<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><TEI xmlns="http://www.tei-c.org/ns/1.0" xmlns:snh="https://w3id.org/soranoha/ns/tei" snh:vocab-version="1">
  <teiHeader>
    <fileDesc>
      <titleStmt>
        <title type="main" xml:lang="ja">量的と質的と統計的と</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">りょうてきとしつてきととうけいてきと</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>寺田</surname><forename>寅彦</forename><idno type="aozora-person-id">000042</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>てらだ</surname><forename>とらひこ</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Terada</surname><forename>Torahiko</forename></persName></author>
      </titleStmt>
      <publicationStmt>
        <publisher ref="https://w3id.org/soranoha/">Soranoha</publisher>
        <idno type="soranoha-work-identifier">002350_000042</idno>
        <idno type="aozora-work-id">002350</idno>
        <idno type="aozora-card-url">https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2350.html</idno>
        <date when="2014-09-17">2014-09-17</date>
        <availability status="free">
          <licence target="https://creativecommons.org/publicdomain/mark/1.0/">The underlying work is in the public domain; Soranoha asserts no rights over it.</licence>
          <licence target="https://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/">Soranoha's encoding of this work and the artifacts derived from it are dedicated to the public domain under CC0-1.0. Attribution is requested, not required. Full rights statement: <ptr target="https://w3id.org/soranoha/rights"/></licence>
        </availability>
      </publicationStmt>
      <sourceDesc>
        <bibl><title>寺田寅彦随筆集　第三巻</title><publisher>岩波文庫、岩波書店</publisher><date>1948（昭和23）年5月15日、1963（昭和38）年4月16日第20刷改版</date><note type="input-edition">1993（平成5）年2月5日第59刷</note><note type="proof-edition">1997（平成9）年9月5日第64刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「科学」1931（昭和6）年10月</bibl>
        <bibl><idno type="source-content-hash">sha256:8563ad428f331e23f124ba2c85b26b31aa73aa0663552c5bacc6b0591fdbf2cc</idno></bibl>
        <bibl><idno type="primary-text-hash">sha256:67d243898563516d34f6b7f1a9f693d52cb3da9c998387817b8d1187f9e56684</idno></bibl>
      </sourceDesc>
    </fileDesc>
    <encodingDesc>
      <styleDefDecl scheme="css"/>
      <classDecl><taxonomy xml:id="ndc"><bibl>日本十進分類法 (Nippon Decimal Classification), as recorded by <title>青空文庫</title> in its 分類番号 field.</bibl></taxonomy><taxonomy xml:id="aozora-orthography"><bibl><title>青空文庫</title> 文字遣い種別: the orthographic style Aozora Bunko records for the transcription.</bibl></taxonomy></classDecl>
      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
    </encodingDesc>
    <profileDesc>
      <langUsage>
        <language ident="ja">日本語</language>
      </langUsage>
      <textClass>
        <classCode scheme="#ndc">401</classCode>
        <classCode scheme="#aozora-orthography">新字新仮名</classCode>
      </textClass>
    </profileDesc>
  </teiHeader>
  <text>
    <body>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-439-601">古代ギリシアの哲学者の自然観照ならびに考察の方法とその結果には往々現代の物理学者、化学者のそれと、少なくも</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-601-637"><rb>範疇的</rb><rt>はんちゅうてき</rt></ruby>には同様なものがあった。特にルクレチウスによって後世に伝えられたエピキュリアン派の所説中には、そういうものが数え切れないほどにあるようである。おそらくこれらの所説も、全部がロイキッポスやデモクリトスなどが創成したものではなくて、もっともっと古い昔からおぼろげな形で伝わり進化したものに根を引いているのであろうと想像される。しかしこれら哲学者の植え付けた種子が長い中世の冬眠期の後に、急に復興して現代科学の若葉を出し始めたのは、もちろん一般的時代精神の発現の一つの相には相違ない。しかし復興期の学者と古代ギリシアの学者との本質的な相違は、後者特にアテンの学派が「実験」を<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-1489-1504"><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby><seg source="#source-1504-1510">しい</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-1510-1525"><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby><seg source="#source-1525-2121">として手を触れなかったのに反して、前者がそういう偏見を脱却して、ほんとうの意味のエキスペリメントを始めた点にあると思われる。ガリレー、トリツェリ、ヴィヴィアニ、オットー・フォン・ゲーリケ、フック、ボイルなどといったような人がはなはだ粗末な今から見れば子供のおもちゃのような道具を使って、それで生きた天然と格闘して、しかして驚くべき重大な画期的実験を矢継ぎばやに行なったのがそもそもの始まりである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">この歴史的事実は往々、「質的の研究が量的の研究に変わったために、そこで始めてほんとうの科学が初まった」というお題目のような命題の前提として引用される。これは、この言葉の意味の解釈次第ではまさにそのとおりであるが、しかしこういう簡単な、わずか一二行の文句で表わされた事はとかく誤解され誤伝されるものである。いったいにこの種類の誤伝と誤解の結果は往々不幸にして有害なる影響を科学自身の進展に及ぼす事がある。それはその命題がポピュラーでそうして伝統的権威の高圧をきかせうる場合において特にはなはだしいのである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2882-3065">量的というだけならば古代民族の天文学的測定ははなはだ量的なものであった。しかし彼らは実験はあまりしなかった。上記の科学の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-3065-3095"><rb>黎明期</rb><rt>れいめいき</rt></ruby>におけるこれら実験の中のあるものはいくらか量的と言われうるものであったが、しかしこれらのすべては必ずしも今ごろ言うような量的ではなかったのである。この時代として最重要であったことは、「卵大」のガラス球についた「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-3410-3425"><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>ぐらいの大きさの」管を水中に入れて「あたためると」ぶくぶく「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-3515-3530"><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>が出」、冷やすと水が管中に「上る」ことであった。また、銅球の中の水を強く吸い出すと急に高い音を立てて球がひしげたりした「こと」であった。あるいはむしろこういう「実験」をしてみようと思い立ったこと、それを実行した事であった。水が上ることが知られさえすればそれが何寸上ったかを計りたくなり、ポンプを引くのにひどく力がいればそれが何人力だか計りたくなり、そうしてそれを計る事ならばだれにでもできるのである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4132-4261">ガリレー、ゲーリケ以後今日まで同様なことがずっと続いて跡を絶たない。ヴォルタの電盆や</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4261-4285"><rb>電堆</rb><rt>でんたい</rt></ruby><seg source="#source-4285-4333">、ガルバニの細君の発見と言われる</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4333-4351"><rb>蛙</rb><rt>かえる</rt></ruby>の実験いずれも質的なる画期的実験である。オェルステットが有名な実験をした時の彼自身の考えは質的にさえ勘違いしていた。ルムフォードの有名な実験は「水が沸きさえもした」事に要点があった。ロバート・マイヤーがフラスコの水を打ち振った後にジョリーの<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4711-4726"><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ駆け込んで "Es ischt so !" と叫んだのは水が「あたたまった」ためで、それが何度点何々上ったためではなかったのである。ロェンチェン線の発見が学界を驚かしたのはその波長が幾オングストロェームあったためではなく、そういうものが「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5052-5064"><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>る」ということであった。ベクレル線も同様であった。シー・ティー・アール・ウィルソンの膨張箱の実験が画期的であったゆえんはまず何よりも粒子の実在を質的に実証した点であった。ラウエ、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5331-5352"><rb>菊池</rb><rt>きくち</rt></ruby>の実験といえども、まず第一着に本質的に何よりもだいじなことは「写真板の上にあのような点模様が現われる」ことであった。それが現われた上での量的討究の必要と結果の意義の大切なことはもとより言うまでもないことであるが、第一義たる質的発見は一度、しかしてただ一度選ばれたる人によってのみなされる。質的に間違った仮定の上に量的には正しい考究をいくら積み上げても科学の進歩には<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5898-5925"><rb>反古紙</rb><rt>ほごがみ</rt></ruby><seg source="#source-5925-5979">しか貢献しないが、質的に新しいものの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5979-6000"><rb>把握</rb><rt>はあく</rt></ruby><seg source="#source-6000-6227">は量的に誤っていても科学の歩みに一大飛躍を与えるのである。ダイアモンドを掘り出せば加工はあとから出来るが、ガラスはみがいても宝石にはならないのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6227-6628">現代のように量的に進歩した物理化学界で、昔のような質的発見はもはやあり得まいという人があるとすれば、それはあまり人間を高く買い過ぎ、自然を安く踏み過ぎる人であり、そうしてあまりに歴史的事実を無視する人であり、約言すれば科学自身の精神を無視する人でなければならない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">重大な発見の中でいわゆる Residual phenomena の研究から生まれるものがある。これらはもちろん非常に精密なる最高級の量的実験の結果としてのみ得られるものである。たとえばあまりに有名なルヴェリエの海王星における、レーリーのアルゴンにおけるごときものである。また近ごろの宇宙線（Cosmic ray）のごときものもそうである。これらの発見の重大な意義はと言えば、それらのものの精密なる数値的決定より先にそれらのものが「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-7216-7228"><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>る」ということを確立することである。もっともそのためには精密な計画と行き届いた考察なしには手を出せないことは言うまでもないことであるが、その際得る数字の最高精度は少なくも最初には必ずしも問題にならないのである。おもしろいことにはこの種の Residual effect はしばしばそれが「発見」されるよりずっと前から多くの人の二つの開いた目の前にちゃんと現在して目に触れていても、それが「在る」という質的事実を掘り出し、しっかり<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-7836-7857"><rb>把握</rb><rt>はあく</rt></ruby><seg source="#source-7857-7953">するまでにはなかなか長い時を待たなければならないのである。これは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-7953-7980"><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby><seg source="#source-7980-8052">量を見るに急なために質を見る目がくらむのであり、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-8052-8070"><rb>雑魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby><seg source="#source-8070-8082">を数えて</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-8082-8109"><rb>呑舟</rb><rt>どんしゅう</rt></ruby>の魚を取りのがすのである。またおもしろいことには、物理学上における画期的の理論でも、ほとんど皆その出発点は質的な「思いつき」である。近代の相対性理論にしても、量子力学にしても、波動力学にしても基礎に横たわるものはほとんど哲学的、あるいは質的なる物理的考察である。これなしにはいかなる数学の利器をいかに駆使しても結局何物も得られないことは、むしろ初めからわかったことでなければならない。実際これらの理論の提出された当初の論文の形はある意味においてはほとんど質的のものである。それが量的に一部は確定され一部は修正されるのにはやはりかなりに長い月日を要するのである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">もちろん質的の思いつきだけでは何にもならないことは自明的であるが、またこれなしには何も生まれないこともより多く自明的である。西洋の学界ではこの思いつきを非常に尊重して愛護し、保有し、また他人の思いつきを尊重する学者が多いのであるが、わが国ではその傾向が少ないようである。「ただの思いつきである」という批評は多く非難の意味をもって使われるようである。思いつきはやはり愛護し助長させるべきであろう。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">これらはきわめて平凡なことである。それにかかわらずここでわざわざこういうことを事新しく述べ立てるのは、現時の世界の物理学界において「すべてを量的に」という合い言葉が往々はなはだしく誤解されて行なわれるためにすべての質的なる研究が encourage される代わりに無批評無条件に discourage せられ、また一方では量的に正しくしかし質的にはあまりに著しい価値のないようなものが過大に尊重されるような傾向が、いつでもどこでもというわけでないが、おりおりはところどころに見られはしないかと疑うからである。そのために、物理的に見ていかにおもしろいものであり、またそれを追求すれば次第に量的の取り扱いを加えうる見込みがあり、そうした後に多くの良果を結ぶ見込みのありそうなものであっても、それが単に現在の形において質的であることの「罪」のために省みられず、あるいはかえって忌避されるようなことがありはしないか、こういうことを反省してみる必要はありはしないか。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10790-10918">むしろそういう研究を奨励することが学問の行き詰まりを防ぐ上に有効でありはしないか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10918-11710">もちろん多くの優秀なる学徒たちは何もわざわざそういう質的の、容易なようで実はむずかしい実験などをやらなくても、立派に量的であって、しかもおもしろくて有益であるような研究に従事するほうが賢明であり能率が良いと考えるであろうし、またそれはまさにそのとおりである。それだけならば何も問題はないのであるが、しかしもしそういう人たちがかりにそういう人たちとは反対にわざわざ難儀で要領を得ない質的研究をしている少数な人たちの仕事を、意識的、ないしは無意識的に discourage しあるいは積極的に阻止するようなことが、たまにならばともかく、学界一般の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-11710-11725"><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby><seg source="#source-11725-11892">をなすようなことがあったとすればどうか、そういう事が実際にあるかないか。これも一応反省してみなければならない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11892-12150">現代において行なわれておりあるいは行なわれうべき質的研究は必ずしも初めから有益でありおもしろいとは限らない。十中八九は実際おそらくなんらの目立った果実を結ぶことなく歴史の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-12150-12165"><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby><seg source="#source-12165-12405">に葬られるかもしれない。しかしそういうものはいくらあっても、決して科学の進歩を阻害する心配はないのである。科学という霊妙な有機体は自分に不用なものを自然に清算し</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-12405-12429"><rb>排泄</rb><rt>はいせつ</rt></ruby><seg source="#source-12429-12639">して、ただ有用なるもののみを摂取し消化する能力をもっているからである。しかしもしも万一これら質的研究の十中の一から生まれうべき健全なるものの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-12639-12660"><rb>萌芽</rb><rt>ほうが</rt></ruby><seg source="#source-12660-13334">が以上に仮想したような学風のあらしに吹きちぎられてしまうような事があり、あるいは少しの培養を与えさえすればものになるべきものを水をやらないために枯死させてしまうようなことがあったとしたら、それはともかくも科学の進歩をたとえ一時であっても、遅滞させるというだけの悪い効果はあるであろう。そういう事が現代にあるかないかを考慮してみる必要はないであろうか。まさかそれほどのことはないとしても、それに似た傾向はありはしないかを考えてみるほうがよくはないか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13334-13556">ずっと昔から質的にしか知られていないような現象の研究には通例異常な困難が伴なう。結局の目的はやはりこれらを量的分析にかけるにあるが、現象のいかなる</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-13556-13580"><rb>相貌</rb><rt>そうぼう</rt></ruby><seg source="#source-13580-13784">をつかまえてこれにそのような分析を加えるべきかの手掛かりを得るに苦しむのが常である。それが困難であればこそ従来の自然探究者から選み残され</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-13784-13805"><rb>継子</rb><rt>ままこ</rt></ruby>扱いにされて昔のままにわれわれの眼前にそのだらしのない姿を横たえているのである。しかし一方ではまた、だれもそういう現象の量的の取り扱いが不可能だということの証明をした人もないのである。「永久運動」や「角の三等分」の問題とはおのずからちがった<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-14165-14192"><rb>範疇</rb><rt>はんちゅう</rt></ruby><seg source="#source-14192-14266">に属するものであることは明らかであると思われる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14266-14572">こういう種類の問題の一例は、おなじみのリヒテンベルクの放電像のそれである。この人が今から百何十年前にこの像を得た時にはたぶん当時の学者の目を驚かせたに相違ないのであるが、それがその後の長い年月の間にただ</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-14572-14599"><rb>僅少</rb><rt>きんしょう</rt></ruby>な物好きな学者たちの手で幾度となく繰り返され、少しずつ量的分析へのおぼつかない歩みをはこんでいただけであった。やっと近年になってこの現象が電気動力線の瞬時的高圧の測定に利用されそうだというので若干のエンジニアーによって応用の方面の見地から取り扱われはしたが、それも本質的に物理的な意味ではなんらの果実を結ぶこともなしに終わっているように見える。そうしてこの現象の物理的本性についてはもちろんいろいろの解説もあり、ある程度までは説明されたと信ぜられているのであるが、現在までのところではただ従来他の方面でよく知られた事実を適用して、それだけで説明し得られる限りの問題だけに触れてはいるが、あの不思議な現象のもっと本質的な根本問題については、あえて試みにでも解析のメスを下そうとすることがまれであるのみならず、その問題の存在とその諸相を指摘しようとする人もないように見えるのである。今日でもまだ奇妙でつまらぬもののことを「リヒテンベルクのような」という言葉で言い現わす人さえあるようである。これももっともなことである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15972-16199">こういう種類の現象は分類的に見るとたいてい事がらが偶然的に統計的であって、古典的物理学の意味において deterministic でないような部類に属しているのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">統計的数字を取り扱うことが「量的」であるかないか、従来の古典物理学で言うところの量的であるかないか、これは議論にもならないような事であるが、しかし事実上往々、たとえば地球物理学の問題における統計的研究は物理学上の量的研究とは全然別種のものと見なされ、どうかするとそれがかなり有益であり興味あるものであっても、「統計的だから」というわけをもって物理的なるものの圏外に置かれ、そういう仕事を行なう人たちには「統計屋」なるあまり愉快でない名前がさずけられる場合もあった。実際多くは統計屋であったかもそれはわからない。しかしそういう事実からして、統計的研究――物理学方法論から見た一つの方法としての――が本質的に無価値なるがごとき「感じ」を与えるようになるとしたら、それもまた憂うべきことである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">近代物理学では実際統計的現象の領土は次第次第に拡張されて来た。そうして古い意味での deterministic な考え方は一つのかりの方便としてしか意味をもたなくなって来た。同じ原因は同じ結果を生ずるという命題は、「同じ」という概念の上におおいかかった黒雲のために焦点をはずれた写真のように<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-17644-17668"><rb>漠然</rb><rt>ばくぜん</rt></ruby><seg source="#source-17668-17955">たる言詞となって来た。このような、これに関連したあらゆる物理学概念の根本的な革命は Reproducibility という概念にも根本的な革命をもたらしたように見える。今まではなるべくなら避けたく思った統計的不定の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-17955-17979"><rb>渾沌</rb><rt>こんとん</rt></ruby><seg source="#source-17979-17982">の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-17982-17997"><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby><seg source="#source-17997-18491">の中に、統計的にのみ再現的な事実と方則とを求めるように余儀なくされたのである。しかもそういう場合の問題の解析に必要な利器はまだきわめて不備であって、まさにこれから始めて製造に取りかかるべきである。このような利器のあるものはすでに偉大な現代学者の手で創成されたとは言え、これですべてが終わったとはどうしても考えられないようである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18491-19232">こういう時代において、それ自身だけに任せておくととかく立ち枯れになりやすい理論に生命の水をそそぎ、行き詰まりになりやすい抽象に新しい疎通孔をあけるには、やはりいろいろの実験が望ましい。それには行ない古したことの精査もよいが、また別に何かしら従来とはよほどちがった方面をちがった目で見るような実験的研究が望ましい。ことにこの眼前の生きた自然における現実の統計的物理現象の実証的研究によって、およそ自然界にいかに多様なる統計的現象がいかなる形において統計的に起こっているかを、できるならば片端から</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-19232-19250"><rb>虱</rb><rt>しらみ</rt></ruby><seg source="#source-19250-20055">つぶしに調べて行って、そうしてそれらの現象の中に共通なる何物かを求めることが望ましく思われる。そういう共通なものがはたしてあるかという疑いに対しては、従来の物理学から見てまるで異なる方面の現象と思われるものの間に、少なくも formal な肖似の著しいもののあることは多くの人の認めるところであろう。少なくも肖似していると多数の人に思わせるような何物かがあることだけは確かである。この何物かは何であるか。それを説明すべき方則はまだ何人も知らないのである。しかしともかくも何かしら一種の方則なしに、どうしていったいそういう事が起こりうるであろうか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">この難儀の問題の黒幕の背後に控えているものは、われわれのこの自然に起こる自然現象を支配する未知の統計的自然方則であって、それは――もしはなはだしい空想を許さるるならば――熱力学第二方則の統計的解釈に比較さるべき種類のものではあり得ないか。マクスウェル、ボルツマン、アーレニウスらを悩ました宇宙の未来に関するなぞを解くべきかぎとしての「第三第四の方則」がそこにもしや隠れているのではないか。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20642-20932">このような可能性への探究の第一歩を進めるための一つの手掛かりは、上記のごとき統計的質的現象の周到なる実験的研究と、それの結果の質的整理から量的決算への道程の中に拾い出されはしないであろうか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20932-21010">要するに、従来のいわゆる統計物理学は物理学の一方の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-21010-21028"><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby><seg source="#source-21028-21094">を借りた寄生物であったのであるが、今ではこの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-21094-21115"><rb>店子</rb><rt>たなこ</rt></ruby><seg source="#source-21115-21118">に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-21118-21139"><rb>主家</rb><rt>おもや</rt></ruby><seg source="#source-21139-21504">を明け渡す時節が到来しつつあるのではないか。ほんとうの新統計的物理学はこれから始まるべきではないか。これはもちろん筆者のはなはだ気違いじみた空想であるかもしれないが、ともかくも多くの人の少なくも一応は考慮してもよい事ではないかと思うのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">最後についでながら私が近ごろ出会ったおもしろい経験をここにしるしておこう。それはある会合の席でプランクトンの調査に関する講演を聞いた時、「今回のわれわれの調査はまだ単に量的であって質的の点までは進んでいない」という言葉を聞いて<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-21846-21870"><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として驚いたのであった。物理学者にはいつでも最初が質的で次に量的が来るのに、ここではそれが正反対なのである。しかしあとでよく考えてみると、物理でもやはりプランクトンと同様なものを、水産学におけると同様に取り扱っていることは少しも珍しくない。つい近くまでわれわれは鉄の弾性とか磁性とかいうことを平気で言って、その「鉄」を作る微晶や固溶体のプランクトンの人別調べは略していた。何万ボルトの電撃という一語であらゆるサージの形を包括していた。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-22521-22563"><rb>放電間隙</rb><rt>ほうでんかんげき</rt></ruby><seg source="#source-22563-22984">と電位差と全荷電とが同じならばすべてのスパークは同じとして数えられた。すなわちわれわれはやはり量を先にして質をあとにしていたのであった。このある日の経験は私に有益であった。われわれが平生あまりに簡単に質的量的ということを考え過ぎているということを痛切に反省させられたのであった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22984-23344">以上未熟な考察の一部をしるして貴重なる本誌の紙面をけがし読者からのとがめを招くであろうことを恐れる。紙数の限りあるために意を尽くさない点の多いのを遺憾とする。ただ量的にあまりに抽象的な、ややもすれば知識の干物の貯蔵所となる恐れのある学界の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-23344-23368"><rb>一隅</rb><rt>いちぐう</rt></ruby><seg source="#source-23368-23500">に、時々は永遠に若い母なる自然の息を通わせることの必要を今さららしく強調するためにこんな</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-23500-23518"><rb>蕪辞</rb><rt>ぶじ</rt></ruby><seg source="#source-23518-24111">を連ねたに過ぎないのである。若くてのんきで自由な頭脳を所有する学生諸君が暑苦しい研学の道程であまりに濃厚になったであろうと思われる血液を少しばかり薄めるための一杯のソーダ水として、あるいはまたアカデミックな精白米の滋味に食い飽きて一種のヴィタミン欠乏症にかかる恐れのあるときの一さじの米ぬかぐらいのつもりでこの一編の所説の中に暗示された何物かを味わってもらわれれば、筆者の望外のしあわせである。</seg></p>
      <div type="layout" source="#source-24111-24174" style="padding-inline-end: 3em; text-align: right">
        <p><seg source="#source-24141-24174">（昭和六年十月、科学）</seg></p>
      </div>
    </body>
    <back>
      <div type="source">
        <note type="source-attribution" source="#source-24182-24445"><seg type="source-line">底本：「寺田寅彦随筆集　第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1948（昭和23）年5月15日第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1963（昭和38）年4月16日第20刷改版発行</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1997（平成9）年9月5日第64刷発行</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-24445-24914"><seg type="source-line">※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」（岩波書店）を参照しました。</seg><lb/><seg type="source-line">入力：(株)モモ</seg><lb/><seg type="source-line">校正：かとうかおり</seg><lb/><seg type="source-line">2000年10月3日公開</seg><lb/><seg type="source-line">2003年10月30日修正</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
        <note type="source-span" xml:id="source-10790-10918" n="22"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-10918-11710" n="23"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11710-11725" n="23"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11725-11892" n="23"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11892-12150" n="24"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-12150-12165" n="24"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-12165-12405" n="24"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-12405-12429" n="24"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-12429-12639" n="24"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-12639-12660" n="24"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-12660-13334" n="24"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-13334-13556" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-13556-13580" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-13580-13784" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-13784-13805" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14165-14192" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14192-14266" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14266-14572" n="26"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14572-14599" n="26"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-1489-1504" n="14"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-1504-1510" n="14"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-1510-1525" n="14"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-1525-2121" n="14"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-15972-16199" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17644-17668" n="29"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17668-17955" n="29"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17955-17979" n="29"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17979-17982" n="29"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17982-17997" n="29"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17997-18491" n="29"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-18491-19232" n="30"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-19232-19250" n="30"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-19250-20055" n="30"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-20642-20932" n="32"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-20932-21010" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21010-21028" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21028-21094" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21094-21115" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21115-21118" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21118-21139" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21139-21504" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21846-21870" n="34"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-22521-22563" n="34"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-22563-22984" n="34"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-22984-23344" n="36"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23344-23368" n="36"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23368-23500" n="36"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23500-23518" n="36"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23518-24111" n="36"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-24111-24174" n="37"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-24141-24174" n="37"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-24182-24445" n="41"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-24445-24914" n="45"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-2882-3065" n="16"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3065-3095" n="16"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3410-3425" n="16"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3515-3530" n="16"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4132-4261" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4261-4285" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4285-4333" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4333-4351" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-439-601" n="14"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4711-4726" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5052-5064" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5331-5352" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5898-5925" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5925-5979" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5979-6000" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-6000-6227" n="17"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-601-637" n="14"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-6227-6628" n="18"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7216-7228" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7836-7857" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7857-7953" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7953-7980" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7980-8052" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8052-8070" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8070-8082" n="19"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8082-8109" n="19"/>
      </div>
      <note type="parser-completion" n="true">The n attribute is true when no parser diagnostic of error severity was raised for this source. What the converter could not interpret is recorded in the interpretation-problem and parser-diagnostic notes.</note>
      <note type="source-decoding">windows-31j</note>
    </back>
  </text>
</TEI>