旅と云つても、ほんの一夜泊の話なのですが――。

私のいま住んでゐます沼津から程近く、六七ヶ所の温泉があります。

なかの<ruby><rb>吉奈</rb><rt>よしな</rt></ruby>温泉から、病氣でいま此處に來てゐる、おひまならお遊びにおいで下さいませんかといふ思ひがけない手紙がＦ――さんから來ました。Ｆ――さんは我々の歌の社中の人で、そして踊りの師匠として世に聞えた婦人なのです。夙うから病氣入院中の事をば知つてゐたが、もう湯治に出かけられる樣になられたかと喜びながら私は早速家を出て、夕方早くその宿に着きました。

田舍に似合はぬ大きな宿ですが、その最も奧まつた一室が――Ｆさんの部屋でした。きちんと片附いたなかに思つたよりもなほ元氣よく美しく坐つておゐでゝした。縁側からすぐ小さな池となり、池の向うが築山、築山の向うはもう天然の山で峻しい坂に欝蒼と樹木が茂り、その茂みの中には<ruby><rb>他處</rb><rt>よそ</rt></ruby>から引かれたのでせう、きれいな岩を傳うて愛らしい瀧となつて流れ落ちてゐました。

少し位ゐなら歩き度いとの事で食事後、打ち連れて近所を散歩しました。宿から一二町も歩くとすぐ眞青な稻田で、稻田の向うに溪が流れてゐました。もう八月に入つてゐましたに何といふ螢の多さだつたでせう、稻田のうへ一面、それこそ歩いてゐる我等の顏にも來てあたりさうに、點りつ消えつ靜かに〱まひ遊んでゐるのです。それでゐて私にはたゞ美しいとか見ごとだとかいふより何やらしみじみした寂しいものに眺められたのでした。矢張りもう秋の螢といふ樣な感じが何處かに動いてゐたに相違ありません。螢の話、歌の話など、一つ二つ語り合つてほど〱に宿に歸り、やがて私は私の部屋に引き上げました。部屋は築山や池を斜めにＦ――さんの所と向き合つてゐました。そとから入れば流石に部屋は暑苦しく、一度入つた蚊帳から出て、縁側に腰をかけてゐると、山から降りてくるひやゝかな風、瀧のひゞき……

みじか夜をひびき冴えゆく<ruby><rb>築庭</rb><rt>つきやま</rt></ruby>の奧なる瀧に聽き<ruby><rb>恍</rb><rt>ほ</rt></ruby>けてゐる

燈火のとどかぬ庭の瀧のおとを獨り聽きつつ戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>さ</rt></ruby>しかねつ

翌日は半日あまりＦ――さんの部屋で遊びました。そして、眼前の景物を題に一首二首と詠むことになりました。Ｆ――さんにも面白いのが出來たのでしたが、惜しい事にはいま思ひ出せません。

水口につどへる群のくろぐろと泳ぎて<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>も水もひかれり

いしたたきあきつ蛙子あそび<ruby><rb>恍</rb><rt>ほ</rt></ruby>け池にうつれる庭石の影

まひおりて石菖のなかにものあさる<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>いしたたき</rt></ruby>の咽喉の黄いろき見たり

庭石のひとつひとつに<ruby><rb>蜥蜴</rb><rt>とかげ</rt></ruby>ゐて這ひあそぶ晝となりにけるかな