Soranoha

今日の読者の性格

こんにちのどくしゃのせいかく

宮本 百合子

一

今から二十何年か前、第一次ヨーロッパ大戦が終る前後の日本では、足袋に黄金のこはぜをつけた人もあるというような話があった。そして、ジャーナリズムもこの時代に一つの経済的な飛躍をとげ、菊池寛、久米正雄というような作家たちを通俗作家として出発させ、円本が売れた。一つの画期をなした時代であったが、読者というものはあの頃、どんな角度で現れていたのだろう。

大戦前後、先ず高まった一般の購買力のあらわれの一面として自身を表現した読者たちは、あの時代にはやがてそのような景気のいい購買力を失っても猶続く自分たちの社会成員としての力を別様に表現して、日本の文学に新しい息ぶきをもたらす文学上の動きとかかわり合っていたと思う。

この頃は、黄金のこはぜというような単純素朴な、云わば庶民的成金の夢物語は人々の耳に入らないけれども、本が大変売れるということにつれていろんな話を又聞きする。たとえば、本屋へ電話がかかって、四十円ほど本を見つくろって届けて下さいと云った家があるとか、新宿の紀伊国屋かどこかへ若い職工さんが入って来て、百円札出してこれだけ本をくれと云ったとか、そんな話がよく耳に入る。

頻々とそういうことがおこっているという訳でもないのだろう。おそらく現実には幾つかあったそんなことがぐるぐるまわって変形した話になって殖えたように拡まっているのであろうとも思うが、それにしても、百円札をもって来た若い職工さんの話などは今日の時代を語ってなかなか心に残る話である。

昔円本が売れた時代の一般の心理に立ちいってふれてみれば、あの頃だって、さてこれで一通り箪笥、長火鉢も恰好がついたから本でも買っておくか、という気持で、そんなら円本でもとろうかと、そして買った人は随分多かったのだろうと思う。どんな文学書がいいのか判らないが、あれならともかく一通り揃っているらしいからよかろう、そういう程度に判断のよりどころが置かれてもいたのだと思う。

自分独自の判断や見解がはっきりきまっていなかったということでは或は今日と同様だったかもしれないし、たぶん同様なのだろうが、自分がそのようにして一個の判断、見解をもっていないという事実に対する当人たちの自覚のありよう、感情の在りようは、何処か今日の人々の心とはちがったニュアンスを持っていた。

自分にはよく解らない、ということに或る自然な文化の価値への敬意をふくまれての謙遜があった。本と云ったっていろいろとある。そのいろいろの一つ一つが鑑別されないから、全集や円本をとる。その気持はそのものとして在るままに感じられていたのだと思う。だから、その自然な自分には分らないという自覚が、次の段階では判ると思えたものに率直にとりつかせる動機となって、直接間接に日本の文化や文学の新しい潮にかかわりあってゆく力の発露となったのであったと思う。

百円札をもって、これだけ本を下さい、という職工さんの話は、その頃にはなかったような現代の性格を示している。金銭というものの一つの側から云えば、いかにも値うちの小さいものとなりつつある感覚が表現されているといえるし、他面には、逆にきょう日この札一枚あればともかく何でも買える、その何でもの一つとして本も買えるという気持も、むき出しに出ている。本も買える。しかし、どんな本を買っていいのか自分には判らないということについて、心の中で立ち止っている姿はない。判らないことの上に居直っているようなところがある。

判ることと判っていないこととの間に、どれ程の意味があるか、そんな感覚さえ失われているようなのは、今日の読者のどういう特質なのだろうか。

二

女学生などの間では、昨今、ごひいきの作家の名はさんをつけてよんで、格別そうでないのは呼びすてにするという風も生じている話をきいた。

作家を公人として見て、姓名だけをよんで来た読者の習慣とそれとは感情において決して一つのものでないことは明らかである。

デパートの書籍売場などで、反物を相談するように、これがよく出ます、と云われる本を買ってゆく奥さん風のひとも多いそうだ。それらの女学生にしろ奥さんにしろ、いずれも本は読んでいるのである。もとよりずっとどっさり買って、そして読んではいるのである。今日の読者にはこういう層も極めて多くなっている。

興味のあることは、こういう種類の読者の層と文学がすきでずっといろいろの文学書も読んで来たというような一部の読者とが、いつの間にやら購買力としてひき出される社会現象のなかで混淆してしまって、これまでの判断や好みをぼんやりさせられてしまっていることである。

こういう読者層はさすがに今日自分たちの判断が曇らされぼんやりさせられて来ていることは感じて、書評にたよったり、出版書肆しょしの信用と目されるものにたよったり、著書の定評的評判にたよったりして本を読んでゆく。それにしろ、根本に於て、何となく自分の鑑別にたより切れないものを感じて常識、通念に従っていることでは、やはりつよく時代の空気にまといつかれているのである。

十日ばかり前、この文芸欄で尾崎士郎氏が「三十代の作家たち」の今日の在りようについて面白い観察を書いていられた。その中でも、読者のことがとりあげられていた。三十代の作家の流行性との連関で、アインシュタインの「相対性原理」が科学からおよそ遠い恋愛の秘術か何かを明かにした本だと誤認した読者たちが、その誤認にもかかわらずどしどし買って恐ろしい流行の現象をつくりあげた事実を回顧し、作家として三十代の流行作家が本質はそのようなものである、自身の流行にひかれて今日文学からさまよい出て行ってしまっていることが語られていた。

尾崎氏は作家の側から読者というものの云わば無判断の猛威のようなものをも見ていられたと思うが、今日の読者の心理の諸々相に入って眺めると、読者と作家とのいきさつは、作家たちが現実に作用してゆく態度の面からも引き出されるものとして、その面に随分どっさり問題があると思える。

やはり今日の読者の性格の一つの特徴を語る例として、この間こんな経験をした。数日後には専攻しているフランス文学研究のために渡仏しようとしている或る若い女のひとにあったら、その友達に大変私の書くものを好いて皆よんでいるというひとがあるという話になった。そう云われて嬉しくないものはないと思う。すると、それにつづけて「そのひとは、偶然あなたと同じお名前なんですの。だもんですから、よくひとに、こないだの、実は私がちょいといたずらしてみたのよ、なんて云ってよろこんでおりますわ。ホホホホホ」と何のこだわるところなく紅の色艶やかな唇をうちひらいて微笑まれて私は言葉をつぐことが出来なかった。

現代の教養を体にいっぱいにしたその若いひとは、勿論自分が一種のコンプリメントとして云った言葉でそんなに強烈なショックを感じる作家が今日に在ろうとは思いもしていなかったのである。おはぎでも拵えるように、一寸いたずらしてと表現する娘さんへよりも、私としてはデカルトにさかのぼって近代フランス文学を研究すると云っているその語りての、今日現実のものとしている文学への感覚からショックをうけた。

今日の日本では所謂いわゆる知的な読者でさえ、作品と作家の生きかたというものの間にある必然について全く感覚を喪うしなっている。これは、どういうことなのだろう。

三

この二三年らい日本のあらゆる事情が激変しているが、特に昨今は物価の乱調子な気ぜわしない上り下りや様々の必需品の不揃い不安定な状態も、切実に生活感情のうちにそのかげをうつしているのだと思う。乾物屋が店の玉子の値段がきに四十とだけ書き据えて、あとの何銭というところに紙をはりつけ次の変化にそなえている刻々の心理は、市民生活のあらゆる部門に亙って存在している。来年中等学校へ入る子供たちはどんな試験をうけることになるのだろうかと思っている昨今の皆の感情も、予測のつかなさと不安定の感とその現象に対する一市民としての無力感とに於て、明らかな時代の感情の色調を帯びている。

あらゆるものが強い旋回の裡に動きつつあるのがこの日々なのだが、一般は果してそのように自分たちを旋回させている現実の理由や方向や意味を客観的なひろがりの中でどこまで掴んでいるであろう。現実のそれぞれの局面に付せられている名称や説明は、それとして現実の実際の解明と等しいものではないことが生活感情としては何となし直感されている。だがその現実の二重焼つけのような映像に対して、どんな態度かと云えば極めて心理的な麻痺の状態におかれているところがあると思う。

生活感情の不安定さをつきつめず、おどろきを失い、その日暮しになって、その不安定さから現象としてはあらゆる興行物や飲食店の満員、往来の夥しい人出となって動いている。本がどんどん売れ次から次と読まれてゆくことのうちにやはりこの心理がある。現実の動きを何かの意味で支配する生活の感情から本がよまれようとするよりも、現実の力に背中をドンドン押されて止まることの出来ない足を前進させながら、視線は次々飾窓をも見ている、あの雑踏の中の神経が今日の読者の神経となっていると思える。

読者一般をそのような眼くばりに漂い流している現実に向って、作家は、ではどんな自己の文学の足がかりを今日もっているのであろうか。刻々の現実をその発展の過程に於て本質的にとらえ、作家としての自己と作品との世界を支配して、その創作の血肉としての意味で読者の生活にもかかわりあってゆく作家の作家たる所以の態度というものは、今日作家自身にとってどのように把握されているだろうか。

この二三年の昼夜をわかたぬ波濤の間で作家自身既にそのような本質での作家らしさを失っているというのが、飾りないきょうの姿の一面ではなかろうか。作家も読者も肩を並べてぶつかりあいながら現実に追いまくられているとも思える。方向のなさ、意欲のはっきりしなさ、昨今はみな御同然お互様と云わば近所づきあいの朝夕の挨拶のようなところがあるように思える。

読者の生活が生きている現実の一部として作家の作品の方法や内容と密接にかかわりあってゆく自然な在りようは、考えてみれば、もう何年か前から薄弱な曖昧なものとなっている。四年ほど前に、民衆のための文学ということが一部で旺に云われたことがあった。それを唱える人々は、読者を目的として意識しながら、実際には読者そのものの生活現実を作家の現実にうちこめられたものとして感じるというより、寧ろ、それを唱える人々の現実というものへの主観的な態度を、読者に向って示そうとした性質のものであった。そして、この民衆のための文学という声と同時に、或は同義語的に、民衆読者は、文学における批判の精神などを必要としていないのだということが特に強調されたことは、実に意味深いことであったと思う。この現実は手にあまる、という一部の人々の自己放棄の告白が、読者の文化の水準に仮托かこつけて逆の側から表現された点が、今日の読者のありようにもつながる意義をもつのである。

四

たとえば、石川達三氏のような作家が、初めは「蒼氓」をかいて文学的出発をしながら、その後は「蒼氓」のうちにも内包されていた一種の腕の面を発達させて、「結婚の生態」に今日到達している姿はなかなか面白いと思う。この野望に充ちた一人の作家は、作品をこなしてゆく腕にたよって、例えば「生きている兵隊」などでは、当時文壇や一般に課題とされていた知性の問題、科学性の問題、ヒューマニズムの問題などを、ちゃんと携帯して現地へ出かけて行って、そこでの見聞と携帯して行った思想とを一つの小説の中に溶接して示そうとした。

この作品は他の理由から物議をひきおこしたが、作品の実際として注目をひくとすれば恐らくその溶接技術の点であったろう。トピックとしての思想と見聞の現実性とが、機械的に絡み合わされたこの作品での試みの後、作者は生活の思想、文学の思想として思想を血肉化す努力はすてたように見える。

判断と生きる方向とを文学的に求めてゆかず、浮世の荒波への市民的対応の同一平面において、その意味で「結婚の生態」は、今日の現実では作家が、文学をてだてとしてどんなに常識的日常性を堅めてゆくかという興味ある一典型をなしているのである。

小父貴にでもそれを云われたらともかく一応はふくれるにちがいない娘さんたちが、それと同じ本質のことを、アナトール・フランスの言葉というようなものを引用したらしく文学のように話されれば、何かちがった瞬きようをしてきくという心は、読者の何という可憐さであろう。しかし、生きている人間であってみれば、どこかでおのずからその本質が旧来のものの肯定に立っているのは感じられるのであるから、あらア石川さんと、婦人雑誌の口絵にかたまって覗きこみながら、作者の生きかたというようなものに、文学的に高められた心が発動するというようなきっかけは刺戟されるよすがもない。読者の水準にかこつけて、作家・評論家たちが自己放棄を告白した時から、その人々にとって文学の作品は制作から次第に実務(ビジネス)に変質して来たのだと思う。

島木、阿部という作家たちの読まれかたも、初めの頃は何かを人生的な欲求として求めている読者の心理をとらえて、しかも現実の答えとしては背中合せの本質をもつ作品が与えられていたのであったが、現実への作者たちの向きかたは、その作品の世界の拡大や成育を可能にせず、常識がAと云っていることを、その人らしい云いまわしとジェスチュアとでAという、そこに読者からの特徴の鑑別がおかれざるを得なくなった。

同じ真面目さと云っても、習俗の真面目さと文学の真面目さとは必ずしも常に一つでないことは誰しも知っているわけだが、作品の今日の所謂真面目さは、真の文学の真面目に立つより、A子の真面目だわというところ、B氏の少くとも真面目だよというところに安住している形がつよい。作家の現実への精神の角度が、A子B氏なみのところに在って、文学性というものの目やすはそれを小説の形にかき得るという一つの技術上の専門的分化の範囲にあるように考えている今日の読者の気持に、作家としての苦悩がないかの如くである。

かえすがえすも、今日の読者の在りようというものは、作家がめいめいの心の中で現実の一部として読者と自己との生活のいきさつをどう見ているかということと切りはなして云える事柄ではないと思う。読者の要求に追随するという表現にしろ、作家としてはわが身にかかわることなのであるから、つまりは、自分の内の何かに追随しているということと全く等しい。

百円札を出して、これだけ本を下さいと云ったという若い職工さんの俤おもかげも、人生的な又文化の情景として見れば、そこに何といたましい若き可能性の浪費と頽廃が閃めいていることだろう。作家が現実に居直ることと常識に居坐ることとの差は必ず読者の在りようを作家にとって内在的に変えるばかりでなく、照りかえしてゆくものと思う。〔一九四〇年五月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「都新聞」
1940(昭和15)年5月19~22日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「今日の読者の性格」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十一巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002821_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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