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        <title type="main" xml:lang="ja">津軽</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">つがる</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>太宰</surname><forename>治</forename><idno type="aozora-person-id">000035</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>だざい</surname><forename>おさむ</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Dazai</surname><forename>Osamu</forename></persName></author>
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        <bibl><title>太宰治全集第六巻</title><publisher>筑摩書房</publisher><date>1990（平成2）年4月27日</date><note type="input-edition">1990（平成2）年4月27日初版第1刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「新風土記叢書7　津輕」小山書店、1944（昭和19）年11月15日</bibl>
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      <classDecl><taxonomy xml:id="ndc"><bibl>日本十進分類法 (Nippon Decimal Classification), as recorded by <title>青空文庫</title> in its 分類番号 field.</bibl></taxonomy><taxonomy xml:id="aozora-orthography"><bibl><title>青空文庫</title> 文字遣い種別: the orthographic style Aozora Bunko records for the transcription.</bibl></taxonomy></classDecl>
      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
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          <p><seg source="#source-657-671">津軽の雪</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-671-685">こな雪</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-685-699">つぶ雪</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-699-713">わた雪</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-713-727">みづ雪</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-727-741">かた雪</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-741-758">ざらめ雪</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-758-775">こほり雪</seg></p>
          <p style="text-indent: 2em" rend="first-line-indent(2)"><seg source="#source-775-807">（東奥年鑑より）</seg></p>
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        <p><pb rend="kaicho" source="#source-849-864"/></p>
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        <head n="1" source="#source-868-925"><seg source="#source-889-895">序編</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-931-1455">或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであつた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1455-3428">金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといふ特徴もないが、どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば、水のやうに淡泊であり、悪く言へば、底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。それから三里ほど南下し、岩木川に沿うて五所川原といふ町が在る。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるやうだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善く言へば、活気のある町であり、悪く言へば、さわがしい町である。農村の匂ひは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらゐの小さい町にも既に幽かに忍びいつてゐる模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか。ここには、私の叔母がゐる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕つてゐたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。私は、中学校にはひるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかつたと言つてよい。やがて、青森の中学校に入学試験を受けに行く時、それは、わづか三、四時間の旅であつた筈なのに、私にとつては非常な大旅行の感じで、その時の興奮を私は少し脚色して小説にも書いた事があつて、その描写は必ずしも事実そのままではなく、かなしいお道化の虚構に満ちてはゐるが、けれども、感じは、だいたいあんなものだつたと思つてゐる。すなはち、</seg></p>
        <p>「誰にも知られぬ、このやうな佗びしいおしやれは、年一年と工夫に富み、村の小学校を卒業して馬車にゆられ汽車に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校の入学試験を受けるために出掛けたときの、そのときの少年の服装は、あはれに珍妙なものでありました。白いフランネルのシヤツは、よつぽど気に入つてゐたものとみえて、やはり、そのときも着てゐました。しかも、こんどのシヤツには蝶々の翅のやうな大きい襟がついてゐて、その襟を、夏の開襟シヤツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせてゐるのと、そつくり同じ様式で、着物の襟の外側にひつぱり出し、着物の襟に覆ひかぶせてゐるのです。なんだか、よだれ掛けのやうにも見えます。でも、少年は悲しく緊張して、その風俗が、そつくり貴公子のやうに見えるだらうと思つてゐたのです。久留米絣に、白つぽい縞の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに歿し、母は病身ゆゑ、少年の身のまはり一切は、やさしい嫂の心づくしでした。少年は、嫂に怜悧に甘えて、むりやりシヤツの襟を大きくしてもらつて、嫂が笑ふと本気に怒り、少年の美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口惜しく思ふのでした。『瀟洒、典雅。』少年の美学の一切は、それに尽きてゐました。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きてゐました。マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるやうに、あやふく羽織つて、さうしてそれを小粋な<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5333-5348"><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>だと信じてゐました。どこから、そんなことを覚えたのでせう。おしやれの本能といふものは、手本がなくても、おのづから発明するものかも知れません。ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとつては一世一代の凝つた身なりであつたわけです。興奮のあまり、その本州北端の一小都会に着いたとたんに少年の言葉つきまで一変してしまつてゐたほどでした。かねて少年雑誌で習ひ覚えてあつた東京弁を使ひました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやつぱり少年の生れ故郷と全く同じ、津軽弁でありましたので、少年はすこし拍子抜けがしました。生れ故郷と、その小都会とは、十里も離れてゐないのでした。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざつと三百二十年ほど前である。当時、すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり、明治四年の廃藩置県に依つて青森県の誕生すると共に、県庁所在地となつていまは本州の北門を守り、北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到つては知らぬ人もあるまい。現在戸数は二万以上、人口十万を越えてゐる様子であるが、旅人にとつては、あまり感じのいい町では無いやうである。たびたびの大火のために家屋が貧弱になつてしまつたのは致し方が無いとしても、旅人にとつて、市の中心部はどこか、さつぱり見当がつかない様子である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び、何事も旅人に呼びかけようとはしないやうである。旅人は、落ちつかぬ気持で、そそくさとこの町を通り抜ける。けれども私は、この青森市に四年ゐた。さうして、その四箇年は、私の生涯に於いて、たいへん重大な時期でもあつたやうである。その頃の私の生活に就いては、「思ひ出」といふ私の初期の小説にかなり克明に書かれてある。</p>
        <p>「いい成績ではなかつたが、私はその春、中学校へ受験して合格した。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織つて、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんのさげてあるその家へ、私はずつと世話になることになつてゐたのである。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8447-8740">私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持つてゐるが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると、私は笑ひながらそれへ軽く会釈をしたものである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8740-9174">それなのに、学校はちつとも面白くなかつた。校舎は、まちの端れにあつて、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにゐる教師たちは私をひどく迫害したのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9174-9959">私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だといふのであつた。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであつたが、お父さんがなくなつてよく勉強もできなかつたらう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であつただけに、私のこころはいつそう傷つけられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしてゐるとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびは大きいので職員室で評判である、とも言はれた。私はそんな莫迦げたことを話し合つてゐる職員室を、をかしく思つた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私と同じ町から来てゐる一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじつさい生意気さうに見える、あんなに殴られてばかりゐると落第するにちがひない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたひにひとり家路を急いだ。靴底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いてゐたら、鼠色のびつくりするほど大きい帆がすぐ眼の前をよろよろととほつて行つた。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10549-10663">この中学校は、いまも昔と変らず青森市の東端にある。ひらたい公園といふのは、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-10663-10684"><rb>合浦</rb><rt>がつぽ</rt></ruby><seg source="#source-10684-11646">公園の事である。さうしてこの公園は、ほとんど中学校の裏庭と言つてもいいほど、中学校と密着してゐた。私は冬の吹雪の時以外は、学校の行き帰り、この公園を通り抜け、海岸づたひに歩いた。謂はば裏路である。あまり生徒が歩いてゐない。私には、この裏路が、すがすがしく思はれた。初夏の朝は、殊によかつた。なほまた、私の世話になつた呉服店といふのは、寺町の豊田家である。二十代ちかく続いた青森市屈指の老舗である。ここのお父さんは先年なくなられたが、私はこのお父さんに実の子以上に大事にされた。忘れる事が出来ない。この二、三年来、私は青森市へ二、三度行つたが、その度毎に、このお父さんのお墓へおまゐりして、さうして必ず豊田家に宿泊させてもらふならはしである。</seg></p>
        <p>「私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる経験など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな気がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考へた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思ひ出し、また夢想した。そして、おしまひに溜息ついてかう考へた。えらくなれるかしら。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12800-12817">（中略）</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12817-13833">なにはさてお前は衆にすぐれてゐなければいけないのだ、といふ脅迫めいた考へからであつたが、じじつ私は勉強してゐたのである。三年生になつてからは、いつもクラスの首席であつた。てんとりむしと言はれずに首席となることは困難であつたが、私はそのやうな嘲りを受けなかつた許りか、級友を手ならす術まで心得てゐた。蛸といふあだなの柔道の主将さへ私には従順であつた。教室の隅に紙屑入の大きな壺があつて、私はときたまそれを指さして、蛸、つぼへはひらないかと言へば、蛸はその壺へ頭をいれて笑ふのだ。笑ひ声が壺に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついてゐた。私が顔の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切つた絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑しがらなかつた程なのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13833-14783">私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数も殖えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顔を撫でまはしてその有様をしらべた。いろいろな薬を買つてつけたが、ききめがないのである。私はそれを薬屋へ買ひに行くときには、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかつて、と他人から頼まれたふうにして言はなければいけなかつたのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考へて眼の先が暗くなるほど恥しかつた。いつそ死んでやつたらと思ふことさへあつた。私の顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達してゐた。他家へとついでゐた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に来るひとがあるまい、とまで言つてゐたさうである。私はせつせと薬をつけた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14783-16009">弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買ひに行つて呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願つたほどであつたけれど、かうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判つて来たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな気の弱々した文章であつた。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちになつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じてゐたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と対するときには、みんな押し隠して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合つた。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである。ふたりがどんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢つても、その糸はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言つた。大きい庭下駄をはいて、団扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は真暗い海に眼をやつたまま、赤い帯しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峡を渡つて来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に行つた。深い港の海に、雪がひそひそ降つてゐるのはいいものだ。最近は青森港も船舶輻湊して、この桟橋も船で埋つて景色どころではない。それから、隅田川に似た広い川といふのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川といふものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのやうに流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬へ方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとつて忘れがたい期間であつたとも言へるであらう。青森に就いての思ひ出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅虫といふ海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。やはりその「思ひ出」といふ小説の中に次のやうな一節がある。</p>
        <p>「秋になつて、私はその都会から汽車で三十分くらゐかかつて行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治してゐたのだ。私はずつとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才といふぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはひつて見せなければならなかつたのである。私の学校ぎらひはその頃になつて、いつそうひどかつたのであるが、何かに追はれてゐる私は、それでも一途に勉強してゐた。私はそこから汽車で学校へかよつた。日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私は友人たちと必ずピクニツクにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさへ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知つてゐたから、私たちはそれらを弟に教へてもらつて、声をそろへて歌つた。遊びつかれてその岩の上で眠つて、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだつた筈のその岩が、いつか離れ島になつてゐるので、私たちはまだ夢から醒めないでゐるやうな気がするのである。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20326-21352">いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言つてやりたいところでもあらうか。この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言へない。寒々した東北の漁村の趣は、それは当然の事で、決してとがむべきではないが、それでゐて、井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙な高慢を感じて閉口したのは私だけであらうか。自分の故郷の温泉であるから、思ひ切つて悪口を言ふのであるが、田舎のくせに、どこか、すれてゐるやうな、妙な不安が感ぜられてならない。私は最近、この温泉地に泊つた事はないけれども、宿賃が、おやと思ふほど高くなかつたら幸ひである。これは明らかに私の言ひすぎで、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、さうして貧しい芸術家の小さい</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-21352-21367"><rb>勘</rb><rt>かん</rt></ruby><seg source="#source-21367-22293">でものを言つてゐるだけで、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者に押しつけたくはないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないはうがいいかも知れない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直してゐるに違ひないと思はれる。ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この寒々した温泉地を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にゐて浅墓の幻影に酔はせた事があるのではあるまいかといふ疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、最近たびたび、この思ひ出の温泉地を汽車で通過しながら、敢へて下車しなかつたといふだけの話なのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22293-24290">津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉といふ事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在つて、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡つてゐるやうである。山麓の温泉である。ここには、津軽藩の歴史のにほひが幽かに残つてゐた。私の肉親たちは、この温泉地へも、しばしば湯治に来たので、私も少年の頃あそびに行つたが、浅虫ほど鮮明な思ひ出は残つてゐない。けれども、浅虫のかずかずの思ひ出は、鮮やかであると同時に、その思ひ出のことごとくが必ずしも愉快とは言へないのに較べて、大鰐の思ひ出は霞んではゐても懐しい。海と山の差異であらうか。私はもう、二十年ちかくも大鰐温泉を見ないが、いま見ると、やはり浅虫のやうに都会の残杯冷炙に宿酔してあれてゐる感じがするであらうか。私には、それは、あきらめ切れない。ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。そこが、まづ、私にとつてたのみの綱である。また、この温泉のすぐ近くに碇ヶ関といふところがあつて、そこは旧藩時代の津軽秋田間の関所で、したがつてこの辺には史蹟も多く、昔の津軽人の生活が根強く残つてゐるに相違ないのだから、そんなに易々と都会の風に席巻されようとは思はれぬ。さらにまた、最後のたのみの大綱は、ここから三里北方に弘前城が、いまもなほ天守閣をそつくり残して、年々歳々、陽春には桜花に包まれその健在を誇つてゐる事である。この弘前城が控へてゐる限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔ひするなどの事はあるまいと私は思ひ込んでゐたいのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24290-25792">弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、やうやく完成を見たのが、この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて、弘前、黒石の二藩にわかれて津軽を支配し、元禄七名君の中の巨擘とまでうたはれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども、七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ、藩の財政もまた窮乏の極度に達し、前途暗澹たるうちにも、八代信明、九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり、十一代順承の時代に到つてからくも危機を脱し、つづいて十二代承昭の時代に、めでたく藩籍を奉還し、ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては、また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが、いまは、弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて、この津軽の序編を結ぶ事にする。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25792-26806">私は、この弘前の城下に三年ゐたのである。弘前高等学校の文科に三年ゐたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝つてゐた。甚だ異様なものであつた。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄つて、さいしよは朝顔日記であつたらうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまつたけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とほり当時は覚え込んでゐたのである。どうしてそんな、がらにも無い奇怪な事をはじめたのか。私はその責任の全部を、この弘前市に負はせようとは思はないが、しかし、その責任の一斑は弘前市に引受けていただきたいと思つてゐる。義太夫が、不思議にさかんなまちなのである。ときどき素人の義太夫発表会が、まちの劇場でひらかれる。私も、いちど聞きに行つたが、まちの旦那たちが、ちやんと</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-26806-26827"><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby><seg source="#source-26827-26944">を着て、真面目に義太夫を唸つてゐる。いづれもあまり、上手ではなかつたが、少しも</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-26944-26962"><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>なところが無く、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸つてゐる。青森市にも昔から粋人が少くなかつたやうであるが、芸者たちから、兄さんうまいわね、と言はれたいばかりの端唄の稽古、または、自分の粋人振りを政策やら商策やらの武器として用ゐてゐる抜け目のない人さへあるらしく、つまらない芸事に何といふ事もなく馬鹿な大汗をかいて勉強致してゐるこの様な可憐な旦那は、弘前市の方に多く見かけられるやうに思はれる。つまり、この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残つてゐるらしいのである。永慶軍記といふ古書にも、「奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随ふ事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はず。」といふ言葉が記されてゐるさうだが、弘前の人には、そのやうな、ほんものの馬鹿意地があつて、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑ひになるといふ傾向があるやうだ。私もまた、ここに三年ゐたおかげで、ひどく懐古的になつて、義太夫に熱中してみたり、また、次のやうな浪曼性を発揮するやうな男になつた。次の文章は、私の昔の小説の一節であつて、やはりおどけた虚構には違ひないのであるが、しかし、凡その雰囲気に於いては、まづこんなものであつた、と苦笑しながら白状せざるを得ないのである。</p>
        <p>「喫茶店で、葡萄酒飲んでゐるうちは、よかつたのですが、そのうちに割烹店へ、のこのこはひつていつて芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚えたのです。少年はそれを別段、わるいこととも思ひませんでした。粋な、やくざなふるまひは、つねに最も高尚な趣味であると信じてゐました。城下まちの、古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行つてゐるうちに、少年のお洒落の本能はまたもむつくり頭をもたげ、こんどは、それこそ大変なことになりました。芝居で見た『め組の喧嘩』の鳶の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、けふはめつぽふ、きれえぢやねえか、などと言つてみたく、ワクワクしながら、その服装の準備にとりかかりました。紺の腹掛。あれは、すぐ手にはひりました。あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、かう懐手して歩くと、いつぱしの、やくざに見えます。角帯も買ひました。締め上げるときゆつと鳴る博多の帯です。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-29952-29976"><rb>唐桟</rb><rt>たうざん</rt></ruby><seg source="#source-29976-30111">の単衣を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらへてもらひました。鳶の者だか、ばくち打ちだか、お</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-30111-30126"><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby><seg source="#source-30126-32076">ものだか、わけのわからぬ服装になつてしまひました。統一が無いのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を与へるやうな服装だつたら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまではよかつたのですが、ふと少年は妙なことを考へました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピツチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいてゐるやうですけれど、あれを欲しいと思ひました。ひよつとこめ、と言つて、ぱつと裾をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が眼にしみるほど引き立ちます。さるまた一つでは、いけません。少年は、その股引を買ひ求めようと、城下まちを端から端まで走り廻りました。どこも無いのです。あのね、ほら、あの左官屋さんなんか、はいてゐるぢやないか、ぴちつとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して、呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩いたのですが、さあ、あれは、いま、と店の人たち笑ひながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑いころで、少年は、汗だくで捜し廻り、たうとう或る店の主人から、それは、うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、そこへ行つてお聞きになると、ひよつとしたらわかるかも知れません、といいこと教へられ、なるほど消防とは気がつかなかつた。鳶の者と言へば、火消しのことで、いまで言へば消防だ、なるほど道理だ、と勢ひ附いて、その教へられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消火ポンプが並べられてありました。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-32076-32094"><rb>纏</rb><rt>まとひ</rt></ruby>もあります。なんだか心細くなつて、それでも勇気を鼓舞して、股引ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答へて持つて来たものは、紺の木綿の股引には、ちがひ無いけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの赤線が縦にずんと引かれてゐました。流石にそれをはいて歩く勇気も無く、少年は淋しく股引をあきらめる他なかつたのです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32570-32828">さすがの馬鹿の本場に於いても、これくらゐの馬鹿は少かつたかも知れない。書き写しながら作者自身、すこし憂鬱になつた。この、芸者たちと一緒にごはんを食べた割烹店の在る花街を、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-32828-32846"><rb>榎</rb><rt>えのき</rt></ruby><seg source="#source-32846-33020">小路、とは言はなかつたかしら。何しろ二十年ちかく昔の事であるから、記憶も薄くなつてはつきりしないが、お宮の坂の下の、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-33020-33038"><rb>榎</rb><rt>えのき</rt></ruby><seg source="#source-33038-33170">小路、といふところだつたと覚えてゐる。また、紺の股引を買ひに汗だくで歩き廻つたところは、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-33170-33188"><rb>土手</rb><rt>どて</rt></ruby><seg source="#source-33188-34192">町といふ城下に於いて最も繁華な商店街である。それらに較べると、青森の花街の名は、浜町である。その名に個性がないやうに思はれる。弘前の土手町に相当する青森の商店街は、大町と呼ばれてゐる。これも同様のやうに思はれる。ついでだから、弘前の町名と、青森の町名とを次に列記してみよう。この二つの小都会の性格の相違が案外はつきりして来るかも知れない。本町、在府町、土手町、住吉町、桶屋町、銅屋町、茶畑町、代官町、萱町、百石町、上鞘師町、下鞘師町、鉄砲町、若党町、小人町、鷹匠町、五十石町、紺屋町、などといふのが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次のやうなものである。浜町、新浜町、大町、米町、新町、柳町、寺町、堤町、塩町、蜆貝町、新蜆貝町、浦町、浪打、栄町。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思つてゐるのでは決してない。鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ限つた町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にかう言つて教へてゐる。「自惚れちやいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行つてみろ。あれくらゐの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちやいけないぜ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言つてよいくらゐにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに依怙地にその封建性を自慢みたいにしてゐるのだらう。ひらき直つて言ふまでも無い事だが、九州、西国、大和などに較べると、この津軽地方などは、ほとんど一様に新開地と言つてもいいくらゐのものなのだ。全国に誇り得るどのやうな歴史を有してゐるのか。近くは明治御維新の時だつて、この藩からどのやうな勤皇家が出たか。藩の態度はどうであつたか。露骨に言へば、ただ、他藩の驥尾に附して進退しただけの事ではなかつたか。どこにいつたい誇るべき伝統があるのだ。けれども弘前人は頑固に何やら肩をそびやかしてゐる。さうして、どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はぬのである。この地方出身の陸軍大将一戸兵衛閣下は、帰郷の時には必ず、和服にセルの袴であつたといふ話を聞いてゐる。将星の軍装で帰郷するならば、郷里の者たちはすくさま目をむき肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言ふのがわかつてゐたから、賢明に、帰郷の時は和服にセルの袴ときめて居られたといふやうな話を聞いたが、全部が事実で無いとしても、このやうな伝説が起るのも無理がないと思はれるほど、弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるやうだ。何を隠さう、実は、私にもそんな仕末のわるい骨が一本あつて、そのためばかりでもなからうが、まあ、おかげで未だにその日暮しの長屋住居から浮かび上る事が出来ずにゐるのだ。数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37181-37216">汝を愛し、汝を憎む。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37216-37794">だいぶ弘前の悪口を言つたが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であつた。謂はば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このやうに津軽の悪口を言ふのである。他国の人が、もし私のこのやうな悪口を聞いて、さうして安易に津軽を見くびつたら、私はやつぱり不愉快に思ふだらう。なんと言つても、私は津軽を愛してゐるのだから。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37794-41486">弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられてゐる。桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれてゐるさうだ。弘前師団の司令部がある。お山参詣と言つて、毎年陰暦七月二十八日より八月一日に到る三日間、津軽の霊峰岩木山の山頂奥宮に於けるお祭りに参詣する人、数万、参詣の行き帰り躍りながらこのまちを通過し、まちは殷賑を極める。旅行案内記には、まづざつとそのやうな事が書かれてある。けれども私は、弘前市を説明するに当つて、それだけでは、どうしても不服なのである。それゆゑ、あれこれと年少の頃の記憶をたどり、何か一つ、弘前の面目を躍如たらしむるものを描写したかつたのであるが、どれもこれも、たわい無い思ひ出ばかりで、うまくゆかず、たうとう自分にも思ひがけなかつたひどい悪口など出て来て、作者みづから途方に暮れるばかりである。私はこの旧津軽藩の城下まちに、こだはりすぎてゐるのだ。ここは私たち津軽人の窮極の魂の拠りどころでなければならぬ筈なのに、どうも、それにしては、私のこれまでの説明だけでは、この城下まちの性格が、まだまだあいまいである。桜花に包まれた天守閣は、何も弘前城に限つた事ではない。日本全国たいていのお城は桜花に包まれてゐるではないか。その桜花に包まれた天守閣が傍に控へてゐるからとて、大鰐温泉が津軽の匂ひを保守できるとは、きまつてゐないではないか。弘前城が控へてゐる限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔するなどの事はあるまい、とついさつき、ばかに調子づいて書いた筈だが、いろいろ考へて、考へつめて行くと、それもただ、作者の美文調のだらしない感傷にすぎないやうな気がして来て、何もかも、たよりにならず、心細くなるばかりである。いつたいこの城下まちは、だらしないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら、県庁を他の新興のまちに奪はれてゐる。日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持つて行かざるを得なかつたところに、青森県の不幸があつたとさへ私は思つてゐる。私は決して青森市を特にきらつてゐるわけではない。新興のまちの繁栄を見るのも、また爽快である。私は、ただ、この弘前市の負けてゐながら、のほほん顔でゐるのが歯がゆいのである。負けてゐるものに、加勢したいのは自然の人情である。私は何とかして弘前市の肩を持つてやりたく、まつたく下手な文章ながら、あれこれと工夫して努めて書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得の強さを描写する事はつひに出来なかつた。重ねて言ふ。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国、どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感してゐるのであるが、それが何であるか、形にあらはして、はつきりこれと読者に誇示できないのが、くやしくてたまらない。この、もどかしさ。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">あれは春の夕暮だつたと記憶してゐるが、弘前高等学校の文科生だつた私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひつそりと展開してゐるのに気がつき、ぞつとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ、こんなところにも町があつた。年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-42356-42380"><rb>隠沼</rb><rt>こもりぬ</rt></ruby>」といふやうな感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したやうな気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思つた。とは言つても、これもまた私の、いい気な独り合点で、読者には何の事やらおわかりにならぬかも知れないが、弘前城はこの隠沼を持つてゐるから稀代の名城なのだ、といまになつては私も強引に押切るより他はない。隠沼のほとりに万朶の花が咲いて、さうして白壁の天守閣が無言で立つてゐるとしたら、その城は必ず天下の名城にちがひない。さうして、その名城の傍の温泉も、永遠に淳朴の気風を失ふ事は無いであらうと、ちかごろの言葉で言へば「希望的観測」を試みて、私はこの愛する弘前城と訣別する事にしよう。思へば、おのれの肉親を語る事が至難な業であると同様に、故郷の核心を語る事も容易に出来る業ではない。ほめていいのか、けなしていいのか、わからない。私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思ひ出を展開しながら、また、身のほど知らぬ冒涜の批評の蕪辞をつらねたが、果して私はこの六つの町を的確に語り得たか、どうか、それを考へると、おのづから憂鬱にならざるを得ない。罪万死に当るべき暴言を吐いてゐるかも知れない。この六つの町は、私の過去に於いて最も私と親しく、私の性格を創成し、私の宿命を規定した町であるから、かへつて私はこれらの町に就いて盲目なところがあるかも知れない。これらの町を語るに当つて、私は決して適任者ではなかつたといふ事を、いま、はつきり自覚した。以下、本編に於いて私は、この六つの町に就いて語る事は努めて避けたい気持である。私は、他の津軽の町を語らう。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-44527-45933">或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、といふ序編の冒頭の文章に、いよいよこれから引返して行くわけであるが、私はこの旅行に依つて、まつたく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。それまでは私は、本当に、あの六つの町の他は知らなかつたのである。小学校の頃、遠足に行つたり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見た事はあつたが、それは現在の私に、なつかしい思ひ出として色濃く残つてはゐないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰つても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラツパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかつたし、高等学校時代には、休暇になると必ず東京の、すぐ上の兄（この兄は彫刻を学んでゐたが、二十七歳で死んだ）その兄の家へ遊びに行つたし、高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それつきり十年も故郷へ帰らなかつたのであるから、このたびの津軽旅行は、私にとつて、なかなか重大の事件であつたと言はざるを得ない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-45933-46236">私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知つたかぶりの意見は避けたいと思ふ。私がそれを言つたところで、所詮は、一夜勉強の恥づかしい軽薄の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-46236-46257"><rb>鍍金</rb><rt>めつき</rt></ruby><seg source="#source-46257-46964">である。それらに就いて、くはしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きてゐる姿を、そのまま読者に伝へる事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まづまあ、及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。</seg></p>
        <p><pb rend="kaicho" source="#source-46964-46979"/></p>
      </div>
      <div>
        <head n="1" source="#source-46983-47040"><seg source="#source-47004-47010">本編</seg></head>
        <div type="layout" source="#source-47046-47130" style="padding-inline-start: 5em">
          <div>
            <head n="2" source="#source-47067-47130"><seg source="#source-47088-47100">一　巡礼</seg></head>
          </div>
        </div>
        <div>
          <p>「ね、なぜ旅に出るの？」</p>
          <p>「苦しいからさ。」</p>
          <p>「あなたの（苦しい）は、おきまりで、ちつとも信用できません。」</p>
          <p>「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」</p>
          <p>「それは、何の事なの？」</p>
          <p>「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の時が、一ばん大事で、」</p>
          <p>「さうして、苦しい時なの？」</p>
          <p>「何を言つてやがる。ふざけちやいけない。お前にだつて、少しは、わかつてゐる筈たがね。もう、これ以上は言はん。言ふと、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-47925-47943"><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>になる。おい、おれは旅に出るよ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-47996-48256">私もいい加減にとしをとつたせゐか、自分の気持の説明などは、気障な事のやうに思はれて、（しかも、それは、たいていありふれた文学的な虚飾なのだから）何も言ひたくないのである。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-48256-48549">津軽の事を書いてみないか、と或る出版社の親しい編輯者に前から言はれてゐたし、私も生きてゐるうちに、いちど、自分の生れた地方の隅々まで見て置きたくて、或る年の春、乞食のやうな姿で東京を出発した。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-48549-49961">五月中旬の事である。乞食のやうな、といふ形容は、多分に主観的の意味で使用したのであるが、しかし、客観的に言つたつて、あまり立派な姿ではなかつた。私には背広服が一着も無い。勤労奉仕の作業服があるだけである。それも仕立屋に特別に注文して作らせたものではなかつた。有り合せの木綿の布切を、家の者が紺色に染めて、ジヤンパーみたいなものと、ズボンみたいなものにでつち上げた何だか合点のゆかない見馴れぬ型の作業服なのである。染めた直後は、布地の色もたしかに紺であつた筈だが、一、二度着て外へ出たら、たちまち変色して、むらさきみたいな妙な色になつた。むらさきの洋装は、女でも、よほどの美人でなければ似合はない。私はそのむらさきの作業服に緑色のスフのゲートルをつけて、ゴム底の白いズツクの靴をはいた。帽子は、スフのテニス帽。あの洒落者が、こんな姿で旅に出るのは、生れてはじめての事であつた。けれども流石に背中のリユツクサツクには、母の形見を縫ひ直して仕立てた縫紋の一重羽織と大島の袷、それから仙台平の袴を忍ばせてゐた。いつ、どんな事があるかもわからない。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-49961-51238">十七時三十分上野発の急行列車に乗つたのだが、夜のふけると共に、ひどく寒くなつて来た。私は、そのジヤンパーみたいなものの下に、薄いシヤツを二枚着てゐるだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の外套を着て、膝掛けなどを用意して来てゐる人さへ、寒い、今夜はまたどうしたのかへんに寒い、と騒いでゐる。私にも、この寒さは意外であつた。東京ではその頃すでに、セルの単衣を着て歩いてゐる気早やな人もあつたのである。私は、東北の寒さを失念してゐた。私は手足を出来るだけ小さくちぢめて、それこそ全く亀縮の形で、ここだ、心頭滅却の修行はここだ、と自分に言ひ聞かせてみたけれども、暁に及んでいよいよ寒く、心頭滅却の修行もいまはあきらめて、ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい、と頗る現実的な事を一心に念ずる下品な有様となつた。青森には、朝の八時に着いた。Ｔ君が駅に迎へに来てゐた。私が前もつて手紙で知らせて置いたのである。</seg></p>
          <p>「和服でおいでになると思つてゐました。」</p>
          <p>「そんな時代ぢやありません。」私は努めて冗談めかしてさう言つた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-51398-51568">Ｔ君は、女のお子さんを連れて来てゐた。ああ、このお子さんにお土産を持つて来ればよかつたと、その時すぐに思つた。</seg></p>
          <p>「とにかく、私の家へちよつとお寄りになつてお休みになつたら？」</p>
          <p>「ありがたう。けふおひる頃までに、蟹田のＮ君のところへ行かうと思つてゐるんだけど。」</p>
          <p>「存じて居ります。Ｎさんから聞きました。Ｎさんも、お待ちになつてゐるやうです。とにかく、蟹田行のバスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-52012-52281">炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、といふ私のけしからぬ俗な念願は、奇蹟的に実現せられた。Ｔ君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこつて、さうして鉄瓶には一本お銚子がいれられてゐた。</seg></p>
          <p>「このたびは御苦労さまでした。」とＴ君は、あらたまつて私にお辞儀をして、「ビールのはうが、いいんでしたかしら。」</p>
          <p>「いや、お酒が。」私は低く咳ばらひした。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">Ｔ君は昔、私の家にゐた事がある。おもに鶏舎の世話をしてゐた。私と同じとしだつたので、仲良く遊んだ。「女中たちを呶鳴り散らすところが、あれの悪いやうな善いやうなところだ。」とその頃、祖母がＴ君を批評して言つたのを私は聞いて覚えてゐる。のちＴ君は青森に出て来て勉強して、それから青森市の或る病院に勤めて、患者からも、また病院の職員たちからも、かなり信頼されてゐた様子である。先年出征して、南方の孤島で戦ひ、病気になつて昨年帰還し、病気をなほしてまた以前の病院につとめてゐるのである。</p>
          <p>「戦地で一ばん、うれしかつた事は何かね。」</p>
          <p>「それは、」Ｔ君は言下に答へた。「戦地で配給のビールをコツプに一ぱい飲んだ時です。大事に大事に少しづつ吸ひ込んで、途中でコツプを唇から離して一息つかうと思つたのですが、どうしてもコツプが唇から離れないのですね。どうしても離れないのです。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-53659-53808">Ｔ君もお酒の好きな人であつた。けれども、いまは、少しも飲まない。さうして時々、軽く咳をしてゐる。</seg></p>
          <p>「どうだね、からだのはうは。」Ｔ君はずつと以前に一度、肋膜を病んだ事があつて、こんどそれが戦地で再発したのである。</p>
          <p>「こんどは銃後の奉公です。病院で病人の世話をするには、自分でも病気でいちど苦しんでみなければ、わからないところがあります。こんどは、いい体験を得ました。」</p>
          <p>「さすがに人間ができて来たやうだね。じつさい、胸の病気なんてものは、」と私は、少し酔つて来たので、おくめんも無く医者に医学を説きはじめた。「精神の病気なんだ。忘れちまへば、なほるもんだ。たまには大いに酒でも飲むさ。」</p>
          <p>「ええ、まあ、ほどよくやつてゐます。」と言つて、笑つた。私の乱暴な医学は、本職にはあまり信用されないやうであつた。</p>
          <p>「何か召上りませんか。青森にも、このごろは、おいしいおさかなが少くなつて。」</p>
          <p>「いや、ありがたう。」私は傍のお膳をぼんやり眺めながら、「おいしさうなものばかりぢやないか。手数をかけるね。でも、僕は、そんなにたべたくないんだ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">こんど津軽へ出掛けるに当つて、心にきめた事が一つあつた。それは、食ひ物に淡泊なれ、といふ事であつた。私は別に聖者でもなし、こんな事を言ふのは甚だてれくさいのであるが、東京の人は、どうも食ひ物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間のせゐか、武士は食はねど高楊枝などといふ、ちよつとやけくそにも似たあの馬鹿々々しい痩せ我慢の姿を滑稽に思ひながらも愛してゐるのである。何もことさらに楊枝まで使つてみせなくてもよささうに思はれるのだが、そこが男の意地である。男の意地といふものは、とかく滑稽な形であらはれがちのものである。東京の人の中には、意地も張りも無く、地方へ行つて、自分たちはいまほとんど餓死せんばかりの状態なのです、とひどく大袈裟に窮状を訴へ、さうして田舎の人の差し出す白米のごはんなどを拝んで食べて、お追従たらたら、何かもつと食べるものはありませんか、おいもですか、そいつは有難い、幾月ぶりでこんなおいしいおいもを食べる事でせう、ついでに少し家へ持つて帰りたいのですけれども、わけていただけませんでせうかしら、などと満面に卑屈の笑ひを浮べて歎願する人がたまにあるとかいふ噂を聞いた。東京の人みなが、確実に同量の食料の配給を受けてゐる筈である。その人ひとりが、特別に餓死せんばかりの状態なのは奇怪である。或いは胃拡張なのかも知れないが、とにかく食べ物の哀訴歎願は、みつともない。お国のため、などと開き直つた事は言はずとも、いつの世だつて、人間としての誇りは持ち堪へてゐたいものだ。東京の少数の例外者が、地方へ行つて、ひどく出鱈目に帝都の食料不足を訴へるので、地方の人たちは、東京から来た客人を、すべて食べものをあさりに来たものとして軽蔑して取扱ふやうになつたといふ噂も聞いた。私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない。姿こそ、むらさき色の乞食にも似てゐるが、私は真理と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない！　と東京の人全部の名誉のためにも、演説口調できざな大見得を切つてやりたいくらゐの決意をひめて津軽へ来たのだ。もし、誰か私に向つて、さあさ、このごはんは白米です、おなかが破れるほど食べて下さい、東京はひどいつて話ぢやありませんか、としんからの好意を以て言つてくれても、私は軽く一ぱいだけ食べて、さうしてかう言はうと思つてゐた。「なれたせゐか、東京のごはんのはうがおいしい。副食物だつて、ちやうど無くなつたと思つた頃に、ちやんと配給があります。いつのまにやら胃腑が撤収して小さくなつてゐるので、少したべると満腹します。よくしたもんですよ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">けれども私のそんなひねくれた用心は、まつたく無駄であつた。私は津軽のあちこちの知合ひの家を訪れたが、一人として私に、白いごはんですよ、腹の破れるほど食ひ溜めなさいなどと言つてくれた人は無かつた。殊にも、私の生家の八十八歳の祖母などに至つては、「東京は、おいしいものが何でもあるところだから、お前に、何かおいしいものを食べさせようと思つても困つてしまふな。瓜の粕漬でも食べさせたいが、どうしたわけだか、このごろ酒粕もとんと無いてば。」と面目なささうに言ふので、私は実に幸福な気がした。謂はば私は、食べ物などの事にはあまり敏感でないおつとりした人たちとばかり逢つたのである。私は自分の幸運を神に感謝した。あれも持つて行け、これも持つて行け、と私に食料品のお土産をしつこく押しつけた人も無かつた。おかげで私は軽いリユツクサツクを背負つて気楽に旅をつづける事が出来たのであるが、けれども帰京してみると、私の家には、それぞれの旅先の優しい人たちからの小包が、私よりもさきに一ぱいとどいてゐたので呆然とした。それは余談だが、とにかく、Ｔ君もそれ以上私に食べものをすすめはしなかつたし、東京の食べ物はどんな工合であるかなどといふ事は、一ぺんも話題にのぼらなかつた、おもな話題は、やはり、むかし二人が金木の家で一緒に遊んだ頃の思ひ出であつた。</p>
          <p>「僕は、しかし君を、親友だと思つてゐるんだぜ。」実に乱暴な、失敬な、いやみつたらしく<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-60091-60109"><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby><seg source="#source-60109-60270">つたらしい芝居気たつぷりの、思ひ上つた言葉である。私は言つてしまつて身悶えした。他に言ひかたが無いものか。</seg></p>
          <p>「それは、かへつて愉快ぢやないんです。」Ｔ君も敏感に察したやうである。「私は金木のあなたの家に仕へた者です。さうして、あなたは御主人です。さう思つていただかないと、私は、うれしくないんです。へんなものですね。あれから二十年も経つてゐますけれども、いまでもしよつちゆう金木のあなたの家の夢を見るんです。戦地でも見ました。鶏に餌をやる事を忘れた、しまつた！　と思つて、はつと夢から醒める事があります。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-60869-61775">バスの時間が来た。私はＴ君と一緒に外へ出た。もう寒くはない。お天気はいいし、それに、熱燗のお酒も飲んだし、寒いどころか、額に汗がにじみ出て来た。合浦公園の桜は、いま、満開だといふ話であつた。青森市の街路は白つぽく乾いて、いや、酔眼に映つた出鱈目な印象を述べる事は慎しまう。青森市は、いま造船で懸命なのだ。途中、中学時代に私がお世話になつた豊田のお父さんのお墓におまゐりして、バスの発着所にいそいだ。どうだね、君も一緒に蟹田へ行かないか、と昔の私ならば、気軽に言へたのでもあらうが、私も流石にとしをとつて少しは遠慮といふ事を覚えて来たせゐか、それとも、いや、気持のややこしい説明はよさう。つまり、お互ひ、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-61775-61796"><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby><seg source="#source-61796-61826">になつたのであらう。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-61826-61847"><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby><seg source="#source-61847-62392">といふものは侘しいものだ。愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、といふ発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。私は黙つて歩いてゐた。突然、Ｔ君のはうから言ひ出した。</seg></p>
          <p>「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Ｎさんの家で逢ひませう。」</p>
          <p>「病院のはうは？」</p>
          <p>「あしたは日曜です。」</p>
          <p>「なあんだ、さうか。早く言へばいいのに。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-62658-62743">私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残つてゐた。</seg></p>
        </div>
        <div type="layout" source="#source-62743-62827" style="padding-inline-start: 5em">
          <div>
            <head n="2" source="#source-62764-62827"><seg source="#source-62785-62797">二　蟹田</seg></head>
          </div>
        </div>
        <div>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-62831-63023">津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-63023-63050"><rb>後潟</rb><rt>うしろがた</rt></ruby><seg source="#source-63050-63053">、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-63053-63077"><rb>蓬田</rb><rt>よもぎた</rt></ruby><seg source="#source-63077-63089">、蟹田、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-63089-63116"><rb>平館</rb><rt>たひらだて</rt></ruby><seg source="#source-63116-63131">、一本木、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-63131-63155"><rb>今別</rb><rt>いまべつ</rt></ruby><seg source="#source-63155-63212">、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-63212-63233"><rb>三厩</rb><rt>みまや</rt></ruby><seg source="#source-63233-63410">に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-63410-63431"><rb>竜飛</rb><rt>たつぴ</rt></ruby>の部落にたどりつく。文字どほり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、ぎりぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いつさい避けなければならぬ。とにかく、この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。さうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言つてもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えてゐる様子である。ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々として目立つ建築物の一つであらう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になつてゐる。竹内運平といふ弘前の人の著した「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であつたとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、これらの事は、すべて私があとで調べて知つた事で、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、さうして私の中学時代の唯一の友人のＮ君がゐるといふ事だけしか知らなかつたのである。私がこんど津軽を行脚するに当つて、Ｎ君のところへも立寄つてごやくかいになりたく、前もつてＮ君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、「なんにも、おかまひ下さるな。あなたは、知らん振りをしてゐて下さい。お出迎へなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」といふやうな事を書いてやつた筈で、食べものには淡泊なれ、といふ私の自戒も、蟹だけには除外例を認めてゐたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しやこ、何の養分にもならないやうな食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かつた筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到つて、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちやつた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-66433-66579">蟹田のＮ君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。</seg></p>
          <p>「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、Ｎ君は、言ひにくさうにして言ふのである。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまつてゐるのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-66893-66914"><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>」の私は知つてゐるので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のやうに、リンゴ酒が割合ひ豊富だといふ噂を聞いてゐたのだ。</p>
          <p>「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-67242-67286">Ｎ君は、ほつとした面持で、</seg></p>
          <p>「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きぢやないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂ひのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、かう手紙にも書いてゐるのに相違ないから、リンゴ酒を出しませうと言ふのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらひになつた筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしてゐるのに違ひないと言つたんだ。」</p>
          <p>「でも、奥さんの言も当つてゐない事はないんだ。」</p>
          <p>「何を言つてる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか？　ビール？」</p>
          <p>「ビールは、あとのはうがいい。」私も少し図々しくなつて来た。</p>
          <p>「僕もそのはうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまはないから、すぐ持つて来てくれ。」</p>
        </div>
        <div type="layout" source="#source-68301-68659" style="padding-inline-start: 2em">
          <p><seg source="#source-68336-68398">何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。</seg></p>
          <p><seg source="#source-68398-68428">青雲倶に達せず、白髪</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-68428-68449"><rb>逓</rb><rt>たがひ</rt></ruby><seg source="#source-68449-68466">に相驚く。</seg></p>
          <p><seg source="#source-68466-68516">二十年前に別れ、三千里外に行く。</seg></p>
          <p><seg source="#source-68516-68522">此時</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-68522-68549"><rb>一盞</rb><rt>いつさん</rt></ruby><seg source="#source-68549-68623">無くんば、何を以てか平生を叙せん。　　（白居易）</seg></p>
        </div>
        <div>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私は、中学時代には、よその家へ遊びに行つた事は絶無であつたが、どういふわけか、同じクラスのＮ君のところへは、実にしばしば遊びに行つた。Ｎ君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿してゐた。私たちは毎朝、誘ひ合つて一緒に登校した。さうして、帰りには裏路の、海岸伝ひにぶらぶら歩いて、雨が降つても、あわてて走つたりなどはせず、全身濡れ鼠になつても平気で、ゆつくり歩いた。いま思へば二人とも、頗る鷹揚に、抜けたやうなところのある子であつた。そこが二人の友情の鍵かも知れなかつた。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持つて近くの山へ遊びに行つた。「思ひ出」といふ私の初期の小説の中に出て来る「友人」といふのはたいていこのＮ君の事なのである。Ｎ君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたやうである。私はＮ君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。Ｎ君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であつたが、しかし、私たちはほとんど毎日のやうに逢つて遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかつた。Ｎ君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、Ｎ君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。Ｎ君は不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思ふより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服してゐた。Ｎ君は、中学時代にも金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちよいちよい遊びに来て、さうして、この兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにＮ君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなつて帰郷した。家業を継いでからも、その不思議な人徳に依り、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になつてゐる模様なのである。その夜も、Ｎ君の家へこの地方の若い顔役が二、三人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んだけれども、Ｎ君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であつた。芭蕉翁の行脚掟として世に伝へられてゐるものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり、といふ一箇条があつたやうであるが、あの、論語の酒無量不及乱といふ言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞ひをするな、といふ意味に私は解してゐるので、敢へて翁の教へに従はうともしないのである。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。当り前の話ではないか。私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思はれる。よその家でごちそうになつて、さうして乱に及ぶなどといふ、それほどの馬鹿ではないつもりだ。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん、である。私は大いに飲んだ。なほまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諧の外、雑話すべからず、雑話出づれば居眠りして労を養ふべし、といふ条項もあつたやうであるが、私はこの掟にも従はなかつた。芭蕉翁の行脚は、私たち俗人から見れば、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑ひたくなるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらへて歩いてゐる。俳諸の聴講生に取りまかれてゐる講師ならば、それは俳諸の他の雑話を避けて、さうして雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であらうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらへるための旅ではなし、Ｎ君だつてまさか私から、文学の講義を聞かうと思つて酒席をまうけたわけぢやあるまいし、また、その夜、Ｎ君のお家へ遊びに来られた顔役の人たちだつて、私がＮ君の昔からの親友であるといふ理由で私にも多少の親しみを感じてくれて、盃の献酬をしてゐるといふやうな実情なのだから、私が開き直つて、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しかうして、雑談いづれば床柱を背にして狸寝入りをするといふのは、あまりおだやかな仕草ではないやうに思はれる。私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。かへつて気障なくらゐに努力して、純粋の津軽弁で話をした。さうして日常瑣事の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違ひないと思はれるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。（津島修治といふのは、私の生れた時からの戸籍名であつて、また、オズカスといふのは叔父糟といふ漢字でもあてはめたらいいのであらうか、三男坊や四男坊をいやしめて言ふ時に、この地方ではその言葉を使ふのである。）こんどの旅に依つて、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようといふ企画も、私に無いわけではなかつたのである。都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかまうとする念願である。言ひかたを変へれば、津軽人とは、どんなものであつたか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。さうして私は、実に容易に、随所に於いてそれを発見した。誰がどうといふのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思ひ上つた批評はゆるされない。それこそ、失礼きはまる事である。私はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見してゐるのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしてゐなかつたつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いてゐた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいふべきものを囁かれる事が実にしばしばあつたのである。私はそれを信じた。私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。それは当然の事で、私などには、それにこだはる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">慎しまうと思ひながら、つい、下手な感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言つてゐるのか、わからない場合が多い。嘘を言つてゐる事さへある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまづい虚飾を行つてゐるやうで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知つてゐながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言ひ出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさへ起させてしまふのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">その夜は、しかし、私はそのやうな下手な感懐をもらす事はせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいてゐるやうだつたけれども、居眠りもせず大いに雑談にのみ打興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。Ｎ君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでゐるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がつてゐるのに違ひないとお思ひになつた様子で、ご自分でせつせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかといふ、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがつたばかりの蟹なのであらう。もぎたての果実のやうに新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関心たれといふ自戒を平気で破つて、三つも四つも食べた。この夜、奥さんは、来る人来る人みんなにお膳を差し上げて、この土地の人でさへ、そのお膳の料理の豊潤に驚いてゐたくらゐであつた。顔役のお客さんたちが帰つてしまふと、私とＮ君は奥の座敷から茶の間へ酒席を移して、アトフキをはじめた。アトフキといふのは、この津軽地方に於いて、祝言か何か家に人寄せがあつた場合、お客が皆かへつた後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の宴の事であつて、或いは「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-79417-79438"><rb>後引</rb><rt>あとひ</rt></ruby>き」の訛かも知れない。Ｎ君は私よりも更にアルコールには強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂ひは無かつたが、</p>
          <p>「しかし、君も、」と私は、深い溜息をついて、「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-79769-79894">僕に酒を教へたのは、実に、このＮ君なのである。それは、たしかに、さうなのである。</seg></p>
          <p>「うむ。」とＮ君は盃を手にしたままで、真面目に首肯き、「僕だつて、ずいぶんその事に就いては考へてゐるんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかつたよ。でもね、このごろは、かう考へ直さうと努めてゐるんだ。あいつは、僕が教へなくたつて、ひとりで、酒飲みになつた奴に違ひない。僕の知つた事ではないと。」</p>
          <p>「ああ、さうなんだ。そのとほりなんだ。君に責任なんかありやしないよ。全く、そのとほりなんだ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-80537-80773">やがて奥さんも加り、お互ひの子供の事など語り合つて、しんみり、アトフキをやつてゐるうちに、突如、鶏鳴あかつきを告げたので、大いに驚いて私は寝所へ引上げた。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-80773-81717">翌る朝、眼をさますと、青森市のＴ君の声が聞えた。約束どほり、朝の一番のバスでやつて来てくれたのだ。私はすぐにはね起きた。Ｔ君がゐてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。Ｔ君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来てゐた。また、その病院の蟹田分院の事務長をしてゐるＳさんといふ人も一緒に来てゐた。私が顔を洗つてゐる間に、三厩の近くの今別から、Ｍさんといふ小説の好きな若い人も、私が蟹田に来る事をＮ君からでも聞いてゐたらしく、はにかんで笑ひながらやつて来られた。Ｍさんは、Ｎ君とも、またＴ君とも、Ｓさんとも旧知の間柄のやうである。これから、すぐ皆で、蟹田の山へ花見に行かうといふ相談が、まとまつた様子である。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-81720-81756"><rb>観瀾山</rb><rt>くわんらんざん</rt></ruby><seg source="#source-81756-84627">。私はれいのむらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのやうなものものしい身支度をする必要は全然なかつた。その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる。深さなどに就いては、国防上、言はぬはうがいいかも知れないが、浪は優しく砂浜を嬲つてゐる。さうして海浜のすぐ近くに網がいくつも立てられてゐて、蟹をはじめ、イカ、カレヒ、サバ、イワシ、鱈、アンカウ、さまざまの魚が四季を通じて容易に捕獲できる様子である。この町では、いまも昔と変らず、毎朝、さかなやがリヤカーにさかなを一ぱい積んで、イカにサバだぢやあ、アンカウにアオバだぢやあ、スズキにホツケだぢやあ、と怒つてゐるやうな大声で叫んで、売り歩いてゐるのである。さうして、この辺のさかなやは、その日にとれたさかなばかりを売り歩いて、前日の売れ残りは一さい取扱はないやうである。よそへ送つてしまふのかも知れない。だから、この町の人たちは、その日にとれた生きたさかなばかり食べてゐるわけであるが、しかし、海が荒れたりなどしてたつた一日でも漁の無かつた時には、町中に一尾のなまざかなも見当らず、町の人たちは、干物と山菜で食事をしてゐる。これは、蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、また、外ヶ浜だけとも限らず、津軽の西海岸の漁村に於いても、全く同様である。蟹田はまた、頗る山菜にめぐまれてゐるところのやうである。蟹田は海岸の町ではあるが、また、平野もあれば、山もある。津軽半島の東海岸は、山がすぐ海岸に迫つてゐるので、平野は乏しく、山の斜面に田や畑を開墾してゐるところも少くない状態なので、山を越えて津軽半島西部の広い津軽平野に住んでゐる人たちは、この外ヶ浜地方を、カゲ（山の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-84627-84642"><rb>陰</rb><rt>かげ</rt></ruby><seg source="#source-84642-85647">の意）と呼んで、多少、あはれんでゐる傾向が無いわけでもないやうに思はれる。けれども、この蟹田地方だけは、決して西部に劣らぬ見事な沃野を持つてゐるのだ。西部の人たちに、あはれまれてゐると知つたら、蟹田の人たちは、くすぐつたく思ふだらう。蟹田地方には、蟹田川といふ水量ゆたかな温和な川がゆるゆると流れてゐて、その流域に田畑が広く展開してゐるのである。ただこの地方には、東風も、西風も強く当るので不作のとしも少くないやうであるが、しかし、西部の人たちが想像してゐるほど、土地が痩せてはゐないのである。観瀾山から見下すと、水量たつぷりの蟹田川が長蛇の如くうねつて、その両側に一番打のすんだ水田が落ちつき払つて控へてゐて、ゆたかな、たのもしい景観をなしてゐる。山は奥羽山脈の支脈の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-85647-85671"><rb>梵珠</rb><rt>ぼんじゆ</rt></ruby><seg source="#source-85671-85719">山脈である。この山脈は津軽半島の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-85719-85740"><rb>根元</rb><rt>ねもと</rt></ruby><seg source="#source-85740-86511">から起つてまつすぐに北進して半島の突端の竜飛岬まで走つて海にころげ落ちる。二百メートルから三、四百メートルくらゐの低い山々が並んで、観瀾山からほぼまつすぐ西に青く聳えてゐる大倉岳は、この山脈に於いて増川岳などと共に最高の山の一つなのであるが、それとて、七百メートルあるかないかくらゐのものなのである。けれども、山高きが故に貴からず、樹木あるが故に貴し、とか、いやに興覚めなハツキリした事を断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の人たちは、敢へてその山脈の低きを恥ぢる必要もあるまい。この山脈は、全国有数の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-86511-86529"><rb>扁柏</rb><rt>ひば</rt></ruby>の産地である。その古い伝統を誇つてよい津軽の産物は、扁柏である。林檎なんかぢやないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらつて試植し、それから明治二十年代に到つてフランスの宣教師からフランス流の剪定法を教はつて、俄然、成績を挙げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはひつてからの事で、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼はまぐりほど軽薄な「産物」でも無いが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言へばすぐに林檎を思ひ出し、さうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないやうに見受けられる。青森県といふ名もそこから起つたのではないかと思はれるほど、津軽の山々には樹木が枝々をからませ合つて冬もなほ青く繁つてゐる。昔から、日本三大森林地の一つとして数へられてゐるやうであつて、昭和四年版の日本地理風俗大系にも、「そもそも、この津軽の大森林は遠く津軽藩祖為信の遺業に因し、爾来、厳然たる制度の下に今日なほその鬱蒼をつづけ、さうしてわが国の模範林制と呼ばれてゐる。はじめ天和、貞享の頃、津軽半島地方に於いて、日本海岸の砂丘数里の間に植林を行ひ、もつて潮風を防ぎ、またもつて岩木川下流地方の荒蕪開拓に資した。爾来、藩にてはこの方針を襲ひ、鋭意植林に努めた結果、寛永年間にはいはゆる屏風樹林の成木を見て、またこれに依つて耕地八千三百余町歩の開墾を見るに到つた。それより、藩内の各地は頻りに造林につとめ、百有余所の大藩有林を設けるに及んだ。かくて明治時代に到つても、官庁は大いに林政に注意し、青森県扁柏林の好評は世に嘖々として聞える。けだしこの地方の材質は、よく各種の建築土木の用途に適し、殊に水湿に耐へる特性を有すると、材木の産出の豊富なると、またその運搬に比較的便利なるとをもつて重宝がられ、年産額八十万石。」と記されてあるが、これは昭和四年版であるから、現在の産額はその三倍くらゐになつてゐると思はれる。けれども、以上は、津軽地方全体の扁柏林に就いての記述であつて、これを以つて特別に蟹田地方だけの自慢となす事は出来ないが、しかし、この観瀾山から眺められるこんもり繁つた山々は、津軽地方に於いても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田川の河口の大きな写真が出てゐて、さうして、その写真には、「この蟹田川附近には日本三美林の称ある扁柏の国有林があり、蟹田町はその積出港としてなかなか盛んな港で、ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。この地方の木材は良質でしかも安価なので知られてゐる。」といふ説明が附せられてある。蟹田の人たちは誇らじと欲するも得べけんやである。しかも、この津軽半島の脊梁をなす梵珠山脈は、扁柏ばかりでなく、杉、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-90129-90150"><rb>山毛欅</rb><rt>ぶな</rt></ruby>、楢、桂、橡、カラ松などの木材も産し、また、山菜の豊富を以て知られてゐるのである。半島の西部の金木地方も、山菜はなかなか豊富であるが、この蟹田地方も、ワラビ、ゼンマイ、ウド、タケノコ、フキ、アザミ、キノコの類が、町のすぐ近くの山麓から実に容易にとれるのである。このやうに蟹田町は、田あり畑あり、海の幸、山の幸にも恵まれて、それこそ鼓腹撃壌の別天地のやうに読者には思はれるだらうが、しかし、この観瀾山から見下した蟹田の町の気配は、何か物憂い。活気が無いのだ。いままで私は蟹田をほめ過ぎるほど、ほめて書いて来たのであるから、ここらで少し、悪口を言つたつて、蟹田の人たちはまさか私を殴りやしないだらうと思はれる。蟹田の人たちは温和である。温和といふのは美徳であるが、町をもの憂くさせるほど町民が無気力なのも、旅人にとつては心細い。天然の恵みが多いといふ事は、町勢にとつて、かへつて悪い事ではあるまいかと思はせるほど、蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかへつてゐる。河口の防波堤も半分つくりかけて投げ出したやうな形に見える。家を建てようとして地ならしをして、それつきり、家を建てようともせずその赤土の空地にかぼちやなどを植ゑてゐる。観瀾山から、それが全部見えるといふわけではないが、蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるやうに思はれる。町政の溌剌たる推進をさまたげる妙な古陋の策動屋みたいなものがゐるんぢやないか、と私はＮ君に尋ねたら、この若い町会議員は苦笑して、よせ、よせ、と言つた。つつしむべきは士族の商法、文士の政談。私の蟹田町政に就いての出しやばりの質問は、くろうとの町会議員の憫笑を招来しただけの馬鹿らしい結果に終つた。それに就いて、すぐ思ひ出される話はドガの失敗談である。フランス画壇の名匠エドガア・ドガは、かつてパリーの或る舞踊劇場の廊下で、偶然、大政治家クレマンソオと同じ長椅子に腰をおろした。ドガは遠慮も無く、かねて自己の抱懐してゐた高邁の政治談をこの大政治家に向つて開陳した。「私が、もし、宰相となつたならば、ですね、その責任の重大を思ひ、あらゆる恩愛のきづなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あたりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルに於いて残務の整理をし、睡魔の襲ふと共に、服も靴もぬがずに、そのままベツドにごろ寝をして、翌る朝、眼が覚めると直ちに立つて、立つたまま鶏卵とスープを喫し、鞄をかかへて役所へ行くといふ工合の生活をするに違ひない！」と情熱をこめて語つたのであるが、クレマンソオは一言も答へず、ただ、なんだか全く呆れはてたやうな軽蔑の眼つきで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであつたといふ。ドガ氏も、その眼つきには参つたらしい。よつぽど恥かしかつたと見えて、その失敗談は誰にも知らせず、十五年経つてから、彼の少数の友人の中でも一ばんのお気に入りだつたらしいヴアレリイ氏にだけ、こつそり打ち明けたのである。十五年といふひどく永い年月、ひた隠しに隠してゐたところを見ると、さすが傲慢不遜の名匠も、くろうと政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられて、それこそ骨のずいまでこたへたものがあつたのであらうと、そぞろ同情の念の胸にせまり来るを覚えるのである。とかく芸術家の政治談は、怪我のもとである。ドガ氏がよいお手本である。一個の貧乏文士に過ぎない私は、観瀾山の桜の花や、また津軽の友人たちの愛情に就いてだけ語つてゐるはうが、どうやら無難のやうである。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">その前日には西風が強く吹いて、Ｎ君の家の戸障子をゆすぶり、「蟹田つてのは、風の町だね。」と私は、れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしてゐたものだが、けふの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑ふかのやうな、おだやかな上天気である。そよとの風も無い。観瀾山の桜は、いまが最盛期らしい。静かに、淡く咲いてゐる。爛漫といふ形容は、当つてゐない。花弁も薄くすきとほるやうで、心細く、いかにも雪に洗はれて咲いたといふ感じである。違つた種類の桜かも知れないと思はせる程である。ノヴアリスの青い花も、こんな花を空想して言つたのではあるまいかと思はせるほど、幽かな花だ。私たちは桜花の下の芝生にあぐらをかいて坐つて、重箱をひろげた。これは、やはり、Ｎ君の奥さんのお料理である。他に、蟹とシヤコが、大きい竹の籠に一ぱい。それから、ビール。私はいやしく見られない程度に、シヤコの皮をむき、蟹の脚をしやぶり、重箱のお料理にも箸をつけた。重箱のお料理の中では、ヤリイカの胴にヤリイカの透明な卵をぎゆうぎゆうつめ込んで、そのままお醤油の附焼きにして輪切りにしてあつたのが、私にはひどくおいしかつた。帰還兵のＴ君は、暑い暑いと言つて上衣を脱ぎ半裸体になつて立ち上り、軍隊式の体操をはじめた。タオルの手拭ひで向う鉢巻きをしたその黒い顔は、ちよつとビルマのバーモオ長官に似てゐた。その日、集つた人たちは、情熱の程度に於いてはそれぞれ少しづつ相違があつたやうであるが、何か小説に就いての述懐を私から聞き出したいやうな素振りを見せた。私は問はれただけの事は、ハツキリ答へた。「問に答へざるはよろしからず。」といふれいの芭蕉翁の行脚の掟にしたがつたわけであるが、しかし、他のもつと重大な箇条には見事にそむいてしまつた。一、他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。私はその、甚だいやしい事を、やつちやつた。芭蕉だつて、他門の俳諸の悪口は、チクチク言つたに違ひないのであるが、けれども流石に私みたいに、たしなみも何も無く、眉をはね上げ口を曲げ、肩をいからして他の小説家を罵倒するなどといふあさましい事はしなかつたであらう。私は、にがにがしくも、そのあさましい振舞ひをしてしまつたのである。日本の或る五十年配の作家の仕事に就いて問はれて、私は、そんなによくはない、とつい、うつかり答へてしまつたのである。最近、その作家の過去の仕事が、どういふわけか、畏敬に近いくらゐの感情で東京の読書人にも迎へられてゐる様子で、神様、といふ妙な呼び方をする者なども出て来て、その作家を好きだと告白する事は、その読書人の趣味の高尚を証明するたづきになるといふへんな風潮さへ瞥見せられて、それこそ、贔屓の引きだふしと言ふもので、その作家は大いに迷惑して苦笑してゐるのかも知れないが、しかし、私はかねてその作家の奇妙な勢威を望見して、れいの津軽人の愚昧なる心から、「かれは賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々。」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従ふ事は出来なかつた。さうして、このごろに到つて、その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思つたが、格別、趣味の高尚は感じなかつた。かへつて、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思つたくらゐであつた。書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取つた一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生き方に就いてときどき「良心的」な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないはうがよいと思はれるくらゐで、「文学的」な青臭さから離れようとして、かへつて、それにはまつてしまつてゐるやうなミミツチイものが感ぜられた。ユウモアを心掛けてゐるらしい箇所も、意外なほどたくさんあつたが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きてゐるので読者は素直に笑へない。貴族的、といふ幼い批評を耳にした事もあつたが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きたふしである。貴族といふものは、だらしないくらゐ闊達なものではないかと思はれる。フランス革命の際、暴徒たちが王の居室にまで乱入したが、その時、フランス国王ルイ十六世、暗愚なりと雖も、からから笑つて矢庭に暴徒のひとりから革命帽を奪ひとり、自分でそれをひよいとかぶつて、フランス万歳、と叫んだ。血に飢ゑたる暴徒たちも、この天衣無縫の不思議な気品に打たれて、思はず王と共に、フランス万歳を絶叫し、王の身体には一指も触れずにおとなしく王の居室から退去したのである。まことの貴族には、このやうな無邪気なつくろはぬ気品があるものだ。口をひきしめて襟元をかき合せてすましてゐるのは、あれは、貴族の下男によくある型だ。貴族的なんて、あはれな言葉を使つちやいけない。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の作家の心酔者らしく、私に対して、その作家の事ばかり質問するので、たうとう私も芭蕉翁の行脚の掟を破つて、そのやうな悪口を言ひ、言ひはじめたら次第に興奮して来て、それこそ眉をはね上げ口を曲げる結果になつて、貴族的なんて、へんなところで脱線してしまつた。一座の人たちは、私の話に少しも同感の色を示さなかつた。「貴族的なんて、そんな馬鹿な事を私たちは言つてはゐません。」と今別から来たＭさんは、当惑の面持で、ひとりごとのやうにして言つた。酔漢の放言に閉口し切つてゐるといふやうなふうに見えた。他の人たちも、互ひに顔を見合せてにやにや笑つてゐる。</p>
          <p>「要するに、」私の声は悲鳴に似てゐた。ああ、先輩作家の悪口は言ふものでない。「男振りにだまされちやいかんといふ事だ。ルイ十六世は、史上まれに見る醜男だつたんだ。」いよいよ脱線するばかりである。</p>
          <p>「でも、あの人の作品は、私は好きです。」とＭさんは、イヤにはつきり宣言する。</p>
          <p>「日本ぢや、あの人の作品など、いいはうなんでせう？」と青森の病院のＨさんは、つつましく、取りなし顔に言ふ。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-102138-102194">私の立場は、いけなくなるばかりだ。</seg></p>
          <p>「そりや、いいはうかも知れない。まあ、いいはうだらう。しかし、君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言つてくれないのは、ひどいぢやないか。」私は笑ひながら<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-102446-102467"><rb>本音</rb><rt>ほんね</rt></ruby><seg source="#source-102467-102484">を吐いた。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-102484-102576">みんな微笑した。やはり、本音を吐くに限る、と私は図に乗り、</seg></p>
          <p>「僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いてゐるんだ。その大望が重すぎて、よろめいてゐるのが僕の現在のこの姿だ。君たちには、だらしのない無智な薄汚い姿に見えるだらうが、しかし僕は本当の気品といふものを知つてゐる。松葉の形の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-102936-102963"><rb>干菓子</rb><rt>ひぐわし</rt></ruby>を出したり、青磁の壺に水仙を投げ入れて見せたつて、僕はちつともそれを上品だとは思はない。成金趣味だよ、失敬だよ。本当の気品といふものは、真黒いどつしりした大きい岩に白菊一輪だ。土台に、むさい大きい岩が無くちや駄目なもんだ。それが本当の上品といふものだ。君たちなんか、まだ若いから、針金で支へられたカーネーシヨンをコツプに投げいれたみたいな女学生くさいリリシズムを、芸術の気品だなんて思つてゐやがる。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">暴言であつた。「他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。」この翁の行脚の掟は、厳粛の真理に似てゐる。じつさい、甚だいやしいものだ。私にはこのいやしい悪癖があるので、東京の文壇に於いても、皆に不愉快の感を与へ、薄汚い馬鹿者として遠ざけられてゐるのである。「まあ、仕様が無いや。」と私は、うしろに両手をついて仰向き、「僕の作品なんか、まつたく、ひどいんだからな。何を言つたつて、はじまらん。でも、君たちの好きなその作家の十分の一くらゐは、僕の仕事をみとめてくれてもいいぢやないか。君たちは、僕の仕事をさつぱりみとめてくれないから、僕だつて、あらぬ事を口走りたくなつて来るんだ。みとめてくれよ。二十分の一でもいいんだ。みとめろよ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-104563-104715">みんな、ひどく笑つた。笑はれて、私も、気持がたすかつた。蟹田分院の事務長のＳさんが、腰を浮かして、</seg></p>
          <p>「どうです。この辺で、席を変へませんか。」と、世慣れた人に特有の慈悲深くなだめるやうな口調で言つた。蟹田町で一ばん大きいＥといふ旅館に、皆の昼飯の仕度をさせてあるといふ。いいのか、と私はＴ君に眼でたづねた。</p>
          <p>「いいんです。ごちそうになりませう。」Ｔ君は立ち上つて上衣を着ながら、「僕たちが前から計画してゐたのです。Ｓさんが配給の上等酒をとつて置いたさうですから、これから皆で、それをごちそうになりに行きませう。Ｎさんのごちそうにばかりなつてゐては、いけません。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-105409-105549">私はＴ君の言ふ事におとなしく従つた。だから、Ｔ君が傍についてゐてくれると、心強いのである。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-105549-106214">Ｅといふ旅館は、なかなか綺麗だつた。部屋の床の間も、ちやんとしてゐたし、便所も清潔だつた。ひとりでやつて来て泊つても、わびしくない宿だと思つた。いつたいに、津軽半島の東海岸の旅館は、西海岸のそれと較べると上等である。昔から多くの他国の旅人を送り迎へした伝統のあらはれかも知れない。昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出する事になつてゐたので、この外ヶ浜街道はそのための全国の旅人を朝夕送迎してゐたのである。旅館のお膳にも蟹が附いてゐた。</seg></p>
          <p>「やつぱり、蟹田だなあ。」と誰か言つた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-106276-106524">Ｔ君はお酒を飲めないので、ひとり、さきにごはんを食べたが、他の人たちは、皆、Ｓさんの上等酒を飲み、ごはんを後廻しにした。酔ふに従つてＳさんは、上機嫌になつて来た。</seg></p>
          <p>「私はね、誰の小説でも、みな一様に好きなんです。読んでみると、みんな面白い。なかなか、どうして、上手なものです。だから私は、小説家つてやつを好きで仕様が無いんです。どんな小説家でも、好きで好きでたまらないんです。私は、子供を、男の子で三つになりましたがね、こいつを小説家にしようと思つてゐるんです。名前も、文男と附けました。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-107010-107025"><rb>文</rb><rt>ぶん</rt></ruby><seg source="#source-107025-107028">の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-107028-107046"><rb>男</rb><rt>をとこ</rt></ruby>と書きます。頭の恰好が、どうも、あなたに似てゐるやうです。失礼ながら、そんな工合に、はちが開いてゐるやうな形なのです。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-107228-107713">私の頭が、鉢が開いてゐるとは初耳であつた。私は、自分の容貌のいろいろさまざまの欠点を残りくま無く知悉してゐるつもりであつたが、頭の形までへんだとは気がつかなかつた。自分で気の附かない欠点がまだまだたくさんあるのではあるまいかと、他の作家の悪口を言つた直後でもあつたし、ひどく不安になつて来た。Ｓさんは、いよいよ上機嫌で、</seg></p>
          <p>「どうです。お酒もそろそろ無くなつたやうですし、これから私の家へみんなでいらつしやいませんか。ね。ちよつとでいいんです。うちの女房にも、文男にも、逢つてやつて下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね。」と、しきりに私を誘惑するのである。御好志はありがたかつたが、私は頭の鉢以来、とみに意気が沮喪して、早くＮ君の家へ引上げて、一寝入りしたかつた。Ｓさんのお家へ行つて、こんどは頭の鉢どころか、頭の内容まで見破られ、ののしられるやうな結果になるのではあるまいかと思へばなほさら気が重かつた。私は、れいに依つてＴ君の顔色を伺つた。Ｔ君が行けと言へば、これは、行かなくてはなるまいと覚悟してゐた。Ｔ君は、真面目な顔をしてちよつと考へ、</p>
          <p>「行つておやりになつたら？　Ｓさんは、けふは珍らしくひどく酔つてゐるやうですが、ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみにして待つてゐたのです。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私は行く事にした。頭の鉢にこだはる事は、やめた。あれはＳさんが、ユウモアのつもりでおつしやつたのに違ひないと思ひ直した。どうも、容貌に自信が無いと、こんなつまらぬ事にもくよくよしていけない。容貌に就いてばかりでなく、私にいま最も欠けてゐるものは「自信」かも知れない。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">Ｓさんのお家へ行つて、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさへ少しめんくらつた。Ｓさんは、お家へはひるなり、たてつづけに奥さんに用事を言ひつけるのである。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰つて人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよからう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んぢやつたんだ。リンゴ酒を持つて来い。なんだ、一升しか無いのか。少い！　もう二升買つて来い。待て。その縁側にかけてある<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-110080-110101"><rb>干鱈</rb><rt>ひだら</rt></ruby><seg source="#source-110101-110137">をむしつて、待て、それは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-110137-110161"><rb>金槌</rb><rt>かなづち</rt></ruby>でたたいてやはらかくしてから、むしらなくちや駄目なものなんだ。待て、そんな手つきぢやいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合ひに、こんな工合ひに、あ、痛え、まあ、こんな工合ひだ。おい、醤油を持つて来い。干鱈には醤油をつけなくちや駄目だ。コツプが一つ、いや二つ足りない。早く持つて来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買つて来い、待て、坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらふんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいてゐるといふんでせう。あなたの頭の形に似てゐると思ふんですがね。しめたものです。おい、坊やをあつちへ連れて行け。うるさくてかなはない。お客さんの前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬ぢやないか。成金趣味だぞ。早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまふぢやないか。待て、お前はここにゐてサアヴイスをしろ。さあ、みんなにお酌。リンゴ酒は隣りのをばさんに頼んで買つて来てもらへ。をばさんは、砂糖をほしがつてゐたから少しわけてやれ。待て、をばさんにやつちやいかん。東京のお客さんに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちやいけないよ。全部、差し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んで紐でゆはへて差し上げろ。子供を泣かせちや、いかん。失敬ぢやないか。成金趣味だぞ。貴族つてのはそんなものぢやないんだ。待て。砂糖はお客さんがお帰りの時でいいんだつてば。音楽、音楽。レコードをはじめろ。シユーベルト、シヨパン、バツハ、なんでもいい。音楽を始めろ。待て。なんだ、それは、バツハか。やめろ。うるさくてかなはん。話も何も出来やしない。もつと静かなレコードを掛けろ、待て、食ふものが無くなつた。アンコーのフライを作れ。ソースがわが家の自慢と来てゐる。果してお客さんのお気に召すかどうか、待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食へないものだ。さうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-112749-112908">私は決して誇張法を用みて描写してゐるのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-112908-112929"><rb>干鱈</rb><rt>ひだら</rt></ruby><seg source="#source-112929-114222">といふのは、大きい鱈を吹雪にさらして凍らせて干したもので、芭蕉翁などのよろこびさうな軽い閑雅な味のものであるが、Ｓさんの家の縁側には、それが五、六本つるされてあつて、Ｓさんは、よろよろと立ち上り、それを二、三本ひつたくつて、滅多矢鱈に鉄槌で乱打し、左の親指を負傷して、それから、ころんで、這ふやうにして皆にリンゴ酒を注いで廻り、頭の鉢の一件も、決してＳさんは私をからかふつもりで言つたのではなく、また、ユウモアのつもりで言つたのでもなかつたのだといふ事が私にはつきりわかつて来た。Ｓさんは、鉢のひらいた頭といふものを、真剣に尊敬してゐるらしいのである。いいものだと思つてゐるらしいのである。津軽人の愚直可憐、見るべしである。さうして、つひには、卵味噌、卵味噌と連呼するに到つたのであるが、この卵味噌のカヤキなるものに就いては、一般の読者には少しく説明が要るやうに思はれる。津軽に於いては、牛鍋、鳥鍋の事をそれぞれ、牛のカヤキ、鳥のカヤキといふ工合に呼ぶのである。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-114222-114246"><rb>貝焼</rb><rt>かひやき</rt></ruby><seg source="#source-114246-115548">の訛りであらうと思はれる。いまはさうでもないやうだけれど、私の幼少の頃には、津軽に於いては、肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用ゐてゐた。貝殻から幾分ダシが出ると盲信してゐるところも無いわけではないやうであるが、とにかく、これは先住民族アイヌの遺風ではなからうかと思はれる。私たちは皆、このカヤキを食べて育つたのである。卵味噌のカヤキといふのは、その貝の鍋を使ひ、味噌に鰹節をけづつて入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、実は、これは病人の食べるものなのである。病気になつて食がすすまなくなつた時、このカヤキの卵味噌をお粥に載せて食べるのである。けれども、これもまた津軽特有の料理の一つにはちがひなかつた。Ｓさんは、それを思ひつき、私に食べさせようとして連呼してゐるのだ。私は奥さんに、もうたくさんですから、と拝むやうに頼んでＳさんの家を辞去した。読者もここに注目をしていただきたい。その日のＳさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-115548-115572"><rb>生粋</rb><rt>きつすい</rt></ruby><seg source="#source-115572-117453">の津軽人のそれである。これは私に於いても、Ｓさんと全く同様な事がしばしばあるので、遠慮なく言ふ事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなつてしまふのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、さうして電燈に頭をぶつけて電燈の笠を割つたりなどした経験さへ私にはある。食事中に珍客があらはれた場合に、私はすぐに箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら玄関に出るので、かへつてお客に顔をしかめられる事がある。お客を待たせて、心静かに食事をつづけるなどといふ芸当は私には出来ないのである。さうしてＳさんの如く、実質に於いては、到れりつくせりの心づかひをして、さうして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になつて、かへつて後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどといふ事になるのである。ちぎつては投げ、むしつては投げ、取つて投げ、果ては自分の命までも、といふ愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかへつて無礼な暴力的なもののやうに思はれ、つひには敬遠といふ事になるのではあるまいか、と私はＳさんに依つて私自身の宿命を知らされたやうな気がして、帰る途々、Ｓさんがなつかしく気の毒でならなかつた。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。東京の人は、ただ妙にもつたいぶつて、チヨツピリづつ料理を出すからなあ。ぶえんの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-117453-117477"><rb>平茸</rb><rt>ひらたけ</rt></ruby>ではないけれど、私も木曾殿みたいに、この愛情の過度の露出のゆゑに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。「かい給へ、かい給へや。」とぞ責めたりける、である。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">後で聞いたが、Ｓさんはそれから一週間、その日の卵味噌の事を思ひ出すと恥づかしくて酒を飲まずには居られなかつたといふ。ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人といふものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思ひやりを持つてゐる。その抑制が、事情に依つて、どつと堰を破つて奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなつて、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう。」といそがす形になつてしまつて、軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になるのである。Ｓさんはその翌日、小さくなつて酒を飲み、そこへ一友人がたづねて行つて、</p>
          <p>「どう？　あれから奥さんに叱られたでせう？」と笑ひながら尋ねたら、Ｓさんは、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ。」と答へたといふ。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-118869-118918">叱られるつもりでゐるらしい。</seg></p>
        </div>
        <div type="layout" source="#source-118918-119005" style="padding-inline-start: 5em">
          <div>
            <head n="2" source="#source-118939-119005"><seg source="#source-118960-118975">三　外ヶ浜</seg></head>
          </div>
        </div>
        <div>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-119009-119398">Ｓさんの家を辞去してＮ君の家へ引上げ、Ｎ君と私は、さらにまたビールを飲み、その夜はＴ君も引きとめられてＮ君の家へ泊る事になつた。三人一緒に奥の部屋に寝たのであるが、Ｔ君は翌朝早々、私たちのまだ眠つてゐるうちにバスで青森へ帰つた。勤めがいそがしい様子である。</seg></p>
          <p>「咳をしてゐたね。」Ｔ君が起きて身支度をしながらコンコンと軽い咳をしてゐたのを、私は眠つてゐながらも耳ざとく聞いてへんに悲しかつたので、起きるとすぐにＮ君にさう言つた。Ｎ君も起きてズボンをはきながら、</p>
          <p>「うん、咳をしてゐた。」と厳粛な顔をして言つた。酒飲みといふものは、酒を飲んでゐない時にはひどく厳粛な顔をしてゐるものである。いや、顔ばかりではないかも知れない。心も、きびしくなつてゐるものである。「あまり、いい咳ぢやなかつたね。」Ｎ君も、さすがに、眠つてゐるやうではあつても、ちやんとそれを聞き取つてゐたのである。</p>
          <p>「気で押すさ。」とＮ君は突き放すやうな口調で言つて、ズボンのバンドをしめ上げ、「僕たちだつて、なほしたんぢやないか。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-120355-120552">Ｎ君も、私も、永い間、呼吸器の病気と闘つて来たのである。Ｎ君はひどい喘息だつたが、いまはそれを完全に克服してしまつた様子である。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-120552-121028">この旅行に出る前に、満洲の兵隊たちのために発行されてゐる或る雑誌に短篇小説を一つ送る事を約束してゐて、その締切がけふあすに迫つてゐたので、私はその日一日と、それから翌る日一日と、二日間、奥の部屋を借りて仕事をした。Ｎ君も、その間、別棟の精米工場で働いてゐた。二日目の夕刻、Ｎ君は私の仕事をしてゐる部屋へやつて来て、</seg></p>
          <p>「書けたかね。二、三枚でも書けたかね。僕のはうは、もう一時間経つたら、完了だ。一週間分の仕事を二日でやつてしまつた。あとでまた遊ばうと思ふと気持に張合ひが出て、仕事の能率もぐんと上るね。もう少しだ。最後の馬力をかけよう。」と言つて、すぐ工場のはうへ行き、十分も経たぬうちに、また私の部屋へやつて来て、</p>
          <p>「書けたかね。僕のはうは、もう少しだ。このごろは機械の調子もいいんだ。君は、まだうちの工場を見た事が無いだらう。汚い工場だよ。見ないはうがいいかも知れない。まあ、精を出さう。僕は工場のはうにゐるからね。」と言つて帰つて行くのである。鈍感な私も、やつと、その時、気がついた。Ｎ君は私に、工場で働いてゐる彼の甲斐甲斐しい姿を見せたいのに違ひない。もうすぐ彼の仕事が終るから、終らないうちに見に来い、といふ謎であつたのだ。私はそれに気が附いて微笑した。いそいで仕事を片附け、私は、道路を隔て別棟になつてゐる精米工場に出かけた。Ｎ君は継ぎはぎだらけのコール天の上衣を着て、目まぐるしく廻転する巨大な精米機の傍に、両腕をうしろにまはし、仔細らしい顔をして立つてゐた。</p>
          <p>「さかんだね。」と私は大声で言つた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-122522-122590">Ｎ君は振りかへり、それは嬉しさうに笑つて、</seg></p>
          <p>「仕事は、すんだか。よかつたな。僕のはうも、もうすぐなんだ。はひり給へ。下駄のままでいい。」と言ふのだが、私は、下駄のままで精米所へのこのこはひるほど無神経な男ではない。Ｎ君だつて、清潔な藁草履とはきかへてゐる。そこらを見廻しても、上草履のやうなものも無かつたし、私は、工場の門口に立つて、ただ、にやにや、笑つてゐた。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-123067-123088"><rb>裸足</rb><rt>はだし</rt></ruby><seg source="#source-123088-123381">になつてはひらうかとも思つたが、それはＮ君をただ恐縮させるばかりの大袈裟な偽善的な仕草に似てゐるやうにも思はれて、裸足にもなれなかつた。私には、常識的な善事を行ふに当つて、甚だてれる悪癖がある。</seg></p>
          <p>「ずいぶん大がかりな機械ぢやないか。よく君はひとりで操縦が出来るね。」お世辞では無かつた。Ｎ君も、私と同様、科学的知識に於いては、あまり達人ではなかつたのである。</p>
          <p>「いや、簡単なものなんだ。このスヰツチをかうすると、」などと言ひながら、あちこちのスヰツチをひねつて、モーターをぴたりと止めて見せたり、また籾殻の吹雪を現出させて見せたり、出来上りの米を瀑布のやうにざつと落下させて見せたり自由自在にその巨大な機械をあやつつて見せるのである。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ふと私は、工場のまん中の柱に張りつけられてある小さいポスターに目をとめた。お銚子の形の顔をした男が、あぐらをかき腕まくりして大盃を傾け、その大盃には家や土蔵がちよこんと載つてゐて、さうしてその妙な画には、「酒は身を飲み家を飲む」といふ説明の文句が印刷されてあつた。私は、そのポスターを永い事、見つめてゐたので、Ｎ君も気がついたか、私の顔を見てにやりと笑つた。私もにやりと笑つた。同罪の士である。「どうもねえ。」といふ感じなのである。私はそんなポスターを工場の柱に張つて置くＮ君を、いぢらしく思つた。誰か大酒を恨まざる、である。私の場合は、あの大盃に、私の貧しい約二十種類の著書が載つてゐるといふ按配なのである。私には、飲むべき家も蔵も無い。「酒は身を飲み著書を飲む」とでも言ふべきところであらう。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-125088-125246">工場の奥に、かなり大きい機械が二つ休んでゐる。あれは何？　とＮ君に聞いたら、Ｎ君は幽かな溜息をついて、</seg></p>
          <p>「あれは、なあ、縄を作る機械と、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-125294-125312"><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を作る機械なんだが、なかなか操作がむづかしくて、どうも僕の手には負へないんだ。四、五年前、この辺一帯ひどい不作で、精米の依頼もばつたり無くなつて、いや、困つてねえ、毎日毎日、炉傍に坐つて煙草をふかして、いろいろ考へた末、こんな機械を買つて、この工場の隅で、ばつたんばつたんやつてみたのだが、僕は不器用だから、どうしても、うまくいかないんだ。淋しいもんだつたよ。結局一家六人、ほそぼそと寝食ひさ。あの頃は、もう、どうなる事かと思つたね。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">Ｎ君には、四歳の男の子がひとりある他に、死んだ妹さんの子供をも三人あづかつてゐるのだ。妹さんの御亭主も、北支で戦死をなさつたので、Ｎ君夫妻は、この三人の遺児を当然の事として育て、自分の子供と全く同様に可愛がつてゐるのだ。奥さんの言に依れば、Ｎ君は可愛がりすぎる傾きさへあるさうだ。三人の遺児のうち、一番の総領は青森の工業学校にはひつてゐるのださうで、その子が或る土曜日に青森から七里の道をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中の十二時頃に蟹田の家へたどり着き、伯父さん、伯父さん、と言つて玄関の戸を叩き、Ｎ君は飛び起きて玄関をあけ、無我夢中でその子の肩を抱いて、歩いて来たのか、へえ、歩いて来たのか、と許り言つてものも言へず、さうして、奥さんを矢鱈に叱り飛ばして、それ、砂糖湯を飲ませろ、餅を焼け、うどんを温めろと、矢継早に用事を言ひつけ、奥さんは、この子は疲れて眠いでせうから、と言ひかけたら、「な、なにい！」と言つて頗る大袈裟に奥さんに向つてこぶしを振り上げ、あまりにどうも珍妙な喧嘩なので、甥のその子が、ぷつと噴き出して、Ｎ君もこぶしを振り上げながら笑ひ出し、奥さんも笑つて、何が何やら、うやむやになつたといふ事などもあつたさうで、それもまた、Ｎ君の人柄の片鱗を示す好箇の挿話であると私には感じられた。</p>
          <p>「七転び八起きだね。いろんな事がある。」と言つて私は、自分の身の上とも思ひ合せ、ふつと涙ぐましくなつた。この善良な友人が、馴れぬ手つきで、工場の隅で、ひとり、ばつたんばつたん筵を織つてゐる侘しい姿が、ありありと眼前に見えるやうな気がして来た。私は、この友人を愛してゐる。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-128033-128320">その夜はまた、お互ひ一仕事すんだのだから、などと言ひわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作の事に就いて話し合つた。Ｎ君は青森県郷土史研究会の会員だつたので、郷土史の文献をかなり持つてゐた。</seg></p>
          <p>「何せ、こんなだからなあ。」と言つてＮ君は或る本をひらいて私に見せたが、そのペエジには次のやうな、津軽凶作の年表とでもいふべき不吉な一覧表が載つてゐた。</p>
        </div>
        <div type="layout" source="#source-128550-130509" style="padding-inline-start: 2em">
          <p><seg source="#source-128585-128617">元和一年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128617-128649">元和二年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128649-128681">寛永十七年　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128681-128713">寛永十八年　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128713-128745">寛永十九年　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128745-128777">明暦二年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128777-128809">寛文六年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128809-128841">寛文十一年　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128841-128873">延宝二年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128873-128905">延宝三年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128905-128937">延宝七年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128937-128969">天和一年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-128969-129001">貞享一年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129001-129033">元禄五年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129033-129065">元禄七年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129065-129097">元禄八年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129097-129129">元禄九年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129129-129161">元禄十五年　　　半凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129161-129193">宝永二年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129193-129225">宝永三年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129225-129257">宝永四年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129257-129289">享保一年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129289-129321">享保五年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129321-129353">元文二年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129353-129385">元文五年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129385-129417">延享二年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129417-129449">延享四年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129449-129481">寛延二年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129481-129513">宝暦五年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129513-129545">明和四年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129545-129577">安永五年　　　　半凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129577-129609">天明二年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129609-129641">天明三年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129641-129673">天明六年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129673-129705">天明七年　　　　半凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129705-129737">寛政一年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129737-129769">寛政五年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129769-129801">寛政十一年　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129801-129833">文化十年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129833-129865">天保三年　　　　半凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129865-129897">天保四年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129897-129929">天保六年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129929-129961">天保七年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129961-129993">天保八年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-129993-130025">天保九年　　　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130025-130057">天保十年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130057-130089">慶応二年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130089-130121">明治二年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130121-130153">明治六年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130153-130185">明治二十二年　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130185-130217">明治二十四年　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130217-130249">明治三十年　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130249-130281">明治三十五年　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130281-130313">明治三十八年　　大凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130313-130345">大正二年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130345-130377">昭和六年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130377-130409">昭和九年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130409-130441">昭和十年　　　　　凶</seg></p>
          <p><seg source="#source-130441-130473">昭和十五年　　　半凶</seg></p>
        </div>
        <div>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">津軽の人でなくても、この年表に接しては溜息をつかざるを得ないだらう。大阪夏の陣、豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回の凶作があつたのである。まづ五年に一度づつ凶作に見舞はれてゐるといふ勘定になるのである。さらにまた、Ｎ君はべつな本をひらいて私に見せたが、それには、「翌天保四年に到りては、立春吉祥の其日より東風頻に吹荒み、三月上巳の節句に到れども積雪消えず農家にて雪舟用ゐたり。五月に到り苗の生長僅かに一束なれども時節の階級避くべからざるが故に竟に其儘植附けに着手したり。然れども連日の東風弥々吹き募り、六月土用に入りても密雲冪々として天候朦々晴天白日を見る事殆ど稀なり（中略）毎日朝夕の冷気強く六月土用中に綿入を着用せり、夜は殊に冷にして七月<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-131516-131543"><rb>佞武多</rb><rt>ねぶた</rt></ruby><seg source="#source-131543-132146">（作者註。陰暦七夕の頃、武者の形あるいは竜虎の形などの極彩色の大燈籠を荷車に載せて曳き、若い衆たちさまざまに扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。他町の大燈籠と衝突して喧嘩の事必ずあり。坂上田村麻呂、蝦夷征伐の折、このやうな大燈籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せ之を殱滅せし遺風なりとの説あれども、なほ信ずるに足らず。津軽に限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。東北の夏祭りの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-132146-132164"><rb>山車</rb><rt>だし</rt></ruby>と思はば大過なからん歟。）の頃に到りても道路にては蚊の声を聞かず、家屋の内に於ては聊か之を聞く事あれども蚊帳を用うるを要せず蝉声の如きも甚だ稀なり、七月六日頃より暑気出で盆前単衣物を着用す、同十三日頃より早稲大いに出穂ありし為人気頗る宜しく盆踊りも頗る賑かなりしが、同十五日、十六日の日光白色を帯び恰も夜中の鏡に似たり、同十七日夜半、踊児も散り、来往の者も稀疎にして追々暁方に及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往来老若之を見る者涕泣充満たり。」といふ、あはれと言ふより他には全く言ひやうのない有様が記されてあつて、私たちの幼い頃にも、老人たちからケガヅ（津軽では、凶作の事をケガヅと言ふ。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-133070-133091"><rb>飢渇</rb><rt>きかつ</rt></ruby><seg source="#source-133091-133438">の訛りかも知れない。）の酸鼻戦懐の状を聞き、幼いながらも暗憺たる気持になつて泣きべそをかいてしまつたものだが、久し振りで故郷に帰り、このやうな記録をあからさまに見せつけられ、哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さへ感ぜられて、</seg></p>
          <p>「これは、いかん。」と言つた。「科学の世の中とか何とか偉さうな事を言つてたつて、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教へてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。」</p>
          <p>「いや、技師たちもいろいろ研究はしてゐるのだ。冷害に堪へるやうに品種が改良されてもゐるし、植附けの時期にも工夫が加へられて、今では、昔のやうに徹底した不作など無くなつたけれども、でも、それでも、やつぱり、四、五年に一度は、いけない時があるんだねえ。」</p>
          <p>「だらしが無え。」私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げてののしつた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-134152-134178">Ｎ君は笑つて、</seg></p>
          <p>「沙漠の中で生きてゐる人もあるんだからね。怒つたつて仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。」</p>
          <p>「あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。」</p>
          <p>「それでも君は、負けないぢやないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。第八師団は国宝だつて言はれてゐるぢやないか。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすつて育つた私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝はつてゐないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違ひないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるやうに努力するより他には仕方がないやうだ。いたづらに過去の悲惨に歎息せず、Ｎ君みたいにその櫛風沐雨の伝統を鷹揚に誇つてゐるはうがいいのかも知れない。しかも津軽だつて、いつまでも昔のやうに酸鼻の地獄絵を繰り返してゐるわけではない。その翌日、私はＮ君に案内してもらつて、外ヶ浜街道をバスで北上し、三厩で一泊して、それからさらに海岸の波打際の心細い路を歩いて本州の北端、竜飛岬まで行つたのであるが、その三厩竜飛間の荒涼索莫たる各部落でさへ、烈風に抗し、怒濤に屈せず、懸命に一家を支へ、津軽人の健在を可憐に誇示してゐたし、三厩以南の各部落、殊にも三厩、今別などに到つては瀟洒たる海港の明るい雰囲気の中に落ちつき払つた生活を展開して見せてくれてゐたのである。ああ、いたづらにケガヅの影におびえる事なかれである。以下は佐藤弘といふ理学士の快文章であるが、私のこの書の読者の憂鬱を消すために、なほまた私たち津軽人の明るい出発の乾盃の辞としてちよつと借用して見よう。佐藤理学士の奥州産業総説に曰く、「撃てば則ち草に匿れ、追へば即ち山に入つた蝦夷族の版図たりし奥州、山岳重畳して到るところ天然の障壁をなし、以て交通を阻害してゐる奥州、風波高く海運不便なる日本海と、北上山脈にさへぎられて発達しない鋸歯状の岬湾の多い太平洋とに包まれた奥州。しかも冬期降雪多く、本州中で一番寒く、古来、数十回の凶作に襲来されたといふ奥州。九州の耕地面積二割五分に対して、わづかに一割半を占むる哀れなる奥州。どこから見ても不利な自然的条件に支配されてゐるその奥州は、さて、六百三十万の人口を養ふに、今日いかなる産業に拠つてゐるであらうか。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-137207-138796">どの地理書を繙いても、奥州の地たるや本州の東北端に僻在し、衣、食、住、いづれも粗樸、とある。古来からの茅葺、柾葺、杉皮葺は、とにかくとして、現在多くの民は、トタン葺の家に住み、ふろしきを被つて、もんぺいをはき、中流以下悉く粗食に甘んじてゐる、といふ。真偽や如何。それほど奥州の地は、産業に恵まれてゐないのであらうか。高速度を以て誇りとする第二十世紀の文明は、ひとり東北の地に到達してゐないのであらうか。否、それは既に過去の奥州であつて、人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まづ文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与へ、而して、いまや見よ、開発また開拓、膏田沃野の刻一刻と増加することを。そして改良また改善、牧畜、林業、漁業の日に日に盛大におもむく事を。まして況んや、住民の分布薄疎にして、将来の発展の余裕、また大いにこの地にありといふに於いてをや。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">むく鳥、鴨、四十雀、雁などの渡り鳥の大群が、食を求めてこの地方をさまよひ歩くが如く、膨脹時代にあつた大和民族が各地方より北上してこの奥州に到り、蝦夷を征服しつつ、或ひは山に猟し、或ひは川に漁して、いろいろな富源の魅力にひきつけられ、あちらこちらと、さまよひ歩いた。かくして数代経過し、ここに人々は、思ひ思ひの地に定著して、或ひは秋田、荘内、津軽の平野に米を植ゑ、或ひは北奥の山地に殖林を試み、或ひは平原に馬を飼ひ、或ひは海辺の漁業に専心して以て今日に於ける隆盛なる産業の基礎を作つたのである。奥州六県、六百三十万の民はかくして先人の開発せし特徴ある産業をおろそかにせず、益々これが発達の途を講じ、渡り鳥は永遠にさまよへども、素朴なる東北の民は最早や動かず、米を作つて林檎を売り、鬱蒼たる美林につづく緑の大平原には毛並輝く見事な若駒を走らせ、出漁の船は躍る銀鱗を満載して港にはひるのである。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-139986-140255">まことに有難い祝辞で、思はず駈け寄つてお礼の握手でもしたくなるくらゐのものだ。さて私はその翌日、Ｎ君の案内で奥州外ヶ浜を北上したのであるが、出発に先立ち、まづ問題は酒であつた。</seg></p>
          <p>「お酒は、どうします？　リユツクサツクに、ビールの二、三本も入れて置きませうか？」と、奥さんに言はれて、私は、まつたく、冷汗三斗の思ひであつた。なぜ、酒飲みなどといふ不面目な種族の男に生れて来たか、と思つた。</p>
          <p>「いや、いいです。無ければ無いで、また、それは、べつに。」などと、しどろもどろの不得要領なる事を言ひながらリユツクサツクを背負ひ、逃げるが如く家を出て、後からやつて来たＮ君に、</p>
          <p>「いや、どうも。酒、と聞くとひやつとするよ。針の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-140907-140925"><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>だ。」と実感をそのまま言つた。Ｎ君も同じ思ひと見えて、顔を赤くし、うふふと笑ひ、</p>
          <p>「僕もね、ひとりぢや我慢も出来るんだが、君の顔を見ると、飲まずには居られないんだ。今別のＭさんが配給のお酒を近所から少しづつ集めて置くつて言つてゐたから、今別にちよつと立寄らうぢやないか。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-141334-141375">私は複雑な溜息をついて、</seg></p>
          <p>「みんなに苦労をかけるわい。」と言つた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-141437-141815">はじめは蟹田から船でまつすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスといふ計画であつたのだが、その日は朝から東風が強く、荒天といつていいくらゐの天候で、乗つて行く筈の定期船は欠航になつてしまつたので、予定をかへて、バスで出発する事にしたのである。バスは案外、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-141815-141827"><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby><seg source="#source-141827-142679">いてゐて、二人とも楽に腰かける事が出来た。外ヶ浜街道を一時間ほど北上したら、次第に風も弱くなり、青空も見えて来て、このぶんならば定期船も出るのではなからうかと思はれた。とにかく、今別のＭさんのお家へ立寄り、船が出るやうだつたら、お酒をもらつてすぐ今別の港から船に乗らうといふ事にした。往きも帰りも同じ陸路を通るのは、気がきかなくて、つまらない事のやうに思はれた。Ｎ君はバスの窓から、さまざまの風景を指差して説明してくれたが、もうそろそろ要塞地帯に近づいてゐるのだから、そのＮ君の親切な説明をここにいちいち書き記すのは慎しむべきであらう。とにかく、この辺には、昔の蝦夷の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-142679-142700"><rb>栖家</rb><rt>すみか</rt></ruby>の面影は少しも見受けられず、お天気のよくなつて来たせゐか、どの村落も小綺麗に明るく見えた。寛政年間に出版せられた京の名医橘南谿の東遊記には、「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-142913-142937"><rb>天地</rb><rt>あめつち</rt></ruby>ひらけしよりこのかた今の時ほど太平なる事はあらじ、西は鬼界屋玖の嶋より東は奥州の外ヶ浜まで号令の行届かざるもなし。往古は屋玖の島は屋玖国とて異国のやうに聞え、奥州も半ば蝦夷人の領地なりしにや、猶近き頃まで夷人の住所なりしと見えて南部、津軽辺の地名には変名多し。外ヶ浜通りの村の名にもタツピ、ホロヅキ、内マツペ、外マツペ、イマベツ、ウテツなどいふ所有り。是皆蝦夷詞なり。今にても、ウテツなどの辺は風俗もやや蝦夷に類して津軽の人も彼等はエゾ種といひて、いやしむるなり。余思ふにウテツ辺に限らず、南部、津軽辺の村民も大かたはエゾ種なるべし。只早く皇化に浴して風俗言語も改りたる所は、先祖より日本人のごとくいひなし居る事とぞ思はる。故に礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり。」と記されてあるが、それから約百五十年、地下の南谿を今日この坦々たるコンクリート道路をバスに乗せて通らせたならば、呆然たるさまにて首をひねり、或いは、こぞの雪いまいづこなどといふ嘆を発するかも知れない。南谿の東遊記西遊記は江戸時代の名著の一つに数へられてゐるやうであるが、その凡例にも、「予が漫遊もと医学の為なれば医事にかかれることは雑談といへども別に記録して同志の人にも示す。只此書は旅中見聞せる事を筆のついでにしるせるものにして、強て其事の虚実を正さず、誤りしるせる事も多かるべし。」とみづから告白してゐる如く、読者の好奇心を刺戟すれば足るといふやうな荒唐無稽に似た記事も少しとしないと言つてよい。他の地方の事は言はず、例をこの外ヶ浜近辺に就いての記事だけに限つて言つても、「奥州三馬屋（作者註。三厩の古称。）は、松前渡海の津にて、津軽領外ヶ浜にありて、日本東北の限りなり。むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かはり恙なく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。又波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給ひし所となり。是によりて此地を三馬屋と称するなりとぞ。」と、何の疑ひもさしはさまずに記してあるし、また、「奥州津軽の外ヶ浜に平館といふ所あり。此所の北にあたり巌石海に突出たる所あり、是を石崎の鼻といふ。其所を越えて暫く行けば<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-145934-145958"><rb>朱谷</rb><rt>しゆだに</rt></ruby>あり。山々高く聳えたる間より細き谷川流れ出て海に落る。此谷の土石皆朱色なり。水の色までいと赤く、ぬれたる石の朝日に映ずるいろ誠に花やかにして目さむる心地す。其落る所の海の小石までも多く朱色なり。北辺の海中の魚皆赤しと云。谷にある所の朱の気によりて、海中の魚、或は石までも朱色なること無情有情ともに是に感ずる事ふしぎなり。」と言つてすましてゐるかと思ふと、また、おきなと称する怪魚が北海に住んでゐて、「其大きさ二里三里にも及べるにや、つひに其魚の全身を見たる人はなし。稀れに海上に浮たるを見るに大なる島いくつも出来たるごとくなり、是おきなの背中尾鰭などの少しづつ見ゆるなりとぞ。二十尋三十尋の鯨を呑む事、鯨の鰯を呑むがごとくなるゆゑ、此魚来れば鯨東西に逃走るなり。」などと言つておどかしたり、また、「此三馬屋に逗留せし頃、一夜、此家の近きあたりの老人来りぬれば、家内の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-147107-147137"><rb>祖父祖母</rb><rt>ぢぢばば</rt></ruby>など打集り、囲炉裏にまとゐして四方山の物語せしに彼者共語りしは、扨も此二三十年以前松前の津波程おそろしかりしことはあらず、其頃風も静に雨も遠かりしが、只何となく空の気色打くもりたるやうなりしに、夜々折々光り物して東西に虚空を飛行するものあり、漸々に甚敷、其四五日前に到れば白昼にもいろいろの神々虚空を飛行し給ふ。衣冠にて馬上に見ゆるもあり、或は竜に乗り雲に乗り、或は犀象のたぐひに打乗り、白き装束なるもあり、赤き青き色々の出立にて、其姿も亦大なるもあり小きもあり、異類異形の仏神空中にみちみちて東西に飛行し玉ふ。我々も皆外へ出て毎日々々いと有難くをがみたり。不思議なる事にてまのあたり拝み奉ることよと四五日が程もいひくらすうちに、ある夕暮、沖の方を見やりたるに、真白にして雪の山の如きもの遥に見ゆ。あれ見よ、又ふしぎなるものの海中に出来たれといふうちに、だんだんに近く寄り来りて、近く見えし嶋山の上を打越して来るを見るに大浪の打来るなり。すは津波こそ、はや逃げよ、と老若男女われさきにと逃迷ひしかど、しばしが間に打寄て、民屋田畑草木禽獣まで少しも残らず海底のみくづと成れば、生残る人民、海辺の村里には一人もなし、扨こそ初に神々の雲中を飛行し給ひけるは此大変ある事をしろしめして此地を逃去り給ひしなるべしといひ合て恐れ侍りぬと語りぬ。」などといふ、もつたいないやうな、また夢のやうな事も、平易の文章でさらさらと書き記されてゐるのである。現在のこの辺の風景に就いては、この際、あまり具体的に書かぬはうがよいと思はれるし、荒唐無稽とは言つても、せめて古人の旅行記など書き写し、そのお伽噺みたいな雰囲気にひたつてみるのも一興と思はれて、実は、東遊記の二三の記事をここに抜書きしたといふわけでもあつたのだが、ついでにもう一つ、小説の好きな人には殊にも面白く感ぜられるのではあるまいかと思はれる記事があるから紹介しよう。</p>
          <p>「奥州津軽の外ヶ浜に在りし頃、所の役人より丹後の人は居ずやと頻りに吟味せし事あり。いかなるゆゑぞと尋ぬるに、津軽の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-149722-149752"><rb>岩城山</rb><rt>いはきやま</rt></ruby><seg source="#source-149752-150673">の神はなはだ丹後の人を忌嫌ふ、もし忍びても丹後の人此地に入る時は天気大きに損じて風雨打続き船の出入無く、津軽領はなはだ難儀に及ぶとなり。余が遊びし頃も打続き風悪しかりければ、丹後の人の入りて居るにやと吟味せしこととぞ。天気あしければ、いつにても役人よりきびしく吟味して、もし入込み居る時は急に送り出すこととなり。丹後の人、津軽領の界を出れば、天気たちまち晴て風静に成なり。土俗の、いひならはしにて忌嫌ふのみならず、役人よりも毎度改むる事、珍らしき事なり。青森、三馬屋、そのほか外ヶ浜通り港々、最も甚敷丹後の人を忌嫌ふ。あまりあやしければ、いかなるわけのありてかくはいふ事ぞと委敷尋ね問ふに、当国岩城山の神と云ふは、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-150673-150706"><rb>安寿姫</rb><rt>あんじゆひめ</rt></ruby><seg source="#source-150706-150796">出生の地なればとて安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよひて、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-150796-150823"><rb>三庄</rb><rt>さんしやう</rt></ruby>太夫にくるしめられしゆゑ、今に至り、其国の人といへば忌嫌ひて風雨を起し岩城の神荒れ玉ふとなり。外ヶ浜通り九十里余、皆多くは漁猟又は船の通行にて世渡ることなれば、常々最も順風を願ふ。然るに、差当りたる天気にさはりあることなれば、一国こぞつて丹後の人を忌嫌ふ事にはなりぬ。此説、隣境にも及びて松前南部等にても港々にては多くは丹後人を忌みて送り出す事なり。かばかり人の恨は深きものにや。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-151398-151668">へんな話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。丹後の国は、いまの京都府の北部であるが、あの辺の人は、この時代に津軽へ来たら、ひどいめに遭はなければならなかつたわけである。安寿姫と</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-151668-151695"><rb>厨子王</rb><rt>づしわう</rt></ruby>の話は、私たちも子供の頃から絵本などで知らされてゐるし、また鴎外の傑作「山椒大夫」の事は、小説の好きな人なら誰でも知つてゐる。けれども、あの哀話の美しい姉弟が津軽の生れで、さうして死後岩木山に祭られてゐるといふ事は、あまり知られてゐないやうであるが、実は、私はこれも何だか、あやしい話だと思つてゐるのである。義経が津軽に来たとか、三里の大魚が泳いでゐるとか、石の色が溶けて川の水も魚の鱗も赤いとかといふことを、平気で書いてゐる南谿氏の事だから、これも或いはれいの「強ひて其事の虚実を正さず」式の無責任な記事かも知れない。もつとも、この安寿厨子王津軽人説は、和漢三才図会の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-152550-152598"><rb>岩城山権現</rb><rt>いはきさんごんげん</rt></ruby>の条にも出てゐる。三才図会は漢文で少し読みにくいが、「相伝ふ、昔、当国（津軽）の領主、岩城判官正氏といふ者あり。永保元年の冬、在京中、讒者の為に西海に謫せらる。本国に二子あり。姉を安寿と名づく。弟を津志王丸と名づく。母と共にさまよひ、出羽を過ぎ、越後に到り直江の浦云々。」などと自信ありげに書き出してゐるが、おしまひのはうに到つて、「岩城と津軽の岩城山とは南北百余里を隔て之を祭るはいぶかし。」とおのづから語るに落ちるやうな工合になつてしまつてゐる。鴎外の「山椒大夫」には、「岩代の信夫郡の住家を出て」と書いてゐる。つまりこれは、岩城といふ字を、「いはき」と読んだり「いはしろ」と読んだりして、ごちやまぜになつて、たうとう津軽の岩木山がその伝説を引受ける事になつたのではないかと思はれる。しかし、昔の津軽の人たちは、安寿厨子王が津軽の子供である事を堅く信じ、につくき山椒大夫を呪ふあまりに、丹後の人が入込めば津軽の天候が悪化するとまで思ひつめてゐたとは、私たち安寿厨子王の同情者にとつては、痛快でない事もないのである。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-153977-154990">外ヶ浜の昔噺は、これ位にしてやめて、さて、私たちのバスはお昼頃、Ｍさんのゐる今別に着いた。今別は前にも言つたやうに、明るく、近代的とさへ言ひたいくらゐの港町である。人口も、四千に近いやうである。Ｎ君に案内されて、Ｍさんのお家を訪れたが、奥さんが出て来られて、留守です、とおつしやる。ちよつとお元気が無いやうに見受けられた。よその家庭のこのやうな様子を見ると、私はすぐに、ああ、これは、僕の事で喧嘩をしたんぢやないかな？　と思つてしまふ癖がある。当つてゐる事もあるし、当つてゐない事もある。作家や新聞記者等の出現は、善良の家庭に、とかく不安の感を起させ易いものである。その事は、作家にとつても、かなりの苦痛になつてゐる筈である。この苦痛を体験した事のない作家は、馬鹿である。</seg></p>
          <p>「どちらへ、いらつしやつたのですか？」とＮ君はのんびりしてゐる。リユツクサツクをおろして、「とにかく、ちよつと休ませていただきます。」玄関の式台に腰をおろした。</p>
          <p>「呼んでまゐります。」</p>
          <p>「はあ、すみませんですな。」Ｎ君は泰然たるものである。「病院のはうですか？」</p>
          <p>「え、さうかと思ひます。」美しく内気さうな奥さんは、小さい声で言つて下駄をつつかけ外へ出て行つた。Ｍさんは、今別の或る病院に勤めてゐるのである。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-155601-155681">私もＮ君と並んで式台に腰をおろし、Ｍさんを待つた。</seg></p>
          <p>「よく、打合せて置いたのかね。」</p>
          <p>「うん、まあね。」Ｎ君は、落ちついて煙草をふかしてゐる。</p>
          <p>「あいにく昼飯時で、いけなかつたね。」私は何かと気をもんでゐた。</p>
          <p>「いや、僕たちもお弁当を持つて来たんだから。」と言つて澄ましてゐる。西郷隆盛もかくやと思はれるくらゐであつた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-156082-156141">Ｍさんが来た。はにかんで笑ひながら、</seg></p>
          <p>「さ、どうぞ。」と言ふ。</p>
          <p>「いや、さうしても居られないんです。」とＮ君は腰をあげて、「船が出るやうだつたら、すぐに船で竜飛まで行きたいと思つてゐるのです。」</p>
          <p>「さう。」Ｍさんは軽く首肯き、「ぢやあ、出るかどうか、ちよつと聞いて来ます。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-156495-156626">Ｍさんがわざわざ波止場まで聞きに行つてくれたのだが、船はやはり欠航といふ事であつた。</seg></p>
          <p>「仕方が無い。」たのもしい私の案内者は別に落胆した様子も見せず、「それぢや、ここでちよつと休ませてもらつて弁当を食べるか。」</p>
          <p>「うん、ここで腰かけたままでいい。」私はいやらしく遠慮した。</p>
          <p>「あがりませんか。」Ｍさんは気弱さうに言ふ。</p>
          <p>「あがらしてもらはうぢやないか。」Ｎ君は平気でゲートルを解きはじめた。「ゆつくり、次の旅程を考へませう。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私たちはＭさんの書斎に通された。小さい囲炉裏があつて、炭火がパチパチ言つておこつてゐた。書棚には本がぎつしりつまつてゐて、ヴアレリイ全集や鏡花全集も揃へられてあつた。「礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり。」と自信ありげに断案を下した南谿氏も、ここに到つて或いは失神するかも知れない。</p>
          <p>「お酒は、あります。」上品なＭさんは、かへつてご自分のはうで顔を赤くしてさう言つた。「飲みませう。」</p>
          <p>「いやいや、ここで飲んでは、」と言ひかけて、Ｎ君は、うふふと笑つてごまかした。</p>
          <p>「それは大丈夫。」とＭさんは敏感に察して、「竜飛へお持ちになる酒は、また別に取つて置いてありますから。」</p>
          <p>「ほほ、」とＮ君は、はしやいで、「いや、しかし、いまから飲んでは、けふのうちに竜飛に到着する事が出来なくなるかも、」などと言つてゐるうちに、奥さんが黙つてお銚子を持つて来た。この奥さんは、もとから無口な人なのであつて、別に僕たちに対して怒つてゐるのでは無いかも知れない、と私は自分に都合のいいやうに考へ直し、</p>
          <p>「それぢや酔はない程度に、少し飲まうか。」とＮ君に向つて提案した。</p>
          <p>「飲んだら酔ふよ。」Ｎ君は先輩顔で言つて、「けふは、これあ、三厩泊りかな？」</p>
          <p>「それがいいでせう。けふは今別でゆつくり遊んで、三厩までだつたら歩いて、まあ、ぶらぶら歩いて一時間かな？　どんなに酔つてたつて楽に行けます。」とＭさんもすすめる。けふは三厩一泊ときめて、私たちは飲んだ。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-158990-159511">私には、この部屋へはひつた時から、こだはつてゐたものが一つあつた。それは私が蟹田でつい悪口を言つてしまつたあの五十年配の作家の随筆集が、Ｍさんの机の上にきちんと置かれてゐる事であつた。愛読者といふものは偉いもので、私があの日、蟹田の観瀾山であれほど口汚くこの作家を罵倒しても、この作家に対するＭさんの信頼はいささかも動揺しなかつたものと見える。</seg></p>
          <p>「ちよつと、その本を貸して。」どうも気になつて落ちつかないので、たうとう私は、Ｍさんからその本を借りて、いい加減にぱつと開いて、その箇所を鵜の目鷹の目で読みはじめた。何かアラを拾つて凱歌を挙げたかつたのであるが、私の読んだ箇所は、その作家も特別に緊張して書いたところらしく、さすがに打ち込むすきが無いのである。私は、黙つて読んだ。一ページ読み、二ページ読み、三ページ読み、たうとう五ページ読んで、それから、本を投げ出した。</p>
          <p>「いま読んだところは、少しよかつた。しかし、他の作品には悪いところもある。」と私は負け惜しみを言つた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-160301-160354">Ｍさんは、うれしさうにしてゐた。</seg></p>
          <p>「装釘が豪華だからなあ。」と私は小さい声で、さらに負け惜しみを言つた。「こんな上等の紙に、こんな大きな活字で印刷されたら、たいていの文章は、立派に見えるよ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-160593-161009">Ｍさんは相手にせず、ただ黙つて笑つてゐる。勝利者の微笑である。けれども私は本心は、そんなに口惜しくもなかつたのである。いい文章を読んで、ほつとしてゐたのである。アラを拾つて凱歌などを奏するよりは、どんなに、いい気持のものかわからない。ウソぢやない。私は、いい文章を読みたい。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">今別には本覚寺といふ有名なお寺がある。貞伝和尚といふ偉い坊主が、ここの住職だつたので知られてゐるのである。貞伝和尚の事は、竹内運平氏著の青森県通史にも記載せられてある。すなはち、「貞伝和尚は、今別の新山甚左衛門の子で、早く弘前誓願寺に弟子入して、のち磐城平、専称寺に修業する事十五年、二十九歳の時より津軽今別、本覚寺の住職となつて、享保十六年四十二歳に到る間、其教化する処、津軽地方のみならず近隣の国々にも及び、享保十二年、金銅塔婆建立の供養の時の如きは、領内は勿論、南部、秋田、松前地方の善男善女の雲集参詣を見た。」といふやうな事が記されてある。そのお寺を、これから一つ見に行かうぢやないか、と外ヶ浜の案内者Ｎ町会議員は言ひ出した。</p>
          <p>「文学談もいいが、どうも、君の文学談は一般向きでないね。ヘンテコなところがある。だから、いつまで経つても有名にならん。貞伝和尚なんかはね、」とＮ君は、かなり酔つてゐた。「貞伝和尚なんかはね、仏の教へを説くのは後まはしにして、まづ民衆の生活の福利増進を図つてやつた。さうでもなくちや、民衆なんか、仏の教へも何も聞きやしないんだ。貞伝和尚は、或いは産業を興し、或いは、」と言ひかけて、ひとりで噴き出し、「まあ、とにかく行つて見よう。今別へ来て本覚寺を見なくちや恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りなんだ。さう言ひながら、実は、僕もまだ見てゐないんだ。いい機会だから、けふは見に行きたい。みんなで一緒に見に行かうぢやないか。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-162891-163208">私は、ここで飲みながらＭさんと、所謂ヘンテコなところのある文学談をしてゐたかつた。Ｍさんも、さうらしかつた。けれども、Ｎ君の貞伝和尚に対する情熱はなかなかのもので、たうとう私たちの重い尻を上げさせてしまつた。</seg></p>
          <p>「それぢや、その本覚寺に立寄つて、それからまつすぐに三厩まで歩いて行つてしまはう。」私は玄関の式台に腰かけてゲートルを巻き附けながら、「どうです、あなたも。」と、Ｍさんを誘つた。</p>
          <p>「はあ、三厩までお供させていただきます。」</p>
          <p>「そいつあ有難い。この勢ひぢや、町会議員は今夜あたり、三厩の宿で蟹田町政に就いて長講一席やらかすんぢやないかと思つて、実は、憂鬱だつたんです。あなたが附合つてくれると、心強い。奥さん、御主人を今夜、お借りします。」</p>
          <p>「はあ。」とだけ言つて、微笑する。少しは慣れた様子であつた。いや、あきらめたのかも知れない。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-164005-164466">私たちはお酒をそれぞれの水筒につめてもらつて、大陽気で出発した。さうして途中も、Ｎ君は、テイデン和尚、テイデン和尚、と言ひ、頗るうるさかつたのである。お寺の屋根が見えて来た頃、私たちは、魚売の小母さんに出逢つた。曳いてゐるリヤカーには、さまざまのさかなが一ぱい積まれてゐる。私は二尺くらゐの鯛を見つけて、</seg></p>
          <p>「その鯛は、いくらです。」まるつきり見当が、つかなかつた。</p>
          <p>「一円七十銭です。」安いものだと思つた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-164617-164868">私は、つい、買つてしまつた。けれども、買つてしまつてから、仕末に窮した。これからお寺へ行くのである。二尺の鯛をさげてお寺へ行くのは奇怪の図である。私は途方にくれた。</seg></p>
          <p>「つまらんものを買つたねえ。」とＮ君は、口をゆがめて私を軽蔑した。「そんなものを買つてどうするの？」</p>
          <p>「いや、三厩の宿へ行つて、これを一枚のままで塩焼きにしてもらつて、大きいお皿に載せて三人でつつかうと思つてね。」</p>
          <p>「どうも、君は、ヘンテコな事を考へる。それでは、まるでお祝言か何かみたいだ。」</p>
          <p>「でも、一円七十銭で、ちよつと豪華な気分にひたる事も出来るんだから、有難いぢやないか。」</p>
          <p>「有難かないよ。一円七十銭なんて、この辺では高い。実に君は下手な買ひ物をした。」</p>
          <p>「さうかねえ。」私は、しよげた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-165615-165722">たうとう私は二尺の鯛をぶらさげたまま、お寺の境内にはひつてしまつた。</seg></p>
          <p>「どうしませう。」と私は小声でＭさんに相談した。「弱りました。」</p>
          <p>「さうですね。」Ｍさんは真面目な顔して考へて、「お寺へ行つて新聞紙か何かもらつて来ませう。ちよつと、ここで待つてゐて下さい。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-166011-166313">Ｍさんはお寺の庫裏のはうに行き、やがて新聞紙と紐を持つて来て、問題の鯛を包んで私のリユツクサツクにいれてくれた。私は、ほつとして、お寺の山門を見上げたりなどしたが、別段すぐれた建築とも見えなかつた。</seg></p>
          <p>「たいしたお寺でもないぢやないか。」と私は小声でＮ君に言つた。</p>
          <p>「いやいや、いやいや。外観よりも内容がいいんだ。とにかく、お寺へはひつて坊さんの説明でも聞きませう。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-166563-167135">私は気が重かつた。しぶしぶＮ君の後について行つたが、それから、実にひどいめに逢つた。お寺の坊さんはお留守のやうで、五十年配のおかみさんらしいひとが出て来て、私たちを本堂に案内してくれて、それから、長い長い説明がはじまつた。私たちは、きちんと膝を折つて、かしこまつて拝聴してゐなければならぬのである。説明がちよつと一区切ついて、やれうれしやと立上らうとすると、Ｎ君は膝をすすめて、</seg></p>
          <p>「しからば、さらにもう一つお尋ねいたしますが、」と言ふのである。「いつたい、このお寺はテイデン和尚が、いつごろお作りになつたものなのでせうか。」</p>
          <p>「何をおつしやつてゐるのです。貞伝上人様はこのお寺を御草創なさつたのではございませんよ。貞伝上人様は、このお寺の中興開山、五代目の上人様でございまして、――」と、またもや長い説明が続く。</p>
          <p>「さうでしたかな。」とＮ君は、きよとんとして、「しからば、さらにお尋ねいたしますが、このテイザン和尚は、」テイザン和尚と言つた。まつたく滅茶苦茶である。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-167864-168202">Ｎ君は、ひとり熱狂して膝をすすめ膝をすすめ、つひにはその老婦人の膝との間隔が紙一重くらゐのところまで進出して、一問一答をつづけるのである。そろそろ、あたりが暗くなつて来て、これから三厩まで行けるかどうか、心細くなつて来た。</seg></p>
          <p>「あそこにありまする大きな見事な<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-168250-168265"><rb>額</rb><rt>がく</rt></ruby>は、その大野九郎兵衛様のお書きになつた額でございます。」</p>
          <p>「さやうでございますか。」とＮ君は感服し、「大野九郎兵衛様と申しますと、――」</p>
          <p>「ご存じでございませう。忠臣義士のひとりでございます。」忠臣義士と言つたやうである。「あのお方は、この土地でおなくなりになりまして、おなくなりになつたのは、四十二歳、たいへん御信仰の厚いお方でございましたさうで、このお寺にもたびたび莫大の御寄進をなされ、――」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-168862-169080">Ｍさんはこの時たうとう立ち上り、おかみさんの前に行つて、内ポケツトから白紙に包んだものを差出し、黙つて丁寧にお辞儀をしてそれからＮ君に向つて、</seg></p>
          <p>「そろそろ、おいとまを。」と小さい声で言つた。</p>
          <p>「はあ、いや、帰りませう。」とＮ君は鷹揚に言ひ、「結構なお話を承りました。」とおかみさんにおあいそを言つて、やうやく立ち上つたのであるが、あとで聞いてみると、おかみさんの話を一つも記憶してゐないといふ。私たちは呆れて、</p>
          <p>「あんなに情熱的にいろんな質問を発してゐたぢやないか。」と言ふと、</p>
          <p>「いや、すべて、うはのそらだつた。何せ、ひどく酔つてたんだ。僕は君たちがいろいろ知りたいだらうと思つて、がまんして、あのおかみの話相手になつてやつてゐたんだ。僕は犠牲者だ。」つまらない犠牲心を発揮したものである。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-169901-170206">三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけてゐた。表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらゐ上等である。部屋から、すぐ海が見える。小雨が降りはじめて、海は白く凪いでゐる。</seg></p>
          <p>「わるくないね。鯛もあるし、海の雨を眺めながら、ゆつくり飲まう。」私はリユツクサツクから鯛の包みを出して、女中さんに渡し、「これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持つて来て下さい。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-170493-170681">この女中さんは、あまり悧巧でないやうな顔をしてゐて、ただ、はあ、とだけ言つて、ぼんやりその包を受取つて部屋から出て行つた。</seg></p>
          <p>「わかりましたか。」Ｎ君も、私と同様すこし女中さんに不安を感じたのであらう。呼びとめて念を押した。「そのまま塩焼きにするんですよ。三人だからと言つて、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに、三等分の必要はないんですよ。わかりましたか。」Ｎ君の説明も、あまり上手とは言へなかつた。女中さんは、やつぱり、はあ、と頼りないやうな返辞をしただけであつた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-171208-171405">やがてお膳が出た。鯛はいま塩焼にしてゐます、お酒はけふは無いさうです、とにこりともせずに、れいの、悧巧さうでない女中さんが言ふ。</seg></p>
          <p>「仕方が無い。持参の酒を飲まう。」</p>
          <p>「さういふ事になるね。」とＮ君は気早く、水筒を引寄せ、「すみませんがお銚子を二本と盃を三つばかり。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-171610-172773">ことさらに三つとは限らないか、などと冗談を言つてゐるうちに、鯛が出た。ことさらに三つに切らなくてもいいといふＮ君の注意が、実に馬鹿々々しい結果になつてゐたのである。頭も尾も骨もなく、ただ鯛の切身の塩焼きが五片ばかり、何の風情も無く白茶けて皿に載つてゐるのである。私は決して、たべものにこだはつてゐるのではない。食ひたくて、二尺の鯛を買つたのではない。読者は、わかつてくれるだらうと思ふ。私はそれを一尾の原形のままで焼いてもらつて、さうしてそれを大皿に載せて眺めたかつたのである。食ふ食はないは主要な問題でないのだ。私は、それを眺めながらお酒を飲み、ゆたかな気分になりたかつたのである。ことさらに三つに切らなくてもいい、といふＮ君の言ひ方もへんだつたが、そんなら五つに切りませうと考へるこの宿の者の無神経が、癪にさはるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思ひであつた。</seg></p>
          <p>「つまらねえ事をしてくれた。」お皿に愚かしく積まれてある五切れのやきざかな（それはもう鯛では無い、単なる、やきざかなだ）を眺めて、私は、泣きたく思つた。せめて、刺身にでもしてもらつたのなら、まだ、あきらめもつくと思つた。頭や骨はどうしたらう。大きい見事な頭だつたのに、捨てちやつたのかしら。さかなの豊富な地方の宿は、かへつて、さかなに鈍感になつて、料理法も何も知りやしない。</p>
          <p>「怒るなよ、おいしいぜ。」人格円満のＮ君は、平気でそのやきざかなに箸をつけて、さう言つた。</p>
          <p>「さうかね。それぢや、君がひとりで全部たべたらいい。食へよ。僕は、食はん。こんなもの、馬鹿々々しくつて食へるか。だいたい、君が悪いんだ。ことさらに三等分の必要は無い、なんて、そんな蟹田町会の予算総会で使ふやうな気取つた言葉で註釈を加へるから、あの間抜けの女中が、まごついてしまつたんだ。君が悪いんだ。僕は、君を、うらむよ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-173961-174011">Ｎ君はのんきに、うふふと笑ひ、</seg></p>
          <p>「しかし、また、愉快ぢやないか。三つに切つたりなどしないやうに、と言つたら、五つに切つた。しやれてゐる。しやれてゐるよ、ここの人は。さあ、乾盃。乾盃、乾盃。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-174250-174543">私は、わけのわからぬ乾盃を強ひられ、鯛の鬱憤のせゐか、ひどく酩酊して、あやふく乱に及びさうになつたので、ひとりでさつさと寝てしまつた。いま思ひ出しても、あの鯛は、くやしい。だいたい、無神経だ。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-174543-174953">翌る朝、起きたら、まだ雨が降つてゐた。下へ降りて、宿の者に聞いたら、けふも船は欠航らしいといふ事であつた。竜飛まで海岸伝ひに歩いて行くより他は無い。雨のはれ次第、思ひ切つて、すぐ出発しようといふ事になり、私たちは、また蒲団にもぐり込んで雑談しながら雨のはれるのを待つた。</seg></p>
          <p>「姉と妹とがあつてね、」私は、ふいとそんなお伽噺をはじめた。姉と妹が、母親から同じ分量の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-175085-175109"><rb>松毬</rb><rt>まつかさ</rt></ruby><seg source="#source-175109-175283">を与へられ、これでもつて、ごはんとおみおつけを作つて見よと言ひつけられ、ケチで用心深い妹は、松毬を大事にして一個づつ</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-175283-175301"><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby><seg source="#source-175301-175646">にはふり込んで燃やし、おみおつけどころか、ごはんさへ満足に煮ることが出来なかつた。姉はおつとりして、こだはらぬ性格だつたので、与へられた松毬をいちどにどつと惜しげも無く竈にくべたところが、その火で楽にごはんが出来、さうして、あとに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-175646-175661"><rb>燠</rb><rt>おき</rt></ruby>が残つたので、その燠でおみおつけも出来た。「そんな話、知つてる？　ね、飲まうよ。竜飛へ持つて行くんだつて、ゆうべ、もう一つの水筒のお酒、残して置いたらう？　あれ、飲まうよ。ケチケチしてたつて仕様が無いよ。こだはらずに、いちどにどつとやらうぢやないか。さうすると、あとに燠が残るかも知れない。いや、残らなくてもいい。竜飛へ行つたら、また、何とかなるさ。何も竜飛でお酒を飲まなくたつて、いいぢやないか。死ぬわけぢやあるまいし。お酒を飲まずに寝て、静かに、来しかた行く末を考へるのも、わるくないものだよ。」</p>
          <p>「わかつた、わかつた。」Ｎ君は、がばと起きて、「万事、姉娘式で行かう。いちどにどつと、やつてしまはう。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-176571-176738">私たちは起きて囲炉裏をかこみ、鉄瓶にお燗をして、雨のはれるのを待ちながら、残りのお酒を全部、飲んでしまつた。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-176738-176962">お昼頃、雨がはれた。私たちは、おそい朝飯をたべ、出発の身仕度をした。うすら寒い曇天である。宿の前で、Ｍさんとわかれ、Ｎ君と私は北に向つて発足した。</seg></p>
          <p>「登つて見ようか。」Ｎ君は、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-177004-177031"><rb>義経寺</rb><rt>ぎけいじ</rt></ruby><seg source="#source-177031-177180">の石の鳥居の前で立ちどまつた。松前の何某といふ鳥居の寄進者の名が、その鳥居の柱に刻み込まれてゐた。</seg></p>
          <p>「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐつて、石の段々を登つた。頂上まで、かなりあつた。石段の両側の樹々の梢から雨のしづくが落ちて来る。</p>
          <p>「これか。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-177400-177508">石段を登り切つた小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立つてゐる。堂の扉には、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-177508-177541"><rb>笹竜胆</rb><rt>ささりんだう</rt></ruby><seg source="#source-177541-177639">の源家の紋が附いてゐる。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、</seg></p>
          <p>「これか。」と、また言つた。</p>
          <p>「これだ。」Ｎ君は間抜けた声で答へた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-177742-178131">むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かはり恙なく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">れいの「東遊記」で紹介せられてゐるのは、この寺である。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-178217-178264">私たちは無言で石段を降りた。</seg></p>
          <p>「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだらう？　弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいふ話だ。」Ｎ君はさう言つて、力無く笑つた。私は信じたいと思つたが、駄目であつた。鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまた曰く、</p>
          <p>「波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給ひし所となり。是によりて此地を<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-178767-178791"><rb>三馬屋</rb><rt>みまや</rt></ruby>と称するなりとぞ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-178823-178984">私たちはその巨石の前を、ことさらに急いで通り過ぎた。故郷のこのやうな伝説は、奇妙に恥づかしいものである。</seg></p>
          <p>「これは、きつと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠さうそれがしは九郎判官、してまたこれなる髯男は武蔵坊弁慶、一夜の宿をたのむぞ、なんて言つて、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違ひない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけぢやなく、江戸時代になつても、そんな義経と弁慶が、うろついてゐたのかも知れない。」</p>
          <p>「しかし、弁慶の役は、つまらなかつたらうね。」Ｎ君は私よりも更に鬚が濃いので、或いは弁慶の役を押しつけられるのではなからうかといふ不安を感じたらしかつた。「七つ道具といふ重いものを背負つて歩かなくちやいけないのだから、やくかいだ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-179843-180028">話してゐるうちに、そんな二人の不良青年の放浪生活が、ひどく楽しかつたもののやうに空想せられ、うらやましくさへなつて来た。</seg></p>
          <p>「この辺には、美人が多いね。」と私は小声で言つた。通り過ぎる部落の、家の蔭からちらと姿を見せてふつと消える娘さんたちは、みな色が白く、みなりも小ざつぱりして、気品があつた。手足が荒れてゐない感じなのである。</p>
          <p>「さうかね。さう言へば、さうだね。」Ｎ君ほど、女にあつさりしてゐる人も少い。ただ、もつぱら、酒である。</p>
          <p>「まさか、いま、義経だと言つて名乗つたつて、信じないだらうしね。」私は馬鹿な事を空想してみた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-180637-180814">はじめは、そんなたわいない事を言ひ合つて、ぶらぶら歩いてゐたのだが、だんだん二人の歩調が早くなつて来た。まるで二人で</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-180814-180838"><rb>足早</rb><rt>あしばや</rt></ruby><seg source="#source-180838-181584">を競つてゐるみたいな形になつて、さうして、めつきり無口になつた。三厩の酒の酔ひが醒めて来たのである。ひどく寒い。いそがざるを得ないのである。私たちは、共に厳粛な顔になつて、せつせと歩いた。浜風が次第に勁くなつて来た。私は帽子を幾度も吹き飛ばされさうになつて、その度毎に、帽子の鍔をぐつと下にひつぱり、たうとうスフの帽子の鍔の附根が、びりりと破れてしまつた。雨が時々、ぱらぱら降る。真黒い雲が低く空を覆つてゐる。波のうねりも大きくなつて来て、海岸伝ひの細い路を歩いてゐる私たちの頬にしぶきがかかる。</seg></p>
          <p>「これでも、道がずいぶんよくなつたのだよ。六、七年前は、かうではなかつた。波のひくのを待つて素早く通り抜けなければならぬところが幾箇処もあつたのだからね。」</p>
          <p>「でも、いまでも、夜は駄目だね。とても、歩けまい。」</p>
          <p>「さう、夜は駄目だ。義経でも弁慶でも駄目だ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-181971-182066">私たちは真面目な顔をしてそんな事を言ひ、尚もせつせと歩いた。</seg></p>
          <p>「疲れないか。」Ｎ君は振返つて言つた。「案外、健脚だね。」</p>
          <p>「うん、未だ老いずだ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-182193-183387">二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景でなかつた。風景といふものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂はば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼はれてなついてしまつて、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やつぱり檻の中の猛獣のやうな、人くさい匂ひが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。強ひて、点景人物を置かうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。むらさきのジヤンパーを着たにやけ男などは、一も二も無くはねかへされてしまふ。絵にも歌にもなりやしない。ただ岩石と、水である。ゴンチヤロフであつたか、大洋を航海して</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-183387-183405"><rb>時化</rb><rt>しけ</rt></ruby>に遭つた時、老練の船長が、「まあちよつと甲板に出てごらんなさい。この大きい波を何と形容したらいいのでせう。あなたがた文学者は、きつとこの波に対して、素晴らしい形容詞を与へて下さるに違ひない。」ゴンチヤロフは、波を見つめてやがて、溜息をつき、ただ一言、「おそろしい。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-183806-184213">大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思ひ浮ばないのと同様に、この本州の路のきはまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。もう三十分くらゐで竜飛に着くといふ頃に、私は幽かに笑ひ、</seg></p>
          <p>「こりやどうも、やつぱりお酒を残して置いたはうがよかつたね。竜飛の宿に、お酒があるとは思へないし、どうもかう寒くてはね。」と思ばず愚痴をこぼした。</p>
          <p>「いや、僕もいまその事を考へてゐたんだ。も少し行くと、僕の昔の知合ひの家があるんだが、ひよつとするとそこに配給のお酒があるかも知れない。そこは、お酒を飲まない家なんだ。」</p>
          <p>「当つてみてくれ。」</p>
          <p>「うん、やつぱり酒が無くちやいけない。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-184785-185000">竜飛の一つ手前の部落に、その知合ひの家があつた。Ｎ君は帽子を脱いでその家へはひり、しばらくして、笑ひを噛み殺してゐるやうな顔をして出て来て、</seg></p>
          <p>「悪運つよし。水筒に一ぱいつめてもらつて来た。五合以上はある。」</p>
          <p><seg source="#source-185098-185101">「</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-185101-185116"><rb>燠</rb><rt>おき</rt></ruby>が残つてゐたわけだ。行かう。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-185163-185471">もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るやうにして竜飛に向つて突進した。路がいよいよ狭くなつたと思つてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた。</seg></p>
          <p>「竜飛だ。」とＮ君が、変つた調子で言つた。</p>
          <p>「ここが？」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。</p>
          <p>「誰だつて驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはひつてしまつた、と思つてひやりとしたからね。」とＮ君も言つてゐた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-186602-187189">けれども、ここは国防上、ずいぶん重要な土地である。私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければならぬ。露路をとほつて私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、さうして普請も決して薄つぺらでない。まづ、どてらに着換へて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り、やつと、どうやら、人心地を取かへした。</seg></p>
          <p>「ええと、お酒はありますか。」Ｎ君は、思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答へは、案外であつた。</p>
          <p>「へえ、ございます。」おもながの、上品な婆さんである。さう答へて、平然としてゐる。Ｎ君は苦笑して、</p>
          <p>「いや、おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」</p>
          <p>「どうぞ、ナンボでも。」と言つて微笑んでゐる。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-187653-187844">私たちは顔を見合せた。このお婆さんは、このごろお酒が貴重品になつてゐるといふ事実を、知らないのではなからうかとさへ疑はれた。</seg></p>
          <p>「けふ配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて、」と言つて、集めるやうな手つきをして、それから一升瓶をたくさんかかへるやうに腕をひろげて、「さつき内の者が、こんなに一ぱい持つてまゐりました。」</p>
          <p>「それくらゐあれば、たくさんだ。」と私は、やつと安心して、「この鉄瓶でお燗をしますから、お銚子にお酒をいれて、四、五本、いや、めんだうくさい、六本、すぐに持つて来て下さい。」お婆さんの気の変らぬうちに、たくさん取寄せて置いたはうがいいと思つた。「お膳は、あとでもいいから。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-188607-188771">お婆さんは、言はれたとほりに、お盆へ、お銚子を六本載せて持つて来た。一、二本、飲んでゐるうちにお膳も出た。</seg></p>
          <p>「どうぞ、まあ、ごゆつくり。」</p>
          <p>「ありがたう。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-188844-188906">六本のお酒が、またたく間に無くなつた。</seg></p>
          <p>「もう無くなつた。」私は驚いた。「ばかに早いね。早すぎるよ。」</p>
          <p>「そんなに飲んだかね。」とＮ君も、いぶかしさうな顔をして、からのお銚子を一本づつ振つて見て、「無い。何せ寒かつたもので、無我夢中で飲んだらしいね。」</p>
          <p>「どのお銚子にも、こぼれるくらゐ一ぱいお酒がはひつてゐたんだぜ。こんなに早く飲んでしまつて、もう六本なんて言つたら、お婆さんは僕たちを化物ぢやないかと思つて警戒するかも知れない。つまらぬ恐怖心を起させて、もうお酒はかんべんして下さいなどと言はれてもいけないから、ここは、持参の酒をお燗して飲んで、少し<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-189675-189687"><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>をもたせて、それから、もう六本ばかりと言つたはうがよい。今夜は、この本州の北端の宿で、一つ飲み明かさうぢやないか。」と、へんな策略を案出したのが失敗の基であつた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-189932-190096">私たちは、水筒のお酒をお銚子に移して、こんどは出来るだけゆつくり飲んだ。そのうちにＮ君は、急に酔つて来た。</seg></p>
          <p>「こりやいかん。今夜は僕は酔ふかも知れない。」酔ふかも知れないぢやない。既にひどく酔つてしまつた様子である。「こりや、いかん。今夜は、僕は酔ふぞ。いいか。酔つてもいいか。」</p>
          <p>「かまはないとも。僕も今夜は酔ふつもりだ。ま、ゆつくりやらう。」</p>
          <p>「歌を一つやらかさうか。僕の歌は、君、聞いた事が無いだらう。めつたにやらないんだ。でも、今夜は一つ歌ひたい。ね、君、歌つてもいいたらう。」</p>
          <p>「仕方がない。拝聴しよう。」私は覚悟をきめた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-190734-190970">いくう、山河あ、と、れいの牧水の旅の歌を、Ｎ君は眼をつぶつて低く吟じはじめた。想像してゐたほどは、ひどくない。黙つて聞いてゐると、身にしみるものがあつた。</seg></p>
          <p>「どう？　へんかね。」</p>
          <p>「いや、ちよつと、ほろりとした。」</p>
          <p>「それぢや、もう一つ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-191096-191272">こんどは、ひどかつた。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になつたのか、仰天するほどのおそろしい蛮声を張り上げた。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-191272-191499">とうかいのう、小島のう、磯のう、と、啄木の歌をはじめたのだが、その声の荒々しく大きい事、外の風の音も、彼の声のために打消されてしまつたほどであつた。</seg></p>
          <p>「ひどいなあ。」と言つたら、</p>
          <p>「ひどいか。それぢや、やり直し。」大きく深呼吸を一つして、さらに蛮声を張り上げるのである。東海の磯の小島、と間違つて歌つたり、また、どういふわけか突如として、今もまた昔を書けば増鏡、なんて増鏡の歌が出たり、呻くが如く、喚くが如く、おらぶが如く、実にまづい事になつてしまつた。私は、奥のお婆さんに聞えなければいいが、とはらはらしてゐたのだが、果せる哉、襖がすつとあいて、お婆さんが出て来て、</p>
          <p>「さ、歌コも出たやうだし、そろそろ、お休みになりせえ。」と言つて、お膳をさげ、さつさと蒲団をひいてしまつた。さすがに、Ｎ君の気宇広大の蛮声には、度胆を抜かれたものらしい。私はまだまだ、これから、大いに飲まうと思つてゐたのに、実に、馬鹿らしい事になつてしまつた。</p>
          <p>「まづかつた。歌は、まづかつた。一つか二つでよせばよかつたのだ。あれぢやあ、誰だつておどろくよ。」と私は、ぶつぶつ不平を言ひながら、泣寝入りの形であつた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-192752-193021">翌る朝、私は寝床の中で、童女のいい歌声を聞いた。翌る日は風もをさまり、部屋には朝日がさし込んでゐて、童女が表の路で手毬歌を歌つてゐるのである。私は、頭をもたげて、耳をすました。</seg></p>
        </div>
        <div type="layout" source="#source-193021-193202" style="padding-inline-start: 2em">
          <p><seg source="#source-193056-193073">せツせツせ</seg></p>
          <p><seg source="#source-193073-193093">夏もちかづく</seg></p>
          <p><seg source="#source-193093-193107">八十八夜</seg></p>
          <p><seg source="#source-193107-193127">野にも山にも</seg></p>
          <p><seg source="#source-193127-193138">新緑の</seg></p>
          <p><seg source="#source-193138-193152">風に藤波</seg></p>
          <p><seg source="#source-193152-193166">さわぐ時</seg></p>
        </div>
        <div>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私は、たまらない気持になつた。いまでも中央の人たちに蝦夷の土地と思ひ込まれて軽蔑されてゐる本州の北端で、このやうな美しい発音の爽やかな歌を聞かうとは思はなかつた。かの佐藤理学士の言説の如く、「人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まづ文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与へ、而して、いまや見よ云々。」といふやうな、希望に満ちた曙光に似たものを、その可憐な童女の歌声に感じて、私はたまらない気持であつた。</p>
        </div>
        <div type="layout" source="#source-194276-194366" style="padding-inline-start: 5em">
          <div>
            <head n="2" source="#source-194297-194366"><seg source="#source-194318-194336">四　津軽平野</seg></head>
          </div>
        </div>
        <div>
          <p>「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-194451-194466"><rb>越</rb><rt>コシ</rt></ruby><seg source="#source-194466-194532">の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-194532-194553"><rb>齶田</rb><rt>アキタ</rt></ruby><seg source="#source-194553-194571">（今の秋田）</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-194571-194592"><rb>渟代</rb><rt>ヌシロ</rt></ruby><seg source="#source-194592-194772">（今の能代）津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-194772-194799"><rb>石布</rb><rt>イハシキ</rt></ruby><seg source="#source-194799-194859">、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-194859-194910"><rb>伊吉連博徳</rb><rt>ユキノムラジハカトコ</rt></ruby><seg source="#source-194910-194997">、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-194997-195024"><rb>熟蝦夷</rb><rt>ニギエゾ</rt></ruby><seg source="#source-195024-195033">、次を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-195033-195060"><rb>麁蝦夷</rb><rt>アラエゾ</rt></ruby><seg source="#source-195060-195072">、遠きを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-195072-195096"><rb>都加留</rb><rt>ツガル</rt></ruby><seg source="#source-195096-195339">と名くと。其他の蝦夷は、おのづから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の将軍藤原保則、乱を平げて津軽より</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-195339-195366"><rb>渡島</rb><rt>ワタリジマ</rt></ruby><seg source="#source-195366-195617">に至り、雑種の夷人前代未だ嘗て帰附せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽の陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の下に附せし以来の事なるべし。</seg></p>
          <p>「青森県沿革」本県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といひ、明治の初年には此地に弘前・黒石・八戸・<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-195827-195851"><rb>七戸</rb><rt>シチノヘ</rt></ruby><seg source="#source-195851-195860">および</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-195860-195881"><rb>斗南</rb><rt>トナミ</rt></ruby><seg source="#source-195881-196151">の五藩ありしが、明治四年七月列藩を廃して悉く県となし、同年九月府県廃合の事あり。一時みな弘前県に合併せしが、同年十一月弘前県を廃し、青森県を置き、前記の各藩を以て其管下とせしも、後</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-196151-196175"><rb>二戸</rb><rt>ニノヘ</rt></ruby><seg source="#source-196175-196231">郡を岩手県に附し、以て今日に到れり。</seg></p>
          <p>「津軽氏」藤原氏より出でたる氏。鎮守府将軍秀郷より八世秀栄、康和の頃陸奥津軽郡の地を領し、後に津軽十三の湊に城きて居り、津軽を氏とす。明応年中、近衛尚通の子政信、家を継ぐ。政信の孫為信に到りて大に著はる。其子孫わかれて弘前・黒石の旧藩主たりし諸家等となる。</p>
          <p>「津軽為信」戦国時代の武将。父は大浦甚三郎守信、母は堀越城主武田重信の女なり。天文十九年正月生る。幼名扇。永禄十年三月、十八歳の時、伯父津軽為則の養子となり、近衛前久の猶子となれり。妻は為則の女なり。元亀二年五月、南部高信と戦ひこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畠顕村を伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑を略し、十三年には凡そ津軽を一統し、十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還る。十七年、鷹、馬等を秀吉に贈り好を通ず。されば十八年の小田原征伐にも早く秀吉の軍に応じたりしを以て、津軽及合浦・外ヶ浜一円を安堵せり。十九年の九戸乱にも兵を出し、文禄二年四月上洛して秀吉に謁し、又近衛家に謁え、牡丹花の徽章を用ふるを許さる。尋で使を肥前名護屋に遣はし、秀吉の陣を犒ひ、三年正月には従四位下右京大夫となり、慶長五年関ヶ原の役には、兵を出して徳川家康の軍に従ひ、西上して大垣に戦ひ、上野国大館二千石を加増す。十二年十二月五日、京都にて卒す。年五十八。</p>
          <p>「津軽平野」陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を限とし、南は羽後境の矢立峠・立石越等により分水線を劃し、西は岩木山塊と海岸一帯の砂丘（屏風山と称す）に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南より来る<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-198362-198377"><rb>平</rb><rt>ヒラ</rt></ruby><seg source="#source-198377-198401">川及び東より来る</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-198401-198431"><rb>浅瀬石</rb><rt>アサセイシ</rt></ruby><seg source="#source-198431-198835">川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に入る。平野の広袤、南北約十五里、東西の幅約五里、北するに随つて幅は縮小し、木造・五所川原の線にて三里、十三潟の岸に到れば僅かに一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野より出づ。</seg></p>
        </div>
        <div type="layout" source="#source-198835-198912" style="padding-inline-end: 2em; text-align: right">
          <p><seg source="#source-198865-198912">（以上、日本百科大辞典に拠る）</seg></p>
        </div>
        <div>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">津軽の歴史は、あまり人に知られてゐない。陸奥も青森県も津軽と同じものだと思つてゐる人さへあるやうである。無理もない事で、私たちの学校で習つた日本歴史の教科書には、津軽といふ名詞が、たつた一箇所に、ちらと出てゐるだけであつた。すなはち、阿倍比羅夫の蝦夷討伐のところに、「幸徳天皇が崩ぜられて、斉明天皇がお立ちになるや、中大兄皇子は、引続き皇太子として政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた。」といふやうな文章があつて、津軽の名前も出て来るが、本当にもう、それつきり、小学校の教科書にも、また中学校の教科書にも、高等学校の講義にも、その比羅夫のところの他には津軽なんて名前は出て来ない。皇紀五百七十三年の四道将軍の派遣も、北方は今の福島県あたり迄だつたやうだし、それから約二百年後の日本武尊の蝦夷御平定も北は日高見国までのやうで、日高見国といふのは今の宮城県の北部あたりらしく、それから約五百五十年くらゐ経つて大化改新があり、阿倍比羅夫の蝦夷征伐に依つて、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城（今の仙台市附近）秋田城（今の秋田市）を築いて蝦夷を鎮められたと伝へられてゐるだけで津軽の名前はも早や出て来ない。平安時代になつて、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-200628-200661"><rb>胆沢城</rb><rt>いざはじやう</rt></ruby><seg source="#source-200661-201381">（今の岩手県水沢町附近）を築いて鎮所となしたとあるが、津軽まではやつて来なかつたやうである。その後、弘仁年間には文室綿麻呂の遠征があり、また元慶二年には出羽蝦夷の叛乱があり藤原保則その平定に赴き、その叛乱には津軽蝦夷も荷担してゐたとかいふ事であるが、専門家でもない私たちは、蝦夷征伐といへば田村麻呂、その次には約二百五十年ばかり飛んで源平時代初期の、前九年後三年の役を教へられてゐるばかりである。この前九年後三年の役だつて、舞台は今の岩手県・秋田県であつて、安倍氏清原氏などの所謂</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-201381-201411"><rb>熟蝦夷</rb><rt>ニギエゾ</rt></ruby><seg source="#source-201411-201441">が活躍するばかりで、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-201441-201465"><rb>都加留</rb><rt>ツガル</rt></ruby>などといふ奥地の純粋の蝦夷の動静に就いては、私たちの教科書には少しも記されてゐなかつた。それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依つて奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちよつと立つて裾をはたいて坐り直したといふだけの形で、薩長土の各藩に於けるが如き積極性は認められない。まあ、大過なく時勢に便乗した、と言はれても、仕方の無いやうなところがある。結局、もう、何も無い。私たちの教科書、神代の事は申すもかしこし、神武天皇以来現代まで、阿倍比羅夫ただ一個所に於いて「津軽」の名前を見つける事が出来るだけだといふのは、まことに心細い。いつたい、その間、津軽では何をしてゐたのか。ただ、裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、眼をぱちくりさせてゐただけの事なのか。いやいやさうではないらしい。ご当人に言はせると、「かう見えても、これでなかなか忙がしくてねえ。」といふやうなところらしい。</p>
          <p>「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-202898-202916"><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であつた。名義は『道の奥』で、略されて『みちのく』となつた。その『みち』の国の名を、古い地方音によつて『むつ』と発音し、『むつ』の国となつた。この地方は東海東山両道の末をうけて、一番奥にある異民族住居の国であつたから、漠然と道の奥と呼んだに他ならぬ。漢字『陸』は『道』の義である。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">次に出羽は『いでは』で、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-203461-203485"><rb>出端</rb><rt>いではし</rt></ruby><seg source="#source-203485-203581">の義と解せられる。古は本州中部から東北の日本海方面地方を、漠然と</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-203581-203596"><rb>越</rb><rt>こし</rt></ruby><seg source="#source-203596-203641">の国と呼んだ。これも奥の方は、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-203641-203665"><rb>陸奥</rb><rt>みちのく</rt></ruby><seg source="#source-203665-203734">と同じく、久しく異民族住居の化外の地で、これを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-203734-203758"><rb>出端</rb><rt>いではし</rt></ruby>と言つたのであらう。即ち太平洋方面なる陸奥と共に、もと久しく王化の外に置かれた僻陬であつたことを、その名に示してゐる。」といふのは、喜田博士の解説であるが、簡明である。解説は簡単で明瞭なるに越した事はない。出羽奥州すでに化外の僻陬と見なされてゐたのだから、その極北の津軽半島などに到つては熊や猿の住む土地くらゐに考へられてゐたかも知れない。喜田博士は、さらに奥羽の沿革を説き、「頼朝の奥羽平定以後と雖も、その統治に当り自然他と同一なること能はず、『出羽陸奥に於いては夷の地たるによりて』との理由のもとに、一旦実施しかけた田制改革の処分をも中止して、すべて秀衡、泰衡の旧規に従ふべきことを命ずるのやむを得ざる程であつた。随つて最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存するもの多く、直接鎌倉武士を以てしては、これを統治し難い事情があつたと見えて、土豪<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-204886-204913"><rb>安東</rb><rt>あんどう</rt></ruby>氏を代官に任じ、蝦夷管領としてこれを鎮撫せしめた。」といふやうな事を記してゐる。この安東氏の頃あたりから、まあ、少しは津軽の事情もわかつて来る。その前は、何が何やら、アイヌがうろうろしてゐただけの事かも知れない。しかし、このアイヌは、ばかに出来ない。所謂日本の先住民族の一種であるが、いま北海道に残つてしよんぼりしてゐるアイヌとは、根本的にたちが違つてゐたものらしい。その遺物遺跡を見るに、世界のあらゆる石器時代の土器に比して優位をしめてゐる程であるとも言はれ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随つて石器時代にも、奥羽地方の同族に見るが如き発達を遂げるに到らず、殊に近世は、松前藩以来、内地人の圧迫を被ること多く、甚しく去勢されて、堕落の極に達してゐるのに反し、奥羽のアイヌは、溌剌と独自の文化を誇り、或いは内地諸国に移住し、また内地人も奥羽へ盛んに入り込んで来て、次第に他の地方と区別の無い大和民族になつてしまつた。それに就いて理学博士小川琢治氏も、次のやうに論断してゐるやうである。「続日本紀には奈良朝前後に粛慎人及び渤海人が、日本海を渡つて来朝した記載がある。そのうち特に著しいのは聖武天皇の天平十八年（一四〇六年）及び光仁天皇の宝亀二年（一四三一年）の如く渤海人千余人、つぎに三百余人の多人数が、それぞれ今の秋田地方に来着した事実で、満洲地方と交通が頗る自由に行はれたのは想像し難くない。秋田附近から五銖銭が出土したことがあり、東北には漢文帝武帝を祀つた神社があつたらしいのは、いづれも直接の交通が大陸とこの地方との間に行はれたことを推測せしめる。今昔物語に、安倍頼時が満洲に渡つて見聞したことを載せたのは、これらの考古学及び土俗学上の資料と併せ考へて、決して一場の説話として捨てるべきものでない。われわれは、更に一歩を進めて、当時の東北蕃族は皇化東漸以前に、大陸との直接の交通に依つて得たる文華の程度が、不充分なる中央に残つた史料から推定する如く、低級ではなかつたことを同時に確信し得られるのである。田村麻呂、頼義、義家などの武将が、これを緩服するに頗る困難であつたのも、敵手が単に無智なるがために精悍なる台湾生蕃の如き土族でなかつたと考へて、はじめて氷解するのである。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-207837-207918">さうして、小川博士は、大和朝廷の大官たちが、しばしば</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-207918-207939"><rb>蝦夷</rb><rt>えみし</rt></ruby><seg source="#source-207939-207942">、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-207942-207969"><rb>東人</rb><rt>あづまびと</rt></ruby><seg source="#source-207969-207972">、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-207972-207993"><rb>毛人</rb><rt>けびと</rt></ruby>などと名乗つたのは、一つには、奥羽地方人の勇猛、またはその異国的なハイカラな情緒にあやかりたいといふ意味もあつたのではなからうかと考へてみるのも面白いではないか、といふやうな事も言ひ添へてゐる。かうして見ると、津軽人の祖先も、本州の北端で、決してただうろうろしてゐたわけでは無かつたやうでもあるが、けれども、中央の歴史には、どういふものか、さつぱり出て来ない。わづかに、前述の安東氏あたりから、津軽の様子が、ほのかに分明して来る。喜田博士の曰く、「安東氏は自ら安倍貞任の子<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-208701-208728"><rb>高星</rb><rt>たかぼし</rt></ruby><seg source="#source-208728-208761">の後と称し、その遠祖は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-208761-208794"><rb>長髄彦</rb><rt>ながすねひこ</rt></ruby><seg source="#source-208794-208800">の兄</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-208800-208821"><rb>安日</rb><rt>あび</rt></ruby><seg source="#source-208821-209447">なりと言つてゐる。長髄彦、神武天皇に抗して誅せられ、兄安日は奥州外ヶ浜に流されて、その子孫安倍氏となつたといふのである。いづれにしても鎌倉時代以前よりの、北奥の大豪族であつたに相違ない。津軽に於いて、口三郡は鎌倉役であり、奥三郡は御内裏様御領で、天下の御帳に載らざる無役の地だつたと伝へられてゐるのは、鎌倉幕府の威力もその奥地に及ばず、安東氏の自由に委して、謂はゆる守護不入の地となつてゐたことを語つたものであらう。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">鎌倉時代の末、津軽に於いて安東氏一族の間に内訌あり、遂に蝦夷の騒乱となるに到つて、幕府の執権北条高時、将を遣はしてこれを鎮撫せしめたが、鎌倉武士の威力を以てしてこれに勝つ能はず、結局和談の儀を以て引き上げたとある。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">さすがの喜田博士も津軽の歴史を述べるに当つては、少し自信のなささうな口振りである。まつたく、津軽の歴史は、はつきりしないらしい。ただ、この北端の国は、他国と戦ひ、負けた事が無いといふのは本当のやうだ。服従といふ観念に全く欠けてゐたらしい。他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振りをして勝手に振舞はせてゐたらしい。昭和文壇に於ける誰かと似てゐる。それはともかく、他国が相手にせぬので、仲間同志で悪口を言ひ合ひ格闘をはじめる。安東氏一族の内訌に端を発した津軽蝦夷の騒擾などその一例である。津軽の人、竹内運平氏の青森県通史に拠れば、「この安東一族の騒乱は、引いて関八州の騒動となり、所謂北条九代記の『是ぞ天地の命の革むべき危機の初め』となつてやがては元弘の変となり、建武の中興となつた。」とあるが、或いはその御大業の遠因の一つに数へられてしかるべきものかも知れない。まことならば、津軽が、ほんの少しでも中央の政局を動かしたのは、実にこれ一つといふ事になつて、この安東氏一族の内訌は、津軽の歴史に特筆大書すべき光栄ある記録とでも言はなければならなくなる。いまの青森県の太平洋寄りの地方は古くから<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-211258-211282"><rb>糠部</rb><rt>ぬかのぶ</rt></ruby>と称する蝦夷地であつたが、鎌倉時代以後、ここに甲州武田氏の一族南部氏が移り住み、その勢ひ頗る強大となり、吉野、室町時代を経て、秀吉の全国統一に到るまで、津軽はこの南部と争ひ、津軽に於いては安東氏のかはりに津軽氏が立ち、どうやら津軽一国を安堵し、津軽氏は十二代つづいて、明治維新、藩主承昭は藩籍を謹んで奉還したといふのが、まあ、津軽の歴史の大略である。この津軽氏の遠祖に就いては諸説がある。喜田博士もそれに触れて、「津軽に於いては、安東氏没落し、津軽氏独立して南部氏と境を接して長く相敵視するの間柄となつた。津軽氏は近衛関白尚通の後裔と称してゐる。しかし一方では南部氏の分れであるといひ、或ひは藤原基衡の次男<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-212191-212218"><rb>秀栄</rb><rt>ひでしげ</rt></ruby>の後だとも、或ひは安東氏の一族であるかの如くにも伝へ、諸説紛々適従するところを知らぬ。」と言つてゐる。また、竹内運平氏もその事に就いて次のやうに述べてゐる。「南部家と津軽家とは江戸時代を通じ、著しく感情の疎隔を有しつつ終始した。右の原因は、南部氏が津軽家を以て祖先の敵であり旧領を押領せるものと見做す事、及び津軽家はもと南部の一族であり、被官の地位にあつたのに其主に背いたと称し、また一方、津軽家にては、わが遠祖は藤原氏であり、中世に於いても近衛家の血統の加はれるものである、と主張する事等から起つて居るらしい。勿論、事実に於いて南部高信は津軽為信のために亡ぼされ、津軽郡中の南部方の諸城は奪取せられて居るのみならず、為信数代の祖大浦光信の母は、南部久慈備前守の女であり、以後数代南部信濃守と称して居る家柄であつたから、南部氏の津軽家に対し一族の裏切者として深怨を含んで居る事も無理のない事と思ふ。なほ、津軽家はその遠祖を藤原、近衛家などに求めてゐるが、現在より見ては、必ずしも吾等を首肯せしむる根本証拠を伴うて居るものではない。南部氏に非ず、との弁護の立場を取つて居る可足記の如きも、甚だ力弱い論旨を示して居る。古くは津軽に於いても高屋家記の如きは、大浦氏を以て南部家の支族とし、木立日記にも『南部様津軽様御家は御一体なり』と云ひ、近来出版になつた読史備要等も為信を久慈氏（南部氏一族）として居る事に対し、それを否定すべき確実なる資料は、今のところ無いやうに思ふ。しかし津軽には過去にこそ南部の血統もあり、また被官ではあつても、血統の他の一面にはどんな由緒のものもないとは云へない。」と喜田博士同様、断乎たる結論は避けてゐる。それを簡明直截に疑はず規定してゐるのは、日本百科大辞典だけであつたから、一つの参考としてこの章のはじめに載せて置いた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">以上くだくだしく述べて来たが、考へてみると、津軽といふのは、日本全国から見てまことに渺たる存在である。芭蕉の「奥の細道」には、その出発に当り、「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」と書いてあるが、それだつて北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍歩かなければならぬ。さうして、その青森県の日本海寄りの半島たつた一つが津軽なのである。昔の津軽は、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下つてせいぜい深浦あたり迄、さうして南は、まあ弘前迄といつていいだらう。分家の黒石藩が南にあるが、この辺にはまた黒石藩としての独自の伝統もあり、津軽藩とちがつた所謂文化的な気風も育成せられてゐるやうだから、これは除いて、さうして、北端は竜飛である。まことに心細いくらゐに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかつたのも無理はないと思はれて来る。私は、その「道の奥」の奥の極点の宿で一夜を明し、翌る日、やつぱりまだ船が出さうにも無いので、前日歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまつすぐに蟹田のＮ君の家へ帰つて来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかへて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなつてゐた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があつて山中には路らしい路も無いやうな有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。金木の生家に着いて、まづ仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-217059-217080"><rb>常居</rb><rt>じよゐ</rt></ruby><seg source="#source-217080-217154">といふ家族の居間にさがつて、改めて嫂に挨拶した。</seg></p>
          <p>「いつ、東京を？」と嫂は聞いた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-217204-217545">私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思つてゐますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思つてゐますから、その折にはよろしくお願ひします、といふやうな葉書を嫂に差上げてゐたのである。</seg></p>
          <p>「一週間ほど前です。東海岸で、手間どつてしまひました。蟹田のＮ君には、ずいぶんお世話になりました。」Ｎ君の事は、嫂も知つてゐる筈だつた。</p>
          <p>「さう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配してゐました。陽子や<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-217925-217940"><rb>光</rb><rt>みつ</rt></ruby>ちやんなどは、とても待つて、毎日交代に停車場へ出張してゐたのですよ。おしまひには、怒つて、もう来たつて知らない、と言つてゐた人もありました。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-218155-218823">陽子といふのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちよいちよい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやつて来てゐたのである。光ちやんといふのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝ひに来てゐる素直な子である。その二人の姪が、からみ合ひながら、えへへ、なんておどけた笑ひ方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少しも奥さんらしくない。</seg></p>
          <p>「をかしい恰好。」と私の服装をすぐに笑つた。</p>
          <p>「ばか。これが、東京のはやりさ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-218944-219024">嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。</seg></p>
          <p>「よく来た。ああ、よく来た。」と大声で言ふ。元気な人だつたが、でも、さすがに少し弱つて来てゐるやうにも見えた。</p>
          <p>「どうしますか。」と嫂は私に向つて、「ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんなゐるんですけど。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-219340-219450">陽子のお婿さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめてゐる様子である。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-219450-219629">兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらゐ打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかつてゐない。</seg></p>
          <p>「お差支へなかつたら、二階へ行きませうか。」ここでひとりで、ビールなど飲んでゐるのも、いぢけてゐるみたいで、いやらしい事だと思つた。</p>
          <p>「どちらだつて、かまひませんよ。」嫂は笑ひながら、「それぢや、二階へお膳を。」と光ちやんたちに言ひつけた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-219990-220083">私はジヤンパー姿のままで二階に上つて行つた。金襖の一ばんいい</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-220083-220110"><rb>日本間</rb><rt>にほんま</rt></ruby><seg source="#source-220110-220205">で、兄たちは、ひつそりお酒を飲んでゐた。私はどたばたとはひり、</seg></p>
          <p>「修治です。はじめて。」と言つて、まづお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言つて、ちよつと首肯いたきりだつた。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言つていいかも知れない。私は慣れてゐるので平気でお膳について、光ちやんと嫂のお酌で、黙つてお酒を飲んでゐた。お婿さんは、床柱をうしろにして坐つて、もうだいぶお顔が赤くなつてゐる。兄たちも、昔はお酒に強かつたやうだが、このごろは、めつきり弱くなつたやうで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互ひゆづり合つてゐる。外ヶ浜で荒つぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のやうで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。</p>
          <p>「蟹は、どうしませう。あとで？」と嫂は小声で私に言つた。私は蟹田の蟹を少しお土産に持つて来たのだ。</p>
          <p>「さあ。」蟹といふものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちよつと躊躇した。嫂も同じ気持だつたのかも知れない。</p>
          <p>「蟹？」と長兄は聞きとがめて、「かまひませんよ。持つて来なさい。ナプキンも一緒に。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-221728-221814">今夜は、長兄もお婿さんがゐるせゐか、機嫌がいいやうだ。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-221814-221834">蟹が出た。</seg></p>
          <p>「おあがり、なさいませんか。」と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まつさきに蟹の甲羅をむいた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-221974-222006">私は、ほつとした。</seg></p>
          <p>「失礼ですが、どなたです。」お婿さんは、無邪気さうな笑顔で私に言つた。はつと思つた。無理もないとすぐに思ひ直して、</p>
          <p>「はあ、あのう、英治さん（次兄の名）の弟です。」と笑ひながら答へたが、しよげてしまつて、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかつたかしら、と卑屈に気を使つて、次兄の顔色を伺つたが、次兄は知らん顔をしてゐるので、取りつく島も無かつた。ま、いいや、と私は膝を崩して、光ちやんに、こんどはビールをお酌させた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-222637-223125">金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、かうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、さうしてその原稿を売らなければ生きて行けないといふ悪い宿業を背負つてゐる男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕ひ、あちこちうろつき、さうして死ぬのかも知れない。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-223125-223457">翌る日は、雨であつた。起きて二階の長兄の応接間へ行つてみたら、長兄はお婿さんに絵を見せてゐた。金屏風が二つあつて、一つには山桜、一つには田園の山水とでもいつた閑雅な風景が画かれてゐる。私は落款を見た。が、読めなかつた。</seg></p>
          <p>「誰です。」と顔を赤らめ、おどおどしながら聞いた。</p>
          <p>「スイアン。」と兄は答へた。</p>
          <p>「スイアン。」まだわからなかつた。</p>
          <p>「知らないのか。」兄は別に叱りもせず、おだやかにさう言つて、「百穂のお父さんです。」</p>
          <p>「へえ？」百穂のお父さんもやつぱり画家だつたといふ事は聞いて知つてゐたが、そのお父さんが<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-223891-223915"><rb>穂庵</rb><rt>すいあん</rt></ruby><seg source="#source-223915-224077">といふ人で、こんないい絵をかくとは知らなかつた。私だつて、絵はきらひではないし、いや、きらひどころか、かなり</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-224077-224092"><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby><seg source="#source-224092-224496">のつもりでゐたのだが、穂庵を知らなかつたとは、大失態であつた。屏風をひとめ見て、おや？　穂庵、と軽く言つたなら、長兄も少しは私を見直したかも知れなかつたのに、間抜けた声で、誰です、は情ない。取返しのつかぬ事になつてしまつた、と身悶えしたが、兄は、そんな私を問題にせず、</seg></p>
          <p>「秋田には、偉い人がゐます。」とお婿さんに向つて低く言つた。</p>
          <p>「津軽の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-224600-224624"><rb>綾足</rb><rt>あやたり</rt></ruby>はどうでせう。」名誉恢復と、それから、お世辞のつもりもあつて、私は、おつかなびつくり出しやばつてみた。津軽の画家といへば、まあ、綾足くらゐのものらしいが、実はこれも、この前に金木へ来た時、兄の持つてゐる綾足の画を見せてもらつて、はじめて、津軽にもこんな偉い画家がゐたといふ事を知つた次第なのである。</p>
          <p>「あれは、また、べつのもので。」と兄は全く気乗りのしないやうな口調で呟いて、椅子に腰をおろした。私たちは皆、立つて屏風の絵を眺めてゐたのだが、兄が坐つたので、お婿さんもそれと向ひ合つた椅子に腰をかけ、私は少し離れて、入口の傍のソフアに腰をおろした。</p>
          <p>「この人などは、まあ、これで、ほんすぢでせうから。」とやはりお婿さんのはうを向いて言つた。兄は前から、私には、あまり直接話をしない。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-225647-225793">さう言へば、綾足のぼつてりした重量感には、もう少しどうかするとゲテモノに落ちさうな不安もある。</seg></p>
          <p>「文化の伝統、といひますか、」兄は背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、「やつぱり、秋田には、根強いものがあると思ひます。」</p>
          <p>「津軽は、だめか。」何を言つても、ぶざまな結果になるので、私はあきらめて、笑ひながらひとりごとを言つた。</p>
          <p>「こんど、津軽の事を何か書くんだつて？」と兄は、突然、私に向つて話しかけた。</p>
          <p>「ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので、」と私はしどろもどろになり、「何か、いい参考書でも無いでせうか。」</p>
          <p>「さあ、」と兄は笑ひ、「わたしも、どうも、郷土史にはあまり興味が無いので。」</p>
          <p>「津軽名所案内といつたやうな極く大衆的な本でも無いでせうか。まるで、もう、何も知らないのですから。」</p>
          <p>「無い、無い。」と兄は私のずぼらに呆れたやうに苦笑しながら首を振つて、それから立ち上つてお婿さんに、</p>
          <p>「それぢやあ、わたしは農会へちよつと行つて来ますから、そこらにある本でも御覧になつて、どうも、けふはお天気がわるくて。」と言つて出かけて行つた。</p>
          <p>「農会も、いま、いそがしいのでせうね。」と私はお婿さんに尋ねた。</p>
          <p>「ええ、いま、ちやうど米の供出割当の決定があるので、たいへんなのです。」とお婿さんは若くても、地主だから、その方面の事はよく知つてゐる。いろいろこまかい数字を挙げて説明してくれたが、私には、半分もわからなかつた。</p>
          <p>「僕などは、いままで米の事などむきになつて考へた事は無かつたやうなものなのですが、でも、こんな時代になつて来ると、やはり汽車の窓から水田をそれこそ、わが事のやうに一喜一憂して眺めてゐるのですね。ことしは、いつまでも、こんなにうすら寒くて、田植ゑもおくれるんぢやないでせうか。」私は、れいに依つて専門家に向ひ、半可通を振りまはした。</p>
          <p>「大丈夫でせう。このごろは寒ければ寒いで、対策も考へて居りますから。苗の発育も、まあ、普通のやうです。」</p>
          <p>「さうですか。」と私は、もつともらしい顔をして首肯き、「僕の知識は、きのふ汽車の窓からこの津軽平野を眺めて得ただけのものなのですが、馬耕といふんですか、あの馬に挽かせて田を打ちかへすあれを、牛に挽かせてやつてゐるのがずいぶん多いやうですね。僕たちの子供の頃には、馬耕に限らず、荷車を挽かせるのでも何でも、全部、馬で、牛を使役するといふ事は、ほとんど無かつたんですがね。僕なんか、はじめて東京へ行つた時、牛が荷車を挽いてゐるのを見て、奇怪に感じた程です。」</p>
          <p>「さうでせう。馬はめつきり少くなりました。たいてい、出征したのです。それから、牛は飼養するのに手数がかからないといふ関係もあるでせうね。でも、仕事の能率の点では、牛は馬の半分、いや、もつともつと駄目かも知れません。」</p>
          <p>「出征といへば、もう、――」</p>
          <p>「僕ですか？　もう、二度も令状をいただきましたが、二度とも途中でかへされて、面目ないんです。」健康な青年の、くつたくない笑顔はいいものだ。「こんどは、かへされたくないと思つてゐるんですが。」自然な口調で、軽く言つた。</p>
          <p>「この地方に、これは偉い、としんから敬服出来るやうな、隠れた大人物がゐないものでせうか。」</p>
          <p>「さあ、僕なんかには、よくわかりませんけど、篤農家などと言はれてゐる人の中に、ひよつとしたら、あるんぢやないでせうか。」</p>
          <p>「さうでせうね。」私は大いに同感だつた。「僕なんかも、理窟は下手だし、まあ篤文家とでもいつたやうな<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-229978-229993"><rb>痴</rb><rt>こけ</rt></ruby>の一念で生きて行きたいと思つてゐるのですが、どうも、つまらぬ虚栄などもあつて、常識的な、きざつたらしい事になつてしまつて、ものになりません。しかし、篤農家も、篤農家としてあまり大きいレツテルをはられると、だめになりはしませんか。」</p>
          <p>「さう。さうです。新聞社などが無責任に矢鱈に騒ぎ立て、ひつぱり出して講演をさせたり何かするので、せつかくの篤農家も妙な男になつてしまふのです。有名になつてしまふと、駄目になります。」</p>
          <p>「まつたくですね。」私はそれにも同感だつた。「男つて、あはれなものですからね。名声には、もろいものです。ジヤアナリズムなんて、もとをただせば、アメリカあたりの資本家の発明したもので、いい加減なものですからね。毒薬ですよ。有名になつたとたんに、たいてい腑抜けになつてゐますからね。」私は、へんなところで自分の一身上の鬱憤をはらした。こんな不平家は、しかし、さうは言つても、内心では有名になりたがつてゐるといふやうな傾向があるから、注意を要する。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-231280-232465">ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一草も変つてゐない感じであつた。かうして、古い家をそのまま保持してゐる兄の努力も並たいていではなからうと察した。池のほとりに立つてゐたら、チヤボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。私には、あの句がわからなかつた。どこがいいのか、さつぱり見当もつかなかつた。名物にうまいものなし、と断じてゐたが、それは私の受けた教育が悪かつたせゐであつた。あの古池の句に就いて、私たちは学校で、どんな説明を与へられてゐたか。森閑たる昼なほ暗きところに蒼然たる古池があつて、そこに、どぶうんと（大川へ身投げぢやあるまいし）蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々、一鳥蹄きて山さらに静かなりとはこの事だ、と教へられてゐたのである。なんといふ、思はせぶりたつぷりの、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-232465-232489"><rb>月並</rb><rt>つきなみ</rt></ruby><seg source="#source-232489-233667">な駄句であらう。いやみつたらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ちならん、と永い間、私はこの句を敬遠してゐたのだが、いま、いや、さうぢやないと思ひ直した。どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなつてしまふのだ。余韻も何も無い。ただの、チヤボリだ。謂はば世の中のほんの片隅の、実にまづしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあつたのだ。古池や蛙飛び込む水の音。さう思つてこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしてゐる。謂はば破格の着想である。月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まづしいものの、まづしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけも、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。いい芸術家は、かう来なくつちや嘘だ、とひとりで興奮して、その夜、旅の手帖にかう書いた。</seg></p>
          <p>「山吹や蛙飛び込む水の音。其角、ものかは。なんにも知らない。われと来て遊べや親の無い雀。すこし近い。でも、あけすけでいや<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-233847-233859"><rb>味</rb><rt>み</rt></ruby>。古池や、無類なり。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-233894-234083">翌る日は、上天気だつた。姪の陽子と、そのお婿さんと、私と、それからアヤが皆のお弁当を背負つて、四人で、金木町から一里ほど東の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-234083-234110"><rb>高流</rb><rt>たかながれ</rt></ruby><seg source="#source-234110-234720">と称する二百メートル足らずの、なだらかな小山に遊びに行つた。アヤ、と言つても、女の名前ではない。ぢいや、といふ程の意味である。お父さん、といふ意味にも使はれる。アヤに対する Femme は、アパである。アバとも言ふ。どういふところから、これらの言葉が起つて来たのか、私には、わからない。オヤ、オバの訛りか、などと当てずつぱうしてみたつてはじまらない。諸家の諸説がある事であらう。高流といふ山の名前も、姪の説に依ると、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-234720-234750"><rb>高長根</rb><rt>たかながね</rt></ruby>といふのが正しい呼び方で、なだらかに裾のひろがつてゐるさまが、さながら長根の感じとか何とかといふ事であつたが、これにもまた諸家の諸説があるのであらう。諸家の諸説が紛々として帰趨の定まらぬところに、郷土学の妙味がある様子である。姪とアヤは、お弁当や何かで手間取つてゐるので、お婿さんと私とだけ、一足さきに家を出た。よい天気である。津軽の旅行は、五、六月に限る。れいの「東遊記」にも、「昔より北地に遊ぶ人は皆夏ばかりなれば、草木も青み渡り、風も南風に変り、海づらものどかなれば、恐ろしき名にも立ざる事と覚ゆ。我北地に到りしは、九月より三月の頃なれば、途中にて旅人には絶えて逢ふ事なかりし。我旅行は医術修行の為なれば、格別の事なり。只名所をのみ探らんとの心にて行く人は必ず四月以後に行くべき国なり。」としてあるが、旅行の達人の言として、読者もこれだけは信じて、覚えて置くがよい。津軽では、梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度にこの頃、花が咲くのである。自信ありげに、私が先に立つて町はづれまで歩いて来たが、高流へ行く路がわからない。小学校の頃に二、三度行つた事があるきりなのだから、忘れるのも無理はないとも思つたが、しかし、その辺の様子が、幼い頃の記憶とまるで違つてゐる。私は当惑して、</p>
          <p>「停車場や何か出来て、この辺は、すつかり変つて、高流には、どう行けばいいのか、わからなくなりました。あの山なんですがね。」と私は、前方に見える、への字形に盛りあがつた薄みどり色の丘陵を指差して言つた。「この辺で、少しぶらぶらして、アヤたちを待つ事にしませう。」とお婿さんに笑ひながら提案した。</p>
          <p>「さうしませう。」とお婿さんも笑ひながら、「この辺に、青森県の修錬農場があるとか聞きましたけど。」私よりも、よく知つてゐる。</p>
          <p>「さうですか。捜してみませう。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-237047-237745">修錬農場は、その路から半丁ほど右にはひつた小高い丘の上にあつた。農村中堅人物の養成と拓士訓練の為に設立せられたもののやうであるが、この本州の北端の原野に、もつたいないくらゐの堂々たる設備である。秩父の宮様が弘前の八師団に御勤務あそばされていらつしやつた折に、かしこくも、この農場にひとかたならず御助勢下されたとか、講堂もその御蔭で、地方稀に見る荘厳の建物になつて、その他、作業場あり、家畜小屋あり、肥料蓄積所、寄宿舎、私は、ただ、眼を丸くして驚くばかりであつた。</seg></p>
          <p>「へえ？　ちつとも、知らなかつた。金木には過ぎたるものぢやないですか。」さう言ひながら、私は、へんに嬉しくて仕方が無かつた。やつぱり自分の生れた土地には、ひそかに、力こぶをいれてゐるものらしい。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-238038-238832">農場の入口に、大きい石碑が立つてゐて、それには、昭和十年八月、朝香宮様の御成、同年九月、高松宮様の御成、同年十月、秩父宮様ならびに同妃宮様の御成、昭和十三年八月に秩父宮様ふたたび御成、といふ幾重もの光栄を謹んで記してゐるのである。金木町の人たちは、この農場を、もつともつと誇つてよい。金木だけではない、これは、津軽平野の永遠の誇りであらう。実習地とでもいふのか、津軽の各部落から選ばれた模範農村青年たちの作つた畑や果樹園、水田などが、それらの建築物の背後に、実に美しく展開してゐた。お婿さんはあちこち歩いて耕地をつくづく眺め、</seg></p>
          <p>「たいしたものだなあ。」と溜息をついて言つた。お婿さんは地主だから、私などより、ずいぶんいろいろ、わかるところがあるのであらう。</p>
          <p>「や！　富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-239416-239437"><rb>銀杏</rb><rt>いてふ</rt></ruby><seg source="#source-239437-239694">の葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟たる美女ではある。</seg></p>
          <p>「金木も、どうも、わるくないぢやないか。」私は、あわてたやうな口調で言つた。「わるくないよ。」口をとがらせて言つてゐる。</p>
          <p>「いいですな。」お婿さんは落ちついて言つた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-239944-240810">私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどつしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまつて、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いといふ伝説もあるさうだが、米のはうはともかく、この北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のはうは、どうも、心細いやうに、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせゐかも知れない。</seg></p>
          <p>「アヤたちは、どうしたでせうね。」ふつと私は、その事が心配になり出した。「どんどんさきに行つてしまつたんぢやないかしら。」アヤたちの事を、つい忘却してゐるほど、私たちは、修錬農場の設備や風景に感心してしまつてゐたのである。私たちは、もとの路に引返して、あちこち見廻してゐると、アヤが、思ひがけない傍系の野路からひよつこり出て来て、わしたちは、いままであなたたちを手わけしてさがしてゐた、と笑ひながら言ふ。アヤは、この辺の野原を捜し廻り、姪は、高流へ行く路をまつすぐにどんどん後を追つかけるやうにして行つたといふ。</p>
          <p>「そいつあ気の毒だつたな。陽ちやんは、それぢやあ、ずいぶん遠くまで行つてしまつたらうね。おうい。」と前方に向つて大声で呼んだが、何の返辞も無い。</p>
          <p>「まゐりませう。」とアヤは背中の荷物をゆすり上げて、「どうせ、一本道ですから。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-241920-242711">空には雲雀がせはしく囀つてゐる。かうして、故郷の春の野路を歩くのも、二十年振りくらゐであらうか。一面の芝生で、ところどころに低い灌木の繁みがあつたり、小さい沼があつたり、土地の起伏もゆるやかで、一昔前だつたら都会の人たちは、絶好のゴルフ場とでも言つてほめたであらう。しかも、見よ、いまはこの原野にも着々と開墾の鍬が入れられ、人家の屋根も美しく光り、あれが更生部落、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木も発展して、賑やかになつたものだと、しみじみ思つた。そろそろ、山の登り坂にさしかかつても、まだ姪の姿が見えない。</seg></p>
          <p>「どうしたのでせうね。」私は、母親ゆづりの苦労性である。</p>
          <p>「いやあ、どこかにゐるでせう。」新郎は、てれながらも余裕を見せた。</p>
          <p>「とにかく、聞いてみませう。」私は路傍の畑で働いてゐるお百姓さんに、スフの帽子をとつてお辞儀をして、「この路を、洋服を着た若いアネサマがとほりませんでしたか。」と尋ねた。とほつた、といふ答へである。何だか、走るやうに、ひどくいそいでとほつたといふ。春の野路を、走るやうにいそいで新郎の後を追つて行く姪の姿を想像して、わるくないと思つた。しばらく山を登つて行くと、並木の落葉松の蔭に姪が笑ひながら立つてゐた。ここまで追つかけて来てもゐないから、あとから来るのだらうと思つて、ここでワラビを取つてゐたといふ。別に疲れた様子も見えない。この辺は、ワラビ、ウド、アザミ、タケノコなど山菜の宝庫らしい。秋には、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-243798-243822"><rb>初茸</rb><rt>はつたけ</rt></ruby>、土かぶり、なめこなどのキノコ類が、アヤの形容に依れば「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-243906-243918"><rb>敷</rb><rt>し</rt></ruby>かさつてゐるほど」一ぱい生えて、五所川原、木造あたりの遠方から取りに来る人もあるといふ。</p>
          <p>「陽ちやまは、きのこ取りの名人です。」と言ひ添へた。また、山を登りながら、</p>
          <p>「金木へ、宮様がおいでになつたさうだね。」と私が言ふと、アヤは、改まつた口調で、はい、と答へた。</p>
          <p>「ありがたい事だな。」</p>
          <p>「はい。」と緊張してゐる。</p>
          <p>「よく、金木みたいなところに、おいで下さつたものだな。」</p>
          <p>「はい。」</p>
          <p>「自動車で、おいでになつたか。」</p>
          <p>「はい。自動車でおいでになりました。」</p>
          <p>「アヤも、拝んだか。」</p>
          <p>「はい。拝ませていただきました。」</p>
          <p>「アヤは、仕合せだな。」</p>
          <p>「はい。」と答へて、首筋に巻いてゐるタオルで顔の汗を拭いた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-244817-245584">鶯が鳴いてゐる。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路の両側の芝生に明るく咲いてゐる。背の低い柳、カシハも新芽を出して、さうして山を登つて行くにつれて、笹がたいへん多くなつた。二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言ひたいくらゐのものであつた。私たちは立ちどまつて、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、また少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。</seg></p>
          <p>「これが頂上か。」私はちよつと気抜けして、アヤに尋ねた。</p>
          <p>「はい、さうです。」</p>
          <p>「なあんだ。」とは言つたものの、眼前に展開してゐる春の津軽平野の風景には、うつとりしてしまつた。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光つて見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のやうに鈍く光つてゐるのは、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-246011-246032"><rb>田光</rb><rt>たつぴ</rt></ruby><seg source="#source-246032-246185">沼であらうか。さらにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがつてゐるのは、十三湖らしい。十三湖あるいは十三</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-246185-246203"><rb>潟</rb><rt>がた</rt></ruby>と呼ばれて、「津軽大小の河水凡そ十有三の派流、この地に落合ひて大湖となる。しかも各河川固有の色を失はず。」と「十三往来」に記され、津軽平野北端の湖で、岩木川をはじめ津軽平野を流れる大小十三の河川がここに集り、周囲は約八里、しかし、河川の運び来る土砂の為に、湖底は浅く、最も深いところでも三メートルくらゐのものだといふ。水は、海水の流入によつて鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、その河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでゐるといふ。湖が日本海に開いてゐる南口に、十三といふ小さい部落がある。この辺は、いまから七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であつたといふ説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいふ話であるが、いまはその一片の面影も無いやうである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはひる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさつと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一眸の内である。北は権現崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無い。</p>
          <p>「これはいい。僕だつたら、ここへお城を築いて、」と言ひかけたら、</p>
          <p>「冬はどうします？」と陽子につつ込まれて、ぐつとつまつた。</p>
          <p>「これで、雪が降らなければなあ。」と私は、幽かな憂鬱を感じて歎息した。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-248038-248259">山の陰の谷川に降りて、河原で弁当をひらいた。渓流にひやしたビールは、わるくなかつた。姪とアヤは、リンゴ液を飲んだ。そのうちに、ふと私は見つけた。</seg></p>
          <p>「蛇！」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-248273-248350">お婿さんは脱ぎ捨てた上衣をかかへて腰をうかした。</seg></p>
          <p>「大丈夫、大丈夫。」と私は谷川の対岸の岩壁を指差して言つた。「あの岩壁に這ひ上らうとしてゐるのです。」奔湍から首をぬつと出して、見る見る一尺ばかり岩壁によぢ登りかけては、はらりと落ちる。また、するすると登りかけては、落ちる。執念深く二十回ほどそれを試みて、さすがに疲れてあきらめたか、流れに押流されるやうにして長々と水面にからだを浮かせたままこちらの岸に近づいて来た。アヤは、この時、立ち上つた。一間ばかりの木の枝を持ち、黙つて走つて行つて、ざんぶと渓流に突入し、ずぶりとやつた。私たちは眼をそむけ、</p>
          <p>「死んだか、死んだか。」私は、あはれな声を出した。</p>
          <p>「片附けました。」アヤは、木の枝も一緒に渓流にはふり投げた。</p>
          <p>「まむしぢやないか。」私は、それでも、まだ恐怖してゐた。</p>
          <p>「まむしなら、生捕りにしますが、いまのは、青大将でした。まむしの生胆は薬になります。」</p>
          <p>「まむしも、この山にゐるのかね。」</p>
          <p>「はい。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-249558-249617">私は、浮かぬ気持で、ビールを飲んだ。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-249617-249955">アヤは、誰よりも早くごはんをすまして、それから大きい丸太を引ずつて来て、それを渓流に投げ入れ、足がかりにして、ひよいと対岸に飛び移つた。さうして、対岸の山の絶壁によぢ登り、ウドやアザミなど、山菜を取り集めてゐる様子である。</seg></p>
          <p>「あぶないなあ。わざわざ、あんな危いところへ行かなくつたつて、他のところにもたくさん生えてゐるのに。」私は、はらはらしながらアヤの冒険を批評した。「あれはきつと、アヤは興奮して、わざとあんな危いところへ行き、僕たちにアヤの勇敢なところを大いに見せびらかさうといふ魂胆に違ひない。」</p>
          <p>「さうよ、さうよ。」と姪も大笑ひしながら、賛成した。</p>
          <p>「アヤあ！」と私は大声で呼びかけた。「もう、いい。あぶないから、もう、いい。」</p>
          <p>「はい。」とアヤは答へて、するすると崖から降りた。私は、ほつとした。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">帰りは、アヤの取り集めた山菜を、陽子が背負つた。この姪は、もとから、なりも振りも、あまりかまはない子であつた。帰途は、外ヶ浜に於ける「いまだ老いざる健脚家」も、さすがに疲れて、めつきり無口になつてしまつた。山から降りたら、郭公が鳴いてゐる。町はづれの製材所には、材木がおびただしく積まれてゐて、トロツコがたえず右往左往してゐる。ゆたかな里の風景である。</p>
          <p>「金木も、しかし、活気を呈して来ました。」と、私はぽつんと言つた。</p>
          <p>「さうですか。」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂さうに、さう言つた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-251424-251453">私は急にてれて、</seg></p>
          <p>「いやあ、僕なんかには、何もわかりやしませんけど、でも、十年前の金木は、かうぢやなかつたやうな気がします。だんだん、さびれて行くばかりの町のやうに見えました。いまのやうぢやなかつた。いまは何か、もりかへしたやうな感じがします。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-251797-252099">家へ帰つて兄に、金木の景色もなかなかいい、思ひをあらたにしました、と言つたら、兄は、としをとると自分の生れて育つた土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思はれて来るものです、と答へた。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-252099-253082">翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加はつて、金木の東南方一里半くらゐの、鹿の子川溜池といふところへ出かけた。出発真際に、兄のところへお客さんが見えたので、私たちだけ一足さきに出かけた。モンペに白足袋に草履といふいでたちであつた。二里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとつて、金木へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で、前日よりさらに暖かかつた。私たちは、アヤに案内されて金木川に沿うて森林鉄道の軌道をてくてく歩いた。軌道の枕木の間隔が、一歩には狭く、半歩には広く、ひどく意地悪く出来てゐて、甚だ歩きにくかつた。私は疲れて、早くも無口になり、汗ばかり拭いてゐた。お天気がよすぎると、旅人はぐつたりなつて、かへつて意気があがらぬもののやうである。</seg></p>
          <p>「この辺が、大水の跡です。」アヤは、立ちどまつて説明した。川の附近の田畑数町歩一面に、激戦地の跡もかくやと思はせるほど、巨大の根株や、丸太が散乱してゐる。その前のとし、私の家の八十八歳の祖母も、とんと経験が無い、と言つてゐるほどの大洪水がこの金木町を襲つたのである。</p>
          <p>「この木が、みんな山から流されて来たのです。」と言つて、アヤは悲しさうな顔をした。</p>
          <p>「ひどいなあ。」私は汗を拭きながら、「まるで、海のやうだつたらうね。」</p>
          <p>「海のやうでした。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-253747-253789">金木川にわかれて、こんどは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-253789-253801"><rb>鹿</rb><rt>か</rt></ruby><seg source="#source-253801-254982">の子川に沿うてしばらくのぼり、やつと森林鉄道の軌道から解放されて、ちよつと右へはひつたところに、周囲半里以上もあるかと思はれる大きい溜池が、それこそ一鳥啼いて更に静かな面持ちで、蒼々満々と水を湛へてゐる。この辺は、荘右衛門沢といふ深い谷間だつたさうであるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きい溜池を作つたのは、昭和十六年、つい最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も彫り込まれてゐた。溜池の周囲に工事の跡の絶壁の赤土が、まだ生々しく露出してゐるので、所謂天然の荘厳を欠いてはゐるが、しかし、金木といふ一部落の力が感ぜられ、このやうな人為の成果といふものも、また、快適な風景とせざるを得ない、などと、おつちよこちよいの旅の批評家は、立ちどまつて煙草をふかし、四方八方を眺めながら、いい加減の感想をまとめてゐた。私は自信ありげに、一同を引率し、溜池のほとりを歩いて、</seg></p>
          <p>「ここがいい。この辺がいい。」と言つて池の岬の木蔭に腰をおろした。「アヤ、ちよつと調べてくれ。これは、ウルシの木ぢやないだらうな。」ウルシにかぶれては、私はこのさき旅をつづけるのに、憂鬱でたまらないだらう。ウルシの木ではないと言ふ。</p>
          <p>「ぢやあ、その木は。なんだか、あやしい木だ。調べてくれ。」みんなは笑つてゐたが、私は真面目であつた。それも、ウルシの木ではないと言ふ。私は全く安心して、この場所で弁当をひらく事にきめた。ビールを飲みながら、私はいい機嫌で少しおしやべりをした。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から三里半ばかり離れた西海岸の高山といふところへ行つて、はじめて海を見た時の興奮を話した。その時には引率の先生がまつさきに興奮して、私たちを海に向けて二列横隊にならばせ、「われは海の子」といふ唱歌を合唱させたが、生れてはじめて海を見たくせに、われは海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に、とかいふ海岸生れの子供の歌をうたふのは、いかにも不自然で、私は子供心にも恥かしく落ちつかない気持であつた。さうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝つて、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使つた神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言はれたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばつて、まづ袴と靴をぬがせられ、草履、といつても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履といふ、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがはれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあづけ、たうとう病人用として学校で傭つて行つた荷車に載せられ、家へ帰つた時の恰好つたら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑はせてゐると、</p>
          <p>「おうい。」と呼ぶ声。兄だ。</p>
          <p>「おうい。」と私たちも口々に呼んだ。アヤは走つて迎へに行つた。やがて、兄は、ピツケルをさげて現はれた。私はありつたけのビールをみな飲んでしまつてゐたので、甚だ具合がわるかつた。兄は、すぐにごはんを食べ、それから皆で、溜池の奥の方へ歩いて行つた。バサツと大きい音がして、水鳥が池から飛び立つた。私とお婿さんとは顔を見合せ、意味も無く、うなづき合つた。雁だか鴨だか、口に出して言へるほどには、お互ひ自信がなかつたやうなふうなのだ。とにかく、野生の水鳥には違ひなかつた。深山幽谷の精気が、ふつと感ぜられた。兄は、背中を丸くして黙つて歩いてゐる。兄とかうして、一緒に外を歩くのも何年振りであらうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのやうに背中を丸くして黙つて歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうしろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きながら歩いた事があつたけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。私は兄から、あの事件に就いてまだ許されてゐるとは思はない。一生、だめかも知れない。ひびのはひつた茶碗は、どう仕様も無い。どうしたつて、もとのとほりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である。この後、もう、これつきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思つた。水の落ちる音が、次第に高く聞えて来た。溜池の端に、鹿の子滝といふ、この地方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-259302-259317"><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby><seg source="#source-259317-259604">に沿うた幅一尺くらゐの心細い小路を歩いてゐるのであつて、右手はすぐ屏風を立てたやうな山、左手は足もとから断崖になつてゐて、その谷底に滝壺がいかにも深さうな青い色でとぐろを巻いてゐるのである。</seg></p>
          <p>「これは、どうも、目まひの気味です。」と嫂は、冗談めかして言つて、陽子の手にすがりついて、おつかなさうに歩いてゐる。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-259780-260424">右手の山腹には、ツツジが美しく咲いてゐる。兄はピツケルを肩にかついで、ツツジの見事に咲き誇つてゐる箇所に来るたんびに、少し歩調をゆるめる。藤の花も、そろそろ咲きかけてゐる。路は次第に下り坂になつて、私たちは滝口に降りた。一間ほどの幅の小さい谷川で、流れのまんなかあたりに、木の根株が置かれてあり、それを足がかりにして、ひよいひよいと二歩で飛び越せるやうになつてゐる。ひとりひとり、ひよいひよいと飛び越した。嫂が、ひとり残つた。</seg></p>
          <p>「だめです。」空言つて笑ふばかりで飛び越さうとしない。足がすくんで、前に出ない様子である。</p>
          <p>「おぶつてやりなさい。」と兄は、アヤに言ひつけた。アヤが傍へ寄つても、嫂は、ただ笑つて、だめだめと手を振るばかりだ。この時、アヤは怪力を発揮し、巨大の根つこを抱きかかへて来て、ざんぶとばかり滝口に投じた。まあ、どうやら、橋が出来た。嫂は、ちよつと渡りかけたが、やはり足が前にすすまないらしい。アヤの肩に手を置いて、やつと半分くらゐ渡りかけて、あとは川も浅いので、即席の橋から川へ飛び降りて、じやぶじやぶと水の中を歩いて渡つてしまつた。モンペの裾も白足袋も草履も、びしよ濡れになつた様子である。</p>
          <p>「まるで、もう、高山帰りの姿です。」嫂は、私のさつきの高山へ遠足してみじめな姿で帰つた話をふと思ひ出したらしく、笑ひながらさう言つて、陽子もお婿さんも、どつと笑つたら、兄は振りかへつて、</p>
          <p>「え？　何？」と聞いた。みんな笑ふのをやめた。兄がへんな顔をしてゐるので、説明してあげようかな、とも思つたが、あまり馬鹿々々しい話なので、あらたまつて「高山帰り」の由来を説き起す勇気は私にも無かつた。兄は黙つて歩き出した。兄は、いつでも孤独である。</p>
        </div>
        <div type="layout" source="#source-261958-262045" style="padding-inline-start: 5em">
          <div>
            <head n="2" source="#source-261979-262045"><seg source="#source-262000-262015">五　西海岸</seg></head>
          </div>
        </div>
        <div>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知つてゐなかつた。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行つた事がない。高山といふのは、金木からまつすぐ西に三里半ばかり行き<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-262448-262472"><rb>車力</rb><rt>しやりき</rt></ruby><seg source="#source-262472-263198">といふ人口五千くらゐのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷さんは有名なものださうであるが、何せ少年の頃の記憶であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残つてゐるくらゐのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまつてゐる。この機会に、津軽の西海岸を廻つてみようといふ計画も前から私にあつたのである。鹿の子川溜池へ遊びに行つたその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかへ、十分経つか経たぬかのうちに、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-263198-263222"><rb>木造</rb><rt>きづくり</rt></ruby>駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちよつと見て置きたいと思つてゐたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少いやうだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が、どつどつと、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いてゐる。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎へてゐる。父はこの町のＭといふ旧家の三男かであつたのを、私の家から迎へられて何代目かの当主になつたのである。この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言はざるを得ない。また自作の「思ひ出」の中の一節を借りるが、「私の父は非常に忙しい人で、うちにゐることがあまりなかつた。うちにゐても子供らと一緒には居らなかつた。私は此の父を恐れてゐた。父の万年筆をほしがつてゐながらそれを言ひ出せないで、ひとり色々と思ひ悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶつたまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があつたけれど、勿論それは父の耳にも心にもはひらなかつたらしい。私と弟とが米俵のぎつしり積まれたひろい米蔵に入つて面白く遊んでゐると、父が入口に立ちはだかつて、坊主、出ろ、出ろ、と叱つた。光を背から受けてゐるので父の大きい姿がまつくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟ふと今でも、いやな気がする。（中略）その翌春、雪のまだ深く積つてゐた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、かういふセンセイシヨンの方に興奮を感じた。遺族の名にまじつて私の名も新聞に出てゐた。父の死骸は大きい寝棺に横たはり橇に乗つて故郷へ帰つて来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎へに行つた。やがて森の蔭から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑つて出て来たのを眺めて私は美しいと思つた。つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集つた。棺の蓋が取りはらはれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠つてゐるやうであつた。高い鼻筋がすつと青白くなつてゐた。私は皆の泣声を聞き、さそはれて涙を流した。」まあ、だいたいこんな事だけが父に関する記憶と言つていいくらゐのもので、父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおつかなさを感じ、またそれゆゑ安心して寄りかかつてもゐたし、父がゐないから淋しいなどと思つた事はいちども無かつたのである。しかし、だんだんとしを取るにつれて、いつたい父は、どんな性格の男だつたのだらう、などと無礼な忖度をしてみるやうになつて、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらはれ、実は死んだのではなくて或る政治上の意味で姿をかくしてゐたのだといふ事がわかり、思ひ出の父の面影よりは少し老い疲れてゐて、私はその姿をひどくなつかしく思つたり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に強くなつて来たのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死んで、私は子供心には、そのとしがたいへんな老齢のやうに感ぜられ、まづ大往生と思つてゐたのだが、いまは五十三の死歿を頽齢の大往生どころか、ひどい若死にと考へるやうになつた。も少し父を生かして置いたら、津軽のためにも、もつともつと偉い事業をしたのかも知れん、などと生意気な事など考へてゐる。その父が、どんな家に生れて、どんな町に育つたか、私はそれを一度見て置きたいと思つてゐたのだ。木造の町は、一本路の両側に家が立ち並んでゐるだけだ。さうして、家々の背後には、見事に打返された水田が展開してゐる。水田のところどころにポプラの並木が立つてゐる。こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違ひないのであるが、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-268169-268193"><rb>木造</rb><rt>きづくり</rt></ruby><seg source="#source-268193-269459">のポプラほど、あざやかに記憶に残つてはゐない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでゐた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違はず、華奢で頗る美人である。このやうに山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するといふ伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであらう。これも、金木地方と同様にちよつと心細いのではあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆ぢやないかとさへ私には疑はれた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言ふまい。こんな話は、えてして差しさはりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにはかに断定を下すべき筋合のものではないかも知れない。その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまつすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のやうなものが、もやもや煙つてゐて、ゴム底の靴で猫のやうに足音も無くのこのこ歩いてゐるうちに春の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-269459-269480"><rb>温気</rb><rt>うんき</rt></ruby><seg source="#source-269480-269570">にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造警察署の看板を、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-269570-269594"><rb>木造</rb><rt>もくざう</rt></ruby><seg source="#source-269594-269630">警察署と読んで、なるほど</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-269630-269654"><rb>木造</rb><rt>もくざう</rt></ruby><seg source="#source-269654-269737">の建築物、と首肯き、はつと気附いて苦笑したりなどした。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-269740-269764"><rb>木造</rb><rt>きづくり</rt></ruby><seg source="#source-269764-271219">は、また、コモヒの町である。コモヒといふのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞつて店先に日よけの天幕を張つたらう、さうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しさうな顔をして歩いたらう、さうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思つたらう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作つてあるのが、北国のコモヒだと思へば、たいして間違ひは無い。しかも之は、日ざしをよけるために作つたのではない。そんな、しやれたものではない。冬、雪が深く積つた時に、家と家との聯絡に便利なやうに、各々の軒をくつつけ、長い廊下を作つて置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買ひ物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のやうな危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとつて大助かりだらうし、また、私のやうに、春の温気にまゐつた旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に坐つてゐる人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。コモヒといふのは、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-271219-271240"><rb>小店</rb><rt>こみせ</rt></ruby><seg source="#source-271240-271315">の訛りであると一般に信じられてゐるやうだが、私は、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-271315-271336"><rb>隠瀬</rb><rt>このせ</rt></ruby><seg source="#source-271336-271348">あるいは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-271348-271369"><rb>隠日</rb><rt>こもひ</rt></ruby><seg source="#source-271369-273241">とでもいふ漢字をあてはめたはうが、早わかりではなからうか、などと考へてひとりで悦にいつてゐる次第である。そのコモヒを歩いてゐたら、Ｍ薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとほり過ぎて、やはりコモヒをまつすぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考へた。この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒといふものがあるらしいけれども、この木造町みたいに、町全部がコモヒに依つて貫通せられてゐるといつたやうなところは少いのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまつた。しばらく歩いて、やうやくコモヒも尽きたところで私は廻れ右して、溜息ついて引返した。私は今まで、Ｍの家に行つた事は、いちども無い。木造町へ来た事も無い。或いは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来た事はあつたかも知れないが、いまの私の記憶には何も残つてゐない。Ｍの家の当主は、私よりも四つ五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちよいちよい金木へも遊びに来て私とは顔馴染である。私がいま、たづねて行つても、まさか、いやな顔はなさるまいが、どうも、しかし、私の訪ね方が唐突である。こんな薄汚いなりをして、Ｍさんしばらく、などと何の用も無いのに卑屈に笑つて声をかけたら、Ｍさんはぎよつとして、こいついよいよ東京を食ひつめて、金でも借りに来たんぢやないか、などと思やすまいか。死ぬまへにいちど、父の生れた家を見たくて、といふのも、おそろしいくらゐに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-273241-273259"><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby><seg source="#source-273259-274080">だ。男が、いいとしをして、そんな事はとても言へたもんぢやない。いつそこのまま帰らうか、などと悶えて歩いてゐるうちに、またもとのＭ薬品問屋の前に来た。もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまはない。はひらう。私は、とつさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のはうに声をかけた。Ｍさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢ひで私には何も言はせず、引つぱり上げるやうに座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理坐らせてしまつた。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言ひつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かつた。</seg></p>
          <p>「久し振り。久し振り。」とＭさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらゐです。」</p>
          <p>「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらゐでせう。」</p>
          <p>「さうだらうとも、さうだらうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似てゐる。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだといふ話を聞いてゐるが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。私には養子の父の心理が何かわかるやうな気がして、微笑ましかつた。さう思つて見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似てゐる。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたやうな気がして、このＭさんのお家へ立寄つた甲斐があつたと思つた。Ｍさんは、何かと私をもてなさうとする。</p>
          <p>「いや、もういいんだ。一時の汽車で、深浦へ行かなければいけないのです。」</p>
          <p>「深浦へ？　何しに？」</p>
          <p>「べつに、どうつてわけも無いけど、いちど見て置きたいのです。」</p>
          <p>「書くのか？」</p>
          <p>「ええ、それもあるんだけど、」いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるやうな事は言へなかつた。</p>
          <p>「ぢやあ、木造の事も書くんだな。木造の事を書くんだつたらね、」とＭさんは、少しもこだはるところがなく、「まづ第一に、米の供出高を書いてもらひたいね。警察署管内の比較では、この木造署管内は、全国一だ。どうです、日本一ですよ。これは、僕たちの努力の結晶と言つても、差支へ無いと思ふ。この辺一帯の田の、水が枯れた時に、僕は隣村へ水をもらひに行つて、つひに大成功して、大トラ変じて水虎大明神といふ事になつたのです。僕たちも、地主だからつて、遊んでは居られない。僕は脊髄がわるいんだけど、でも、田の草取りをしましたよ。まあ、こんどは東京のあんた達にも、おいしいごはんがどつさり配給されるでせう。」たのもしい限りである。Ｍさんは、小さい頃から、闊達な気性のひとであつた。子供つぽいくりくりした丸い眼に魅力があつて、この地方の人たち皆に敬愛せられてゐるやうだ。私は、心の中でＭさんの仕合せを祈り、なほも引きとめられるのを汗を流して辞去し、午後一時の深浦行きの汽車にやつと間に合ふ事が出来た。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-277028-277895">木造から、五能線に依つて約三十分くらゐで鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまひになつて、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいふものださうで、その海蝕を受けて平坦になつた斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になつたので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛へ、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-277895-277925"><rb>盃沼</rb><rt>さかづきぬま</rt></ruby>と称するのださうだけれど、直径一尺から二尺くらゐのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よつぽどの大酒飲みが名附けたものに違ひない。この辺の海岸には奇岩削立し、怒濤にその脚を絶えず洗はれてゐる、と、まあ、名所案内記ふうに書けば、さうもなるのだらうが、外ヶ浜北端の海浜のやうな異様な物凄さは無く、謂はば全国到るところにある普通の「風景」になつてしまつてゐて、津軽独得の佶屈とでもいふやうな他国の者にとつて特に難解の雰囲気は無い。つまり、ひらけてゐるのである。人の眼に、舐められて、明るく馴れてしまつてゐるのである。れいの竹内運平氏は「青森県通史」に於いて、この辺以南は、昔からの津軽領ではなく、秋田領であつたのを、慶長八年に隣藩佐竹氏と談合の上、これを津軽領に編入したといふやうな記録もあると言つてゐる。私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言ふのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないやうな気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるやうな気がする。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持つてゐない。大戸瀬から約四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるやうな、決して出しやばらうとせぬつつましい温和な表情、悪く言へばお利巧なちやつかりした表情をして、旅人を無言で送迎してゐる。つまり、旅人に対しては全く無関心のふうを示してゐるのである。私は、深浦のこのやうな雰囲気を深浦の欠点として挙げて言つてゐるのでは決してない。そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思つてゐる。これは、成長してしまつた大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥深く沈潜してゐる。津軽の北部に見受けられるやうな、子供つぽい悪あがきは無い。津軽の北部は、生煮えの野菜みたいだが、ここはもう透明に煮え切つてゐる。ああ、さうだ。かうして較べてみるとよくわかる。津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信といふものがないのだ。まるつきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、「かれは賤しきものなるぞ。」などと人の悪口ばかり言つて、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、さうして悲しい孤独の宿命を形成するといふ事になつたのかも知れない。津軽の人よ、顔を挙げて笑へよ。ルネツサンス直前の鬱勃たる擡頭力をこの地に認めると断言してはばからぬ人さへあつたではないか。日本の文華が小さく完成して行きづまつてゐる時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になつてゐるか、一夜しづかに考へて、などといふとすぐ、それそれそんなに不自然に肩を張る。人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けて行かうではないか。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-281656-282892">深浦町は、現在人口五千くらゐ、旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであつた。丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とほり海岸の名勝がそろつてゐる。しづかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されてゐる。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついてゐる感じがする。駅からまつすぐに一本路をとほつて、町のはづれに、円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられてゐるといふ。私は、それにおまゐりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思つた。完成されてゐる町は、また旅人に、わびしい感じを与へるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷つた。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思つた。なるべく思ひ出さないやうにしてゐるのだが、心の空虚の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-282892-282907"><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby><seg source="#source-282907-284868">をねらつて、ひよいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上つて町の郵便局へ行き、葉書を一枚買つて、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。子供は百日咳をやつてゐるのである。さうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばつたりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言つた。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かつた。私はその早さに、少し救はれた。部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のやうである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやつてきて以来、人のごちそうにばかりなつてゐたが、けふは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考へを起し、さつきお膳を持つて来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまへ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございません、といふ。どこか他に飲むところは無いかと聞くと、ございます、と言下に答へた。ほつとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教はり、行つて見ると、意外に小綺麗な料亭であつた。二階の十畳くらゐの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向つて大あぐらをかき、酒、酒、と言つた。お酒だけ、すぐに持つて来た。これも有難かつた。たいてい料理で手間取つて、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたをばさんが、お銚子だけ持つてすぐに来た。私は、そのをばさんから深浦の伝説か何か聞かうかと思つた。</seg></p>
          <p>「深浦の名所は何です。」</p>
          <p>「観音さんへおまゐりなさいましたか。」</p>
          <p>「観音さん？　あ、円覚寺の事を、観音さんと言ふのか。さう。」このをばさんから、何か古めかしい話を聞く事が出来るかも知れないと思つた。しかるに、その座敷に、ぶつてり太つた若い女があらはれて、妙にきざな洒落など飛ばし、私は、いやで仕様が無かつたので、男子すべからく率直たるべしと思ひ、</p>
          <p>「君、お願ひだから下へ行つてくれないか。」と言つた。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行つて率直な言ひ方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢つた。その若い女中が、ふくれて立ち上ると、をばさんも一緒に立ち上り、二人ともゐなくなつてしまつた。ひとりが部屋から追ひ出されたのに、もうひとりが黙つて坐つてゐるなどは、朋輩の仁義からいつても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰つた。翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べてゐたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持つて来て、</p>
          <p>「あなたは、津島さんでせう。」と言つた。</p>
          <p>「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。</p>
          <p>「さうでせう。どうも似てゐると思つた。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになつたからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似てゐるので。」</p>
          <p>「でも、あれは、偽名でもないのです。」</p>
          <p>「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変へて小説を書いてゐる弟さんがあるといふ事は聞いてゐました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-287031-287666">私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになつた。塩辛は、おいしいものだつた。実に、いいものだつた。かうして、津軽の端まで来ても、やつぱり兄たちの力の余波のおかげをかうむつてゐる。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしほ腹綿にしみるものがあつた。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知つたといふ事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗つた。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-287666-288758">鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄つた。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあつたやうだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがつたさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を賑はしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらゐ、木造、深浦よりも少いやうな具合で、往年の隆々たる勢力を失ひかけてゐるやうだ。鰺ヶ沢といふからには、きつと昔の或る時期に、見事な鰺がたくさんとれたところかとも思はれるが、私たちの幼年時代には、ここの鰺の話はちつとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であつた。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるやうであるから、読者もご存じの事と思ふが、鰰、または</seg><g ref="#gaiji-4-2-93-86" source="#source-288758-288805">鱩</g>などといふ字を書いて、鱗の無い五、六寸くらゐのさかなで、まあ、海の鮎とでも思つていただいたら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のやうである。東京の人たちは、あれを油つこくていやだと言つてゐるやうだけれど、私たちには非常に淡泊な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのまま薄醤油で煮て片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたひらげる人は決して珍らしくない。ハタハタの会などがあつて、一ばん多く食べた人には賞品、などといふ話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなつてゐるし、それに料理法も知らないだらうから、ことさらまづいものに感ぜられるのであらう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出てゐるやうだし、また、ハタハタの味は淡いといふ意味の江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされてゐたものかも知れない。いづれにもせよ、このハタハタを食べる事は、津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるといふ事には間違ひない。私は、そのハタハタに依つて、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知つてはゐたのだが、その町を見るのは、いまがはじめてであつた。山を背負ひ、片方はすぐ海の、おそろしくひよろ長い町である。市中はものの匂ひや、とかいふ凡兆の句を思ひ出させるやうな、妙によどんだ甘酸つぱい匂ひのする町である。川の水も、どろりと濁つてゐる。どこか、疲れてゐる。木造町のやうに、ここにも長い「コモヒ」があるけれども、少し崩れかかつてゐる、木造町のコモヒのやうな涼しさが無い。その日も、ひどくいい天気だつたが、日ざしを避けて、コモヒを歩いてゐても、へんに息づまるやうな気持がする。飲食店が多いやうである。昔は、ここは所謂銘酒屋のやうなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思はれる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく「やすんで行きせえ。」などと言つて道を通る人に呼びかけてゐる。ちやうどお昼だつたので、私は、そのおそばやの一軒にはひつて、休ませてもらつた。おそばに、焼ざかなが二皿ついて、四十銭であつた。おそばのおつゆも、まづくなかつた。それにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄行つても、同じやうな家並が何の変化もなく、だらだらと続いてゐるのである。私は、一里歩いたやうな気がした。やつと町のはづれに出て、また引返した。町の中心といふものが無いのである。たいていの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、町の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-291994-292012"><rb>重</rb><rt>おもし</rt></ruby><seg source="#source-292012-293316">になつてゐて、その町を素通りする旅人にも、ああ、この辺がクライマツクスだな、と感じさせるやうに出来てゐるものだが、鰺ヶ沢にはそれが無い。扇のかなめがこはれて、ばらばらに、ほどけてゐる感じだ。これでは町の勢力あらそひなど、ごたごたあるのではなからうかと、れいのドガ式政談さへ胸中に往来したほど、どこか、かなめの心細い町であつた。かう書きながら、私は幽かに苦笑してゐるのであるが、深浦といひ鰺ヶ沢といひ、これでも私の好きな友人なんかがゐて、ああよく来てくれた、と言つてよろこんで迎へてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深浦、鰺ヶ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもつて書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあてにならないものである。深浦、鰺ヶ沢の人は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑つて見のがしてほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故土を汚すほどの権威も何も持つてゐないのだから。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗つて五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まつすぐに、中畑さんのお宅へ伺つた。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらゐに、ひどくふけてゐた。昨年、病気をなさつて、それから、こんなに痩せたのださうである。</p>
          <p>「時代だぢやあ。あんたが、こんな姿で東京からやつて来るやうになつたものなう。」と、それでも嬉しさうに、私の乞食にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れてゐるな。」と言つて、自分で立つて箪笥から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。</p>
          <p>「これから、ハイカラ<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-294409-294427"><rb>町</rb><rt>ちやう</rt></ruby>へ行きたいと思つてるんだけど。」</p>
          <p>「あ、それはいい。行つていらつしやい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めつきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでゐるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町といふ名前であつたのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のやうである。五所川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の幼年時代の思ひ出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或る新聞に次のやうな随筆を発表した。</p>
          <p>「叔母が五所川原にゐるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だつたと思ひます。たしか、左右衛門だつた筈です。梅の由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思はず立ち上つてしまつた程に驚きました。あの旭座は、その後間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔が、金木から、はつきり見えました。映写室から発火したといふ話でした。さうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が、罪に問はれました。過失傷害致死とかいふ罪名でした。子供心にも、どういふわけだか、その技師の罪名と、運命を忘れる事が出来ませんでした。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-296069-296087"><rb>旭</rb><rt>あさひ</rt></ruby>座といふ名前が『<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-296111-296123"><rb>火</rb><rt>ひ</rt></ruby>』の字に関係があるから焼けたのだといふ噂も聞きました。二十年も前の事です。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあつたのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちやうど古着屋のまへでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵児帯でした。ひどく恥かしく思ひました。叔母が顔色を変へて走つて来ました。私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ぶりが悪いので、何かと人にからかはれて、ひとりでひがんでゐましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言つてくれました。他の人が、私の器量の悪口を言ふと、叔母は、本気に怒りました。みんな、遠い思ひ出になりました。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-297291-297383">中畑さんのひとり娘のけいちやんと一緒に中畑さんの家を出て、</seg></p>
          <p>「僕は岩木川を、ちよつと見たいんだけどな。ここから遠いか。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-297475-297507">すぐそこだといふ。</seg></p>
          <p>「それぢや、連れて行つて。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-297551-298228">けいちやんの案内で町を五分も歩いたかと思ふと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もつと町から遠かつたやうに覚えてゐる。子供の足には、これくらゐの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであらう。それに私は、家の中にばかりゐて、外へ出るのがおつかなくて、外出の時には目まひするほど緊張してゐたものだから、なほさら遠く思はれたのだらう。橋がある。これは、記憶とそんなに違はず、いま見てもやつぱり同じ様に、長い橋だ。</seg></p>
          <p>「いぬゐばし、と言つたかしら。」</p>
          <p>「ええ、さう。」</p>
          <p>「いぬゐ、つて、どんな字だつたかしら。方角の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-298370-298388"><rb>乾</rb><rt>いぬゐ</rt></ruby>だつたかな？」</p>
          <p>「さあ、さうでせう。」笑つてゐる。</p>
          <p>「自信無し、か。どうでもいいや。渡つてみよう。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-298538-298906">私は片手で欄干を撫でながらゆつくり橋を渡つて行つた。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似てゐる。河原一面の緑の草から陽炎がのぼつて、何だか眼がくるめくやうだ。さうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光つて流れてゐる。</seg></p>
          <p>「夏には、ここへみんな夕涼みにまゐります。他に行くところもないし。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-299010-299123">五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑はふ事だらうと思つた。</seg></p>
          <p>「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちやんは、川の上流のはうを指差して教へて、「父の自慢の招魂堂。」と笑ひながら小声で言ひ添へた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-299326-299643">なかなか立派な建築物のやうに見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違ひない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立つて、しばらく話をした。</seg></p>
          <p>「林檎はもう、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-299664-299688"><rb>間伐</rb><rt>かんばつ</rt></ruby>といふのか、少しづつ伐つて、伐つたあとに馬鈴薯だか何だか植ゑるつて話を聞いたけど。」</p>
          <p>「土地によるのぢやないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-299914-300081">大川の土手の陰に、林檎畑があつて、白い粉つぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂ひを感ずる。</seg></p>
          <p>「けいちやんからも、ずいぶん林檎を送つていただいたね。こんど、おむこさんをもらふんだつて？」</p>
          <p>「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。</p>
          <p>「いつ？　もう近いの？」</p>
          <p>「あさつてよ。」</p>
          <p>「へえ？」私は驚いた。けれども、けいちやんは、まるでひと事のやうに、けろりとしてゐる。「帰らう。いそがしいんだらう？」</p>
          <p>「いいえ、ちつとも。」ひどく落ちついてゐる。ひとり娘で、さうして養子を迎へ、家系を嗣がうとしてゐるひとは、十九や二十の若さでも、やつぱりどこか違つてゐる、と私はひそかに感心した。</p>
          <p>「あした小泊へ行つて、」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言つた。「たけに逢はうと思つてゐるんだ。」</p>
          <p>「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」</p>
          <p>「うん。さう。」</p>
          <p>「よろこぶでせうねえ。」</p>
          <p>「どうだか。逢へるといいけど。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢つてみたいひとがゐた。私はその人を、自分の母だと思つてゐるのだ。三十年ちかくも逢はないでゐるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依つて確定されたといつていいかも知れない。以下は、自作「思ひ出」の中の文章である。</p>
          <p>「六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を読むことを教へられ二人で様々の本を読み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えてゐたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-302220-302232"><rb>放</rb><rt>つ</rt></ruby><seg source="#source-302232-302780">けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">そのお寺の裏は小高い墓地になつてゐて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のやうに立つてゐた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のやうな黒い鉄の輪のついてゐるのがあつて、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止つてじつと動かないならその廻した人は極楽へ行き、一旦とまりさうになつてから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言つた。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻つて、かならずひつそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行つてその金輪のどれを廻して見ても皆言ひ合せたやうにからんからんと逆廻りした日があつたのである。私は破れかけるかんしやくだまを抑へつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去つた。（中略）やがて私は故郷の小学校へ入つたが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかゐなくなつてゐた。或漁村へ嫁に行つたのであるが、私がそのあとを追ふだらうといふ懸念からか、私には何も言はずに突然ゐなくなつた。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしてゐた。私に学校の成績を聞いた。私は答へなかつた。ほかの誰かが代つて知らせたやうだ。たけは、油断大敵でせえ、と言つただけで格別ほめもしなかつた。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私の母は病身だつたので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになつてふらふら立つて歩けるやうになつた頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとはれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。さうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はつと思つた。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけゐない、たけゐない、と断腸の思ひで泣いて、それから、二、三日、私はしやくり上げてばかりゐた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはゐない。それから、一年ほど経つて、ひよつくりたけと逢つたが、たけは、へんによそよそしくしてゐるので、私にはひどく怨めしかつた。それつきり、たけと逢つてゐない。四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、その時、あの「思ひ出」の中のたけの箇所を朗読した。故郷といへば、たけを思ひ出すのである。たけは、あの時の私の朗読放送を聞かなかつたのであらう。何のたよりも無かつた。そのまま今日に到つてゐるのであるが、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢ひたいと切に念願をしてゐたのだ。いいところは後廻しといふ、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのゐる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行つて一泊して、さうして、それから最後に小泊へ行かうと思つてゐたのだが、東京からわづかしか持つて来ない私の旅費も、そろそろ心細くなつてゐたし、それに、さすがに旅の疲れも出て来たのか、これからまたあちこち廻つて歩くのも大儀になつて来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちよつと立寄らうといふ具合に予定を変更して、けふは五所川原の叔母の家に一泊させてもらつて、あす、五所川原からまつすぐに、小泊へ行つてしまはうと思ひ立つたのである。けいちやんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行つてみると、叔母は不在であつた。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院してゐるので、それの附添に行つてゐるといふのである。</p>
          <p>「あなたが、こつちへ来てゐるといふ事を、母はもう知つて、ぜひ逢ひたいから弘前へ寄こしてくれつて電話がありましたよ。」と<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-307617-307638"><rb>従姉</rb><rt>いとこ</rt></ruby><seg source="#source-307638-307769">が笑ひながら言つた。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとつて家を嗣がせてゐるのである。</seg></p>
          <p>「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちよつと立ち寄らうと思つてゐますから、病院にもきつと行きます。」</p>
          <p>「あすは小泊の、たけに逢ひに行くんださうです。」けいちやんは、何かとご自分の支度でいそがしいだらうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでゐる。</p>
          <p>「たけに。」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。」従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕つてゐたか知つてゐるやうであつた。</p>
          <p>「でも、逢へるかどうか。」私には、それが心配であつた。もちろん打合せも何もしてゐるわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたづねて行くのである。</p>
          <p>「小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いてゐましたけど、」とけいちやんは立つて、台所に貼りつけられてある時間表を調べ、「あしたの一番の汽車でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合ひませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさらないやうに。」ご自分の大事な日をまるで忘れてゐるみたいであつた。一番の八時の汽車で五所川原を立つて、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗つて約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるといふ見込みがついた。日が暮れて、けいちやんがやつとお家へ帰つたのと入違ひに、先生（お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、さう呼んでゐた）が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-309714-312594">翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に駈けつけ、やつと一番の汽車に間に合つた。けふもまた、よいお天気である。私の頭は朦朧としてゐる。二日酔ひの気味である。ハイカラ町の家には、こはい人もゐないので、前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じつとりと額に涌いて出る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁つて汚れて腐敗してゐるやうで、どうにも、かなはない気持である。このやうな自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みといふ弱点のゆゑに、私はとかく人から軽んぜられる。世の中に、酒といふものさへなかつたら、私は或いは聖人にでもなれたのではなからうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考へて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ、駅員に三十分も調べさせ、たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。少女が汽車に乗つたとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違ひない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もつと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思つた。汽車は、落葉松の林の中を走る。この辺は、金木の公園になつてゐる。沼が見える。芦の湖といふ名前である。この沼に兄は、むかし遊覧のボートを一艘寄贈した筈である。すぐに、中里に着く。人口、四千くらゐの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-312594-312618"><rb>内潟</rb><rt>うちがた</rt></ruby><seg source="#source-312618-312621">、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-312621-312645"><rb>相内</rb><rt>あひうち</rt></ruby><seg source="#source-312645-312648">、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-312648-312672"><rb>脇元</rb><rt>わきもと</rt></ruby><seg source="#source-312672-312852">などの部落に到ると水田もめつきり少くなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言つていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-312852-312876"><rb>金丸</rb><rt>かなまる</rt></ruby><seg source="#source-312876-313058">といふ親戚の呉服屋さんへ遊びに来た事があるが、四つくらゐの時であらうか、村のはづれの滝の他には、何も記憶に残つてゐない。</seg></p>
          <p>「修つちやあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑ひながら立つてゐる。私より一つ二つ年上だつた筈であるが、あまり老けてゐない。</p>
          <p>「久し振りだなう。どこへ。」</p>
          <p>「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢ひたくて、他の事はみな上の空である。「このバスで行くんだ。それぢやあ、失敬。」</p>
          <p>「さう。帰りには、うちへも寄つて下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-313630-314034">指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立つてゐる。たけの事さへ無かつたら、私はこの幼馴染との奇遇をよろこび、あの新宅にもきつと立寄らせていただき、ゆつくり中里の話でも伺つたのに違ひないが、何せ一刻を争ふみたいに意味も無く気がせいてゐたので、</seg></p>
          <p>「ぢや、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さつさとバスに乗つてしまつた。バスは、かなり込んでゐた。私は小泊まで約二時間、立つたままであつた。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言はれる安東氏一族は、この辺に住んでゐて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在つたものらしい。バスは山路をのぼつて北に進む。路が悪いと見えて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしつかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やつぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂ひが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きてゐる。東海岸の竜飛などに較べると、ずつと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛つたやうな、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでゐない。ひつそりしてゐて、さうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬといふやうな感じだ。十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依つて以後は、こまかい描写を避けよう。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。西海岸の部落は、ここでおしまひになつてゐるのだ。つまり私は、五所川原あたりを中心にして、柱時計の振子のやうに、旧津軽領の西海岸南端の深浦港からふらりと舞ひもどつてこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまつたといふわけなのである。ここは人口二千五百くらゐのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通ひの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはひつて仮泊する事になつてゐたといふ。江戸時代には、近くの十三港と共に米や木材の積出しがさかんに行はれた事など、前にもしばしば書いて置いたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合ひなくらゐ立派である。水田は、村のはづれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊富なやうで、ソイ、アブラメ、イカ、イワシなどの魚類の他に、コンブ、ワカメの類の海草もたくさんとれるらしい。</p>
          <p>「越野たけ、といふ人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いてゐる人をつかまへ、すぐに聞いた。</p>
          <p>「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなからうかと思はれるやうな中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野といふ苗字の家がたくさんあるので。」</p>
          <p>「前に金木にゐた事があるんです。さうして、いまは、五十くらゐのひとなんです。」私は懸命である。</p>
          <p>「ああ、わかりました。その人なら居ります。」</p>
          <p>「ゐますか。どこにゐます。家はどの辺です。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-317850-319364">私は教へられたとほりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらゐの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思つて入口のガラス戸に走り寄つたら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかつてゐるのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いづれも固くしまつてゐる。留守だ。私は途方にくれて、汗を拭つた。引越した、なんて事は無からう。どこかへ、ちよつと外出したのか。いや、東京と違つて、田舎ではちよつとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどといふ事は無い。二、三日あるいはもつと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。家さへわかつたら、もう大丈夫と思つてゐた僕は馬鹿であつた。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のある筈は無かつた。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向ひの煙草屋にはひり、越野さんの家には誰もゐないやうですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行つたんだらう、と事もなげに答へた。私は勢ひ込んで、</seg></p>
          <p>「それで、その運動会は、どこでやつてゐるのです。この近くですか、それとも。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-319480-319659">すぐそこだといふ。この路をまつすぐに行くと田圃に出て、それから学校があつて、運動会はその学校の裏でやつてゐるといふ。</seg></p>
          <p>「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」</p>
          <p>「さうですか。ありがたう。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-319780-320569">教へられたとほりに行くと、なるほど田圃があつて、その畦道を伝つて行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立つてゐる。その学校の裏に廻つてみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-320569-320587"><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby><seg source="#source-320587-322218">で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、さうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑つてゐるのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出づる国だと思つた。国運を賭しての大戦争のさいちゆうでも、本州の北端の寒村で、このやうに明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑ひと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思ひであつた。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されてゐたといふやうなお伽噺の主人公に私はなつたやうな気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい頬ぺたの赤いひとであつた。右か、左の眼蓋の上に、小さい赤いほくろがあつた。私はそれだけしか覚えてゐないのである。逢へば、わかる。その自信はあつたが、この群集の中から捜し出す事は、むづかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しやうが無いのである。私はただ、運動場のまはりを、うろうろ歩くばかりである。</seg></p>
          <p>「越野たけといふひと、どこにゐるか、ご存じぢやありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたづねた。「五十くらゐのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。</p>
          <p>「金物屋の越野。」青年は考へて、「あ、向うのあのへんの小屋にゐたやうな気がするな。」</p>
          <p>「さうですか。あのへんですか？」</p>
          <p>「さあ、はつきりは、わからない。何だか、見かけたやうな気がするんだが、まあ、捜してごらん。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-322823-323245">その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざつたらしく打明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言ひ、その漠然と指差された方角へ行つてまごまごしてみたが、そんな事でわかる筈は無かつた。たうとう私は、昼食さいちゆうの団欒の掛小屋の中に、ぬつと顔を突き入れ、</seg></p>
          <p>「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらぢやございませんか。」</p>
          <p>「ちがひますよ。」ふとつたおかみさんは不機嫌さうに眉をひそめて言ふ。</p>
          <p>「さうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかつたでせうか。」</p>
          <p>「さあ、わかりませんねえ。何せ、おほぜいの人ですから。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはゐませんか、金物屋のたけはゐませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまはつたが、わからなかつた。二日酔ひの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行つて水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジヤンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福さうな賑はひを、ぼんやり眺めた。この中に、ゐるのだ。たしかに、ゐるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせてゐるのであらう。いつそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会。」とでも叫んでもらはうかしら、とも思つたが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだつた。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでつち上げるのはイヤだつた。縁が無いのだ。神様が逢ふなとおつしやつてゐるのだ。帰らう。私は、ジヤンパーを着て立ち上つた。また畦道を伝つて歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待つてゐたつていいぢやないか。さうも思つたが、その四時間、宿屋の汚い一室でしよんぼり待つてゐるうちに、もう、たけなんかどうでもいいやうな、腹立たしい気持になりやしないだらうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢ひたいのだ。しかし、どうしても逢ふ事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたづねて来て、すぐそこに、いまゐるといふ事がちやんとわかつてゐながら、逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのやうに、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰らう。考へてみると、いかに育ての親とはいつても、露骨に言へば使用人だ。女中ぢやないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕つて、ひとめ逢ひたいだのなんだの、それだからお前はだめだといふのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思ふのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違つて、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだらう。しつかりせんかい。私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行きが出る。もう、それつきりで、あとは無いといふ事であつた。一時三十分のバスで帰る事にきめた。もう三十分くらゐあひだがある。少しおなかもすいて来てゐる。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ這入つて、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが。」と言ひ、また内心は、やつぱり未練のやうなものがあつて、もしこの宿が感じがよかつたら、ここで四時頃まで休ませてもらつて、などと考へてもゐたのであるが、断られた。けふは内の者がみな運動会へ行つてゐるので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷い返辞をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらゐ休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それぢやあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行つて、ひと知れず<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-327753-327780"><rb>今生</rb><rt>こんじやう</rt></ruby><seg source="#source-327780-328154">のいとま乞ひでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはづれてゐる。さうして戸が二、三寸あいてゐる。天のたすけ！　と勇気百倍、グワラリといふ品の悪い形容でも使はなければ間に合はないほど勢ひ込んでガラス戸を押しあげ、</seg></p>
          <p>「ごめん下さい、ごめん下さい。」</p>
          <p>「はい。」と奥から返事があつて、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によつて、たけの顔をはつきり思ひ出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄つて行つて、</p>
          <p>「金木の津島です。」と名乗つた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-328538-329086">少女は、あ、と言つて笑つた。津島の子供を育てたといふ事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言つて聞かせてゐたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなつた。ありがたいものだと思つた。私は、たけの子だ。女中の子だつて何だつてかまはない。私は大声で言へる。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたつていい。私は、この少女ときやうだいだ。</seg></p>
          <p>「ああ、よかつた。」私は思はずさう口走つて、「たけは？　まだ、運動会？」</p>
          <p>「さう。」少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついて首肯き、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰つたの。」気の毒だが、その腹いたが、よかつたのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまへたからには、もう安心。大丈夫たけに逢へる。もう何が何でもこの子に縋つて、離れなけれやいいのだ。</p>
          <p>「ずいぶん運動場を捜し廻つたんだが、見つからなかつた。」</p>
          <p>「さう。」と言つてかすかに首肯き、おなかをおさへた。</p>
          <p>「まだ痛いか。」</p>
          <p>「すこし。」と言つた。</p>
          <p>「薬を飲んだか。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-329880-329906">黙つて首肯く。</seg></p>
          <p>「ひどく痛いか。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-329935-329976">笑つて、かぶりを振つた。</seg></p>
          <p>「それぢやあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行つてくれよ。お前もおなかが痛いだらうが、僕だつて、遠くから来たんだ。歩けるか。」</p>
          <p>「うん。」と大きく首肯いた。</p>
          <p>「偉い、偉い。ぢやあ一つたのむよ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-330288-330467">うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつつかけ、おなかをおさへて、からだをくの字に曲げながら家を出た。</seg></p>
          <p>「運動会で走つたか。」</p>
          <p>「走つた。」</p>
          <p>「賞品をもらつたか。」</p>
          <p>「もらはない。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-330583-330957">おなかをおさへながら、とつとと私の先に立つて歩く。また畦道をとほり、砂丘に出て、学校の裏へまはり、運動場のまんなかを横切つて、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはひり、すぐそれと入違ひに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。</seg></p>
          <p>「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。</p>
          <p>「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-332692-334659">たけの頬は、やつぱり赤くて、さうして、右の眼蓋の上には、小さい罌粟粒ほどの赤いほくろが、ちやんとある。髪には白髪もまじつてゐるが、でも、いま私のわきにきちんと坐つてゐるたけは、私の幼い頃の思ひ出のたけと、少しも変つてゐない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶつたのは、私が三つで、たけが十四の時だつたといふ。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教へられたのであるが、けれども、私の思ひ出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがはない老成した人であつた。これもあとで、たけから聞いた事だが、その日、たけの締めてゐたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公してゐた頃にも締めてゐたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、私の家からもらつたものだといふ事である。そのせゐもあつたのかも知れないが、たけは、私の思ひ出とそつくり同じ匂ひで坐つてゐる。だぶん贔屓目であらうが、たけはこの漁村の他のアバ（アヤの Femme）たちとは、まるで違つた気位を持つてゐるやうに感ぜられた。着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも、選択がしつかりしてゐる。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持つてゐる。私も、いつまでも黙つてゐたら、しばらく経つてたけは、まつすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかつた。でも、やはり黙つてゐた。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-334659-334715">たけは、ふと気がついたやうにして、</seg></p>
          <p>「何か、たべないか。」と私に言つた。</p>
          <p>「要らない。」と答へた。本当に、何もたべたくなかつた。</p>
          <p>「餅があるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。</p>
          <p>「いいんだ。食ひたくないんだ。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-335008-335082">たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、</seg></p>
          <p>「餅のはうでないんだものな。」と小声で言つて微笑んだ。三十年ちかく互ひに消息が無くても、私の酒飲みをちやんと察してゐるやうである。不思議なものだ。私がにやにやしてゐたら、たけは眉をひそめ、</p>
          <p>「たばこも飲むなう。さつきから、立てつづけにふかしてゐる。たけは、お前に本を読む事だば教へたけれども、たばこだの酒だのは、教へねきやなう。」と言つた。油断大敵のれいである。私は笑ひを収めた。</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-335653-335769">私が真面目な顔になつてしまつたら、こんどは、たけのはうで笑ひ、立ち上つて、</seg></p>
          <p><seg source="#source-335769-335772">「</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-335772-335808"><rb>竜神様</rb><rt>りゆうじんさま</rt></ruby>の桜でも見に行くか。どう？」と私を誘つた。</p>
          <p>「ああ、行かう。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-335902-336642">私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると竜神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。</seg></p>
          <p>「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-337722-337737"><rb>庫</rb><rt>くら</rt></ruby><seg source="#source-337737-337812">の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-337812-337836"><rb>昔噺</rb><rt>むがしこ</rt></ruby><seg source="#source-337836-337947">語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-337947-337959"><rb>愛</rb><rt>め</rt></ruby>ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。</p>
          <p>「子供は？」たうとうその小枝もへし折つて捨て、両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-338599-338694">私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。</seg></p>
          <p>「男？　女？」</p>
          <p>「女だ。」</p>
          <p>「いくつ？」</p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-338754-339728">次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるＴ君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にゐた事がある人だ。私は、これらの人と友である。</seg></p>
          <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-339728-340295">さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまづペンをとどめて大過ないかと思はれる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。</seg></p>
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        <note type="source-attribution" source="#source-340303-340520"><seg type="source-line">底本：「太宰治全集第六巻」筑摩書房</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1990（平成2）年4月27日初版第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「新風土記叢書7　津輕」小山書店</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1944（昭和19）年11月15日発行</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-340520-340977"><seg type="source-line">※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」（区点番号5-86）を、大振りにつくっています。</seg><lb/><seg type="source-line">入力：八巻美惠</seg><lb/><seg type="source-line">1999年5月21日公開</seg><lb/><seg type="source-line">2018年7月24日修正</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（https://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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      <note type="parser-completion" n="true">The n attribute is true when no parser diagnostic of error severity was raised for this source. What the converter could not interpret is recorded in the interpretation-problem and parser-diagnostic notes.</note>
      <note type="source-decoding">windows-31j</note>
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