毎朝床の中でうとうとしながら聞く豆腐屋のラッパの音がこのごろ少し様子が変わったようである。もとは、「ポーピーポー」というふうに、中に一つ長三度くらい高い音をはさんで、それがどうかすると「起きろ、オーキーロー」と聞こえたものであるが、近ごろは単に「ププー、プープ」というふうに、ただひと色の音の系列になってしまった。豆腐屋が変わったのか笛が変わったのかどちらだかわからない。

昔は「トーフイ」と呼び歩いた、あの呼び声がいったいいつごろから聞かれなくなったかどうも思い出せない。すべての「ほろび行くもの」と同じように、いつなくなったともわからないようにいつのまにかなくなり忘れられ、そうして、なくなり忘れられたことを思い出す人さえも少なくなりなくなって行くのであろう。

納豆屋の「ナットナットー、ナット、<ruby><rb>七色唐辛子</rb><rt>なないろとうがらし</rt></ruby>」という声もこの<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>では近ごろさっぱり聞かれなくなった。そのかわりに台所へのそのそ黙ってはいって来て全く散文的に売りつけることになったようである。

「豆やふきまめー」も振鈴の音ばかりになった。このごろはその鈴の音もめったに聞かれないようである。ひところはやった玄米パン売りの、メガフォーンを通して妙にぼやけた、聞くだけで<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>の詰まるような、食欲を吹き飛ばすようなあのバナールな呼び声も、これは幸いにさっぱり聞かなくなってしまった。

つい二三年前までは毎年初夏になるとあの感傷的な苗売りの声を聞いたような気がする。「ナスービノーナエヤーア、キュウリノーナエヤ、トオーガン、トオーナス、トオーモローコシノーナエ」という、長くゆるやかに引き延ばしたアダジオの節回しを聞いていると、眠いようなうら悲しいようなやるせのないような、しかしまた日本の初夏の自然に特有なあらゆる美しさの夢の世界を眼前に浮かばせるような気のするものであった。

これで対照されていいと思うものは冬の霜夜の<ruby><rb>辻占</rb><rt>つじうら</rt></ruby>売りの声であった。明治三十五年ごろ病気になった妻を国へ帰してひとりで<ruby><rb>本郷</rb><rt>ほんごう</rt></ruby>五丁目の下宿の二階に暮らしていたころ、ほとんど毎夜のように窓の下の路地を通る「花のたより、恋のつじーうら」という妙に澄み切った美しく物さびしい呼び声を聞いた。その声が寒い星空に突き抜けるような気がした。声の主は年の行かない女の子らしかった。それの通る時刻と前後して隣の下宿の門の開く鈴音がして、やがて窓の下から自分を呼びかける同郷の悪友ＴとＭの声がしたものである。悪友と言っても<ruby><rb>藪蕎麦</rb><rt>やぶそば</rt></ruby>へ誘うだけの悪友であった。「あいつ、このごろ弱っているから引っぱり出して元気をつけてやれ」と言って引っぱり出してくれる悪友であったのである。

「あんま<ruby><rb>上下</rb><rt>かみしも</rt></ruby>二百文」という呼び声も古い昔になくなったらしいが、あのキリギリスの声のようにしゃがれた笛の音だけは今でもおりおりは聞かれる。洋服に<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>をはいた姿で、昔ながらの笛を吹いて近所の路地を流して通るのに出会ったのは、つい数日前のことであった。

盛夏の朝早く「ええ朝顔やあさがお」と呼び歩くのは去年も聞いた。買ってくれそうな家の付近では繰り返し往復して、それでも買わないとあきらめて行ってしまったのは昔のことで、今ではやはり裏木戸から台所へはいって来て、主人や主婦を呼び出すのが多いようである。

「ええ<ruby><rb>鯉</rb><rt>こい</rt></ruby>や鯉」というのも数年以来聞かないようである。「ええ<ruby><rb>竿竹</rb><rt>さおだけ</rt></ruby>や竿竹」というのをひと月ほど前に聞いたのは珍しかった。

こういうふうに、旋律的な物売りの呼び声が次第になくなり、その呼び声の呼び起こす旧日本の夢幻的な情調もだんだんに消えうせて行くのは日本全国共通の現象らしい。

郷里で昔聞き慣れた物売りの声も今ではもう大概なくなったらしいが、考えてみるとずいぶんいろいろのものがあった。その中には子供の時分の親しい思い出に密接に結びついて忘られないものもかなり多数にある。

夏になると<ruby><rb>徳島</rb><rt>とくしま</rt></ruby>からやって来た<ruby><rb>千金丹</rb><rt>せんきんたん</rt></ruby>売りの呼び声もその一つである。渡り鳥のように四国の<ruby><rb>脊梁山脈</rb><rt>せきりょうさんみゃく</rt></ruby>を越えて南海の町々村々をおとずれて来る一隊の青年行商人は、みんな白がすりの着物の<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を端折った<ruby><rb>脚絆草鞋</rb><rt>きゃはんわらじ</rt></ruby>ばきのかいがいしい姿をしていた。明治初期を代表するような白シャツを着込んで、頭髪は多くは<ruby><rb>黙阿弥</rb><rt>もくあみ</rt></ruby>式にきれいに分けて帽子はかぶらず、そのかわりに白張りの<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>をさしていた。その傘に大きく、たしか赤字で千金丹と書いてあったような気がする。小さな、今で言えばスーツケースのような格好をした黒塗りの<ruby><rb>革鞄</rb><rt>かわかばん</rt></ruby>に、これも赤く大きく千金丹と書いたのをさげていたと思う。せんだんの花のこぼれる南国の真夏の炎天の下を、こうした、当時の人の目にはスマートな姿でゆっくり練り歩きながら、声をテノルに張り上げて歌う文句はおおよそ次のようなものであった、「エーエ、ホンケーワーア、サンシューノーオー、コトヒーラーアヨ。（休）。マツシーマーア、カデンーノーオー、センキーンーンタン」というふうに全く同じ四拍子アンダンテの旋律を繰り返しながら、だんだんに薬の効能書きを歌って行くのである。「そのまた薬の効能は、<ruby><rb>疝気疝癪</rb><rt>せんきせんしゃく</rt></ruby><ruby><rb>胸痞</rb><rt>むねつか</rt></ruby>え」までは覚えているがその先は忘れてしまった。

子供らはこの薬売りの人間を「ホンケ」と呼んでいた。「ホンケが来たホンケが来た」と言って駆け出して行っては、この「ホンケ」を取り巻いて、そうして口々に「ホンケ、オーセ、オーセ」と言ってねだった。「オーセ」は「ちょうだい」という意味であるが、ここの「ホンケ」はこの薬売り自身をさすのではなくて、薬売りの配って歩く広告のビラ紙のことである。この人間の「本家」がまき歩くビラの「ホンケ」は、鼻紙を八つ切りにしたのに粗末な木版で赤く印刷したものであったが、その木版の絵がやはり<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>をさして<ruby><rb>尻端折</rb><rt>しりはしお</rt></ruby>った薬売りの「ホンケ」の姿を写したものであった。いっしょに印刷してあった文字などは思い出せない。子供らにとってはこのビラ紙も「ホンケ」であり、それをくれる人間も「ホンケ」であったわけである。とにかく、このビラ紙をもらうのが当時のわれわれ子供には相当な喜びであった。今になって考えると実に不思議である。少年雑誌やおとぎ話の本などというもののまだ一つもなかった時代では、こんな粗末な刷り物でも子供には珍しかったのであろう。ずいぶん俗悪な木版刷りではあったが、しかし現代の子供の絵本のあくどい色刷りなどに比較して考えるとむしろ一種稚拙にひなびた風趣のあるものであったようにも思われる。

同じく昔の郷里の夏の情趣と結びついている思い出の売り声の中でも<ruby><rb>枇杷葉湯</rb><rt>びわようとう</rt></ruby>売りのそれなどは、今ではもう忘れている人よりも知らぬ人が多いであろう。朱漆で塗った地に黒漆でからすの絵を描いたその下に<ruby><rb>烏丸</rb><rt>からすまる</rt></ruby>枇杷葉湯と書いた一対の細長い箱を振り分けに肩にかついで「ホンケー、カラスマル、ビワヨーオートー」と終わりの「ヨートー」を長く清らかに引いて、呼び歩いていたようにも思うし、また木陰などに荷をおろして往来の人に呼びかけていたようにも思う。その声が妙に涼しいようでもあり、また暑いようでもあった。しかしその<ruby><rb>枇杷葉湯</rb><rt>びわようとう</rt></ruby>がいったいどんなものだか、味わったことはもちろん見たこともなかった。そのころもうすでに<ruby><rb>大衆性</rb><rt>ポピュラリティ</rt></ruby>を失ってしまって、ただわずかに過去の惰性のなごりをとどめていたのではないかと思われる。東京で震災前までは<ruby><rb>深川</rb><rt>ふかがわ</rt></ruby>へんで見かけたことのあるあの<ruby><rb>定斎屋</rb><rt>じょさいや</rt></ruby>と同じようなものであったらしいが、しかし枇杷葉湯のあの朱塗りの荷箱とすがすがしい呼び声とには、あのガッチンガッチンの定斎屋よりもはるかに多くの過去の夢と市井の詩とを包有していたような気がする。

生菓子をいろいろ、四角で<ruby><rb>扁平</rb><rt>へんぺい</rt></ruby>な漆塗りの箱に入れたのを肩にかけて、「カエチョウ、カエチョウ」と呼び歩くのは、多くは男の子で、そうして大概きまって<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>の切れた<ruby><rb>冷飯草履</rb><rt>ひやめしぞうり</rt></ruby>をはいていたような気がする。それが持って来る菓子の中に「イガモチ」というのがあった。<ruby><rb>道明寺</rb><rt>どうみょうじ</rt></ruby>の<ruby><rb>餡入</rb><rt>あんい</rt></ruby>り<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>であったがその外側に<ruby><rb>糯米</rb><rt>もちごめ</rt></ruby>のふかした粒がぽつぽつと並べて植え付けてあった。ちょうど<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>のいがのようだと言うので「いが餅」と名づけたものらしい。「カエチョウ」の意味は自分にはわからない。このはかない行商の一人に<ruby><rb>頭蓋骨</rb><rt>ずがいこつ</rt></ruby>の異常に大きな福助のような子がいた。だれかが試みに一銭銅貨と<ruby><rb>天保銭</rb><rt>てんぽうせん</rt></ruby>を出して、どちらでもいいほうを取れと言ったらはっきりと天保銭を選んだといううわさがあった。また、その生きている頭蓋骨をとっくにどこかの病院に百円とかで売ってあるのだという話もあった。

<ruby><rb>七味唐辛子</rb><rt>しちみとうがらし</rt></ruby>を売り歩く男で、頭には高くとがった<ruby><rb>円錐形</rb><rt>えんすいけい</rt></ruby>の帽子をかぶり、身にはまっかな唐人服をまとい、そうしてほとんど等身大の唐辛子の形をした張り抜きをひもで肩につるして小わきにかかえ、そうして「トーン、トーオン、トンガㇻシノコー（休）、ヒリヒリカラィノガ、サンショノコー（休）、ゴマノコケシノコ、ショウガノコー（休）、トーントーントンガㇻシノコ」と四拍子の簡単な旋律を少しぼやけた中空なバリトンで歌い歩くのがいた。その大きなまっかな張り抜きの<ruby><rb>唐辛子</rb><rt>とうがらし</rt></ruby>の横腹のふたをあけると中に<ruby><rb>七味</rb><rt>しちみ</rt></ruby>唐辛子の倉庫があったのである。この異風な物売りはあるいは明治以後の産物であったかもしれない。

「お<ruby><rb>銀</rb><rt>ぎん</rt></ruby>が作った大ももは」と呼び歩く<ruby><rb>楊梅</rb><rt>やまもも</rt></ruby>売りのことは、前に書いたことがあるから略する。

しじみ売りは「スズメガイホー」と呼び歩いた。<ruby><rb>牡蠣</rb><rt>かき</rt></ruby>売りは昔は「カキャゴー」と言ったものらしい、というのは自分らの子供時代におとなからしばしば聞かされたたぬきの怪談のさまざまの中に、この動物が夜中に牡蠣売りに化けて「カキャゴーカキャゴー」と呼び歩くというのがあって、われわれはよく夜道を歩きながらそのたぬきのまねをするつもりで「カキャゴー」「カキャゴー」と叫び歩き、そうして自分で自分の声におびえることによって不思議な神秘の感覚を味わい享楽したものであった。

北の山奥から時々姿を現わして奇妙な物を売りありく老人がいた。少しびっこで恐ろしく背の高いやせこけた老翁であったが、破れ手ぬぐいで<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>かぶりをした下からうすぎたない白髪がはみ出していたようである。着物は完全な<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>でそれに<ruby><rb>荒繩</rb><rt>あらなわ</rt></ruby>の帯を締めていたような気がする。大きい炭取りくらいの大きさの竹かごを棒切れの先に引っかけたのを肩にかついで、<ruby><rb>跛</rb><rt>びっこ</rt></ruby>を引き歩きながら「<ruby><rb>丸葉柳</rb><rt>まるばやなぎ</rt></ruby>は、<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby>オコゼは」と、少し舌のもつれるような<ruby><rb>低音</rb><rt>バス</rt></ruby>で<ruby><rb>尻下</rb><rt>しりさ</rt></ruby>がりのアクセントで呼びありくのであった。舌がもつれるので「山オコゼは」が「ヤバオゴゼバ」とも聞こえるような気がした。とにかく、この山男の身辺にはなんとなく一種神秘の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>が<ruby><rb>揺曳</rb><rt>ようえい</rt></ruby>しているように思われて、当時の悪太郎どもも容易には接近し得なかったようである。自分もこの老いさらぼえた山人に何とはなしに<ruby><rb>畏怖</rb><rt>いふ</rt></ruby>の念をいだいていたが、しかしその「山オコゼ」というのがどんなものだか知りたいという強い好奇心を長い間もちつづけていた。それでとうとう母にねだって二つ三つの標本を買ってもらった。それは、<ruby><rb>煙管貝</rb><rt>きせるがい</rt></ruby>のような格好で全体灰色をした一種の巻き貝であって、長さはせいぜい五六<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ぐらいであったかと思う。もちろん貝がらだけでなく生きた貝で、箱の中へ草といっしょに入れてやるとその草の葉末を<ruby><rb>蓑虫</rb><rt>みのむし</rt></ruby>かなんぞのようにのろのろはい歩いた。海でなくて奥山にこんな貝がいるというのがいかにも不思議に思われたが、その貝の<ruby><rb>棲息状態</rb><rt>せいそくじょうたい</rt></ruby>などについてはだれも話してくれる人はなかった。海の「オコゼ」は魚であるのになぜ山の「オコゼ」が貝であるかも不可解であった。

「山オコゼ」がどうして売り物になるか、またそれを買った人がどういう目的にそれを使用するか、という疑問に対して聞き得たことを今ではぼんやりしか覚えていない。なんでも今日のいわゆる「マスコット」の役目をつとめるというのであったようである。たとえばこれを懐中しているとトランプでもその他の<ruby><rb>賭博</rb><rt>とばく</rt></ruby>でも必勝を期することができるというのであったらしい。もちろんこの効験は偶然の方則に支配されるのである。

「<ruby><rb>丸葉柳</rb><rt>まるばやなぎ</rt></ruby>」のほうはどんな物だか、何に使うのか、それについては自分の記憶も知識も全然空白である。

売り声の滅びて行くのは何ゆえであるか、その理由は自分にはまだよくわからないが、しかし、滅びて行くのは確かな事実らしい。

普通教育を受けた人間には、もはやまっ昼間町中を大きな声を立てて歩くのが気恥ずかしくてできなくなるのか、売り声で自分の存在を知らせるだけで、おとなしく買い手の来るのを受動的に待っているだけでは商売にならない世の中になったのか、あるいはまた行商ということ自身がもう今の時代にふさわしくない経済機関になって来たのか、あるいはそれらの理由が共同作用をしているのか、これはそう簡単な問題ではなさそうである。それはいずれにしても、今のうちにこれらの滅び行く物売りの声を音譜にとるなり蓄音機のレコードにとるなりなんらかの方法で記録し保存しておいて百年後の民俗学者や<ruby><rb>好事家</rb><rt>こうずか</rt></ruby>に聞かせてやるのは、天然物や史跡などの保存と同様にかなり有意義な仕事ではないかという気がする。国粋保存の気運の向いて来たらしい今の機会に、内務省だか文部省だか、どこか適当な政府の機関でそういうアルキーヴスを作ってはどうであろうか。ついそんな空想も思い浮かべられるのである。

（昭和十年五月、文学）