一九三二年の夏の間に、シベリアの北の氷海を一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>のあまり大きくない汽船が一隊の科学者の探険隊を載せて、時々行く手をふさぐ氷盤を押し割りながら東へ東へと航海していた。しかしその氷の割れる音は科学を尊重するはずの日本へ少しも聞こえなかった。<ruby><rb>満州</rb><rt>まんしゅう</rt></ruby>問題、五・一五事件、バラバラ・ミステリーなどの騒然たる雑音はわれわれの耳を<ruby><rb>聾</rb><rt>ろう</rt></ruby>していたのである。ところが十一月になってスクリューを失った一艘の薄ぎたない船が漁船に引かれて<ruby><rb>横浜</rb><rt>よこはま</rt></ruby>へ入港した。船の名はシビリアコフ号、これがソビエト政府の北氷洋学術研究所所属の科学者数名を載せて北氷洋をひと夏に乗り切ったものであるということが新聞で報ぜられた。それでもわれわれはまだかの有名なバラバラ事件の解決以上の興味を刺激されることもなくて実にのんきにぼんやりしていたのである。

Ｏ氏の主催で工業クラブに開かれた茶の会で探険隊員に紹介されてはじめて自分のぼんやりした頭の頂上へソビエト国の科学的活動に関する第一印象の<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>を打ち込まれたわけである。

隊長シュミット氏は一行中で最も偉大なる<ruby><rb>体躯</rb><rt>たいく</rt></ruby>の持ち主であって、こういう黒髪<ruby><rb>黒髯</rb><rt>こくぜん</rt></ruby>の人には珍しい<ruby><rb>碧眼</rb><rt>へきがん</rt></ruby>に深海の色をたたえていた。学術部長のウィーゼ博士は物静かで<ruby><rb>真摯</rb><rt>しんし</rt></ruby>ないかにも北欧人らしい好紳士で<ruby><rb>流暢</rb><rt>りゅうちょう</rt></ruby>なドイツ語を話した。この人からいろいろ学術上の仕事の話を聞いた後に「<ruby><rb>日光</rb><rt>にっこう</rt></ruby>は見たか」と聞いたら「否」、「芝居は」と聞いたら「否」と答えたきりで黙ってしまった。海流の研究の結果から氷洋の中に未見の島の存在を予報したこの人には「日光」や「カブキ」は問題にならなかった。地球磁力や気象の観測を受け持って来たただ一人の婦人部員某夫人は、男のように短く切りつめた断髪で、青い着物を着ていた。どこか小鳥のような感じのする人で仏語のほかは話さなかったようである。そのほかの若い生物学者や地質学者やみんなまじめで上品で気持ちのいい人たちであった。日本のマルキシストなどとはだいぶちがった感じのする人たちであった。映画監督のシュネイデロフ氏はだれも格好な話し相手がなくて、すみのほうの<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に押し黙って所在なさそうに見えた。日本の学者たちの、この人にはおそらくはなはだ珍しかったであろうと思われる<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>を彼一流のシネマの目で観察していたことであろう。

その翌日また別の席でこれらの人たちと<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>を共にしてシュミット、ウィーゼ両氏の簡単な講演を聞く機会を得た。

北極をめぐる諸科学国が互いに協力して同時的に気象学的ならびに一般地球物理学的観測を行なういわゆるインターナショナル・ポーラー・イヤーに際会してソビエト政府は都合八組の観測隊を北氷洋に派遣した。その中の数隊は極北の島々にそれぞれの観測所を設けて地磁気や気象の観測をしたり、あるいは火薬の爆発によって人工地震波を作りそれを地震計で観測した結果から氷盤の厚さを測定したり、あるいはまた近ごろ学界の問題になっている<ruby><rb>宇宙線</rb><rt>コスミックレー</rt></ruby>に連関して空気の電離状態を研究したりすることになっている。またチェリュスキン<ruby><rb>岬</rb><rt>みさき</rt></ruby>とレナ河口とにも観測所を設け、後者の一部は永久的のものにする。一方ではレニングラードからランゲル島へかけベーリング海近くまでも飛行機を飛ばし空中写真測量で北シベリアいったいの地図を作る事になっている。なおそのほかに探険船シビリアコフ号を<ruby><rb>艤装</rb><rt>ぎそう</rt></ruby>して途中でいろいろの観測研究をすると同時にただひと夏に北氷洋を乗り切るという最初のレコードを作ろうという計画を立て、それが立派に成功したのである。この船の航海中に遭遇したいろいろな困難のエピソードについてはすでに新聞雑誌にかなり詳しく紹介されたからここに繰り返すまでもない。しかしこの成功が決して偶然の<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>によるものではなくてちゃんとした科学的な基礎の上に立つものであるということを知る人が少ないようである。ウィーゼ氏の話によると数年来かの国の気象学者たちは、気圧その他の気象学的要素の配置から夏期における北氷洋上の氷の分布状況を予報することを研究し、それがだいぶうまく的中するようになった。そのおかげで今度の航海がたいへんに楽であったというのである。ことしの大規模の観測所増設によって、今後北氷洋の状況がますます明らかになればなるほど今後の航海はますます楽になるわけであろう。

この航海のおもなる使命は純学術的よりはむしろより多く経済的なものであって、それも単にロシアの氷海を太平洋に連絡させるというのみでなく、<ruby><rb>莫大</rb><rt>ばくだい</rt></ruby>な富源の宝庫ヤクーツクの関門と見るべきレナ河口と、ドヴィナ湾との間に安全な定期航路を設定しようというのだそうである。

映画「トルクシブ」を見たときに、スクリーンに現われた地図の上を一本の光の線で示された鉄路の触手がにょろにょろと南に延びて行ってヒマラヤの北に近づくを見た。今度の探険隊員の講演の際壁にかけられた粗末な北氷洋の海図の上を赤い線で示された航路の触手がするすると東に延びて、それがベーリング海峡を越えて横浜まで届くのを見た。さて、この次の三本目の触手はどこへ向かって延びるかが気になる。

一九〇九年の夏帝都セントピータースバーグを見物した時には大学の理科の先生たちはたいてい休暇でどこかへ旅行していて留守であった。気象台の測器検定室の<ruby><rb>一隅</rb><rt>いちぐう</rt></ruby>には聖母像を祭ってあって、それにあかあかとお燈明が上がっていた。イサーク寺では僧正の<ruby><rb>法衣</rb><rt>ほうえ</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>する善男善女の群れを見、十字架上の<ruby><rb>耶蘇</rb><rt>やそ</rt></ruby>の寝像のガラスぶたには多くのくちびるのあとが歴然と印録されていた。

通例日本の学者の目に触れるロシアの学者の仕事は、たいてい、ドイツあたりの学術雑誌を通して間接に見るだけであるが、科学の国としてのロシアの独立なる存在は、かの国の国是の変わった今日でもなおわれわれの目にはあまり濃厚な影を宿さなかったのであるが、今回の突然なシビリアコフ号の太平洋出現は真に<ruby><rb>閃電</rb><rt>せんでん</rt></ruby>のごとく日本の学界の上に強い印象の光を投げたであろうと思われる。

ソビエト政府はこれらの学術的探険のために五百五十万ルーブリを投じたそうである。東洋の学術国日本の政府が学術のために現にどれだけの金を出しているかが知りたいものである。

新聞で見るとソビエトの五か年計画の一つとしてハバロフスクに百三十キロの大放送局を建設し、イルクーツク以東に二十キロ以上の放送局を五十か所作るということである。これが実現した暁には北西の空からあらゆる波長の電磁波の<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>が<ruby><rb>澎湃</rb><rt>ほうはい</rt></ruby>としてわが国土に襲来するであろう。

思想などというものは物質的には夢のようなものである。半世紀たたないうちに消えてしまわなければ変化してしまう。日本には昔からずいぶんいろいろな危険思想が海外から幾度となく輸入されたが、それが抑圧に抗しながらやっと土着するころにはいつのまにかすっかり消化され日本化されてしまって結局はみんな大日本を肥やす肥料になっていた。

しかし科学的物質的の侵略の波は決して夢のようなものではない。これにはやはり科学的物質的の対策を要する。将来の外交はもはやジュネヴで演説をしたり、たんかを切ってうれしがるだけではすまなくなるであろう。北氷洋に中央アジアに、また太平洋に成層圏に科学的触手を延ばして一方では世界人類の福利のために貢献すると同時に、他方ではまた他の科学国と対等の力をもって科学的な競技場上に<ruby><rb>相</rb><rt>あい</rt></ruby><ruby><rb>角逐</rb><rt>かくちく</rt></ruby>しなければおそらく一国の存在を確保することは不可能になるであろうと思われる。まさにこの意味においても日本が今「非常時」に際会していることを政府も国民も考えてもらいたいものである。

北氷洋の氷の割れる音は近づく運命の秋を警告する<ruby><rb>桐</rb><rt>きり</rt></ruby>の一葉の軒を打つ音のようにも思われるのである。

（昭和八年一月、鉄塔）