Soranoha

アンドロギュノスの裔

アンドロギュノスのちすじ

渡辺 温

――曾て、哲人アビュレの故郷なるマドーラの町に、一人の魔法をよく使う女が住んでいた。彼女は自分が男に想いを懸けた時には、その男の髪の毛を或る草と一緒に、何か呪文を唱えながら、三脚台の上で焼くことに依って、どんな男をでも、自分の寝床に誘い込むことが出来た。ところが、或る日のこと、彼女は一人の若者を見初めたので、その魔法を用いたのだが、下婢に欺かれて、若者の髪の毛のつもりで、実は居酒屋の店先にあった羊皮の革袋から毮り取った毛を燃してしまった。すると、夜半に及んで、酒の溢れている革袋が街を横切って、魔女の家の扉口迄飛んで来たと云うことである。

頃日読みさしのアナトール・フランスの小説の中にこんな話が出ていた。

魔女の術をもってしても、なお斯の如きままならぬためしがある。

だが、たとえば、アメリカの機械靴の左右を合わせるのに、ほんの寸法だけで左足の堆積やまと右足の堆積とから手当り次第に掴み取りして似合の一対とするように、人間が肢を八本もっていたアンドロギュノスの往古むかしに復かえり度い本能からばかりならば、幾千万の男と幾千万の女との適偶性プロバビリイティもまた幾千万と云わなければならない。思うに天のアフロバイテを讃える恋の勝負は造化主の意思の外にあるのであろう。神さまは、ただ十文半の黄皮の短靴の左足は十文半の黄皮の短靴の右足こそ応ふさわしけれ、と思し召すだけに違いない。

男と女。男と女。――たった二種類しかない人間が、何故せつない恋に身を焦がしたりしなければならぬのであろうか?

*

Y君が片恋かたおもいをした。

相手は比の頃、ベルクナルにも劣るまいと評判の高い活動写真の悲劇女優である。

それに引きかえてY君は、第三十騎兵連隊勤務の一等安手の下士官の身分に過ぎないのだから、この恋に到底望みのなさそうなことを杞虞する程の己惚れさえも持ち合わせない。はじめは当り前のファンで、週末の休み日毎に、たとい二度三度見直す同じ狂言であろうとも、きまって彼女の出る映画ばかりを漁っている中に、だんだん彼女の何時も深い愁かなしみに隈どられた面輪が、頭の中のスクリインに大写しのようにいっぱいに映ったまま消えなくなったのである。

こんな身の程を弁えぬ恋をしてしまったことは、容易ならぬ不幸せだ――とY君は考えた。一生、ひそかに恋わたっているだけのことで、それでもいいのだろうか?

だが、それ以上、Y君にはどう思案するすべもなかった。

さて、偶たまたま、或る休み日に、彼女の映画が市内の何処の活動小屋にも掛っていなかったのである。そこで、Y君は諦めがたく、夕景頃から、彼女の住居のあたりを散歩してみたい気持に誘われた。Y君は、俳優名鑑に依って、夙に彼女の身元位は諳んじていたのだから。

悲劇女優の住居は、公園の松林の中の大きな池の辺にあった。窓に菫色の日覆を取り付けた簡素な木造の二階家が、丈の高い松の木立ちと一緒に、池の面に姿を映していた。Y君は水際のベンチに腰を下すと、長いサーベルの柄頭に両手を重ね、その上に頤を載せて深い溜息を吐いた。

Y君は一時間もそんな風にじっとしていた。スクリインやエハガキの上に空しい想いをつのらせているのに比べれば、遣る瀬なさなり不安なり、はるかに本物らしい恋慕の情がはげしく胸をふくらませるのであった。直に水の上の日ざしが薄れて、松の梢に夕風が鳴った。やがて、カタンと窓の開く音がした。Y君はとても真面まともに家を見上げる勇気がなかったので、池の中を覗き込んだ。日覆を取り外しているらしい白い顔が小さく揺いでいた。Y君は軍服の背中じゅうを硬わばらせた。窓のその白い顔は、ちょっとY君の方を見ただけで、すぐまた奥へ隠れてしまった。犬を呼んでいる男の子の声がした。しばらくすると、二階でピアノが鳴り初めた。チャイコフスキイのバルカロレである……

Y君は、それからまた一時間も、じっとそのまま動かずにいた。

もうすっかり夜になった。

やさしい窓に薔薇色の灯がついた。

そして薄いレースの窓帷カーテンを時々優雅な人影が横切った。

公園にはアーク・ライトがともった。夜の女の群れが、その中を近づいて来た。

『ちょいと、意気な龍騎兵の士官さん。あたし未だやっと十三になったばかりなのよ――』と、抜け落ちてしまって一つかみにも足りない髪を、大きな鴇色のリボンで結んだ女が云った。

Y君は、そこで、もうこちらの姿を見咎められるおそれもなかったので、威勢よく立ち上がって、窓に向って別れの敬礼をすると、剣と拍車とを鳴らしながら帰って行った。……

Y君の休日の日課があらためられた。恋いとしい人の映画が掛っている時なら、それを見に行くことは云う迄もないが、それは必ず昼の中に切り上げて、夕方からは彼女の住居をよそながら眺めるために、公園へ散歩することにきめた。

久しいことこの習慣が根気よく保たれた。

雨降りの休み日が二十一度、その中六度は外套を透して、長靴の中へ流れ込む程の豪雨であった。そんな時には、無論窓にいかめしい目かくしが下りていた。

霧のために窓の灯が見別け難かったことが十三度。

風のあまり吹かない地方なのだが、それでも池の水が波立って、四辺の景色を映さなかった日が一ダース。

散歩季節の夕月の美しい時分には、沢山の散歩者から自分をあきらかにするために、ハーモニカで時花節はやりうたなどを奏した。(ハーモニカにかけては、Y君は隊内随一の名手であった)

愛情の故には、どんな大胆な振舞いに出ようと、たとえ恋人の家の扉の前に寝ようと、恥にもならぬし、また咎められるようなこともない。すべて恋をする者の行為には、一種優美な趣が加っているものである。――Y君もまたプラトオンの「饗宴シンポジュウム」を愛読した折があって、パウサニアスの愛の論議に信頼していたので、容易に勇気を挫かなかった。

ただ雨よりも霧よりも一番Y君を閉口させたのは、例の夜の女の群れであった。殆んど天上なるものへの思慕の如く一途に汚れなきこの恋の精進を、みにくい悪魔の誘惑に邪さまたげられることが堪えられなかった。Y君は、何時でも、彼女たちの当のないあぶれた足音が歩道の上を近寄って来ると、甃石に唾をはきつけて退却した。

ところが、その運命的な休みの一日、未だそんなに遅くない刻限で、ようやく暮れなずんだ水の色を見つめながら、Y君は池の縁の柔らかい草むらに足を投げ出していた。すると、だしぬけに、そっとY君の両肩につかまった者があった。振向いて見ると、一目でそれと判るような、小綺麗なエプロンを胸にかけた可愛らしい女中が、悲しそうな顔に何か訴えたいような風情を示しているのであった。

『どうなすったのですか、お嬢さん?』と恋の修道士は訊ねた。

『あなた、あなた、あなたは、まさか、この池に身を投げて、お果なさるおつもりではないでしょうね?――』と娘は、吃りながら云うのであった。

『さあ?――』とY君は訊き返した。

『あなたは、きっと、此処の――』と娘は悲劇女優の家の方を指さしながら、『此処の邸の者に恋をしていらっしゃるのですわね。いいえ、もう、すっかり存じて居りますわ。それに、その事がいけなかったなんぞとは、ちっとも未だ申し上げませんもの。決して、御心配なさるには及びません。』

『いや、僕は、そ、それでも――』

Y君は我にもなく面喰ってしまったのである。

『さ、どうぞ、はっきり仰有って下さいまし。こんなに長い月日の間、あなたが恋こがれていらした女は、此処の家の誰なのですか?』

『あなたは、何だって、そんな莫迦な物の訊き方をなさるのです?』

『莫迦なですって? まあ、飛んでもない。妾は、あなたのその飛びはなれた執心のお蔭で、この邸をたった今追い出されたばかりなのですからね。』

『いやはや、どうも、僕には信じ兼ねます。』

『お解りにならないのですか? つまり、こうなのです。――あなたを一番初めに見付けたのは、お嬢さまなのです。御存知でしょうね、世界中でレデレルの相手役をして見劣りがしないのは、家のお嬢さまたった一人だと云うんですからね。お嬢さまは何度も何度も、休み日にはきまって、あなたが同じような恰好で此処のところに坐っていらっしゃるのを見かけたのです。お嬢さまは、間もなくお覚りになりました。そして或る日爺やさんに「あの兵隊の襟章を見て来ておくれ」と云いつけたのです。爺やさんが橙色だと云うことを確めて来ると、お嬢さまは「第三十騎兵連隊の下士だわねえ。龍騎兵の将校さんででもあれば、ともかく――屹度、家の女中に恋しているのに違いない」と仰有いました。それから、女中達がみんな一人一人きびしい吟味を受けたのですけど、誰も名告って出る者がないのです。お嬢さまは、誰よりも一番妾を疑いました。それと云うのは、他の女中達はみんな不器量で、見初められそうなのは一人もいなかったからですわ。でももとより妾自身の方には少しも覚えのないことだし、妾はあくまでも知らないと頑張り通しました。すると、お嬢さまは、相手が縦令たとえどんなに取るに足らなそうな男でも、そのひたむきな純潔な愛は天地にかけ更えもない優美な貴いものだ――その愛情にほだされない様な女は永遠に真実の愛に祝福される機会を取り逃がす不幸せな女だ、と仰有って、しまいには泪さえ流して、あなたのために弁護なさいました。そして、挙句の果に大そう御機嫌を害ねて、到頭今日限り妾はお払い箱になってしまったのです。人の情を知らない冷酷な女だって……妾、一体、どうすればよろしいのでしょう。……』

『どうするって……』

Y君は、恥かしさのあまり、本当にこの女中の見ている前で、池の中へ飛び込んでしまいたい程だった。

『ですから、あなたが、やっぱり恋をなすっていらっしゃるのが事実なら、その相手をはっきり仰有って頂き度いのですわ。殿方からそんなに強く愛されることが、どんなに幸せか、そりゃあ、妾にしたって解り過ぎる程解って居ますわ。でも、何しろ、肝心な妾の方にはそんな心当りはちっともないのですし、ひょっとそんな闇雲な己惚れを出して、それこそ如何な辛い恥をかかなければならないかも知れないし。……それに、お嬢さまは、ああ仰有るものの、下士官が天下の名女優に恋をしていけない道理もありませんわ。』

『いやいや、飛んでもない。そんな大それた願いを、どうして僕が抱くものでしょうか。は、は、は、は……』Y君は、自分がみじめなピエロに過ぎないことを感じた。

『それでは、まさか――』娘は眼を瞠った。

『そうです、野菊のように可愛らしい娘さん。僕の想いを寄せる女が、貴女の外にあって堪まるものですか! 神かけて、嘘ではありませんよ、僕のベアトリイチェ。……ごめんなさい。何てお呼びすればよろしいのでしょうか?』

『そうよ。ベアトリイチェ。……でも、あなた、どうして妾を知っているの?』

娘は白々とアーク・ライトに濡れながら、不意に泪ぐんだ。

『初め、あなたが、窓の日覆いを外そうとしていたところを、偶然通りすがって、見そめてしまったのですよ。僕は直ぐ夢中になる性分なんです。僕は毎晩のように、あなたの夢を見て、あなたの名を――「僕のいとしい女中さん」と寝言に呼んで、隊中の者から揶からかわれました。……』Y君は、そんな風に云いながら、娘の肩に腕を廻した。

娘は鳥渡の間、傍を向いて、まるでひどく気を悪くでもしたかのような表情を浮かべたが、直ぐに肩をゆすぶらして哂わらった。

『窓の日覆いを外していたの? それ、ほんとに妾だったこと? 人違いじゃなくって? 大丈夫?』

『間違いあるもんですか。それから、僕は、あなたが、裏木戸のところで犬を呼んでいるのを見かけたことだってあるんですぜ。』

『まあ!――嬉しいわ。』

二人はそこで接吻をした。

例の辻君たちが通りかかったが、恋人同志だと気付くと、エヘン! と咳払いを浴せながら行き過ぎた。

二人は立ち上がった。

『妾の伯母さんの家へ行きましょう。何時でも帰れるように、妾のお部屋が別にあるの。ちっとも気兼ねなんか要らないわ。』

『たった今約束したばかりで、もうそんな真似をしてもいいのかしら――』Y君は遉にびっくりした。

『なあに? 誰がお泊んなさいって云って? ――可笑しい人ねえ。でも、大丈夫。泊めて上げてよ。』

Y君と娘は楽しく腕を組み合わせながら。公園を抜けると、空車を拾って乗った。伯母さんの家と云うのは、暗い山の手町にある下等な下宿屋の一軒だった。そこの狭い階段を娘に手を引かれながら上がる時、上の方から降りて来た病気持ちらしい醜い大年増が、すれ違いざまに娘の耳を引っぱって笑った。Y君はその女が、公園で最初の夜に、自分に云い寄った鴇色のリボンの女に似ているような気がしてならなかった。

『伯母さん?』

『ええ、そう――』

Y君はいきなり娘の手をふりもぎって、戸外へ走り出し度くなったのを漸く我慢した。方々の扉の隙間から、風体の悪い下宿人共が羨ましそうにY君を眺めていた。

『ベアトリイチェや、帳場へ行って電話をかけて来ておくれ。』とY君は突然思い付いたように云った。

『中央区、二千七百九○番――お嬢さんにお休みなさいまし、とね。それだけで、いいんだよ。』

『あら、お安くないわね。何処のお嬢さん?』

『君なんか知る必要のない人さ。とにかく、それだけ取次いでくれたまえ。こちらの名は、ピアノの先生でもお医者でも撮影所の小使でも何でもいい。……』

Y君は、娘が出て行ってしまうと、さて寝台の上に引っくり返って、ありったけ大声で笑ってみた。

それから、鏡台の上の酒を択んで、幾杯も幾杯も立てつづけに祝盃を上げた。青春との別れのために……

翌朝。

軍服にブラシをかけてくれる女にY君はきいた。

『一体、いくら上げればいいのだろうね?』

すると、女は嬉しそうに微笑してみせた。

『いいえ、いくらでもないの。――あなたを口説き落すことは、もう永いこと、あたしたちの賭けだったんですもの。……』

Y君は、併し、幾許も入ってはいなかったが紙入れごと、彼女の手の中に握らせて帰った。

Y君は、それから間もなく、小さい時から知り合いの、帽子工場に働いている娘と結婚して、最も善良な夫になったと云う。

底本 / Source edition

底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1929年8月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2001年10月30日公開
2007年10月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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渡辺 温「アンドロギュノスの裔」(新字新仮名)、底本『アンドロギュノスの裔』薔薇十字社、1970年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002571_000020, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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