Soranoha

樹木とその葉

じゅもくとそのは

若山 牧水

私は草鞋わらぢを愛する、あの、枯れた藁わらで、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。

あの草鞋を程よく兩足に穿はきしめて大地の上に立つと、急に五軆の締まるのを感ずる。身軆の重みをしつかりと地の上に感じ、其處から發した筋肉の動きがまた實に快く四肢五軆に傳はつてゆくのを覺ゆる。

呼吸は安らかに、やがて手足は順序よく動き出す。そして自分の身軆のために動かされた四邊あたりの空氣が、いかにも心地よく自分の身軆に觸れて來る。

机上の爲事しごとに勞つかれた時、世間のいざこざの煩わづらはしさに耐へきれなくなつた時、私はよく用もないのに草鞋を穿いて見る。

二三度土を踏みしめてゐると、急に新しい血が身軆に湧いて、其儘そのまま玄關を出かけてゆく。實は、さうするまではよそに出懸けてゆくにも億劫おくくふなほど、疲れ果てゝゐた時なのである。

そして二里なり三里なりの道をせつせと歩いて來ると、もう玄關口から子供の名を呼び立てるほど元氣になつてゐるのが常だ。

身軆をこゞめて、よく足に合ふ樣に紐ひもの具合を考へながら結ぶ時の新しい草鞋の味も忘れられない。足袋を通してしつくりと足の甲を締めつけるあの心持、立ち上つた時、じんなりと土から受取る時のあの心持。

と同時に、よく自分の足に馴れて來て、穿いてゐるのだかゐないのだか解らぬほどになつた時の古びた草鞋も難有ありがたい。實をいふと、さうなつた時が最も足を痛めず、身軆を勞れしめぬ時なのである。

ところが、私はその程度を越すことが屡々しばしばある。いゝ草鞋だ、捨てるのが惜しい、と思ふと、二日も三日も、時とすると四五日にかけて一足の草鞋を穿かうとする。そして間々まま足を痛める。もうさうなるとよほどよく出來たものでも、何處にか破れが出來てゐるのだ。從つて足に無理がゆくのである。

さうなつた草鞋を捨てる時がまたあはれである。いかにも此處まで道づれになつて來た友人にでも別れる樣なうら淋しい離別の心が湧く。

『では、左樣なら!』

よくさう聲に出して言ひながら私はその古草鞋を道ばたの草むらの中に捨てる。獨り旅の時はことにさうである。

私は九文半の足袋を穿く。さうした足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに(都會には大小殆んど無くなつてゐるし)一層さうして捨て惜しむのかも知れない。

で、これはよささうな草鞋だと見ると二三足一度に買つて、あとの一二足をば幾日となく腰に結びつけて歩くのである。もつともこれは幾日とない野越え山越えの旅の時の話であるが。

さうした旅をツイ此間私はやつて來た。

富士の裾野の一部を通つて、所謂いはゆる五湖を𢌞り、甲府の盆地に出で、汽車で富士見高原に在る小淵澤驛までゆき、其處から念場が原といふ廣い〱原にかゝつた。八ヶ岳の表の裾野に當るものでよく人のいふ富士見高原なども謂いはゞこの一部をなすものかも知れぬ。八里四方の廣さがあると土地の人は言つてゐた。その原を通り越すと今度は信州路になつて野邊山が原といふのに入つた。これは、同じ八ヶ岳の裏の裾野をなすもので、同じく廣茫たる大原野である。富士の裾野の大野原と呼ばるゝあたりや淺間の裏の六里が原あたりの、一面に萱かやや芒すすきのなびいてゐるのと違つて、八ヶ岳の裾野は裏表とも多く落葉松からまつの林や、白樺の森や、名も知らぬ灌木林などで埋つてゐるので見た所いかにも荒涼としてゐる。丁度樹木の葉といふ葉の落ちつくした頃であつたので、一層物寂びた眺めをしてゐた。

野邊山が原の中に在る松原湖といふ小さな湖の岸の宿に二日ほど休んだが、一日は物すごい木枯こがらしであつた。あゝした烈しい木枯は矢張りあゝした山の原でなくては見られぬと私は思つた。其處から千曲川ちくまがはに沿うて下り、御牧が原に行つた。この高原は淺間の裾野と八ヶ岳の裾野との中間に位する樣な位置に在り、四方に窪地を持つて殆んど孤立した樣な高原となつて居る。私は曾つて小諸町からこの原を横切らうとして道に迷ひ、まる一日松の林や草むらの間をうろ〱してゐた事があつた。

其處から引返して再び千曲川に沿うて溯さかのぼり、終つひにその上流、といふより水源地まで入り込んだ。此處の溪谷は案外に平凡であつたが、その溪を圍む岩山、及び、到る所から振返つて仰がるゝ八ヶ岳の遠望が非常によかつた。

そしてその水源林を爲す十文字峠といふを越えて武藏の秩父ちちぶに入つた。この峠は上下七里の間、一軒の人家をも見ず、唯だ間斷なくうち續いた針葉樹林の間を歩いてゆくのである。常磐木を分けてゆくのであるが、道がおほむね山の尾根づたひになつてゐるので、意外にも遠望がよくきいた。近く甲州路の國師嶽甲武信嶽、秩父の大洞山雲取山、信州路では近く淺間が眺められ、上州路の碓氷妙義などは恰も盆石を置いたが如くに見下され、ずつとその奧、越後境に當つた大きな山脈は一齋に銀色に輝く雪を被かづいてゐた。

ことにこの峠で嬉しかつたのは、尾根から見下す四方の澤の、他にたぐひのないまでに深く且つ大きなことであつた。しかもその大きな澤が複雜に入りこんでゐるのである。あちこちから聳そびえ立つた山がいづれも鋭く切れ落ちてその間に深い澤をなすのであるが、山の數が多いだけその峽も多く、それらから作りなされた澤の數はほんとに眼もまがふばかりに、脚下に入り交つて展開せられてゐるのであつた。そしてそれらの澤のうち特に深く切れ込んだものゝ底から底にかけてはありとも見えぬ淡い霞がたなびいてゐるのであつた。

峠を降りつくした處に古び果てた部落があつた。栃本とちもとと云ひ、秩父の谷の一番奧のつめに當る村なのである。削り下した嶮崖の中に一筋の繩のきれが引つ懸つた形にこびりついてゐるその村の下を流れる一つの谷があつた。即ち荒川隅田川の上流をなすものである。いま一つ、十文字峠の尾根を下りながら左手の澤の底にその水音ばかりは聞いて來た中津川といふがあり、これと栃本の下を流るゝものとが合して本統の荒川となるものであるが、あまりに峽が嶮しく深く、終つひにその姿を見ることが出來なかつた。

栃本に一泊、翌日は裏口から三峰に登り、表口に降りた。そして昨日姿を見ずに過ごして來た中津川と昨日以來見て來てひどく氣に入つた荒川との落ち合ふ姿が見たくて更にまた川に沿うて溯り、その落ち合ふところを見、名も落合村といふに泊つた。

斯くして永い間の山谷の旅を終り、秩父影森驛から汽車に乘つて、その翌日の夜東京に出た。すると其處の友人の許に沼津の留守宅から子供が脚に怪我をして入院してゐる、すぐ歸れといふ電報が三通も來てゐた。ために豫定してゐた友人訪問をも燒跡見物をもすることもなくしてあたふたと歸つて來たのであつた。

この旅に要した日數十七日間、うち三日ほど休んだあとは毎日歩いてゐた。それも兩三囘、ほんの小部分づつ汽車に乘つたほか、全部草鞋の厄介になつたのであつた。

自宅に歸ると細君から苦情が出た、何日には何處に出るといふ風の豫定を作つておいて貰ふか毎日行く先々から電報でも打つて貰はぬことにはまさかの時に誠に困るといふのである。

もつともとも思ふが、私の方でも止むを得なかつた。たとへば千曲川の流域から荒川の流域に越ゆる間など、ほゞ二十里の間に郵便局といふものを見なかつたのだ。

また私は健脚家といふでなく、所謂いはゆる登山家でなく冒險家でもないので、あまり無理な旅をしたくない。出來るだけ自由に、氣持よく、自分の好む山河の眺めに眺め入り度いためにのみ出かけて行くので、行くさき〲どんな所に出會ふか解らぬ間は、なか〱豫定など作れないのである。

それにしてもどうも私には旅を貪むさぼりすぎる傾向があつていけない。行かでもの處へまで、われから強ひて出かけて行つて烈しい失望や甲斐なき苦勞を味ふ事が少なくない。

然しそれも、『斯ういふ所へもう二度と出かけて來る事はあるまい、思ひ切つてもう少し行つて見よう。』といふ概念や感傷が常に先立つてゐるのを思ふと、われながらまたあはれにも思はれて來るのである。

今度の旅では幾つかの湖と、幾つかの高原と、同じ樣に幾つかの森林と、溪谷と、峰と、澤とを見、且つ越えて來た。順序よく行けば十日あれば𢌞り得る範圍である。それにしてはよく計畫された旅であつた。私の十七日かゝつたのは例の貪慾癖どんよくへきと、信州路で三四日友人等と會談してゐたゝめであつた。

机の上に地圖をひろげて見てゐると、まだまだなか〱行つて見度い處が多い。いつも考へる事だが、斯うして見ると日本もなか〱廣大なものだ。どうか出來るならばせめてこの日本中の景色をでも殘る所なく貪り盡して後死にたいものだとしみ〲思はざるを得ぬのである。

草鞋を穿いて歩く樣な旅行には無論幾多の困難が伴ふ。先づ宿屋の事である。次に飮食物の事である。

今度の旅でも私は二度、原つぱの中の一軒家に泊めて貰つた。二軒ともこの邊の甲州と信州との間の唯一の運送機關になつてゐる荷馬車の休む立場たてばの樣な茶店で、一軒は念場が原の眞中、丁度甲信の國境に當つた所であつた。時雨しぐれは降る、日は暮れる、今夜の泊りと豫定した部落まではまだこの荒野の中を二里も行かねばならぬと聞き、無理に頼んで泊めて貰つたのであつた。一軒は野邊山が原のはづれ、千曲川に臨んだ嶮崖のとつぱなの一軒家で、景色は非常によかつた。

それから妙な𢌞り合せで裁判所の判檢事、警察署長、小林區署長といふ客の一行から私は二度宿屋を追つ拂はれた、一度は千曲川縁の小さな鑛泉宿で、一度はそれから一日おいて次の日、その千曲の溪の一番の奧にある部落の宿屋で。一夜は一里あまり闇の中を歩いて他に宿を求め、一夜は辛うじて同じ村内に木賃風の宿を探し出し、屋内に設けられた厩うまやの二疋の馬を相手に村酒を酌んで冷たい夢を結んだ。別に追つ拂はれる事もないのだが矢張り斯うして長いものに卷かれてゐた方が自分の氣持の上に寧ろ平穩である事を知つて居るからであつた。

信州では、ことに今度行つた佐久地方では鯉は自慢のものである。成程いゝ味である。がそれも一二度のことで、二度三度と重なると飽いて來る。鑵詰にもいゝ物はなく、海の物は絶無と云つていゝ。

たゞ難有ありがたいのは山の芋と漬物とであつた。私は何處でも先づこの二つを所望した。とろろ汁は出來のよしあしを問はず生來の好物だし、斯うした山國の常として漬物だけには非常な注意が拂つて漬けられてゐるので確かにうまい。味噌漬もいゝが、ことに梅漬がよかつた。この國では(多分この國だけではないかと思ふ)梅を所謂梅干といふ例の皺のよつた鹽鹸しほからいものにせず、木にある生なまの實のまゝの丸みと張りと固さとを持つた漬け方をするのである。そして同じく紫蘇で美しく色づけられてゐる。これが何處に行つても必ず毎朝のお茶に添へて炬燵こたつの上に置かるゝ。中の核たねを拔いて刻んで出す家もあり、粒のまゝの家もある。これをかり〱と噛んで澁茶を啜すするのはまことに私の毎朝の樂しみであつた。殆んど毎朝その容器をば空にした。また、時として酒のさかなにもねだつた。

田舍の漬物のことで一つ笑ひ話がある。ずつと以前、奧州の津輕に一月ほど行つてゐた事があつた。このあたりの食物の粗末さはまた信州あたりの比ではない。たいていのものをば喰べこなす私も後にはどうしても箸がつけられなくなつた。そして矢張り中で一番うまいのは漬物だといふ事になり、そればかり喰べてゐた。やがて其處を立つて歸る時が來た。土地の青年の、しかも二人までが、見てゐるところ先生はよほど漬物がお好きの樣である、どうかこれをお持ち下さいと云つてかなりの箱と樽とを差出した。眞實嬉しくて厚く禮をいひ、幾度かの汽車の乘換にも極めて丁寧に取り扱つて自宅まで持ち歸つた。そして大自慢で家族たちに勸めたところが、皆、變な顏をしてゐる。そんな筈はないと自分にも口にして見て驚いた。たゞ驚くべき鹹味からみが感ぜらるるのみで、ツイ先日まで味はつてゐた風味はなか〱に出て來ないのである。やがて私は獨りで苦笑した、津輕にゐた時には他の食物に比してこれがうまかつたが、サテ他のものゝ味が出て來るともうこの漬物の權威はなくなつてゐるのであつたのだ。

酒であるが、因果いんぐわと私はこれと離るゝ事が出來ず、既に中毒性の病氣見たいになつてゐるので殆んどもうその質のよしあしなどを言ふ資格はなくなつてゐると言つていゝ、朝先づ一本か二本のそれが濟まなくてはどうしても飯に手がつけられない。晝の辨當を註文する前に一本のそれを用意する事を忘れない。夕方はなほのことである。

それも獨りの時はまだいゝ。久し振の友人などと落合つて飮むとなると殆んど常に度を過して折角の旅の心持を壞す事が屡々しばしばである。恨めしい事に思ひながら、なほそれを改め得ないでゐる。いゝ年をしながら、といつも耻しく思ふのであるが、いつかは自づとやめねばならぬ時が來るであらう。

旅は獨りがいゝ。何も右言つた酒の上のことに限らず、何彼につけて獨りがいゝ。深い山などにかかつた時の案内者をすら厭ふ氣持で私は孤獨の旅を好む。

つく〲寂しく、苦しく、厭はしく思ふ時がある。

何の因果で斯んなところまでてく〱出懸けて來たのだらう、とわれながら恨めしく思はるゝ時がある。

それでゐて矢張り旅は忘れられない。やめられない。これも一つの病氣かも知れない。

私の最も旅を思ふ時季は紅葉がそろ〱散り出す頃である。

私は元來紅葉といふものをさほどに好まない。けれど、それがそろ〱散りそめたころの山や谷の姿は實にいゝ。

谷間あたりに僅かに紅ゐを殘して、次第に峰にかけて枯木の姿のあらはになつてゐる眺めなど、私の最も好むものである。

路にいつぱいに眞新しい落葉が散り敷いてその匂ひすら日ざしの中に立つてゐる。その間から濃紫こむらさきの龍膽りんだうの花が一もと二もと咲いてゐるなどもよくこの頃の心持を語つてゐる。

木枯の過ぎたあと、空は恐ろしいまでに澄み渡つて、溪にはいちめんに落葉が流れてゐる、あれもいい。ホ、もうこの邊にはこれが來たのか、と思ひながら踏む山路の雪、これも尊い心地のせらるゝものである。枯野のなかを行きながら遠く望む高嶺の雪、これも拜みたい氣持である。

落葉の頃に行き會つて、これはいゝ處だと思はれた處にはまた必ずの樣に若葉の頃に行き度くなる。

これは一つは樹木を愛する私の性癖からかも知れない。

事實、世の中に樹木といふものが無くなつたならば、といふのが仰山ぎやうさんすぎるならば、若し其處等の山や谷に森とか林とかいふものが無くなつたならば、恐らく私は旅に出るのをやめるであらう。それもいはゆる植林せられたものには味がない、自然に生はえたまゝのとりどりの樹の立ち竝んだ姿がありがたい。

理窟ではない、森が斷ゆれば自づと水が涸かるゝであらう。

水の無い自然、想ふだにも耐へ難いことだ。

水はまつたく自然の間に流るゝ血管である。

これあつて初めて自然が活きて來る。山に野に魂が動いて來る。

想へ、水の無い自然の如何ばかり露骨にして荒涼たるものであるかを。

ともすれば荒つぽくならうとする自然を、水は常に柔かくし美しくして居るのである。立ち竝んだ山から山の峯の一つに立つて、遠く眼にも見えず麓を縫うて流れてゐる溪川の音を聞く時に、初めて眼前に立ち聳えて居る巍々ぎぎたる諸山岳に對して言ふ樣なき親しさを覺ゆることは誰しもが經驗してゐる事であらうとおもふ。

私の、谷や川のみなかみを尋ねて歩く癖も、一にこの水を愛する心から出てゐるのである。

今度の旅では千曲川のみなかみを極めて、荒川の上流に出たのであつた。

その分水嶺をなす樣な位置に在る十文字峠といふのは上下七里の難道であつたが、七里の間すべて神代ながらの老樹の森の中をゆくのである。

その大きな官有林に前後何年間かにわたつて行はれた盜伐事件が發覺して、長野埼玉兩縣下からの裁判官警察官林務官といふ樣な人たちがその深い山の中に入り込んでゐた。そしてそれらの人たちのために二度宿屋を追はれたのであつた。

千曲川の上流長さ數里にわたつた寒村を川上かはかみ村と云つた。

ずつと以前利根川の上流を尋ねて行つた時、水上みなかみ村といふのに泊つたことがある。

村の名にもなか〱しやれたのゝあるのに出會ふ。上州の奧、同じく利根の上流をなす深い溪間の村に小雨こさめ村といふのがあつた。恐しい樣な懸崖の下に、家の數二十軒ばかりが一握りにかたまつてゐる村であつた。その次の村、これはそれよりも一二里奧の同じ溪に臨んだ小雨村よりももつと寂しい京塚村といふのであつた。この村をば私は對岸の山の上から見て過ぎたのであつたが、崖の中腹に作られた七八軒の家が悉くがつしりした構へで而かも他に見る樣にきたなつぽくなく、いかにも上品な古びた村に眺められたのであつた。どうしたのか、折々この村をば夢に見ることがある。

荒川の上流と言つたが、二つの溪が落合つて本流のもとをなすのである。その一つの中津川といふものゝ水上に中津川といふ部落があるさうだ。昔徳川幕府の時代、久しい間この部落の存在は世に知られてゐなかつた。よくある話の樣に、折々その溪奧から椀の古びたのなどが流れてくる。箭やの折れたのも流れて來た。若しや大阪の殘黨でも隱れてゐるのではないかと土地の代官か何かゞ大勢を引率してその上流を探して行つた。果して思ひもかけぬ山の蔭に四五十人の人が住んでゐた。それといふのでその四五十人を何とかいふ蔓かづらで何とかいふ木にくゝしつけてしまつた。そしてよく聞いて見ると大阪ではなくずつと舊く鎌倉の落人であることが解つた。村人はその時の事を恨み、この後この里にその何とか蔓と何の木とはゆめにも生はゆること勿れと念じ、今だに其の木と蔓とはその里に根を絶つてゐるといふ。

傳説は平凡だが、私は十文字峠の尾根づたひのかすかな道を歩きながら七重八重の山の奧の奧にまだまださうした村の在るといふことに少なからぬ興味を感じた。落葉しはてたその方角の遙かの溪間には折から朗かな秋の夕日がさしてゐた。その一個所を指ざして、ソラ、あそこにちよつぴり青いものが見ゆるだらう、あれが中津川の人たちの作つてゐる大根畑だ、と言ひながら信州路から連れて來た私の老案内者はその大きなきたない齒莖をあらはして笑つた。

燒岳を越えて飛騨ひだの國へ降おりついたところに中尾村といふ村があつた。十四五軒の家がばらばらに立つてゐるといふ風な村であつたが、その中の三四軒で、男とも女ともつかぬ風態をした人たちが大きな竈に火を焚いてせつせと稗を蒸してゐた。

越後境に近い山の中に在る法師温泉といふへ、上州の沼田町から八九里の道を歩いて登つて行つたことがある。もう日暮時で、人里たえた山腹の道を寒さに慄へながら急いでゐると不意に道上で人の咳しはぶく聲を聞いた。非常に驚いて振仰ぐと、畑ともつかぬ畑で頻りと何やら眞青な葉を摘んでゐる。よく見ればそれは煙草の葉であつた。

下野に近い片品川の上流に沿うた高原を歩いた時、その邊の桑の木は普通の樣に年々その根から刈り取ることをせず、育つがまゝに育たせた老木として置いてある事を知つた。だから桑の畑と云つても實は桑の林と云つた觀があつた。その桑の根がたの土をならしてすべて大豆が作つてあつた。すつかり葉の落ちつくした桑の老木の、多い幹も枝も空洞になつてゐる樣なのゝ連つた下にかゞんでぼつ〱と枯れた大豆を引いてゐる人の姿は、何とも言へぬ寂しい形に眺められた。

今度通つた念場が原野邊山が原から千曲の谷秩父の谷、すべて大根引だいこんびきのさかりであつた。枯れつくした落葉松林の中を飽きはてながら歩いてゐると、不意に眞青なものゝ生えてゐる原に出る。見れば大根だ。馬が居り、人が居る。或日立寄つた茶店の老婆たちの話し合つてゐるのを聞けば今年は百貫目十圓の相場で、誰は何百貫賣つたさうだ、何處其處の馬はえらく痩せたが喰はせるものを惜しむからだ、といふ樣なことであつた。永い冬ごもりに人馬とも全くこの大根ばかり喰べてゐるらしい。

都會のことは知らない、土に噛り着いて生きてゐる樣な斯うした田舍で、食ふために人間の働いてゐる姿は、時々私をして涙を覺えしめずにはおかぬことがある。

草鞋の話が飛んだ所へ來た。これでやめる。

底本 / Source edition

底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年4月4日公開
2005年11月9日修正
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TEI
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書誌 / Bibliography
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若山 牧水「樹木とその葉──02 草鞋の話旅の話」(旧字旧仮名)、底本『若山牧水全集 第七卷』雄鷄社、1958年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002211_000162, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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