Soranoha

ニュース映画と新聞記事

ニュースえいがとしんぶんきじ

寺田 寅彦

ニュース映画は新聞紙上の報道記事の代用または補充として用いられるものと通例考えられているようであるが、この両者の間の本質的な差別の目標については、少なくも自分の知っているだけの範囲では、まだあまり立ち入った分析的考察が行なわれていないように思われる。しかし、そういう考察を進めて行けば、その結果は、ニュース映画の将来の発展に対して、少なくもなんらかの指針となるべき暗示を生み出すであろうと想像される。自分はこの問題に関してまだ少しも系統的に考察をしてみたわけではないが、ただわずかばかり思いついただけのことをここにしるしてそういう考察の端緒とし、また後日の参考に供したいと思う。

ある一つの市井の人事現象、たとえばある銅像の除幕式の光景の報道という場合の実例について考えてみる。通例の場合においてこれに関する新聞のいわゆる社会面記事はきわめて紋切り形の抽象的な記載であって、読者の官能的印象的な連想を刺激するような実感的表象はほとんど絶無であると言ってもいい。そのかわりに儀式の進行順序や執行者の姓名等は正確に記載されるのが、通例ではなくとも、少なくも理想でありまた可能でもある。ところがこれをニュース映画で見ると、儀式のプログラムの全体としての構成次第などはよくわからず、演説したり挨拶あいさつしたりする人がだれだかよくわからなかったりすることもある。そのかわりにそのカメラの視野内に起こった限りの現象は必然的なものも偶然的なものも委細かまわず細大もらさず記録され再現されるのである。たとえば幕が落ちる途中でちょっと一時何かに引っかかったが、すぐに自然にはずれて首尾よく落ちる、その時の幕の形や運動の模様だとか、また式辞を朗読する老紳士の白髪の一束が風に逆立つ光景とか、そういう零細な事象までがことごとくこくめいに記録されるのである。これらの一見些細ささいな現象は、カメラマンの少しも意識しないものであり、その現場に臨んだ人々も、ほとんどなんの意義をも感ぜずなんらの印銘をも受けないことであるに相違ない。しかし、よく考えてみると、某年某月某日某所で行なわれた某の銅像除幕式を他のある日ある場所で行なわれた他の除幕式と明白に弁別しようとするときに最も著しき目標となるものは何であるかというと、かえって上記のごとき零細些末さまつな現象が意外にも重大な役目をつとめることを発見して驚く場合があるであろう。こういう意味から言えば、新聞記事に現われた除幕式は純然たる概念的公式的の除幕式であって、甲のものと、乙のものとは人名などの活字面が少しちがうだけであって、どれもこれも具象的内容においては全く同じものである。それだから、記者が列席もしないのに列席したような顔をして書いても少しも不都合はない、午後に行なわれる儀式に関する原稿をその午前に書いて夕刊に出す。それで大臣がさしつかえができて出席しなくても記事にはちゃんと列席して式辞を読んだことになるのである。

新聞記事はこれに限らず、人殺しでも心中しんじゅうでも、皆一定の公式があって、簡単に無理やりにその型にはめ込んで書いてしまうから、どの事件も同じように不合理非常識な概念の化け物でこね上げられたものになっているのは周知の事実である。しかしこれは必ずしもこれらの記事を執筆する個々の記者の責めばかりには帰せられない。少なくもある点までは新聞の社会記事というもの自身に本質的に内在する元来無理な要求から来る自然の結果であるかもしれない。その上にかてて加えて往々記者の認識不足が不合理の上に不自然の上塗りをするのであろう。

映画の場合においてもカメラを向け動かすものは人間であるから、そこに選択の自由があり従って人為的な公式定型の参加する余地は充分にある。しかしレンズとフィルムは物質であってなんらの既成概念もなければ抽象能力もない、一見ばか正直のようであって、しかも広大無辺の正確なる認識能力を所有しているのである。試みにたったひとこまの皮膜に写った形像を精細に言葉で記載しようとしてもおそらく千万言を費やしてもなおすべてを尽くすことは不可能であろう。写真影像は現象の記載ではなくて、現象そのものだからである。

そのかわりに、あるいはそれだから、写真は事象の全体を系統的に把握はあくする能力をもっていない。それをするには撮影技師の分析的頭脳と、フィルムの断片を総合する編集者の総合的才能を必要とするのである。

こういうふうに考えて来ると、新聞記事というものは、読者たる人間の頭脳の活動を次第次第に萎縮いしゅくさせその官能の効果を麻痺まひさせるという効能をもつものであるとも言われる。これはあるいは誇大の過言であるとしても、われわれは新聞の概念的社会記事から人間界自然界における新しき何物かを発見しうる見込みはほとんど皆無と言ってよい。しかるに一見なんでもないような市井の些事さじを写したニュース映画を見ているときに、われわれおとなはもちろん、子供ですら、時々実に驚くような「発見」をする。それはそのはずである。映画はある意味で具象そのものであって、その中には発見されうべき真なるものの無限の宝庫が隠れているからである。こういう点では新聞の社会記事というものは言わば宝の山の地図、しかも間違いだらけの粗末な地図以上の価値はないと言ってもよい。

ニュース映画はこの意味において人間の頭脳の啓発に多大な役目をつとめるものでなければならない。この点にニュース映画の重大な使命がかかっていると言わなければならない。

ずっと前に、週刊ロンドン・タイムスで、かの地の裁判所における刑事裁判の忠実な筆記が連載されているのを、時々読んでみたことがある。それはいかなる小説よりもおもしろく、いかなる修身書よりも身にしみ、またいかなる実用心理学教科書よりも人間の心理の機微をうがったものであった。今、もしも、こういう場面の発声ニュース映画の撮影映画が許容されるとしたら、どうであろう。多少の弊害もあるかもしれないが、観客に人間の本性に関する「真」の一面の把握を教えるものとしてはおそらく絶好な題目の一つとなるであろう。こういう種類のテーマでまだ従来取り扱われなかったものを捜せばいくらでも見つかりそうな気がする。近ごろ見たニュースの中で実におもしろかったのはオリンピック優勝選手のカメラマイクロフォンの前に立ったときのいろいろな表情であった。言葉で現わされない人間の真相が躍然としてスクリーンの上に動いて観客の肺腑はいふに焼き付くのであった。

こういう効果の中には自分自身でその場面に臨んだのではかえって得られないようなものも含まれていることを忘れてはならない。色彩と第三の空間次元を取り去ったスクリーンの上の平面影像は、事象により多くの客観性を付与し、そのおかげで、現場では隠蔽いんぺいされるような認識能力の活動を可能にするからである。

広い意味でのニュース映画によって、人間は全く新しい認識の器官を獲たと言ってもはなはだしい過言ではない。そういう新しい人間としてはわれわれはまだほんの孩児がいじのようなものである。したがって期待されるものはニュース映画の将来である。演劇的映画などは一日一日に古くなっても、ニュース映画は日に日に新たに、永久に若き生命を保つであろうと思われる。そういう将来における新聞はもはや社会欄なるものの大部分を喪失しているか、さもなければ、ほんとうの意味での「記事」となって、真に正確で啓発的な記述に変わってしまっているであろう。

(昭和八年一月、映画評論)

底本 / Source edition

底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/002477_000042/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/002477_000042/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/002477_000042/

寺田 寅彦「ニュース映画と新聞記事」(新字新仮名)、底本『寺田寅彦随筆集 第四巻』岩波文庫、岩波書店、1948年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002477_000042, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite