Soranoha

昭和十五年度の文学様相

しょうわじゅうごねんどのぶんがくようそう

宮本 百合子

今年の文学ということについて大略の印象をまとめようとすると、一つの特徴的な様相がそこに浮んで来るように思う。

それは作品と作家との間に生じた問題とも云える種類のものである。私たちが偏らない心で今年の文学を思いかえしたとき法外・格外の傑作、問題作、前進的作品というものは作品活動一般についてなかったと判断するにかかわらず、作家たちの動きは特に今年の後半に到って夥しく、両者の間の動きの形は、作品がその自然の重さで水平動しているところへ作家の動きは上下動的であって、作品と作家との動きの間に見のがすことの出来ない一つの開き、角度が現れて来ていることだと思う。そしてこの二つの動きの間に計らずも現出している開き或は角度が来年の文学の成長にとって案外深い連関をもつ性質をふくんでいるのではないかと考えられる。

現代文学のこれまでの動きの様々の時期をかえりみると、それ等の文学的エポークには、それぞれに動いた作家が、自身の動きの激しさと性格とを作品に出して先ずそこで動きがおのずから表明されて来ていた。ネオ・ロマンティシズムという名は、谷崎潤一郎の「刺青」という作品に絡めて以外に私たちに与えられていない。文学において、作者の動きは、いつも作家が作品を体につけて躍び上るなり舞い下るなりしていた。日本における自然主義の消長として荷風の社会批評精神の舞い下りは「嘲笑」ぬきで語れないし、宇野浩二の新しい文学の世代としての第一歩の飛躍は「蔵の中」ぬきに云うことが出来ない。従って、その体に作品をからみつけて、或は腹の中に蠢うごめく作品の世界にうながされて体を動かさざるを得なかったこれまでの作家の動きは、作品と作家の動きとの間に必然の統一が保たれていて、作家が動くということはとりも直さず文学が新しい自身の動きを経験するという現実をもたらしたのであった。

ところが、一九四〇年という年になって作家の動きと作品の動きとの関係は、非常に特殊な分裂を示した。作品はその自からなる生成の密度で比重が重く沈澱して左右水平の動きを示している上で、作家が体一つで上下動的運動を示し、とび上ったり落ちたり、そのことの重さで益々作品は平たくおしつぶしてゆくような奇妙な姿が現れた。

或る種の作家にとっては一人の人の現実の上にこの動きの分裂が顕著であるし、今日の文学全般を瞰みれば、客観的に一つの目立つ現象として作家と作品との関係について語るべき点となって来ている。

今年のしめくくりとして考察するなら、私たちは慎重に、この上下動と水平動との間にある角度の本質を見きわめなければならないのではあるまいか。

そこに或る開き、殆ど直角の開きが存在するということを視るだけでは不足と思う。二つの運動の間で揉まれひしゃげたのは外ならぬ文学であり、自分との真の統一で作品を生むことで動いて行こうとする作家の、年齢や経験にかかわらない歴史的な苦悩の原因もそこに潜められているのである。

日本の社会の歴史が世界史的な規模で変る時期に面している事実は誰の目にも明らかなことだが、文学はそれにつれてどんな新たな誕生をしなければならないかということになると、従来の作家の世界に現実を歴史からみる実力が欠けていた悲惨が大きく結果をみせて来た。新しい日本というものの目安からごく概念的に一方的に下される過去の文学への批判の性質を噛みわけて文学の問題として摂取成長してゆくより先、作家というものの文化的存在の可能不可能、ひいてはたつきの問題へ性急に迫って現れて、そこで作品とは切りはなれた作家の上下動が見られるということになった。

従ってその動きでは、雷の親のうつ太鼓を雷の子どもも自分の小太鼓でうちたたく姿があらわれ、文学の重く痛切な流れは左右の岸を洗いつつ自身の流れに沿うて流れざるを得ない形なのである。

現代文学の中にあらわれているこの大きく深い淵、角度のひらきを、その現実の意味の大きさ、深さそのものに於て把握してその本質をつきつめ会得することで、明日の文学はみずからの前進をしなければならないのであろうと思う。何故なら、作家と作品との間にそういう甚しい分裂が生じたのは、この数年来文学の世界に真の現実諸関係を生かそうとせず、作家の恣意によって風俗の一断面を自身の鏡の下において眺めたり、思念の断片を一つの世界に拡大して見たりして来ていた文学への云ってみれば現実の復讐であるから、文学の世界に現実をどうみるかというような考えは無用であると云われた四年ほど前の言葉の唾は、余り自由に心地よくひろく高くはねとばされて、その後四年たって面上に落ちかかって来たときは、その震動の激しさで、外ならぬその発言者が顛動的上下動に身をさらすこととなったのである。

文学にあらわれたこの深淵は一般に微妙な時代的翳をなげていて、現代小説では人間の社会的な生活の物語と所謂いわゆる生態描写との本質上の区別がぼやかされて来ているし歴史小説の分野では、時代と環境との客観的意義の評価を見直すことでは前進しつつ、そこにゆきかける時代の人間の積極なものとの関係の分析と意義とを従の関係におくことではやはり現代の文学の敗北の投影がみられる。そして、評論の面では、誤った文学の政論化功用論への対症として、文学の本質に再び一般の理解を据え直し、云わば文学とはどういうものかということについて語り直されることが必要であるという努力の方向がみられる。

これまでとはちがう意味での文学的啓蒙が日本の文化にとってどんなに必要かということは、二年前ともかく知性の作家と称して売れた阿部知二氏の売れゆきは去年でぐっと減って、島木健作氏さえ本年にかけて石川達三氏に売れゆきを隔絶的に凌駕されているという、一応文学以外の現象からも示されている。文学常識の急激な落潮、日本文化の低下の激甚さはもっと注目されなければならなかった本年の問題である。

評論のそういう努力の方向にかかわらず、そこにも困難と混迷の時代的な色がある。例えば作家研究を飽く迄文学の中で行おうとする正常な意企をもつ評論家が作家のタイプに関心をひかれて、タイプの共通にかかわらずそこに模する本質的なものについて余り注目を深めなかったり、歪曲された功用論への是正としての芸術本質論の方法において、文学の経た歴史の刻みを逆に辿る形をより強く示めさざるを得なかったような現象は、今日の紛糾を明日へ向って勁つよく掴む歴史的な感覚の弱さでは小説の弱さに通ずるものとして、私たちを深く省みさせる点だろうと思う。

現代文学が波瀾をしのいで成長するには、過去という語感でなく明日へという感覚での客観的な健全な歴史感で今日が把握され、その情熱の裡に創造力がはぐくまれてゆくしかないだろうと思う。そして、そのような可能は、作品の水平動と作家の上下動との個々に目をうばわれず、それを総括して現代文学史の一頁によみとろうとする努力にもかかっていると思う。〔一九四〇年十二月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「早稲田大学新聞」
1940(昭和15)年12月18日号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「昭和十五年度の文学様相──現代文学の多難性」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十二巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002905_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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