さい」

子供はそこへ<ruby><rb>跪</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まってお角の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見上げました。その時、見ればその眼が白眼がちで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちらり</span>とした、やや鋭いと言ってよいほどの光を持っているのを認められます。ただ、その身体の形を<ruby><rb>不恰好</rb><rt>ぶかっこう</rt></ruby>にして見せるのは、最初から両手を後ろに廻しっきりにしているからです。

「どこから逃げて来たの」

「清澄山から逃げて来ました」

「清澄山から？」

「ええ、清澄で坊さんに叱られて、縛られました。おばさん、あたいの手を、縛ってあるから解いて下さい」

「縛られてるの、お前さんは」

お角がなるほどと心得て、そこへちょこなんと<ruby><rb>跪</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まった子供の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ廻って見るとなるほど、その小さな両手を後ろに合せて、麻の細い縄で<ruby><rb>幾重</rb><rt>いくえ</rt></ruby>にもキリキリと縛り上げてありました。

お角は一生懸命にその結び目を解いてやろうとして<ruby><rb>焦</rb><rt>あせ</rt></ruby>ったが、容易には解けそうもありません。

「ずいぶん固く<ruby><rb>結</rb><rt>ゆわ</rt></ruby>えてあるわね、これじゃなかなか取れやしない」

お角はもどかしがって、ついにその縄の結び目へ歯を当てました。

「<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>を貸して上げようか」

甚三郎は見兼ねて好意を与えると、お角は首を振って、

「いいえ、結んだものですから解けそうなものですね、解けるものを切ってしまうのは嫌なものですから」

お角はしきりに縄の結び目へ歯を当てて、それを解こうとしましたが、いったいどんな結び方をしたものか知らん、ほんとに歯が立ちません。けれども、お角は<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れながらも、いよいよ深く食いついて、<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をしかめながらも首を左右に振っています。

「おばさん、ずいぶん固く結えてあるでしょう、<ruby><rb>岩入坊</rb><rt>がんにゅうぼう</rt></ruby>が縛ったんですからね、とても駄目でしょうよ、口では解けないでしょうよ、刃物で切っちまって下さい」

子供は、ややませた口ぶりで、お角のすることの<ruby><rb>効無</rb><rt>かいな</rt></ruby>きかを<ruby><rb>諷</rb><rt>ふう</rt></ruby>するように言いますから、こんなことにも意地になったものと見え、

「いま解いて上げるよ、結んだものだから解けなくちゃあならないんだから。切ってはなんだか<ruby><rb>冥利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>が尽きるわよ」

お角はしきりに縄に食いついて放そうともしません。

「岩入坊は縛るのが名人だからね、岩入に縛られちゃ往生さ」

子供は、こんなことを言いながら、お角のするようにさせておりました。

「あ、痛！」

あまり力を入れて、歯を食い折ったか、ただしは唇でも噛み切ったか、<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を引いたお角の口許に、にっと血が<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでおりました。

「解けましたよ」

その時にお角は、クルクルと縄の一端を持ってほごしてしまいました。

子供の手を自由にしてやって、お角は元の座に戻り、紙をさがして口のあたりを拭きました。滲み出した血を、すっかり拭き取って平気な顔をしているから、大した怪我ではないでしょう。

「どうも有難う」

子供はそこで、お角と甚三郎の前へ両手を突いてお辞儀をします。

「清澄から、これまで一人で来たのか」

「エエ、一人で逃げて来ました」

そこで甚三郎は、じっとこの子供の顔を見つめました。清澄は<ruby><rb>安房</rb><rt>あわ</rt></ruby>の国の北の端であって、<ruby><rb>洲崎</rb><rt>すのさき</rt></ruby>はその西の<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>になります。いくら小さい国だと言ったところで、国と国との両極端に当るのです。その間を、この少年が両手を後ろに縛られたままで、ここまで逃げて来たということが嘘でなければ、ともかくもそこに、非凡なものの存することを認めないわけにはゆかなかったのでしょう。けれども甚三郎は、そのことを尋ねないで、

「何で、そんなに縛られるようなことをしでかしたのだ」

「<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をしたものですから、それで縛られました」

「悪戯？　どんな悪戯を」

「ちょっとしたことなんです、ちょっと悪戯をしたんだけれども縛られてしまいました、縛られて、門前の大きな杉の木へつながれてしまいました、それを弁信さんに解いてもらいました、ぐずぐずしていると、岩入坊にまたひどい目に遭わされるから、早くお逃げって弁信さんがそう言ったもんだから、後ろ手に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆわ</rt></ruby>かれたのを解いてもらう暇がなくって、一生懸命に、人に見つからないようにこうして逃げて来ました」

「それはよくない、ナゼ逃げ出さないで、お師匠さんに<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>ることをしないのだ」

「駄目、駄目、あたいは、もう、あんなところは早く逃げ出したくって堪らなかったのよ、もう帰らないや」

「お前、お寺にいて坊さんになるのが嫌なのか」

「いいえ、あたいは清澄のお寺に預けられていたけれど、坊さんになるつもりじゃなかったの、お寺の方では、あたいを坊さんにするつもりであったかも知れないけれど、あたいは坊さんになる気なんぞはありゃしない」

一通りの白状ぶりを聞いても、そんなに大した<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をする悪少年とも見えません。けれども甚三郎は、この少年を問い<ruby><rb>訊</rb><rt>ただ</rt></ruby>すことに興味を失わないで、

「そして、お前、これからどこへ行くつもりなのだ」

「あたいは、これから芳浜へ帰ろうと思うんだけれども、芳浜へは帰れないや、だから舟に乗ってどこかへ行ってしまいたいと思っているのよ」

「芳浜にお前の<ruby><rb>実家</rb><rt>うち</rt></ruby>があるのか」

「あたいの実家じゃない、お嬢さんの家があるんですよ」

「お嬢さん……主人の娘だな。清澄へ行く前、そこに<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>をしていたのか」

「あたいは、お嬢さんに可愛がられていたのよ、お嬢さんが、あんまり、あたいを可愛がるもんだから、それでみんなが、あたいをお嬢さんの傍へ寄せないようにしてしまったのですね、お嬢さんきっと、あたいに会いたがるに違いない」

子供はすずしい眼をして甚三郎の面を打仰ぎました。お嬢さんに可愛がられてる……それがなんとなく甚三郎の心を温かいものにして<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>ませました。

「そのお嬢さんというのは幾つになる」

「今年、十八になるでしょうね」

と言って小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げるところを見れば、どう見ても愛くるしい美少年で、決して悪戯をしたために、これほどまで無惨に縛られ、縛られた上に、清澄の山から洲崎の浜まで走って来るほどの不敵な少年とは思われません。甚三郎は優しく、

「そうか、近いうち、<ruby><rb>拙者</rb><rt>わし</rt></ruby>も舟であちらの方へ出かけるから、その時に連れて行ってやろう、そうしてお嬢さんとやらに会わせてやろう」

「有難う。それでもね、お嬢さんにゃ会えませんよ」

「どうして」

「みんなが会わせないんだもの」

「なぜ会わせないのだ」

「あたいは、お嬢さんにだけは可愛がられるけれども、ほかの者にはみんな憎まれてるから」

「みんなの人が、なぜ、そんなにお前を憎むのだ」

「なぜだか、あたいにはわからないんだ、みんなの人が、あたいを憎んでお嬢様に会わせないように、清澄の山へ預けちまったんですからね」

「何かお前が悪いことをしたのだろう」

「いいえ、何も悪いことをしやしません、悪いことといえば、あたいが、あんまりお嬢様に可愛がられるから、それが悪いんでしょうよ。そのほかにはね……あたいは、虫を捕ることが好きなんですよ、虫を捕ることだの、鳥と遊ぶことだの、それから、笛を吹くことだの……」

その時まで黙って聞いていたお角が、あわて気味で口をはさみました。

「ちょっとお待ち。お話のうちだが、それではお前さんが、あの芳浜の茂太郎さんというんじゃないの」

「ええ、あたいがその茂太郎ですよ」

「そう、驚きましたね、わたしはまた、お前さんを頼むために、こうしてわざわざ房州までやって来たのですよ」

「おばさん、あたいを頼みに来たの」

少年は、やや眼を円くして、お角の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見上げましたが、その頼みに来たという事情を、さのみ立入って知りたいというほどでもありません。

「ええ、お前さんを頼みに来たのよ、それがために途中で大難に遭って、こうしてお世話になっているの」

「そうですか」

「そうですかじゃない、ほんとに<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>がけで江戸から、お前さんを尋ねに来たんじゃないか」

お角ははずむけれども少年は、

「江戸から？」

と言って、前よりは少しく耳を傾けただけのことです。それもお角が無暗に、大難だとか生命がけだとかいうのに引きつけられたのではなく、江戸からと言った地名だけに引っかかったものとしか思われません。

「そうよ」

「江戸には、おばさん、山は無いんでしょう、だから蛇だって、そんなにいやしないでしょう、わたしを頼んで行ってどうするの」

「そりゃね……」

と言って、お角が少しばかり<ruby><rb>口籠</rb><rt>くちごも</rt></ruby>りました。少年は、それに頓着せずに、

「今まで、あたいを頼みに来るのは、<ruby><rb>山方</rb><rt>やまかた</rt></ruby>ばっかりよ。あたいに鳥を追わせたり、蛇をつかまえさせたり、また虫を取って来て天気を<ruby><rb>占</rb><rt>うらな</rt></ruby>わせたりするんだけれど、江戸へ連れて行ってどうするんだろう。それでも、あたい江戸へは行ってみたいよ。お嬢さんとこに、幾枚も江戸の景色の絵があるんだ、それで見て知っているけれどもね、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>なところだね。おばさん、ほんとうに連れてってくれるなら、あたい行ってもいいよ、おばさんとこに居候になっていてもいいよ」

## 八

「それというのはね、まあ、聞いて下さいまし。この間の<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>の晩のことでした、わたしが毎晩ああやって<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けている高燈籠の火が消えてしまいました、どんなに風が吹いても、雨が降っても、消えないはずの火が消えてしまいました、あの火が消えたばっかりに、海で船が沈んで、多くの人が死にました、まことに申しわけのないことでございます」

盲法師の弁信はこう言って、その見えない眼から涙をポロポロとこぼして、口が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>けなくなりました。

「弁信さん、そりゃ仕方がありませんよ、なにもお前さんが消したというわけじゃあるまいし」

「いいえ、いいえ、わたしが消したんですよ、決して、あの晩の<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>が消したわけじゃございません」

「だって弁信さん、お前がわざわざ消しに行ったわけじゃありますまい」

「いいえ、わたしの<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>が尽きないから、それで、あの晩に限って火が消えてしまったんですね、わたしが、少しでも人様の眼を明るくして上げようと思ってしたことが、かえって人様の命を取るようになってしまいました、怖ろしいことでございます」

「けれども、そりゃ仕方がありませんよ、善い心がけでしたことも、悪いめぐり合せになるのは運ですからね、なにもあの晩に限って<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が消えて、それがために助けらるべき船が助けられず、救わるべき人が救われなかったといって、誰も弁信さんを恨むわけのものじゃありません、それでは、あんまり取越し苦労というものが過ぎますね」

「いいえ、いいえ、善い心がけでしたことが、悪いめぐり合せになるということは、決してあるものではございません、それが悪いめぐり合せになるのは、徳が足りないからでございます、業が尽きないからでございます」

「そりゃいけませんよ、善いことをすれば、善いめぐり合せになるときまったものじゃなし、かえって善いことをして、悪いめぐり合せになる<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>が世間にはザラにあることなんだから、弁信さん、そんなに取越し苦労をしないで、山へお帰りなさいまし」

「いいえ、そうじゃないのです、善い人の<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けた火は、消そうと思っても消えるものじゃございません。御承知でございましょうが、<ruby><rb>天竺</rb><rt>てんじく</rt></ruby>の<ruby><rb>阿闍世王</rb><rt>あじゃせおう</rt></ruby>が、<ruby><rb>百斛</rb><rt>ひゃっこく</rt></ruby>の油を焚いて釈尊を<ruby><rb>供養</rb><rt>くよう</rt></ruby>致しました時、それを見た貧しい婆さんは、二銭だけ油を買って釈尊に供養を致しました、貧しい婆さんの心は善かったものでございますから、阿闍世王の供えた百斛の油が燃え尽きてしまっても、貧しい婆さんの二銭の油は、決して消えは致しませんでした、消えないのみならず、いよいよ光を増しました、<ruby><rb>暁方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>になって<ruby><rb>目連尊者</rb><rt>もくれんそんじゃ</rt></ruby>が、それを消しにおいでになって、三たび消しましたけれど、消えませんでございました、袈裟を挙げて<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>ぐとその燈明の光が、いよいよ明るくなったと申すことでございます。それほどの<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>も心一つでございますのに、それに、わたしがああやって心願を立てて、毎晩毎晩点けにあがる高燈籠が、あの晩に限って消えてしまったというのは因果でございます、業でございます、わたしの徳が足りないんでございます。徳の足りないものが、<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>の尽きない身を以てお山を汚していることは、お山に対しても恐れ多いし……わたし自らの冥利のほども怖ろしうございますから、それでわたしは、お山をお<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いを致しました、皆様がいろいろにおっしゃって下さいましたけれども、わたしは自分の罪が怖ろしくて、お山に留まってはおられませんでございます。皆様お大切に、これでお別れを致します……これが一生のお別れになるか知れませんでございます」

こう言って、盲法師の弁信は泣きながら、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>ばきで、笠はかぶらないで首にかけ、例の金剛杖をついて清澄の山を下ってしまいました。それは<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>があってから五日目のことで、誰がなんと言っても留まらず、山を下って行く、その後ろ姿がいかにも哀れであります。

## 九

それとほぼ時は同じですけれども、ところは全然違った中仙道の<ruby><rb>碓氷峠</rb><rt>うすいとうげ</rt></ruby>の頂上から、少しく東へ降ったところの陣場ヶ原の上で、真夜中に焚火を囲んでいる三人の男がありました。

一昨夜の<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>で吹き倒されたらしい<ruby><rb>山毛欅</rb><rt>ぶな</rt></ruby>の幹へ、腰を<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>しているものは、南条<ruby><rb>力</rb><rt>つとむ</rt></ruby>であります。この人は<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て甲府の牢に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われていて、破獄を企てつつ宇津木兵馬を助け出した奇異なる浪士であります。

その南条力と向き合って、これは枯草の上に両脚を投げ出しているのは、いつもこの男と影の形に添うように、離れたことのない<ruby><rb>五十嵐甲子雄</rb><rt>いがらしきねお</rt></ruby>であります。甲府の牢以来、この二人が離れんとして離るる<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>わざる<ruby><rb>孖</rb><rt>ふたご</rt></ruby>の形で終始していることは<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て不思議ではありませんが、その二人の側に控えて、いっぱしのつもりで同じ焚火を囲んでいるもう一人が<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>でもない者であることは不思議です。碌でもないと言っては当人も納まるまいが、この慨世憂国の二人の志士を前にしては、甚だ碌でもないというよりほかはない、例の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百蔵であります。

「その屋敷でござんすか、そりゃこの<ruby><rb>峠宿</rb><rt>とうげじゅく</rt></ruby>から二里ほど奥へ入ったところの<ruby><rb>美平</rb><rt>うつくしだいら</rt></ruby>というところが、それなんだそうでございます。今はそこには人家はございませんが、そこが、碓氷の<ruby><rb>貞光</rb><rt>さだみつ</rt></ruby>の屋敷跡だといって伝えられてるところでございます」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は、いっぱしの<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして案内ぶりに話しかけると、

「なるほど」

南条力はいい気になって<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いてそれを聞いている取合せが、奇妙といえば奇妙であります。ナゼならば、南条力は少なくともこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百なるものの<ruby><rb>素行</rb><rt>そこう</rt></ruby>を知っていなければならない人です。それは甲州街道で、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百が男装した<ruby><rb>松女</rb><rt>まつじょ</rt></ruby>のあとを、つけつ廻しつしていた時に、よそながら守護したり、取って押えたりして、お松を救い出したのはこの人であります。百にしてからが、この人の怖るべくして、<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>るべからざる人であり、ともかく自分たちには歯の立たない種類の人であることを、充分こなしていなければならないのに、こうして心安げになって、いっぱしの面をしていることが、前後の事情を知ったものには、どうも奇妙に思われてならないはずです。

ところが、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>先生は一向、そんなことには頓着なく、

「さあ、焼けました、もう一つお上んなさいまし。南条の先生、こいつも焼けていますぜ、五十嵐の先生、もう一ついかがでございます」

と言って、木の枝をうまく渡して、焚火に<ruby><rb>燻</rb><rt>く</rt></ruby>べておいた餅を片手で<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>み上げ、

「碓氷峠の名物、碓氷の貞光の力餅というのがこれなんでございます」

得意げに餅を焼いて、二人にすすめ、

「何しろ源頼光の四天王となるくらいの豪傑ですから、碓氷の貞光という人も、こちとらと違って、子供の時分から親孝行だったてことでございますよ。親孝行で、そうして餅が好きだったと言いますがね、親孝行で餅が好きだからようございますよ、間違って酒が好きであってごろうじろ、トテも親孝行は勤まりませんや。どうも酒飲みにはあんまり親孝行はありませんね。<ruby><rb>俺</rb><rt>わっし</rt></ruby>の知ってる野郎にかなりの<ruby><rb>呑抜</rb><rt>のみぬけ</rt></ruby>があって、親不孝の方にかけちゃ、ずいぶん<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>けを取らねえ野郎ですが、或る時、<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>い酔って家へ帰ると、つい寝ていた親爺の<ruby><rb>薬鑵頭</rb><rt>やかんあたま</rt></ruby>を蹴飛ばしちまいましてね、あ、こりゃ<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ねえことをしたと言ったもんです、それを親爺が聞いて、まあ<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>や、お前も親の頭を蹴って勿体ないと言ってくれるようになったか、それでわしも安心したと嬉しがっていると、野郎が言うことにゃ、おやおや、お<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんの頭か、<ruby><rb>俺</rb><rt>おり</rt></ruby>ゃまた大事の<ruby><rb>燗徳利</rb><rt>かんどっくり</rt></ruby>かと思ったと、そうぬかすんですから、こんなのは、とても親孝行の方には向きませんよ。酒飲みがみんな親不孝と限ったわけじゃございませんが、餅の方が向きがようございます。その碓氷の貞光て人は餅が好きで、自分で<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>いては自分でも食い、お袋様にもすすめてね、自分はその餅を食いながら、あの美平の屋敷から信州のお諏訪様まで日参りをしたというんですから、足の方もかなり達者でした。私共も足の方にかけちゃずいぶん<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れを取らねえつもりだが、ここから信州の諏訪へ日参りと来ちゃ怖れ入りますね。そんなわけで、これがこの土地の名物、碓氷の貞光の力餅ということになっているんでございます」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百蔵は、無駄話を加えて力餅の説明をしながら、しきりにそれを焼いては例の片手を上手に扱って二人にすすめると、それをうまそうに食べてしまった南条は、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>、時間はどんなものだな」

「そうでござんすね、もうかれこれいい時分でございましょう」

三人が同時に<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>をめぐらして西の方をながめました。この時分、最夜中は過ぎて峠の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>で、たったいま鳴いたのが一番鶏であるらしい。

「いったい、横川の関所は<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>に開くのじゃ」

五十嵐が言いますと、

「やっぱり、明けの<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>つに開いて、暮の六つに締まるんでございます」

「そうして今は<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>だ」

「一番鶏が鳴きました」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は何か落着かないことがあるらしく、

「間違いはございませんが、念のためですからこれから私が、もう一ぺん峠の宿を軽井沢まで走って見て参ります」

「御苦労だな」

こうして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は得意の早足で、峠の宿の方へ向いて行ってしまいました。そのあとで南条は、五十嵐にむかい、

「こんな仕事には<ruby><rb>誂向</rb><rt>あつらえむ</rt></ruby>きに出来ている男だ、何か、ちょっとした危ない仕事がやってみたくてたまらないのだ、<ruby><rb>小才</rb><rt>こさい</rt></ruby>が利いて、男ぶりもマンザラでないから、あれでなかなか<ruby><rb>色師</rb><rt>いろし</rt></ruby>でな、女を引っかけるに妙を得ているところは感心なものだ」

こんなことを言って笑っていると、五十嵐は、

「女によっては、あんなのを好くのがあるのか知らん、どこかに口当りのいいところがあるのだろう」

「当人の自慢するところによると、あの片一方の腕を落されたのも、女の遺恨から受けた向う<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>だと言っている。これと目星をつけた女で、物にならぬのは一人もない、なんぞと言っているところがあいつの身上だ」

この時分に峠の宿で、また鶏が鳴きましたけれども、夜が明けたというわけではありません。

いわゆる、<ruby><rb>碓氷峠</rb><rt>うすいとうげ</rt></ruby>のお関所というのは、箱根のお関所と違って、それは山の上にあるのではなく、峠の麓にあるのであります。

<ruby><rb>熊</rb><rt>くま</rt></ruby>の<ruby><rb>平</rb><rt>だいら</rt></ruby>で坂本見れば、女郎が化粧して客待ちる……というその坂本の宿よりはなお十町も東に当る横川に、いわゆる碓氷峠のお関所があるのであります。

このお関所を預かるものは<ruby><rb>安中</rb><rt>あんなか</rt></ruby>の板倉家で、貧乏板倉と呼ばれた藩中の侍も、この横川の関所を預かる時は、過分の<ruby><rb>潤</rb><rt>うるお</rt></ruby>いがあったということです。それは<ruby><rb>参覲交代</rb><rt>さんきんこうたい</rt></ruby>の大名の行列から来る<ruby><rb>余沢</rb><rt>よたく</rt></ruby>の潤いであるとのことです。

けれども、ここを通る参覲交代の大名のすべてを合せても、その余沢は、一加州侯のそれに及ぶものではないとのことであります。

<ruby><rb>後共</rb><rt>あとども</rt></ruby>は霞引きけり加賀守

という百万石の大名行列は、年に二回は行われる。その年に二回の加賀様の行列によって、一年の活計を支えるほどの<ruby><rb>実入</rb><rt>みい</rt></ruby>りを得ている者が、幾人あるか知れないということであります。

それは大抵、五月と九月との両度に行われ、同勢は約千人もあったろうということで、金沢の城中から、鉄砲百挺、弓百挺、槍百筋を押立てて、ここまで練って来た一行が、鉄砲だけは関所を通すことが許されないから、坂本の宿の陣屋に鉄砲倉を立て、そこに預けておき、帰る時は、それを持ち出して国へ帰るということになっているのだそうです。関所でやかましいのは、鉄砲と、そうして女であることはここも他と変ることはなく、徳川幕府にとって頭痛の種であったこの二つの禁物のうちの一つは、そうして封じ込められて、関所を東へは一寸も動くことを許されないでいるが、東から来て西へ抜けようとする女は、まさか倉を立てて<ruby><rb>蔵</rb><rt>しま</rt></ruby>っておくわけにもゆかない代り、かなり厳しい<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>の下に、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて通過を許されるのであります。それは、たとえ百万石の奥方といえども、関所同心の細君の手によって、一応その乳房をさぐられ、それから髪の毛の中を探された上で、はじめて通行の自由を認められる……それが本来の規則であったそうだけれども、そこにも当然抜け道はあって、表面だけの繕いで無事に通行ができるようになり、それらの余徳として、関所役人の懐ろの<ruby><rb>潤</rb><rt>うるお</rt></ruby>いが増してくるようになったとは、さもありそうなことであります。

その加州侯の潤わせぶりが、至って寛大で豊富であったから、その行列が宿々のものから喜ばれた持て方は非常のものでしたそうです。それで中仙道を、誰いうとなく加賀様街道と呼ぶようになったのは、名実共にさもありぬべきことと思われます。

これに反して、嫌われ者は、尾張と薩摩で、これはどうかして三年に一度ぐらい、この関所へかかることがあるが、金は使わないくせに威張り散らすという<ruby><rb>廉</rb><rt>かど</rt></ruby>で、関の上下に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おぞけ</span>を振わせたものだそうです。それで近頃まであの附近では、泣く児をだますのに、それ尾張様が来たといってオドかしたものだそうです。

そんなようなわけで、碓氷峠の関所、実は横川の関所は、毎日、明けの<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>つから暮の六つまで、人を<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>いたり流したりしていましたが、これはもちろん、その時刻にしてはあまりに早過ぎることなのであります。

「さあ、やって来たぞ」

「来た、来た」

南条と五十嵐とは、例の陣場ヶ原の焚火から立ち上って、ながめたのは関所の方角ではなくて、やはり熊野の社の鎮座する峠の宿の方面でありました。

なるほど、何物かがやって来る。耳を傾けると鈴の音が聞えるようです。<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>の音もするようです。あちらの方から、馬を打たせて来るものがあることは疑うべくもありません。

まもなくそこへ現われたのは、馬子に<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれた二頭の馬でありました。

峠を越ゆる馬は、一駄に三十六貫以上はつけられないのだから、荷物の重量としてはそんなに大したものとは思われないが、それに附添っている武士が三人あります。そうして馬の背の上に、梅鉢の紋らしいのが見えるところによって見れば、これは、やはりこの街道の神様である加州家に<ruby><rb>縁</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>のある<ruby><rb>荷馬</rb><rt>にうま</rt></ruby>であることも<ruby><rb>推測</rb><rt>おしはか</rt></ruby>られます。

それと見た南条力は、ズカズカとその馬をめがけて進んで行きました。無論、五十嵐甲子雄もそれに従いました。

これは、馬子も宰領も、すわやと驚かねばならぬ振舞です。この二人だからよいようなもの、そうでなければまさに山賊追剥の振舞であります。

「待ち兼ねていたわい」

南条力は低い声でこう言って馬の前に立ち塞がると、不思議なことに馬も人も更に驚く<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>はなく、ハタと歩みをとどめてしまって、

「まず、上首尾」

と言った声は、前なる馬子の口から発せられました。落着いたもので、馬子風情の<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>ではありません。

けれど、馬子の口から出たことは間違いがありません。

その時に、馬に附添って来た三人の武士は、<ruby><rb>汝</rb><rt>おの</rt></ruby>れ<ruby><rb>狼藉者</rb><rt>ろうぜきもの</rt></ruby>！　と呼ばわってきってかかりでもするかと思うと、それも<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>騒がず、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに馬の側から立退いて、やや遠く三方に分れて立ちました。この陣場ヶ原というところは、昼ならば碓氷峠第一の展望の利くところでありますから、そうして三方にめぐり立てば、どちらの方面から来る人の目を防ぐこともできます。

ところで南条力は、右の一言を発しただけで、前にいた馬子の傍へ立寄ると、五十嵐甲子雄は二番目の馬子に近寄って、

「お役目御苦労」

と、やはり低い声で言いかけると、

「御苦労、御苦労」

と第二の馬子も、やはり馬子らしくない口調で<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>いったきり。そこで、馬子は<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を鞍へかけて、都合四人が、おのおの<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの衣裳を脱ぎ換えはじめました。

南条と五十嵐とは己れの衣類大小をことごとく脱ぎ捨てて、馬子はその簡単な馬子の衣裳を解いてしまうと、この両者は手早くそれを取換えて一着してしまいました。そうして<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちの間に南条力は第一の馬の馬子となり、五十嵐甲子雄は第二の馬の馬子となり、以前の二人の馬子は、<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>の変った南条、五十嵐になってしまいました。

この時、三方に離れて遠見の役をつとめていた三人の武士は、急に立寄って来て、また馬の左右に附添いました。

以前に馬子であった二人だけは、その馬の前にも立たず後にも従わず、東へ向いて行く一行を見送って立っているのであります。そうして馬の足音も、全く闇の中に消えてしまった時分に、二人は元の峠の宿の方へ引返してしまったから、そのあとの陣場ヶ原には、焚火の燃えさしだけが物わびしく<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>っているだけです。

## 十

その翌日、妙義神社の額堂の下で、なにくわぬ<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして甘酒を飲んでいるのは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百でありました。

縁台に腰をかけて、<ruby><rb>風合羽</rb><rt>かざがっぱ</rt></ruby>の袖をまくり上げて甘酒を飲みながら、しきりに頭の上の掛額をながめておりましたが、

「<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>さん、ここに大した額が上ってるね……」

と甘酒屋の<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>に、言葉をかけました。

「へえへえ、なかなか大したものでございます」

老爺は自分のものでも<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>められた気になって、嬉しそうに、同じく頭の上の額堂の軒にかかった大きな掛額をながめました。

「甲源一刀流祖<ruby><rb>逸見</rb><rt>へんみ</rt></ruby>太四郎<ruby><rb>義利孫逸見利泰</rb><rt>よしとしそんへんみとしやす</rt></ruby>……」

筆太に記された文字を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は声を立てて読むと、

「秩父の逸見先生の御門弟中で御奉納になったのでございますが、当国では真庭の樋口先生、隣国では秩父小沢口の逸見先生、ここらあたりは、剣道の竜虎でございます」

それを聞いて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百も何かしら勇み出して、

「知ってるよ、<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>さん、わしはいったい甲州者なんだがね、その甲源一刀流の秩父の逸見先生というのは、甲州の逸見冠者十七代の<ruby><rb>後胤</rb><rt>こういん</rt></ruby>というところから甲斐源氏を取って、それで甲源を名乗ったものなんだ、だから何となく懐しいような気がして、こうしてさいぜんからながめているんだ」

「左様でございますか、お客様も甲州のお方でございますか、甲州はまことに結構なところだそうでございますね」

「あんまり結構なところでもねえのだが、爺さんよ、こうして、さっきからこの額面をながめているうちに、どうも気になってならねえことがあるんだが……」

「何でございます」

「ほかでもねえが、<ruby><rb>初筆</rb><rt>しょふで</rt></ruby>から三番目のところに紙が貼ってあるだろう、<ruby><rb>比留間</rb><rt>ひるま</rt></ruby>なんとやら、桜井なんとやらという人の名前の次にある人の名前は、何という方だか知らねえが、ああして頭からべっとり紙を貼ってしまったのは、ありゃいったいどうしたわけなんだ」

「あれでございますか、あれはね……」

<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>は心得て、何をか説明しようとするのを、気の短い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は、

「あんまり味のねえやり方をしたもんだね、書き直すんなら書き直すんで、もっと穏かな仕方がありそうなもんじゃねえか、頭から無茶に<ruby><rb>白紙</rb><rt>しらかみ</rt></ruby>を貼りかぶせてしまったんじゃ、見た目があんまり良い気持がしねえ、御当人だって晴れの額面へ持って行って、自分の名前だけ貼りつぶされたんじゃ浮ばれねえだろうじゃねえか。これだけの御門弟のうちに、そこに気のつく人はねえのかな。削り直したところで何とかなりそうなもんだ、<ruby><rb>刳</rb><rt>く</rt></ruby>り抜いて<ruby><rb>埋木</rb><rt>うめき</rt></ruby>をしておいたって知れたもんだろう、なんにしたって、ああして白紙を貼りかぶせるのは不吉だよ」

しきりに腹を立てて見ている額面には、なるほど、初筆から三番目あたりの門弟の人の名の上に、無惨に白紙が貼りつけてあるのであります。<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>はその時、前の言葉をついで、

「あれはお客様、なんでございますよ、どなたもみんな、あれを御覧になると、そうおっしゃいますんでございますが、皆さん御承知の上で、ああいうことになすったんでございますから仕方がありませんので」

「エ、みんな承知の上だって？　承知の上でああして貼りつぶしちゃったのかい」

「ええ、左様でございます、あの下に、机竜之助相馬宗芳というお方のお名前が、ちゃんと書いてあるんでございます」

「何だって？　机竜之助……」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の色を変えました。釜の前に立っていた老爺は、わざわざ縁台の方へ歩き出して来て、

「剣道の方のお方が、ここへおいでになってあれを御覧になると、どなたもみんな惜しい惜しいとおっしゃらない方はございません、なかには涙をこぼすほど惜しがって、この下を立去れないでいらっしゃるお方もございます」

「うーん、なるほど」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は何に感心したか、面の色を変えて<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り出し、改めてその紙の貼られた額面を穴のあくほど見ています。

「惜しいお方ですけれども、剣が悪剣だそうですから、どうも仕方がございません」

「悪剣というのは、そりゃ何のことなんだい」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は投げ出すような荒っぽい口調で、老爺を驚かせました。

「どういうわけですか、皆さんがそうおっしゃいます、それがために逸見先生の道場から破門を受けて、その見せしめのために、ああしてお名前の上へ、べったりと紙を貼られておしまいになってから、もうかなり長いことでございます」

「なるほど、そりゃありそうなことだ」

「けれどもまた、その御門弟衆のうちでも、惜しい惜しいとおっしゃるお方がございます。他国からこのお山へ御参詣になった立派な武芸者のお方で、この額を御覧になり、ああ、机竜之助は今どこにいるだろう、あの男に会ってみたい……と十人が十人まで、申し合わせたようにそうおっしゃって、あの額を残り惜しそうに御覧になるのが不思議でございますから、私がその<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>を一通りお聞き申しておきました。お聞き申してみると、なるほどと思われることがありますんでございますよ」

「ふむ、そりゃそうだろう」

「もとの起りからそれを申し上げると、ずいぶん長くなりますんですが……」

それでも老爺は、その長きを<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わずに、ずいぶん話し込んでみようと自分物の縁台に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>と向き合って腰を卸そうとした時に、麓の方から<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかしい笛と太鼓の音が起ったので、その腰を折られました。

麓から登って来るのは、越後の国から出た角兵衛獅子の一行であります。その親方が、てれんてんつくの太鼓を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>ち、その後ろの若者が、ヒューヒューヒャラヒャラの笛を吹き、それを取捲いた<ruby><rb>十歳</rb><rt>とお</rt></ruby>ぐらいになる角兵衛獅子が六人あります。

しちや、かたばち、

<ruby><rb>小桶</rb><rt>こおけ</rt></ruby>でもてこい、

すってんてれつく庄助さん

なんばん食っても<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>くもねえ

この思いがけない賑やかな一行の乗込みで、せっかくの話の出鼻をすっかり折られた老爺は、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られた<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をしているところへ、早くも乗込んだ六人の角兵衛獅子が、

「角兵衛、まったったあい――」

<ruby><rb>卍巴</rb><rt>まんじどもえ</rt></ruby>とその前でひっくり返ると、てれてんつくと、ヒューヒューヒャラヒャラが、<ruby><rb>一際</rb><rt>ひときわ</rt></ruby>賑やかな景気をつけました。

ほかにお客というのはないんだから、この角兵衛獅子の見かけた旦那というのは、おれのことだろう。そこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は、どうしても御祝儀を気張らないわけにはゆかなくなりました。

「兄貴に負けずに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しっかり</span>やんなよ」

と言って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は例の左手で懐ろから財布を引き出すと、その中から掴み出した一握りを、鶏の雛に餌を撒くような手つきで、バラッと投げ散らしました。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は、角兵衛獅子を相手に<ruby><rb>大尽風</rb><rt>だいじんかぜ</rt></ruby>を吹かしていると、妙義の町の大人も子供も、その騒ぎを聞きつけて出て来ました。この見物の半ば最中に、角兵衛獅子の登って来たのとは反対の方角の側から、同じところへ登って来た一行があります。

この一行は角兵衛獅子のような嗚物入りの一行とは違って、よく<ruby><rb>山方</rb><rt>やまかた</rt></ruby>に見ゆる<ruby><rb>強力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>が同勢合せて五人、その五人ともに、いずれも屈強な壮漢で、向う鉢巻に太い杖をついて、背中にはかなり重味のある荷物を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>っています。

大尽風を吹かしていた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百が、ふとこの五人の同勢の登って来たのを見ると、

「おいおい角兵衛さん、もうそのくらいでいいよ、御苦労御苦労」

ここへ来た五人の強力の同勢は、さあらぬ<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>に、この額堂下の甘酒屋へ繰込んで来ました。

先に立った強力の一人を、よく気をつけて見れば只者ではないようです。そのはず、この男こそ、碓氷峠の陣場ヶ原で一昨夕、焚火をしてなにものをか待っていた南条力でありました。すでにこの男が南条力でありとすれば、その次にいるのが五十嵐甲子雄であることは申すまでもありますまい。そのほかの三人は、あの陣場ヶ原のひきつぎの時に、三方に立って遠見の役をつとめていた三人の武士。それが都合五人ともに、いつのまにか申し合せたように<ruby><rb>強力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>姿に身をやつしています。急に、てんてこ舞するほど忙しくなったのは甘酒屋の老爺で、この五人の馬のような新しいお客様と、それから、たった今、一さし舞い済ました小さな角兵衛獅子が改めてこのたびのお客様となったのと、それにつれそう太鼓の親方と、笛の若者とに供給すべく、新しく仕込みをするやら、茶碗に<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いをかけるやら、炭を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>ぎはじめるやら、ここはお<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんが車輪になって八人芸をつとめる幕となりました。

やがて五人の強力は、一杯ずつの甘酒に<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をうるおすと、<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>しておいためいめいの荷物を取って肩にかけ、南条力が目くばせをすると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百が心得たもので、

「<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>さん、また帰りに寄るよ」

と言って幾らかの<ruby><rb>鳥目</rb><rt>ちょうもく</rt></ruby>をそこへ投げ出して、立ち上ります。

額堂を出た<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>を先登に、南条らの一行は白雲山妙義の山路へ分け入ったが、<ruby><rb>下仁田街道</rb><rt>しもにたかいどう</rt></ruby>の方へ<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れるあたりからこの一行は、急速力で進みはじめました。

## 十一

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>を初め南条の一行が、山へ向けてここを去ってしまい、角兵衛獅子の一座もほどなく町の方へ引返してしまい、それから<ruby><rb>小一時</rb><rt>こいっとき</rt></ruby>ほどたって、同じ額堂下の甘酒屋へ、同じような風合羽を着た道中師らしい二人の男が、ついと入って来て、二人向き合って縁台に腰をかけて、

「どっこいしょ」

杖について来た金剛杖でもない手頃の棒をわきに置いて、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>のまま右の足を曲げて左の方へ組み上げたのは、町人風はしているけれども、決して町人ではありません。

それと向き合った一方のは、前のに比べると年配であります。これはまあ<ruby><rb>生地</rb><rt>きじ</rt></ruby>が百姓らしい上に一癖ありそうで、前のほど<ruby><rb>横柄</rb><rt>おうへい</rt></ruby>でないところは、主従とも見えないが、たしかに前のに対して一目は置いているようです。

この二人は甘酒に咽喉をうるおしながら、期せずして頭の上の、例の大きな額面に眼が留まりました。

「ははあ、甲源一刀流、秩父の<ruby><rb>逸見</rb><rt>へんみ</rt></ruby>だな」

と言ったのは、足を曲げていた方の道中師です。

「なるほど、逸見先生の<ruby><rb>御内</rb><rt>おうち</rt></ruby>で、大した額を奉納なさいました」

前のは言い方が横柄で、後のは幾分か<ruby><rb>慎</rb><rt>つつま</rt></ruby>しやかであります。

「うむ、比留間与助、知ってる、桜井なにがし、あれも名前は聞いている、それから三番目……のはどうしたんだ、<ruby><rb>白紙</rb><rt>しらかみ</rt></ruby>を頭から貼りかぶせたのは<ruby><rb>不体裁</rb><rt>ふていさい</rt></ruby>極まるじゃないか」

その口調にこそ相異はあれ、たった今、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百がしきりに憤慨したのと同じ動機に出でているので、心ある人ならば、誰もその無下な仕方を不快に思わないものはないはずです。

「左様でございますな、何とか仕方がありそうなものでございますな、せっかくの結構な額が、あれのためにだいなしになってしまいますでございますね……おやおや、お待ち下さいましよ」

年配の方の道中師が、やはり、それをながめているうちに<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>が曇ってきました。

「何だ、どうかしたのか」

<ruby><rb>横柄</rb><rt>おうへい</rt></ruby>の方のが、それを聞き<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めると、

「その次に記されておいでになるのは、ありゃ何とございます、宇津木……宇津木と書いてあるんじゃございませんか」

「そうそう、宇津木と書いてある、宇津木文之丞……」

「わかりました、わかりました、思いがけないところで、思いがけない人にぶっつかりましたよ、いやどうも、なんだか怖ろしい因縁がついて廻っているようでございますよ、驚きました」

こう言って、例の白紙に貼りつぶされた無名の剣客の名前を、呪われたもののような眼付でながめ入るのが変でしたから、横柄な方の道中師が、

「貴様、<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>で、幽霊のようなことを言ってはいかん」

「先生、この白紙をかぶせられているお方の名前を、私はちゃんと読みました、紙の上から、ちゃあんと見透しました、千里眼ですよ、失礼ながら先生にはそれがお出来になりますまい」

「何を言ってるんだ、そんなことがわかるものか」

ここに二人の道中師という、その年配の方のは七兵衛であります。そうして横柄な方のは、もと新徴組にいた浪士の一人で、香取流の棒を使うに妙を得た水戸の人、山崎譲であります。

七兵衛と山崎譲とが、こうして組んで歩くことは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百が南条力の手先になっていることよりは、むしろ奇妙な縁と言わなければなりません。

<ruby><rb>壬生</rb><rt>みぶ</rt></ruby>の新撰組にあって山崎は変装に妙を得ていました。七兵衛が島原の遊廓附近に<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>うて、お松を受け出す費用のために、壬生の新撰組の<ruby><rb>屯所</rb><rt>とんしょ</rt></ruby>へ忍び入った時に、山崎はたしか小間物屋のふうをして、そのあとを追い、さすがの七兵衛の<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を冷させたことがあります。

それがいつのまに妥協が出来たのだろう、こうして主従のような、<ruby><rb>同行</rb><rt>どうぎょう</rt></ruby>のような心安立てで歩いているまでには、相当のいきさつがなければならないことです。

思うに、七兵衛と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>とは、甲府の神尾主膳の屋敷の焼跡を見て、その足で木曾街道を一気に京都まで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のし</span>たはずであります。山崎譲はその以前、同じく甲府の神尾方へ立寄って、それから道を<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>げて奈良田の温泉に入っている時に、計らず机竜之助――それは新撰組では吉田竜太郎の変名で知られているその人に逢いました。そこで竜之助と別れて後、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>へ<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せつけたはずであります。また南条と五十嵐との両人も、何か上方の変事を聞いて大急ぎで東海道を馳せ上ったはずであるから、彼等は期せずして上方の地で一緒になったものでしょう。そうして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は南条、五十嵐らにつかまってその用を為すに至り、七兵衛は山崎譲につかまって、何かの手助けをせねばならぬ因縁が結ばれたものと思われます。

「先生、あなたも少々お<ruby><rb>頭</rb><rt>つむり</rt></ruby>を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>ってごらんなさい、すぐにそれとおわかりになることじゃございませんか」

「なに、貴様にわかって、拙者にわからんことがあるものか」

と言って、改めて甲源一刀流の開祖、逸見太四郎義利の文字から読みはじめて、門弟席の第一、比留間、桜井、その次の白紙の主を、紙背に<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>るという眼光で見つめていたが、突然、

「ははあ、なるほど」

小膝を<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>と打ちました。

「それごらんなさいまし」

七兵衛は得意の微笑を浮べると、山崎の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>には一種の感激が浮びました。

「あれだ、あの男だ、そうか、なるほど……いやあの男には、拙者も重なる縁がある、大津から<ruby><rb>逢坂山</rb><rt>おうさかやま</rt></ruby>の追分で、薩州浪人と果し合いをやっている最中に飛び込んだのは、別人ならぬこの拙者だ。壬生や島原では、かけ違って、あまり面会をせぬうちに、組の内はあの通りに分裂する、芹沢が殺されて、近藤、土方が主権を握るということになったが、その後、あの男の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>がわからぬ、そうしているうちに、思いがけないにも思いがけない、甲州の白根山の麓、ちっぽけな温泉の中で、あの男を見出した、かわいそうに、目がつぶれていたよ、盲になって、あの温泉に養生しているのにぶっつかったが、その時は涙がこぼれたなあ。あれは甲府の神尾主膳へ紹介しておいたなりで、拙者も忙しいから上方へのぼって、今まで忘れていたようなものだ、ここであの男に会おうとは意外意外」

山崎譲は額面の上を仰ぎながら、感慨に堪えないような言葉で、こう言いました。

「おや、そうでございましたか。実はあの時分、私共も、あの方を尋ねて富士川口から甲州入りをしていたんでございますが……とうとうお目にかかることができませんでした」

七兵衛はこう言って、何の気もなしに縁台の薄べりへ手を置いた時に、何か手先にさわるものがありました。

指の先へ触ったものを、なにげなく眼の前へ<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで来て七兵衛は、

「おや」

物珍しそうに、それをじっと見込みました。

「先生、先生」

「何だ」

「や、こいつはいい物が手に入りましたぜ」

「いい物とは何だ」

「これでございます、こんないい物が手に入るというのは、天の助けでございますな、お喜び下さい」

「何のことだか、拙者にはわからん」

と言って山崎譲が、七兵衛の手に<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>み上げたものを見ると、それは径一寸ばかりの<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゅう</rt></ruby>の輪にとおした、<ruby><rb>五箇</rb><rt>いつつ</rt></ruby>ほどの小さな合鍵でありました。

「おいおい、お<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>さん」

七兵衛は山崎譲にその合鍵の輪を渡して、自分は甘酒屋の親爺を呼びました。

「はいはい」

「もうちっと先に、これこれのお客が、お前さんのところへ見えなかったかい。これこれではわかるまいが、ちょっと小いきな男で、片腕が一本無えんだ……身なりは、これこれ」

<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>ててそれを引取って、

「ええ、ええ、間違いございません、確かにおいでになりました、たった今でございます、<ruby><rb>小一時</rb><rt>こいっとき</rt></ruby>ほど前のことでございます、ここで甘酒を召上りになって、角兵衛獅子に散財をしておやりなすった親分がそれなんでございます、その通りのお方でございました」

「そうだろう、そうなくっちゃならねえのだ……先生、そいつは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の奴の道具でございます、あいつ、何かに<ruby><rb>狼狽</rb><rt>あわて</rt></ruby>たと見えて、ここへこんなボロを出して行ったのが運の尽きですな」

「なるほど、そうしてみるとよい<ruby><rb>獲物</rb><rt>えもの</rt></ruby>だ」

「爺さん、それからどうしたい。その片腕の男は、角兵衛に散財をして、それからどっちの方へ出て行きました」

「エエ、なんでございます、多分、お山を御見物でございましょう。お帰りにお寄りになるとおっしゃったから、<ruby><rb>金洞山</rb><rt>こんどうざん</rt></ruby>から<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>の<ruby><rb>岳</rb><rt>たけ</rt></ruby>の方をめぐって、そのうちには、また私共へお戻りになるでございましょうと思います」

「そうしてその男は、一人っきりだったかね、それとも連れがあったかね」

「左様でございます、おいでになった時はお一人でしたが、お出かけになる時は、どうもあれはお連れでございましょうか、それとも別々なんでございましょうか、よくわかりませんが、強力が五人ほど一緒に連れ立って参りました」

「それだ」

山崎譲が、その時に足を踏み鳴らしました。

「どうやら、先生のおっしゃった通りの筋書でございますな」

「そうだろう、どのみち、それよりほかにはないんだ」

「それでは、出かけようじゃございませんか」

七兵衛から<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>されて、山崎譲は、

「まあまあ、待て」

甲源一刀流の額面を仰いで、何をか一思案の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>に見えました。

七兵衛が<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>の紐を結んでいると、額面を仰いでいた山崎は、

「ちょっ、どう見ても<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわるなあ」

と舌打ちをしました。

「全く、あいつは、小癪にさわる奴でございますよ。そもそも、私共が、あいつと知合いになったのは、東海道の<ruby><rb>薩埵峠</rb><rt>さったとうげ</rt></ruby>の倉沢で<ruby><rb>鮑</rb><rt>あわび</rt></ruby>を食った時からでございますがね、その時から、あいつは無暗に、私に<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>をついてみたがるんで、私が三里歩けば、あいつは五里歩いて見せようという意地っ張りがどこまでも附いて廻って、とうとうあの片腕を落すまでになったんでございます。それでも持って生れた<ruby><rb>性根</rb><rt>しょうね</rt></ruby>というやつは、なかなか直るもんじゃなく、私が先生について一肌脱ごうということになると、あいつが、いい気になって、浪人たちの方へ廻り、ああやって意地を見せようというんですから、全く始末の悪い奴ですよ。ナニ、大した悪党じゃございませんが、ずいぶん小癪にさわるいたずら野郎でございます」

七兵衛は<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>の紐を結び換えながら、こんなことを言うと、額面を仰いでいた山崎が、何か<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻して、額堂の軒に立てかけてあった二間梯子のあたりへ横目をくれながら、

「そのことを言っているのじゃねえ……七兵衛、ちょっとその手拭を貸してくれ。爺さん、この手桶を、こっちへ出してくれねえか」

「へえへえ」

甘酒屋の<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>は言われるままに、<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>の入った手桶を取って山崎の前へ提げて来ると、山崎譲は柄杓を右の手に取って、左の手で、七兵衛から借受けた手拭を、少し長目に丸めてザブリと水をかけ、さいぜん横目にながめていた二間梯子のところへ行って、それを右の手に抱え込んで、甲源一刀流の掛額のところに立てかけました。梯子を立てかけた山崎譲は、左手に濡手拭をさげたままでドシドシと梯子を上って行くから、

「旦那、何をなさるんでございます」

甘酒屋の親爺が仰天すると、梯子を一段だけ踏み残して上りつめていた山崎譲は、背伸びをして、その甲源一刀流の大額の、門弟席の初筆から三番目の張紙の上へ、グジャグジャに濡れていた手拭を叩きつけたから、

「先生、ナ、ナニをなさるんで」

七兵衛もまた、甘酒屋の老爺と同じように<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てました。

「この男をこうしておくのが癪にさわるんだ、<ruby><rb>開眼導師</rb><rt>かいげんどうし</rt></ruby>には、水戸の山崎譲ではちっと不足かも知れねえ」

濡らしておいた張紙をメリメリと引きめくると、その下に隠れていたまだ新しい木地の上に、ありありと現われたのはなるほど、机竜之助相馬なにがしの文字であります。

## 十二

その前後のことでありました、<ruby><rb>碓氷峠</rb><rt>うすいとうげ</rt></ruby>の横川の関所から始まって、同心や捕手が四方へ飛びましたのは。

聞いてみると、それはこんなわけです。昨夜、加州家の宰領の附いた<ruby><rb>荷駄</rb><rt>にだ</rt></ruby>が二頭、峠を越えて坂本の本陣まで着いたことはわかっているが、それから以後の行動が明らかでないということです。馬だけは確かにつなぎ捨てられてあるが、馬の背にのせた若干の荷物と、それに附添った侍と馬方との<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>が、わからないとのことです。

取調べてみると、たしかに加州家の荷物で、北国筋からかなり長い旅路を送られて来たことも確かです。ただ問題になるのは、そののせられて来た荷物です。或いは金箱をかなり多く、何万というほどの<ruby><rb>額</rb><rt>たか</rt></ruby>を積んで来たものだろうという説もあります。また、それは<ruby><rb>金子</rb><rt>きんす</rt></ruby>ではなく、火薬の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>だろうという説もありました。ここには例の加州家の鉄砲倉もあることだから、或いはそれに要する火薬の類を運送して来たのではなかろうかという説によって、鉄砲倉や、<ruby><rb>煙硝蔵</rb><rt>えんしょうぐら</rt></ruby>を調べて見たけれども、そこにはなんらの異状もありません。

その評定半ばのところへ、上方から飛脚が飛んで来て、はじめてこの事件の性質がわかりました。それは火薬ではなく金。その金額は二万両。それはこういうわけです。

これより先、水戸の家老、武田耕雲斎が大将となって、正党の士千三百人を率いて京都に<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ上り、<ruby><rb>一橋慶喜</rb><rt>ひとつばしけいき</rt></ruby>に就いて意見を述べようとして、奥州路から上京の途につきました。その途中を支える諸大名の兵と戦いつつ、ついに加賀藩まで行ったけれど、そこで力が尽きて降参し、耕雲斎をはじめ、<ruby><rb>重</rb><rt>おも</rt></ruby>なる者はことごとく加州領内で殺されることになり、藤田小四郎もその時に斬られた一人であります。ともかくもこれらの志士を、北国の雪の中に見殺しの悲惨な運命に逢わせたその責めは、誰に<ruby><rb>帰</rb><rt>き</rt></ruby>すべきものであるか知れないが……その時に行方不明になった若干の軍用金が、ここの問題になる金なのであります。その以前、<ruby><rb>筑波</rb><rt>つくば</rt></ruby>騒動の時、武田伊賀守（耕雲斎）が幕府へ向けて、騒動を鎮めるための軍用金として借受けた三万両の金がありました。その借用証は伊賀守一人の印で受取って、三万両のうちの一万両は小石川の水戸家の蔵へ納めました。けれども、あと二万両の金の行方が誰にもわからないのであります。或る者はすでに筑波騒動以来の軍用に<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>ってしまったとも言い、或る者は北国まで上る長の路用に尽きてしまったとも言い、或る者は、まだ他日に備えるために耕雲斎や藤田の<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>に最後まで残してあったのを、いよいよ殺されるときまった前に、不意にその金を受渡してどこへか運んで行ったものがある、今となって見ると、その二万両が、たしかにあの二頭の馬の背に積まれて、五人の人に護られて、碓氷峠を越えたのだということが、有力な観察でありました。

さて、この二万両の金と、ほかに重要な荷物の多少が、ここからどこへ運ばれて何に使用されるのか……問題はそれで、同心や捕方が四方に飛んだのもその探索のためであります。

その晩、夜通しで、信濃と<ruby><rb>上野</rb><rt>こうずけ</rt></ruby>の境なる<ruby><rb>余地峠</rb><rt>よじとうげ</rt></ruby>の難所を、<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>を振り照らして登って行く二人の旅人がありました。

前なるは七兵衛で、後のは山崎譲であります。棒を取っては腕に覚えの山崎譲も、足においてはとうてい七兵衛の敵ではありません。一夜に五十里の山路を、平地のように飛ぶ七兵衛が先に立っての案内ぶりは、子供のあんよを気遣っているようなものです。峠の上で、

「七兵衛、一休みやらんことには、もう歩けぬわい」

山崎が弱い<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を吹くと、

「もう少しお降りなさいまし、いいところを見つけて焚火を致しましょう」

<ruby><rb>山間</rb><rt>やまあい</rt></ruby>へ来て、枯木を集め、松明の火をうつして焚火をはじめ、

「先生、まだ私にはよくわかりませんがなあ、その五人の<ruby><rb>強力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>というのはいったい何者なんでございます、それほど大事なものを持って、わざわざこんな道を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り抜けて甲府へ落着こうというのは、何かよくよくの<ruby><rb>謀叛</rb><rt>むほん</rt></ruby>でもあるんでございましょうな、ひとつその辺のところをお聞かせなすっておくんなさいまし」

七兵衛からこう言って尋ねかけられた時に、山崎は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、

「うむ、もっともな不審だ、お前から尋ねられなくても話そうと思っていたところだ。その五人の強力というのは、<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>はまだよくわからないのだが、それはたしかに中国から九州辺の浪人だ、なかには容易ならん大望を持った奴がある。容易ならん大望というのは、隙を見て、甲府城を乗取ってしまおうという計画なのだ。甲府の城は名だたる要害の城で、徳川家でも怖れて大名に与えずに天領としておくところだ、それを乗取れば関東の<ruby><rb>咽喉首</rb><rt>のどくび</rt></ruby>を抑えたということになるのだ。その五人の強力に化けた奴は、たしかにその一味の者共だ。そうしてあいつらが、坂本の宿へ馬を置きっ放しにして姿を<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>ましたのは、言わずと知れた妙義の裏山から信州へ出て、山通しを甲府へ乗り込む手順に違いない。それからお前の兄弟分だとかお弟子だとかいう、その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>とやらが甲州者で道案内だと聞いて、いよいよそれを確めてしまったのだ。あいつらの携えている荷物というのは、水戸の武田耕雲斎が幕府から借りた三万両のうち、二万両がそっくりあるはずだ、それがあいつらの事を挙げる軍用金になるのは知れたことだ。ことによると、山通しをいよいよ甲府へ出るまでには、仲間の奴等がどこから出て来るか知れたものじゃない。まあしかし、落着くところは甲府ときまっているんだから、<ruby><rb>追蒐</rb><rt>おいか</rt></ruby>けるにも、そう急ぐことはないや、あいつらに気取られるとかえってことが面倒になるから、気をつけて案内してくれよ」

それを聞いて七兵衛が、しきりに感心して、

「なるほど、そりゃちっと、こちとらのやる仕事より大きいや、甲府の城を乗取って、お膝元を横目に見ながら、天下をひっくり返そうというんだから、出来ても出来なくっても、仕掛けが小さくはございませんな。よろしうございます、向うがその<ruby><rb>了見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>なら、こっちもそのつもりで、先生の御用をつとめてつとめて、ぶちこわし役に廻るのも面白うございますね、ずいぶんやりましょう」

## 十三

相生町の老女の家の一間で、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、お松は兵馬の着物を畳んでおりました。

いつも元気で快活なお松が、このごろ、しおれているのが眼に立つほどで、今も着物を畳みながら、眼にいっぱいの涙をたたえております。

今日も兵馬の留守中、用ありげに来た二人の客があります。その一人は、甲府からついて来たあのいやらしい金助という男で、あれがこの間、兵馬をはじめて吉原へ連れて行った男であります。あの男が来るたびに兵馬さんは落着かなくなって、その<ruby><rb>都度</rb><rt>つど</rt></ruby>、お金の心配をなさるような御様子がありありとわかるのである。夜更けになってお帰りなさることもあるし、また、どうかすると一晩泊ってお帰りになることもあるが、そのお帰りになった後のお<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の色は、打沈んで、<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>をついておいでなさるのが、今までの兵馬さんとはまるっきり違う。

もう一人の来客は、たしか刀屋であると言っていたが、もしや兵馬さんが御所持の腰の物を、あの刀屋にお払い下げになるつもりではあるまいか……そんならばほんとうに一大事。

それを思うと、覚えず涙が眼の中にいっぱいになって、幾度も着物を畳み直しているうちに、ふとその<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の中から、読み捨てた一封の手紙が、何か物を言うように<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>び出しました。

お松は、はっとして、その手紙を手に取り上げて見ると女文字です。ひろげて見ると、<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましいほどに手ぎわよく書いてあって、<ruby><rb>文言</rb><rt>もんごん</rt></ruby>は読まない先に、その<ruby><rb>水茎</rb><rt>みずぐき</rt></ruby>のあとの<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしさと、ときめく香が、お松の眼をさえくらくらとさせるようでありました。お松は、一種の<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさがこみ上げて、手紙を取る手がワナワナとふるえました。

その時に、廊下で人の足音がします。

「お帰りなさいませ」

そこへ帰って来たのは兵馬であります。お松は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて、あの<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい手紙を自分の懐ろへ押入れて、兵馬の前へ丁寧にお辞儀をしながら、そっと涙を隠しました。

「そうしておいて下さい」

「あの、兵馬様、今日はお留守中に、お客様が二人おいでになりました」

「来客が二人、そうしてそれは誰と誰？」

「一人は、いつもの金助さんでございますが、もう一人は、久松町辺の刀屋だとか申しておりました」

「ははあ、刀屋が来ましたか。それから、金助は何と言いました」

「あの方は何とも申しません、ただ、わたしに向って、このごろはさだめてお淋しうございましょうと、笑いながら言いましただけでございます」

こう言ってお松は、伏目になりました。

「ははあ……何を言うのかあいつの言うことは、取留まったものではない」

兵馬はやはり、淋しき笑いに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らわそうとするらしいが、

「兵馬様」

そのときお松は、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と心を取り直したように<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を上げて、兵馬の名を呼びました。

「何でござる」

「あなた様は、このごろ、どちらの方へ多くお出かけになりまする」

「何を改まって、そのようなことをおたずねなさる」

「いいえ、わたくしは、それをお伺い致さねばならないほど、このごろは、ほんとに気が弱くなってしまいました」

「そなたの言うことが、わしにはよくわかりませぬ。<ruby><rb>拙者</rb><rt>わし</rt></ruby>のこのごろの出先といって、その目的は、そなた存知の通りなれど、出先はやはり今日は東、明日は西、どこときまったことなく江戸の天地を、四角八面に<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り歩いているようなものじゃわい」

「それならよろしうござんすけれど、わたくしのこのごろお見受け申すあなた様は、前のあなた様とは別のお方のようでございます、それが悲しうございます」

「ナニ、<ruby><rb>拙者</rb><rt>わし</rt></ruby>が以前とは別な人のようになった……ははあ、そなたの眼に左様に見えますか」

「ええ、ええ、失礼ながら、これまでのあなた様は、どんな艱難にお逢いになっても、お心の底には強いところが<ruby><rb>確乎</rb><rt>しっかり</rt></ruby>としておいでになりましたけれど、このごろは、それがゆらゆらと動いておいであそばすようにばかり、わたくしの眼には見えてなりませんのでございます、お出ましになる時も、帰っておいでになる時も、あなた様のお面にも、お心持にも、おやつれが見えるばかりで、昔のような落着きというものが、一日一日になくなっておいでなさるように見えますのが、わたくしには悲しくてなりませぬ」

と言ってお松は、涙をこぼしました。

その晩はお松は、こし<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>や行く末のことを考えて、いまさら、人の心の頼みないことを、しみじみと思いわびて眠れませんでした。

懐ろへ入れて来たあの女文字の手紙を取り出して読み返してみると、舌たるいような言葉で、ぜひぜひ今宵のおいでをお待ち申し上げますというような文言であります。女の名は<ruby><rb>東雲</rb><rt>しののめ</rt></ruby>とあって、宛名は片柳様となっていました。片柳の名は、兵馬が好んで用うる変名であり、東雲というのは、吉原のなにがし楼かにいる遊女の源氏名に違いない。お松はそれが悲しくもなり、腹立たしくもなって、その手紙を引裂いてやろうかと思いました。

その遊女も憎らしいけれど、兵馬さんほどの人が、どうしてまたそんな狐のような女に、<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くも溺れるようになったのか、あの人の心に天魔が<ruby><rb>魅入</rb><rt>みい</rt></ruby>ったと思うよりほかはなく、それが<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しくて口惜しくてなりません。といって、よく考えてみれば、こうして自分というものがお傍におりながら、そんな<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>し女に兵馬さんの心が移るようにしたのは、やはり自分が足りないからだと思うと、どうも残念でたまりません。どうかして、再び兵馬さんの心を、その女から取り戻さなければならないが、あちらは人を<ruby><rb>誑</rb><rt>たぶらか</rt></ruby>すことを商売にしている人。その腕にかけては、とても太刀打ちのできないわたしであるかと思うと、お松は<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て知らなかった<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましさに、<ruby><rb>身悶</rb><rt>みもだ</rt></ruby>えをさえするのでありました。寝られないから、お君の病気の容態を見舞に行って気を紛らそうと廊下へ出ると、兵馬の部屋の中で、

「へえ、それはもうお買戻しになりまする節は、手前共にございまする間は、いつでも仰せに従いまする、また他の品とお取替えになりまする場合にも、せいぜい勉強致しまして、お使いを下さいますれば、早速お伺い申し上げまする」

と言っているのは、刀屋の番頭らしくあります。

それを耳にした時も、お松は胸を打たれました。それでは、大切のお腰の物をお放しなさる気になったのか、それほどお<ruby><rb>入用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>の金ならばわたしの手で……と思いましたけれども、実は、このごろの自分は、もう貯えのお金とても無いし、自分が持っていないのみならず、お君さんにも、また御老女様にも借金までしてある、その借金はみんな、よそながら、あの人の困る様子を見るに見兼ねて融通して上げたお金であるが、今のところ、返さなくてはならないというほどの義理があるのではないけれど、なるべく早く、なんとかして返して上げたいものだと思っているくらいだから、この上、あの人たちに無心ができるものではない。

といって、あの人が、みすみす武士の魂という腰の物までも手放そうとなさる今の場合、そのお力にもなれない自分の身の意気地のないことが思われてなりません。お松はそこで、もうお君を見舞に行くほどの勇気もなくなって、さあ、なんとかして、たった今あの刀屋を帰さないようにして上げる手段はないものかと、また自分の部屋へ取って返したけれども、もう所持品にしても、さして金目のあるものはなく、ただ<ruby><rb>蔵</rb><rt>しま</rt></ruby>ってあるのは着物だけであるけれど、それとても、今宵の間に合うのではなし、ああ、こんな時にあの七兵衛のおじさんが来てくれたならと、あてのない人を<ruby><rb>空頼</rb><rt>そらだの</rt></ruby>みにして、とうとう夜を明かしてしまいました。

翌朝になってみるとお松は、また兵馬に対して、どうやら済まない心持になりました。

それで、廊下を通りがけに兵馬の部屋を訪れてみると、もうその時に兵馬はそこにおりませんでした。お松は、せっかく、しおらしい心に返ったのが、またむらむらと抑えきれない不快の心に襲われて、足早にそこを立去ろうとするところへ、なにげない<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をしてやって来る一人の男に、ハタと行当りました。

「お早うございます」

「おや、お前は金助さんではないか」

「はい、その金助でございます」

お松も、<ruby><rb>小面</rb><rt>こづら</rt></ruby>の憎いイヤな奴と思いながらも、何か尋ねてみたい気になって、

「金助さん、宇津木さんはおりませんよ、何か御用なら、わたしが承っておきましょう」

「左様でございますね、別に御用ってほどのこともねえでございますがね、それではこれでお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を致しましょうか知ら」

「あの、金助さん、お前さんに御用がなければ、わたくしの方にお聞き申したいことがあるのですけれど、ちょっとあちらまで来て下さいませんか」

「へえ、お松様、あなた様から何か私に御用があるとおっしゃるんですか、よろしうございます、そうおっしゃられるといやと申し上げるわけにも参りませんな、お邪魔を致しましょう」

金助は恩にきせるような言い方をして、お松のあとに従って、長い廊下の奥へ行く途中で、

「なるほど、結構なお邸でございますな、ははあ、こちらの障子が霞でございますな、<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>の<ruby><rb>蜀江崩</rb><rt>しょっこうくず</rt></ruby>しがまた恐れ入ったものでげす、お床の間は鳥居棚、こちらはまた<ruby><rb>織部</rb><rt>おりべ</rt></ruby>の正面、間毎間毎の結構、眼を驚かすばかりでございます、<ruby><rb>控燈籠</rb><rt>ひかえどうろう</rt></ruby>の<ruby><rb>棗形</rb><rt>なつめがた</rt></ruby>の<ruby><rb>手水鉢</rb><rt>ちょうずばち</rt></ruby>、あの物さびたところが何とも言われません、<ruby><rb>建前</rb><rt>たてまえ</rt></ruby>にこうして渋いところを見せ、間取りには<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らしておいて、茶室や袖垣のあんばいに、物の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さび</span>というところをたっぷりとあしらったところなどは実際憎うございますよ。おやおや、大した石燈籠、こりゃ本格ですよ、<ruby><rb>橘寺形</rb><rt>たちばなでらがた</rt></ruby>の石燈籠、これをそのまま据えたところなんぞは、飛ぶ鳥も落すようなものでげす、十万石以上のお大名でもなけりゃ出来ません。全く驚きました、表からお見かけ申したんじゃ、これほどのお<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>と気のつくものはございません」

金助は相変らず歯の浮くような<ruby><rb>追従</rb><rt>ついしょう</rt></ruby>を並べて、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>をキョロキョロ見廻しながら、お松に導かれて廊下を歩いて行きます。

## 十四

その時分、お君はムク犬を連れて、奥庭を歩いておりました。

いつぞやのように<ruby><rb>打掛</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>こそ着ていないけれども、<ruby><rb>寝衣姿</rb><rt>ねまきすがた</rt></ruby>のままで、手には<ruby><rb>妻紫</rb><rt>つまむらさき</rt></ruby>の<ruby><rb>扇子</rb><rt>せんす</rt></ruby>を携えて、それで拍子を取って何か小音に口ずさんで歩いて行くと、それでも例によってムクは神妙にあとをついて、<ruby><rb>築山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>の前の芝生まで来ました。

「ムクや、お前とここで<ruby><rb>投扇興</rb><rt>とうせんきょう</rt></ruby>をして遊びましょう、わたしが投げるから、お前、取っておいで」

こう言ってお君は、手にしていた扇子を<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と開いて投げました。扇子は流星のように飛んで<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の芝生の上に落ちると、ムクはユラリと身を躍らして一飛びに飛んで行き、<ruby><rb>要</rb><rt>かなめ</rt></ruby>のあたりを<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて、開いたなりの扇子を、再びお君の手に渡します。

「おお、よく持って来てくれました、お前はほんとによい犬だ、わたしのムク犬や、もう一度、投げるから取っておいで、いいかい、今度は、下へ落ちないうちに受けるのですよ」

開いてあったその扇子を、ピタリと締めて、お君はそれを空中高く投げ上げました。

「さあ、下へ落ちないうちに」

中空高く上った扇子が、トンボのように舞って落ちて来ると、それは早くもムクの大きな口の中に啣えられました。

「上手上手、まだお前、いろいろの芸当が出来るんだね、<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>の<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby>にいた時から、わたしが仕込んだ上に、両国へ来てから、みんなに仕込まれたのだから、ずいぶんお前は芸の数を知ってるでしょう、忘れないでおいで。一旦覚えたものを忘れるようなお前じゃないけれど、それでも、お<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>いをしないと、人間だって忘れることが多いんだから無理もないわ」

お君はムク犬の口から、扇子を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して頭を撫でてやりましたが、

「忘れるといえば、わたし、三味線の手を忘れてしまやしないか知ら。間の山節は、わたしよりほかに歌える人はないんだから、あれをわたしが忘れてしまうと、あとを継ぐ人がない、それではお母さんに済まない」

お君はこう言ってその扇子を取り直すと、<ruby><rb>撥</rb><rt>ばち</rt></ruby>のつもりに取りなして、左の手で三味線を抱えるこなしをして、口三味線でうたいはじめ、

「大丈夫、わたしは決して忘れやしない」

淋しく笑って、池のほとりへ出ました。

「ムクや」

左へ廻って附いているムク犬を、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく右の方から尋ねて、

「お前、<ruby><rb>他見</rb><rt>わきみ</rt></ruby>をしちゃいけません、可愛い可愛いわたしのムク犬や、お前、何でもわたしの言うことを聞いてくれますね、お前は一旦覚えた芸は決して忘れやしませんね、だから、一旦お世話になった人も決して忘れやしないでしょう……ほんとに忘れないならば、お前、殿様をお探し申して来ておくれ、わたしを、あの殿様のいらっしゃるところへ、お前、後生だから連れて行っておくれ」

お君に、こう言って歎願されても、こればかりはムク犬も返答に困るらしくありました。

「いけないかい、こればかりはお前にもできないだろうね、そうでしょう、殿様はこの国にいらっしゃらないのだからね、海を越えて西洋というところへおいでになってしまったのだから、いくらお前が賢い犬でも、トテモ西洋までは行けやしないからね、これは、頼んだわたしの方が悪いのさ、わたしの方に無理があるんだから仕方がない」

お君は、こんなことを言いながら、池のまわりを歩いて行きましたが、

「けれどもね、無理のない言いつけなら、お前きいてくれるでしょう、わたしの頼みが間違っていなければ、お前は頼んだ通りによくしてくれるでしょう。そんならお前、友さんの<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>を教えて頂戴、米友さんはどこにいるか、そこへわたしを連れて行って頂戴、ね、そうでなければあの人を、ここへ呼んで来ておくれ。いいえ、あの人はきっとこの近所にいるのよ、近所にいるけれども、わたしをにくがっているから、それで来てくれないんだね。けれども、わたし決して友さんににくがられるような悪いことをした覚えはないのよ、あの人は気が短いから、一人で勝手に怒っているんだけれど、よく話をすれば、わたしのことだもの、そんなにわからない米友さんじゃないわ、わたし、もう一ぺん、ようく話をしてみたいと思うの、あの人を怒らしておいちゃ悪いわ、ほんとにあの人はいい人なんだから、怒らしておいちゃ悪いわ。けれども、どうしてあの人はあんなに気が短いんだろう、甲州で別れる時にも、わたしばかりじゃない、あの殿様を大変に悪く思って別れたんだから……殿様を<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>のように悪口を言って出て行ってしまったのは、お前もあっちにいたから、よく知っているでしょう、それがわたしにはどうしてもわからないの。殿様は悪いお方じゃありません、米友さんもちっとも悪い人じゃありゃしない、それだのに、どうして仇のように思うんでしょう。殿様は、あんなえらいお方でいらっしゃるし、友さんは、わたしと同じことに、とても身分は比べものにはなりゃしないけれども、それでもわたし、米友さんに憎まれるのはいや。いったいわたしゃ、殿様と米友さんとどっちがいいんだろう、どっちがほんとうに好きなんでしょう、わからなくなってしまった」

ムク犬は、もとよりこの疑問に答うべくもありません。

今まで忠実に主人を見守っていたムク犬が今度は、それと違って垣根の<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>を見つめています。前後の模様を見ると、垣根のかげから庭のうちをうかがっていたものがあるらしい。お君は全くそれに気がつかないが、ムク犬は早くもそれと感づいたらしいのです。

お君はその時に身のうちに<ruby><rb>寒気</rb><rt>さむけ</rt></ruby>を感じて、いつのまにか、恥かしい<ruby><rb>寝衣姿</rb><rt>ねまきすがた</rt></ruby>で、奥庭の池のほとりに立っている自分を見出しました。

「ああ、悪かった、わたしは、また気がゆるんでしまいました。誰も見ていなかったかしら。ムクや、お前こっちへおいで、わたしは内へ入りますから」

正気に返ったお君は、<ruby><rb>匇惶</rb><rt>そうこう</rt></ruby>として縁へ上って、障子の中へ身を隠してしまいました。

## 十五

それから暫らくたって、両国橋を<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>え<ruby><rb>楊枝</rb><rt>ようじ</rt></ruby>で、折詰をブラさげながら歩いて行くのは例の金助です。

「占めしめ、万事こう来なくっちゃならねえ、<ruby><rb>駒止橋</rb><rt>こまどめばし</rt></ruby>の<ruby><rb>獣肉茶屋</rb><rt>けだものぢゃや</rt></ruby>で一杯飲んで、帰りがけに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ももんじいや</span>へ寄って、狐を一舟<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>らせて、これから巣鴨の化物屋敷へ乗り込むなんぞは、我ながら凄いもんだ」

何か嬉しくてたまらないことがあるらしく、しきりに<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を言い言い歩きます。

「ところで、<ruby><rb>今様</rb><rt>いまよう</rt></ruby>の<ruby><rb>鈴木主水</rb><rt>すずきもんど</rt></ruby>を一組こしらえ上げてしまったなんぞは、<ruby><rb>刷毛</rb><rt>はけ</rt></ruby>ついでとは言いながら、ちっと罪のようだ」

こう言ってニタリと笑いました。この先生こそは、相生町の老女の家の兵馬を訪ねて来て、兵馬が出たあとをお松に見つかって呼び込まれて、何か兵馬の近頃の身の上について、お松に<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ってしまったことがあるらしい男です。

しかし、この先生のことだから、甲に向って喋ることと、乙に向って喋ることの間に、味をつけないで喋る気遣いはありません。そうしてその間に何かうまい汁がありとすれば、その<ruby><rb>余瀝</rb><rt>よれき</rt></ruby>を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>って、皿まで<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>ろうという先生だから、お松に尋ねられたことも、素直には言ってしまわないことはわかっています。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べんちゃら</span>と、お<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>ごかしを<ruby><rb>混合</rb><rt>ごっちゃ</rt></ruby>にして、けだもの茶屋の<ruby><rb>飲代</rb><rt>のみしろ</rt></ruby>ぐらいは、たしかにお松からせしめていることは疑うべくもありますまい。

ただ、そのくらいならばいいけれども、今様の鈴木主水を一組こしらえたというような言葉は、どうも聞捨てがならない。兵馬と<ruby><rb>東雲</rb><rt>しののめ</rt></ruby>との間が、果してどんなわけになっているのか知れないが、それをお松に向って輪をかけて<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>し、お松を<ruby><rb>嗾</rb><rt>け</rt></ruby>しかけるようなことにしては、これはたしかに罪です。お松はうっかりそれに乗せられるほどの女ではないけれど、こんな男の細工と口前が、ついつい大事を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起さないとも限らないから、実際は、お松も兵馬も、悪い奴に見込まれたと思わねばなりますまい。

それよりもなお危険なのは、この男がこれから、染井の化物屋敷へ行くと言ったことであります。染井の化物屋敷とは、つまり神尾主膳らの隠れ家をいうものです。神尾の許へ行くからには、どうせ<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なことでないのはわかっています。そうしてこの男が老女の家を辞して帰る時に、垣根の蔭から何か、そっと<ruby><rb>隙見</rb><rt>すきみ</rt></ruby>をしてその途端に、

「占めた」

と言って嬉しがりはじめたのは、やっぱりその辺に何か売り込むことが出来て、それを<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>に神尾へ乗り込もうという気になったのは、前後の挙動で明らかにわかります。

そうであるとすれば、その隙見は何を見たのだ。刻限から言っても、ムク犬が奥庭で、急にお君の傍を離れたことから言っても、我に返ったお君が、あわてて家の中へ隠れたのから見ても、この男は、はからずあの際、お君の姿を認めたものに違いない。そんならば確かに一大事です。甲府にいる時に、お君はたしかに神尾が一旦は思いをかけた女である、それをこの男が神尾へ売り込むとすれば、今でも神尾の好奇心を<ruby><rb>嗾</rb><rt>そそ</rt></ruby>るに充分であることはわかっているのであります。

それを知っているから金助は、また<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けの種にありついたように、前祝いかたがた<ruby><rb>獣肉茶屋</rb><rt>けだものぢゃや</rt></ruby>で一杯飲んで、上機嫌で両国の河風に吹かれながら橋を渡って行くものと見える。

こうして有頂天になって橋の半ばまで来た金助が、急に何かにおどかされたように、よろよろとよろけると、踏み留まることができず、<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くもバッタリ前に倒れて、暫し起き上ることができません。

「御免よ、御免よ」

金助が、ばったりと倒れて、暫く起き上れないでいる時、それを左に<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けてしきりにお<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びをしている者があります。それは竹の笠を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った小柄な男でありましたが、首っ玉へ風呂敷包を結び、素足に<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>をはいて、手に杖を持っておりました。

「この野郎、御免で済むと思うか」

ようやく起き上った金助は、目を怒らして小男を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけて、言葉を荒っぽくして叱りつけました。

「御免、おいらは草鞋の紐を結んでいたところなんだ、そこへお前が来て、よろよろとよろけたから、危ねえ！　と思って左へよけたんだ、左へよけた途端にお前が前へのめったんだから、おいらに罪はねえようなものなんだが、それでも時と場合だから、おいらの方からあやまってやらあ」

こう言って竹の笠を<ruby><rb>傾</rb><rt>かた</rt></ruby>げて、金助の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をジロリと見上げたのは、珍らしや宇治山田の米友でありました。しかしながら、金助は酔っていたせいかどうか、米友たることを知りません。だからその返答がグッと癪にさわったものと見え、

「おやおや、時と場合だから、貴様の方から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あや</span>まってやるんだって？　ばかにするな、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちんちくりん</span>」

金助は打ってかかろうとして拳を固めると、宇治山田の米友は一足後へさがって、そのまるい眼をクルクルとさせ、

「時と場合だろうじゃねえか、おいらはこうして<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて、草鞋の紐を結んで、笠をこうやって前に被っているから、向うは見えねえんだ、お前の方は、笠もなにも被らねえで、前からやって来るんだから、本当なら、おいらが突き倒されてしまうところなんだ、それを、危ねえ！　と思ったから左へよけて、おいらの身体は無事だったが、お前は、そのハズミを食って、おいらの代りに前へ倒れたんだ、まあ怪我をしなかったのが仕合せだあな、勘弁しろ、勘弁しろ」

こう言って感心にも宇治山田の米友は、相手にしないで行き過ぎようとします。これは米友としては出来過ぎですけれども、金助は血迷っていて、この米友の<ruby><rb>出来栄</rb><rt>できば</rt></ruby>えを買ってやる余裕がありません。

「おいおい、待て待てこの野郎、背は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちんちくりん</span>だが、どこまで人を食った野郎だか知れねえ、いよいよ癪にさわる言い草だ、待て」

金助は米友の筒袖を引張って、引留めました。

「そんなに引張らなくってもいいや、逃げも隠れもしやしねえよ、何か言い草があるなら、うんとこさと言いねえな」

かかる場合に、決してわるびれる米友ではありません。

「言わなくってどうする、今の言い草をもう一ぺん言ってみろ、本来なら貴様が突き倒されてしまうところを、危ねえ！　と思ったから左へよけて、貴様の身体は無事だったが、こっちがそのハズミを食って身代りに倒れたとは何の言い草だ、左へよけて身体の無事であった方は無事でよかろうけれど、身代りに倒された方こそいい<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>の<ruby><rb>皮</rb><rt>かわ</rt></ruby>だ、この面の皮をいったいどうしてくれるんだ」

金助はこう言いながら、グイグイと米友の着物を引張りました。

「おい、あんまり引張るなよ、<ruby><rb>質</rb><rt>しち</rt></ruby>の値がさがらあな、着物を引張らなくっても文句は言えそうなもんだ」

米友は仕方がなしに引き寄せられていると金助は、いよいよ怒り出して、

「この野郎、いやに落着いていやがら。いったい、人を転がしといて、身代りに倒れたで済むか、この野郎」

「だって仕方がねえじゃねえか、おいらが倒れなけりゃあお前が倒れるんだ、お前が倒れたからおいらは倒れないで済んだんだ、幾度いったって同じ理窟じゃねえか、いいかげんにしといた方がお前の為めになるよ」

この時に金助は、火のようになって、

「この野郎、もう承知ができねえ」

拳を上げてポカリと<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>わせようとしたが、相手が宇治山田の米友であります。

「おやおや、お前、おいらを<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つ気かい」

金助の打ち下ろした拳を、米友はしっかりと受け止めました。

「こんな<ruby><rb>獣物</rb><rt>けだもの</rt></ruby>は痛え思いをさせなくっちゃわからねえ、物の道理を言って聞かせてもわからねえ野郎だ」

拳を取られながら金助は、歯噛みをしていきり立っています。

「ジョ、ジョーダンを言っちゃいけねえ、理窟はおいらの方にあるんだ」

米友は金助の拳を、なおしっかりと握って、口の利き方が少し<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>ります。

「放せ、野郎、放せというに」

金助はしきりにもがくけれども、米友に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まれた手を、自分の力でははなすことができません。

「放さねえ」

米友も漸く、虫のいどころが悪くなってきたようです。

「放さなけりゃ、こうしてくれるぞ」

金助は左の手に持ち替えていた折を、<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>に振り上げて米友の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>へ叩きつけようとしたのを、素早く面をそむけた米友が、

「野郎！」

額の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>が緊張し、面の色が赤くなって、口から泡を吹きはじめました。しかしながら、ここまで込み上げたのをグッと<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えて、ただ金助の面を睨めただけで、その握った拳を、突き放しもしなければ打ち返しもしない。じっと泡を吹いたなりで我慢しているところは、さすがに米友も、いくらか修行を積んだものと見なければなりません。

それを、どう見て取ったのか、いい気になった金助は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かさ</span>にかかって、

「何だい、貴様の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>はそりゃ。両国の見世物にだって、近ごろ貴様のような面は<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>らねえや。ちょっと見れば<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>のようで、よく見れば<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>のようで、鼻から上は、まるきり猿で、鼻から下だけが、どうやら人間になってらあ、西遊記の悟空を、三日も行燈部屋へ漬けておくとそんな<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>になるだろう。よくまあ、<ruby><rb>昼日中</rb><rt>ひるひなか</rt></ruby>、その面をさげて大江戸の真中が歩けたもんだ、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいと思ったら、<ruby><rb>親許</rb><rt>おやもと</rt></ruby>へ持ち込むんだね、親許へ持ち込んで、<ruby><rb>雑作</rb><rt>ぞうさく</rt></ruby>をし直してもらって出直すんだ」

この時分、あたりへようやく人だかりがしました。人だかりがしたから、金助は、いよいよ得意げに毒舌を<ruby><rb>弄</rb><rt>ろう</rt></ruby>して、米友をはずかしめようとするらしい。

「野郎！」

米友は歯をギリギリと噛み鳴らしました。けれども、まだ、自分からは打ってかからない米友は、何か思う仔細があるのか、ただしは誰人かに新しく<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>の徳を教えられてそれを思い出したから、ここが我慢のしどころと観念しているのかも知れません。それをそれと知らずして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かさ</span>にかかっている金助は、噴火口上に舞踏していると言おうか、剃刀の刃を渡っていると言おうか、危険極まる仕事であります。

「何とか言えよ、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちんちくりん</span>」

右の<ruby><rb>利腕</rb><rt>ききうで</rt></ruby>を取られている金助は、この時ガーッと<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を鳴らして、米友の面上めがけて吐きかけようとしたから、

「野郎！」

ここに至って米友の堪忍袋の緒はプツリと切れました。片手に携えていた杖を橋の上にさしおくと、のしかかって来た金助を頭の上にひっかぶりました。米友の頭の上で泳ぐ金助を、意地も我慢も一時に破裂した米友は、そのまま橋の欄干近くへ持って行くと見るまに、眼よりも高く差し上げて、ドブンと大川の真中へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んでしまいました。

金助を川へ抛り込んだ米友は、物凄い<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして橋の上に置いた杖を拾い取ると、あっと驚く見物を見向きもせず、<ruby><rb>跛足</rb><rt>びっこ</rt></ruby>の足を、飛ぶが如くに向う両国を指して<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ行ってしまいました。

## 十六

神尾主膳の隠れている例の染井の化物屋敷は、依然として化物屋敷であります。

真中の<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>には神尾主膳が住み、そこへ出入りするのは、旗本のくずれであったり、御家人の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>者であったり、どうかすると、<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>や芸人上りのようなものであったりするけれども、ここではあまり騒ぐことはなく、三日に一度ぐらい、主膳はその家を忍び出でて、夜更けて帰ることが多い。

それから離れの方には、例のお絹が別に一廓を構えて、若い女中を一人使って、ほとんど母屋とは往来をしないで<ruby><rb>立籠</rb><rt>たてこも</rt></ruby>っているかと思えば、土蔵の中にはお銀様が、<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>むが如く、泣くが如く、<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>るが如く、ほとんど日の目を見ることなしに籠っているのであります。お銀様と神尾の台所の世話をしているのは、<ruby><rb>練馬</rb><rt>ねりま</rt></ruby>あたりから雇い入れた女中ではあるが、この女中は少しく<ruby><rb>痴呆性</rb><rt>ちほうせい</rt></ruby>の女で、それに<ruby><rb>聾</rb><rt>つんぼ</rt></ruby>ときているから、化物屋敷にいて、化物の物凄いことを感得することができません。

今日は神尾主膳が、朝から酒につかりながら、座敷の壁へ大きな一枚板を立てかけて、酔眼を開いてそれを見据えていると、傍に、よく肥った<ruby><rb>奴風</rb><rt>やっこふう</rt></ruby>の若いのが、片肌ぬぎでしきりに墨を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>っています。

「殿様、うまくひとつ書いてやっておくんなさいましよ、<ruby><rb>贔負分</rb><rt>ひいきぶん</rt></ruby>にね」

「ふーん」

神尾は鼻であしらいながら、筆立の中から木軸の大筆を取って、ズブリと<ruby><rb>大硯</rb><rt>おおすずり</rt></ruby>の海の中へ打ち込みました。

「無駄を言うな」

「だって、後見がうまくなけりゃ太夫が引立たねえや。さあさあ、殿様の曲芸、<ruby><rb>米芾様</rb><rt>べいふつよう</rt></ruby>の筆を以て、<ruby><rb>勘亭流</rb><rt>かんていりゅう</rt></ruby>の看板をお書きになろうとする小手先の<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かなところに、お目をとめられてごろうじろ」

「馬鹿」

神尾は<ruby><rb>大奴</rb><rt>おおやっこ</rt></ruby>の無駄を軽く叱って、板の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を目分量して<ruby><rb>字配</rb><rt>じくば</rt></ruby>りを計りながら、硯の海で筆を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なや</span>しておりましたが、やがて板へぶっつけに、「江」という字を一息に書いてしまいました。

「うまい！」

大奴が<ruby><rb>半畳</rb><rt>はんじょう</rt></ruby>を入れると、神尾は<ruby><rb>苦笑</rb><rt>にがわら</rt></ruby>いして、

「気が散るからだまってろ」

と言って、今度は息を抜かずに筆をふるって、縦横に書き上げたたて看板の文字は、「江戸の花　女軽業」の七文字であります。

「太夫、御苦労」

大奴は<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>の下にあった<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を取って、神尾を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>ぎ立てました。

書いてしまった七文字を神尾は、また<ruby><rb>右見左見</rb><rt>とみこうみ</rt></ruby>してながめています。文字は決して悪い出来ではありません。文字の示す通り、女軽業の看板としては<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ない書風であります。神尾とても看板書きになったわけではなく、頼まれたればこそ、こうして筆を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>うのでありましょう。そこへ廊下を歩いて来る人の音、

「殿様、殿様、ドチラにいらっしゃるんでございます」

それは聞いたことのある女の声。

「おや、<ruby><rb>福兄</rb><rt>ふくにい</rt></ruby>さんもおいでなんですか」

入って来たのは、女軽業の親方のお角でありました。

「いよう、これはこれは両国橋の太夫さん」

福兄と言われた大奴は、細い目をしてお角を迎えました。

「殿様、御機嫌よろしう」

お角は神尾の前へ手を突いて、頭を下げました。

「頼まれ物が出来上ったぞ」

神尾も御機嫌がよく、お角の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>と、いま書き上げた看板とを見比べていますと、

「まあ、お書き下さいましたか、これはこれは、なんというお見事なお筆でございましょう、生きているようでございますね」

お角も看板の文字を見て、心から嬉しそうであります。

「生きているとも」

神尾もまた自分ながら、書き上げた看板の文字に得意でいます。

「太夫元、<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>らなくちゃあいけやせんぜ」

<ruby><rb>福兄</rb><rt>ふくにい</rt></ruby>はこう言って、お角を<ruby><rb>嗾</rb><rt>け</rt></ruby>しかけました。

「奢りますとも、何なりとお望みに任せて」

「よろしい、所望がある」

福兄が改まってむきになると、

「福、貴様がでしゃばるところじゃないぞ、貴様は墨のすり賃に、二百も貰って引込めばいいんだ」

神尾が福兄をたしなめると、福兄は納まらず、

「いけやせん」

<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を組み直して<ruby><rb>強面</rb><rt>こわもて</rt></ruby>にかかろうとするのを、お角は笑いながら、

「福兄さんには殿様に内密で、わたしが、たくさんお礼を致しますから、もう少し待って下さいね、今が大事の時なんですから。その代り今度のが当りさえすれば、ほんとうに福兄さんを福々にして上げますからね」

「うまく言ってやがらあ。けれども、そう話がわかりゃそれでもいいんだ」

福兄はそれで、どうやら納まりかけた時に、神尾主膳が、

「お角、今に始まったことではないが、お前の腕の凄いのには恐れ入った」

改まったような言いがかりだから、お角も用心して、

「殿様、改まって何をおっしゃるのでございます」

「しらを切っちゃいかん、お前が今度の房州行きなんぞは運もよかったが、腕の凄さは、いよいよ格別なものだ」

「神尾の殿様、そんな気味の悪いことをおっしゃっておどかしちゃいけません、こう見えても気が小さいんですからね」

「あんまり気が小さいから、少しはオドかして、大きくしてやらぬことにはしまつがつかん」

「何をおっしゃるんですか、わたしには一向わかりません」

「お前にはわかるまいが、こっちには、すっかり種が上っているんだ、房州へ行って命拾いをして来た上に、金箱を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>い込んで来て、それでなにくわん<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして口を拭っているところなんぞは<ruby><rb>不埒千万</rb><rt>ふらちせんばん</rt></ruby>だ、なあ、福」

主膳が福兄を顧みると、福兄は一も二もなく<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、

「そうですとも、そうですとも、ありゃ実際、不埒千万ですよ、あれはただじゃ置けませんよ」

「福兄さんまでが殿様に御加勢なんですか、金箱とおっしゃったって、まだ分らないじゃありませんか、まだ乗るか<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>るか、打ってみなけりゃわからないじゃありませんか」

お角は<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らしてしまおうとすると、神尾はそれを取って抑えて、

「その手は食わん、金箱というのは、<ruby><rb>茂太</rb><rt>もた</rt></ruby>とやら<ruby><rb>茂太</rb><rt>しげた</rt></ruby>とやらいう<ruby><rb>小倅</rb><rt>こせがれ</rt></ruby>のことではない、そのほかに確かに見届けたものがあるのじゃ。若い<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な、金のたくさんある男と、お前が仲睦まじく飲んでいたとやら、それをちゃあーんと見届けた者が我々の仲間にある。お角、あんまり凄い腕を振い過ぎると、<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りが怖かろうぜ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百とやらもだまっちゃいなかろうぜ」

「エ！」

神尾からこう言われて、さすがのお角もギョッとしたようです。

「それは違います、それは違います」

お角は、あわててそれを打消すと、神尾が意地悪く、

「福、お角は違うと言ってるが、お前はどう思う」

「違いませんな」

福兄は得たりと引取って、<ruby><rb>空嘯</rb><rt>そらうそぶ</rt></ruby>く。

「では、福兄さん、お前さん、何をごらんなすったの」

「さあ、拙者が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じか</span>に見たというわけじゃねえのだが、両国の、とある船宿の二階で、さしむかいの影法師を、ちらりと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ者が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こちと</span>等の仲間にあったのだ、そうしてその一人が、両国橋の女軽業の太夫元のお角さんとやらに似ていたとか、いなかったとか、<ruby><rb>岡焼</rb><rt>おかやき</rt></ruby>めらが騒いでいるんだから始末におえねえ」

「え、そりゃお安くないんですね、両国橋の女軽業の何とやらのお角さんといえば、多分この辺にいるお婆さんのことでしょうけれど、今時こんなお婆さんを相手にする茶人があるというのは、頼もしいことですね」

「実際、頼もしいんだから驚きまさあね。しかし、お婆さんはかわいそうですよ、年増盛りのハチ切れそうなのを捉まえて、お婆さんはかわいそうだね」

「まあ、ようござんす、どのみち<ruby><rb>浮名</rb><rt>うきな</rt></ruby>を立てられるうちが、人間の花ですからね」

「そりゃ花ですともさ。ですけれども、花もあんまり、こってりと咲かれると、よその花ながら<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましくなるよ、ねえ大将」

「うむ」

「殿様も福兄さんも、なんだか奥歯にはさまるような言い方をなさるから、わたしゃ、どうも痛くない腹を探られているようで<ruby><rb>小焦</rb><rt>こじれ</rt></ruby>ったくってたまりません、わたしの身に後ろ暗いことがあるようでしたら、ハッキリとおっしゃって下さいな」

「ところが、どうもハッキリとは言えねえんだ、ともかく、船から上ると飛びつくように嬉しがって、お手を取って御案内申し上げ、それから後が、船宿のさしむかいという御寸法になったまでは<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と見届けたんだが、それから先が、惜しいことに雲隠れで……」

「人違いもその辺になると御愛嬌ですよ、その色男の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>が見てやりたいものでしたね」

「それそれ、それがわかれば動きは取らせねえのだが、夕方のことではあったし、厳重に覆面はしていたし、さっぱり当りがつかなかったというのが、こっちの弱味だ。それでも、年の頃は三十前後の品格のある武士で、<ruby><rb>微行</rb><rt>しのび</rt></ruby>ではあるが旗本とすれば身分の重い方、ことによったら大名の若殿でもありゃしねえかと、こう睨んで来た奴がある」

「おやおや、それは大変なことになりましたね、そうしてその御身分のあるお方のお相手というのが、やっぱり両国の女軽業の古狸なんですか」

「大地を打つ<ruby><rb>槌</rb><rt>つち</rt></ruby>は<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>るるとも、そればっかりは疑いなし」

「ほんとうに有難い仕合せですね。そうしてなんですか神尾の殿様、あなた様は、いったいその身分のあるお武家様がどなたでいらっしゃるか、見当をつけておいであそばすでございましょうね」

と言ってお角は、そっと神尾主膳の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をうかがいました。

「そりゃ拙者にもわからん、その若いのを<ruby><rb>生捕</rb><rt>いけど</rt></ruby>って、旗揚げの軍費を調達させた当人に聞いてみるよりほかはなかろうよ」

「では全く、殿様は御存じないんでございますね」

「知っていれば、ただは置かんよ」

「御存じないのが、あたりまえですよ、そんなことがあろうはずがございませんもの。もしありましたら、大びらに御披露して、ずいぶん皆様を羨ましがらせて上げるんですけれども」

お角はこう言って笑いましたけれども、なお神尾の腹の底を読もうとするらしい。しかし、神尾はそれ以上は何も知っておらぬようです。その時にまた廊下で<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しい人の声、

「殿様、殿様、神尾の殿様、金助でございます」

金助というのは多分、両国橋の上で、宇治山田の米友のために大川の真中へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込まれたその人に相違ありますまい。でも、無事に<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い上って、この屋敷へたどり着いたものと思われます。

お角は金助と入違いにこの部屋を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、土産物らしい風呂敷包を抱えて、廊下を歩いて縁側から庭下駄を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いてカラカラと庭を廻って、<ruby><rb>井戸側</rb><rt>いどわき</rt></ruby>から土蔵の方へと行きます。

「御免下さいまし」

と小声に言って、土蔵の戸前に手をかけました。重い扉をズシズシと押し開いて、薄暗い土蔵の中へ足を踏み入れ、

「いらっしゃいますか」

これも小声でおとのうてみましたけれど返事がありません。気味悪そうにお角は、蔵の中へ二足三足と足を入れて、二階へのぼる梯子段の下まで来て、

「お銀様」

はじめて人の名を呼んで、二階を見上げました。けれどもやはり返事はありません。

「御免下さいまし」

再び案内の言葉を述べて、その梯子段を<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かに上って行きました。梯子段を上りつめると、頭の上に開き戸があるのを、下からガラガラと押し開いて、

「いらっしゃいますか」

はじめて二階の一間を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見ました。それは<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>たる一室であるけれども、南の方に向いて鉄の格子に金網を張った窓があいていましたから、下のように暗くはありません。で、畳もしっくりと敷きつめてあって、四隅には古箪笥や、長持や、<ruby><rb>葛籠</rb><rt>つづら</rt></ruby>や、<ruby><rb>明荷</rb><rt>あけに</rt></ruby>の類が<ruby><rb>塁</rb><rt>とりで</rt></ruby>のように積まれてあるけれども、それとても室を狭くするというほどではありません。

六枚折りの古色を帯びた金屏風が立てめぐらされたその<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れから、夜具の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>が見えるところは、多分、尋ねる人はそこに眠っているのだろうと思われるのであります。

そこで、お角はまた遠慮をしいしい、畳を踏んで六枚折りの中を覗きました。なるほど、そこに<ruby><rb>夜具蒲団</rb><rt>やぐふとん</rt></ruby>は敷かれてあり、枕もちゃんと置いてありましたけれど、主は<ruby><rb>藻脱</rb><rt>もぬ</rt></ruby>けのからであります。

「おや、どこへお出かけになったのでしょう」

お角はいぶかしそうに<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻しました。それは朝起きたままで、床を敷きっぱなしにしておいたのではなく、どこかへ出かけて、帰りが遅くなる見込みから、こうして用心して出たものとしか思われません。

お銀様はいったい、どこへ出て行ったのだろう、それがお角には疑問でした。この人は決して外へは出ない人であった。自分が知れる限りにおいては、この土蔵の中を天地として、あの<ruby><rb>盲</rb><rt>めし</rt></ruby>いたる不思議な剣術の先生に<ruby><rb>侍</rb><rt>かし</rt></ruby>ずいて、一歩もこの土蔵から出ることを好まない人であった。それがこのごろは、こうして夜へかけてまで外出して帰るというのは、いったい何の目的があって、どこへ行くのだろうと、以前を知るお角はそれが不思議でなりません。

それで、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻していると、少し離れたところの机の上にも、その左右にも、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい書物が散乱しているのであります。この土蔵に<ruby><rb>蔵</rb><rt>しま</rt></ruby>われた本箱の中から、ありたけの本を取り出して、お銀様が、それを片っぱしから読んでいるものとしか思われません。さすがに大家に育った人、お角なんぞから見ると、たった一人で牢屋住居のような中におりながら、別の天地があって、<ruby><rb>読書三昧</rb><rt>どくしょざんまい</rt></ruby>に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていられることが羨ましいように思われます。

お角は、机の傍へ寄って見ましたけれど、ドチラを見ても、四角な文字や、優しい文字、とてもお角の眼にも歯にも合わないものばかりです。気象の勝ったお角は、なんだか自分が当てつけられるように感じて、書物を二三冊、あちらこちらにひっくり返すと、ふと、思いがけない絵の本が一つ現われました。

それは極彩色の絵の本で、さまざまの男や女が遊び戯れている、<ruby><rb>今様</rb><rt>いまよう</rt></ruby>源氏の絵巻のようなものでありました。

お角はそれを見ると<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこ</rt></ruby>と笑って、

「それごらん、お銀様だって、ただの女じゃありませんか」

<ruby><rb>子曰</rb><rt>しのたまわ</rt></ruby>くや、こそ<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>れのうちに、こんな浮世絵草紙を見出したことがお角には、かえって味方を得たように頼もしがられて、皮肉な笑いを浮べながら、窓の光に近いところへ持ち出して、その絵巻を繰りひろげて見ると、

「おや？」

と言って、さすがのお角がゾッとするほど驚かされました。

それは、絵巻のうちの美しい奥方の一人の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>が、蜂の巣のように、針か<ruby><rb>錐</rb><rt>きり</rt></ruby>かのようなもので突き破られていたからです。<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>にしてもあまりに無惨な悪戯でありましたから、お角は身ぶるいしました。急いでその次を<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて見ると、それは花のような姫君の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>が、やはり無惨にも同じように針で無数の穴が明けられていました。

「おお怖い」

その次を展げると、水々しい町家の女房ぶりした女の面が、今度は細い筆の先で、無数の点を打ちつけて、盆の中に黒豆を<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>いたようになっています。

あまりのことに<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ果ててお角は、それからそれと見てゆくうちに、一巻の絵本のうち、女という女の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>は、どれもこれも、突かれたり汚されたり、<ruby><rb>完膚</rb><rt>かんぷ</rt></ruby>のあるのは一つもないという有様でした。

「あんまり、これでは<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>が強過ぎる、なんぼなんでも<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>みが強過ぎる」

お角は、この悪戯がお銀様の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>であることは、よくわかっています。そうして、この絵本のうち、美しい男も、好い男も、強そうな男も、いくらも男の数はあるけれども、それには一指も加えないで、女だけをこんなに傷つけ散らし、汚し散らして、ひとり心を慰めようとするお銀様の心持も大概はわかっているが、それにしてもあんまり僻みが強過ぎて、空怖ろしいと思わずにはおられなくなりました。

いったい、お角はかなり人を食った女で、男も女も、あんまり眼中には置いていない方だが、どうもお銀様という人にばかりは、一目も二目も置かなければ近寄れないような心持で、これまでいるのが不思議でした。

あの呪われた、お銀様の顔が怖ろしいというわけではなく、どうもお銀様の傍へ寄ると、お角は何かに圧えつけられるようで、ほかの男や女のように、<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こなす</span>ことができません。何を言うにも大家の娘で、持って生れた品格というものが、お角と段違いなせいであるならば、お角は駒井能登守にも、神尾主膳にも、あんなに心安立てにはできないはずだが、お銀様にジロリとあの眼で睨められると、口から出ようとした言葉さえ、咽喉へ押詰ってしまうのが、自分ながら<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがい</rt></ruby>のないことに思われて、あとで<ruby><rb>焦</rb><rt>じれ</rt></ruby>ったがるが、その前へ出ると、どうしても段違いで相撲にならないことが自分でわかるだけに、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しくてならないでいるのです。

お銀様の応対は、いつも懐中に<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を蓄えていて、いざと言えば、自分の咽喉元へブッツリとそれが飛んで来るようで、危なくてたまらない。お銀様は、たしかに武術の心得もあって、何者でも身近く寄せつけないだけの用意は、いつでもしている。神尾主膳ほどの乱暴者でも、うっかり傍へ近寄れないのはそのせいでもあるが、お角の近寄れないのはそれだけではない。どこがどう強くって、どんなに怖いのだかわからないなりに、お角にとってはお銀様が<ruby><rb>苦手</rb><rt>にがて</rt></ruby>です。

お角はその絵本を見ると、お銀様の<ruby><rb>生霊</rb><rt>いきりょう</rt></ruby>がいちいちそれに乗りうつって、この薄暗い土蔵の二階の一間には、すべて<ruby><rb>陰深</rb><rt>いんしん</rt></ruby>たる何かの呪いの気が立てこめているようで、怖ろしくてたまらないから、急いで絵の本を伏せて、梯子段の降り口にかかりました。

離れにいるお絹は、このごろでは、ずっと以前のように切髪に被布の姿で、行い澄ましておりました。<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方へは滅多に出入りしないけれども、どうしたものか、お角が来た時だけは、お絹の神経が過敏になります。今日もお角が訪ねて来たことを知って、

「また、あの女が来たようだから、お前、御苦労だが様子を見て来ておくれ」

と召使の女中に言いつけて出してやりました。そのあとへ、

「<ruby><rb>御新造</rb><rt>ごしんぞ</rt></ruby>、おいでか」

庭先から入り込んで来たのは、前に福兄と言った<ruby><rb>大奴</rb><rt>おおやっこ</rt></ruby>であります。いつのまにか着物を着替えて若党の姿になり、脇差を差して刀を提げ、心安立てに縁から上って来ました。

「おや、福村さん」

と言って、お絹は愛想よく迎えました。お角に言わせればこの人は福兄で、ここへ来ては福村さんになる。前の時は奴風で、ここではもう若党に早変りしているのが、化物屋敷の化物屋敷たる<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>でありましょう。

若党の福村は座敷へ入って、しきりにお絹と話をしていたが、暫くして、

「これから大将のお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>と化けて、番町まで出向かにゃならん、今日はこれで失礼」

と言って、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく辞して行きました。

お絹は、それを見送っていましたが、やがてハタと障子を締めきって、

「面白くもない」

つんと机に向き直って頬杖をつき、すこぶる不機嫌の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>であります。それは実際、お絹にとっては面白くないことでしょう。今の福村の話というのは要するに、お角を<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めに来たようなものなのです。お角が房州まで出かけて行って、あやうく命拾いをして帰った上に、掘出し物を買い込んで来るし、それに大名だか旗本だか知らないが、ともかくも身分あるらしい立派な金主をつかまえて、近日花々しく両国橋で、二度の旗揚げをしようという運びになっていることを福村が、お絹の前で話して、相変らずあの女の腕の凄いことを<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>して行きました。

お絹の前で、お角の腕の凄いことを吹聴するのは、つまりお絹の腕のないことを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あてこすり</span>に来たと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひが</span>まれても仕方がない。イキとハリとになっているのを、福兄が知らないはずはなかろうと思われます。女軽業にしろ、見世物にしろ、女の腕一つで、一旗揚げようというのはともかくエライことでないことはない。そうして切って廻して屋敷へまで吹聴に来られるのを、指を<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて見せつけられるのは、お絹として納まらないことであるのは申すまでもないことです。

「忘れた、忘れた、<ruby><rb>印伝</rb><rt>いんでん</rt></ruby>の煙草入を忘れてしまった」

一旦出て行った福村が後戻りして来たから、何かと思うと煙草入を忘れているのです。なるほど、火鉢の下に転がっているのは、ほんものか<ruby><rb>擬</rb><rt>まが</rt></ruby>いか知らないが、とにかく印伝革の煙草入であります。

福村は<ruby><rb>無精</rb><rt>ぶしょう</rt></ruby>に、縁側から手を突き出して、

「済みませんが突き出しておくんなさい、でもその印伝はほんものだから安くねえんだ、ほんものだということで両国橋の太夫元が、おれにくれたんだ、だから、おいらにとってお安くねえ<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>だ」

「持っておいで」

お絹はゲジゲジでも<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>むように、その印伝の煙草入を取り上げると、ポンと縁側へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出しました。

「おや御新造、いやに荒っぽいんですね」

福村は抛り出された煙草入を、わざと丁寧に拾い上げておしいただく真似をして腰へさし、トットと行ってしまいました。

## 十七

その晩のことでありました、吉原の<ruby><rb>大門</rb><rt>おおもん</rt></ruby>を出た宇津木兵馬は、すれ違いに妙な人と行逢って、それを見過ごすことができなかったのは。それは羽織袴に大小を帯びた立派な武家の姿をしていたが、供人は一人もつれず、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>は厳重に覆面で包んでいます。

兵馬はこの<ruby><rb>廓</rb><rt>さと</rt></ruby>へ出入りするごとに、往来の人の姿に注意を払っていないことはない。ことに覆面した武家姿のものに向っては、尾行までしてみることが一度や二度ではなかったが、この時すれ違った覆面の人もまた、その例に洩るることができませんでした。

兵馬はワザとやり過ごして様子をうかがうと、この覆面の武家の後ろ姿に<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>のゆかぬ節々が幾つも現われてきます。第一、この武家の歩きぶりがつとめて勢いよく闊歩しているようなものだが、どこやらに無理があります。第二には、差している大小が釣合わないということはないが、なんとなく重そうに見えて、差し方がこなれていないことです。この二つを以て見ると、さるべき者が、わざと武士の姿をして来たものか、そうでなければ、病気上りの人ででもありそうです。

兵馬は、あまり不思議だから、非常中の非常手段ではあったが、ワザと近寄ってその武家にカチッと、自分から<ruby><rb>鞘当</rb><rt>さやあ</rt></ruby>てを試みました。

武士として鞘当てを受けたのは、果し状をつけられたようなものであるにかかわらず、その武家は知らぬ顔に、人混みに紛れて逃げ去ろうとするのは<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>い。

到底このままには見過ごし難いから、あとをつけると、<ruby><rb>件</rb><rt>くだん</rt></ruby>の覆面は人混みに紛れて、見返り柳をくぐり土手へ出て、暫く行くと<ruby><rb>辻駕籠</rb><rt>つじかご</rt></ruby>を呼びました。

それを見ると兵馬も、同じように駕籠を傭おうと思ったけれど<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>それはなし、刀と脇差を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>り上げて、いずこまでもこの駕籠と競争する気になりました。

この駕籠は、竜泉寺方面から下谷を経て、本郷台へ上ります。

本郷も江戸のうちと言われた、かねやすの店どころではなく、加州家も、追分も、駒込も、いっこう頓着なしに進んで行くこの駕籠は、果してどこまで行ってどこへ留まるのだか、ほとほと兵馬にも見当がつかなくなりました。

しかしながら、駕籠は、なおずんずんと進んで行くうちに、左右は物淋しい<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の畑道のようなところになっているようです。おおよその方向と、歩いて来た道程で察すれば、駒込の外れか、<ruby><rb>伝中</rb><rt>でんちゅう</rt></ruby>あたりか、或いは巣鴨まで足を踏み入れているかも知れないと思われます。

とあるお寺の門の前へ来て、はじめて駕籠がハタと留まりました。兵馬も足をとどめて物蔭から遠見にしていると、駕籠賃も<ruby><rb>酒料</rb><rt>さかて</rt></ruby>も無事に交渉が済んで駕籠屋は引返す。駕籠を出た覆面は、お寺の門の中へは入らずに、垣に沿うて横路へ廻る。左がなにがし大名の下屋敷とも思われる大きな塀、右は松並木で、その間に、まばらに見える<ruby><rb>茅葺</rb><rt>かやぶき</rt></ruby>の家が、もう一軒も起きているのはありません。茶畑があって、右へ切れる畑道の辻に<ruby><rb>庚申塚</rb><rt>こうしんづか</rt></ruby>があります。そのとき兵馬は、もうよかろうと思って、後ろから、

「お待ち下さい」

「エ！」

兵馬に呼びかけられて、覆面の武家は<ruby><rb>悸</rb><rt>ぎょっ</rt></ruby>として立ちどまりました。追いついた兵馬は、

「お待ち下さい」

と言ってわざと、覆面の刀の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>を取りました。

「どなたでございますな」

覆面の武家は、非常なるきょうふに打たれたようですけれども、その言葉は丁寧で、そうして物優しくありましたから、兵馬はかえって自分の挙動の、あまりに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なめげ</span>であることを恥かしく思うようになりました。そのはずです、兵馬に他の目的があればこそ、我から進んでこんな無礼な振舞をしてみようとはするものの、これらの仕打ちは一種の不良少年か、<ruby><rb>追剥</rb><rt>おいはぎ</rt></ruby>類似の、ずいぶん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>のよくない挙動と見られても仕方がないのであります。先方が、いよいよ恭謙であり、礼儀正しくあることによって、兵馬は自分で浅ましいと思いながらも、ここまで来ては<ruby><rb>退引</rb><rt>のっぴき</rt></ruby>のならぬことですから、

「お見忘れでござるか、先刻、大門にて<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>得申した、あの御挨拶が承りたいために、おあとを慕うてこれまで参りました。あれはいったい、拙者に恨みあってなされたか、ただしは、お人違いでもござったか、武士の一分そのままにはなり難き故、ぜひ御返答が承りたい」

兵馬は心苦しくも、こうして<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>の悪い<ruby><rb>強面</rb><rt>こわもて</rt></ruby>を試みると、<ruby><rb>件</rb><rt>くだん</rt></ruby>の覆面はいよいよ神妙に、

「あれは人違いでござりまする、<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>に御容捨を願いまする」

こう言われて、兵馬はまたも取りつく島がありません。こっちから無礼を加えた上に、ここまでついて来て、なお執念深く喧嘩を売りかけようというのだから、もう<ruby><rb>堪忍袋</rb><rt>かんにんぶくろ</rt></ruby>が切れてよかりそうなものを、ここでも平身低頭の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>び入るのだから、この武士の堪忍力の強さと言おうか、意気地なしの底無しと言おうか、それに兵馬は<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れながら、

「お人違いとあらばぜひもござらぬが、御姓名が承りたい、いずれの御家中でおいでなさるか、それも承りたい」

こう言って突込むと、

「それはお許し下されたい、このままにてお見逃し下されたい」

「いいや、それは相成らぬ」

あまりに兵馬が<ruby><rb>執念</rb><rt>しつこ</rt></ruby>いために、さすが堪忍無類の覆面ももはや<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>り兼ねたか、兵馬の隙を見すまして自分の脇差に手をかけて、スラリと抜打ちを試みようとするらしいから、それを心得た兵馬は<ruby><rb>逸早</rb><rt>いちはや</rt></ruby>くその武家の<ruby><rb>利腕</rb><rt>ききうで</rt></ruby>を抑えると、意外にもそれは女のように軟らかな手先であります。

利腕を取った時に兵馬も、これはと驚きました。手先を押えられた覆面は、それを振り放そうとしましたけれども、その力がありません。

「どうぞ、お許し下さいませ、このままお見のがし下さいませ」

その声は、<ruby><rb>生地</rb><rt>きじ</rt></ruby>になった女の声であります。

「そなたは御婦人でござるな」

「はい」

もう争うても無益と観念したらしく、覆面の武家は、女としての神妙な白状ぶりであります。

「御婦人の身で、何故にかように男装して、真夜中の道を歩かれまする」

兵馬から尋常に尋ねられて、女はさしてわるびれずに、

「これには深い仔細がござりまする、夫が放蕩者ゆえに、こうして姿を変えて吉原へ入り込み、よそながら夫の身持を見守るためでござりまする」

「ああ、左様でござるか」

兵馬はそれで、いちおう納得しました。

「して、お屋敷は？」

と次に念を押した時に女は、

「それは……」

と言って口籠りました。

「<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いてお尋ねは致さぬが、夜更けのこと故、そこらあたりまでお送り申しましょう」

「御親切に有難うございますが、屋敷には、ちと<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>ることがござりまする故、どうぞ、このままでお見逃し下さいませ」

その時に、向うの屋敷道に小さく<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>が現われ、話をしながら二三の人が、こちらへ向いて歩いて来るようです。その提灯を見ると、男装した女があわてて、

「御免下さいませ、あの提灯は、あれは」

と言って、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻したが、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にあったのがちょうど、<ruby><rb>庚申塚</rb><rt>こうしんづか</rt></ruby>です。兵馬に気兼ねをしながら女は庚申塚の後ろへ身を隠しました。兵馬もそこにじっとしてはいられない気になって、男装した女の武家と同じように、その庚申塚の背後へ身を隠しました。

そうしているうちに提灯が、庚申塚の前へ通りかかります。

お供が提灯を持って先に立ち、真中に立派な羽織袴の武士、それにつづいて若党と見ゆる<ruby><rb>大兵</rb><rt>だいひょう</rt></ruby>な男の三人づれが、この庚申塚の前を通りかかって、

「あ、悪いな、提灯が消えちまった」

ちょうど、時も時、その庚申塚の前まで来た時に提灯が消えてしまいました。これは別段に風があったというわけでもなく、また物につまずいたというわけでもなく、長い時間とぼされていた<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の命数がここへ来て、自然に尽きてしまったのだから是非もありません。

「立つは蝋燭、立たぬは年期、同じ流れの身だけれど……かね」

「もう、提灯は<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らんよ」

それは主人の声であるらしい。

「それでも、無提灯で帰るのは景気が悪いですからね、景気をつけて参りましょうよ」

提灯持ちは、火打道具をさぐっているものらしい。

「よせよせ、提灯で足許を見られるような、兄さんとは兄さんが違うんだぞ」

りきみかえっているのは、若党の肥った男であるらしい。

それをやり過ごした兵馬と男装の女とは、庚申塚の蔭から出て来ました。

「どうも不思議だ、今のあの武家は、たしかにあれは神尾主膳に違いない」

兵馬はこう言って、闇に消えて行く三人の後ろ影を見つめて追いかけました。

## 十八

それからいくらも経たない後、両国の見世物小屋の屋根から高く釣り下げられた<ruby><rb>大幟</rb><rt>おおのぼり</rt></ruby>に、赤地に白く抜いて、

「山神奇童　清澄の茂太郎」

とあります。

その見世物小屋というのは、過ぐる時代に、珍らしい印度人の<ruby><rb>槍芸</rb><rt>やりげい</rt></ruby>のかかった<ruby><rb>女軽業</rb><rt>おんなかるわざ</rt></ruby>の小屋で、その後一時は振わなかったのを今度、再びこの山神奇童が評判になって、みるみる人気を回復しました。

「安房の国、清澄の茂太郎は、幼い時に父母に別れ、土地の庄屋に引取られ、いろいろと憂き艱難、<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby>は山、夕べは磯、木を運んだり<ruby><rb>汐</rb><rt>しお</rt></ruby>を汲んだり、まめまめしく働くうちに、庄屋のお嬢さんに可愛がられ、お嬢さんの頼みで、鋸山は保田山日本寺の、千二百羅漢様の、御首を盗んだばっかりで、お嬢さんと引分けられ、清澄山へと預けられ、そこで修行をするうちに、空を飛ぶ鳥や地に<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>う虫、山に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>む獣と仲良しになり、茂太郎が西といえば西、東と言えば東、前へと言えば前、後ろへと言えば後ろ、泣けといえば泣きもする、笑えといえば笑いもする、芳浜の小島に、生えている<ruby><rb>美竹</rb><rt>めだけ</rt></ruby>を、笛にこしらえ吹き鳴らす、その笛の音を聞く時は、<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く鳥は翼を納め、鳴く虫は音をしのび、荒い獣も<ruby><rb>首</rb><rt>こうべ</rt></ruby>を<ruby><rb>低</rb><rt>た</rt></ruby>れて、茂太郎の傍へと慕い寄る……<ruby><rb>真紅島田</rb><rt>しんくしまだ</rt></ruby>の十八娘、茂太郎のために願かけて、可愛の可愛のこの美竹」

誰いうとなく、こんな文句が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>り出したのは、それから暫くの後でありました。

看板に山神奇童とあるから、それは山男の出来損ないのようなものであろうと、誰も最初はそう思っておりましたが、見に来たものは、まず誰でもその意外なのに驚かされないわけにはゆきません。清澄の茂太郎なるものは、まことに<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>のような美少年でありました。天成の美少年である上に、その芸をかえる度毎に、<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>いをかえました。或る時は薄化粧して<ruby><rb>鉄漿</rb><rt>かね</rt></ruby>つけた<ruby><rb>公達</rb><rt>きんだち</rt></ruby>の姿となり、或る時は野性そのままの牧童の姿して舞台の上に立つけれども、その天成の美少年であることは、芸をかえることによっても、装いを変えることによっても変ることはありません。

「まあ、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な子、可愛いのね」

まずこの美少年の美を愛するものは、婦人の客でありました。

「物は磨いてみなけりゃわかりません、あの子が、あんなに綺麗になろうとは、わたしも思ってはいなかった」

お角もこう言って、茂太郎の美しくなったことに眼を見開きました。だから、仲間の女芸人たちが、茂太郎を可愛がることは尋常ではありません。美少年の茂太郎は、楽屋でも可愛がられるが、婦人のお客からも可愛がられます。物好きな婦人客は、わざわざこの美少年を、近所の茶屋に招いて親しく<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見ようとする者がありました。その時はお角が、ちゃんと、おばさん気取りで附いて行くものだから、お客はうっかり手出しもできないで、うっとりと<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れて、

「まあ、綺麗な子、可愛いのね」

そうして、盃と御祝儀を与えて帰されることも度々ありました。茂太郎は、こんな意味において、日に日に婦人の<ruby><rb>贔負客</rb><rt>ひいききゃく</rt></ruby>をひきつけていました。ある種類の婦人客のうちには、何かの<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>から、茂太郎を競争する者さえ現われようという有様です。お角も、その人気を得意には思いながら、また心配にもなってきました。

両国附近のある酒問屋の後家さんが、ことに茂太郎を<ruby><rb>執心</rb><rt>しゅうしん</rt></ruby>で、お角もそれがためには思案に乱れているとのことでしたが、本人の茂太郎は、いっこう平気で、自分の周囲に群がる肉の香の高い女たちには眼もくれず、清澄の山奥から連れて来たという、唯一の友達と<ruby><rb>仲睦</rb><rt>なかむつ</rt></ruby>まじく遊んでいました。

茂太郎が唯一の友というのは、長さ一丈五尺ばかりある一頭の蛇です。

順番になると茂太郎は、この蛇を連れて舞台へ現われて、芳浜の小島の<ruby><rb>美竹</rb><rt>めだけ</rt></ruby>で作ったという笛を吹いて蛇を踊らせます。舞台から帰ると自分の楽屋に蛇を連れ込んで、食物を与えたり、芸を仕込んだりしています。夜になると枕許の箱へ入れて、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>をかぶせてやり、

「お休みなさい」

蛇の持ち上げた鎌首を撫でると、蛇は<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を鳴らして眠りに就くという有様であります。

茂太郎はありきたりの蛇使いではありません。この子は、子供の時分から蛇に好かれる子でありました。人のいやがる蛇を集めて<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>に育てておりました。

ある日のこと、表通りは押返されないほど賑やかだが、人通りもない湿っぽい路次のところから、この軽業小屋の楽屋へ首を出した一人の<ruby><rb>盲法師</rb><rt>めくらほうし</rt></ruby>がありました。

「こんにちは」

舞台では盛んに三味線、太鼓の音や、お客の拍手がパチパチと聞えているのに、ここでは案内を頼んでも、出て来る人がありません。

「こんにちは」

二度目に言ってもまだ返事がないから、盲法師は気兼ねをしながら中へ入って来ました。<ruby><rb>薄汚</rb><rt>うすぎた</rt></ruby>ない<ruby><rb>法衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>を着て、背には袋へ入れた琵琶を<ruby><rb>頭高</rb><rt>かしらだか</rt></ruby>に背負っているから琵琶法師でありましょう。<ruby><rb>莚張</rb><rt>むしろば</rt></ruby>りの中へ<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>を突き入れると、

「おいおい、ここへ入って来ちゃいけねえ、按摩さん、勘違えしちゃいけねえよ」

通りかかった楽屋番が注意を与えると、盲法師は、

「はいはい、あの、こちら様に、清澄の茂太郎がおりますんでございましょうか。おりますんならば、逢いたくってやって参ったものでございますから、お会わせなすって下さるわけには参りますまいか」

「何ですって、茂太郎さんに会いたいんだって？　お前さん、何の御用でおいでなすったんだい」

「へえ、別に用というわけでもございませんが、人さんのおっしゃるには、両国のこれこれのところで、清澄の茂太郎が今、大変な評判になっているということでございますから、こうやって会いに参りました」

盲法師は、竹の杖に両手を置いてこういうと、楽屋番は不機嫌な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして、

「そりゃ、茂太郎さんはこちらにいるにはいるんですが、忙がしいから、そうお目にかかれますまいよ」

「そうでございますか、そんなに忙がしいんでは無理にと申すわけには参りませんね。わたくしもね、こちらへ来ては、まだ一度も会わないものでござんすからね、評判を聞くと、どうも会ってみたくて堪らなくなりましたんで、それでこうやって尋ねて参りました、ちょっとでもよいから会って行きたいんですが、そうも参りませんでしょうかね」

「せっかくだが、今日は駄目だよ、また出直しておいでなさいまし」

「それでは、また出直して来ることに致しましょう、茂ちゃんに、そうおっしゃって下さい、弁信が尋ねて来たとおっしゃって下されば直ぐわかります。私もね、あの子が山を逃げると間もなく、山を出てこうやってこの土地へ参りました、ただいまのところでは法恩寺の長屋に厄介になっておりますんですが、ことによると近いうち、<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の小金ヶ原の<ruby><rb>一月寺</rb><rt>いちげつじ</rt></ruby>というのへ行くことになるかも知れません、それはまだきまったわけじゃあございませんから、当分は法恩寺に御厄介になっているつもりでございます、またわたくしも訪ねて参りますが、茂ちゃんにも、どうか遊びに来るようにおっしゃって下さいまし。それでは今日はこれで失礼を致します」

背に負っている琵琶を重そうに、楽屋番の前に頭を下げたのは、例の清澄寺にいた盲法師の弁信でありました。

「ようござんす、そう言いましょう。おっと危ない危ない、突き当ると<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>ですぜ、板囲いについて真直ぐにおいでなさいまし、広い通りへ出ますから」

楽屋番は出て行く弁信を、後ろから気をつけてやりましたけれど、そのあとで、

「いやに<ruby><rb>薄汚</rb><rt>うすぎた</rt></ruby>ねえ坊主だ、どうしてこんなところへ入って来やがったろう、一人で入って来たにしてはあんまり勘が良過ぎらあ」

ぶつぶつ言って、中へ引込んでしまったが、弁信から<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづ</rt></ruby>てられたことは一切忘れてしまって、その趣を茂太郎に取次ごうともしない。弁信は湿っぽい路次を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って、広い通りの方へ歩いて行きました。

清澄の茂太郎が両国へ現われるのと前後して、盲法師の弁信も江戸へ現われました。

ところもあまり遠からぬ法恩寺の長屋に<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>をすることになった弁信は、毎夜、琵琶を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き鳴らして江戸の市中をめぐります。清澄にいる時分、上方から来た老僧から、弁信は平家琵琶を教えてもらいました。

「<ruby><rb>祇園精舎</rb><rt>ぎおんしょうじゃ</rt></ruby>の鐘の声、諸行無常の響あり、<ruby><rb>沙羅双樹</rb><rt>さらそうじゅ</rt></ruby>の花の色、<ruby><rb>盛者必衰</rb><rt>しょうじゃひっすい</rt></ruby>の<ruby><rb>理</rb><rt>ことわり</rt></ruby>をあらはす……」

もとよりそれは本格の平家でありましたけれど、<ruby><rb>門付</rb><rt>かどづ</rt></ruby>けをして歩いて、さのみ人の耳を喜ばすべき種類のものではありません。だからこの盲法師をつかまえて、銭を与えようとする人は極めて乏しいものです。ただでも耳を傾けようとする人すら、極めて少ないものでありました。

どうかすると、しかるべき身分の人が、

「珍らしいな、いま平家を語るものは江戸に十人と有るか無いかだが、その平家を語って、門付けをして歩くのは珍らしい」

と言って珍らしがり、わざわざ自分の屋敷へまで<ruby><rb>招</rb><rt>よ</rt></ruby>んでくれる人がありました。そんな人の与える祝儀が唯一の<ruby><rb>実入</rb><rt>みい</rt></ruby>りで、市中で銭を与える人は、前に言う通り極めて少ないものでありましたけれども、弁信は怠らずに、それを語って歩きます。

この頃、両国で茂太郎の評判が高いのを聞き、もしやと思って今日は出がけに、この軽業小屋を訪ねてみましたけれど、楽屋番は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すげ</span>なく断わってしまいました。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すげ</span>なく断わられても、大して<ruby><rb>悄</rb><rt>しょ</rt></ruby>げもせずに路次を立ち出でました。

で、どこをどう歩いて来たか、その夜になって、もう琵琶を袋へ納めて背中へ廻し、家路に帰ろうとする<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>で通りかかったのは、例の<ruby><rb>柳原河岸</rb><rt>やなぎわらがし</rt></ruby>です。

「もし、ちょいと」

河岸の柳の蔭から呼ぶものがありました。呼ばれる前に立ってしまった弁信は、

「はい、どなたか私をお呼びになりましたか」

そう言って例の<ruby><rb>法然頭</rb><rt>ほうねんあたま</rt></ruby>を左右に振り立てました。

「ちょいと」

柳の蔭で、声ばかりが聞えます。その声は若い女の声であります。

「お呼びになったのは私のことでございますか、何ぞ私に御用でございますか」

「そんなに四角張らなくってもいいじゃありませんか、遊んでいらっしゃいな」

「エ、私に遊んで行けと言うんでございますか、あなた様のお宅はドチラでございますか」

「何を言ってるんです、こちらへいらっしゃいよ」

「あの、琵琶を御所望でございましょうな」

「琵琶？　そんなものは知りませんよ、そんなことはどうだっていいじゃありませんか」

「いいえ、よくはございません、わたくしは琵琶弾きなんでございますよ、眼が不自由なもんでございますからね、それで、琵琶を弾いて、人様からお恵みを受けているような身の上でございます、琵琶も私のは平家でございますから、薩摩や<ruby><rb>荒神</rb><rt>こうじん</rt></ruby>のように陽気には参りませんでございます、それに、私も未熟者でございましてね、あんまり上手とは申し上げられないんでございますから、芸人を呼ぶと<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>さずに、哀れな<ruby><rb>盲</rb><rt>めくら</rt></ruby>を助けると思召してお聞き下さいまし、そうでないと、お腹も立ちましょうと思います」

弁信はこう言って、あらかじめ申しわけをすると、柳の蔭にいた女は笑いこけるように、

「滅多にこんな正直なお方にはぶっつからないのよ。お前さん、もうお帰りのようだが、ドチラへお帰りになるの」

「エエ、私でございますか、私はこれから本所へ帰るんでございますよ、本所の法恩寺の長屋に住んでいる、弁信というものでござんすからね」

「まあ、本所へ帰るの、それじゃ、わたしも少し早いけれど、一緒に帰りましょう」

ずっと前に、宇治山田の米友が、この通りで、同じような女の声で呼び留められたことを御存じの方もございましょう。

柳の蔭から出て来たのは、お蝶と言ったその時の女でございます。

お蝶は、決して醜い女ではありません。もう二十二三になるでしょうか、背がスラリとして色も白く、<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>に愛嬌があります。こんなところには珍らしいくらいの女で、明るい世間へ出しても、十人並みで通る女でありました。手拭を頭から<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って出て来たお蝶は、弁信の傍へ寄って来て、

「わたしも、本所の<ruby><rb>鐘撞堂</rb><rt>かねつきどう</rt></ruby>まで帰るんですから、送って上げましょうか」

「はい、有難うございます」

お蝶は弁信の案内者になりました。弁信は異議なくその好意を受けて、二人は打連れて淋しい河岸を歩いて行きます。

「弁信さん、あなたは法恩寺様の長屋に、ひとりでいらっしゃるんですか」

「エエ、たった一人でおります、ひとりぼっちでございます」

「御飯の世話なんぞは、誰がしてくれるんです」

「みんな自分でやるんでございます、これから帰ってお茶漬を食べて、それから床を<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べて、ゆっくりと足を踏伸ばすのが、私の一日中の楽しみなんでございます」

「眼が不自由で、よくそんなことができますね」

「でも、近所の人様が可愛がって下さる上に、私は御方便に<ruby><rb>勘</rb><rt>かん</rt></ruby>がようございますから、世間並みの<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>のように不自由な思いは致しません」

「それでも、病気の時だとか、洗い洗濯だとかいうことはお困りでしょう、悪くなければ、わたしが時々行って、お世話をして上げるけれども」

「悪いどころじゃあございません、どうかいつでもおいでなすって下さいまし、お<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>前のうちは家にいるんでございますから。法恩寺の長屋へおいでになって、琵琶の盲目とお聞きになれば直ぐにわかりますから」

「それでは明日の朝参りましょう」

「どうぞおいで下さいまし。失礼でございますが、あなたのお家は、本所のどちらでございましたかね」

「わたしのところは本所の<ruby><rb>鐘撞堂新道</rb><rt>かねつきどうしんみち</rt></ruby>なのです、鐘撞堂新道の相模屋という家にいてお蝶というのが、わたしの名前ですからよく覚えていて下さい、そうして、わたしも昼間はたいてい遊んでいますから、お暇の時は話しにおいでなさいな」

「そうでしたか、鐘撞堂新道というのは、わたしのところからそんなに遠い所ではございませんね」

「エ、近いんですよ」

「わたしは、房州の者でございましてね、ほんのツイ近頃この江戸へ参ったものですから、よく案内がわかりませんでございます、それに友達といっても一人も無いんでございますよ。でもね、人様が大へん私を親切にして下さるものですから、そんなに淋しいとは思いませんよ。それに私は、どなたでも人様が好きなんです、何でもいいから人様のためになるようなことばかりして、一生を送って行きたいと思ってるんですよ。そりゃ、出来やしませんよ、なにしろ人間がこの通りでございますし、その上に<ruby><rb>不具</rb><rt>かたわ</rt></ruby>ときていましょう、人様のためになるどころじゃなく、人様の御厄介にならないのがめっけものです。でもね、こうして<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>い琵琶を弾いて歩きますと、人様が<ruby><rb>御贔負</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>をして下すって、自分の暮らしには余るほどのお金が手に入るもんですから、それをみんな善いことに使ってしまいたいと、こう思っておりますんでございます」

「まあ、お前さんはなんという感心な人でしょうね、わたしなんぞも、早くそんな心がけになればいいんですけれど」

「世間のことは、なかなか思うようにはならないものでございますよ。そうして、あなたは鐘撞堂で、何を御商売になすっておいでなさいますね」

弁信はこう言って、お蝶にたずねました。

女は、その返答には困りました。

「そんなことは何だっていいじゃありませんか。それでもね、わたしはお前さんのような人は大好きなのよ」

ともかくも、ちょっと道ばたで行逢った人にしては、あまりになれなれしい物の言い方でありました。しかし、弁信は少しもその相手方を疑うようなことはありません。

「あ、鐘が鳴りましたね、あれは上野の鐘ですね」

弁信がたちどまって、鐘の音に耳を傾けるようでしたが、お蝶にはそれが聞えません。

「あなた、何を言ってるんです、鐘も何も聞えやしないじゃありませんか、上野の鐘がここまで聞えるものですか」

「いいえ、あれは上野の鐘です、ほかの鐘とは<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>の色が違います」

弁信は取合わないで、鐘の音を数えていたが、

「ああ、九ツです、もう九ツになりましたね」

「そうでしょう、もうかれこれ、そんな時分でしょうよ」

それで二人はまた歩き出しました。左は土手、右は<ruby><rb>籾倉</rb><rt>もみぐら</rt></ruby>の淋しいところを通って行くと、<ruby><rb>和泉橋</rb><rt>いずみばし</rt></ruby>の土手には一個所の辻番があります。

「どうも御苦労さまでございます、私は本所の法恩寺前の長屋に住んでおりまして、弁信と申しまする琵琶弾きでございます、おそくなりましてまことに相済みませんでございます」

こう言って、先方から何も言われない先に弁信は丁寧に名乗って、お辞儀をしてその前を通り過ぎました。お蝶はその馬鹿丁寧をおかしいと思いながらも、<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>だというのに、どうしてここに辻番のあることだの、辻番に人がいるかいないかだの、それがわかるのだろうかと不思議に思います。それのみならず、さきに鐘の音に耳を傾けた時も、自分にはどこで、どんな鐘が鳴ったのだか、さっぱりわからないうちに、この琵琶弾きはそれを聞き取った上に、確かにこれは上野の鐘だと<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めをつけてしまったのも不思議です。盲は目が見えない代りに、勘がいいものだというが、それにしてもこの琵琶弾きは、あんまりに勘が好過ぎると思いましたから、

「弁信さん、お前さんは、なんだってあんな馬鹿丁寧に辻番へ挨拶をするんです、第一、番人がいやしないじゃありませんか」

わざとこう言って試してみると、

「いいえ、そんなことはございません、二人おいでになりましたよ、一人の方は番所の中に、一人の方は、たしか棒を持って、私たちを<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めようとして、こっちへおいでなさるようだから、私は、その前にああいって、ちゃんと申しわけを致してしまいました」

弁信に<ruby><rb>図星</rb><rt>ずぼし</rt></ruby>を指されて、

「まあ、なんてお前さんは勘がいいんでしょう」

お蝶は舌を巻いて、暗いところから弁信の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見直しました。それは、もしや、この按摩が<ruby><rb>偽盲</rb><rt>にせめくら</rt></ruby>で、そっと目をあいているからではないかと思ったからです。しかし、盲目であることに<ruby><rb>正銘</rb><rt>しょうめい</rt></ruby>偽りのないのは、その<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>つきでも、足どりでも、また杖のつきぶりでも、充分に信用ができるのであります。

こうして二人は、郡代屋敷のところまで来てしまいました。その時に、盲法師の弁信が、<ruby><rb>凝然</rb><rt>じっ</rt></ruby>として郡代屋敷の塀際に突立ってしまいました。

「あ、あ、あ、あぶない」

杖を以て、前へ出ようとするお蝶を、弁信はあわてて支えました。

「どうしたの」

「いけません、いけません」

弁信は必死に杖を以てお蝶を支えて、一歩も進ませないようにしながら、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れは身を<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>かしつつ立っていたのであります。

「どうしたんですよ」

「誰かいます、行ってはいけません、行くと殺されます」

「エ！」

お蝶は弁信の傍へ、固くなって立ちすくみました。

土手の蔭に、蛇がからみ合っているように、二つの人影が一つになって、よれつ、もつれているのを弁信はむろん見ることができません。お蝶もそれを知るには、まだあまりに遠い距離でありました。

しかしながら、土手の蔭の二つの人影は、からみ合って、そうして、おのおの炎のような息を吐いていることはたしかです。

「お前の歳は幾つだ」

炎のような息を吐きながら、一つの影が上から押しかぶせるように言いました。

「どうぞ御免下さい」

抱きすくめられているのは、やっぱり女の声でありました。

「うむ、歳は幾つだ、それを言え」

大蛇が羊を抱き締めたように、ぐるぐると巻いた、その炎の舌のあるじは、まさに男です。

「十九でございます」

女は息も<ruby><rb>絶々</rb><rt>たえだえ</rt></ruby>になっている。

「十九……名は何というのだ」

「藤と申します」

「なんで、この夜更けに<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り歩きをする」

「御信心に参りました」

「どこへ行った」

「杉の森の稲荷様へ願がけに参りました」

「何の願がけに」

「それは、兄が病気でございますから」

「その兄は幾つになる」

「あの……<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>でございます」

「この夜更けに、<ruby><rb>丑</rb><rt>うし</rt></ruby>の<ruby><rb>刻参</rb><rt>ときまい</rt></ruby>りをするほど、その兄が恋しいのか」

「エ……」

「このごろのような物騒な夜道に、しかもこの淋しい柳原の土手を若い女、たった一人で出かけたのを、お前の親たちは承知か」

「いいえ、誰にも<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>でございます」

「そうして、お前は死ぬほどにその男が恋しいのか」

「何をおっしゃるんでございます、どうぞ、お助け下さいまし、ここをお放し下さいまし」

「本当のことを言え」

「それが本当でございます、決して嘘を申し上げるような者ではございません」

「嘘だ、お前は<ruby><rb>淫奔者</rb><rt>いたずらもの</rt></ruby>だ」

「いいえ、左様なものではございません」

「淫奔者に違いない」

「あ、何をなさるんでございます、あなたはほんとうに、わたしを殺して――」

女は<ruby><rb>身悶</rb><rt>みもだ</rt></ruby>えして、からみついている蛇の口から逃れようとするが、いよいよそれは、しっかりと巻き締めて、<ruby><rb>骨身</rb><rt>ほねみ</rt></ruby>に食い入るようです。

「苦しいか」

「く、苦しうございます」

「さあ、もっと苦しがれ」

「死にます、あ、あ、息が絶えてしまいます、死んでしまいます」

「締め殺してくれようか」

「あ、苦しい、苦しい」

「その苦しみを、お前の心中立てする男に、見せてやりたいわい」

「もう、お助け下さい、もうお手向いしませんから、どうぞ命をお助け下さい、この上、あなたは、ほんとうに、わたくしを殺しておしまいなさるんですか、あ、刀を、刀をお抜きになって、それでわたしを殺しておしまいなさるのですか、ああ、いけません、わたくしは、まだほんとうに、殺されたくはございません、生きて、生きていたいのでございます、生きて一目あの人に……生きていなければならないのでございます、もうお手向い致しませんから、その代り、わたくしの命だけはお助け下さいまし、どうなってもようございますから、命だけはお助け下さいまし、あ、あ、あれ――人殺し……」

女はついに悲鳴をあげました。その悲鳴は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち弱り果てて、あ、あ、あ、と引く息が波のように、闇の中にのたうち廻っているのが、まざまざと眼に見えるようです。

石のように立ち尽していた弁信が、その恐怖から<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたのは、それから暫く後でありました。

「弁信さん」

お蝶もこの時に、ようやく口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>けるようになって、

「弁信さん、お前、何を見ていたの」

「わたしゃ、何も見えやしません、ただ、だまって聞いていました」

「何を聞いていました」

「あすこで人が殺されたのを聞いておりました、女の人がなぶり殺しに殺されるのを、だまって聞いておりました」

「何ですって、女の人が殺された？　<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>じゃありません、<ruby><rb>嚇</rb><rt>おどか</rt></ruby>しちゃいけませんよ」

「嚇しじゃありません、かわいそうに、ぐっと抱き締められて、その上に刀で幾度も<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>られました」

「ほんとに、そんな気味の悪いことを言うのはよして下さい、そうでなくってさえ、わたしはお前さんに留められてから、何だか<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>くなって、<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くなって堪らないのですもの」

「どうしてまた、私は、あの人を助けて上げられなかったのでしょう」

「あの人だなんて、誰のことなんですよ、誰もいやしないじゃありませんか」

「あ、そうでしたか、お蝶さん、お前さんにはあの声が聞えませんでしたね」

「わたしにゃ、なんにも聞えやしませんよ」

「なぜ、私はあの時に、大きな声をして呼んで上げなかったんだろう、あの人が、あんなに<ruby><rb>虐</rb><rt>さいな</rt></ruby>まれて殺されている間、それをここにじっと立って、だまって聞いていた私の心持が、自分でわかりません」

「ほんとに何を言ってるんでしょうね、弁信さん、お前さんの言うことが、まだわたしにはサッパリわからない」

「私も私で、いよいよ自分の心持がわからなくなってしまいました、ただ、ああして虐まれて若い女の人がなぶり殺しに遭っているのを、遠くに離れて聞きながら、私はそれを助けて上げようとしないで、何かの力で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すく</span>められて、その音を聞いている間、私もかえっていい心持のようになって、しまいまでだまってそれを聞いていた自分の心持が、自分でわかりません」

「なんだか、私はぞくぞくと凄くなってきましたよ、弁信さん、お前さんのその<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>が凄くなってきました、どうしたらいいでしょうね」

「ああ、わたしもどうしていいか、わからない、今までわたしは、こんな心持になったことはありませんから」

「早く帰りましょうよ、早く本所へ帰ってしまいましょうよ」

この時に行手の方で、<ruby><rb>騒々</rb><rt>そうぞう</rt></ruby>しい人の足音と、声とが起りました。

「今、人殺しと言ったなあ、たしかにここいらだぜ、おいらの<ruby><rb>僻耳</rb><rt>ひがみみ</rt></ruby>じゃねえんだ」

こう言って駈けて来る人は一人だが、その後ろに附添って、真黒い大きな犬が一頭。

「ムク、ここいらだぜ」

その声こそは<ruby><rb>紛</rb><rt>まご</rt></ruby>うべくもなき、宇治山田の米友の声であります。

「人殺しと言ったのは、ここいらなんだ、だからおかしいと思ったんだ」

彼は今、どこにいるのか知らん。先日も両国橋の上へ姿を現わしたところを以て見れば、やはりあの<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>にいるものと見なければなりません。<ruby><rb>弥勒寺橋</rb><rt>みろくじばし</rt></ruby>の長屋にいるものとすれば、まだ机竜之助の世話をしているのでしょう。竜之助の世話をしているといえば、あの男の挙動が、ことにあの身体で夜な夜なの出歩きが、米友の単純な頭を以てどうしても了解ができないで、眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>っていることも、米友としては無理のないことです。

「ああ、いた、いた」

米友は闇の中に<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り上って、<ruby><rb>地団駄</rb><rt>じだんだ</rt></ruby>を踏み立てているものらしい。ほどなく二人の辻番と、宇治山田の米友と、盲法師の弁信と、お蝶との五人が、路上に横たわった一つの<ruby><rb>屍骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>を取巻いて、弁信を除いての四人の眼は、いずれも火のようになって、提灯をその屍骸につきつけているのであります。

「女だ！」

米友が叫びました。

「若い女だ、あだっぽい女だ」

提灯を突きつけている辻番が驚く。

「まあ、かわいそうに」

お蝶は、さすがに眼をそむけてしまいます。

「<ruby><rb>斬疵</rb><rt>きりきず</rt></ruby>ではない、突いて<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>ったものじゃ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みずおち</span>あたりにただ一箇所」

「左様、ほかには疵らしいものはないようだ、確かに突いて抉ったものだが、刃物は槍か、刀か」

「無論、槍傷ではない刀傷だ、してみると試し斬りではなく、遺恨だろう」

「左様、恋の恨みでこうなったものらしい」

「して、女の<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>はいったい何者だ」

「左様、しかるべき町家の娘だな。おい姉さん、お前さん、ちょっとこの着物を見てくれないか」

辻番は提灯を振向けて、眼をそむけて<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いているお蝶を呼びました。

「ちょっと見てくれ、着物の<ruby><rb>縞柄</rb><rt>しまがら</rt></ruby>を、ちょっと見てもらいたいものだ」

「どうしたらいいでしょう、わたしは怖くって……」

お蝶は慄えながら、それでも再び屍骸の傍へ寄って来て、

「京お召でございます、<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>に茶の<ruby><rb>大名</rb><rt>だいみょう</rt></ruby>の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>、<ruby><rb>更紗染</rb><rt>さらさぞめ</rt></ruby>に<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の下着と二枚重ね……」

お蝶はようやく着物の縞目だけを見て、こう言いました。

「なるほど」

辻番の一人は、矢立と紙を出して、お蝶の<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>を取ろうとするものらしい。

「帯は茶の<ruby><rb>献上博多</rb><rt>けんじょうはかた</rt></ruby>でございましょうね」

「それから？」

「羽織は<ruby><rb>黒羽二重</rb><rt>くろはぶたえ</rt></ruby>の加賀絞り……」

「なるほど、そうして髪は島田、<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>の<ruby><rb>中差</rb><rt>なかざし</rt></ruby>、まあ詳しいことは御検視が来てからのことだ。ところでお前方」

二人の辻番は、改めて米友、弁信、お蝶三人の者を<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と見廻し、

「三人のなかで、誰がいちばん先にこの死骸を見つけなすった。いやまあ、<ruby><rb>後先</rb><rt>あとさき</rt></ruby>はドチラでもよいが、<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>り<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>いだから三人とも、御検視の来るまで控えていてもらいたい、御迷惑だろうがどうも<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ん」

そこへ、また一人の辻番が、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>をかかえてやって来て、

「エライことが出来たなあ」

菰を女の屍骸へうちかけて、

「好い女だなあ、恋の恨みだろうか。いったい、ここでやっつけたのか、殺してここへ持って来たのか」

菰をかぶせてしまうのを惜しそうに、その屍骸を見比べていると、

「エエ、それは殺してここへ運んで参ったのではございません、あの土手の上で、なぶり殺しにして置いて逃げました、殺した人は男には違いありませんけれども、決して恋の恨みではございません、殺したくって、殺したくって、<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らない人なんでございます、よほど腕の利いた人で、無暗に人が殺したいのです、手にかけておいて、矢の倉の方へ逃げました」

突然にこう言い出したのは、人数の後ろに超然として、見えない眼をみはっていた弁信であります。

「エ、お前はそれを見ていたのかい」

辻番もその他の者も驚きました。弁信の言い分があまりに突然であったから、辻番らは<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られているところへ検視の役人が来ました。それで型の如く、年頃、恰好、着類、所持の品、<ruby><rb>手疵</rb><rt>てきず</rt></ruby>の様子を調べた上に、改めて宇治山田の米友に向いました。

「<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>のところと、姓名は」

「鐘撞堂新道、相模屋方、友造」

米友はこう言って名乗りました。

「お前はこの夜更けに何用があって、こんなところへ通りかかった」

「エエ、それは、人を迎えに来て……」

米友が少々<ruby><rb>口籠</rb><rt>くちごも</rt></ruby>るのを見て、お蝶が横合いから口を出しました。

「わたしの帰りが遅いから、それでこの人が迎えに来てくれたのでございます」

そこで検視の役人は、お蝶と弁信をしりめにかけ、

「お前たちはまた何しに、こんな夜更けにここへ通りかかったのだ」

「エエ、それは……」

お蝶も、その返事に少し口籠ったが、そこは米友よりも<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>に、

「この人のお帰りを送って参りましたものでございます、ごらんの通り、この人は眼が不自由なものでございますから」

「お前はどこのものだ」

検視の役人は改めて、盲法師の弁信に問いかけます。弁信は例の通り泣きそうな<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして、

「私は本所の法恩寺の長屋におりまする弁信と申して、こうして毎夜毎夜琵琶を弾いて市中を歩いている者でございます、琵琶は平家の真似事を致すんでございます、生れは房州の者でございまして、ついこのごろ、江戸へ出て参ったんでございますから、地理も不案内でございまして……」

「よろしい」

なお弁信が何事か言おうとするのを、役人は打切って、米友の方に向い、

「友造とやら、もう一度、お前がこの死人を見つけ出した<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を述べてくれ」

「それは、前に申し上げた通りなんだ、人殺し――という声が聞えたから、それで飛んで来て見ると、この通りなんだ、そのほかには何もいっこう知らねえ」

「それで、その人殺しという声のした時に、怪しい者の逃げて行く影をみとめたということもないのか」

「<ruby><rb>真闇</rb><rt>まっくら</rt></ruby>で、人の影なんぞはちっとも見えなかった」

米友が頭を左右に振って、<ruby><rb>肯</rb><rt>がえん</rt></ruby>ぜぬ形をした時に、またしても盲法師の弁信が後ろから、抜からぬ面で口を出しました。

「その人は、確かに向うへ逃げました、この人をなぶり殺しにしておいて、そっと忍び足で両国の方へ――矢の倉というんでございますね、あちらの方へ逃げてしまいました」

「ナニ、矢の倉の方へ逃げた？　それをお前は見たのか、お前は<ruby><rb>盲人</rb><rt>もうじん</rt></ruby>ではないか」

検視の役人は、容易ならぬ眼つきで弁信をながめました。附添いの者は、やはり<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>で、提灯を弁信に突きつけたが、弁信は一向それを怖れずに、

「はい、ごらんの通り盲人でございますから、勘がよろしうございますから、それがわかりましたのでございます。こうして抱き締めて、苦しがっているところを刀を抜いて、一突きに突いて、なぶり殺しにしていたところが、私には、はっきりとわかりました」

「ナニ、お前は、いよいよ不思議なことを言う盲人だ」

検視の役人は米友の訊問を打捨てて、弁信の<ruby><rb>糺問</rb><rt>きゅうもん</rt></ruby>にとりかかろうとします。お蝶は傍でハラハラするけれども、盲目の悲しさに、弁信は一向、役人の<ruby><rb>権幕</rb><rt>けんまく</rt></ruby>を見て取ることができずに、

「私にも、あの時の心持が自分ながら不思議でなりませぬ、ナゼ、それと知ってあの時に、大きな声をして、あの人を驚かしてやらなかったのか、その心持がどうしてもわかりませんのでございます」

「いよいよ以て、お前は不思議なことをいう盲人だ、お前のその勘で見たことを、<ruby><rb>逐一</rb><rt>ちくいち</rt></ruby>言ってみるがよい」

「ヘエ、申し上げましょう、お笑いになってはいけません、私の勘のいいことは、初めての人様はみんな本当になさらないことが多いんですから、どうぞ笑わないでお聞き下さいまし。それはこんなわけでございます、殺されたその女の方は、この近処の稲荷様へ願がけに参ったものらしうございますね、その帰りをあの悪者が待ち受けていたものでございます、そうして通りかかったところを柳の蔭から出て、ぐっとこうして<ruby><rb>羽掻締</rb><rt>はがいじ</rt></ruby>めにしてしまったから、女の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>は何も言うことができなかったんだろうと思われます、それとも、あんまり怖いから、つい口が利けなくなってしまったのかも知れません、それから暫くして、お前は幾つだ、と悪者が聞きました時に、女の人が十九だと申しました。それからのことは申し上げられません、私がぼんやりしてしまったのでございます、何が何だかエレキにかけられたように私は、それを聞きながら、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>がつまって一言も出ないで、立ち<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまったんでございます。ところが、わからない上にもわからないことは、その悪者が病人なんでございますよ、それが全く不思議でございます、歩くにさえやっと息を切って歩く病人でございます、その病人が、あなた、やっぱり、ああして辻斬に出て歩きたがるんですから、ずいぶん腕は利いているんでございましょう。それにあなた、あれは、ただ人を斬ってみたいという辻斬とは全く違います、ただ斬っただけでは足りないんでございます、ああして<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り<ruby><rb>殺</rb><rt>ごろ</rt></ruby>しにしなければ納まらないのでございます、苦しがらせて殺さなければ、虫が納まらないというものでございましょう、全く怖ろしいものです。それを私が、こちらに立って、ちゃあんと手に取るように聞き込みながら、それで一言半句も物が言えなかったのは、いま考えると私が怖かったからでございます、もしあの時に、私が何か言おうものならば、きっと私が殺されてしまいます、私が殺されなければ、このお蝶さんが殺されてしまいます、ずいぶん離れてはいましたけれども、トテモ逃げる隙なんぞはありゃしません、それで私はスクんでしまいました、動けなくなったのは、自分の身が危ないからでございますね、お蝶さんがかわいそうだからでございますね。そのうちあの女の人が、なぶり殺しに逢ってしまって、悪者は右手の方へと逃げて行きました、まもなくとんとんと人の足音でございました、それが、友造さんとおっしゃるそのお方で、その時になって初めて、私の身体からエレキが取れて自由になりました。悪者をお探しになるならば、それは病人のお武家で――ああ、もう一つ肝腎なことを申し忘れました、その病人の悪者は、私と同様の<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>でございますよ、病人で盲目で、そうして辻斬をして歩きたがるのですから、全く、今まで私共は聞いたことも、むろん見たこともない悪者なんでございます」

弁信が順を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>うてスラスラと述べ立てるのを、役人も、辻番も、お蝶も、酔わされたように聞いていたが、なかにも米友が、

「あっつ、ムクがいねえ、ムクがどこかへ行ってしまった」

いまさらに気がついて、再び地団駄を踏みました。

## 十九

その翌朝になって、弁信、お蝶、米友の三人ともに、役所から許されて帰ることになりました。

一旦、<ruby><rb>鐘撞堂新道</rb><rt>かねつきどうしんみち</rt></ruby>のお蝶の主人の家へ引取った米友は、それから出直して、どこへ行くともなしに歩きながら、

「どうも、わからねえ」

その<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に一抹の暗雲がかかって、しきりに首を傾けながら歩くのです。ついには棒を<ruby><rb>小脇</rb><rt>こわき</rt></ruby>にかかえたまま、両腕を組んで、

「わからねえ、わからねえ」

やがて<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついたのは、例の弥勒寺の門前であります。門へ入ろうとする途端に、

「やあ、ムク、ここにいたのか」

<ruby><rb>出会頭</rb><rt>であいがしら</rt></ruby>にバッタリと逢ったのは、昨夜柳原の土手で別れたムク犬であります。

「ムク、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめい</rt></ruby>なんだっておいらを置いてけぼりにして、どこかへ行っちまったんだ、先廻りをしてこんなところへ来ているとは人が<ruby><rb>悪</rb><rt>わり</rt></ruby>いな、人じゃなかった、犬が悪いんだ――だが、お前は良い犬だ」

米友はムク犬の頭を撫でてやりました。ムク犬は米友に従って薬師堂の裏手へ廻ると、そこで米友がピタリと足を留め、

「なるほど、この<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>の木がいい足場になるんだ、この枝を伝わってああ行くと、塀を<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り越すなんぞは<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>にもできらあな。よし、今日はひとつ、あの枝をぶち落しといてやれ、どうなるか」

板塀の上から枝を出した百日紅の樹を、しきりに<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいました。

「だが、やっぱり、わからねえことは、わからねえ」

米友は、百日紅の枝を仰ぎながら、ここまで来ても、やっぱり思案に暮れて、いよいよその<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を曇らしています。

実際、このごろ中は、米友の頭では解釈しきれないことが起っているに相違ないのです。それで米友はこのごろ中、毎晩のように、夜中になると<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きて、例の手槍を肩にして外へ飛び出します。飛び出す時の米友の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>は、

「ちぇッ、また出し抜かれたな」

という表情で、或る時は町家の軒下をくぐり、或る時は屋根の上を躍り越えたりして、深夜の市中を走ります。たしかに、何者かを<ruby><rb>追蒐</rb><rt>おっか</rt></ruby>けて出たのだが、その帰り来った時には、いつも<ruby><rb>呆然自失</rb><rt>ぼうぜんじしつ</rt></ruby>です。何物をも認めることなくして出かけ、何物をも得るところなくして帰るのです。帰り来ると、がっかりして、<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>の傍に座を構えながら、<ruby><rb>枕屏風</rb><rt>まくらびょうぶ</rt></ruby>を横目に睨んで、

「ちぇッ」

舌を鳴らして額の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を深くしながら、火を焚きつけることが例になっているのであります。

昨夜――むしろ今暁のことは例外でありました。今まで、そうして深夜に物を追蒐けて出ても、その当の目的とするものを何もつかまえては帰らなかったように、自分も、夜番にも、辻番にも、<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>を押えられるようなことはなしにここまで来たが、昨夜はついに、辻番と検視の役人の前に立たねばならなくなりました。

しかし、それは、鐘撞堂新道の相模屋の雇人であるということで、お蝶の巧妙な証明も役に立って無事に釈放されて、今になって帰っては来たものの、昨夜、家を飛び出した時の要領は、依然としてその要領を得ないで帰っては、<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>の枝に向って、その余憤を漏らすというようなわけでありました。

その時に、板塀の中で<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>の音がします。誰か水を汲んでいるに違いない。そこで米友は、板塀の節穴から中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きます。

長屋の裏庭の井戸ばたで、水を汲んで<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を洗っているのは、机竜之助でありました。

「ふーん」

それを節穴から覗いた米友は、やっぱり<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ返った面をして、嘲笑をさえ浮べました。

手拭で面を拭いてしまった竜之助は、その手拭を腰にはさんで、<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>の水を流しへザブリとこぼし、それからまた手探りで釣瓶を探って、重そうに水を釣り上げると、それを盥にあけておいて、縁側の方へ歩いて行く。

「ふーン、ばかにしてやがる」

米友がその後ろ姿に冷笑を浴びせている間に、竜之助は縁側まで行くと、そこへ<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>げて置いた両刀を携えて、井戸端へ帰って来るのであります。そうして、刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>だけをザブリと盥の中へ入れて、それをしきりに洗っているもののようです。柄だけを洗っているのか、或いは中身の血<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のり</span>でも落しているのか、そこは井戸側の蔭になって、よく見ることができませんけれども、やがて、すっくと立ち上って、両刀を<ruby><rb>小腋</rb><rt>こわき</rt></ruby>にして、憂鬱極まる<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をうなだれて、<ruby><rb>悄々</rb><rt>しおしお</rt></ruby>と縁側の方に歩んで行く姿を見ると、押せば倒れそうで、いかにも病み上りのような痛々しさで、さすがの米友が見てさえ、哀れを催すような姿なのであります。

「あいつは幽霊じゃねえのか知ら、どうもわからねえ」

そんな、やつやつしい姿で縁側のところまで辿りついた竜之助は、そこへ両刀をそっとさしおいて、日当りのよいところの縁側へ腰をかけました。だから、ちょうど、米友の覗いている節穴からは正面にその姿を見ることができます。その<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を、うつむきかげんに、見えない目で大地のどこやらを注視しながら、ホッと吐息をついている。その呼吸までが見るに堪えないほどの哀れさであるけれども、日の光は、うららかといっていいくらいのかがやいた色で、この人のすべてを照らしておりました。

「おや？」

この時に、また米友を驚かせたものがあります。それは、今まで自分の身の<ruby><rb>辺</rb><rt>まわり</rt></ruby>にいたムク犬が、いつのまにどこをくぐってか、もう庭の中へ入り込んでいて、しかも、極めて物慕わしげに、竜之助の傍へ寄って行くことであります。

ムクが近寄ると、竜之助がその手を伸べて頭のあたりを探って撫でてやると、ムクは、ちゃんと両足を揃えて、竜之助の傍へ<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>きました。

竜之助は何か言って犬の頭へ手を置いて、犬と一緒に仲よく日向ぼっこをしている<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>です。

これは米友にとっては、非常なる驚異でありました。ムクは、そうやすやすと一面識の人に<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>くような犬ではない。彼は善人を敵視しない代りに、悪意を持った者に対しては、ほとんど神秘的の直覚力を持った犬であります。まあ、伊勢から始まって、この江戸へ来ての今日、ムクがほんとうに懐いている人は、お君と、おいらと、それからお松さん――その三人ぐらいのものだと思っている。しかるに、いま自分の傍を離れて、かえって、見も知りもせぬ、あの奇怪極まる<ruby><rb>盲者</rb><rt>もうじゃ</rt></ruby>の傍へ神妙に<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>っているムクの心が知れない。

米友は何か知らん、胸騒ぎがしました。じっとしていられないほどに<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>わしくなりました。声を立ててムクを呼び立ててみようとして、身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて、手頃の小石を拾い取るや、右の手をブン廻すと、小石は風を切って庭の中に飛んで行きました。

「誰だ、いたずらをするのは」

「おいらだ、おいらだ」

米友は<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>の枝を伝って、塀を乗り越してやって来ました。米友の投げた小石をそらした竜之助は、刀を抱えて、障子をあけて、家の中へ入ってしまいました。

「ムク」

そのあとで、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに眼をパチパチさせた米友は、持っていた杖の先でムクの首のあたりを突いて、

「お前は家へ帰れ」

そう言ってから、いま竜之助があけて入った障子を細目にあけて、

「おい先生、どうしてるんだ、寝てしまったのかい」

それでも返事がないからズカズカと上って行きました。それで枕屏風の上から中を覗き込んで、

「おい先生、お前、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>はどこへ行った」

その言葉は、米友としても<ruby><rb>突慳貪</rb><rt>つっけんどん</rt></ruby>であります。

「どこへも行かない」

「冗談いっちゃいけない、今度という今度こそは、すっかり<ruby><rb>手証</rb><rt>てしょう</rt></ruby>を見たんだ。お前は、昨夜辻斬をしたな」

「そんなことがあるものか」

「ねえとは言わせねえ。驚いちゃったよ、その身体でお前が毎晩、辻斬に出るというんだから。初めは、どうも本気になれなかったんだが、昨夜という昨夜は驚かされちまった」

「誰がそんなことを言った」

「誰が――<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ返っちまうな、あんまり白々しいんで呆れ返っちまうよ、現在、おいらが実地を見届けてるんだ、お前はいったいどういう<ruby><rb>了見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>で、あんなことをやったんだ、さあ、返事を聞かせてくれ、返答によっちゃあ、こっちにも了見があるぜ」

「友造、お前の了見というのは、そりゃどういう了見なのだ」

「どういう了見だってお前、無暗に人殺しをする奴は、そのままには置けねえじゃねえか」

「そのままに置けなければどうするのだ」

「ちぇッ」

米友は舌打ちをして、足を二つ三つ踏み鳴らしてから、

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らも槍が出来るんだぜ、槍が」

この時も、その持っていた手槍で、<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れったそうに畳を突き立てました。

「友造、友造どん」

「何だ」

「お前は先年、甲府にいたことがあるだろうな」

「何を言ってるんだ、甲州へ行っていたことはあるよ」

「その時な」

「うん」

「ある晩のことだ」

「なるほど」

「正月のことだったろうな、寒い晩だ、それに怖ろしく霧の深かった晩なのだ、その晩に甲府の城下に、破牢のあったのを知ってるだろうな、牢破りの」

「知ってる、知ってる、それがどうしたんだ」

「その晩に、お前は甲府の町を、その手槍を担いで一文字に飛び歩いていたろう」

「それに違えねえ」

「その時だ――その時に、お前は命拾いをしているのを忘れやすまいな」

「命拾い？　命拾い？」

米友は、そう言われて仔細らしく小首を傾けたが、ハタと自分の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほっ</rt></ruby>ぺたを打って、

「うむ、あれか」

「友造どん、あの時から、わしはお前を知っている」

こう言われた時に、米友が再び躍り上って、

「この野郎！」

と<ruby><rb>一喝</rb><rt>いっかつ</rt></ruby>しました。ここでこの野郎と言った意味はなんだかよくわかりませんが、今まで気のつかなかった疑問が、一時に解け出したような狼狽の仕方で、米友が、

「やい、起きてくれ、起きてくれ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ももんじい</span>を煮て酒を飲ませるから、起きてくれ」

机竜之助は<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>をかぶって、あちらを向いて寝ました。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ももんじい</span>と酒とで、米友が誘惑を試みようとしても、起きる<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>はありません。

「友造どん、甲府でやった辻斬も、このごろ出歩いてやる辻斬も、みんな拙者の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>だ、あのとき以来、斬ろうとして斬り損ねたのは、お前ぐらいのものだ、このごろもどうかすると、お前を斬ってみたいとも思うが、お前がいないと世話をしてくれるものがないからな」

「冗談じゃない」

米友は眼を円くして、

「恩に<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>せなくってもいいやな、斬れるものなら、斬ってもらおうじゃねえか」

と言いながら、米友は枕屏風の上から、そろそろと竜之助の<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>へ<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い寄って来ました。

「おっと、危ない」

竜之助は寝ていながら、その片手を伸べて、枕許の刀を押えました。

「おい、先生」

「何だ」

「起きてくれ」

米友は蒲団の上から、寝ている竜之助を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆす</span>ぶりました。

「聞きてえことがあるんだから起きてくれ、<ruby><rb>野暮</rb><rt>やぼ</rt></ruby>を言うところじゃねえ、お前ほどの腕の者が、人を斬ったからって、それを今ここでかれこれ言うような<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らじゃねえんだ。斬っていい奴もあるし、斬られちゃ悪い奴もあるんだ、斬られて浮べねえ奴もあるし、斬られて<ruby><rb>冥加</rb><rt>みょうが</rt></ruby>になる奴もあるんだ、はばかりながら宇治山田の米友も、槍にかけては腕に覚えがあるんだぜ、覚えがあるから、こう言っちゃ悪かろうわけはねえんだ。筋が立つところなら、百人でも千人でも斬りねえな、米友も斬りたくなったらずいぶん斬られて上げましょうさ。もし、筋が立たなけりゃ、おいらは、もうお前と一緒にいるのは御免だ、ことによったら、おいらがお前の命を取るぜ、あったらお前を、一人で、こんなところへ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りっぱなしにして置いて、のたれ死をさせるのも<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>だからなあ」

米友はこう言って、竜之助の枕許で腕組みをしました。

「済まない、友造どん、お前にはなんとも済まないことだが、筋が立つの立たぬのという<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>の仕事ではないので、拙者というものは、もう<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うの昔に死んでいるのだ、今、こうやっている拙者は、ぬけ殻だ、幽霊だ、影法師だ。幽霊の食物は、世間並みのものではいけない、人間の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を食わなけりゃあ生きてゆけないのだ、だから、無暗に人が斬ってみたい、人を殺してみたいのだ、そうして、人の魂が苦しがって脱け出すのを見るとそれで、ホッと生き返った心持になる。まあ、筋を言えば、そんなようなものだが、このごろはそれさえ、根っから面白くなくなったわい、人を斬るのも、壁を斬るのと同じようにあっけないものじゃ。辻斬が嫌になったら、その時こそ、この幽霊も消えてなくなるだろう、まあ、それまでは<ruby><rb>辛棒</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>していてくれ」

竜之助は寝返りも打たないで、<ruby><rb>洒然</rb><rt>しゃぜん</rt></ruby>としてこう言ってのけました。

「うーむ」

枕許に腕を組んでいた宇治山田の米友が、それを聞いて深い息をして<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り出したが、頓着せず、

「友造どん、お前の槍の手筋はどこで習ったか知らないが、まるで格外れで、それで、ちゃんと格に合っているところが妙だわい。拙者の如きは、これでも幼少より正式に剣を学んだのじゃ、先祖以来の剣道の家に生れて、父と言い、師と言い、由緒の正しいものだ。拙者だけは破格だ、師に就いたけれども師がない、型を出でたけれども型が無い、一生を剣に呪われたものかも知れぬ、生涯、真の<ruby><rb>極意</rb><rt>ごくい</rt></ruby>というものを知らずに死ぬのだ、もし、神妙というところがあるなら、それを知って死にたいものだがな」

竜之助は平然として、こんなことを言い出したが、今日はその述懐に、多少の感慨があるようです。