大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平々凡々の者も中々の仕事をする。蚊の<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>といえば云うにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んで居た<ruby><rb>一夜庵</rb><rt>いちやあん</rt></ruby>の宗鑑の<ruby><rb>膚</rb><rt>はだえ</rt></ruby>を<ruby><rb>螫</rb><rt>さ</rt></ruby>して、そして宗鑑に<ruby><rb>瘧</rb><rt>おこり</rt></ruby>をわずらわせ、それより<ruby><rb>近衛</rb><rt>このえ</rt></ruby>公をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の<ruby><rb>佳謔</rb><rt>かぎゃく</rt></ruby>を発せしめ、<ruby><rb>随</rb><rt>しがた</rt></ruby>って宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附けさせ、<ruby><rb>俳諧</rb><rt>はいかい</rt></ruby><ruby><rb>連歌</rb><rt>れんが</rt></ruby>の歴史の巻首を飾らせるに及んだ。<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>といえば下らぬ者の上無しで、漢の班固をして、<ruby><rb>青蠅</rb><rt>せいよう</rt></ruby>は肉汁を好んで<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れ死することを致す、と笑わしめた程の者であるが、其のうるさくて<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しいことは<ruby><rb>宋</rb><rt>そう</rt></ruby>の欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字を<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>すに至らしめ、其の<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>えば逃げ、逃げては<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>集るさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵に<ruby><rb>擬</rb><rt>なぞら</rt></ruby>えて、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の伊達政宗をして<ruby><rb>首</rb><rt>こうべ</rt></ruby>を<ruby><rb>俛</rb><rt>ふ</rt></ruby>して兎も角も豊臣秀吉の陣に参候するに至るだけの<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>を定めしめた。微物凡物も亦<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如くである。本より微物凡物を<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>んずべきでは無い。そこで今の人が好んで微物凡物、云うに足らぬようなもの、下らぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>のような男、<ruby><rb>蝨</rb><rt>しらみ</rt></ruby>のような女が、<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>致した、<ruby><rb>彼様</rb><rt>こう</rt></ruby><ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>った、というが如き筋道の詮議立やなんぞに日を暮したとて、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっとも</rt></ruby>千万なことで、其人に取ってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡を覗いているのが立派な事業で有ると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門、おべそや<ruby><rb>甘郎</rb><rt>あまろう</rt></ruby>ばかりで成立って居る訳でも無く、バチルスやヒドラのみの宇宙でも無い。<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>や虎のようなもの、<ruby><rb>鰐魚</rb><rt>わに</rt></ruby>や<ruby><rb>鯱鉾</rb><rt>しゃちほこ</rt></ruby>のようなものもあり、人間にも凡物で無い非凡な者、悪く云えばひどい奴、褒めて云えば偉い者もあり、<ruby><rb>矮人</rb><rt>わいじん</rt></ruby>や普通人で無い巨人も有り、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者で<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた者もある。それ等の者を語ったり観たりするのも、<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>る流行らぬは別として、まんざら面白くないこともあるまい。また人の世というものは、其代々で各々異なって居る。自然そのままのような時もある、形式ずくめで<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情慾崇拝の代もある、信仰<ruby><rb>牢固</rb><rt>ろうこ</rt></ruby>の代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭く強くなって<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>りきった湯のような代もある、<ruby><rb>黴菌</rb><rt>ばいきん</rt></ruby>のうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気の乏しい水のような代もある。其中で沸り立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、又面白くないこともあるまい。細かいことを語る人は今少く無い。で、別に新らしい発見やなんぞが有る訳では無いが、たまの事であるから、沸った世の巨人が<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>なものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に<ruby><rb>関聯</rb><rt>かんれん</rt></ruby>して、天正十八年、<ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby><ruby><rb>出羽</rb><rt>でわ</rt></ruby>の鎮護の大任を負わされた<ruby><rb>蒲生氏郷</rb><rt>がもううじさと</rt></ruby>を中心とする。

歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家と<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われて<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>うのもうるさい。考証家、<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>家、古文書いじり、<ruby><rb>紙魚</rb><rt>しみ</rt></ruby>の化物と続西遊記に<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>られているような<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いう者の真似もしたくない。さればとて古い人を新らしく<ruby><rb>捏直</rb><rt>こねなお</rt></ruby>して、何の拠り処もなく自分勝手の糸を<ruby><rb>疝気</rb><rt>せんき</rt></ruby>筋に引張りまわして変な<ruby><rb>牽糸傀儡</rb><rt>あやつりにんぎょう</rt></ruby>を働かせ、芸術家らしく乙に澄ますのなぞは、地下の枯骨に気の毒で出来ない。おおよそは何かしらに拠って、手製の<ruby><rb>万八</rb><rt>まんぱち</rt></ruby>を無遠慮に加えず、<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>も有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼の縁側に<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って放談するという格で語ろう。

今があながち太平の世でも無い。世界大戦は済んだとは云え、何処か知らで大なり小なりの<ruby><rb>力瘤</rb><rt>ちからこぶ</rt></ruby>を出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり<ruby><rb>堡塁</rb><rt>ほるい</rt></ruby>を造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでも先々女房には化粧をさせたり、子供には可憐な<ruby><rb>衣服</rb><rt>なり</rt></ruby>をさせたりして、親父殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄せて来たぞ、<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想像出来るような生優しい世では無かった。資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした<ruby><rb>刀痕</rb><rt>とうこん</rt></ruby>を談ずるような<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>も無いことで、何も彼も<ruby><rb>滅茶</rb><rt>めちゃ</rt></ruby>滅茶だった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者の争い騒ぐところで有ったから、早くより戦乱の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>となった。当時の武士、<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、即ち物取りを専門にしている武士というものも、然様然様チャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き鷹を<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>にして遊ぶ程の身分でも無く、さればと云って何の<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>た遊技を知っているほど<ruby><rb>怜悧</rb><rt>れいり</rt></ruby>でも無い奴は、他に智慧が無いから<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>を打って<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>す。<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>ということが元来博奕的のものだから<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることが有ろう、戦乱の世は何時でも博奕が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>る。そこで社や寺は博奕場になる。博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きても<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>められない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>負けて<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>取られて終うと、<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>には賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一勝負したいと、それでは<ruby><rb>乃公</rb><rt>おれ</rt></ruby>は土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が土蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れる。ひどい事だ。自分の土蔵でも無いものを、<ruby><rb>分捕</rb><rt>ぶんどり</rt></ruby>して渡す口約束で博奕を打つ。相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一戸前受取るつもりで勝負をする。斯様いうことが<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>では無かったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマも有ったものでは無い。然様かと思うと一方の軍が敵地へ行向う時に、敵地でも無く<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が地でも無い、吾が同盟者の土地を通過する。其時其の土地の者が敵方へ同情を寄せていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶して其一軍に便宜を供給しない。詰り遊歴者諸芸人を勤倹同盟の村で待遇するように待遇する。すると其軍の大将が武力を用いれば何とでも随意に出来るけれど、好い大将である、仁義の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押切って宿舎する訳には行かない。憎いとは思いながらも、非常の不便を忍び困苦を甘受せねばならぬ。<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう民衆の態度や<ruby><rb>料簡方</rb><rt>りょうけんかた</rt></ruby>は、今では一寸想像されぬが、中々<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>いものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉即ち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任を帯びて居たのである。然るに<ruby><rb>葛西</rb><rt>かさい</rt></ruby>大崎の地に<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>が起って、其地の領主木村父子を佐沼の城に囲んだ。そこで氏郷は之を<ruby><rb>援</rb><rt>たす</rt></ruby>けて一揆を鎮圧する為に軍を率いて出張したが、途中の<ruby><rb>宿々</rb><rt>しゅくじゅく</rt></ruby>の農民共は、宿も借さなければ薪炭など与うる便宜をも<ruby><rb>峻拒</rb><rt>しゅんきょ</rt></ruby>した。これ等は伊達政宗の領地で、政宗は裏面は兎に角、表面は氏郷と共に一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りする訳には行かぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時に当って風雪の露営を幾夜も敢てした困難は察するに余りある。斯様いう場合、戦乱の世の民衆というものは中々に極度まで自己等の権利を残忍に<ruby><rb>牢守</rb><rt>ろうしゅ</rt></ruby>している。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩も<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>もある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は<ruby><rb>剽盗</rb><rt>ひょうとう</rt></ruby>的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代より其証左は歴々と存していて、<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に<ruby><rb>足利</rb><rt>あしかが</rt></ruby>氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵土民の為に最後の血を<ruby><rb>瀝尽</rb><rt>れきじん</rt></ruby>させられている。ひとり明智光秀が<ruby><rb>小栗栖</rb><rt>おぐるす</rt></ruby>長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い。斯様いうように民衆も中々手強くなっているのだから、不人望の資産家などの危険は勿論の事想察に余りある。其代り又<ruby><rb>手苛</rb><rt>てひど</rt></ruby>い領主や敵将に<ruby><rb>出遇</rb><rt>であ</rt></ruby>った日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命も取られれば財産も召上げられて<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>う。で、つまり今の言葉で云う搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「力の発動」に任せられていた世であった。理屈も<ruby><rb>糸瓜</rb><rt>へちま</rt></ruby>も有ったものでは無かった。債権無視、貸借関係の棒引、即ち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。<ruby><rb>高師直</rb><rt>こうのもろなお</rt></ruby>に取っては臣下の<ruby><rb>妻妾</rb><rt>さいしょう</rt></ruby>は皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる。何処の領主でも兵卒を多く得たいものは<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いうことを敢てするを忌まなかったから、共婚主義などは随分古臭いことである。<ruby><rb>滅茶苦茶</rb><rt>めちゃくちゃ</rt></ruby>なことの好きなものには実に好い世であった。

斯様いう恐ろしい、そして馬鹿げた世が続いた後に、民衆も目覚めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、此世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾に陥っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。<ruby><rb>醍醐</rb><rt>だいご</rt></ruby>の醍の字を忘れて、まごまごして居た<ruby><rb>佑筆</rb><rt>ゆうひつ</rt></ruby>に、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えば乱れ<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>づいた髪を歯の<ruby><rb>疎</rb><rt>あら</rt></ruby>い丈夫な<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>でゴシゴシと掻いて整え揃えて行くようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引抜いても構わなかった。其為に少し位は痛くっても<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>うものかという調子で遣りつけた。ところが結ぼれた毛の一かたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒な奴、一かたまり引ッコ抜いて終え、と天下整理の<ruby><rb>大旆</rb><rt>たいはい</rt></ruby>の下に四十五箇国の兵を率いて攻下ったのが小田原陣であったのだ。

北条氏のほかに、まだ一かたまりの結ぼれがあって、工合好く整理の櫛の歯に<ruby><rb>順</rb><rt>したが</rt></ruby>って解けなければ引ッコ抜かれるか<ruby><rb>扯断</rb><rt>ひっちぎ</rt></ruby>られるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠を<ruby><rb>踰</rb><rt>こ</rt></ruby>えて大森に向い、相馬<ruby><rb>弾正大弼</rb><rt>だんじょうたいひつ</rt></ruby>と畠山<ruby><rb>右京亮義継</rb><rt>うきょうのすけしつぐ</rt></ruby>、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、<ruby><rb>先鋒</rb><rt>せんぽう</rt></ruby>になろうと父に請うた位に<ruby><rb>気嵩</rb><rt>きがさ</rt></ruby>で<ruby><rb>猛</rb><rt>さか</rt></ruby>しかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を<ruby><rb>耽読</rb><rt>たんどく</rt></ruby>したり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だ。それが<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>であろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、此等を向うに廻して<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>いつ返しつして、次第次第に<ruby><rb>斬勝</rb><rt>きりか</rt></ruby>って、既に西は越後境、東は三春、北は出羽に<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>り、南は白川を越して、<ruby><rb>下野</rb><rt>しもつけ</rt></ruby>の那須、<ruby><rb>上野</rb><rt>こうつけ</rt></ruby>の館林までも<ruby><rb>威燄</rb><rt>いえん</rt></ruby>は達し、其城主等が心を寄せるほどに至って居る。<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に去年蘆名義広との大合戦に、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の義広を<ruby><rb>斬靡</rb><rt>きりなび</rt></ruby>けて<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>に逃げ出さしめ、多年の本懐を達して<ruby><rb>会津</rb><rt>あいづ</rt></ruby>を乗取り、生れたところの米沢城から乗出して会津に腰を据え、これから<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>南に向って馬を進め、先ず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた。仙道諸将を走らせ、蘆名を逐って会津を取ったところで、部下の諸将等が<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に城を築き塁を設けて、根を深くし<ruby><rb>蔕</rb><rt>へた</rt></ruby>を固くしようという議を立てたところ、流石は後に<ruby><rb>太閤</rb><rt>たいこう</rt></ruby>秀吉をして「くせ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に附してしまった。云わば少しばかり金が出来たからとて公債を買って置こうなどという、そんな<ruby><rb>蝨</rb><rt>しらみ</rt></ruby>ッたかりの<ruby><rb>魂魄</rb><rt>たましい</rt></ruby>とは魂魄が違う。秀吉、家康は勿論の事、政宗にせよ、氏郷にせよ、少し前の謙信にせよ、信玄にせよ、天下麻の如くに乱れて、<ruby><rb>馬烟</rb><rt>うまげむり</rt></ruby>や<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の声、<ruby><rb>金鼓</rb><rt>きんこ</rt></ruby>の乱調子、<ruby><rb>焔硝</rb><rt>えんしょう</rt></ruby>の香、鉄と火の世の中に生れて来た<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた魂魄はナマヌルな魂魄では無い、皆いずれも火の玉だましいだ、炎々烈々として<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むに已まれぬ<ruby><rb>猛燄</rb><rt>もうえん</rt></ruby>を噴き出し白光を<ruby><rb>迸発</rb><rt>ほうはつ</rt></ruby>させているのだ。言うまでも無く<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が光を以て天下を<ruby><rb>被</rb><rt>おお</rt></ruby>おう、天下をして吾が光を仰がせよう、と<ruby><rb>熱</rb><rt>いき</rt></ruby>り立って居るのだ。政宗の意中は、いつまで奥羽の<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>に<ruby><rb>欝々</rb><rt>うつうつ</rt></ruby>として<ruby><rb>蟠居</rb><rt>ばんきょ</rt></ruby>しようや、時を得、機に乗じて、<ruby><rb>奥州駒</rb><rt>おうしゅうごま</rt></ruby>の<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>の下に天下を<ruby><rb>蹂躙</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby>してくれよう、というのである。これが数え年で二十四の男児である。来年卒業証書を握ったらべそ子嬢に結婚を申込もうなんと思い<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>の夢魂<ruby><rb>七三</rb><rt>しちさん</rt></ruby>にへばりつくのとは<ruby><rb>些</rb><rt>ちと</rt></ruby>違って居た。

諸老臣の深根<ruby><rb>固蔕</rb><rt>こたい</rt></ruby>の議をウフンと笑ったところは政宗も実に好い器量だ、立派な火の玉だましいだ。ところが此の火の玉より今少しく大きい火の玉が西の方より<ruby><rb>滾転</rb><rt>こんてん</rt></ruby>殺到して来た。命に従わず<ruby><rb>朝</rb><rt>ちょう</rt></ruby>を<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>んずるというので、節刀を賜わって関白が愈々東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗が有って、<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>に取片付けられる者では無かった。其他は<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>の輩、関白殿下の重量が十分に圧倒するに足りて居たが、北条氏は兎に角八州に手が延びて居たので、ムザとは圧倒され無かった。強盗をしたのだか何をしたのだか知らないが、黄金を沢山持って武者修行、悪く云えば漂浪して来た伊勢新九郎は、金貸をして利息を取りながら親分肌を見せては段々と自分の処へ出入する<ruby><rb>士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>どもを手なずけて<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に伊豆相模に根を下し、それから次第に<ruby><rb>膨脹</rb><rt>ぼうちょう</rt></ruby>したのである。此の早雲という<ruby><rb>老夫</rb><rt>おやじ</rt></ruby>も中々食えない奴で、三略の第一章をチョピリ聴聞すると、もうよい、などと云ったという大きなところを見せて居るかと思うと、主人が不取締だと下女が<ruby><rb>檐端</rb><rt>のきば</rt></ruby>の<ruby><rb>茅</rb><rt>かや</rt></ruby>を<ruby><rb>引抽</rb><rt>ひきぬ</rt></ruby>いて<ruby><rb>焚付</rb><rt>たきつ</rt></ruby>けにする、などと下女がヤリテンボウな事をする小さな事にまで気の届いている、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>な先生だった。が、金貸をしたというのは<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>し虚事ではなかろう。<ruby><rb>地生</rb><rt>じおい</rt></ruby>の者でも無し、大勢で来たのでも無し、主人に取立てられたと云うのでも無し、そんな事でも仕無ければ機微にも通じ難く、仕事の人足も得難かったろう。明治の人でも某老は同国人の借金の尻拭いを仕て遣り遣りして、終におのずからなる勢力を得て顕栄の地に達したという話だ。<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>八百万両も貸付けたら<ruby><rb>小人島</rb><rt>こびとじま</rt></ruby>の政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲は好かったが、其後氏綱、氏康、これも先ず好し、氏康の子の氏政に至っては世襲財産で鼻の下の穴を埋めて居る先生で、麦の炊き方を知らないで信玄にお坊ッちゃんだと笑われた。下女が乱暴に<ruby><rb>焚付</rb><rt>たきつけ</rt></ruby>を作ることまで知った長氏に起って、生の麦を<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に炊けるものだと思っていた氏政に至って、もう<ruby><rb>脉</rb><rt>みゃく</rt></ruby>はあがった。麦の炊きようも知らない分際で、台所奉行から出世した関白と<ruby><rb>太刀打</rb><rt>たちうち</rt></ruby>が出来るものでは無い。関白が度々<ruby><rb>上洛</rb><rt>じょうらく</rt></ruby>を勧めたのに、悲しいことだ、お坊さん<ruby><rb>殻威張</rb><rt>からいば</rt></ruby>りで、弓矢でこいなぞと云ったから<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らない。待ってましたと<ruby><rb>計</rb><rt>ばか</rt></ruby>りに関白の方では、此の大石を取れば碁は世話無しに勝になると、堂々たる大軍、徳川を海道より、<ruby><rb>真田</rb><rt>さなだ</rt></ruby>を山道より<ruby><rb>先鋒</rb><rt>せんぽう</rt></ruby>として、前田、上杉、いずれも戦にかけては恐ろしく強い者等に武蔵、上野、<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>、<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>、<ruby><rb>安房</rb><rt>あわ</rt></ruby>の諸国の北条領の城々六十余りを一月の間に<ruby><rb>揉潰</rb><rt>もみつぶ</rt></ruby>させて、小田原へ取り詰めた。

最初北条方の考では源平の戦に東軍の勝となっている<ruby><rb>先蹤</rb><rt>せんしょう</rt></ruby>などを夢みて居たかも知れぬが、秀吉は平家とは違う。おまけに源平の時は東軍が踏出して戦っているのに、北条氏は<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>に踏出しても居ず、まるで様子が違っている。勝形は少しも無く、敗兆は明らかに見えていた。然し北条も大々名だから、上方勢と関東勢との戦はどんなものだろうと、上国の形勢に達せぬ奥羽の隅に居た者の思ったのも無理は無い。又政宗も朝命を笠に<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>て秀吉が命令ずくに、自分とは別に恨も何も無い北条攻めに参会せよというのには面白い感情を持とう筈は無かった。そこで北条が十二分に上方勢と対抗し得るようならば、上方勢の手並の程も知れたものだし、何も慌てて降伏的態度に出る必要は無いし、<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>北条が敵し得ぬにしても長く堪え得るようならば、火事は<ruby><rb>然程</rb><rt>さほど</rt></ruby>に早く<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>へ来るものでは無い、と考えて、<ruby><rb>狡黠</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>には相違無いが、他人<ruby><rb>交際</rb><rt>づきあい</rt></ruby>の間柄ではあり、戦乱の世の常であるから、形勢観望、二心抱蔵と出かけて、秀吉の方の催促にも<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まり候とは云わずに、ニヤクヤにあしらっていた。一ツは関東は関東の国自慢、奥羽は奥羽の国自慢があって、北条氏が源平の先蹤を思えば、奥羽は奥羽で前九年後三年の先蹤を思い、武家の神のような八幡太郎を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事実に心強くされて居た<ruby><rb>廉</rb><rt>かど</rt></ruby>もあろうし、又一ツは何と云っても鼻ッ張りの強い盛りの二十三四であるから、噂に聞いた猿面冠者に一も二も無く降伏の形を取るのを<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しくも思ったろう。

然し政宗は氏康のような己を知らず彼を知らぬお坊ッちゃんでは無かった。少くも己を知り又彼を知ることに注意を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>って居た。秀吉との交渉は天正十二年頃から有ったらしい。秀吉と徳川氏との<ruby><rb>長湫</rb><rt>ながくて</rt></ruby>一戦後の和が成立して、戦は勝ったが矢張り徳川氏は秀吉に致された形になって、秀吉の勢威隆々となったからであろうか、後藤基信をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめている。如才無い家康は勿論それより前に使を政宗に遣わして修好して居る。家康は海道一の弓取として英名伝播して居り、且秀吉よりは其位置が政宗に近かったから、政宗もおよそ其様子合を合点して居たことだろう。天正十六年には秀吉の方から書信があり、又刀などを寄せて鷹を請うて居る。鷹は奥州の名物だが、もとより鷹は何でもない、是は秀吉の方から先手を打って、政宗を引付けようというにあったこと勿論である。秀吉の命に出たことであろう、前田利家からも通信は来ている。が、ここまでは何れにしても何でも無いことだったが、秀吉も次第に膨脹すれば政宗も次第に膨脹して、いよいよ接触すべき時が<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って来た。其年の九月には家康から使が来、又十二月には玄越というものを遣わして、関白の命を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>って仙道の諸将との争を<ruby><rb>和睦</rb><rt>わぼく</rt></ruby>させようと存じたが、承れば今度和議が成就した由、今後<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>合戦沙汰になりませぬよう有り度い、と云って来た。これは秀吉の方に政宗の国内の事情が<ruby><rb>知悉</rb><rt>ちしつ</rt></ruby>されているということを語って居るものである。まだ其時は政宗が会津を取って居たのでは無いが、徳川氏からの使の旨で秀吉の意を<ruby><rb>猜</rb><rt>すい</rt></ruby>すれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食しつつ其大を成すを<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばざること分明であることが、政宗の<ruby><rb>胷中</rb><rt>きょうちゅう</rt></ruby>に映らぬことは無い。それでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚を立てる程の激しい戦をして蘆名義広を<ruby><rb>凹</rb><rt>へこ</rt></ruby>ませ、とうとう会津を取って<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>ったのが、其翌年の五月のことだ。秀吉の意を破り、家康の言を耳に入れなかった訳である。そこで此の敵の蘆名義広が、落延びたところは同盟者の佐竹義宣方であるから、佐竹が、政宗という奴はひどい奴でござる、と一切の事情を成るべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々合点していることだから、其年の暮には上方の富田左近<ruby><rb>将監</rb><rt>しょうげん</rt></ruby>や施薬院玄以に書を与えて、<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>なものだろうと探ると、案の定一白や玄以からは、会津の蘆名は<ruby><rb>予</rb><rt>か</rt></ruby>ねてより<ruby><rb>通聘</rb><rt>つうへい</rt></ruby>して居るのに、貴下が勝手に之を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>い落して会津を取られたことは、殿下に於て甚しく機嫌を損じていらるるところだ、と云って<ruby><rb>遣</rb><rt>よこ</rt></ruby>した。もう此時は秀吉は小田原の北条を<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>って、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>「天下の見懲らし」にして、そして其勢で奥羽を<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>に血ぬらず整理して終おうという計画が立って居た時だから、勿論秀吉の命を受けての事だろう、前田利家や浅野長政からも、又秀吉の後たるべき三好秀次からも、明年小田原征伐の<ruby><rb>砌</rb><rt>みぎり</rt></ruby>は兵を出して武臣の職責を尽すべきである、と云って来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為だろう、と勧めて来ていることも勿論である。明けて天正十八年となった、正月、政宗は<ruby><rb>良覚院</rb><rt>りょうがくいん</rt></ruby>という者を京都へ遣った。三月は斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政等の書を持って来て、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東下する、北条征伐に従わるべきである、会期に違ってはなりませぬぞ、というのであった。そこで九郎兵衛に返書を<ruby><rb>齎</rb><rt>もた</rt></ruby>らさしめ、守屋<ruby><rb>守柏</rb><rt>しゅはく</rt></ruby>、<ruby><rb>小関</rb><rt>おぜき</rt></ruby>大学の二人を京へ遣ったが、政宗の此頃は去年大勝を得てから雄心<ruby><rb>勃々</rb><rt>ぼつぼつ</rt></ruby>で、秀吉東下の事さえ無ければ、無論常陸に佐竹を屠って、上野下野と次第に<ruby><rb>斬靡</rb><rt>きりなび</rt></ruby>けようというのだから、北条征伐に狩出されるなどは面白くなかったに相違無い。ところが秀吉の方は大軍堂々と<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>北条征伐に遣って来たのだ。サア信書の往復や使者の馬の<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>の音の取り遣りでは無くなった、今正に上方勢の旗印を読むべき時が来たのだ。金の<ruby><rb>千成瓢箪</rb><rt>せんなりびょうたん</rt></ruby>に又一ツ大きな瓢箪が添わるものだろうか、それとも北条氏<ruby><rb>三鱗</rb><rt>みつうろこ</rt></ruby>の旗が霊光を放つことであろうか、猿面冠者の軍略兵気が真実其実力で天下を取るべきものか。政宗は抜かぬ刀を<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>に取り絞って、ギロリと南の方を<ruby><rb>睥睨</rb><rt>へいげい</rt></ruby>した。

たぎり立った世の<ruby><rb>士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>に取って<ruby><rb>慚</rb><rt>は</rt></ruby>ずべき事と定まっていたことは何ヶ条もあった。其中先ず第一は「<ruby><rb>聞怯</rb><rt>ききお</rt></ruby>じ」というので、敵が何万来るとか何十万寄せるとか、或は猛勇で聞えた<ruby><rb>何某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>が向って来るとかいうことを聞いて、其風聞に<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>して闘う心が無くなり、降参とか逃走とかに<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>が傾くのを「聞怯じ」という。聞怯じする奴ぐらいケチな者は無い、如何に日頃利口なことを云っていても聞怯じなんぞする者は武士では無い。次に「見崩れ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮の如く雲の如き大軍、又は勇猛<ruby><rb>鷙悍</rb><rt>しかん</rt></ruby>の威勢を望み見て、こいつは<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わないとヒョコスカして逃腰になり、度を失い騒ぎかえるのである。聞怯じよりはまだしもであるが、士分の真骨頭の無い事は同様である。「不覚」というのは又其次で、これは其働きの当を得ぬもので、不覚の好く無いことは勿論であるが、聞怯じ見崩れをする者よりは少しは<ruby><rb>恕</rb><rt>じょ</rt></ruby>すべきものである。「<ruby><rb>不鍛煉</rb><rt>ふたんれん</rt></ruby>」は「不覚」が、心掛の<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り足らないところから起るに比して又一段と罪の軽いもので、場数を踏まぬところから起る修行不足である。<ruby><rb>聞怯</rb><rt>ききお</rt></ruby>じ、見崩れする奴ほど人間の<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>は無いが、<ruby><rb>扨</rb><rt>さて</rt></ruby>大抵の者は聞怯じもする、見崩れもするもので、<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>のホラアフク博士が地球と<ruby><rb>彗星</rb><rt>すいせい</rt></ruby>が衝突すると云ったと聞いては、眼の色を変えて仰天し、某国のオドカシック号という軍艦の大砲を見ては、腰が抜けそうになり、新学説、新器械だ、ウヘー、ハハアッと叩頭する<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>は、皆是れ聞怯じ見崩れの手合で、<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう手合が多かったり、又大将になっていたりして呉れては、戦ならば大敗、国なら衰亡する。平治の戦の大将藤原信頼は重盛に馳向われて逃出して<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。あの様な見崩れ人種が大将では、義朝や悪源太が何程働いたとて勝味は無い。<ruby><rb>鞭声</rb><rt>べんせい</rt></ruby>粛々夜河を渡った<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の猛烈な謙信勢が暁の霧の晴間から雷火の落掛るように<ruby><rb>哄</rb><rt>どっ</rt></ruby>と斬入った時には、先ず大抵な者なら見ると直に崩れ立つところだが、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>は信玄勢のウムと<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えたところは豪快<ruby><rb>淋漓</rb><rt>りんり</rt></ruby>で、斬立てられたには違無かろうが実に見上げたものだ。政宗の秀吉に於ける態度の明らかに<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかで無かったのは、潔癖の人には不快の感を催させるが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることの出来る力を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>って居たので、彼の南部の<ruby><rb>九戸</rb><rt>くのへ</rt></ruby>政実ですら兎に角天下を敵にして戦った位であるから、まして政宗が<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>手ッ取早く帰順と決しかねたのも何の無理があろう。<ruby><rb>梵天丸</rb><rt>ぼんてんまる</rt></ruby>の幼立からして、聞怯じ、見崩れをするようなケチな男では無い。政宗の幼い時は人に対して<ruby><rb>物羞</rb><rt>ものはじ</rt></ruby>をするような児で、<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>や<ruby><rb>大風</rb><rt>おおふう</rt></ruby>な児では無かったために、これは柔弱で、好い大将になる人ではあるまいと思った者もあったというが、小児の時に<ruby><rb>内端</rb><rt>うちば</rt></ruby>で人に臆したような風な者は柔弱臆病とは限らない、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って早くから名誉心が潜み発達して居る為に然様いう風になるものが多いのである。片倉小十郎景綱というのは不幸にして奥州に生れたからこそ陪臣で終ったれ、京畿に生れたらば五十万石七十万石の大名には<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>成って居たに疑無い立派な人物だが、其<ruby><rb>烱眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>は早くも梵天丸の其様子を衆人の批難するのを排して、イヤイヤ、末頼もしい<ruby><rb>和子</rb><rt>わこ</rt></ruby>様である、と云ったという。二本松義継の為に<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に父の輝宗が<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>い去られた時、鉄砲を打掛けて其為に父も殺されたが義継をも殺して了った位のイラヒドイところのある政宗だ。関白の威勢や、三好秀次や浅野長政や前田利家や徳川家康や、其他の<ruby><rb>有象無象</rb><rt>うぞうむぞう</rt></ruby>等の信書や言語が何を云って来たからと云って、<ruby><rb>禽</rb><rt>とり</rt></ruby>の羽音、<ruby><rb>虻</rb><rt>あぶ</rt></ruby>の羽音だ。そんな事に動く根性骨では無い。聞怯じ人種、見崩れ人種ではないのである。自分が自分で合点するところが有ってから自分の碁の一石を下そうという政宗だ。確かに確かに関白と北条とを見積ってから<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>とも決めようという料簡だ、向背の決着に遅々としたとて仕方は無いのだ。

そこで政宗が北条氏の様子をも上方勢の様子をも知り得る限り知ろうとして、眼も有り才も有る者共を沢山に派出したことは<ruby><rb>猜知</rb><rt>すいち</rt></ruby>せられることだ。北条の方でも秀吉の方でも政宗を味方にしたいのであるから、便宜は何程でも有ったろうというものだ。で、関白は<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>小田原攻にかかり、事態は日に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って来た。ところへ政宗が出した視察者の一人の大峯金七は帰って来た。

金七の復命は政宗及び其老臣等によって注意を以て聴取られた。勿論小田原攻め視察の命を果して帰ったものは金七のみでは無かったであろうが、其他の者の姓名は伝わらない。金七が<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>っての報告によると、猿面冠者の北条攻めの有様は尋常一様、武勇一点張りのものでは無い、其大軍といい、一般方針といい、それから又千軍万馬往来の諸雄将の勇威と云い、大剛の士、覚えの兵等の猛勇で功者な事と云い、北条方にも勇士猛卒十八万余を蓄わえて居るとは云え、到底関白を敵として勝味は無い。<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に秀吉の軍略に先手先手と<ruby><rb>斬捲</rb><rt>きりまく</rt></ruby>られて、小田原の孤城に<ruby><rb>退嬰</rb><rt>たいえい</rt></ruby>するを余儀なくされて<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>って居る上は、<ruby><rb>籠中</rb><rt>ろうちゅう</rt></ruby>の禽、<ruby><rb>釜中</rb><rt>ふちゅう</rt></ruby>の魚となって居るので、遅かれ速かれどころでは無い、瞬く間に<ruby><rb>踏潰</rb><rt>ふみつぶ</rt></ruby>されて終うか、<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby><ruby><rb>無</rb><rt>な</rt></ruby>くとも城中<ruby><rb>疑懼</rb><rt>ぎく</rt></ruby>の心の堪え無くなった頃を潮合として、扱いを入れられて北条は開城をさせられるに至るであろう、ということであった。金七の言うところは明白で精確と認められた。ここに至って政宗も今更ながら、流石に秀吉というものの大きな人物であるということを感じない訳には行かなかった。沈黙は<ruby><rb>少時</rb><rt>しばし</rt></ruby>一座を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>うたことであろう。金七を退かせてから政宗は老臣等を見渡した。小田原が遣付けらるれば其次は自分である。北条も此方に対しては北条<ruby><rb>陸奥守</rb><rt>むつのかみ</rt></ruby>氏輝が後藤基信に<ruby><rb>好</rb><rt>よし</rt></ruby>みを通じて以来仲を好くしている、猿面冠者を敵にして立上るなら北条の亡ぼされぬ前に一日も早く上州野州武州と切って出て北条に勢援すべきだが、仙道諸将とは<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>てよりの<ruby><rb>深仇</rb><rt>しんきゅう</rt></ruby>宿敵であり、北条の手足を<ruby><rb>捥</rb><rt>も</rt></ruby>ぐ為に出て居る秀吉方諸将の手並の程も詳しく承知しては居ぬ。さればと云って今更帰伏して小田原攻参会も時おくれとなっている、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しくもある。切り合って闘いたいが自分の方の石の足らぬ碁だ、巧く保ちたいが少し<ruby><rb>手数後</rb><rt>てかずおく</rt></ruby>れになって居る碁で、<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくばく</rt></ruby>かの損は犠牲にせねばならなくなっている。そして決着は<ruby><rb>孰</rb><rt>いず</rt></ruby>れにしても急がねばならないところだ。胸算の顔は眼玉がパッチパチ、という柳風の句があるが、流石の政宗だから見苦しい眼パチパチも仕無かったろうけれど、左思右考したには違い無い。しかし何様しても天下を敵に廻し、朝命に<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>をついて、安倍の頼時や、平泉の<ruby><rb>泰衡</rb><rt>やすひら</rt></ruby>の二の舞を仕て見たところが、<ruby><rb>骰子</rb><rt>さい</rt></ruby>の目が三度も四度も我が思う通りに出ぬものである以上は勝てようの無いことは分明だ。そこで、残念だが仕方が無い、小田原が<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>されて終ってからでは<ruby><rb>後手</rb><rt>ごて</rt></ruby>の上の後手になる、もう何を<ruby><rb>擱</rb><rt>お</rt></ruby>いても秀吉の陣屋の前に馬を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がねばならぬ、と考えた。そこで、何様である、徳川殿の勧めに就こうかと思うが、といいながら老臣等を見渡すと、ムックリと<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げたのが伊達藤五郎<ruby><rb>成実</rb><rt>しげざね</rt></ruby>だ。

藤五郎成実は立派な奥州侍の典型だ。天正の十三年、即ち政宗の父輝宗が殺された其年の十一月、佐竹、岩城以下七将の三万余騎と伊達勢との観音堂の戦に、成実の軍は味方と切離されて、敵を前後に受けて恐ろしい苦戦に陥った。其時成実の隊の<ruby><rb>下郡山内記</rb><rt>したこおりやまないき</rt></ruby>というものが、此処で打死しても仕方が無い、一旦は引退かれるが宜くはないか、と云った折に、ギリギリと歯を<ruby><rb>切</rb><rt>くいしば</rt></ruby>って、ナンノ、藤五郎成実、<ruby><rb>魂魄</rb><rt>たましい</rt></ruby>ばかりに成り申したら帰りも致そう、生身で一<ruby><rb>歩</rb><rt>あし</rt></ruby>でも後へさがろうか、と<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>って悪戦苦闘の有る限りを尽した。それで其戦も結局勝利になったため、<ruby><rb>今度</rb><rt>このたび</rt></ruby>の合戦、全く其方一手の為に全軍の勝となった、という感状を政宗から受けた程の勇者である。戦場には老功、謀略も無きにあらぬ中々の人物で、これも早くから信長秀吉の眼の近くに居たら一ヶ国や二ヶ国の大名にはなったろう。政宗元服の式の時には此の藤五郎成実が<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を奉じ、片倉小十郎景綱が<ruby><rb>小刀</rb><rt>しょうとう</rt></ruby>を奉じたのである。二人は真に政宗が頼み切った老臣で、小十郎も剛勇だが智略分別が勝り、藤五郎も智略分別に<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しいが勇武がそれよりも勝って居たらしい。

其藤五郎成実が主人の上を思う熱心から、今や頭を擡げ眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>って、藤五郎存ずる旨を申上げとうござる、秀吉関東征伐は今始まったことではござらぬ、既に去年冬よりして其事定まり、朝命に従い北条攻めの軍に従えとは昨年よりの催促、今に至って小田原へ参向するとも時は<ruby><rb>晩</rb><rt>おく</rt></ruby>れ居り、遅々緩怠の罪は免るるところはござらぬ、たとえ厳しく<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>められずとも所領を召上げられ、多年<ruby><rb>弓箭</rb><rt>ゆみや</rt></ruby>にかけて攻取ったる国郡をムザムザ手離さねばならぬは必定の事、我が君今年正月七日の<ruby><rb>連歌</rb><rt>れんが</rt></ruby>の発句に、ななくさを一手によせて摘む菜<ruby><rb>哉</rb><rt>かな</rt></ruby>と遊ばされしは、仙道七郡を去年の合戦に得たまいしよりのこと、それを今更秀吉の指図に就かりょうとは口惜しい限り、とてもの事に城を掻き<ruby><rb>寨</rb><rt>とりで</rt></ruby>を構え、天下を向うに廻して争おうには、勝敗は戦の常、小勢が勝たぬには定まらず、あわよくば此方が切勝って、旗を天下に<ruby><rb>樹</rb><rt>た</rt></ruby>つるに及ぼうも知れず、<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>しかえさせられて然るべしと存ずる、と勇気<ruby><rb>凜々</rb><rt>りんりん</rt></ruby><ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を払って扇を膝に戦場<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>の<ruby><rb>猛者声</rb><rt>もさごえ</rt></ruby>で述べ立てた。其言の当否は兎に角、<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう場合斯様いう人の斯様いう言葉は少くも味方の勇気を振興する功はあるもので、たとえ無用にせよ<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>無用の用である。ヘタヘタと誰も彼も降参気分になって<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>ったのでは其後がいけない、其家の士気というものが<ruby><rb>萎靡</rb><rt>いび</rt></ruby>して終う。藤五郎も其処を<ruby><rb>慮</rb><rt>おもんぱか</rt></ruby>って斯様いうことを言ったものかも知れぬ、又或は真に秀吉の意に従うのが<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しくて斯様云ったのかも知れぬ。政宗も藤五郎の勇気ある言を嬉しく聞いたろう。然し何等の答は発せぬ。片倉小十郎は黙然として居る。すると原田左馬介宗時という一老臣、これも伊達家の<ruby><rb>宗徒</rb><rt>むねと</rt></ruby>の士だが成実の言に反対した。伊達騒動の講釈や芝居で、むやみに<ruby><rb>甚</rb><rt>ひど</rt></ruby>い悪者にされて居る原田甲斐は、其の実<ruby><rb>兇悪</rb><rt>きょうあく</rt></ruby>な者では無い、どちらかと云えばカッとするような直情の男だったろうと思われるが、其の甲斐は即ち此の宗時の末だ。宗時も十分に勇武の士で、思慮もあれば身分もあった者だが、藤五郎の言を聞くと、イヤイヤ、其御言葉は一応<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっとも</rt></ruby>には存ずるが、関白も中々世の常ならぬ人、<ruby><rb>匹夫</rb><rt>ひっぷ</rt></ruby><ruby><rb>下郎</rb><rt>げろう</rt></ruby>より起って天下の旗頭となり、徳川殿の<ruby><rb>弓箭</rb><rt>ゆみや</rt></ruby>に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けたるだに、これに従い居らるるというものは、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>朝威を負うて事を執らるるが故でござる、今<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しこれに従わずば、勝敗利害は<ruby><rb>姑</rb><rt>しば</rt></ruby>らく<ruby><rb>擱</rb><rt>お</rt></ruby>き、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>は朝庭に背くことになりて朝敵の汚命を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>り、従って北条の如くに、あらゆる諸大名の箭の的となり鉄砲の的となるべく、行末の安泰<ruby><rb>覚束無</rb><rt>おぼつかな</rt></ruby>きことにござる、と説いた。片倉小十郎も此時宗時の言に同じて、朝命に従わぬという名を負わされることの容易ならぬことを説いた、という説も有るが、また小十郎は其場に於ては一言も発せずに居たという説もある。其説に拠ると小十郎は何等の言をも発せずに終ったので、政宗は其夜<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに小十郎の家を<ruby><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby>うた。小十郎は主人の成りを<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び迎えた。政宗は小十郎の意見を<ruby><rb>質</rb><rt>ただ</rt></ruby>すと、小十郎は、天下の兵はたとえば<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>のようなもので、これを<ruby><rb>撲</rb><rt>う</rt></ruby>って<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>うても、散じては<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby><ruby><rb>聚</rb><rt>あつ</rt></ruby>まってまいりまする、と丁度手にして居た<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って蠅を撲つ<ruby><rb>状</rb><rt>まね</rt></ruby>をした。そこで政宗も<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に感悟して天下を敵に取らぬことにしたというのである。いずれにしても原田宗時や片倉小十郎の言を用いたのである。

そこで政宗は小田原へ<ruby><rb>趨</rb><rt>おもむ</rt></ruby>くべく出発した。時が既に機を失したから兵を率いてでは無く、云わば帰服を表示して不参の罪を謝するためという形である。藤五郎成実は留守の役、片倉小十郎、高野<ruby><rb>壱岐</rb><rt>いき</rt></ruby>、白石<ruby><rb>駿河</rb><rt>するが</rt></ruby>以下百騎余り、兵卒若干を従えて出た。上野を通ろうとしたが上野が北条領で新関が処々に設けられていたから、会津から米沢の方へ出て、越後路から信州甲州を大廻りして小田原へ着いた。北条攻は今其最中であるが、関白は悠然たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>に大兵で取巻いて、城中の兵気の<ruby><rb>弛緩</rb><rt>しかん</rt></ruby>して其変の起るのを待っている。何の事は無い勝利に定まっている碁だから煙草をふかして笑っているという有様だ。茶の湯の先生の<ruby><rb>千利休</rb><rt>せんのりきゅう</rt></ruby>などを相手にして悠々と秀吉は遊んでいるのであった。政宗参候の事が通ぜられると、あの卒直な秀吉も<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>には対面をゆるさなかった。箱根の底倉に居て、追って何分の沙汰を待て、という命令だ。今更政宗は仕方が無い、底倉の温泉の<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>のもやもやした中に<ruby><rb>欝陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しい身を埋めて居るよりほか無かった。日は少し立った。直に引見されぬのは勿論上首尾で無い証拠だ。従って来た者の中で譜代で無い者は主人に見限りを付け出した。情無いものだ、<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>や<ruby><rb>蝨</rb><rt>しらみ</rt></ruby>は自分がたかって居た其人の寿命が怪しくなると逃げ出すのを常とする。蚤は逃げた、蝨は逃げた。貧乏すれば新らしい女は逃腰になると聞いたが、政宗に従っていた新らしい武士は逃げて退いた。其中でも<ruby><rb>矢田野伊豆</rb><rt>やだのいず</rt></ruby>などいう奴は逃出して故郷の大里城に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>って伊達家に対して反旗を翻えした位だ。そこで政宗の従士は百騎あったものが三十人ばかりになって終った。

ところへ潮加減を量って法印玄以、施薬院全宗、宮部善祥坊、福原直高、浅野長政諸人が関白の命を含んで<ruby><rb>糾問</rb><rt>きゅうもん</rt></ruby>に遣って来た。浅野弥兵衛が頭分で、いずれも口利であり、外交駈引接衝応対の<ruby><rb>小手</rb><rt>こて</rt></ruby>の利いた者共である。然し弥兵衛等も政宗に会って見て驚いたろう、先ず第一に年は僅に二十四五だ、短い髪を水引即ち<ruby><rb>水捻</rb><rt>みずより</rt></ruby>にした<ruby><rb>紙線</rb><rt>こより</rt></ruby>で巻き立て、むずかしい眼を一筋縄でも二筋縄でも縛りきれぬ<ruby><rb>面魂</rb><rt>つらだましい</rt></ruby>に光らせて居たのだから、異相という言葉で昔から形容しているが、全く異相に見えたに相違無い。弥兵衛等もただ者で無いとは見て取ったろうが、関白の威光を背中に背負って居るのであるから、先ず第一に朝命を<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>んじて早く北条攻に出陣しなかったこと、それから蘆名義広を<ruby><rb>逐払</rb><rt>おいはら</rt></ruby>って私に会津を奪ったこと、二本松を攻略し、須賀川を<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>り、勝手に四隣を蚕食した<ruby><rb>廉々</rb><rt>かどかど</rt></ruby>を詰問した。勿論これは裏面に於て政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成に此等の事情を宜いように告げて、そして大有力者の手を仮りて政宗を取押えようと謀った為であると云われている。政宗が陳弁は此等諸方面との取合いの起った事情を明白に述べて、武門の意気地、弓箭の手前、<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むに已まれず<ruby><rb>干戈</rb><rt>かんか</rt></ruby>を執ったことを云立てて屈しなかった。又朝命を軽んじたという点は、四隣皆敵で遠方の様子を存じ得申さなかったからというので言開きをした。翌日<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>弥兵衛等は来って種々の点を責めたが、結局は要するに、会津や仙道諸城、即ち政宗が攻略蚕食した地を納め奉るが宜かろう、と好意的に諭したのである。そこで政宗は仕方が無い、もとより我慾によって国郡を奪ったのではござらぬ、という潔い言葉に<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が身をよろおって、会津も仙道諸郡も命のままに差上げることにした。

<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>は明いた。秀吉は政宗を<ruby><rb>笠懸山</rb><rt>かさがけやま</rt></ruby>の芝の上に於て引見した。秀吉は政宗に<ruby><rb>侵掠</rb><rt>しんりゃく</rt></ruby>の地を上納することを命じ、米沢三十万石を<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>の如く与うることにし、それで不服なら国へ帰って何とでもせよ、と優しくもあしらい、強くもあしらった。歯のあらい、通りのよい、手丈夫な立派な好い大きな<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>だ。天下の整理は<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如くにして<ruby><rb>捗取</rb><rt>はかど</rt></ruby>るのだ。<ruby><rb>惺々</rb><rt>せいせい</rt></ruby>は惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の<ruby><rb>常套</rb><rt>じょうとう</rt></ruby>文句だが、秀吉も<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>の中の政宗を、くせ者ではあるが好い男だ、と思ったに疑無い。政宗も秀吉を、いやなところも無いでは無いが素晴らしい男だ、と思ったに疑無い。人を<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>るは一面に在り、酒を品するは只三杯だ。打たずんば交りをなさずと云って、<ruby><rb>瞋拳</rb><rt>しんけん</rt></ruby>毒手の殴り合までやってから真の<ruby><rb>朋友</rb><rt>ほうゆう</rt></ruby>になるのもあるが、一見して<ruby><rb>交</rb><rt>まじわり</rt></ruby>を結んで肝胆相照らすのもある。政宗と秀吉とは<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>だったろう。双方共に立派な男だ、ケチビンタな神経衰弱野郎、<ruby><rb>蜆貝</rb><rt>しじみがい</rt></ruby>のような小さな腹で、少し大きい者に出会うと<ruby><rb>些</rb><rt>ちっと</rt></ruby>も容れることの出来ないソンナ手合では無い。<ruby><rb>嬶</rb><rt>かかあ</rt></ruby>や餓鬼を愛することが出来るに至って人間並の男で、好漢を愛し得るに至ってはじめて是れ好漢、<ruby><rb>仇敵</rb><rt>きゅうてき</rt></ruby>を愛し得るに至ってホントの出来た男なのだ。猿面冠者も独眼竜も立派な好漢だ、ケチビンタな蜆ッ貝野郎ではない。貴様が<ruby><rb>予</rb><rt>か</rt></ruby>ねて聞いた伊達藤次郎か、おぬしが予ねて聞いた木下藤吉か、と互に面を見合せて<ruby><rb>重瞳</rb><rt>ちょうどう</rt></ruby>と隻眼と相射った時、ウム、面白そうな奴、話せそうな奴、と相愛したことは疑無い。だが、お互に愛しきったか何様だか、イヤお互に底の底までは愛しきれなかったに違無い。政宗は秀吉の男ぶりに感じて之を愛したには相違ないが、帰ってから人に語って、其の底の底までは愛しきらぬところを<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>したことは、<ruby><rb>尭雄僧都話</rb><rt>ぎょうゆうそうずばなし</rt></ruby>に見えて居るとされている。秀吉も政宗の押えに<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>な蒲生氏郷を置いたところは、愛してばかりは居なかった証拠だ。藤さんと藤さんとお互に六分は愛し、四分は余白を<ruby><rb>留</rb><rt>とど</rt></ruby>めて居たのである。戦乱の世の事だ、<ruby><rb>孰</rb><rt>いず</rt></ruby>れにも無理は無いと為すべきだ。

関白が政宗に<ruby><rb>佩刀</rb><rt>はいとう</rt></ruby>を預けて山へ上って小田原攻の手配りを見せた<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>などは今<ruby><rb>姑</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>く。さて政宗は米沢三十万石に削られて帰国した。七十万石であったという説もあるが、<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いうことは考証家の方へ預ける。秀吉が政宗の帰国を許したに就ては、秀吉の左右に、折角山を出て来た虎を<ruby><rb>復</rb><rt>ふたた</rt></ruby>び深山に放つようなものである、と云った者があるということだ。そんなことを云った者は多分石田左吉の輩ででもあろう。其時秀吉は笑って、おれは<ruby><rb>弓箭沙汰</rb><rt>きゅうせんざた</rt></ruby>を用いないで奥羽を平定して<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>うのだ、汝等の知るところでは無い、と云ったというが、実に其辺は秀吉の好いところだ。政宗だとて何で一旦関白面前に出た上で、<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>今更に<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>をむき出し毛を逆立てて<ruby><rb>咆哮</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>しようやである。

小田原は果して手強い手向いもせず、<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>も無く軍気が<ruby><rb>沮喪</rb><rt>そそう</rt></ruby>して自ら保てなくなり、<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に開城するの已むを得ざるに至った。秀吉は何をするのも軽々と手早い大将だ、小田原が済むと<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に諸将を従えて奥州へと出掛けた。威を示して出羽奥州一撫でに治めて終おうというのである。政宗が服したのであるから刃向おうという者は無い。秀吉が宇都宮に宿営した時に政宗は片倉小十郎を従えて迎接した。小十郎は大谷吉隆に就いて主家を悪く秀吉に思取られぬよう行届いた処置をした。吉隆も人物だ。小十郎が会津蘆名の旧領地の<ruby><rb>図牒</rb><rt>ずちょう</rt></ruby>の入って居る<ruby><rb>筐</rb><rt>はこ</rt></ruby>を開いて示した時には黙って開かせながら、米沢の伊達旧領の図牒の入っている筐を小十郎が開いて示そうとした時には、イヤそれには及び申さぬ、と挨拶したという。大谷吉隆に片倉景綱、これも好い取組だ。互に抜目の無い挙動応対だったろう。秀吉の前に景綱も引見された時、吉隆が、会津の城御引渡しに相成るには幾日を以てせらるる御積りか、と問うたら、小十郎は、ただ留守居の居るばかりでござる、何時にても差支はござらぬ、と云ったというが、好い挨拶だ。平生行届いていて、事に当って埒の明く人であることが伺われる。これで其上に剛勇で正実なのだから、秀吉が政宗の手から取って仕舞いたい位に思ったろう、大名に取立てようとした。が、小十郎は恩を謝するだけで固辞して、飽迄伊達家の臣として身を置くを甘んじた。これも亦感ずべきことで、何という立派な其人柄だろう。浅野六右衛門正勝、木村弥一右衛門清久は会津城を受取った。七月に小田原を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>して、八月には秀吉はもう政宗の居城だった会津に居た。土地の歴史上から云えば会津は蘆名に戻さるべきだが、蘆名は一度もう落去したのである、自己の地位を自己で保つ能力の欠乏して居ることを現わして居るものである。此の<ruby><rb>枢要</rb><rt>すうよう</rt></ruby>の地を材略武勇の足らぬものに<ruby><rb>托</rb><rt>たく</rt></ruby>して置くことは出来ぬ。まして伊達政宗が連年血を流し汗を<ruby><rb>瀝</rb><rt>したた</rt></ruby>らして切取った上に拠ったところの地で、いやいやながら差出したところであり、人情として<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>を垂らし<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>を<ruby><rb>朶</rb><rt>た</rt></ruby>れて居るところである、又<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby>なくとも<ruby><rb>崛強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>なる奥州の地武士が何を仕出さぬとも限らぬところである、また然様いう心配が無くとも<ruby><rb>広闊</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な出羽奥州に信任すべき一雄将をも置かずして、<ruby><rb>新付</rb><rt>しんぷ</rt></ruby>の奥羽の大名等の誰にもせよに任かせて置くことは出来ぬところである。<ruby><rb>是</rb><rt>ここ</rt></ruby>に於て誰か知ら然る可き人物を会津の主将に据えて、奥州出羽の押えの大任、わけては伊達政宗をのさばり出さぬように、表はじっとりと扱って事端を発させぬように、内々はごっつりと手強くアテテ<ruby><rb>屏息</rb><rt>へいそく</rt></ruby>させるような、シッカリした者を必要とするのである。

此のむずかしい場処の、むずかしい場合の、むずかしい役目を引受けさせられたのが鎮守府将軍田原<ruby><rb>藤太秀郷</rb><rt>とうだひでさと</rt></ruby>の<ruby><rb>末孫</rb><rt>ばっそん</rt></ruby>と云われ、<ruby><rb>江州</rb><rt>ごうしゅう</rt></ruby>日野の城主から起って、今は勢州松坂に一方の将軍星として光を放って居た蒲生忠三郎氏郷であった。

氏郷が会津の守護、奥州出羽の押えに任ぜられたに就ては面白い話が伝えられている。その話の一ツは最初に秀吉が細川越中守<ruby><rb>忠興</rb><rt>ただおき</rt></ruby>を会津守護にしようとしたところが、越中守忠興が固く辞退した、そこで<ruby><rb>飯鉢</rb><rt>おはち</rt></ruby>は氏郷へ廻った、ということである。細川忠興も立派な一将であるが、歌人を以て聞えた幽斎の後で、人物の誠実温厚は余り有るけれど、不知案内の土地へ移って、気心の知り兼ねる政宗を向うへ廻して取組もうというには如何であった。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し其説が真実であるとすれば、忠興が固辞したということは、忠興の智慮が中々深くて、<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く己を知り彼を知って居たということを<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に揚げるべきで、忠興の人物を一段と立派にはするが、秀吉に取っては第一には其の眼力が心細く思われるのであり、第二に辞退されて、ああ<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>か、と済ませたことが下らなく思われるのである。で、この話は事実で有ったか知らぬが面白く無く思われる。

又今一つの話は、秀吉が会津を誰に<ruby><rb>托</rb><rt>たく</rt></ruby>そうかというので、徳川家康と差向いで、互に二人ずつ候補者を紙札に書いて置いてから、そして出して見た。ところが秀吉の札では一番には堀久太郎<ruby><rb>秀治</rb><rt>ひではる</rt></ruby>、二番には蒲生忠三郎、家康の札では一番に蒲生忠三郎、二番に堀久太郎であった。そこで秀吉は、奥州は国侍の風が中々<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>い、久太郎で無くては、と云うと、家康は、堀久太郎と奥州者とでは茶碗と茶碗でござる、忠三郎で無くては、と云ったというのである。茶碗と茶碗とは、固いものと固いものとが衝突すれば双方砕けるばかりという意味であろう。で、秀吉が悟って家康の言を用いたのであるというのだ。此<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>は余程おもしろいが、此談が真実ならば、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>では無いが家康は眼が高くて、秀吉は猿のように鼻が低くなる訳だ。堀久太郎は強いことは強いが、後に至って慶長の三年、越後の上杉景勝の国替のあとへ四十五万石（或は七十万石）の<ruby><rb>大封</rb><rt>たいほう</rt></ruby>を受けて入ったが、上杉に陰で糸を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれて起った<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>の為に大に<ruby><rb>手古摺</rb><rt>てこず</rt></ruby>らされて困った不成績を示した男である。又氏郷は<ruby><rb>相縁</rb><rt>あいえん</rt></ruby>奇縁というものであろう、秀吉に取っては主人筋である信長の婿でありながら秀吉には甚だ忠誠であり、縁者として前田又左衛門利家との大の仲好しであったが、家康とは余り交情の親しいことも無かったのであり、政宗は<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>て家康と馬が合ったようであるから、此談も<ruby><rb>些</rb><rt>ちと</rt></ruby>受取りかねるのである。

今一ツの伝説は、秀吉が会津守護の人を選ぶに就いて諸将に入札をさせた。ところが札を開けて見ると、細川越中守というのが最も多かった。すると秀吉は笑って、おれが天下を取る筈だわ、ここは蒲生忠三郎で無くてはならぬところだ、と云って氏郷を任命したというのだ。おれが天下を取る筈だわ、という意は人々の識力眼力より遥に自分が<ruby><rb>優</rb><rt>まさ</rt></ruby>って居るという例の自慢である。此話に拠ると、会津に蒲生氏郷を置こうというのは最初から秀吉の<ruby><rb>肚裏</rb><rt>とり</rt></ruby>に定まって居たことで、入札はただ諸将の眼力を秀吉が試みたということになるので、そこが<ruby><rb>些</rb><rt>ちと</rt></ruby><ruby><rb>訝</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かしい。往復ハガキで下らない質問の回答を種々の形の<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>ひょうたん</rt></ruby>先生がたに求める雑誌屋の先祖のようなものに、千成瓢箪殿下が成下るところが<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か<ruby><rb>憫然</rb><rt>びんぜん</rt></ruby>だ。いろいろの談の孰れが真実だか知らないが、要するに会津守護は当時の諸将の間の一問題で好談柄で有ったろうから、<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って種々の臆測談や私製任命や議論やの話が転伝して残ったのかも知れないと思わざるを得ぬ。

何はあれ氏郷は会津守護を命ぜられた。ところが氏郷も一応は辞した。それでも是非頼むという訳だったろう、そこで氏郷は条件を付けることにした。今の人なら何か自分に有利な条件を提出して要求するところだが、此時分の人だから自己利益を本として<ruby><rb>釣鉤</rb><rt>つりばり</rt></ruby>の<ruby><rb>鐖</rb><rt>かかり</rt></ruby>のようなイヤなものを出しはしなかった。ただ与えられた任務を立派に遂行し得るために其便宜を与えられることを許されるように、ということであった。それは奥州鎮護の大任を全うするに付けては剛勇の武士を手下に備えなければならぬ、就ては秀吉に対して<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て敵対行為を取って其<ruby><rb>忌諱</rb><rt>きい</rt></ruby>に触れたために今に<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>の大名にも召抱えられること無くて居る浪人共をも<ruby><rb>宥免</rb><rt>ゆうめん</rt></ruby>あって、自分の旗の下に置くことを許容されたい、というのであった。まことに此の時代の事であるから、一能あるものでも<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て秀吉に<ruby><rb>鎗先</rb><rt>やりさき</rt></ruby>を向けた者の浪人したのは、たとい召抱えたく思う者があっても関白への遠慮で召抱えかねたのであった。氏郷の申出は立派なものであった。秀吉たる者之を容れぬことの有ろう筈は無い。敵対又は勘当の者なりとも召抱<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>等随意たるべきことという許しは与えられた。小田原の城中に居た佐久間<ruby><rb>久右衛門尉</rb><rt>きゅうえもんのじょう</rt></ruby>は柴田勝家の甥であった。同じく其弟の源六は<ruby><rb>佐々</rb><rt>さっさ</rt></ruby>成政の養子で、二人<ruby><rb>何</rb><rt>いづ</rt></ruby>れも秀吉を<ruby><rb>撃取</rb><rt>うちとり</rt></ruby>にかかった猛将佐久間<ruby><rb>玄蕃</rb><rt>げんば</rt></ruby>の弟であったから、重々秀吉の<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>しみは掛っていたのだ。此等の士は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威権を有して居る間は<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>器量が有っても世の<ruby><rb>埋木</rb><rt>うもれぎ</rt></ruby>にならねばならぬ運命を負うて居たのだ。まだ其他にも<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう者は沢山有ったのである。徳川家康に悪まれた水野三右衛門の如きも其一例だ。当時自己の臣下で自分に背いた<ruby><rb>不埒</rb><rt>ふらち</rt></ruby>な奴に対して、何々という奴は当家に於て<ruby><rb>差赦</rb><rt>さしゆる</rt></ruby>し難き者でござると言明すると、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>の家でも其者を召抱えない。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し召抱える大名が有れば其大名と前の主人とは<ruby><rb>弓箭沙汰</rb><rt>きゅうせんざた</rt></ruby>になるのである。これは不義背徳の者に対する一種の制裁の律法であったのである。そこで斯様いう埋木に終るべき者を取入れて召抱える権利を此機に乗じて秀吉から得たのは実に賢いことで、氏郷に取っては其大を成す<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>である。前に挙げた水野三右衛門の如きも徳川家から赦されて氏郷に属するに至り、佐久間久右衛門尉兄弟も氏郷に召抱えられ、其他同様の<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>に<ruby><rb>沈淪</rb><rt>ちんりん</rt></ruby>して居た者共は、自然関東へ流れ来て、秀吉に敵対行為を取った小田原方に居たから、小田原没落を機として氏郷の招いだのに応じて、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>戦場往来のおぼえの<ruby><rb>武士</rb><rt>つわもの</rt></ruby>が吸寄せられたのであった。

氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の弥一右衛門は奥州の葛西大崎に封ぜられた。葛西大崎は今の仙台よりも<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>奥の方であるが、政宗の手は既に其辺にまで伸びて居て、前年十一月に大崎の臣の湯山隆信という者を引込んで、内々大崎氏を図らしめて居たのである。秀吉が出て来さえしなければ、無論大崎氏葛西氏は政宗の<ruby><rb>麾下</rb><rt>きか</rt></ruby>に立つを余儀なくされるに至ったのであろう。此の木村父子は小身でもあり、武勇も<ruby><rb>然程</rb><rt>さほど</rt></ruby>では無い者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って<ruby><rb>加護</rb><rt>かば</rt></ruby>って遣れ、木村は氏郷を親とも<ruby><rb>主</rb><rt>しゅ</rt></ruby>とも思って仰ぎ頼め、と命令し訓諭した。これは氏郷に取っては旅行に足弱を<ruby><rb>托</rb><rt>かず</rt></ruby>けられたようなもので、何事も無ければまだしも、何事か有った時には随分厄介な事で迷惑千万である。が、致方は無い、領承するよりほかは無かったが、果して此の木村父子から事起って氏郷は大変な目に会うに至って居るのである。

氏郷は<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>な男であったろう。田原藤太十世の孫の<ruby><rb>俊賢</rb><rt>としかた</rt></ruby>が初めて江州蒲生郡を領したので蒲生と呼ばれた家の<ruby><rb>賢秀</rb><rt>かたひで</rt></ruby>というものの子である。此の蒲生郡を慶長六年即ち関ヶ原の戦の済んだ其翌年三月に至って家康は政宗に賜わって居る。仲の悪かった氏郷の家の地を貰ったから、大きな地で無くても政宗には一寸好い心地であったろうが、既に早く病死して居た氏郷に取っては泉下に<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な心持のしたことで有ろう。家康も亦一寸変なことをする人である。氏郷の父の賢秀というのは、当時の日野節の小歌に、陣とだに云えば<ruby><rb>下風</rb><rt>げふ</rt></ruby>おこる、具足を脱ぎやれ<ruby><rb>法衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>召せ、と歌われたと云われもしている。下風という言葉は余り聞かぬ言葉で、医語かとも思うが、医家で風というのは其義が甚だ多くて、頭風といえば頭痛、驚風といえば神経疾患、中風といえば<ruby><rb>脳溢血</rb><rt>のういっけつ</rt></ruby>其他からの不仁の病、痛風はリウマチス、猶<ruby><rb>馬痺風</rb><rt>ばひふう</rt></ruby>だの何だのと云うのもあって、病とか邪気とかいうのと同じ位の広い意味を有して居て、又一般にただ風といえば<ruby><rb>気狂</rb><rt>きちがい</rt></ruby>という意で、風僧といえば即ち気狂坊主である。中風の中は上中下の中では無いと思われるから下風とは関せぬ。これは仏経中の翻訳語で、甚だ拙な言葉である。風は矢張りただの風で、下風は<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>から風を<ruby><rb>泄</rb><rt>も</rt></ruby>らすことである。<ruby><rb>鄙</rb><rt>いや</rt></ruby>しい語にセツナ何とかいうのが有る、即ちそれである。其人が心弱くて、戦争とさえ云えば下風おこる、とても武士にはなりきらぬ故に<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>を脱ぎ捨てて法衣を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>よ、というのが一首の歌の意である。これが果して賢秀の上を<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>ったとならば、賢秀は仕方の無い人だが、又其子に忠三郎氏郷が出たものとすれば、氏郷は<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>偉いものだ。然し蒲生家の者は、其歌は賢秀の上を云ったのでは無く、賢秀の<ruby><rb>小舅</rb><rt>こじゅうと</rt></ruby>の後藤末子に宗禅院という山法師があって、山法師の事だから<ruby><rb>兵仗</rb><rt>へいじょう</rt></ruby>にもたずさわった、其人の事だ、というのである。成程<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>でなければ、法衣めせの一句が唐突過ぎるし、又領主の事を然様<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>く嘲りもすまいし、且又賢秀は信長に「義の侍」と云われたということから考えても、賢秀の上を歌ったものではないらしい。但し賢秀が<ruby><rb>怯</rb><rt>よわ</rt></ruby>くても<ruby><rb>剛</rb><rt>つよ</rt></ruby>くても、親父の善悪は<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の善悪には響くことでは無い、親父は忰の手細工では無い。賢秀は佐々木の徒党であったが、佐々木義賢が凡物で信長に<ruby><rb>逐落</rb><rt>おいおと</rt></ruby>されたので、一旦は信長に対し死を決して敵となったが、縁者の<ruby><rb>神戸蔵人</rb><rt>かんべくらんど</rt></ruby>の言に従って信長に附いた。神戸蔵人は信長の子の三七信孝の養父である。そこで子の鶴千代丸即ち後年の氏郷は十三歳で信長のところへ遣られた。云わば賢秀に異心無き証拠の人質にされたのである。

信長は鶴千代丸を見ると中々の者だった。十三歳といえば尋常中学へ入るか入らぬかの<ruby><rb>齢</rb><rt>とし</rt></ruby>だが、<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り立っている世の中の児童だ、三太郎甚六等の御機嫌取りの少年雑誌や、アメリカの牛飼馬飼めらの下らない<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>の活動写真を看ながら、アメチョコを<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めて育つお坊ちゃんとは訳が違う。其の物ごし物言いにも、段々と自分を鍛い上げて行こうという立派な心の<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>きが見えたことであろう、信長は賢秀に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>って、鶴千代丸が目つき凡ならず、ただ者では有るべからず、信長が婿にせん、と云ったのである。これは賢秀の心を<ruby><rb>攬</rb><rt>と</rt></ruby>る為に云ったのでは無く、其翌年鶴千代丸に元服をさせて、信長の<ruby><rb>弾正</rb><rt>だんじょう</rt></ruby><ruby><rb>忠</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>の忠の字に<ruby><rb>因</rb><rt>ちな</rt></ruby>み、忠三郎<ruby><rb>秀賦</rb><rt>ひでます</rt></ruby>と名乗らせて、真に其言葉通り婿にしたのである。目つきは成程其人を語るが、信長が人相の術を知って居た訳では無い、十三歳の子供の目つきだけでは婿に取るとまでは<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れないだろうが、別に<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いうことが伝えられている。それは鶴千代丸は人質の事ゆえ町野左近という者が附人として信長居城の岐阜へ置かれた。或時稲葉一鉄が来て信長と軍議に及んだ。一鉄は美濃三人衆の第一で、信長が浅井朝倉を取って押えるに付けては大功を立てて居る、大剛にして武略も有った一将だ。然し信長に取っては<ruby><rb>外様</rb><rt>とざま</rt></ruby>なので、後に至って信長が其将材を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>って殺そうとした位だ。ところが茶室に懸って居た韓退之の詩の句を<ruby><rb>需</rb><rt>もと</rt></ruby>められるままに読み且つ講じたので、物陰でそれを聞いた信長が感じて殺さずに<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>ったのである。詩の句は劇的伝説を以て名高い雲横雪擁の一<ruby><rb>聯</rb><rt>れん</rt></ruby>で有ったと伝えられて居るが、坊主かえりの士とは云え、戦乱の世に於て之を説くことが出来たと云えば修養の程も思う可き立派な文武の達人だ。此の一鉄と信長とが、四方の経略、天下の仕置を談論していた。夜は次第に更けたが、談論は尽きぬ。もとより機密の<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>だから雑輩は席に居らぬ。<ruby><rb>燭</rb><rt>しょく</rt></ruby>を<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>り扇を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って論ずる物静かに奥深き室の夜は愈々更けて沈々となった。一鉄がフト気がついて見ると、信長の坐を<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby>遠く離れて蒲生の小伜が端然と坐っていた。<ruby><rb>坐睡</rb><rt>いねむり</rt></ruby>をせぬまでも、十三歳やそこらの<ruby><rb>小童</rb><rt>こわっぱ</rt></ruby>だから、眼の皮をたるませて退屈しきって居るべき筈だのに、耳を傾け魂を入れて聞いて居た様子は、少くとも信長や自分の談論が解って、そして其上に興味を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っているのだ。<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に武勇のみでない一鉄だから人を鑑識する道も知っている。ヤ、こりゃ偉い物だぞ、今の年歯で斯様では、と<ruby><rb>感歎</rb><rt>かんたん</rt></ruby>して、<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>るべし、畏るべし、此児の行末は百万にも将たるに至ろう、と云ったという。随分<ruby><rb>怜悧</rb><rt>りこう</rt></ruby>な<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>でも、<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>い加減に年を取った<ruby><rb>髯面</rb><rt>ひげづら</rt></ruby>野郎でも、相手にせずに其処へ坐らせて置いて少し上品な談話でも仕て居ると、大抵の者は自分は自分だけの胸の中で下らぬ事を考えて居るか<ruby><rb>坐睡</rb><rt>いねむ</rt></ruby>りしたりするものである。鶴千代丸の此事のあったのは、ただ者で無いことを語っている。一鉄の眼に入ったほどのものが、信長の胸に映らぬことは無い。おまけに信長は人を試みるのが嫌いでは無い男で、森蘭丸の正直か不正直かを試みた位であるから、何ぞに附けて鶴千代丸を<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と見定めるところがあって、そして<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が婿にと<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れ込んだのであろう。

鶴千代丸は信長一鉄の鑑識に<ruby><rb>負</rb><rt>そむ</rt></ruby>かなかった。十四歳の八月の事である。信長が伊勢の国司の北畠と戦った時、鶴千代丸は初陣をした。蒲生家の覚えの勇士の<ruby><rb>結解</rb><rt>けっかい</rt></ruby>十郎兵衛、種村伝左衛門という二人にも先んじて好い敵の首を取ったので、鶴千代丸に付置かれた二人は面目無いやら嬉しいやらで舌を巻いた。信長も大感悦で手ずから<ruby><rb>打鮑</rb><rt>うちあわび</rt></ruby>を取って賜わったが、そこで<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>其歳の冬十二になる女子を与えて岐阜で式を行い、其女子に<ruby><rb>乳人</rb><rt>めのと</rt></ruby>加藤次兵衛を添えて、十四と十二の夫婦を日野の城へと遣った。もはや人質では無く、京畿に威を振った信長の縁者、小さくは有るが江州日野の城主の若君として世に立ったのである。

これよりして忠三郎は信長に従って各処の征戦に従事して功を立てて居り、信長が光秀に<ruby><rb>弑</rb><rt>しい</rt></ruby>された時は、光秀から<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>半国の利を<ruby><rb>啗</rb><rt>くら</rt></ruby>わせて誘ったけれども節を守って屈せず、明智方を引受けて城に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>って戦わんとするに至った。それから後は秀吉の旗の下に就いて段々と武功を積んだが、<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に九州攻めには、堀秀政の攻めあぐんだ<ruby><rb>巌石</rb><rt>がんじゃく</rt></ruby>の城に熊井越中守を攻め伏せて勇名を<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>かした。今ここに氏郷の功績を注記したい意も無いから省略するが、かくて十余年の間に次第に大身になり、羽柴の姓を賜わって<ruby><rb>飛騨守</rb><rt>ひだのかみ</rt></ruby>氏郷といえば味方は頼もしく思い、敵は恐ろしく思う一方の雄将となって<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。秀賦の名は秀吉と相犯すを忌んで、改めて氏郷としたのであって、先祖田原藤太秀郷の郷の字を取ったのである。天正の十六年、秀吉が<ruby><rb>聚楽</rb><rt>じゅらく</rt></ruby>の<ruby><rb>第</rb><rt>だい</rt></ruby>を造った其年、氏郷は伊勢の<ruby><rb>四五百森</rb><rt>よいおのもり</rt></ruby>へ城を築いて、これを松坂と呼んだ。前の居城松ヶ島の松の字を目出度しとして用いたのである。当時正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至った。

小田原陣の時、無論氏郷は兵を率いて出陣して居て、割合に他の大名よりは戦に遇って居り、戦功をあらわして居る。それから関白が武威を奥羽に示すのに従属して、宇都宮から会津と附いて来たのであるが、今しも秀吉の鑑識を以て会津の城主、奥州出羽の押えということに定められたのである。

氏郷は法を執ること<ruby><rb>厳峻</rb><rt>げんしゅん</rt></ruby>な人で、極端に自分の命令の徹底的ならんことを然る可き事とした人である。勿論乱れ立った世に在っては、一軍の主将として<ruby><rb>下知</rb><rt>げぢ</rt></ruby>の通りに物事の<ruby><rb>捗</rb><rt>はこ</rt></ruby>ぶのを期するのは至当の訳で、<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby><ruby><rb>無</rb><rt>な</rt></ruby>くても軍隊の中に於ては下々の心任せなどが有ってはならぬものであるが、それでも自らに寛厳の異があり程度がある。<ruby><rb>郭子儀</rb><rt>かくしぎ</rt></ruby>、<ruby><rb>李光弼</rb><rt>りこうひつ</rt></ruby>はいずれも唐の名将であるが、陣営の中のさまは<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に違っていたことが伝えられている。氏郷は恐ろしく厳しい方で、小田原北条攻の為に松坂を立った二月七日の事だ、一人の侍に蒲生重代の銀の<ruby><rb>鯰</rb><rt>なまず</rt></ruby>の<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>を持たせて置いたところ、氏郷自身先陣より後陣まで見廻ったとき、此処に居よというところに其侍が居なかった。そこで氏郷が、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>此処に居よ、と注意を与えて置いて、それから組々を見廻り終えて<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>った、よくよく取締めた所存の無かった侍と見えて、<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>もや此処に居よと云付けたところに居なかった。すると氏郷は物も言わずに馬の上で<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を抜くが否や、そっ首<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>と打落して、兜を別の男に持たせたので、士卒等これを見て舌を振って驚き、一軍粛然としたということである。巌石の城を攻落した時に、上坂左文、横山喜内、本多三弥の三人が<ruby><rb>軍奉行</rb><rt>いくさぶぎょう</rt></ruby>でありながら令を犯して進んで戦ったので厳しく之を<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めたところ、上坂横山の二人は自分の<ruby><rb>高名</rb><rt>こうみょう</rt></ruby>の為ではなく、火を城に放とうと思うたのであると苦しい答弁をしたので<ruby><rb>免</rb><rt>ゆる</rt></ruby>されたが、本多は云分立たずであったので勘当されて<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。三弥は徳川家の譜代侍の本多佐渡正信の弟で、隠れ無い勇士であったが其の如くで、其他旗本から抜け出でて進み戦った岡左内、西村<ruby><rb>左馬允</rb><rt>さまのすけ</rt></ruby>、岡田大介、岡半七等、いずれも<ruby><rb>崛強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>の者共で、其戦に功が有ったのだったが、皆令を犯した<ruby><rb>廉</rb><rt>かど</rt></ruby>で<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を出されて浪人するの<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ざるに至った。

氏郷は<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如く厳しい男だったが、他の一面には又人を遇するにズバリとした気持の好いところも有った人だった。必らずしも重箱の中へ<ruby><rb>羊羹</rb><rt>ようかん</rt></ruby>をギチリと詰めるような、形式好き融通利かずの偏屈者では無かった。前に挙げた関白其他に敵対行為を取って世の余され者になった<ruby><rb>強者共</rb><rt>つわものども</rt></ruby>を召抱えた如きは其著しい例で、別に<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう妙味のある<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>さえ伝わっている。それは氏郷が関白に従って征戦を<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>やなんぞで励んで居た頃、即ち小田原陣前の事であろうが、或時松倉権助という士が蒲生家に仕官を望んだ。権助は筒井順慶に仕えて居たが<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>いう訳であったか臆病者と云われた。そこで筒井家を去ったのであるが、蒲生家へ<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>を望むに就いて斯様いうことを云った。拙者は臆病者と云われた者でござる、但し臆病者も良将の下に用いらるる道がござらば御扶持を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>りとうござる、と云ったのである。筒井家は順慶流だの<ruby><rb>洞</rb><rt>ほら</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>だのという言葉を今に遺している位で、余り武辺の<ruby><rb>芳</rb><rt>かん</rt></ruby>ばしい家ではない。其家で臆病者と云われたのは虚実は兎に角に、是も芳ばしいことでは無い。ところが氏郷は其男を呼出して対面した上、召抱えた。自分から臆病者と名乗って出た正直なところを買ったのだろう、正直者には勇士が多い。臆病者が知遇に感じて強くなったか、多分は以前から臆病者なぞでは無かったのだろう、権助は合戦ある毎に好い働きをする。で氏郷は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>物頭</rb><rt>ものがしら</rt></ruby>にして二千石を与えたというのである。後に此男が打死したところ氏郷が自ら責めて、おれが悪かった、も少しユックリ取立てて遣ったらば強いて打死もせずに段々武功を積んだろうに、と云ったということだ。此話を<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>みしめて見ると松倉権助もおもしろければ氏郷も面白い。

氏郷は法令<ruby><rb>厳峻</rb><rt>げんしゅん</rt></ruby>である代りには自ら処することも<ruby><rb>一毫</rb><rt>いちごう</rt></ruby>の緩怠も無い、徹底して武人の面目を保ち、徹底して武人の精神を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>っている。<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>「たぎり切った人」である、ナマヌルな奴では無い。蒲生家に仕官を望んで新規に召抱えられる侍があると、氏郷は斯様云って教えたということである。当家の奉公はさして面倒な事は無い、ただ戦場という時に、銀の鯰の兜を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って油断なく働く武士があるが、其武士に<ruby><rb>愧</rb><rt>は</rt></ruby>じぬように心掛けて働きさえすればそれでよい、と云ったという。勿論これは未だ小身であった時の事で有ろうが、訓諭も<ruby><rb>糸瓜</rb><rt>へちま</rt></ruby>も入ったものではない、人を使うのはこれで無ければ嘘だ。<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>な店も工場も持って居ぬ奴が小やかましい説教沙汰ばかりを店員や職工に下して、おのれは<ruby><rb>坐蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>の上で煙草をふかしながら好い事を仕たがる如き<ruby><rb>蝨</rb><rt>しらみ</rt></ruby>ッたかりとは丸で段が違う。言うまでも無く銀の鯰の兜を被って働く者は氏郷なのである。斯様いう人だったから四位の少将、十八万石の大名となってからも、小田原陣の時は驚くべき危険に身を暴露して手厳しい戦をして居る。それは氏郷の方から好んで為出したことではないが、他の大将ならば或は<ruby><rb>遁逃</rb><rt>とんとう</rt></ruby>的態度に出て、そして敵をして其企図を多少なりとも成就するの利を得、味方をして損害を<ruby><rb>被</rb><rt>こうむ</rt></ruby>るの勢を成さしめたであろうに、氏郷が勇敢に職責を厳守したので、敵は何の功をも立てることが出来なかった。これは五月三日の夜の事で、城中に<ruby><rb>居縮</rb><rt>いすく</rt></ruby>んでばかり居ては軍気は日々に衰えるばかりなゆえに、北条方にさる者有りと聞えた北条氏房が広沢重信をして夜討を掛けさせた時と、七月二日に氏房が<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>春日<ruby><rb>左衛門尉</rb><rt>さえもんのじょう</rt></ruby>をして夜討を掛けさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢の有った時なので中々猛烈であったが、蒲生勢の奮戦によって勿論<ruby><rb>逐払</rb><rt>おいはら</rt></ruby>った。然し其時の闘は如何にも<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に急激に敵が<ruby><rb>斫入</rb><rt>きりい</rt></ruby>ったので、氏郷自身まで<ruby><rb>鎗</rb><rt>やり</rt></ruby>を取って戦うに至ったが、事済んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>の<ruby><rb>胸板</rb><rt>むないた</rt></ruby><ruby><rb>掛算</rb><rt>けさん</rt></ruby>に<ruby><rb>太刀疵</rb><rt>たちきず</rt></ruby><ruby><rb>鎗疵</rb><rt>やりきず</rt></ruby>が四ヶ処、例の銀の<ruby><rb>鯰</rb><rt>なまず</rt></ruby>の<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>に矢の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>が二ツ、鎗の柄には<ruby><rb>刀痕</rb><rt>とうこん</rt></ruby>が五ヶ処あったという。以て氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとする処に置いた以上は一歩も半歩も<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かぬ剛勇の人であることが<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>い知られる。つまり氏郷は他を律することも<ruby><rb>厳峻</rb><rt>げんしゅん</rt></ruby>な代りに自ら律することも厳峻な人だったのである。

<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如き人は主人としては<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としては<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby><ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>い敵、味方としては堅城鉄壁のようなものである。然し是の如きの人には、ややもすれば我執の強い、古い言葉で云えば「カタムクロ」の人が多いものだが、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に氏郷は器量が小さくない、サラリとした<ruby><rb>爽朗</rb><rt>そうろう</rt></ruby>快活なところもあった人だ。<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て九州陣巌石の城攻の時に軍令に背いて勘当された臣下の者共が、氏郷と交情の好かった細川越中守忠興を頼んで<ruby><rb>詫言</rb><rt>わびごと</rt></ruby>をして貰って、<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby><ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>に召抱えられることになった。其中に西村左馬允という者があって、大の男の大力の上に相撲は<ruby><rb>特更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>上手の者であった。其男が勘当を<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>されて新に<ruby><rb>召還</rb><rt>めしかえ</rt></ruby>されたばかりの次の日出仕すると、左馬允、汝は大力相撲上手よナ、さあ一番来い、おれに勝てるか、といって氏郷が相撲を<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>んだ。氏郷ももとより非力の相撲弱では無かったのであろう。左馬允は弱った。勘気を赦されて帰り新参になったばかりなので、主人を叩きつけて主人が好い心持のする筈は無いから、当惑するのに無理は無い。然し主命である、挑まれて相手にならぬ訳には行かぬから、心得ましたと引組んで<ruby><rb>捻合</rb><rt>ねじあ</rt></ruby>った。勝てば怒られる、わざと負けるのは軽薄でもあり心外でもある、と惑わぬことは無かったろうが、そこは人の魂の<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り立って居る代である、左馬允は思い切って大力を出してとうとう氏郷を捻倒した。そこで、ヤア左馬允、汝は強い、と主人に笑って貰えれば上首尾なのだが、<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>は行かなかった。忠三郎氏郷ウンと緊張した顔つきになって、無念である、サアもう一度来い、と力足を踏んで眼ざし鋭く再闘を挑んだ。観て居る者は気の毒で<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らない、オヤオヤ左馬允め、負ければ無事だろうが、勝った段にはもともと勘気を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>った奴である、手討になるか何か知れた者では無いと危ぶんだ。左馬允も<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>なっては是非が無い、ここで負けては<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>過まって負けたにしても軽薄者表裏者になると思ったから、油断なく一生懸命に捻合った。双方死力を出して争った末、とうとう左馬允は氏郷を遣付けた。其時はじめて氏郷は<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>と笑って、好い奴だ、汝は此の<ruby><rb>乃公</rb><rt>おれ</rt></ruby>に<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>う勝ったぞ、と褒美して、其の翌日知行米加増を出したという。此<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>の最初一度負けたところで、褒詞を左馬允に与えて済ます位のところなら、少し腹の大きい者には出来ることだが、二度目の取ッ組合をしたところが一寸面白い。氏郷の<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>は<ruby><rb>闊</rb><rt>ひろ</rt></ruby>いばかりでなく、奥深いところがあった。

斯様いう性格で、手厳しくもあり、打開けたところもあり、そして其能は勇武もあり、機略もあった人だが、其上に氏郷は文雅を喜び、趣味の発達した人であった。<ruby><rb>矢叫</rb><rt>やたけ</rt></ruby>び<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の<ruby><rb>声</rb><rt>こえ</rt></ruby>の世の中でも放火殺人専門の野蛮な者では無かった。机に<ruby><rb>凴</rb><rt>よ</rt></ruby>りて静坐して書籍に親んだ人であった。足利以来の乱世でも三好実休や太田道灌や細川幽斎は云うに及ばず、明智光秀も豊臣秀吉も武田信玄も上杉謙信も、前に挙げた稲葉一鉄も伊達政宗も、皆文学に志を寄せたもので、要するに文武両道に達するものが良将名将の資格とされて居た時代の信仰にも因ったろうが、そればかりでも無く、人間の<ruby><rb>本然</rb><rt>ほんねん</rt></ruby>を欺き<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>う可からざるところから、優等資質を有して居る者が文雅を好尚するのは自からなることでも有ったろう。今川や大内などのように文に傾き過ぎて弱くなったのもあるが、大将たる程の者は大抵文道に心を寄せていて、相応の<ruby><rb>造詣</rb><rt>ぞうけい</rt></ruby>を有して居た。<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>な<ruby><rb>太閤</rb><rt>たいこう</rt></ruby>殿下は「奥山に<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>踏み分け鳴く蛍」などという句を詠じて、細川幽斎に、「しかとは見えぬ森のともし火」と苦しみながら<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り出させたという笑話を遺して居るが、それでも<ruby><rb>聚楽第</rb><rt>じゅらくだい</rt></ruby>に行幸を仰いだ時など、代作か知らぬが真面目くさって月並調の和歌を詠じている。政宗の「さゝずとも誰かは越えん<ruby><rb>逢坂</rb><rt>あふさか</rt></ruby>の関の戸<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>む<ruby><rb>夜半</rb><rt>よは</rt></ruby>の<ruby><rb>白雪</rb><rt>しらゆき</rt></ruby>」などは関路雪という題詠の歌では有ろうか知らぬが、<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>して中々素人では無い。「四十年前少壮時、功名聊復自私期、老来不識干戈事、只把春風桃李<ruby><rb>巵</rb><rt>サカヅキ</rt></ruby>」なぞと太平の世の好いお爺さんになってニコニコしながら、それで居て<ruby><rb>支倉</rb><rt>はせくら</rt></ruby>六右衛門、松本忠作等を南蛮から<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>かけて遣って居るところなどは、味なところのある好い男ぶりだ。その政宗監視の役に当った氏郷は、文事に掛けても政宗に負けては居なかった。後に至って政宗方との領分争いに、安達ヶ原は蒲生領でも川向うの黒塚というところは伊達領だと云うことであった時、平兼盛の「<ruby><rb>陸奥</rb><rt>みちのく</rt></ruby>の安達か原の黒塚に鬼<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>れりといふはまことか」という歌があるから安達が原に附属した黒塚であると云った氏郷の言に理が有ると認められて、蒲生方が勝になったという<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>は面白い<ruby><rb>公事</rb><rt>くじ</rt></ruby>として名高い談である。其の逸話は<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、氏郷が天正二十年即ち文禄元年朝鮮陣の起った時、会津から京まで上って行った折の紀行をものしたものは今に遺っている。文段歌章、当時の武将のものとしては其才学を称すべきものである。辞世の歌の「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の一章は誰しも<ruby><rb>感歎</rb><rt>かんたん</rt></ruby>するが実に<ruby><rb>幽婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>雅麗で、時や<ruby><rb>祐</rb><rt>たす</rt></ruby>けず、天<ruby><rb>吾</rb><rt>われ</rt></ruby>を<ruby><rb>亡</rb><rt>うしな</rt></ruby>う、英雄志を抱いて黄泉に入る<ruby><rb>悲涼</rb><rt>ひりょう</rt></ruby><ruby><rb>愴凄</rb><rt>そうせい</rt></ruby>の威を如何にも<ruby><rb>美</rb><rt>うる</rt></ruby>わしく詠じ出したもので、三百年後の人をして<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby><ruby><rb>涙珠</rb><rt>るいじゅ</rt></ruby>を弾ぜしむるに足るものだ。そればかりでは無い、政宗も底倉幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千利休を師として<ruby><rb>茶事</rb><rt>さじ</rt></ruby>を学んで、秀吉をして「<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足であった。氏郷と仲の好かった細川忠興は、茶庭の路次の植込に<ruby><rb>槙</rb><rt>まき</rt></ruby>の樹などは面白いが、まだ立派すぎる、と云ったという程に<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>の趣味に徹した人だが、氏郷も幽閑清寂の茶旨には十分に徹した人であった。利休が<ruby><rb>心</rb><rt>こころ</rt></ruby><ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに自ら可なりとして居た茶入を氏郷も目が高いので<ruby><rb>切</rb><rt>しき</rt></ruby>りに賞美して之を懇望し、遂に利休をして其を与うるを余儀無くせしめたという談も伝えられている。又氏郷が或時に古い古い油を運ぶ竹筒を見て、其の器を面白いと感じ、それを<ruby><rb>花生</rb><rt>はないけ</rt></ruby>にして水仙の花を生け、これも当時風雅を以て鳴って居た古田織部に与えたという談が伝わっている。織部は今に織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺して居る人で、利休に雁行すべき侘道の大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘に徹した人である。氏郷の其の花生の形は普通に「舟」という竹の釣花生に似たものであるが、舟とは少し異ったところがあるので、今に其形を模した花生を舟とは云わずに、「油さし」とも「油筒」とも云うのは最初の因縁から起って来て居るのである。古い油筒を花生にするなんというのは、もう風流に於て普通を超えて宗匠分になって居なくては出来ぬ<ruby><rb>作略</rb><rt>さりゃく</rt></ruby>で、宗匠の指図や道具屋の入れ智慧を受取って居る分際の茶人の事では無い。彼の<ruby><rb>山科</rb><rt>やましな</rt></ruby>の<ruby><rb>丿貫</rb><rt>べちかん</rt></ruby>という大の侘茶人が<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>を入れた竹器に朝顔の花を生けて<ruby><rb>紹鴎</rb><rt>じょうおう</rt></ruby>の賞美を受け、「糊つぼ」という一器の形を遺したと共に、作略<ruby><rb>無礙</rb><rt>むげ</rt></ruby>の<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>に入っている風雅の骨髄を語っているものである。天下指折りの大名で居ながら古油筒のおもしろみを見付けるところは嬉しい。山県含雪公は、茶の湯は道具沙汰に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われるというので半途から余り好まれぬようになったと聞いたが、時に利休も無く織部も無かった為でも有ろうけれど、氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで<ruby><rb>踏込</rb><rt>ふんご</rt></ruby>んで居たのは利休の教を受けた故ばかりではあるまい、<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>に<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>の据え処を合点して何にも徹底することの出来る人だったからであろう。しかも油筒如き微物を取上げるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木の<ruby><rb>鐙</rb><rt>あぶみ</rt></ruby>を所望した時には、それが蒲生重代の重器で有ったに<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、又家臣の<ruby><rb>亘利</rb><rt>わたり</rt></ruby>八右衛門という者が、御許諾なされた上は致方なけれども御当家重代の物ゆえに、ただ<ruby><rb>模品</rb><rt>うつし</rt></ruby>をこしらえて御遣わしなされまし、と云ったほどにも拘らず、天下に一ツの鐙故他に知る者は有るまいけれど、模品を遣わすなどとは<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が心が<ruby><rb>耻</rb><rt>はず</rt></ruby>かしい、と云って真物を与えた。そこで忠興も後に吾が所望したことが<ruby><rb>不覚</rb><rt>そぞろ</rt></ruby>であったことを悟って、返そうとしたところが、氏郷は、一旦差上げたものなれば御遠慮には及ばぬ、と受取らなかった。忠興も好い人だから、氏郷の死後に其子秀行へとうとう返戻したという<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>がある。竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチでは無い人だ、家重代の者をも惜気無く親友の所望には任せる。中々面白い心の行きかたを<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>った人だった。

さて話は前へ戻る。<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如き忠三郎氏郷は秀吉に見立てられて会津の主人となった。当時氏郷は何万石取って居たか分明でないが、松坂に居た天正十六年は十六万石<ruby><rb>若</rb><rt>もし</rt></ruby>くは十八万石であったというから、其後は大戦も無く大功も立つ訳が無いから、大抵十八万石か少し<ruby><rb>其</rb><rt>それ</rt></ruby>以上ぐらいで有ったろう。然るに小田原陣の手柄が有って後に会津に<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めらるるに就ては、大沼、河沼、稲川、<ruby><rb>耶摩</rb><rt>やま</rt></ruby>、<ruby><rb>猪苗代</rb><rt>いなわしろ</rt></ruby>、南の山以上六郡、越後の内で小川の庄、仙道には白河、石川、岩瀬、<ruby><rb>安積</rb><rt>あさか</rt></ruby>、安達、二本松以上六郡、都合十二郡一庄で、四十二万石に封ぜられたのだ。十八万石程から一足飛に四十二万石の大封を賜わったのだから、たとい大役を引受けさせられたとは云え、奥州出羽の押えという名誉を背負い、目覚ましい<ruby><rb>加禄</rb><rt>かろく</rt></ruby>を得たので、家臣連の<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んだろうことは察するに余りある。これは八月十七日の事と云われている。

丁度仲秋の十六夜の後一日である。秋は早い奥州の会津の城内、氏郷は独り書院の柱に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>って物を思って居た。天は高く晴れ渡って<ruby><rb>碧落</rb><rt>へきらく</rt></ruby>に雲無く、露けき庭の面の樹も草もしっとりとして、おもむきの有る夜の静かさに虫の声々すずしく、水にも石にも月の光りが清く流れて白く、風流に心あるものの幽懐も動く可き折柄の光景だった。北越の猛将上杉謙信が「数行過雁月三更」と能登の国を切従えた時吟じたのも、霜は陣営に満ちて秋気清き丁度<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう夜であった。三国の代の英雄の曹孟徳が、百万の大軍を率いて呉の国を<ruby><rb>呑滅</rb><rt>どんめつ</rt></ruby>しようとしつつ、「月明らかに星<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にして、<ruby><rb>烏鵲</rb><rt>うじゃく</rt></ruby><ruby><rb>南</rb><rt>みんなみ</rt></ruby>に飛ぶ」と<ruby><rb>槊</rb><rt>さく</rt></ruby>を馬上に横たえて詩を賦したのも丁度斯様いう夜であった。江州日野五千石ばかりから取上って、今は日本<ruby><rb>無双</rb><rt>ぶそう</rt></ruby>の大国たる出羽奥州、藤原の秀衡や清原武衡の故地に踏みしかって、四十二万石の大禄を領するに至った氏郷がただ凝然と黙々として居る。侍座して居たのは山崎家勝というものだった。如何に深沈な人とは云え、かかる芽出度き折に当って何か考えに沈んで居る主人の様子を、<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しく思って<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそか</rt></ruby>に注意した。すると是は又何事であろう、やがて氏郷の眼からはハラハラと涙がこぼれた。家勝は直ちに看て取って<ruby><rb>怪</rb><rt>あやし</rt></ruby>んだ。が、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちにして思った、是は感喜の涙であろうと。<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>は<ruby><rb>甲</rb><rt>こうら</rt></ruby>に似せて穴を掘る。仕方の無いもので、<ruby><rb>九尺梯子</rb><rt>くしゃくばしご</rt></ruby>は九尺しか届かぬ、自分の<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>が其辺だから家勝には其辺だけしか考えられなかった。然しそれにしては<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>も様子が腑に落ち兼ねたから、恐る恐る進んで、恐れながら我が君には御落涙遊ばされたと見受け奉ってござるが、殿下の取分けての御懇命、会津四十二万石の大禄を<ruby><rb>被</rb><rt>かず</rt></ruby>けられたまいし<ruby><rb>御感</rb><rt>ぎょかん</rt></ruby>の御涙にばし<ruby><rb>御座</rb><rt>おわ</rt></ruby>すか、と聞いて見た。自分が氏郷であれば無論嬉し涙をこぼしたことであろうからである。すると氏郷は一寸嘆息して、ア、其様なことに思われたか、我<ruby><rb>羞</rb><rt>はず</rt></ruby>かしい、と云ったが、一段と声を落して殆んど独語のように、<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>では無い山崎、我たとい微禄小身なりとも都近くにあらば、何ぞの折には如何ようなる働きをも為し得て、旗を天下に<ruby><rb>吹靡</rb><rt>ふきなび</rt></ruby>かすことも成ろうに、大禄を今受けたりとは申せ、山川遥に隔たりて、王城を霞の日に出でても秋の風に<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を吹かるる、白川の関の奥なる奥州出羽の<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>に在りては、日頃の本望も遂げむことは難く、我が<ruby><rb>鎗</rb><rt>やり</rt></ruby>も太刀も<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>に埋もるるばかり、それが無念さの<ruby><rb>不覚</rb><rt>そぞろ</rt></ruby>の涙じゃ<ruby><rb>哩</rb><rt>わ</rt></ruby>、今日より後は奥羽の押え、贈太政大臣信長の婿たる此の忠三郎がよし無き<ruby><rb>田舎武士</rb><rt>いなかざむらい</rt></ruby>の<ruby><rb>我武者</rb><rt>がむしゃ</rt></ruby>共をも、事と品によりては相手にせねばならぬ、おもしろからぬ<ruby><rb>運命</rb><rt>はめ</rt></ruby>に立至ったが<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しい、と胸中の<ruby><rb>欝</rb><rt>うつ</rt></ruby>をしめやかに<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした。無論家勝もこれを聞いて解った。成程我が主人は信長公の婿だ、今<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に関白に<ruby><rb>楯突</rb><rt>たてつ</rt></ruby>こうようはあるまいが、云わば秀吉は家来筋だ、秀吉に何事か有らば<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が主人が手を天下に掛けようとしたとて不思議は無い、男たる者の当り前だ、と悟るに付けて斯様な草深い田舎に身柄と云い器量と云い<ruby><rb>天晴</rb><rt>あっぱれ</rt></ruby>立派な主人が埋められかかったのを思うと、<ruby><rb>凄然</rb><rt>せいぜん</rt></ruby><ruby><rb>惻然</rb><rt>そくぜん</rt></ruby>として家勝も悲壮の感に打たれない訳には行かなかったろう。主人の感慨、家臣の感慨、粛として秋の気は坐前坐後に満ちたが、月は何知らず冷やかに照って居た。

氏郷が会津四十二万石を受けて<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばずに落涙したというのは何という味のある話だろう。<ruby><rb>鼻糞</rb><rt>はなくそ</rt></ruby>ほどのボーナスを貰ってカフェーへ駈込んだり、高等官になったとて<ruby><rb>嚊殿</rb><rt>かかあどの</rt></ruby>に誇るような<ruby><rb>極楽蜻蛉</rb><rt>ごくらくとんぼ</rt></ruby>、<ruby><rb>菜畠蝶々</rb><rt>なばたけちょうちょう</rt></ruby>に比べては、罪が深い、無邪気で無いには違い無いが、氏郷の感慨の涙も<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に氏郷の涙だと云いたい。それだけに生れついて居るものは生れついているだけの情懐が有る。韓信が<ruby><rb>絳灌樊噲</rb><rt>こうかんはんかい</rt></ruby>の輩と<ruby><rb>伍</rb><rt>ご</rt></ruby>を為すを<ruby><rb>羞</rb><rt>は</rt></ruby>じたのは韓信に取っては何様することも出来ないことなのだ。樊噲だって立派な将軍だが、「生きて<ruby><rb>乃</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち噲等と伍を為す」と仕方が無しの苦笑をした韓信の笑には涙が催される。氏郷の書院柱に<ruby><rb>靠</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかって月に泣いた此の涙には<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほ</rt></ruby>の<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>が催されるではないか。流石に好い男ぶりだ。蜻蛉蝶々やきりぎりすの手合の、免職されたア、失恋したアなどという眼から出る酸ッぱい青臭い涙じゃ無い。忠三郎の米の飯は四十二万石、後には百万石も有り、女房は信長の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>で好い器量で、氏郷死後に秀吉に挑まれたが<ruby><rb>位牌</rb><rt>いはい</rt></ruby>に操を立てて尼になって<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った程、忠三郎さんを大事にして居たのだった。

天下の見懲らしに北条を遣りつけてから、其の勢の<ruby><rb>刷毛</rb><rt>はけ</rt></ruby>ついでに武威を奥州に示して一撫でに撫でた上に氏郷という強い者を押えにして、秀吉は京へ帰った。奥州出羽は裏面ではモヤモヤムクムクして居ても先ず治まった。ところがおさまらぬのは伊達政宗だ。折角<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えた大きな鴨をこれから<ruby><rb>噉</rb><rt>く</rt></ruby>おうとして<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>まで出したところを取上げられて終った犬のような位置に立たせられたのである。関白はじめ諸大将等が帰って終って見ると何とかしたい。何とかする段には仕方はいくらでもある。仕方が無ければ手も引込めて居るのだが、仕方が有るから手が出したくなる。然し氏郷という<ruby><rb>重石</rb><rt>おもし</rt></ruby>は可なり重そうである。氏郷は白河をば関<ruby><rb>右兵衛尉</rb><rt>うひょうえのじょう</rt></ruby>、須賀川をば田丸<ruby><rb>中務少輔</rb><rt>なかつかさしょうゆう</rt></ruby>、<ruby><rb>阿子</rb><rt>あこ</rt></ruby>が<ruby><rb>嶋</rb><rt>しま</rt></ruby>をば蒲生源左衛門、大槻を蒲生忠右衛門、猪苗代を蒲生四郎兵衛、南山を小倉孫作、<ruby><rb>伊南</rb><rt>いなみ</rt></ruby>を蒲生左文、塩川を蒲生喜内、津川を北川平左衛門に与えて、武威も強く政治も届く様子だから、政宗も<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>に手を掛ける訳にはゆかぬ。斯様なると暴風雨は弱い塀に<ruby><rb>崇</rb><rt>たた</rt></ruby>る道理で、魔の手は蒲生へ向うよりは葛西大崎の新領主となった木村伊勢守父子の方へ向って伸ばされ出した。木村父子は武辺も<ruby><rb>然程</rb><rt>さほど</rt></ruby>では無く、小勢でもある。伊勢父子がドジを踏んでマゴマゴすれば蒲生は之を捨てて置く訳にはゆかぬ、伊勢父子の居る地方と蒲生の会津とは其間遥に<ruby><rb>距</rb><rt>へだた</rt></ruby>って居るけれども必ず見継ぐだろう。蒲生が会津を離れて動き出せば長途の出陣、不知案内の土地、臨機応変の仕方は何程も有ろう、木村蒲生に味噌を附けさせれば好運は自然に此方へ転げ込んで来る理合だ、という様な料簡は自も存したことであろう。政宗方の史伝に何も<ruby><rb>此様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう計画をしたという事が遺って居るのでは無いが、前後の事情を考えると、邪推かは知らぬが<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>思える節が有るのである。又木村父子は実際小身で無能で有ったから、今度葛西大崎を賜わったに就ては人手が足らぬから急に浪人共を召抱えたに違い無く、浪人共を召抱えても<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>厳正に之を取締れば差支無いが、元来地盤が固く無い処へ安普請をしたように、規模が立たんで家風家法が確立して居ないところへ、世に余され者の浪人共を無鑑識に抱え込んだのでは、いずれおとなしく無いところが有るから浪人するにも至った者共が、ナニ此の奥州の田舎者めと侮って不道理を働くことも有勝なことで、<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>なれば<ruby><rb>然無</rb><rt>さな</rt></ruby>きだに他国者の<ruby><rb>天降</rb><rt>あまくだ</rt></ruby>り武士を憎んで居る地侍の怒り出すのも亦有り内の情状であるから、そこで<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>も起るべき可能性が多かったのである。戦乱の世というものは何時も其下と其上と<ruby><rb>和睦</rb><rt>わぼく</rt></ruby>し難いような事情が起ると、第三者が<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに其下に助力して其主権者を<ruby><rb>逐落</rb><rt>おいおと</rt></ruby>し、そして其土地の主人となって<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>うのである。或は<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に利を<ruby><rb>啗</rb><rt>くら</rt></ruby>わせて其下をして其上に<ruby><rb>負</rb><rt>そむ</rt></ruby>かせて我に<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>を寄せしめ置いて、そして表面は他の口実を以て襲って之を取るのであるし、下たるものも亦<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如くにして自己の地位や所得を盛上げて行くのである。窃かに心を寄せるのが「内通」であり、利を啗わせて事を<ruby><rb>発</rb><rt>おこ</rt></ruby>させるのが「<ruby><rb>嘱賂</rb><rt>そくろ</rt></ruby>を飼う」のであり、まだ表面には何の事も無くても他領他国へ対して計略を廻らすのが「陰謀」である。たとえば伊達政宗が会津を取った時、一旦は降参した横田氏勝の如きは、降参して見ると所領を余り削減されたので政宗を恨んだ。そこで政宗から会津を取返したくて使を石田三成へ遣わしたりなんぞしている。然様いう理屈だから、秀吉の方へ政宗が小田原へ出渋った腹の底でも何でも知れて終うのである。是の如きことは甲にも乙にも<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>にも<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>にも互に有ることで、戦乱の世の月並で<ruby><rb>稀</rb><rt>めず</rt></ruby>らしい事では無い。小田原は松田尾張、大道寺駿河等の逆心から関白方に亡ぼされたのであり、会津は蘆名の四天王と云われた平田松本佐瀬富田等が心変りしたから政宗に取られたのである。政宗は前に云った通り、まだ秀吉に帰服せぬ前に、木村父子が今度拝領した大崎を取ろうと思って、大崎の臣下たる湯山隆信を<ruby><rb>吾</rb><rt>われ</rt></ruby>に内通させて氏家吉継と<ruby><rb>与</rb><rt>とも</rt></ruby>に大崎を図らせて居たのである。然様いう訳なのであるから、大崎の一揆の中に其の湯山隆信等が居たか<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>だかは分らぬが、少くとも大崎領に政宗の電話が開通して居たことは疑無い。サア木村父子が新来無恩の天降り武士で多少の<ruby><rb>秕政</rb><rt>ひせい</rt></ruby>が有ったのだろうから、土着の武士達が一揆を起すに至って、其一揆は中々手広く又<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>かった。木村伊勢守が成合平左衛門を入れて置いた佐沼城を一揆は取囲んだ。佐沼は仙台よりはまだずっと奥で、今の青森線の<ruby><rb>新田</rb><rt>にった</rt></ruby>駅或はせみね駅あたりから東へ入ったところであり、海岸へ出て<ruby><rb>気仙</rb><rt>けせん</rt></ruby>の方へ行く路にあたる。伊勢守父子は成合を救わずには居られないから、伊勢守吉清は葛西の豊間城、即ち今の<ruby><rb>登米</rb><rt>とめ</rt></ruby>郡の<ruby><rb>登米</rb><rt>とよま</rt></ruby>という北上川沿岸の地から出張し、子の弥一右衛門清久は大崎の古河城、今の<ruby><rb>小牛田</rb><rt>こごた</rt></ruby>駅より西北の地から出張して、佐沼の城の後詰を議したところ、一揆の方は<ruby><rb>予</rb><rt>あらかじ</rt></ruby>め作戦計画を立てて居たものと見えて、不在になった豊間と古河の両城をソレ乗取れというので<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>攻陥</rb><rt>せめおと</rt></ruby>して終った。佐沼は豊間よりは西北、古河よりは東に当るが、豊間と古河との距離は直接にすれば然のみ<ruby><rb>距</rb><rt>へだた</rt></ruby>って居らぬとは云え、然程に近い訳でも無いのに、<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如く手際<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く木村父子が樹に離れた猿か水を失った鮒のように本拠を奪われたところを見ると、一揆の方には十分の準備が有り統一が保てて居て、思う壺へ陥れたものと見える。ナマヌル魂の木村父子は<ruby><rb>旅</rb><rt>りょ</rt></ruby>の<ruby><rb>卦</rb><rt>け</rt></ruby>の文に<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>鳥其巣を<ruby><rb>焚</rb><rt>や</rt></ruby>かれた旅烏、バカアバカアと自ら鳴くよりほか無くて、<ruby><rb>何共</rb><rt>なんとも</rt></ruby>せん方ないから、自分が援助するつもりで来た成合平左衛門に<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>て<ruby><rb>援</rb><rt>たす</rt></ruby>けられる形となって、佐沼の城へ父子共<ruby><rb>立籠</rb><rt>たてこも</rt></ruby>ることになった。

西を向いても東を向いても親類縁者が有るでも無い新領地での苦境に陥っては、二人は<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>ての秀吉の言葉に依って、会津の蒲生氏郷とは随分の遠距離だが其の来援を乞うよりほか無かった。一体余り器量も無い小身の木村父子を急に引立てて、葛西、大崎、<ruby><rb>胆沢</rb><rt>いさわ</rt></ruby>を与えたのは<ruby><rb>些</rb><rt>ちと</rt></ruby>過分であった。何様も秀吉の<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>が分らない。木村父子の材能が見抜けぬ秀吉でも無く、新領主と地侍とが<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>なイキサツを生じ易いものだということを合点せぬ秀吉でも無い。一旦自分に対して深刻の敵意を<ruby><rb>挟</rb><rt>さしはさ</rt></ruby>んだ<ruby><rb>狠戻</rb><rt>こんれい</rt></ruby><ruby><rb>豪黠</rb><rt>ごうかつ</rt></ruby>の佐々成政を熊本に封じたのは、成政が無異で有り得れば九州の土豪等に対して成政は我が<ruby><rb>藩屏</rb><rt>はんぺい</rt></ruby>となるので有り、又成政がドジを踏めば成政を自滅させて終うに足りるというので、<ruby><rb>竟</rb><rt>つい</rt></ruby>に成政は其の<ruby><rb>馬鹿暴</rb><rt>ばかあら</rt></ruby>い性格の欠陥により一揆の<ruby><rb>蜂起</rb><rt>ほうき</rt></ruby>を致して大ドジを演じたから、立花、黒田等諸将に命じて一揆をも討滅すれば成政をも罪に問うて終った。木村父子は何も越中立山から日本アルプスを越えて徳川家康と秀吉を挟撃する相談をした<ruby><rb>内蔵介</rb><rt>くらのすけ</rt></ruby>成政ほどの<ruby><rb>鼬花火</rb><rt>いたちはなび</rt></ruby>のような物狂わしい火炎魂を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>った男でも無いし、それを飛離れた奥地に置いた訳は一寸解しかねる。事によると是は羊を以て狼を誘うの<ruby><rb>謀</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>で、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>の様な弱武者の木村父子を<ruby><rb>活餌</rb><rt>いきえ</rt></ruby>にして隣の政宗を誘い、政宗が食いついたらば<ruby><rb>此畜生</rb><rt>こんちくしょう</rt></ruby>めと殺して終おうし、又何処までも殊勝気に狼が<ruby><rb>法衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>を着とおすならば物のわかる狼だから<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>にして置いて宜い、というので、何の事は無い木村父子は狼の<ruby><rb>窟</rb><rt>いわや</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に遊ばせて置かれる羊の役目を云い付かったのかも知れない。筋書が<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し然様ならば木村父子は余り好い役では無いのだった。

又氏郷に対して木村父子を子とも家来とも思えと云い、木村父子に対して氏郷を親とも主とも思えと秀吉の<ruby><rb>呉々</rb><rt>くれぐれ</rt></ruby>も訓諭したのは、善意に解すれば氏郷を羊の番人にしたのに過ぎないが、人を悪く考えれば、羊が狼に食い殺された場合は番人には切腹させ、番人と狼と格闘して狼が死ねば珍重珍重、番人が死んだ場合には大概<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れた狼を<ruby><rb>撲</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ちのめすだけの事、狼と番人とが四ツに組んで<ruby><rb>捻合</rb><rt>ねじあ</rt></ruby>って居たら危気無しに背面から狼を<ruby><rb>胴斬</rb><rt>どうぎ</rt></ruby>りにして終う分の事、という四本の<ruby><rb>鬮</rb><rt>くじ</rt></ruby>の<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>れが出ても差支無しという涼しい料簡で、それで木村父子と氏郷とを鎖で縛って<ruby><rb>膠</rb><rt>にかわ</rt></ruby>で<ruby><rb>貼</rb><rt>つ</rt></ruby>けたようにしたのかも知れない。して見れば秀吉は宜いけれど、氏郷は巨額の年俸を与えられたとは云え極々短期の間に其年俸を受取れるか何様か分らぬ危険に遭遇すべき地に置かれたのだ。番人に対しての関白の愛は厚いか薄いか、マア薄いらしい。会津拝領は八月中旬の事で、もう其歳の十月の二十三日には羊の木村父子は安穏に草を<ruby><rb>噉</rb><rt>は</rt></ruby>んでは居られ無くなって、跳ねたり鳴いたり大苦みを仕始めたのであった。

一体氏郷は父の賢秀の義に固いところを受けたのでもあろうか、利を見て義を忘れるようなことは<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も敢てして居らぬ、此の時代に於ては律義な人である。又佐々成政のような<ruby><rb>偏倚</rb><rt>へんき</rt></ruby>性格を有った男でも無かった。だから成政を忌むように秀吉から忌まれるべきでも無かった。が、氏郷を会津に置いて葛西大崎の木村父子と結び付けたのは、氏郷に対して若し温かい情が有ったとすれば、秀吉の仕方は<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か無理だった。葛西大崎と会津との距離は余り懸隔して居る、其間に今一人ぐらい誰かを置いて連絡を取らせても宜い筈と思われる。温かでは無くて、冷たいものであったとすれば、あの通りで丁度宜いであろう。氏郷が秀吉に<ruby><rb>心</rb><rt>こころ</rt></ruby><ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに冷やかに思われたとすれば、それは氏郷が秀吉の主人信長の婿で有ったことと、最初は小身であったが次第次第に武功を積んで、人品骨柄の中々立派であることが世に認めらるるに至ったためとで、他にこれということも見当らぬ。然し小田原征伐出陣の時に、氏郷が画師に命じて、<ruby><rb>白綾</rb><rt>しらあや</rt></ruby>の<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>に、左の手には扇、右の手には<ruby><rb>楊枝</rb><rt>ようじ</rt></ruby>を持ったる有りの儘の姿を写させ、打死せば忘れ形見にも成るべし、と云い、奉行町野左近将監<ruby><rb>繁仍</rb><rt>しげより</rt></ruby>の妻で、もと鶴千代丸の時の乳母だった者に、此絵は誰に似たるぞ、と笑って示したので、左近が妻は、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しきことをせさせ玉う君かな、御年も若うおわしながら何の為にかかる事を、と泣いたと云う<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>が伝わっている。戦の度毎に戦死と覚悟してかかるのが覚悟有る武士というものでは有るが、一寸おかしい、氏郷の心中奥深きところに何か有ったのではないかと思われぬでもないが、又<ruby><rb>然程</rb><rt>さほど</rt></ruby>に深く解釈せずとも済む。秀吉が姿絵を氏郷の造らせたということを聞いて感涙を<ruby><rb>墜</rb><rt>おと</rt></ruby>したというのも、何だか一寸考えどころの有るようだが、全くの感涙とも思われる。すべてに於て想察の<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まるような材料は無い。秀吉が憎んだ佐々成政の<ruby><rb>三蓋笠</rb><rt>さんがいがさ</rt></ruby>の<ruby><rb>馬幟</rb><rt>うまじるし</rt></ruby>を氏郷が請うて、熊の棒という<ruby><rb>棒鞘</rb><rt>ぼうざや</rt></ruby>に熊の皮を巻付けたものに替えたのは、熊の棒が見だてが無かったからと、且は<ruby><rb>驍勇</rb><rt>ぎょうゆう</rt></ruby>の名を<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>かした成政の用いたものを誰も<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>って用いなかったからとで有ったろうが、秀吉に取って面白い感じを与えたか<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>か、有らずもがなの事だった。然し勿論そんな<ruby><rb>些事</rb><rt>さじ</rt></ruby>を<ruby><rb>歯牙</rb><rt>しが</rt></ruby>に掛ける秀吉では無い。秀吉が氏郷を遇するに別に何も有った訳では無い、ただ<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に之を愛するというまでに至って居らずに<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か冷やかであったというまでである。細川忠興が会津の鎮守を辞退したというのは信じ難い談だが、忠興が別に<ruby><rb>咎立</rb><rt>とがめだて</rt></ruby>もされず此の難い役を辞したとすれば、忠興は中々手際の好い利口者である。

氏郷が政宗の後の会津を引受けさせられたと同じ様に、織田<ruby><rb>信雄</rb><rt>のぶかつ</rt></ruby>は小田原陣の済んだ時に秀吉から徳川家康の後の<ruby><rb>駿遠参</rb><rt>すんえんさん</rt></ruby>に封ぜられた。ところが信雄は此の国替を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばなくて、強いて秀吉の意に<ruby><rb>忤</rb><rt>さから</rt></ruby>った。そこで秀吉は腹を立てて、貴様は元来国を治め民を<ruby><rb>牧</rb><rt>やしな</rt></ruby>う器量が有る訳では無いが、故信長公の後なればこそ封地を贈ったのに、<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>に任せて<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が言を用いぬとは己を知らぬにも程がある、というので<ruby><rb>那賀</rb><rt>なか</rt></ruby>二万石にして<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。信雄は元来立派な父の子でありながら器量が乏しく、自分の為に秀吉家康の小牧山の合戦をも起させるに至ったに関わらず、秀吉に致されて<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に<ruby><rb>和睦</rb><rt>わぼく</rt></ruby>して終ったり、又父の本能寺の変を鬼頭内蔵介から聞かされても嘘だろう位に聞いた程のナマヌル魂で、彼の無学文盲の佐々成政にさえ見限られたくらいの者ゆえ、秀吉に<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>われたのも不思議は無い。前田利家は余り人の悪口を云うような人では無いが、其の世上の「うつけ者」の二人として挙げた中の一人は、<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と名は指して無いが信雄ではないかと思われる。氏郷の父賢秀が光秀に従わぬ為に攻められかかった時援兵を乞うたのにも、<ruby><rb>怯懦</rb><rt>きょうだ</rt></ruby>で遷延して、人質を取ってから援兵を出すことにし、それも<ruby><rb>捗々</rb><rt>はかばか</rt></ruby>しいことを得せず、相応の兵力を有しながら父を殺した光秀征伐の戦の間にも合わなかった腑甲斐無しであるから、高位高官名門大封の身でありながら那賀へ逐われ、<ruby><rb>次</rb><rt>つい</rt></ruby>で出羽の秋田へ<ruby><rb>蟄</rb><rt>ちっ</rt></ruby>せしめられたも仕方は無い。然し秀吉が之を清須百万石から那賀へ<ruby><rb>貶</rb><rt>へん</rt></ruby>したのも余り<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>かった。馬鹿でも不覚者でも氏郷に取っては縁の兄弟である、信雄信孝合戦の時は氏郷は柴田に馴染が深かったが、信孝方に付かず信雄方に附いたのである。其信雄が<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如くにされたのは氏郷に取って好い心持はせず、秀吉の心の冷たさを感じたことであろう。然し天下の仕置は人情の温い冷たいなどを云っては居られぬのである、道理の当不当で為すべきであるから致方は無い。致方は無いけれども<ruby><rb>些</rb><rt>ちと</rt></ruby>酷過ぎた。秀吉の此の酷いところ冷たいところを味わせられきっていて、そして天下の仕置は何様すべきものだということを<ruby><rb>会</rb><rt>え</rt></ruby>しきっている氏郷である。木村父子の厄介な事件が起ったとて、<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>ても想い得切って居ることであり、又如何にすべきかも考え得抜いて居ることである、今更何の遅疑すべきでもない。

木村父子は佐沼から氏郷へ援を請うた。遠くても、寒気が<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくても棄てては置けぬ。十一月五日には氏郷はもう会津を立っている。新領地の事であるから、留守にも十分に心を配らねばならぬ、木村父子の<ruby><rb>覆轍</rb><rt>ふくてつ</rt></ruby>を踏んではならぬ。会津城の留守居には蒲生左文<ruby><rb>郷可</rb><rt>さとよし</rt></ruby>、小倉豊前守、上坂兵庫助、関入道万鉄、いずれも頼みきったる者共だ。それから関東口白河城には関右兵衛尉、須賀川城には田丸中務少輔を<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めて置くことにした。政宗の方の片倉<ruby><rb>備中守</rb><rt>びっちゅうのかみ</rt></ruby>が三春の城に居るから、油断のならぬ奴への押えである。中山道口の南山城には小倉作左衛門、越後口の津川城には北川平左衛門尉、奥街道口の塩川城には蒲生喜内、それぞれ相当の人物を置いて、<ruby><rb>扨</rb><rt>さて</rt></ruby>自分は一番<ruby><rb>先手</rb><rt>さきて</rt></ruby>に蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、二番手に蒲生四郎兵衛、町野左近将監、三番に<ruby><rb>五手組</rb><rt>いつてぐみ</rt></ruby>、梅原弥左衛門、森<ruby><rb>民部丞</rb><rt>みんぶのじょう</rt></ruby>、門屋助右衛門、寺村半左衛門、<ruby><rb>新国上総介</rb><rt>にっくにかずさのすけ</rt></ruby>、四番には六手組、細野九郎右衛門、玉井数馬助、岩田市右衛門、神田清右衛門、<ruby><rb>外池</rb><rt>とのいけ</rt></ruby>孫左衛門、河井公左衛門、五番には<ruby><rb>七手与</rb><rt>ななてぐみ</rt></ruby>、蒲生将監、蒲生<ruby><rb>主計助</rb><rt>かずえのすけ</rt></ruby>、蒲生忠兵衛、高木助六、中村仁右衛門、外池甚左衛門、町野<ruby><rb>主水佑</rb><rt>もんどのすけ</rt></ruby>、六番には<ruby><rb>寄合与</rb><rt>よりあいぐみ</rt></ruby>、佐久間久右衛門、同じく源六、上山弥七郎、水野三左衛門、七番には弓鉄砲頭、鳥井四郎左衛門、上坂源之丞、布施次郎右衛門、<ruby><rb>建部</rb><rt>たけべ</rt></ruby>令史、永原孫右衛門、松田金七、坂崎五左衛門、速水勝左衛門、八番には<ruby><rb>手廻</rb><rt>てまわり</rt></ruby><ruby><rb>小姓与</rb><rt>こしょうぐみ</rt></ruby>、九番には馬廻、十番には<ruby><rb>後備</rb><rt>あとそなえ</rt></ruby>関勝蔵、都合其勢六千余騎、人数多しというのでは無いが、本国江州以来、伊勢松坂以来の一族縁類、切っても切れぬ同姓や<ruby><rb>眷族</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>、多年恩顧の頼み頼まれた武士、又は新規召抱ではあるが、家来は主の義勇を慕い知遇を感じ、主は家来の器量骨柄を<ruby><rb>愛</rb><rt>め</rt></ruby>でいつくしめる者共、皆各々言わねど奥州出羽初めての合戦に、我等が刃金の味、<ruby><rb>胆魂</rb><rt>きもだましい</rt></ruby>の程を地侍共に見せ付けて呉れんという意気を含んだ者を従えて真黒になって押出した。其日は北方奥地の寒威早く催して、会津山<ruby><rb>颪</rb><rt>おろし</rt></ruby>肌に<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じく、白雪紛々と降りかかったが、人の用い<ruby><rb>憚</rb><rt>はば</rt></ruby>かりし荒気大将佐々成政の<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby><ruby><rb>三蓋</rb><rt>さんがい</rt></ruby>の<ruby><rb>馬幟</rb><rt>うまじるし</rt></ruby>を立て、是は近き頃下野の住人、一家<ruby><rb>惣領</rb><rt>そうりょう</rt></ruby>の末であった小山小四郎が田原藤太相伝のを奉りしより其れに改めた三頭<ruby><rb>左靹絵</rb><rt>ひだりどもえ</rt></ruby>の紋の旗を<ruby><rb>吹靡</rb><rt>ふきなび</rt></ruby>かせ、<ruby><rb>凜々</rb><rt>りんりん</rt></ruby>たる意気、堂々たる威風、<ruby><rb>膚</rb><rt>はだえ</rt></ruby><ruby><rb>撓</rb><rt>たゆ</rt></ruby>まず、目まじろがず、佐沼の城を心当に進み行く、と修羅場読みが一汗かかねばならぬ場合になった。が、実際は額に汗をかくどころでは無い、鶏肌立つくらい寒かったので、諸士軍卒も<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>んだろう。そこを<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>は忠三郎氏郷だ、戦の門出に全軍の気が<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えているようでは宜しく無いから、<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>の士卒を緊張させて其の意気を振い立たせる為に、自分は<ruby><rb>直膚</rb><rt>すぐはだ</rt></ruby>に<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>ばかりを着したということが伝えられている。鎧を着るには、鎧下と云って、<ruby><rb>錦</rb><rt>にしき</rt></ruby>や練絹などで出来ているものを<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>る。<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>短く、裾や<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>は<ruby><rb>括緒</rb><rt>くくりお</rt></ruby>があって之を括る。身分の低い者のは錦などでは無いが、先ずは<ruby><rb>直垂</rb><rt>ひたたれ</rt></ruby>であるから、鎧直垂とも云う。漢語の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby><ruby><rb>戦袍</rb><rt>せんぽう</rt></ruby>で、斎藤実盛の涙ぐましい談を遺したのも其の鎧直垂に就いてである。氏郷が風雪出陣の日に直膚に鎧を着たというのも、ふざけ者が土用干の時の戯れのように<ruby><rb>犢鼻褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>一ツで大鎧を着たというのでは無く、鎧直垂を着けないだけであったろうが、それにしても寒いのには相違無かったろう。しかし<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう大将で有って見れば、士卒も<ruby><rb>萎</rb><rt>し</rt></ruby>けかえって<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えて居るわけには行かぬ、<ruby><rb>力肱</rb><rt>ちからひじ</rt></ruby>を張り力足を踏んだことだろう。斯様いう長官が居無くて太平の世の官員は石炭ばかり気にして<ruby><rb>焚</rb><rt>く</rt></ruby>べて仕合せな事である。

冗談は<ruby><rb>扨置</rb><rt>さてお</rt></ruby>き、新らしい領主の氏郷が出陣すると、これを見て会津の町人百姓は氏郷を気の毒がって涙をこぼしたという。それは噂によれば木村伊勢守父子も根城を奪われた位では、奥州侍は皆敵になったのであるし、御領主の御領内も在来の者共の<ruby><rb>蜂起</rb><rt>ほうき</rt></ruby>は思われる、剛気の大将ではあらせられても御味方は少く、土地の者は多い、<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わせられることでは無かろう、痛わしい御事である、定めし<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>は如何なる処にてか果てさせたまうであろう、と云うのであった、奥州に生立って奥州武士よりほかのものを見ぬものは、一ツは国自慢で、奥州武士という者は日本一のように強い者に思って居たせいもあろうが、其の半面には文雅で学問が有って民を撫する道を知っていたろう氏郷の<ruby><rb>施為</rb><rt>しい</rt></ruby>が、木村父子や佐々成政などと違って武威の恐ろしさのみを以て民に臨まなかったため、僅々の日数であったに関らず、今度の領主は<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>いう人で有ろうと<ruby><rb>怖畏</rb><rt>ふい</rt></ruby><ruby><rb>憂虞</rb><rt>ゆうぐ</rt></ruby>の眼を張って<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>って居た人民に、<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>と<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って親愛の念を<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>かせた故であったろう。

氏郷の出陣には民百姓ばかりで無い、町野左近将監も<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か危ぶんで、願わくは今しばらく土地にも慣れ、四囲の事情も明らかになってから、戦途に上って欲しいと思った。会津から佐沼への路は、第一日程は大野原を経て日橋川を渡り、猪苗代湖を<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>に見て、其湖の北方なる猪苗代城に<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まるのが、急いでも急がいでも行軍上至当の頃合であった。で、氏郷の軍は猪苗代城に宿営した。猪苗代城の奉行は、かつて松坂城の奉行であった町野左近将監で、これは氏郷の乳母を妻にしていて、主人とは<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に親しみ深い者であった。そこで老人の危険を忌む思慮も加わってであろうが、氏郷を<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>館</rb><rt>やかた</rt></ruby>に入れまいらせてから、<ruby><rb>密</rb><rt>ひそか</rt></ruby>に<ruby><rb>諫言</rb><rt>かんげん</rt></ruby>を<ruby><rb>上</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>って、今此の寒天に此処より遥に北の奥なるあたりに発向したまうとも、人馬も<ruby><rb>労</rb><rt>つか</rt></ruby>れて働きも思うようにはなるまじく、不案内の山、川、森、沼、御勝利を得たまうにしても中々容易なるまじく思われまする、ここは一応こらえたまいて、来年の春を以て御出なされては如何でござる、と<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに止めたのである。町野繁仍の言も道理では有るが、それはもう魂の火炎が衰えている年寄武者の意見である。氏郷此時は三十五歳で有ったから、氏郷の乳母は少くとも五十以上、其夫の繁仍は六十近くでもあったろう。老人と老馬は安全を得るということに就ては賢いものであるから、大抵の場合に於て老人には従い、老馬には<ruby><rb>騎</rb><rt>の</rt></ruby>るのが危険は少い。けれども其は無事の日の事である。戦機の駈引には安全第一は<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ避く可きであり、時少く路長き折は老馬は取るべからずである。今起った<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>は少しでも早く対治して<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>って其の根を張り枝を茂らせぬ間に<ruby><rb>芟除</rb><rt>かりのぞ</rt></ruby>き抜棄てるのを<ruby><rb>機宜</rb><rt>きぎ</rt></ruby>の処置とする。且又信雄が明智乱の時のような態度を取って居た日には、武道も立たぬし、秀吉の眼も<ruby><rb>瞋</rb><rt>いか</rt></ruby>ろうし、木村父子を子とも旗下とも思えと、秀吉に前以て打って置かれた釘がヒシヒシと<ruby><rb>吾</rb><rt>わが</rt></ruby>胸に立つ訳である。で、氏郷は町野に対して、汝の諫言を破るでは無いが、<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>も<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>は成りかねる、<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>運<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>く時利あらずして吾が上はともなれかくもなれ、子とも見よ、親とも仰げと殿下の云われた木村父子を見継がぬならば、我が武道は此後全く<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>る、と云切った。町野も合点の悪い男ではなかった。老眼に涙を浮べて、<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっとも</rt></ruby>の御仰と承わりました、然らば<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>も<ruby><rb>一期</rb><rt>いちご</rt></ruby>の御奉公、いさぎよく御先を駈け申そう、と<ruby><rb>皺腕</rb><rt>しわうで</rt></ruby>をとりしぼって部署に就く事に決した。<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう思慮を抱き、斯様いう決着を敢てしたのは必ず町野のみでは無かったろう、一族譜代の武士達には、よくよく<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り切った魂の持主と、分別の遠く届く者を除いては、随分数多いことで有ったろうし、そして皆氏郷の立場を諒解するに及んで、奮然として各自の武士魂に紫色や白色の<ruby><rb>火燄</rb><rt>かえん</rt></ruby>を燃やし立てたことであろう。それで無くては四方八方難儀の多い上に、横ッ腹に伊達政宗という「くせ者」が凄い眼をギロツカせて刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に手を掛けて居る恐ろしい<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>に、<ruby><rb>毅然</rb><rt>きぜん</rt></ruby>たる立派な態度を何様して保ち得られたろう！　であるから氏郷の佐沼の後詰は辺土の小戦のようであるが、他の多くの有りふれた戦には<ruby><rb>優</rb><rt>まさ</rt></ruby>った遣りにくい戦で、そして味わって見ると中々<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかな味のある戦であり、<ruby><rb>鎗</rb><rt>やり</rt></ruby>、刀、血みどろ、<ruby><rb>大童</rb><rt>おおわらわ</rt></ruby>という大味な戦では無いのである。

ここに不明の一怪物がある。それは云う迄もなく、殊勝な念仏行者の満海という者の生れ代りだと言われている伊達の藤次郎政宗である。生れ代りの説は和漢共に随分俗間に行われたもので、恐れ多いことだが<ruby><rb>何某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>天皇は或修行者の生れ代りにわたらせられて、其前世の<ruby><rb>髑髏</rb><rt>どくろ</rt></ruby>に生いたる柳が風に揺られる度毎に頭痛を悩ませたもうたなどとさえ<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>を申して居たこともある。武田信玄が曾我五郎の生れ代りなどとは余り作意が奇抜で<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>だが、宋の<ruby><rb>蘇東坡</rb><rt>そとうば</rt></ruby>は戒禅師の生れ代り、明の王陽明は<ruby><rb>入定僧</rb><rt>にゅうじょうそう</rt></ruby>の生れ代り、陽明先生の如きは御丁寧にも其入定僧の<ruby><rb>屍骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>に<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に対面をされたとさえ伝えられている。<ruby><rb>二生</rb><rt>にしょう</rt></ruby>の人というのは転生を信じた印度に行われた古い信仰で、大抵二生の人は宿智即ち前生修行の力によって<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>であり、宿福即ち前世善根の徳によって幸福であり、果報広大、甚だ<ruby><rb>貴</rb><rt>たっと</rt></ruby>ぶべき者とされて居る。政宗の生るる前、米沢の城下に行いすまして居た念仏行者が有って満海と云った。満海が死んで、政宗が生れた。政宗は左の<ruby><rb>掌</rb><rt>たなごころ</rt></ruby>に満海の二字を握って誕生した。だから政宗は満海の生れ代りであろうと想われ、そして梵天丸という幼名はこれに因りて与えられた。梵天は此世の統治者で、二生の人たる<ruby><rb>嬰児</rb><rt>えいじ</rt></ruby>の将来は、其の前生の唱名不退の大功徳によって梵天の如くにあるべしという意からの事だ。満海の生れ代りということを保証するのは御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>りたいが、梵天丸という幼名だったことは虚誕では無く、又其名が梵天<ruby><rb>帝釈</rb><rt>たいしゃく</rt></ruby>に擬した祝福の意であったろう事も想察される。思うに伊達家の先人には<ruby><rb>陸奥介行宗</rb><rt>むつのすけゆきむね</rt></ruby>の<ruby><rb>諡</rb><rt>おくりな</rt></ruby>が念海、大膳太夫持宗が天海などと海の字の付く人が多かったから、満海の<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>も何か<ruby><rb>夫等</rb><rt>それら</rt></ruby>から出た語り歪めではあるまいか。<ruby><rb>都</rb><rt>す</rt></ruby>べての奇異な談は大概浅人妄人無学者好奇者が何か一寸した事を語り歪めるから起るもので、語り歪めの大好物な人は現在そこらに沢山転がっている至ってお<ruby><rb>廉</rb><rt>やす</rt></ruby>いしろ物であるから、奇異な談は出来<ruby><rb>傍題</rb><rt>ほうだい</rt></ruby>だ。何はあれ梵天丸で育ち、梵天丸で育てられ、片倉小十郎の如き傑物に属望されて人となった政宗は立派な一大怪物だ。人取る魔の淵は音を立てぬ、案外おとなしく秀吉の前では澄ましかえったが、其の底知れぬ深さの蒼い色を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えた静かな淵には、馬も呑めば羽をも沈めようという<ruby><rb>洄</rb><rt>まき</rt></ruby>を為して居るのである。不気味千万な一怪物である。

此の政宗は確に一怪物である。然し一怪物であるからとて其の政宗を恐れるような氏郷では無い。洄の水の巻く力は<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じいものだが、水の力には陰もある<ruby><rb>陽</rb><rt>おもて</rt></ruby>もある、吸込みもすれば湧上りもする。<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く水を知る者は水を制することを<ruby><rb>会</rb><rt>え</rt></ruby>して水に制せらるることを為さぬ。魔の淵で有ろうとも竜宮へ続く渦で有ろうとも、怖るることは無い。<ruby><rb>況</rb><rt>いわ</rt></ruby>んや会津へ来た初より其政宗に近づくべく運命を賦与されて居るのであり、今は<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>に其男に手を差出して触れるべき機会に立ったのである。先方の出す手が<ruby><rb>棘々満面</rb><rt>とげとげだらけ</rt></ruby>の手だろうが<ruby><rb>粘滑油膩</rb><rt>ぬらぬらあぶら</rt></ruby>の手だろうが<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>の生えた手だろうが<ruby><rb>蹼</rb><rt>みずかき</rt></ruby>の有る手だろうが、<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>な手だろうが構わぬ、ウンと其手を捉えて引ずり出して淵のヌシの正体を見届けねばならぬのである。秀吉は氏郷政宗に命令して置いた。新規平定の奥羽の事、<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>騒乱など起ったる場合は、政宗は土地案内の者、政宗を先に立て案内者として共に<ruby><rb>切鎮</rb><rt>きりしず</rt></ruby>めよ、という命令を下して置いた。で、氏郷は其命の通り、サア案内に立て、と政宗に掛らねばならぬのであった。其の案内人が甚だ怪しい物騒千万なもので、此方から差出す手を向うから<ruby><rb>引捉</rb><rt>ひっつか</rt></ruby>んで竜宮の一町目あたりへ引込もうとするか何様かは知れたもので無いのである。此の処活動写真の、次の映画幕は<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>の様な光景を展開するか、タカタカ、タンタン、タカタカタンというところだが、賢い奴は猿面冠者の藤吉郎で、二十何万石という観覧料を払った代り一等席に<ruby><rb>淀君</rb><rt>よどぎみ</rt></ruby>と<ruby><rb>御神酒徳利</rb><rt>おみきどくり</rt></ruby>かなんかで納まりかえって見物して居るのであった。しかも洗って見れば其の観覧料も映画中の一方の役者たる藤次郎政宗さんから実は巻上げたものであった。

木村伊勢領内一揆<ruby><rb>蜂起</rb><rt>ほうき</rt></ruby>の事は、氏郷から一面秀吉ならびに関東押えの徳川家康に通報し、一面は政宗へ、土地案内者たる御辺は殿下の<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>ての教令により出陣征伐あるべし、と<ruby><rb>通牒</rb><rt>つうちょう</rt></ruby>して置て、氏郷が出陣したことは前に述べた通りであった。五日は出発、猪苗代泊り、六日は二本松に着陣した。伊達政宗は米沢から板谷の山脈を越えてヌッと出て来た。其の兵数は一万だったとも一万五千だったとも云われて居る。氏郷勢よりは多かったので、兵が少くては何をするにも不都合だからであることは言うまでも無い。板谷山脈を越えれば<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に飯坂だ。今は温泉場として知られて居るが、当時は城が有ったものと見える。政宗は本軍を飯坂に据えて、東の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>南北に通って居る街道を<ruby><rb>俯視</rb><rt>ふし</rt></ruby>しつつ氏郷勢を待った。氏郷の<ruby><rb>先鋒</rb><rt>せんぽう</rt></ruby>は二本松から杉目、鎌田と進んだ。杉目は今の福島で、鎌田は其北に在る。政宗勢も其先鋒は其辺まで押出して居たから、両勢は近々と接近した。蒲生勢も伊達勢の様子を見れば、伊達勢も蒲生勢の様子を見たことだろう。然るに伊達勢が本気になって案内者の任を果し、先に立って<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>対治に努力しようと進む意の無いことは、氏郷勢の場数を踏んだ老功の者の眼には明々白々に看えた。すべて他の軍の有して居る真の意向を看破することは戦に取って何より大切の事であるから、当時の武人は皆これを鍛錬して、<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>の事、機微の間にも洞察することを<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めたものである。関ヶ原の戦に金吾中納言の裏切を大谷<ruby><rb>刑部</rb><rt>ぎょうぶ</rt></ruby>が必ず<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>と悟ったのも其の為である。氏郷の前軍の蒲生源左衛門、町野左近将監等は政宗勢の不誠実なところを看破したから<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に驚いた。一揆討伐に誠意の無いことは一揆方に意を通わせて居て、そして味方に対して害意を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っているので無くて何で有ろう。それが大軍であり、地理案内者である。そこで前隊から急に蒲生四郎兵衛、玉井数馬助二人を本隊へ<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せさせて政宗の異心<ruby><rb>謀叛</rb><rt>むほん</rt></ruby>、疑無しと見え申す、其処に二三日も御<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>ありて<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>其体をも御覧有るべし、と告げた。すると氏郷は警告を賞して之に従うかと思いのほか、大に怒って<ruby><rb>瞋眼</rb><rt>しんがん</rt></ruby>から光を放った。ここは<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に氏郷だ。二人を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み据えて言葉も荒々しく、政宗謀叛とは初めより覚悟してこそ若松を出でたれ、<ruby><rb>何方</rb><rt>いずく</rt></ruby>にもあれ支えたらば<ruby><rb>踏潰</rb><rt>ふみつぶ</rt></ruby>そうまでじゃ、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>は早天に打立とうず、と<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>った。総軍はこれを聞いてウンと腹の中に<ruby><rb>堪</rb><rt>こた</rt></ruby>えが出来た。

政宗勢の方にも戦場往来の功を経た者は勿論有るし、他の軍勢の様子を見て取ろうとする眼は光って居たに違無い。見ると蒲生勢は<ruby><rb>凜</rb><rt>りん</rt></ruby>としている、其頃の言葉に云う「<ruby><rb>戦</rb><rt>たたかい</rt></ruby>を持っている」のである。戦を持っているというのは、何時でも<ruby><rb>火蓋</rb><rt>ひぶた</rt></ruby>を切って遣りつけて呉れよう、というのである。コレハと思ったに違いない。

氏郷は翌日早朝に天気の不利を冒して二本松を立った。今の街道よりは西の方なる、今の福島近くの大森の城に着いた。政宗遅滞するならば案内の任を有っている者より先へも進むべき勢を氏郷が示したので、政宗も役目上仕方が無いから先へ立って進んだ。氏郷は其後から油断無く陣を押した。何の事は無い政宗は<ruby><rb>厭々</rb><rt>いやいや</rt></ruby>ながら<ruby><rb>逐立</rb><rt>おいた</rt></ruby>てられた形だ。政宗は<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しかったろうが理詰めに押されて居るので仕方が無い、<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>しようも無い。氏郷は理に乗って押して居るのである。グングンと押した。大森辺から北は大崎領まで政宗領である。北へ北へと道順に云えば伊達郡、<ruby><rb>苅田</rb><rt>かった</rt></ruby>郡、柴田郡、名取郡、宮城郡、黒川郡であって、黒川郡から先が一揆<ruby><rb>叛乱地</rb><rt>はんらんち</rt></ruby>になって居るのである。其間随分と長い路程であるが、政宗は理に押されてシブシブながら先へ立たぬ訳にゆかず、氏郷は理に乗ってジリジリと後から押した。政宗が<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しも途中で<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>に何事か起した日には、<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が領分では有るし、勝手は知ったり、大軍では有り、無論政宗に取って有利の歩合は多いが、吾が領内で云わば関白の代官同様な氏郷に力沙汰に及んだ日には、<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>るるところ無く明白に天下に対して弓を<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた者となって<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>って、自ら救う道は絶対に無いのである。そこを知らぬ政宗では無いから、<ruby><rb>振捩</rb><rt>ふりもぎ</rt></ruby>ろうにも蹴たぐろうにも<ruby><rb>為</rb><rt>せ</rt></ruby>ん<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>無くて押されている。又そこを知り切っている氏郷だから、業を為るなら仕て見よ、と十分に腰を落して油断無くグイグイ押す。氏郷の方が現われたところでは勢を得ている。でも押す方にも押される方にも、力士と力士との双方に云うに云われぬ気味合が有るから、寒気も<ruby><rb>甚</rb><rt>ひど</rt></ruby>かったし天気も悪かったろうが、福島近傍の大森から、政宗領のはずれ、叛乱地の境近くに至るまでに十日もかかって居る。

此<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>政宗は面白く無い思をしたであろうが、其代り氏郷も<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目にあっている。それは此十日の間に通った地方は政宗の家の恩威が早くから行われて居た地で、政宗の九代前の政家、十代前の宗遠あたりが切従えたのだから、中頃之を失ったことが有るにせよ、今又政宗に属しているので、土豪民庶皆伊達家<ruby><rb>贔屓</rb><rt>びいき</rt></ruby>であるからであった。本来なら氏郷政宗は友軍であるから、氏郷軍の便宜をば政宗領の者も提供すべき筋合であるが、前に挙げた如く人民は蒲生勢を酷遇した。寒天風雪の時に当って宿を仮さなかったり敷物を仮さなかったり、薪や諸道具を供することを拒んだ。<ruby><rb>朧月夜</rb><rt>おぼろづきよ</rt></ruby>にしくものぞ無き、という歌なんどは宜いが、雪まじり雨の降る夜の露営つづきは如何に強い武人であり優しい歌人であり<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>の味知りの茶人である氏郷でも、<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>下風</rb><rt>したかぜ</rt></ruby>は寒くして頬に知らるる雪ぞ降りけるなどは感心し無かったろう。<ruby><rb>桑折</rb><rt>こおり</rt></ruby>、苅田、岩沼、丸森などの処々、<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう目を見たのであるから、蒲生家の士の正望の書いたものに「憎しということ限り無し」と政宗領の町人百姓の事を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>っているのも道理である。

押されつ押しつして、十一月の十七日になった。仲冬の寒い奥州の長途も尽きて<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く目ざす叛乱地に近づいた。政宗は吾が領の殆んど<ruby><rb>尽頭</rb><rt>はずれ</rt></ruby>の黒川の前野に陣取った。前野とあるのは多分富谷から吉岡へ至る路の東に当って、今は舞野というところで即ち吉岡の舞野であろう。其処で其日政宗から氏郷へ使者が来た。使者の口上は、明日路ははや敵の領分にて候、当地のそれがしが柴の<ruby><rb>庵</rb><rt>いおり</rt></ruby>、何の風情も無く侘しうは候が、<ruby><rb>何彼</rb><rt>なにか</rt></ruby>と万端御意を得度く候間、明朝御馬を寄せられ候わば本望たる可く、粗茶進上<ruby><rb>仕度</rb><rt>つかまりたく</rt></ruby>候、という<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>なものであった。日頃懇意の友情こまやかなる中ならば、<ruby><rb>干戈</rb><rt>かんか</rt></ruby>弓鉄砲の地へ踏込む前に当って、床の間の花、釜の<ruby><rb>沸音</rb><rt>にえおと</rt></ruby>、物静かなる草堂の中で風流にくつろぎ語るのは、趣も深く味も遠く、何という楽しくも亦嬉しいことであろう。然し相手が相手である、伊達政宗である。<ruby><rb>異</rb><rt>おつ</rt></ruby>な手を出して来たぞ、あやしいぞ、とは氏郷の家来達の誰しも思ったことだろう。皆氏郷の返辞を何と有ろうと注意したことであろう。ところが氏郷は平然として答えた。誠に御懇志かたじけのうこそ候え、明朝参りて御礼を申そうず、というのであった。

イヤ驚いたのは家来達であった。政宗<ruby><rb>謀叛</rb><rt>むほん</rt></ruby>とは初めより覚悟してこそ若松を出たれ、と云った主人が、政宗に招かれて<ruby><rb>躪</rb><rt>にじ</rt></ruby>り上りから其茶室へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ろうというのである。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し彼方に於てあらかじめ大力<ruby><rb>手利</rb><rt>てきき</rt></ruby>の打手を用意し、<ruby><rb>押取籠</rb><rt>おっとりこ</rt></ruby>めて打ってかからんには誰か防ぎ得よう。主人若し打たれては残卒全からず、何十里の敵地、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>の川、何処の<ruby><rb>峡</rb><rt>はざま</rt></ruby>で待設けられては<ruby><rb>人種</rb><rt>ひとだね</rt></ruby>も尽きるであろう。こは是れ<ruby><rb>一期</rb><rt>いちご</rt></ruby>の大事到来と、千丈の絶壁に足を爪立て、<ruby><rb>万仞</rb><rt>ばんじん</rt></ruby>の深き淵に臨んだ思がしたろう。飛んでも無い返辞をして呉れたものだと、怨みもし呆れもし悲みもした事であろう。然し忠三郎氏郷は忠三郎氏郷だ。しおらしくも茶を習うたる田舎大名が、茶に招くというに我が行かぬ法は無い、<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>いて危いことは有るとも、招くに往かずば臆したに当る、機に臨みて身を扱おうに、何程の事が有ろうぞ、朝の茶とあるに手間暇はいらぬ、立寄って政宗が<ruby><rb>言語</rb><rt>ものいい</rt></ruby><ruby><rb>面色</rb><rt>つらつき</rt></ruby>をも見て呉りょう、というのであったろう。政宗の方には何様いう企図が有ったか分らぬ。蒲生方では政宗が氏郷を<ruby><rb>茶讌</rb><rt>ちゃえん</rt></ruby>に招いたのは、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>に氏郷を<ruby><rb>数寄屋</rb><rt>すきや</rt></ruby>の中で討取ろう為であったと明記して居る。然しそれは実際<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>だったかも知れぬが、何も政宗の方で手を出して居る事実が無いから、蒲生方で然様思ったという証拠にはなるが、政宗方で然様いう企を仕たという証拠にはならぬ。又万一然様いう企をしたとすれば、<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>の印の<ruby><rb>眼球</rb><rt>めだま</rt></ruby>で申開きをするほどの政宗が、直接自分の臣下などに手を下させて、後に至って<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>ともすることの出来ぬような不利の証拠を遺そうようはない。前野と敵地大崎領とは<ruby><rb>目睫</rb><rt>もくしょう</rt></ruby>の間であるから、或は<ruby><rb>一揆方</rb><rt>いっきがた</rt></ruby>の剛の者を手引して氏郷の油断に乗じて殺させ、そして政宗方の者が起って其者共を其場で切殺して口を滅して<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>おう、という企をしたというのならば、其の企も<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>かは有り得もす可きことになる。<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby>も無くば政宗にしては<ruby><rb>些</rb><rt>ちと</rt></ruby>智慧が足らないで手ばかり荒いように思える。但し蒲生方の言も全く想像にせよ<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>って居るところが有るのでは無いかと思われる<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>は幾箇条もあり、又ずっと後に至って政宗が氏郷に対して取った挙動で一寸<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>えるような気のすることがある。それは後に至って言おう。此処では政宗に悪意が有った証は無いというのを公平とする。が、何にせよ此時蒲生方に取って主人氏郷が<ruby><rb>茶讌</rb><rt>ちゃえん</rt></ruby>に赴くことを非常に危ぶんだことは事実で、そして其の<ruby><rb>疑懼</rb><rt>ぎく</rt></ruby>の念を<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>いたのも無理ならぬことであった。氏郷が其の請を拒まないで、何程の事やあらんと<ruby><rb>懼</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>も無しに、水深うして底を知らざる魔の淵の竜窟<ruby><rb>鮫室</rb><rt>こうしつ</rt></ruby>の中に平然として入ろうとするのは、縮むことを知らない胆ッ玉だ。織田信長は稲葉一鉄を茶室に殺そうとしたし、黒田<ruby><rb>孝高</rb><rt>よしたか</rt></ruby>は城井谷<ruby><rb>鎮房</rb><rt>しずふさ</rt></ruby>を酒席で遣りつけて居る世の中であるに。

夜は明けた、十八日の朝となった。氏郷は約に従って政宗を<ruby><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby>うた。氏郷は無論馬上で出かけたろうが、服装は何様であったか記されたものが無い。如何にこれから戦に赴く途中であるとしても、<ruby><rb>皆具</rb><rt>かいぐ</rt></ruby><ruby><rb>取鎧</rb><rt>とりよろ</rt></ruby>うて<ruby><rb>草摺長</rb><rt>くさずりなが</rt></ruby>にザックと着なした<ruby><rb>大鎧</rb><rt>おおよろい</rt></ruby>で茶室へも通れまいし、又如何に茶に招かれたにしても<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に其場より修羅の<ruby><rb>衢</rb><rt>ちまた</rt></ruby>に踏込もうというのに<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby><ruby><rb>肩衣</rb><rt>かたぎぬ</rt></ruby>で、其肩衣の鯨も抜いたような<ruby><rb>形</rb><rt>なり</rt></ruby>も変である。利久高足と云われた氏郷だから、必ずや武略では無い茶略を然るべく見せて、工合の宜い形で参会したろうが、一寸想像が出来ない。是は茶道鍛錬の人への問題に提供して置く。氏郷の家来達は勿論<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>で、<ruby><rb>鎗</rb><rt>やり</rt></ruby>や<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>、弓、鉄砲、昨日に変ること無く<ruby><rb>犇々</rb><rt>ひしひし</rt></ruby>と身を固めて主人に前駆後衛した事であろう。やがて前野に着く。政宗方は迎える。氏郷は数寄屋の路地へ<ruby><rb>潜門</rb><rt>くぐり</rt></ruby>を入ると、伊達の家来はハタと扉を立てんとした。これを見ると氏郷に<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って来た蒲生源左衛門、蒲生忠左衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近将監、新参ではあるが名うての荒武者佐久間玄蕃が弟と聞えた佐久間久右衛門、<ruby><rb>同苗</rb><rt>どうみょう</rt></ruby><ruby><rb>舎弟</rb><rt>しゃてい</rt></ruby>源六、<ruby><rb>綿利</rb><rt>わたり</rt></ruby>八右衛門など一人当千の勇士の面々、火の中にもあれ水の中にもあれ、死出<ruby><rb>三途</rb><rt>さんず</rt></ruby>主従一緒と思詰めたる者共が<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>り兼ねてツツと躍り出た。伊達の家来は<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>は<ruby><rb>狼籍</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>に近き振舞と支え立てせんとした。制して制さるる男共であればこそ、右と左へ伊達の家来を押退け押飛ばして、<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>に取る門の扉をもメリメリと押破った。氏郷の相伴つかまつって苦しい者ではござらぬ、蒲生源左衛門<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り通る、蒲生忠右衛門罷り通る、町野左近将監罷り通る、罷り通る、罷り通る、と<ruby><rb>陣鐘</rb><rt>じんがね</rt></ruby>のような声もあれば陣太鼓のような声も有る、<ruby><rb>陣法螺</rb><rt>じんぼら</rt></ruby>吹立てるような声も有って、<ruby><rb>間</rb><rt>あわい</rt></ruby>隔たったる味方の軍勢の耳にも響けかしに勢い<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>く挨拶して押通った。茶の道に押掛の客というも有るが、これが<ruby><rb>真個</rb><rt>ほんと</rt></ruby>の押掛けで、もとより大鎧<ruby><rb>罩手</rb><rt>こて</rt></ruby><ruby><rb>臑当</rb><rt>すねあて</rt></ruby>の出で立ちの、射向けの<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>に風を切って、長やかなる陣刀の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>あたり散らして、<ruby><rb>寄付</rb><rt>よりつき</rt></ruby>の席に居流れたのは、<ruby><rb>鴻門</rb><rt>こうもん</rt></ruby>の会に<ruby><rb>樊噲</rb><rt>はんかい</rt></ruby>が駈込んで、怒眼を<ruby><rb>円</rb><rt>つぶら</rt></ruby>に張って項王を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだにも勝ったろう。<ruby><rb>外面</rb><rt>そとも</rt></ruby>は又外面で、士卒各々<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>の緒を<ruby><rb>緊</rb><rt>し</rt></ruby>め、鉄砲の火縄に火をささぬばかりにし、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を取りしぼって、座の中に心を通わせ、イザと云えばオッと応えようと振い立っていた。これでは<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>政宗に何の企が有っても手は出せぬ形勢であった。

茶の湯に主と家来とは一緒に招く場合も有るべき訳で、主従といえば離れぬ中である。然し主人と臣下とを如何に茶なればとて同列にすることは其の主に対しては失礼であり、其の臣下に対しては<ruby><rb>儹上</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>に堪うる<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>わざらしむるものであるから、織田<ruby><rb>有楽</rb><rt>うらく</rt></ruby>の工夫であったか何様であったか、客席に上段下段を設けて、膝突合わすほど狭い室ではあるが主を上段に家来を下段に坐せしむるようにした席も有ったと<ruby><rb>記</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えている。主従関係の確立して居た当時、もとより主従は一列にさるべきものでは無い。多分政宗方では物柔らかに其他意無きを示して、書院で<ruby><rb>饗応</rb><rt>きょうおう</rt></ruby>でも仕たろうが、<ruby><rb>鎧武者</rb><rt>よろいむしゃ</rt></ruby>を七人も八人も数寄屋に請ずることは出来もせぬことであり、主従の礼を無視するにも当るから、御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>ったろう。<ruby><rb>扨</rb><rt>さて</rt></ruby>政宗出坐して氏郷を請じ入れ、時勢であるから茶談軍談<ruby><rb>取交</rb><rt>とりま</rt></ruby>ぜて、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ軍事談の方を多く会話したろうが、此時氏郷が、佐沼への道の程に<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>の城は何程候、と前路の模様を問うたに対し、政宗は、佐沼へは是より田舎町（六町程<ruby><rb>歟</rb><rt>か</rt></ruby>）百四十里ばかりにて候、其間に一揆の<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>りたる高清水と申すが佐沼より三十里<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>に候、其の外には一つも候わず、と<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>るところ有る為に偽りを云ったと蒲生方では記している。殊更に虚言を云ったのか、<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく情報を得て居なかったのか分らぬ。次いで起る事情の展開に照らして考えるほかは無い。<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby>候わば今日道通りの民家を焼払わしめ、明日は高清水を<ruby><rb>踏潰</rb><rt>ふみつぶ</rt></ruby>し候わん、と氏郷は云ったが、<ruby><rb>目論見</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>の<ruby><rb>齟齬</rb><rt>そご</rt></ruby>した政宗は無念さの余りに第二の一手を出して、毒を仕込み置いたる茶を立てて氏郷に飲ませた、と云われている。毒薬には劇毒で飲むと<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に死ぬのも有ろうし、程経て利くのも有ろうが、かかる場合に飲んで直に<ruby><rb>血反吐</rb><rt>ちへど</rt></ruby>を出すような毒を飼おうようは無いから、仕込んだなら緩毒、少くとも二三日後になって其効をあらわす毒を仕込んだであろう。氏郷も怪しいと思わぬことは無かった。然し茶に招かれて席に参した以上は亭主が自ら点じて<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>める茶を飲まぬという<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な大きな無礼無作法は有るものでないから、一団の和気を面に<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて<ruby><rb>怡然</rb><rt>いぜん</rt></ruby>として之を受け、茶味以外の味を細心に味いながら、然も<ruby><rb>御服合</rb><rt>おふくあい</rt></ruby>結構の挨拶の<ruby><rb>常套</rb><rt>じょうとう</rt></ruby>の讃辞まで呈して飲んで終った。そして茶事が終ったから謝意を<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に致して、其席を辞した。氏郷の家来達も<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って去った。客も主人も今日これから戦地へ赴かねばならぬのである。

氏郷は外へ出た。政宗方の眼の外へ出たところで、蒲生源左衛門以下は主人の顔を見る、氏郷も家来達の面を見たことであろう。主従は互に見交わす眼と眼に思い入れ宜しくあって、ム、ハハ、ハハ、ハハハと芝居ならば政宗方の計画の無功に帰したを笑うところであった。けれど細心の町野左近将監のような者は、殿、政宗が進じたる茶、別儀もなく御味わいこれありしか、まった飲ませられずに御済ましありしか、飲ませられしか、如何に、如何に、と口々に問わぬことは無かったろう。そして皆々の面は曇ったことだろう。氏郷は、ハハハ、飲まねば<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>、<ruby><rb>余瀝</rb><rt>よれき</rt></ruby>も余さず飲んだわやい、と答える。家来達はギェーッと今更ながら驚き危ぶむ。<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>そあれ、水を持て、と氏郷が命ずる。小ばしこい者が急に<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>って<ruby><rb>馬柄杓</rb><rt>ばびしゃく</rt></ruby>に水を汲んで来る。其間に氏郷は<ruby><rb>印籠</rb><rt>いんろう</rt></ruby>から「西大寺」（宝心丹をいう）を取出して、其水で服用し、彼に<ruby><rb>計謀</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>あれば我にも<ruby><rb>防備</rb><rt>そなえ</rt></ruby>あり、案ずるな、者共、ハハハハハハ、と大きく笑って後を向くと、西大寺の功験早く<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちにカッと飲んだ茶を吐いて終った。

以上は蒲生方の記するところに拠って述べたので、伊達方には勿論毒を飼うたなどという記事の有ろうようは無い。毒を用いて即座に又は陰密に人を除いて終うことは恐ろしい世には何様しても起り、且つ行われることであるから、かかる事も有り得べきではある。毒がいは毒飼で、毒害は<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってアテ字である、其毒飼という言葉が時代の<ruby><rb>匀</rb><rt>にお</rt></ruby>いを表現している通り、此時代には毒飼は頻々として行われた。けれども毒飼は最もケチビンタな、<ruby><rb>蝨</rb><rt>しらみ</rt></ruby>ッたかりの、クスブリ魂の、きたない<ruby><rb>奸人</rb><rt>かんじん</rt></ruby>小人<ruby><rb>妬婦</rb><rt>とふ</rt></ruby>悪婦の為すことで、人間の考え出したことの中で最も醜悪卑劣の事である。自死に毒を用いるのは<ruby><rb>耻辱</rb><rt>ちじょく</rt></ruby>を受けざる為で、クレオパトラの場合などはまだしも<ruby><rb>恕</rb><rt>じょ</rt></ruby>すべきだが、自分の利益の為に他を犠牲にして毒を飼う如きは何という卑しいことだろう。それでも当時は随分行われたことであるから、これに対する用心も<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って存したことで、治世になっても身分のある武士が<ruby><rb>印籠</rb><rt>いんろう</rt></ruby>の根付にウニコールを用いたり、<ruby><rb>緒締</rb><rt>おじめ</rt></ruby>に<ruby><rb>珊瑚珠</rb><rt>さんごじゅ</rt></ruby>を用いた如きも、珊瑚は毒に触るれば割れて警告を与え、ウニコールは解毒の神効が有るとされた信仰に本づく名残りであった。宝心丹は西大寺から出た除毒催吐の効あるものとして、其頃用いられたものと見える。<ruby><rb>扨</rb><rt>さて</rt></ruby>此の毒飼の事が実に存したこととすれば、氏郷は宜いが政宗は<ruby><rb>甚</rb><rt>いた</rt></ruby>く器量が下がる。但し果して事実であったか<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>かは疑わしい。政宗にも氏郷にもゆかりは無いが、政宗の為に虚談想像談で有って欲しい。政宗こそ<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って<ruby><rb>今歳</rb><rt>ことし</rt></ruby>天正の十八年四月の六日に米沢城に於て危うく毒を飼わりょうとしたのである。それは政宗が私に会津を取り且つ小田原参向遅怠の為に罪を得んとするの事情が明らかであったところから、<ruby><rb>最上</rb><rt>もがみ</rt></ruby>義光に<ruby><rb>誑</rb><rt>たぶら</rt></ruby>かされた政宗の目上が、政宗を亡くして政宗の弟の<ruby><rb>季氏</rb><rt>すえうじ</rt></ruby>を立てたら伊達家が安泰で有ろうという訳で毒飼の手段を廻らした。幸にそれは劇毒で、政宗の毒味番が毒に<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>って<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>即死したから事<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>われて、政宗は無事であったが、其為に政宗は手ずから小次郎季氏を<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>り、小次郎の<ruby><rb>傅</rb><rt>もり</rt></ruby>の<ruby><rb>小原縫殿助</rb><rt>おばらぬいのすけ</rt></ruby>を<ruby><rb>誅</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>し、同じく誅されそこなった傅の粟野藤八郎は逃げ、目上の人即ち政宗の母は其実家たる最上義光の山形へ<ruby><rb>出奔</rb><rt>いではし</rt></ruby>ったという事がある。小次郎を斬ったのは鈴木七右衛門だったとも云う。これも全部は信じかねるが、何にせよ毒飼騒ぎのあったことは有ったらしく、又世俗の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>鬼役即ち毒味役なる者が各家に存在した程に毒飼の事は繁かったものである。されば政宗が氏郷に毒を飼ったことは無かったとしても、蒲生方では毒を飼ったと思っても<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ち無理では無く、氏郷が西大寺を服したとても過慮でも無い。又ずっと後の寛永初年（五年<ruby><rb>歟</rb><rt>か</rt></ruby>）三月十二日、徳川二代将軍秀忠が政宗の藩邸に臨んだ時、政宗が自ら<ruby><rb>饗膳</rb><rt>きょうぜん</rt></ruby>を呈した。其時将軍の<ruby><rb>扈従</rb><rt>こじゅう</rt></ruby>の臣の内藤<ruby><rb>外記</rb><rt>げき</rt></ruby>が支え立てして、<ruby><rb>御主人</rb><rt>おんあるじ</rt></ruby>役に一応御試み候え、と云った。すると政宗は<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に怒って、それがし既にかく老いて、今さら何で天下を心掛きょうず、天下に心を掛けしは二十余年もの昔、其時にだに人に毒を飼う如ききたなき所存は<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>たず、と云い放った。それで秀忠が笑って外記の為に挨拶が有って<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>に済んだ、という事がある。政宗の答は胸が<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>くように立派で、外記は甚だ不面目であったが、外記だとて<ruby><rb>一手</rb><rt>ひとて</rt></ruby>さきが見えるほどの男ならば政宗が此の位の返辞をするのは分らぬでもあるまいに、何で<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>なことを云ったろう。それは全く将軍を思う余りの過慮から出たに相違無いが、見す見す振飛ばされると分ってながら一押し押して見たところに、外記は外記だけの所存が有ったのであろう。政宗と家康と馬の合ったように氏郷と仲の好かった前田利家は、温厚にして長者の風のあった人で、敵の少い人ではあったが、それでも最上の伊白という<ruby><rb>鍼医</rb><rt>はりい</rt></ruby>の為に健康を危うくされて、老臣の村井<ruby><rb>豊後</rb><rt>ぶんご</rt></ruby>の警告により心づいて之を遠ざけた、という<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>がある。毒によらず鍼によらず、陰密に人を除こうとするが如きことは有り内の世で、最も名高いのは加藤清正<ruby><rb>毒饅頭</rb><rt>どくまんじゅう</rt></ruby>一件だが、それ等の談は皆虚誕であるとしても、各自が他を疑い且つ自ら<ruby><rb>警</rb><rt>いまし</rt></ruby>め備えたことは<ruby><rb>普</rb><rt>あまね</rt></ruby>く存した事実であった。政宗が毒を使ったという事は無くても、氏郷が西大寺を飲んだという事は存在した事実と看て差支あるまい。

其日氏郷は本街道、政宗は街道右手を、並んで進んだ。はや此辺は<ruby><rb>叛乱地</rb><rt>はんらんち</rt></ruby>で、地理は山あり水あって一寸<ruby><rb>錯綜</rb><rt>さくそう</rt></ruby>し、処々に大崎氏の諸将等が以前<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>って居た小城が有るのだった。氏郷軍は民家を焼払って進んだところ、本街道筋にも<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>の<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>った敵城があった。それは<ruby><rb>四竈</rb><rt>しかま</rt></ruby>、<ruby><rb>中新田</rb><rt>なかにいだ</rt></ruby>など云うのであった。氏郷の勢に怖れて抵抗せずに城を開いて去ったので、中新田に<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まり、氏郷は城の中に、政宗は城より七八町<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>たった大屋敷に陣取ったから、氏郷の先隊四将は本隊を離れて政宗の営の近辺に特に陣取った。無論政宗を監視する押えであった。此の中新田附近は最近、即ち足掛四年前の天正十五年正月に戦場となった処で、其戦は伊達政宗の方の大敗となって、大崎の隣大名たる葛西左京太夫晴信が使を遣わして慰問したのはまだしも、越後の上杉景勝からさえ使者を<ruby><rb>遣</rb><rt>よこ</rt></ruby>して特に慰問されたほど諸方に響き渡り、又反覆常無き大内定綱は一度政宗に降参した阿子島民部を誘って自分に就かせたほど、伊達の威を落したものだった。それは大崎の大崎義隆の臣の里見隆景から事起って、隆景が義隆をして同じ大崎の巨族たる岩出山の城主氏家弾正を殺させんとしたので、弾正が片倉小十郎に因って政宗に援を請うたところから紛糾した大崎家の<ruby><rb>内訌</rb><rt>ないこう</rt></ruby>が、伊達対大崎の戦となり、伊達が勝てば氏家弾正を<ruby><rb>手蔓</rb><rt>てづる</rt></ruby>にして大崎を呑んで<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>おうということになったのである。ところが氏家を<ruby><rb>援</rb><rt>たす</rt></ruby>けに出た伊達軍の総大将の小山田筑前は三千余騎を率いて、金の<ruby><rb>采配</rb><rt>さいはい</rt></ruby>を許されて勇み進んだに関らず、岩出山の氏家弾正を援けようとして一本槍に前進して中新田城を攻めたため、大崎から救援の敵将等と戦って居る中に、中新田城よりは<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に当って居る下新田城や<ruby><rb>師山</rb><rt>もろやま</rt></ruby>城や<ruby><rb>桑折</rb><rt>くわおり</rt></ruby>城やの敵城に策応されて、袋の<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>の如くに環攻され、総大将たる小山田筑前は悪戦して死し、全軍殆んど覆没し、陣代の高森<ruby><rb>上野</rb><rt>こうつけ</rt></ruby>は<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby><ruby><rb>舅</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>の<ruby><rb>好</rb><rt>よし</rt></ruby>みを以て<ruby><rb>哀</rb><rt>あわれみ</rt></ruby>を敵の桑折（福島附近の<ruby><rb>桑折</rb><rt>こおり</rt></ruby>にあらず、志田郡鳴瀬川附近）の城将黒川月舟に請うて僅に帰るを得た程である。今氏郷は南から来て四竈を過ぎて其の中新田城に陣取ったが、大崎家の余り強くも無い<ruby><rb>鉾先</rb><rt>ほこさき</rt></ruby>ですら、中新田の北に当って同盟者をさえ有した伊達家の兵に大打撃を与え得た地勢である。氏郷の立場は危いところである。政宗の兵が万一敵意をあらわして、氏郷勢の南へ廻って立切った日には、西には小野田の城が有って、それから向うは出羽奥羽の<ruby><rb>脊梁</rb><rt>せきりょう</rt></ruby>山脉に限られ、北には岩出山の城、東北には新田の城、宮沢の城、高清水の城、其奥に弱い味方の木村父子が居るがそれは<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>が囲んでいる、東には古川城、東々南には鳴瀬川の股に師山城、松山城、新沼城、下新田城、川南には山に依って桑折城、東の一方を除いては三方皆山であるから、四方策応して取って掛られたが最期、城に拠って固守すれば少しは支え得ようが、動こうとすれば四年前の小山田筑前の<ruby><rb>覆轍</rb><rt>ふくてつ</rt></ruby>を<ruby><rb>履</rb><rt>ふ</rt></ruby>むほかは無い。氏郷が十二分の注意を以て、政宗の陣の傍へ<ruby><rb>先手</rb><rt>さきて</rt></ruby>の四将を置いたのは、仮想敵にせよ、敵の襟元に蜂を止まらせて置いたようなものである。動静監視のみでは無い、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し我に不利なるべく動いたら直に<ruby><rb>螫</rb><rt>さ</rt></ruby>させよう、螫させて彼が騒いだら力足を踏ませぬ間に直に<ruby><rb>斬立</rb><rt>きりた</rt></ruby>てよう、というのである。七八町の距離というのは当時の戦には<ruby><rb>天秤</rb><rt>てんびん</rt></ruby>のカネアイというところである。

小山田筑前が口措くも大失敗を演じた原因は、中新田の城を乗取ろうとして掛ったところ、城将<ruby><rb>葛岡監物</rb><rt>くずおかけんもつ</rt></ruby>が案外に固く防ぎ<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えて、そこより一里内外の新田に居た主人義隆に援を請い、義隆が直ちに諸将を遣わしたのに本づくので、中新田の城の<ruby><rb>外郭</rb><rt>そとぐるわ</rt></ruby>までは<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>ったが、其間に各処の城々より敵兵が切って出たからである。<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えば一箇の<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>と<ruby><rb>相搏</rb><rt>あいう</rt></ruby>って之を獲ようとして居る間に、四方から出て来た獣に脚を<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>まれ腹を咬まれ肩を<ruby><rb>攫</rb><rt>つか</rt></ruby>み裂かれ背を攫み裂かれて倒れたようなものである。氏郷は今それと同じ運命に臨まんとしている。何故といえば氏郷は中新田城に拠って居るとは云え、中新田を<ruby><rb>距</rb><rt>さ</rt></ruby>ること<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくばく</rt></ruby>も無いところに、<ruby><rb>名生</rb><rt>めふ</rt></ruby>の城というのがあって、一揆が籠っている。小さい城では有るが可なり堅固の城である。氏郷が高清水の方へ進軍して行けば、戦術の定則上、是非其の途中の敵城は落さねばならぬ。其名生の城にして防ぎ堪えれば、氏郷に於ける名生の城は<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>も小山田筑前に於ける中新田の城と同じわけになるのである。しかも政宗は高清水の城まで敵の城は無いと云ったのであるから、蒲生軍は名生の城というのが有って一揆が籠って居ることを知らぬのである。されば氏郷は明日名生の城に引かかったが最期である、よしんば政宗が氏郷に斬って掛らずとも、傍観の態度を取るだけとしても、<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>方の諸城より<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>って出たならば、蒲生勢は<ruby><rb>千手観音</rb><rt>せんじゅかんのん</rt></ruby>でも働ききれぬ場合に陥るのである。

明日は<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>一揆勢との初手合せである。高清水へは田舎道六十里あるというのであるが、早朝に出立して攻掛かろう。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し途中の様子、敵の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>に因って、高清水に着くのが日暮に及んだなら、明後日は是非攻め破る、という軍令で、十八日の中新田の夜は静かに更けた。無論政宗勢は氏郷勢の前へ立たせられる任務を負わせられていたのである。然るに其朝は前野の茶室で元気好く氏郷に会った政宗が、其夜の、しかも<ruby><rb>亥</rb><rt>い</rt></ruby>の刻、即ち十二時頃になって氏郷陣へ使者をよこした。其の言には、政宗今日夕刻より<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に<ruby><rb>虫気</rb><rt>むしけ</rt></ruby>に<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り在り、何とも迷惑いたし居り候、明日の御働き相延ばされたく、御<ruby><rb>先鋒</rb><rt>さき</rt></ruby>を<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつり</rt></ruby>候事成り難く候、とあるのであった。金剛の身には金剛の病、巌石も<ruby><rb>凍融</rb><rt>いてとけ</rt></ruby>の春の風には<ruby><rb>潰</rb><rt>くず</rt></ruby>るる習いだから、政宗だとて病気にはなろう。虫気というは当時の語で腹痛苦悩の事である。氏郷及び氏郷の諸将は之を聞いて、ソリャコソ政宗めが陰謀は露顕したぞ、と思って眼の底に冷然たる<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて<ruby><rb>点頭</rb><rt>うなず</rt></ruby>き合ったに違いあるまい。けれども氏郷の答は<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>なものであった。<ruby><rb>仰</rb><rt>おおせ</rt></ruby>の趣は承り候、さりながら敵地に入り、敵を目近に置きながら留まるべくも候わねば、明日は我が人数を先へ通し候べし、御養生候て後より御出候え、と穏やかな挨拶だ。此の返答を聞いて政宗は政宗で、ニッタリと笑ったか<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>だか、それは想像されるばかりで、何の証も無い。ただ若し政宗に陰険な計略が有ったとすれば、思う壺に氏郷を<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めて先へ遣ることになったのである。

十九日の早朝に氏郷は中新田を立った。伊達勢は主将が病気となってヒッソリと静かにして居る。氏郷は潮合を計って政宗の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>へ使者を出した。それがしは只今打立ち候、油断無くゆるゆる御養生の上、後より御出候え、というのであった。そして氏郷は諸軍へ令した。政宗を後へ置く上は常体の陣組には似る可からず、というのであったろう、<ruby><rb>五手与</rb><rt>いつてぐみ</rt></ruby>、六手与、七手与、此<ruby><rb>三与</rb><rt>みくみ</rt></ruby>を<ruby><rb>後備</rb><rt>あとぞなえ</rt></ruby>と定め、十番手後備の関勝蔵を三与の後へ入替えた。前にも見えた五手与、六手与などというのは、此頃の言葉で五隊で一集団を成すのを五手与、六隊で一集団を成すのを六手与というのであった。さて此の三与は勿論政宗の押えであるから、十分に戦を持って、皆後へ向って<ruby><rb>逆歩</rb><rt>しりあし</rt></ruby>に歩み、政宗打って掛らば直にも<ruby><rb>斬捲</rb><rt>きりまく</rt></ruby>らん勢を含んで居た。逆歩に歩むとは記してあるが、それは言葉通りに身構は南へ向い<ruby><rb>歩</rb><rt>あし</rt></ruby>は北へ向って行くことであるか、それとも別に間隔交替か何かの隊法があって、後を向きながら前へ進む行進の仕方が有ったか何様か<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく知らない。但し飯田忠彦の<ruby><rb>野史</rb><rt>やし</rt></ruby>に、行布常蛇陣とあるのは全く書き損いの漢文で、常山蛇勢の陣というのは、これとは異なるものである。何はあれ関勝蔵の一隊を境にして、前の諸隊は一揆勢に向い、後の三与は政宗に備えながら、そして全軍が木村父子救援の為に佐沼の城を志して、差当りは高清水の敵城を<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>らんと進行したのは<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>な陣法で、氏郷<ruby><rb>雄毅</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>深沈とは云え、十死一生、危きこと一髪を以て<ruby><rb>千鈞</rb><rt>せんきん</rt></ruby>を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぐものである。既に急使は家康にも秀吉にも発してあるし、又政宗が露骨に打って掛るのは、少くとも自分等全軍を<ruby><rb>鏖殺</rb><rt>みなごろし</rt></ruby>にすることの出来る<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く能く十二分の見込が立た無くては敢てせぬことであると多寡を<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>って、其の政宗の見込を十二分には立たせなくするだけの備えを仕て居れば恐るるところは無い、と測量の意味であるところの当時の言葉の「<ruby><rb>下墨</rb><rt>さげすみ</rt></ruby>」を仕切って居り、一揆征服木村救援の任を果そうとして居るところは、其の魂の張り切り<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り切って居るところ、実に<ruby><rb>懦夫</rb><rt>だふ</rt></ruby><ruby><rb>怯夫</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>をしてだに感じて而して奮い立たしむるに足るものがある。

高清水まで敵城は無いと云う事であったが、それは真赤な嘘であった。中新田を出て僅の里数を行くと、そこに名生の城というが有って一揆の兵が<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>って居り、蒲生軍に抵抗した。先隊の四将、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近等、何<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>すべき、しおらしい田舎武士めが<ruby><rb>弓箭</rb><rt>ゆみや</rt></ruby>だて、我等が手並を見せてくれん、ただ一<ruby><rb>揉</rb><rt>もみ</rt></ruby>ぞと揉立てた。池野作右衛門という者一番首を取る、面々励み勇み<ruby><rb>喊</rb><rt>おめ</rt></ruby>き叫んで攻立った。作右衛門<ruby><rb>素捷</rb><rt>すばや</rt></ruby>く走り戻って本陣に入り、首を大将の<ruby><rb>見参</rb><rt>げんざん</rt></ruby>に備え、ここに名生の城と申す敵城有って、先手の四人合戦仕った、と述べた。サアここである。氏郷がここで名生の城に取掛けて手間取って居れば、四年前の小山田筑前と同じ事になって、それよりも<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>甚だしい不利の場合に身を置くことになるのである。<ruby><rb>鏖殺</rb><rt>おうさつ</rt></ruby>さるべき運命を享受する位置に立つのである。

氏郷は真に名生の城が前途に在ったことを知らなかったろうか。種々の書には全く之を知らずに政宗に欺かれたように記してある。成程氏郷の兵卒等は知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえって居た小田原を天下の軍勢と共に攻めた時にさえ、忍びの者を出して置いて、五月三日の夜の城中からの夜討を知って、使番を以て陣中へ夜討が来るぞと触れ知らせた程に用意を怠らぬ氏郷である。まして未だ<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て知らぬ敵地へ踏込む戦、<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に腹の中の<ruby><rb>黒白</rb><rt>こくびゃく</rt></ruby>不明な政宗を後へ置いて、三里五里の間も知らぬ如き不詮議の事で<ruby><rb>真黒闇</rb><rt>まっくらやみ</rt></ruby>の中へ盲目探りで進んで行かれるものでは無い。小田原の敵の夜討を知ったのは、氏郷の伊賀衆の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>、忍びの<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>と聞えし町野輪之丞という者で、毎夜毎夜忍びて敵城を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ったとある。伊賀衆というのは伊賀侍、<ruby><rb>若</rb><rt>もし</rt></ruby>くは伊賀侍から出た忍びの術を習得した者共という義で、甲賀衆と云うのは江州甲賀の侍に本づく同様の義の語、そして転じては伊賀衆甲賀衆といえば忍びの術を知って偵察の任を帯びて居る者という意味に用いられたのである。日本語も満足に使えぬ者等が言葉の妄解妄用を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らぬので、今では忍術は<ruby><rb>妖術</rb><rt>ようじゅつ</rt></ruby>のように思われているが、忍術は妖術では無い、潜行偵察の術である。戦乱の世に於て偵察は大必要であるから、伊賀衆甲賀衆が中々用いられ、伊賀流甲賀流などと武術の技としての名目も後には立つに至った。石川五右衛門は伊賀河内の間の石川村から出た忍術者だったまでだ。町野輪之丞は伊賀衆の頭とある、頭が有れば手足は無論有る。不知案内の地へ臨んで戦い、<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>不明の政宗と<ruby><rb>与</rb><rt>とも</rt></ruby>にするに、氏郷が此の輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせて置いたり<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに<ruby><rb>卒伍</rb><rt>そつご</rt></ruby>の間に編入して居ることの有り得る訳は無い。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、妄談者流の<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>に従えばそれこそ<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>になって<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>から<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>り込んだり、蛇になって樹登りをしたりして、或者は政宗の営を窺い或者は一揆方の様子を探り、必死の大活躍をしたろうことは推察に余り有ることである。そして此等の者の報告によって、至って危い中から至って安らかな道を発見して、精神<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>の充ち満ちた力足を踏みながら、忠三郎氏郷は<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>の銀の<ruby><rb>鯰</rb><rt>なまず</rt></ruby>を悠然と<ruby><rb>游</rb><rt>およ</rt></ruby>がせたのだろう。それで無くて何で中新田城から幾里も<ruby><rb>距</rb><rt>へだた</rt></ruby>らぬところに在った名生の敵城を知らずに、十九日の朝に政宗を後にして出立しよう。城は騎馬武者の一隊では無い、突然に湧いて出るものでも何でもない。まして名生の城は木村の家来の川村<ruby><rb>隠岐守</rb><rt>おきのかみ</rt></ruby>が守って居たのを旧柳沢の城主柳沢隆綱が攻取って拠って居たのである。それだけの事実が氏郷の耳に入らぬ訳はない。

氏郷は前隊からの名生攻の報を得ると、其の雄偉豪傑の本領を現わして、よし、分際知れた敵ぞ、瞬く間に其城乗取れ、<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby><ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>かすな、と猛烈果決の命令を下した。そして一方五手組、六手組、七手組の後備に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>っては、おもしろいぞ、おもしろいぞ、名生の城攻むると聞かば必定政宗めが寄せて来うぞ、三段に陣を立てて静まりかえって待掛けよ、比類無き手柄する時は汝等に来たぞ、と励まし立てる。<ruby><rb>後備</rb><rt>あとぞなえ</rt></ruby>の三隊は<ruby><rb>手薬錬</rb><rt>てぐすね</rt></ruby>ひいて粛として、政宗来れかし、眼に物見せて呉れんと意気込む。先手は先手で、分際知れた敵ぞや、瞬く間に乗取れという猛烈の命令に、勇気既に小敵を一呑みにして、心頭の火は燃えて<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る三千丈、迅雷の落掛るが如くに憤怒の勢<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じく取って掛った。敵も<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に土民ではない、柳沢隆綱等は、此処を<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えでは、と熱湯の玉の汗になって防ぎ戦った。然し蒲生勢の恐ろしい勢は敵の<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を奪った。<ruby><rb>外郭</rb><rt>そとぐるわ</rt></ruby>は既に乗取った。二の丸も乗取った。見る見る本丸へ攻め詰めた。上坂源之丞、西村左馬允、北川久八、三騎並んで大手口へ寄せたが、久八今年十七八歳、上坂西村を抜いて進む。さはせぬ者ぞと云う間もあらせず、敵を切伏せ首を取る。先んぜられたり、心外、と二人も駈入りて手痛く戦う。氏郷本陣の小姓馬廻りまで、ただ瞬く間に<ruby><rb>陥</rb><rt>おと</rt></ruby>せ、と手柄を競って<ruby><rb>揉立</rb><rt>もみた</rt></ruby>つる。中にも氏郷が小小姓名古屋山三郎、生年十五歳、天下に名を得た若者だったが、<ruby><rb>白綾</rb><rt>しらあや</rt></ruby>に<ruby><rb>紅裏</rb><rt>もみうら</rt></ruby>打ったる<ruby><rb>鎧下</rb><rt>よろいした</rt></ruby>、<ruby><rb>色々糸縅</rb><rt>いろいろおどし</rt></ruby>の鎧、<ruby><rb>小梨打</rb><rt>こなしうち</rt></ruby>の<ruby><rb>冑</rb><rt>かぶと</rt></ruby>、<ruby><rb>猩々緋</rb><rt>しょうじょうひ</rt></ruby>の陣羽織して、<ruby><rb>手鑓</rb><rt>てやり</rt></ruby><ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げ、城内に駈入り鑓を合せ、目覚ましく働きて好き首を取ったのは、<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>きばかりが<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>の武者共にも嘆賞の眼を見張らさせた。名古屋は尾州の出で、家の規模として<ruby><rb>振袖</rb><rt>ふりそで</rt></ruby>の間に一高名してから袖を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぐことに定まって居たとか云う。当時此戦の功を讃えて、<ruby><rb>鎗仕</rb><rt>やりし</rt></ruby>鎗仕は多けれど名古屋山三は一の鎗、と世に謡われたということだが、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>に<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby><ruby><rb>火裏</rb><rt>かり</rt></ruby>の<ruby><rb>蓮華</rb><rt>れんげ</rt></ruby>、人の<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>を快うしたものであったろう。或は山三の先登は此の翌年、天正十九年九戸政実を攻めた時だともいうが、其時は氏郷のみでは無く、秀次、徳川、堀尾、浅野、伊達、井伊等大軍で攻めたのだから、何も氏郷が小小姓まで駈出させることは無かったろう。此の戦は瞬間に攻落すことを欲したから、北村、名古屋の輩までに力を出させたのである。それは兎もあれ角もあれ、敵も一生懸命に戦ったから、蒲生勢にも道家孫一、粟井六右衛門、町野新兵衛、田付理介等の勇士も戦死し、兵卒の討死手負も少くなかったが、遂に全く息もつかせず瞬く間に攻落して<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>って、討取る首数六百八十余だったと云うから、城攻としては非常に短い時間の、随分激烈<ruby><rb>苛辣</rb><rt>からつ</rt></ruby>の戦であったに疑無い。

政宗は謀った通りに氏郷を遣り過して先へ立たせて仕舞った。氏郷は名生の城へ引掛るに相違無い、と思った。そこで、いざ急ぎ打立てや者共と、同苗藤五郎成実、片倉小十郎景綱を先手にして、<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みに揉んで押寄せた。ところが氏郷の<ruby><rb>手配</rb><rt>てくばり</rt></ruby>は行届いて居て、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の三隊の後備は三段に備を立てて、静かなること林の如く、厳然として待設けて居た。すわや政宗寄するぞ、心得たり、手を出さば許すまじ、<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>振舞わん、と鉄砲の火縄の火を吹いて居る勢だ。名生の城は既に落されて<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>が揚り、氏郷勢は皆城を後にして、政宗如何と観て居るのである。これを看て取った政宗は案に相違して、<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>にも乗ろう潮が無い。仕方が無いから名生の左の野へ引取って、そこへ陣を取った。

氏郷は名生の城へ入って之に拠った。政宗が来ぬ間に城を落して終ったから、小田山筑前と同じようにはならなかった。氏郷が名生の城を攻めるに手間取って居たならば、名生の城で相図の火を挙げる、其時宮沢、岩手山、古川、松山四ヶ処の城々より<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>勢は繰出し、政宗と策応して氏郷勢を<ruby><rb>鏖殺</rb><rt>おうさつ</rt></ruby>し、氏郷武略<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>くて一揆の手に<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れたとすれば、木村父子は元来論ずるにも足らず、其後一揆共を剛、柔、水、火の手段にあしらえば、奥州は次第に<ruby><rb>掌</rb><rt>たなごころ</rt></ruby>の大きい者の手へ転げ込むのであった。然し名生の城は<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby>も吐けぬ間に落されて終って、相図の火を挙げる<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>なぞも無く、宮沢、岩手山等四ヶ処の城々の者共は、策応するも<ruby><rb>糸瓜</rb><rt>へちま</rt></ruby>も無く、<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>て氏郷の雄威に腰を抜かされて終った。

政宗は氏郷へ使を立てた。名生を攻められ候わばそれがしへも一方仰付けられたく候いしに、かくては京都への聞えも如何と残念に候、と云うのであった。氏郷の返辞はアッサリとして妙を極めたものであった。此の敵城あることをば<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>も存ぜず候間に、先手の者ども、はや攻落して候、と<ruby><rb>空嘯</rb><rt>そらうそぶ</rt></ruby>いて片付けて置いて、<ruby><rb>扨</rb><rt>さて</rt></ruby>それからが反対に政宗の言葉に棒を刺して<ruby><rb>拗</rb><rt>こじ</rt></ruby>って居る。京都への聞え、御心づかいにも及び申すまじく候、此の向うに宮沢とやらん申す敵城の候、それを攻められ候え、然るべく聞え候わむ、というのであった。政宗は違儀も出来ない。宮沢の城へ寄せたが、もとより政宗の兵力宮沢の城の<ruby><rb>攻潰</rb><rt>せめつぶ</rt></ruby>せぬことは無いに関らず、人目ばかりに鉄砲を打つ位の事しか<ruby><rb>為無</rb><rt>しな</rt></ruby>かった。宮沢の城将岩崎隠岐は後に政宗に降った。

明日は高清水を<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>って終おうと氏郷は意を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした。名生の一戦は四方を<ruby><rb>震駭</rb><rt>しんがい</rt></ruby>して、氏郷の頼むに足り又<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>るるに足る雄将である事を誰にも思わせたろう。<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に政宗方に在って、一揆の方の様子をも知り、政宗の画策をも知っていた者に取っては、驚くべき人だと思わずには居られなかったろう。そこで政宗に心服して居る者はとに角、政宗に対して<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>てからイヤ気を持って居た者は、政宗に付いて居るよりも氏郷に随身した方が<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が行末も頼もしい、と思うに至るのも不思議では無い。ここに政宗に取っては厄介の者が出て来た。それは政宗の臣の須田<ruby><rb>伯耆</rb><rt>ほうき</rt></ruby>という者で、伯耆の父の大膳という者は政宗の父輝宗の臣であった。輝宗が二本松義継に殺された時、後藤基信が殉死しようとしたのを政宗は制した位で、政宗は殉死を忌嫌ったけれど、其基信も須田大膳も、馬場右衛門という人も遂に殉死して終った。殉死の是非は別として、不忠の心から追腹は切られぬ。大膳の殉死は輝宗に対する忠誠に出でたのだ。ところが殉死を忌嫌う政宗の意は非とすべきでは無いが、殉死を忌む余りに殉死した者をも<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>んだ。で、大膳は狂者のように<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>われ、大膳の子たる伯耆まで冷遇さるるに至った。父が忠誠で殉死したのである、其子は優遇されなくても普通には取扱われても然るべきだが、主人の意に<ruby><rb>負</rb><rt>そむ</rt></ruby>いたと云う<ruby><rb>廉</rb><rt>かど</rt></ruby>であろう、伯耆は自ら不遇であることを感じたから、何につけ<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>につけ、日頃不快に思っていた。これも亦凡人である以上は人情の<ruby><rb>当</rb><rt>まさ</rt></ruby>に然るべきところだ。氏郷の大将振り、政宗の処置ぶり、自分が到底政宗に容れられないで行末の頼もしからぬことなどを思うと、今にして政宗を去って氏郷に附いた方が賢いと思った。丁度其家を思わぬでは無い良妻も、夫の愛を到底得ぬと思うと、誘う水に引かれて横にそれたりなぞするのと同じことである。人情といい世態という者は扨々なさけ無いものだ。大忠臣の子は不忠者になって政宗に負いたのである。

そこで其十九日の<ruby><rb>夜深</rb><rt>よふか</rt></ruby>に須田伯耆は他の一人と共に逃げ込んで来て、蒲生源左衛門を頼んだ。ただ来たところで容れられる訳は無いから、飛んでもない手土産を持って来た。それは政宗と一揆方との通謀の証拠になる数通の文書であった。逃げて来た二人の名は蒲生方の記には山戸田八兵衛、牛越宗兵衛とある。須田は政宗が米沢を去った後に氏郷の方へ来て、政宗の秘を<ruby><rb>訐</rb><rt>あば</rt></ruby>いた者となって居る。

蒲生源左衛門は須田等を<ruby><rb>糺</rb><rt>きゅう</rt></ruby>した。二人は証拠文書を<ruby><rb>攘</rb><rt>と</rt></ruby>って来たのだから、それに合せて逐一に述立てた。大崎と伊達との関係、大崎義隆の家は最上義光を宗家としていること、最上家は政宗の母の家であること、母と政宗とは不和の事、政宗が大崎を図った事、そんな事をも語ったろうが、それよりは先ず差当って、一揆を勧めたこと、黒川に於ての企の事、中新田にて虚病の事、名生の城へ氏郷を釣寄せる事、四城と<ruby><rb>計</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>を合せて氏郷を殺し、一揆の手に打死を遂げたることにせんとしたる事、政宗方に名生の城の落武者来りて、余りに厳しく攻められて相図<ruby><rb>合期</rb><rt>ごうご</rt></ruby>せざりしと語れる事等を訐き立てた。そして其上に、高清水に<ruby><rb>籠城</rb><rt>ろうじょう</rt></ruby>して居る者も、亦佐沼の城を囲んで居る者も、皆政宗の指図に因って実は働いて居る者であることを語り、<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く政宗が様子を御見留めなされて後に御働きなさるべしと云った。

二人が言は<ruby><rb>悉皆</rb><rt>しっかい</rt></ruby>信ずべきか<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>かは疑わしかったろう。然し氏郷は証拠とすべきところの物を取って、且二人を収容して生証拠とした。もうなまじいに働き出すことは敵に乗ずべきの機を与えるに過ぎぬ。木村父子を<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>が殺す必要も無く政宗が殺す必要も無いことは明らかだから、焦慮する要は無い。<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って此城に動かずに居れば政宗も手を出しようは無い、と高清水攻を敢てせずに政宗の様子のみに注意した。伊賀衆は<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに働いたことだろう。

氏郷は<ruby><rb>兵粮</rb><rt>ひょうろう</rt></ruby>を徴発し、武具を補足して名生に拠るの道を講じた。急使は会津へ<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ、会津からは弾薬を送って来た。政宗は氏郷が動かぬのを見て何とも仕難かった。自分に有理有利な口実があって、そして必勝<ruby><rb>鏖殺</rb><rt>おうさつ</rt></ruby>が期せるので無ければ、氏郷に対して公然と手を出すのは、勝っても負けても<ruby><rb>吾身</rb><rt>わがみ</rt></ruby>の破滅であるから為す<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>は無かった。須田伯耆が駈込んだことは分って居るが、氏郷の方からは知らぬ顔でいる。そこで十二月二日まで居たが、氏郷は微動だに為さぬので、事皆成らずと見切って、引取って帰って<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。勿論氏郷の居る名生の城の前は通らず、断りもしなかったが、氏郷が此を知って黙して居たのであることも勿論である。もう氏郷は秀吉に対して尽すべき任務を予期以上の立派さを以て遂げているのである。佐々成政にはならなかったのである。一揆等は氏郷に対して十分<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ縮んで居り、一揆の一雄将たる黒沢豊前守という者は、吾子を名生の城へ人質に取られて居るのを悲んで、佐沼の城から木村父子を名生に送り届けるから交換して欲しいと請求めたので、之を諾して其翌月二十六日、其交換を了したのである。豊前守の子は後に黒沢六蔵と云って氏郷の臣となった。

浅野長政は関東の諸方の仕置を済ませて駿河府中まで上った時に、氏郷の飛脚に逢った。江戸に立寄って家康に対面し、蒲生忠三郎を見継がん為に奥州へ<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>る、御加勢ありたし、と請うたから家康も黙っては居られぬ。結城秀康を大将に、榊原康政を<ruby><rb>先鋒</rb><rt>せんぽう</rt></ruby>にした。長政等の軍は十二月中旬には二本松に達した。それより先に長政は浅野六右衛門を氏郷の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ遣った。六右衛門は名生へ行ったから、一切の事情は分明した。長政は政宗を<ruby><rb>招</rb><rt>よ</rt></ruby>ぶ、政宗は出ぬわけには行かぬ、片倉小十郎其外三四人を引連れて、おとなしく出て来て言訳をした。何事も須田伯耆の<ruby><rb>讒構</rb><rt>ざんこう</rt></ruby>ということにした。それならば成実盛重両人を氏郷へ人質に遣りて、氏郷これへ参られて後に其<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>を承わりて、<ruby><rb>言上</rb><rt>ごんじょう</rt></ruby><ruby><rb>可申</rb><rt>もうすべし</rt></ruby>と突込んだ。政宗は領掌したが、人質には盛重一人しか出さなかった。氏郷は承知しなかった。遂に十二月二十八日成実は人質に出た。此の成実は<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て政宗に代って会津の留守をした程の男で、後に政宗に対して何を思ったか伊達家を出た時、上杉景勝が五万石を以て迎えようとした。然し景勝には随身しないで、<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>伊達家へ帰ったが、其時は僅に百人<ruby><rb>扶持</rb><rt>ぶち</rt></ruby>を給されたのみであったのに、斎藤兵部というものが自ら請うて<ruby><rb>信夫</rb><rt>しのぶ</rt></ruby>郡の土兵五千人を率いて成実に属せんことを欲したので、成実は<ruby><rb>亘理</rb><rt>わたり</rt></ruby>郡二万三千八百石を賜わって亘理城に居らしめらるるに至ったという。<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>埋没さるること無き英霊底の<ruby><rb>漢</rb><rt>おのこ</rt></ruby>である。大坂陣の時は老病の床に在ったが、子の重綱に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>って、此戦は必ず一度和談になって、そして明年に結局を見るだろう、と<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>を埋められてから大阪が亡びるに至るだろうことを予言した片倉小十郎と共に実に伊達家の二大人物であった。其の成実を強要して一旦にせよ人質に取った氏郷は、戦陣のみでは無い<ruby><rb>樽俎</rb><rt>そんそ</rt></ruby>折衝に於ても<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>いものであった。

其年は明けて天正十九年正月元日、氏郷は木村父子を携えて名生を発して会津へと帰る其途で、浅野長政に二本松で会した。政宗の様子は<ruby><rb>凡</rb><rt>す</rt></ruby>べて長政に合点出来た。長政はそこで<ruby><rb>上洛</rb><rt>じょうらく</rt></ruby>する。政宗も手を<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ね居てはならぬから、秀吉の招喚に応じて上洛する。氏郷は人質を返して、彼の二人が提出した証文を持参し、これも同じく<ruby><rb>上洛</rb><rt>じょうらく</rt></ruby>した。政宗が必死を覚悟して、<ruby><rb>金箔</rb><rt>きんぱく</rt></ruby>を押した<ruby><rb>磔刑柱</rb><rt>はりつけばしら</rt></ruby>を馬の前に立てて上洛したのは此時の事で、それがしの<ruby><rb>花押</rb><rt>かきはん</rt></ruby>の<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>の眼の<ruby><rb>睛</rb><rt>たま</rt></ruby>は一月に三たび処を<ruby><rb>易</rb><rt>か</rt></ruby>えまする、此の書面の花押はそれがしの致したるには<ruby><rb>無之</rb><rt>これなく</rt></ruby>、と云い抜けたのも此時の事である。鶺鴒の<ruby><rb>眼睛</rb><rt>がんせい</rt></ruby>の<ruby><rb>在処</rb><rt>ありどこ</rt></ruby>を月に三度易えるとは、平生から恐ろしい細かい細工を仕たものだ。

政宗は<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如く証拠書類を全然否定して剛情に自分の罪を認めなかった。<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>の底の汚泥を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>み出すのは世態に通じたもののすることでは無い、と天明度の<ruby><rb>洒落者</rb><rt>しゃれもの</rt></ruby>の山東京伝は<ruby><rb>曰</rb><rt>い</rt></ruby>ったが、秀吉も<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に洒落者だ。馬でも牛でも熊でも狼でも自分の腹の内を通り抜けさせてやる気がある。人の腹の中が好いの悪いのと注文を云って居る<ruby><rb>絛虫</rb><rt>さなだむし</rt></ruby>や<ruby><rb>蛔虫</rb><rt>かいちゅう</rt></ruby>のようなケチなものではない。三百代言<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>に煩わしいことを以て政宗を責めは仕無かった。却って政宗に、一手を以って葛西大崎の一揆を<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>げよと命じた。或は是れは政宗が自ら請うたのだとも云うが、<ruby><rb>孰</rb><rt>いず</rt></ruby>れへ廻っても悪い役目は葛西大崎の<ruby><rb>土酋</rb><rt>どしゅう</rt></ruby>で、政宗の為に<ruby><rb>小苛</rb><rt>こっぴど</rt></ruby>い目に逢って終った。

此年の夏、南部の九戸左近政実という者が葛西大崎などのより規模の大きい反乱を起したが、秀次の総大将、氏郷の<ruby><rb>先鋒</rb><rt>せんぽう</rt></ruby>、諸将出陣というので論無く対治されて終い、それで奥羽は<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>の根が抜けたように全く平定した。氏郷は此時も功が有ったので、前後勲功少からずとて七郡を加増せられ、百万石を領するに至った。

多分九戸乱の済んだ後、天正十九年か二十年の事であったろう。前年の行掛りから何様も氏郷政宗の間が悪い。自分の腹の中で二人に<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>されては困るから、秀吉は加賀大納言前田利家へ<ruby><rb>聚楽</rb><rt>じゅらく</rt></ruby>での内証話に、大納言方にて仲を直さするようにとの依頼をした。利家も一寸迷惑で無いことも無かったろう。仲の悪い二人を一室に会わせて仲が直れば宜いが、却て何かの間違から<ruby><rb>角立</rb><rt>かどだ</rt></ruby>った日には、両虎<ruby><rb>一澗</rb><rt>いっかん</rt></ruby>に会うので、<ruby><rb>相搏</rb><rt>あいう</rt></ruby>たんずば<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>まざるの勢である。<ruby><rb>刃傷</rb><rt>にんじょう</rt></ruby>でもすれば喧嘩両成敗、氏郷も政宗も<ruby><rb>取潰</rb><rt>とりつぶ</rt></ruby>されて終うし、自分も大きな<ruby><rb>越度</rb><rt>おちど</rt></ruby>である。二桃三士を殺すの<ruby><rb>計</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>とも異なるが、一席の会合が三人の身の上である。秀吉に取っては<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いうことが起っても差支は有るまいか知らぬが、自分等に取っては大変である。そこで辞し度いは山々だったろうが、両人の仲悪きは天下にも<ruby><rb>不為</rb><rt>ふため</rt></ruby>であるという秀吉の言には、<ruby><rb>重量</rb><rt>おもみ</rt></ruby>が有って避けることが出来ぬ。是非が無いから、氏郷政宗を<ruby><rb>請待</rb><rt>しょうたい</rt></ruby>して<ruby><rb>太閤</rb><rt>たいこう</rt></ruby>の思わくを徹することにした。氏郷は承知した。政宗も太閤内意とあり、利家の扱いとあり、理の当然で押えられているのであるから<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>くことは出来ぬ。然し主人の利家は氏郷と大の仲好しで、且又免れぬ中の縁者である、又左衛門が氏郷<ruby><rb>贔屓</rb><rt>びいき</rt></ruby>なのは知れきった事である。<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に前年自分が氏郷を招いた前野の茶席の一件がある。如何に剛胆な政宗でも、コリャ<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>には、と思ったことで有ろう。けれども<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>に出席をことわる訳にはならぬ、虚病も<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>である。是非が無い。有難き仕合、当日<ruby><rb>罷出</rb><rt>まかりい</rt></ruby>で、御芳情御礼申上ぐるでござろう、と挨拶せねばならなかった。余り御礼など申上度いことは無かったろう。然し流石は政宗である、シャ、何事も有らばあれ、と参会を約諾した。

其日は来た。前田利家も可なり心遣いをしたことであろうが、これは又人物が大きい、ゆったりと肉つきの豊かなところが有って、そして実は中々骨太であり、諸大名の受けも宜くて徳川か前田かと思われたほどであるから、かかる場合にも<ruby><rb>坦夷</rb><rt>たんい</rt></ruby>の表面の底に行届いた用意を存して居たことであろう。相客には浅野長政、前田徳善院、細川越中守、金森法印、有馬法印、佐竹<ruby><rb>備後守</rb><rt>びんごのかみ</rt></ruby>、其他五六人の大名達を招いた。場処は勿論主人利家の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>で、高楼の大広間であった。座席の順位、人々の配り合せは、<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう時に於て非常に主人の心づかいの要せらるるものだ。無論氏郷を一方の首席に、政宗を一方の首席に、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby><ruby><rb>両立</rb><rt>りょうだて</rt></ruby>というところの、双方に甲乙上下の付かぬように請じて坐せしめた事だろう。それから自然と相客の<ruby><rb>贔負</rb><rt>ひいき</rt></ruby>贔負が有るから、右方贔負の人々をば右方へ揃え、左方贔負の人々を左方へ揃えて坐らせる仕方もあれば、これを左右<ruby><rb>錯綜</rb><rt>さくそう</rt></ruby>させて坐らせる坐らせ方も有る訳で、其時其人其事情に因って主人の用意は一様に定った事では有るまいが、利家が此日人々を<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>組合せて坐らせたかは分らない。但し此日の相客の中で、佐竹の家は伊達の家と争い戦った事はあるが元来が親類合だから、伊達が蒲生に対する場合は無論備後守は伊達贔負の随一だ。徳善院は早くから政宗と懇親である。細川越中守は蒲生贔負たること言うまでも無い。浅野弾正大弼長政は中々硬直で、場合によれば太閤殿下をも、狐に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれておわすなぞと<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>ることもある程だが、平日は穏便なることが好きな、物分りの宜い人であるから、氏郷贔負では有るが政宗にも同情を<ruby><rb>吝</rb><rt>おし</rt></ruby>む人では無い。有馬、金森、いずれも中々立派に一器量ある人々であり、他の人々も利家が其席を<ruby><rb>尊</rb><rt>たっと</rt></ruby>くして<ruby><rb>吾子</rb><rt>わがこ</rt></ruby>の利長利政をも同坐させなかった程だから、皆相応の人々だったに疑無い。主人利家に取っては自分の支持をするものが一人でも多いのが宜い訳だから、子息達も立派な大名である故同座させた方が万事に都合が好いのだが、そこは又左衛門利家そんなナマヌル魂では無い。両者の仲裁仲直りの席に、司会者の側の顔を大勢並べて両者を威圧するようにするのは<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>で、かかる場合万々一間違が出来れば、左方からも右方からも甘んじて刀を受けて、一身を犠牲にして、そして飽迄も双方を<ruby><rb>取纏</rb><rt>とりまと</rt></ruby>めるのを当然の覚悟とするから、助勢なんぞは<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って要せぬのである。

人々は座に直った。利家は一坐を見ると、伊達藤次郎政宗は人々に押つけられまじい面魂でウムと坐っている。それも其筈で、いろいろの<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>があった蒲生忠三郎を面前に<ruby><rb>扣</rb><rt>ひか</rt></ruby>えているのであるから。又蒲生忠三郎氏郷も、何をと云わぬばかりの様子でスイと澄まして居る。これも其筈だ。氏郷は「<ruby><rb>錐</rb><rt>きり</rt></ruby>、<ruby><rb>嚢</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>にたまらぬ風情の人」だと記されて居るから、これも随分恐ろしい人だ。厄介な人達の仲直りを利家は扱わせられたものだ。前田家の家臣の書いているところに拠ると、「其節御勝手衆も申候は、今日政宗の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>、大納言殿御屋にて無く候はば、まんをも<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>られ申すべく候、又飛騨守殿も少も〱左様の事<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>これなき仁にて、事も出来申候事も之有るべく候へども<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>」とある。まんとは<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>である。氏郷政宗二人の様子を<ruby><rb>饗応</rb><rt>きょうおう</rt></ruby>掛りの者の眼から見たところを写して居るのである。そこで利家が見ると、政宗は<ruby><rb>肩衣</rb><rt>かたぎぬ</rt></ruby>でいる、それは<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>い、脇指をさして居る、それも可いが、其の脇指が<ruby><rb>朱鞘</rb><rt>しゅざや</rt></ruby>の大脇指も大脇指、長さが壱尺八九寸もあった。そんな長い脇指というものが有るもので無い。利家の眼は<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>な恐ろしく長い脇指を指している政宗の胸の中を優しく見やった。ここを我等から政宗の器量が小さいように看て取ってはならぬ。政宗は政宗で、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>が政宗の好い処である。脇指は如何に長くても脅かしにはならぬ、まして一坐の者は皆<ruby><rb>血烟</rb><rt>ちけむ</rt></ruby>りの<ruby><rb>灌頂</rb><rt>かんちょう</rt></ruby>洗礼を受けている者達だ。だから其の恐ろしく長い大脇指は使うつもりで無くて何で有ろう。使うつもりである、ほんとに使うつもりであったのである。好んで此を使おうようは無いが、主人の挨拶、相手の出方、<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り間違ったら、おれはおれだ、の<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>がある。何十万石も捨てる、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>も捨てる、屈辱に生きることは嫌だ、遣りつけるまでだ、という所存があったのである。<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り立った魂は誰も<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>である。これが男児たる者の立派な根性で無くて何で有ろう。後に至っては政宗もずっと人が大きくなって、江戸の城中で徳川の旗本から一拳を食わせられたが、其時はもう「蟻、<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>に上る、観を害せず」で、殴った奴は蟻、自分は大きな白牡丹と納まりかえったのである。が、此時はまだ若盛り、二十六七、せいぜい二十八である。まだ泰平の世では無い、戦乱の世である。少しでも他に押込まれて男を棄てては生甲斐が無いのである。壱尺七八寸の大脇指は、珍重珍重。政宗は政宗だ、誰に遠慮がいろうか。元来政宗は又人に異った一気象が有った者で、茶の湯を学んでから、そこは如何に政宗でも時代の風には<ruby><rb>捲込</rb><rt>まきこ</rt></ruby>まれて、千金もする茶碗を買った。ところが其を<ruby><rb>玩賞</rb><rt>がんしょう</rt></ruby>していた折から、ふと手を滑らせて其茶碗を落した。すると<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>大々名でもハッと思うて胸ドッキリと心が動いた。そこで政宗は自ら<ruby><rb>慚</rb><rt>は</rt></ruby>じ自ら憤った。<ruby><rb>貴</rb><rt>たっと</rt></ruby>いとは云え多寡が土細工の茶碗だ、それに俺ほどの者が心を動かしたのは何事だ、エエ<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しい、と其の茶碗を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>って、ハッシ、庭前の石へ叩きつけて粉にして<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>ったということがある。千両の茶碗を叩きつけたところは<ruby><rb>些</rb><rt>ちと</rt></ruby><ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>が強過ぎるか知らぬが、物に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われる心を砕いたところは千両じゃ<ruby><rb>廉</rb><rt>やす</rt></ruby>いくらいだ。千両の茶碗をも叩ッ壊した其政宗が壱尺七八寸の叩き壊し道具を腰にして居る、何を叩き壊すか知れたものでは無い。そして其の<ruby><rb>対坐</rb><rt>むこうざ</rt></ruby>に坐って居るのは、古い油筒を取上げて三百年も後まで其器の名を伝えた氏郷である。片や割茶碗、片や油筒、好い取組である。

氏郷其日の<ruby><rb>容儀</rb><rt>ようぎ</rt></ruby>は別に異様では無かった。「飛騨守殿<ruby><rb>仕立</rb><rt>したて</rt></ruby>は雨かゝりの脇指にて候」とある。少し不明であって<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しくは分らぬ。が、政宗の如きでは無く、尋常に優しかったのであろう。主人はじめ其他の人々も無論普通礼服で、法印等<ruby><rb>法体</rb><rt>ほったい</rt></ruby>の人々は<ruby><rb>直綴</rb><rt>じきとつ</rt></ruby>などであったと思われる。何にせよ政宗の大脇指は目に立った。人々も目を着けて之を読んだろう。仲直り扱いの主人である又左衛門利家は又左衛門利家だけに流石に好かった。其大脇指に眼をやりながら、政宗殿にはだてなる御仕立、と挨拶ながら当てた。綿の中に何かが有る言葉だ。実に味が有る。又左衛門大出来、大出来。<ruby><rb>太閤</rb><rt>たいこう</rt></ruby>が死病の時、此人の手を押頂いて、秀頼の上を頼み聞えたが、実に太閤に頂かせるだけの手を此人は持っていたのだ。何とまあ好い言葉だろう、此時此場、此上に好い語は有るまい。政宗は古禅僧の<ruby><rb>徳山</rb><rt>とくさん</rt></ruby>の意気である、それも<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>におもしろい。然し利家は徳山どころではない、大禅師だ。「政宗は殊のほか当りたる体にて候」と前田の臣下が書いて居るが、如何に政宗でも、扱い役である利家に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>って此語を如何ともすることは出来無かったろう、殊のほか当ったに相違無い。然し政宗も悪くはなかった、遠国に候故、と云って謹んでおとなしくしたという。田舎者でござるから、というようなものだ。そこで盃が二ツ座上に出された。利家は座の中へ出て、殿下の意を伝え、諸大名も自分も双方の仲好からん事を望む趣意を挨拶し、双方へ盃を進め、酒礼宜しく有って、遂に無事円満に其席は終ってしまった。利家の威も強く徳もあり器量も有ったので上首尾に終ったのである、殿下が利家に此事を申付けられたのも<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっとも</rt></ruby>だった、というので秀吉までが<ruby><rb>讃</rb><rt>ほ</rt></ruby>められて、氏郷政宗の仲直りは済んだ。「だてなる御仕立」は実に好かった。「だて」という語は伊達家の衣裳持物の豪華から起ったの、朝鮮陣の時に政宗の臣遠藤宗信や原田宗時等が非常に大きな刀や<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>などを造ったから起ったのだなどと云うのは疑わしい。も少し古くから存した言葉だろう。

天正二十年即ち文禄元年、彼の朝鮮陣が起ったので、氏郷は会津に在城していたが<ruby><rb>上洛</rb><rt>じょうらく</rt></ruby>の途に上った。白河を越え、下野にかかり、遊行上人に道しるべした柳の陰に歌を詠じ、それから那須野が原へとかかった。<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる曠野、<ruby><rb>草莱</rb><rt>そうらい</rt></ruby>いたずらに茂って、千古ただ有るがままに有るのみなのを見て、氏郷は「世の中にわれは何をかなすの原なすわざも無く年や経ぬべき」と<ruby><rb>歎</rb><rt>たん</rt></ruby>じた。歌のおもては勿論那須野が原の世に何の益をもなさで今後も甲斐なく年を経るであろうかと歎じたのである。然し歌は顕昭<ruby><rb>阿闍黎</rb><rt>あじゃり</rt></ruby>の論じた如く、詩は祇園南海の説いた如く、其裏に汲めば汲むべき意の自然に存して居るものである。此歌を味わえば氏郷が身<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く老いんとして志未だ遂げざるをば自ら悲み歎じたさまが思い浮められる。それから佐野の舟橋を過ぎ信濃へ入ったところ、火を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つ浅間の山の煙は<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>漠々として天を焦して居る。そこで「信濃なる浅間の<ruby><rb>岳</rb><rt>たけ</rt></ruby>は何を思ふ」と詠み掛けたりなぞしている。自分が日頃胸を焦がして思うところが有るからであったろう。

肥前名護屋に在って<ruby><rb>太閤</rb><rt>たいこう</rt></ruby>に侍して居た頃、太閤が朝鮮陣の思うようにならぬを<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばずして、我みずから中軍を率い、前田利家を右軍、蒲生氏郷を左軍にして渡海しようと云った時、氏郷が<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に悦んで、人生は草葉の露、願わくは思うさま働きて、と云ったことは名高い<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>である。其事は実現し無かったけれども、氏郷の英雄の意気と、太閤に頼もしく思われた程度とは想察に余りある。氏郷が病死したのは文禄四年二月七日で、<ruby><rb>齢</rb><rt>よわい</rt></ruby>は四十歳で有ったが、其死後右筆頭の満田長右衛門が或時氏郷の<ruby><rb>懸硯</rb><rt>かけすずり</rt></ruby>を開いて、「朝鮮へ<ruby><rb>国替</rb><rt>くにかへ</rt></ruby>仰せ付けられたく、一類<ruby><rb>眷属</rb><rt>けんぞく</rt></ruby><ruby><rb>悉</rb><rt>こと〲</rt></ruby>く引率して彼地へ渡り、直ちに<ruby><rb>大明</rb><rt>だいみん</rt></ruby>に取って掛り、事果てぬ限りは帰国<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>るまじき旨の<ruby><rb>目安</rb><rt>めやす</rt></ruby>」を作り置かれしが、これを<ruby><rb>上</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>らるるに及ばずして御寿命が尽きさせられた、と歎じたという。これをケチな史家共は、太閤に其材能を忌まれたから、氏郷が自ら安んぜずして<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いう考を起したのであるというが、そんな<ruby><rb>蝨</rb><rt>しらみ</rt></ruby>ッたかりの秀吉でもない氏郷でもない、九尺<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>は九尺梯子で、後の太平の世に生れて<ruby><rb>女飯</rb><rt>おんなめし</rt></ruby>を食った史伝家輩は、元亀天正の丈高い人を見損う傾がある。

太閤が氏郷を忌んで、石田三成と直江兼続の言を用い、利休の弟子の瀬田<ruby><rb>掃部</rb><rt>かもん</rt></ruby>正忠に命じて毒茶を飲ませたなどと云うのは、実に<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しい。正忠の茶に招かれて、帰宅して血を<ruby><rb>咯</rb><rt>は</rt></ruby>いたことは有ろうが、それは病気の故で有ったろう。無い事に証拠は無いものであるから、毒を飼わなかったという証拠は無い訳だが、太閤が毒を飼ったということは信ぜられない。太閤が<ruby><rb>然様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことをする人とは思えないばかりで無い、然様なことをする必要が何処にあるであろう。氏郷が生きて居れば、豊臣家は<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って<ruby><rb>彼様</rb><rt>あんな</rt></ruby>にはならなかったろう。氏郷が利家と仲好く、利家は好い人物であり、氏郷と家康とは肌合が合わぬのであった。然様いうことを知らぬような<ruby><rb>寐惚</rb><rt>ねぼ</rt></ruby>けた秀吉では無い。或時氏郷邸で雁の汁の会食があって、前田肥前守、細川越中守、上田主水、戸田武蔵守など参会したことがあった。食後雑談になって、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し太閤殿下に万一の事があったら、天下を<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>するものは誰だろうということが話題になった。其時氏郷は、あれあれ、あの親父、と云って肥前守利長を指さした。利長の親父は即ち利家だ。利長は、飛騨殿は何を申さるるや、とおとなしい人だから笑った。皆々は<ruby><rb>些</rb><rt>ちと</rt></ruby>合点しかねた。で氏郷は、利家は武辺なり、北国三州の主なり、京都までの道すがらに足に障る者もなく、毛利は有りても浮田が遮り申す、家康<ruby><rb>上洛</rb><rt>じょうらく</rt></ruby>を心掛けなば此の飛騨が之有る、即時に喰付て箱根を越えさせ申すまじ、又諸大名多く洛に在りて事起らば、<ruby><rb>猶更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>利家の味方多からん、と云ったと云う。氏郷が家康に喰付けば、政宗が氏郷に喰付きもするだろうが、それは兎に角として、氏郷は利家<ruby><rb>贔屓</rb><rt>びいき</rt></ruby>であった。又他の場合にも氏郷は利家が天下を掟するに足ることを云い、前田殿を除きてはと問われたら、其時はおれが、と云ったので、徳川殿はと問う者が出たところ、<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の<ruby><rb>物悋</rb><rt>ものおし</rt></ruby>みめがナニ、と云った<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>が伝えられている。氏郷が家康を重く視ていず、又余り快く思っていなかったことは実際だったろう。秀吉も<ruby><rb>猜忌</rb><rt>さいき</rt></ruby>の念の無いことは無い。然し氏郷を除きたがる念があったとすれば、余程訳の分らぬ人になって、秀吉の価は大下落する。氏郷に毒を飼ったのは三成の<ruby><rb>讒</rb><rt>ざん</rt></ruby>に本づくと、蒲生家の者は記しているが、氏郷は下血を患ったと同じ人が記し、面は黄に黒く、<ruby><rb>項頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>、肉少く、目の下<ruby><rb>微</rb><rt>すこ</rt></ruby>し<ruby><rb>浮腫</rb><rt>ふしゅ</rt></ruby>し、其後<ruby><rb>腫脹</rb><rt>しゅちょう</rt></ruby><ruby><rb>弥</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>甚しかったと記してある。法眼<ruby><rb>正純</rb><rt>まさずみ</rt></ruby>の薬、名護屋にて宗叔の薬、又京の<ruby><rb>半井道三</rb><rt>なからいどうさん</rt></ruby>等の治療を受けたとある。一朝一夕の病気ではない。想像するに<ruby><rb>腎臓</rb><rt>じんぞう</rt></ruby>などの病で終ったのだろう。南禅寺霊三和尚の慶長二年の氏郷像賛に「可惜談笑中窃置<ruby><rb>鴆毒</rb><rt>ちんどく</rt></ruby>」の句が有ったとしても、それは蒲生の家臣の池田和泉守が氏郷の死を疑ったに出た想像に本づいたものであろう。下風の謡が氏郷の父の賢秀の上を笑ったのであろうとも、一族の山法師の崇禅院の事を云ったのであろうとも、何でも差支無いと同じく、深く論ずるに値せぬ。

<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の氏郷が自ら毒飼をされた事を知って、限りあればの歌を詠ずると、千利休が「降ると見ば積らぬさきに払へかし雪には折れぬ<ruby><rb>青柳</rb><rt>あをやぎ</rt></ruby>の枝」という歌を示して落涙したなどというのは余り面白くない演劇だ。降ると見ばの歌を聞いたとて毒を飼われて<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った後に何になろう。<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>其歌も講釈師が示しそうな歌で、利休が示しそうな歌ではない。氏郷の辞世の歌は毒を飼われたのを悟って詠じたと解せずとも宜かろう。二月七日に死んだのである。春の事であり、花を惜むことを詠んだので、其中おのずからに自ら傷んで居るのである。別に毒の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>などはせぬ。政宗をさえ羽柴陸奥守にして居る太閤が、何で氏郷に毒を飼うような卑劣狭小な心を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>とう。太閤はそんなケチな魂を有っては居ぬ人と思われる。ただ氏郷が寿命が無くて、朝鮮へ国替の願を出さずに終ったことは、氏郷の為に、太閤の為に惜んでも余りある。太閤は無論悦んで之を許した事であろうに。家康も家康公と云って然るべき方である、利家も利家公と云って然るべき人である、其他上杉でも島津でも伊達でも、当時に立派な<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り立った魂は少くないが、朝鮮へ国替の願を出そう者は、忠三郎氏郷のほかに誰が有ったろう。