Soranoha

「夜明け前」についての私信

「よあけまえ」についてのししん

宮本 百合子

(前略)

藤村がフランスにいた間に、十九世紀というものを世界的な感情で感得し、日本の十九世紀というものを描きたく思ったということ。そして、十九世紀を維新後と徳川時代との区切りで見ず、昔をただ反動保守の力としてばかり見ず、その中に明治を生んだもの、その中に新しい活力をひそませていたものを描きたいということが、なかで読んだ藤村文学読本のどこかにあったパリでの感想中に書かれていました。このことは大変私には面白く思われた。

世界の十九世紀という時のうちに日本のその時代をおいて観察しようとする大きい規模・感覚、並に新しいジェネレーションに対して古いものが本質的にただ古いだけではないのだぞというところを押し出さずにはいられぬ藤村自身としての心持を感じ、その点を私は面白く感じました。

「夜明け前」は或る面から言えば一種の歴史叙事詩であるが、主観的に藤村は歴史の或る時代の或る役割をヘンスーの土地のかくの如きものも負っているということを(即ちマルクシストでない自分だって時代の動きに負わされているものがあるという心持を)たて糸としていることはたしかですね。だから貴方も書いていられるように、客観的に描かれているようで、全篇実に主観的である。このことは「夜明け前」の文章、描写の方法――貴方が「読み辛い苦汁のような」と言っていられる文章にもあらわれていると思います。

そしてこの文章の特徴は、作家藤村の本質的なものの表現として、「夜明け前」・藤村が批評される場合におとしてはならぬ点と思う。リアリスティックであるようだが(場面の登場人物、その動作、言葉、たとえば土地名物の餅のたべかたまでこまごまと書いてあるが)読者はそれがすべて藤村流の気分・心持で圧えられ、思い入れを伴って描かれ、人物自体、動作自体が地の文の上に浮動して活躍していないことを感じる。ダイナミックでない。自由でない。精緻であるが、縫いつぶしの刺繍を見るようなものを感じる。この窮屈な文章が藤村の気組みの反映、或は堂々さとして現代の人々に尊敬されることに、現代文学の貧弱さ、同時に健康な若い文学的反抗心のよわさ、確信あり自信ある発展的・前進的活躍がないフラフラ雰囲気に飽きた一般人をその窮屈さも或る快感として把えるところとなっている。更に、「夜明け前」を読まぬ者まで昨今はそれを一応尊敬するのが常識となって来ているということ、現代の人々が或る大きい事業(文学的にでも)をひどく求めていながらそれを自身やる根気もなく、又すっかりやられて目の前につきつけられなければそういう努力の過程をも野暮なことのように感じる神経衰弱症。そういう心理的な点は、私がなかで文章というものの諸問題について考え、藤村の文章に非常に特徴を発見し、それを浅くではあるが考えて見たときからの興味の中心です。

藤村が「あらゆる存在と必然とを肯定するに到った」その謎の説明として、貴方が藤村の社会的・階級的制約をあげ、小市民的インテリゲンツィアとしての観照的態度をあげてあるのは誤った解釈ではないと思いますが、彼が自分の長男をわざわざ木曾にかえして小さいながら自作農として暮させているところ、人生的な意味で「百姓の道」に対する藤村のつよい肯定的執着、その地味な根づよい営みということに幸福と「中庸の道」即ち時代的変化の血、人間のよってもって立つところ(経済的にも)をおいている点、何か都会の小市民的インテリゲンツィアというには云い切れぬ粘り、あくどさ、くい下りがある。藤村の右のものが彼として今日あらしめ、「夜明け前」をあらしめており、それは都会的なものとは異った粘着力、土の強情さ、外見従順でインギンな執拗さであると思います。藤村においてはこの点がひどく複雑である。

例えば「新片町より」の文章をよんで、誰があれを江戸っ子の浅草住居と言うでしょう。農民が珍らしい鮮魚のエラのうらまでを、味いつくしてたべ楽しむ、ああいう舌なめずりがある。外から来たもの、都会を発見したものの都会の味いかたです。人生におけるこの味いかた、この田舎っぺえさが藤村にあっては骨子をなしている。

私は、何だか藤村においては都会の小市民的なもの(教養)の底から根づよい中農性ががんばり、顔を出しているように思います。どうかしら。それが彼の根本的の押しとなって生存せしめている忍耐ともなっていよう。

藤村における「詠嘆的、慷慨的」なものを詩人的稟質と貴方は書いておられますが、どうかしら。こういうものは藤村が自身の教養と生活の道とを、所謂心も軽く身も軽き学生生活でのみ得ず、自力で自身の肉体でものにして来ているところからも生じているのではないでしょうかしら。

村山(知義)の意見に対して蔵原の批評をひき、貴方が半蔵によって明治変革は叢の中から、下から見られるとしていないことは賛成です。ただ半蔵が百姓の一揆を理解しても、或はセイタを背負うても、自身の「限界を越えることは出来ぬのである」とだけ書きすてず、何故それを越え得ず、越えなかったのはどの点だ、と説明すべきだったと思う。労働者のやるようなことをやったって労働者じゃない、小ブルとしての限界性は越えられないのだ、そう言い切ったのと似ているから。

平田イズムが当時にあっていかに発生し、いかに半封建の新興ブルジョア勢力(薩長、水戸一派)に利用されたか、そこからどの位の大衆の犠牲が生じたか、このことは十分くまなく、現代性をもって、貴方の獄中での潜勢力を傾けて解剖されるべき項だと思います。ここは面白い点です。

藤村が平面的に一つの思想の流れという風に扱っているだけ、半蔵の幻滅が大衆の悲劇の一典型として十分押し出されていないのではないかしら。

平田イズムが単純に社会的現実から時間的に乖離したのではなく、もっと悪どく当時の政権獲得運動者によって利用され、一般をその嵐にまき込み、しかも一時期の後、素早くそのイデオロギーの利用をすてたところもあるのではないでしょうか。尊王・攘夷という四字をいかにサツマの殿様、徳川、イギリス、フランスが手玉にとって、沢山の血を流させたことか。このところは本当にドラマティックです。(後略)〔一九三六年九月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「批評」
1936(昭和11)年9月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「「夜明け前」についての私信──池田寿夫宛私信の一部」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002880_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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