Soranoha

作家への課題

さっかへのかだい

宮本 百合子

偶然のことから、私は「囚われた大地」がまだ発表されず、あるいはその原稿も小部分しか書かれていなかったと思われる時分、平田小六氏と知り合う機会を得た。そのころ平田さんは、日本にはまだ農民の生活を如実に書いた文学がすくないということに注意を向け、日本のような経済的社会的事情を持つ国にとって、実は農民の生活を文学に書くということが非常に大切ではないか。一つ自分は、これまでプロレタリア作家が好んでとり上げたような闘争に高まった意識的な農民の姿だけを切りとって来ず、彼らの背後にひきつづいている現在のおくれた何千万という土百姓の生活と感情とを書いて見たいと思う、という抱負を話された。

私は平田氏のこの文学的野心の内にふくめられている社会的な意味を理解し、それからは折りにふれて会うごとに、まさに誕生しようとしているらしい長い小説の安否を訊ねるようになった。

いよいよ「囚われた大地」が一部発表された。前後して社会主義リアリズムの問題が、それらのすべてが正鵠を得ているとはいえぬさまざまの理解の方向をもって提唱されはじめた折から、作品は複雑な社会性を反省しつつ一般の感興を呼び起し、華やかな登場の拍手をもって迎えられた。

今度改めて単行本として完成された「囚われた大地」を読み、私は作者の努力をやぶさかならず買うと同時に、種々の感想にうたれた。

作者は、一通りこれを書き終った今日、最初の着実な計画、農民の生活を描くという重大な目的にふりかえって、どのような感想を持つであろうかと思ったのである。

この八百枚余の長篇小説の舞台として津軽のとっぱな十三潟附近の寒村がとりあげられている。程ケ谷の紡績工場から故郷のその村に向って汽車にのっているヨシノとサダ子につれられて、二人の娘の気質の相異を理解しながら、読者は次第に北国へ向い、やがて峯子に出会ってA村に入ると、そこには、貧農の息子でのちに急進的に行動する清司、動揺する地方の人道主義的インテリゲンチアである小学教師の木村、窮乏による放火犯の息子であり、A村での農民組合組織者である与作などが、われわれの前面に押し出されて来る。

作者が、北のはずれの野地にかこまれた小寒村にさえも、生きている農村の人間のさまざまのタイプを描こうとして、馬喰兼太、阿部、サダのおふくろなどをとらえている意企は明瞭である。

然しながら、それらの個々の人物とその行動とをいきいきと生かし全篇の背景となるところのA村全体の生活は、どうも、まとまった現実感をもって読者の腹に入って来ない。

それぞれの人物と人物との横の関係についても、作者は説明しているのであるが、作中の人物と読者の感情に訴えてくる現実のものとして確しっかりからみあってつかまれていない憾みがあり、縦にA村全体を錯綜した利害関係によって喜愁せしめている経済情勢と各人物との関連を見ると、作者は当然ところどころでそれにふれているのであるが、まだ作品の大きさが必要とするだけの真実感をもって追求されていない。そのために、全篇を通じて章から章へと並列的にとび、読者の心に期待される急所をはずしたまま通りすぎているような印象を与えられるのである。

作者が二十章のところで、木村の一つの経験として僅か数行で説明しているA村の地主二人が二大政党に分れて対立し、それにつれてA村の村民も二派にわかれていること、〔「◯」の中に「金」、屋号を示す記号〕を次第に蚕食しつつある新興地主〔「仝」の「工」に代えて「二」、屋号を示す記号〕とその強慾な番頭下山、地主の変るごとに戦々きょうきょうたるA村の小作たち。清司や与作を含むA村の農民の生活にとって、こういうさまざまのいりくんだ関係はどんなに日常の制約となっているか、米作と炭やきと日雇稼ぎとはA村の全生活でどういう組合せになっているかというようなことが、じっくりと全篇の基調としてとりあげられたならば、部分部分の活気ある描写も根の深い実感をもって迫って来たであろうと思われる。

もっとも、もしこういう立場から村とそこの人々とを掘りきわめるとなると、作者は全く別な、もっと立体的な構成の方法をとらなければならなかった。

「囚われた大地」の、どちらかというと自然発生的な構成の方法はA村をつよく作者が手もとによせて引つかむには不便な方法であり、また逆に作者によるA村のつかみかたが、この構成の方法に反映しているとも見られる微妙な有機的関係にあるのである。

作者は、細かく農民の日常性をとりあげようと試みている。たとえば農民がひとの着物に対して示す敏感さ、都会の人間やいわゆる学問のあるハイカラな人間や、その習慣に対して抱く警戒、嫉妬をもった皮肉な軽蔑、男女関係についての異常に強い好奇心などを、農民の上におかれている社会関係の重圧と照応するものとして、とらえようとしている。だが、一方では、作者は、作中の主要な人物の一人である与作の村の若衆としてはごく特殊な生い立ちや経歴から来る村民との日常交渉について忽卒に過ぎているのは作品の効果を薄める結果となっている。

作者は、非常に多くの頁を木村のために割いているのであるが、木村の扱いかたについても、私は同様の感を与えられた。木村はA村での小学教師として、まだまだ村全体の生活の中へない混ぜられかたが不足であるしH市の木村一家の地方インテリゲンチアとしての推移についての描写も不足している。「囚われた大地」の最後の頁を読み終ったとき、私は覚えずこれはなんと農村インテリゲンチアの小説であろうか、と思った。そして、作者自身からいつか聞いた身の上話の断片――田舎の中学生であったころからの芸術愛好家であり、ダダイズムの油絵を描き、上京後は新聞社に入って政治記者もやったという作者の生きてきた道を、おのずから思い浮かべたのであった。

丁度これを書きはじめていた時、私のところへナウカ社ニュースが送られて来た。それに、「囚われた大地」に関する作者平田氏の文章がのっていたのであるが、私はなぜかその文章と前後して会った同氏の話の調子とから、一貫して心にのこるある種の印象をうけた。ナウカ社ニュースの文章では作者自身すでに「囚われた大地」が農民の書いた小説でないことはもちろん、農村を描いたものでもなく、農村インテリゲンチア、いわば木村のもので、性格を描くことを目ざした作品であるという意見を表明していられるのである。

個々の作品は常にその積極的な成果と作者の力量に応じての消極面を持つと見るのが自然であり、一つ一つの作品は、欠点や未熟さにかかわらず、何らかの意味でその積極面によって生きとおすものである。ある一つの作品が初め作者によって意企せられた効果によってではない、いわばそれほどとは思わぬところで評価される場合もある。われわれが自然発生的な要素を多くもって制作にしたがった場合、そういう可能性は少なからず含まれていると考えられる。

しかし、作者としては、あくまでも初め自分がその作品によっていおうとしたことをどこまで云い遂せているかというところを動かぬかなめとして、賞讚も忠言をも摂取して行かなければなるまい。

私はこの夏、『中央公論』で森山啓氏の「プロレタリア文学の現段階」という論文を読んだとき、過去のプロレタリア文学運動に対する同氏の評価に私自身の理解と相異したものがあるのを感じたことがあったが、今日「囚われた大地」を通読して、同じ論文で森山氏がその作品を評していた言葉を再び思い起した。「農村のそれぞれの階級層を代表する多くの性格を、これほどの芸術性をもって描き分けたプロレタリア作品は日本にはこれまでほとんどなかった。須井一の『綿』、小林多喜二の『不在地主』『沼尻村』、金親清の『旱魃』などの歴史的意義をもつ農村小説でも規模が違うから比較すべきでないが、これほど芸術的な力は見せなかった。」といい「プロレタリア文学においても現在の中心問題となっている」のは「新しい人間タイプを創造するということ」である、といわれている。

また、林房雄氏は「文学は復興する」の中で「囚われた大地」を称讚し「トルストイ、ドストイェフスキーの手法とともにその鋭く、はげしい精神をも正しくつたえているように思えるたしかな本格的な、小説の名にあたいする小説である」といっている。

長篇のわずか半ばで加えられたこのように横溢的な評言から、最も有効に自己をコントロールし終らせることは、創作についてなみなみならぬ鍛錬を重ねた作家にして初めてなし得るところであろう。

社会主義的リアリズムの立場に立って性格、心理を描くという課題も、この作品の創作的実践においては未だ解決されたといえないのである。

同じ作者によって書かれた「童子」、「村の地主」などの作品にもふれることであるが、われわれは広汎な意味でのプロレタリア文学における自然描写の問題、方言の問題などについてもリアリズムの理解を一層深めなければならない。私はこの力作の検討の上に立って作者がさらに健康な発展に向うことを切望してやまないのである。〔一九三四年十月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
1934(昭和9)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「作家への課題──「囚われた大地」について」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002856_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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