安心し<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え、君の事を書くのではない。このごろ、と言っても去年の秋から「右大臣実朝」という三百枚くらいの見当の小説に取りかかって、ことしの二月の末に、やっと百五十一枚というところに<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎつけて、疲れて、二、三日、自身に休暇を与えて、そうしてことしの正月に舟橋氏と約束した短篇小説の事などぼんやり考えていたのだけれども、私の生れつきの性質の中には愚直なものもあるらしく、胸の思いが、どうしても「右大臣実朝」から離れることが出来ず、きれいに気分を転換させて別の事を書くなんて<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかな芸当はおぼつかなく、あれこれ考え迷った末に、やはりこのたびは「右大臣実朝」の事でも書くより<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に仕方がない、いや、実朝というその人に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いては、れいの三百枚くらいの見当で書くつもりなので、いまは、その三百枚くらいの見当の「右大臣実朝」という私の未完の小説を中心にして三十枚くらい何か書かせてもらおう、それより他に仕方がなかろうという事になったわけで、さて、それに就いてまたもあれこれ考えてみたら、どうもそれは、自作に対する思わせぶりな宣伝のようなものになりはしないか、これは誰しも私と同意見に違いないが、いったいあの自作に対してごたごたと手前<ruby><rb>味噌</rb><rt>みそ</rt></ruby>を並べるのは、ろくでもない自分の容貌をへんに自慢してもっともらしく説明して聞かせているような薄気味の悪い狂態にも似ているので、私は、自分の本の「はしがき」にも、または「あとがき」にも、いくら本屋の人からそう書けと命令されても、さすがに自慢は書けず、もともと自分の小説の幼稚にして不手際なのには自分でも<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れているのであるから、いよいよ宣伝などは、思いも寄らぬ事の<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>であるが、けれども、いま自分の書きかけの小説「右大臣実朝」をめぐって何か話をすすめるという事になったならば、作者の真意はどうあろうと、結果に<ruby><rb>於</rb><rt>お</rt></ruby>いては、汚い手前味噌になるのではあるまいか、映画であったら、まず予告篇とでもいったところか、見え透いていますよ、いかに<ruby><rb>伏目</rb><rt>ふしめ</rt></ruby>になって謙譲の美徳とやらを<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>って見せても、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>っぺいの<ruby><rb>図々</rb><rt>ずうずう</rt></ruby>しさ、何を言い出すのかと思ったら、創作の苦心談だってさ、苦心談、たまらねえや、あいつこのごろ、まじめになったんだってね、金でもたまったんじゃないか、勉強いたしているそうだ、酒はつまらぬと言ったってね、<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>をはやしたという話を聞いたが、<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>かい、とにかく苦心談とは、恐れいったよ、謹聴々々、などと腹の虫が一時に騒ぎ出して来る仕末なので、作者は困惑して、この作品に題して<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く「鉄面皮」。どうせ私は、つらの皮が厚いよ。

鉄面皮、と原稿用紙に大きく書いたら、多少、気持も落ちついた。子供の頃、私は怪談が好きで、おそろしさの余りめそめそ泣き出してもそれでもその怪談の本を手放さずに読みつづけて、ついには<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>箱から赤鬼のお面を取り出してそれをかぶって読みつづけた事があったけれど、あの時の気持と実に似ている。あまりの恐怖に、奇妙な倒錯が起ったのである。鉄面皮。このお面をかぶったら大丈夫、もう、こわいものはない。鉄面皮。つくづくと<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の三字を見つめていると、とてもこれは堂々たる<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>きに磨いて黒光りを発している鉄仮面のように思われて来た。鋼鉄の感じである。男性的だ。ひょっとしたら、鉄面皮というのは、男の美徳なのかも知れない。とにかく、この文字には、いやらしい感じがない。この頑丈の鉄仮面をかぶり、ふくみ声で<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>創作の苦心談をはじめたならば、案外荘重な響きも出て来て、そんなに嘲笑されずにすむかも知れぬ、などと小心<ruby><rb>翼々</rb><rt>よくよく</rt></ruby>、臆病無類の愚作者は、ひとり<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しくうなずいた。

昭和十一年十月十三日から同年十一月十二日まで、一箇月間、私は暗い病室で毎日泣いて暮していた。その一箇月間の日記を、私は小説として或る文芸雑誌に発表した。わがままな形式の作品だったので、<ruby><rb>編輯者</rb><rt>へんしゅうしゃ</rt></ruby>に非常な迷惑をおかけした様子である。HUMAN LOSTという作品だ。すべて、いまは不吉な敵国の言葉になったが、パラダイス・ロストをもじって、まあ「人間失格」とでもいうような気持でそんな題をつけたのであって、その日記形式の小説の十一月一日のところに左のような文章がある。

実朝をわすれず。

伊豆の海の白く立ち立つ浪がしら。

塩の花ちる。

うごくすすき。

<ruby><rb>蜜柑</rb><rt>みかん</rt></ruby>畑。

くるしい時には、かならず実朝を思い出す様子であった。いのちあらば、あの実朝を書いてみたいと思っていた。私は生きのびて、ことし三十五になった。そろそろいい時分だ、なんて書くと<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>な空漠たる美辞麗句みたいになってつまらないが、実朝を書きたいというのは、たしかに私の少年の頃からの念願であったようで、その日頃の願いが、いまどうやら<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>いそうになって来たのだから、私もなかなか仕合せな男だ。天神様や観音様にお礼を申し上げたいところだが、あのお<ruby><rb>光</rb><rt>みつ</rt></ruby>の場合は、ぬかよろこびであったのだし、あんな事もあるのだから、やっと百五十一枚を書き上げたくらいで、気もいそいその馬鹿騒ぎは慎しまなければならぬ。大事なのは、これからだ。この短篇小説を書き上げると、またすぐ重い<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>をさげて旅行に出て、あの仕事をつづけるのだ。なんて、やっぱり、小学生が遠足に出かける時みたいな、はしゃいだ調子の文章になってしまったが、仕事が楽しいという時期は一生に、そう<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>あるわけでもないらしいから、こんな浮わついた文章も、記念として、消さずにそのまま残して置こう。

右大臣実朝。

<ruby><rb>承元</rb><rt>じょうげん</rt></ruby>二年<ruby><rb>戊辰</rb><rt>つちのえたつ</rt></ruby>。二月小。三日、<ruby><rb>癸卯</rb><rt>みずのとう</rt></ruby>、晴、<ruby><rb>鶴岳宮</rb><rt>つるがおかぐう</rt></ruby>の<ruby><rb>御神楽</rb><rt>みかぐら</rt></ruby>例の如し、将軍家御<ruby><rb>疱瘡</rb><rt>ほうそう</rt></ruby>に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>りて<ruby><rb>御出</rb><rt>ぎょしゅつ</rt></ruby>無し、<ruby><rb>前大膳大夫</rb><rt>さきのだいぜんのだいぶ</rt></ruby><ruby><rb>広元朝臣</rb><rt>ひろもとあそん</rt></ruby>御使として神拝す、又<ruby><rb>御台所</rb><rt>みだいどころ</rt></ruby>御参宮。十日、<ruby><rb>庚戌</rb><rt>かのえいぬ</rt></ruby>、将軍家御疱瘡、<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る心神を悩ましめ給ふ、<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>に依つて近国の<ruby><rb>御家人等</rb><rt>ごけにんら</rt></ruby><ruby><rb>群参</rb><rt>ぐんさん</rt></ruby>す。廿九日、<ruby><rb>己巳</rb><rt>つちのとみ</rt></ruby>、雨降る、将軍家御<ruby><rb>平癒</rb><rt>へいゆ</rt></ruby>の間、御<ruby><rb>沐浴</rb><rt>もくよく</rt></ruby>有り。（<ruby><rb>吾妻鏡</rb><rt>あずまかがみ</rt></ruby>。以下同断）

おたずねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避けてありのまま、あなたにお知らせ申し上げます。

というのが開巻第一頁だ。どうも、自分の文章を自分で引用するというのは、グロテスクなもので、また、その自分の文章たるや、こうして書き写してみると、いかにも青臭く<ruby><rb>衒気</rb><rt>げんき</rt></ruby>満々のもののような気がして来て、全く、たまらないのであるが、そこがれいの鉄面皮だ、<ruby><rb>洒唖々々然</rb><rt>しゃあしゃあぜん</rt></ruby>と書きすすめる。ひょっとしたら、この鉄面皮、ほんものかも知れない。もともと芸術家ってのは厚顔無恥の<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>ったらしいもので、漱石がいいとしをして<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>をひねりながら、我輩は猫である、名前はまだ無い、なんて真顔で書いているのだから、他は推して知るべしだ。<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、まともではない。賢者は、この道を避けて通る。ついでながら<ruby><rb>徒然草</rb><rt>つれづれぐさ</rt></ruby>に、馬鹿の真似をする奴は馬鹿である。気違いの真似だと言って電柱によじのぼったりする奴は気違いである、聖人賢者の真似をして、したり顔に腕組みなんかしている奴は、やっぱり本当の聖人賢者である、なんて、いやな事が書かれてあったが、浮気の真似をする奴は、やっぱり浮気、奇妙に学者ぶる奴は、やっぱり本当の学者、酒乱の真似をする奴は、まさしく本物の酒乱、芸術家ぶる奴は、本当の芸術家、大石良雄の酔狂振りも、あれは本物、また、笑いながら厳粛の事を語れと教える哲人ニイチェ氏も、笑いながら、とはなんだ、そんな冗談めかしたりして物を言う奴は、やっぱり、ふざけた奴なんだ、という事になって、鉄面皮を装う愚作者は、なんの事はない、そのとおり鉄面皮の愚作者なのだ。まことに、身も<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>も無い<ruby><rb>興覚</rb><rt>きょうざ</rt></ruby>めた話で、まるで赤はだかにされたような気持であるが、けれども、これは、あなどるべからざる説である。この説に就いては、なお長年月をかけて考えてみたいと思っているが、小説家というものは恥知らずの愚者だという事だけは、考えるまでもなく、まず決定的なものらしい。昨年の暮に故郷の老母が死んだので、私は十年振りに帰郷して、その時、故郷の長兄に、死ぬまで駄目だと思え、と大声<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>されて、一つ、ものを覚えた次第であるが、

「兄さん、」と私はいやになれなれしく、「僕はいまは、まるで、てんで駄目だけれども、でも、もう五年、いや十年かな、十年くらい<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ったら何か一つ兄さんに、うむと<ruby><rb>首肯</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>させるくらいのものが書けるような気がするんだけど。」

兄は眼を丸くして、

「お前は、よその人にもそんなばかな事を言っているのか。よしてくれよ。いい恥さらしだ。一生お前は駄目なんだ。どうしたって駄目なんだ。五年？　十年？　俺にうむと言わせたいなんて、やめろ、やめろ、お前はまあ、なんという馬鹿な事を考えているんだ。死ぬまで駄目さ。きまっているんだ。よく覚えて置けよ。」

「だって、」何が、だってだ、そんなに強く叱咤されても、一向に感じないみたいにニタニタと醜怪に笑って、さながら、<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>られた足にまたも<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りつく婦女子の如く、「それでは希望が無くなりますもの。」男だか女だか、わかりやしない。「いったい私は、どうしたらいいのかなあ。」いつか<ruby><rb>水上</rb><rt>みなかみ</rt></ruby>温泉で田舎まわりの宝船団とかいう一座の芝居を見たことがあるけれど、その時、額のあくまでも狭い色男が、舞台の端にうなだれて立って、いったい私は、どうしたらいいのかなあ、と言った。それは「<ruby><rb>血染</rb><rt>ちぞめ</rt></ruby>の名月」というひどく無理な題目の芝居であった。

兄も呆れて、うんざりして来たらしく、

「それは、何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り。」と言って座を立ってしまった。

けれどもこの時の兄の叱咤は、非常に役に立った。眼界が、ひらけた。何百年、何千年経っても不滅の名を歴史に残しているほどの人物は、私たちには容易に推量できないくらいに、けたはずれの神品に違いない。羽左衛門の義経を見てやさしい色白の義経を胸に画いてみたり、阪東妻三郎が<ruby><rb>扮</rb><rt>ふん</rt></ruby>するところの織田信長を見て、その<ruby><rb>胴間声</rb><rt>どうまごえ</rt></ruby>に圧倒され、まさに信長とはかくの如きものかと、まさか、でも、それはあり得る事かも知れない。歴史小説というものが、この頃おそろしく流行して来たようだが、こころみにその二、三の内容をちらと拝見したら、驚くべし、れいの羽左、阪妻が、ここを<ruby><rb>先途</rb><rt>せんど</rt></ruby>と活躍していた。羽左、阪妻の活躍は、見た眼にも<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>で、まあ新講談と思えば、講談の奇想天外にはまた捨てがたいところもあるのだから、楽しく読めることもあるけれど、あの、深刻そうな、人間味を持たせるとかいって、<ruby><rb>楠木正成</rb><rt>くすのきまさしげ</rt></ruby>が、むやみ<ruby><rb>矢鱈</rb><rt>やたら</rt></ruby>に、<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい、と言ったり、御前会議が、まるでもう同人雑誌の合評会の如く、ただ、わあわあ騒いで<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んだり憎んだり、もっぱら作者自身のけちな日常生活からのみ推して加藤清正や小西行長を書くのだろうから、実に心細い英雄豪傑ばかりで、加藤君も小西君も、運動選手の如くはしゃいで、そうして夜になると淋しいと言ったりするような歴史小説は、それが<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>小説、あるいは<ruby><rb>諷刺</rb><rt>ふうし</rt></ruby>小説のつもりだったら、また違った面白味もあるのだが、当の作者は異様に気張って、深刻のつもりでいるのだから、読むほうでは、すっかりまごついてしまうのである。どうもあれは、趣向としても、わるい趣向だ。歴史の大人物と作者との差を千里万里も引き離さなければいけないのではなかろうか、と私はかねがね思っていたところに、兄の叱咤だ。千里万里もまだ足りなかった。白虎とてんとう虫。いや、竜とぼうふら。くらべものにも何もなりやしないのだ。こんど徳川家康と一つ取っ組んでみようと思う、なんて大それた事を言っていた大衆作家もあったようだが、何を言っているのだ、どだい取組みにも何もなりやしない、身のほどを知れ、身のほどを、死ぬまで駄目さ、きまっているんだ、よく覚えて置け、と兄の口真似をして、ちっとも実体の無い大衆作家なんかを持出してそいつを叱りつけて、ひそかに<ruby><rb>溜飲</rb><rt>りゅういん</rt></ruby>をさげているんだから私という三十五歳の男は、いよいよ日本一の大馬鹿ときまった。

（前略）あのお方の御環境から推測して、<ruby><rb>厭世</rb><rt>えんせい</rt></ruby>だの自暴自棄だの<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>いは深い<ruby><rb>諦観</rb><rt>ていかん</rt></ruby>だのとしたり顔して<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いていたひともありましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆったりしていて、のんきそうに見えました。大声挙げてお笑いになる事もございました。その環境から推して、さぞお苦しいだろうと同情しても、その御当人は案外あかるい気持で生きているのを見て驚く事は<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の世にままある例だと思います。だいいちあのお方の御日常だって、私たちがお<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>から見て決してそんな暗い、うっとうしいものではございませんでした。私が御所へあがったのは私の十二歳のお正月で、<ruby><rb>問註所</rb><rt>もんちゅうじょ</rt></ruby>の入道さまの<ruby><rb>名越</rb><rt>なごえ</rt></ruby>のお家が焼けたのは正月の十六日、私はその三日あとに父に連れられ御所へあがって将軍家のお傍の御用を勤めるようになったのですが、あの時の火事で入道さまが将軍家よりおあずかりの<ruby><rb>貴</rb><rt>とうと</rt></ruby>い御文籍も何もかもすっかり灰にしてしまったとかで、御所へ参りましても、まるでもう<ruby><rb>呆</rb><rt>ほう</rt></ruby>けたようになって、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその様を見て、笑いを制する事が出来ず、ついクスクスと笑ってしまって、はっと気を取り直して御奥の将軍家のお顔を伺い見ましたら、あのお方も、私のほうをちらと御らんになってニッコリお笑いになりました。たいせつの御文籍をたくさん焼かれても、なんのくったくも無げに、私と一緒に入道さまの<ruby><rb>御愁歎</rb><rt>ごしゅうたん</rt></ruby>をむしろ興がっておいでのその御様子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思いました。どうしたって私たちとは天地の違いがございます。全然、別種のお生れつきなのです。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方の事をあれこれ、推し測ってみたりするのは、とんでもない間違いのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんという浅はかなひとりよがりの考え方か、本当に腹が立ちます。それは、あのお方が十七歳になられたばかりの頃の事だったのですが、おからだも充分に大きく、少し、伏目になってゆったりとお坐りになって居られるお姿は、御所のどんな御老人よりも分別ありげに、おとなびて、たのもしく見えました。

老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル<ruby><rb>哉</rb><rt>かな</rt></ruby>

その頃もう、こんな和歌さえおつくりになって居られたくらいで、お生れつきとは言え、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>はありませんでした。（後略）

あまり抜書きすると、出版元から叱られるかも知れない。この作品は三百枚くらいで完成する筈であるが、雑誌に分載するような事はせず、いきなり単行本として或る出版社から発売される事になっているので、すでに少からぬ金額の前借もしてしまっているのであるから、この原稿は、もはや私のものではないのだ。けれども、三百枚の中から五、六枚くらい抜書きしても、そんなに重い罪にはなるまいと考えられる。他の雑誌に分載されるのだったら、こんな抜書きは許すべからざる犯罪にきまっているが、三百枚いちどに単行本として出版するんだから、まあ、五、六枚のところは、笑許、なんて言葉はない、<ruby><rb>御寛恕</rb><rt>ごかんじょ</rt></ruby>を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>う次第だ。どうせ映画の予告篇、結果に於いては、宣伝みたいな事になってしまうのだから、出版元も大目に見てくれるにきまっていると思われる、などとれいの小心翼々、おっかなびっくりのあさましい自己弁解をやらかして、さて、とまた鉄仮面をかぶり、ただいまの抜書きは二枚半、ついでにもう二枚ばかり抜書きさせていただく。

（前略）私は御奉公にあがったばかりの、しかもわずか十二歳の子供でございましたので、ただもうおそろしく（中略）その時の事をただいま少し申し上げましょう。二月のはじめに御発熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御<ruby><rb>危篤</rb><rt>きとく</rt></ruby>と拝せられましたが、その頃が<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>で、それからは<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>わば薄紙をはがすようにだんだんと御悩も軽くなってまいりました。忘れもしませぬ、二十三日の<ruby><rb>午剋</rb><rt>うまのこく</rt></ruby>、<ruby><rb>尼御台</rb><rt>あまみだい</rt></ruby>さまは御台所さまをお連れになって御寝所へお見舞いにおいでになりました。私もその時、御寝所の片隅に小さく控えて居りましたが、尼御台さまは将軍家のお枕元にずっといざり寄られて、つくづくとあのお方のお顔を見つめて、もとのお顔を、もいちど見たいの、とまるでお天気の事でも言うような平然たる御口調ではっきりおっしゃいましたので、私は子供心にも、ドキンとしていたたまらない気持が致しました。御台所さまはそれを聞いて、え<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えず、泣き伏しておしまいになりましたが、尼御台さまは、なおも将軍家のお顔から眼をそらさず静かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでした。あのお方のお顔には疱瘡の跡が残って、ひどい面変りがしていたのです。お傍の人たちは、みんなその事には気附かぬ振りをしていたのですが、尼御台さまは、そのとき平気で言い出しましたので、私たちは色を失い生きた心地も無かったのでございます。その時あのお方は、<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かにうなずき、それから白いお歯をちらと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かせて笑いながら申されました。

スグ<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>レルモノデス

このお言葉の有難さ。やっぱりあのお方は、まるで、ずば抜けて違って居られる。それから三十年、私もすでに四十の声を聞くようになりましたが、どうしてどうして、こんな澄んだ御心境は、三十になっても四十になっても、いやいやこれからさき何十年かかったって到底、得られそうもありませぬ。（後略）

べつに、いいところだから抜書きしたというわけではない。だいたいこんな調子で書いているのだという事を、具体的にお知らせしたかったのである。実朝の<ruby><rb>近習</rb><rt>きんじゅ</rt></ruby>が、実朝の死と共に出家して山奥に隠れ住んでいるのを訪ねて行って、いろいろと実朝に就いての思い出話を聞くという趣向だ。史実はおもに吾妻鏡に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>った。でたらめばかり書いているんじゃないかと思われてもいけないから、吾妻鏡の本文を少し<ruby><rb>抜萃</rb><rt>ばっすい</rt></ruby>しては作品の要所々々に挿入して置いた。物語は必ずしも吾妻鏡の本文のとおりではない。そんなとき両者を比較して多少の興を覚えるように<ruby><rb>案配</rb><rt>あんばい</rt></ruby>したわけである、などと、これではまるで大道の薬売りの口上にまさる露骨な広告だ。もう、やめる。さすがの鉄仮面も熱くなって来た。他の話をしよう。なにせ、Ｄって野郎もたいしたものだよ。二三年前に逢った時には、足利時代と桃山時代と、どっちがさきか知らない様子で、なんだか、ひどく<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>して居ったが、実朝を、ねえ、これだから世の中はこわいと言うんだ、何がなんだか、わかったもんじゃない、実朝を書きたいというのは余の幼少の頃からのひそかな念願であった、と言ったってね、すさまじいじゃないか、いよう！　だ、気が狂ってるんじゃないか、あいつが酒をやめて勉強しているなんて嘘だよ、「源の実朝さま」という子供の絵本を一冊買って来て、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>にもぐり込んで配給の<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>でも飲みながら、絵本の説明文に<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>らしく赤鉛筆でしるしをつけたりなんかして、ああ、そのさまが見えるようだ。

このごろ私は、誰にでも底知れぬほど軽蔑されて至当だと思っている。芸術家というものは、それくらいで結構なんだ。人間としての偉さなんて、私には<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>も無い。偉い人間は、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>にきっぱりと意志表示が出来て、決して負けず、しくじらぬものらしい。私はいつでも口ごもり、ひどく誤解されて、たいてい負けて、そうして深夜ひとり寝床の中で、ああ、あの時にはこう言いかえしてやればよかった、しまった、あの時、<ruby><rb>颯</rb><rt>さ</rt></ruby>っと帰って来ればよかった、しまった、と後悔ほぞを<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>む思いに眠れず<ruby><rb>転輾</rb><rt>てんてん</rt></ruby>している有様なのだから、偉いどころか、最劣敗者とでもいうようなところだ。先日も、ある年少の友人に向って言った事だが、君は君自身に、どこかいいところがあると思っているらしいが、後代にまで名が残っている人たちは、もう君くらいの年齢の頃には万巻の書を読んでいるんだ、その書だって猿飛佐助だの鼠小僧だの、または探偵小説、恋愛小説、そんなもんじゃない、その時代に於いていかなる学者も未だ読んでいないような書を万巻読んでいるんだ、その点だけで君はすでに失格だ、それから腕力だって、例外なしにずば抜けて強かった、しかも決してそれを誇示しない、君は剣道二段だそうで、酒を飲むたびに僕に<ruby><rb>腕角力</rb><rt>うでずもう</rt></ruby>をいどむ癖があるけれども、あれは実にみっともない、あんな偉人なんて、あるものじゃない、名人達人というものは、たいてい非力の相をしているものだ、そうしてどこやら落ちついている、この点に於いても君は完全に失格だ、それから君は中学時代に不自然な行為をした事があるだろう、すでに失格、偉いやつはその生涯に於いて一度もそんな行為はしない、男子として、死以上の恥辱なのだ、それからまた、偉いやつは、やたらに淋しがったり泣いたりなんかしない、過剰な感傷がないのだ、平気で孤独に堪えている、君のようにお父さんからちょっと叱られたくらいでその孤独の苦しさを語り合いたいなんて、友人を訪問するような事はしない、女だって君よりは孤独に堪える力を持っている、女、三界に家なし、というじゃないか、自分がその家に生れても、いつかはお嫁に行かなければならぬのだから、父母の家も<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>わば<ruby><rb>寓居</rb><rt>ぐうきょ</rt></ruby>だ、お嫁に行ったって、家風に合わなければ離縁される事もあるのだし、離縁されたらこいつは悲惨だ、どこにも行くところがない、離縁されなくたって、夫が死んだら、どうなるか、子供があったら、まあその子供の家にお世話になるという事になるんだろうが、これだって自分の家ではない、寓居だ、そのように三界に家なしと言われる程の女が、別にその孤独を嘆ずるわけでもなし、あくせくと針仕事やお洗濯をして、夜になると、その他人の家で、すやすやと安眠しているじゃないか、たいした度胸だ、君は女にも劣るね、人類の最下等のものだ、君だって僕だって全く同等だが、とにかく自分が、偉いやつというものと、どれほど違うかという事を、いまのこの時代に、はっきり知って置かないといけないのではなかろうかと、なぜだか、そんな気がするのだがね、などとその自称天才詩人に笑いながら忠告を試みた事もある。このごろ私は、自分の駄目加減を事ある毎に知らされて、ただもう興覚めて<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>になるばかりだ。黙って虫のように勉強したいなどというてれくさい殊勝げの心も、すべてそこのところから発しているのだ。先日も、在郷軍人の分会査閲に、戦闘帽をかぶり、<ruby><rb>巻脚絆</rb><rt>まききゃはん</rt></ruby>をつけて参加したが、私の動作は五百人の中でひとり目立ってぶざまらしく、折敷さえ満足に出来ず、分会長には叱られ、面白くなくなって来て、おれはこんな場所ではこのように、へまであるが、出るところへ出れば相当の男なんだ、という事を示そうとして、ぎゅっと口を引締めて<ruby><rb>眥</rb><rt>まなじり</rt></ruby>を決し、分会長殿を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでやったが、一向にききめがなく、ただ、しょぼしょぼと<ruby><rb>憐憫</rb><rt>れんびん</rt></ruby>を乞うみたいな眼つきをしたくらいの効果しかなかったようである。私は第二国民兵の、しかも丙の部類であるから、その時の査閲には出なくてもよかったらしいのであるが、班長にすすめられて参加したのだ。服装というものは不思議なもので、第二国民兵の服装をしていると、どんな人でも、ねっからの第二国民兵に見えて来るもので、職業、年齢、知識、財産などのにおいは全然、消えてしまって、お医者も職工さんも重役も床屋さんも、みんな同年配の同資格の第二国民兵に見えて来るものである。まずしい身なりをしていても、さすがに人品骨柄いやしからず、こいつただものでない、などというのは、あれは講談で、第二国民兵の服装をしているからには、まさしくそのとおり第二国民兵であって、そこが軍律の有難いところで、いやしくも上官に向って高ぶる心を起させない。私はその日は、完全に第二国民兵以外の何者でもなかった。しかも<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る、操作拙劣の兵である。私ひとり参加した為に、私の小隊は大いに迷惑した様子であった。それほど私は、ぶざまだった。けれども、実に不慮の事件が突発した。査閲がすんで、査閲官の老大佐殿から、今日の諸君の成績は、まずまず良好であった。という御講評の言葉をいただき、

「最後に」と大佐殿は声を一段と高くして、「今日の査閲に、召集がなかったのに、みずからすすんで参加いたした感心の者があったという事を諸君にお知らせしたい。まことに美談というべきである。たのもしい心がけである。もちろん<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>は、ただちに上司にも報告するつもりである。ただいま、その者の名を呼びます。その者は、この五百人の会員全部に聞えるように、はっきりと、大きな声で返辞をしなさい。」

まことに奇特な人もあるものだ、その人は、いったい、どんな環境の人だろう、などと考えているうちに、名前が私の名だ。「はあい。」のどに<ruby><rb>痰</rb><rt>たん</rt></ruby>がからまっていたので、奇怪に<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた返辞であった。五百人はおろか、十人に聞えたかどうか、とにかく意気のあがらぬ返事であった。何かの間違い、と思ったが、また考え直してみると、事実無根というわけでもない。私はからだが悪くて丙の部類なのだが、班の人数が少なかったので、御近所の班長さんにすすめられて参加する事になったのだ。枯木も山の<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わいというところだったのだが、それが激賞されるほどの善行であったとは全く思いもかけない事であった。私は、みんなを、あざむいているような気がして、<ruby><rb>浅間</rb><rt>あさま</rt></ruby>しくてたまらなかった。査閲からの帰り路も、誰にも顔を合せられないような肩身のせまい心地で、表の路を避け、裏の<ruby><rb>田圃路</rb><rt>たんぼみち</rt></ruby>を顔を伏せて急いで歩いた。その夜、配給の五合のお酒をみんな飲んでみたが、ひどく気分が重かった。

「今夜は、ひどく黙り込んでいらっしゃるのね。」

「勉強するよ、僕は。」<ruby><rb>落下傘</rb><rt>らっかさん</rt></ruby>で降下して、草原にすとんと着く、しいんとしている。自分ひとり。さすがの勇士たちもこの時は淋しいそうだ。新聞の座談会で勇士のひとりがそう言っていた。そのような謂わば古井戸の底の孤独感を私もその夜、五合の酒を飲みながらしみじみ味った事である。操作きわめて拙劣の、小心翼々の三十五歳の老兵が、分会の模範としてほめられた事は、いかにも、なんとしても心苦しく、さすがの鉄面皮も、話ここに至っては、筆を投じて顔を覆わざるを得ないではないか。

（前略）そうして、この<ruby><rb>建暦</rb><rt>けんりゃく</rt></ruby>元年には、ようやく十二歳になられ、その時の別当<ruby><rb>定暁僧都</rb><rt>じょうぎょうそうず</rt></ruby>さまの御室に於いて<ruby><rb>落飾</rb><rt>らくしょく</rt></ruby>なされて、その法名を<ruby><rb>公暁</rb><rt>くぎょう</rt></ruby>と定められたのでございます。それは九月の十五日の事でございましたが御落飾がおすみになってから、尼御台さまに連れられて将軍家へ御挨拶に見えられ、私はその時はじめて此の禅師さまにお目にかかったというわけでございましたが、一口に申せば、たいへん<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>のいいお方でございました。幼い頃から世の<ruby><rb>辛酸</rb><rt>しんさん</rt></ruby>を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めて来た人に特有の、<ruby><rb>磊落</rb><rt>らいらく</rt></ruby>のように見えながらも、その笑顔には、どこか卑屈な気弱い影のある、あの、はにかむような笑顔でもって、お傍の私たちにまでいちいち<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>にお辞儀をお返しなさるのでした。無理に明るく無邪気に振舞おうと努めているようなところが、そのたった十二歳のお子の御態度の中にちらりと見えて、私は、おいたわしく思い、また暗い気持にもなりました。けれども<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に源家の御直系たる優れたお血筋は争われず、おからだも大きくたくましく、お顔は、将軍家の重厚なお顔だちに較べると少し<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>に過ぎてたよりない感じも致しましたが、やっぱり貴公子らしいなつかしい品位がございました。尼御台さまに甘えるように、ぴったり寄り添ってお坐りになり、そうして将軍家のお顔を仰ぎ見てただにこにこ笑って居られます。

その時将軍家は、私の気のせいか少し御不快の様に見受けられました。しばらくは何もおっしゃらず、例の如く少しお背中を丸くなさって伏目のまま、身動きもせず坐って居られましたが、やがてお顔を、もの憂そうにお挙げになり、

学問ハオ好キデスカ

と、ちょっと案外のお尋ねをなさいました。

「はい。」と尼御台さまは、かわってお答えになりました。「このごろは神妙のようでございます。」

無理カモ知レマセヌガ

とまた、うつむいて、低く<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くようにおっしゃって、

ソレダケガ生キル道デス