Soranoha

奥間巡査

うくまぬじゅんさ

池宮城 積宝

琉球の那覇市の街端れに△△屋敷と云ふ特種「特種」はママ部落がある。此処の住民は支那人の子孫だが、彼等の多くは、寧ろ全体と云ってもよいが、貧乏で賎業に従事して居る。アタピースグヤーと云って田圃に出て行って、蛙を捕って来て、その皮を剥いで、市場に持って行って売る。蛙は那覇、首里の人々には美味な副食物の一つに数へられて居るのだ。それから、ターイユトウヤー(鮒取)サバツクヤー(草履造)、帽子編ボーシクマー…………さう云ふ職業に従事して居る。彼等は斯う云う賎業(?)に従事して居て、那覇市の他の町の人々には△△屋敷人やしちんちゆと軽蔑されて居ても、その日常生活は簡易で、共同的で、随って気楽である。

榕樹がぢまる、ビンギ、梯梧でいご、福樹ふくぎなどの亜熱帯植物が亭々と聳え、鬱蒼と茂り合った蔭に群った一部落。家々の周囲には竹やレークの生籬が廻らしてある。その家が低い茅葺で、穢むさくるしい事は云ふ迄もない。朝、男達が竿や網を持って田圃へ出掛けて行くと、女達は涼しい樹蔭に筵を敷いて、悠長で而かも一種哀調を帯びた琉球の俗謡を謡ひながら帽子を編む。草履を作る。夕暮になって男達が田圃から帰って来ると、その妻や娘達が、捕って来た蛙や鮒を売りに市場へ行く。それをいくらかの金銭に代へて、何か肴と一合ばかりの泡盛を買って、女達はハブに咬まれないやうに炬火たいまつを点とぼして帰って来る。男達は嬉しさうにそれを迎へて、乏しい晩飯を済ますと、横になって、静かに泡盛を啜すヽる。さう云ふ生活を繰り返して居る彼等は、自分達の生活を惨めだとも考へない。貧しい人達は模合むええ(無尽)を出し合って、不幸がある場合には助け合ふやうにして居る。南国のことで、冬も凌ぎにくいと云ふ程の日はない。斯うして彼等は単純に、平和に暮して居るのである。

だが、斯う云ふ人達にとっても、わが奥間百歳うくまぬひやあくうが巡査と云ふ栄職に就いた事は奥間一家の名誉のみならず、△△屋敷全部落の光栄でなければならなかった。支那人の子孫である彼等、さうして貧しい、賎業に従事して居る彼等にとっては、官吏になると云ふ事は単なる歓びと云ふよりも、寧ろ驚異であった。

そこで、奥間百歳が巡査を志願してると云ふ事が知れ渡ると、部落の人々は誰も彼も我が事のやうに喜んで、心から彼の合格を祈った。彼の父は彼に仕事を休んで勉強するやうに勧めた。彼の母は巫女ユタを頼んで、彼方此方の拝所ウガンジユへ詣って、百歳ひやあくうが試験に合格するやうにと祈った。百歳が愈々試験を受けに行くと云ふ前の日には、母は彼を先祖の墓に伴れて行って、長い祈願をした。

かうして、彼自身と家族と部落の人々の念願が届いて、百歳は見事に試験に合格したのである。彼と家族と部落民の得意や察すべしだ。彼等は半日仕事を休んで、百歳が巡査になった為の祝宴を催した。男達は彼の家の前にある、大きな榕樹の蔭の広場に集って昼から泡盛を飲んだり、蛇皮線を弾いたりして騒いだ。若い者は組踊の真似をしたりした。

それは大正△年の五月の或日の事であった。もう芭蕉布の着物を来ても寒くない頃だった。梯梧の赤い花が散り初めて、樹蔭の草叢の中から百合の花が、彼方此方に白く咲き出て居る。垣根には、南国の強い日光を受けて仏桑華ぶつそうげの花がパッと明るく燃えて居た。

男達が、肌を抜いて歌ったり、踊ったり、蛇皮線を弾いたりして居る周囲には、女達が集って来て、それを面白さうに眺めて居た。その騒ぎの中に、わが奥間百歳は凱旋将軍のやうに、巡査の制服制帽をつけ、帯剣を光らせて、何処から持って来たのか、珍らしく椅子に腰を掛けて居た。娘達はあくがれるやうな、また畏れるやうな眼付で、彼の変った凜とした姿を凝視みつめて居た。

かうして此の饗宴は夜更まで続いた。静かな夜の部落の森に、歌声、蛇皮線の響、人々のさざめき合ふ声が反響して、何時までも止まなかった。

奥間巡査は講習を終へると隔日勤務になった。彼は成績が良好な為め本署勤務を命じられた。それから彼は一日置きに警察署へ出て、家に居る時は大抵、本を読んで居た。家族は彼が、制服制帽をつけて家を出入するのが嬉しかった。さうして時々、家に来る人々が百歳が制服制帽で何処其処を歩いて居たと珍らしさうに話すのを聞くと、彼等は隠し切れない喜悦の感情を顔に表はした。さう云ふ人々はさも、彼に逢ふと云ふ事その事だけでも異常な事であるかのやうに喜んで話すのだった。さうして、中には、家の子供も将来は巡査になって貰はなければならないと云ふ者もあった。

月の二十五日には、百歳はポケットに俸給を入れて帰った。彼は初めて俸給を握る歓びに心が震へて居た。右のポケットに入ったその俸給の袋を固く握り乍ら、早足に彼は歩いた。家に着くと、彼は強いて落着いて、座敷へ上ってから、平気な風に、その俸給袋を出して、母に渡した。

「まあ」

と嬉しさうにそれを押し戴いて、母は中を検あらためて見た。さうして紙幣を数へて見て、

「ああ、千百五十貫(二十三円)やさやあ。」

と云った。俸給はそれだけあると聞いて居たが、彼女は現金を見ると、今更ながら驚いたと云ふ風であった。

二、三ケ月は斯うして平和に過ぎた。だが、家族はだんだん彼の心が自分達を離れて行くのを感じ出した。彼はまた、部落の若者達を相手にしなくなった。すると、部落の人々も何時とはなしに彼に対して無関心になって行った。今や彼の心の中には、巡査としての職務を立派に果すと云ふ事と、今の地位を踏台にして、更に向上しようと云ふ事の外に何物もなかった。

その上に彼はだんだん気難かしくなって来た。家に帰って来ると、始終、家が不潔だ、不潔だと云った。さうしてその為めに屡々厳しく妹を叱った。殊に一度、彼の同僚が訪ねて来てからは一層、家の中を気にするやうになった。彼が怒り出すと、どうしてあんなに温順おとなしかった息子が斯うも変ったらうかと母は目を睜みはって、ハラハラし乍ら、彼が妹を叱るのを見て居た。

それが嵩じると、彼は部落の人々の生活に迄も干渉を始めた。彼は或日祭礼のあった時、部落の人々が広場に集ったので、さう云ふ機会の来るのを待ち兼ねて居たやうに、その群衆の前に出て話を初めた。それを見ると、彼等は百歳が部落の為めに何か福音を齎らすのであらうと予期した。何故なら、彼等は、彼等の部落民の一人である所の奥間百歳を巡査に出したことに依って、彼等は百歳を通して「官」から何か生活上の便宜を得るであらうと予想して居たのだったから。――租税を安くして貰ふとか、道路を綺麗にして貰ふとか、無料で病気を治療して貰ふとか……さう云ふ種類の事を漠然と想像して居たのであった。

所が、彼の話はすっかり彼等の期待を裏切ってしまった。彼は斯う云った。

「毎日、怠らずに下水を掃除しなければならない。夏、日中、裸になる事を平気で居る者が多いが、あれは警察では所罰すべき事の一つになって居る。巡査に見付かったら科料に処せられるのである。自分も巡査である。今後は部落民だからと云って容赦はしない。われ〱官吏は「公平」と云ふ事を何よりも重んずる。随って、その人が自分の家族であらうと親類であらうと、苟も悪い事をした者を見逃すことは出来ない。」

さう云ふ種類の事を――彼等の間ではこれまで平気で行はれて居た事を――彼は幾つも挙げて厳しく戒めた。さうして最後に斯う云ふ意味の事を云った。

「それから、夜遅くまで飲酒して歌を歌ふ事も禁じられて居る。酒を飲む事を慎んで、もっと忠実に働いて、金銭を貯蓄して今よりも、もっと高尚な職業に就くやうにしなけれはならない。」

彼がだん〱熱を帯びて、声を上げて、こんな事を言ひ続けて居るのを部落民は不快さうな眼付で見て居た。彼等は、彼が彼等と別の立場にある事を感じずには居られなかった。祭礼が終って、酒宴が始ってからも、誰も彼に杯を献さす者はなかった。

時々、彼の同僚が訪ねて来ると、百歳はよく泡盛を出して振舞った。彼の家に遊びに来る同僚は可成り多かった。中には昼からやって来て、泡盛を飲んで騒ぐのが居た。どれもこれも逞しい若者で、話の仕方も乱暴だった。此の辺の人のやうに蛇皮線を弾いたり、琉球歌を歌ったりするのでなしに、茶腕や皿を叩いて、何やら訳の解らぬ鹿児島の歌を歌ったり、詩吟をしたり、いきなり立ち上って、棒を振り廻して剣舞をする者もあった。

おとなしい百歳の家族は、さう云ふ乱暴な遊び方をする客に対してはたヾ恐怖を感ずるばかりで、少しも親しめなかった。さうして、そんなお客と一緒に騒ぐ百歳を疎うとましく感ずるのであった。

部落の人々は巡査といふものに対しては、長い間、無意識に恐怖を持って居た。そこで、初めの中こそ百歳が巡査になった事を喜んだものの、彼の態度が以前とはガラリと違ったのを見ると不快に思った。その上に彼の家へ屡々、外の巡査が出入するのを烟たがった。その巡査達は蹣よろけて帰り乍ら、裸かになって働いて居る部落の人を呶鳴り付けたりした。そんな事が度重なると、彼等は百歳の家の存在をさへ呪はしくなった。部落の人達はあまり彼の家に寄り付かなくなった。

さう云ふ周囲の気分がだん〱百歳にも感ぜられて来た。さうなると彼は家に居ても始終焦々して居た。また途中で出逢った部落の人の眼の中に冷たさを感じると、自分の心の中に敵意の萠して来るのを覚えた。何となく除者のけものにされた人の憤懣いきどほりが、むら〱と起って来るのを、彼は如何ともする事が出来なかった。

それに、彼は此の部落の出身であるが為めに同僚に馬鹿にされて居ると感ずる事が度々あった。

「△△屋敷の人間」

さう云ふ言葉が屡々、同僚の口から洩れるのを聞くと、彼は顔の熱ほてるのを感じた。百歳には此の部落に生れて、この部落に住んで居る事が厭はしい事になった。

そこで、彼は家族に向って、引越の相談をしたが、家族はそれに応じなかった。長い間住み慣れた此の部落を離れると云ふことは、家族にとっては此の上もない苦痛であった。それは感情的な意味ばかりでなしに、生活の上から見ても、殊に模合や何か経済上の関係から見ても不利益であったので。

さうなると、百歳は自分が部落に対して感じ出した敵意を如何にも処置することが出来なかった。彼は寂しかった。と云って、彼は同僚の中には、ほんとうの友情を見出すことは出来なかった。彼の同僚は多くは鹿児島県人や佐賀県人や宮崎県人で、彼とは感情の上でも、これまでの生活環境でも大変な相違があった。さう云ふ人達とは一緒に、泡盛を飲んで騒ぐ事は出来ても、しみ〲と話し合ふ事は出来なかった。彼は署内で話をし乍らも、度々、同僚に対して、

「彼等は異国人だ。」

と、さう心の中で呟く事があった。彼等もまた、彼を異邦人視して居るらしいのが感じられて来た。彼は孤独を感ぜずには居られなかった。

それでも、彼の同僚が、彼の家に来て、泡盛を飲んで騒ぎ廻る事に変りはなかった。

その歳の夏は可成り暑かった。長い間、旱魃が続いた。毎日晴れ切った南国の眩しい日光が空一杯に溢れて居た。土や草のいきれた香が乾き切った空気の中に蒸せ返った。街の赤い屋根の反射が眼にも肌にも強く当った。――那覇の街の屋根瓦の色は赤い。家々の周囲に高く築かれた石垣の上に生えた草は萎えてカラ〱に乾いて居た。その石垣の中から蜥蜴とかげの銀光の肌が駛はしり出したかと思ふと、ついとまた石垣の穴にかくれた。午頃ひるころの巷ちまたは沙漠のやうに光が澱んで居た。音のない光を限り無く深く湛たゝへて居た。

その中に、如何かして、空の一方に雲の峯がむくり〱と現はれて、雲母の層のやうにキラ〱光って居るのを見ると、人々はあれが雨になればよいと思った。午後になって、夕日がパッとその雲の層に燃え付いて、青い森や丘に反射してるのを見ると、明日は雨になるかも知れないと予期された。明るく暮れて行く静かな空に反響する子供達の歌声が、慵ものうく夢のやうに聞えた。

アカナー ヤーヤ

ヤキタン ドー

ハークガ ヤンムチ

コーティ

タックワー シー

夕焼があると、何時でも子供達が意味の解らぬなりに面白がって歌ふ謡うたである。だが日が暮れ切ってしまふと、その雲の層は何処へやら消えて行って、空が地に近づいて来たやうに、銀砂子のやうな星が大きく光って居るのが見えた。

さう云ふ昼と夜とが続いて、百歳も草木の萎えたやうに、げんなり気を腐らせて居た。職務上の事でも神経を振ひ立たせ(る)程の事はなかった。何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じを感ずるともなく、感じて居た。

こんな気持に倦うみ切って居た或晩、彼は鹿児島生れの同僚の一人に誘はれて、海岸へ散歩に出た。

珊瑚礁から成って居る此の島の海岸の夜色は其処に長く住んで居る者にも美しい感じを与へた。巌が彼方此方に削り立って居るが、波に噛まれた深い凹みは真暗に陰って居た。渚に寄せて来る波がしらが、ドッと砕ける様が蒼い月光の下に仄白く見えた。何処か丘のあたりや、磯辺で歌って居る遊女の哀婉の調を帯びた恋歌の声が水のやうに、流れて来た。その声が嬌めかしく彼の胸を唆った。海の面から吹いて来る涼しい風は彼の肌にまつはりついた。彼の坐って居る前を、時々、蒼白い月光の中に、軽い相板トンピヤンらしい着物を纏った遊女の顔が、ぼんやりと白く泳いで行った。

その夜、散歩の帰りがけに百歳はその友達に誘はれて、始めて「辻」と云ふ此の市まちの廓へ行った。

高い石垣に囲まれた二階家がずっと連って居る。その中から蛇皮線の音、鼓の響、若い女の甲高い声が洩れて来た。とある家の冠木門を潜ると、彼の友達はトントンと戸を叩いて合図をした。するとやがて、

「誰方たあやみせえが。」

と云ふ女の声が聞えて、戸が開いた。女は友達の顔を見ると、二コリと笑って見せた。

「入いみそー、れー、たい。」

二人は「裏座うらざ」に導かれて行った。其処は六畳の間で、床には支那の詩を書いた軸物が掛って居るし、その傍には黒塗の琴が立てられてあった。片方の壁の前には漆塗りの帳箪笥が据ゑられて、真鍮の金具が新しく光って居る。その傍には低い膳棚ぜんだなが、これも未だ新しくて漆の香がとれないやうに見えた。その反対の側には六双の屏風が立てられて居るが赤い花の咲き乱れた梯梧の枝に白い鸚鵡おうむが止って居る画が描かれてあった。

百歳の眼には凡てのものが美しく珍らしく見えた。

やがて、女達が朱塗の膳に戴せて酒肴を運んで来た。二人が酒を酌み交して居る間、女達は蛇皮線を弾いたり、歌を歌ったりした。十四、五に見える美しい妓が赤いけばけばした模様の着物を着て出て来て、扇を持って舞ったり、薙刀なぎなたをもって踊ったりした。

百歳は始めの中はてれて居たが、泡盛の酔が廻ると、自分でも珍らしい程はしゃぎ出した。終に彼は冗談を云って女達を笑せたり、妙な手つきで其処にあった鼓を叩いたりした。

その夜、百歳は始めて女を買った。彼の敵娼に定ったのは、「カマルー小」と云って、未だ肩揚のとれない、十七位の、人形のやうに円いのっぺりした顔をした妓であった。何処となく子供らしい甘へるやうな言葉付が彼の心を惹いたのであった。だが、酒宴を止めて愈々、その妓の裏座に伴れて行かれた時、彼は流石に、酔が覚めて、何とも知れぬ不安が萠して来るのを覚えた。彼は火鉢の猫板に凭りかかって、女が青い蚊帳を吊ったり、着物を着換てるのを、見ぬ振をして見て居た。着物を着換てる時、女のむっくり白く肉付いた肩の線が、彼の視線に触れた。しなやかな長い腕の動きが、彼の睚眦まなじりに震へを感じさせた。

薄い寝巻に着換へた女は、蚊帳の吊手を三方だけ吊った儘、彼の側へ寄って来た。彼は黙って土瓶の水を茶碗に注ついで飲んだ。女は団扇を取り上げたが、扇ぎはせずに、矢張り火鉢に凭りかゝって、火鉢の中の白い灰を見入って居た。時々、女が深く息を吐つくのが、彼の耳に聞えて居た。

翌朝、彼は青い蚊帳の中に、女の側に寝て居る自分を見出した。軽い驚駭と羞恥と、横隔膜の下からこみ上げて来る喜悦とを一緒に感じた。然し、女が眼を覚ましてからは、極り悪い感じをより多く感じた。「仲前なかめえ」まで、女に送られて、

「また、明日あちやあん、めんそーり、よー。」

と云はれた時、彼は何物かに逐はれるやうな気持がして、急いで其処を出ると、人通りの少ない路次を通って家へ帰った。その日は家の人に顔を見られるのも極り悪い思ひがした。彼は何でもない事だと思ひ返さうとしても、如何しても、自分が悪い事をしてしまったやうな感じがするのを打ち消す事は出来なかった。

もう二度と行くまいと思ったが、彼は友達に紹介されて、その女を買ったので、未だ女に金銭をやってはなかった。その金銭だけは持って行ってやらなければと考へて、その月の俸給を貰った晩、彼はそっと一人で、その女の居る楼うちに行った。彼は女の「裏座」に入ってから、碌に話もしないで、立て続けにお茶を二、三杯飲むと、(琉球人は盛んに支那茶を飲む)極り悪さうに、財布から五円札を一枚出して、女に渡した。女はそれを手にも取らないで、彼が帰りたさうにして居るのを見て取って、彼を引き留めた。恰度、其処へ入って来た女の朋輩も、

「遊あしびみ、そーれー、たい。」

と云って一緒に彼を引き留めた。とう〱彼はその晩も其処で泡盛を飲んで、女の「裏座」に泊った。

百歳は翌日、家に帰った時、母に俸給の残り十八円を渡して、後の五円は郵便貯金をしたと云った。さうして彼は母に、郵便貯金とは斯様々々のものであると云ふ事を可成り悉しく話した。母は黙って領いて居た。

それから百歳は行くともなしに、二、三遍、女の所へ行った。逢ふ事が度重なるに随ってその女の何処となしに強く彼を惹き付ける或物を感じた。それは女の、柔かい美しい肉体だか、善良な柔順な性格だか、或ひは女の住んで居る楼の快い、華やかな気分だか、彼には解らなかった。彼はたゞ、磁石のやうに女に惹き付けられる気持をだん〱判然はつきり、感じて来た。

その女は――カマルー小は、田舎では可成り田地を持って居る家の娘だったが、父が死んでから、余り智慧の足りない兄が、悪い人間に欺されて、さま〲の事に手を出して失敗した為め、家財を蕩尽した上に、少からぬ負債を背負ったので、家計の困難や、その負債の整理の為めに、彼女は今の境涯に落ちたと云ふ事であった。さう云ふ話をする時の彼女は、初めに見た時とは違って、何処となくしんみりした調子があったが、それが却って百歳に強い愛着を感じさせた。

その歳は長い旱魃が続いた為めに、一般に景気が悪かった。随って此の廓でも、どの楼でも客が途絶え勝ちであった。カマルー小の所に通って来る客も二、三人しかなかったが、その客もだん〱足が遠くなって行った。その女を訪ねて行くと、百歳は何時でも、「仲前なかめえ」で彼の来るのを待ち兼ねて居る彼女を見出した。彼は、女がさう云ふ態度を見せるに随って、自分の愛着がだん〱濃かになって行くのを感じながら、それを抑制しょうとする気も起らなかった。

百歳は次の月の俸給日の晩には、女の楼へ行くと、思ひ切って十円札二枚をカマルー小の手に渡した。女はそれを見ると

「こんなに沢山貰っては、貴方がお困りでせう。一枚だけでいいわ。」

と、さう云って、後の一枚を押し返すやうにした。百歳は、

「貰っとけよ。もっとやる筈だが、また、今度にするさ。」

と云って、彼はその札を女の手に押し付けた。

翌日、家へ帰ると、彼は母に、今月の俸給は、非常に困って居る同僚があったので、それに貸してやった。が、来月は屹度返して呉れるだらうと云った。さう云ふ時、彼は顔が熱って、自分の声が震へるのを感じた。母は不審さうな眼付で彼の顔を視て居たが、何にも云はなかった。

その月、九月の二十七日の午後から、風が冷たく吹き出した。百歳は警察で仕事をし乍ら、雨でも降り出すかと思ってる所に、測候所から暴風警報が来た。

「暴風ノ虞アリ、沿海ヲ警戒ス」

石垣島の南東百六十海里の沖に低気圧が発生して北西に進みつゝあると云ふのであった。

夕方から風が吹き募った。警察署の前の大榕樹の枝に風の揺れて居るのが、はっきり見えた。雀の子が遽しく羽を飜かへルビの「かへ」はママして飛び廻った。柘榴の樹の立ってるあたりに黄ろい蜻蛉がいくつとなく群を成して、風に吹き流されて居た。街の上を遠く、かくれがを求めて鳴いて行く海烏の声が物悲しく聞えた。

百歳はその晩、警察で制服を和服に着換へて女の楼うちに行った。女達は暴風雨の来る前の不安で、何かしら慌だしい気分になって居た。其処らの物が吹き飛ばされないやうに、何も彼も家の中に取り入れた。

日が暮れて間もなく、風と一緒に、ザッと豪雨が降り出した。戸がガタ〱鳴って、時々壁や柱がミシリ〱と震へた。電燈が消えてしまったので、蝋燭を点してあったが、仄暗いその火影に女の顔は蒼褪めて見えた。女は戸が強くガタン〱と鳴り出すと、怯おびえたやうに、

「如何ちやあん、無ねえんが、やあたい。」

と云って彼に寄り添そうた。ヒューッと風がけたたましく唸るかと思ふと、屋根瓦が飛んで、石垣に強く打突ぶつつかって砕ける音がした。

暴風雨は三日三晩続いた。彼は中の一日を欠勤して三晩、其処に居続けた。烈しい風雨の音の中に対むかひ合って話し合ってる中に、二人は今迄よりは一層強い愛着を感じた。二人はもう一日でも離れては居られない気持がした。彼は、何とかして二人が同棲する方法はないものかと相談を持ち出したが、二十三円の俸給の外に何の収入もない彼には結局如何にもならないと云ふ事が解ったばかりであった。彼は金銭が欲しいと思った。一途に金銭が欲しいと思った。

その時、彼には女の為めに罪を犯す男の気持が、よく解るやうに思はれた。自分だって若し今の場合、或る機会さへ与へられたら――さう思ふと彼は自分自身が恐ろしくなった。

四日目に風雨が止んだので、彼は午頃女の楼を出て行ったが、自分の家へ帰る気もしなかったので、行くともなしに、ブラ〱とその廓の裏にある墓原へ行った。

広い高台の上に、琉球式の、石を畳んで白い漆喰を塗った大きな石窖いしむろのやうな墓が、彼方此方に点在して居た。雨上りの空気の透き徹った広い墓原には人影もなく寂しかった。

彼は当途もなく、その墓原を歩いて居た。

所が、彼が、とある破風造りの開墓あきはかの前を横切らうとした時、その中で何か動いて居る物の影が彼の眼を掠めた。彼が中をよく覗いて見ると、それは一人の男であった。彼は突如いきなり、中へ飛び込んで行って男を引き擦り出して来た。その瞬間に、今までの蕩児らしい気分が跡方も無く消え去って、すっかり巡査としての職業的人間が彼を支配して居た。

「旦那さい。何ぬーん、悪事やなくとお、為さびらん。此処くまんかい、隠かくくゐていど、居をやびいたる。」

彼が無理無体に男の身体を験しらべて見ると、兵児帯に一円五十銭の金銭をくるんで持って居た。彼は、的切てつきりり「的切てつきりり」はママ窃盗犯だと推定した。男に住所や氏名を聞いても決して云はなかった。たゞ、

「悪事やなくとお、為さびらん、旦那だんなさい。」

と繰り返すばかりであった。彼はその男を引き擦るやうにして警察署に引張って行った。

彼はその男を逃すまいと云ふ熱心と、初めて犯人を逮捕して来たと云ふ誇りで夢中になって居た。まるで犬か何かのやうに其の男を審問室に押し込めると、彼は監督警部の所へ行って報告した。熱い汗が彼の額から両頬へ流れた。

彼の報告を聞くと監督警部は軽く笑って、

「ふむ、初陣の功名ぢゃな、御苦労だった。おい、渡辺部長。」

と、彼は一人の巡査部長を呼んで、その男を審問するやうにと命じた。

奥間巡査は、その部長が審問する間、傍に立会ってそれを聞いて居た。さうして部長の審問の仕方の巧妙なのに感心した。彼はその男が本当の窃盗犯であって呉れゝばよいと思った。若し此の男が何の罪も犯して居なかったら、自分の不手際を表はす事になる。さう云ふ不安が時々、彼の心を掠めた。然し審問の進むに随って、その男が窃盗を働いてると云う事が解って来た。男はとう〱斯う云ふ事を白状した。

「自分は△△村の物持ものもちの息子であったが、色々の事に手出しをした為めに失敗して田畑を売り払った。素からの貧乏人でも窃盗でもない。然し自分の家が零落した上に、不作続きの為めに生活が苦しくなったので、大東島へ出稼人夫になって行く為めに、那覇へ来たのであるが、医師の健康診断の結果、何か伝染病があると云ふので不合格になった。(多分肺結核であらう。男は話をし乍らも、何遍も咳入った)そこで仕方なしに、那覇で仕事の口を捜さうとしてる中に有金を使ひ果はたして宿屋を逐ひ出された。それから当途もなく街を歩いてる中に、あの嵐になったのでかくれがを探して、あの開墓に入った。その中にあんまり餓ひもじくなったので、今朝、雨が小止みになったのを幸ひ、その開墓を出て街に行った。さうして水を貰ふ為めに、ある酒店に入らうとした時、其処の酒樽の上に紙幣のあるのを見て、ふと、我れ知らず、それを盗み取ったのである。然し、その紙幣を手に取ると急に恐ろしくなったので、後をも見ずに、また、あの開墓に逃げ込んだ。決して自分はもとからの窃盗ではない。自分の妹は辻に居て立派な娼妓になって居る。自分も妹の所へ行きさへすれば何とか方法も就くのだったけれど、あまり服装が悪かったので、妹の思惑を恐れて行かなかったのである。もう二度とこんなことは致しませんから、どうぞ赦して下さい。」

男はさう云ふ意味の事を田舎訛りの琉球語で話して居る中に、だん〱声が震へて、終には涙が彼の頬を流れた。

「旦那だんなさい、赦ゆるちくゐみ、そーれー、さい。」

さう云って男は頭を床ゆかに擦すり付けた。

部長はそれを見ると勝ち誇ったやうに、笑声を上げた。

「奥間巡査、どうだ。正に君の睨んだ通りだ。立派な現行犯だよ。ハッハッハッ」

然し、奥間巡査は笑へなかった。息詰るやうな不安が塊のやうに彼の胸にこみ上げて来た。

部長はきつい声で訊いた。

「それで、お前の名前は何と云ふのだ。」

男はなか〱名前を云はなかった。奥間巡査は極度の緊張を帯びた表情で、その男の顔を凝視めた。すると思ひ做しか男の顔が、彼の敵娼の、先刻別れたばかりのカマルー小の顔に似て居るやうに思はれた。

部長に問い詰められると、男はとう〱口を開いた。

「うう、儀間樽ぎいまたるーでえびる。」

奥間巡査はぎくりとした。

男は名前を云ってしまふと、息を吐ついて、それから、自分の年齢も、妹の名前も年齢も住所も話した。さうして、彼はまた赦して呉れと哀願した。

男は奥間巡査の予覚して居た通り、カマルー小の兄に違ひなかった。彼は此の男を捉つかまへて来たことを悔恨した。自分自身の行為を憤ふる気持で一杯になった。先刻、此の男を引張って来た時の誇らしげな自分が呪はしくなった。その時、部長は彼の方を向いて云った。

「おい、奥間巡査、その妹を参考人として訊問の必要があるから、君、その楼うちへ行って同行して来給へ。」

それを聞くと、奥間巡査は全身の血液が頭に上って行くのを感じた。彼は暫時の間、茫然として、部長の顔を凝視みつめて居た。やがて、彼の眼には陥穽かんせいに陥おちた野獣の恐怖と憤怒ふんどが燃えた。(完)

底本 / Source edition

底本:「池宮城積宝作品集」ニライ社
1988(昭和63)年4月1日発行
入力:大野晋
校正:松永正敏
2002年1月3日公開
2005年11月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/002689_000868/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/002689_000868/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/002689_000868/

池宮城 積宝「奥間巡査」(新字旧仮名)、底本『池宮城積宝作品集』ニライ社、1988年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002689_000868, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite