<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><TEI xmlns="http://www.tei-c.org/ns/1.0" xmlns:snh="https://w3id.org/soranoha/ns/tei" snh:vocab-version="1">
  <teiHeader>
    <fileDesc>
      <titleStmt>
        <title type="main" xml:lang="ja">プロ文学の中間報告</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">プロぶんがくのちゅうかんほうこく</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>宮本</surname><forename>百合子</forename><idno type="aozora-person-id">000311</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>みやもと</surname><forename>ゆりこ</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Miyamoto</surname><forename>Yuriko</forename></persName></author>
      </titleStmt>
      <publicationStmt>
        <publisher ref="https://w3id.org/soranoha/">Soranoha</publisher>
        <idno type="soranoha-work-identifier">002771_000311</idno>
        <idno type="aozora-work-id">002771</idno>
        <idno type="aozora-card-url">https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2771.html</idno>
        <date when="2014-09-17">2014-09-17</date>
        <availability status="free">
          <licence target="https://creativecommons.org/publicdomain/mark/1.0/">The underlying work is in the public domain; Soranoha asserts no rights over it.</licence>
          <licence target="https://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/">Soranoha's encoding of this work and the artifacts derived from it are dedicated to the public domain under CC0-1.0. Attribution is requested, not required. Full rights statement: <ptr target="https://w3id.org/soranoha/rights"/></licence>
        </availability>
      </publicationStmt>
      <sourceDesc>
        <bibl><title>宮本百合子全集　第十一巻</title><publisher>新日本出版社</publisher><date>1980（昭和55）年1月20日</date><note type="input-edition">1986（昭和61）年3月20日第5刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「グラフィック」1937（昭和12）年4月15日号</bibl>
        <bibl><idno type="source-content-hash">sha256:ff516847ab8f02a82ccb9dd217a8d247900d598c3bbf077c3f641c21a2e365f7</idno></bibl>
        <bibl><idno type="primary-text-hash">sha256:989fd76e1de54bc8525d77e096ab7df5900460c16d84a5640a5850b051c58642</idno></bibl>
      </sourceDesc>
    </fileDesc>
    <encodingDesc>
      <styleDefDecl scheme="css"/>
      <classDecl><taxonomy xml:id="ndc"><bibl>日本十進分類法 (Nippon Decimal Classification), as recorded by <title>青空文庫</title> in its 分類番号 field.</bibl></taxonomy><taxonomy xml:id="aozora-orthography"><bibl><title>青空文庫</title> 文字遣い種別: the orthographic style Aozora Bunko records for the transcription.</bibl></taxonomy></classDecl>
      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
    </encodingDesc>
    <profileDesc>
      <langUsage>
        <language ident="ja">日本語</language>
      </langUsage>
      <textClass>
        <classCode scheme="#ndc">901</classCode>
        <classCode scheme="#aozora-orthography">新字新仮名</classCode>
      </textClass>
    </profileDesc>
  </teiHeader>
  <text>
    <body>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-409-687">プロレタリア文学運動が一九三二年以来次第に運動として形を失って来たにもかかわらず、プロレタリア作品とよばれる作品は今日やはりずっと書きつづけられており、決して消えてしまってはいない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-687-2003">これは、なかなか面白い観察されるべきことであると思う。芸術の各分野で文学が（中でも小説が）社会の現実を最も直接に反映し、再びその作品の芸術的効果において社会感情の裡に作用しかえしてゆくという特徴が、どんなに根づよい事実であるかということが考えられる。文学運動の形として団体だのサークルだのというものはなくされたが、私たちの毎日の実際生活の様々の悪感情、公平ならざる事情、この人生の動きかた、動かされかたに人間として疑問をもたざるを得ない諸事情というものは、経済上・思想上の自由がきりつまるにつれて、却って人々の心に意識されて来る。何かそこに方法を求め、何かそこに解決の可能についての見とおしを欲する感情が流れている。プロレタリア文学は、作者のそういう現実の生活感情が底潮となっているために、作品としてやはり人々の心をひく何かを含んでいるのである。そして、大局的に眺めわたせば、現代の紛糾と困難を縫って猶プロレタリア作品が生れざるを得ない社会の現実の姿が浮上って来るのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2003-2462">或る人々は、プロレタリア作品がこのように内包しているプロレタリア性というものに我から全幅の信頼をかけ、その仕事にたずさわっている自身をも比較的手軽くプロレタリア・インテリゲンツィアという風に規定して、自分たちがそのようなものであり、プロレタリア文学の本質が左様なものである以上、現代のような事情の下では、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-2462-2483"><rb>須</rb><rt>すべから</rt></ruby><seg source="#source-2483-2575">く闊達自在にふるまって然るべしという見解を、今日示している。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2575-3078">闊達自在であり、そのように生活し創作することを希わないというような人間が、この世に在り得るだろうか。誰しもそれこそのぞましい事情と思うのであるが、闊達自在という文学を頭の中で、或は感情の中で、描き想い翹望することと、今日の現実の社会関係の下で、プロレタリア作家が、闊達自在に生きるということとの間には、種々微妙なものが横わっている。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3078-3860">プロレタリア文学というものの包括し得る領域が、今日は非常にひろく複雑な内容に於て理解されて来ている。これは当然そうあるべきことである。それと同時に、左翼運動全般が退潮していて、間接な意味ででも一定の方向とか規準とかいうものが明瞭にあらわれていない。しかも、文化面だけでも社会の対立を意識する心にはそれが鋭く感じられる時期であるから、この三つの事情は相互に絡み合いその上外部とのめり張りによって局部局部では凹凸がはげしく、今日ほどプロレタリア文学の内容が雑多、複雑であったことは嘗て過去十何年間になかったであろうと思う。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3860-4553">昔、文学の領域でアナーキズムとマルクシズムとの論争が旺んであった時代は、プロレタリア文学史のことで最も紛糾した頁をなしているのであろうと思うが、それは性質において今日プロレタリア文学内に交流し渦まきその頭や尻尾が見えつかくれつしている諸要素とは大いに違っていたと思う。昔は、何かの形で、当時としては発展的統一に向う過程の攪拌作用として生じていた。今日のプロレタリア文学内に包括されている諸要素は果して簡単に、プロレタリア文学の健全な発展のためにより多くの可能を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4553-4571"><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby><seg source="#source-4571-4627">すものであるとだけ云い得るかどうか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4627-5082">プロレタリア文学の着実な日常性、大衆性というものの本質は、小林秀雄氏等によっていわれている大衆性とちがい、武田麟太郎氏がいう日常性と違ったものであり、プロレタリア作家は自身の生活と文学とでその相互をはっきりと描き出してゆかねばならないのであるということが、どの程度に鮮やかに感覚されているであろうか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5082-6047">運動がなく、全体的な目じるしがないのだから、プロレタリア文学におけるプロレタリア性とか、プロレタリア作家が自分から自分の中に確認しようとするプロレタリア・インテリゲンツィア性というものも、とかくその人々の主観によって色づけられ、評価される危険が伴っている。何故なら特別な一部の人々を除いた大多数の読者は、読者自身何もはっきりとした判断のよりどころというものを持っていないのであるが、漠然この現実とブルジョア文学だけではあきたらぬ心持を托して読むのであるから、一方からいうとプロレタリア文学は今日些細なプロレタリア風な薬味を実は添えているだけであっても、読者から叱責され、或はきびしく批判されるという心配なしでやって行ける事情におかれている。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6047-7534">プロレタリア文学がまとまった運動としてあった頃は、その仕事にしたがう人々の出処進退というのは、文学の本質が必要としている方向の上から、全般的にとりあげて吟味されたし、読者もそういう点ではプロレタリア作家の現実社会での身の処しかたと作品の評価とを一致させるべきものとして観ていたし評価した。今日ではこの点もゆるんでいる。一人一人のプロレタリア作家がブルジョア作家と同じような切りはなされ方で観られ、あの人はああ行動し、この人はこう生きている、という現象だけ漫然眺められている。プロレタリア文学者として云々という我にもひとにも通じる目安が、ぼけている。文学の仕事は、個性的なものであって、それぞれの作家は自分の足でだけ自身の道をプロレタリア文学の大道の中にふみわけてゆくのではあるが、プロレタリア文学者とブルジョア文学者との間には、例えば谷崎潤一郎と志賀直哉との間に在る作家的相異よりはまたおのずから異った質の違いというものがなければならないはずなのである。そして、これらのすべてのぼやけた、便宜主義的なものは、読者も作家も等しく今日の大衆として置かれている低さからあらわれたものなのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7534-8619">プロレタリア文学者が、ものを否定的にばかりいいたがるということが、小林秀雄、河上徹太郎氏その他の同傾向の人々からいわれたし、今も、これからもいわれるであろうと思う。一般の読者の中には、現実生活の重苦しさにげんなりした心持をプロレタリア文学の闊達と称せられない有様に結びつけ、その評言を当っているように思い、つづいて昨今青野季吉氏によっていわれている闊達自在論をそれなりによしと感じるひとがあるかも知れない。けれどもよくよく考えて見ると、プロレタリア作家が否定的にものを見るということは全く相対的な関係のもので、大衆生活の要求している積極的なものをいうためには、その反対物として提出されているものに対して先ずそれを否定し、何故にそれが否定されなければならないかを明かにしなければならないのは、誰の常識でも理解されると思う。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8619-9827">例えば増税、物価騰貴に対して大衆は、先ず否定的な感情をもたざるを得ず、その表現は自然否定的な形から入って行く。文学では近頃日本的なものが云々されているが、私たちが日本人であり、しかも最も日本語というものの内容表現と密接に結ばれている日本の作家である以上、どうして日本的なものを否定しよう。逆にいえば、日本的なるものの歴史性のあらわれを、身にひき添えて一番つよく感じているのはプロレタリア作家であるとさえいえる。日本的なものということが、それだけ抽象化され、今日の大衆生活の現実との関係では、現実のありようから着実な観察の眼を引離す方向でいわれはじめた場合に、無条件でそれに賛同するプロレタリア作家もなかろうではないか。プロレタリア文学が置かれている今日の事情は、その否定の先に明示すべきものを明示し得ない制約の下にある。これは永年の根気よいプロレタリア作家をもとめた大衆の力で解決されなければならない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9827-11210">日本の左翼運動の歴史が実に若いこと、その消長の過程が日本独特な近代社会の成立の性質を反映していること等は、当然プロレタリア文学にも甚しく影響している。文学理論家として過去のそれぞれの段階に意義深い活動をのこした人々はあるけれども、運動全体の若さ、歳月の若さはまたおのずからそれらの人々の努力の裡にも見られることである。プロレタリア文学における大衆性の理解、人間性というものについての理解、民族の文学に対する理解、それらの重要な諸点は、これまでのプロレタリア文学理論の中で勿論基本的に健全にとりあげられてはいたが、個々の作家の生活感情の中へまで、新時代の作家的稟質となってとけこんでいるとはいえない実際である。今日の社会事情は、これらの問題についても、プロレタリア文学者の熱心な究明と作家的実践を必要としている。現実を客観的に把握し得る作家的力量、作品を客観的に芸術価値高きものにすること、作家が社会の客観的関係と自身プロレタリア作家であることの真の意味とを理解して身を挺することを学ぶこと等が、必要とされているのである。</seg><seg type="layout" source="#source-11210-11255" rend="chitsuki align(right) offset-from-end(0)" snh:layout-kind="chitsuki" snh:layout-params="align=right;offset-from-end=0"><seg source="#source-11228-11255">〔一九三七年四月〕</seg></seg></p>
    </body>
    <back>
      <div type="source">
        <note type="source-attribution" source="#source-11263-11627"><seg type="source-line">底本：「宮本百合子全集　第十一巻」新日本出版社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1980（昭和55）年1月20日初版発行</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1986（昭和61）年3月20日第5刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">親本：「宮本百合子全集　第十五巻」河出書房</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1953（昭和28）年1月発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「グラフィック」</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1937（昭和12）年4月15日号</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-11627-11944"><seg type="source-line">入力：柴田卓治</seg><lb/><seg type="source-line">校正：米田進</seg><lb/><seg type="source-line">2003年2月17日作成</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
        <note type="source-span" xml:id="source-11210-11255" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11228-11255" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11263-11627" n="29"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11627-11944" n="36"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-2003-2462" n="16"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-2462-2483" n="16"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-2483-2575" n="16"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-2575-3078" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3078-3860" n="18"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3860-4553" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-409-687" n="14"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4553-4571" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4571-4627" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4627-5082" n="20"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5082-6047" n="21"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-6047-7534" n="22"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-687-2003" n="15"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7534-8619" n="23"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8619-9827" n="24"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-9827-11210" n="25"/>
      </div>
      <note type="parser-completion" n="true">The n attribute is true when no parser diagnostic of error severity was raised for this source. What the converter could not interpret is recorded in the interpretation-problem and parser-diagnostic notes.</note>
      <note type="source-decoding">windows-31j</note>
    </back>
  </text>
</TEI>