大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>な男が<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>にして頭の<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>へ入れやすいように<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてくれたものである。<ruby><rb>一纏</rb><rt>ひとまと</rt></ruby>めにきちりと片付いている代りには、出すのが<ruby><rb>臆劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>になったり、<ruby><rb>解</rb><rt>ほど</rt></ruby>くのに手数がかかったりするので、いざという場合には間に合わない事が多い。大抵のイズムはこの点において、実生活上の行為を直接に支配するために作られたる<ruby><rb>指南車</rb><rt>しなんしゃ</rt></ruby>というよりは、<ruby><rb>吾人</rb><rt>ごじん</rt></ruby>の知識欲を充たすための統一函である。文章ではなくって字引である。

同時に多くのイズムは、<ruby><rb>零砕</rb><rt>れいさい</rt></ruby>の類例が、比較的<ruby><rb>緻密</rb><rt>ちみつ</rt></ruby>な頭脳に<ruby><rb>濾過</rb><rt>ろか</rt></ruby>されて<ruby><rb>凝結</rb><rt>ぎょうけつ</rt></ruby>した時に取る一種の形である。形といわんよりはむしろ<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>である。<ruby><rb>中味</rb><rt>なかみ</rt></ruby>のないものである。中味を棄てて輪廓だけを<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>み込むのは、<ruby><rb>天保銭</rb><rt>てんぽうせん</rt></ruby>を脊負う代りに紙幣を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>にすると同じく小さな人間として<ruby><rb>軽便</rb><rt>けいべん</rt></ruby>だからである。

この意味においてイズムは会社の決算報告に比較すべきものである。更に生徒の学年成績に<ruby><rb>匹敵</rb><rt>ひってき</rt></ruby>すべきものである。<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>一行の数字の<ruby><rb>裏面</rb><rt>りめん</rt></ruby>に、僅か二位の得点の背景に殆どありのままには繰返しがたき、多くの時と事と人間と、その人間の努力と悲喜と<ruby><rb>成敗</rb><rt>せいはい</rt></ruby>とが<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいる。

従ってイズムは既に経過せる事実を土台として成立するものである。過去を<ruby><rb>総束</rb><rt>そうそく</rt></ruby>するものである。経験の歴史を簡略にするものである。与えられたる事実の輪廓である。型である。この型を以て未来に<ruby><rb>臨</rb><rt>のぞ</rt></ruby>むのは、天の展開する未来の内容を、人の頭で<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた<ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>に<ruby><rb>盛終</rb><rt>もりおお</rt></ruby>せようと、あらかじめ待ち<ruby><rb>設</rb><rt>もう</rt></ruby>けると一般である。器械的な自然界の現象のうち、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も単調な<ruby><rb>重複</rb><rt>ちょうふく</rt></ruby>を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わざるものには、すぐこの型を応用して実生活の便宜を計る事が出来るかも知れない。科学者の研究が未来に反射するというのはこのためである。しかし人間精神上の生活において、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に与えられたる輪廓のために生存するの苦痛を感ずるものである。単に与えられたる輪廓の方便として生存するのは、<ruby><rb>形骸</rb><rt>けいがい</rt></ruby>のために器械の用をなすと一般だからである。その時わが精神の発展が自個天然の法則に<ruby><rb>遵</rb><rt>したが</rt></ruby>って、自己に真実なる輪廓を、<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>らと自らに付与し得ざる屈辱を<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>る事さえある。

精神がこの屈辱を感ずるとき、吾人はこれを過去の輪廓がまさに崩れんとする前兆と見る。未来に引き延ばしがたきものを引き延ばして無理にあるいは盲目的に利用せんとしたる<ruby><rb>罪過</rb><rt>ざいか</rt></ruby>と見る。

過去はこれらのイズムに因って支配せられたるが故に、これからもまたこのイズムに支配せられざるべからずと<ruby><rb>臆断</rb><rt>おくだん</rt></ruby>して、一短期の過程より得たる輪廓を胸に蔵して、<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てを断ぜんとするものは、<ruby><rb>升</rb><rt>ます</rt></ruby>を抱いて高さを計り、かねて長さを<ruby><rb>量</rb><rt>はか</rt></ruby>らんとするが如き暴挙である。

自然主義なるものが<ruby><rb>起</rb><rt>おこ</rt></ruby>って既に五、六年になる。これを口にする人は皆それぞれの根拠あっての事と思う。わが知る限りにおいては、またわが了解し得たる限りにおいては（了解し得ざる論議は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて）必ずしも非難すべき点ばかりはない。けれども自然主義もまた一つのイズムである。人生上芸術上、ともに一種の因果によって、西洋に発展した歴史の断面を、輪廓にして<ruby><rb>舶載</rb><rt>はくさい</rt></ruby>した品物である。吾人がこの輪廓の中味を<ruby><rb>充牣</rb><rt>じゅうじん</rt></ruby>するために生きているのでない事は<ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かである。吾人の活力発展の内容が、自然にこの輪廓を描いた時、始めて自然主義に意義が生ずるのである。

一般の世間は自然主義を嫌っている。自然主義者はこれを永久の真理の如くにいいなして吾人生活の全面に<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>って<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いんとしつつある。自然主義者にして今少し<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>く、また今少し根気よく猛進したなら、<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>ら<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>るの未来を早めつつある事に気がつくだろう。人生の全局面を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>う大輪廓を描いて、未来をその中に追い込もうとするよりも、<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>たる輪廓中の一小片を堅固に<ruby><rb>把持</rb><rt>はじ</rt></ruby>して、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に自然主義の<ruby><rb>恒久</rb><rt>こうきゅう</rt></ruby>を認識してもらう方が彼らのために<ruby><rb>得策</rb><rt>とくさく</rt></ruby>ではなかろうかと思う。

――明治四三、七、二三『東京朝日新聞』――