Soranoha

病院の夜明けの物音

びょういんのよあけのものおと

寺田 寅彦

朝早く目がさめるともうなかなか二度とは寝つかれない。この病院の夜はあまりに静かである。二つの時計――その一つは小形の置き時計で、右側の壁にくっつけた戸棚とだなの上にある、もう一つは懐中時計でベットの頭の手すりにつるしてある――この二つの時計の秒を刻む音と、足もとのほうから聞こえて来る付添看護婦の静かな寝息のほかには何もない。ただあまりに静かな時に自分の頭の中に聞こえる不思議な雑音や、枕まくらに押しつけた耳に響く律動的なザックザックと物をきざむような脈管の血液の音が、注意すればするほど異常に大きく強く響いてくる。しかしそれはじきに忘れてしまって世界はもとの悠久ゆうきゅうな静寂に帰る。ところが五時ごろになると奇妙な音が聞こえだす。まず病室の長い廊下のはるかに遠いかなたで時々カチャンと物を取り落としたような音がする、それから軽くパタ〱〱とたとえば草履ぞうりで廊下を歩くような音も聞こえる。これらのかすかな、しかし原因のわからない、なんだかこの世のあらゆる現実の物音とは比較のできないような雑音が不規則な間隔を置いて響いて来る。それが天井の高い、長い廊下に反響してなんとなく空虚なしかも重々しい音色に聞こえるのである。しばらく止まっているかと思うとまた始まる。そして今度は前に聞こえたとは少し違った見当に、しかも前よりはだいぶ近い所で聞こえだす。近よるに従ってこの音は前のような不思議な性質を失って、もっと平凡な現実的な音色に変わって来る。それはちょうど鉄鎚てっついで鉄管の端を縦にたたくような音である。不意に自分のベットの足もとのほうでチョロ〱〱と水のわき出すような音がしばらくつづいて、またぱったりやむ。鉄管をたたくような音がだんだん近くなって来ると、今度は隣室との境の壁の下かと思う所で、強くせわしなくガチンガチンと鳴りだす。たとえばそれは小さいしかし恐ろしい猛獣がやけに檻おりにぶっつかるかと思うような音である。すると今まで鈍い眠りに包まれていた病室が急に生き生きした活気を帯びて来る。さらにこの活気に柔らかみを添えるのは、鉄をたたく音の中に交じってザブ〱ザブ〱と水のあふれ出すような音と、噴気孔から蒸気の吹き出すような、もちろんかすかであるが底に強い力と熱とのこもった音が始まる。このようないろいろの騒がしい音はしばらくすると止まって、それが次の室に移り行くころには、足もとの壁に立っている蒸気暖房器の幾重にも折れ曲がった管の中をかすかにかすかにささやいて通る蒸気の音ばかりが快い暖まりを室内にみなぎらせる。すると今まで針のように鋭くなっていた自分の神経は次第に柔らいで、名状のできない穏やかな伸びやかな心持ちが全身に行き渡る。始めて快いあくびが二つ三つつづけて出る。ちょうどそのころに枕まくらもとのガラス窓――むやみに丈たけの高い、そして残忍に冷たい白の窓掛けをたれた窓の外で、キュル、キュル〱〱と、糸車を繰るような濁ったしかし鋭い声が聞こえだす。たぶんそれは雀すずめらしい。いったいこの寒い夜中をどんな所にどうして寝ていたのであろうか。今一夜の長い冷たい眠りからさめて、新しい日のようやく明けるのを心から歓喜するような声である。始めの一声二声はまだ充分に眠りのさめきらぬらしい口ごもったような声であるが、やがてきわめて明瞭めいりょうな晴れやかなさえずりに変わる。窓の外はまだまっ暗であるが「もう夜が明けるのだな」という事が非常に明確な実感となって自分の頭に流れ込む。重苦しい夜の圧迫が今ようやく除かれるのだという気がすると同時にこわばって寝苦しかった肉体の端から端までが急に柔らかく快くなる。しばらく途絶えていた鳥の声がまた聞こえる。するとどういうものか子供の時分の田舎いなかの光景がありあり目の前に浮かんで来る。土蔵の横にある大きな柿かきの木の大枝小枝がまっさおな南国の空いっぱいに広がっている。すぐ裏の冬田一面には黄金色こがねいろの日光がみなぎりわたっている。そうかと思うと、村はずれのうすら寒い竹やぶの曲がり角かどを鳥刺し竿ざおをもった子供が二三人そろそろ歩いて行く。こんな幻像を夢うつつの界さかいに繰り返しながらいつのまにかウトウト眠ってしまう。看護婦がそろそろ起き出して室内を掃除そうじする騒がしい音などは全く気にならないで、いい気持ちに寝ついてしまうのである。

このような朝をいくつとなく繰り返した。しかし朝の五時ごろにいつでも遠い廊下のかなたで聞こえる不思議な音ははたして人の足音や扉とびらの音であるか、それとも蒸気が遠いボイラーからだんだんに寄せて来る時の雑音であるか、とうとう確かめる事ができないで退院してしまった。今でもあの音を思い出すとなんとなく一種の――神秘的というのはあまり大げさかもしれぬが、しかしやはり一種の神秘的な感じがする。なぜそんな気がするのかわからない。遠い所から来る音波が廊下の壁や床や天井からなんべんとなく反射される間に波の形を変えて、元来は平凡な音があらゆる現実の手近な音とはちがった音色に変化し、そのためにあのような不可思議な感じを起こさせるのか、あるいは熱い蒸気が外気の寒冷と戦いながら、徐々にしかし確実に鉄管を伝わって近寄って来るのが、なんだか「運命」の迫って来る恐ろしさと同じように、何かしら避くべからざるものの前兆として自分の心に不思議な気味のわるい影を投げるのか、考えてもやっぱりわからない。

これとはなんの関係もない事だが、自分の病気の経過を考えてみるとなんだか似よった点がないでもない。気味のわるい、不安な、しかし不確かな前兆が長くつづいている間にだんだんに何物かが近よって来る。それが突然破裂すると危険はもう身に迫っている。しかし危険が現実になればもう少しも気味のわるい恐ろしさはない。

病院の蒸気ストーブは数時間たつとだんだんに冷えて来る。冷えきったころにはまた前のような音がして再び送られて来る蒸気で暖められる。しかし昼間は、あの遠い所でする妙な音はいろいろな周囲の雑音に消されてしまうのか、ただすぐ自分の室のすみでガチャンガチャンと鳴るきわめて平凡で騒々しい、いくらか滑稽味こっけいみさえ帯びた音だけが聞こえる。夜明け前の寂寞せきばくを破るあの不思議な音と同じものだとはどうしても思われない。

自分の病気と蒸気ストーブはなんの関係もないが、しかし自分の病気もなんだか同じような順序で前兆、破裂、静穏とこの三つの相を週期的に繰り返しているような気がする。少なくも、これでもう二度は繰り返した。いちばんいやなのはこの「前兆」の長い不安な間隔である。「破裂」の時は絶頂で、最も恐ろしい時であると同時にまた、適当な言葉がないからしいて言えば、それは最も美しい絶頂である。不安の圧迫がとれて貴重な静穏に移る瞬間である。あらゆる暗黒の影が天地を離れて万象が一度に美しい光に照らされると共に、長く望んで得られなかった静穏の天国が来るのである。たとえこの静穏がもしや「死」の静穏であっても、あるいはむしろそうであったらこの美しさは数倍も、もっともっと美しいものではあるまいか。

(大正九年三月、渋柿)

底本 / Source edition

底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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寺田 寅彦「病院の夜明けの物音」(新字新仮名)、底本『寺田寅彦随筆集 第一巻』岩波文庫、岩波書店、1947年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002435_000042, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite