Soranoha

地の塩文学の塩

ちのしおぶんがくのしお

宮本 百合子

文学批評の貧困ということがこの頃又人々の注意をよびさましている。貧困な今日の文学において、批評という一つの分野についてだけ云われることなのだろうか。批評精神というものはただ或る対象をとらえて、それを分析したり解剖したり、つまりふわけの仕事をして、これのからくりはこういうものである、ということを明かにする範囲がその本質ではないだろうと思う。批評精神の根本には、創造的な面がある。その創造的な思意に或る対象がふれて来るところから発する一つの客観的な押しすすめの精神作用が、批評の精神としてあらわれて来るのではなかろうか。小説と批評的な評論とは、ジャンルとしての違いがおのずから語っている形成の過程にこそ各々独自なものをもっているが、その根底となる感動、或は感受性というものは、それが人生と文芸とに対して何かの意味で積極なものを含んだ思意的な強健さであるということに於ては一つなのだろうと思われる。従って、文学批評の貧困が云われる時代に、文芸作品が文学の真の発展の意味で興隆しているという現象は、社会的にあったためしがない。プロレタリア文学を歴史の上に顧みて、或る人は今日では殆ど十年を経たあの時代には、作品そのものより批評、評論の活躍が著しくて、謂わば文化の分野に溢れているその評論活動に保護されて作品が評価をたかめられているような傾きがあると云っている。その評の当否は簡単には云えないけれども、もしそういう傾向が見られたとして、それはその頃の一般の生活意欲がどんなに創造的なものを求め、それをうち立てて行こうとする熱意に満ちていたかという事実を如実に語っているのだと思われる。生活そのものに生新溌剌な意欲が漲って、文学でも新しい境地の開拓が自然に人々を誘っているような時代、批評の精神も沈滞していよう筈はないのである。

時代によって、人間の善意の表現も極々の転形を示すのだが、今日私たち日本の文学の成長の可能は、どんなところにかくされているのだろうか。

誰にでも目につく一人の作家の例について考えると、例えば火野葦平という作家が「糞尿譚」から「麦と兵隊」その他の筆者として働いて来て、さてこれから、どのような方向にその成長の実質を高めて行くだろうかというようなことも、日本の文学の一方に注目をひくことである。火野葦平のそういう働きかた、動かされかたは、この二三年来の大局から見て彼一人に止らなかった。いろいろの形で彼を動かし又彼が動いたような動きの本質が、日本文学に入って来ていて、それはやはり現代文学の流れに或る色調を加えたものである。将来の文学の流れに流れ入る一つの要素となっているのである。

火野葦平は、帰って来たときすぐ朝日新聞に「帰還兵の言葉」というものを発表した。そのなかに、あちらにいたときは物資が欠乏しているということを頻りにきかされていたところ、帰って見たら物資は店頭にあふれていて、これでこそ興亜の大業に進む国の姿であると愉快に思ったという意味が語られていた。私たち一般人の生活の日常では、炭や米の問題が旺さかんにおこって来たこの二ヵ月ばかり前のことであった。そして、そういう火野葦平の文章ののっている朝日の同じ紙面のすぐ側に、米の配給に関する困難打開会議の記事も出ていた。「帰還兵の言葉」の筆者は、一つ紙面にそのように並びあってあらわれた、自分の言葉の内容とその隣りの記事の内容とを、この現実のなかでのこととして、どんな感慨をもって見較べたことであろうか。

文芸の成長の真のモメントは、案外こういうところでの自分の姿に人間らしく吐胸をつかれる敏感さに潜んでいるのであろうと思う。

あちらの兵士たちは、これまで日記をつけていたものは破棄するように云われているという事をきいた。それには、それだけの必要があるからのことであろう。火野葦平として自分の書けたことに、作家としての葦平は又感慨なくもないであろう。その感慨を、彼はどんなに身にひき添えてかみしめているか。作家としての自分が従来の作品の文学性の砦の胸壁のようにそこへ胸をもたせかけて来ていた人情というものをその現実のありようの多面のままにどこまでさわり以上のものとして発展させてゆくか。云ってみれば、これまでの自分にいかに幻滅し得る勇気をもっているかということに、文学の徒としての基本点がかかっている。

何かの婦人雑誌に彼が最近かいたものの中で、文学を日夜想念する作家として誰彼のことを云っていたが、文学の想念ということは、窮局には、たゆまず自分を破いて行こうとする情熱、それを表現し文学化してゆく文学上の諸要件での一致点の発見のことではないだろうか。

何の力にすがって、刻々の自分の殼を破ってゆくかと云えば、人生的文学的な自己省察であり、そのようなきびしいたゆみない自己省察は人間の生きつづける歴史の継続としてのこの人生と文学とに期するところがなければ生じるものではないであろう。大いに期するところは、人類と文学との継続の鎖に更に輝やかしい一環を寄与したい心であると思う。その心の動因は、人間精神の成長とその合理への方向への信頼であり、他の面からそのことを云えば、不合理なものへの承服しがたさへの確信と、その承服しがたき事象の裡から、僅かなりともより承服しやすき方向への推進の力づくし、心づくしと云うことが出来る。

私たちが生活の間に経る波は激しく、潮はまことに急速で、昨今は、この一ヵ月で生活感情も随分変化して来ている有様である。その波濤を、ああしこうし工夫して凌ぎゆくわけだが、そのようにして生活して行くというだけでは、殆ど未だ人間経験というところまでも収穫されていないと云える。そのような日暮しから受ける心持、そのような日暮しに向ってゆく自分の心の動きよう、そういう生活万端の在りようと自分のつくる文学のありよう、そういう関係が深く感情の底にまでふれて探られ、見直され、整理され、そこで初めて人間精神の経つつある歴史となるし、文学の歴史ともなり得る。

昭和十四年度の文学の総決算というとき、多くの人によって、この二三年混乱していた文学がやや落付いて来た、内省的になって来たと云われていた。それは或る意味では実際に即した概括であったと思う。けれども、内省的ということも、主として各作家の主観の内で云われる現象であって客観的に現代文学の内省がより鋭くされたということは、たやすく云い切れないのではないかと思った。

その一つの原因は、婦人作家の擡頭ということにつれて、諸家の見解がのべられているのに、何となく十分現実を掘り下げていない感銘を受けたからでもある。

婦人作家がこの一年に比較的数多い作品を発表もしたのは一般に高まった文学性への要求と婦人作家たちの共通性である芸術至上の傾向によるものであるとされ、それは、男の作家がこの二三年の世相の推移につれ、その社会性の積極さの故に陥った混乱に対置して、結局は婦人作家の社会性の欠如の故と否定的に総括されていた。けれども、果してそれだけで、現実のいりくんだ関係が云いつくされているだろうか。男の作家の社会性の積極さということもむずかしい問題であって、あの波この波にすぐ反応を呈してそれに吸引されるままになったと云うことを指しているのでないことは明かなわけである。単純な適応を積極性と呼ばないとすれば、自身の芸術境に忠実であろうとする作家、例えば川端康成というような作家の本年度の芸術が、ゆたかな社会性に充たされていただろうか。武田麟太郎の作品が社会性において一歩をすすめ得ていたであろうか。

婦人作家が社会性を欠いているとして、そういう作品が文壇にある評価をまきおこしたとすれば、文学の問題としては、そのことに於てやはり男の作家の今日の文学の社会的な実質とも直接かかわっていることだと思われる。婦人作家のそういう存在でさえも何かを文学にもたらしたように思われたのならば、その意味では男の作家の文学も、日本の今日の同じ空の下の低さにおかれているというわけではないだろうか。文化の姿としてその点での大局からの究明がされてこそ初めて男の作家の社会性のひろさ、確さも云い得るのである。それに、現代文学の現実のなかではあらましに、婦人作家と総括は出来ず、婦人作家の中にも、社会的な芸術の素質でそれぞれこまかい相異がある。女というひと色で云えないことは、男の作家を男というひといろで云えないと全く同じことだと思う。未だ婦人作家というと、女というところで概括し、こんな場合何か男から女に向って物を云うという風に表現されて来るところも、文学の領域でさえそれの怪しまれないことも私たちが今日に持っている文化の性質を語っていると思う。

これからの一年はまさしく十年に相当するばかりでなく、その飛躍の質では、紀元二千六百年の日本にして初めて経験する社会生活の諸相であろうと思う。

文学は、その現実にどこまでしっかりとくッついて、その真の姿を描き出して行き得るであろうか。どこまで人間精神の経歴としてその中に沈潜して省察し、収穫し、芸術化してゆくであろうか。このことは、作品のなかにトピックとして或は題材として世相を盛るということよりは遙にむずかしく深く、そして文学を文学たらしめるものであるのだと思う。〔一九四〇年二月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「懸賞界」
1940(昭和15)年2月上旬号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「地の塩文学の塩」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十一巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002814_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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