Soranoha

或る精神異常者

あるせいしんいじょうしゃ

ルヴェル モーリス

彼は意地悪でもなく、といって、残忍酷薄な男でもなかった。ただ非常にかわった道楽をもっていたというだけのことだ。しかしその道楽もたいていやりつくしてしまって、いまでは、それにもなんら溌剌たる興味を感じないようになったのである。

彼はたびたび劇場へでかけた。けれど、それは演技を観賞したり、オペラ・グラスで見物席を見まわしたりするのが目的ではなくて、そうしてたびたびいっているうちに、とつぜんに劇場の失火というようなめずらしい事件にでっくわすかもしれぬという、一種の期待からであった。

また、ヌイエの市へでかけては、いろいろな見世物小舎をかたっぱしからあさりあるいたが、それもある突発的の災難、たとえば、猛獣使いが猛獣に噛みつかれるというような珍事を予期してのことであった。

ひと頃、闘牛見物に熱中したこともあったが、じきにあいてしまった。牛を屠殺するあの方法があまりに規則正しく、あまりに自然に見えるのがあきたらなかった。それに負傷の牛の苦悶を見るのもいやであった。

彼が真からあこがれたのは、思いもかけぬときにとつぜんわきおこる惨事、あるいは何か新奇な事変から生ずる溌剌たる、そして尖鋭ななやみそのものであった。実際、オペラ・コミック座が焼けた大火の晩に、彼は偶然そこへ観劇にいっていて、あの名状すべからざる大混雑の中から不思議にもけがひとつせずににげだしたのであった。それから、有名な猛獣使いのフレッドがライオンに喰い殺されたときは、檻のすぐそばでまざまざとその惨劇を見ていたのだ。

ところが、それ以来彼は芝居や動物の見世物にぜんぜん興味をうしなってしまった。

もとそんなものにばかり熱中していた彼が急に冷淡になったのを、友だちが不思議におもってそのわけをたずねると、彼はこんなふうに答えた。

「あんなところには、もう僕の見るものがなくなったよ。てんで興味がないね。我れ人ともにアッというようなものを僕は見たいんだ」

芝居と見世物という二つの道楽――しかも十年もかよいつめてやっと渇望をみたしたのに、その楽しみが無くなってからというものは、彼は精神的にも肉体的にもひどく沈衰してしまって、そののち数カ月間、滅多に外出もしないようになった。

ところがある日、パリの街々に、なん度刷りかの綺麗なポスターがはりだされた。そのポスターの図案は、くっきりと濃い海碧あお色を背景にして、一人の自転車乗りを点出したものであったが、まず一本の軌道が下へ向かってうねうねと幾重にも曲りくねって、しまいの方はリボンをたれたように垂直に地面へ落ちていた。そしてその軌道の頂上には、自転車乗りが今まさに駆けだそうとしてあいずを待っているのだが、軌道があんまり高いものだから、その自転車乗りは、ぽっちりと打ったひとつの点ほどにしか見えなかった。

このポスターは自転車曲芸団の広告だったのである。

その日の各新聞は、このきわどいはなれわざの提灯記事をかかげて奇抜なポスターの説明をしてくれていたが、それによると、かの曲芸師は、その錯綜した環状の軌道をば非常な快速力で風のごとく乗りまわして最後に地面へとぶのだが、彼は大胆にも、その危険きわまる曲乗りの最中に、自転車の上でさか立ちをやるということであった。

曲芸師は新聞記者を招待したさいに、軌道と自転車とを実地にしらべさせて、種もしかけもないことを証明した。そして自分のはなれわざは、極度に精確な算数によるものであって、精神集中作用が完全にいっているかぎり、万が一にも仕損じる気づかいはないと断言したそうだ。

しかしかりにも人間の生命が精神集中ひとつで保たれている場合、それはずいぶん不安定な懸釘にかかっているものだということもできるのだ。

さてこの貼りだされたポスターを見ると、わが精神異常者は少し元気が回復してきた。かれはそこになんらか新しい刺激が自分を待っているにちがいないという確信をもって、「今に見ろ」と友だちに公言もした。で、彼は初日の晩から観客席に陣取って、熱心にこの曲乗りを見物することになった。

彼はちょうど軌道の降り口のまっ正面に座席をひとつ取って、そこをたった一人で占領した。他人がまじると注意力が散漫になるのをおそれて、わざとひとりじめにしたのである。

もっともきわどい曲乗りは、たった五分間で終った。はじめ、白い軌道の上に黒い点がひとつひょっこりあらわれたと思うと、それがおそろしい勢で驀進し、旋回し、それから大跳躍をやった。それですべてが終っていた。まるで電光石火ともいうべき神速な、そして溌剌たる感激を彼にあたえた。

だが彼は帰りぎわに、大勢の観客けんぶつといっしょに小舎を出ながら考えた。「こんな感激は、二三度はいいが、結局芝居や見世物と同じようにあきがくるだろう」と。

彼はまだ、自分のほんとうに求めているものが見つからなかったが、ふとこんなことを思いついた――精神集中といっても、人間の気力にはかぎりがある。自転車の力だっていわば比較的のものだし、軌道にしても、いかに完全に見えていたっていつかはだめになるはずだ――と。そこで、一度はきっと事故が起こるにちがいないという結論に彼は到達した。

この結論からおして、その起こるべき事故をみまもるという決心をするのは、きわめて手近い一歩なのだ。

「毎晩でかけよう」と彼は心にきめた。「あの曲乗りの男が頭蓋あたまをわるまで見にゆこう。そうだ、パリで興行中の三カ月間に事故が起こらなければ、おれはそれが起こるまでどこまでもおっかけていくんだ」

それから二カ月間というものは、一晩もかかさずに、同じ時刻にでかけていって、おなじがわの同じ座席にすわった。彼はけっして、この座席を変えなかったので、座方の方でもじきに彼を見知るようになった。が、座方の連中は、高い料金をだして毎晩根気よく同じ曲乗りを見物にやってくる彼の道楽がどうしてもわかりかねた。

ところがある晩、曲芸師は常よりも早くその曲乗りを終ったが、ふと廊下で彼にでっくわした。言葉をかわすのに紹介の必要などはなかった。

「お顔はとうから見おぼえています」曲芸師が挨拶した。「あなたは入りびたりですね。毎晩いらっしゃいますね」

すると彼はびっくりして、

「僕はきみの曲乗りに非常な興味をもっているんだが、毎晩来るっていうことを誰に聞いたんだね?」

曲芸師はにっこり笑って、

「誰に聞いたのでもありません。自分の眼で見ているのです」

「それは不思議だ。あんなに高い所から……あの危険な芸をやっていながら……きみは観客けんぶつの顔を見わける余裕があるかね」

「そんな余裕があるもんですか。わたしは下の方の観客席なんかてんで見やしません。しょっちゅう動いたりしゃべったりしている観客に少しでも気を散らしたら、非常な危険ですからね。だがわたしどもの職業しょうばいでは、技芸わざや、理屈や、熟練のほかに、もっともっと大切なことがあります……いわばトリックのようなもんですがね……」

「えっ、トリックがあるかね」

彼はまたびっくりした。

「誤解しないでください。トリックといっても、わたしのはごまかしじゃありません。わたしのトリックは、観客のまったく気づかないことで、しかもそれが一等呼吸のむずかしいところです。いってみると、こうなんです……実際、わたしどもは頭をからっぽにしてただひとつの考えしか持たないということはなかなかむずかしいことで、つまりひとつのことに精神を集中するというそのことが困難なのです。しかしはなれわざをやるときはどのみち完全な精神集中が必要ですから、わたしは何かしら観客席に目標をきめて、そればかりをじっと見つめて、決してほかへ気を散らさぬようにします。そしてその目標の上に視線をすえた瞬間から、他のあらゆるものを忘れてしまうのです。

鞍にのぼって両手をハンドルにかけると、もう何も考えていません。バランスも、方向も考えません。わたしは自分の筋肉を頼みます。それは鋼鉄のようにたしかです。たったひとつあぶないのは眼ですが、いまもいったように、いったん何かを見すえるともう大丈夫です。

ところで、わたしは初日の晩に曲乗りをはじめるとき、偶然にもあなたの座席へ視線がおちたので、じっとあなたのお姿を見つめていました。あなたはご自分で気づかずに、わたしの眼をとらえたのです。

こうしてあなたはわたしの目標になりました。二日目の晩にもやはり同じ座席にいるあなたに眼をつけました。それからというものは、軌道のてっぺんに立つと、眼が本能的にあなたの方へ向かいます。つまりあなたはわたしを助けていらっしゃるので、いまじゃ、あなたはわたしの曲乗りに欠くことのできないだいじな目標になっています。これで、毎晩お見えになることをわたしが知っているわけがおわかりになったでしょう」

その次の晩も、わが精神異常者は例の座席にすわっていた。観客けんぶつは鋭い期待をもって、例のごとくざわざわと動いたりしゃべったりしていた。

と、とつぜん、水をうったようにしいんとしずまりかえった。観客がいきを殺している深い沈黙なのである。

曲芸師は、自転車に乗って、二人の助手にたすけられながら、出発の合図を待っているのだ。彼はやがて完全にバランスをとって両手にハンドルをにぎり、くびをしゃんとあげて正面に視線をつけた。

「ホオッ!」

曲芸師が一声叫ぶと、ささえていた二人の助手がさっと左右にわかれた。

その瞬間にかの精神異常者は、もっとも自然な仕方で起ちあがると、つとあとずさりをして、座席の他の一端へ歩いて行った。と、はるか上の軌道でおそろしい事件が起こった。曲芸師のからだがとつぜん宙にはねとばされてまっさかさまに墜落し、同時にからっ走りした自転車がもんどり打って、観客席のまっただなかへ落ちこんできた。

観客はアッと叫んで総立ちになった。

そのとき精神異常者は、規則正しい身振りをひとつやって、外套を着て、袖口でシルクハットの塵をはらいながらさも満足げに帰っていった。

底本 / Source edition

底本:「フランス怪談集」河出文庫、河出書房新社
1989(平成元)年11月4日初版発行
入力:山田芳美
校正:しず
2001年8月13日公開
2006年1月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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ルヴェル モーリス「或る精神異常者」(新字新仮名)、底本『フランス怪談集』河出文庫、河出書房新社、1989年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002196_000326, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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