Soranoha

アンネット

アンネット

宮本 百合子

好きな物語の好きな女主人公ヒロインは一人ならずあるが、今興味をもっているのは、ロマン・ローランの長篇小説 The Soul Enchanted(魅せられた魂)の女主人公ヒロインアンネットです。この小説はジャン・クリストフのように、アンネットという女性の一生を取扱ったもので、まだ第三巻目が発行されたばかりで、而もその「母と子」という題の三冊目はまだ読んでいないから、私の内でアンネットの人格は全く発展の中途にあるのです。

大体、外国の本当に偉い作家たちはよく女性を描いているので感心します。トルストイも実に生きた女を描いたし、このロマン・ローランもジャン・クリストフの中に面白い沢山の活々した女性を描写している。ロマン・ローランは本当に女性を細かく理解している。例えば、生れつき流眄ながしめを使う浮薄な、美しい上流の令嬢であるミンナ。無精で呑気のんきで仇気あどけない愛嬌があって、嫋たおやかな背中つきで、恋心に恍惚しながら、クリストフと自分との部屋の境の扉を一旦締めたらもう再び開ける勇気のなかったザビーネ。白く美しい強壮な獣のようなアダ。フランスの堅気な旧教的な美を代表するアントワネット。強烈な火の急流のようなアンナ、または男がいつも我流に女を愛して平然としていることその他、女性の家庭生活の不満に充分苦しみながら「でも、大半は婦人に敵対している社会で、一人で生活しなければならない女性の生活の恐ろしさ」の前にちぢんで、諦めの力でよき妻となっているアルノー夫人。

どれも興味ある女性たちですが、アンネットの面白さは、彼女が現代の知識階級の女性の代表である点です。クリストフの中に現れる女性は、各々豊富な感情や性格をもっていたが、現代女性の理智に欠けていた。彼女達は我知らず性格のままに生き、境遇につまりは順応した。

アンネットは、自分の心がどのような生活を欲しているかをはっきり自覚し、その為に境遇の膳立てに逆ってでも、自己の生活方向、方法、内容を自力で決定しようとする女性なのです。時代的にいえば、アルノー夫人の後進者です。そして彼女の腹違いの妹のシルヴィが、生粋のパリの市民で――プロレタリアートで、イリュージョンを持たず、機智的で実務家で、恋愛と結婚とをはっきり区別し、「そりゃ恋人には危っかしくたって面白い人がいいけど、良人には、一寸退屈だって永持ちのする確しっかりした人でなくっちゃ」と云う女なのに反し、アンネットは理想家です。アンネットは、将来政治界に活動しようとする或る青年を愛した。が、いざ結婚というところまで進んで、腐敗した政治界、善良ではあるがごく世間並なその青年の結婚観に一致出来ないことを感じ、苦しむ。アンネットの裡には、不羈ふきな自由精神があって、彼女の心臓ハートの力で殺すことが出来ない。然し彼女の成熟した女性は愛を欲し、大きな情熱によってその婚約した青年とは永劫に別れつつ、彼の児の母となった。社会の常識と闘い、アンネットはそれを機会に新たな生涯に入った。彼女は、彼女の父親の代から属していた有産階級と絶縁し、家庭教師その他知的職業によって生活する一人の無産者となった。

アンネットは美しい。若い。然し恋愛を或る点恐怖している。アンネットは一旦自分を譲ったら徹底的に譲歩する自分の性質、並に必ず反抗するに違いない自分の自由を欲する魂をよく知っている。

中年に成って、アンネットはその恋愛に征服された。彼女は精力的な、社会の下層から身をのし上げた、有名な、派手な、素晴らしく天才的な外科医を愛するようになった。アンネットは、その男が征服的な、革命的な、精力に満ちた社会的闘士でなかったら愛するようにはならなかったろう。その男も、アンネットがアンネットでなかったら愛しはしなかったであろう。彼は自分の美しい若い妻を、女に知識は必要ないという主義で馴らしていたから、アンネットの裡に全然別種な、自分と共鳴することによって異常な興味を呼び醒された一箇の女性を発見したのであった。

この恋愛も破滅した。原因は、男の強大な主我主義と肉情によって、アンネットは自分が彼の愛人として人格的に陥りかかっている屈辱の深淵を見透し、自分の健康な自尊心をとりかえさずにいられなくなったのであった。――アンネットが確実に彼のものとなった後、彼は、アンネットの誠実な、熱烈な純一を愛する心を無視した一つずつの肉的な抱擁が、どんなにアンネットの霊魂を傷つけるかまるで考え得なかったのであった。アンネットは、大きな、死ぬばかりの苦痛を味った。

彼女の傍で、息子は次第に大きくなって来た。彼の青年期が始りかけている。――ここで第二巻は終っている。欧州戦争が始る。アンネットは母とし、一箇の自由主義者、理想主義者としてどう行動するであろうか。

私が感興を感じるのはアンネットが今日の進歩せる知識階級の女性の来ているところまで来ている点です。彼女は先天的な精神力によって階級のコムベンションを打破し、家族制度や過去の道徳に反抗している。彼女は自分一人の自由は或る程度まで完うし得た。然し、彼女はこれからどのように発展し、明日の女性に向ってどんな予言を与えるか? 次の時代に役立つどんな生活の新しき拠りどころを見出すであろうか?

有産階級から出たアンネットは、その思想の母体がブルジョアであるアナーキスティックな思想に止るであろうか――これは、作家がそこに止ることを同時に意味するが――更にどの方向に進展するであろうか。私はそこを見ものと思い楽しんでいる訳です。〔一九二七年十月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「婦人公論」
1927(昭和2)年秋季特別号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「アンネット」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002829_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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