Soranoha

二十五年間の文人の社会的地位の進歩

にじゅうごねんかんのぶんじんのしゃかいてきちいのしんぽ

内田 魯庵

二十五年という歳月は一世紀の四分の一である。決して短かいとは云われぬ。此の間に何十人何百人の事業家、致富家、名士、学者が起ったり仆れたりしたか解らぬ。二十五年前には大外交家小村侯爵はタシカ私立法律学校の貧乏講師であった。英雄広瀬中佐はまだ兵学校の寄宿生であった。

二十五年前には日清、日露の二大戦役が続いて二十年間に有ろうと想像したものは一人も無かった。戦争を予期しても日本が大勝利を得て一躍世界の列強に伍すようになると想像したものは一人も無かった。それを反対にいつかは列強の餌食となって日本全国が焦土となると想像したものは頗る多かった。内地雑居となった暁は向う三軒両隣が尽く欧米人となって土地を奪われ商工業を壟断ろうだんせられ、総ての日本人は欧米人の被傭者、借地人、借家人、小作人、下男、下女となって惴々焉憔々乎として哀みを乞うようになると予言したものもあった。又雑婚が盛んになって総ての犬が尽く合の子のカメ犬となって了ったように、純粋日本人の血が亡びて了うと悲観した豪えらい学者さえあった。国会とか内地雑居とかいうものが極楽のように喜ばれたり地獄のように恐れられたりしていた。

二十五年前には東京市内には新橋と上野浅草間に鉄道馬車が通じていたゞけで、ノロノロした痩馬のガタクリして行く馬車が非常なる危険として見られて「お婆アさん危いよ」という俗謡が流行った。電灯が試験的に点火されても一時間に十度も二十度も消えて実地の役に立つものとは誰も思わなかった。電話というものは唯実験室内にのみ研究されていた。東海道の鉄道さえが未だ出来上らないで、鉄道反対の気焔が到る処の地方に盛んであった。

二十五年前には思想の中心は政治であった。文学が閑余の遊戯として見られていたばかりでなく、倫理も哲学も学者という小団体の書斎に於ける遊戯であった。科学の如きは学校教育の一課目とのみ見られていた。真に少数なる読書階級の一角が政治論に触るゝ外は一般社会は総ての思想と全く没交渉であって、学術文芸の如きは遊戯としての外は所謂聡明なる識者にすら顧みられなかった。

二十五年前には文学士春の屋朧の名が重きをなしていても、世間は驚異の目を睜って怪しんだゝけで少しも文学を解していなかった。議会の開けるまで惰眠を貪るべく余儀なくされた末広鉄腸、矢野竜渓、尾崎咢堂等諸氏の浪花節然たる所謂政治小説が最高文学として尊敬され、ジュール・ベルネの科学小説が所謂新文芸として当時の最もハイカラなる読者に款待やされていた。

二十五年前には外山博士が大批評家であって、博士の漢字破りの大演説が樗牛のニーチェ論よりは全国に鳴響いた。博士は又大詩人であって『死地に乗入る六百騎』というような韻文が当時の青年の血を湧かした。

二十五年前には琴や三味線の外には音楽というものが無かった。オルガンやヴヮイオリンは学校の道具であって、音楽学校の養成する音楽者というは『蛍の光』をオルガンで弾く事を知ってる人であった。音楽会を開いて招待しても嘆願しても聞きに来る人は一人も無かった。

二十五年前には日本の島田や丸髷の目方が何十匁とか何百匁とかあって衛生上害があるという理由で束髪が行われ初め、前髪も鬢も髦かもじも「髦かもじも」はママ引詰めて小さく結んで南京玉の網を被せたのが一番のハイカラであった。

二十五年前には「国民之友」が漸く生れたばかりで、徳富蘇峰氏が志賀、三宅両氏と共に並称せられた青年文人であった。硯友社は未だ高等学校内の少年の団体であって世間に顔出ししてなかった。依然として国文及び漢文が文学の中堅として見られていた。

二十五年前には今の日比谷の公園の片隅に、昔の大名の長屋の海鼠壁や二の字窓が未だ残っていた。今の学者町たる本郷西片町は開けたばかりで広い〱原の彼地此地にポツポツ家が建ち初めた。西片町の下の植物園の近所には田があった。東京の到る処に昔の江戸の残り物があった。

二十五年は顧みると早いようだが、中々長い歳月である。大抵な大事業は計劃せられ、実行せられ、終結せられて十分余りある。昔の悠長な時代さえ前九年後三年、十二年で東北征伐の大遠征を終ってる。平家が亡びたのは其の勃興したる平治から初めて檀の浦の「檀の浦の」はママ最後までが二十七年、頼政の旗上げから数えるとたった六七年である。南朝五十七年も其前後の準備や終結を除いた正味は二十五年ぐらいなものであろう。世界を震撼した仏国革命も正味は六七年間である。千七百八十九年の抑々の初めから革命終って拿破烈翁ナポレオンに統一せられた果が、竟にウワータールーの敗北(千八百十五年)に到るまでを数えても二十六年である。米国の独立戦争もレキシントンから巴黎条約までが七年間である。如何なる時代の歴史の頁を繙いて見ても二十五年間には非常なる大事件が何度も繰返されている。如何なる大破壊も如何なる大建設も二十五年間には優に楽々と仕遂げ得られる。一国一都市の勃興も滅亡も一人一家の功名も破滅も二十五年間には何事か成らざる事は無い。

博文館は此の二十五年間を経過した。当時本郷の富坂の上に住っていた一青年たる小生は、壱岐殿坂を九分通り登った左側の「いろは」という小さな汁粉屋の横町を曲ったダラダラ坂を登り切った左側の小さな無商売屋しもたや造りの格子戸に博文館の看板が掛っていたのを記憶している。小生は朝に晩に其家の前を何度も通行した。此の小さな格子戸の中で日本の出版界の革命が計劃されていたとは誰しも想像しなかったろう。

「日本大家論集」という博文館の最初の試みの雑誌が物議を生じた。其結果、出版法だか新聞雑誌条例だかの一部が修正された。博文館は少くも世間を騒がし驚かした一事に於て成功した。小生は此の「大家論集」の愛読者であった。小生ばかりでなく、当時の貧乏なる読書生は皆此の「大家論集」の恩恵を感謝したであろう。

博文館が此の揺籃地たる本郷弓町を離れて日本橋の本町――今の場所では無い、日本銀行の筋向うである――に転じたのは、之より二年を経たる明治二十二年であったと記憶する。博文館の活動は之から以後一層目鮮しかったので、事毎に出版界のレコードを破った。茲で小生は博文館の頌徳表を書くのでないから、一々繰返して讃美する必要は無いが、博文館が日本の雑誌界に大飛躍を試みて、従来半ば道楽仕事であった雑誌をビジネスとして立派に確立するを得せしめ、且雑誌の編纂及び寄書に対する報酬をも厚うして、夫までは殆んど道楽だった操觚そうこをしてプロフェッショナルとしても亦存在し得るような便宜を与えたのは日本の文芸の進歩を助くるに大に力があったのを何人も認めずにはおられぬだろう。

今日では新聞紙の発行が一つのビジネスであるのを何人も怪まないであろう。成島柳北や沼間守一が言論の機関としていた時代と比べて之を堕落と云うものあらば時代を解せざる没分暁わからずやの言として見らるゝであろう。其通りに雑誌も亦一つのビジネスであるが、二十五年前には僅に「経済雑誌」、「団々珍聞」等二三の重なる雑誌でさえが其執筆者又は寄書家に相当の報酬を支払うだけの経済的余裕は無かったので、当時の雑誌の存在は実は操觚者の道楽であって、ビジネスとして立派に成立していたのでは無かった。従って操觚者が報酬を受くる場合は一冊の著述をする外なく衣食を助くる道は頗る狭くして完全に生活する事が極めて難かしかった。雑誌がビジネスとして立派に成立し、操觚者がプロフェッショナルとして完全に存在するを得るに到ったは畢竟時代の進歩であるが、博文館が此の趨勢に乗じて率先してビジネスとしての雑誌を創め各方面の操觚者を集めてプロフェッショナルとしても存在し得る便宜を与えたる功績は決して争われないであろう。

凡そ何に由らず社会に存在して文明に寄与するの成績を挙げ得るは経済的に独立するを得てからである。誰やらが『我は小説家たるを栄とす』と声言したのは小説家として立派に生活するを得る場合に於て意味もあり権威もあるので、若し小説家がいつまでも十八世紀のグラッブ・ストリートの生活を離るゝ能わずして一生慈善家の糧を仰ぐべく余儀なくさるゝならば、『我は小説家たるを栄とす』という声言は寧ろ滑稽であろう。

『我は米塩の為めに書かず』というは文人としての覚悟として斯うなくてはならぬ。又文人に限らず、如何なる職業にしろ、単に米塩の為め働くというのは生活上非合理であって、米塩は其職業に労力した結果として自ずから齎らさるゝものでなければならぬ。然るに文学上の労力がイツマデも過去に於ける同様の事情でイクラ骨を折っても米塩を齎らす事が無かったなら、『我は米塩の為め書かず』という覚悟が無意味となって、或は一生涯文学に志ざしながら到頭文学の為め尽す事が出来ずに終るかも知れぬ。

過去に於ける文学は多くは片商売であって、今日依然光輝を垂れてる大傑作は大抵米塩の為め書いたものでないのは明かであるが、此の過去の事実を永遠に文人に強いて文学の労力に対しては相当の報賞を与うるを拒み、文人自らが『我は米塩の為め書かず』というは猶お可なれども、社会が往々『大文学はパンの為めに作られず』と称して文人の待遇を等閑視するは頗る不当の言である。

今日の社会は経済的関係なるが故に、士農工商如何なる職業のものも生活を談じ米塩を説いて少しも憚からず。然るに独り文人が之を口にする時は卑俗視せられて、恰も文人に限りては労力の報酬を求むる権利が無いように看做されてる。文人自身も亦此の当然の権利を主張するを陋なりとする風があって、較やもすれば昔の志士や隠遁家の生活をお手本としておる。

世界の歴史に特筆されべき二大戦役を通過した日本の最近二十五ヵ年間は総てのものを全く一変して、恰も東京市内に於ける旧江戸の面影を尽く亡ぼして了ったと同様に、有らゆる思想にも亦大変革を来したが、生活に対する文人の自覚は其の重なる事象の一つであろう。

二十五年前には文学は一つの遊戯と見られていた。しかも漢詩漢文や和歌国文は士太夫の慰みであるが、小説戯曲の如きは町人遊冶郎の道楽であって、士人の風上にも置くまじきものと思われていた故、小説戯曲の作者は幇間遊芸人と同列に見られていた。勧善懲悪の旧旗幟きしを撞砕した坪内氏の大斧は小説其物の内容に対する世人の見解を多少新たにしたが、文人其者を見る眼を少しも変える事が出来なかった。夫故、国会開設が約束せられて政治休息期に入っていた当時、文学に対する世間の興味は俄に沸湧して、矢野とか末広とか柴とかいう政治界の名士が続々文学に投じて来たが、丁度仮装会の興に浮れて躍り狂っていたようなもので、文人其者の社会的価値を認めたからではなかった。であるから政治家の変装たるヂレスリーの亜流を随喜しておっても、真の文人たるヂッケンスやサッカレーに対しては何等の注意を払わなかった。当時の文学革新は恰も等外官史の羽織袴を脱がして洋服に着更えさせたようなもので、外観だけは高等官吏に似寄って来たが、依然として月給は上らずに社会から矢張り小使同様に見られていたのである。

坪内氏が相当に尊敬せられていたのは文学士であったからで、紅葉や露伴は如何に人気があっても矢張り芸人以上の待遇は得られなかったのである。団十郎が人に褒められても「役者にしては意外な人物だよ、」と云われた通りに、紅葉や露伴の感服されたのも「小説家にしては――」という条件付きであったのである。

三文文学とか「チープ・リテレチュア」とかいう言葉は今でも折々繰返されてるが、斯ういう軽侮語を口にするものは、今の文学を研究して而して後鑑賞するに足らざるが故に軽侮するのではなくて、多くは伝来の習俗に俘とらわれて小説戯曲其物を頭から軽く見ているからで、今の文学なり作家なりを理解しているのでは無い。イブセンやトルストイが現われて来ても渠等は矢張り三文文学、チープ・リテレチュアを口にするであろう。

然るに不思議なるは二十何年前には文人自身すら此の如き社会的軽侮を受くるを余り苦にしないで、文人の生活は別世界なりとし、此の別世界中の理想たる通とか粋とかを衒って社会と交渉しないのを恰も文人としての当然の生活なるかのように思っていた。

渠等の多くは京伝や馬琴や三馬の生活を知っていた。売薬や袋物を売ったり、下駄屋や差配人をして生活を営んでる傍ら小遣取りに小説を書いていたのを知っていた、今日でこそ渠等の名は幕府の御老中より高く聞えてるが其生存中は袋物屋の旦那であった、下駄屋さんであった、差配の凸凹爺であった。社会の公民としては何等の位置も権力も無かったのである。渠等が幅を利かすは本屋や遊里や一つ仲間の遊民に対する場合だけであって、社会的には袋物屋さん下駄屋さん差配さんたるより外仕方が無かったのである。

斯ういう生活に能く熟している渠等文人は、小説や院本は戯作というような下らぬもので無いという事が坪内君や何かのお庇で解って来ても、社会的には職業として完全に独立出来ず、位置も資格も権力も無い遊民と見られていても当然の事として少しも怪まなかった。加うるに持って生れた通人病や粋人癖から求めて社会から遠ざかって、浮世を茶にしてシャレに送るのを高しとする風があった。当時の硯友社や根岸党の連中の態度は皆是であった。

尤も伝来の遺習が脱け切れなかった為めでもあるが、一つには職業としての文学の存立が依然として難かしいのが有力なる大原因となっておる。今より二十何年前にはイクラ文人が努力しても、文人としての収入は智力上遥に劣ってる労働階級にすら及ばないゆえ、他の生活の道を求めて文学を片商売とするか、或は初めから社会上の位置を度外して浮世を茶にして自ら慰めるより外仕方が無かったのである。

勿論、今日と雖も文人の生活は猶お頗る困難であるが二十何年前には新聞社内に於ける文人の位置すら極めて軽いもので、紅葉の如き既に相当の名を成してから読売新聞社に入社したのであるが、猶お決して重く待遇されたのでは無かった。シカモ文人として生活するには薄い待遇を忍んで新聞記者となるより外に道が無かった。今日の如く雑誌の寄書家となって原稿料にて生活する事は全く不可能であった。偶々二三の人が著述に成功して相当の産を作った例外の例があっても、斯ういう文壇の当り屋でも今日の如く零細なる断片的文章を以てパンに換える事は決して出来なかった。

夫故、当時に在っては文人自身も文学を以て生活出来ると思わなかった。文人が公民権が無くとも、代議士は愚か区会議員の選挙権が無くとも、社会的には公人と看做されないで親族の寄合いに一人前の待遇を受けなくとも文人自身からして不思議と思わなかった。寧ろ文人としては社会から無能者扱いを受けるのを当然の事として、残念とも思わず、憤慨するものも無かった。

今より十七八年前、誰やらが『我は小説家たるを栄とす』と放言した時、頻りに其の意気の壮んなるに感嘆されたが、此の放言が壮語として聞かれ、異様に響きて感嘆さるゝ間は小説家の生活は憐むべきものであろう。が、当時は此の壮語を吐いて憤悶を洩らすものは一人も無かったのである。

博文館の雑誌経営が成功して、雑誌も亦ビジネスとして立派に存立し得る事が証拠立てられてから、有らゆる出版業者は皆奮って雑誌を発行した。文人が活動し得る舞台が著るしく多くなった。文人は最早非常なる精力を捧ぐる著述に頼らなくても習作的原稿、断片的文章に由て生活し得るようになった。文人は最早新聞社の薄い待遇にヒシ〱と縛られずとも自由に楽んでパンを得る事が出来るようになった。

斯うなると文人は袋物屋さんや下駄屋さんや差配人さんを理想とせずとも済む。文人は文人として相当に生活できる。仮令猶お立派に門戸を張る事が出来なくとも、他の腰弁生活を羨むほどの事は無い。公民権もある、選挙権もある。市の廓清も議院の改造も出来る。浮世を茶にせずとも自分の気に入るように革新出来ぬ事は無い。文人の生活は昔とは大に違っている。今日では何も昔のように社会の落伍者、敗北者、日蔭者と肩身を狭く謙へり下らずとも、公々然として濶歩し得る。今日の文人は最早社会の寄生虫では無い、食客では無い、幇間では無い。文人は文人として堂々社会に対する事が出来る。

今日の若い新らしい作家の中には二十五六年前には未だ生れない人もある。其大部分は幼稚園若くは尋常一二年の童児であったろう。此の時代、文人の収入を得る道が乏しく、文人が職業として一本立ちする能わず、如何に世間から軽侮せられ、歯よわいされなかったかは今の若い作家たちには十分レハイズする事が出来ぬであろう。今日でも文学は他の職業と比べて余り喜ばれないのは事実である。が、然し乍ら今日では不利益なる職業と見らるゝだけであるが、二十五六年前には無頼者の仕事と目されていた。最も善意に解釈して呉れる人さえが打つ飲む買うの三道楽と同列に見て、我々文学に親む青年は、『文学も好いが先ず一本立ちに飯が喰えるようになってからの道楽だ』と意見されたものだ。夫が今日では大学でも純粋文学を教授し、文部省には文芸審査委員が出来て一年中の傑作が国家の名を以て選奨せらるゝようになった。文部省の文芸審査に就て兎角の議論をする人があるが政府は万能で無いから政府の行う処必ずしも正鵠では無い。且文芸上の作品の価値は区々の秤尺に由て討議し、又選票の多寡に由て決すべきもので無いから、文芸審査の結果が意料外なるべきは初めから予察せられる。之を重視するのが誤まっておるのだが、二十五六年前には全然社会から無視せられていた文芸の存在を政府が認めて文芸審査に着手したのは左も右くも時代の大進歩である。

文学も亦一つの職業である。世間には往々職業というと賤視して顰蹙するものもあるが、職業は神聖である。賤視すべきものでは無い。斯ういう職業を賤視する人たちの祖先たる武士というものも亦一つの職業であって封建の家禄世襲制度の恩沢を蒙むって此の武士という職業が維持せられたればこそ日本の大道楽なるかの如く一部の人たちに尊奉せらるゝ武士道が大成したので、若し武士が家禄を得る道なく生活の安全を保証されなかったなら武士道如きは既くに亡びて了ったであろう。文学を職業たらしむるだけの報償を文人に与えずして三文文学だのチープ・リテレチュアだのと冷罵するのみを能事としていて如何して大文学の発現が望まれよう。文学として立派に職業たらしむるだけの報酬を文人に与え衣食に安心して其道に専らなるを得せしめ、文人をして社会の継子たるヒガミ根性を抱かしめず、堂々として其思想を忌憚なく発露するを得せしめて後初めて文学の発達を計る事が出来る。文人が社会を茶にしたり呪ったりするは文学の為めにもならなければ国家の為めにも亦不祥である。

そこで、左も右くも今日、文学が職業として成立し、多くの文人中には大臣の園遊会に招かれて絹帽シルクハットを被って出掛けるものも一人や二人あるようになったのは、文人の社会的位置が昔から比べて重くなった証拠であるが、我々は猶お進んで職業上の権利を主張し、社会上の勢力を張らねばならぬ。社会をして文人の存在を認めしめたゞけでは足りない。更に進んで文人の権威を認めしめるように一大努力をしなければならぬ。

小生は今は文学論をするツモリでないから、現在の文学其ものに就ては余り多くを云わない。唯、文学論としてよりは小生一個の希望――文学に対する註文を有体に云うと、今日の享楽主義又は耽美主義の底には、沈痛なる人生の叫びを蔵しているのを認めないではないが、何処かに浮気な態度があって昔の硯友社や根岸党と同一気脈を伝うるのを慊あきたらず思ってる。咏嘆したり長嘻したり冷罵したり苦笑したりするも宜かろう。が、人生の説明者たり群集の木鐸たる文人はヨリ以上冷静なる態度を持してヨリ以上深酷に直ちに人間の肺腑に蝕い入って、其のドン底に潜むの悲痛を描いて以て教えなければならぬ。今日以後の文人は山林に隠棲して風月に吟誦するような超世間的態度で芝居やカフェーにのみ立籠っていて人生の見物左衛門となり見巧者訳知りとなったゞけでは足りない。日本の文人は東京の中央で電灯の光を浴びて白粉の女と差向いになっていても、矢張り鴨の長明が有為転変を儚なみて浮世を観ずるような身構えをしておる。同じデカダンでも何処かサッパリした思い切りのいゝ精進潔斎的、忠君愛国的デカダンである。国民的の長所は爰であろうが短所も亦爰である。最っと油濃く執拗く腸の底までアルコールに爛らして腹の中から火が燃え立つまでになり得ない。モウパスサンは狂人になった。ニーチェも狂人になった。日本の文人は好い加減な処で忽ち人生の見巧者となり通人となって了って、底力の無い声で咏嘆したり冷罵したり苦笑したりする。

小生は文学論をするツモリで無いから文学其物に就ては余り多くを云うを好まぬが、二十五年前には道楽であった文学が今日では職業となり、最早袋物屋さん下駄屋さん差配人さんを理想としないでも済むようになった事実を見て、職業としての文学が最う少し重くなければならぬ。文人の社会的地位が今一層高くなければならぬ事を痛切に感ずる。

有体に言うと今の文人の多くは各々蝸牛の殻を守るに汲々として互いに相褒め合ったり罵り合ったりして聊かの小問題を一大事として鎬を削ってる。毎日の新聞、毎月の雑誌に論難攻撃は絶えた事は無いが、尽く皆文人対文人の問題――主張対主張の問題では無い――であって、未だ嘗て文人対社会のコントラバーシーを、一回たりとも見た事が無い。恐らく之は欧洲大陸に類例なき日本の文壇の特有の現象であろう。文人としての今日の欲望は文人同志の本家争いや功名争いでなくて、今猶お文学を理解せざる世間の群集をして文人の権威を認めしむるのが一大事であろう。

二十五年前と比べたら今日の文人は職業として存立し得るだけ社会に認められて来た。が、人生及び社会を対象とする今日以後の文人は、昔の詩人のように山林に韜晦する事は出来ない。都会に生活して群集と伍し、直接時代に触れなければならぬ。然るに文人に強うるに依然清貧なる隠者生活を以てし文人をして死したる思想の木乃伊ミイラたらしめんとする如き世間の圧迫に対しては余り感知せざる如く、蝸牛の殻に安んじて小ニヒリズムや小ヘドニズムを歌って而して独り自ら高しとしておる。一部の人士は今の文人を危険視しているが、日本の文人の多くは、ニヒリスト然たる壁訴訟をしているに関わらず、意外なる楽天家である。

新旧思想の衝突という事を文人の多くは常に口にしておるが、新思想の本家本元たる文人自身は余り衝突しておらぬ。いつでも旧思想の圧迫に温和しく抑えられて服従しておる。文人は文人同志で新思想の蒟蒻屋問答や点頭き合いをしているだけで、社会に対して新思想を鼓吹した事も挑戦した事も無い。今日のような思想上の戦国時代に在っては文人は常に社会に対する戦闘者ファイターでなければならぬが、内輪同士では年寄の愚痴のような繰言を陳べてるが、外に対しては頭から戦意が無く沈黙しておる。

二十五年の歳月が聊かなりとも文人の社会的位置を進めたのは時代の進歩として喜ぶべきであるが、世界の二大戦役を終って一躍して一等国の仲間入りした日本としては文人の位置は猶お余りに憐れで無かろう乎。例えば左にも右くにも文部省が功労者と認めて選奨した坪内博士、如何なる偏見を抱いて見るも穏健老実なる紳士と認めらるべき思想界の長老たる坪内氏が、経営する文芸協会の興行たる『故郷』の上場を何等の内論も質問もなく一令を下して直ちに禁止する如き、恰も封建時代の地頭が水呑百姓に対する待遇である。是れ併し乍ら政府が無鉄砲なのでも属僚が没分暁わからずやなのでも何でもなくして、社会が文人の権威を認めないからである。坪内君が世間から尊敬せらるゝのは早稲田大学の元老、文学博士であるからで、舞踊劇の作者たり文芸協会の会長たるは何等の重きをなしていないからである。

社会をして文人の権威を認めしめよ。文人は社会に対して宣戦せよ。“Murmur”するよりは“Strike”せよ、“Complain”するよりは“Curse”せよ。新らしき思想の世界を拓かんとする羊の如く山の奥に逃げ込まずに獅子の如く山の奥から飛出して咆哮せよ。

二十五ヵ年の歳月が文学をして職業として存立するを得せしめ、国家をして文学の存在を認めしむるに到ったのは無論進歩したには違いないが、世界の英雄東郷を生じた日本としては猶お余りにもどかしき感がある。今後の二十五ヵ年間、願くは更に一大飛躍あれ。文学の忠僕たる小生は切に諸君の健闘を祈る。

(「太陽」増刊 明治四十五年六月十三日号)

底本 / Source edition

底本:「魯庵の明治 山口昌男、坪内祐三編」講談社文芸文庫、講談社
1997(平成9)年5月9日第1刷発行
底本の親本:「続紙魚繁昌記」書物展望社
1934(昭和9)年4月10日
初出:「太陽」
1912(明治45)年6月
入力:斉藤省二
校正:松永正敏
2001年5月19日公開
2016年2月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/002395_000165/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/002395_000165/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/002395_000165/

内田 魯庵「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」(新字新仮名)、底本『魯庵の明治 山口昌男、坪内祐三編』講談社文芸文庫、講談社、1997年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002395_000165, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite