Soranoha

鴉と正覚坊

からすとしょうがくぼう

若山 牧水

正覺坊

いつもより少し時間は遲かつたが、晩酌前の散歩をして來ようと庭つゞきの濱の松原へ出かけて行つた。其處には松原を縱に貫いて通じてゐる靜かな小徑があり、朝夕私の散歩徑となつてゐる。一二町も歩いたところで、濱から上つてその小徑を切る小徑がある。其處で三人連の漁師の子供に出會つた。いづれも十歳ばかりの見知らぬ子供たちであるが、なかの一人が行きちがひさまに矢庭に私に向つて兩手をひろげて、

『龜があがつたよ、斯んなにでつけえ龜が……』

と言つた。

するとあとの二人も振返つて同じ樣に兩手を押しひろげながら、

『龜があがつたよ、でつけえ龜が……』

村に知らせにでも行くか、息をはずませてゐる。

『さうか、それはよかつた、其處の濱だけで……』

彼等のうなづいて飛んで行くのを見ながら私は濱徑へ折れた。

濱はまだ明るかつた。そして網の曳きあげられた浪打際から十四五人の人が何やら大きなものを擔いでこの松原つゞきの濱の高みに登つて來るところであつた。

なるほど大きな龜である。二本の棒で、四人の若者に擔がれたこの怪物はやがて漁師小屋の前におろされた。まさしく二抱への胴のまはりと、それに相應した背丈とを持つてゐた。淡色をした首は厚ぼつたく幾重かに皺ばんで、ずつと縮めた時は直徑一尺もあるかに見えた。

あふ向けになつたまゝ置かれてゐるので彼は動く事は出來なかつた。そして時々その不恰好ぶかつかうな身體に合せては小さい四肢をかたみがはりに動かして自分の腹部の甲良を打つてゐた。打つごとにがちやりがちやりと音がした。網で痛めたか、眼は兩方ともに血走り、蝋涙の樣なものが斷えず流れて、その末は白くねばりついてゐた。腹の甲良は龜甲形の斑を帶びながらいかにも滑らかで、そして赤みを帶びて黄いろく、美しかつた。

『玳瑁たいまいといふでねヱかナ』

漁師の一人がその甲良を撫でながら言つた。

『さア、玳瑁ならたえしたもんだが、たゞの龜づら』

なぜ此處に來たらうといふのがまた問題になつた。どうせ八丈か小笠原島から來たであらうが、卵を産みに來たでは遠すぎるし、何に浮れて出て來たか、『酒でも御馳走になりに來たづらよ』などと、半裸體の漁師たちも子供の樣になつて浮れてゐた。

龜の首を伸ばすのを待つては子供たちはその口へ木片などを押し込んだ。かなりの大きいものも、ぽき〱と噛み折られた。中には石ころを噛ませる者もあつた。廿歳にも近からう大きな惡童は腹にとび乘り、右左に踏み動かして、誰だかに叱られた。

見物人が追々と集つた。逃がすか逃がさないかの相談が持ち出されたのでその結果が聞きたく私も暫らくその中に立つてゐたが、そんな姿をいつまでも見てゐるのが不愉快で、聞き流して立ち去つた。そして浪打際の網の方へ行つてみた。

みな龜に集つて、網の跡始末をしてゐるのはほんの二三の老人たちであつた。濡れた砂の上には網からあけられたしらすが笊ざるに四五杯置き竝べてあつた。生絹きぎぬのきれはしの樣なこの小さな透明な魚たちはまだ生きてゐて、かすかにぴしよ〱と笊の中で跳ねてゐた。

その翌日の夕飯の時である。濱から歸つて來たといふ三人の子供たちが、がや〱とお膳に押し並んでゐた。そして私が自分の膳につくのを見るや否や、

『阿父さん、僕また龜を見て來た』

と末の子が言つた。

『ふうちやん、違ひますよ……』

と次の姉は一寸考へてゐたが、今度は私に向つて、

『阿父さん、あれは正覺坊しやうがくばうですつて、龜ぢや無いんですつて』

『ほゝウ、正覺坊か』

と何か知ら驚いた樣な氣持で私は返事したが、やがてわれともなく、

『ふゝうん』

と附け足した。

『正覺坊だつて?』

それを聞いたか濡手をふきふき子供たちの母が勝手から出て來た。

『丁度いゝや、阿父さんのお友達だから』

『なぜ、なぜ、なぜ正覺坊が阿父さんのお友達なの?』

幼い姉弟はむきになつて母に問ひ寄つた。

『はゝア、解つた、お酒飮だろ、正覺坊は』

一番上の中學一年生の兄が言つた。

『ア、さうだ、お酒を飮まして海んなかへ逃がしてやつたよ、いま』

先刻の姉と今一人の姉とは競爭して言つた。

『さうか、逃がしてやつたか、それはよかつた』

父も苦笑しながら話の中に入つてゐた。

『どうして正覺坊はお酒飮なの、お母さん』

『阿父さんに訊いてごらん』

『どうして正覺坊はお酒飮なの、阿父さん』

『さアテ、なア、……』

『どうして正覺坊を、折角とつたのに』

『さアテ、……』

漸く一段落ついた所で私は妻に言つた。

『いゝ香具師やしもつかなかつたと見えるな』

『さうでせうとも、……、早く逃がしてやればいゝのに、慾張たちが』

逃がす、といふ言葉がなぜだかふつと私に例の姿を想ひ出させた、何處か其處らの海の中をせつせといま泳いでゐるであらうその姿を。

鴉

松原の幅が約二百間、西の海に面したそのはづれからかなり急な傾斜で五六十間あまりもなだれて行つてゐるのが濱である。千本濱といひ千本松原といふと優しく聞えるが、なか〱大きな松原であり、荒い濱である。

この正月ころからめつきり身體に出て來た酒精中毒のために旅行はおろか、町までへの外出をもようしなくなつた私にとつてこの松原と濱とは實にありがたい散歩場所であるのである。それも少し遠くまで歩くと動悸が打つので、自分の家に近いほんの僅かの部分を毎日飽くことなく一二度づつ歩いてゐるのである。從つて歩く徑も――松原の中には漁師のつけた徑が無數にある――きまつてをれば、腰をおろして休む場所も自づときまつてゐる。

しげ〱と立ち竝んだ松原のはづれ、其處から眞白い小石原の傾斜になつてゐるところに休み場の一つがある。腰をおろすに恰好な形を持つた場所に芝草が茂り、腰をおろして海に向つた頭の上には老松が程よく枝をひろげて居る。漁師小屋とも遠く、普通の徑とも離れてゐるので、人に向つて挨拶を交す事さへもない。そして、濱の全部、駿河灣の全部を居ながらに眺めわたすことが出來る。

多く一人でぶら〱するのであるが、時には子供を連れて出かける。子供といつても上の三人は學校に行つてゐるので、大抵いつも末つ子の六歳になる男の子にきまつてゐる。そして休むべき場所には一緒に休む。子供も心得てゐて、自分から先に行つて休んでゐることもある。中で一番多く休むのは右に云つた濱の高み、松の木の蔭である。ぼんやりと海を見、海を越しての伊豆の山の此頃青み渡つたのを見るにはまつたく其處は申分のない位置にある。

このごろ其處で面白いことに氣がついた。我等父子が休んでゐると、何處から飛んで來るか二羽の鴉が飛んで來て、頭の上の松にとまる。一羽のときもあるが、多くは二羽だ。そして高い枝から次第に低く、ともすれば私の手のとゞく所までもおりて來て頻りに、

『カアオ、カアオ』

と啼く。或る時は松の皮を嘴で突き剥いで我等の上に落す。

それだけならばまだしも、我等が其處を立つて家の方に歸らうとすると、あとになりさきになり、松から松の枝を傳つてあとを追つて來る。そして、いよ〱家の側の松まで來て、そこでやめる。一度や二度ならば氣もつかなかつたらうが、自づと解る程にまでそれを繰返してゐるのである。そしてそれは多く子供を連れて行つてゐる時で、私一人の時にはあまりやつて來ない。

『ふうちやん、あの鴉は屹度君と遊びたいんだよ、それであんなに君のあとを追つて來るのだよ』

『さうか知ら、あの鴉、僕と遊びたいのかなア、さうかなア』

この生意氣先生、甚だ得意であつた。そして早速そのことを母親に報告した。初めは相手にしなかつたが、やがて母親もそれを承知せざるを得なくなつた。

『ほんとだ、ふうちやんと仲好しになりたくつてしやうがないんだよ、遊んでおやりなさいよ』

『うむ、僕、遊んでやらア』

或る日、また滑稽な場面を見出した。矢張り子供を連れて松原の中を歩いてゐた。すると夥しい音をさせながら松原の小石を蹴立てゝ走り𢌞つてゐるものがある、私の家に飼つてゐる犬である。痩身な身體を地に磨りつける樣にして右往左往に走り狂つてゐる。其處は松のやゝまばらなところで、廣い石ころの原である。見れば二羽の鴉が犬とすれ〱の低さにまで下つて、あつちに飛びこつちに飛びして、がア〱と啼き騷いでゐる。一羽の鴉が松の枝からフラツとまひおりて來て犬の背を蹴る如くにして向うにゆく、犬が追ふ、反對の側からまたの一羽がフラツとおりて來る、追ふといふ騷ぎである。

『はゝア、彼奴等だナ』

と私はその鴉を見た。我等父子の姿を見て犬は一層元氣が出たらしかつた。そしてその爭鬪だか遊戲だかは我等の歩むにつれて、松原をはづれて濱に出た。今度は松の木の代りに鴉のとまり場は其處に置き竝べてある漁舟の舳へさきとなり艫ともとなつた。追ひつめた犬は勢ひこんで前脚を舷までは打ちかけるが、ほんの一二尺の距りで鴉に及ばない。鴉は嘴をつん〱と突き出しながら、『がア、がア』と啼く、其處へ他の一羽が犬の横からつういとやつて來る。

子供も浮かれて犬と共に走つた。そして犬と一緒に舟に縋すがつて舳へ手をあげる。もう少しで鴉にとどくのである。下手をして、眼でも突つかれては大變だと頻りに氣を揉んだが、そんなこともなかつた。

今日である。少し考へごとをしながら私は一人濱に出た。そして例の松の蔭の休み場に休んでゐた。松の皮が頻りと落ちて來る。ぢいつと眼を擧げると、これも今日は一羽、例の鴉が其處に來てゐる。啼きもしない。

『此奴、親爺まで犬と一緒にしてゐる』

と苦笑されたが、われ知らず何か言ひかけたい氣にもなつた。

底本 / Source edition

底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
2004年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/002204_000162/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/002204_000162/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/002204_000162/

若山 牧水「鴉と正覚坊」(旧字旧仮名)、底本『若山牧水全集 第八巻』雄鶏社、1958年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002204_000162, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite