Soranoha

大塩平八郎

おおしおへいはちろう

森 鴎外

一、西町奉行所

天保てんぱう八年丁酉ひのととりの歳とし二月十九日の暁方あけがた七つ時どきに、大阪西町奉行所にしまちぶぎやうしよの門を敲たゝくものがある。西町奉行所と云ふのは、大阪城の大手おほての方角から、内本町通うちほんまちどほりを西へ行つて、本町橋ほんまちばしに掛からうとする北側にあつた。此頃はもう四年前から引き続いての飢饉ききんで、やれ盗人ぬすびと、やれ行倒ゆきだふれと、夜中やちゆうも用事が断たえない。それにきのふの御用日ごようびに、月番つきばんの東町ひがしまち奉行所へ立会たちあひに往いつて帰つてからは、奉行堀伊賀守利堅ほりいがのかみとしかたは何かひどく心せはしい様子で、急に西組与力にしぐみよりき吉田勝右衛門かつゑもんを呼び寄せて、長い間密談をした。それから東町奉行所との間に往反わうへんして、けふ十九日にある筈はずであつた堀の初入式しよにふしきの巡見が取止とりやめになつた。それから家老中泉撰司なかいづみせんしを以もつて、奉行所詰ぶぎやうしよづめのもの一同に、夜中やちゆうと雖いへども、格別に用心するやうにと云ふ達たつしがあつた。そこで門を敲たゝかれた時、門番がすぐに立つて出て、外に来たものの姓名と用事とを聞き取つた。

門外に来てゐるのは二人にんの少年であつた。一人にんは東組町同心どうしん吉見九郎右衛門よしみくらうゑもんの倅せがれ英太郎えいたらう、今一人は同組同心河合郷左衛門かはひがうざゑもんの倅八十次郎やそじらうと名告なのつた。用向ようむきは一大事があつて吉見九郎右衛門の訴状そじやうを持参したのを、ぢきにお奉行様ぶぎやうさまに差し出したいと云ふことである。

上下共じやうげとも何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。門番は猶予いうよなく潜門くゞりもんをあけて二人の少年を入れた。まだ暁あかつきの白しらけた光が夜闇よやみの衣きぬを僅わづかに穿うがつてゐる時で、薄曇うすぐもりの空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。英太郎えいたらうは十六歳、八十次郎やそじらうは十八歳である。

「お奉行様にぢきに差し上げる書付かきつけがあるのだな。」門番は念を押した。

「はい。ここに持つてをります。」英太郎が懐ふところを指ゆびさした。

「お前がその吉見九郎右衛門の倅せがれか。なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」

「父は病気で寝てをります。」

「一体いつたい東のお奉行所附づきのものの書付かきつけなら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」

「西のお奉行様にでなくては申し上げられぬと、父が申しました。」

「ふん。さうか。」門番は八十次郎やそじらうの方に向いた。「お前はなぜ附いて来たのか。」

「大切な事だから、間違まちがひの無いやうに二人ふたりで往いけと、吉見のをぢさんが言ひ附けました。」

「ふん。お前は河合と言つたな。お前の親父様おやぢさまは承知してお前をよこしたのかい。」

「父は正月の二十七日に出た切きり、帰つて来ません。」

「さうか。」

門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。吉見の父が少年二人を密訴みつそに出したので、門番も猜疑心さいぎしんを起さずに応対して、却かへつて運びが好かつた。門番の聞き取つた所を、当番のものが中泉なかいづみに届ける。中泉が堀に申し上げる。間もなく堀の指図で、中泉が二人を長屋に呼び入れて、一応取り調べた上訴状そじやうを受け取つた。

堀は前役ぜんやく矢部駿河守定謙やべするがのかみさだかたの後のちを襲ついで、去年十一月に西町奉行になつて、やう〱今月二日に到着した。東西の町奉行は月番交代つきばんかうたいをして職務を行おこなつてゐて、今月は堀が非番ひばんである。東町奉行跡部山城守良弼あとべやましろのかみよしすけも去年四月に現職に任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、兎とに角かく一日じつの長ちやうがあるので、堀は引ひき廻まはして貰もらふと云ふ風になつてゐる。町奉行になつて大阪に来たものは、初入式しよにふしきと云つて、前からゐる町奉行と一しよに三度に分けて市中を巡見する。初度しよどが北組きたぐみ、二度目が南組、三度目が天満組てんまぐみである。北組、南組とは大手前おほてまへは本町通ほんまちどほり北側、船場せんばは安土町通あづちまちどほり、西横堀にしよこぼり以西は神田町通かんだまちどほりを界さかひにして、市中を二分してあるのである。天満組てんまぐみとは北組の北界きたざかひになつてゐる大川おほかはより更に北方に当る地域で、東は材木蔵ざいもくぐらから西は堂島だうじまの米市場こめいちばまでの間、天満てんまの青物市場あをものいちば、天満宮てんまんぐう、総会所そうくわいしよ等を含んでゐる。北組が二百五十町、南組が二百六十一町、天満組が百九町ある。予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に東照宮とうせうぐう附近の与力町よりきまちに出て、夕ゆふ七つ時どきには天満橋筋長柄町ながらまちを東に入いる北側の、迎方むかへかた東組与力朝岡助之丞あさをかすけのじようが屋敷で休息するのであつた。迎方むかへかたとは新任の奉行を迎へに江戸に往つて、町与力まちよりき同心どうしんの総代として祝詞しゆくしを述べ、引き続いて其奉行の在勤中、手許てもとの用を達たす与力一人にん同心二人にんで、朝岡は其与力である。然しかるにきのふの御用日の朝、月番跡部あとべの東町奉行所へ立会たちあひに往くと、其前日十七日の夜東組同心平山助次郎ひらやますけじらうと云ふものの密訴みつその事を聞せられた。一大事と云ふ詞ことばが堀の耳を打つたのは此時このときが始はじめであつた。それからはどんな事が起つて来るかと、前晩ぜんばんも殆ほとんど寝ずに心配してゐる。今中泉なかいづみが一大事の訴状を持つて二人の少年が来たと云ふのを聞くと、堀はすぐにあの事だなと思つた。堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した書付かきつけの内容は、未知みちの事の発明ではなくて、既知きちの事の証験しようけんとして期待せられてゐるのである。

堀は訴状を披見ひけんした。胸を跳をどらせながら最初から読んで行くと、果はたしてきのふ跡部あとべに聞いた、あの事である。陰謀いんぼうの首領しゆりやう、その与党よたうなどの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の身囲みがこひである。堀が今少しく精くはしく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、疑懼ぎく、愁訴しうそである。きのふから気に掛かつてゐる所謂いはゆる一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考へながら読むので、動やゝもすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。はつと思つては又読み返す。やう〱読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐる事の外に、これ丈だけの事が残つた。陰謀の与党の中で、筆者と東組与力渡辺良左衛門わたなべりやうざゑもん、同組同心河合郷左衛門かはひがうざゑもんとの三人は首領を諫いさめて陰謀を止やめさせようとした。併しかし首領が聴かぬ。そこで河合は逐電ちくてんした。筆者は正月三日後ごに風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を以もつて首領にことわらせた。此体このていでは事を挙げられる日になつても所詮しよせん働く事は出来ぬから、切腹して詫わびようと云つたのである。渡辺は首領の返事を伝へた。そんならゆる〱保養しろ。場合によつては立たち退のけと云ふことである。これを伝へると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退を共にすると決心したことを話した。次いで首領は倅せがれと渡辺とを見舞によこした。筆者は病中やう〱の事で訴状を書いた。それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、取次とりつぎを頼むべき人が無い。そこで隔所かくしよを見計みはからつて托訴たくそをする。筆者は自分と倅英太郎以下の血族との赦免しやめんを願ひたい。尤もつとも自分は与党よたうを召めし捕とられる時には、矢張やはり召し捕つて貰もらひたい。或は其間そのあひだに自殺するかも知れない。留置とめおき、預あづけなどゝ云ふことにせられては、病体で凌しのぎ兼かねるから、それは罷やめにして貰ひたい。倅英太郎は首領の立てゝゐる塾で、人質ひとじちのやうになつてゐて帰つて来ない。兎とに角かく自分と一族とを赦免しやめんして貰ひたい。それから西組与力見習よりきみならひに内山彦次郎うちやまひこじらうと云ふものがある。これは首領に嫉にくまれてゐるから、保護を加へて貰ひたいと云ふのである。

読んでしまつて、堀は前から懐いだいてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の侮蔑ぶべつの念を起さずにはゐられなかつた。形式に絡からまれた役人生涯に慣れてはゐても、成立してゐる秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある返忠かへりちゆうを、真まことの忠誠だと看みることは、生うまれ附いた人間の感情が許さない。その上自分の心中の私わたくしを去ることを難かたんずる人程却かへつて他人の意中の私わたくしを訐あばくに敏びんなるものである。九郎右衛門は一しよに召めし捕とられたいと云ふ。それは責せめを引く潔いさぎよい心ではなくて、与党を怖おそれ、世間を憚はゞかる臆病である。又自殺するかも知れぬと云ふ。それは覚束おぼつかない。自殺することが出来るなら、なぜ先まづ自殺して後に訴状を貽のこさうとはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて還かへるものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、入いらずに済すめば入いるまいとする筈である。横着者わうちやくものだなとは思つたが、役馴やくなれた堀は、公儀こうぎのお役に立つ返忠かへりちゆうのものを周章しうしやうの間にも非難しようとはしない。家老に言ひ付けて、少年二人を目通めどほりへ出させた。

「吉見英太郎と云ふのはお前か。」

「はい。」怜悧れいりらしい目を見張つて、存外怯おくれた様子もなく堀を仰あふぎ視みた。

「父九郎右衛門は病気で寝てをるのぢやな。」

「風邪ふうじやの跡あとで持病の疝痛せんつう痔疾ぢしつが起りまして、行歩ぎやうほが愜かなひませぬ。」

「書付かきつけにはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」

「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる迄までに脱ぬけて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞に参つた時の事でございます。それから一しよに塾にゐる河合八十次郎やそじらうと相談いたしまして、昨晩四よつ時どきに抜けて帰りました。先生の所にはお客が大勢おほぜいありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を噤つぐんだ。

堀は暫しばらく待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。「それからどういたした」と、堀が問うた。

「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」

「さうか。」東組与力瀬田済之助せいのすけ、同小泉淵次郎えんじらうの二人が連判れんぱんに加はつてゐると云ふことは、平山の口上こうじやうにもあつたのである。

堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か。」

「はい。」頬ほゝの円まるい英太郎と違つて、これは面長おもながな少年であるが、同じやうに小気こきが利きいてゐて、臆おくする気色けしきは無い。

「お前の父はどういたしたのぢや。」

「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、火箸ひばしで打擲ちやうちやくせられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の謹之助きんのすけを連れて、天満宮てんまんぐうへ参ると云つて出ましたが、それ切きりどちらへ参つたか、帰りません。」

「さうか。もう宜よろしい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。

「いかが取り計らひませう」と、中泉が主人の気色けしきを伺つた。

「番人を附けて留とめ置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。

堀は居間に帰つて不安らしい様子をしてゐたが、忙いそがしげに手紙を書き出した。これは東町奉行に宛てて、当方にも訴人そにんがあつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、追附おつつけ参上すると書いたのである。堀はそれを持たせて使つかひを出した跡あとで、暫く腕組うでぐみをして強しひて気を落ち着けようとしてゐた。

堀はきのふ跡部あとべに陰謀者の方略はうりやくを聞いた。けふの巡見を取り止めたのはそのためである。然しかるに只たゞ三月と書いて日附をせぬ吉見の訴状には、その方略は書いてない。吉見が未明に倅せがれを托訴たくそに出したのを見ると方略を知らぬのではない。書き入れる暇ひまがなかつたのだらう。東町奉行所へ訴へた平山は、今月十五日に渡辺良左衛門が来て、十九日の手筈てはずを話し、翌十六日に同志一同が集まつた席で、首領が方略を打ち明けたと云つたさうである。それは跡部と自分とが与力朝岡の役宅やくたくに休息してゐる所へ襲おそつて来こようと云ふのである。一体吉見の訴状にはなんと云つてあつたか、それに添へてある檄文げきぶんにはどう書いてあるか、好く見て置かうと堀は考へて、書類を袖そでの中から出した。

堀は不安らしい目附めつきをして、二つの文書ぶんしよをあちこち見競みくらべた。陰謀に対してどう云ふ手段を取らうと云ふ成案がないので、すぐに跡部あとべの所へ往かずに書面を遣やつたが、安座して考へても、思案が纏まとまらない。併しかし何かせずにはゐられぬので、文書を調べ始めたのである。

訴状には「御城おんしろ、御役所おんやくしよ、其外そのほか組屋敷等くみやしきとう火攻ひぜめの謀はかりごと」と書いてある。檄文げきぶんには無道むだうの役人を誅ちゆうし、次に金持の町人共を懲こらすと云つてある。兎とに角かく恐ろしい陰謀である。昨晩跡部からの書状には、慥たしかな与力共の言分いひぶんによれば、さ程の事でないかも知れぬから、兼かねて打ち合せたやうに捕方とりかたを出すことは見合みあはせてくれと云つてあつた。それで少し安心して、こつちから吉田を出すことも控へて置いた。併し数人すにんの申分まをしぶんがかう符合して見れば、容易な事ではあるまい。跡部はどうする積つもりだらうか。手紙を遣やつたのだから、なんとか云つて来さうなものだ。こんな事を考へて、堀は時の移るのをも知らずにゐた。

二、東町奉行所

東町奉行所で、奉行跡部山城守良弼あとべやましろのかみよしすけが堀の手紙を受け取つたのは、明あけ六つ時どき頃であつた。

大阪の東町奉行所は城の京橋口きやうばしぐちの外、京橋通どほりと谷町たにまちとの角屋敷かどやしきで、天満橋てんまばしの南詰みなみづめ東側にあつた。東は城、西は谷町の通である。南の島町通しままちどほりには街を隔てて籾蔵もみぐらがある。北は京橋通の河岸かしで、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。只たゞ庭の外囲ぐわいゐに梅の立木たちきがあつて、少し展望を遮さへぎるだけである。

跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の密訴みつそした陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、跡部あとべは東組与力の中で、あれかこれかと慥たしかなものを選より抜いて、とう〱荻野勘左衛門をぎのかんざゑもん、同人どうにん倅せがれ四郎助しろすけ、磯矢頼母いそやたのもの三人を呼び出した。頼母たのもと四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。「あの先生は学問はえらいが、肝積持かんしやくもちで困ります」などと、四郎助が云つたこともある。「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに激げきして来て、六寸もある金頭かながしらを頭からめり〱と咬かん食べたさうでございます」と云つた。それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍念入ねんいりにしてゐる。そこを見込んで跡部が呼び出したのである。

さて捕方とりかたの事を言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、良やゝ久しく顔を見合せて考へた上で云つた。平山が訴うつたへはいかにも実事じつじとは信ぜられない。例の肝積持かんしやくもちの放言を真まに受けたのではあるまいか。お受うけはいたすが、余所よそながら様子を見て、いよ〱実正じつしやうと知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を目まのあたり見た跡部は、一層切実に忌々いま〱しい陰謀事件が譃うそかも知れぬと云ふ想像に伴ふ、一種の安心を感じた。そこで逮捕を見合せた。

跡部は荻野をぎの等の話を聞いてから考へて見て、平山に今一度一大事を聞いた前後の事を精くはしく聞いて置けば好かつたと後悔した。をとつひの夜平山が来て、用人ようにん野々村次平に取り次いで貰もらつて、所謂いはゆる一大事の訴うつたへをした時、跡部は急に思案して、突飛とつぴな手段を取つた。尋常なら平山を留とめ置おいて、陰謀を鎮圧する手段を取るべきであるのに、跡部はその決心が出来なかつた。若し平山を留め置いたら、陰謀者が露顕を悟つて、急に事を挙げはすまいかと懼おそれ、さりとて平山を手放して此土地に置くのも心許こゝろもとないと思つたのである。そこで江戸で勘定奉行になつてゐる前任西町奉行矢部駿河守するがのかみ定謙に当てた私信を書いて、平山にそれを持たせて、急に江戸へ立たせたのである。平山はきのふ暁あけ七つ時どきに、小者こもの多助たすけ、雇人やとひにん弥助やすけを連れて大阪を立つた。そして後のち十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が邸やしきに着いた。

意志の確かでない跡部は、荻野等三人の詞ことばをたやすく聴きき納いれて、逮捕の事を見合みあはせたが、既にそれを見合せて置いて見ると、その見合せが自分の責任に帰すると云ふ所から、疑懼ぎくが生じて来た。延期は自分が極きめて堀に言つて遣やつた。若もし手遅れと云ふ問題が起ると、堀は免まぬかれて自分は免れぬのである。跡部が丁度この新あらたに生じた疑懼ぎくに悩まされてゐる所へ、堀の使つかひが手紙を持つて来た。同じ陰謀に就いて西奉行所へも訴人そにんが出た、今日当番の瀬田、小泉に油断をするなと云ふ手紙である。

跡部は此手紙を読んで突然決心して、当番の瀬田、小泉に手を着けることにした。此決心には少し不思議な処がある。堀の手紙には何一つ前に平山が訴へたより以上の事実を書いては無い。瀬田、小泉が陰謀の与党だと云ふことは、既に平山が云つたので、荻野等三人に内命を下すにも、跡部は綿密な警戒をした。さうして見れば、堀の手紙によつて得た所は、今まで平山一人の訴うつたへで聞いてゐた事が、更に吉見と云ふものの訴で繰り返されたと云ふに過ぎない。これには決心を促うながす動機としての価値は殆ほとんど無い。然しかるにその決心が跡部には出来て、前には腫物はれものに障さはるやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする。これは一昨日の夜平山の密訴みつそを聞いた時にすべき決心を、今偶然の機縁に触れてしたやうなものである。

跡部は荻野等を呼んで、二人にんを捕とらへることを命じた。その手筈てはずはかうである。奉行所に詰めるものは、先まづ刀を脱だつして詰所つめしよの刀架かたなかけに懸かける。そこで脇差わきざしばかり挿さしてゐて、奉行に呼ばれると、脇差をも畳廊下たゝみらうかに抜いて置いて、無腰むこしで御用談ごようだんの間まに出る。この御用談の間に呼んで捕へようと云ふのが手筈である。併しかし万一の事があつたら切り棄てる外ほかないと云ふので、奉行所に居合ゐあはせた剣術の師一条一いちでうはじめが切棄きりすての役を引き受けた。

さて跡部は瀬田、小泉の二人を呼ばせた。それを聞いた時、瀬田は「暫時ざんじ御猶予ごいうよを」と云つて便所に起たつた。小泉は一人いつもの畳廊下たゝみらうかまで来て、脇差を抜いて下に置かうとした。此畳廊下の横手に奉行の近習きんじゆ部屋がある。小泉が脇差を下に置くや否いなや、その近習部屋から一人の男が飛び出して、脇差に手を掛けた。「はつ」と思つた小泉は、一旦手を放した脇差を又掴つかんだ。引き合ふはずみに鞘走さやはしつて、とう〱、小泉が手に白刃しらはが残つた。様子を見てゐた跡部が、「それ、切り棄てい」と云ふと、弓の間ままで踏み出した小泉の背後うしろから、一条が百会ひやくゑの下へ二寸程切り附けた。次に右の肩尖かたさきを四寸程切り込んだ。小泉がよろめく所を、右の脇腹わきはらへ突つきを一本食はせた。東組与力小泉淵次郎えんじらうは十八歳を一期いちごとして、陰謀第一の犠牲として命いのちを隕おとした。花のやうな許嫁いひなづけの妻があつたさうである。

便所にゐた瀬田は素足すあしで庭へ飛び出して、一本の梅の木を足場にして、奉行所の北側の塀へいを乗り越した。そして天満橋てんまばしを北へ渡つて、陰謀の首領大塩平八郎おほしほへいはちらうの家へ奔はしつた。

三、四軒屋敷

天満橋筋てんまばしすぢ長柄町ながらまちを東に入いつて、角かどから二軒目の南側で、所謂いはゆる四軒屋敷の中に、東組与力大塩格之助おほしほかくのすけの役宅やくたくがある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田青太夫あをたいふの弟に生れたのを、養父平八郎が貰もらつて置いて、七年前にお暇いとまになる時、番代ばんだいに立たせたのである。併しかし此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。

玄関を上がつて右が旧塾きうじゆくと云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を慕したつて寄宿したものがある。左は講堂で、読礼堂どくれいだうと云ふ匾額へんがくが懸けてある。その東隣が後に他家たけを買ひ潰つぶして広げた新塾しんじゆくである。講堂の背後うしろが平八郎の書斎で、中斎ちゆうさいと名づけてある。それから奥、東照宮とうせうぐうの境内けいだいの方へ向いた部屋々々へや〲が家内かないのものの居所ゐどころで、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館きやうちゆうかんくわくわんと云ふ匾額へんがくが懸かかつてゐる。これだけの建物の内に起臥きぐわしてゐるものは、家族でも学生でも、悉ことごとく平八郎が独裁の杖つゑの下もとに項うなじを屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる平ひらの学生に比べて、殆ほとんど何等なにらの特権をも有してをらぬのである。

東町奉行所で白刃はくじんの下したを脱のがれて、瀬田済之助せいのすけが此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を青天せいてんの霹靂へきれきとして聞くやうな、平穏無事の光景ありさまではなかつた。家内中かないぢゆうの女子供をんなこどもはもう十日前に悉ことごとく立たち退のかせてある。平八郎が二十六歳で番代ばんだいに出た年に雇つた妾めかけ、曾根崎新地そねざきしんちの茶屋大黒屋和市わいちの娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、般若寺村はんにやじむらの庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇志摩しまの二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ弓太郎ゆみたらうを附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ立たち退のかせたのである。

女子供がをらぬばかりでは無い。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それは兼かねて門人の籍にゐる兵庫西出町にしでまちの柴屋長太夫しばやちやうだいふ、其外そのほか縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が失錯しつさくをする度たびに、科料の代かはりに父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に入いつてからそれを悉ことごとく運び出させ、土蔵にあつた一切経いつさいきやうなどをさへそれに加へて、書店河内屋喜兵衛かはちやきへゑ、同新次郎しんじらう、同記一兵衛きいちべゑ、同茂兵衛もへゑの四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために難儀なんぎする人民に施ほどこすのだと云つて、安堂寺町あんだうじまち五丁目の本屋会所ほんやくわいしよで、親類や門下生に縁故のある凡およそ三十三町村のもの一万軒に、一軒けん一朱しゆの割わりを以もつて配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、家うちはがらんとしてしまつた。

今一つ此家の外貌が傷きずつけられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。町与力まちよりきは武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は玉造組たまつくりぐみ与力柴田勘兵衛しばたかんべゑの門人で、佐分利流さぶりりうの槍やりを使ふ。当主格之助は同組同心故人藤重孫三郎ふぢしげまごさぶらうの門人で、中島流の大筒おほづゝを打つ。中にも砲術家は大筒をも貯たくはへ火薬をも製する習ならひではあるが、此家では夫それが格別に盛さかんになつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格之助の師藤重ふぢしげの倅せがれ良左衛門りやうざゑもん、孫槌太郎つちたらうの両人を呼んで、今年の春堺さかひ七堂だうが浜はまで格之助に丁打ちやううちをさせる相談をした。それから平八郎、格之助の部屋の附近に戸締とじまりをして、塾生を使つて火薬を製させる。棒火矢ぼうひや、炮碌玉はうろくだまを作らせる。職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。火矢ひやの材木を挽ひき切つた天満北木幡町てんまきたこばたまちの大工作兵衛さくべゑなどがそれである。かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。大筒おほづゝは人から買ひ取つた百目筒ひやくめづゝが一挺ちやう、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人守口村もりぐちむらの百姓兼質商白井孝右衛門しらゐかうゑもんが土蔵の側そばの松の木を伐きつて作つた木筒きづゝが二挺ある。砲車はうしやは石を運ぶ台だと云つて作らせた。要するに此半年ばかりの間に、絃誦洋々げんしようやう〱の地が次第に喧噪けんさうと雑遝 《ざつたふ》とを常とする工場こうぢやうになつてゐたのである。

家がそんな摸様もやうになつてゐて、そこへ重立おもだつた門人共の寄り合つて、夜よの更ふけるまで還らぬことが、此頃次第に度重たびかさなつて来てゐる。昨夜は隠居と当主との妾めかけの家元、摂津せつつ般若寺村はんにやじむらの庄屋橋本忠兵衛、物持ものもちで大塩家の生計を助けてゐる摂津守口村もりぐちむらの百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心庄司義左衛門しやうじぎざゑもん、同組同心の倅近藤梶五郎かぢごらう、般若寺村の百姓柏岡かしはをか源右衛門、同倅伝七でんしち、河内かはち門真もんしん三番村の百姓茨田郡次いばらたぐんじの八人が酒を飲みながら話をしてゐて、折々をり〱いつもの人を圧伏あつぷくするやうな調子の、隠居の声が漏れた。平生最も隠居に親したしんでゐる此八人の門人は、とう〱屋敷に泊まつてしまつた。此頃は客があつてもなくても、勝手の為事しごとは、兼て塾の賄方まかなひかたをしてゐる杉山三平すぎやまさんぺいが、人夫を使つて取り賄まかなつてゐる。杉山は河内国かはちのくに衣摺村きぬすりむらの庄屋で、何か仔細しさいがあつて所払ところばらひになつたものださうである。手近な用を達たすのは、格之助の若党大和国やまとのくに曾我村生そがむらうまれの曾我岩蔵いはざう、中間ちゆうげん木八きはち、吉助きちすけである。女はうたと云ふ女中が一人、傍輩はうばいのりつがお部屋に附いて立たち退のいた跡あとで、頻しきりに暇いとまを貰もらひたがるのを、宥なだめ賺すかして引ひき留とめてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、賄方まかなひかた杉山、若党曾我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫抔などがゐたのである。

瀬田済之助せいのすけはかう云ふ中へ駆け込んで来た。

四、宇津木と岡田と

新塾にゐる学生のうちに、三年前に来て寄宿し、翌年一旦立ち去つて、去年再び来た宇津木矩之允うつぎのりのすけと云ふものがある。平八郎の著あらはした大学刮目だいがくくわつもくの訓点くんてんを施ほどこした一人にんで、大塩の門人中学力の優すぐれた方である。此宇津木が一昨年九州に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎西築町にしつきまちの医師岡田道玄だうげんの子で、名を良之進りやうのしんと云ふ。宇津木に連れられて親元を離れた時が十四歳だから、今年十六歳になつてゐる。

この岡田と云ふ少年が、けさ六つ半に目を醒さました。職人が多く入いり込こむやうになつてから、随分騒がしい家ではあるが、けさは又格別である。がた〱、めり〱、みし〱と、物を打ち毀こはす音がする。しかと聴き定めようとして、床とこの上にすわつてゐるうちに、今毀してゐる物が障子しやうじ襖ふすまだと云ふことが分かつた。それに雑まじつて人声がする。「役に立たぬものは討うち棄てい」と云ふ詞ことばがはつきり聞えた。岡田は怜悧れいりな、思慮のある少年であつたが、余り思ひ掛けぬ事なので、一旦夢ではないかと思つた。それから宇津木先生はどうしてゐるかと思つて、頸くびを延のばして見ると、先生はいつもの通とほりに着布団きぶとんの襟えりを頤あごの下に挿はさむやうにして寝てゐる。物音は次第に劇はげしくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。

岡田は跳はね起おきた。宇津木の枕元まくらもとにゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。

宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。

「先生。えらい騒ぎでございますが。」

「うん。知つてをる。己おれは余り人を信じ過ぎて、君をまで危地きちに置いた。こらへてくれ給たまへ。去年の秋からの丁打ちやううちの支度したくが、仰山ぎやうさんだとは己おれも思つた。それに門人中の老輩らうはい数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい素振そぶりをする。それを怪あやしいとは己おれも思つた。併しかし己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。所ところが君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来て遣やると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、独ひとり席を起たつて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お前方まへがたはどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。己おれは一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生良知りやうちの学を攻をさめてゐる。あれは根本の教をしへだ。然しかるに今の天下の形勢は枝葉しえふを病やんでゐる。民の疲弊ひへいは窮きはまつてゐる。草妨礙くさばうがいあらば、理り亦また宜よろしく去さるべしである。天下のために残賊ざんぞくを除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」

「はあ」と云つて、岡田は目を睜みはつた。

「先づ町奉行衆まちぶぎやうしゆう位くらゐの所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を見損みそこなつてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」

「そんなら今事ことを挙あげるのですね。」

「さうだ。家には火を掛け、与くみせぬものは切棄きりすてゝ起たつと云ふのだらう。併しかしあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し暇ひまがある。まあ、聞き給たまへ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。己おれは明朝御返事をすると云つて一時を糊塗ことした。若もし諫いさめる機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ止とまらせよう。それが出来なかつたら、師となり弟子ていしとなつたのが命めいだ、甘あまんじて死なうと決心した。そこで君だがね。」

岡田は又「はあ」と云つて耳を欹そばだてた。

「君は中斎先生の弟子ではない。己おれは君に此場を立ち退のいて貰もらひたい。挙兵の時期が最も好いい。若もしどうすると問ふものがあつたら、お供ともをすると云ひ給たまへ。さう云つて置いて逃げるのだ。己おれはゆうべ寝られぬから墓誌銘ぼしめいを自撰じせんした。それを今書いて君に遣やる。それから京都東本願寺家ひがしほんぐわんじけの粟津陸奥之助あはづむつのすけと云ふものに、己の心血を灑そゝいだ詩文稿しぶんかうが借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄下総しもふさの邸やしきへ往つて大林権之進ごんのしんと云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら宇津木うつぎはゆつくり起きて、机に靠もたれたが、宿墨しゆくぼくに筆を浸ひたして、有り合せた美濃紙みのがみ二枚に、一字の書損しよそんもなく腹藁ふくかうの文章を書いた。書き畢をはつて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。

岡田は草稿を受け取りながら、「併しかし先生」と何やら言ひ出しさうにした。

宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。

手に草稿を持つた儘まゝ、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。

「先生の指図通さしづどほり、宇津木を遣やつてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き馴なれた門人大井おほゐの声である。玉造組与力たまつくりぐみよりきの倅せがれで、名は正一郎しやういちらうと云ふ。三十五歳になる。

「宜よろしい。しつかり遣やり給たまへ。」これは安田図書やすだづしよの声である。外宮げぐうの御師おしで、三十三歳になる。

岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」

「好いい。君早く逃げてくれ給へ。」

「併しかし。」

「早くせんと駄目だ。」

廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を懐ふところに捩ねぢ込んで、机の所へ小鼠こねずみのやうに走り戻つて、鉄の文鎮ぶんちんを手に持つた。そして跣足はだしで庭に飛び下りて、植込うゑごみの中を潜くゞつて、塀へいにぴつたり身を寄せた。

大井は抜刀ばつたうを手にして新塾に這入はひつて来た。先づ寝所しんじよの温あたゝかみを探さぐつてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち留とまつた。暫しばらくして便所の戸に手を掛けて開けた。

中から無腰むこしの宇津木が、恬然てんぜんたる態度で出て来た。

大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀を構かまへながら言分いひわけらしく「先生のお指図さしづだ」と云つた。

宇津木は「うん」と云つた切きり、棒立ぼうだちに立つてゐる。

大井は酔人すゐじんを虎が食くひ兼かねるやうに、良やゝ久しく立ち竦すくんでゐたが、やう〱思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて真甲まつかふを目掛めがけて切り下おろした。宇津木が刀を受け取るやうに、俯向加減うつむきかげんになつたので、百会ひやくゑの背後うしろが縦たてに六寸程骨まで切れた。宇津木は其儘そのまゝ立つてゐる。大井は少し慌あわてながら、二の太刀たちで宇津木の腹を刺した。刀は臍ほぞの上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は背後うしろへ押し倒して喉のどを刺した。

塀際へいぎはにゐた岡田は、宇津木の最期さいごを見届けるや否いなや、塀に沿うて東照宮とうせうぐうの境内けいだいへ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前ぢやうまへを文鎮ぶんちんで開あけて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。

五、門出

瀬田済之助せたせいのすけが東町奉行所の危急を逃のがれて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、明あけ六つを少し過ぎた時であつた。

書斎の襖ふすまをあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の与党よたう、その外ほか中船場町なかせんばまちの医師の倅せがれで僅わづかに十四歳になる松本隣太夫りんたいふ、天満てんま五丁目の商人阿部長助ちやうすけ、摂津せつつ沢上江村さはかみえむらの百姓上田孝太郎うえだかうたらう、河内かはち門真三番村の百姓高橋九右衛門たかはしくゑもん、河内弓削村ゆげむらの百姓西村利三郎にしむらりさぶらう、河内尊延寺村そんえんじむらの百姓深尾才次郎ふかをさいじらう、播磨はりま西村の百姓堀井儀三郎ほりゐぎさぶらう、近江あふみ小川村の医師志村力之助しむらりきのすけ、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は茵しとねの上に端坐たんざしてゐた。

身みの丈たけ五尺五六寸の、面長おもながな、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い眉まゆは弔つつてゐるが、張はりの強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い額ひたひに青筋あをすぢがある。髷まげは短く詰つめて結ゆつてゐる。月題さかやきは薄い。一度喀血かくけつしたことがあつて、口の悪い男には青瓢箪あをべうたんと云はれたと云ふが、現げにもと頷うなづかれる。

「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。

「さうだらう。巡見じゆんけんが取止とりやめになつたには、仔細しさいがなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為しよゐだ。」

「小泉は遣やられました。」

「さうか。」

目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。

平八郎は一座をずつと見わたした。「兼かねての手筈てはずの通りに打ち立たう。棄て置き難がたいのは宇津木一人にんだが、その処置は大井と安田に任せる。」

大井、安田の二人にんはすぐに起たたうとした。

「まあ待て。打ち立つてからの順序は、只たゞ第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢや。」第一段とは朝岡の家を襲おそふことで、第二段とは北船場きたせんばへ進むことである。これは方略はうりやくに極きめてあつたのである。

「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を顧かへりみると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた柏岡かしはをか伝七と、檄文げきぶんを配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした建具たてぐを奥庭おくにはへ運び出す音がし出した。

平八郎は其儘そのまゝ端坐たんざしてゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに萌芽はうがし、いかに生長し、いかなる曲折を経へて今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。己おれが自分の材幹さいかんと値遇ちぐうとによつて、吏胥りしよとして成なし遂とげられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた天保てんぱう元年は泰平であつた。民の休戚きうせきが米作べいさくの豊凶ほうきように繋かゝつてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に稍やゝ常つねに復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に螟虫めいちゆうが出来る。海嘯つなみがある。とう〱去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は大風たいふう大水たいすゐがあり、東北を始はじめとして全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述に専もつぱらにして、古本大学刮目こほんだいがくくわつもく、洗心洞剳記せんしんどうさつき、同附録抄ふろくせう、儒門空虚聚語じゆもんくうきよしゆうご、孝経彙註かうきやうゐちゆうの刻本が次第に完成し、剳記さつきを富士山の石室せきしつに蔵ざうし、又足代権太夫弘訓あじろごんたいふひろのりの勧すゝめによつて、宮崎、林崎の両文庫に納をさめて、学者としての志こゝろざしをも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞ふさいで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に平たひらかなることが出来なかつた。賑恤しんじゆつもする。造酒ざうしゆに制限も加へる。併しかし民の疾苦しつくは増すばかりで減じはせぬ。殊ことに去年から与力内山を使つて東町奉行跡部あとべの遣やつてゐる為事しごとが気に食はぬ。幕命ばくめいによつて江戸へ米を廻漕くわいさうするのは好い。併しかし些すこしの米を京都に輸おくることをも拒こばんで、細民さいみんが大阪へ小買こがひに出ると、捕縛ほばくするのは何事だ。己おれは王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。上かみの驕奢けうしやと下しもの疲弊ひへいとがこれまでになつたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以て推おせば、これが人世じんせい必然の勢いきほひだとして旁看ばうかんするか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を誅ちゆうし富豪を脅おびやかして其私蓄しちくを散ずるかの三つより外ほかあるまい。己おれは此不平に甘んじて旁看ばうかんしてはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために謀はかつてくれようとも信ぜぬ。己はとう〱誅伐ちゆうばつと脅迫けふはくとによつて事を済なさうと思ひ立つた。鹿台ろくたいの財を発するには、無道むだうの商しやうを滅ほろぼさんではならぬと考へたのだ。己が意を此こゝに決し、言げんを彼かれに託たくし、格之助に丁打ちやううちをさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を逐おうて加はつても、準備の捗はかどつて行くのを顧みて、慰藉ゐしやを其中そのうちに求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に逡巡しゆんじゆんする怯おくれもないが、又踊躍ようやくする競きほひもない。準備をしてゐる久しい間には、折々をり〱成功の時の光景が幻まぼろしのやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に頭かうべを叩たゝく金持、それから草木さうもくの風に靡なびくやうに来きたり附ふする諸民が見えた。それが近頃はもうそんな幻まぼろしも見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、高井たかゐ殿に信任せられて、耶蘇やそ教徒を逮捕したり、奸吏かんりを糺弾きうだんしたり、破戒僧を羅致らちしたりしてゐながら、老婆豊田貢とよだみつぎの磔はりつけになる所や、両組与力りやうくみよりき弓削新右衛門ゆげしんゑもんの切腹する所や、大勢おほぜいの坊主が珠数繋じゆずつなぎにせられる所を幻まぼろしに見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、己おれの胸には一度も疑うたがひが萌きざさなかつた。今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先まづ恣ほしいまゝに動いて、外界げかいの事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時いつでも用に立てられる左券さけんを握つてゐるやうに思つて、それを慰藉ゐしやにした丈だけで、動やゝもすれば其準備を永く準備の儘まゝで置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の捗はかどつて来たのは、事柄其物が自然に捗はかどつて来たのだと云つても好い。己おれが陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉らつして走つたのだと云つても好い。一体此この終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。

平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に捗はかどつて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、受持々々うけもち〱の為事しごとをする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を討うち果はたしたとか、今奥庭おくにはに積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、其度毎そのたびごとに平八郎は只ただ一目ひとめそつちを見る丈だけである。

さていよ〱勢揃せいぞろひをすることになつた。場所は兼かねて東照宮の境内けいだいを使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の錠前ぢやうまへの開あいてゐたのを知つた。行列の真まつ先さきに押し立てたのは救民と書いた四半はんの旗はたである。次に中に天照皇大神宮てんせうくわうだいじんぐう、右に湯武両聖王たうぶりやうせいわう、左に八幡大菩薩はちまんだいぼさつと書いた旗、五七の桐きりに二つ引びきの旗を立てゝ行く。次に木筒きづゝが二挺ちやう行く。次は大井と庄司とで各おの〱小筒こづゝを持つ。次に格之助が着込野袴きごみのばかまで、白木綿しろもめんの鉢巻はちまきを締しめて行く。下辻村しもつじむらの猟師れふし金助きんすけがそれに引き添ふ。次に大筒おほづゝが二挺と鑓やりを持つた雑人ざふにんとが行く。次に略ほゞ格之助と同じ支度の平八郎が、黒羅紗くろらしやの羽織、野袴のばかまで行く。茨田いばらたと杉山とが鑓やりを持つて左右に随ふ。若党わかたう曾我そがと中間ちゆうげん木八きはち、吉助きちすけとが背後うしろに附き添ふ。次に相図あひづの太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等重立おもだつた人々で、特ことに平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同着込帯刀きごみたいたうで、多くは手鑓てやりを持つ。押おさへは大筒おほづゝ一挺ちやうを挽ひかせ、小筒持こづゝもちの雑人ざふにん二十人を随へた瀬田で、傍そばに若党植松周次うゑまつしうじ、中間浅佶あさきちが附いてゐる。

此この総人数そうにんず凡およそ百余人が屋敷に火を掛け、表側おもてがはの塀へいを押し倒して繰り出したのが、朝五つ時どきである。先まづ主人の出勤した跡あとの、向屋敷むかうやしき朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、天満橋筋てんまばしすぢの長柄町ながらまちに出て、南へ源八町げんぱちまちまで進んで、与力町よりきまちを西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、迂回うくわいして船場せんばに向はうとするのである。

六、坂本鉉之助

東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の与力よりき同心どうしんを随へて来た。跡部あとべは堀と相談して、明あけ六つ時どきにやう〱三箇条の手配てくばりをした。鈴木町すゞきまちの代官根本善左衛門ねもとぜんざゑもんに近郷きんがうの取締とりしまりを托したのが一つ。谷町たにまちの代官池田岩之丞いはのじように天満てんまの東照宮、建国寺けんこくじ方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力大西与五郎おほにしよごらうが病気引びやうきびきをしてゐる所へ使つかひを遣やつて、甥をひ平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして長柄町ながらまち近くへ往くと、もう大塩の同勢どうぜいが繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ奔はしり、又懼おそれて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。

大西へ使つかひを遣やつた跡あとで、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した捕手とりてを大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、天満てんまに火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。捕手とりては所詮しよせん近寄れぬと云つて帰つた。

両奉行は鉄砲奉行石渡彦太夫いしわたひこだいふ、御手洗伊右衛門みたらしいゑもんに、鉄砲同心を借りに遣やつた。同心は二人にんの部下を併あはせて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、玉造口定番たまつくりぐちぢやうばん遠藤但馬守胤統たぢまのかみたねをさに加勢を願つた。遠藤は公用人畑佐秋之助はたさあきのすけに命じて、玉造組与力で月番つきばん同心支配をしてゐる坂本鉉之助げんのすけを上屋敷かみやしきに呼び出した。

坂本は荻野流をぎのりうの砲術者で、けさ丁打ちやううちをすると云つて、門人を城の東裏ひがしうらにある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所おほばんしよへ出た。そこに月番の玉造組平与力ひらよりき本多為助ほんだためすけ、山寺やまでら三二郎、小島鶴之丞つるのじようが出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の所為しよゐだと告げた。これは大塩の屋敷に出入でいりする猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡翁助をうすけに告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に総出仕そうしゆつしの用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は上屋敷かみやしきへ呼ばれたのである。

畑佐はたさの伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の旨むねを答へて、上屋敷から大番所へ廻つて手配てくばりをした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、小頭こがしらの与力二人には平与力ひらよりき蒲生熊次郎がまふくまじらう、本多為助ためすけを当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人宛づゝ出だすことにした。集合の場所は土橋どばしと極めた。京橋組への伝達には、当番与力脇わき勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。

手配てくばりが済んで、坂本は役宅やくたくに帰つた。そして火事装束くわじしやうぞく、草鞋掛わらぢがけで、十文目筒じふもんめづゝを持つて土橋どばしへ出向いた。蒲生がまふと同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた畑佐はたさは、跡部あとべに二度催促せられて、京橋口へ廻まはつて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一人にんを留とめて置いて、集合地を発した。堀端ほりばたを西へ、東町奉行所を指さして進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。

坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡助之丞すけのじようと西組与力近藤三右衛門とが応接して、大筒おほづゝを用意して貰もらひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の区々まち〱なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生がまふを乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口定番所ぢやうばんしよへ遣つた。昼四よつ時どきに跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した北手きたての展望を害する梅の木を伐きること、島町しままちに面した南手の控柱ひかへばしらと松の木とに丸太を結び附けて、武者走むしやばしりの板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。

坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が長柄町ながらまちから南へ迂廻うくわいしたことを聞いた。そして杣人足そまにんそくの一組に天神橋てんじんばしと難波橋なんばばしとの橋板をこはせと言ひ付けた。

坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門ひろせぢざゑもん、馬場佐十郎ばゝさじふらうに遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番ぢやうばん米津丹後守昌寿よねづたんごのかみまさひさが、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預あづかりになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて承うけたまはらうと云つた。

広瀬は雪駄穿せつたばきで東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、原来ぐわんらいお互たがひに御城警固おんしろけいごの役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召おぼしめしが分かり兼ねます。貴殿きでんはどう考へられますか。」

坂本は目を睜みはつた。「成程なるほど自分の役柄は拙者せつしやも心得てをります。併しかし頭かしら遠藤殿の申付まをしつけであつて見れば、縦たとひ生駒山いこまやまを越してでも出張せんではなりますまい。御覧の通とほり拙者は打支度うちしたくをいたしてをります。」

「いや。それは頭かしら御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知げぢを受うけるやうなわけで、体面にも係かゝはるではありませんか。先年出水しゆつすゐの時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固おんしろけいごの者を貸すことは相成らぬと仰おつしやつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」

「それは御同意がなり兼ねます。頭かしらの申付まをしつけなら、拙者は誰の下したにでも附いて働きます。その上叛逆人ほんぎやくにんが起つた場合は出水しゆつすゐなどとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷かみやしきへお出いでになつて下さい。」

「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し出だしました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」

「已やむを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」

「然しからばお暇いとましませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。

そこへ京橋口を廻つて来た畑佐はたさが落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、暫しばらくして同心三十人を連れて来た。併しかし自分は矢張雪駄穿せつたばきで、小筒こづゝも何も持たなかつた。

坂本は庭に出て、今工事を片付けて持口もちくちに附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部あとべは、相役あひやく堀を城代土井大炊頭利位どゐおほひのかみとしつらの所へ報告に遣やつて置いて、書院から降りて来た。そして天満てんまの火事を見てゐた。強くはないが、方角の極きまらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南にしみなみの方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか〱こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。

七、船場

大塩平八郎は天満与力町てんまよりきまちを西へ進みながら、平生私曲しきよくのあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町めうとまちの四辻よつつじから綿屋町わたやまちを南へ折れた。それから天満宮の側そばを通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、兼かねて天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷きんがうの者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に馳はせ加はつたものの中に、砲術の心得こゝろえのある梅田源左衛門うめだげんざゑもんと云ふ彦根浪人もあつた。

平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸すがはらまちかしを西に進んで、門樋橋かどひばしを渡り、樋上町河岸ひかみまちかしを難波橋なんばばしの袂たもとに出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足そまにんそくが、今難波橋の橋板を剥はがさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身ぬきみの鑓やりを見て、ばら〱と散つた。

北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。

方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場きたせんばに簇むらがつてゐるので、もう悉ことごとく指顧しこの間あひだにある。平八郎は倅せがれ格之助、瀬田以下の重立おもだつた人々を呼んで、手筈てはずの通とほりに取り掛かれと命じた。北側の今橋筋いまばしすぢには鴻池屋こうのいけや善右衛門、同おなじく庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人おほしやうにんがゐる。南側の高麗橋筋かうらいばしすぢには三井、岩城桝屋いはきますや等の大店おほみせがある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝けふかつしてどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔などは、一々いち〱方略に取とり極きめてあつたので、ここでも為事しごとは自然に発展した。只銭穀せんこくの取扱とりあつかひだけは全く予定した所と相違して、雑人共ざふにんどもは身に着つけられる限かぎりの金銀を身に着けて、思ひ〱に立ち退のいてしまつた。鴻池本家こうのいけほんけの外ほかは、大抵金庫かねぐらを破壊せられたので、今橋筋には二分金にぶきんが道にばら蒔まいてあつた。

平八郎は難波橋なんばばしの南詰みなみづめに床几しやうぎを立てさせて、白井、橋本、其外若党わかたう中間ちゆうげんを傍そばにをらせ、腰に附けて出た握飯にぎりめしを噛かみながら、砲声の轟とゞろき渡り、火焔くわえんの燃もえ上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂こじやくの空くうを感じてゐた。昼八つ時どきに平八郎は引上ひきあげの太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやう〱百五十人許ばかりであつた。その重立おもだつた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を懲こらすことは出来たが、窮民を賑にぎはすことが出来ないからである。切角せつかく発散した鹿台ろくたいの財を、徒いたづらに烏合うがふの衆の攫つかみ取るに任せたからである。

人々は黙つて平八郎の気色けしきを伺うかがつた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。暫しばらくして瀬田が「まだ米店こめみせが残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を揺ゆり覚さまされたやうに床几しやうぎを起たつて、「好よい、そんなら手配てくばりをせう」と云つた。そして残のこりの人数にんずを二手ふたてに分けて、自分達親子の一手は高麗橋かうらいばしを渡り、瀬田の一手は今橋いまばしを渡つて、内平野町うちひらのまちの米店こめみせに向ふことにした。

八、高麗橋、平野橋、淡路町

土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部あとべに土井の指図さしづを伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。

「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組たまつくりぐみとを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた儘まゝすわつてゐた。

堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや否いなや、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒こづゝを持たせて来てゐた。

「どこの組か」と堀が声を掛けた。

「京橋組でござります」と広瀬が答へた。

「そんなら先手さきてに立て」と堀が号令した。

同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の詞ことばを聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き纏まとめて、西組与力同心の前に立つた。

堀の手は島町通しまゝちどほりを西へ御祓筋おはらひすぢまで進んだ。丁度大塩父子ふしの率ひきゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗しらはたが見えた。

「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。

広瀬が同心等に「打て」と云つた。

同心等の持つてゐた三文目もんめ五分筒ふんづゝが煎豆いりまめのやうな音を立てた。

堀の乗つてゐた馬が驚いて跳はねた。堀はころりと馬から墜おちた。それを見て同心等は「それ、お頭かしらが打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は馬丁ばていに馬を牽ひかせて、御祓筋おはらひすぢの会所くわいしよに這入はひつて休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞いとまごひをして京橋口に帰つて、同役馬場に此この顛末てんまつを話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川おほかはを隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。

御祓筋おはらひすぢから高麗橋までは三丁余あるので、三文目もんめ五分筒ふんづゝの射撃を、大塩の同勢どうぜいは知らずにしまつた。

堀が出た跡あとの東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生がまふが大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上ごんじやうすると、遠藤は岡翁助をうすけに当てて、平与力ひらよりき四人に大筒を持たせて、目附中井半左衛門なかゐはんざゑもん方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百目筒めづゝを一挺ちやう宛づゝ、脇勝太郎、米倉倬次郎よねくらたくじらうに三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ遣やつた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部あとべは坂本が手の者と、今到着した与力四人とを併あはせて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋うちほねやまちすぢを南に折れ、それから内平野町うちひらのまちへ出て、再び西へ曲らうとした。

此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川ひがしよこぼりがはの東河岸ひがしかしに落ち合つて、南へ内平野町うちひらのまちまで押して行き、米店こめみせ数軒に火を掛けて平野橋ひらのばしの東詰ひがしづめに引き上げてゐた。さうすると内骨屋町筋うちほねやまちすぢから、神明しんめいの社やしろの角をこつちへ曲がつて来る跡部あとべの纏まとひが見えた。二町足らず隔たつた纏まとひを目当めあてに、格之助は木筒きづゝを打たせた。

跡部の手は停止した。与力本多ほんだや同心山崎弥四郎やまざきやしらうが、坂本に「打ちませうか〱」と催促した。

坂本は敵が見えぬので、「待て〱」と制しながら、神明しんめいの社やしろの角に立つて見てゐると、やう〱烟の中に木筒きづゝの口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒こづゝをつるべかけた。

烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向はしむかうまで開いてゐる。橋詰はしづめ近く進んで見ると、雑人ざふにんが一人打たれて死んでゐた。

坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に噎むせんで引き返した。そして始はじめて敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町ぶんごまちを西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう〱落馬した。

思案橋を渡つて、瓦町かはらまちを西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生がまふの外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵かすやすけざう等が切れ〲に続いた。

平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢どうぜいは、又逃亡者が出たので百人余あまりになり、浅手あさでを負おつた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町あはぢまちを西へ退く所である。

北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通かはらまちどほりを坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を交叉かうさする毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一丁目筋ちやうめすぢと鍛冶屋町筋かぢやまちすぢとの交叉点では、もう敵が見えなかつた。

堺筋さかひすぢとの交叉点に来た時、坂本はやう〱敵の砲車を認めた。黒羽織くろばおりを着た大男がそれを挽ひかせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は堺筋さかひすぢ西側の紙屋の戸口に紙荷かみにの積んであるのを小楯こだてに取つて、十文目筒もんめづゝで大筒方おほづゝかたらしい、彼かの黒羽織を狙ねらふ。さうすると又また東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒れふづゝで坂本を狙ふ。坂本の背後うしろにゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒こづゝで金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十間けん程ほど前へ出た。三人の筒は殆ほとんど同時に発射せられた。

坂本の玉は大砲方たいはうかたの腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の陣笠ぢんがさをかすつたが、坂本は只たゞ顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の玉たまは全まつたく的まとをはづれた。

坂本等は稍やゝ久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に燃もえて来る。四辻の辺あたりに敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒ひやくめづゝ三挺さんちやう車台付しやだいつき、木筒きづゝ二挺にちやう内一挺車台付、小筒こづゝ三挺、其外鑓やり、旗、太鼓、火薬葛籠つゞら、具足櫃ぐそくびつ、長持ながもち等であつた。鑓やりのうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓もちやりだと云つた。

玉に中あたつて死んだものは、黒羽織くろばおりの大筒方の外には、淡路町の北側に雑人ざふにんが一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に仰向あふむけに倒れてゐた。身みの丈たけ六尺余の大男で、羅紗らしやの黒羽織の下には、黒羽二重くろはぶたへ紅裏べにうらの小袖こそで、八丈はちぢやうの下着したぎを着て、裾すそをからげ、袴はかまも股引もゝひきも着ずに、素足すあしに草鞋わらぢを穿はいて、立派な拵こしらへの大小だいせうを帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人ざふにん二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋さかひすぢでは町家まちやの看板が蜂はちの巣のやうに貫つらぬかれ、檐口のきぐちの瓦が砕くだかれてゐたのである。

跡部あとべは大筒方おほづゝかたの首を斬らせて、鑓先やりさきに貫つらぬかせ、市中しちゆうを持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の士さむらひが、途中から大塩の同勢どうぜいに加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。

跡部が淡路町あはぢまちの辻にゐた所へ、堀が来合きあはせた。堀は御祓筋おはらひすぢの会所くわいしよで休息してゐると、一旦散つた与力よりき同心どうしんが又ぽつ〱寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋ひらのばしの敵を打うち退しりぞけたので、堀は会所を出て、内平野町うちひらのまちで跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手さきてを命じ、天神橋筋てんじんばしすぢを南へ橋詰町はしづめまち迄出て、西に折れて本町橋ほんまちばしを渡つた。これは本町を西に進んで、迂廻うくわいして敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。併しかし一手ひとてのものが悉ことごとく跡あとへ〱とすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつ〱耗へつて、本町堺筋ほんまちさかひすぢでは十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町かはらまちと淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう〱堺筋さかひすぢを北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。

跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の東詰ひがしづめまで引き上げて、二人にんは袂たもとを分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入はひつた。坂本、本多、蒲生がまふ、柴田、脇並ならびに同心等は、大手前おほてまへの番場ばんばで跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。

九、八軒屋、新築地、下寺町

梅田の挽ひかせて行く大筒おほづゝを、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る〱耗へつて、大筒おほづゝの車を挽ひく人足にんそくにも事を闕かくやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が殆ほとんど無節制の状態に陥おちいり掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、人々ひと〲勝手に射撃する。平八郎は暫しばらくそれを見てゐたが、重立おもだつた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、銘々めい〱此場を立たち退のいて、然しかるべく処決せられい」と云ひ渡した。

集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、茨田いばらた、高橋、父柏岡かしはをか、西村、杉山と瀬田の若党植松うゑまつとであつたが、平八郎の詞ことばを聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、御趣意ごしゆいはなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして所々しよ〱に固まつてゐる身方みかたの残兵に首領しゆりやうの詞を伝達した。

それを聞いて悄然せうぜんと手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構へたやうに持つてゐた鑓やり、負おつてゐた荷を棄てて、足早あしはやに逃げるものもある。大抵は此場を脱ぬけ出ることが出来たが、安田が一人にん逃げおくれて、町家まちやに潜伏したために捕へられた。此時同勢の中うちに長持ながもちの宰領さいりやうをして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩父子ふしの供がしたいと云つて居残ゐのこつた。質樸しつぼくな職人気質かたぎから平八郎が企くはだての私欲を離れた処に感心したので、強しひて与党に入れられた怨うらみを忘れて、生死を共にする気になつたのである。

平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、淡路町あはぢまち二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の東平野町ひがしひらのまちへ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、大だいぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く迹あとを晦くらますことが出来た。

此時北船場きたせんばの方角は、もう騒動が済んでから暫しばらく立つたので、焼けた家の址あとから青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物にか執着しふぢやくして、黒く焦こげた柱、地に委ゆだねた瓦かはらのかけらの側そばを離れ兼ねてゐるやうな人、獣けものの屍かばねの腐くさる所に、鴉からすや野犬のいぬの寄るやうに、何物をか捜さがし顔がほにうろついてゐる人などが、互たがひに顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の立たち退のく邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に薄鼠色うすねずみいろになつて来て、陰鬱いんうつな、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。まだ鉄砲や鑓やりを持つてゐる十四人は、詞ことばもなく、稲妻形いなづまがたに焼跡やけあとの町を縫ぬつて、影のやうに歩あゆみを運びつつ東横堀川ひがしよこぼりがはの西河岸にしかしへ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の裾すそだけ残つた中に、青い火がちよろ〱と燃もえてゐるのを、平八郎が足を停とめて見て、懐ふところから巻物を出して焔ほのほの中に投げた。これは陰謀の檄文げきぶんと軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた連判状れんぱんじやうであつた。

十四人はたつた今七八十人の同勢を率ひきゐて渡つた高麗橋かうらいばしを、殆ほとんど世を隔てたやうな思おもひをして、同じ方向に渡つた。河岸かしに沿うて曲つて、天神橋詰てんじんばしづめを過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、桟橋さんばしに一艘さうの舟が繋つないであつた。船頭が一人艫ともの方に蹲うづくまつてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形やかたのやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に目食めくはせをして、此舟に飛び乗つた。跡あとから十三人がどや〱と乗込のりこんだ。

「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。

不意を打たれた船頭は器械的に起たつて纜ともづなを解いた。

舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十文目筒もんめづゝ、其外の人々は手鑓てやりを水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆着込きごみを脱ぬいで、これも水中に投げた。

「どつちへでも好いから漕こいでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭に艪ろを操あやつらせた。火災に遭あつたものの荷物を運び出す舟が、大川おほかはにはばら蒔まいたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれに雑まじつて上のぼつたり下くだつたりしてゐても、誰も見咎みとがめるものはない。

併しかし器械的に働いてゐる船頭は、次第に醒覚せいかくして来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「旦那方だんながたどこへお上あがりなさいます。」

「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。

平八郎は側そばにゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」

「へえ。これは済みません。直吉と申します。」

これからは船頭が素直に指図を聞いた。平八郎は項垂うなだれてゐた頭かしらを挙げて、「これから拙者せつしやの所存しよぞんをお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存と云ふのは大略かうである。此度このたびの企くはだては残賊ざんぞくを誅ちゆうして禍害くわがいを絶たつと云ふ事と、私蓄しちくを発あばいて陥溺かんできを救ふと云ふ事との二つを志こゝろざした者である。然しかるに彼かれは全まつたく敗れ、此これは成るに垂なん〱として挫くじけた。主謀たる自分は天をも怨うらまず、人をも尤とがめない。只たゞ気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方まへがたである。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の団欒だんらんとして、袂たもとを分つて陸りくに上のぼり、各おの〱潔いさぎよく処決して貰もらひたい。自分等父子ふしは最早もはや思ひ置くこともないが、跡あとには女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の隠家かくれがへ往き、自裁じさいするやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。平八郎の妾めかけ以下は、初め般若寺村はんにやじむらの橋本方へ立たち退のいて、それから伊丹いたみの紙屋某方かたへ往つたのである。後に彼等が縛ばくに就ついたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎ゆみたろうを残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。

暮くれ六つ頃から、天満橋北詰てんまばしきたづめの人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父柏岡かしはをか、西村、茨田いばらた、高橋と瀬田に暇いとまを貰つた植松うゑまつとの五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子を落おとして遣やつた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主ぐわんにんばうずになつて、時疫じえきで死に、植松は京都で捕はれた。

跡あとに残つた人々は土佐堀川とさぼりがはから西横堀川にしよこぼりがはに這入はひつて、新築地しんつきぢに上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎に迫せまつて所存しよぞんを問うたが、只たゞ「いづれ免まぬかれぬ身ながら、少し考かんがへがある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は心残こゝろのこりのないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。

一行は暫しばらく四つ橋の傍そばに立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ死所しにどころを求めに往くにしても、大小だいせうを挿さしてゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助始はじめ、人々もこれに従つて刀を投げて、皆脇差わきざしばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩く跡あとに附いて、一同下寺町したでらまちまで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても名残なごりは尽きぬと云つて、暇乞いとまごひをした。後に白井は杉山を連れて、河内国かはちのくに渋川郡しぶかはごほり大蓮寺村たいれんじむらの伯父の家に往き、鋏はさみを借りて杉山と倶ともに髪を剪そり、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。

跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち下寺町したでらまちで火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は天王寺村てんわうじむらで夜よを明あかして、平野郷ひらのがうから河内かはち、大和やまとを経て、自分と前後して大和路やまとぢへ奔はしつた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。

庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや先刻せんこく考かんがへがあるとは云つたが、別にかうと極きまつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。己おれは今暫く世の成行なりゆきを見てゐようと思ふ。尤もつとも間断かんだんなく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共御先途ごせんとを見届けます」と云つて、河内かはちから大和路やまとぢへ奔はしることを父子ふしに勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る畑中道はたなかみちの闇やみの裏うちに消えた。

十、城

けふの騒動が始はじめて大阪の城代じやうだい土井の耳に入いつたのは、東町奉行跡部あとべが玉造口定番たまつくりぐちぢやうばん遠藤に加勢を請こうた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに沙汰さたを受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。

土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時どきに定番ぢやうばん、大番おほばん、加番かばんの面々を呼び集めた。

城代土井は下総しもふさ古河こがの城主である。其下に居る定番ぢやうばん二人ににんのうち、まだ着任しない京橋口定番米倉よねくらは武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江あふみ三上みかみの城主である。定番の下には一年交代の大番頭おほばんがしらが二人ゐる。東大番頭は三河みかは新城しんじやうの菅沼織部正定忠すがぬまおりべのしやうさだたゞ、西大番頭は河内かはち狭山さやまの北条遠江守氏春とほたふみのかみうぢはるである。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各組頭くみがしら四人、組衆くみしゆう四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。これ丈だけでは守備が不足なので、幕府は外様とざまの大名に役知やくち一万石宛づゝを遣やつて加番かばんに取つてゐる。山里丸やまざとまるの一加番が越前大野の土井能登守利忠どゐのとのかみとしたゞ、中小屋なかごやの二加番が越後与板よいたの井伊右京亮直経うきやうのすけなほつね、青屋口あをやぐちの三加番が出羽では長瀞ながとろの米津伊勢守政懿よねづいせのかみまさよし、雁木坂がんきざかの四加番が播磨はりま安志あんじの小笠原信濃守長武しなのゝかみながたけである。加番は各物頭ものがしら五人、徒目付かちめつけ六人、平士ひらざむらひ九人、徒かち六人、小頭こがしら七人、足軽あしがる二百二十四人を率ひきゐて入城する。其内に小筒こづゝ六十挺ちやう弓二十張はりがある。又棒突足軽ぼうつきあしがるが三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。

定番、大番、加番の集まつた所で、土井は正しやう九つ時どきに城内を巡見するから、それまでに各かく持口もちくちを固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは鎧櫃よろひゞつを担かつぎ出す。具足奉行ぐそくぶぎやう上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行石渡彦太夫いしわたひこだいふは鉄砲玉薬てつぱうたまくすりを分配する。鍋釜なべかまの這入はひつてゐた鎧櫃よろひびつもあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は一方ひとかたならぬ混雑であつた。

九つ時になると、両大番頭おほばんがしらが先導になつて、土井は定番ぢやうばん、加番かばんの諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井は暮くれ六つ時どきに改めて巡見することにした。

二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、尼崎あまがさき、岸和田きしわだ、高槻たかつき、淀よどなどから繰り出した兵が到着してゐる。

坤ひつじさるに開ひらいてゐる城の大手おほては土井の持口もちくちである。詰所つめしよは門内の北にある。門前には柵さくを結ゆひ、竹束たけたばを立て、土俵を築き上げて、大筒おほづゝ二門を据すゑ、別に予備筒よびづゝ二門が置いてある。門内には番頭ばんがしらが控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平遠江守忠栄とほたふみのかみたゞよしの一番手三百三十余人が西向に陣取る。略ほゞ同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に遷うつり、次いで跡部あとべの要求によつて守口もりぐち、吹田すゐたへ往つた。後に郡山こほりやまの一二番手も大手に加はつた。

大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、乾いぬゐの角すみに京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部内膳正長和ないぜんのしやうながかずの一番手二百余人、高槻の永井飛騨守直与ひだのかみなほともの手、其外そのほか淀の手が備へてゐる。

京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵えんせうぐらである。焔硝蔵と艮うしとらの角すみの青屋口との中間に、本丸に入る極楽橋ごくらくばしが掛かつてゐる。極楽橋から這入はひつた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。

青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、中小屋加番なかごやかばんの井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、雁木坂がんきざか加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に馬印うまじるしを立ててゐる。

玉造口定番ぢやうばんの詰所は巽たつみに開いてゐる。玉造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には郡山こほりやまの三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。

土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々しよ〱を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。夜よに入いつてからは、城の内外の持口々々もちくち〲に篝火かゞりびを焚たき連つらねて、炎焔えん〱天てんを焦こがすのであつた。跡部の役宅やくたくには伏見奉行加納遠江守久儔かなふとほたふみのかみひさとも、堀の役宅には堺奉行曲淵甲斐守景山まがりぶちかひのかみけいざんが、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。

目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配てくばりは、日暮頃から始まつたが、はか〲しい働きも出来なかつた。吹田村すゐたむらで氏神うぢがみの神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇志摩しまの所へ捕手とりての向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池ためいけに飛び込んだ。船手ふなて奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を撤てつしたのも二十一日である。

朝五つ時に天満てんまから始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、思おもひの外ほかにひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺ちげんじ、摂津国町つのくにまち、又二郎町またじらうまち、越後町、旅籠町はたごまち、南が大川、北が与力町を界さかひとし、大手前から船場せんばへ掛けての市街は、谷町たにまち一丁目から三丁目までを東界ひがしさかひ、上大かみおほみそ筋から下難波橋しもなんばばし筋までを西界にしさかひ、内本町うちほんまち、太郎左衛門町たらうざゑもんまち、西入町にしいりまち、豊後町ぶんごまち、安土町あづちまち、魚屋町うをやまちを南界みなみさかひ、大川、土佐堀川を北界きたさかひとして、一面の焦土となつた。本町橋ほんまちばし東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く燃もえて来たので、夕ゆふ七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度火消人足ひけしにんそくが谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、暮くれ六つ半はんに谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の宵よひ五つ半である。町数まちかずで言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数いへかず、竈数かまどかずで言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が災わざはひに罹かゝつたのである。

十一、二月十九日の後の一、信貴越

大阪兵燹へいせんの余焔よえんが城内の篝火かがりびと共に闇やみを照てらし、番場ばんばの原には避難した病人産婦の呻吟しんぎんを聞く二月十九日の夜、平野郷ひらのがうのとある森蔭もりかげに体からだを寄せ合つて寒さを凌しのいでゐる四人があつた。これは夜よの明あけぬ間まに河内かはちへ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早もはや一歩も進むことの出来なくなつた平八郎父子ふしと瀬田、渡辺とである。

四人は翌二十日に河内かはちの界さかひに入いつて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道かんだうを東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やう〱産土うぶすなの社やしろを見付けて駈かけ込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏てあしまとひにならぬやうにすると云つて、手早く脇差わきざしを抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先きつさきが這入はひつたので、所詮しよせん助からぬと見極みきはめて、平八郎が介錯かいしやくした。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は僅わづかに四十を越したばかりであつた。

二十一日の暁あかつきになつても、大風雨は止やみさうな気色けしきもない。平八郎父子ふしと瀬田とは、渡辺の死骸しがいを跡あとに残して、産土うぶすなの社やしろを出た。土地の百姓が死骸を見出して訴うつたへたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は河内国かはちのくに志紀郡しきごほり田井中村たゐなかむらである。

三人は風雨を冒をかして、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやう〱午頃ひるごろに息やんだが、肌まで濡ぬれ通とほつて、寒さは身に染しみる。辛からうじて大和川やまとがはの支流幾つかを渡つて、夜よに入つて高安郡たかやすごほり恩地村おんちむらに着いた。さて例の通とほり人家を避けて、籔陰やぶかげの辻堂を捜し当てた。近辺から枯枝かれえだを集めて来て、おそる〱焚火たきびをしてゐると、瀬田が発熱ほつねつして来た。いつも血色の悪い、蒼白あをじろい顔が、大酒たいしゆをしたやうに暗赤色あんせきしよくになつて、持前の二皮目ふたかはめが血走ちばしつてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其間々あひだ〱は焚火の前に蹲うづくまつて、現うつゝとも夢ゆめとも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を脱ぬいで平八郎に襲かさねさせたので、誰よりも強く寒さに侵をかされたものだらう。平八郎は瀬田に、兎とに角かく人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道たんぼみちを百姓家のある方へ往かせた。其後影うしろかげを暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして信貴越しぎごえの方角を志こゝろざして、格之助と一しよに、又間道かんだうを歩き出した。

瀬田は頭がぼんやりして、体からだぢゆうの脈が鼓つゞみを打つやうに耳に響く。狭い田の畔道くろみちを踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。動やゝもすれば苅株きりかぶの間の湿しめつた泥に足を蹈ふみ込む。やう〱一軒の百姓家の戸の隙すきから明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、暫しばらく休息させて貰もらひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な赭あから顔の爺ぢいさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、思おもひの外ほか拒こばまうともせずに、囲炉裏ゐろりの側そばに寄つて休めと云つた。婆ばあさんが草鞋わらぢを脱ぬがせて、足を洗つてくれた。瀬田は火の側そばに横になるや否いなや、目を閉ぢてすぐに鼾いびきをかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差わきざしを抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。行灯あんどうの下にすわつた婆あさんは、呆あきれて夫の跡あとを見送つた。

瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限ちからかぎり駈かけて行く。跡あとから大勢おほぜいの人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、殆ほとんど鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに頗すこぶる満足して、只たゞ追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は急調きふてうに鼓つゞみを打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の亡なくなつたのを知つた。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程的確てきかくに判断することが出来た。

瀬田は跳はね起おきた。眩暈めまひの起おこりさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前に爺ぢいさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。行灯あんどうの下もとの婆ばあさんは、又呆あきれてそれを見送つた。

百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて孟宗竹まうそうちくの大籔おほやぶがある。その奥を透すかして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田は堆うづたかく積もつた竹の葉を蹈ふんで、松の下に往つて懐ふところを探つた。懐には偶然捕縄とりなはがあつた。それを出してほぐして、低い枝に足を蹈ふみ締しめて、高い枝に投げ掛けた。そして罠わなを作つて自分の頸くびに掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい最期さいごを遂げた。村役人を連れて帰つた爺ぢいさんが、其夜そのよの中うちに死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉丹後守たんごのかみに届けた。

平八郎は格之助の遅おくれ勝がちになるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和やまとの境さかひに入つた。それから日暮に南畑みなみはたで格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入はひつた。暫しばらくすると出て来て、「お前も頭を剃そるのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が僧形そうぎやうになつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の明あけ六つ頃であつた。

寺にゐた間は平八郎が殆ほとんど一言ごんも物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」

格之助も此この詞ことばには驚いた。「でも帰りましたら。」

「好いいから黙つて附いて来い。」

平八郎は足の裏が燃もえるやうに逃げて来た道を、渇かつしたものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。傍はたから見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺で宵よひと暁あかつきとに温あたゝかい粥かゆを振舞ふるまはれてからは、霊薬れいやくを服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。併しかし一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふ考かんがへが念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。

十二、二月十九日後の二、美吉屋

大阪油懸町あぶらかけまちの、紀伊国橋きのくにばしを南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目に美吉屋みよしやと云ふ手拭地てぬぐひぢの為入屋しいれやがある。主人五郎兵衛は六十二歳、妻つねは五十歳になつて、娘かつ、孫娘かくの外ほか、家内かないに下男げなん五人、下女げぢよ一人を使つてゐる。上下十人暮しである。五郎兵衛は年来大塩家に出入して、勝手向かつてむきの用を達たしたこともあるので、二月十九日に暴動のあつた後は、町奉行所の沙汰さたで町預まちあづけになつてゐる。

此美吉屋みよしやで二月二十四日の晩に、いつものやうに主人が勝手に寝て、家族や奉公人を二階と台所とに寝させてゐると、宵よひの五つ過に表の門を敲たゝくものがある。主人が起きて誰たれだと問へば、備前島町びぜんしままち河内屋かはちや八五郎の使つかひだと云ふ。河内屋は兼かねて取引とりひきをしてゐる家なので、どんな用事があつて、夜よに入いつて人をよこしたかと訝いぶかりながら、庭へ降りて潜戸くゞりどを開けた。

戸があくとすぐに、衣の上に鼠色ねずみいろの木綿合羽もめんかつぱをはおつた僧侶が二人つと這入はひつて、低い声に力を入れて、早くその戸を締しめろと指図した。驚きながら見れば、二人共僧形そうぎやうに不似合ふにあひな脇差わきざしを左の手に持つてゐる。五郎兵衛はがた〱震えて、返事もせず、身動きもしない。先に這入つた年上の僧が目食めくはせをすると、跡あとから這入つた若い僧が五郎兵衛を押し除のけて戸締とじまりをした。

二人は縁えんに腰を掛けて、草鞋わらぢの紐ひもを解とき始めた。五郎兵衛はそれを見てゐるうちに、再び驚いた。髪かみをおろして相好さうがうは変つてゐても、大塩親子だと分かつたからである。「や。大塩様ではございませんか。」「名なんぞを言ふな」と、平八郎が叱るやうに云つた。

二人は黙つて奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、納戸なんどの小部屋に案内した。五郎兵衛が、「どうなさる思召おぼしめしか」と問ふと、平八郎は只たゞ「当分厄介になる」とだけ云つた。

陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。併しかし平八郎の言ふことは、年来暗示あんじのやうに此爺ぢいさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは所詮しよせん出来ない。其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく威嚇ゐかくの功を奏してゐる。五郎兵衛は只二人を留めて置いて、若もし人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、禍殃くわあうを未来に推おし遣やる工夫をするより外ない。そこで小部屋の襖ふすまをぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を調とゝのへて運ぶことにした。

一日立つ。二日立つ。いつは立たち退のいてくれるかと、老人夫婦は客の様子を覗うかゞつてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。心安こゝろやすい人が来ては奥の間へ通ることもあるので、襖一重ふすまひとへの先にお尋者たづねものを置くのが心配に堪へない。幸さいはひに美吉屋みよしやの家には、坤ひつじさるの隅すみに離座敷はなれざしきがある。周囲まはりは小庭こにはになつてゐて、母屋おもやとの間には、小さい戸口の附いた板塀いたべいがある。それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る路次ろじに附いてゐる。此離座敷なら家族も出入せぬから、奉公人に知られる虞おそれもない。そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。そして日々にち〱飯米はんまいを測はかつて勝手へ出す時、紙袋かみぶくろに取り分け、味噌みそ、塩しほ、香かうの物ものなどを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。それを親子炭火すみびで自炊じすゐするのである。

兎角とかくするうちに三月になつて、美吉屋みよしやにも奉公人の出代でかはりがあつた。その時女中の一人が平野郷ひらのがうの宿元やどもとに帰つてこんな話をした。美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様に供そなへるのだらうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。

平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、七名家しちめいかと云ふ土着のものが支配してゐる。其中の末吉すゑよし平左衛門、中瀬なかせ九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、郷がうの陣屋ぢんやに訴へた。陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。土井が立入与力たちいりよりき内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代の許もとへ出して用を聞せる与力である。五郎兵衛は内山に糺問きうもんせられて、すぐに実を告げた。

土井は大目附時田肇ときだはじめに、岡野小右衛門こゑもん、菊地鉄平、芹沢せりざは啓次郎、松高縫蔵まつたかぬひざう、安立讃太郎あだちさんたらう、遠山とほやま勇之助、斎藤正五郎しやうごらう、菊地弥六やろくの八人を附けて、これに逮捕を命じた。

三月二十六日の夜よ四つ半時はんどき、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに支度したくをして中屋敷に集合させた。中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の摸様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を生擒いけどりにするやうにと云ふ城代の注文を告げた。岡野某は相談して、時田から半棒はんぼうを受け取つた。それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番を籤くじで極きめて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。岡野は重ねて、自分は齢よはひ五十歳を過ぎて、跡取あととりの倅せがれもあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つて貰もらつて、次の二番から八番までの籤くじを人々に引かせたいと云つた。これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。

二十七日の暁あけ八つ時どき過、土井の家老鷹見たかみ十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに部屋目附へやめつけ鳥巣とす彦四郎を添へて、偵察に遣やることを告げた。岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に鷹見たかみの処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから、手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。七つ半過に鳥巣とすが中屋敷なかやしきに来て、内山の口上を伝へて、本町ほんまち五丁目の会所くわいしよへ案内した。時田以下の九人は鳥巣とすを先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。暫しばらく本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。油懸町あぶらかけまちの南裏通みなみうらどほりである。信濃町しなのまちでは、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、東表口ひがしおもてぐちに向ふ追手おつてと、西裏口にしうらぐちに向ふ搦手からめてとに分れることになつた。

追手おつては内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、搦手からめては同心二人、遠山、安立あだち、芹沢せりざは、斎藤、時田の七人である。此二手は総年寄今井官之助、比田小伝次ひだこでんじ、永瀬ながせ七三郎三人の率ゐた火消人足ひけしにんそくに前以まへもつて取り巻かせてある美吉屋みよしやへ、六つ半時に出向いた。搦手からめては一歩先に進んで西裏口を固めた。追手おつては続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。鉄平は一人では心元こゝろもとないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。

追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。お前は板塀いたべいの戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。内の五郎兵衛はお預あづけになつてゐるので、今家財改かざいあらためのお役人が来られた。どうぞちよいとの間裏うらの路次口ろじぐちから外へ出てゐて下さいと云ふのだ。間違へてはならぬぞ」と云つた。

つねは顔色が真まつ蒼さをになつたが、やう〱先に立つて板塀の戸口に往つて、もし〱と声を掛けた。併しかし教へられた口上を言ふことは出来なかつた。

暫くすると戸口が細目に開あいた。内から覗のぞいたのは坊主頭ばうずあたまの平八郎である。平八郎は捕手とりてと顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。

岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。「平八郎卑怯ひけふだ。これへ出い。」

「待て」と、平八郎が離座敷はなれざしきの雨戸の内から叫んだ。

岡野等は暫しばらくためらつてゐた。

表口おもてぐちの内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の立たち退のいた跡あとで暫しばらく待つてゐたが、板塀いたべいの戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形かぎがたになつてゐる表の庭を、縁側の角すみに附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。

「宜よろしうございませう」と同心が答へた。

鉄平は戸口をつと這入はひつて、正面にある離座敷はなれざしきの雨戸を半棒はんぼうで敲たゝきこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬の臭にほひがした。

鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。

離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を覆おほひ、間内まうちの障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、燃もえながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の壁際かべぎはに、平八郎は鞘さやを払つた脇差わきざしを持つて立つてゐたが、踏み込んだ捕手とりてを見て、其刃やいばを横に吭のどに突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。

投げた脇差は、傍輩はうばいと一しよに半棒で火を払ひ除のけてゐる菊地弥六の頭を越し、襟えりから袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、灑そゝぎ掛けたやうに血が附いた。

火は次第に燃えひろがつた。捕手は皆焔ほのほを避けて、板塀の戸口から表庭おもてにはへ出た。

弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。併しかし火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には鍔つばがありますから、引つ掛けて掻かき寄せませう」と云つた。脇差は旨うまく掻き寄せられた。柄つかは茶糸巻ちやいとまきで、刃はが一尺八寸あつた。

搦手からめては一歩先に西裏口にしうらぐちに来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、真まん中なかに道を開あけ、逃げ出したら挟撃はさみうちにしようと待つてゐた。そのうち余り手間取てまどるので、安立、遠山、斎藤の三人が覗のぞきに這入つた。離座敷には人声がしてゐる。又持場もちばに帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。三人が又覗のぞきに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。併しかし火気が熾さかんなので、此手のものも這入ることが出来なかつた。

そこへ内山が来て、「もう跡あとは火を消せば好いのですから、消防方せうばうかたに任せてはいかがでせう」と云つた。

遠山が云つた。「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」

遠山はかう云つて、傍輩はうばいと一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、消防方せうばうかたが段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。

総年寄そうどしより今井が火消人足ひけしにんそくを指揮して、焼けた材木を取とり除のけさせた。其下から吉兵衛と云ふ人足が先まづ格之助らしい死骸を引き出した。胸が刺さし貫つらぬいてある。平生歯が出てゐたが、其歯を剥むき出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これは吭のどを突いて俯伏うつぶしてゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。平八郎の首は焼けふくらんで、肩に埋うづまつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、面体めんていを見定めた。格之助は創きずの様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。今井は近所の三宅みやけといふ医者の家から、駕籠かごを二挺ちやう出させて、それに死骸を載せた。

二つの死骸は美吉屋夫婦と共に高原溜たかはらたまりへ送られた。道筋には見物人の山を築きづいた。

十三、二月十九日後の三、評定

大塩平八郎が陰謀事件の評定ひやうぢやうは、六月七日に江戸の評定所ひやうぢやうしよに命ぜられた。大岡紀伊守忠愛きいのかみたゞちかの預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、同おなじく英太郎、河合八十次郎やそじらう、大井正一郎、安田図書やすだづしよ、大西与五郎よごらう、美吉屋みよしや五郎兵衛、同おなじくつね、其外そのほか西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗わうばくの僧剛嶽がうがく、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人ぐわんにん冷月れいげつ、西村の死骸を葬はうむつた浅草遍照院へんせうゐんの所化しよけ尭周げうしう等が呼び出されて、七月十六日から取調とりしらべが始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年閏うるふ四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。

平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、茨田いばらだルビの「いばらだ」はママ、高橋、父柏岡かしはをか、倅柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた摂津せつゝ森小路村もりこうぢむらの医師横山文哉ぶんさい、同国猪飼野村ゐかひのむらの百姓木村司馬之助しまのすけとの十九人、それから返忠かへりちゆうをし掛けて遅疑ちぎした弓奉行組ゆみぶぎやうぐみ同心小頭どうしんこがしら竹上たけがみ万太郎は磔はりつけになつた。然しかるに九月十八日に鳶田とびたで刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一人にんである。他たの十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、彼かの江戸へ廻された大井迄悉こと〲く牢死したので、磔柱はりつけばしらには塩詰しほづめの死骸を懸けた。中にも平八郎父子ふしは焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓を毀こぼたれた。

松本、堀井、杉山、曾我そが、植松うゑまつ、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の中間ちゆうげん浅佶あさきち、深尾の募集に応じた尊延寺村そんえんじむらの百姓忠右衛門と無宿むしゆく新右衛門とは獄門ごくもん、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井孝右衛門かうゑもんの甥をひ儀次郎ぎじらう、般若寺村はんにやじむらの百姓卯兵衛うへゑは死罪、平八郎の妾めかけゆう、美吉屋の女房つね、大西与五郎と白井孝右衛門の倅せがれで、穉をさない時大塩の塾にゐたこともあり、父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは遠島ゑんたう、安田と杉山を剃髪させた同人どうにんの伯父、河内かはち大蓮寺たいれんじの僧正方しやうはう、西村の逃亡を助けた同人の姉婿あねむこ、堺の医師寛輔くわんぽの二人にんとは追放になつた。併しかし此人々も杉山、上田、大西、倅白井の四人の外は、皆刑の執行前に牢死した。

密訴みつそをした平山と父吉見とは取高とりだかの儘まゝ譜代席小普請入ふだいせきこぶしんいりになり、吉見英太郎、河合八十次郎やそじらうは各おの〱銀五十枚を賜たまはつた。此中このうちで酒井大和守忠嗣やまとのかみたゞつぐへ預替あづけがへになつてゐた平山は、番人の便所に立つた留守に詰所つめしよの棚の刀箱かたなばこから脇差を取り出して自殺した。

城代土井以下賞与を受けたものは十九人あつた。中にも坂本鉉之助げんのすけは鉄砲方てつぱうかたになつて、目見以上めみえいじやうの末席ばつせきに進められた。併し両町奉行には賞与がなかつた。

附録

私が大塩平八郎の事を調べて見ようと思ひ立つたのは、鈴木本次郎君に一冊の写本を借りて見た時からの事である。写本は墨付すみつき二十七枚の美濃紙本で、表紙に「大阪大塩平八郎万記録よろづきろく」と題してある。表紙の右肩には「川辺文庫」の印がある。川辺御楯かはのべみたて君が鈴木君に贈与したものださうである。

万記録よろづきろくの内容は、松平遠江守とほたふみのかみの家来稲垣左近右衛門さこんゑもんと云ふ者が、見聞した事を数度に主家へ注進した文書である。松平遠江守とは摂津せつつ尼崎の城主松平忠栄ただながの事であらう。

万記録は所謂いはゆる風説が大部分を占めてゐるので、其中から史実を選えらみ出さうとして見ると、獲ものは頗すこぶる乏しい。併しかし記事が穴だらけなだけに、私はそれに空想を刺戟しげきせられた。

そこで現に公にせられてゐる、大塩に関した書籍の中で、一番多くの史料を使つて、一番精くはしく書いてある幸田成友かうだしげとも君の「大塩平八郎」を読み、同君の新小説に出した同題の記事を読んだ。そして古い大阪の地図や、「大阪城志」を参考して、伝へられた事実を時間と空間との経緯に配列して見た。

こんな事をしてゐる間、私の頭の中を稍やゝ久しく大塩平八郎と云ふ人物が占領してゐた。私は友人に逢ふ度たびに、平八郎の話をし出して、これに関係した史料や史論を聞かうとした。松岡寿まつをかひさし君は平八郎の塾にゐた宇津木矩之允と岡田良之進との事に就いて、在来の記録に無い事実を聞かせてくれ、又三上参次みかみさんじ君、松本亦太郎まつもとまたたらう君は多少纏まとまつた評論を聞せてくれた。

そのうち私の旧主人が建ててゐる菁々塾せい〱じゆくの創立記念会があつた。私は講話を頼まれて、外に何も考へてゐなかつた為め、大塩平八郎を題とした二時間ばかりの話をした。

そしてとうとう平八郎の事に就いて何か書かうと云ふ気になつた。

――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]

私は無遠慮に「大塩平八郎」と題した一篇を書いた。それは中央公論に載せられた。

平八郎の暴動は天保八年二月十九日である。私は史実に推測を加へて、此二月十九日と云ふ一日の間の出来事を書いたのである。史実として時刻の考へられるものは、概おほむね左の通である。

天保八年二月十九日

今の時刻 昔の時刻 事実

午前四時 暁七時(寅) 吉見英太郎、河合八十次郎の二少年吉見の父九郎右衛門の告発書を大阪西町奉行堀利堅ほりとしかたに呈す。

六時 明六時(卯) 東町奉行跡部良弼あとべよしすけは代官二人に防備を命じ、大塩平八郎の母兄大西与五郎に平八郎を訪とひて処決せしむることを嘱しよくす。

七時 朝五時(辰) 平八郎家宅に放火して事を挙ぐ。

十時 昼四時(巳) 跡部坂本鉉之助げんのすけに東町奉行所の防備を命ず。

十一時 昼四半時 城代土井利位どゐとしつら城内の防備を命ず。

十二時 昼九時(午) 平八郎の隊北浜に至る。土井初めて城内を巡視す。

午後四時 夕七時(申) 平八郎等八軒屋に至りて船に上る。

六時 暮六時(酉) 平八郎に附随せる与党の一部上陸す。土井再び城内を巡視す。

時刻の知れてゐるこれだけの事実の前後と中間とに、伝へられてゐる一日間の一切の事実を盛り込んで、矛盾が生じなければ、それで一切の事実が正確だと云ふことは証明せられぬまでも、記載の信用は可なり高まるわけである。私は敢あへてそれを試みた。そして其間に推測を逞たくましくしたには相違ないが、余り暴力的な切盛きりもりや、人を馬鹿にした捏造ねつざうはしなかつた。

――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]

私の「大塩平八郎」は一日間の事を書くを主としてはゐたのだが、其一日の間に活動してゐる平八郎と周囲の人物とは、皆それぞれの過去を持つてゐる。記憶を持つてゐる。殊ことに外生活だけを臚列ろれつするに甘んじないで、幾分か内生活に立ち入つて書くことになると、過去の記憶は比較的大きい影響を其人々の上に加へなくてはならない。さう云ふ場合を書く時、一目に見わたしの付くやうに、私は平八郎の年譜を作つた。原稿には次第に種々な事を書き入れたので、啻たゞに些いさゝかの空白をも残さぬばかりでなく、文字と文字とが重なり合つて、他人が見てはなんの反古ほごだか分からぬやうになつた。ここにはそれを省略して載せる。

大塩平八郎年譜

寛政五年癸丑(一七九三年) 大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地さいちを授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をして家を襲つがしむ。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子ばつし大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。数世にして喜内と云ふものあり。其弟を助左衛門、其子を政之丞成余と云ふ。成余の子を平八郎敬高と云ふ。敬高の弟志摩出でて宮脇氏を冒をかす。敬高大西氏を娶めとる。文之助を生む。名は後素。字あざなは子起。通称は平八郎。中斎と号す。居る所を洗心洞と云ふ。其親族関係左の如し。(幸田)

橋本氏              某─┬─忠兵衛─┬─みね

│     │

└ゆう   └松次郎

│

┌太一郎     │

│        │┌格之助

大西氏      某─┼与五郎─善之進 ├┤  

│        │└いく

└女       │ 

│       │

│    ┌平八郎

├────┤

│    └忠之丞

大塩氏       ┌平八郎

┌喜内─政之丞─┤ 

某─┤       └志摩

└助左衛門    │

│┌発太郎

│├とく

│├いく

├┼新次郎

│├ゑい

│└辰三郎

│

宮脇氏    日向─┬りか

└むつ

是年平八郎後素の祖父成余四十二歳、父敬高二十四歳。

六年甲寅 平八郎二歳。成余四十三歳。敬高二十五歳。

七年乙卯 平八郎三歳。成余四十四歳。敬高二十六歳。

八年丙辰 平八郎四歳。成余四十五歳。敬高二十七歳。橋本忠兵衛生る。

九年丁巳 平八郎五歳。成余四十六歳。敬高二十八歳。

十年戊午 平八郎六歳。成余四十七歳。敬高二十九歳。大黒屋和市の女ひろ生る。後橋本氏ゆうと改名し、平八郎の妾めかけとなる。

十一年己未 平八郎七歳。成余四十八歳。五月十一日敬高三十歳にして歿す。平八郎の弟忠之丞生る。

十二年庚申 平八郎八歳。成余四十九歳。七月二十五日忠之丞歿す。九月二十日平八郎の母大西氏歿す。

享和元年辛酉 平八郎九歳。成余五十歳。宮脇りか生る。

二年壬戌 平八郎十歳。成余五十一歳。

三年癸亥 平八郎十一歳。成余五十二歳。

文化元年甲子 平八郎十二歳。成余五十三歳。

二年乙丑 平八郎十三歳。成余五十四歳。

三年丙寅 平八郎十四歳。此頃番方見習となる。成余五十五歳。

四年丁卯 平八郎十五歳。家譜を読みて志を立つ。成余五十六歳。

五年戊辰 平八郎十六歳。成余五十七歳。

六年己巳 平八郎十七歳。成余五十八歳。

七年庚午 平八郎十八歳。成余五十九歳。豊田貢斎藤伊織に離別せられ、水野軍記の徒弟となる。

八年辛未 平八郎十九歳。成余六十歳。

九年壬申 平八郎二十歳。成余六十一歳。

十年癸酉 平八郎二十一歳。始て学問す。成余六十二歳。西組与力弓削ゆげ新右衛門地方役たり。

十一年甲戌 平八郎二十二歳。此頃竹上万太郎平八郎の門人となる。成余六十三歳。

十二年乙亥 平八郎二十三歳。成余六十四歳。

十三年丙子 平八郎二十四歳。成余六十五歳。京屋きぬ水野の徒弟となる。

十四年丁丑 平八郎二十五歳。成余六十六歳。

文政元年戊寅 六月二日成余六十七歳にして歿す。平八郎二十六歳にして番代を命ぜらる。妾ゆうを納いる。二十一歳。宮脇むつ生る。

二年己卯 平八郎二十七歳。

三年庚辰 平八郎二十八歳。目安役並証文役たり。十一月高井山城守実徳東町奉行となる。

四年辛巳 平八郎二十九歳。平山助次郎十六歳にして入門す。四月坂本鉉之助始て平八郎を訪ふ。橋本みね生る。

五年壬午 平八郎三十歳。

六年癸未 平八郎三十一歳。平八郎の叔父志摩宮脇氏の婿養子となり、りかに配せらる。是年大井正一郎入門す。水野軍記の妻そへ歿す。

七年甲申 平八郎三十二歳。宮脇発太郎生る。庄司義左衛門、堀井儀三郎入門す。庄司は二十七歳。水野軍記大阪木屋町に歿す。

八年乙酉 平八郎三十三歳。正月十四日洗心洞学舎東掲西掲を書す。白井孝右衛門三十七歳にして入門す。

九年丙戌 平八郎三十四歳。宮脇とく生る。

十年丁亥 平八郎三十五歳。吟味役たり。正月京屋さの、四月京屋きぬ、六月豊田貢、閏六月より七月に至り、水野軍記の関係者皆逮捕せらる。さの五十六歳、きぬ五十九歳、貢五十四歳、所謂邪宗門事件なり。

十一年戊子 平八郎三十六歳。吉見九郎右衛門三十八歳にして入門す。十月邪宗門事件評定所に移さる。

十二年己丑 平八郎三十七歳。三月弓削新右衛門糺弾事件あり。平八郎の妾ゆう薙髪ちはつす。十二月五日邪宗門事件落着す。貢、きぬ、さの、外三人磔はりつけに処せらる。きぬ、さのは屍しかばねを磔す。是年宮脇いく生る。上田孝太郎入門す。木村司馬之助、横山文哉交まじはりを訂ていす。

天保元年庚寅 平八郎三十八歳。三月破戒僧検挙事件あり。七月高井実徳西丸留守居に転ず。平八郎勤仕十三年にして暇を乞ひ、養子格之助番代を命ぜらる。格之助妾橋本みねを納る。九月平八郎名古屋の宗家を訪ひ、展墓す。頼襄らいのぼる序を作りて送る。十一月大阪に帰る。是年松本隣太夫、茨田軍次、白井儀次郎入門す。松本は甫はじめて七歳なりき。

二年辛卯 平八郎三十九歳。父祖の墓石を天満東寺町成正寺に建つ。吉見英太郎、河合八十次郎入門す。彼は十歳、此は十二歳なり。

三年壬辰 平八郎四十歳。四月頼襄京都より至り、古本大学刮目だいがくくわつもくに序せんことを約す。六月大学刮目に自序す。同月近江国小川村なる中江藤樹の遺蹟を訪ふ。帰途舟に上りて大溝より坂本に至り、風波に逢ふ。秋頼襄京都に病む。平八郎往いて訪へば既に亡なし。是年宮脇いくを養ひて女とす。柴屋長太夫三十六歳にして入門す。

四年癸巳 平八郎四十一歳。四月洗心洞剳記せんしんどうさつきに自序し、これを刻す。頼余一に一本を貽おくる。又一本を佐藤坦たひらに寄せ、手書して志を言ふ。七月十七日富士山に登り、剳記を石室に蔵す。八月足代弘訓の勧すゝめにより、剳記を宮崎、林崎の両文庫に納おさむ。九月奉納書籍聚跋ほうなふしよじやくしゆうばつに序す。十二月儒門空虚聚語じゆもんくうきよしゆうごに自序す。是年柏岡伝七、塩屋喜代蔵入門す。

五年甲午 平八郎四十二歳。秋剳記附録抄さつきふろくせうを刻す。十一月孝経彙註かうきやうゐちゆうに序す。是年宇津木矩之允入塾す。柏岡源右衛門入門す。此頃高橋九右衛門も亦入門す。

六年乙未 平八郎四十三歳。四月孝経彙註を刻す。夏剳記及附録抄の版を書估しよこに与ふ。

七年丙申 平八郎四十四歳。七月跡部良弼東町奉行となる。九月格之助砲術を試みんとすと称し、火薬を製す。十一月百目筒三挺を買ひ又借る。十二月檄文を印刷す。同月格之助の子弓太郎生る。安田図書、服部末次郎入門す。宇津木矩之允再び入塾す。天保四年以後飢饉にして、是歳最も甚し。

八年丁酉(一八三七年) 平八郎四十五歳。正月八日吉見、平山、庄司連判状に署名す。十八日柏岡源右衛門、同伝七署名す。二十八日茨田、高橋署名す。是月白井孝右衛門、橋本、大井も亦署名す。二月二日西町奉行堀利堅就任す。七日ゆう、みね、弓太郎、いく般若寺村橋本の家に徙うつる。上旬中書籍を売りて、金を窮民に施す。十三日竹上署名す。吉見父子平八郎の陰謀を告発せんと謀はかる。十五日上田署名す。木村、横山も亦此頃署名す。十六日より与党日々平八郎の家に会す。十七日夜平山陰謀を跡部に告発す。十八日暁あけ六時どき跡部平山を江戸矢部定謙の許もとに遣やる。堀と共に次日市内を巡視することを停とゞむ。十九日暁七時吉見英太郎、河合八十次郎英太郎が父の書を懐ふところにして、平八郎の陰謀を堀利堅に告発す。東町奉行所に跡部平八郎の与党小泉淵次郎を斬らしめ、瀬田済之助を逸す。瀬田逃れて平八郎の家に至る。平八郎宇津木を殺さしめ、朝五時事を挙ぐ。昼九時北浜に至る。鴻池等を襲ふ。跡部の兵と平野橋、淡路町に闘ふ。二十日夜兵火息やむ。二十四日夕平八郎父子油懸町美吉屋五郎兵衛の家に潜ひそむ。三月二十七日平八郎父子死す。

九年戊戌 八月二十一日平八郎等の獄定まる。九月十八日平八郎以下二十人を鳶田に磔す。竹上一人を除く外、皆屍しかばねなり。十月江戸日本橋に捨札を掲ぐ。

二月十九日中の事を書くに、十九日前の事を回顧する必要があるやうに、十九日後の事も多少書き足さなくてはならない。それは平八郎の末路を明にして置きたいからである。平八郎は十九日の夜大阪下寺町を彷徨してゐた。それから二十四日の夕方同所油懸町の美吉屋に来て潜伏するまでの道行は不確である。併し下寺町で平八郎と一しよに彷徨してゐた渡辺良左衛門は河内国志紀郡田井中村で切腹してをり、瀬田済之助は同国高安郡恩地村で縊死いししてをつて、二人の死骸は二十二日に発見せられた。そこで大阪下寺町、河内田井中村、同恩地村の三箇所を貫いて線を引いて見ると、大阪から河内国を横断して、大和国に入る道筋になる。平八郎が二十日の朝から二十四日の暮までの間に、大阪、田井中、恩地の間を往反したことは、殆ほとんど疑を容いれない。又下寺町から田井中へ出るには、平野郷口から出たことも、亦また推定することが出来る。唯たゞ恩地から先をどの方向にどれ丈歩いたかが不明である。

試みに大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の変換と行程の延長とを避けて、大和境に向けて引いて見ると、亀瀬峠かめのせたうげは南に偏し、十三峠は北に偏してゐて、恩地と相隣してゐる服部川はつとりがはから信貴越しきごえをするのが順路だと云ひたくなる。かう云ふ理由で、私は平八郎父子に信貴越をさせた。そして美吉屋を叙する前に、信貴越の一段を挿入した。

二月十九日後の記事は一、信貴越 二、美吉屋 三、評定と云ふことになつた。

――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]

平八郎が暴動の原因は、簡単に言へば飢饉である。外に種々の説があつても、大抵揣摩しまである。

大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方に凶歉きようけんがあつても、すぐに大影響を被かうむる。市内の賤民が飢饉に苦むのに、官吏や富豪が奢侈を恣ほしいまゝにしてゐる。平八郎はそれを憤いきどほつた。それから幕府の命令で江戸に米を回漕くわいさうして、京都へ遣やらない。それをも不公平だと思つた。江戸の米の需要に比すれば、京都の米の需要は極ごく僅少であるから、京都への米の運送を絶たなくても好ささうなものである。全国の石高こくだかを幕府、諸大名、御料、皇族並公卿、社寺に配当したのを見るに、左の通である。

石高実数(単位万石) 全国石高に対する百分比例

徳川幕府   800         29.2

諸大名   1900         69.4

御料      3          0.1

皇族并公卿   4.7         0.2

社寺     30          1.2

――――――――――――――――――――

計    2737.7        100

天保元年、二年は豊作であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために、江戸で白米が一両に付四斗、百文に付四合とまでなつた。卸値おろしねは文政頃一両に付二石であつたのである。五年になつても江戸で最高価格が前年と同じであつた。七年には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両に付一斗二升、百文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしいが、当時大阪総年寄をしてゐた今井官之助、後に克復と云つた人の話に、一石二十七匁五分の白米が二百匁近くなつてゐたと云ふことである。いかにも一石百八十七匁と云ふ記載がある。金一両銀六十匁銭六貫五百文の比例で換算して見ると、平常の一石二十七匁五分は一両に付二石一斗八升となり、一石百八十七匁は一両に付三斗二升となる。百文に付四合九勺である。此年の全国の作割と云ふものがある。

五畿内東山道   45%

東海道      45

関八州    30―40

奥州       28

羽州       40

北陸道      54

山陰道      32

山陽道及南海道  55

西海道      50

―――――――――――――

○      42.4%

これから古米食込高一二%を入れ戻せば、三〇、四%の収穫となる。七年の不良な景況は、八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五升俵として換算すれば、一両に付三斗四合である。

平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。

若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の儘まゝに放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。

若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎風情ふぜいには不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮ふるはせる余地があつたら、暴動は起らなかつただらう。

この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破壊して望のぞみを達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。

未だ醒覚せざる社会主義は、独り平八郎が懐抱してゐたばかりではない。天保より前に、天明の飢饉と云ふのがあつた。天明七年には江戸で白米が一両に付一斗二升、小売百文に付三合五勺になつた。此年の五月十二日に大阪で米屋こはしと云ふことが始まつた。貧民が群をなして米店を破壊したのである。同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた米商富人の家が千七百戸に及んだ。次いで天保の飢饉になつても、天保七年五月十二日に大阪の貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も同じ暴動をした。此等の貧民の頭の中には、皆未だ醒覚せざる社会主義があつたのである。彼等は食ふべき米を得ることが出来ない。そして富家と米商とが其資本を運転して、買占其他の策を施し、貧民の膏血を涸からして自ら肥えるのを見てゐる。彼等はこれに処するにどう云ふ方法を以てして好いか知らない。彼等は未だ醒覚してゐない。唯盲目な暴力を以て富家と米商とに反抗するのである。

平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。

平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。

――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]

平八郎が陰謀の与党は養子格之助、叔父宮脇志摩を除く外、殆皆門人である。それ以外には家塾の賄方まかなひかた、格之助の若党、中間ちゆうげん、瀬田済之助の若党、中間、大工が一人、猟師が一人ゐる位のものである。橋本忠兵衛は平八郎の妾の義兄、格之助の妾の実父であるが、これも同時に門人になつてゐた。

暴動の翌年天保九年八月二十一日の裁決によつて、磔に処せられた二十人は左の通である。

大塩平八郎 美吉屋にて自刃す

大塩格之助 東組与力西田青太夫実子 美吉屋にて死す

渡辺良左衛門 東組同心 河内田井中にて切腹す

瀬田済之助 東組与力 河内恩地にて縊死す

小泉淵次郎 郡山柳沢甲斐守家来春木弥之助実子、東組与力養子 東町奉行所にて斬らる

庄司義左衛門 河内丹北郡東瓜破村助右衛門実子、東組同心養子 奈良にて捕はる

近藤梶五郎 東組同心 自宅焼跡にて切腹す

大井正一郎 玉造口与力倅 京都にて捕はる

深尾才次郎 河内交野郡尊延寺村百姓 能登にて自殺す

茨田郡次 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す

高橋九右衛門 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す

柏岡源右衛門 摂津東成郡般若寺村百姓 支配役場へ自首す

柏岡伝七 同上倅 自宅にて捕はる

西村利三郎 河内志紀郡弓削村百姓 江戸にて願人となり病死す

宮脇志摩 摂津三島郡吹田村神主 自宅にて切腹入水す

橋本忠兵衛 摂津東成郡般若寺村庄屋 京都にて捕はる

白井孝右衛門 摂津守口村百姓兼質屋 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる

横山文哉 肥前三原村の人、摂津東成郡森小路村の医師となる 捕はる

木村司馬之助 摂津東成郡猪飼野村百姓 捕はる

竹上万太郎 弓奉行組同心 捕はる

次に左の十一人は獄門に処せられた。

松本隣太夫 大阪船場医師倅 捕はる

堀井儀三郎 播磨加東郡西村百姓 捕はる

杉山三平 大塩塾賄方 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる

曾我岩蔵 大塩若党 大阪にて捕はる

植松周次 瀬田若党 京都にて捕はる

作兵衛 天満北木幡町大工 京都にて捕はる

金助 摂津東成郡下辻村猟師 捕はる

美吉屋五郎兵衛 油懸町手拭地職 自宅にて捕はる

浅佶 瀬田中間 捕はる

新兵衛 河内尊延寺村無宿、深尾才次郎の募に応ず 捕はる

忠右衛門 同村百姓、同上 捕はる

次に左の三人は死罪に処せられた。

上田孝太郎 摂津東成郡沢上江村百姓 捕はる

白井儀次郎 河内渋河郡衣摺村百姓、白井孝右衛門従弟 捕はる

卯兵衛 摂津東成郡般若寺村百姓 捕はる

次に左の四人は遠島に処せられた。

大西与五郎 東組与力、平八郎の母兄 捕はる

白井彦右衛門 孝右衛門倅 大和に往く途中捕はる

橋本氏ゆう 実は曾根崎新地茶屋町大黒屋和市娘ひろ 京都にて捕はる

美吉屋つね 五郎兵衛妻 自宅にて捕はる

次に左の三人は追放に処せられた。

安田図書 伊勢山田外宮御師 淡路町附近にて捕はる

寛輔 堺北糸町医師、西村の姉婿、西村の逃亡を幇助ほうじよす 捕はる

正方 河内渋河郡大蓮寺隠居、杉山の伯父にして杉山をして剃髪せしむ 捕はる

以上重罪者三十一人の中で、刑を執行せられる時生存してゐたものは、竹上、杉山、上田、大西、白井彦右衛門の五人丈である。他の二十六人は悉こと〲く死んでゐて、内平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇六人は自殺、小泉は他殺、格之助は他殺の疑、西村は逮捕せられずに病死、残余の十七人は牢死である。九月十八日には鳶田で塩詰しほづめにした屍首を磔柱はりつけばしら、獄門台に懸かけた。江戸で願人坊主ぐわんにんばうずになつて死んだ西村丈だけは、浅草遍照院に葬はうむつた死骸が腐つてゐたので、墓を毀こぼたれた。

当時の罪人は一年以内には必ず死ぬる牢屋に入れられ、死んでから刑の宣告を受け、塩詰にした死骸を磔柱などに懸けられたものである。これは独ひとり平八郎の与党のみではない。平八郎が前に吟味役として取り扱つた邪宗門事件の罪人も、同じ処置に逢つたのである。

――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]

近い頃のロシアの小説に、譃うそを衝つかぬ小学生徒と云ふものを書いたのがある。我事も人の事も、有の儘を教師に告げる。そこで傍輩ばうはいに憎まれてゐたたまらなくなるのである。又ドイツの或る新聞は「小学教師は生徒に傍輩の非行を告発することを強制すべきものなりや否や」と云ふ問題を出して、諸方面の名士の答案を募つた。答案は区々まち〱であつた。

個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを褒ほむべき行為にしてゐた。秩序を維持する一の手段として奨励したのである。中にも非行の同類が告発をするのを返忠かへりちゆうと称して、これに忠と云ふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものである。

平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。

平山助次郎 東組同心 暴動に先だつこと二日、東町奉行跡部良弼に密訴す

吉見九郎右衛門 東組同心 暴動当日の昧爽まいさう、西町奉行堀利堅に上書す

吉見英太郎 九郎右衛門倅 九郎右衛門の訴状を堀に呈す

河合八十次郎 平八郎の陰謀に与くみし、半途にして逃亡し、遂に行方不明になりし東組同心郷左衛門の倅せがれなり、陰謀事件の関係者中行方不明になりしは、此郷左衛門と近江小川村医師志村力之助との二人のみ 九郎右衛門の訴状を堀に呈す

評定の結果として、平山、吉見は取高の儘小普請こぶしん入を命ぜられ、英太郎、八十次郎の二少年は賞銀を賜はつた。然るに平山は評定の局を結んだ天保九年閏うるふ四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられてゐた安房勝山の城主酒井大和守忠和ただよりの邸やしきで、人間らしく自殺を遂げた。

底本 / Source edition

底本:「鴎外歴史文学集 第二巻」岩波書店
2000(平成12)年10月10日発行
入力:kompass
校正:小林繁雄
2001年12月13日公開
2004年11月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/002298_000129/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/002298_000129/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/002298_000129/

森 鴎外「大塩平八郎」(新字旧仮名)、底本『鴎外歴史文学集 第二巻』岩波書店、2000年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002298_000129, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite