一

<ruby><rb>清楚</rb><rt>せいそ</rt></ruby>な感じのする食堂で窓から降りそそぐ正午の空の光を浴びながらひとり静かに食事をして最後にサーヴされたコーヒーに砂糖をそっと入れ、さじでゆるやかにかき交ぜておいて一口だけすする。それから上着の右のかくしから一本<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を出して軽くくわえる。それからチョッキのかくしからライターをぬき出して顔の正面の「明視の距離」に持って来ておいてパチリと火ぶたを切る。すると小さな炎が明るい<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の陽光にけおされて鈍く透明にともる。その薄明の中に、きわめて細かい星くずのような点々が<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>として青白く輝く、輝いたかと思った瞬間にはもう消えてしまっている。

この星のような光を見る瞬間に突然不思議な幻覚に襲われることがしばしばある。それはちょっと言葉で表わすことのむつかしい夢のようなものであるが、たとえば、深く降り積もった雪の中に一本大きなクリスマス・トリーが立っていてそれに、無数の<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>がともり、それが<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の枝々につるしたいろいろの飾りものに映ってきらめいている。紫紺色に寒々とさえた空には星がいっぱいに銀砂子のように散らばっている。町の音楽隊がセレナーデを奏して通るのを高い窓からグレーチヘンが見おろしている、といったようなきわめて甘いたわいのない子供らしい夢の中からあらゆる具体的な表象を全部抜き去ったときに残るであろうと思われるような、全く形態のない幻想のようなものである。

天気が悪かったり、食堂がきたなかったり、騒がしかったり、また食事がまずいような場合には、同じライターの同じ炎の中に同じような星が輝いても決してこうした幻覚が起こらないから不思議である。

胃の<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>の適当な充血と消化液の分泌、それから眼底網膜に映ずる適当な光像の刺激の系列、そんなものの複合作用から生じた一種特別な刺激が大脳に伝わって、そこでこうした特殊の幻覚を起こすのではないかと想像される。「胃の腑」と「詩」との間にはまだだれも知らないような複雑微妙の多様な関係がかくされているのではないかと思われる。

二

いつか夏目先生生前のある事がらについて調べることがあって<ruby><rb>小宮</rb><rt>こみや</rt></ruby>君と自分とでめいめいの古い日記を引っぱり出して比べたことがあった。そのとき気のついたのは自分の日記にはとかく食いものの記事が多いということであった。先生とどこで何を食ったというようなことがやたらに特筆大書されているのである。

自分の子供たちのうちにも、古い小さい時分の出来事をその時に食った食物と連想して記憶しているという傾向の著しく見えるのがいる、どうも<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>の遺伝らしいということになっているのである。

近ごろ、夕飯の食卓で子供らと昔話をしていたとき、かつて自分がＮ先生とＩ君と三人で<ruby><rb>大島</rb><rt>おおしま</rt></ruby><ruby><rb>三原山</rb><rt>みはらやま</rt></ruby>の調査のために火口原にテント生活をしたときの話が出たが、それが明治何年ごろの事だったかつい忘れてしまってちょっと思い出せなかった。ところが、その<ruby><rb>三原山</rb><rt>みはらやま</rt></ruby>行きの糧食としてＮ先生が<ruby><rb>青木堂</rb><rt>あおきどう</rt></ruby>で買って持って行ったバン・フーテンのココア、それからプチ・ポアの<ruby><rb>罐詰</rb><rt>かんづめ</rt></ruby>やコーンド・ビーフのことを思い出したので、やっとそれが明治四十二年すなわち自分の外国留学よりは以前のことであって帰朝後ではなかったことがわかった。なぜかというと、洋行前にはそんなハイカラな食物などは存在さえも知らなかったのを洋行帰りのＮ先生からはじめて教わりごちそうになり、それと同時にいろいろと西洋の話などをも聞かされた。そのためにこれらの食物と、まだ見ぬ西洋へのあこがれの夢とが不思議な縁故で結びついてしまったのであった。一日山上で労働して後に味わったそれらの食物のうまかったことは言うまでもない。

そのテント生活中にＮ先生に安全<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>でひげを<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>ってもらったのを覚えている。それは剃刀が切れ味があまりよくなくて少し痛かったせいもあるが、それまで一度も安全剃刀というものの体験をもたなかったためにそれがたいそう珍しく新しく感じられたせいもあるらしい。その剃刀が先生のゲッチンゲン大学時代に求めた将来ものだというのでいっそう感心したものらしい。

とにかく、もし自分の留学後だったらバン・フーテンや安全剃刀にも別に驚かなかったはずであるから、それでこの三原山生活の年代の決定が確実にできたわけである。

このときの三原山生活は学問的にもおもしろかったがまた同時に多分の美しい詩で飾られていたようである。しかも、自分の場合にはそれらの詩がみんな自分の肉体の生理的機能となんらかの密接な関係をもっていたような気がする。

三

どうも自分の詩の世界は自分のからだの生理的機能と密接にからみ合っていて直接な感官の刺激によってのみ活動しているのではないかという気がするのである。これはあまり自慢にならない話のようである。しかし詩人の中にもいろいろの種類があって、抽象的精神的な要素の多い詩を作る人がある一方ではまた具象的官能的な要素に富んだ詩に長じた人もあるようである。自分の見るところでは、俳人<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>などはどちらかと言えば後者に属するのではないかという気がする。もしそうだとすると、官能的であるということ自身がそれほどいけない事でもなさそうである。

科学的にもやはり抽象型と具象型、解析型と直観型があるが、これがやはり詩人の二つの型に対応されるべき各自に共通な因子をもっているように見える。

詩人にも科学者にもそれぞれの型について無限に多様な優劣の段階がある。要は型の問題ではなくて、段階の問題だけであるらしい。

（昭和十年二月、渋柿）