おれは朝から寝巻の KIMONO のまヽで絵具いぢりを続けて居た。午飯も外へ食ひに出ないでホテルの料理を部屋へ運ばせて済ませた。まづい物を描いて EXTATIQUE な気分になれるおれの愚鈍さと子供らしさとを自分ながら可笑しく思はないで居られないが、またこの子供らしさが久しく沈んで<ruby><rb>灰色化</rb><rt>グリゼエイエ</rt></ruby>して居るおれの LA VIE の上に近づいた一陽来復の<ruby><rb>兆</rb><rt>シイニユ</rt></ruby>のやうにも思はれる。実際、一ヶ月前に妻を先きに日本へ帰らせて以来のおれは毎日のやうにまづい絵を描いて居る。勿論おれの描く物が絵になつて居やうとは全く思はない。おれは小娘がリボンや小切れを嬉しがるやうに、ヹルミヨン、コバルト、オランジユ、とり〲に美くしい色<ruby><rb>布</rb><rt>トワル</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>点描</rb><rt>ポワンテイレエ</rt></ruby>するのが理由もなく嬉しいのだ。

――それにあの女が大分この EXTASE を助けて居る。

おれは描き上げた<ruby><rb>甜瓜</rb><rt>メロン</rt></ruby>と林檎を実物と見比べながら斯う思つて微笑みたい気分になつた。メロンは一昨日描いたのよりも円味が出て居る。林檎は可なり実物に近い色になつた。

静まり返つて居た<ruby><rb>梯子段</rb><rt>エスカリエ</rt></ruby>の沈黙を破つて、洞の底からでも昇るやうな気はひで階また階をつたつて来た靴音が突然おれの部屋の前で止まつた。おれは誰れか同国人が訪ねて来たんだと思つて、絵を画架のまヽ裏向けて隠すやうにして壁の方へ寄せた。

――どなた。

――わたしよ、<ruby><rb>ARMANDE</rb><rt>アルマンド</rt></ruby>。

おれは女がいつも牽いて来る毛の白い、脚の長い、狼のやうな<ruby><rb>相</rb><rt>アスペ</rt></ruby>をした RÉVRIER 種の猟犬の気はひがしなかつたのでアルアンドだとは気づかなかつたのだ。それに次の RENDEZ\-VOUS は明日の火曜日の晩に別々にポルト・サン・マルタン座を観たあとで芝居の近所の<ruby><rb>珈琲店</rb><rt>キヤツフエ</rt></ruby>で待ち合せる約束であつた。おれは戸を開けた。おれの左の手にはまだ<ruby><rb>画板</rb><rt>パレツト</rt></ruby>と<ruby><rb>刷毛</rb><rt>パンソウ</rt></ruby>とを持つて居た。

――今日は。

――今日は。

女は紫の光沢のある黒い毛皮の外套に、同じやうな色の<ruby><rb>大黒帽</rb><rt>トツク</rt></ruby>を被り犬の綱を執る代りに大きな紙包みの<ruby><rb>荷物</rb><rt>パケツ</rt></ruby>を提げて居る。手袋の上から手を握らせながら、おれの頬に唇を触れたあとで、

――タケノウチさん、あなたの仕事のお邪魔になりはしないこと。

と云つた。おれは女の見慣れないけば〱しい新粧と、三十歳ぢかい女の豊満な肉の匂ひと、香水のかをりとに一種の快い圧迫を感じた。

――そんなことはない。これは仕事ぢやなくて遊戯だもの。

おれは部屋の隅で徐かに手を洗つた。女は外套を寝台の上へ脱いだ。下には萌葱と淡紅色とを取り合せた繻子の <ruby><rb>ROBE</rb><rt>ロオブ</rt></ruby> を着て居る。それも新しく仕立てた物らしい。

――あなたのお部屋は段々と高くなるのね。

二週間に二階から三階へ四階へと………

女は窓に寄つて外を眺めながら斯う云つた。女の右の手に日光があたつて指環に嵌めた玉が火の雫のやうに光つて居る。指も赤く透きとほつて紅玉質になつて居る。

――さうだ、僕は次第に天へ近づいて行くんだ。そして天へ近づいて行くほど巴里がよく見えるから結構だ。

――天へ。

と女は云つて、

――「われは今天を棄てて<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りゆく、

太陽よ、星よ、風よ、雨よ、

いざさらば。天の物は<ruby><rb>彼女</rb><rt>かのをんな</rt></ruby>に如かざれば。」

と目立たぬ<ruby><rb>姿勢</rb><rt>ゼスト</rt></ruby>と軽い足踏みとで歌つた。おれは固有名詞が解つた丈で、歌として引き延ばされた語が皆は解らなかつたから、

――も一度。

と促した。女は再び歌ひ直して、

――解つたでせう。これはわたしの知つて居る若い詩人のパウルが大学を卒業して阿弗利加に居る父親の処へ行く時、七年の間の<ruby><rb>屋根裏</rb><rt>マンサルド</rt></ruby>の生活を止めたので作つた詩ですわ。

――その男は「地へ」だ、僕は「天へ」だ。しかし僕も<ruby><rb>屋根裏</rb><rt>マンサルド</rt></ruby>まで昇れば引返すかも知れない。

――<ruby><rb>菊</rb><rt>クリザンテエム</rt></ruby>の国へ引返すんでせう。

――まだ其処までは考へられない。

――あなた御存じ。

――なにを。

――マダム・タケノウチの写真がオペラの前の店に並んで居るのを。

タケノウチを女は露西亜人の名のやうにタケノウイツチと発音するのが習慣になつて居る。おれは LES ANNALES 誌の主筆のブリツソン君が撮つて雑誌に載せた妻とおれとのまづい<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>の写真が複製されてグラン・ブルヴアルで売られて居ることを知つて居た。おれは南洋の土人夫婦と云つた風に撮られたあの獰猛な相の写真が妻の目に触れずに済んだことを喜んだのであつた。雑誌が公にされた時、妻はもうスエズを東へ越えて居た。

――僕も知つて居る。

と云つたが、おれは此女と妻のことに就て語りたくなかつたので、

――何かもつと面白い<ruby><rb>新消息</rb><rt>エコオ・ヌウボウ</rt></ruby>があるでせう。

と話題を転じてしまつた。おれと此女との間に用ひる<ruby><rb>新消息</rb><rt>エコオ・ヌウボウ</rt></ruby>と云ふ<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>は芸術と芸術家に関する新しい珍聞を意味して居るのである。おれは手を洗つて、もう服を着かへてしまつて居た。女は何か思ひ出したらしく<ruby><rb>莞爾</rb><rt>につこり</rt></ruby>しながら、おれと並んで長椅子へ腰を掛けて、

――ダンヌンチヨが<ruby><rb>先</rb><rt>さき</rt></ruby>の週に或<ruby><rb>珈琲店</rb><rt>キヤツフエ</rt></ruby>で或女優に言つた話があるの。女優は若い女で小説家に惚れて居るんです。<ruby><rb>夜食</rb><rt>スウペ</rt></ruby>の卓に胡桃が出ると、伊太利の大小説家は女に向いて云ひました、「恋は胡桃だよ、壊さなくちや味が解らない、さうでせう」つて。

――ダンヌンチヨはこれまで沢山の胡桃を<ruby><rb>壊</rb><rt>こは</rt></ruby>したんだらう。

――えヽ、えヽ、巴里でも沢山。………わたしはあの人の飼つて居る廿七匹の猟犬が競売に出たら、その中の一匹それはそれは買ひたくてならない LÉVRIER がありますの。

――大小説家が競売をするかしら。

――仏蘭西の今の文学者にダンヌンチヨのやうな奢侈家は居ません。ダンヌンチヨは作物と奢侈と借金とで名高くなつた文学者ですわ。借金で伊太利に居られなくなつた人は巴里にも居られなくなる時が来ます、屹度。

――あなた、今日は何処へ行つた帰りだね。

――帰りではなくて行く途中よ。………あなたは美くしく着飾つた女と旅をなさることはお嫌ひ。

――それは<ruby><rb>悪</rb><rt>わる</rt></ruby>くない。

――ではあなた、わたしと一所に今夜行つて頂戴な、ランスまで。いいでせう、ランスには巴里やアミアンのノオトル・ダムと同じ古さのカテドラルがありますわ、それから<ruby><rb>三鞭酒</rb><rt>シヤンパアニユ</rt></ruby>の名高い産地ですわ。王政時代の古いホテルで一晩泊つて明日の夕方芝居の時間までに帰つて来ませう。

女の言葉には拒むことの出来ない力があつた。おれは躊躇せずにこの突発の勧誘に応じてしまつた。

――行かう、それは面白からう………　汽車は何時に出るの。

――午後四時。

時計を見ると四十分の猶予しかなかつた。おれは急いで顔を剃つた。女も手提の<ruby><rb>金色</rb><rt>きんいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>嚢</rb><rt>サツク</rt></ruby>から白粉入を出しておれの使つて居る<ruby><rb>掛鏡</rb><rt>かけかがみ</rt></ruby>を覗き込みながら化粧をしなほした。おれはトランクの底から百フランの紙幣を三枚抜き出してそつと<ruby><rb>洋袴</rb><rt>パンタロン</rt></ruby>の隠しへ捻ぢ込んだ。

発車前十分におれ達の自動車は北の停車場へ着いた。女は<ruby><rb>荷物</rb><rt>パツケ</rt></ruby>をおれに持たせて置いて二人の二等の往復切符を買つた。<ruby><rb>荷物</rb><rt>パツケ</rt></ruby>は<ruby><rb>量</rb><rt>かさ</rt></ruby>の割に軽いものである。おれは女がなぜこんな<ruby><rb>荷物</rb><rt>パツケ</rt></ruby>を持つて出掛けるのか解らなかつた。おれは停車場の中の本屋でランスの智識を得るためにベデカアの北部仏蘭西の部を買ひ求めた。

汽車の中の廊を通る時、婦人専用室の中に腰を掛けた品のいい一人の老婦人の目と女の目とが合つた。二人は挨拶した。そして女が後ろを一寸振り向いて閃かした UN COUP D'ŒIL の信号がおれを一人で澄したままさつさと他の男女雑居の二等室へ入らせた。女はおれにつづいて来なかつた、そのまま老婦人の室へ席を取つてしまはねばならなかつたのであらう。おれは十五六年前にも或女を伴れた旅行でこんな経験をしたことを朧気に思ひ出したが、それが日本の何処の鉄道線であつたかが思ひ出せなかつた。おれは併し隣の<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いた席へ<ruby><rb>荷物</rb><rt>パツケ</rt></ruby>を置いて<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から入つて来る乗客に「これは僕の友達の席です」と云つて拒んだ。

黄昏の燈火に満ちた巴里の街を離れてから、次第におれの心は淋しくなつて来た。妻をマルセエユまで送つて行つた帰りにリヨンから巴里へ乗つた夜汽車の淋しかつたことなどが思ひ出された。今日あたり妻が神戸へ着く頃だと思つては疲労した妻の青ざめた顔や母を迎へて喜ぶ児供等の顔が目に浮んだりもした。

――この女との関係がいつか在留して居る同国人の耳に入つて、あの連中の口から妻の耳に入る日が来るだらう。妻が HYSTÉRIQUE な気分から先に日本へ帰ると云ひ出した時、おれが<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く其れを賛成して帰してしまつたことを、妻はその時既にこの女との関係がおれにあつたからだと思ふかも知れない。この女と初めて知つたのはまだ半月以前のことだ。仏蘭西座の<ruby><rb>看棚</rb><rt>ロオジユ</rt></ruby>で偶然新作の BAGATELLE を一所に観て言葉を掛け合つて以来のことだ。そんなことを云つたつて何にもならない、之は動機の問題ぢやなくて結果の問題だ、妻に対して抗弁しようと考へたりするのが抑も愚だ。その時が来たら何もかも一切ぶちまけてしまふことだ。

おれはこんなことを思つたが、また

――体この女は何んだ。PASSY に住んで居ると云ふだけで、くはしいことは自分から話すまで問はないで居て下さいと云つた。もう巴里に一年近く居るおれは大抵人間の階級の見当が附き相だ。けれどこの女の身の上は解りかねる。若しやと想ふこともあるが、それでは事実が余りに ROMANESQUE だ。おれと仏蘭西の NOBLESSE、そんな夢幻劇が型のやうに仕組まれやうとは考へられない。まあ暫く<ruby><rb>夢遊病者</rb><rt>ノクタンビユウル</rt></ruby>になつて夢に引きずられて居やう。そのうちに女の正体が解つて来るだらう。けれど矢張気に掛けずには居られない。女はおれを何と想つてるのかしら。女はダンヌンチヨが黒奴や其他の野蛮人を<ruby><rb>下部</rb><rt>ギヤルソン</rt></ruby>に使つて得意になつて居ると云ふことを話した。女はおれを黒奴の<ruby><rb>下部</rb><rt>ギヤルソン</rt></ruby>あつかひにして居るのかも知れない。おれがあの女の後ろからこの<ruby><rb>荷物</rb><rt>パツケ</rt></ruby>を持つて供して居るのは黒奴でなくて何んだ。

おれはこんなことを考へて気を引き立てたり滅入らせたりして居た。それからベデカアを取り出して読んでランス市を仏蘭西の奈良だと思つた。

ランスへ着いたのは九時であつた。女は保護するやうにして老婦人の後について改札口を出た。<ruby><rb>切符</rb><rt>ビレ</rt></ruby>を女が持つて居るので、おれは改札口の処で待ち合せて素早く女の手から受取つた。かう云ふ軽捷な愛に件ふ機才がまたおれに必要になつて来たのが不思議だ。おれは二十歳前後のおれと四十面下げたおれとの二重人格を備へて居ることに自分ながら驚かざるを得なかつた。女は馬車を呼んで老婦人を乗らせて見送つたあとで、また一台の馬車を呼んでおれと一所に乗つた。

――あのお婆さんは<ruby><rb>親戚</rb><rt>みうち</rt></ruby>の<ruby><rb>公爵夫人</rb><rt>コンテツス</rt></ruby>。今日ここの市長の嫁になつて居る娘を訪ねに来たのです。今日の汽車は間が悪くつてお気の毒でしたわね。

女は馬車の上で斯う云つて<ruby><rb>戦</rb><rt>わなな</rt></ruby>くやうに身をすり寄せた。北部仏蘭西の街の十月の夜の辻風は可なりに寒い。二人の気息が白くまじり合つた。

ロオヤル・ホテルの夜食には名物の<ruby><rb>蝸牛</rb><rt>エスカルゴオ</rt></ruby>が出た。葡萄酒のうまいことは云ふまでもない。おれは寝る前に湯に<ruby><rb>入</rb><rt>はい</rt></ruby>つた。日本の旅の習慣を話して女にも湯に入らせた。

――あなた、わたしがランスへ来た用向を話しませうか。

女は部屋へ帰つて壁の暖炉の真赤に燃える前でブロンドの髪を解きながら斯う云つた。

――気まぐれに散歩に来たのぢやないの。

――それはあなたとわたしとの用向ですわ。別にわたしだけの用向があるのよ。

――解らないね、云つて御覧。

――わたし子供に逢ひに来ましたの。男の子。去年の四月に生んだのですよ。<ruby><rb>里親</rb><rt>ヌウリツス</rt></ruby>は此街に住んで居ます。この<ruby><rb>荷物</rb><rt>パツケ</rt></ruby>を<ruby><rb>解</rb><rt>ほど</rt></ruby>きませう、みんな<ruby><rb>坊</rb><rt>モン・プツテイ</rt></ruby>に持つて来たんですよ。十七ヶ月も見ないんですもの、どんなに可愛くなつて居ますでせう。物もよく云ふでせうねえ。

女はこれまで素振にも見せなかつた物やさしい母親<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>情緒</rb><rt>サンテイマン</rt></ruby>で話しながら荷物の緒を解いた。ボン・マルセの店の商標の附いた幾つかの紙函から取り出して卓の上や寝台の上へ並べたのは、陶製の<ruby><rb>喇叭</rb><rt>アンブシユウル</rt></ruby>、太鼓、白い北極熊、龍騎兵などの玩具と、リンネルや羅紗で作つた数枚の小児服、小さな頭巾にかはいヽ靴足袋、それからボン〱の<ruby><rb>入</rb><rt>はい</rt></ruby>つた大小の缶なんかであつた。

――あなたの子供なら美くしいでせう、屹度。

おれは咄嗟に都合よく女の<ruby><rb>情緒</rb><rt>サンテイマン</rt></ruby>の調子を合せるやうな発想を得なかつたので、間に合せにこんな平凡なことを<ruby><rb>故意</rb><rt>わざ</rt></ruby>とらしいアクサンで云つて、並の女と<ruby><rb>異</rb><rt>わざ</rt></ruby>らないやうな表情で嬉し相に其等の TOUTES CHOSES を見比べて居る女の顔をじつと見た。女が俄かに醜くなつた気がした。