Soranoha

明治二十四、五年頃の東京文科大学選科

めいじにじゅうし、ごねんころのとうきょうぶんかだいがくせんか

西田 幾多郎

私共が故郷の金沢から始めて東京に出た頃は、水道橋から砲兵工廠こうしょう辺はまだ淋しい所であった。焼鳥の屋台店などがあって、人力車夫が客待をしていた。春日町辺の本郷側の厓がけの下には水田があって蛙が鳴いていた。本郷でも、大学の前から駒込の方へ少し行けば、もう町はずれにて、砂煙の中に多くの肥車こえぐるまに逢うた。

その頃には、今の大学の正門の所に粗末な木の門があった。竜岡町の方が正門であって、そこは正門ではなかったらしい。そこから入ると、すぐ今は震災で全く跡方もなくなった法文科大学の建物があった。それは青山御所を建てたコンドルという英人が建てたとか、あまり大きくもない煉瓦の建物であったが、当時の法文科はその一つの建物の中に納っていたのである。しかもその二階は図書室と学長室などがあって、太いズボンをつけた外山とやまさんが、鍵をがちゃつかしながら、よく学長室に出入せられるのを見た。法文の教室は下だけで、間に合うていたのである。当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校の立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常な差別待遇を受けていたものであった。今いった如く、二階が図書室になっていて、その中央の大きな室が閲覧室になっていた。しかし選科生はその閲覧室で読書することがならないで、廊下に並べてあった机で読書することになっていた。三年になると、本科生は書庫の中に入って書物を検索することができたが、選科生には無論そんなことは許されなかった。それから僻目ひがめかも知れないが、先生を訪問しても、先生によっては閾しきいが高いように思われた。私は少し前まで、高校で一緒にいた同窓生と、忽ちかけ離れた待遇の下に置かれるようになったので、少からず感傷的な私の心を傷つけられた。三年の間を、隅の方に小さくなって過した。しかしまた一方には何事にも促らわれず、自由に自分の好む勉強ができるので、内に自ら楽むものがあった。超然として自ら矜持きんじする所のものを有もっていた。私の頃は高校ではドイツ語を少ししかやらなかったので、最初の一年は主として英語の注釈の附いたドイツ文学の書を読んだ。

その頃の哲学科は、井上哲次郎先生も一両年前に帰られ、元良、中嶋両先生も漸く教授となられたので、日本人の教授が揃うたのだが、主としてルードヴィヒ・ブッセが哲学の講義をしていた。この人はその頃まだ三十そこらの年輩の人であった。ベルリンでロッチェの晩年の講義を聞いたとかいうので、全くロッチェ学派であった。哲学概論といっても、ロッチェ哲学の梗概に過ぎなかった。その頃ドイツ人でも英語で講義した。中々元気のよい講義をする人で、調子附いて来ると、いつの間にか、英語の発音がドイツ語的となって、ゲネラチョーン・アフタ・ゲネラチョーン*1などとなった。こういう外人の教師と共に、まだ島田重礼先生というような漢学の大儒たいじゅがおられた。先生は教壇に上り、腰から煙草入を取り出し、徐おもむろに一服ふかして、それから講義を始められることなどもあった。私共の三年の時に、ケーベル先生が来られた。先生はその頃もう四十を越えておられ、一見哲学者らしく、前任者とコントラストであった。最初にショーペンハウエルについて何か講義せられたように記憶している。この先生の講義はブッセ教授と異って机に坐ったままで低声で話された。ケーベルさんは始めて日本へ来て、日本の学生が古典語を知らないで哲学を学ぶということが、如何にも浅薄に感ぜられたらしい。私が或日先生を訪問してアウグスチヌスの近代語訳がないかとお聞きしたところ、先生はお前はなぜ古典語を学ばないかといわれた。私は日本人として古典語を学ぶのは中々困難であると申上げると、それでもお前と同クラスの岩元君はギリシャ語を読むではないかとのことであった。You must read Latin at least. *2といわれた。しかしまた先生は時に手ずから煙草をすすめられ、私は(当時)煙草を吸いませぬと申上げると、先生は Philosoph muss rauchen. *3とからかわれた。

当時の哲学科の学生には、私共の上のクラスには、両松本や米山保三郎などいう秀才がおり、二年後のクラスには桑木巌翼君をはじめ姉崎、高山などいわゆる二十九年の天才組がいた。有名な夏目漱石君は一年上の英文学にいたが、フローレンツの時間で一緒に『ヘルマン・ウント・ドロテーア』を読んでいたように覚えている。私共のクラスでは、大島義脩君が首席であった。しかしそれでも後に独特の存在となられたのは、近年亡くなられた岩本禎君であったと思う。同君は上にいったように、その頃からギリシャ語を始められ、いつも閲覧室で字引を引いて、少しずつソクラテス以前の哲学者のものを読んでおられたようであった。あの人は何処かケーベルさんと似た所があった。私は岩元君とは明治二十七年卒業以来、逢う機会がなかった。私の頭には、痩せた屈かがみ腰の学生服を着た岩元君をしか想像することはできない。私は始終鎌倉に来るようになってから、一度同君を尋ねて見たいと思っていた。しかし今度こそはと思いながら、無精な私はいつも奮発できなかった。その中うち、同君の逝去せられたのを聞いて残念に堪えない。新聞によれば、何千人かの会葬者があったらしい。同君は何処かにえらい所があったのだと思う。

右のような訳で、高校時代には、活溌な愉快な思出の多いのに反し、大学時代には先生にも親しまれず、友人というものもできなかった。黙々として日々図書室に入り、独りで書を読み、独りで考えていた。大学では多くのものを学んだが、本当に自分が教えられたとか、動かされたとかいう講義はなかった。その頃は大学卒業の学士に就職難というものはなかったが、選科といえば、あまり顧みられなかったので、学校を出るや否や故郷に帰った。そして十年余も帝都の土を踏まなかった。

*1「世代から世代へ、いく世代も。」

*2「少くともラテン語は読まなければいけない。」

*3「哲学者は煙草を吸わざるべからず。」

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆 別巻95 明治」作品社
1999(平成11)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「西田幾多郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年10月
※「*1」の形の注釈は、底本では、直前の文字の右横にルビのように付いています。
入力:ふろっぎぃ
校正:しだひろし
2006年2月16日作成
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書誌 / Bibliography
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西田 幾多郎「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」(新字新仮名)、底本『日本の名随筆 別巻95 明治』作品社、1999年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002408_000182, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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