Soranoha

物理学圏外の物理的現象

ぶつりがくけんがいのぶつりてきげんしょう

寺田 寅彦

物理学は元来自然界における物理的現象を取り扱う学問であるが、そうかと言って、あらゆる物理的現象がいつでも物理学者の研究の対象となるとは限らない。本来の意味では立派に物理的現象と見るべき現象でも、時代によって全く物理学の圏外に置かれたかのように見えることがありうるのである。

物理学というものはやはり一つの学問の体系であって、それが黎明れいめい時代から今日まで発達するにはやはりそれだけの歴史があったので、その歴史は絶対単義的な唯一の道をたどって来たと考えるよりは、むしろ多くの可能な道のうちの一つを通って来たものと考えられ、その実際通った道を決定したものはやはり偶然の事情であったとも考えられる。ちょうどそれはナポレオンが生まれたか生まれなかったかにより、世界の歴史は違った内容をもったであろうというのと必ずしも本質的の差別はないように思われる。もちろん物理学の場合には自然という客観的存在が厳然として控えているから、たとえ研究の道筋に若干偶然的な変化があっても、最後の収穫は結局同じであるべきだという説が一般には信用されるであろう。そうして人類の歴史との比較は全然不当としてしりぞけられるが普通であろうと想像される。しかしこれははたしてそうであるかどうか、よくよく熟考してみなければならないように私には思われる。第一に客観実在と称するものが物理学体系と独立に存在しうるかどうかが疑問である。また、物理学の系統は実験上の新発見と新概念の構成とによって本質的の進歩を遂げるのであるが、その発見や構成の時間的関係は必ずしも必然的唯一のものが実際に存在したとは考えられない。たとえばハミルトンがもっと長生きをしたとか、アインシュタインが病気したとか、欧州戦争がなかったとか、そんなような事情のために、物理学の体系が現在とはいくらかでもちがった形をとることは可能ではないか、少なくもこういう疑問を起こしてみることは必ずしも無益のわざではないように思われる。

しかしそれほど根本的な問題はしばらくおき、もう少し具体的な問題を取ってみると、各時代において物理学上の第一線の問題とみなされ、世界じゅうの学者が競って総攻撃をするような問題があり、そうしてその問題の対象物は時代から時代へと推移して行く。この推移の経路がはたして単義的なものであるかどうかという問題が提出されうるように思われる。これは少なくもある程度までは偶然的人間的な事情に支配されることは疑いないように思われる。たとえば電子波回折の実験がX光線回折の実験の行なわれたころにすでに行なわれたというような事も、それ自身において必ずしも不可能でなかったと思われるから、もしもそうであったとしたら、その後の物理学界の動きはよほど実際とは違ったものになったのではないかと想像されるのである。

それと同様に未来の物理学進歩の経路も必ずしも単義的にただ一筋の予定の道筋を通るであろうとは考えられない。将来なされうべきある二つの画期的な発見のどちらが先に行なわれるかは偶然的な事情によって左右されうるであろう。そういうわけであるから、今から十年後の物理学界を予想する事はいかなる大家にも困難であろう。いついかなる問題が勃興ぼっこうして、現在の第一線の問題に取って代わるかもしれない。現在世界じゅうの学者が争って研究しているような問題が、やがて行き詰まりになるであろうということは当然の事でもあり、また過去の歴史がことごとくこれを証明しているように思われる。そういう場合に、突然にどこからか現われて来て新生面を打開するような対象が、往々それまではほとんど物理学の圏外か、少なくも辺鄙へんぴな片すみにあって存在を忘れられていたような場合であることもあえて珍しくはないのである。たとえば昔ある僧侶そうりょの学者が顕微鏡下で花粉をのぞいている間に注意して研究した微粒子の運動が、後日物質素量説の実証的根拠として一時盛んに研究されるようになった。またスイスの山間の中学校の先生が粗末な験電器の漏電を測っていたことが、少なくも間接には近代電子的物質観への導火線となり、放射性物質の発見にも一つの衝動を与えたような形になった。現在先端的な問題の一つと考えらるる宇宙線の研究でも、実はこの昔の粗末な実験の後裔こうえいであるとも見られなくはないのである。また昔レーリー卿きょうが紅茶茶わんをガラス板の上ですべらせてみて、ガラスのよごれ方でひどく摩擦のちがうことを見て考え込んでいたことがあるが、これは近年になって固体や液体の表層に吸着した単分子層の研究の先駆をなしたものであった。これと似寄ったことでは、レーノルズの減摩油の作用の研究などもやはりそれまではほとんど物理学の圏外にあった問題をその圏内に引き入れたものだと言われよう。また同じレーノルズの砂の膨張性(Dilatancy)に関する研究は、その後あまり注目する人もなかったようである。これは土木工学の基礎となる土圧の問題には当然考慮さるべきものと思われるのであったが、ごく最近にこの考えを採用して土圧の問題を新しく考え直そうとする人も現われたようである。

これだけの例から見ても、その当代の流行問題とはなんの関係もなくて、物理学の圏外にあるように見える事がらの研究でも、将来意外に重要な第一線の問題への最初の歩みとなり得ないとは限らない。それでそういう意味で、現在の物理学ではあまり問題にならないような物理的現象にどんなものがあるかを物色してみるのも、あながち無用のわざではないかもしれない。

そういう種類の現象で自分が多年心にかけていたものがいろいろあるが、それらの多数はいずれも事がらが偶然的偏差に支配されるために、結果が決定的再起的でないような種類に属するものである。たとえばガラス板を平坦へいたんな台の上に置いて上から鉄の球を落として放射線形の割れ目を生ずるという場合に、板の厚さや、球の重量や落下の高さを一定にしてみても、生ずる割れ目の線の数や長さは千差万別であってなかなか一定しない。多数の実験を繰り返せば統計的にはおのずから一定の規則はあるにしても、一つ一つの場合にそれらの価を予測することは不可能である。これとよく似た場合はいわゆるリヒテンベルクの放電像である。これも陽像あるいは陰像のおのおのの場合に放射線の長さや数について統計的の規則は見いだされるが、個々の場合の精確な予想は到底できない。この二つの場合に何ゆえに対称的な同心円形が現われないで有限数の放射線が現われるか。これは今のところ不思議だと言っておくよりほかにしかたがない。

金米糖こんぺいとうを作るときに何ゆえにあのような角つのが出るか。角の数が何で定まるか、これも未知の問題である。すすけた障子紙へ一滴の水をたらすとしみができるが、その輪郭は円にならなくて菊の花形になる。筒井俊正つついとしまさ君の実験で液滴が板上に落ちて分裂する場合もこれに似ている事が知られた。葡萄酒ぶどうしゅがコップをはい上がる現象にも類似の事がある。

剃刀かみそりをとぐ砥石といしを平坦へいたんにするために合わせ砥石を載せてこすり合わせて後に引きはがすときれいな樹枝状の縞しまが現われる。平田森三ひらたもりぞう君が熱したガラス板をその一方の縁から徐々に垂直に水中へ沈めて行くとこれによく似た模様が現われると言っている。写真乾板の感光膜をガラスからはがすために特殊の薬液に浸すと膜が伸張して著しいしわができるのであるが、そのしわが場合によっては上記の樹枝状とかなりよく似た形を示すことがある。また写真乾板上の一点に高圧電極の先端を当てて暗処で見るとその先端から小さな火球が現われて徐々に膜上をはって行く。その痕跡こんせきが膜の焼けた線になって残るのであるが、その線の形状がやはり上記のものと似た形を示している。それからまたガラス窓などに水蒸気が凝結して露を結んでいるのが、だんだん露の生長するにつれてガラス面に沿うて落下し始める。その際に露の流れが次第に合流して樹枝状の模様を作る。この場合は前の多くの場合とは反対に枝の末端のほうから樹幹のほうへ事がらが進行するので、この点でも地上の斜面に発達する河流の樹枝状系統によく似ている。

これらの現象を通じて言われることは、普通の古典的な理論的考察からすれば、およそ一様に均等に連続的にあるいは対称的に起こるであろうと考えらるるものが、実際には不均等に非対称的に不連続的にしかも統計的に起こるのである。このような場合を適当に処理すべき理論はもちろんのこと、その理論の構成に基礎となるべき概念すらもまだ全然発達していないのであるから、今のところでは物理学者はこれらをどうしてよいかわからない。従って問題にしようともしなければ、また見ても見ないつもりで目をつぶって通り過ぎるのが通例である。

上記のごとき現象が純粋な自然探究者にとって決して興味がなくはないのであっても、それが現在の学問の既成体系の網に引っかからない限りは、それが一般学者から閑却されるのもまた自然の成りゆきであったと思われる。ところが、最近に至って物理学の理論の基礎に著しい革命の起こった結果として、物理現象の決定性といったような基礎観念にもまた若干の改革が行なわれるようになった。その結果としておもしろいことには、われわれが従来捨てて顧みなかった上記の種類の不決定な事がらに対して、もはやいつまでもそうそう無関心ではいられなくなって来たと私には思われる。なぜかというと、上記の種類の現象の根本に横たわる形式的要素が、新物理学の基礎に存するそれらとどこか共通なものを備えているからである。

原子の構造とその性能に関してわれわれは個々のエネルギー水準の考えを導入した。しかしてそれはある方程式の固有値と称するものと連関していると考える。これは最も簡単な類型的の一例とさるる弦の振動の場合ならばその節点の数を決定するものであり、要するに連続的なものの中でただ特定なものだけの実在を決定するものである。ところでたとえば鈴木清太郎すずきせいたろう博士の実験で、円板の中心を衝撃する際に生ずる輻射形ふくしゃけいの割れ目が衝動の強さに応じて整数的に増加して行く現象のごとき、おそらくある方程式の固有値によって定まるであろうということは、かつて妹沢せざわ博士も私に指摘されたことであるが、これは当面の解式を得るまでもなく予想し得られたことである。これから想像すると、おそらくその他の類似の問題でも、基礎形式的にこれと類するものがあるであろうと思われるのである。ただこれらの多くの場合はより多く事がらが複雑であって到底簡単な少数有限の方程式などで解決されるべきものではないであろうと予測される。

ハイゼンベルクのマトリッキスを一つのオーケストラにたとえた人があったが、たとえばガラスの割れ目のごときも、やはり一種のオーケストラが個々の場合に応じてそれぞれの曲を奏しているようなものであるかもしれない。原子の場合にわれわれは個々の原子の状態を確定する代わりに、ただその確率を知ると同様に、たとえば割れ目の場合でも精密な形を記載することはできなくても、その統計的特徴を把握はあくすることができるであろうと想像するのは、必ずしも不倫ではあるまいと思われる。

これらは今のところはなはだしい空想であるかもしれないが、この空想には多少の物理的根拠があるとすれば、事がらがともかくも物理学的認識の根本観念に触れているだけに、少なくももっと深く追究してみる価値があるであろう。たとえその結果が消極的に終わるとしても、その考究の経路には少なからぬ獲物があるであろうと思われる。しかしそれは別問題としても、上記のごとき特殊の部類に属する現象の実験的研究からいろいろな統計的の規則正しさを発見しうるには、いかなる方法をとるべきかという事が少なくも当面の問題の一つでありはしないかと思われる。そういう実験の結果を整理するためにわれわれは種々な新しい概念と方法の導入を必要とするであろう、そういうものがだんだんに発達し整理されて行く経路は、やがて新しい理論の形成となるであろう。新物理学の考え方がいろいろな点で古典的物理学の常識に融合しないように感ずるのは、畢竟ひっきょう古典的物理学がただ自然界の半面だけを特殊な視野の限定されためがねで見ていたために過ぎないのであって、そのやぶにらみの一例としては、私がここで特に声を大きくして宣伝したような部類の統計的現象を全然閑却していたことも引証されようかと思う。

物理学圏外の物理的現象と称すべきものは決して上記の部類に限らない。広大無辺の自然にはなお無限の問題が伏在しているのに、われわれの盲目なためにそれを問題として認め得ない結果、それが存在しないかのように枕まくらを高くしているのである。

多年藤原ふじわら博士の心にかけて来られた渦巻うずまきに関する各種の現象でも、実にいろいろの不思議な問題が包蔵されているようであるが、現在までの物理学はまだそれらを問題として捕捉ほそくし解析の俎上そじょうに載せうるだけに進んでいないように見える。流体力学の専門家はその古色蒼然そうぜんたる基礎方程式を通してのみしか流体を見ないから、いつまでたってもその方程式に含まれていない種類の現象に目の明く日は来ない。

また物理学者は電子や原子の問題の追究に忙しくて、到底日常眼前の現象を省みる暇いとまがないありさまであるから、渦巻の現象が吾人ごじんに啓示しつつある問題のほうにふり向く機会がありそうには思われない。しかしたとえば液体の渦の生成や分布や相互作用については、やはり前述の割れ目などと共通な「固有値」の問題の伏在することが想像され、あるいはまたマトリッキスの概念の導入可能性も考えられる。

またかつて藤原ふじわら博士が私に話されたように、古来の大家によって夢想されて来た熱力学第二法則のアンチテーゼのようなものも渦うずの観察から予想されなくはないのである。しかしそういうものが渦の現象の中に実際に伏在するとしても、だれもこれを捜し出そうとする人がなければいつまで待ってもそれが見つかる道理はないであろう。しかし世界の広い学界の中にはまれに変わり種の人間もいて、流行の問題などには目もくれず、自分の思うままに裸の自然に対面して真なるものの探究に没頭する人もあるから、いつの日にかこれらの物理学圏外の物理現象が一躍して中央壇上に幅をきかすことがないとも限らないであろう。そういう革命的の仕事は、おそらくアカデミックな学者の手によってではなく、意外な方面の人の自由な頭脳によってなし遂げられはしないかという気がする。

物理学圏外の物理現象に関する実験的研究には、多くの場合に必ずしも高価な器械や豊富な設備を要しない。従って中等学校の物理室でも、また素人しろうとの家庭でもできうるものがたくさんにあると思われる。しかしいかなる場合にでも、その研究者が物理学現在の全系統について、正しい要約的な理解を持っていることだけは必須ひっすな条件である。日本でもまれに隠れた篤志な研究者がいて、おもしろい問題をつかまえて、おもしろい研究をしている人はあるようであるが、惜しいことには物理学の第一義的根本知識の正しい理解が欠けているために、せっかくの努力の結果が結局なんの役にも立たぬ場合が多いようである。過去百年の間に築き上げられたこの大規模の基礎を離れて空中に楼閣を築く事は到底不可能なことである。しかし物理学の基礎的知識の正当な把握はあくは少しの努力によって何人なんぴとにでもできることであるから、それを手にした上で篤志の熱心なる研究者が、とらわれざる頭脳をもって上記のごとき現象の研究に従事すれば、必ず興味あり有益なる結果が得られるであろうと考える。

思うに本誌「理学界」の読者の中には、まさにそういう問題に理解と興味を持ち、また同時に必要の予備知識を持ち、しかして自分自身の研究に従事しうるだけの時間と便宜を有する人も多数にあるであろう。そういう人たちにそういう研究を勧めたいと思うのが、私のこの一編を書くに至った動機であったのである。正統的教養の楽園に安住する専門的物理学者の目から見れば、あまりに空想をたくましゅうした叙述が多かったように見えるかもしれない。

しかしこれらの空想にも、自分としては相当な物理学的実証の根拠は持っているつもりであるが、ここではこれについて詳説することのできないのを遺憾とする。ただもし、虚心に、正当な光のもとに読んでもらいさえすれば、これらの空想の中には、それらの専門家にとっても、いくらかの意義と興味のある暗示を含んでいるであろうという希望をもって、ここにこのつたない叙説の筆をおくことにする。

(昭和七年一月、理学界)

底本 / Source edition

底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第64刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/002351_000042/

寺田 寅彦「物理学圏外の物理的現象」(新字新仮名)、底本『寺田寅彦随筆集 第三巻』岩波文庫、岩波書店、1948年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002351_000042, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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