ヴェニスから

お寺の<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>に豆を買ってやることは日本に限ることと思っていましたがここのサンマルコのお寺の前でも同じことをやっています。ただし豆ではなくてとうもろこしを細長い<ruby><rb>円錐形</rb><rt>えんすいけい</rt></ruby>の紙袋につめたのを売っています。

大道で<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>を煮立たせて、ゆでだこを売っている男がいました。

ヴェニスの町は朽ちよごれているが、それは美しく朽ちよごれているので壁のはがれたのも、ないしは窓からぶら下げたせんたく物までも、ことごとく言うに言われぬ美しくくすんだいい色彩を示しています。霜枯れ時だのに、美しい<ruby><rb>常磐木</rb><rt>ときわぎ</rt></ruby>の緑と、青玉のような水の色とが古びた家の黄や赤や茶によくうつります。

ゴンドラもおもしろく、貧しい女も美しく見えます。

（明治四十三年一月、東京朝日新聞）

ローマから

ローマへ来て累々たる<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>の間を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>しています。きょうは市街を離れてアルバノの湖からロッカディパパのほうへ古い火山の跡を見に参りました。至るところの山腹にはオリーブの実が熟して、その下には羊の群れが遊んでいます。山路で、<ruby><rb>大原女</rb><rt>おはらめ</rt></ruby>のように頭の上へ枯れ枝と<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>を一度に束ねたのを載っけて、<ruby><rb>靴下</rb><rt>くつした</rt></ruby>をあみながら歩いて来る女に会いました。<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>の長い牛に材木車を引かせて来るのもあれば、<ruby><rb>驢馬</rb><rt>ろば</rt></ruby>に炭俵を積んで来るのもありました。みかんの木もあれば竹もあります。目と髪の黒い女が水たまりのまわりに集まってせんたくをしているそばには鶏が群れ遊び、豚が路傍で鳴いています。バチカンも一部見ましたが、ここの名物はうまい物ばかりのようであります。

（明治四十三年二月、東京朝日新聞）

ベルリンから（一）

今ここのベルリイナア座で「タイフン」という芝居をやっています。作者はハンガリー人で、日本の留学生のことを仕組んだものだそうです。たいへん人気がいいそうであります。主人公の日本人の名がドクトル・タケラモ・ニトベというのだそうで、このタケラモだけでも行って見る気がしなくなります。人の話によるとなかなかよく日本人の特性をうがっていて、むしろ日本人の美点を表現しているそうですが、タケラモに恐れてまだ見ません。

（明治四十三年四月、東京朝日新聞）

ベルリンから（二）

今度の旅行中は天気の悪い日が多くて、ことにスイスでは雨や霧のためにアルプスの雪も見えず、割合につまりませんでした。それでもモンブランの氷河を見に行った日は天気がよくておもしろうございました。寒暖計を一本下げて気温を測ったりして歩きました。つるはしのような<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>をさげて<ruby><rb>繩</rb><rt>なわ</rt></ruby>を肩にかついだ案内者が、英語でガイドはいらぬかと言うから、お前は英語を話すかときくと、いいえと言いました。すべらない用心に<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>の上へ靴下をはいて、一人で氷河を渡りました。いい心持ちでした。氷河の向こう側はモーヴェ・パーという険路で、高山植物が山の間に花をつづり、ところどころに滝があります。ここから谷へおりる途中に、小さなタヴァンといったような家の前を通ったら、後ろから一人追っかけて来て、お前は日本人ではないかとききますから、そうだと答えたら、私は英人でウェストンというものだが、日本には八年間もいてあらゆる高山へ登り、<ruby><rb>富士</rb><rt>ふじ</rt></ruby>へは六回登ったことがあると話しました。その細君は宿屋の前の草原で靴下を編んでいました。そこから谷底へおりてシャモニの村まで歩きましたが、道ばたの牧場には首へ鈴をつけた牛が放し飼いにしてあって、その鈴の音が非常にメロディアスに聞こえます。また番人の子供やばあさんもほんとうに絵のようで愉快でした。日本にもあるような秋草が咲いていたり、踏切番の小屋に菊が咲いていたり、路傍のマリヤのみ堂に花が供えてあるのも見ました。シャモニの町へはいるころには、もう日が暮れかかって、まっかな夕日がブゾンの氷河の頂を染めた時は実にきれいでした。村の町には名物の<ruby><rb>瑪瑙細工</rb><rt>めのうざいく</rt></ruby>やら牛の角細工を並べた店ばかり連なって、こういう所にはおきまりのキネマが自働ピアノで客を呼んでいました。パリあたりから来ているらしい派手な服装をした女が散歩していました。

シャモニからゼネヴへ帰って、郊外に老学者サラサン氏をたずねました。たいへん喜んで迎えてくれ、自分の馬車にのせて町じゅうを案内してくれました。昼飯をよばれてから後にその広い所有地を見て歩きました。この人の細君が私どもの論文を仏訳してここの学術雑誌に載せてくれたのだそうです。ここはもうフランスの国境近くで、屋敷のベランダから牧場越しに国境の森が見え、またヴォルテールの住まっていたという家も見えます。<ruby><rb>毛氈</rb><rt>もうせん</rt></ruby>のような草原に二百年もたった<ruby><rb>柏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の木や、百年余の<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>の木がぽつぽつ並んで、その間をうねった小道が通っています。地所の片すみに地中から空気を吹き出したり吸い込んだりする井戸があって、そこでその理屈を説明して聞かせました。低気圧が来る時には噴出が盛んになって<ruby><rb>麦藁帽</rb><rt>むぎわらぼう</rt></ruby>くらい<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き上げるなどと話しました。それから小作人の住宅や牛小屋、豚小屋、<ruby><rb>糞堆</rb><rt>ふんたい</rt></ruby>まで見て歩きました。小作人らに一々アローと声をかけて、一言二言話していました。農家の建て方など古い昔のままだそうです。

屋敷の入り口から玄関までは<ruby><rb>橡</rb><rt>とち</rt></ruby>の並み木がつづいています。その両わきはりんご畑でちょうどりんごが赤く熟していました。書斎にはローマで買って来たという大理石の半身像が幾つもある。サラサン氏は一々その頭をなでその顔をさすって見せるのでした。その中に一つ頭の大きな少年の像があってたいへんにいい顔をしている。先生の一番目の嬢さんがまだ子供の時分この半身像にすっかりラヴしてしまって、おとうさんの<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を踏み台にしては石像に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>したそうです。そのさまを油絵にかかした額が客間にかかっていました。霧があって小雨が降って、誠に静かな日でした。

ゼネヴからベルン、チューリヒ、ルツェルンなどを見て回りました。ルツェルンには戦争と平和の博物館というのがあって、日露戦争の部には俗悪な<ruby><rb>錦絵</rb><rt>にしきえ</rt></ruby>がたくさん陳列してあったので少しいやになりました。至るところの谷や斜面には牧場が連なり、りんごが実って、美しい国だと思いました。

それからストラスブルクを見て、ニュルンベルクへ参りました。中世のドイツを見るような気がしておもしろうございました。<ruby><rb>市庁</rb><rt>ラートハウス</rt></ruby>の床下の囚獄を見た時は、若い娘さんがランプをさげて案内してくれました。罪人は<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>も何もない板の寝床にねかされて、パンも水ももらえなかったと話しました。いっしょに行ったチロル帽の老人がいろいろ質問を出すけれども、娘の案内者は詳しい事は何も知らないので要領を得ませんでした。これから地下の廊下を十五分も行くと深い井戸があるが見に行きますかという。しかし老人の細君が不賛成を唱えてとうとう見ずに引き返しました。それから画伯デュラーの住居の跡も見ましたが、そこの入場券が<ruby><rb>富札</rb><rt>とみふだ</rt></ruby>になっています。名高い古城の片すみには昔の刑具を陳列した塔があります。色の青い小さい女が説明して歩く。いっしょに見て歩いた学生ふうの男がこの案内者に「お前さんのように毎日朝から晩まで身の毛のよだつような話を繰り返していてそれでなんともありませんか」と意地の悪いことをきくと女はただ苦笑していました。私はその埋め合わせのようなつもりで、絵はがきを少々ばかり買ってやりました。そうして白銅一つやって逃げて来ました。ミュンヘンでは四日泊まりました。ピナコテークの画堂ではムリロやデュラーやベクリンなどを飽くほど見て来ました。それからドレスデンやらエナへ行って後、ワイマールに二時間ばかりとどまって、ゲーテとシラーの家を見ました。ゲーテが死ぬ前に庭の土を取り寄せて<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>へ入れて分析しようとしていたら、急に悪くなったのだそうで、書斎の窓の下の高い書架の上に土を入れた皿が今でも置いてあります。隣の寝室へかつぎ込んだが、寝台の上へ横になることができなくて<ruby><rb>肱掛椅子</rb><rt>ひじかけいす</rt></ruby>にもたれたままだったそうです。<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>の横の台の上には薬びんと<ruby><rb>急須</rb><rt>きゅうす</rt></ruby>と茶わんとが当時のままに置いてあります。書斎の机でも寝室でも意外に質素なもので驚きました。二階の<ruby><rb>室々</rb><rt>へやべや</rt></ruby>にはいろいろな遺物など並べてありますが、私にはゲーテの実験に使った物理器械や標本などがおもしろうございました。シラーの家はいっそう質素と言うよりはむしろ貧しいくらいでした。ゲーテの家には制服を着けた立派な番人が数人いましたが、シラーのほうには<ruby><rb>猫背</rb><rt>ねこぜ</rt></ruby>の女がただ一人番していました。裏庭の向こう側の窓はもうよその家で、職人が何か細工をしていたようです。シラー町の突き当たりの<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>は大きな当世ふうのカッフェーで、ガラス窓の中から二十世紀の男女が、通りかかった毛色の変わった私を珍しそうに見物していました。町も<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>も落ち葉が散り敷いて、古い<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>の壁には血の色をした<ruby><rb>蔓</rb><rt>つた</rt></ruby>がからみ、あたたかい日光は宮城の番兵の<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>に光っておりました。

私はもう十日ばかりでベルリンを引き上げ、ゲッチンゲンへ参ります。

（明治四十三年十月、東京朝日新聞）

ゲッチンゲンから

去年の<ruby><rb>降誕祭</rb><rt>ワイナハト</rt></ruby>は旅でしました。ウィーンで夜おそく町をうろついて、タンネンバウムを売っているのを見た時にちょうど門松と同じだと思ったのと、ヴェネディヒで二十五日の晩おびただしい人が狭い暗い町をただぞろぞろ歩くのを見てさびしい思いをしたきりでしたが、ことしはここの<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>で田舎らしい純粋の<ruby><rb>降誕祭</rb><rt>ワイナハト</rt></ruby>を経験しました。二十二日の晩宿の主婦から、<ruby><rb>天主教</rb><rt>カトリック</rt></ruby>の<ruby><rb>幼稚園</rb><rt>キンダアガルテン</rt></ruby>で<ruby><rb>降誕祭式</rb><rt>ワイナハトフェスト</rt></ruby>があるから行かぬかと誘われたので行って見ました。主婦と娘と、家事の見習いかたがた手伝いに来ているというスチューバー嬢と四人で行きました。狭い<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>におもちゃのような小さい低い机と<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を並べて、それにいっぱい子供がうようよしている。みんな貧しそうな子ばかりで、中には<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>を引いたのがだいぶあって、かわいそうに絶えず<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をして騒々しい。白の<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>に黒服で丸く<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った<ruby><rb>尼たち</rb><rt>シュエスター</rt></ruby>が二人そばに立って監督している。室の後方の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>があいている外側には、このへんの貧民がいっぱい立って騒々しく話している。机に並べられた子供の中には延び上がって後ろの群集を珍しそうにながめるのもあります。するとシュエスターが立って行って、頭をパタパタとたたいて向こうむきにすわらせる。そのうちに一人の子が、群集の中から<ruby><rb>阿母</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>の顔を見つけて、急に恋しくなって泣き出した。シュエスターが抱いて母親の所へつれて行ってやっとすかして席へつかしたが、やはり渋面をしては後ろを向いている。おおぜいの子供の中にはあくびをしているのもある。眠くてコクリコクリするのもあります。堂のすみには大きなタンネンバウムが立ててあってシュエスターが<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>に火をつけ始めるとみんなそっちを見る。<ruby><rb>樹</rb><rt>バウム</rt></ruby>の下の小さなお堂の中に人形の<ruby><rb>基督孩児</rb><rt>クリストキンド</rt></ruby>が寝ている。やがて背中に<ruby><rb>紗</rb><rt>しゃ</rt></ruby>の翼のはえた、頭に金の冠を着た子供の天使が二人出て来て<ruby><rb>基督孩児</rb><rt>クリストキンド</rt></ruby>の両側に立つ。天使の一人はたいへん<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>が出て苦しそうで背中の翼がふるえているが、それでも我慢して一生懸命にすましている。そして大きなかわいい目をして私の顔を珍しそうに見ていました。そのうち<ruby><rb>老僧</rb><rt>ファーター</rt></ruby>が出て来て<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>を始めました。あまり立派でない<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着たままで、めがねの上から子供とお客とを等分に見ながら、鼻へ掛かった声でだいぶ長く述べ立てました。ワイナハトの起原などから話しましたが、子供の<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>は絶え間なしで騒々しく、咳の出ない子はだいぶ退屈しているようでした。きょう子供の<ruby><rb>贈物</rb><rt>ゲシェンク</rt></ruby>にする人形の着物をほとんど一手で縫うたシュエスター何某が、病気で欠席されたのは遺憾でありますというような<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>もありました。この挨拶が済むと、監督の尼さんが音頭をとって、子供の唱歌が始まり、それから正面の壇へ大きい子供がかわるがわる出て暗唱をすると、尼さんが心配して下から小さい声でいっしょに暗唱するのでした。それからワイナハトマンが袋をかついで出て来ておどけて笑わせて、それで式が済みお客さんはみんな別室へはいって、ここへ陳列した子供への贈物を一覧するわけでした。なるほどこれは子供が喜ぶことだろうと思いました。式が済むと、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の外にいた貧民が一時に押し込んで施与を受けようとするので、なかなかの大混雑で、やっとの事で出て来ました。

降誕祭前一週間ほど、市役所前の広場に<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>の<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>が立って、安物のおもちゃや<ruby><rb>駄菓子</rb><rt>だがし</rt></ruby>などの露店が並びましたが、いつ行って見ても不景気でお客さんはあまり無いようでした。売り手のじいさんやばあさんも長い<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を吹かしたり編み物をしているのでありました。ひやかしていると、「ドクトルの<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>さん、<ruby><rb>降誕祭贈物</rb><rt>ワイナハトゲシェンク</rt></ruby>はいかがです」と呼びかけるのもありました。町の店屋へ買い物に行くと、お前さんの故国でもワイナハトを祝うかなぞときくのがだいぶありました。

<ruby><rb>降誕祭</rb><rt>ワイナハト</rt></ruby>の初めの日には、<ruby><rb>主婦</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんが、タンネンバウムを飾るから手伝ってくれぬかと言うので、お手伝いしました。たいそう古くなったお菓子を黄色いリボンで縛ったのが一箱あって、これもつるすのだといって、<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の木へほかの飾り物といっしょにつるしました。これは十四年前におばあさんが買ったお菓子だということでした。同じ宿にいる女優のスタルク嬢も、前だれなどかけて三階から降りて来て手伝いました。いちばん高い枝につるすには<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>が入用でした。あぶないと言ったがきかないで、スタルク嬢がつるしました。その夜の十一時の汽車で<ruby><rb>主婦</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんのむすこが帰って来るということでした。このむすこも娘も主婦さんの<ruby><rb>継子</rb><rt>ままこ</rt></ruby>だそうです。むすこはエーベルフェルドの電気工場に勤めているそうで、それがワイナハトには久しぶりで帰るというので、この間じゅうから妹娘が<ruby><rb>贈物</rb><rt>ゲシェンク</rt></ruby>する<ruby><rb>襟飾</rb><rt>えりかざり</rt></ruby>を編んでいました。とうとうできあがらないとこぼしていました。都合で夕食後にバウムに<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をつけました。きれいでした。<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の片側へ机を並べて、皆一同の贈物が陳列してありました。二人の下女もそれぞれ反物をもらって喜んでいました。親子が贈物を取りかわし「ムッター」「ヘレーネ」とお互いに<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>するのはちょっと不思議に思われました。主婦がピアノの前にすわって、みんなでワイナハトの歌をうたいました。雪のふるのがほんとうだそうですが、この晩は暴風雨のような雨が降ってひどい天気でした。記念にバウムの写真をとりたいと思って、町へマグネシウムを買いに出ましたら、町の家々の窓にもワイナハトバウムの光が映って、ところどころ音楽も聞こえて愉快そうに見えました。十一時過ぎにむすこが帰って来ましたが、私はもう<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ帰って床の中で新聞を見ていましたから、その夜は会いませんでした。夜ふけるまで隣の室で低い話し声が聞こえていました。むすこはそれから三日目の晩食後に帰って行きましたが、その晩食の席で主婦がサンドウィッチをこしらえて新聞に包んでやりました。汽車の着くのは夜半だからといって、いちばん厚いパンの切れを<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>っていました。食事が済んで汽車の出るまでだいぶ間があるので、むすこはピアノの前へすわってワイナハトの歌などひいていました。<ruby><rb>主婦</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんとむすこは始終いろいろ話しておりましたが、兄妹の間にはいっこうなんの話もありませんでした。それでもネクタイはやっとできあがったそうでした。

ゆうべはジルヴェスターアーベンドというので、またバウムに<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>をともしました。そして食後にあたたかいプンシュを飲んで、お菓子をかじりました。食堂の<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>に飾ってある<ruby><rb>葡萄</rb><rt>ぶどう</rt></ruby>が毎日少しずつなくなるのは不思議だという話が出ました。きょうはたった四つになったといってわざわざ見せてくれました。ある主婦が盗み食いをする下女を懲らすためにお菓子の中へ吐剤を入れておいた話も聞きました。スタルク嬢は<ruby><rb>下稽古</rb><rt>したげいこ</rt></ruby>でおそくなってやって来ました。この人はいつでも忙しい忙しいといっています。<ruby><rb>田舎芝居</rb><rt>いなかしばい</rt></ruby>で毎日変わった物を演ずるので、下読みが忙しいそうです。ある日、いつも外出する時間に出ないで<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>にいましたら、隣の食堂で下読みが始まってちょっと驚きました。あとで聞いたらレッシングの「ミンナ・フォン・バルンヘルム」とかであったそうです。

この<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>の晩十二時に日本へ送る年賀状を出しに出ました。町の<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>で子供が二三人雪を往来の人に投げつけていました。市役所のへんまで行くと暗やみの広場に人がおおぜいよっていて、町の家の二階三階からは寒いのに窓をあけて下をのぞいている人々の顔が見える。市役所の時計が十二時を打つと同時に隣のヨハン<ruby><rb>会堂</rb><rt>キルヘ</rt></ruby>の鐘が鳴り出す。群集が一度にプロージット・ノイヤール、プロージット・ノイヤールと叫ぶ。爆竹に火をつけて群集の中へ投げ出す。赤や青の火の玉を投げ上げる。遅れて来る人々もあちこちの横町からプロージット・ノイヤールと口々に叫ぶ。町の雪は半分<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>のようになった上を<ruby><rb>爪立</rb><rt>つまだ</rt></ruby>って走る女もあれば、五六人隊を組んで歌って通る若者もある。巡査もにこにこして、時々プロージットの返答をしている。学生が郵便配達をつかまえて、ビールの息とシガーの煙を吹きかけながら、ことしもまたうんと書留を持って来てくれよなどと言って困らせている。ふざけて抱き合う拍子にくわえたシガーが<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>の上へ落ちたのを拾ってはまた吸っています。プラッツのすみのほうに<ruby><rb>銅壺</rb><rt>どうこ</rt></ruby>をすえてプンシュを売っている男もありました。寺の鐘は十五分ほど鳴っていました。帰って来る途中のさびしい町でもところどころ窓から外を見ている人がありました。帰って寝ようと思ったら窓の下でだれかプロージット・ノイヤールと大きな声がして、向こうの家からプロージットプロージットとそれに答えているのが聞こえました。

書いている間に日が暮れました。いっこう元日らしいところはありません。きょうから隣の空室へ判事試補マイヤー君が宿をとりました。法科のベルナー君や理科のデフレッガア君などは目下郷里へ帰ってたいへん静かであります。

長々と書いたもののいっこうつまらなくなりました。

（明治四十四年二月、東京朝日新聞）

パリから（一）

私の宿はオペラの近くでちょっと引っ込んだ裏町にあります。二三町出るとブールバール・デジタリアンの大通りです。たいてい毎朝ここへ出て<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>で新聞を買います。初めてノートルダームに行った日はここから乗合馬車に乗ってまずバスチールの<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>まで行きました。音に聞いた囚獄は跡方もありません。七月の碑という高い記念碑がそびえているばかりです。頂上には自由の神様が引きちぎった鎖と<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>を持って立っています。恐ろしい風の強い日で空にはちぎれた雲が飛んでいるので、仰いで見ているとこの神像が空を駆けるように見えました。辻の広場には<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>や紙切れが<ruby><rb>渦巻</rb><rt>うずま</rt></ruby>いていました。

広場に向かって Au canon という料理屋があって、軒の上に大砲の看板が載せてあります。ここからまた馬車の二階に乗ってオテルドヴィーユまで行きました。通りの片側には<ruby><rb>八百屋物</rb><rt>やおやもの</rt></ruby>を載せた小車が並んでいます。売り子は多くばあさんで黒い<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかぶ</rt></ruby>り黒い肩掛けをしています。市庁の前で馬車を降りてノートルダームまで<ruby><rb>渦巻</rb><rt>うずまき</rt></ruby>の風の中を泳いで行きました。どこでも名高いお寺といえばみんな一ぺん<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>でいぶしていぶし上げてそれからざっとささらで洗い流したような感じがしますが、このお寺もそうです。ほかの名高い<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>にくらべて別に立派なとも思いませんが両側に相対してそびえた鐘楼がちょっと変わった感じを与えます。入り口をはいるとここに限らず一時まっ暗になる。足もとから不意に鋭い声でプール・レ・ポーヴルと呼びかける。まっ白い大きな<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>を着た尼さんが袋をさし出している。袋の底から銀貨が光っていました。はいって来る信徒らは皆入り口の壁や柱にある<ruby><rb>手水鉢</rb><rt>ちょうずばち</rt></ruby>に指の先をちょっと入れて、額へ持って行って胸へおろしてそれから左の乳から右の乳へ十字をかく。堂のわきのマドンナやクリストのお像にはお<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>がともって二三人ずつその前にひざまずいて祈っている。蝋燭を売るばあさんがじろじろと私を見る。堂のまん中へ立って高い色ガラスの窓から照らす日光を仰いで見るのはやはりよい心持ちがします。午後でしたからお勤めはありません。しかし時々オルガンの低いうなりが響いたり消えたりしていました。右側の回廊の柱の下にマドンナの立像があってその下にところどころ活版ずりの<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>の文句が額になってかけてあります。この祈祷をここですれば大僧正から百日間のアンジュルジャンスを与えるとある。「年ふるみ像のみ前にひれふしノートルダームのみ名によりて祈りまつる、わが神のみ母よ……」というような文句であります。数世紀の間パリの喜び悲しみをわれらの祖先がここにこの像の前に喜び悲しんだというような文句がある。若い女が黒い<ruby><rb>紗</rb><rt>しゃ</rt></ruby>で顔をかくして手に長い<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>を持って像の前に立った。そして欄にもたれてひざまずいてじっとしている。美しい肩が時々波を打って、帽子の黒い鳥の羽がふるえるように見えました。マドンナのすぐわきにジャンダークの<ruby><rb>石膏像</rb><rt>せっこうぞう</rt></ruby>がある。この像の仕上げのために喜捨を募るという張り札がしてある。回廊の引っ込んだ所には、<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりょ</rt></ruby>が<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>をきく所がいくつもある。一昨年始めてイタリアのお寺でこの懺悔をしているところを見ていやな感じがしてから、この仕掛けを見るごとに僧侶を憎み信徒をかわいく思います。奥の廊下の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>のわきに「宝蔵見物のかたはここで番人をお待ちくだされたし」という張り札がしてある。その前で坊さんが二人立ち話をしている。

門を出ると外はからっ風が吹きあれていました。堂の前を右へ回ると塔へ上る階段がある。

薄暗い<ruby><rb>螺旋形</rb><rt>らせんけい</rt></ruby>の狭い階段を上って行く。壁には一面のらく書きがしてある。たいてい見物人の名前らしい。登りつめて中段の回廊へ出る。少し霧がかかってはいるが、サンデニからボアのほうまでも見渡される。鐘楼の下の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>が開いて女が顔を出した。そして塔へ上りますかといって塔の入り口の扉を開く。

「おりて来たらここをたたいてください」といって、ドンドン扉をたたいて見せて、私を塔の中へ閉じこめてしまった。まっ暗な階段を手探りながら登って行って頂上に出る。ひどい風で帽子は着ていられぬ。帽子を脱ぐと髪の毛を吹き乱す。やっとベデカの図を開いてパリじゅうを見おろす。塔の頂の洗いさらされた石材には貝がらの化石が一面についている。寺の歴史やパリの歴史もおもしろいが、この太古の貝がらの歴史も私にはおもしろい。屋根のトタンにも石にも一面に名前や日付が刻みつけてあります。塔をおりて<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>をドンドンたたく。しばらく待ってもあけてくれぬ。またドンドン<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>でける。しばらく待っているとやっとあけてくれた。入れちがいにまた一人塔へ上る人があって、これにも同じ事をいって外から錠をおろす。「セバストポールの鐘をごらんなさい」と先に立って、反対の側の鐘楼へ導く。黒の<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかぶ</rt></ruby>り、黒の肩掛けで、後ろの<ruby><rb>裳</rb><rt>も</rt></ruby>はぼろぼろにきれかかっている。欄干から恐ろしい怪物の形がいくつもパリを見おろしている。

「この怪物をごらんなさい。Penseur\. 年じゅうこうやって<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>をついたまま考えています」という。また鐘楼へもどってはいる。左側にあるのがクリミヤから持ってきたいわゆるセバストポールの鐘、右側のがここのブールドン目方が幾キログラムある、中にさがった舌がいくらいくらと説明する。鐘をゆり動かす仕掛けを見せてくれる。そばにあった鉄の棒でガンガンと軽く鳴らして見せました。特別の祭日でなくてはこの鐘はほんとうには<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>かぬそうです。ユーゴーの小説の種にしたギリシア文字のらく書きはほんとうにあるかときいてみましたら、「今はもうありません。あなたもカジモドの話を御存じですね」といって、青い顔をして笑いました。

もとの入り口の所へ帰ると、さきに塔へ上った男がまた私と同様に内からドンドンたたいている。御免なさいといってあけてやってまた鐘を見せに連れて行きました。

また次に御報いたします。きょうはカルネバルの Mardi\-gras ですからにぎわうことだろうと思います。

（明治四十四年三月、東京朝日新聞）

パリから（二）

このあいだここのユーゴー博物館というのを見ました。ユーゴーの住まっていた家で遺物など陳列して公衆に見せているのです。ユーゴーの描いた絵がたくさんあってなかなかうまいものだと感心しました。この人の作物中の光景を描いたいろんな画家の絵もあります。「ミゼラブル」の中でファンティーヌが往来で乱暴な男に肩へ雪の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>をおっつけられるところもあります。これはユーゴーが実際に見た出来事だそうです。案内者が<ruby><rb>萌黄色</rb><rt>もえぎいろ</rt></ruby>の背広を着た英国人らしいのに説明していました。萌黄の背広に萌黄の柔らかい帽子を着たこういう男にたいていな所で出くわすのは不思議なくらいです。ノルウェーの船でもこんな男に会ったし、ヴェスーヴの火山でも会いました。いずれも巻き舌のような調子で「ウェル」とかなんとか言っているのです。階段の壁に額を掛けた印刷物の前に背の低い肩の怒った男が三人立って大きな声で読んでは何かしゃべっている。これははたしてドイツ人でした。細かい活版を一々読んでいるところがどうしてもドイツ人らしいと思いました。いろんなおもしろいものもありましたが急いで見たのでなんだかまとまった記憶がありません。暇があったらも一度行って見たいと思っています。

きょう（三月二十三日）はミカレームの祭日だそうです。パリじゅうのせんたく女の中でいちばん美しいのを女皇に選挙して盛んな行列をやるというのでしたから、昼過ぎに近所の大通りまで出て見ました。人道のそばには至るところコンフェッチを包んだ紙袋を売っています、仮面や紙の<ruby><rb>塵払</rb><rt>ちりはら</rt></ruby>いや鶏の鳴き声をする笛などを売っている。息を吹き込むとヒョロヒョロと象の鼻のように伸びるおもちゃも売っている。町はたいそうな人出で巡査がおおぜい出て警戒しています。天気がよくて暖かくてなんだか東京の花見時分の心持ちでした。高い家の窓から皆往来を見物している。派手な女帽子が目に立つ。窓から時々コンフェッチを投げるのがちょうど桜の散るような心持ちがします。時々長い紙ひもを投げる者もある。いろんな仮装をした群れも通る。子供が多い。そのうち行列の前駆に騎兵が来ました。ピカピカ光る<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>に黒い髪の毛をたらしている、キュイラシェと言うのだそうです。そのあとから楽隊が来る。止まったきりになっている電車の屋根の上はいっぱいの人でそこからも盛んにコンフェッチを投げる。楽隊のあとから奇妙な<ruby><rb>山車</rb><rt>だし</rt></ruby>が来る。大きな<ruby><rb>亀</rb><rt>かめ</rt></ruby>の頭に煙突が立って背に鉄道の役人の人形が載っている。これが左右にグラグラ揺れ動きながらやって来る。これは国有の西部鉄道の悪口だそうです。それからだんだんに各区の女皇の車が来る。女皇たちは皆にこにこして道の両側にキッスを投げかけている。ワアワアと見物人がはやす。日光が強いので暑そうに顔をしかめているのもある。いろいろの商業団体の旗も来る。それから古代の騎士の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>をした行列が続く。絵画、音楽、詩などを代表した花車も来る。赤十字の旗を立てた救護隊も交じっている。ずっとあとから「女皇中の女皇」マドムアゼルなにがしと言うのが花車の最高段の玉座に冠をいただいてすわっている。それからいろいろ広告の<ruby><rb>山車</rb><rt>だし</rt></ruby>がたくさん来て、最後にまた騎兵が警護していました。行列はこれからリボリの大通りシャンゼリゼーのほうへ押し出すのだそうです。大通りは非常な混雑で、私も時々コンフェッチを投げつけられました。粗末なカフェーへはいって休んでいると、奥のほうの卓を囲んで四五人の男女がマンドリンをひいて歌っています。一昨年始めて西洋の土地を踏んだ晩ゲノアの宿屋で夜ふけに窓の下でマンドリンをひきながら歌う者があった、その歌の調子がいかにも感傷的と言うのか卑俗と言うのか妙な感じがしましたがきょうのもやはり同じ感じがしました。こういう調子はドイツでは聞きませんでした。帰って<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>をふるったら<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>じゅうへコンフェッチがいっぱいに散らばりました。

四五日前オペラでグノーのファウストを聞きました。メフィストの低音が気に入りました。道具立ての立派で真に迫ること、光線の使用の巧みなことはどこでも感心します。音楽の始まる前の合図にガタンガタンと板の間をたたくような音をさせるのはドイツのと違っていて<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>な感じがしました。最後の前の幕にバレーがあります。国にいた時分「スチュディオ」か何かに載せたドガーの踊り子のパステル絵を見て、なんだかばかげたつまらないもののような気がしましたが、その後バレーというものも見、それからドガーの本物の絵も見てから考えてみると、とにかくこの人の絵はこういう一種の光景、運動、色彩、感じというようなものをかなり真実に現わしたものだと思いました。

役者の唱歌は昨年ウィーンで聞いたほうがむしろよかったと思います。この事を同宿のドイツ人に話したら、オペラはドイツに限るのだと言っていばっていました。ここではワグネル物をたとえば四幕のものなら二幕ぐらいに切って演じたり、勝手な事をすると言ってひどく憤慨していました。

（明治四十四年五月、東京朝日新聞）