僕は僕の下宿の路次の

僕の薄暗い穴から出た。

そして直ぐ<ruby><rb>左隣</rb><rt>ひだりどなり</rt></ruby>の家の

硝子戸をそつと押して<ruby><rb>入</rb><rt>はい</rt></ruby>つた。

階下の<ruby><rb>廊</rb><rt>らう</rt></ruby>の<ruby><rb>左側</rb><rt>ひだりがは</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>から

<ruby><rb>門番</rb><rt>コンシエルジユ</rt></ruby>のお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>顔</rb><rt>かほ</rt></ruby>が<ruby><rb>僕</rb><rt>ぼく</rt></ruby>を<ruby><rb>見</rb><rt>み</rt></ruby>て<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほヽえ</rt></ruby>んだ、

僕の顔も<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほヽえ</rt></ruby>んだ。

僕は<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ狭い中庭へ出た。

四方を高い建物で<ruby><rb>劃</rb><rt>しき</rt></ruby>られて、

井戸の底へ落ち込んだやうな処だ。

正面に入口の石段があつて、

此中庭から此家の六層の階段が始まる。

僕は之を昇らうとする度に

何時も、入口の石段で

ちよいと軽く気を入れながら、

立ち止りもせずに

ぐん〱と昇つて行く。

階段を一つ<ruby><rb>曲</rb><rt>まが</rt></ruby>る<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に

狭い中庭へ向いて附いた硝子窓が

だん〱明るさを増して、

僕に地上からせり出しつつあると云ふ意識を

確かにさせる。

其れは悪るくない感じだ。

そして、第五の階段にさしかかると

僕の脚が少し重く、

僕の動悸が少し高く、

僕の呼吸が少し<ruby><rb>疾</rb><rt>はや</rt></ruby>くなる。

すると、僕に潜在して居る<ruby><rb>日本的</rb><rt>にほんてき</rt></ruby><ruby><rb>突喊性</rb><rt>とツくわんせい</rt></ruby>が

のつそりと眼を覚して、

殆ど<ruby><rb>一呼吸</rb><rt>ひといき</rt></ruby>で、

足早にあとの<ruby><rb>二</rb><rt>ふた</rt></ruby>つの階段を昇らせる。

今日も僕は同じ経過を取つた。

<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>の上から

海老茶色の<ruby><rb>鈴</rb><rt>すヾ</rt></ruby>の<ruby><rb>索</rb><rt>さく</rt></ruby>が<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>つて居る。

何時見ても

長い<ruby><rb>紐鶏頭</rb><rt>ひもけいとう</rt></ruby>の花を<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>したやうだ。

僕は<ruby><rb>太</rb><rt>ふと</rt></ruby>い<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を<ruby><rb>気持</rb><rt>きもち</rt></ruby>よく吐きながら、

静かに<ruby><rb>索</rb><rt>さく</rt></ruby>を<ruby><rb>握</rb><rt>にぎ</rt></ruby>つて二度引いた。

<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>が内から<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。

「ボン・ジュウル、」

「ボン・ジュウル、」

「<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いて居るんぢやないの」、

「いいや、モデルが来ないから」、

二人は手を<ruby><rb>握</rb><rt>にぎ</rt></ruby>つた。

友は<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>ものやうに、

<ruby><rb>薄地</rb><rt>うすぢ</rt></ruby>の紺の<ruby><rb>仕事服</rb><rt>しごとふく</rt></ruby>の上へ、

<ruby><rb>褪</rb><rt>さ</rt></ruby>めて落ちついた<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby>の色の<ruby><rb>大幅</rb><rt>おほはヾ</rt></ruby>の襦子を

印度の袈裟のやうに、

希臘の<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>のやうに、

左の肩から右の脇へ巻いて居る。

そして又何時ものやうに、

愛着的な、優雅な、

細心な、

そして<ruby><rb>凛々</rb><rt>りり</rt></ruby>しい表情と態度とが

おゝ我が友よ、僕をして

ナルシスの愛と美を想はせる。

三方を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いだ、

天井の高い、

そして<ruby><rb>広々</rb><rt>ひろ〲</rt></ruby>とした<ruby><rb>画室</rb><rt>アトリエ</rt></ruby>は

大岩窟の観がある。

そして大きな画架、

青い天鷺絨張りのモデル台、

<ruby><rb>卓</rb><rt>たく</rt></ruby>、<ruby><rb>置暖炉</rb><rt>おきストオブ</rt></ruby>、<ruby><rb>花瓶</rb><rt>はながめ</rt></ruby>、

<ruby><rb>肱掛椅子</rb><rt>フオオトイユ</rt></ruby>、いろ〱の椅子、

紙片、<ruby><rb>画布</rb><rt>トワル</rt></ruby>、其等の物が雑然と人り乱れ、

麝香撫子と、絵具と、

酒と、テレピン<ruby><rb>油</rb><rt>ゆ</rt></ruby>とが

匂ひの<ruby><rb>楽</rb><rt>がく</rt></ruby>を<ruby><rb>奏</rb><rt>ジユエ</rt></ruby>する<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>に、

壁から、<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみ〲</rt></ruby>から、

友の<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた

<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>を脱がうとする女、

川に浴する女

仰臥の女、匍ふ女、

赤い髪の女、

太い<ruby><rb>腕</rb><rt>かひな</rt></ruby>の女、

手紙を書く女、

編物をする女、

そして画架に書きさした赤い<ruby><rb>肌衣</rb><rt>コルサアジユ</rt></ruby>の女、

其等の裸体、半裸体の女等と、

マントンの海岸、

ブルタアニユの「愛の森、」

ゲルンゼエ島の牧場、村道、岩の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>、

グレエの森、石橋、

其等の風景と、

赤い菊、赤い芍薬、

アネモネの花、薔薇、

林檎と蜜柑、

梨、

其等の静物とが

見とれる如く、あまえる如く、

<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>る如く、

熱い<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>を彼れに投げ掛ける如く、

彼れの一挙一動に目を放さぬ如く、

我が美くしいナルシスの画家を取巻いて居る。

そして<ruby><rb>一方</rb><rt>いつぽう</rt></ruby>の

<ruby><rb>南向</rb><rt>みなみむき</rt></ruby>の窓の硝子越しに、

四月の巴里が水色に霞んで、

低く、低く、海のやうに望まれる。

正面に近く<ruby><rb>脂色</rb><rt>やにいろ</rt></ruby>をしたのがオペラだ、

左に遠く、ちいさく、日を受けて

うすもも色をしたのがノオトル・ダムだ。

僕はモンマルトルの中腹の、

六階の<ruby><rb>画室</rb><rt>アトリエ</rt></ruby>に居ることを忘れて、

ふと巴里の<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>の上を飛んで居る気がした。

友は壁のあなたの<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>から

<ruby><rb>珈琲</rb><rt>カツフエ</rt></ruby>を煮て持つて来た。

そして<ruby><rb>稿本</rb><rt>マヌスクリイ</rt></ruby>を手にしながら

「聞いてくれたまへ」と<ruby><rb>会釈</rb><rt>ゑしやく</rt></ruby>して、

日本文に新しく訳した「エディプ王」を読み上げた。

水晶質の明るい声が

老優ムネ・シュリイの調子で<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>まり、<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>へる。