Soranoha

巴里より

パリイより

与謝野 寛、与謝野 晶子

「巴里パリイより」の初めに

予等は日夜欧羅巴ヨウロツパに憬あこがれて居る。殊ことに巴里パリイが忘れられない。滞留期が短くて、すべて表面計ばかりを一瞥いつべつして来たに過ぎない予等ですら斯かうであるから、久しく欧洲の内景ないけいに親したしんだ人人は幾倍か此この感が深いことであらう。

近日、友人徳永柳洲りうしう君は画ゑを、予等夫妻は詩歌しいかを以もつて滞欧中の所感を写した「欧羅巴ヨウロツパ」一冊を合作がつさくしようと計画して居る。其れは同期に欧洲に遊んだ画家と詩人の記念であるのみならず、互たがひに「海のあなた」の恋しさを紛らさうとする手ずさびである。

併しかし、此この「巴里パリイより」一冊は其その様な意味から世に出いだすのではない。

予は明治四十四しじうよ年十一月八日やうかに横浜から郵船会社の熱田丸あつたまるに乗つて海路を取り、予の妻は翌年五月五日いつかに東京を立つてシベリヤ鉄道に由より、共に前後して欧洲に向むかつた。

予等は旅中りよちうの見聞記を毎月幾回か東京朝日新聞に寄せねばならぬ義務があつた。猶なほ晶子は雑誌婦人画報などに寄稿する前約ぜんやくがあつた。そして新聞雑誌の性質上、予等の通信は予あらかじめ「通俗的に」と云ふ制限を受けて居た。

予の欧洲に赴いた目的は、日本の空気から遊離して、気楽に、且かつ真面目まじめに、暫しばらくでも文明人の生活に親したしむことの外に何もなかつた。実に筆を執つて皮相の観察を書くことなどは少すくなからぬ苦痛なのである。自然予等は通信の義務を懈おこたることが多かつた。

今ここに、書肆しよしから望まれるに其それ等の見聞記を集めて読み返して見ると、すべて卒爾そつじに書いた杜撰づざん無用の文字のみであるのに赤面する。初めから一冊の書とする予期があつたのなら、少しは読者の興味を刺激するに足る経験や観察を書き洩もらさずに置いたものを。

何いづれの地の記事も蕪雑であるが、伊太利イタリイの紀行中、羅馬ロオマに就ついては数回に亘わたる記事を一括して新聞社へ送つた筈はずであつたのに、其その郵便が日本へ着かずに仕舞しまつた。ナポリ、ポンペイ等の記事も同様である。其それ等の郵便を予自身に郵便局へ赴おもむいて差さし立てなかつたのが過失であつた。人気にんきの悪わるいナポリの宿の下部ギヤルソンに托した為ために故意に紛失ふんじつされたのであつた。さりとて今更記憶を辿たどつて書き足す気にもならない。此この書の為に益々不備を憾うらむばかりである。

予と船を同じうして欧洲に遊び、予より一年遅れて帰つた徳永柳洲りうしう君が、在欧中の画稿から諸種の面白い材題を撰んで此この書の挿画さふぐわと装幀とに割愛せられたのはかたじけない。柳洲りうしう君の才筆を添へ得て初めて此この書を世に出いだす意義を生じたやうに思ふ。

予等は主として巴里パリイに留とゞまつて居た。従つて此この書にも巴里パリイの記事が多い。「巴里パリイより」と題した所以ゆえんである。

大正三年五月よさの・ひろし

上海シヤンハイ

𤍠田丸あつたまるから上陸した十余人の旅客りよかくは三井物産支店長の厚意で五台の馬車に分乗し、小崎をざき用度課長の案内で見物して廻つた。上海へ来て初めてガタ馬車以外の馬車に乗つた人も少すくなくない。勿論僕も其その一人だ。南京路ナンキンロ、四馬路スマロなどの繁華雑沓ざつたふは銀座日本橋の大通おほどほりを眺めて居た心持こゝろもちと大分だいぶんに違ふ。コンクリイトで堅めた大通おほどほりを柔やはらかに走る馬車の乗心地が第一に好いい。護謨輪ごむわは少しも音を立てず、聴く物は唯たゞ馬の蹄音つまおとばかりである。自動車、馬車、力車りきしや、一輪車、電車、あらゆる種類の車と、あらゆる人種を交へた通行人とが絡繹らくえきとしながら些さの衝突も生じないのを見ると、神田の須田町や駿河台下でうろうろして電車に胆きもを冷ひやすのはまだ余程よほど呑気のんきだと思ふ。

十字路毎ごとに巡査が立つて電車の旗振はたふりの代りと通行人の警戒とに当つて居る。旗を振るのでなく、赤い鉢巻をした、背の高い、目の光つた印度インド人の巡査が直立して無言の儘まゝ静かに片手を上あげる許ばかりだ。日本の巡査も交番を撤廃して斯かう云ふ具合に使用したいものである。支那商店の軒頭けんとうからは色色いろいろの革命旗きを街上がいじやうへ長い竿を横よこたへて掲げて居る。間に合せに出した白旗はくきもあるが、二つ巴どもゑに五色しきで九曜の星を取とり巻かせたり、「我漢復振わがかんまたふるふ」などと大書たいしよしたりしたものもある。申報しんぱうの号外を子供が売つて歩く。併しかし自然に中立地帯をなして居る土地だけに格別革命軍の影響は少すくない。東京での騒ぎの方が余程よほど大きい様である。

南京路ナンキンロから静安寺路せいあんじろへ出て張園ちやうゑんと愚園ぐゑんとを観た。評判程の名園でも何でも無く、殆ほとんど荒廃に属して居て、つくね芋の様な入為的の庭石が目障りになる許ばかりだ。愚園ぐゑんの方は小さな浅草の花屋敷で、動物の外に一寸法師や象皮ざうひ病で片手が五十封度ポンドの重量のある男の見世物などがあり、勧工場くわんこうばや「随意小酌せうしやく」と貼はり出した酒亭しゆていもある。滿谷みつたに君外三人の画家が象鼻ざうびを上げた様な奇態な形の瓦楼ぐわろうの一角かくを写生し終るのを待つて一緒に郊外に出たが、何処どこまでも路みち幅の濶ひろい、そして黄ばんだ白楊はくやうの並木の続いて居るのが愉快であつた。

あちこちの畑はたの中に死人の棺くわんをむき出しにして幾個いくつも捨ててある。聞けば死者があると占者うらなひしやがどの方角のどの地へ埋うづめよと命ずる儘まゝに、誰たれの所有地であらうと構はず棺くわんを持つて来て据ゑて置く。そして三年の後のちに土を着きせる。土地の所有者は其れを拒む事が出来ない習慣であると云ふ。道理で見渡す限り点点てんてんとして、どの畑はたにも草に掩おほはれた土饅頭どまんぢうが並んで居る。此この分では天下の田は尽こと〲く墓となり相さうであるが、何いづれも無名卑民の墓であるから十年二十年の後のちには大抵畑主はたぬしが鍬くはに掛けて崩して仕舞しまつて格別苦情も出ないのだと云ふ。其れにしても不経済と不衛生とを兼ねた野蛮な埋葬法である。

李鴻章の廟を観ようと思つて郊外へ出たが、廟は南洋大学堂の学生から成る革命軍の健児の屯営に使用せられ、武装した学生が門を守つて居て入いる事を謝絶した。車上から伸上のびあがつて覗のぞくとクルツプ会社から寄贈したと云ふ李鴻章の銅像の手に白い革命旗を握らせ、其その前に祭壇の様な物が設けてあつた。自分には其れが児戯じぎの如くに見えて何の感動も起らず冷然として一瞥べつし去る外は無かつた。一体今度の革命軍と云ふものは内外人の心が北京ペキンの政治に厭き果はてたと云ふ都合のよい機運に会したので意外の勢力となりつつある様であるが、実力を云へば西南戦争に於ける鹿児島の私学校の生徒の如き者が各地に騒ぎ立つて居るのに過ぎないと想はれる。漢口かんこうの松村領事が居留民を引上させたのは大早計たいさつけいであつたと云ふ批難が上海シヤンハイでは行はれて居る。松村君が自分の夫人だけを留とゞめて置くに就ついての岡焼をかやきばかりでは無いらしい。

馬車を四馬路スマロに返して杏花楼きやうくわらうで上海シヤンハイ一の支那料理の饗応を受けたが、五十品ぴんからの珍味は余りに饒おほきに過ぎて太半たいはん以上喉のどを通らず、健啖家けんたんかの某某ぼうぼう二君も避易へきえきの様子であつた。自分は𤍠い二杯の老酒ラオチウに酔つて更に諸友と馬車を駆り、日本人の多く住む米租界の呉淞路ウウソンロを過ぎ、北四川路きたしせんろの新公園ニウガアデンを観み、白石しらいし六三郎氏の別墅べつしよ六三園に小憩した。白石氏は長崎の人で上海シヤンハイ第一の日本酒楼六三亭の主人であるが、居留邦民中の任侠家として名高い。六三園は純粋の日本式庭園で、諏訪明神の祠ほこらがあり、地蔵の石像があり、茶亭さていが設けられ、温室には各種の花が培養せられて居た。

帰途日本ホテル豊陽館の前で馬車を捨て、此処ここで一行は二隊に別れて随意行動を取ることにしたが、もう日が暮れて居た。自分と徳永外三君とは領事館に西田書記生を訪とうたが不在であつた。南京路ナンキンロへ出て徳永君の訪とうた某歯科医も不在であつた。十時に物産会社から特に出して呉くれるランチに乗る迄には四時間以上もあるので、四馬路スマロの方へ掛けて雑沓ざつたふの中をぶらぶらと彷徨うろつき廻つたが容易に時間は経たない。今一度日本人の住んで居る方へ行かうと決したが、其れが失策の第一であつた。反対の方角へ引返したけれど、行ゆけども行ゆけども昼間歩いた街へは出ない。路みちを問はうにも燐寸マツチを自来火スレフオオと呼ぶことを知つた以外に支那語を心得た者は無かつた。やつと英語の解わかる巡査に出会つた頃は二十町ちやうばかりも違つた方何へ行ゆき過ぎて居た。後あと戻りをして某なにがしと云ふ怪しげな日本料理屋を見つけて漬物で茶漬を喫し終つた時は九時であつた。埠頭へ来てランチに乗つた頃雨が降り出した。十時を打つても滿谷君等らの一行は帰つて来ない。猩猩しやう〲党は何処どこかで飲み倒れて仕舞しまつたのであらう。𤍠田丸の濡れた舷梯げんていを上のぼつて空虚な室に一人寝巻に着更へた時はぐつたりと労つかれて居た。枕頭ちんとうに武田工学士からの招待せうだい状が届いて居た。武田木兄もくけい君が此処ここの領事館に在職して居たのは意外である。(十一月十五日)

香港ホンコン

欧洲航路の船に横浜神戸から乗合せた者は大抵香港ホンコンへ着く前に話題が尽きて仕舞しまふ。碁や将棋は嗜好が無い者には興味を惹かないし、トランプは日本人に取つてさまで面白い物で無い。甲板球戯デツキビリヤアドは我我われわれに最も好く時間を費させ且かつ運動にもなるが、昼間ひるまに限られた遊戯であつて其れも倦あき易い日本人には二時間以上続け得ない様である。我我われわれは何がな夜間の就寝じゆしんまでの時間を費す娯楽を欲して居る。或ある晩近江医学士が偶然専門である婦人科の話を諧謔おどけ交りに述べ出すと奇怪な質問が続出して互たがひに頤おとがひを解いた。支那、馬来マレイ、瓜哇ジヤワあたりの売春婦の通つうを話した人もあつた。蓄音機が持出されて僕に初めて呂昇ろしようを聴かせて呉くれた夜よるもあつた。航海中は笑はされるのが何より好いい。真面目まじめな話は禁物きんもつである。之これは日本人の体質にも習慣にも由よるのであらうが、読書などに凝こると後あとで船暈せんうんを感ずる原因に成り易い。

香港ホンコンに着く前夜に、「第一回𤍠田演芸会」が一二等客と船員とに由よつて船尾甲板かんぱんで催された。一等室の女をんな給仕が三味線を把とつて引き、端唄はうた、手踊てをどり、茶番、仮色こはいろ、剣舞、手品などの続出した中で、徳永の鼻糞まろめ、長谷川の歌沢うたざわ、三好のハモニカ、近江の追分おひわけなどが我我われわれ二等客の選手の優いうなるものであつた。徳永と長谷川はウイスキイで元気を附けたらしく意外に平気な様子で遣つたが、近江の処女然と顔を赤くして居たのは愛嬌あいけうであつた。滿谷みつたに、小林、三浦、僕等の如き隠し芸を持たない者は却かへつて観客くわんかくとなる幸さいはひを得た。牧野事務員が富樫に扮して滑稽勧進帳を演じて居る頃わが𤍠田丸は香港ホンコンの港口かうこうに着いて居た。港内に於ける一日の碇泊料六百円を節約する為ため今夜は港外に仮泊かはくするのである。

翌朝てう六時に船は港口かうこうに入いり、暹羅シヤムの戴冠式に列せられる伏見若宮わかみや殿下の一行を載せて伊吹、淀の二艦と広東カントンから来た警備艦宇治の碇泊して居る間あいだを過ぎ、維新前ぜん馬関ばかん砲撃に参加した英艦テイマア号が武装を解いて白く塗られ記念品として繋留してあるのを左弦に見つつ港内の中央に碇着ていちやくした。三井物産のランチに乗つて上陸しようとする時僕は香港ホンコン電信局からの通知を受取つた。日本から上海シヤンハイを経て転送された電報が届いて居るから、墨国メキシコ銀三弗ドル十五銭を持参して受取れと云ふのである。僕は神戸や門司で五六通の電報を接手せつしゆしたが此処ここまで追送して呉くれるのは其それ等の祝電では無さ相さうだ。家庭に病人でも出来たか、子供が大怪我おほけがでもしたか、婦人と子供許ばかりを残して来た家庭に何か不吉ふきちな危難でも生じたかと、平生から余り呑気のんきでない神経質の男は俄にはかに心配でならなかつた。多分此処ここから帰国せねばならない運命が来たのだらうと人知れず決心して兎とも角かくも電報受領方かたを永島事務長に依頼し、直すぐに披ひらいて見て至急を要する事なら電話を三井物産の支店へ掛けて呉くれと云ひ残して諸君と一緒にランチに乗つた。

〔濁点付き井〕クトリヤ・ピンクは湾に臨んで屹立きつりつし、其その山脈は左右に伸びて山腹と山下さんかとに横長い市街を擁して居る。後うしろに南支那大陸の九竜きうりよう半島を控へて居る所は馬関海峡の観があるが、ピンクの屹立きつりつして居る光景は島原の温泉うんぜんが岳だけを聯想するのであつた。埠頭は五階家やが同じ格好かくかうの屋根を揃へて一線に列ならんだのを遠望すると、大きな灰色の下駄箱はこを並べた様に醜かつたが、近づいて見ると其れ程不快な色でも無かつた。桟橋へ上あがつて東洋汽船会社の前あたりへ来ると、一本線の電車や二頭の牛を附けた撒水さんすゐ車や、赤い地ぢに真鍮粉しんちうこの梨地なしぢをした力車りきしやなどが先まづ目を引いた。チエスタア・ロオドの三井物産の支店を訪とはうとして横の小路こうぢへ入はひつた時、白い若もしくは水色の五階建が稍やゝ斜めに両側を劃しきつた間から浅い藤紫の色をした朝のピンクの一片へんが見えたのは快かつた。

三井物産の支店長が附けて呉くれた社員に案内せられて山の手の街を二町程行つてケエブルカアに乗つた。三十度から四十五度の大傾斜六千尺を一条の鉄索に引かれて我我われわれの車は疾走しつつ昇る。両崖がいには幹の白い枝から数尺すうしやくの鬚ひげを垂れた榕樹ようじゆや、紅蜀葵こうしよくきに似た花を一年中ぢゆうつけて居ると云ふ樹きや、紫色ししよくをした昼顔の一種五瓜竜ごくわりようなどが目に入いる。崖腹がいふくにある二箇所の停車場ステエシヨンには赤布せきふを頭に巻いた印度インド巡査が黙つて白い眼を光らせながら突つゝ立つて居る。山上じやうの幾処しよに建てられた洋人の家屋のとりどりに塗料の異ちがふのが車体の移ると共に見えなくなるのは活動写真の様である。七分間で最終の停車場ステエシヨンに下車し、香港ホンコンホテルの門前に出て支那人の舁かく長い竹の柄えの撓しなふ轎こし椅子に乗つた。轎夫けうふは皆跣足すあしである。山上じやうの路みちは総すべてコンクリイトで固められて居る。石を敷いた所もある。例へば箱根の新道だうをコンクリイトで固めた様なものだ。

七十余年前ぜんこの地が英領となる迄は禿山であつたのを、東洋と𤍠帯地方との有あらゆる植物を移して現に見渡す様な蒼蒼さうさうたる秀麗な山地とし、一方には上海シヤンハイに次ぐ繁華な都会を建設したのである。東区イースト・ポイントの山の如きは恰あたかも岡山の操山みさをやまを見る様な風に翠色すゐしよくを呈して居るが、其れが皆二十年前ぜんに移植した松だと云ふ。対岸の支那領に属する地は赭色しやしよくをした自然じぜんの儘まゝの禿山であるのに香港側は全まつたく人為で飾られた山だ。人間が自然を改造し得た偉観を見ると肩身の広くなる心地がする。

測候所そくこうしよを過ぎて絶頂の信号所に達した。其処そこにはナポレオン帽を被かぶつてカアキイ色の服を着けた英国の陸兵が五六人望遠鏡を手にして立番たちばんをして居る。郵便船が入はひる度に号砲を打つのである。湾内の水は草色くさいろの氈かもを敷き詰めた如く、大小幾百の船は玩具おもちやの様に可愛かはいい。概して鳥瞰的に見る都会や港湾は美でないが、此処ここのは反対に美しい。足下あしもとには層をなして市街の屋根が斜めに重なり、対岸には珠江しゆかうの河口かこうを抱いだいた半島が弓形きゆうけいに展開し、其間そのあひだに瓢ひさごを割さいた様な形で香港ホンコン湾が藍あゐを湛へて居る。振返ると背面の入江は幾百の支那ジヤンクを浮うかべて浅黄色に曇つたのが前面の忙せはしげな光景と異ちがつて文人画の様な平静を感ぜしめる。画家達が要塞地だから画ゑを描かいては悪からうと問ふと、番兵は画ゑを描かくのは構はないが草木の花を摘むなと答へた。自然を愛すると云ふ日本人に却かへつて是丈これだけの植物を保護する心掛こゝろがけは無い様である。

再びケエブルカアに乗つて山を降くだり、香港ホンコン公園で椰子やし類其他そのたの珍奇な𤍠帯植物を観み、日本にほん倶楽部で午餐を喫してから車に乗つて東区イースト・ポイントの福谿ハツピー・バレイの方を観て廻つた。回回フイフイ教の寺院で白衣びやくいの尼の列を珍しがり、共同墓地に入はひつて大理石の墓の多いのに驚き、其処そこでバクレツと云ふ樹きの梔くちなしの様な花の匂にほひの高いのを嗅ぎ、愉園ゆゑんに入はひつて蒸す様な眩まぶしい𤍠帯花卉の鉢植の間の卓たくに椅より、二本ふたもとのライチ樹じゆの蔭の籐椅子を占領して居る支那婦人の一団を眺めながら、珈琲カフエエを取つて案内者某君の香港ホンコン談を聞いた。

香港ホンコンの今日けふの温度は六十四度である。人は猶なほ夏服を着て居る。歩けば汗が出る。海から吹く風の涼しいのが嬉うれしい。此この地に住んで居る支那人は平素は四十万であるが、本国の革命騒ぎ以来広東カントンや遠く蘇州そしう杭州かうしうあたりから来た避難民を合せて今は五十四五万に達して居る相さうだ。広東カントンが独立して以来俄にはかに断髪者が殖えたので剪髪せんぱつ店が大繁昌である。其その店頭の旗に「漢興剪髪かんおこるはつをきれ」などと大書たいしよして居る。日本人の在住者は醜業婦を加へて纔わづかに一千足らずである。広東カントンへは対岸の九竜停車場きうりようステイシヨンから汽車に乗れば四時間で達せられ、澳門マカオへは汽船で二時間の航程だから、有名な賭場見物に行ゆかないかと勧める人もあつたが、自分は少し腸を痛めて居るので辞した。

更に力車りきしやに乗つて引返し、西区ウヱスト・ポイントの支那街まちを一周して買物をしながら埠頭へ出たが途中で画家の柚木ゆのき君の車が衝突して菓子屋の舁かついで居た荷を滅茶滅茶にし、車夫しやふと菓子屋との大立廻おほだちまはりが初まり、荷揚場ばの苦力クリイや弥次馬に取巻かれて車上の柚木君が青くなつたのは早速さつそく船内で発行する「𤍠田パツク」第二集の好材料となるであらうが、一時じは自分等も驚いて車を下おりた程であつた。夜よに入いつて船の上から観る香港ホンコンの灯火は、全山を水晶宮きゆうとし其れに五彩の珠玉を綴つたとも謂いふべき壮観であつた。また両岸の灯台からは終夜探海灯で海上を照して居た。碇泊中の船舶では二万噸トンのマンチユリアの灯火が最もつとも光彩を放つて居た。サンパンに乗つた支那娼婦謂いはゆる「水妹すゐまい」が薄暗い灯火あかりを点つけて湾内を徘徊して居た。夜更けて帰つて来た某君の話に由よると日本の公娼を抱へた家いへは二十戸以上もあると云ふ。

今日けふ牧野事務員に託してマルセイユ迄行ゆく仲間丈だけ甲板デツキ用の籐たうの寝椅子を買つて貰つたが、一個一円五十銭づつとは廉やすい事である。気掛りであつた電報は却かへつて「スベテアンシンセヨ、アキ」と妻から寄越よこした物であつた。こんな事で安心料三円十五銭を香港ホンコンの電信局へ支払つた人間は永久僕一人ひとりであらう。(十一月二十日)

新嘉坡シンガポオル

快い北東の季節風ムンスウンに吹かれ、御納戸おなんど色の絹を展のべた様な静平な海面を過ぎながら、十一月二十五日の朝蘭領のアノムバ島を左舷に見た。香港ホンコンを発して以来毎日一二回の驟雨しううがあるので想像して居たよりも涼しい。人人は食堂や喫煙室に入はひつて明朝新嘉坡シンガポオルから出す手紙を認したゝめるのに忙せはしく、何時いつの間まにか細君さいくんの名を互たがひに知つて仕舞しまつて居るので三浦工学士のペンを走らせて居る後うしろから「たま子さんに宜よろしく」などと声を掛かける者もある。昨日きのふは美味うまい最中もなかが出来たが今日けふの茶の時間には温かい饅頭まんぢうが作られた。晩餐には事務長から一同浴衣掛ゆかたがけで宜よろしいと云ふ許しが出る。食卓に就ついて見ると今夜は日本食が特に調理せられ、鱧はもの味噌汁、鮪の刺身、鯛の煮附、蛸と瓜の酢の物、沢庵たくあんと奈良漬、何いづれも冷蔵庫から出された故国の珍味である。日本酒の盃さかづきを挙げて明朝上陸する三吉みよし、吉田外三氏と互たがひに健康を祝し合ふ。道づれに別れるのは何となく淋しい。𤍠田丸記念会を数年後東京に開かうと云ふので会員簿に互たがひに自署し、其れが蒟蒻こんにやく版に刷られて直すぐに配附せられた。原籍を知つて話し合ふと土居中尉の夫人が僕の妻の縁者えんじやである事が解わかつて奇遇に驚いた。夫人は一歳の赤ん坊を伴つれて馬来マレイに護謨ごむ栽培をやつて居る良人をつとの許もとへ健気けなげにも初めて旅行するのである。船はもう宵の内に新嘉坡シンガポオルへ着いて居た。

翌朝てうは殆ほとんど赤道直下である程あつて早天から酷暑の感がする。僕一人ひとり先まづ目覚めて船甲板ボウトデツキを徘徊して居ると、水平線上の曙紅しよこうは乾いた朱色しゆしよくを染め、他たの三方ぱうには薄墨うすずみ色を重ねた幾層の横雲よこぐもの上に早くも橙色オランジユいろや白金色プラチナいろの雲の峰が肩を張り、暁あけの明星は強い金色こんじきを檣マストの横に放つて居る。渺茫べうばうたる海面に鱶ふかが列を為して現あらはれたかと思つたのは三浬マイル先の埠頭から二挺櫓ろを一人で前向まへむきに押して漕ぐ馬来マレイ人の小舟サンパンの縦列で、彼等は見る中うちにわが船を取囲んで仕舞しまつた。何どの小舟サンパンにも赤い帽と赤い腰巻サロン及び白い目と白い歯が光つて居る。中に一片ぺんの丸木船に杓子しやくしの様な短い櫂を取つて乗つて居る丸裸の黒奴くろんぼが趺坐あぐらをかき乍ながら縦横に舟を乗廻して頻しきりに手真似で銭ぜにを海中に投げよと云ふ。起きて来た連中れんぢゆうが一銭銅貨を投げる振ふりをすると彼は頭かぶりを振つて応じない。五銭白はく銅以上を要求するのである。白はく銅の持合もちあはせが無いので一人が十銭銀貨を投なげ入れると、彼は黒い大きな体たいを斜なゝめに海中に跳らせて銀貨が未まだ波の間を舞つて居る瞬間に其れを捉へて上あがつて来る。ベツクリンの絵の中の怪物の心地がした。土地柄として沼にも川にも沿岸の海にも鰐わにが棲んで居て、一寸ちよつと端艇はしけが顛覆しても乗組人は一人ひとりも揚つて来ないのが普通なのに、此この銭ぜに拾ひ丈だけが鰐わにや鱶ふかの害に遇はないのは一つの不思議となつて居ると云ふことだ。

海上から望んだ新嘉坡シンガポオルは香港ホンコン上海シヤンハイに比して遥はるかに風致に富んで居る。ゴシツクの層楼の多いのは早く出来た市街丈だけに保守的な英国風が余計に保存されて居るのかも知れない。一般に馬来マレイ全島が非常な低地であつて最高の山が纔わづかに海抜五百十九尺しか無いのだから、山と云つても都すべて丘陵の様なものであるが、其れに箒はうきを立てた様な椰子やし類の植物が繁茂して居るのは遠くから観ても山の形が日本とは全まつたく異ちがふ。市街に向むかつて右のタンジヨン・カトンの岬に伸びた一帯の大椰子林だいやしりんは新来の旅客りよかくの目を先まづ驚かすものである。又対岸の蘭領のリオ島外ほか諸島が遠近に由よつて明るい緑と濃こいい藍あゐとを際立たせ乍ながら屏風の如く披ひらいて居るのも蛮土とは想はれない。湾内の小波さゞなみは大魚の鱗うろこの様に日光を反射して白くきらきらと光つて居る。

市街は概おほむね二階建である。人口は支那人が二十五万、馬来マレイ人が七万、ヒンヅ種の印度インド人が之これに次ぐ。何処どこへ行つても支那人の普及と彼等の商業上の実力の豊富なのとには感歎せざるを得ない。経済上の実権は支那人の外に猶なほアルメニヤ人とアラビヤ人とが握つて居て英独人も其それ等には敵し難い。市内の目ぼしい家屋の過半は此この二人種の所有である。此この地には一切営業上の課税が無く、唯ただ家屋税を家主いへぬしより徴収せられる丈だけである割に家賃は廉やすい。間口七間げん奥行十五間けんの二階家やが一箇月八九十円である。三井物産会社の支店などは可かなり大きい立派な建物であるが百五十円の家賃だ相さうである。

僕等は馬車を駆つて見物して廻つたが、途上の所見を少し並べて云ふと、土の色が概して印度黄インヂアンエロウ若もしくは輝紅ライトレツドを呈し、其れが雨水うすゐに溶解すれば美しい橙黄色オレンジいろの水溜みづたまりが出来る。驟雨しううが来れば涼しいが、大抵三四十分で霽はれて仕舞しまふと赫くわつと真昼の日光が直射する。海上から来た我等は二三町ちやうの路みちすら歩く勇気が無いのに、馬来マレイ人や支那人は平気で傘もささずに跣足はだしの儘まゝ歩いて居る。一体に土地に住んで居る者は西洋人でも雨の外は傘をささない。家造りが大抵歩廊ほらうを備へて居るから其下そのしたを歩めば日光や驟雨しううが避けられる。馬来マレイ人やヒンヅ人が黒光くろびかりのする体からだに黄巾赤帽くわうきんせきばうを戴いたゞき、赤味の勝つた腰巻サロンを纒まとつて居る風采ふうさいは、極𤍠ごくねつの気候と、朱の色をした土と、常に新緑と嫩紅どんこうとを絶たない𤍠帯植物とに調和して中中なかなか悪くない。

此処ここの人力車は大抵二人乗にんのりで、其それが日本出来できの金ぴか模様のある物である。馬車も多いが自動車の多数な事は上海シヤンハイに倍して居る。電車は香港ホンコンと同じく一本電線を用ひて居る。荷車は二頭の牛に挽ひかせる物と定きまつて居るらしいが、牝め牛はヒンヅ教でシヷ神しんの権化ごんげである所から絶対に使役しない。牡を牛をも大切にする風があつて、其その角を絵具で染め又は金属で被おほうて居るのを見受けた。又牝め牛の糞ふんを幸福の呪まじなひに額へ塗つて居るヒンヅ人にも沢山たくさん出会つた。ヒンヅ教の一寺院を訪とうて見たが、屋上にも堂前ぜんにも牝め牛の像を祀まつること恰あたかも天神てんじん様の前の如く、牛糞ぎうふんを塗つた四五人の僧は牛皮ぎうひの靴を穿はいて居る僕等を拒んで堂内に入れ無かつた。

海上から見えて居たタンジヨン・カトンの大椰子林だいやしりんへ馬車を駆つて行つた。之これは天然林でなく幾区画にも分れて所有主を異にする植林である。凡すべて壮年期の椰子やし許ばかりで、其間そのあひだに近年護謨ゴム栽培𤍠の流行する影響から若木わかぎの護謨樹ゴムじゆを植ゑた所もある。亭亭ていていと大毛槍だいけやりを立てた如くに直立し又は斜なゝめに交錯して十丈以上の高さに達して居る椰子やし林を颯爽さつさうたる驟雨しううに車窓を打たれ乍ながら、五台の馬車が赤い土の水烟けむりを馬蹄の音高く蹴立てて縦断するのは、覚えず「好いい気持だ」と叫ばざるを得なかつた。柄がらに無い聞書きゝがきをするが、椰子やしが成長して実を結ぶまでには七八年を要し、他たの𤍠帯植物と同じく常に開花し常に結実するので、一樹じゆが一年に平均八十個の実を産し、一個の卸値段を三銭として毎年二円四十銭の収入が一本の榔子から揚がる筈はずである。椰子油やしゆ、椰子水やしすゐ、椰子酒やししゆの採収を初め、其他そのた椰子やしの用途は頗すこぶる多いらしい。

椰子林やしりんの中の観海旅館シイ・ヸイ・ホテルに少憩して海に近い廻廊ベランダで珈琲カフエエを喫し乍ながら涼を入れた。ホテルの淡紅色の建物が周囲と好く調和して居た。頭上の屋根裏に這はつて居る名物の守宮やもりがクク、ククと日本の雨蛙の様に鳴くのはクラリネツトを聞く趣おもむきがあつた。日本の守宮やもりと違つて人を咬かむ恐れは無いが、飲料が好きなので飲みさした牛乳や珈琲カフエエを天井から落ちて来て吸ふ事が常にある相さうだ。守宮やもりは市しの場末の家にも沢山たくさんに這はつて居る。今夜三井物産の社宅に泊とまつて前年日本の貴賓の寝られたと云ふ二つの寝台ねだいへ得意になつて横たわつた小林と三浦は、終夜この守宮やもりに鳴かれて好いい気持がしなかつたと後あとで話して居た。牛鳴ぎうめいをすると云ふ痛快な蛙も沢山たくさんに居る相さうだが僕等は聞かなかつた。

新嘉坡シンガポオルを過すぎる旅客りよかくが必ず行つて観る価値のあるのは博物館と大植物園とだ。博物館の規模は東京のに比べて小さいが、馬来マレイ、印度インド、南洋諸島等の動植物、古噐物こきぶつ、風俗資料の彙ゐ類は可かなりに豊富で、陳列法も親切に出来て居る。南洋の家屋に日本の神社の氷木ひぎや鰹木かつをぎと同一の物を附し、水害を避ける為ために床下を高くしたのなどを初め、祭具、武噐、食噐しよくき等に我国の上古と吻合ふんがふする所の少すくなくないのを観て僕の考古学的嗜好は頻しきりに刺戟せられた。𤍠帯の蝶や蛾が日本の其れと全まつたく異ちがつて多種多様の絢爛な色彩に富んで居るのは目が覚める様である。其他そのた全身が美しい翡翠かはせみ色をして細やかに甚だしく長い青蛇、支那人が二人掛りで容易に撲殺うちころし好んで其その肉を喰ふと云ふ馬来マレイの大蛇バイソン、蝨斯ばつた科の虫で身長二寸五分許ばかり、〔濁点付き井〕オロンの形と色とをしたカラビデエ、同じく群青色ぐんじやういろをして柏の葉を竪たてに二枚重ねた如き擬態を有し、葉茎、葉脈等を明あきらかに示せるピリイムシセ、又緑赤色りよくせきしよくをして南天の葉を四よ枚横に並べた様な擬態を現して居るクロマリイ等とうは此この通信を書く時の記憶に鮮かに残つて居る。

植物園は如何いかにも大規模に𤍠帯植物の有らゆる種類を集めて居て、東京の植物園などは之これに比べると不親切極まると云つてよい。少しは日本の温室で見受うける物もある様だが概して初対面の物が多く、同じ蘭科でも種類が無数なのである。花卉も面白いけれど、一体に𤍠帯植物は幹と葉の姿勢や色彩が奇抜に出来て居る。葉も花も多肉性と鞏靱きようじん性に富み、色彩が濃厚鮮明である。四季の区別が無くて不断に開花、結実、発芽、落葉を続けて居る。季候のせいで発育の旺盛である胡瓜きうりとか朝顔とかは、五六日で発芽し半月で花と実を持つ相さうである。日本では尺に満たない金星草ひとつばが幅二尺高さ一丈に達して居る。五六丈の幹の上に芭蕉に似た葉を扇形あふぎがたに三十五六葉えふも並べて直立して居る扇椰子あふぎやし、滴る様な血紅色けつこうしよくをした椰子竹やしちくの一種、紅蜀葵こうしよくきの様な花を榎の様な大木に一ぱい附けて、芝生の上へ円形に其その花を落すサンバ樹じゆなどの蔭を踏むと、極楽鳥と云ふ類るゐの美しい鳥が𤍠帯に棲んで居るのも不思議でない気がする。序ついでに云ふが博物館も植物園も観覧料を取らない。

其れから植物園附近のエコノミツク・ガアデンに入はひつて護謨林ごむりんを見た。此処ここの栽培法や採収法は以前模範的と称せられたさうだが今は既に旧式に属して居る。新式のは馬来マレイ半島のジヨホオルへ行ゆけば観られると云ふ事だ。樹幹にはどれにも左右から矢の羽形はがたに斜めに小刀ナイフで欠刻を附け、更に中央に溝として一線が引いてある。左右の欠刻から沁み出る護謨ごむ液が中央に集つて落ちるのを採収夫が硝子ガラスの小杯コツプに受けて廻るのである。採収は未明から午前六時迄に終らねばならないと云ふ事だ。僕等も試みに小刀ナイフを取つて欠刻を附けて見ると直すぐに牛乳の様な液が滴り、其れが端から凝結する。手に取つて両指りやうしで引いて見ると、既に弾力性を持つて居て伸縮する。

近年護謨林ごむりん𤍠の昂騰した頂上には当地の雑貨商中川某が百七十エエカアの林を三十六万円に売つたのを第一として二三万乃至ないし六七万円の奇利を博した者があつて、護謨ごむの価あたひも一ポンド十四五円まで暴騰したが、現今では其その反動で二円に下落して居る相さうだ。併しかし着実な其道そのみちの人の批判では仮たとひ一円に下さがつても会社経営では四五割、個人経営では六七割の利益は確かだと云つて居る。現にジヨホオルで護謨林ごむりんを経営して居る日本人は三井の二万五千エエカア、三五公司こうし(阿久澤あくざわ等ら)の二千町歩を首しゆとし、二三百エエカアの小経営者は数十人に上のぼり、一便船びんせん毎ごとに護謨ごむ業関係者の日本から来る者が三四人を下くだらない有様だ。栽培後六年で採収期に達するのであるから是これ等経営者の成否は猶なほ前途を待たねば断じ難い。

ジヨホオルでの護謨ゴム栽培は一年の借地料が一エエカア五十銭だ。先まづ山地の密林を伐きり開いて無数の大木を焼棄するのに費用が要いる。此この焼棄が容易で無い。其れから地ならしをして植附うゑつけを終をはるまでの人夫其他そのた費用一切が百エエカアに就ついて千円乃至ないし二千円を要し、監督者の家屋の建築に千円乃至ないし二千円を要する。以上は創業費だ。次いで三年間の草取くさとりに使用する人夫の賃金が一万五千円乃至ないし二万円、之これは継続費だ。其れで二万円乃至ないし二万五千円の資本が無くては百エエカアの植林は出来ないと云ふ事に現在は相場が極きまつて居る。

護謨ゴムの苗木は十八尺四方の中に一本を植ゑる。採収は六年後ごからだが草取くさとりは三年間でよい。肥料は少しも要しないでよく発育する相さうだ。採収は六箇月すれば六箇月休止せねばならない。一本の樹きから一日に凡およそ一ポンドの採収が出来ると云ふのが真実ほんとうなら大した利益のある筈はずである。人夫には馬来マレイ人と支那人を使用して居る。彼等は甚だ勤勉で一日の賃金(食事は自弁)が六十銭である。護謨林ゴムりん経営者の窃ひそかに憂ひて居る事は近き将来に人夫の不足する事であるが、或ある人は一年後に濠洲の真珠業が廃滅するに際し日本へ帰る該がい地の人夫一万人を此この地で喰ひ止める事が出来ると云つて楽観して居る。

新嘉坡シンガポオルへ輸入する石炭の総額は一年に六千万頓とんだが、此この半額は日本炭と撫順炭で占め、他たの半額は濠洲炭、英国のカアジフ、ボルネオ炭等とうである、近頃蘭領の某島で新嘉坡シンガポオルと競争して石炭の集合地を彼かれに奪はうとする計画がある。当地では石炭の出入しゆつにふに桟橋費一噸とんにつき三十五銭取られる如き費用を要するのを彼かれに於おいては一切省略しようとするのだ相さうである。

護謨林ゴムりんを出て馬車に乗り、案内者となつて呉くれた三井物産の支店員から、故長谷川二葉亭君の遺骸を此この地で荼毘だびして追悼会を開いた時の話を聞き乍ながら、前年護謨林ゴムりんに従事して居た長田秋濤をさだしうたう氏夫妻が住んで居たと云ふ林間の瀟洒せうしやたる一屋をくを過よぎり、高地にある三井物産支店長の社宅の楼上で日本食の饗応を受けた。刺身皿の鮪まぐろは此この海で取れたのだと云ふ。卓上に印度インド式の旋風布フアンカを吊つるし、其その綱の一端を隣室から少年の黒奴こくどが断えず引いて涼を起すのは贅沢ぜいたくな仕掛である。市街の夜景を見て歩きたいと思つたが、最終の小こ蒸汽が午後四時に出る外、その後のちは一切出さないと云ふ窮屈な規定を憤慨しつつ本船に帰つた。最もつとも夜間に小舟サンパンを傭へない事も無いが、土人どじんの船頭には脅迫的な行為があつて危険だと忠告せられて断念した。

翌二十八日は午前十時に諸友と再び上陸し、数隊に分れて案内者無しに歩いた。滿谷みつたに、長谷川、徳永、近江、柚木ゆのき、志貴しぎ、酢屋すや、僕の八人は何の目的も無く電車の終点まで乗つて下車し、引返して偶然博物館の前に出て、滿谷等は其その附近を写生し、徳永、志貴、近江、酢屋と僕とは加特力カトリツク教会の経営に成る当地の模範小学を参観した。生徒は男子許ばかりだが、小学科を七年、其その上に二年の商科を通じて凡およそ一千人を教育して居る。教師は英人と印度インド人、生徒は洋人を除いて雑多の人種を交へて居る。生徒は大抵跣足はだしだ。併しかし感服した事には教授の用語に一切英語を用ひ、小学の一年生がナシヨナル読本どくほん第二の程度の物を習つて居る。商科の生徒に長崎生れの木田と云ふ日本少年が一人居て三年前ぜんに教会から此処ここへ送られたと云つて居たが、寄宿舎に許ばかり居るので日本語を忘れたらしく会話に困つては英語で答へるのであつた。

神戸から同船して来た津田の店を訪とうて料はからず馬来街マレイ・ストリイトの遊女街いうぢよまちに出た。同じ様な公娼の街は四箇所あるが之これが第一に盛さかんだと津田が語つた。凡すべて同じ形に建てられた間口二間けんの二階造りで青く塗つた鉄の格子の入はひつた階下に一個の卓たくを据ゑ、籐椅子に凭よつた独逸ドイツ、露西亜ロシアの娼婦が疲労と暑さとで死んだ者の如く青ざめて沈黙して居る。日本にほん娼婦は浴衣ゆかたに細帯、又は半襦袢じゆばん一枚の下に馬来マレイ人のする印度更紗インドさらさの赤い腰巻サロンをして、同じ卓に凭よつて花牌はなふだを弄もてあそんで居る者、編物をして居る者、大阪版の一休諸国物語を読んで居る者、何いづれを見ても天草産の唐茄子面たうなすづらをした獰猛だうまうな怪物許ばかりである。洋娼等は頻しきりに僕等の一行を呼掛けたが、日本娼婦は流石さすがに同国人に対して羞恥しうちを感じるらしく何いづれも伏目になつて居るのが物憐れで、之これが夜に入いれば猿芝居の猿の如く、友禅縮緬ちりめんの真赤まつかな襦袢一枚にこてこてとした厚化粧と花簪はなかんざしに奇怪至極の装飾を凝こらし、洋人、馬来マレイ人、印度インド人に対して辣腕らつわんを振ふるふものとは思はれなかつた。

日本娼婦の数すうは坡港はかう許ばかりで現に六百四五十人(此この外に洋妾やうせふとなつて居る女は百人もある相さうだ。)あると云ふから、印度インド、濠洲、南洋諸島へ掛けては六七千人にも上のぼるのである。彼等は坡港はかうを「都みやこ」と称し、其他そのたを「田舎ゐなか」と称して恰あたかも東京から千葉や埼玉へ出掛ける位の心持で便船びんせん毎ごとに其それ等の遠国ゑんごくへ往復する。昔の倭寇の意気は彼等に由よつて継承されて居ると云つて好からう。

内地に居る日本人は海外の醜業婦と云へば一概に憂目を見、又堕落して居る者の様に考へるが其それは全まつたく反対の観察である。彼等の生活の贅沢ぜいたくな事は到底内地の芸娼妓げいしやうぎの想像も及ばない所だ。彼等の装飾品を供給する為に日本の雑貨店の多数が何どれ位海外で富を造つて居るか。彼等の三度の食事が何どれ位美味に飽いて居るか。又彼等の愛国、愛郷、孝悌の情操が何どれ丈だけ根強くて年年ねんねん祖国を富ませて居る事が如何いかに大きいか。上海シヤンハイ、香港ホンコン、新嘉坡シンガポオル、何いづれの日本居留民中にあつても公共的の事業に物質上の基礎となつて居る者は常に彼等では無いか。識者にして是これ等の実情に通じたならば、貧乏な日本の現状で実生活と懸け離れた骨董道徳を楯にけちけちする事の非を悟り、内地に於おいて売れ口の無い女をどしどし輸出向むきとして海外に出いだす事の国益である事を主張するであらう。

日本娼婦の稼ぎ高は全まつたく抱主かゝへぬしと折半で、衣類を除いた外食物其他そのた一切の雑費は抱主かゝへぬしの負担であり、此この外内地と異ちがつて纒頭てんとうの所得が多いと云ふ事だ。一人に就ついて一箇月の所得を尠すくなくも五十円と見積り、その半額を衣服に費すとしても二十五円の貯金をする事は容易である。横浜や神戸、大阪あたりから渡来した女は情夫の為に浮ぶ瀬の無い境遇に堕おちる者が多いが、長崎県の女は意志が堅くて、情夫はあつても物質上の損害を被る事が少すくなく、四五年も居をれば大抵二三千円の貯金を郷里に送る相さうである。(十一月廿八日)

彼南ペナン

臙脂ゑんじの中に濃こいい橄欖オリイブを鮮かに交へた珍しい曙光しよくわうを浴びた我船わがふねは徐徐じよじよとマラツカ海峡の西の出口ペナン島の港に入はひつた。名物男のガイドでシイ・〔濁点付き井〕イ・ホテルの客引を兼ねた馬来マレイ人メラメデインが鈴木鼓村こそんに酷似した風采ふうさいをして見物を勧めに来る。「此この男忠実にして信用すべき案内者なり」と云ふ様な証明や「但ただし見掛によらぬ辣腕らつわんありと見え彼が妻は西洋人なり」と冷ひやかしたものや、山内愚仙やまのうちぐせんが描かいて与へた彼の顔の写生スケツチや、文部省の留学生某の彼を推讃した拙まづい歌やで一ぱいに成つた厚い手帳を出して見せ、莞爾にこ〱として得意相さうである。

彼に託して馬車数台を傭ひ市外一里の官山ガバアメント・ヒルにある極楽寺ごくらくじに遊んだ。途中は一面の大椰子林やしりんで、其その奥へ折折をりをり消えて行ゆく電車や、床下の高い椰子やしの葉を葺いた素樸そぼくな田舎ゐなかの社やしろがぽつんと林の中に立つて居るのなどが気に入つた。何処どこへ行つても道路は好いが、鉄輪わの響くのと石灰質の白い土から反射する日光の強いのに閉口する。極楽寺ごくがくじは光緒くわうしよ十二年に建てた支那の寺院で、山層を利用して幾段にも堂舎を築つき上げ、巨額の建築費を要したもの丈だけに規模は大きいが、中に安置した釈迦、観音くわんおん、四天は布袋ほていの巨像と共に美術的の価値は乏しい。唯ただ一体に清潔なのと観望に富んで居るのとが遊客いうかくを喜ばせる。永代えいたい供養を捧げる富家ふかの信者が在住支那人中に多いと見えて何いづれの堂にも朱蝋燭らふそくの明あかりと香煙とを絶たない。茶の接待、水浴室の設備なども鄭重である。茶亭さていには花卉の鉢を陳ならべ乃木東郷両大将の記念自署などが扁額として掛かゝつて居た。或ある堂で見た緬甸ビルマ風の弥陀三尊の半裸像は一見して横山大観の「灯籠流し」の女の粉本モデルと成つたものらしかつた。最高楼から先刻通つて来た大椰子林やしりんを越えて市街、港内、対岸の島を眼下に収め、左右両翼を披ひらいた山の樹間このまに洋人のホテルや住宅の隠見いんけんするのを眺め乍ながら、卓を囲んで涼を納いれた。

案内者ガイドのメラデイイン爺おやぢが望む儘まゝに滿谷等は彼を写生し、三浦工学士と僕とは彼の手帳へ証明を与へてやつた。頻しきりに渇かつを覚えたが危険を恐れて一切飲料を取らず、寺僧が施本せほんとして呉くれた羅状元らじやうげんの「醒世歌せいせいか」を手にして山を下つた。四人の画家連は写生の為に林中に留とゞまり、小林近江等は瀑布と植物園とへ廻り、僕と三浦等は市内を一週して先に帰船した。馬車料は一台三円案内者へは一人二十銭宛づゝを与へた。此この港では釣が出来ると云ふので甲板デツキの上から牛肉を餌にして糸を垂れる連中れんぢゆうがある。三浦は黒鯛に似た形の、暗紫色あんししよくに黄味を帯びた二尺許ばかりの無名魚ぎよや「小判冠かぶり」を釣つて大得意である。

翌朝てう早く起きて舷ふなばたに凭よつて居ると、数艘の小船サンパンに分乗して昨夜ゆうべ出掛けた下級船員の大部分が日本娼婦に見送られ乍ながら続続ぞくぞく帰つて来る。須臾しゆゆにして異様な莫斯綸もすりん友染と天草言葉とが我わが船に満ちた。正午に碇を抜く迄彼等は別わかれを惜をしむのである。(十二月一日)

コロムボ

ペナンから印度インド人の甲板旅客デツキ・パツセンヂヤアが殖えた。稼ぎ儲ためて帰る労働者だが、細君や娘は耳、鼻、首、腕、手足の指まで黄金きんづくめ宝石づくめの装飾で燦燦きらきらして居る。大した金目かねめだ。彼等回回教徒マホメダンの習慣として他た人種の煮炊にたきした物は食はない、炭薪すみまき携帯で唯ただ水の給与を船から受ける丈だけ、而さうして自炊した食物を大皿に盛つて右の手で掴つかんで食ふ。一切箸を用ひない。食指しよくし大おほいに動くと云ふ語ことばは彼等に適切である。食ひ終つた指は洗ふ代りに綺麗に舐なめて仕舞しまふ。贅沢ぜいたくな連中れんぢゆうは食後に青い椰子やしの実を鉈なたで割さいて核の中の水を吸ふ。レモンの様な味で一個ひとつの実に三四合入はひつて居る。彼等は左の手を不潔な場合の手と定め、食事用の右の手を尊重して居る。

僕はペナンを出帆してから郵船会社の厚意で一等室へ移して貰つたが、幸ひ相客あいきやくが無いので広い涼しい部屋を一人ひとりで占領する事となつた。一等船客せんかくには千頭ちかみ、宮坂などと云ふ海軍大尉が乗つて居る。気の置け相さうにない連中れんぢゆうだが、まだ馴染なじみが浅いので食堂で顔を合す許ばかり、僕は相変かはらず二等室へ出掛けて日を暮くらして居る。スマトラを左舷の遥はるか彼方あなたに望んで印度インド洋に掛つたが、予期して居た程の暑さも無く、浪らしい浪にも遇はない。夜などは室内に毛布を掛けて寝て少し涼し過ぎる位である。雨季で夕立の多い加減もあらうが、此様こんな好都合づくめの航海は珍らしいと船員が驚いて居る。

新嘉坡シンガポオルから乗つた印度インドの労働者が名の解わからない急病に罹かかつた。言語が通じないので船医が見計らひで薬を飲ませたが、黒い顔に白い目を据ゑ白い歯を出して黙つて苦痛を忍んだ儘まゝ死んで仕舞しまつた。同国人に遺言に頼む気色けしきも無かつた。制規の時間を置いて翌朝てう暗い内に水葬に附した。臨終に計つた𤍠が三十九度あつたと云ふので肺ペストでは無かつたかと俄にはかに気に仕出す連中れんぢゆうがある外、死者に対して格別同情する者も無かつた。

コロムボに入港する晩僕は船長の許しを得て船橋ブリツヂに立つて居た。十哩マイル前さきから見えたコロムボ市街の灯火は美しかつた。月が照り乍ながら涼しい雨が降つて居た。世界一と云はれる大きな防波堤が左右に伸びて、灯台の回光機くわいくわうきは五秒毎ごとに明るくなる。港外で一寸ちよつと停船すると小こ蒸汽で遣つて来た英人の水先案内が上あがつて来て、軽い挨拶を交換するや否や船長に代つて号令し初めた。航海日誌を書く船員が端から其その号令を書き留とめる。偉大な体格の、腹の突き出た諾威ノルヱエ人の船長は両手を組んだ儘まゝ前方を見て動かない。麦藁帽を冠かぶつた優形やさがたの水先案内は軽快に船橋ブリツヂを左右へ断えず歩んで下瞰かかんし乍ながら響ひびきのよい声で号令する。船は狭い港口かうこうを徐徐じよじよと入はひつて港内に碇泊して居る多くの汽船の間を縫つて行く。此この二三十分間に僕は初めて高級船員の威厳と興味とを感じた。

其その晩の八時から二等室で日本人の酢屋すやと英人のカアタアと両人の為に僕等の仲間で心許ばかりの送別会を開いた。酢屋すやは横浜の貿易商で孟買ボンベイとカルカツタとに十年前ぜんから店を持つて居る。孟買ボンベイと聞くと僕等の門外漢には大分だいぶんに日本商人の勢力が及んで相さうに想はれるが、三井物産と郵船会社との支店を除いて個人の経営する商店と云へば酢屋すや丈だけだ相さうである。夫それを酢屋すやは憤慨して居る。一己いつこの利益から云へば競争者の無い方が好いい様な物の、印度インドの本土一般に亘わたつて日本絹シルクの販路は無限である。日本商人の為に同業の競争者の多数に起おこる事を望むと言つて居る。其その方面の事情を委くはしく聞きたい人は横浜市元浜町もとはまちやう三丁目の酢屋定七すやさだしち君の本店に問合されるが好い。氏は三箇月毎ごとに日本へ往復して居る。「スヤ」と云ふ姓は印度インド人の最も嫌ふ「豚」の印度インド語と似て居るので、印度インドの店は別所と云ふ従弟いとこの姓を用ひて居る相さうである。

カアタアは一二等客の西洋人を通じて最も教育ある最も品格の高い老人である。本国ではエスペラント語の会の副会頭をして居る相さうだ。日本贔屓びいきの男で、十七年前まへに一度日本へ来たが、今度も六十歳を越えた老人の身を気遣つて娘が見合せよと云つたに拘かゝはらず出掛けたと云つて居る。林檎りんごの様に赤い顔をして大きな煙管パイプを啣くはへて離さず、よく食ひ、よく語り、よく運動する元気のいい爺さんである。近年細君に死なれてからは各国で職に就いて居る子供の処ところへ遊んで廻るのを楽たのしみとして居る。此処ここから船を乗替へて南阿のトランスバアルに居る末子ばつしの許もとを訪とふのだ相さうだ。而そして到る処ところでエスペラントの普及を計るのだと言つて其その方の印刷物を沢山たくさん荷物として携へて居る。世界を家とし老いて益ます〱壮さかんなカアタア君は僕等の理想的老人だと告げたら、彼はエエス、エエスと云つて喜んで居た。彼は日本酒に酔ひ乍ながら卓上演説をなし、又明快な声で長篇の詩を朗詠した。

一等室に怪しい外国婦人が二三人乗つて居る。一人の英国婦人は全体が余りに大作おほづくりで妖怪的フワントマテイツクな感を禁じ難いが、顔丈だけ見れば一寸ちよつと美人である。此この𤍠田丸が此この前日本へ帰る時にペナンで同行の情夫を棄てて窃ひそかに上陸し去つた女だ相さうであるが、今度は一人で香港から乗りペナン迄の間に早くも某外人を捕獲して仕舞しまつたとの評判である。劇はげしいヒステリイ症の女で前の航海には船医が大分だいぶ悩まされたと話して居る。其その女が今夜突然また此処ここから上海シヤンハイへ引返すと言出いひだした。事務長が理由を問ふと、先に棄てた情夫が俄にはかに恋しくなつて矢も楯も堪たまらないのだと言ふ。

コロムボの防波堤の大規模にも驚くが、其れに曾かつて一千万円を投じた英人の遠大な経営に更に驚く。防波堤が無かつたら直ちに印度インド洋の荒海あらうみに面したコロムボは決して今日こんにちの如く多数の大船たいせんを引寄せ得うる良港とは成らなかつたであらう。其れに何いづれの英領へ行つても感じる事であるが、陸上の道路の立派な事も驚かれる。英人が先まづ運輸通商の便を計つて新領土の民心を収めようとする遣口やりくちは兎角とかく武断の荒事あらごとに偏する日本の新領土経営と比べて大変な相違である。

錫崙セイロンの土も新嘉坡シンガポオルと同じく赤く、雨水あまみづが溜たまれば朱の色となるのは美しい。驟雨しううを衝ついて力車りきしやに乗り市内を見物して廻つたが、椰子やしは勿論、大きな榕樹ようじゆ、菩提樹、パパイヤ樹じゆ、爪哇竹ヂヤワちくなどの多いのが眼に附く。柏に似た葉のボオビイス・アウスが到る処ところに明るい緑の若葉を着けて居るのも快い。赤い粗末な瓦屋根も天然と調和して見える。其れに支那人の勢力がペナン限かぎりで此処ここまで及んで居ない所から不潔と悪臭とに満ちた支那人街まちを全まつたく見ないのが好い。流石さすがに黒奴くろんぼの本国丈だけに黒奴くろんぼが威張つて居る。又黒奴くろんぼにサアやナイトの爵位、立法議会の選挙権などを与へて或ある程度まで威張らせて置く英人の度量が大きいと言はねば成らない。

併しかし英国政府も印度インド人の教育を高め過ぎた事を近頃少し後悔して、徒弟学校、工業学校の様な方面の教育に人心を向けようとして居るが既に時機が遅いらしい。元来瞑想的な事に長たけた印度インド人だから哲学や法律の理解が好く、自由思想は日本の学生よりも概して徹底して居るので段段だんだん英政府の施設が面倒に成つて来た相さうだ。革命的の思想も此この地は然程さほどで無いが印度インド本土には可かなり盛さかんだと云ふ事で、新聞は支那の革命戦争の記事を小さく纔わづか二三行で済ませて居る。昨今さくこんは英帝が印度インド皇帝としての戴冠式を挙げる為に孟買ボンベイに行幸して居ゐられるが、革命党が何か仕出かしはしまいかと半年前としまへから非常な警戒だ相さうである。併しかし頭許ばかりで手の疎うとい国民である上に英政府が多年の巧妙な経営に馴致じゆんちされて居るのだから、支那の革命党の様な実行の危険は永久に起おこるまいと想はれる。

印度インド人と一口に云つてもヒンヅ、タメル、マホメダン、波斯ペルシヤ人、錫崙セイロン土人其他そのた種種いろいろに分わかれて居る。彼等の間で富んだ者と云へば直すぐに一億円以上の財産を有もつた者を意味する程富豪が多い。三浦工学士の友人の弟の臼井清三せいざうと云ふ青年が、柔術の教師として招聘されて居るサラムと云ふ一家などはコロムボで第二流の富豪だと云ふが、椰子やし林の収入丈だけでも毎月一万円を越える相さうだ。三浦と僕は臼井が船へ伴つれて来たサラムの一人息子と語つたが、家が古い基督キリスト教徒で英国の教育を施して居る丈だけに流暢な英語で元気よく政治や文学を話すのは十七歳許ばかりの少年の思想及び態度とは思はれなかつた。一般に南国人は早熟なのであらう。

サラムの息子は一箇月も僕等に滞留する暇があるなら田舎ゐなかへ象狩と鰐わに狩とに同行したいと云つて居た。本年の象狩には一百頭の象を柵内に追込む事が出来た程の大猟であつた相さうだ。象一頭の価格は六千円して居るから大たいした獲物である。

一二等客の日本人は船の永島事務長を加へてクツクの案内で仏牙寺ぶつがじのあると云ふキヤンデイへ汽車旅行をした。四人の画家と三浦と僕とは加はらなかつた。キヤンデイは昔の錫崙セイロン王の都で、峨峨ががたる石山いしやまに取囲まれた要害の地丈だけに最後迄英軍に反抗した古戦場だ。英軍が気長に洞道トンネルを切り開いたので漸やうやく陥落したのである。昔罪人ざいにんを石山いしやまの絶頂から生き乍ながら棄てた断崖も名所として遺のこつて居る相さうだ。釈迦の歯の真物ほんものは異教徒に焼かれて今のは象牙で偽作した物だと聞いた。先年暹羅シヤムから日本へ贈つて来た仏牙も大方此類このるいであらう。

コロムボで名高い釈迦仏陀寺ぶだじを訪とふたが、近年スマンガラ僧正の歿後は僧堂の清規せいきも振ふるはないらしく、大勢の黄袈裟きげさを着けた修行僧は集まつて居るが、寺内じないの不潔に呆れる外は無かつた。聞けば僧正の歿後悪僧によつて纔わづか二百金で一俗人の手に売渡されたのだと云ふ。釈迦堂其他そのたを開扉ひして呉くれたが美術的の価値の無い俗悪ぞくあくを極めた物許ばかりであつた。僧正の遺品だと云はれる経巻が鼠糞そふんに委ゐせられて居た。僕の長兄も律宗の僧であると告げたら寺僧は無造作に其その経巻の貝多羅葉ばいたらえふ数枚を引きちぎつて呉くれた。庭内ていないの老菩提樹には神聖の樹きとして香花かうげを捧げ、又日本の奉納手拭の如き小切こぎれを枝に結び附けて冥福を祈る信者が断えない。参籠おこもり堂とも言ふべき所には緬甸ビルマから来て印度インドの仏跡を巡拝する中流以上の老若男女の大連だいれんが逗留して居て、中に日本の処女かと想はれる美人が多く混つて居た。大樹の蔭に淡黄色たんくわうしよくの僧堂と鬱金うこんの袈裟けさを巻きつけた跣足はだしの僧、この緑と黄との諧調は同行の画家のカンバスに収められた。(十二月八日)

地中海

コロムボを立つてから数日の間海水は猶なほ九十度の温おんを持つて居た。十日とをか目にアラビヤと亜弗利加アフリカが稍やゝ近く見え初める様に成つて夜間は毛布を重ねて寝る必要があつた。午前四時頃シナイ山ざんらしい山を右舷に望んだ其その日の夕暮に蘇西スエズの運河へ這入はひつた。見渡す限りセピヤ色の砂丘しやきうが連続し、蘇西スエズの市街や運河の其処此処そこここにある信号所の附近を除いては全まつたく一草一木も生はえて居ない。埃及エヂプトの空に落ちる日の色は紫褐色しかつしよくを漲みなぎらして居た。隅田川の半分も無い運河の幅は、屡しば〱八千噸トンの𤍠田丸を擱砂かくしやさせ、其その度に御納戸色おなんどいろの水が濁つた。河底かはぞこが饂飩粉うどんこの様に柔かいし船の速力も三分の一に減ぜられて居るので擱砂かくしやしても故障は無い。唯ただ行ゆき合ふ船がある場合に信号所しよの命ずる儘まゝに何いづれかが一方の岸へ繋留させられ其その度に四五十分を費す。運の好いい時には他たの船ばかりを避けさせてずんずん通過する事が出来る相さうである。行ゆき合ふ時双方の船客せんきやくが帽やハンカチイフを振り互たがひに健康を祝つて叫び交かはす。又信号所の附近にある人家の楼上から女子供が「ボン、ヴオアイヤアヂユ」などと仏蘭西フランス語で呼び掛かける。夜が更けるに従つて秋めいた星月夜づきよとなつたが、河筋を伝つて北から吹く風が今日けふ俄にはかに取出した冬服を徹とほして寒い。寥廓れうくわくたる万古ばんこの沙漠しやばくを左右にして寝て居るのかと思ふと、此この沙漠しやばくの中から予言者が起おこつたり、行ゆき暮れた旅客りよかくに謎を投げると云ふスフインクスの伝説が生じたりするのも自然らしい事の様に感ぜられた。

翌朝てうはポオト・サイドに着き、出帆までに纔わづかに余された二時間を利用して港に上あがつた。コロムボ以来十三日目に土を踏むのである。蘇西スエズの河口かこうの洲すの上に建てられた此この市街は狭い乍ながらも欧洲の入口丈だけに余程よほど東洋の諸港と異ちがつた感がした。どの酒舗バアにも茶店カフエエにも早天から客が詰め掛けて居る。髪を長くした伊太利イタリイ人の楽師がマンドリンとギタルを合奏するのを聴き乍ながら、店頭みせさきの卓に凭よつて麦藁わらでレモン・カアツシユを呑気のんきに吸ふ客があるかと思ふと、酒舗バアの奥の一隅では目を赤くして麦酒ビイルを傾け乍ながら前夜から博奕ばくちを引続き闘はして居る一団がある。官衙くわんがの掲示も商店の看板も英仏埃及エジプトの三語で書かれて居る。清国の革命騒ぎも此処ここでは最早もはや問題に成らない代りに伊土の戦争が適切な問題に成つて居る。土耳其トルコ人に聞けば伊太利イタリイが結局は負まけると云ひ、伊太利イタリイ人に聞けば其れと反対な事を云つて居る。カイロまで行ゆく遑いとまの無い旅客りよかくの為に埃及エヂプト土産を売る商店が幾軒もある。僕等は埃及エヂプト模様の粗樸そぼくな趣おもむきのある布きれを数枚買つた。絵葉書屋へ入はひると奥まつた薄暗い一室ひとまへ客を連れ込んで極端な怪しい写真を売附けようとするので驚いて逃げ出した。此処ここのアラビヤ族の黒奴くろんぼは馬来マレイや印度インドのに比して一層毒毒どくどくしい紫黒色しこくしよくをして居て、肉も血も骨までも茄子なすびの色を持つて居相さうに想はれる。わが船が着くや否や集まつて来た石炭船ぶねから幾百の黒奴くろんぼが歯まで黒く成つて現あらはれ、曇つた空の下もとに列を作つて入交いりかはり石炭を積み初めた時は鬼の世界へ来たかと恐ろしく感ぜられた。地中海から吹く北風に石炭の埃ほこりが煙の様に渦を巻いて少時しばらくの間あひだに美しい白塗ぬりの𤍠田丸も真黒まつくろに成つて居た。出帆時間が来た。地中海に面した港の口に運河の設計者レセツプスが地図を手にして突つゝ立つて居る銅像を左舷に見ながら愈いよ〱欧洲に一歩踏み入いる旅客りよかくとなつた。(十二月廿三日)

マルセエユ

地中海に入はひつて初めて逆風に遇い、浪の為に一時間五浬マイルの速力を損失する日が二日ふつか程つづいた。艫ともの方の友人は大抵僕の室へ来て船暈せんうんを逃れて居た。伊太利イタリイのメシナ海峡を夜半よなかに通過する事に成つたのでエトナ山ざんもブルカノ島たうも遠望が出来なかつたが、夜明よあけにストロンボリイ島の噴火丈だけを近く眺めた。糢糊もこたる暁色げうしよくの中に藍鼠あゐねずみ色をした円錐形けいの小さい島の姿が美しかつた。山麓に点点てんてんたる白い物は雪であらうと云つて居たが、望遠鏡で望むと人家じんかであつた。噴煙は噴き出る端から雲と成つて薄いオレンヂ色に染まつて居た。

船が一日遅れたのでマルセエユの聖誕祭クリスマスを観ることの出来ないのを洋人の乗客じようかくは残念がつた。船中のクリスマスは相応に立派な飾り付つけが出来たが、二等室は動揺がひどいので日本人の大部分は食卓に就かなかつた。一等室の食卓では西洋人も予等も互たがひに三鞭シヤンペンの盃さかづきを挙げて祝いはひ合つた。此この日の午後一時にサルヂニアとコルシカの海峡を通つた。コルシカ島の禿げた石山いしやまが汐煙しほけむりの中に白く隠見いんけんして居たのはいい感じであつた。米国の一宣教師は十二歳の息子に奈破侖ナポレオンの話を聞かせて居た。翌日の朝マルセエユに着いた。砲台のある湾口わんこうの島に並んで有名なシヤトウ・ド・デイツフの牢獄の島が白く曇つて居た。市街の向むかつて右の石山いしやまの上にはノオトル・ダムの尖塔と黄金の女神ぢよしん像とが聳そびえて居る。大洋に向むかつて石垣の一横線わうせんを築いた新港しんみなとの規模の偉大な事はコロムボの築港などの及ぶ所で無いと想はれる。港内の左右には幾十の荷揚場ばが列つらなり、殊ことに陸に沿うた左の方には天井を硝子ガラス張にした堅牢な倉庫が無数に並んで居る。閘門かふもんが数箇所に設けられて其その上に架した鉄橋は汽船の通過する度に縦に開く仕掛に成つて居る。併しかし此この新港しんみなとも最もう新しくは無い。𤍠田丸以上の大きな船を自由に繋ぐ事の困難なのを想ふと旧式に属するらしい。船の進行に伴つれて可愛かあいい十三四の二人の娘が緋の色の裳もを円く揚げながら、母親らしい女の弾くマンドリンに合せてマルセイユウズの曲を舞つて甲板デツキの上の旅客りよかくに銭を乞うて居る。其れを観て初めて仏蘭西フランスへ来た気がした。

お寺や博物館を見物する為にマルセイユに二日ふつか滞在する事にして、夜は永島事務長と牧野会計とをジユネエブ・ホテルに招待せうだいし、一二等船客の日本人相寄つて心許ばかりの別宴を催した。一人三分間の卓上演説に何も話す事の無い僕は三度お辞儀をした。此処ここから猶なほ英国まで続航ぞくかうする日本人は五人である。三井の小林君はビスケエ湾が荒れると聞いて僕等と一緒に汽車で行ゆく事に改めた。

其その晩は葡萄酒に酔つて船へ帰つて寝た。翌朝てうは春雨はるさめの様な小雨こさめが降つて居る。此様こんなに温かいのは異例だと此この地に七八年案内者ガイドをして居る杉山と云ふ日本人が話して居た。マルセイユは港として盛さかんではあるが、市街は甚だしく穢きたない。道路の悪い上に大通おほどほりから少し横町へ入はひれば糞便が溝を成して居る。博物館は休日であつたけれど、守衛に特に乞うたら直すぐに入いれて呉くれた。シヤヷンヌのマルセイユを描かいた二枚の壁画、古い所でペルヂノやリユウバンスの作品が目を惹いた。巴里パリイのペエル・ラシエエズの墓地にあるバルトロメの「死」の塑像の模作うつしもあつた。植物園の黄昏たそがれに松や芒すゝきを眺めてバンクに憩いこうた時は日本の晩秋のうら寒い淋しさを誰も感ぜずに居られなかつた。

今日けふの午前に近江は一人でミユンヘンへ立つた。僕等の巴里パリイへ行く五人に倫敦ロンドンへ行く小林を加へて午後八時にマルセエユを立つ時、今夜遅く伯林ベルリンに赴く三浦財部たからべの二学士を始め久しく船中の生活を共にした永島事務長や牧野会計が停車場ステイシヨンへ見送りに来て呉くれた。日本語許ばかりを使つて居た世界から愈々いよ〱別れるのであると思ふと横浜を離れる時よりも淋しかつた。発車の間際まぎはに牧野の音頭で「しやん、しやん、しやん」と三度手打てうちをしてプラツト・フォオムの群衆を驚かせた。車中には正月の用にと云つて𤍠田丸から大きな「数の子」の樽を積んで呉くれた。(十二月二十八日)

巴里パリイの除夜

巴里パリイへ着いてから四日よつか目の朝だ。オテル・スフロウの二階で近いスルボン大学の鐘を聞き乍ながら病院に居る様な気持で白い寝台ねだいの上から窓を眺めた。陰鬱な冬曇りが続く。巴里パリイ全市は並木も家も薄墨うすずみ色の情調に満ちて居る。正午ひる前に石井柏亭はくていが来た。此間このあひだ停車場ステイシヨンへ小林萬吾まんごと一緒に迎へに来て呉くれた時も既に感じた事であつたが、揉上もみあげをよい程に短みじかく剃り上げて見違へる程色の白い美しい男に成つて居る。小脇に挟んだ英国の一雑誌には頼まれて寄稿した柏亭自身の論文や絵が巻頭に載つて居る。其その論文は最近日本の芸術に就ついて大分だいぶんに気焔を吐いたものであつた。相応の確たしかな研究と一種の突つ込んだ直覚ちよくかくとから得た断案だんあんを率直に語る此この人の芸術批評は面白い。相変らず話の中ちゆうで折折をりをり吃どもるのも有り余る感想が一時に出口に集まつて戸惑ひする様で却かへつて頓挫の快感を与へる。

リユウ・デ・ゼコルの通りへ出て大学前の伊太利亜イタリア料理で午餐ひるめしを済ませた後のち、地下電車に乗つてユウゴオの旧宅をプラス・デ・ヷスチル街に訪とうた。旧宅は十八世紀の建築だと云ふ一廓の中に在つて、屋上に三色しよく旗が飜つて居る。故文豪が一八三三年から一八四八年まで住んだ家だ。ユウゴオを記念する小博物館として大抵の遺作、遺品、故人の著作に挿はさんだ絵の下絵、著作の広告に用ひた絵、其他そのた故人に関係ある雑多の物が陳列されて居る。故人の大理石像の前に「シエキスピアの家より」としてユウゴオの今年の誕生日に英国から贈つて来た花環はなわが青枯がれた儘まゝ捧げられて居た。文豪の旧宅が互たがひに贈答をする習慣も奥ゆかしい。ユウゴオの手沢しゆたくの存する一卓の上に故人の用ひた鵞筆がひつと銅のインキ壺を始め、友人であつたラマルチン、アレキサンダア・ヂユウマ、ヂヨウヂ・サン三人の筆や墨壺が載せてあつた。

ユウゴオの描かいた絵の多いのに驚いた。ロマンチツクな物ばかりではあるが、確たしかな写実が根柢こんていと成つて居る。故人の狂𤍠と沈毅と凝こり性しやうとが其それ等にも窺はれた。東洋趣味オリエンタリズムの珍らしがられた時代に故人も支那の漆噐の色や模様などから暗示ヒントを得て自身の意匠で作らせた一室がある。サル・ジヤポネエ(日本室)と名づけられて居るが、実は少しの日本趣味も無く、全まつたく支那趣味ばかりである。其その室の鏡の枠の模様には一茎けいの蔓に全まつたく故人の空想から出来た奇抜な雑多の花と葉と実とが生じて居た。壁には大きな向日葵ひまはりの花の中から黒牛くろうしが頭を出して居る絵もあつた。其それ等のユウゴオの「夢の華はな」が毫がうも不自然で無ない許ばかりか、空想の天地に自適して如何いかにも楽し相さうである偉人の心境が流露して居る様に思はれた。柏亭と僕とは番人の婆さんから絵葉書を買つて其その家を出た。

夜は柏亭、滿谷、徳永外二人とギニヨル座の芝居を観に行つた。除夜とは云へ巴里パリイ人には此この月から最もう正月の芝居である。芝居のはねるのは元日の午前一時前まへになるので、十二時を越すと観客くわんかくは互たがひに「おめでたう」を交換して居た。よい席は予約があつて僕等は後うしろの方に分れて坐らざるを得なかつた。此この座の出し物には凄い物が多いと聞いて居たが、材料を支那に取つた「紅雀べにすゞめ」二ふた幕と「鬼を見て来た男」一ひと幕は不気味な物である代りに「妖惑えうわくする女」や「隅の部屋」の様な大甘おほあまな喜劇を取合せて気分の平衡を計つてあつた。すべてが新作である。中にも「紅雀」は青い被おほひを着せた紅雀の籠が何事かの象徴サンボルであるらしく終始観客くわんかくの心を引附け、支那の貴人の家の静かな男女なんによの挙止応対が全まつたく沈鬱メランコリツクな気分を舞台に漲みなぎらせた。何時いつの間まにか前の幕で紅雀の紛失ふんじつして居たのは隣人の盗んだのである事を主人自みづから後のちの幕で静かに問ひ詰め、突然その隣人の喉に蛇の如く弁髪を巻き附けて締め乍ながら、隣人が「それは自分だ」と二声ふたこゑ自白する間に両方の顳顬こめかみを悠然と一刀づつ刺す。主人の妻が「あツ、あツ」と夜天に鳴く五位鷺ごゐさぎの様な声をして驚き倒れる機会はづみに鳥籠が顛倒ひつくりかへると、籠の中から隣人りんにんと不義をした妾めかけの生なま首が現あらはれて幕に成つた。支那人の残忍な気持が我我われわれ日本人の解して居るよりも徹底して表現されて居るやうに想はれた。婦人の観客くわんかくが上衣うはきを脱いで肉色にくいろの勝つた胴衣コルサアジユの美しいのを誇りかに見せるのは大阪風に似て居る。外へ出ると何どの酒場バアも珈琲店キヤツフエも徹宵てつせうして除夜を送る客で満ちて居た。(一月四日)

パンテオンの側そばから

(一)

此頃このごろの巴里パリイはよく深い霧が降る。倫敦ロンドンの霧は陰鬱だと聞くが、冬曇ふゆぐもりの続く巴里パリイでは却かへつて此この霧が変化を添へて好い。ゴシツクの塔が中断せられて意外な所で尖さきを見せたり、高い屋根の並ぶ大路おほぢが地下鉄道の洞ほらの様に見えたりするのも霧のせいだ。偶たま〱太陽を仰ぐ日があつても終日霧の中でモネの絵にある様な力の弱い血紅色けつこうしよくをした小さい太陽を仰ぐ許ばかり、東京の様なからりと晴れて冴さえた冬空を僕は未まだ見ない。併しかしながら風が少しも吹かず、一体に空気が湿つぽく落着いて居て、夕方から後のち、街に灯あかりが点つくと、霧を透とほす温かい脂色やにいろの光が凡すべての物に陽気な而しかも奥深おくぶかい陰影を与へ、華奢きやしやな男女だんぢよも忙せはしない車馬も一切が潮染うしほぞめの様な濡色ぬれいろをして其その中に動く。何となく「海の底にある賑にぎやかな都」と云つた風の感がする。

グラン・ブルヷアルを初め、目ぼしい大通おほどほりを歩いて人道じんだうから人道じんだうへ越すときの危険あぶなさ。地方から東京へ初めて出た人が須田町の踏切でうろうろするのは巴里パリイに比べると未まだ余程よほど呑気のんきである。前後左右から引きも切らずに来る雑多な車の刹那せつなの隙を狙つて全身の血を注意に緊張させ、悠揚いうやうとした早はや足に半なかば越こえて中間にある電灯の立つた石畳を一先ひとまづ足溜あしだまりとしてほつと一息つき、更に隙を縫うて向むかひの人道じんだうへ駆け上のぼり又ほつと一息つく気持は然さは云へ痛快だ。だが又セエヌ河へ出て見ると、一週間前まへから洪水おほみづで通船つうせんが止とまつた騒ぎであるに関かゝはらず、水に浸ひたつた繋船場ばの河岸かしの其処彼処そこかしこで黒い山高帽の群むれが朝早くから長い竿を取つて釣をして居る。近づいて見ると女も幾人か混つて釣つて居る。石垣の上に涯はても無く本箱を載せた、僕が其処そこを通る度に何時いつも馬場孤蝶こてふ君と一緒に覗のぞき込まないのを遺憾に思ふ名物の古本屋の前には最もうぞろぞろと人だかりがして居る。一所ひとところの本屋の主人あるじである、肥こえ太つた体へこてこてと着込んだ婆さんが僕をつかまへて「新しいロスタンの脚本なんかよりユウゴオ物をお読みなさい」などと勧めるのを観ると、身内の筋すぢが悉こと〲く弛ゆるんですつと胸が開く様な暢達ちやうたつな気持を覚える。斯かう云ふ緩急二面の生活を同時に味はつて居るのが巴里人パリイじんなのであらう。

一週間ほど前の夜よ、僕が最もう寝巻に着更かへて居ると扉とをこつこつ遣る人がある。誰かと思つたら大谷繞石おほたにぜうせき君だ。「倫敦ロンドンを今朝けさ立つて来た。巴里パリイに二泊してマルセエユから船で日本へ帰る積つもりだ」と云ふ。繞石ぜうせき君に逢はうとは思ひ掛がけなかつたので、扉とを開けて這入はひつて来たのも、少時しばらく話した後あとで曲くねつた梯子段を寒い夜更よふけに降りて行いつたのも芝居の人物の出入りの様な気がしてならなかつた。呆気あつけない別れが其その時は当然の事の様に想はれて格別何の感じも無かつたが、後あとになつて考へると何だか淋しい。二人ふたりで何を話したかも覚えず、唯たゞ繞石ぜうせき君の暫しばらく散髪をしないらしい頭と莞爾にこ〱して居た顔とが目に残つて居る許ばかりである。

昨夜は柏亭とゲエテ街まちのカジノ・ド・モンパルナスと云ふ寄席よせへ行つた。巴里パリイ東部の場末に近い所だから此この街の附近には労働者が沢山たくさん住んで居る。どの横町も灰色の夜陰やいんに閉ぢられて灯影ほかげが少すくなく、ゴルキイの「夜よるの宿やど」の様な物凄さを感じないでもない。其その中で活動写真、寄席よせ、酒場バア、喫茶店カフエエなどの軒を並べて居るゲエテ街まち丈だけが地獄の色の様な火明ひあかりに赤く煙けぶつて居た。従つて寄席よせの客の大半は労働者で帽や白襯衣シユミイズを着ない連中れんぢゆうが多く、大向おほむかうから舞台の歌に合せて口笛を吹いたり足踏あしぶみをしたりする仲間もあつた。演じた物には道化た踊をどりや流行唄はやりうたや曲芸などが多かつた。若い女の犬使ひが三匹の黒犬を寝室に入れ、終始無言で犬と一緒に夜食の卓に就いたり、灯あかりを消して裸に成つて寝たりしたのは一寸ちよつと凄い気持を与へたが、盗人ぬすびとが忍んで来て犬に吠えられ短銃ピストルを乱発して防ぎながら終つひに咬かみ殺されて仕舞しまふのは、其れが見せ場である丈だけ俗悪ぞくあくな結果であつた。寄席よせが散はねて少時しばらくは街一いつぱいになつて歩く汚れた服の労働者の群むれに混つて帰つた。(一月十五日)

(二)

今は其その季節で無いに関かゝはらず、いろんな絵の展覧会が各所に催されるのは嬉うれしい。新しい其それ等の会を毎日一箇所づつ観て廻つても不足しない様である。此間このあひだ美術商として名高いドユラン・リユイル氏がその蔵幅ざうふくを毎火曜日の午後に公開するのを其その私宅へ観に行つた。客室サロンを初め多くの室を食堂から寝室まで其その日に限り開放して陳列室に供し、各室にフロツクコオトを着た係員を置くと云ふ行ゆき届いた設備がしてある。幾百と云ふ蔵幅ざうふくは大抵モネ、ピサロオ、セザンヌ、シスレエ、ドガア、ルノワアル等近代名家の作家の作品で満ちて居る。何いづれも其それ等印象派の画家がまだ名を成さない時代に買ひ集めたものが多いらしく、リユイル氏が愛蔵して売品としない物許ばかりである。

一昨日をとゝひは巴里パリイの好事家かうずかが大勢寄つて二月の中頃までルウヴル博物館の傍そばで公開する装飾美術展覧会を訪とうたが、二百五十室もあるので到底一箇月掛かつても観尽つくせるもので無かつた。中にモロオ氏が一人で出品した十余室の絵画は凡すべて前に挙げた印象派名家の初期の作許ばかりでリユイル氏の蔵幅と併せて此この派の発達した経過を研究するのに甚だ有益を感じた。シスレエが珍らしく屋内の人物を描かいた「鍛冶屋」や、マネが最初に物議を惹き起した「草の上の昼飯ひるめし」などもあつた。又幾室かに亘わたつて歌麿の版画が陳列せられて居るのを観て、斯こんなに多数の歌麿が巴里パリイに愛蔵せられて居るかと先まづ驚かされた。おまけに日本に居ては僕達に観る機会の無い逸品が多かつた。聞けば去年は清長の展覧会があつて沢山たくさんな出品であつた相さうだが、此この秋あたりには広重の展覧会が催されるだらうと云ふ事だ。一体に巴里パリイ人の趣味が一方に雷同して傾く事なく思ひ思ひに自分の素性そせいの同感する所を択えらんで自由に其れを研究し楽たのしんで行く風の盛さかんなのが面白い。例へば此この装飾美術展覧会へ来て観ても然さうだ。伊太利イタリイ、西班牙スペイン、印度インド、埃及エヂプト、支那、日本のどの室にも縦覧客が満ちて居る。自国を過重くわぢゆうして異邦を毛嫌ひしたり、新しい作品に許ばかり趨はしつて前代を蔑視すると云ふ風が無い。歌麿の室で一一いちいち絵の線を虫眼鏡で観て廻る𤍠心家があるかと思へば、工人を伴つれて来てルネツサンス前ぜんの伊太利イタリイの古い寝台ねだいの寸法を取らせて自家用に模造させようとする紳士があるのを見受ける。劇でも同じ事、国立劇場で政府が保護して常に前代の傑作を演じさせて居るのは勿論、外の劇場でも旧い物と新作とを断えず交替に演じて居る。新作物が大入おほいりを占めるからと云つて余り続けて打つと、見識ある劇評家や識者から抗議が出て一般人に反省を促すと云ふ風だ。是これでこそ深沈な研究と遍あまねき同情との上に立脚して動揺ゆるぎの無い確かな最新の芸術が沸き出るのだと頷うなづかれる。

浮世絵の鑑賞許ばかりで無く、いろんな方面に日本贔屓びいきの好事家かうずかが多いらしい。或ある未亡人びばうじんなどは日本の物事と云へば何なにでも愛着して、同じ仲間の婦人と竹刀しなへを執つて撃剣をしたり御お経を読んだりなんかする相さうだ。又日本の粗末な器物や米醤油しやういうの様な食料品を売る家も巴里パリイに幾軒かあるのを見受うける。併しかし其それ等の好事家かうずかが何処どこまで深く日本を領解して居るかと想像すると甚だ怪しい。此間このあひだガウチエと云ふ人が新しく書いた「ル・ジヤポン」と云ふ薄片うすつぺらな本を、アカデミイの一員ジヤン・エカアルの推称した序文に絆ほだされて読んで見たが、「支那の始皇帝の侍医であつた徐福が童男なん童女によ六百人を伴つれて行いつて日本の文明を開いた」と斯かう云ふ調子で凡すべてが書かれて居たのでがつかりした。

滿谷と柚木ゆのきが当分ロウランスのアトリエへ通ふ事になつて昨日きのふその同学生との顔繋ぎの式があつた。新入生が一人にん三十フラン宛づゝの酒代さかだいを出して饗応するのである。「カフエエへ」と云ふ塾監の声を聞いて今迄絵を稽古して居た五十余人の同学生が「オオ、ラ、ラ」と一斉に叫わめき立ち、各おの〱自分の椅子を片足に掛けてアトリエの前のリユウ・ド・ドラゴンの通とほりに引ひきずり出し、裸で立つて居た三人のモデル女が服を着る遑いとまも無く、外套を引ひき掛けた儘まゝで学生に胴上をせられ、通りの真中まんなかに据ゑた椅子の上に卸おろされると、忽たちまち五十の椅子が其れを円形に囲んで歌ひ初めた。向むかひ側が直すぐ行いき附けのカフエエに成つて居る。之これが為に幾台かの自動車が少時しばらく交通を遮さへぎられる騒ぎであつた。一同がカフエエの二階へ繰込むと新入生に対する道化まじりの祝辞を述べる者、踊る者、歌ふ者、芝居の真似をする者、凡すべて無邪気な遊戯の限かぎりを尽つくして杯さかづきを挙げたが、二時間後ごには大風おほかぜの過ぎた如く静まり返つて再び皆アトリエの中に絵筆を執つて居た。(一月十六日)

(三)

パンテオンの側そばのオテル・スフロウに泊とまつてから一箇月近く経つた。此この宿は最初和田英作えいさく君などの洋画界の先輩が泊つて居た縁故えんこで巴里パリイへ来る日本人は今でも大抵一先ひとまず此処ここへ落ち着く。其それ頃のスフロウは随分きたない宿だつたと聞くが、今は電灯やスチイムの設備も出来て居る。併しかし持主が二度も変つたので宿の者に以前諸君の遺した記念になる話を知つて居る者も無い。一緒に泊とまり込んだ滿谷君等の四人はもう既に画室や下宿を見附けて引ひき越して仕舞しまつた。僕も梅原君の世話でモンマルトルの方に下宿は見附かつて居るが、会話の稽古に行ゆくミツセル夫人の下宿が近いのと、喫茶店キヤツフエに気に入つた家があるのとでまだ越さずに居る。

ミツセル夫人と云へば其れがオテル・スフロオの初代の主人の細君だ。割合に教育のある、品の善よい、親切な婆さんで、二十年間に世話をした日本人の写真を出して見せては自分の育てた子供の話をする様に得意相さうである。和田英作君の留学時代の若若わかわかしい写真と近頃のとを比べて「斯こんなに変つたか」と問ふ。肥満ふとつた赤顔あかづらの主人は御人好おひとよしで、にこにこし乍ながら僕が行ゆく度に外套を脱がせたり着せたりする。「うちの細君は英語も出来るし、日本人に教へつけても居るから語学には便利だ」とか「兵隊に成つて居る長男を見て呉くれ」とか云つて自慢する。才走ばしつた人づきあひの好いい細君は「併しかし日本から詩人として巴里パリイへ来たのはお前さんが初めてだ」などとお世辞を言ふ。日本人がいろんな物を遺のこして行いつたり、わざわざ日本から送つて呉くれたりするので日本品の小さな陳列場コレクシヨンが出来ると云つて夫婦は喜んで居る。

僕が毎日の様に行ゆくのはリユクサンブル公園と、其処そこの美術館とだ。一葉えふをも着けない冬枯がれの、黒ずんだ幹の行儀よく並んだ橡樹マロニエの蔭を朝踏む気持は身が緊しまる様だ。帽も上衣うはきも裳ジユツプも黒つぽい所へ、何処どこか緋や純白や草色くさいろを一寸ちよつと取合せて強い調色てうしよくを見せた冬服の巴里パリイ婦人が樹蔭こかげを行ゆき交かふのも面白い。子供が池に帆のある船を浮かべたり、独楽こまや輪を廻して遊んだりするのはナシヨナル読本とくほんの中の景色だ。子供の服装は近頃ル・マタン紙の婦人欄の記者が批難した通り「何等なんららの熟慮を経ない、唯ただ華美はでに過ぎた複雑な装飾」に流れて、見た目に一応美しくはあるが、其れが衛生的でも教育的でも無いのは、日本の中流以上の娘の子の晴着と稍やゝ趣おもむきが似て居る。子供が軽快に遊戯する為ための服装で無く、母親が子供を自分の玩具おもちやにしたり他人に見せ附けたりする為にこてこてと着飾らせるのである。娘の子の裳ジユツプも円く踊子の様に披ひらいたので無くて、大人をとなの女の服装と同じく日本の衣物きものの様に細く狭く直立したのが流行はやつて居る。日本の七八歳なゝやつ迄の娘が被かぶる円く張金はりがねが入はひつて上に斜はすにリボンの掛つた帽は、巴里パリイへ来て見ると却かへつて大学生の正帽であつて、子供には見掛けない。猶なほ何かの儀式の外そんな正帽なんか平生ふだんに被かぶる大学生は居ない様である。(一月二十一日)

(四)

土曜の午後から日曜へかけては殊ことにどの公園にも人出が多い。飛行機の本国だけに自製の飛行機の模型を試験的に飛ばせに来る研究家も少すくなくない。二三人は必ず男女なんによの画家が写生に来て居る。ベンチに凭掛よりかゝつて昼日中ひなか居眠をして居る立派な服装の細君もある。伴つれて来た五六匹の犬が裾の所で戯れて居るなどは呑気のんきだ。犬を婦人が可愛かあいがることは子供を可愛かあいがる以上とも云ひたい位だ。犬には寒さを防ぐ為に大抵物が着せてある。腰から以下を二分ぶ刈がりにし上半身の毛を長く伸ばして獅子の形にした犬などは憎さげだ。夫婦づれで乳母車を押して来るのもある。乳母車は大抵長い外套を着て頭から裾迄大幅のリボンを二筋垂れた一定の服装の褓母ほぼが押して居る。車の中の赤ん坊は水色か何かの毛布に埋うづまつて全まつたく人形の様だ。此この寒空さむぞらに外へ出してよく病気に成らない物だと思ふが、東京の様に乾風からかぜが吹かないせいもあらう。又巴里パリイの様に日当りの悪い構造の建築では室内に子供を置く事が却かへつて病気を惹起ひきおこし易からう。併しかし一体に巴里パリイ人は十五歳以下の子供を屋外に出さない。夜間は勿論昼間でも巴里パリイの市中に子供を見る事は至つて少すくない。見掛るのは小学校の往復の時間位なものである。其れで土曜から日曜の両親ふたおやや監督者の暇な日に一時じに公園へ伴つれて出る。と云つて幾つかの大公園に遊んで居る子供は巴里パリイ市内の子供の総数から云へば千分の一にも当るまい。ル・マタンの記者が口を極めて子供を公園へ出し屋外の空気に触れさせよと勧告して居るのは道理もつともである。巴里パリイの母親は余あまりに自分の遊楽に耽ふけつて子供の自由を顧みないと記者は言つて居る。

パンテオンは羅馬ロオマの其れに擬して仏蘭西フランスの偉人を国葬する寺だ。ロダンの作で有名な「思想家」が入口の正面の空地あきちに円い屋根、円い柱の大伽藍を背負ふ様に少し屈かゞんで、膝の上の片肱に思慮と意志との堅実相さうな顔を載せて居る。堂内の数数かずかずの壁画の中で何時いつ見ても飽かないのはシヤヷンヌの作だ。僧が斧で斬られた自分の首を攫つかんで居るボンナアの壁画は思ひ切つて寒い色が目を引く不気味な物である。案内者に導かれて地下の墓洞カバウへ下おりて行ゆくと、龕がん毎ごとに学者政治家達の石棺が花環わに飾られて蔵をさまつて居る。案内者が名と小伝せうでんとを高らかに云つて呉くれる中で、僕の耳にはルツソオ、ヴオルテエル、ユウゴオなどの文学者の名が強く響く。三四年前反対派の大騒ぎがあつて改葬されたゾラの棺くわんはユウゴオと同じ龕がんの中に向むかひ合せに据ゑられて居る。

僕は夕飯ゆふめし後によく有名な「リラの庭」と云ふラタン区のキヤツフエエへ行ゆく。僕より一月ひとつき早く来て巴里パリイの珈琲店キヤツフエエ通つうに成つて仕舞しまつた九里くり四郎が初め伴つれて行つて呉くれたのだ。其処そこは以前から詩人や画家がよく集あつまる所で、謂いはゆる「自由な女」などは殆ほとんど来ない。品ひんの好いい変り者計ばかりが集つて杯さかづきを前に据ゑ乍ながら原稿を書いたり、坐談をしたり双すご六や骨牌かるたを静かに弄もてあそんだりする。大学生も田舎ゐなか臭くない気の利いた連中れんぢゆうが同窓の女をんな大学生と伴つれ立つて遣つて来る。若い詩人仲間の保護者パトロンを以もつて任じ、偶たまには詩の一つも作ると云つた風の貴婦人も其その若い仲間に取巻かれ乍ながら長閑のどかに話して居る。(一月二十三日)

(五)

石井柏亭が一月二十三日に西班牙スペインから北部伊太利イタリイへの旅行に出掛けた。其その二三日前まへ七八人寄つて送別の積りで夕飯ゆふめしを一緒にした帰りに、徳永、九里、川島、僕の四人でチユイルリイ公園に沿うた氷宮パレエ・ド・グラスへ氷滑りを観に行つた。設備は巴里パリイに幾つもある舞踏場パルと似て居るが、人造の氷で踊場をどりばを池の様に張詰めて其その上で入場者が自由に踊り狂ふ所が異ちがふ。之これは巴里パリイに一箇所しか無いから昼夜ちうやとも賑にぎはつて居る。場内には教師が幾人も居て滑り慣れない者に手を執つて教へる。僕等が行つた時は肥ふとつた一人の貴婦人と浅黒い顔の猶太人ヂユウとが危なつかしい腰附で徐徐そろ〱と人込の中を教師の手に縋すがつて歩いて居た。併しかし見渡した所大抵熟練した連中れんぢゆう許ばかりで然さう見苦しい素人しろうとは居ないやうだ。舞踏場パルで踊る事が既に贅沢ぜいたくな遊びであるのに、危険の伴ふ氷の上で自在に踊るのは二重の愉快であらう。其その上に婦人は流行の新装を見せびらかす楽たのしみもある。十分間の休憩を置いて管絃楽オルケストラが始まる度に下手へたな連中れんぢゆうは引ひき込んで、四方の観棚ロオジユの卓を離れて出る一双宛づゝの人間が入いり乱れ乍ながら素晴しい速度で目も彩あやに踊つて廻るのは、美しい豉虫みづすましの大群を虫眼鏡で眺めて居るかと思ふ程の奇観だ。踊る事の出来ない国から来た僕等は鈍のろい動物が人間を観る様に二階から黙つて珈琲キヤフエエを喫のんで見下おろして居た。入場者は男より女の方が多い。女同志で幾組も踊つて居る。お母つかさんと娘とで踊つてる組もある。一人紫紺しこんの薄手うすでな盛衣ロオヴを着て白い胸飾むねかざりをした、細ほつそりと瀟洒せうしやなひどく姿の好いい女が折折をりをり踊場をどりばに出ては相手を求めずに単独で踊の群むれを縫ひながら縦横に駈かけ廻る。其その女が現れると妙に場内が引緊ひきしまり、引ひき込むと流星の過ぎ去つた後あとの様に物足らなかつた。余り僕等が注視するので其その女も気が附いたらしく、後のちには僕等の下を通る度にわざわざ見上げて微笑ほゝゑんで居た。此処ここで木曜日には特別に舞踏の巧うまい連中れんぢゆう許ばかりが踊る。其れで平生の入場料は三フラン(一円二十銭)だが、其その晩に限つて六フラン取る事に成なつて居る。帰途かへりに大陸ホテルの前を過ぎると丁度ちやうど今の季節に流行はやる大夜会の退散ひけらしく、盛装した貴婦人の群むれが続続ぞくぞくと自動車や馬車に乗る所であつた。ホテルの門前を警衛する騎兵の銀の冑が霜夜しもよの大通おほどほりに輝き、馬の吐つく気息いきが白く這はつて居た。(一月二十五日)

モンマルトルの宿やど

僕はパンテオンの側そばから河を越して反対に巴里パリイの北に当るモンマルトルへ引ひき越して来た。パンテオン附近と異ちがつて学者や学生風の人間は少しも見当らず、画家(殊ことに漫画家)や俳優やくしやや諸種の芸人が多く住んで居る。名高い遊楽の街だけにタバランとかムウラン・ルウジユとか云ふ有名な踊場をどりばを初め、贅沢ぜいたくな飲食店レスタウランや酒場キヤバレエや喫茶店キヤツフエが多い。派手はでな遊楽の女謂いはゆるモンマルトワアルの本場であるのは言ふまでもない。昼日中ひなかまた夜よを徹てつして暁あかつきまで僕の下宿の附近には音楽と歌が聞きこえると云ふ風である。初めて越して来た日に重いトランクを女中のマリイと二人で三階へ引上げる時は泣き出したくなつた。日本の十畳敷許ばかりの所に赤い絨氈じうたんを敷き詰めて、淡紅うすあかい羽蒲団の掛つた二人寝の大きな寝台ねだいを据ゑ、幾つかの額と二つの大きな鏡の懸つた可かなり立派な部屋だが、半月程暖炉シユミネを焚たかなかつたので寒さが僕をがたがたと慄ふるはせた。石炭を燻くべても燻くべても容易に温まらない部屋の中で僕はしみじみと東京の家を恋しいと思つて居た。併しかし夜になつて初めて家族と一緒に食卓に就いた時は、何だか僕の好きな大阪の家庭で食事をする様な親しさを感じて少し心が落着いた。下宿人は多勢おほぜい居るが家族と一緒に食事をするのは僕の外に四人の美しい娘だけだ。此この家の細君が余程よほど変つて居て間まがあればピアノに向むかふか、でなくば踊をどりの真似をして高い声で歌つて居る。食事の間あひだにも肉刀クトウで食卓を叩き乍ながら歌つたり、年下の亭主の首を抱へて頬擦りをしたり、目を剥むいて怒る真似をしたりするので、家の内は常に笑わらひを断たない。其れに下宿人の娘の一人も剽軽者へうきんもので細君に調子を合せて歌ひ、何かと冗談を言合ひ乍ながら其末そのすゑが直すぐ二人共歌の調子に成る。美男の亭主は何時いつでも「然アアうだウイ、然アアうだウイ」と言つて莞爾にこ〱して居る。フツフウ、ユウユウと云ふ流行唄はやりうたの二つの間投詞を取つて名づけた二匹の小犬が居て食卓の下で我我われわれの足に突当り乍ながらうろうろする。膝へ駆上かけあがつても来る。其その度にきやつきやと笑ふので小犬等も亦また食卓を賑にぎはす一つに成つて居る。楽天的な滑稽おどけた家庭だ。之これが純巴里パリイ人の性格の一種を示して居るのであらう。或ある友人から巴里パリイ人は倹素しまつだから家庭へ入はひるのは不愉快だと聞かされて居たが、一概に然さうでも無さ相さうである。食事なども並の料理店レスタウランで食ふより旨うまく、又何時いつも「充分だセエタツセ」と断らねば成らぬ程潤沢だ。驚くのは巴里パリイの女は概して然さうなんであらうが、細君や例の下宿人の娘等がよく酒を飲む事である。シトロンでも煽あふる調子で食事毎ごとに葡萄酒や茴香酒アブサントを飲む。そして夜よぶかしをするので、大抵午後一時頃に起きる。僕は此この女連中をんなれんぢゆうの化粧する所を興味を以もつて観て居るが、いろんな白粉おしろいを顔から胸や背中へ掛けて塗り、目の上下うへしたにはパステルの絵具のやうな形をした紫、黒、群青ぐんじやうさまざまの顔料を塗るのは、随分思ひ切つた厚化粧だが、仕上を見ると大分だいぶんに容色きりやうを上げて居る。男らしい洒落しやらくな性格の細君の他たの一面には怖おそろしく優しい所があつて、越して来て五日か目に風かぜを引いて僕が寝て居ると、毎夜よ午前二時頃に橙だい〲を入れたアメリンカンと云ふ𤍠い酒や玉子焼などを拵こしらへて見舞に来て呉くれたりする。僕は伊太利イタリイへ旅行するまで此この家庭に居ようと思ふ。宿は 21. Bis, Rue Victor Massé にあるが、宿の主人の名はLouis Pirolleyである。(二月二日)

画室アトリエと墓

二月の最初の土曜日だ。ロオランスの教へに来る画室アトリエを参観に行ゆかうと徳永に約束がしてあつたので珍らしく早起はやおきをした。其その晩には薄い初雪が降つた程朝から寒い日であつた。暖炉シユミネの火が灰がちな下に昨夜ゆうべの名残なごりの紅玉リユビイの様な明あかりを美しく保つては居るが、少しも暖あたゝかく無いので寝巻の儘まゝ楊枝やうじを遣つかつて居た手を休めて火箸で掻廻すと、昨夜ゆうべの儘まゝの盛高もりだかな形をして居た火は夢を見て居た塚の中の骨の様に脆もろく崩れて刹那せつなに皆薄白うすじろい灰に成つて仕舞しまつた。生中なまなかいぢくらずに置けば美しい火の色丈だけでも見られたものを、下手へたに詩に為した許ばかりに本もとの面白い感情が失はれたのと同じ様な失望を感じた。女中のマリイの汲んで置いて呉くれた水が顔や手先を針の様に刺す。今朝けさは急ぐので剃刀かみそりを当てることを止めて服を着ようとすると新しいコルへ前の釦ブトンが容易に入はひらない。窓から射さす薄暗い明あかりの中で厭な姿が二つの大きな鏡へ映る。「大将、だいぶ弱つて居るぢや無いか」と僕の心の中の道化役の一つがひよつこりと現れて一言ひとことの白せりふを投げた限きり引込ひつこんで仕舞しまふ。「フム、フム」と黒幕の中で鷹揚おうやうに鼻の先の軽い一笑を演じる一つの心が其れに次ぐ。後あとは気の乗らない沈黙。其間そのあひだに踠もがいて居た首と手とは漸やつとのことで釦ブトンを入れ終つた。洋服を着て仕舞しまへば、時計、手帳、蟇口がまぐち、手巾ムシヨワアル、地図、辞書、万年筆まんねんふでと、平生持歩く七つ道具は彼かの棚と此この卓とに一定して置かれてあるので、二分と掛らないで上衣うはぎ、下袴パンタロン、外套の衣嚢かくしへ各おの〱所を得て収められて仕舞しまつた。部屋に錠を下おろして置いて暗い階段を三つ下くだる。入口いりくちを出て台所の硝子戸がらすどをコツコツ遣つて見たが未まだマリイは起きて居ない。𤍠い珈琲キヤツフエと牛乳ちゝとを啜すゝつて行ゆく事は出来なかつた。口を堅く閉ぢて鼻で深呼吸をしながら門を出た。南北地下電車ノオル・シユツドでは往復八銭の切符を呉くれた。車中は男女なんによの労働者で一杯に成つて居る。女は大抵帽を被かぶつて居ない。未まだ東京で三年前に買つた儘まゝのを被かぶつて居る僕の帽も此この連中れんぢゆうの垢あか染じみた鳥打帽や亀ひゞ裂われた山高帽やまだかばうに比べれば謙遜する必要は無かつた。序ついでに日本人は平気で鳥打帽を被かぶるが、巴里パリイでは専もつぱら労働者の被かぶるものである。シテエ・フワルギエエルの十四番地へ来ると徳永は最もう起きて居た。「早く遣つて来ましたね、君。」「でも七時半だよ。」「ゆうべ長谷川君と遅く迄話し込んだので僕は朝寝をして仕舞しまつた。衣替きがへをする間待つて居て呉くれ給へ。」「滿谷は起きてるか知しら。彼処あすこで待つて居よう。向むかうには煖炉ストオブも消えてないだらうから。」「では然さうして呉くれ給へ。ゆうべ隣のKが何どうしたのか帰つて来ない。知つてる独逸ドイツ人の紹介で俳優やくしやなんかの来る宴会へ出掛けたのだが。尤もつとも昨日きのふ銭が届いたからね。」「併しかしあの男は堅相かたさうぢやないか。」僕は三階を下おりて近所の滿谷の画室アトリエを叩いた。僕の声を聞いて直すぐに右隣の画室アトリエから柚木ゆのきが顔を出した。「寒いぢや無いか。」「寒いね。滿谷さんは寝てるかも知れん。まあ僕ン所へ入はひり給へ。君の病気は最もう好いいかね。」「難有ありがたう。𤍠は高かつたが一寸ちよつとした風邪だつたんだね。ゆうべから起きたよ。大きな物を描かき出したね、此方こつちは長谷川かい。随分凄さうなモデルだね。」「長谷川君と二人で遣つかつてるんだが、実際其その通り目の下のどす黒ぐろい女でね、よく喋しやべるんだ。」滿谷が起きた様だから行つて見ると小豆あづき色の寝巻の儘まゝで黒い土耳其トルコ帽を被かぶつた滿谷は「ゆうべ汲んで置くのを忘れたら、今朝けさ水道が凍つて水が出ない」と云つて水瓶みづがめを手にした儘まゝ煖炉ストオブの前に立つて居た。「病気は何どうだい。」「四五日で癒なほつて仕舞しまつた。」「さう早起はやおきなんかして盛もり返しはしないかい。」「大丈夫だ、今日けふは徳永が君達の行つてる画室アトリエを観せると云つたから六時に起きたよ。」「そいつは行いけなかつたね、徳永が知らないんだ。先生が来て批評する日は参観は許さないんだ。併しかし一寸ちよつと行つて先生の来る迄に帰り給へ。」「然さうかね。然さうしよう。」此間このあひだ滿谷が和田三造ざうの所へ行ゆくと来合せて居たモデルに和田が「イレエ、モンペエル」と言つた相さうだが、滿谷の今朝けさの寝起ねおき姿を見ると僕も「此この人はおれの父親おやぢだ」と一寸ちよつと言つて見たく成つた。

滿谷、徳永、柚木、長谷川の四人と一緒に出掛けた。長谷川丈だけはマチスの弟子分だと云つてよいヷン・ドンゲンの画室アトリエへ通ふのである。ドンゲンの事は去年サロン・ドオトンヌの批評の中で柏亭君が日本へ紹介したらうと想ふ。近頃巴里パリイでは斯かう云ふ新しい画家の画室アトリエへ通ふ青年画家が月毎ごとに殖ふえて行ゆく相さうだ。尤もつとも長谷川は斯かう言つて居る。「ドンゲンが新しいから通ふのぢや無い、又ドンゲンに心酔する程ドンゲンの絵が解わかつて居るのでもない。東京から巴里パリイへ来る画ゑかきが皆同じ老大家の所許ばかりへ集あつまるのも気が利きかないと思つて少し変つた人の所へ出掛ける迄だ。」と言つて居る。南北地下電車ノオルシユツドに乗つた。ロオランスの出るジユリヤンの画室アトリエの前にある珈琲店カフエエで皆𤍠い珈琲カフエエと麺麭パンとを取つて廉やすい朝飯あさめしを腰も掛けずに済すませた。

画室アトリエの入口の扉とを押すと月謝を納める所がある。狭い、穢きたない、薄暗い冷たい所だ。以前東京の神田あたりにあつた英漢数に国語簿記何なんでも教へる随意科の私立学校を聯想せずには居られなかつた。も一つ扉とを抽ひくと階下したは外の先生の出る画室アトリエで、朝の生徒が三十人程一人の男のモデルの裸を囲んで画架を立てて居る。引返して二階へ上あがつた。其処そこがロオランスの画室アトリエだ。同じく朝の組の生徒が二十四五人痩せた裸のモデル女を囲んで黙つて一所懸命に木炭をきしらせて居る。滿谷等が入学の日に大騒ぎをした呑気のんきな連中れんぢゆうだとは全まつたく思はれない。早速さつそく一緒に行つた諸君も画架に向むかひ始めた。四方の壁には天井に沿うて競技に一等賞を得た生徒の絵が掛つて居る。日本人では古い所で中林不折ふせつ、鹿子木孟郎かのこぎまうらう諸君のが一枚づつ、近頃で安井の絵が三枚何いづれも目に着く。ロオランス翁の来ると云ふ十時にならぬ前にジユリアンを出て、オデオン座の廊で書物や雑誌を買ひ、リユクサンブル公園をぶらぶら横断して小林萬吾まんご君の画室アトリエへ来た。叩くと、主人は扉とを細目に開あけて、

「やあ、今モデルが裸になつてる所だ。」

「仕事をしてるんですね。用は無いんだ。帰らう。」

「帰らなくてもいい。遊んで行いき給へな。僕は勝手に最もう少時しばらく仕事をするから、日本の新聞も来て居るよ。」

「それぢやあモデルには僕も画ゑかきだと云つて置いて呉くれ給へ。」と云つて僕は内へ入はひつた。小林は裸を描かき乍ながら話した。

「ルンプが急に独逸ドイツへ帰つたよ。君に宜よろしくと云つて、其れから写真代の取替とりかへとか割前わりまへとかを君に渡して呉くれつて預けて行つたよ。」

「帰るとは云つて居たが俄にはかに立つたんだね。伴つれて居たロオゼンベルグと云ふ女は何どうしたかしら。情婦いろをんなの様でも情婦いろをんなで無い様でも思はれたね。」

「僕は其その女をよく知らなかつた。」

「ルンプは伯林ベルリンでエミイル・オオリツクの所で一緒に絵を習つた相弟子だと云つて居たが、描かいた絵は見なかつたけれど、なんでも伯林ベルリンの女子美術学校を卒業したと云ふので、絹物の繍ぬひの図案のオリヂナルに富んで居た。下図は作らずに頭あたまから布へ打附ぶつつけに繍ぬひを遣つて居たよ。巴里パリイでも其その意匠を仕立屋タイユールへ売つて喰つてたらしい。頻しきりに日本に行ゆきたがつて居た。一寸ちよつと見識もある変つた女らしかつた。」

「ふん、そんな女だつたかね。ルンプも君此この秋は復また日本へ往くと云つてたよ。」

「僕にも然さう云つた。何でもルンプの考へでは此この秋に仏蘭西フランスと独逸ドイツとが確たしかに戦争すると云ふんだ。先生、兵隊だから召集を逃げる為に東洋へ往くと云つてた。親父の銭許ばかり遣つかつても居られないから、丁度ちやうど此頃このごろ巴里パリイの美術商が二三人組合つて革命騒動のどさくさ紛れに北京ペキンへ行つて支那の古い美術品を廉やすく買ひたい、其その顧問に成つて呉くれと頼んで居るのを機会に、一万円の旅費を出させて行いかうと今相談して居る、と話してた。急に立つたのは其それでも纒まとまつたのかも知れない。」斯こんな話をして居る内に小林は絵を描かき休めてモデルを帰した。其れから近所で麺麭パンと塩豚ジヤンポンとを買つて来て午飯ひるめしを食ひ初めた。

「今日けふは日本飯めしで無いね。」

「うん、僕が麺麭パンを食ふと言ふのは実際珍らしい。此この画室アトリエへ来て今日けふが初めてだ。夜分には例の土曜日に遣る日本飯めしの会が僕ン所であるんで和田、町田、大住おほすみなんて連中れんぢゆうが集まる。晩に御ご馳走があるから昼は淡泊あつさり済まして置くんだ。」

僕は買物を小林君に預けて置いて、以前から一度入はひつて見ようと思つてた、通りを一つ隔てた直すぐ前のモンパルナスの大墓地の門へ入はひつた。バウドレエルの墓が最初に解わかつた。墓碑には詩人の半身像を、墓の上には詩人の臨終の臥ぐわ像を刻し、臥ぐわ像の台石に小さく詩人の名と生歿の年月としつきとを記した丈だけで、外には何も書いて無い。墓地の大きな路みちの一つの突当つきあたりにあるのでよく人の目に着く墓だ。墓碑には青い蘿かづらが這上はひのぼつて居た。マウパツサンの墓が見附からないので広い墓地を彷徨うろついて探して居ると、瑠璃紺るりこんの皺だらけのマントウを被はふつた老人としよりの墓番が一人通つたので呼留よびとめて問うた。墓番は思つたよりも老人としよりで、酒の臭にほひをさせて居る。

「あなたは支那人かね、日本人かね。」

「僕は日本人。」

「日本はいい美しい国だ。わたしは以前歩兵ソルダアでね、横浜、それから江戸へ行つた。二ふた月滞在して居た。」

「それは珍らしい。幾年前まへ。」

「四十年前。いや、もつと前。あなたは日本の大使の墓をも訪とひますかね。」

僕は老人らうじんに導かれて千八百八十八年に巴里パリイで歿なくなつた全権大使ナホノブ、サメジマ君の墓を料はからずも一拝ぱいした。マウパツサンの墓の上には桃葉衛矛まゆみと狗骨ひいらぎとを植ゑ、後うしろの碑には名のみを太く書き、碑の前には開いた書物の形をした鋳銅ちうどうの上に生歿の年としだけを記したものが据ゑてあつた。狗骨ひいらぎは珊瑚珠さんごじゆの様な赤い実を着けて居た。僕は手帳の上へ老人らうじんに記念として名を書かせた。「エス・ブリゲデイエ」と署名して僕に幾度いくたびも声を出して読ませた。少し酔ぱらつて居る老墓守は「一九一二年三月三日か」と書くべき所を「一月三日か」と書いて平気で居た。

「お前さん、もう一人ひとりよい詩人の墓を訪とはうと思はないかね。」

「誰だね。」

「ル・コント・ド・リイル。名高い詩人。」

「おお、ル・コント・ド・リイル。僕はその墓が此処ここにあることを忘れて居た。シル、ヴウ、プレエ。」

老人は得意になつて案内して呉くれた。其れはマウパツサンの墓から遠くは無かつた。墓の上にはリラを植ゑ、後うしろの円い蝋石らふせきの碑の上には詩人の半身像が据ゑてあつた。また像を掩おほうて今は落葉おちばして居る一樹じゆの長春藤ちやうしゆんとうが枝を垂れて居た。ブリゲデイエ君に礼を云つて酒手さかてを遣らうとしたが中中なかなか頭かぶりを振つて受けない。西洋人としては珍らしい男である。強しひて老人の衣嚢かくしへ押込んで置いて早足に墓を出た。門を出る時一度振返つて見たら、よろよろして墓の奥へ入はひつて行く後姿うしろすがたが石碑の間へ影の如く消えた。古い仏蘭西フランスの歩兵よ、老いた墓守よ、僕に取つてお前は今から墓へ入はひつたも同じだ。もう再び会ふ日は無いであらう。(二月五日)

サン・ゼルマン

二月ぐわつに成つたら一層寒くなる筈はずの巴里パリイが今年は何どうした調子外れか好い天気が続いて僕の部屋などは煖炉シユミネを焚たかなくつてもいい様に成つた。少し街を歩けば外套が脱ぎたくなる程の温かさだ。斯かうなると何処どこか郊外へ出掛て思ふ存分日光に浴し新しい空気を吸つて、一月ひとつき以上陰気な巴里パリイの冬空と薄暗い下宿の部屋とに圧おさへられて居た気持を忘れたい。約束をして置いたら寝坊の九里りが遠方のカンパン・プルミエのアトリエから朝早く遺つて来た。案内をして呉くれる梅原は朝飯を食つて居るのか、お化粧に暇が居るのか容易に近所の家の七階にある頂辺てつぺんの画室アトリエから降りて来ない。サン・ラザアルの停車場ギヤアルから汽車に乗つたのは十時であつた。セエヌの下流は蛇が曲線を描いて走る形に紆廻うねつて居るので、汽車が真直まつすぐに其その曲線を突つき切つて三度河を渡るとサン・ゼルマンの街に着いた。巴里パリイから此処ここへは四十分で達せられる。土地の感じは京都から伏見へ行ゆくのと似て居る。昔の城や王政時代の離宮の跡などがある。旧ふるい街丈だけに何処どこか落着いて光沢つや消しをした様な雅がな趣おもむきが漂うてる。

停車場ギヤアルの前には御者ぎよしや台に鞭を樹たてて御者ぎよしや帽を被かぶつた御者ぎよしやが手綱たづなを控へて居る品ひんの好い客待まちの箱馬車が十五六台静かに並んで居た。直すぐ左手に昔の城を少し手入して其れに用ひた博物館がある。之これは仏蘭西フランス唯一の考古学的遺物の多い博物館として名高いものだ相さうだが、其れを観るのは再遊の時に譲つて僕等は街の中を何と云ふ当あても無く縦横に歩いて廻つた。割合に多い骨董商の店を覗のぞいて立止りもした。小学校の土塀の崩れから田舎ゐなかの小娘の遊んで居る群むれを眺めもした。此この街の人は我我われわれ外国人に対して少しも不思議相さうな顔をせず、格別振返つて見る者も無い。巴里パリイの場末の人間が妙な目附で覗のぞき込んだり「あれは支那人か」なんて後うしろで噂したりするのに比べて大変に気持がよい。一方の街外れへ来たら次第に坂路さかみちに成つた。セエヌが其処そこにも流れて居るのだらうと云つて降りて行つたが、河は無くて果はて知らぬ丘陵の間に野菜畑が続き、散らばつた百姓家やの庭で鶏にはとりが鳴いて居た。仏蘭西フランスの野は大体に霜が少すくないから草が何処どこにも青んで居る。白楊はくやうやマロニエの冬木立こだちに交つて最もう芽立めだちの用意に梢の赤ばんで居る木もあつた。とある矮ひくい石垣の上に腰を掛けた九里りは大きな煙管パイプを啣くはへて快こゝろよさ相さうに燐寸マツチを擦つた。

腹が減つたので異ちがつた路みちを登つて街へ引返したが、黒塗の大きな木靴を引ひきずつて敷石の上に音をさせ乍ながら悠然のつそりと歩く肥ふとつた老人が土地で一流の料理屋レスタウラン「アンリイ四世楼」を教へて呉くれた。此このサン・ゼルマンは一体に高い丘陵の上にある街だが、僕達が昼の食事をした其そのレスタウランは街外れにある名高い「サン・ゼルマンの森」を背にし、十七世紀にル・ノオル王が切り平ならさせたと云ふ横長い岡の上の一隅に建てられて、直すぐ下に浅黄あさぎ色のセエヌを瞰下みおろし、ペツク其他そのたの小さい田舎ゐなかの村を隔てて巴里パリイの大市街を二里の彼方あなたに見渡して居る。食堂では泊とまり客の英国人の大家族と、馬に乗つて来たらしい山高帽やまだかばうを被かぶつた四人の仏蘭西フランス婦人と僕等との三み組が食事をした。飲んだ葡萄酒は千八百八十幾年かの物であつた。

巴里パリイやセエヌや平原を眺め乍ながら二十町もある例の横長い岡の上を気永きながに歩き切つて、其れから名高い森の中へ入はひつて行つた。黒ずんだマロニエの木立こだちに白樺がまじつて居て落葉おちばの中に所所ところどころ水溜みづたまりが木の影を映して居る。縦横に交叉して居る大きな路みちは時時ときどき馬車の地響ぢひゞきを挙げ乍ながら、其その先は深い自然林の中に消えて仕舞しまふ。折折をりをり木靴を穿はいた田舎人ゐなかびとが通る。細君と娘とを伴つれて散歩して居る陸軍士官にも遇つた。九里くりと僕とは梅原から巴里パリイの芝居の話を聞き乍ながら歩いた。又何か冗談を言合つては晴やかに笑ふ事が出来た。先に横長い岡を歩いてる時うつかり僕が「気持のいい海岸へ来たね」と言つて笑はれ、森の木がどれも青い粉の様な苔こけを附けて居るのを「鶯餠うぐひすもちの木だ」と言つて又笑はれた。九里は又マロニエの幹を長い棒麺麭ぼうパン、梢の枝振えだぶりを箒、白樺を「砂糖漬の木」などと言つた。而さうして三人が歩き乍ながら、

森の、野のの上の、海岸の、

巴里パリイとセエヌを見下おろすサン・ゼルマン、

鶯餠うぐひすもちの、長い長棒麺麭ながぼうパンの幹の、

さうして箒のマロニエ、其れに交つた砂糖漬の白樺の棒縞ぼうじま。

斯こんな物を綴り合せて笑つた。後あとから思へばたわいも無いが、之これが、郊外を歩く伸のんびりした僕達の気分を其その刹那せつなによく現して居た。(二月八日)

文人ぶんじんの決闘

若手の戯曲作者として近年巴里パリイの俗衆に人気のあるガストン・アルマン・カイアヹエ君と、巴里パリイ唯一の芸術新聞コメデイアの記者で常に直截鋭利な議論を書く有名な若手の劇評家エミイル・マス君との間に決闘沙汰ざたが持上もちあがつて、その決闘が二月十六日の午前十一時からプランス公園の自転車稽古場ばの庭で行はれた。事件の原因は略して言ふと、カイアヹエ君の作つた「プリム・ロオズ」と云ふ平凡な脚本が俗衆の人気に投じたので、去年の冬以来引続き国立劇場のコメデイ・フランセエズ座で毎週に三四回も演じて其その度毎ごとに大入おほいりを占めて居る。マス君は其れを十数回に亘わたつて攻撃した。マス君の論旨は、政府の保護の下もとに設けられて居るコメデイ・フランセエズ座は普通の劇場と異ちがひ、他たの美術品を博物館ミユウゼで国家が保存する如く昔の天才の作つた芝居を保存する国立の博物館ミユウゼである。勿論新しい作者の戯曲を選択して世間せげんに紹介する事も国立劇場の目的の一部であるが、其れは他たの劇場の多数が争うて新作を紹介する今日こんにちに国立劇場が積極的に力を用ふべき所で無い。新作の価値の定まるのは時を要する。急いで博物館ミユウゼへ蔵をさめるには当あたらないと云ふのである。「プリム・ロオズ」の様な循俗じゆんぞく的な脚本が毎夜よの様に演ぜられて比較的第二流の俳優が登場し、名優ムネ・シユリイやル・バルヂイなどの得意とするコルネエユ、ラシイヌ、モリエエルなどの鉅きよ匠の作を演ずる日が削減されるのは遺憾なことであるから、マス君の議論は真しんに発言の時を得たものであつた。単に「プリム・ロオズ」の作者に向むかつて許ばかりで無く、芸術以外の情実に制せられる国立劇場の諸役員と芸術上の鑑識を堕落せしめつつある多数の巴里パリイ人とに向むかつて反省を促したのがマス君の諭旨であつた。カイアヹエ君もマス君も人気のある文人であり且かつ問題の関係する所が大きい丈だけに、マス君の議論が巴里パリイ人の視聴を惹いて何事か起おこらねば止まない気勢が予知せられた。果然二月十三日の晩フランセエズ座の見物席に腰を掛けて居たマス君の後うしろから肩を軽く叩いた一人にんの男がある。其その男と共に廊へ出たマス君は数語を交換した後で非紳士的な腕力の一撃を受けた。其その男はカイアヹエ君であつた。

両君が決闘するに到る迄の経過は以上の如くであるが、決闘沙汰ざたの伝はるに従つて周囲の騒ぎが大きくなり、之これに対する名士の批評が多く新聞紙上に発表された。識者の同情は概してマス君に傾いて居てマス君の議論に正面から反対する様な批評は一つもない。巴里パリイの批評家の団体はマス君の議論を正理の擁護だと非公式に認め、フランセエズ座の名優某は匿名の下もとに「カイアヹエ氏の十三日の夜よの行為は神聖なるモリエエルの家(国立劇場)を涜けがしたものだ」と述べ、また芸術専門の大新聞紙コメデイアの社長デス・グランヂユ氏は「マス君の議論は批評家としての権威の下もとになされたものだ。此この位の道理は肉屋の番頭にも解わかることだ」と云つてカイアヹエ君を揶揄やゆした。カイアヹエ君は又仲介者を立てて此この社長の文章を詰問して取消を請求したが、社長は応ぜざるのみか却かへつて仲介者を説服せつぷくした。仲介者はカイアヹエ君に手紙を送り「貴下が不名誉なりとせらるる所は我等の最早もはや立入るべからざる所に候そろ」と云つて其その任を辞した。カ君は更に社長へ直接手紙を与へて取消を求めたが社長は其その手紙に添へて「貴意には応じ難い。此この上は如何様いかやうの御お相手をも辞するもので無い」と言ひ切つた。カ君は社長とも決闘沙汰ざたに訴へざるを得ない形勢になつた。其処そこへマス君との決闘の日が来た。

決闘の模様を少し書かう。相手が互たがひに巴里パリイツ子同士、流行はやりツ児こ同士であり、其れが右様みぎやうの事情の下もとに行ふ決闘であり、其その上当日の決闘振ぶりが非常に壮烈であつたので、翌朝てうの新聞は何どれも決闘場ぢやうの写真を挿はさんで種種いろ〱と激賞の辞ことばを並べて居る。

大抵決闘場ぢやうは関係者以外へ秘密にして置くものだが、巴里パリイ人の注目して居る決闘丈だけに其その場所を嗅かぎ附けて二十三人の新聞記者、二十七人の写真師、五人の活動写真師が押寄せた。此この通り多数の見物人を集めた決闘は近頃稀有けうな事だ相さうである。決闘場ぢやうに立入る事を拒絶せられた写真師等は何どうして空むなしく引取るものか、早速さつそく近所の喫茶店キヤツフエから長い梯子はしごを奪ふ様に持出して自転車稽古場ばの亜鉛とたん屋根へ沢山たくさんの写真機を据ゑて仕舞しまつた。

戦士は各おの〱二人の立会人と一人の外科医と五六の親友とを従へて到着した。武器としては双方長い剣を択えらんだ。立会人等は協議の上二回迄の対戦を承認した。決闘場ばの土地の検案が済まされ、両者の剣が砥がれた。戦士は向むかひ合つた。カイアヹエ君は偉大な体格をして態度の沈着な男、之これに反してマス君は日本で言へば正宗白鳥はくてう君の様に優形やさがたな小作こづくりの男で、一見神経質な、動作の軽捷けいせふな文人である。但ただし白鳥はくてう君には髭が無いけれどマス君には後うしろへ撥はねた頤髭あごひげがある。見物人には一撃の下もとにマス君が敗やぶられ相さうに危あやぶまれたが、併しかしマス君は見掛に寄らず最後まで勇敢に戦つて立派に名誉を恢復くわいふくした。

「行ゆけ、両君」と叫ぶ第一回の指揮者ランナウ君の声が沈黙を破つた。剣と剣とは半なかば曇つた二月の空に屡しば〱相触れて鳴つた。間隙すきの無い見事な対戦に観る人の心は胸苦むなぐるしい迄緊張した。マス君は屡しば〱真直まつすぐな鋭い剣を送つたが、偶たま〱其れを避け外したカ君の右腕うわんから血が流れた。可かなり深い負傷であるに拘かゝはらずカ君は戦闘を続けた。何どうした機会はずみかカ君の剣が中程から折れて敵手てきしゆの上に飛んだ。其その刹那せつな人人は鋒尖きつさきが必定ひつぢやうマス君の腹部を突通つきとほしたと信じた。中止の号令が下くだつた。併しかし底本では「併し」は「併人」折れて電光の如く跳おどつた鋒尖きつさきはマス君の袴パンタロンを列はげしく割さいたに過ぎなかつた。人人は奇蹟の様に感じてホツと気息いきをついた。

カ君は新しい剣を執つた。今度はドルシエエル君の指揮の下もとに第二回の決戦が開かれ、互たがひに巧妙な突撃と迅速な回避とを交換して第一回にも優る猛烈な戦闘を続けて居る中うち、マス君は右腕うわんに二回迄敵刄じんを受けた。「止とまれ」の声と共に決闘は終つた。医師は急いで両君に繃帯を施し、立会人等は官衙くわんがへ差出す始末書を認したゝめて署名した。併しかしカイアヹエ君とマス君とは此この決闘に由よつて満足するを肯がへんじない。其れで和睦の握手を交換する事なく武装を解くに到らずして各おの〱自動車に乗つて別れて仕舞しまつた。

若もし之これに続いてカ君とコメデイアの社長との決闘が行はれ、凡すべてにカ君が抑遜よくそんの態度を示さず、フランセエズ座が此この問題の騒ぎの中にも猶なほ「プリム・ロオズ」を演じて居る如き執拗を改めないなら、批評家対戯曲作者及び国立劇場役員の葛藤は益ます〱渦巻が大きくなるであらう。マス君は決闘のあつた翌朝てうの新聞にも国立劇場に与ふる論文を公おほやけにして「新作の劇はスフインクスである。永久の傑作であるか何どうかを容易たやすく決し難がたい物に一週三四回も国立劇場を使用する事は無法だ。又国立劇場は私利を営む性質の芝居で無い。役員及び俳優が純正な戯曲に対する尊敬を忘れる場合に其れと抗論する為に政府は劇場監督を置いて居る筈はずだ」と云つて正面から攻撃の鉾を劇場の監督デイレクトユウルに向けて居る。(二月十八日)

謝肉祭キヤルナヷル

待ち焦こがれて居た二月二十日はつかの謝肉祭キヤルナヷル、その前後五日いつかに亘わたつて面白かつた巴里パリイの無礼講の節会せちゑも済んで仕舞しまつた。可かなり謹厳な東洋の家庭に育つて青白い生真面目きまじめと寂しい渋面じふめんとの外に桃色の「笑わらひ」のある世界を知らなかつた僕が、毎夜よグラン・ブルヷアルの大通おほどほりの人浪に交つて若い巴里パリイの女から「愛らしい日本人」斯こんな掛声かけごゑとコンフエツチの花の雪とを断えず浴びせられて、初はじめの程こそ専ら受身で居たが、段段だんだん攻勢に転ぜざるを得ない気分に成つて大きなコンフエツチの赤い袋を小腋こわきに抱へ乍ながら相応に巴里パリイの美人へ敬意を表して歩いたのは、若返つたと云ふより生れ変つたと云はうか、満三十九年間(一寸ちよつと欧羅巴ヨウロツパ風に数へて)全まつたく経験しなかつた無邪気な遊びであつた。女装をした男や男装の女の多いのは勿論、頗すこぶる振ふるつた仮装行列や道化ピエロオが沢山たくさんに出た。男女なんによの大学生が東洋諸国の風俗に扮して歩いて居るのも見受けた。其その中に日本の陣羽織を着て日本刀を吊した若い女をんな大学生と話して歩いて頻しきりに笑つて居たのは和田垣博士であつた。全身をアラビヤ人風に塗つて大きな作り鼻の中へ電灯を点つけた二人ふたりの男が相抱いだいて舞踏し乍ながら巧たくみに人込の中を縫つて早足に行ゆき過ぐるのは喝采を博して居た。天下晴れての無礼講だけに見知らぬ女を抱きかかへて厭がるのも構はず頬摺ほゝずりをして歩く男も多い。若い男かと見るとシルクハツトを被かぶつた生真面目きまじめな顔附の白髪の紳士も混つて居る。又孫の一人も有らうと想はれる老夫人が済ました顔をし乍ながら若い男と見ればコンフエツチを振撒ふりまいて行ゆく。僕にも或ある婆さんが振撒ふりまいたから追掛けて行つて襟元へどつさり入れて遣ると「メルシイ」と礼を言はれた。巴里パリイ人の事だから無論多少の酒を飲んで居るに関かゝはらず日本の花見に見受ける様な乱酔者ゑつぱらひは全まつたく無い。従つて執拗しつこく悪巫戯わるふざけをする者が無く、警察事故も生じない。巡査や憲兵までがコンフエツチの攻撃に遇つて莞爾にこ〱して居る。僕は梅原、九里の二人ふたりと伴立つれだつて歩いたが、行ゆきちがひざまに僕の頬ほつぺたへ頗すこぶる野蛮なコンフエツチの投げ方をする者があるから、振返つて応戦しようと思ふと其れは滿谷、徳永、柚木などの日本人であつた。毎夜よ珈琲店キヤツフエに夜更ぶかしをして帰つて寝巻に着替かへようとする度、襯衣しやつの下から迄コンフエツチがほろほろと飜こぼれて部屋中に五色しきの花を降らせた。併しかし巴里パリイで第一に盛さかんな祭は三月のミカレエムだと云ふ。其その頃は女の服装が一変するから色彩の点からも華やかな節会せちゑであらう。(二月二十七日)

芝居の後のち

ユウゴオの百十回の誕生日(二月廿六日)の晩、文豪の遺作「楽たのしめる王」がコメデイ・フランセエズで演ぜられ、ムネ・シユリイのサン・ヷリエ、女優ゼニアのブランシユ、シルヷンの茶坊主ツリブレ、フヌウのフランソア一世と云ふ、仏蘭西フランス現代の劇壇で全まつたく申分まをしぶんの無い役割であつた。今夜の観客くわんかくには学者、芸術家、政治家が多数を占め、中には其その若盛わかざかりの日からユウゴオの讃美者であつたらしい白髪の貴婦人連れんも交つて居た。幕間まくあひにサロンや廊を逍遥する群衆の中に平生と異ちがつて時代遅れの服装や帽が際立つて多く目に着くのは、然さう云ふ点に案外無頓着な学者芸術家の気質を自然に現して居た。

最後に文豪に対する荘厳な礼讃式クロヌマンが行はれた。ユウゴオの誕生日に国立劇場で之これを行ふのは千九百二年以来の事ださうだが、今年のクロヌマンには舞台の中央に据ゑたユウゴオの彫像の向むかつて右に女優ヱベエル、パウル・ムネ、シルヷン、女優ドユツサン、女優ゼニア、左には女優ララ、フワルコニエ、フヌウ、ムネ・シユリイと云ふ順で並び、背後には今夜の芝居の五幕を通じて登場した俳優の凡すべてが控へて居た。式長はムネ・シユリイである。ヱベエル、ララの二女優が文豪を讃歎する二篇の詩を交代に歌つて満場総立そうだちの拍手の中に式が終つた。

廊へ出て預けた外套を受取つて居ると、同じく見物に来て居たドリヷル君が梅原の肩を叩いて「一寸ちよつとムネ・シユリイに会つて行ゆかないか」と云ふ。ドリヷル君はポルト・サン・マルタン座に居る知名な壮年俳優で、ムネ・シユリイの弟子分丈だけに悲劇を得意とし、近日此この国立劇場へ選ばれて入はひると云ふ評判のある男だ。梅原と僕とはドリヷル君の後あとに従ついて楽屋へ入はひつて行つた。

悲劇役者としてタルマ以後の天才と称せられる老優の楽屋が案外狭くして質素なのに先まづ驚いた。纔わづかに六畳と二畳とに過ぎない部屋は三面の鏡、二脚の椅子、芝居の衣裳、鬘かつら、小道具、其それから青枯がれた沢山たくさんの花環はなわとで埋うづまつて居る。ムネ・シユリイはドリヷルの細君と若い女をんな弟子のジヤンヌ・ルミイとに世話せられて着替をして居る所であつた。ドリヷルが紹介すると、老優は上着を着終るのも待たず白襯衣ブランシユシユミイズの上へ袴パンタロンを穿はいた儘まゝ、ロダンの彫像が動き出した様な悠然のつそりした老躯を進めて、嵐の海の様に白い大きな二つの僻ひがら目で見下おろしながら、赤い大理石のやうな頬と白い頤髯あごひげとの間に温かい高雅な微笑を湛へて僕等と握手をした。老優の大きな手は僕の手よりも𤍠かつた。

ドリヷルは梅原が優いうの𤍠心な崇拝者であることを告げて、優いうの扮ふんする「エジプ王」の如きは三十回以上も見物して居ると語つた。ムネ・シユリイは傍そばに立て掛けてあるエジプ王の持つ黄金の杖やエルナニの剣などを手づから取つて僕等に見せ、日本でユウゴオ物を演じるかと問うた。梅原が近頃エジプ王を訳したが其れに優いうの型を書かき加へて日本へ紹介する積つもりだと言ふと、ムネ・シユリイは喜んで「型の解わからない所があつたら自分に聴いて呉くれ」と言つた。又名優タルマの持物であつた外套用の大きな釦ぼたんを見せて「之これは自分に気持がよいからエジプ王に扮する場合に何時いつも用ひて居る」と語り、其れから「今日けふ一つタルマの遺物を買つたが」と云つてムネ・シユリイ自身も、ドリヷル夫婦も、女優も、今一人楽屋に来て居た若い女をんな画家も一緒に成つて少時しばらく探して居たが、其れは置所おきどころを忘れて見附からなかつた。

ムネ・シユリイは「何か淡白あつさりした夜食を一緒に取らう」と言出した。出口の階段を降くだる時以前は此処ここにタルマの彫像を据ゑてあつたが、ムネ・シユリイが昔国立劇場へ入はひる事になつて初めて宣誓式の為に此処ここへ遣つて来た時何どうした機会はづみかタルマの像が動いた。其れが感激に満ちたムネ・シユリイの若若わかわかしい心にはナポレオン一世時代の名優が自分に挨拶をした様に思はれた。之これを聞きゝ伝へた世人せじんはタルマ自身に匹敵する悲劇役者が国立劇場へ加はつたのを故人の霊が喜んだのであらうと評判した。此この有名な話をドンリヷルが僕等に語ると、ムネ・シユリイは微笑ほゝゑんで「然さうだ、全まつたくタルマがボン、ジユウルと言つて頷うなづいた様に感ぜられた」と云つた。

芝居前まへのキヤツフエ・ド・ラ・レジヤンスは俳優やくしやと芝居帰がへりの客とで一ぱいであつた。ムネ・シユリイは其その左に梅原を右に僕を坐らせた。前には三人の女、僕の隣にはドリヷルが坐つた。女優のルミイ嬢が隣の部屋に見える大理石の卓に赤い紐を巻いたのを僕等に示して「あれがタルマの用ひた食卓です。」と云ふと、ドリヷルが「今にムネ・シユリイの此この食卓もあの様に飾られるのだ」と云ふ。此この家はナポレオンが最も好んで食事をしに来た家だと云ふ様な話も出た。其処そこへシルヷンが細君と入はひつて来た。又女優のゼニアが良人をつとの伯爵に手を執られて入はひつて来た。皆ムネ・シユリイに挨拶をして通つて行ゆく。ドリヷルがシルヷンに声を掛けて「あなたの今夜の出来は結構でした」と言ふと、シルヷンは「馬鹿を云つてはいかん。そんな御お世辞を言つて呉くれるな。舞台で稽古をする暇ひまが無かつたので自分の宅でほんの型丈だけの稽古をした。其れで全まつたく今晩は物に成つて居なかつた」と云つた。

ムネ・シユリイの選んだ夕食スウペの種類が一寸ちよつと変つて居た。「アツセ・アングレエズ」、「サラド・ルツス」其れからサンドヰツチを油で揚げた様な物で名が解わからないから仮かりに梅原が名を附けた「サンドヰツチ・ムネ・シユリイ」に「タルト」と云ふ菓子。酒は麦酒ビエエルの外に「シヤルト・リユウズ」、「コアント・ロオ」、「チユリツプ・セリ」の三種。ムネ・シユリイは孫にでも対する様に皆の杯さかづきへ一一いちいち楽し相さうに手づから酒を注ついだ。

話しが画ゑに移つてムネ・シユリイは梅原に「自分の肖像を描かいては何どうだ」と云つた。ドリヷルが「先年瑞西スヰスのベルンの旅先で偶然マネの絵の掘出物ほりだしものをして纔わづか四十フランで買つて来たが、或ある手筋の人に望まれて三万四千フランで手放した」と云ふ様な事を話す。ムネ・シユリイは「自分にもそんなのを見附けて呉くれ」と云つて笑つた。ドリヷルは又「仏蘭西フランスの南部の例へばツウルウズ辺へんへ行ゆくと現代の老大家の絵を掘出す事が多い。ルノワアルの絵を八千フランで買つた事もある。ロオランなどの作も多い」などと話した。

話が服装の上に移つた。ムネ・シユリイは「女は未まだ好いが、欧羅巴ヨウロツパの男の今日こんにちの服装は実にきたない。日本の男でも欧洲の服を真似て着るのは賛成が出来ない」と言つた。其その時あちらの隅の方に居た紳士で象皮ざうひ病か何かで頤おとがひと喉とが瘤こぶで繋がつた男が僕等の横を通つて帰つて行つた。女達は目を下に伏せて戦をのゝく様な身振をした。「今の病人の見苦ぐるしいのを御ご覧に成りましたか」とドリヷルの細君が問ふと、ムネ・シユリイは「いや御お蔭で見なかつた。自分はそんな穢きたない物は大嫌ひだ。」

ムネ・シユリイは又ユウゴオに就ついていろいろ話した。文豪の大食たいしよく家であつた事などをも話した。或ある晩ユウゴオの宅へ芝居の関係者が招かれ、故人になつた名優モオヷンが主人の右に、ムネ・シユリイが左に坐つて居た。或ある劇場監督デイレクツウルの事に就ついて議論のある晩でムネ・シユリイは黙つて聴いて居たが、食事の終しまひ際にユウゴオが「君はデイレクツウルと云ふ職を何と考へるか」と訊たづねたので、「自分は非常に厄介やくかいな職業だと思ふ」と答へた。すると、ユウゴオは「君の厭味いやみは尤もつともだ」と言ひ乍ながら前の大きなトマトを取つて一口に頬張り二三度もごもごさせた儘まゝ嚥下のみおろして仕舞しまつたのは今でも目に見える様だと云ふ。夜が更けたので次第に客は帰つて行つた。ムネ・シユリイを囲む僕等の一卓丈だけは益ます〱話が蕭しめやかに進んだ。ムネ・シユリイは幾度たびも煙草たばこを取つて皆に勧めた。巴里パリイに着いて以来煙草たばこを吸はなく成つた僕は燐寸マツチを擦る役をしてムネ・シユリイや女達に点つけて遣つて居た。

ムネ・シユリイは「おお今夜は好い記念を持つて来て居た」と云つて、有名な皺だらけのフロツクコオトの内衣嚢うちがくしから一通の手紙を取出した。ユウゴオが王党の一人として流謫りうてきせられて居た英仏海峡の島からムネ・シユリイに寄せた物である。其れをドリヷルが朗読した。文豪の作「マリオン・ド・ロルム」を巴里パリイで舞台に上のぼすに就ついて作者の注文を述べ、又口を極めてムネ・シユリイの技倆を賞讃し、配所に在る身は巴里パリイに帰つて親しく其その劇を観る事の出来ないのを悲しむと言つてある。其その日附は千八百七十三年一月十日かで、ムネ・シユリイの三十三歳の春に受取つた手紙であつた。

ユウゴオの「リユイ・ブラス」をムネ・シユリイが演じる相談の時に文豪は自分の前で朗読して見て呉くれと云つた。ムネ・シユリイの朗読を最初の中うちは全まつたく沈黙して聴いて居たが、三幕目の中程、皇后ドナが「なぜ君は神様の様にそんなに偉大に、そんなに怖おそろしく見えるのでせう」と云ふと、リユイ・ブラスが「其れは自分が君を恋慕ふからだ。それは自分が凡すべての嫉妬を感じてるからだ」云云うん〱と云ふ好いい長台詞ながぜりふの段に成つて、ユウゴオは初め「其れは自分が君を恋慕ふからだ」を「もつと高く言へ」と言ふ。三四回読み直したが未まだ気に入らないで「もつと、もつと高く」と云ふ。ムネ・シユリイは「然さう初めの出でばかりを弥囂やかましく言はないで、姑しばらく待つて、次の句を皆言はせて下さい。然さうしたら何か貴下あなたが発見なさるでせう」と云つて読み続けた所が、果してユウゴオが感服して呉くれた。以前フレデリツク・ルメエトルが演じた時其処そこの調子が冷ひややかに低くて作者の𤍠烈な気持ちが出なかつたのをユウゴオは記憶して居て、其その段を自分に巧うまく遣らせやうと思つて其その様に気にしたらしいとムネ・シユリイは話した。「併しかしルメトルは立派な俳優アクツウルであつた」と云ひ、其その死んだ時に、今のアカデミシヤンである詩人ジヤン・リシユパンが未まだ其その頃は人の目に立つ若若わかわかしい美男で、自作の挽詩ばんしを棺前くわんぜんで読んだが、会葬者の中に居たユウゴオが其その詩を褒ほめたので、自分は其その場でリシユパンを文豪に紹介したなどとも語つた。

広いキヤツフエの中に僕等の組しか話して居ない事に気が付いて帰り支度じたくをした時は翌日の午前四時前であつた。戸口を出掛でがけに「うつかり話が面白かつたので遅くなつて済まない」と謙遜なムネ・シユリイは送つて出た主人に挨拶した。主人は外套を着せ掛け乍ながら「貴下あなたには何どんな事があつても苦情は申しません」と言つて居た。老優はルミイ嬢と自動車に乗つた。あとの僕等と女画家ぢよぐわかとはドリヷル夫婦の自動車に相乗のりしてモンマルトルへ帰つた。文豪の誕生日の一夜やを想ひ掛がけなく斯様かやうに面白く過ごしたのは栄誉である。而さうして此この日は僕の誕生日でもあつた。(二月二十八日)

巴里パリイのいろいろ

(一)

昨日きのふ巴里パリイの郊外で十九歳の女流飛行家シユザンヌ・ベルナァル嬢が飛行機から落ちて死んだ。飛行機𤍠の最も盛さかんな此この国では平均して毎月二人の男の飛行家が横死を遂げる比例になつて居るが、女をんな飛行家の死んだのは去年六月のドニイ夫人を始めとして之これが二度目である。嬢は飛行機に対する非常な𤍠心家で専ら其その方の研究の為にトロイと言ふ田舎ゐなかから上のぼつて来て、丁度ちやうどドニイ夫人の亡くなつた月から飛行機に乗り初めたのであつた。岩石の上に落ちたので顔や額が滅茶滅茶に裂けた。序ついでに女の飛行家は未まだ巴里パリイに十人程しか無い。但ただし飛行機に同乗して遊ぶ女は無数である。

此間このあひだ某新聞が男の髭ひげに対する女の感想を知名な女優から聞いて発表したが、大抵無用な物だと云ふ意見に一致して居た。其その理由は接吻に不便だと云ふのが主しゆで、装飾としても野蛮時代の遺風であり、又寧むしろ之これあるが為に男を醜くして居ると云ふのである。中には保存して置いても可いいが、も少し香料でも余計に附けて手入れを好くして欲ほしい。一般に仏蘭西フランスの男の髭ひげは悪い臭にほひがすると云ふ答もあつた。

春になつたので女の装飾が大分だいぶ変り出した。縁ふちの狭い頭巾帽トツカが止やまつて縁ふちの広い円帽シヤポウに移つて行ゆく。日本の兜を模した帽の形も最もう流行遅れとなつて、横に高価な極楽鳥の羽を附けた物や、鳩の羽を色色いろいろに染めたのを附けた物などが盛さかんに行はれる。併しかし是これ等は従来から有つた型で今年の新流行と云ふ物は未まだ出ない様だ。併しかし明日あすにも屹度きつと帽子屋が新形がたを拵こしらへて知名な女優に贈り夫それを被かぶつた姿を写真に撮とらせて貰つて一般に流行はやらせる事であらう。

マタン紙上で今年ことしの流行服の予想を各女優から聞いて公おほやけにして居る。日本の「キモノ」から影響せられて細くなつた裳ジユツプの形かたは未まだ当分広くなるまい。其れで裳ジユツプには改良の余地が一寸ちよつと見付からないが、盛装ロオヴの裾に幾段も襞ひだを附けたり、又其その裾に異ちがつた切目きれめを附けたりするので一生面せいめんを開くであらう。而そして白又は金茶が流行の色となるのであらう。これが多数の予想である。何いづれ四月の各雑誌に流行服の写真が幾種も公おほやけにせられ、其れを見て米国の贅沢ぜいたく女が電報で註文し、仮縫を身に合せ旁かた〲巴里パリイ見物に続続ぞくぞく遣つて来ると云ふ段取だんどりである。

僕は折折をりをりスルボン大学を覗のぞきに行ゆくが、東京の帝国大学の講師をして居た事のある、而そして神道しんだうに関する書物を去年巴里パリイで著したルボンと云ふ博士はかせが日本の神話と文学史とを講じて居る。平凡な講座だから男の聴衆は全まつたく無いが、五六人の女をんな大学生が何時いつでも𤍠心に筆記をして居るのを見受ける。

此間このあひだ一年に幾度か催す日本人の会合のパンテオン会が和田三造の幹事で行はれた。僕はコメデイ・フランセエズ座へユウゴオの「エルナニ」を観に行つたので欠席したが、和田垣博士初め三十幾人の出席者があつて色色いろいろの隠し芸が出たと云ふ事だ。現に巴里パリイに在留する日本人は百名近ぢかくあつて、其その内大使館で何か催す場合に招待せうだいを受ける資格のある者が六十人位ある。其その外の四十人には日英博覧会に遣つて来て帰りはぐれた芸妓げいしやや相撲なども混じつて居ると云ふ事だが、其その連中れんぢゆうは何処どこに何をして居るのか頓とんと僕らの目には触れない。此この二月まで巴里パリイから汽車で五時間かかるツウルに居た和田垣博士の話に、ツウルへ日本の芸妓げいしやが来て居ると或ある人が云ふので、潯陽江上じんやうかうじやうの女では無いが異国へ流れ渡つて居る女に逢ふのも奇遇だと考へて、一寸ちよつと朝の時間に会ひたいと云はせると、女は待つて居るから来て呉くれよと云ふ返事だ。物好きに出掛けて見ると其れは此律賓フイリツピンの女であつた相さうだ。日本人だと云はないと景気がよくないので日本人で通して居るのであらう。現にモンマルトルの或ある寄席よせに出て居る支那人の曲芸師の一座なども日本人だと称して居る。

僕は此この前の日曜に倫敦ロンドンから来た二人の友人と一緒に、一時間で往復のできるヹルサイユへ見物に行つた。瀟洒せうしやとした仏蘭西フランスルネツサンス式の、大理石づくめの宮殿の立派さと、自然林の中に池と噴水を満たした庭園の大規模とに、ルイ十四世時代の栄華を驚歎せずに居られ無かつた。宮殿は博物館ミユウゼになつて居て各時代の戦争画を多く蔵をさめて居る。但ただし画ぐわとしては殆ほとんど価値のない物だ。最上層の明るい一室では美しい女王ぢよわう達の肖像画に並んでバウドレエル、シヤトウブリヤンなどの文人の肖像画もあつた。池の辺ほとりを逍遥して古い石像の欠けたのなどを木立こだちの中に仰ぎ、又林の中に分入わけいつて淡紅たんこうの大理石を畳んだ仏蘭西フランス建築の最も醇化されたトリアノンの柱廊に倚より掛り、皇后ジヨセフインに別れた奈破翁ナポレオン一世や、前の夫人に死しに別れたモリエエルが常に此処ここへ来て楽たのしまぬ心を慰めたと云ふ話をし乍ながら、少時しばらく柔かい春の初めの入日いりひに照てらされて居た。(三月十一日)

(二)

マロニエの木立こだちが一斉に嫩やはらかい若葉を着けたので、巴里パリイの空の瑠璃るり色の澄すみ渡つたのに対し全市の空気が明るい緑に一変した。之これが欧洲の春なのであらうが僕等には冬から直すぐに初夏はつなつが来た気がする。どの公園へ行つても木蔭にチユウリツプが咲いて居る。立木たちきの花は甚だ尠すくない、純白の八重桜に連翹れんげうと梨位ぐらゐのものである。東洋の様な鶯うぐひすは啼なかないが、メルルと云ふ鳩の形をした鶯うぐひすの一種が好いい節ふし廻しで啼なく。一日にち、ペエエル・ラセエズの大墓地へ入はひつて行いつたら、文豪ミユツセの墓に一株の柳が青んで文豪の彫像を掩おほうた其その枝にメルルが啼ないて居た。立たち寄つて碑面を読むと「わが死なば墓には植ゑよ、ひと本もとのしだれ柳を。わが為にその這はふ影の、軽やかに優しからまし」といふ文豪の遺作が刻してあつた。モリエエルとラ・フオンテエヌの墓が並んで居る。聞けば最初に此この墓へ葬られたのがモリエエルであつたと云ふ。画家のコロオやフルギエエルの墓なども目に附いた。

好い天気が続くので下宿の窓から眺めて居ると、彼方此方あちらこちらの家で大掃除が始はじまり色色いろいろの洗濯物が干される。寝台ねだいの藁蒲団までが日に当てられる。一体に巴里パリイの女の掃除好ずきな事は京都の女と似て居る。或ある日僕が夜よに入いつて帰つて見ると僕の乱雑にして置いた部屋が見違へる程整理せられて居た。留守中に主婦のブランシユが女中を指揮して大掃除をして呉くれたのであつた。僕は日本に居て自分で手を下くだす外誰にも書斎の物の位置を替へさせ無かつた程の疳性かんしやうだのに、此この主婦の大掃除の仕方は全然僕の気に入いつて仕舞しまつた。僕自みづから整理に取掛つても是これ以上には出来ないと思はれた。併しかし困る事には不潔と云ふ事の感じが大分だいぶに日本人と異ちがつた点がある。仏蘭西フランス人の多数が便所へ行つて手を洗はないのは何よりも驚かれる。尤もつとも手洗所の設備が次第に普及して行ゆくやうだから衛生的に新しい習慣が生じつつあることは十分に想像せられる。其れから主婦や女中が洗濯するのを見ると食器を洗ふ流しの石で汚れ物を揉もんで居る。其れから大きな瓦斯竈ガスがまの上へ綱を渡して其その洗濯物が干される。下では色色いろいろの煮物の鍋が口を開あいて湯気を立てて居る。上の綱から女の襯衣シユミイズや猿股キヤルソンの雫が滴らないとは誰が保証しやう。

僕の隣の部屋へ一月前から移つて来たピエルと云ふ青年は地方官の息子だが、女の為に巴里パリイの大学を中途で止よして親父おやぢの仕送しおくりで遊んで居る男だ。直すぐ近所にある有名なモニコと云ふ酒場キヤバレエの若い踊子を落籍ひかせて細君にして居る。僕は近頃此この若夫婦と一緒に食卓に就くが、文学好ずきなピエルはいろんな文学者の逸話などを聞かせて呉くれる。又春に成つたので瑞西スイスのジユネエブ湖畔に隠居して居る下宿の主婦の老母が娘の家へ遊びに来て滞在して居る。亡くなつた良人をつとが辞書などを著した学者であつた丈だけに婆さんも中中なか〱文学好ずきで、僕の為にいろんな古い田舎ゐなかの俗謡などを聞かせて呉くれる。此この婆さんが滞在中寝て居る部屋を見せて貰つたが、下宿の一番頂辺てつぺんにある謂いはゆる屋根裏で、二畳敷程の所に寝台ねだいも据ゑてあれば洗面の道具も揃つて居る。矮ひくい天井に只一つ小さな硝子がらす窓があつて寝ながら手を延のばせば開閉あけたてが出来る。昼は其その窓から日光が直射し、雨の晩などは直すぐ顔の上へ音を立てて降り掛かゝる様で眠られない相さうである。主婦に聞くと一箇月の部屋代が僅か一フランだと云ふ。四十銭で兎とに角かく巴里パリイに一箇月寝泊とまりが出来る部屋があるかと想へば僕等の貧乏な旅客りよかくには難有ありがたい気がした。

此この婆さんを下宿の主人夫婦が大切にする事は日本の美しいと云はれる家庭でも余り見受けない程である。三度の食事が婆さんが来た為に一度増して午後五時頃に簡単な淡泊あつさりした食事が婆さんに出る。其れに招伴せうばんをする者は主婦と、特別に下宿人の中から僕一人が選ばれる。主婦は毎日早起はやおきをして天気さへ好ければ婆さんを馬車や自動車に乗せて散歩に伴つれて行ゆく。芝居へも度度たびたび一緒に行ゆく。ヹルサイユなどの郊外の遊覧地へ巴里パリイから写真師を伴つれて行つて婆さんと二人で好きな場所で写真を撮らせて来たりなんかする。平生から快濶な主婦が母親が来たので一層はしやいで居る。婆さんの前では小娘の様に嬉うれし相さうな顔附かほつきをして物言ものいひも甘えたやうな調子である。そして一日に幾度どとなく額や手に接吻を交換して居る。欧洲に孝道が無いなどと云つた日本の学者を笑はずに居られない。(四月十二日)

(三)

四月に入いつて俄にはかに雪が降つた程寒い変調な朝があつた。僕は其それから喉を脹はらして発𤍠して居たのを押してアンデパンダンの絵の展覧会を観に行つたりなんかした。春の人出を見にブロオニユの森へ自動車を駆かりもした。幾つかの大きな雑貨店マガザンへ入はひつて女が春着はるぎの買物をする雑沓ざつたふをも観た。其れでとうとう四日よつか目の晩から寝込んで仕舞しまつた。𤍠が高い。女中のマリイに町医者を喚よばせたが、余り信用の置けない医者で、喉を焼く代りに臀部へ皮下注射をして帰つて行つた。其その医者の処方で幾種かの薬を買はせて飲んで居たが𤍠は降くだらない。医学士大久保榮さかえ君が一昨年此処ここの病院で腸窒扶斯チブスで亡くなつたことや、此処ここで亡くなつた日本人の遺骨が数日前ぜんペエル・ラセエズの墓の棚の上に置かれてあつたのを見たことやを聯想れんさうして、一人ひとり卑怯未練な顔附かほつきをして居ると、梅原君が尋ねて来て驚いて色色いろいろと世話をして呉くれる。早速さつそく医者を取換へようと云ふので同君の親しくして居るル・ゴフさんを迎へに行つて呉くれた。日本大使館へも十五年来出入しゆつにふし、日本赤十字社の特別社員にも推薦されて居る医者である。ル・ゴフさんは度度たびたび来て呉くれた。「ツウジガアリマスカ」などと少しの日本語が出来る。此人このひとは梅毒とリウマチスとの治療が得意なので其その家へは男女の梅毒患者が多く行ゆくと聞いて、神経の昂たかぶつて居る僕は喉を焼いて貰ふ度に其その器械が無気味でならなかつた。其れから日本で喉を焼けば直すぐ含嗽うがひをするのだが、此この医者はぐつと嚥下のみおろして仕舞しまへ、然さうすると薬が喉の奥へ善く浸しみ込むからと云ふ。随分悪辣あくらつな治療法である。

ル・ゴフさんの処方で病気が癒なほつたので再びアンデパンダンの絵を観に行つた。セエヌ河の下流の左岸の空地くうちに細長い粗末な仮屋かりやを建てて千七百点からの出品が陳ならべてある。会の名の示す如く飽く迄放縦な展覧会で、三十フランさへ添へて出せば何人なんびとでも三点の出品が出来、三点を超過する毎ごとに三十フランを増して出品すれば幾点でも採用される。選択も無ければ審査も授賞も無い。黒人くらうとも素人しろうとも玉石混淆こんかうである。絵が主しゆであるけれど、彫塑や其他そのたの工芸美術品も対等の取扱を受けて毫がうも会自身に価値を定めようとする所が無く、全まつたく観衆の批評に一任して居る。絵の取材に概して東洋(日本をも含む)諸国や南洋の風俗自然が多いのは此この会ばかりで無く、立体派、後期印象派、未来派は勿論、一般に此この国の絵に共通した近頃の一特色であらう。アンデパンダンと云へば怪物おばけの様な奇体な絵が多い様に想はれるが、実際は純正な絵が多く、純正なおとなしい絵が土台に成つて奇抜な新画を作らうとして居る。拙まづい画家も上手な画家も皆自分の心の赴く儘まゝに筆を動かして真面目まじめに自分の世界を作り上げることを楽たのしんで居る。自分達の生生いきいきした生活を発揮する事が如何いかにも著しく楽し相さうである。恐らく彼等の間に所謂いはゆる天才は少すくないであらう。併しかし彼等は僕等と同じ呼吸をして居る生生なまなましい現代人である。其その自由を通り越して悪平等に流れた陳列法も甚だ痛快で、何と云ふことも無く僕等を昂奮させて呉くれる。其れから二度目に来て観たら売約済の札が沢山たくさん下さがつて居た。其れが必ずしも場中ぢやううちで何人なんびとにも気に入る佳作と云ふでも無い。巴里パリイ人が絵を鑑賞するにも一概に他た人の意見に雷同することなく独自の鑑識を信ずる事の厚いのに感服した。

日本でも何とか云ふ男が文部省の去年の展覧会の絵に墨を塗つたが、巴里パリイでも此間このあひだ或ある二三の画家の催して居る小展覧会へ夜間に忍入しのびいつて或ある婦人の肖像を抹殺した者がある。之これは審査員に対する遺恨と云ふ様な事で無く、其その画がよくよく気に入いらなかつた為だと云ふ。悪戯いたづらの主ぬしは未まだ捕つかまらない。(四月十四日)

「日本にほんの誉ほまれ」

オデオン座で新しく演じて居るパウル・アンテルムの新作劇「日本にほんの誉ほまれ」はその芸術的価値は兎とも角かく、目先が異かはつて居るので大入おほいりを続けて居る。筋は忠臣蔵を大分だいぶん穿はき違へて、否いなわざわざ曲解して仕組んだものだ。鹽谷判官えんやはんぐわんが「大阪侯」高師直かうのもろなほが「仙台侯」由良之助が「彌五郎」と作つくり替へられ、仙台侯が大阪侯に託して「頼信よりのぶ」と云ふ一流の画家に帝みかどへ献上する扇の絵を描かかせると、大阪侯の家来の吉良(九太夫だいふ)が其その画家への礼金を着服ちやくぶくして偽筆の扇を主君に差出す。大阪侯は其その扇を宮廷で仙台侯に渡す。其その場へ頼信よりのぶが来合せて之これは自分の筆ふでで無いと云ふ。両侯が争ふ。大阪侯が激げきして仙台侯に斬り附けると云ふのが序幕で、次には大阪侯の切腹、其れから仇打かたきうちの相談が済むと力彌りきやに当る彌五郎の息子が敵の仙台侯に仕へて居て仇打かたきうちを父に思ひ止とまれと忠告したり、彌五郎の娘と恋をして居る大阪侯方がたの或ある武士が仇打かたきうちに加くははらうか結婚しようかと煩悶したり、又彌五郎の茶屋遊びの場などがあつて、最後に仙台侯の邸やしきに打入り武人ぶじんの面目を保たせて侯に切腹をさせる。其処そこへ帝みかどが白い高張たかはり提灯を二つ点つけた衛士ゑいじを前駆ぜんくにして行幸になり、四十七士の国法を犯した罪を赦ゆるし各おの〱の忠義を御褒おほめに成ると云ふ筋である。(四月十五日)

「モリエエルの家庭」

国立劇場コメデイ・フランセエズの舞台へ近頃初めて上のぼされ現に一週三度も演じて居る韻文劇「モリエエルの家庭」は文芸院学士アカデミシヤンマウリス・ドンネエ氏が文豪の伝記から脚色した五幕六場ぢやうの新作で、モリエエルと第二の夫人アルマンとの恋を具体化し、アルマンの乱行らんぎやうに対する文豪の煩悶を主として描ゑがかうとした為、却かへつて偉大なモリエエルの他たの雑多な性格、例へば其その冷静な哲学者的な方面、其その剛愎執拗な方面等とうを没了し、必ずしもモリエエルと限らず何どの芸術家を仮かり来きたつて主人公としても差支さしつかへの無い様な憾みはあるが、第一の夫人マドレエヌの聡明貞淑な性格が善く活躍して居るのと、部分部分に作者の才気の見えるデリカアな所が多いのと、舞台面が一寸ちよつと異かわつて居るのとで、昨冬来俗衆の間に評判のよいプリム・ロオズの様な単調モノトオンな感を与へず、相応に芸術上の効果を備へて居る。諸新聞の批評も概して悪くない。甘い物には違ちがひないが、之これなら日本に移しても「不如帰ほとゝぎす」で廉価な涙を流させるより功徳の多い事だと思ふから一寸ちよつと簡単に僕の観た所を紹介しよう。

初はじめの幕は文豪の書斎である。モリエエルは机に向むかつて脚本「良人学校りやうじんがくかう」に筆を着けて居る。其処そこへ小娘のアルマンが入はひつて来る。四十歳を越した文豪の心は予かねて愛くるしい此この小娘に動かされて居て二人の間にデリカアな話が交換される。其処そこへ第一の夫人である女優マドレエヌが現れてアルマンを叱り飛とばして其その部屋へ追おひ遣る。マドレエヌは良人をつとの原稿を読み乍ながら「貴方あなたの心は近頃大変に若やいで来た。其それは解わかつて居る。年寄つた自分に飽あきが来て、あのアルマンに移つて行ゆくのでせう。あんな年の違つた女と結婚するのは決して貴方あなたの幸ひでない。屹度きつと貴方あなたを苦くるしめる日がある。其れから、あのアルマンを今日けふまで自分の妹だと言つて居たが、実は自分の伴子つれこです。義理の間にせよ父子おやこで結婚は許されないでせう」と云ふと、モリエエルは苦悶し乍ながら「是非ぜひ結婚する事を許して呉くれ」と云ふ。次の幕はヹルサイユの宮廷の大節会だいぜちゑで仮装した幾多の諸侯と貴婦人が華麗な園内の其処彼処そこかしこに舞踏の団を作つて遊び狂つて居る。此この眩まぶしい様な豪奢な光景の中へ盛装したモリエエルの第二の夫人アルマンも加はつて居て、其そのブリヤントな容姿が水際立だつて衆目を惹き附ける。モリエエルと結婚して既に十余年を経た後のちなのである。美しい一人の青年の諸侯に口説くどかれて木陰で接吻をする。其それを偶然来掛つたモリエエルが瞥見べつけんした。恋に落ちた若い男女なんによは林の奥へ逃げた。

次の場は同じく、ヹルサイユの宮庭内にある劇場の楽屋で、王室附づき俳優の部屋が左右に設けられ、右手にモリエエル夫婦の部屋と先妻マドレエヌの部屋とが並び、扉には各俳優の名が白墨チヨオクで記されて居る。夜更よふけである。宮庭の宴会から細君の手を執つて帰つて来たモリエエルの顔は蒼醒あをざめて居る。薄暗い楽屋の板間で突然アルマンの手に縋すがる男がある。アルマンが「此処ここに居るのはわたしの良人をつとです」と云ふ一語に驚いて其その男は逃げ去つた。又他たの若い諸侯がアルマンに懸想けさうして忍び寄つたのである。モリエエルは年若な妻に対する誘惑の多い事を感じて人知れず煩悶する。細君に向むかつて其れとなく「自重せよ、良人をつとの愛を反省せよ」と云ふ。歓楽を追ふ若い細君の心は良人をつとの忠告も上うはの空に聞きき流し、はては「何事もわたしの自由だ」などと云ふ。モリエエルは堪たまり兼ねて「今日けふの園遊会での密会は何のざまだ」と云ふ。二人は言ひ争ふ。細君は怒つて先に部屋へ入はひつて仕舞しまふ。隣の部屋から先さきの夫人のマドレエヌが手燭てしよくを執つて現あらはれ一人残つたモリエエルを慰める。

三幕目は又モリエエルの家である。文豪は久しい間病気に悩んで居る。細君のアルマンは病床を訪とはうともせず常に外出がちで、一人下廻りの女優カトリヌが親切に介抱して居る。モリエエルは彼あれや是これやで気を腐らし脚本「厭世家」に渋渋しぶしぶ筆を着けて居る。医者が来て牛乳を飲めと勧める。牛乳嫌ひのモリエエルは飲まうとしない。先さきの細君のマドレエヌが自分の部屋から出て来て「モリエエルよ、貴方あなたの天才を等閑なほざりにして下さるな。貴方あなたの詩才は笑わらひの神だ。世界は其れに楽たのしまされる。貴方あなたの天職を沮喪させては成らない」と云ふ。之これに励はげまされて強ひて牛乳を口にする。マドレエヌが退くと部下の女優の一人ブリイが訪ねて来て病気見舞を言ふ。ブリイの御お世辞が巧うまいのでモリエエルは何時いつにない機嫌を善くして「お前を見るのは嬉うれしい。其処そこへお掛け。お互たがひに芝居を打つて歩いて面白い夜よるもあつた。併しかし今の自分は非常に煩悶はんもんを持つて居る。何事も大目に見て居なければ成らない」と云ふ。少時しばらくして、ブリイは今度の芝居の役不足を述べる。実は其れが為に訪ねて来たのであつた。モリエエルが毅然として其その希望を容れないので初めの御お世辞に似ず悪体を吐ついて帰つて行ゆく。モリエエルは机上の稿本を攫つかんで足下あしもとに抛なげうち長大息ちやうたいそくして長椅子デイヷンに倒れる。

四幕目は又前のヹルサイユ宮廷の劇場の楽屋で、右手に舞台を半なかば据ゑ、扉との開閉あけたてに今演じて居るモリエエルの作の「詐偽さぎ漢」の舞台の人物が見える仕掛に成つて居る。幕が明あくと登場時間を待つ俳優がモリエエル夫人を取巻いて居る。いろんな諸侯が楽屋へ来て美しい夫人に媚こびを呈して行ゆく。七十近い老文豪コルネエユ迄が出て来る。舞台から青年俳優のバロンが下おりて来ると、入れ替りに他たの俳優が登場し、楽屋は夫人とバロン二人きりに成る。予かねてバロンに意を寄せて居る夫人はバロンを口説くどいて「お前は確かな接吻をわたしから受取つたか」などと云ふ。二人は相抱いだく。其その時舞台から下おりて来たモリエエルは愕然がくぜんとして是これを眺めた。其処そこへ引続いて他たの俳優が多勢舞台から下おりて来た。二人の男女は急いで他たの室へ隠れて仕舞しまつた。幕間まくあひに成つたので老文豪コルネエユが再び楽屋へ入はひつて来たが、モリエエルが何時いつになく不興な顔附かほつきをして冷淡な応答をするので、コルネエユは自分がモリエエル夫人に懸想けさうして居る事に就ついてモリエエルが煩問して居るのだと解釈してモリエエルの前に懺悔をする。モリエエルに取つては其れも亦また悲痛の種である。而さうして「いや其その為では無い」と云つたが、バロンと我わが妻との関係を言ふには忍び無かつた。

最後の幕もまたモリエエルの家であるが、舞台は先妻マドレエヌの病室に成つて居る。寝台ねだいの上のマドレエヌは肺患で死に瀕して居る。モリエエルが見舞に来て話の序ついでに細君の乱行らんぎやうに就ついて歎息する。モリエエルが部屋へ退くと、女中代がはりの女優カトリヌとアルマンが生んだ十歳になるモリエエルの娘マダウとが入はひつて来る。マドレエヌは「マダウさん、よい物を祖母おばあさんが上げよう」と云つて人形を与へる。マダウは「父とうさんに見せる」と云つて出て行ゆく。其処そこへアルマンが外から帰つて来て自分の部屋の方へ行ゆき過ぎようとするのを、マドレエヌが呼よび止めて「あゝ好い夕日が窓から射さす。少し今日けふは気分も好いから話も出来る。お前そこへお掛け」と云ふ。アルマンが「何か御ご本でも読みませうか」と云ふと「いや、書物はよしませう。其れよりカトリヌに命いひつけて、あの幾つかの箱からわたしの衣類きるゐを出して其処そこ等へ陳ならべて御呉おくれ」と云ふ。寝台ねだい、卓タアブル、椅子の上へ掛けて沢山たくさんの古い舞台着ぎが並べられ、其れを明るい夕日が照てらす。マドレエヌは一一いちいち嬉うれしさうに眺めて追懐に耽つてゐる。アルマンが「可笑をかしな母かあさんだこと。こんな物を眺めて、流行遅れの襤褸ぼろばかしぢやありませんか」と云ふと、マドレエヌは目に涙を浮うかべて「何を云ふ、アルマン。わたしは是これ等の衣裳を眺めると、わたしの若い時、またモリエエルの若い時、其そのモリエエルの傑作を幾百度どと無くモリエエルと一所しよに舞台の上で演じた楽しい日が憶ひ出される。モリエエルは一作毎ごとに世界の人を喜ばせ、而さうして世界の偉大なる詩人と成つた。アルマン、お前さんは何だ、其その偉大なる天才の妻であると云ふ光栄を忘れはしまいね。お前さんはモリエエルを領解して居るかい。お前さんの近頃の行為おこなひは、あれでモリエエル夫人として恥はづかしくは無いかね」と畳みかけて詰なじる。茲こゝにアルマンは飜然ほんぜんとして夢から覚めた。此この時モリエエルが入つて来た。アルマンは良人をつとの胸に泣き倒れて今日けふ迄の不貞を懺悔した。モリエエルは感激して左の手に妻を抱へ、右の手にマドエレヌの手を執つて泣いた。娘のマダウが元気よく駆け来きて「パパア、ママン、晩御ご飯が出来ました」と云ふので幕が下おりる。此この最後の幕で泣かされる観客くわんかくが多い。実際僕なども目の潤んだ一人である。或ある評家は胡麻塩頭のアカデミシヤンが是丈これだけ涙つぽい戯曲を書いた事は近頃の成功だと半なかば冷笑的ではあるが讃ほめて居る。惜しいことにはジオルジユ・グランと云ふ俳優が世話物に掛けてこそ一流だが、今度始めて斯かう云ふ時代物に手を着けたので、其そのモリエエルは未成品だと云ふ外は無い。一体に伊井蓉峰ようぼうの様に軽く動く人でモリエエルの様な大人物に扮するには不向ふむきである、マドレエヌに扮したベルテセルニイ夫人、アルマンに扮したルコント夫人、コルネエユに扮したパウル・ムネは申分まをしぶんの無い出来である。(四月十五日)

魔術街マジツクシテエ

巴里パリイにも随分田舎ゐなからしい方面が少すくなくない。リユナ・パアクや魔術街マジツク・シテエが其れだ。リユナ・パアクはブロオニユの森の側そばにある見世物小屋だが、前を通る丈だけでまだ入はひつて見ない。

魔術街マジツク・シテエと云へば、セエヌの左岸のアルマの橋を渡つた街角にある大規模な見世物小屋だ。冬の間は休んで居たが四月から開場したのである。夜毎よごとに盛んな電灯装飾イルミナシヨンを施して客を呼ぶので、未まだ川風が薄ら寒いに拘かゝはらず物見だかい巴里パリイの中流以下の市民が押掛けて何どの遊技館も大繁昌である、中に一寸ちよつと痛快に感じるのは、棚に沢山たくさんの皿や鉢を立て並べて其れを客に重い毬まりを投げさせて思ふ存分壊させる趣向の店だ。看板に「沢山たくさん道具をお壊しなさい、其それが貴君あなたのお幸福しあはせ」と書いてある。如何いかにも破壊を好む気早ばやな仏蘭西フランス人の気に入り相さうな遊戯あそびだ。店には壊れた陶器せとものが山を為なし、壊される端から店の女が莞爾にこ〱して新しい皿や鉢を棚に並べて居る。或ある晩和田垣博士と僕とで取替へ取替へ片端かたつぱしから一品ぴんも余さず壊して見たが、僕の様な癇癪持かんしやくもちには真まことに便利なそして安価で胸の透く遊戯あそびだと思つた。一回分の毬まりを六個盆に載せたのが日本貨の弐拾銭である。

此この魔術街マジツク・シテエの一部に新しく日本街まちが出来た。永年欧米を廻つて居る櫛曵くしびきと云ふ日本人の興行師が経営してる相さうだ。春日かすが風の朱塗門を入はひると、日本画に漢詩や狂歌の賛さんのある万灯まんどうが客を中央の池へ導く。池を繞めぐるのは粗末な幾軒かの日本建築の喫茶店、芸妓げいしやの手踊をどり、越後獅子を初め、錦絵、小間物、日光細工、楽焼、饅頭屋、易者などの店である。四方の書割かきはりには富士山や日本の田舎ゐなかを現し、松や桜の間に大仏やお社やしろなども出来て居る。白昼に観ては殺風景だが夜よるの灯ひの明あかりで観る景色は一寸ちよつと日本らしい幻覚イリユウジヨンを起おこさせる。関係して居る日本人は四十人近ぢかい。中には女が十人程居る。大抵日英博覧会から引続き欧洲に居残つてる連中れんぢゆうだが、此この春日本から巴里パリイへ直接出掛けて来た女なども混まじつて居る。或ある一人の女は東京の実践女学校に居た者で先生の御ご講演を聴いた事があると和田垣博士に話して居た。又一人馬場吉野よしのと云ふ愛くるしい十二歳の娘が居る。倫敦ロンドンで生れて英国の小学校で育つた丈だけに達者に英語を話す。此この日本街まちに加はつて日本画を描かいたり日本陶器たうきを売つたりして居る真面目まじめな両親ふたおやの愛嬢である。日本語は英語程に話せないらしく、東京を「トオ、キ、ヨ」と発音するのが却かへつて僕達には嬉うれしく感ぜられた。日本に居て想像すると欧洲三界がいへ斯こんな風にして出稼ぎして居る男女だんぢよは大抵自堕落な人間の様だが、実際は反対に極めて真面目まじめな量見を持て働いて居る者が多い。少すくなくとも此この日本街まちの日本人に就ついて僕は然さう断言する事が出来る。

此この連中れんちゆうは雑多な人間の寄合よりあひで純粋の興行師は案外に少すくなく、巳やむを得ず此この仲間に身を寄せて居るものの、何なにがな一芸を修めて日本へ帰りたいと心掛けて居る者が多い相さうである。女優の見習ひをしたいと云つて居る女などもある。併しかし一時の腰掛に斯かう云ふ興行をして居る連中れんちゆうとしては、唯たゞ通りすがりに何どんな事をしてなりとも金儲けさへすれば好いと云ふ様な薄情な態度が無いのは感心だ。彼等は自分の力の可能を尽つくして兎とも角かくも祖国の趣味を欧洲人に紹介しようと勉めて居る。試みに此この日本街まちに入はひつて見るなら、彼等の微力で以もつて善く是丈これだけの日本品を取寄せ、不自由な材料を以もつて巧たくみに日本風の設備を為し得た事だと誰も感じるであらう。之これに附けても僕は日本大使館の無ぶ風流を歎かざるを得ない。大使代理の安達君は甚だ精勤家で会ふ度に忙せはし相さうであるが、祖国の芸術学問を欧洲人に紹介すると云ふ様な精神的方面に対しては余りに等閑に附せられて居る。大使館の応接室を覗のぞいた者は誰も其その書架に飾られた内外書籍の貧弱に驚くであらう。殊ことに何時いつも冷汗をかくのは大小の客間サロンの日本的装飾が内地の田舎ゐなか芝居の書割かきわりにも見る事の出来ない程乱雑と俗悪ぞくわるとを極めて居る事である。場所もあらうに巴里パリイの真中まんなかへ東洋の一等国を代表して斯か様な非美術的装飾を見せびらかすのは国辱も甚だしい。勿論之これは安達君の所為せゐでは毫がうも無い、日本の外務省の心掛が悪いのである。僕は十五万円も費したと云ふ大使館の客間サロンに全まつたく失望して居るが、却かへつて微力な中から是丈これだけ或ある種の調和的な日本趣味を具体し得た日本街まちを感心だと思ふ。惜しい事には女達の衣裳いしやうが拙まづい。其その品ひんの悪いメリンス友染を取巻いて珍らしげに仏蘭西フランス婦人が眺めて居るのを見ると冷汗ひやあせの出る気がする。(四月十八日)

五月一日にち

欧洲人の喜ぶ五月第一日プルミエエル・メエを僕も面白く暮くらしたいと思つて居たら、独逸ドイツの留学を終つて日本へ帰る長野軍医正が立寄つたので、昼間は一緒に医科大学を訪とふやら、パスツウルの研究所を観るやら、眼科医学の泰斗として名高いランドルト教授父子の私宅を驚かすやら、大分だいぶん見当ちがひの案内に忙せはしかつたが、夜よるは梅原の所へオデオン座から寄越よこした招待せうだい状で梅原、ロオド・ピサロオ、マウリス・アスランの三人の画家と忠臣蔵を飜案ほんあんした新劇「日本にほんの誉ほまれ」を観に行いつた。此このロオド・ピサロオ君は有名な風景画家故ピサロオ氏の息子で温厚な青年画家である。芝居は噂の如く今夜も大入おほいりであつた。僕等と向むかひ合つた観棚ロオジユに小林萬吾まんご、和田三造外二人の日本人も来て居た。僕が勧めて置いたので長野軍医正の顔も土間の方に見えて居た。

僕は前に此この「日本にほんの誉ほまれ」を変な物だと報じて置いたが、其れは忠臣蔵の飜案ほんあんだと思へばこそ僕等日本人に其その支離滅裂な点が目障めざはりになる物の、全まつたく忠臣蔵の原作を知らない仏蘭西フランス人が観れば非常に珍らしいエキゾテイツクの味に富んだ物に違ちがひない。又忠臣蔵に関係の無い別個の新作だとして考へれば筋も可かなり通つて居る。殊ことに舞台面の装置、背景、光線の使用等とうが巧うまく出来て居るし、役者の扮装きつけも、初はじめの幕から義士が討入の晩の装束をして居たり、左袵ひだりまへに着て居たりする間違まちがひは多いにしても、大体に配色が巧たくみであるから見た眼の感じが快い。東京で演じる飜訳ほんやく劇と云ふ物も西洋人が観たら定めて可笑をかしな物であらうから、日本の習慣に通じない仏蘭西フランス人の演じる物として是丈これだけに調つて居れば先まづ褒ほめて置かずば成るまい。中にも茶屋場ばの彌五郎(実は由良之助)は好い出来であつた。日本では九太夫だいふが縁の下に居るのを、此この芝居では反対に彌五郎の乱酔らんすゐを吉良(実は九太夫だいふ)が二階から観て居るのである。

何が最も好くないかと云ふと音楽に東京で広目屋ひろめやが遣るブカブカ調に似た物を用ひた事だ。先年貞奴さだやつこが巴里パリイへ来た時に用ひた楽譜から採つたと云ふ事だが、大阪侯(実は判官はんぐわん)切腹の場で其その陽気な調子を奏するのだから僕等日本人には堪たまらない。其れに切腹の場に立会ふ立烏帽子たてゑぼしを着た二人の勅使が「勅使旗き」を前に樹たてさせて臨場し、草鞋穿わらぢばきの儘まゝ上段の間まに趺坐あぐらを掻き、背後に二人の小姓が各おの〱二本の刀を両手に攫つかんで捧げた形には思はず梅原と二人で吹出して仕舞しまつた。稽古の時に和田垣博士が切腹の場で笛を用ひる様に注意せられたのであつたが、舞台監督のアントワンが笛の音ねを聞くと縮み上あがる程嫌ひだと云ふので見合せに成つたのだ相さうだ。

腹切はらきりの形も最初は真中まんなかへ棒差ぼうざしに突つゝ込んで直すぐ後うしろへ倒れるのであつたが、最後の稽古の日に徳永柳洲が教へて遣つたので何どうにか見られる様に成つた。併しかし俯伏うつぶすのは形が悪いと云つて前へズツと乗出して腹這はらばひに成つて仕舞しまふのであるが、其れが又新しい味のある形になつて居て、決して変でなかつた。其外そのほか最敬礼の場合に皆が度度たびたび腹這はらばひに成る。勅使に対しても大阪侯の夫人侍女家臣等が腹這はらばひに成るのを始め、大詰の仇討あだうちの場へ日の丸の提灯ちやうちんを先に立て乍ながら帝みかどの行幸がある時にも舞台の人間は一切寝るのである。舞台監督の意向は日本の習慣などは何どうでも可よい、唯たゞ欧洲に無い野蛮趣味と新しい形とを出して観せたいのらしい。

観客くわんかくは幕毎ごとに大喝采をする。切腹の場では女をんな客の目に手巾ムシヨワアルが当てられるのも少すくなく無かつた。四幕目にキニゼイと云ふ妙な名の若侍が彌五郎の娘である許嫁いひなづけの愛情に絆ほだされて、今宵こよひに迫る仇打かたきうちの首途かどでに随分思ひ切つて非武人的に未練な所を見せる。其処そこへ多勢おほぜいの義士が誘ひに来て散散さんざんに辱めた上飽迄あくまでも躊躇して居るキニゼイに告別して行つて仕舞しまふと、キニゼイ先生も終つひに決心して許嫁いひなづけを突除つきのけ同志の後あとを追つて行ゆく。其れから大詰に仇方かたきがたに仕へて居る彌五郎の息子野助のすけ(実は力彌りきや)が主人の為に父と戦ひ一刀に斬られる所がある。是これ等も変つて居るので観客くわんかくに大受おほうけである。想ふに英国で書かれた「ムスメ」此この国で既に演じて居る「バツタアフライ」と並んで当分欧洲の俗衆に歓迎せられる日本劇は此この「日本の誉ほまれ」であらう。併しかし僕の尤もつとも感服する事は巴里パリイの一流の劇評家が之これに対して大袈裟な批評を試みない事である。

芝居の後あとはピサロオ君の発議でモンマルトルに引返し、或ある賑にぎやかな酒場キヤバレエで朝の三時近ぢかくまで話して居た。キヤバレエには伊太利イタリイ人の音楽や踊子の踊をどりがあり、又気取つた風をした即興詩人が二三人も居て当意即妙の新作を歌ふ。其れから客と美しい女連をんなれんとの踊ダンスが暁方あけがたまで続くのである。(五月二日)

巴里パリイのいろいろ

ル・バルヂイ氏は仏蘭西フランス一の喜劇役者だが、硬骨な氏は去年の春舞台監督と衝突して即座に辞職を申出まをしいで、多勢の名士の仲裁も其その効なく、昔女優サラ・ベルナアルが奮然辞職した以来の大悶着を惹起ひきおこして居た。愈いよ〱辞職と決したので此この十七日に氏の御名残おなごり狂言がコメデイ・フランセエズ座で催され、氏の得意おはこの物を一幕ひとまく宛づゝ出し、ムネ・シユリイ其他そのたの名優が一座する筈はずである。三週間前から切符を売出したが、平生の十倍に当る価格の切符が僕が五日目に出掛けた時大抵売切れて居たので其その盛さかんな人気が解わかる。当日の総収入は一切ル氏に贈る定めなので、他たの俳優は全まつたく無報酬で一座し、凡すべての費用は劇場の負担である。

ル氏は未まだ五十四五歳だから此後こののちを何どうするかと云ふ事は巴里パリイ人の間に興味ある問題となつた。氏に対してコメデイ・フランセエズ座から予かねて捧げて居る劇場株は十八万円ある。氏が辞職と共に俳優を廃やめて仕舞しまへば永久此この恩給に浴する事が出来るが、他たの劇場へ出れば十八万円は一切没収される規定なのである。然るに氏は飽迄あくまでも芸術の人として進みたいのであるから、其それ等には頓着せず、ポルト・サン・マルタン座へ首席俳優として入はひる事に決めて仕舞しまつた。国立劇場の方でも氏の多年の功労に対し全まつたく従来の持株を取上げる具合にも行いかないから、結局は幾分を他たの名義で贈呈する事になるであらう。其れから姑しばらく適当な役者を欠いて居たので上場せずに居たロスタンの「シラノ・ド・ベルジユラツク」を、ル・バルヂイ氏のシラノで演ずるであらう、其れが大変な適はまり役であらうと評判されて居る。(五月四日)

サロンが新旧とも開かれて居る。未まだ二度しか行つて見ないし、其れに点数が両方で一万に近い事であり、加之おまけに仏蘭西フランス人許ばかりで無く春の見物に来た世界のお客様がうようよしてゐる中で忙せはしく一瞥べつして歩くのだから確たしかな評判も出来ないが、斯かう量が多ければ概して普通なみの作物さくぶつ許ばかりになるのは勿論だ。其れに巴里パリイへ来てから僕の目も贅沢ぜいたくに成つて居るだらうから、自然之これはと特に感服する絵は少すくない様だ。其その中でアマン・ジヤン氏の「地水火風」セカリエ・ベリユウス氏の「踊子」などが目を惹くのを思ふと矢張やはり群を抜いて居るのであらう。

同時に個人の絵が幾つも初まつて居るので中中なかなか忙せはしい。〔濁点付き井〕ヤアル氏は若手の中の流行子はやりつこで一作毎ごとに技巧の変化を見せ過ぎる嫌ひはあるが、浮うは調子で無く、全体に内から燃える豊かな同情に融とけ合つた強い色調で葡萄酒の窖くらに入はひつて居る様な甘い温かな感を人に与へる。人間を描ゑがく巴里パリイの青年画家の中で僕の今日こんにち迄に最も感服したのは此この人である。又新しく印度インド内地の旅行から帰つて来たベナアル氏の印度土産インドみやげの絵が目下もくか大変な人気を集めて居る。異国の風情ふぜいを好む近年の流行心理に投じた為もあるが、欧洲人にして此この画家程印度インド人を領解した人は無いと云ふ諸新聞の推讃も決して諛辞ゆじで無い。氏は多く河辺に下おり立つて聖水に浴する印度インド婦人に興味を持ち、其れに就いて幾多の面白い作を成就して居る。開会以来半月も経たぬ間まに七分ぶまで売約済に成つて仕舞しまつた。

又此この月は仕合しあはせな事に二人の老大家だいかの新作に接することが出来る。ルノワアル翁は既に其その新作許ばかりをジユラン・リユイルの店の数室に陳ならべて居るが、何よりも先まづ老いて益ます〱精力の壮さかんなのに驚く。僕には未まだ翁の近年の作の妙味が十分会ゑ得せられないが飽迄あくまでも若若わかわかしい此この翁の心境は例の真夏の花を嗅ぐ様な豊艶多肉な女を倦うむ色もなく描いて居る。姑しばらく画ゑを廃して庭作りを楽たのしんで居ると云ふ噂のあつたモネ翁が此この二十七日から其その新作を見せて呉くれる事になつたのは嬉うれしい。又多年眼を病んで居るドガ翁も近頃は折折をりをり絵筆を取る相さうである。まだマチスの絵を見る機会がない。

欧洲へ来て未まだ日の浅い僕の観察に大した自信も無い事ながら、従来日本に居て新帰朝者の報告で聞いて居たのと実際と大分だいぶん相違のあるらしいのに事に触れて気が附く。例へば避姙が盛さかんだと云つても其れは仏蘭西フランス全体の事では無く、巴里パリイ其他そのたの都会に主として行はれる事実である。如何いかにも一生涯子を産まない女が巴里パリイに多い。産むにしても大抵一人の子に限られ二人の子を育てて居るのは甚だ稀である。併しかし少し田舎ゐなかへ行ゆけば三人以上の子供のある家は決して珍らしく無い。僕の知つて居る或ある田舎ゐなかの婆さんなどは十七人の子を産んで十人丈だけ育つて居る。是これ等は特例であらうが、兎とに角かく避姙は都会生活の複雑な事情から由来するので簡素な地方生活には其その必要が無い。然されば之これを以もつて直たゞちに人口の減少を論じ仏蘭西フランスの衰頽すゐたいを唱へるのは杞憂であつて、設たとひ都会人の出産数は減少しても常に地方人が之これを補充するから都会の人口は寧むしろ加はるとも減る事は無い訳である。又仏蘭西フランス全体に一時人口の減少する事実があるにしても其れが永久に続くとは断ぜられず、殊ことに人口の減少が頓やがて国家の萎靡ゐびを招く原因だとは思はれ無い。現に仏蘭西フランスの富は年毎としごとに増して行ゆくし、学問芸術に就いてはロダンの彫刻、マスネエの音楽、ポアンカレエの科学、ルノワアル、モネ、セザンヌ、ゴツホ、ゴオガン、マチス等の絵画、ヹルハアレンの詩、ベルグソンの哲学、キユウリイ夫妻のラジウム発見に至るまで常に世界文明の先頭に立つて居る。衣食足たつて深沈大勇たいゆうな思索研究に耽ふけつた為ため、或あるひは表面的な士気に聊いさゝか弛緩の姿を示したかも知らぬが、其れは一時じの事であつて、光栄あるラテン文明の歴史に根ざした国民の実質は衰へる由よしも無く、独逸ドイツ近年の外圧に奮起して尚武の気風は頓とみに揚がつて居る。今春の議会に海軍拡張案を提出した政府が頻しきりに日本を例に引いて反対党の気勢を挫くじいたのは目覚めざましい現象であつた。

日本では近年何事にも官営が流行し、其れが必ずしも国庫の収入を増す結果に成つて居ないらしいが、民衆の利益を主として万事を経営する仏蘭西フランス政府の遣り口を見ると、民業として利益あり官営として損失のある性質の物は勿論民営に任す方針を取つて居る。斯かう云ふ事に就ついても従来欧洲を視察して帰る日本の官人くわんじんの報告が粗漏だと思ふ。例へば日本の逓信省は去年あたりから東京市内の小包制度に繁雑な拡張を実施し、米俵から洋傘かうもりがさ弁当に到る迄迅速に配達する事に成つたが、之これが為に何どれ丈だけ市内労働者の仕事を奪つたか知れない。其その割に逓信省の収入が殖えたかと云ふと、其れには係員や配達夫を増したであらうし、一時じにせよ其それ等の品物を受入れる場所の設備も要したであらう、而そして配達料はと云へば麻布の奥から本郷の奥まで米一俵を配達するにも一人の配達夫と一輛の車とを要し乍ながら纔わづかに四銭か六銭である以上、決して大した実益は無いに違ちがひない。巴里パリイの市内小包は何どうかと云ふと東京の様に迅速な配達制度は無く唯たゞ一日に三回配達する普通小包丈だけである。其その外に至急を要する物は各自の家の使用人に持たせて遣るか、使ひ歩きを業とする者に託する。郵便局で受入れる普通小包は直接に郵便局が配達するので無く、逓信省は之これを或ある会社へ一手に委託して配達させて居る。会社は逓信省へ一年纔わづかに七千六百フラン(三百十四円)の請負料を納める丈だけで其他そのたの小包料は一切会社の所得である。巴里パリイの小包は一日平均七千個だと云ふから、之これを若もし郵便局で配達するとすれば係員の多くを要し事務の繁雑な割に利する所は少すくないが、会社の方では唯たゞ一人の社長が機敏に差図し市内二十幾箇所の出張所に百五十人の係員、八十人の配達夫、十人の補助配達夫を使用する丈だけで事が捗取はかどつて行ゆくから民業として立派な収益を得て居る。僕は日本と比較して此この国の逓信省の賢さを歎称せずに居られない。

日本の役所は一体に無用な記録が好きで、郵便局の何どの口を覗のぞいても大きな幾冊かの帳簿の番人が控へて居るが、巴里パリイで為替を組んでも小包を出しても、小さく三枚に切れる用紙で事が済み、一枚は受取証、一枚は為替券若もしくは小包に貼附ける物、後あとに郵便局に残る小さな一枚が正本の大帳簿に相当する物である。斯かう云ふ事に簡潔なのが何どれ丈だけ便利で且かつ経済的だか知れない。僕は学校の卒業証書と云つても好さ相さうな立派な大きい為替用紙を思おもひ出して日本人の無用な贅沢ぜいたくに呆れる。(五月十日)

飛行機

東京の音楽学校を卒業した音楽家で併せて近年欧洲の飛行機界に名を知られた飛行機家である「男爵ヷロンシゲノ」が、其その創意に成つた滋野しげの式飛行機若鳥わかとり号を携へ遠からず巴里パリイを立つて日本へ帰る筈はずだ。氏は去年の今頃飛行機から落ちて軽傷を負うたが、其その一週年とでも云ふ訳か近頃少し背はい部が痛むと云つて居る。其れで飛行は試みないが矢張やはり毎日イツシイ・レ・ムリアウにある飛行場へ出掛けて行ゆく。和田垣博士と僕とが氏の出立前しゆつたつぜんに其その飛行場へ一度案内して貰ふ約束をして置いたので一昨日をとゝひの午後風の無さ相さうな空を見込んで氏の下宿を尋ねると、下宿の主人が氏はパンテオンの横町の自動車を預ける会社へ行つたと云ふ。二町足らずの近い処ところにある会社へ直すぐ跡を追つて行ゆくと、滋野君は半月前はんげつぜんに買つた新しい自動車を会社の入口いりくちに引出して頻しきりに掃除して居た。華族様に似合はない器用な男で、何時いつの間まにか自動車の練習所を卒業して巴里パリイ市庁からの免状をも取つて居る。

二人でリユクサンブル公園の裏の下宿へ和田垣博士を誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里パリイの青年詩人を相手に仏蘭西フランス語の稽古をして居ゐられる処ところであつた。僕はヌエ君の新しい処女詩集に就ついてヌエ君と語つた。詩はまだ感得主義サンチマンタリズムを脱して居ないが、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心深ぶかい男で、巴里パリイの下宿の屋根裏に住んで語学教師や其その外の内職で自活し乍ながら毎週二度田舎ゐなかの母親を訪とふのを楽たのしみにして居る。ヌエ君と下宿の門かどで別れて三人は自動車に乗つた。有名な髑髏洞カタコンブの前まで来て其その筋向むかひの珈琲店キヤツフエで一寸ちよつと憩やすまうと滋野君が云つた。同じく飛行場を観たいと云ふ或あるお嬢さんを其処そこで待合す約束に成つて居た。麦酒ビエエルを飲んで居ると約束の午後四時に其そのお嬢さんが遣つて来た。併しかし今日けふは俄にはかに差支さしつかへが起つて行ゆかれない、只其その断りに来たのだと言ふ。目附の憂鬱メランコリツクな、首筋の細ほつそりとした、小柄な女である。其その帰つて行つた後あとで「お嬢さんと云ふ言葉は勿体なからう」と云ふと、滋野は笑つて「もとは帽子に附ける造花を内職にして居た物堅い家うちのお嬢さんだが、近頃は少し怪しいお嬢さんに成掛けて居る。併しかし何となく雨に打たれた様な女であるのが好いいぢやないか」と云ふ。博士曰いはく、「油絵に描かく女だね。」

東京の路みちの様で無く、目まぐるしい程自動車や其他そのた雑多な車の行交ゆきかふ巴里パリイの大道だいだうを巧たくみに縫つて自動車を駆る滋野君の手腕は感服すべき物であつた。巴里パリイの城門を出るのに税関吏が尺度ものさしを以もつて自動車の貯へて居る揮発油エツサンスの分量を調べた。之これは市内と田舎ゐなかとで揮発油エツサンスの価格が違つて居るから、若もし帰途に其れ以上の分量を持つて居をれば課税するのである。飛行場は東京の青山練兵場に少し広い位の場処で、大小二十幾所の格納庫が其れを取巻いて居る。猶なほ之これと同じ飛行練習場が巴里パリイの近郊丈だけに十箇所から有ると聞いて如何いかに飛行機の研究が盛さかんであるかが想はれる。飛行場は一切陸軍省に属して居るから出入しゆつにふの人を騎馬の憲兵が誰何すゐかする。

どの格納庫にも幾つかの飛行機が納められて居て一一いちいち様式が異ちがつて居る。墜落して壊れたのもある。不備な所を修繕して居るのもある。飛行場は陸軍省に属して居ても、官営万能まんのう𤍠に罹かゝつて居る日本と違つて格納庫も其れに納めてある飛行機も総すべて私人の所有である。此処ここは一番古い飛行練習場丈だけに何どの格納庫も飛行機史上に逸し難い最初の面白い記録を持つて居る。滋野君は其それ等を語り乍ながら一一いちいち飛行機の特色を説明して呉くれた。ナ〔濁点付き井〕ガツシヨン・アリエンヌに属する格納庫に両三日前発動機モツウルの装置の改善を終つた滋野君の若鳥号が納められて居る。全部鋼鉄で出来て居る事が一見して他たと異ちがつて居る。其その外細部に亘わたつた特色は数月すうげつの後のち之これが日本へ持帰られた時明瞭となるであらう。重量は三百キロ、馬力は六十である。ナ〔濁点付き井〕ガツシヨン・アリエンヌの飛行家長セエフ・ピロツトルシヤン・ドユマアゼル君が僕等より先に来て、風さへ凪ないだならば今日けふ此この若鳥の修繕後第一回の飛行を試みやうとして居た。此このドユマアゼル君は十四歳位ぐらゐの時から毎日飛行機に乗つて居るので巴里パリイ屈指の飛行家ピロツトであるが、年齢が足らなかつたので政府から免状を得て以来未まだ二箇月にしか成らない。漸やうやく十八歳二箇月なのである。

午後五時前に十とを許ばかりの飛行機が引出されたが、風が強いので皆地を這はつて発動機モツウルの具合を試したり、滑走試験を続けたりして居る。其それが砂煙すなけむりを蹴立てるので広い場内が真白まつしろに曇つて仕舞しまつた。ドユマアゼル君は断念して帰つて行つた。僕達は場外へ出て少時しばらく珈琲店キヤツフエで憩やすんだ。和田垣博士の駄洒落が沢山たくさんに出た。「巴里パリイに多い物は尽づくし」を並べて種種いろいろの頭韻を冠かぶつた句などが出来る。其その内に二隻の飛行機が風を侵して飛び初めたので僕達は場内に引返した。僕は巴里パリイへ来て頭の上を飛ぶ飛行機は度度たびたび見て居るが、地を離れたり着陸したりする光景を観るのは今日けふ初めてである。其れが飄然ふはりとして如何いかにも容易たやすい。どの飛行機にも飛行家ピロツト以外に物好ものずきな男女なんによの見物が乗つて居る。和田垣博士も僕も自然と気が昂あがつて乗つて見たく成つた。飛行機から落ちると云ふ事は最早もはや万まん一の不幸に属して居る。万ばん一の不幸を気にして居たら土の上も踏めない訣わけだ。自動車に轢ひかれて死ぬる事もあるのである。乗るなら頼んで見ようと滋野が云つたけれど今日けふは其外そのほかに飛ぶ飛行機が無かつた。其処そこへ飛行機を専門に写す写真師が自転車で遣つて来たのを呼よび止めて、記念の為に若鳥号を引出させて其その前で三人が撮影した。

滋野の話に由よると、修繕前の若鳥号に屡しば〱乗つて飛行を試験して居た飛行家ピロツトにナルヂニイと云ふ伊太利イタリイ人が居た。其その男は仏蘭西フランス政府の飛行免状を取つて居る巧者かうしやな飛行家であるが、伊太利イタリイ人であり乍ながら土耳其トルコ軍へ数隻の飛行機を取次いで売つたと云ふので本国政府から仏蘭西フランス政府へ取押へ方を請求して来た。其れで仏蘭西フランス政府は本人に退去命令を下くだすと、ナルヂニイは「宜よろしい」と云つて、即日ドユペル・ドユツサンと云ふ単葉式五十馬力の飛行機に乗つて、巴里パリイの郊外〔濁点付き井〕ロン・グブレエから英国のロンドンへ「雲を霞」とお手の物で飛んで仕舞しまつたのは人人を一寸ちよち痛快がらせた。未まだ十日前ぜんの事だ相さうである。

今日こんにちあたりから倫敦ロンドンのデリイ・メエル新聞社が三十万円を提供して英国の各州へ数隻の飛行機を飛ばせ、最早もはや飛行の可能は議論の余地が無い、唯たゞ実際の飛行を示して国民の飛行機𤍠を盛んにしようと企てて居るが、其その飛行家ピロツトは総すべて仏国から招聘した。斯様こんな話を自動車の上でしながら帰途はセエヌ河の右岸に沿ふて夜の灯ひの美しい巴里パリイの街へ入はひつた。オペラの前の通りのレスタウラン・ユニヹルセルで美味うまい夕飯ゆふめしを済ませて両君と別れたのは十時前であつた。(五月十七日)

巴里パリイまで(晶子)

浦潮斯徳ウラジホストツクを出た水曜日の列車は一つの貨車と食堂と三つの客車かくしやとで成立つて居た。私の乗つたのは最後の車で、二人詰の端の室であるから幅は五尺足らずであつた。乗合の客はない。硝子ガラス窓が二つ附いて居る。浦潮斯徳ウラジホストツクに駐在して居る東京朝日新聞社の通信員八十島やそじま氏から贈られた果物の籠、リモナアデの壜びん、寿司の箱、こんな物が室の一隅ぐうに置いてあつた。手荷物は高い高い上の金網の上に皆載せられてあつた。浦潮斯徳ウラジホストツクの勧工場くわんこうばで買つて来た桃色の箱に入はひつた百本入いりの巻煙草たばこと、西伯利亜シベリアの木で造られた煙草入たばこいれとが机の上に置いてある。是これ等が黄色な灯ひで照てらされて居るのを私は云ひ知れない不安と恐怖の目で見て居るのであつた。終しまひには両手で顔を覆ふてしまつた。ふと目が覚めて時計を見ると八時過すぎであつたから私は戸を開あけて廊下へ出た。四つ目の室に斎藤氏が居る。其その前へ行ゆくと氏が見附けて直すぐ出て来た。食事が未まだ済まないと云ふと、食べないで居ると身体からだが余計に疲れるからと云つて、よろよろと歩く私を伴つれて氏は一度済すまして帰つた食堂へ復また行つた。機関車に近いので此処ここは一層揺れが烈はげしいやうである。スウプとシチウとに一寸ちよつと口を附けた丈だけで私は逃げるやうにして帰つて来た。其間そのあひだに寝台ねだいがもう出来て居た。十二時頃に留とまつた駅で錠を下おろしてあつた戸が外から長い鍵で開あけられた響ひゞきを耳元で聞いて私は驚いて起き上つた。支那の国境へ来たのであるらしい。入はひつて来たのは列車に乗込んだ役人と、支那に雇はれて居る英人の税関吏とである。荷物は彼あれと是これかと云つて、見た儘まゝ手を附けないで行つた。三時半頃から明るくなり掛けて四時には全まつたく夜よが明けてしまつた。五時過すぎに顔を洗ひに行いくと、白い疎まばら髭ひげのある英人が一人廊下に腰を掛けて居た。ずつと向むかうの方には朝鮮人も起きて来て外を見て居るやうであつた。斎藤氏は朝寝坊をしたと云つて、八時過すぎに食堂へ行ゆくのを誘ひに来た。パンと珈琲コオヒイだけの朝飯あさはんに一人前ひとりまへに払ふのが五十銭である。午後の二時に哈爾賓ハルピンへ着いた。ブラツト・フオオムに立つて居た日本人は私の為に出て居てくれた軍司ぐんじ氏であつた。電報が来たと云つて斎藤氏が持つて来た。「西伯利亜シベリアの景色お気に入りしと思ふ」と云ふ大連たいれんの平野万里ひらのまりさんから寄越よこしたものであつた。伊藤公の狙撃されたと云ふ場処ばしよに立つて、其その日眼前がんぜんに見た話を軍司ぐんじ氏の語るのを聞いた。「此この汽車は私のために香木かうぼくを焚たいて行ゆく」こんな返電を大連たいれんへ打つた。石炭を使はないで薪を用ひるのは次の国境迄だ相さうである。どの駅でも恐こはい顔の蒙古犬もうこいぬや厳いかめしいコサツク兵や疲れた風の支那人やが皆私の姿を訝いぶかし相さうに見て居た。夕方に広い沼の枯蘆が金の様に光つた中に、数も知れない程水鳥の居る処ところを通つた。白樺の小ちさい林などを時時ときどき見るやうになつた。三日みつか目の朝に復また国境の駅で旅行券や手荷物を調べられた。午後に私の室へ一人の相客が入はひつて来た。服の上に粗い格子縞の大きい四角な肩掛をした純露西亜ロシア風の醜い女である。良人をつとは外ほかの処ところに乗つて居るらしい。大抵廊下へ出て其処そこで夫婦が話をして居るやうであつた。晩餐後に私が少し眠くなつてうとうとして居る間あひだに其その婦人は降りてしまつた。十時とき過すぎに寝台ねだいを作らせて入はひると直すぐ外そとから戸を開あけられて相客が来たやうであつた。私は見ないで顔を覆ふた儘まゝで居た。小さい子供の泣声や咳をする声などが夜中に度度たびたびしたので、上の寝台ねだいへ来たのは子持の婦人らしいと思つて居た。

二人になると昨日きのふ迄のやうに早く起きて寝台ねだいを仕舞しまはせたりする勝手も今朝けさは出来ないなどと思つて、目が覚めてから床とこの中でぢつとして居ると、前の鏡へ上の客が映つた。寝て居ると思つて居た人が坐つて居る。白い切れを髪の上に掛けて、色の白い児こを抱いて居る気高けだかい美しい女である。マリヤがふと現あらはれた様な思ひもしないではない。化粧室へ行つて顔を洗つて来て髪を結つて着物を着更かへても、二度寝ねをした上の客はまだ起きさうにない。私は書物を持つて廊下へ出た。汽車は渓川たにがはに添つて走つて居るのであつた。箱根の山を西へ出た処ところのやうな気がする。雪が降つて来た。食堂から帰つてもまだ私の室の戸は閉められてあつた。九時過すぎにそつと寄つて戸から覗のぞくと桃色の寝衣ねまきを着た二十四五の婦人が腰を掛けて金髪を梳いて居た。夜明よあけの光で見た通りの美しい人である。長春ちやうしゆんから来て哈爾賓ハルピンで後うしろへ二つ繋がれた客車かくしやの人をも交ぜて三十人余りの女の中で此この婦人が出色の人である。昼前にはもうどの男の室でも其その噂がされて居たらしい。此この若い露西亜ロシア婦人は令嬢が百日咳のやうな気味である為ため冷たい空気の入はひらないやうにと部屋の戸にも廊下の端の戸にも気を配つて居た。晩餐の卓に就いて居た時、動き出さうとする汽車を目懸めがけて四羽の雁がんの足を両手で持つて走つて来る男があつた。再び汽車が止まると食堂のボオイが降りて其その雁がんを買つた。珍らし相さうに左の窓際の客が皆立つて見るのを、「何ですか」と日本語で問ふた貴婦人があつた。斎藤氏は英語で其その人と話をして居た。それは私を女優かと聞いたと云ふ紳士の令嬢である。私の同室の人は夜になると母も子も烈はげしく咳をする。四日か目にはバイカル湖が見える筈はずであると云つて誰も外の景色の変るのを楽しみにして居るやうであつたが、やつと二時頃に白い湖の半面が見え出した。汀みぎはに近い処ところは未まだ皆氷つて居る。少し遠い青味を帯びた処ところは氷の解けて居る処ところであるらしい。また白い処ところがあつて其その向むかふに水色の山が見える。幅の広くない処ところと見えて山際の家の形が見様みやうに由よつて見えない事もない。一間けん程の波が立つた儘まゝで氷つて居るのも二三里の間続いた景色であつた。鏡の様に氷が解けて光つた処ところには魚うをが居るらしく、船に乗つて釣をして居る人もあつた。此様こんな風な渚なぎさも長く見て居る中うちにはもう珍らしく無くなつて東海道の興津辺へんを通る様な心持になつて居た。六時に着く筈はずのイルクウツクで一時間停車して乗替を済ませたのは十一時過ぎであつた。前の晩には金碧きんぺきの眩まばゆい汽車だと思つたが朝になつて見ると昨日きのふ迄のよりは余程よほど古い。窓も真中まんなかに一つあるだけである。莫斯科モスコオまで後あとがもう五晩いつばんあると思つて溜息を吐ついたり、昨日きのふも一昨日をとゝひも出したのに又子供達に出す葉書を書いたりして居た。六日むいか目に同室の婦人は後方うしろの尼様あまさんの様な女の居る室に空席が出来たと云つて移つて行つた。汽車は玉たまの様な色をした白樺の林の間許ばかりを走つて居る。稀には牛や馬の多く放たれた草原くさはらも少しはある。牛乳とか玉子とか草花の束ねたのとかを停車場ステエシヨン毎ごとに女が売りに来る。私の机の上にも古い鑵くわんに水を入れて差された鈴蘭の花があつた。乗客じようかく係が来て莫斯科モスコオから連絡する巴里パリイ迄の二等車の寝台しんだいが売切れたから一等許ばかりのノオルド・エキスプレスに乗つては何どうかと云つた。八十円増して出せば好いいと云ふのである。露貨は其様そんなに持たない、仏貨を交まぜたら有るかも知れぬと、云ふと其それでも好いいと云ふ。兎とに角かく八十円を出して仕舞しまふと、後は途中の食費と小遣が十円も残るや残らずになるのである。心細い話だと思つて私は考へたが、二等の寝台しんだい車を待つために幾日いくか莫斯科モスコオに滞在せねば成らぬか知れない様な事も堪へられないと思つて、結局仏貨で三十九円六十銭出してノオルドの寝台しんだい券を買つた。後あと四十円は莫斯科モスコオで一等の切符と換かへる時に出すのだと云ふ事である。男の席はあると云ふので斎藤氏は二等車の寝台券を買つた。

川は二三町ちやうの幅のあるのも一間けん二間けんの小こ流れも皆氷つて居る。積つもつた雪も其処そこだけ解けずにあるから、盛上つて痩せた人の静脈せいみやくの様である。七日なぬか目にまた一人の露西亜ロシア女が私の室の客になつた。快活な風でよく話を仕懸ける人である。ウラルを越えていよいよ欧羅巴ヨウロツパへ入はひつた。山の色も草木の色も目に見えて濃こいい色彩を帯びて来た。此辺このへんでは停車する毎ごとにプラツト・フオオムの売店へ宝石を買ひに降りる女が大勢ある。私も其その店へ一度行つて見た。紫水晶の指の触れ心地ごゝちの好いい程の大きさのを幾何いくらかと聞くと五十円だと云つた。ロオズ・トツパアス、エメラルドなどが皮の袋の中からざらざらと音を立てて出されるのは、穀類の様な気持がする。夜の駅駅えきえきに点ともる黄な灯ひの色をしたトツパアスもあつた。某駅から巴里パリイの良人をつとと莫斯科モスコオの石田氏とへ電報を出した。動揺ゆれの烈はげしい汽車も馴れては此この以外に自身の世界が無い様な気がして、朝は森に啼ないて居る小鳥の声も長閑のどかに聞くのである。ボオル大河だいがの上で初めて飛んで居る燕を見た。木この間まに湖が見えて其その廻りを囲んだ村などが画ゑの様である。露西亜ロシア字で書いた駅の名は固もとより私に読まれない。曇色くもりいろの建物の中に寺の屋根が金に輝いて居るのが悲しい心持を起おこさせる。十六日の夜よになつた。翌朝てうが待遠まちどほでならない。何時に起おこさうかとボオイが聞くので、六時に着くなら五時で好いいと云つた。起おこされる迄もない事であると心では可笑をかしく思つて居た。同室の人は是これも頼んであつたボオイに起おこされて夜明よあけの四時頃に降りて行つた。莫斯科モスコオのグルクスの停車場ステエシヨンには朝鮮人の朴ぼく氏が来て居て呉くれた。電報で頼んで置いたから領事館に来て居た私宛の手紙を持つて居た。此処ここからビレスト停車場ステエシヨンへ行つて其処そこで乗替をするのである。切符の増金ましきんは二十五円五十五銭で好いいと云ふ事である。聞いたのよりも十五円程少すくないのを気にしながら朴氏と馬車に乗つて街へ出た。道路は東京より悪い様な処ところもある。浦潮斯徳ウラジホストツク程ではないが馬車から落ち相さうな気がしないでもない。ブラゴウエスチエンスキイ寺院の暗い中に灯ひの幽かすかに点ともつた石の廊下を踏んで、本堂の鉄の扉の間から遠い処ところの血の色で隈取られた様な壁画を透かして眺めた。モスコオ河の上に脅かす様に建てられた冬宮とうきゆうも旅の女の心には唯たゞ哀あはれを誘ふ一つの物として見るに過ぎない。白い宮殿の三層目の左から二つ目の窓掛が人気ひとげのあるらしく動いて居た。宗教画に彩いろどられた高い門を潜くゞつて賑にぎやかな街へ出た。朴氏は勧工場くわんこうばへ私を伴つれて行つたが、私は汽車賃が何いづれ又追加される様な気がして莫斯科モスコオの記念の品も買ふ気にはなれなかつた。領事館は十時でないと人が来て居ないと云ふので、私は花岡、石田二氏への言伝ことづてを朴氏に頼んで復また汽車に乗つた。椅子が一つあつて室毎ごとに化粧室が備はつて居るだけで、欧羅巴ヨウロツパで最も贅沢ぜいたくだと云はれるノオルドの汽車も其程それほど有難い物とも思はれない。十一時前ぜんに発車した。ボオイが来て明日あすアレキサンドロヺウでもう三円三十五銭払へと云つた。未まだ追加を後あとから多くされるのではないかと云つたが、巴里パリイ迄それで好いいのだと云ふのであつた。食堂のボオイが各室へ注文を聞きに廻るのが私に丈だけは何とも云はない。食べたくもなく思ひながら時間に食堂へ出て見ると、席が無くてやつと田舎ゐなか女らしいけばけばしい首飾りをした厭な黒い服の婦人の隣で椅子を与へられた。ボオイの顔附かほつきが不愉快である。私は昨日きのふ迄の汽車を懐なつかしく思はずには居られなかつた。

晩餐の時は初はじめに私を女優かと問うた英国の老紳士の隣へ坐つた。日本語をよく話す人である。明治六年から三十八年間横浜に居る人だ相さうである。汽車賃はもう十円位追加されるだらうと其その人が云つた。今夜初めて私は上の寝台ねだいで寝た。日本に居る頃から心配して居たワルシヤワの乗替は十八日の午前十一時頃に無事に済んだのであるが、ボオイが来てもう二十八円出さなければ成らないと云はれた時私は胸を轟とゞろかした。三円三十五銭はもうワルシヤワの手前で払つたのである。莫斯科モスコオで朴氏にした礼と馬車代とを使つた後あとで、仏貨や独逸ドイツの銭ぜにを交ぜても二十五円足らずより持合せがない。間違ではないかと云つて見たが何どうしても二十八円要ると云ふ。不愉快な思ひをして食堂へ出る事はしないでも好いいから其れは食べない事にするとしても、何どうも巴里パリイ迄は行ゆけさうにない。かうなると何処どこで降ろされるかも知れないと思ふので少しでも遠い距離に伴つれて行ゆかれたい心で汽車の走るのが嬉うれしい。考へ抜いた揚句あげく今夜私は伯林ベルリンで降りるとボオイに云つたが不可いけないと云ふ。何どうしても伯林ベルリンで降りるのだと云つても頑として不可いけないと云ふ。荷物の関税の関係などの事でさう云ふのである。私は伯林ベルリンの松下旅館で一晩泊とまつて翌日普通の二等車にさへ乗れば楽に巴里パリイへ着かれると思ふのであるが、其れが出来ない事なら何どうすれば好いいかと、向むかふ任せの気にもなれないで胸を痛めて居た。もうアレキサンドロヺウに来て居るのである。ふと目を上げると窓の外のプラツト・フオオムを横浜の英人が運動に歩いて居る。倫敦ロンドン行の汽車は別のかと思つて居たのであるが、前と後うしろになつて居る丈だけで未まだ両方繋がつて居る事に此この時初めて気が附いた。私は其その人の傍そばへ下おりて行つて伯林ベルリンで降りる事をもう一度交渉して見て下さいと頼んだ。紳士は直すぐ来て呉くれてボオイにさう云つて呉くれたが矢張やはり駄目だと云ふ。一日位ぐらゐは好いいではないかと云つても好くないと云ふ。私が途方に暮れて居るのを見て紳士は私に、あなたが金の事で心配するのなら何程でも私が出して上あげると云つて呉くれた。二十円もあれば好いいでせうと云つて私を自身の室へ伴つれて行つて二人の令嬢に紹介した。私は思ひ掛けない事に遇つて感極まつて涙が零こぼれた。用意に三十円もお持ちなさいと云つて露貨で出して呉くれた。此この人の名はマウリス・レツセル氏である。露西亜ロシアの役人が旅行券を返しに来たが、令嬢が「ヨサノ」と云つて私のも受取つて呉くれた。私は今日けふは昼も夜も何も食べなかつた。独逸ドイツの国境でボオイは私を伴つれて行つて十五円程の増まし切符を買はせた。マウリス氏は此この時も其その影を見て又何か事が起おこつたかと降りて来て呉くれた。税関吏は鞄の中は見なかつた。私が心配しながら通つた波蘭ポオランドから掛けて独逸ドイツの野は赤い八重やへ桜の盛りであつた。一重ひとへのはもう皆散つた後あとである。藤の花蔭に長い籐椅子に倚よつて居る白衣の独逸ドイツ婦人などを美しく思つて過ぎた。伯林ベルリンへ着く前に私は寝台しんだいを作らせて寝た。十九日の朝仏蘭西フランスの国境で汽車賃を十円追加された。ボオイの独逸ドイツ人が物柔かな仏人に代つて初めて私は悠ゆるやかな気分になつた。茶とパンを室へ運ばして食べた。昨日きのふから余程よほど神経衰弱が甚だしくなつて居るので、少し大きな街、大きな停車場ステエシヨンを見ると何とも知れない圧迫を感じるので、私は成るべく外を見ない様にして居た。窓掛の間から野生の雛芥子ひなげしの燃える様な緋の色が見える。四時と云ふのに一分の違ひも無しに巴里パリイの北の停車場ギヤアルに着いた。プラツト・フオオムには良人をつとの外に二人の日本画家と二人の巴里パリイ人とが私を待つて居て呉くれた。(五月十九日)

ツウルの二夜ふたよ

麦と葡萄ぶだうで青白あおじらんだ平野の面に赤と紫の美しい線を彩いろどるのは、野生の雛罌粟コクリコと矢車草とが総すべての畦路あぜみちと路傍とを埋うづめて咲いて居るのである。其間そのあひだに褐色の屋根や白い壁を擡もたげて田舎家ゐなかやが散らばり、雨上りの濁つた沼の畔ほとりには白斑まだらの黄牛あめうしが仔牛を伴つれて草を食はみ、遠方の村村むらむらの上に聳そびえた古い寺院の繊細きやしやな尖塔が、白楊はくやうのひよろ長い、橡マロニエの円形まるがたな木立こだちと一緒に次第に矮ひくく地平の彼方あなたへ沈んで行ゆく。斯かう云ふ仏蘭西フランス田園の景色を急行列車の窓で好い天気の日に眺め乍ながら、巴里パリイより二時間半でジヤン・ダルクの生地として名高いオルレアン街まちに達し、更に三十分の後のちロアルとセエルの両河がに挟まれたツウル市に着いた。旅館オテルまでは遠くないから歩かうと、案内役である元気の好いい和田垣博士が鞄を提さげて先に停車場ギヤアルを出られる。晶子と二人ふたり前の旅支度じたくを収めた大きな信玄袋を携へた僕は、尠すくなからず閉口し乍ながら五町ちやう程汗に成つて歩いて来た。日本服の上に花の附いた帽を被きて面紗おもぎぬを掩おほふた晶子の異様な姿に路路みちみち人だかりがする、西班女エスパニヨルだなどと評して居る者もある。旅館オテルの主婦のナイエル夫人が出迎へて最もう会ふ事の出来ないと想つて居た博士の再来に驚喜の声を放つた。博士は「日本人は約束を守る誠実な国民だ。も一度来ると云へば屹度きつと此この通りに来る。加之おまけに二人の詩人を伴つれて来た。殊ことに日本婦人がツウルへ来た事は之これが始めであらう」と言はれる。

博士も僕等も部屋を定めて置いてから夕飯ゆふめし迄の時間を利用して見物に出掛けた。歴史上幾多の事蹟を留とゞめた旧い街丈だけあつて一体に嫻雅かんがの趣おもむきに満ちた物静ものしづかな土地である。葡萄酒と絹物との産地だから富裕な事は勿論であるが、商業地としてよりも沈着おちついた遊覧地としての感の方が深い。女の服装なども巴里パリイの流行に影響せられて居乍ながら何処どことなく昔からの趣味の正しい伝統を保存して、けばけばしく生なまな所が無いのに直すぐ気が附く。何よりも先まづ此この地の代表的な物は山城の宇治に於ける宇治川と鳳鳳堂との如く、ロアル河の明媚な景勝と市街の上に崛起くつきして居るカテドラルの物寂びた十三世紀の古塔とである。ロアル河の沿岸には数里に亘わたつて幾多の古城があつて、一城の探勝にも半日を費す丈だけの価値は十分だと聞いたが、僕等は別荘地に成つて居る対岸の山の手を望んで架せられたツウルの大石橋せきけうが水に落した倒影を眺めた丈だけでも姑しばらくは目を転ずる事が出来なかつた。橋の上に立つて緑野の中へ涯はて知らず白く烟けぶつて行ゆく下流を見渡した時、ヹルサイユ宮きうの運河キヤナルなどは児戯だと思つた。上流の方には京都の下加茂の森に好く似た中島なかじまがあつて木立こだちの中に質素な別荘家やが赤い屋根を幾つも見せて居る。両岸がんには二階造づくりに成つた洗濯船ぶねが幾艘か繋がれて白い洗濯物が飜ひるがへつて居た。渚に蹲しやがんで洗ひ物をして居る女もあつた。向むかひの岸へ渡つて並木路みちづたひに上流へ歩み乍ながら市街の方を眺めた時、薄黒うすぐらくなつた古塔の険しい二つの尖さきに桃色の温かい夕日が当あたつて居た。吹く風も無いのに白楊はくやうの花が数知らず綿わたの様に何処どこからか降つて来るのも長閑のどかであつた。

中島なかじまの鉄の吊橋を渡つて再びツウルの街の方へ引返すと、路みちは頓やがてカテドラルの古塔の前へ出た。塔から折折をりをり石が欠けて落ちる危険があるので、下の方に頑丈な桟敷を設けて落ちる石を受ける様にしてある。堂内はゴシツク式建築の大寺院の例に漏れず薄暗い中に現世げんせと掛かけ離れた幽静いうせいを感ぜしめ、幾つかの窓の瑠璃るりの地ぢに五色しきを彩いろどつた色硝子ガラスが天国を覗のぞく様に気高けだかく美しい。未まだ巴里パリイのノオトル・ダムを観る暇の無かつた晶子は之これに見恍みとれて居る。周囲の礼拝らいはい室に静かに黙祷もくたうに耽つて居る五六人の女が居た。響くものは僕等の靴と草履ざうりの音丈だけである。一室にルイ十一世の夭折した二人の子を合葬した大理石の棺くわんが据ゑてあつた。棺くわんの上に刻まれた其その小さな王子と王女との寝像ねざうの痛いけなのに晶子は東京に残して来た子供等を思ひ泛うかべて目を潤ませて居るらしい。以前此この寺の僧院であつた隣の建築物はツウル市の博物館に成つて居る。博物館の前は小さな広場で、文豪が屡しば〱此この地に遊んだ縁故えんこから「エミル・ゾラの広場」と云ふ名を負うて居る。又此この地に生れた文人で今も非常な尊敬を郷人きやうじんから受けて居るバルザツクは其その少年の日に此この古塔の下や広場の木立こだちの中で常に遊んで居たと云ふ事である。ナイエル婦人の旅館オテルは此この広場の外れにあつて、僕の部屋に当あてられた二階の窓を其処そこの木立こだちの明るい緑が照てらして居た。

和田垣博士は去年の夏から今年の三月まで此この地で読書して居たので旧知の家が多い。近日巴里パリイを去られる博士は其それ等の人人へ告別の為に忙せはしい中から特に此この再遊を企てられたのであつた。僕等は博士のお供をして彼方此方あちらこちらを訪問した。詩人ベランゼが住んで居た縁故えんこで記念の名を負うた「ベランゼの並木路アブニウ」に臨んだ煙草たばこ屋は博士が七箇月間煙草たばこを買はれた店で快濶な主人夫婦が面白いと云ふので今度も態態わざわざ立寄つて煙草たばこを買はれた。主人夫婦と博士との立話たちばなしが尽きない内に午後七時の夕飯ゆふめしの時が来た。急いで旅館オテルへ帰ると、二人の英国婦人に二人の加奈陀カナダ青年、二人の子供を伴つれた一人の英国婦人、其れに主婦と、ヴウヴレエ市の学校で独逸ドイツ語の教師をして居て春の休暇で帰つて来た一人息子とが既に食卓に就いて居た。瀟洒あつさりとして美味うまい夕飯ゆふめしであつた。ツウルの野菜料理と云へば土地の人が酒の味と共に誇る所だ相さうである。総すべての外国人に対して日本人に好感情を持たしめようと力つとめられる博士は、相変らず食卓の談話に英独仏の三国ごく語を使ひ分けて有らゆる愛嬌あいけうを振撤ふりまかれた。食後ナイエル夫人は亡夫の肖像を掛けた一室へ僕等三人を延ひいてカンキナ酒しゆの小さな杯さかづきを勧め、自身はピヤノに向むいて二三の小歌こうたを好いい声で歌つた。顔に小皺じわは寄つて居るが、色の白い、目の晴やかに大きい、伯爵夫人と言つても好い程の品ひんのある女である。博士も何か謡曲の一節せつを謡うたはれた。

「夜よるの街を見ませう」と僕が云つたら、「多い珈琲店キヤツフエの中で気に入つたのが五軒ばかしある。家毎いへごとに特色が著しい。其れを片端かたはしから短時間宛づゝ訪ねようぢや無いか」と博士の言はれる儘まゝに旅館オテルを出たのは九時であつた。初めに入つたキヤツフエ・ド・〔濁点付き井〕ルは音楽が秀すぐれて居ると云ふ事だが僕等には其程それほどよく解わからない。唯たゞ老人の楽長が伴つれて居る一人娘の大琴おほことを弾く姿の繊ほつそりとして水を眺めたニムフの様やうなのを美しいと思つた。肩章も肋骨も赤い青年士官が土曜日の晩丈だけに沢山たくさん来て静かに骨牌かるたを闘たゝかはして居た。此処ここでも博士と再会の握手をする土地の紳士が二三人あつた。次に遊んだキヤツフエ・ド・コンメルスの隅の一卓を囲んで居ると、僕等より遅れて入はひつて来た一人の女が彼方此方あちこちを姑しばらく見廻して居たが、ついと寄つて来て僕等に会釈をし乍ながら立つて晶子の日本服を眺めて居る。衣裳いしやうの好みや身体からだの科こなしが此この種類の女としては水際だつて品ひんの好い物優しい所がある。今度欧洲へ来られてから未まだ一度も斯かう云ふ場所で女に応対せられた事は無いと自称せられる博士が珍しく口を切つて「其処そこへ掛け給へ、君」と言はれた。女に「何を飲むか」と僕が問ふと「茶を」と云つた。女は普通なみの女で無くて近頃此この街の寄席よせで折折をりをり踊る踊子であつた。無邪気な若い女で僕等の問ふ儘まゝに色色いろいろの事を話した。思はず此この女と語り更かしたので三番目のグラン・キヤツフエを訪とうた時は十二時近くであつた。此この珈琲店キヤツフエの建築は最も古雅に出来て居た。主人夫婦は朴訥ぼくとつな老人で去年和田垣博士と知つて以来大の日本贔屓びいきに成つて居る。主人は頻しきりに僕に向むかつてツウルの言葉の美しい事を話した。昔の貴人きじんの用ひた正しい和やはらいだ仏蘭西フランス語は独り此この地に丈だけ行はれて居て、農夫も馬丁も俚語アルゴを用ひないのが特色だ相さうである。博士が巴里パリイへ寄らずに日本から直すぐ此この土地へ来られたのも語学に関する其その理由からであつた。話込んで居る内に客は皆帰つて僕等と主人夫婦と丈だけが残り、どの給仕人ギヤルソンも先に寝て仕舞しまつた。あと二軒を見残して旅館オテルへ帰つたのは午前二時であつた。僕は飲み慣れない強い酒を色色いろいろ飲んだので却かへつて頭が冴えて容易に寝附かれなかつた。少し昏昏うとうとしたかと思ふとカテドラルの古塔の日曜の朝の鐘が枕の上へ響き渡つた。

翌朝てうは馬車を駆つて市の南門なんもんを出いで、セエル河を渡つて郊外のサンタ・ヹルタン村に遊んだ。柔かに打霞うちかすんだ新緑の木立こだちは到る処ところにコロオやピサロオの風景画を展開した。木蔭には野生の雛罌粟ひなげし其他そのたの草花が丈たけ高く咲さき乱れて、山鳩の群むれが馬蹄の音にも驚かずに下おりて居る。フツクと云ふ家は何となく東京の王子の扇屋あふぎやを聯想れんさうさせる田舎の料理屋レスタウランである。僕等は朝からヴウヴレエ酒を一壜びん倒たふして仕舞しまつた。巴里パリイで飲むなら一壜びん八フランも取られる三鞭シヤンペン質の美味うまい酒だが、此処ここでは産地が近くて税が軽いから纔わづかに二フラン五十の散財で快いい気持に酔ひ乍ながら、更に村外れまで徒歩を試みた。晶子は葡萄畑の畦あぜを繞めぐつて色色いろいろの草花を摘んで歩いた。百姓家やの庭は薔薇ばらの花と桜実さくらんぼとの真盛まざかりである。日曜の鐘を聞いて白いレエスの帽を被かぶつた田舎ゐなか娘が幾人も聖書を手にし乍ながら坂路さかみちを伏目勝がちに御お寺へ急ぐ姿も野趣に富んで居た。帰りには十分間に一度通る単線の電車に乗つて市内へ引返ひつかへして来た。終点で下おりると其処そこの並木路アブニウの端に文人バルザツクの銅像が立つて居た。

午後は美術商を営んで居るピニヨレ夫人の一人娘エジツが植物園や公園へ僕等を案内して呉くれた。勿論ピニヨレ夫人も和田垣博士の旧識であるが、エジツは曾かつて博士の滞在中英語を教へて貰つた弟子である。十四歳だと云ふが背丈は十七八にも見える。お母つかさんのピニヨレは何時いつも白い紗しやで髪から首筋を包んで居てラフワエルの描かいた聖母像を想はしめる優しい面立おもだちの女だが、娘はお母かあさん程美しくは無いけれど気立きだては更に一層素直であるらしい。帰途かへりに芝居の前の其その家へ寄ると、ピニヨレ夫人は僕等にカンキナ酒を注ついで出し乍ながら「今夜お差支さしつかへが無いなら山荘の方へ馬車で御ご案内したい」と云ふ。一度山荘へ遊んだことのある博士は、其れが山腹の自然石せきを切り開いた大巌窟がんくつである事を僕等に語つて是非ぜひ見て置けと言はれる。其れで馬車代丈だけは僕等三人で負担する事に決めて同行を約した。

晩餐を旅館オテルで済ました後のちピニヨレ夫人の門から馬車に乗つたのは夜の八時半であつた。ツウルの大石橋せきけうを渡つて岸に沿ふて稍やゝ久しく上流の方へ駆けさせた。川風の寒い晩で薄着をして来た僕と晶子とは身を慄ふるはせずに居られなかつた。宵闇の木蔭を縫つて山路やまみちへ差掛つた。夫人は絶えず「左へ駆かれ、左へ」と馭者に命じた。何だか「即興詩人」の中の賊の山塞へ伴はれる様な気がした。山荘の扉の前は一面にひよろ長い草が生おひ茂つて星明りに透すかせば其それが皆花を着けて居る。夫人は草花を分けて扉の錠を放ち乍ながら「今年に成つて一度しか来ないものだから」と云つた。

早速さつそく幾本かの蝋燭が各室に点つけられて大洞窟の闇を破つた。客室サロンも寝室も倉も炊事場ばも総すべて自然の巌石がんせきを刳くり抜き、其それを劃しきつた壁も附属した暖炉や棚なども全まつたく据附すゑつけの巌石がんせきで出来て居る。二百年前ぜんに作つたと云ふが何どの室も未まだ煤すゝびずに白く鑿のみの痕あとが光つて居る。何より寒い今夜の御ご馳走は火が先だとエジツが倉から小柴を抱へて出て炉を焚たきつける。其その上へ博士が長い丸太を引ひきずり出して載せられる。僕は蕪形かぶらなりの大きな鞴子ふいごで其それを煽あふいで居た。其その内に夫人は石卓せきたくへ持参の料理を並べて夜食スウベの用意をする。夫人が水を汲みに行くエジツに附いて行つて呉くれと云ふので、僕は蝋燭を執つて一段下の洞窟の奥へ降りて行つた。エジツが薄気味悪がるのも道理、昼さへ光の射ささぬ闇の底に更に深い泉が湧いて居る。其れを轆轤仕掛ろくろじかけの釣瓶つるべで汲むのである。エジツが縄を弛ゆるめ乍ながら耳をぢつと澄すまして「それ、釣瓶つるべが今水に着きました」と静しづかに言ふ時、底の底で幽かすかに紙の触れる様な音がした。釣瓶つるべが重いので僕も手を添へて巻上げた。

食卓の上へエジツが洞窟の前の雛罌粟ひなげしを摘んで来て皿に泛うかべた。其れを囲んで軽い冷肉ひやにくと菓子とを肴さかなにボルドオとヴウヴレエとの杯さかづきを挙げ乍ながら、話は仏蘭西フランスの風俗から東洋の美術に及んだ。博士は興に乗つて「大江山」を謡うたはれた。女学校へ行ゆく外に音楽教師の許もとへ通つてるエジツは数篇の詩を歌ひ、又尼寺で習つたと云ふ宗教的なお伽噺を一つ述べた。最後に夫人も僕等も思ひ思ひに立つて踊り廻つた。洞窟の石壁せきへきに映る其その影を面白がつて椅子に凭よつて居たのは晶子であつた。十二時に迎への馬車が来た。夫人が跡片附をして居る間洞窟の前に出て見渡すと、何時いつの間にか月がさして、練絹ねりぎぬを延べた様なロアル河は直すぐ前に白く、其れを隔てたツウルの街は唯たゞ停車場ステエシヨンの灯火あかりを一段際きはやかに残した丈だけで、外は墨を塗つた様に黒く静しづかに眠つて居る。博士は山の何処どこかで、糸を引く様な虫が啼なくと云はれたが僕には聞きこえなかつた。(六月六日)

「暗殺のキヤバレエ」

僕等の下宿して居るモンマルトル附近には「死んだ鼠」だの「黒猫」だのと云ふ不気味な名や、「虚無の酒場キヤバレエ」だの「地獄の酒場キヤバレエ」だの、「暗殺の酒場キヤバレエ」だのと云ふ不穏な酒場キヤバレエが多い中に「暗殺の酒場キヤバレエ」は最も平民的な文学者と此この界隈に沢山たくさん住んで居る漫画家連中れんちゆうとが風采なりも構はずに毎夜よ集つて無礼講で夜明あかしをする処ところとして有名である。モンマルトルの中心と云はれる大通おほどほりは十二時を越えて不夜城の明るさを増すと云ふ巴里パリイ唯一の遊楽街いふらくまちだが、此この酒場キヤバレエのあるのは大通おほどほりから四町ちやう程入いり込んだ高地で、昼間さへ余り人通ひとどほりが無いのだから、未まだ宵の口だのに最もう深夜の感がする程灯火あかりも人気ひとけも少すくない。殊ことに巴里パリイで名高い古い街の一つに数へられて居る丈だけ昔の煤すゝびた建物が多いので一層どす暗ぐらく、其その酒場キヤバレエまで登つて行ゆく間の曲り紆くねつた石畳の坂路みちの不気味さと云つたらない。何どうかすると夜間に此この界隈へ大通おほどほりから一歩迷ひ込んだ旅客りよかくの一人や二人が其儘そのまゝ生死しやうじ不明になつて仕舞しまふ例もあると云ふ。併しかし其れは昔のことに違ひない。今の巴里パリイは何処どこへ行つても全まつたくそんな危険は無い。

「暗殺の酒場キヤバレエ」へ初めて来た人は事毎ことごとに驚く。第一前に述べた来る路みちの淋しさと物凄さとに驚かされて居る処ところへ、四百年以上経て居ると云ふ古い建物の酒場キヤバレエが、石と土とを混ぜて築き上げた粗末な壁の二室ふたましかない平家で、老主人夫婦と一人の給仕女との三人の家族の住む方は土地の傾斜の儘まゝに建てられて薄暗ぐらい窖あなぐらの様に成つて居るし、客の席に当てた一室ひとまは纔わづか十畳敷程の広さで、冬になれば頑固な石の暖炉シユミネへ今でも荒木あらきを投げ込むので何処どこを眺めても煤光すゝびかりに穢きたなく光つてゐる中へ、正面に両手と両足を縛られた男の大きな塑像が之これも煤すゝと塵とに汚れて哀かなし相さうに痩せこけた顔を垂れ乍ながら天井からぶら下さがる。四方の壁には昔から此処ここで飲んだ幾多の漫画家の奇怪千万ばんな席描がきが縦横に貼られ、傷だらけの薄穢ぎたない荒木あらきの卓の幾つと粗末な麦藁の台の椅子の二十許ばかりとが土間に散らばつて居る。

其処そこへ入はひつて来る客は何どうかすると労働者と間違へる様な服装の連中れんぢゆうが多い。其れは大抵画家である。文学者の側がはには髪や髭に手入をして居る者もあるが、画家は概おほむね其それ等のことに無頓着な風をして居る。名物男の老主人フレデリツクは断えず酒臭い気息いきをして客毎ごとに話して居る。言葉が極めて横柄で客に向いて「あなた」とは云はずに「お前めいたち」と云ふ。白髪しろが頭に縁ふちの垂れた黒い帽を被きて紅い毛糸のぶくぶくした襯衣しやつに汚れた青黒い天鵞絨ビロウドの洋袴パンタロンを穿はき、大きな木靴を引ひきずつて、又してもギタルを弾乍ひきながら「聴きなさい、お前まへたち、南仏蘭西フランスの田舎ゐなかの麦刈唄を一つ。」と云ふ様な事を命令的に云つて、老嗄おいがれた好い声で楽し相さうに歌ふ。其その少し藪睨にらみな白い大きな目が赤い紙で包んだ電灯の下もとで光るのは不気味だが、其その好い声を聴き、垂下たれさがつた胡麻塩髭の素直なのを見れば、此処ここへ来る者の凡すべてが「我父モンペエル」と云つて我儘まゝな老爺おやぢに懐なつくのも無理は無い。

一昨日をとゝひの晩晶子を伴つれて画家の江内えうちと一緒に僕が行つた時は、土曜の夜丈だけあつて九時過ぎに最もう客が一ぱいに成つて居た。後あとから来た客は皆立つて居る。画家連中れんぢゆうと来て居るモデル女の幾人は席が無いので若い画家の膝を択えらんで腰を掛ける程の大入おほいりである。夫婦づれの画家や姉妹を伴つれた詩人達も居た。此処ここの定めは注文した酒の杯さかづきと引換に銭を払ふので、洋袴パンタロンの衣嚢かくしから取出す銅銭の音が断えず狭い室の話声はなしごゑに混つて響くのも外ほかと異ちがつて居る。老爺おやぢは日本服を着けた晶子の来たのを喜んで、早速さつそくギタルの調子を合せてヹルレエヌの短詩を三つ続けざまに歌つた。其れから僕の万年筆ふでをひつたくる様にして、晶子の小さな手帳へ自画像と酒場キヤバレエの別名と自分の名とを書いた。又「わたしは日本の人が好き。わたしは又酒が好き。飲みなさい、飲みなさい。でも、わたしは酒を飲まない者はみんな好かない」と出たらめの短い詩を書いた。酒場キヤバレエの別名は「兎の酒場キヤバレエ」と云ふので入口の壁の上に一匹の兎が描かれて居る。去年老爺おやぢの一人息子が此この客室サロンで風来の労働者の客に勘定の間違まちがひから拳銃ピストルで殺されて以来、気丈な老爺おやぢも「暗殺」と云ふ詞ことばを忌いんで別名の方許ばかりを用ゐようとして居るのだが、昔から知られた「暗殺の酒場キヤバレエ」の方が矢張やはり通りが好いらしい。

夜が更けるに従つて沢山たくさんの人が続続ぞくぞく歌つた。自作の新しい詩を歌つた詩人が二人、対話風の文章で何処どこかの芝居の批評をした物を朗読した文人が一人あつた。其その度に老爺おやぢが満室の客に注意を与へて演じる人を紹介する。と、今迄思ひ思ひに談笑して居た客が老人も若い者も忽たちまち静粛になつて傾聴し、其れが終る度に日本の手打てうちの様に一二三の掛声で拍手する。斯かう云ふ場合に一人も酔つぱらひらしい者の出ないのは敬服である。夜明よあけがたまで斯こんな風で遊び明あかす習慣ならひだが、晶子が室内に濛濛もうもうとして出場でばを失つて居る煙草たばこの煙に頭痛を感じると云ふので十二時少し過ぎに帰つて来た。(六月十七日)

巴里パリイにて(晶子)

巴里パリイの良人をつとの許もとへ着いて、何と云ふ事なしに一ヶ月程を送つて仕舞しまつた。東京に居た自分、殊ことに出立前しゆつたつまへ三月みつき程の間の忙せはしかつた自分に比べると、今の自分は余りに暇があるので夢の様な気がする。自分の手に一日でも筆の持たれない日があらうとは想像もしなかつたのに、此処ここへ来てからは全まつたく生活の有様が急変した。其れが気楽かと云ふと反対に何だか心細い様な不安な感が姶終附いて廻る。好きな匂にほひの高い煙草たばこも仕事の間に飲んだ時と、外出そとでの帰りに買つて来て、する事のない閑ひまさに飲むのとは味が違ふ。新しい習慣に従ふことを久しい間の惰性が姑しばらく拒むらしい。其れに自分が日本を立つたのは、唯ただ良人をつとと別れて居ることの堪へ難い為ためであつた。良人をつとが欧洲へ来たのとは大分だいぶに心持が異ちがふ。欧洲の土を踏んだからと云つて、自分には胸を躍らす余裕がない。ひたすら良人をつとに逢ひたいと云ふ望のぞみで張はり詰めた心が自分を巴里パリイへ齎もたらした。而さうして自分は妻としての愛情を満足させたと同時に母として悲哀をいよいよ痛切に感じる身と成つた。日本に残した七人の子供が又しても気に掛る。自分が良人をつとの後あとを追うて欧洲へ旅行するに就いては幾多の気苦労きぐらうを重ねた。子供を残して行ゆくと云ふ事は勿論その気苦労きぐらうの一つであつた。其れが為ため特に良人をつとの妹を地方から来て貰つて留守を任せた。子供等は叔母さんに直すぐ馴染なじんで仕舞しまつた。叔母さんからの手紙は断えず子供等の無事な様子を報じて来る。手紙を読む度にほつと胸を安めながら矢張やはり忘れることの出来ないのは子供の上うへである。

巴里パリイの街を歩いて居ると、よく帽に金筋きんすぢの入はひつた小学生に出会ふ。其れが上の二人の男の子の行つて居る暁星小学の制帽と全まつたく同じなので直すぐ自分の子供等を思ふ種たねになる。ルウヴルの美術館でリユブラン夫人の描かいた自画像の前に立つても其その抱いて居る娘が、自分の六歳むつつになる娘の七瀬なゝせに似て居るので思はず目が潤うるむ。自分はなぜ斯かう気弱く成つたのかと、日本を立つ前の気の張つて居たのに比べて我ながら別人の心地がする。

四月の半なかばであつた。里に預けて置いた三番目の娘が少し病気して帰つて来た。附いてる里親の愛に溺れ易いのを制する為ために看護婦を迎へたりして其児そのこに家内中かないぢゆうが大騒ぎをして居る中へ、四歳よつになる三男の麟りんが又突然発𤍠した。叔母さんも女中達も手が塞ふさがつて居るので書斎の自分の机の傍そばへ麟りんを寝かせて自分が物を書きながら看護して居た。温厚おとなしい性質きだての麟りんは一歳ひとつ違ひの其その妹よりも𤍠の高い病人で居ながら、覗のぞく度に自分に笑顔を作つて見せるのであつた。而さうして無口な子が時時ときどき片言こと交りに一つより知らぬ讃美歌の「夕日は隠れて路みちは遥けし。我主わがしゆよ、今宵こよいも共にいまして、寂しき此この身を育はぐくみ給へ。」と云ふのを歌ふのが物哀れでならなかつた。自分はそんな事を思ひ出しながら歩くので、巴里パリイの文明に就いては良人をつとが面白がつて居る半分の感興も未まだ惹かない。過去半年はんねんに良人をつとを懐おもふ為に痩せ細つた自分は、欧洲へ来て更に母として衰へるのであらうとさへ想はれる。

日本服を着て巴里パリイの街を歩くと何処どこへ行つても見世物の様に人の目が自分に集あつまる。日本服を少しく変へて作つたロオヴは、グラン・ブルヷアルの「サダヤツコ」と云ふ名の店や、巴里パリイの三越と云つてよい大きなマガザンのルウヴルの三階などに陳ならべられて居るので、然さまで珍しくも無いであらうが、白足袋たびを穿はいて草履ざうりで歩く足附あしつきが野蛮に見えるらしい。自分は芝居へ行ゆくか、特別な人を訪問する時かの外は成るべく洋服を着るやうにして居る。併しかし未まだコルセに慣れないので、洋服を着る事が一つの苦痛である。でも大きな帽を着ることの出来るのは自分が久しい間の望みが達した様に嬉うれしい気がする。髪を何時いつでも剥むき出しにする習慣がどれ丈だけ日本の女をみすぼらしくして居るか知れない。大津絵の藤娘が被きて居る市女いちめ笠の様な物でも大分だいぶに女の姿を引立たして居ると自分は思ふのである。丸髷まげや島田に結つて帽の代りに髪の形を美しく見せる様になつて居る場合に帽は却かへつて不調和であるけれども、束髪そくはつ姿には何どうも帽の様な上から掩おほふ物が必要であるらしい。自分は今帽を着る楽たのしみが七分しちぶで窮屈なコルセをして洋服を着て居ると云つて好い。

モルマントルと云ふのは、山の様に高くなつた巴里パリイの北の方にある一部の街で、踊場をどりばや珈琲店キヤツフエ、酒場キヤバレエなどの多い、巴里パリイ人の夜明あかし遊びをしに来る所と成つて居るのである。十二時にならないと店を開あけない贅沢ぜいたくな料理屋も其処此処そこここにある。芝居帰りの正装で上中流の男女なんによが夜食を食べに来るのだ相さうである。夜よが更けるに随したがつて坂を上のぼつて来る自動車や馬車の数が多くなつて行ゆく。そんな処ところに近い〔濁点付き井〕クトル・マツセ町まちの下宿住居ずまゐが、東京にも見られない程静かな清清せいせいした処ところだとは自分も来る迄は想像しなかつたのである。通りに大きな鉄の門があつて、一直線に広い石の路次ろじがある。夜はその片側に灯ひが一つ点ともる。路次ろじの上には何階建てかの表おもての家があることは云ふ迄もない。突当つきあたりは奥の家の門で横に薄青く塗つた木製の低い四角な戸のあるのが自分達の下宿の入口いりくちである。同じ青色を塗つた金網が花壇に廻めぐらされて居る。横が石の道で、左手の窓際にも木や草花が植うわつて居る。欄干てすりの附いた石段が二つある。此この二つの上あがり口の間あひだが半円形に突き出て居て、右と左の曲り目に二つの窓が一階毎ごとに附けられてある。自分の居るのはこの半円の間まの三層目に当るのである。内方うちらからは左になる窓の向むかうには庭のアカシヤが枝を伸のばして居る。木の先は未まだ一丈許ばかりも上に聳そびえて居るのである。下を眺めると雛罌粟ひなげしや撫子なでしこや野菊や矢車草の花の中には青い腰掛バンクが二つ置かれて居る。けれども自分を京都の下加茂辺あたりに住んで居る気分にさせるのは、それは隣の木深こぶかい庭で、二十本に余るマロニエの木の梢の高低たかひくが底の知れない深い海の様にも見える。一番向|《むか》うにある大きいマロニエは其その背景になつて居る窓の少すくない倉庫くらの様な七階の家よりも未まだ勝すぐれて高い。木の下は青い芝生で、中に砂の白い道が一筋ある。薔薇ばらの這はつた門や陶器せとものの大きい植木鉢に植ゑられた一丈位ぐらゐの柘榴ざくろや桜の木の並べられてあるのも見える。其その家の前は裏の通とほりなのであるが、夜更よふけにでもならなければ車の音などは聞えて来ない。この隣と自分の居る家との間には平家になつた此処ここの食堂があるのであるが、高い処ところからは目障りにもならない。右の窓から青い木が見える。そして向むかふの方に蔦つたの附いた趣おもむきのある壁が見える。メルルと云つて日本の杜鵑ほとゝぎすと鶯うぐひすの間の様な声をする小鳥が夜明よあけには来て啼なくが、五時になると最早もう雀の啼なき声と代つて仕舞しまふ。白いレエスの掛つた窓を開けると、何時いつも何処どこにあるのか知らないが白楊はくやうの花の綿わたが飛んで来る。《六月十日》

ノオトル・ダム(晶子)

ああ巴里パリイの大寺院ノオトル・ダム。

年とし経へしカテドラルの姿は

いと厳おごそかに、古けれど、

その鐘楼しようろうの鐘こそは

万代ばんだいに腐らぬ金銅こんどうの質しつを有もちて、

混沌の蔓つるの最先いやさきにわななく

青き神秘の花として開き、

チン、カン、チン、カンと鳴る音は

爽さはやかに清すめる、

劇はげしき、力強き、

併せて新しき匂ひを

「時」の動脈に注さしながら、

「時」の血を火の如く逸はずませ、

洪水おほみづの如く跳をどらせ、

常に朝の如く若返らせ、

はた、休む間まなく進ましむ。

その響ひゞきにつれて

塔の上より降くだる鳥の群むれあり、

人は恐らく、そを

森の梢こずゑより風に散る

秋の木この葉と見ん。

我は馬車、自動車、オムニブスの込こみ合ふ

サン・ミツセルの橋に立ちつつ、

端はしなく我胸に砕け入る

黄金きんの太陽の片へんと見て戦をののけり。

その刹那せつな、わが目に映る巴里パリイの明るさ、

否いな、全宇宙の明るさ。

そは目眩めくるめく光明遍照くわうみやうへんぜうの大海おほうみにして、

微塵みぢんもまた玉たまの如く光りながら波打ち、

我われも人ひとも

皆輝く魚うをとして泳ぎ行ゆきぬ。

ロダン翁をう

巴里パリイの停車場ギヤアルアンヷリイドから汽車に乗つて三十分程でムウドン駅に下車かしやした。郊外のベル・〔濁点付き井〕ユウ村にあるアウギユスト・ロダン先生の家を訪とはうと松岡曙村しよそんと晶子と三人で出掛けたのである。日本の七八月と思ふ程変調に暑い日の午後、だらだら坂ざかに成つて居る赤土の焼けたその村の路みちは、アカシヤの若葉の並木が続いて居るに拘かゝはらず歩き苦ぐるしかつた。引返して馬車を雇はうと思つたが此この停車場ステエシヨンには馬車が居ないと曙村が云ふ。路普請みちぶしんをして居る土方に聞くと、此この路みちを真直まつすぐに行ゆけ。鉄道の上に架した橋を渡つて程なく左手に建つた第一の家がロダン先生の家である。木立こだちの上に風車かざぐるまの舞ふのが見えると教へて呉くれた。十四五町ちやう歩いた。

牧場まきばにある様な粗末な木戸を押して入はひると中門ちゆうもんの前まで真直まつすぐに一町ちやう程細い路みちの両側に繁つたマロニエの木立こだちが続く。其その木蔭の涼しいので生き返つた心地がした。中門ちゆうもんに突当つきあたつて右に簡略な亜鉛葺とたんぶきの木造の小屋があつて、覗のぞくと中央に作り掛けた大きな塑さく像が据ゑられて居る。後あとで聞けば倫敦ロンドンから依頼された画家ウイツスラアの記念モニウマンだ相さうだ。卓や棚の上にも大小の製作が十とお許ばかり載つて居る。十五畳敷程の広さだ。其その重おもな製作室アトリエは巴里パリイにあるとしても、之これがロダン翁程の大家の製作室アトリエかと驚く外は無い。中に頬ほを少し腫はらした若い弟子が一人仕事をして居たので、其その弟子に来意を告げると、翁は今朝けさ巴里パリイへ行ゆかれたと云ふ。予あらかじめ訪問日を照会しないで突然出掛けたのだから面会の出来ない事のあるのは覚悟して来た。無駄足をしても可いい、唯ただ大芸術家の家の木立こだちを眺めた丈だけでも満足だと思つて居るのであつた。

弟子が「お待ち下さい、ロダン夫人には面会が出来るかも知れません。又先生が巴里パリイから今日けふ何時に帰られるかをも夫人に伺つて見ませう」と云つて、赤い煉瓦家やの母屋おもやの方へ行つて呉くれた。弟子は直すぐ出て来て「夫人が取乱とりみだした風をして居て失礼ですけれど一寸ちよつと門前ぜんで御ご挨拶をすると申されますから御お待ち下さい」と云つた。銀髪のロダン夫人が白茶しらちや色にダンテルを配あしらつた寛ゆたかな一種のロオブを着て玄関の石階いしばしを降りて来られた。何時いつか写真版で見た事のあるロダン翁の製作の夫人の像其儘そのまゝの鬢びんの膨ふくらませ様やうだと思つた。背丈の細りと高い肉附にくづきの彫刻的に締つた中高なかだかな顔の老婦人である。ロダン夫人は晶子と手を握り乍ながら、調子の低い清すんだ声で、「よくまあ遠方のあなた方が来て下さいました。併しかし生憎あいにく主人が留守で、又主人から命令も無いものですから内へ御お通し致して御お話する事の出来ないのを残念に思ひます」と云はれた。晶子は三越で買つて来た白地しろぢに香かうの図と菊とを染めた友禅と、京都の茅野蕭蕭ちのせうせう君に託して買つて貰つた舞扇まひあふぎの一対とを夫人に捧げた。僕が「今から巴里パリイへ引返したら先生に御お目に掛る事が出来ませうか」と云つたら、「其れなら五時迄にオテル・ド・〔濁点付き井〕ロンへお行ゆきなさい、今日けふは夜会に招かれて居るから宅への帰りは遅くなるでせう」と夫人は云つて、弟子を呼んで「巴里パリイの地図でロダンの製作室アトリエのある街をよくお教へするがよい」と云はれた。「停車場ステエシヨンまでの路みちが今日けふは暑いので日本のキモノを着たマダム・ヨサノの徒歩は苦しからう」と夫人が云はれる。僕が「帰途かへりみちはセエヌの岸へ出て小こ蒸気で上のぼらうと思ひます」と云つたら、夫人は「岸までは猶更なほさら遠い。少し御お待ちなさい、ロダンの馬車に馬を附けさせて送らせませう」と云つて直すぐ馭者ぎよしやを呼んで命ぜられた。辞退したが聞かれないので恐縮して待つて居ると、夫人は庭から紅べにと薄黄との薔薇ばらを摘んで来て「二三日前の風と雨で花が皆傷いたんで仕舞しまひました。之これでも庭中ぢゆうでの一番立派な花を切つた積つもりですが斯こんなに見所みどころがありません」と云つて晶子の手に取らせ、そして「ロダンの承諾を得て其内そのうち御招待ごせうたいを致しますから必ず今一度入いらつしやい」と云はれた。

馬車の上は涼しかつた。ロダン先生の馬車に乗るのは名誉だと云つて皆の心は跳おどつた。併しかし馬車は随分質素な一頭立だてで、張つた羅紗の処処ところどころ擦れ切れたのが目に附く。平気で之これに朝晩乗つて停車場ステエシヨンまで往復する老芸術家の曠達くわうたつを面白いと思つた。セエヌ河を渡つてムウドンの繋船場けいせんばまで行ゆくには二十四五町ちやうあつた。偉人と云ふ者は親の偉大な様な者である。僕達は遽にはかに子供らしくなつてロダン翁の庭の薔薇ばらを馬車の上で嗅ぎ合ふのであつた。

馬車を下おりると折好く小こ蒸汽が来た。初夏はつなつのセエヌ河の明るい水の上を青嵐あをあらしに吹かれて巴里パリイへ入はひつた。アレキサンダア三世せ橋けうの側から陸に上あがつて橋詰で自動車に乗つた。オテル・ド・〔濁点付き井〕ロンの鉄門を押して入はひると、石を敷き詰めた広い中庭が高い鉄柵で七分三分に劃しきられ、柵を透とほして見える古い層楼の正面の石廊せきらうへ夕日の斜めに射さした光景が物寂びて居た。右へ延びた方の廊の端に門番の女が住んで居て翁の製作室アトリエが右手の階下にあることを教へて呉くれた。僕達は薔薇ばらの花の絡んで居る鉄柵の小門こもんを潜くゞつて中庭を経て階下の室の鈴を押した。出て来た下部ギヤルソンが僕達の顔を見て「ロダン先生に面会を求めるのは東洋の骨董品でも売りに来たのか」と云つた。失敬な事を云ふ奴だと思つたが、翁に会ひたいと云ふ願ねがひで逸はずんで居る心には腹も立たなかつた。晶子は東京の有島生馬いくま君から貰つて来た紹介状に皆の名刺を添へて下部ギヤルソンに渡した。

此このオテル・ド・〔濁点付き井〕ロンの古い歴史的建築物を保存する為に、政府は此この春議会の協賛を経て之これを買取つて仕舞しまひ、同時に此この層楼に借宅しやくたくして居た人人を凡すべて立退たちのかせたが、ロダン翁丈だけは多年此処ここで製作し慣れて気に合つた家であり、又何かと老芸術家の心に思ひ出も深い家であるから立退たちのく事を肯がへんぜずに今日けふまで住んで居る。其れが為め翁と政府との間に紛紜ごた〲が起つて居るのを某某ぼうぼうの名士等が調停に入はひつたと云ふ新聞記事が十日計ばかり前に出た。結局何どうなる事か知らないが、如何いかにも僧院に似た様な此この古い物寂びた建築から出て行ゆく事を翁の厭がるのは無理も無いなどと小声で話して待つて居ると、下部ギヤルソンが「入はひれ」と云つて次の一室の扉とを開けた。其処そこに肥大な体の、髪も髭ひげも銀を染めたロダン翁が立たち迎へて、鼻眼鏡を掛けた目と色艶いろつやのよい盛高もりだかな二つの頬ほとに物皆を赤子せきしの様に愛する偉人の微笑を湛へ乍ながら、最初に晶子の手を握つて「おお夫人マダム」と言はれた。翁と僕等とを取巻くのは翁の偉大な芸術が生んだ大理石像の一群ぐんであつた。

翁は更に次の室の扉とを手づから開けて僕達を導かれた。其処そこは翁の書斎と客室サロンとを兼ねた室で、翁の机の前には同じく翁の製作が沢山たくさん並んで居た。机に凭よつて何か書いて居た婦人が立つて挨拶をし乍ながら幾つかの椅子を配置した。翁は晶子を強ひて第一の椅子に着かせ、自身は書棚を背にして其その次の大きな肱掛椅子に着かれた。僕と曙村しよそんとが最後の二つの椅子に掛けたので、翁と僕との間の空いた椅子へ翁は其その婦人を坐らせた。其その時翁が「公爵夫人コンテツス」と喚よばれたので貴婦人だと気附いたが、胴衣コルサアジユも袴ジユツプも質素な物を着けて居た。併しかし品ひんの好い一寸見ちよいとみには三十二三と想はれるが、凝ぢつと向むかへば小皺じわの寄つた、若作りの婦人である。仏蘭西フランス語の調子アクサンの変な所を思ふと英国の貴婦人で、ロダン翁の弟子として翁の身の廻りの世話をして居るのだらうと後あとで曙村が云つた。

主客しゆかく五人は翁の机に対し半円形を作つて語つた。翁は鼠色のアルパカの軽い背広の上衣うはぎに黒い袴パンタロンを穿はき、レジヨン・ドノオル(勲一等)の赤い略章を襟に附けて居た。太い曲つた煙管きせるを左の手に持ち、少し耳が遠いらしく、顔を前に出して物を言つたり聞いたりせられる度に、右の頬ほに垂れた眼鏡の紐が悠ゆるやかに揺れた。翁は終始しゆし偉大な微笑ほゝゑみを以もつて語られた。

翁は晶子が有島君から託されて持つて来た雑誌「白樺」を公爵夫人と一緒に繰拡くりひろげて「おお、此処ここに」と言ひ乍ながら、白樺社へ寄せられた翁の製作の写真を見て有島君の健康を問はれ、又其その社の催した翁の製作其他そのたの展覧会の模様を問はれた。僕等は新聞雑誌の記事で知つて居る丈だけの事を述べて、先生の製作が初めて東方へ贈られた事に就ついて日本の青年の感激が尋常でなかつたことを告げた。

翁は「自分の弟子で若くて歿した日本人を知つて居るか」と問はれたので、僕等は生前に交際しなかつたが其その遺作を屡しば〱観た事を告げると、翁は「彼は自分の許もとへ度度たびたび来たのでは無かつたが、彼は善く自分の製作を観て自分の芸術の精神を領解した。仏蘭西フランス人よりもより善く領解した。そして、自分の芸術を模倣せずに彼自みづからの芸術を発見した。彼の死は彼の不幸のみで無い」と云つて惜まれた。併しかし翁は其その弟子の名が日本語である為に思ひ出される事が困難であつたと見えて「彼の名を書いて置いて欲ほしい」と望まれたから、曙村は「モリエ・ヲギハラ」と書いた。僕等は故荻原守衛もりゑ君に対する翁の激賞を聞いて僕等日本人全体の光栄の如く感じた。

其処そこに幾人かの工人が鋳上いあがつた翁の製作の何かの銅像を運んで来たので、翁は一寸ちよつと立つて扉口とぐちの方へ行ゆかれた。其その暇に僕は公爵夫人に「ロダン先生が此家から追立てられて居る事件は何どう成りましたか」と問ふと、夫人は「先生は結局お出に成らねばなりますまい。併しかし其その代りに政府は先生の製作を買つて此この家をロダンの博物館ミユウゼと致す積つもりでせう」と云つた。

再び椅子に着かれた翁は「あなた方は今日こんにちを選んでよく訪ねて来た。明日あすから自分は旅行する所であつた」と云はれ、晶子が捧げた「新訳源氏物語」や僕の捧げた古版こはんの浮世絵と自著の詩集などを開き乍ながら、日本の文学美術に就ついて何くれと問はれた。「日本人に仏蘭西フランス語を解してる人の多い様に遠からず日本語を解する仏蘭西フランス人が沢山たくさんに出来て、自分の知りたいと思つて居る日本の芸術を紹介して呉くれる事を望んで居る」と云ひ、歌麿の絵を眺めて「彫塑の行方ゆきかたと似た行方ゆきかたをして居る」と評し、又荻原君に対する批評を繰返して「彼の製作には運動ムウブマンがあつた。生生いきいきして居た」と云はれた。

「あなた方に議はかるが」と云つて、翁は更に「自分のデツサンの多くを送つて日本で展覧会を開きたいと思ふが、何どう云ふ人達が日本で斡旋の労を取つて呉くれるか。何どう云ふ場所で陳列されるか。陳列の場所の広さに由よつては製作をも少しは送りたい。其れから東京以外にも開くべき都会があるか」と問ひ、「此この前里昂リオンで自分のデツサンの会を開いたが効果が面白くなかつた。仏蘭西フランス人には自分のデツサンが解り兼ねたのであつた。併しかし自分の信ずる所では、日本人は自分のデツサンの趣味を最も善く解して呉くれる国民であらうと思ふ」と云はれた。

僕は其れに答へて「日本人が先生のデツサンを最も善く解するか否かは疑問ですが、先生のデツサンを𤍠心に歓迎する事は保証して宜よろしい。又唯たゞ今確たしかには申しにくいが、日本に於て位地ある美術家は勿論、白樺、三田文学、早稲田文学と云ふ様な文学雑誌社や、僕等の通信して居る朝日新聞の如き大新聞社が必ず喜んで斡旋の労を取りませう。東京以外では京都大阪の両都会で開くでせう。場所も適当な宮殿パレエか択えらばれるでせう」と云つた。翁は「本野もとの大使と自分とは友人であつた」と云つて「日本政府も世話をして呉くれるだらうか」と問はれるから、僕は「勿論でせう」と答へた。翁の厚意と𤍠心とに対して感激し、又話の中にうつかり日本人を代表して居る気にも成つたので、僕等は力つとめて威勢の好いい応答をして仕舞しまつた。

翁は翁自身が旅行から帰られ、又僕等夫婦が英国から帰るのを待つて、日を期して僕等をベル・〔濁点付き井〕ユウの荘しやうに招待せうだいし、翁の製作を観せる序ついでに猶なほデツサンの展覧会に就ついて細かな協議をしようと云はれ、其れから話は日本の芸術に移つた。僕が森鴎外先生が曾かつて翁を主人公とした小説を書かれた事を告げたら、翁は鴎外先生の経歴を問ひ、然さうして先生の筆に上のぼつた事を喜んで其その一本を見たいと云はれたので、僕は日本から取とり寄せて捧呈ほうていすることを約した。公爵夫人は翁の製作に上のぼつた日本女優花子の噂をした。翁は僕等の帰るに臨んで三葉の自身の写真に署名して贈られ、而さうして扉口とぐちに立つて一一いちいち僕等の手を握られた。(六月十九日)

レニエ先生

僕は雑誌「メルキユル・ド・フランス」の主筆をして居るアルフレツド・ヷレツト君から疾とくにモオリス・メテルランクとエミル・ヹルアレンとアンリイ・ド・レニエの三詩宗しそうへの紹介状を貰つて置き乍ながら事に紛れて訪問を怠つて居る中うちに、新聞を見ると最もうヹルアレン氏は旅に出て仕舞しまつた。メテルランク氏は今年になつて巴里パリイに来ない。レニエ氏も何時なんどき夏季の旅行に出掛けるか知れないし、其処そこへ僕達夫婦が小林萬吾石井柏亭両君と一緒に英国へ遊ぶ日も三四日さんよつかの後のちに迫つたので、俄にはかに思おもひ立つて昨日きのふ晶子と松岡曙村しよそんを誘つてボアツシエエル街まち二十四番地にレニエ氏を訪とうた。トロカデロとアルマとの間にある品ひんの好い山の手ではあるが、随分車馬の往来の劇はげしい、一寸ちよつと東京で言へば内幸町と言つた風の感じのする街で、詩人の住み相さうに思はれない処ところである。

門番の教へて呉くれた儘まゝ第二階へ昇つて直すぐ左の突当りの扉とのある鈴を押すと、髪を綺麗に梳すき分けた白い夏服の下部ギヤルソンが出て来た。予あらかじめ訪問日を問合さず突然に来た事を謝して取次を頼んで居ると、細ほそやかな姿の少し白髪しらがのある四十五六歳の婦人が、薄鼠色の服を着て黄金きんの総ふさの下さがつた小さな手提革包てさげかばんを持ち乍ながら、何処どこか病身らしい歩み振ぶりをして昇つて来たが、僕達に軽い会釈を無言でして物静かに扉とびらの奥へ入はひつて行つた。一見して其それが外ほかから帰つて来たレニエ夫人であると想像された。下部ギヤルソンは二三度書斎らしい室の扉とびらを叩く様であつたが、引返して来て、主人は何か御お仕事を成さつてるらしいから、一応手紙で面会日を御ご照会に成つては何どうかと言ふ。三四日後ごに倫敦ロンドンへ立つので遺憾乍ながら其その隙ひまが無い。では秋に成つて再び訪問する事にしようと僕等が云つて辞さうとしたら、下部ギヤルソンは一寸ちよつとお待ちなさいと云つて、奥へ入はひつて前よりも強く扉とびらを叩いた。今度は出て来て明日みやうにちの午前十一時半に主人が御ご面会すると申しますと言つた。

それで今日けふ約束の時間に訪ねて行ゆくと直すぐ大通おほどほりへ面した客室サロンへ案内せられた。室内の飾附かざりつけは此この家の外見のけばけばしいのに似ず、高雅な中に淡い沈鬱な所のある調和を示して居た。美術品の数多い中に、日本の古い金蒔絵の雛道具や、歌がるたの昔の箱入はこいりや、壽じゆの字を中に書いた堆朱つゐしゆの杯さかづきなどがあつた。大通おほどほりから光を受ける三つの大きな窓には、淡紅とき色を上下うへしたに附けた薄緑の窻掛リドウを皆まで引絞らずに好い形に垂らし、硝子がらすは凡すべて大形おほがたな花模様のレエスで掩おほはれて居るので、薄い陰影で刷られた露あらはで無い明あかりが繁つたアカシヤの樹こ蔭にでも居る様な幽静いうせいの感を与へた。詩人は此この室で創作の筆を執ると見えて古風な黒塗のきやしやな机が一つ窓近く据ゑられてあつた。

暫しばらく待つて居ると、髪も髭ひげも灰色をした、細面ほそおもてな、血色けつしよくの好いレニエ氏が入つて来た。「支那流の髭」と評判される程あつて垂れた髭である。其その髭がよく氏の温厚を示して居る。氏は五十歳を幾つも越えないであらう。肉附づきの締つた、細ほそやかな、背丈の高い体に瀟洒せうしやとした紺の背広を着て、調子の低い而さうして脆相もろさうな程美しい言葉で愛想あいそよく語つた。かねて写真で見たやうな片眼鏡は掛けて居ない。コイヅミヤクモやロテイの書いた物を読まない前から自分も東洋に憧憬あこがれて居た。十年前米国に遊んで桑港サンフランシスコまで行つた時、もすこしで太平洋の汽船に乗る所であつたが果さなかつた。併しかしシベリヤ鉄道に由よつて何時いつか一度遊びたいと思つて居ると語つた。氏は又日本の詩壇が数年前ぜんから仏蘭西フランスの象徴派と接触した事を聞いて、其れは必ず経過すべき自然の推移だと云つた。僕は日本誌壇の近状を簡短てみじかに告げて、氏の作物さくぶつを読む者の尠すくなからぬ事を述べ、最近に森鴎外氏が氏の小説を紹介せられた事などを話した。

氏は近年、ヹルアレン氏が戯曲に筆を着け出した如く頻しきりに小説を公おほやけにして居る。氏は最近の著述を揃へて僕に贈る事を約し、僕達が仏蘭西フランスに滞在する間出来る丈だけの便宜を計らうと云はれた。晶子はレエニ夫人に日本の扇や友禅いうぜんを捧げた。夫人も亦また有名な詩人である。氏は夫人が近年病気勝がちである事を話して、他た日晶子を招待せうだいして夫人に引合ひきあはさうと云はれた。僕達は再会を楽たのしんで氏の家を辞した。而さうして今夜此この稿を書いて居ると、氏の手紙が届いて、早速さつそく僕等夫婦の為に書かれた女ぢよ詩人ノアイユ公爵夫人其他そのたへの紹介状が同封せられてあつた。(六月十八日)

巴里パリイの旅窓より(晶子)

×

汽車で露西亜ロシアや独逸ドイツを過ぎて巴里パリイへ来ると、先まづ目に着くのは仏蘭西フランスの男も女もきやしやな体をして其その姿の意気な事である。勿論一人一人を仔細しさいに観るなら各おの〱の身分や趣味が異ちがふ儘まゝに優劣はあらうが、概して瀟洒あつさりと都雅みやびであることは他た国人の及ぶ所で無からう。仏蘭西フランスの女と云へば、其れが余りに容易たやすく目に附くので、どの珈琲店キヤツフエにも、どの酒場キヤバレエにも、どの路上にも徘徊する多数の遊女が代表して居る様に一寸ちよつと思はれるけれど、自分は矢張やはりコメデイ・フランセエズの様な一流の劇場の客間サロンに夜会服の裾を引いて歩く貴婦人を標準として、其れに中流の生活をして居る素人しろうとの婦人の大多数を合せて仏蘭西フランスの女の趣味を考へたい。目の周囲まはりにいろんな隈を取つたりする遊女の厚化粧は決して此この国の誇る趣味ではない。自分は劇場や画ゑの展覧会の中、森を散歩する自動車や馬車の上に、睡蓮の精とも云ひたい様な、細ほつそりとした肉附にくづきの豊かな、肌に光があつて、物ごしの生生いきいきとした、気韻の高い美人を沢山たくさん見る度に、ほれぼれと我を忘れて見送つて居る。而さうして、其それ等の貴婦人の趣味が中流婦人乃至ないしそれ以下の一般の婦人の間にまで影響して居ると見えて、随分粗末な材料の服装をして居ながら其その姿に貴婦人の俤おもかげのある女が沢山たくさんに見受けられる。自分は是これ等の趣味の根柢こんていになつて居る物が何であるかを早く知りたい。

今姑しばらく自分の欧洲に於ける浅はかな智識で推し量ると、仏蘭西フランスの女の姿の意気で美しいのは、希臘ギリシヤや伊太利イタリイから普及した古い美術の品のよい瀟洒せうしやな所が久しい間に外ほかから影響したのでは無いか。ルウヴルの博物館にある伊太利イタリイの絵と彫刻とを見た丈だけでも自分は然さう云ふ事が想像される。其それ等古代の美術にある表情と線とが現に巴里パリイの芝居の俳優の形に著しく出て来る様に、同じく自分は其れを仏蘭西フランスの女の日常の形に見出いだす気がして成らない。其れが全部で無くても、大部分は古代芸術の自然の影響と、又意識して採択した結果とであらうと想はれる。殊ことに女優の形と云ふものは希臘ギリシヤや伊太利イタリイの古美術に現あらはれた人体の美しい形を細密に亘わたつて研究して居るらしいから、其その女優の形が上中流の婦人社会に影響するのは当然であらう。

×

自分が仏蘭西フランスの婦人の姿に感服する一つは、流行を追ひながら而しかも流行の中から自分の趣味を標準にして、自分の容色に調和した色彩や形を選んで用ひ、一概に盲従して居ない事である。自分は三四さんし着の洋服を作らす参考にと思つて目に触れる女の服装に注意して見たが、色の配合から釦ブトンの附け方まで全まつたく同じだと云ふ物を一度も見たことが無い。仕立屋タイユウルへ行ゆけば流行の形の見本を幾つも見せる。誂あつらへる女は決して其その見本に盲従する事なく、其れを参考として更に自分の創意に成る或ある物を加へて自分に適した服を作らせるのである。

又感服した一つは、身に過ぎた華奢くわしやを欲しない倹素な性質の仏蘭西フランス婦人は、概して費用の掛かゝらぬ材料を用ひて、見た目に美しい結果を収めようとする用意が著しい。此この点は京都の女と似通かよつた所がある。富んだ女が絹を用ひる所を麻で済ませ、麻も日本などに比べて非常に高価であるから、麻の所を更に木綿で済ませて居ると云ふのが普通である。模造品の製造が巧たくみであるから木綿でも麻や絹に見える上に、着る人の配色が調和を得て居るので、絹を着たのと同じ美しさを示して居る場合が多い。

×

欧洲の女は何どうしても活動的であり、東洋の女は静止的である。静止的の美も結構であるけれど、何どうも現代の時勢には適しない美である。自分は日本の女の多くを急いで活動的にしたい。而さうして、其れは決して不可能で無い許ばかりか、自分は欧洲へ来て見て、初めて日本の女の美が世界に出して優勝の位地を占め得うることの有望な事を知つた。唯たゞ其れには内心の自動を要することは勿論、従来の様な優柔不断な心掛では駄目であるが、其れは教育が普及して行ゆく結果現に穏当な覚醒が初まつて居るから憂ふべき事ではない。但たゞし女の容貌は一代や二代で改まる物で無いと云ふ人があるかも知れないが、自分は日本の女の容貌を悉ことごとく西洋婦人の様にしようとは願はない。今の儘まゝの顔立だちでよいから、表情と肉附にくづきの生生いきいきとした活動の美を備へた女が殖ふえて欲ほしい。髪も黒く目も黒い日本式の女は巴里パリイにも沢山たくさんにある。外観に於て巴里パリイの女と似通かよつた所のある日本の女が何が巴里パリイの女に及び難いかと云へば、内心が依頼主義であつて、自みづから進んで生活し、其その生活を富まし且かつ楽たのしまうとする心掛を欠いて居る所から、作り花ばなの様に生気を失つて居る事と、もう一つは、美に対する趣味の低いために化粧の下手へたなのとに原因して居るのでは無いか。日本の男の姿は仏蘭西フランスの男に比べて随分粗末であるが、まだ其れは可いいとして、日本の女の装飾はもつと思ひ切つて品ひん好く派手にする必要があると感じた。

×

松岡氏と良人をつとと自分がアンヷリイドの停車場ステエシヨンからロダン先生を訪とふ為にムウドン行ゆきの汽車に乗つたのは、初めて詩人レニエ先生を訪とうた日の午後であつた。此この汽車は甲武線の電車の様に、街の中を行きながら家並やなみよりは一段低く道を造つた所を走るのである。短距離にある市内の停車場ステエシヨンを七つばかり過ぎて郊外へ出ると、涼しい風が俄にはかに窓から吹き込んで来るのであつた。暗がりから明るみへ出た様な気味で自分は右と左を見廻して居た。近い所も遠い所も家は皆低くてそして代赭たいしや色の瓦で皆葺いてある。態わざとらしく思はれる程その小家こいへの散在した間間あひだあひだに木の群立むらだちがある。雛罌粟コクリコの花が少しあくどく感じる程一面に地の上に咲いて居る。矢車の花は此この国では野生の物であるから日本で見るよりも背が低く、菫すみれかと思はれる程地を這はつて咲いて居る。自分が下車かしやすると、例の様に、

「ジヤポネエズ、ジヤポネエズ。」

と云つて、一ひと汽車の客が皆左の窓際へ集よつて眺めるのであつた。自分は秋草あきぐさを染めたお納戸なんどの絽ろの着物に、同じ模様の薄青磁色うすせいじいろの絽ろの帯を結んで居た。停車場ステエシヨンの駅夫にロダン先生の家へ行ゆく道を聞くと、彼処あすこをずつと行ゆけば好いいと云つて岡の下の一筋道を教へて呉くれた。馬車などは一台もない停車場ステエシヨンである。真直まつすぐに突当つきあたつてと云はれた道が何処どこ迄も果ての無い様に続いて居る様なので、自分は男達に後おくれない様にして歩きながら時時ときどき立留たちとまつて汗を拭いては吐息といきさへもつかれるのであつた。松岡氏と良人をつととは逢ふ人毎ごとに目的の家を尋ねて居る。逢ふ人毎ごとと云つても一町ちやうに一人、三町ちやうに二人位のものであることは云ふ迄もない。粉挽小屋こなひきごやの職人までが世界の偉人を知つて居て、

「ムシユウ・メエトル・ロダン。」

と問ひ返して、其その返事を与へる事に幸福と誇りとを感じて居るらしいのを見ると、自分は涙ぐましいやうな気分にもなるのであつた。

真赤まつかな土がほろほろと……

だらだら坂の二側ふたかはに

アカシヤの樹きのつづく路みち。

あれ、あの森の右の方はう、

飴色あめいろをした屋根と屋根、

あの間から群青ぐんじやうを

ちらと抹なすつたセエヌ川。

涼しい風が吹いて来る、

マロニエの香かと水の香かと。

之これが日本の畑なら

青い「ぎいす」が鳴くであろ。

黄ばんだ麦と雛罌粟コクリコと、

黄金きんにまぜたる朱の赤さ。

誰たが挽ひき捨てた荷車か、

眠い目をして路みちばたに

じつと立つたる驢馬ろばの影。

「ロダン先生の別荘は。」

問ふ二人より側そばに立つ

キモノ姿のわたしをば

不思議と見入いる野良のら男。

「ロダン先生の別荘は

ただ真直まつすぐに行ゆきなさい。

木の間あひだからその庭の

風見車かざみぐるまが見えませう。」

巴里パリイから来た三人にんの

胸は俄にはかにときめいた。

アカシヤの樹きのつづく路みち。

やつと其その道の尽きる処ところまで来た。其処そこは自分達の今乗つて来たのとは異ちがふ別の汽車道みちの踏切である。そして一層人気ひとげのない寂しい道へ自分達は出た。二町ちやう程来た時前を行ゆく人を呼んで松岡氏が尋ねると、ロダン先生の邸やしきは直すぐ此処ここの左で、其処そこに門がある、そしてずつと奥に家があると云ふのであつた。見ると牧場まきばの柵の様な低い木の門が其処そこにある。マロニエの木が隙間もなく青青あをあをと両側に立つて居た。然しかし人の通ふ道の上には草が多く生へて居る。右の掛かゝりに鼠色のペンキで塗つた五いつ坪位ぐらゐの平家ひらやがある。硝子がらす窓が広く開あけられて入口に石膏の白い粉が散ちらばつて居るので、一見けん製作室アトリエである事を自分達は知つた。けれど之これは弟子達のそれであらう、床ゆかも天井も低い、テレビン油ゆで汚れた黒い切きれの沢山たくさん落ちて居るこの狭い室が世界の帝王さへも神の様に思つて居るロダン先生の製作室だとは入はひつて暫しばらくの間自分には思はれなかつた。白い仕事着を着た頤あご鬚のある、年若としわかな、面長おもながな顔の弟子らしい人と男達の話して居る間に、自分は真中まんなかに置かれた出来上らない大きい女の石膏せきかう像を見て居た。矢張やつぱりロダン先生が此処ここで仕事をされるのであると思つた時自分の胸は轟とゞろいた。半なかばから腕の切り放されてある裸体の女は云ひ様もない清い面貌おもわをして今や白𤍠の様な生命いのちを与へられやうとして居る。先生は巴里パリイの家の方においでになつて夕方でないと帰られない、殊ことに今日けふは他家よそへ廻られる筈はずであるから、それを待つより巴里パリイへ行ゆかれる方が好いいであらうと弟子は云ふのであつた。自分は良人をつとと相談をして夫人への土産みやげだけを出し、その弟子に托して名残なごり惜しい製作室アトリエを出て引き返さうとした。

「一寸ちよつとお待ち下さい。」

と云ひながらその人は又自分達を中門ちゆうもんの中まで案内して置いて母家おもやの窓の下へ寄つて夫人に声を掛けた。自分はこんな事をも面白くもゆかしくも思つた。大芸術家の夫人が窓越しに弟子の話すのを許すと云ふさばけた所作しよさをさう思ふのであつた。此処ここからはずつと向むかうが見渡される。起伏した丘にあるムウドンの家並やなみや形の好いい陸橋をかばしなども見える。此この村は美観ベル・ヸユウ村と云ふのださうである。

「奥さんがお目に掛りますからお待ち下さい。」

と弟子は云つて、又自分達をもとの製作室アトリエへ伴つた。そして前よりは一層打解けた調子で男達と弟子は話すのであつた。自分はまた男達と一緒に先生の未成品を眺めて居る事が出来るのであつた。まだ外に男の半身像や様様さま〲の石膏像が十とをばかりも彼方此方あちらこちらに置かれてあつた。帰り途みちを聞くと、

「船にお乗りになるのが好いいでせう。奥さんがお許し下すつたら私がその船乗場ふなのりばまでお送りしませう。」

と弟子は云つた。その言葉の中にも夫人をどんなに尊敬して居るかと云ふ事が見えてゆかしい。ロダン夫人は無雑作に一方口いつぱうぐちの入口いりくちから入はひつて来られた。背の低い婦人である。白茶しらちやに白いレイスをあしらつた上被タブリエ風の濶ひろい物を着て居ゐられる。自分の手を最初に執つて、

「よくいらつしつた。」

と云はれた。松岡氏が自分に代つて面会を許された喜びを述べた。夫人の頭髪は白金はくきんの様に白い。両鬢びんと髱たぼを大きく縮らせたまま別別べつべつに放して置いて、真中まんなかの毛を高く巻いてある。自分がロダン先生の曾かつて製作された夫人の肖像に寸分違ちがひのない方かただと思つたのは、一つは髪の結様ゆひやうが其儘そのままの形だつたからかも知れない。夫人の斯かうして居られるのは自身の姿が不朽の芸術品として良人をつとに作られた其その喜びを何時いつ迄も現あらはして居られる様にも思はれるのであつた。そんな感じのするせいか、これ程の老夫人が母らしい人とは思はれないで、生生いきいきとした人妻らしい婦人であると自分には思はれるのであつた。「未まだ良人をつとの許しを得ませんから今日けふは何のおもてなしを致す事も出来ませんが、この次は御招待ごせうだいをして寛ゆるりとして頂きます」などと夫人は懐しい調子で云はれるのであつた。

「一寸ちよつとお待ちなさい。」

と云つて、夫人は母家おもやの方へ行ゆかれた。暫しばらくすると露の滴したゝる紅薔薇べにばらの花を沢山たくさん持つて来られた。

「二三日にさんにち雨が多かつたものですから、わたしの庭の一番好いい花を切つたのですけれど、この通とほりなんですよ。」

と云つて、夫人は花を自分に渡された。自分は心のときめくのを覚えた。夫人は自分達を船乗場ふなのりばまで馬車で送らせると云つてその用意を命ぜられるのであつた。其間そのあひだに椅子へお坐りなさいなどと自分の為に色色いろいろと心を遣はれた。製作場ぢやうの向むかう側にはギリシヤ辺あたりの古い美術品かと思はれる彫刻を施した円い石や角かくな石が転がつて居るのであつた。馬車の用意が出来た頃弟子がもう一人帰つて来た。夫人は返かへす返がへす再会を約して手を握られた。自分達三人は馬車の上でどんなに今日けふの幸福さひはひを祝ひ合つたか知れない。世界の偉人が此この馬車に乗つて毎日停車場ステエシヨンや船乗場ふなのりばへ行ゆかれるのであると思ふ時、右の肱掛の薄茶色の切きれがほつれかかつたのも尊たつとく思はれた。この帰りに更にロダン先生に逢つた事の嬉うれしさを今此この旅先で匆匆そうそうと書いてしまふのは惜しい気がする。暫しばらく一人で喜んで居よう。(六月廿日)

アミアン市

アカデミイの絵の開会中に一寸ちよつと倫敦ロンドン見物に出掛けようと思つて居ると、日本へ帰る石井柏亭君が小林萬吾君と一緒に再び英国へ行ゆくと云ふので、其れを幸ひに僕等夫婦も倫敦ロンドンまで同行する事にした。途中巴里パリイから三時間で着くアミアン市に一泊して、博物館のシヤヷンヌの壁画や十三世紀のゴシツク式建築の御お寺などを見物した。壁画は随分沢山たくさんあつて其れがシヤヷンヌの前期の作と後期の作に分れて居る。僕の歎服たんぷくする所は勿論巴里パリイのパンテオンや市庁や、マルセエユの博物館やの壁画と同じ手法に成る後期の作にあるが、まだ旧套を脱し切らぬ前期の作に於ても此この画家の色彩の特調とくてうと下図デツサンの確実な事とを示して居る。館内の他たの新しい絵には巴里パリイのサロンに出品して政府に買上られた物が多かつた。仏蘭西フランス政府は年毎ごとに買上げたサロンの絵を如此かくのごとくして各地の博物館に分配するらしい。猶なほ館内にはロダンの作つたシヤヷンヌの大理石像があつた。御お寺は巴里パリイのノオトル・ダムやツウルのカテドラルと同期に建てられたゴシツクではあるが少し様子が異ことなつて居た。窓が多い所為せゐで堂内の明るいのは難有ありがたさを減じる様に思はれた。塔の正面の丹たんを塗つた三ヶ所の汚れた扉は薄黒ぐろく時代の附いた全体の石造づくりと調和して沈静の感を与へた。其その前の広場の石畳が反対の側へ幾段かに高まつて居て、其処そこが大通おほどほりから少し離れて裏町である為に車馬の往来しないのが好かつた。御お寺の直前すぐまへに立つたのでは容易に大きな塔の全体が眼に入いらないので僕等四人は其その広場の上を後退あとしざりし乍ながら眺めるのであつた。老人の乞食が附近の物寂びた家の階段に腰を据ゑて帽を静しづかに差出すのも煩うるさくなかつた。二人の画家は翌日再び来て此この塔の正面を描いた。

幅の狭いアミアン川が市街に入はひつて更に幾つとなく枝流しりうを作つて居るので石の小橋こばしが縦横に掛つて居る。或ある裏町にある小橋こばしの四方を雑多な形の旧い煤すゝばんだ家が囲んで、橋の欄干の上に十人許ばかり腰を掛けて長い釣竿を差出した光景が面白かつた。夜よに入いつては音楽祭だと云ふので辻辻つじ〱に焚火たきびが行はれ、男の児こ等は爆丸はぜだまを投げて人を驚かし、又大通おほどほりには音楽隊を先に立てた騎馬の市民の提灯ちやうちん行列があつた。

僕等は夜よるの十一時に眠たい目をして汽車に乗り、カレエの港から汽船に乗つたのは翌日の午前一時であつた。英国の海峡は珍らしい凪なぎの中に渡つたが、海の夜風が寒いので三等客の僕等は甲板の上で慄ふるへて居た。一時間の後のちドオヷアに着いて海峡の夜明よあけの雲の赤く染そまつた下もとで更に倫敦ロンドン行の汽車に乗移つた。(六月二十四日)

海峡の船(晶子)

よく荒れる処ところだと聞いて居た英仏海峡を夜よるの一時じに仏蘭西フランスのカレエ港からドオバアの港へ渡る事に成つた。月は無かつたが朧月夜おぼろづきよと云つた風に薄く曇つて居る星明りの中に汽車から下おりて直すぐ前の桟橋に繋がれた汽船へ乗移つた。三等客は皆甲板かふばんに載せられるので誰たれも手荷物を側わきに置いて海を眺め乍ながら腰を掛けた。船員や乗客じようかくの間に英語が交換されるので、外国語を知らぬ自分にも俄にはかに言葉の調子が耳立だつ。六月の二十三日と云ふのに海峡の夜風は凍こほる様に寒い。生憎あひにく良人をつとも自分も外套を巴里パリイに残して来たので思はず身を慄ふるはすのであつた。仕合しあはせな事に浪は全まつたく無い。一緒に来た小林萬吾さんと石井柏亭さんは外套の襟を立てて煙草たばこを吸附け乍ながら食堂の蔭に成る腰掛で話して居る。良人をつとは自分丈だけを二等の寝室へ移すと云つて船員へ交渉しに下へ降りて行つたが、二等の婦人室は誰も相客あひきやくがないから切符を買ひ更へずとも自由に休憩してよいと船員が云ふので、自分は其その婦人室へ良人をつとに伴つれられて行つて横に成つた。部屋を世話する英国婦人の給仕が自分の帽を天鵞絨ビロウドを張つた直すぐ上の壁へ針で留めて掛けて呉くれた。今夜の十一時に仏蘭西フランスのアミアン市から立つて来たので眠たくはあるが、さてずつと一人横に成つて見るといろんな事が頭に泛うかんで来て眠られ相さうにも無い。敦賀から一人乗つた露西亜ロシアの汽船の中の様な心細さは無いが、矢張やはり気に掛かゝるのは東京に残して来た子供等の上うへである。

旅人の愁ひも此処ここに尽きよかし仏蘭西フランスの岸割さけて海見ゆ

海峡の灯台の灯ひは明滅めいめつすわがおちつかぬ旅の心に

汽車を下おり船に上のぼるも更ふけし夜よは影の国踏むここちするかな

海峡に灰を撤まきたる星ぐもり我を載せたる船流れ行ゆく

海峡の夜風に聞けば旅人のざれたる声もかなしきものを

ひんがしのはなれ小島をじまに子をおきて臥ふす女おんなゆゑ寒き船かな

ゆゆしかる身の果はてとしも思はねど大海おはうみに寝て泣く夜よとなりぬ

何いづれぞやわがかたはらに子の無きと子のかたはらに母のあらぬと

こらしめは烈はげしき恋の中に来きぬ子等に別れて海にさまよふ

歌うたひ旅より旅に行ゆく事もわが生涯のめでたさながら

こんな事を歌つて気を紛らさうとするのであるが何時いつの間にか鬢びんまでが涙に濡れて居た。良人をつとが甲板かふばんから降りて来てドオバアへ着いたと知らせて呉くれた。纔わづか一時間で海峡を渡つたのである。

星あまた旅の女をとりかこみ寒き息しぬ船を下くだれば

午前三時と云ふのに東の空はもう赤紫を染めて、船から倫敦行ロンドンゆきの汽車に乗移る旅客りよかくの昨夜ゆうべろくろく眠らなかつた顔があらはに見える。自分は白い面紗おもぎぬを取出して顔を掩おほうた。此この港にも山の上と海岸の二箇所に灯台があつて頻しきりに灯火を廻転させて居た。

倫敦ロンドンより(晶子)

(一)

自分達の汽車は午前六時にチヤアリング・クロスの停車場ステイシヨンへ着いた。折悪あしく日曜の朝なので倫敦ロンドンの街は皆戸を締めて死んだ様に寝て居る。停車場ステイシヨンに居た老人のボオイが親切に案内して呉くれたので、直すぐ横町に唯ただ一軒起きて居た喫茶店カツフエへ入はひつて顔を洗ふ事が出来た。小林さんと石井さんとの宿は自分達の宿と余り離れては居ないが別に成つて居る。今頃どの宿へ行つても容易に起きては呉くれまいと思つて悠悠いういうと話し乍ながら朝の紅茶と麺麭パンとを其その喫茶店カフエエで取つた。自分達の汽車で同じく着いたらしい三人の西班牙スペイン人が入はひつて来て喫茶店カフエエの老爺おやぢと西班牙スペイン語で話して居た。自分達が自動車に乗つてフインボロオグ・ロオド二十八番のフイルプス夫人の家へ来た時は未まだ七時半であつた。幾等いくら鈴ベルを鳴らしても戸が明かないので、仕方なしに門の石段の上へ革包かばんを据ゑて其れに腰を掛けて二人で書物を読んで居た。併しかし牛乳配達と掃除馬車の男とが自分達を珍らし相さうに見て過ぎる外に街を通る人も無かつた。予あらかじめ通知して置いた日から四五日も遅れて着いた自分達を宿の方で待設けて居ないのは無理もない。主婦のフイルプス夫人が戸を明けて呉くれたのは九時であつた。通りに臨んだ三階の明るい窓硝子がらすに日蔽ひおひを下おろして、自分達は昨夜ゆうべの不眠を補ふ為に倫敦ロンドンへ着いた第一日を昼過ぎまで寝て居ねば成らなかつた。

其その午後乗合自動車オムニブスに乗つて東京の銀座と浅草とを一緒にした様に賑にぎやかな、ピカデリイの大通りへ出て食事を済まし、ゼエムス公園を抜けてウエスト・ミンスタア寺を訪とひ、丁度ちやうど日曜の勤行ごんぎやうに参り合せたのを初めに、今此この筆を執る日まで丸八日やうか経つ間に倫敦ロンドンの御お寺と博物館と名所とを一通り見物して仕舞しまつた。巴里パリイを立つ時倫敦ロンドンを短い日数ひかずで観て歩くには住み慣れた日本人に案内して貰ふ必要があらうと思つて居たが、自分達は地図とベデカアを頼りにした丈だけで格別まごつく事も無かつた。其れには一ヶ月前に倫敦ロンドンへ遊んだ二人の画家の徳永さんと川島さんから色色いろ〱倫敦ロンドンの様子を聞いて居たのと、オムニブスの通る路みち筋を示した倫敦ロンドンの図を二人から貰つて、予あらかじめ巴里パリイで読んで置いたのとで非常に便宜を得た。自分が此処ここへ着いて三日か目に倫敦ロンドン市内を縦横に縫ふオムニブスの番号と路みち筋を全まつたく暗記して仕舞しまつたのは何の珍らしい事でも無い、案内者なしに自分達で見物して廻つた為であつた。

倫敦ロンドンの博物館は何いづれも立派な建築で明りの取方とりかたに申分まをしぶんなく、其上そのうえ配列が善く整頓して居る。巴里パリイのルウヴル博物館は旧ふるい王宮丈だけに壮麗であるが、始めから倫敦ロンドンの様に博物館として建てられたので無い為に不充分な所が多い様である。自分はナシヨナル博物館で伊太利イタリイや西班牙スペインの昔の諸大家の絵を観み、テエト博物館で英国近代の名家の絵を観た事に幸ひを感じた。巴里パリイで観られなかつたミケランゼロもナシヨナル博物館で観る事が出来た。ロセツチ初めラフアエル前派の逸品や、数室に亘わたるタアナアの大作などは到底テエト博物館ならでは観難い物である。ロセツチの絵は想像して居たよりも鮮かな色が面白かつた。ワツツは写真版で観て居た時の方が好かつたかも知れない。サウスケンシントン博物館にある毛氈まうせんの下図を描かいたラフアエルの大きな諸作は恐らく伊太利イタリイにも少すくない傑作であらう。又其処そこに附属した印度インドの博物館を観ては、一面に欧洲美術と交渉し、一面に日本支那の美術と連絡を保つ印度インド美術の大概たいがいを窺ふ事が出来るやうに想はれるのであつた(六月三十日)

(二)

倫教ロンドンは巴里パリイに比べて北へ寄つて居る所為せゐか、七月になつても薄寒うすさむを覚える様な気候である。巴里パリイの様に上衣うはぎを脱いでコルサアジユ丈だけで歩く女を未まだ一人も見受けない。一日に幾度も日本で云ふ「狐の嫁入雨よめいりあめ」が降るので、自分は水色の日傘を濡らし乍ながら、其その雨の中にセント・パウル寺へも詣り、倫敦ロンドン塔へも上のぼつた。倫敦ロンドン塔の中は古代武器の展覧場ぢやうに成つて居る。又其その一部に〔濁点付き井〕クトリヤ女皇ぢよくわうと先帝との戴冠式に用ひられた宝冠や、宝石と貴金属で華麗を尽した沢山たくさんの花環はなわやが陳列されてゐる。昔の牢獄の中へ帝王の大典のめでたい記念を飾ると云ふ事は東洋人の為相しさうにない事である。薄暗くて狭い、曲つた石の階段の泥靴で汚れたのを踏んで、混合ふ見物人に交りながら裾を搴からげて登る厭な気持の後あとで、幾多の囚人の深い怨みを千古に留とゞめた題壁だいへきの文字や絵を頂上の室に眺めた時は、今も猶なほどこかの隅で嗚咽をえつの声が聞きこえる感がして自分の雨に濡れた冷たい裾にも血の滴したゝるのかと戦をののかれるのであつた。

倫敦ロンドンへ来て気の附く事は、街の上でも公園でも肉附にくづきの好いい生生いき〱とした顔附かほつきの児こ供を沢山たくさんに見受ける事と、若い娘の多くが活発な姿勢で自由に外出して居る事とである。巴里パリイでは概して家の中に閉ぢ込めて置く所から、一般に娘児こ供が生白なまじろい顔をして如何いかにも弱弱よわ〱し相さうである為め、自然仏蘭西フランス人の前途まで心細く思はれぬでも無いが、英国の娘児こ供の伸伸のび〱と生おひ立つて行くのを見ると、其その家庭教育の開放的なのが想像せられると共に著しく心強い感がする。其れに倫敦ロンドンでは上野公園に幾倍する大きな公園が幾つも街の中に有つて、例へば日本人が自分の庭で遊ぶ様に出入でいりの心易いのが娘児こ供許ばかりで無く一般人の散歩に都合が好い。同じく街の中にあつても東京の公園は倫敦ロンドンの程街に密接して居ないから市民に親しみが乏しく、日比谷公園や上野公園へと行ゆくと云へば何だか特別な事に成るが、直すぐ大通おほどほりと並んで居る倫敦ロンドンの公園は非常に出入でいりが気軽い。巴里パリイの市内にある公園は聯れんや押韻あふゐんの正しい詩を読む気がして整然とした所に特色を認める丈だけ窮屈な感を免れないが、英国の市内公園の散文的に出来て居るのは自然の森を歩む様に胸の開く心地がする。

表面うはべの観察ではあるが巴里パリイを観て来た目で評すると概して英国の女は肉附にくづきの堅い、骨の形の透いて見える様な顔をして居て、男と同じ様な印象を受ける赤味がかつた顔が多い。世界の都を代表する顔で無く幾分田舎ゐなからしい顔で、目附は勿論一体の表情が何処どことなく真面目まじめと怜悧れいりとを示して居る。巴里パリイの女の様な粋いきな美には乏しいが愛と智慧とには富んで居相さうである。巴里パリイの女は軽佻けいてうで無智で執着に乏し相さうであるが、英国の女は其その反対の素質を余計に持つて居るのではないか。女子参政権問題の生じた事などに種種しゆ〲の複雑した原因はあるにしても、其その主たる原因は外面の化粧に浮身を窶やつす巴里パリイ婦人と異ちがつて、女子教育の普及した結果内面的に思索する女が多数に成つたからであらう。或あるひは男に近い教育を受け、男と斉ひとしい資産を持つて独立の生活をして居る為に、自然その容姿までが一層男に近く成つて来たとも云はれるであらう。参政権問題に就ついては急進派の婦人が男子も最早もはや現代に敢あへてしない様な暴動を相変らず実行して識者を顰蹙ひんしゆくさせて居る。併しかし或ある階級の婦人が男子と対等の資格を要求するのには拒み難い真理がある。其れが偶たま〱参政権問題となつて鉾先を示して居るのだと思ふ。従つて又𤍠中の余りに急進派の暴動を生ずるのも一時じの過程であらう。時期が熟したら温健な主張の婦人の手に由よつて一切婦人問題に識者を満足さす解決が附けられるに違ひない。自分は堅実な英国人の間に起つた婦人運動が決して空騒ぎで終らない事を信じる。唯ただ英国の現代の婦人は日本の婦人よりも更に切迫した過渡期に遭遇して居る。其れが為に容姿の美を疎おろそかにする迄に賢くならうとして居るのが悲惨である。(七月二日)

(三)

帽も服装も英国の女のは日本の上方かみがた言葉の「もつさりして居る」と云ふ一語で掩おほはれる。ジヤケツの上衣うはぎの長いのや裳もの大きく拡ひろがつたのなどは、昔長崎へ来た和蘭船オランダぶねの絵の女を見る様に古風である丈だけ今日こんにちの目には田舎ゐなか臭い。倹約な巴里パリイの女が外見は派手であり乍ながら粗末な質しつの物を巧たくみに仕立てるのと異ちがつて、倫敦ロンドンの女は表面質素じみな様で実は金目かなめの掛かゝつた物を身に着けて居る。唯ただ惜しい事に趣味が意気でない。併しかし之これは一般の観察であつて、芝居などで観る美しい貴婦人の中には巴里パリイの流行を巧たくみに取入れて品ひんの好いい盛装をした女の少すくなくないのに目が附く。女の大学生が髷まげを包んだリボンと同じ色の長い薄手の外套を着て、瀟洒せうしやとした所に素直な気取きどりを見せたのは一寸ちよつと心憎い様に思はれる。一体に白、水色、淡紅とき色などの明あかるい色のロオヴを着た女が多く、其それ等を公園の木立こだちの下の人込の中で見るのは罌粟けしの花を散らした様である。

自分達は或ある日の午後、もとヒス・マゼステイ座の俳優で今は興行者マネエジヤアと成つて居るフレデリツク・ヱレン氏夫婦から茶の時に招かれたので、石井柏亭さんを誘つてレゼント公園の側そばの其その家へ出掛けた。夫婦は三越の松居松葉しようえふさんのさんの旧い知合しりあひで、自分達も松葉しようえふさんの紹介で面会を求めて置いたのであつた。客室には広重や其他そのた日本の版画が飾られてあつた。夫婦は松葉しようえふさんの噂をして其その若い姿の写真を取出して見せた。席に音楽家のヤング氏も自分達に逢ひたいと云ふので先に来て待つて居た。ヤング氏は曾かつて日本の音楽と俗謡とを研究する為に東京や薩摩に半年程留とゞまつて居た人で、驚く許ばかり日本語が達者である。在来の如何いかゞはしい日本通と異ちがつて大分だいぶに精細な所まで研究が行ゆき届いてるらしく、貞奴さだやつこの語がヱレン氏の口から出ると「彼女あのをんなは俳優でない、芸者である」と打消した。氏は沢山たくさんの日本の謡曲や俗曲を飜訳して其れに自分で譜を附けて居る。氏は又オスカア・ワイルドの親友の一人であつたと云つて、ワイルドの話を聞かせて呉くれ、日本にワイルドの「サロメ」其その外の訳があると聞いて非常に喜んで居た。ヱレン氏は自分達の観たいと思つて居た沙翁しやをう劇の季節が既に過ぎた事を語つて、ツリイの今演じて居るジツケンス物へ案内しようかと云つた。自分達が成るべくバアナアド・シヨウの劇を観たいと云つたら、其それは丁度ちやうど今キングス・ヱエ座で演じて居るから来週の火曜日の晩に席を取つて置かうと云つて呉くれた。帰る時にヱレン夫人は自動車に乗つた自分の手へ百合の花を取らせた。

其その晩十時を過ぎてからヱレン氏夫婦とヤング氏とに紹介せられて、ピカデリイの大通おほどほりからレゼント・ストリイトを少し上のぼつて左へ入はひつた地下室にあるキヤバレエ・テアアトル・キユルブへ行つた。倫敦ロンドンに居る芸術家の或ある一部が英国の習慣を破り徹宵てつせうして隠し芸を出し乍ながら遊ぶ為に新しく会員組織で設けた巴里パリイ風の酒場キヤバレエである。まだ先週から開いたばかしなので広くは知られて居ない。もと倉庫か何かであつた穢むさい地下室を、すつかり白と丹たんと緑の配色で美しく塗直し、舞台の電灯の装置から卓や椅子までが凡すべて新しく出来て居る。殊ことに三面の壁を立体派キユビストの図案で装飾したのは好く調和して居た。此この奇抜な画風を室内の装飾に応用する事は未まだ本元の巴里パリイでも敢あへてしない事で、其それが好いい効果を収めて居るのは奇だと柏亭さんと良人をつととが評して居た。来会者の中から舞台に出て色色いろいろの歌や踊をどりが演ぜられた。会員には英国人以外に仏蘭西フランス、諾威ノウルエエ、丁抹デンマルク、西班牙スペインなどの人人も加はつて居るので世界的の隠し芸が演ぜられるのであつた。其その国の野蛮に派手な服装をした印度インド人の一群ぐんと、青い服を着けた波斯ジプシイの男の踊子と丈だけは特に雇はれて居るらしい。会員の中には名を知られた女優なども居ると、一一ヤング氏が自分の耳に口を寄せて其その人達の身分と演じる物とを話して呉くれた。ヤング氏も屡しば〱ビアノに向むかつて伴奏をした。氏が訳した日本の短い二首の俗謡が或ある夫人に由よつて歌はれもした。其その時の紹介にヤング氏は舞台に立つて「これからわたくしの訳した日本の歌を、わたくしの作曲で歌ひます」と明晰な日本語で述べた。自分達にヤング氏が「之これを見て下さい」と云ふので青く塗つた大きな柱を仰ぐと、平仮名で太く「ぬしとねるときはまくらはいらぬ、たがひちがひのおてまくら」と氏の手で書かれてあつた。氏は又印度インド人の歌を評して「夷狄いてきの楽がくです」とも日本語で云ふのであつた。自分達は次の夜よも柏亭さんと小林萬吾さんとを誘つてこの酒場キヤバレエへ行つた。(七月四日)

倫敦ロンドンを立たうとして

僕達は大略倫敦ロンドンの見物を済ましたから今日けふの午後の汽車でカレエ迄乗り、其処そこから汽船で白耳義ベルジツクのオスタンドへ渡る積つもりだ。短時日の滞在の割に英国から受けた利益の多大なのを僕は喜ぶ。ナシヨナル、テエト、サウスケンシントンの三大博物館を観たことは就中なかんづく感謝せざるを得ない。之これに加へて巴里パリイのルウヴル及びリユクサンブルの二大博物館を観れば欧洲の絵画の古今に亘わたる精粋せいすゐを概観し得たと云つて好いであらう。芝居の季節に来なかつた事が遺憾だから此この冬を期して其それが為に今一度倫敦ロンドンに遊びたいと思ふ。

巴里パリイに姑しばらく慣れて居た者が倫敦ロンドンに来て不便を感じるのは、悠悠いういうと店前テラスの卓に構へる事の出来る珈琲店キヤツフエが全まつたく無いのと、食物しよくもつの不味まづいのとである。一般の英国人は其それ等の点に仏蘭西フランス人程の興味を持つて居ないらしく、一時じの嗜欲しよくを満みたせば足たると云つた風に食事の時間迄が何となく忙せはしげだ。僕達はピカデリイのオランピヤと云ふ仏蘭西フランス料理屋へ度度たび〱行つて食事をした。小林萬吾君も英国料理に困つて滞在中は探花楼たんくわろうと云ふ支那料理へ行ゆく事に定きめて居る様である。

僕達は在留の日本人に逢ふ機会が無かつた。長谷川天溪てんけい君の住所を大使館で聞いたが不明であつた。同君は既に日本へ出発したと云ふ噂を日本人倶楽部で聞いたが其それも確たしかでない。大阪の骨董商山中氏の店を一寸ちよつと訪ねて見たが今は日本品よりも支那の骨董品を主として売つて居る。日本の如何いかゞはしい美術品が売行うれゆかなくなつたのは自業ごふ自得であらう。正金銀行支店の諸君から日本料理の生稲いくいねへ招かれて一夜やを語り更ふかした。小島烏水うすゐ永井荷風二君の旧知揃ぞろひで二君の噂が頻しきりに出た。紐育ニユウヨオクの支店で以前荷風君を銀行の客分として部下に使つて居た某某ぼう〱二氏は、同君の在米当時を話して、何時いつも銀行へ風の如く来て風の如く去つて仕舞しまふのは同君であつた。後あとで思へば「亜米利加アメリカ物語」の材料を人知れず作つて居ながら、唯たゞ僕等の前では温厚おとなしい貴公子で、文学のぶの字も全まつたく言はなかつたのは一人僕等を俗物だと思つて居たのであらう。今考へて気の毒なのは美しく額へ垂らして長くして居た髪を無理に刈らせて仕舞しまつた事だなどと語るのであつた。

テエムス河に大きな汽船が繋がれ、対岸に沢山たくさんな煙突が烟けむりを吐いて居る景色を見ると、巴里パリイのセエヌが優美な芸術国の女性的河流であるなら、之これは活動的な商工業国の男性的河流だと云ふ感がする。セエヌは常に藍あゐを湛へて溶溶よう〱と流れて居るが、テエムスは何時いつも甚だしく濁つて忙せはし相さうである。彼かれが優麗なルウヴル宮やトロカデロの劇場を映すのに対して、之これは堅実な国会パリヤマンの大建築を伴つて居る。僕は巴里パリイに居て常にセエヌの河岸かしを逍遥した如く、屡しば〱テエムス河の岸と倫敦橋ロンドンけうの上とを散歩して英仏両国民の性情の相異ことなる特色を此処ここに読む気がした。僕達は又午後五時から二時間程の間倫敦ロンドン市の中心から吐出はきだされて、テエムスに架せられた幾多の大鉄橋を対岸へ渡つて行ゆく幾万の労働者の帰路きろに混じつて歩き乍ながら、故国を行ゆく如き一種の気安さを感じると共に、自みづからも亦また是これ等の大群と運命を斉ひとしくする弱者である事に想ひ到つて苦にがい悲哀に撲うたれざるを得なかつた。殊ことに注意すべき事だと感じたのは是これ等労働者の大半を若い女子が占めて居る事である。(七月四日)

倫敦ロンドンの宿(晶子)

自分が倫敦ロンドンで泊つたフインボロオグ・ロオド二十八番地のフイルプス夫人の家は、主人が有名な建築家で、夫人の連子つれこである先せんの良人をつとの令息も同じく建築家として父の工場こうぢやうへ通つて居る。家族が此この三人きりなので淋しくない為ためにと大学生や画ゑ師を三人程下宿させて居るが、裕福な家だから宿料しゆくれうなどは何どうでも好いいと云つた風である上に、下宿人に対する待遇が賓客ひんかくを待つ様に鄭重である。親切な夫人は朝だけ其処そこで取る自分達の食卓を離れずに給仕して下さる。仏蘭西フランスと違つて英国では朝の食事に麺麭パンと紅茶又は珈琲カツフエの外に二品ふたしな許ばかりの魚うをと肉との料理が附く。夜更よぶかしをして帰つて来る自分達は兎角とかく遅く起きる朝が多いのに、夫人は何時いつでも温かい料理を出す様にと気を附けて居をられる。初めに辞退しなかつたので毎朝其その通りの料理が出て加之おまけに其その量が多い。自分達は日本に居ても朝は大抵牛乳位で済すまして居る習慣が附いて居るので大分だいぶ之これには難有ありがた迷惑を感じたが、皿に手を附けずに居ると料理が不味まづいからだらうと云つて夫人の心配せられるのが気の毒なので、我慢がまんして少しでも頂くことにして居た。実際英国の料理加減は巴里パリイの料理を経験して来た者に取つて著しく不味まづいのである。勿論自分達がビカデリイ附近で毎日昼と晩との食事を取つたのは何どれも安やす料理屋であつた所為せゐもあらう。何でもビフテキ専門の有名な美味おいしい料理屋のあると云ふ事を聞いて居たが案内して貰ふ人が無いので行かずに仕舞しまつた。下宿の夫人は外にも色色いろ〱の事に注意を与へて下さるのであるが、良人をつとの英語が不充分なので遺憾に思ふ場合が多かつた。令息は仏語が出来るのであるけれど毎日早くから工場こうぢやうへ出て行ゆくので話す機会が無かつた。自分は夫人の親切と共に此この家の清潔なのと湯槽ゆぶねがあつて入浴の自由なのとを嬉うれしいと思つた。

食堂には各国の美術品が飾られて居た。中に日本や支那の骨董品も多く混まじつて居た。夫人の先せんの良人をつとも建築家であつたが、東洋の美術を愛した人で従つて日本人贔屓びいきの人であつたから、日本人を見れば懐しいと夫人は語られた。先せんの良人をつとは温厚おとなしい学者肌の人であつたが、或ある旅先で悪友に誘惑そゝのかされてうつかり勝負事に関係した為ため、少すくなからずあつた其その財産が凡すべて失はれて居た事を良人をつとの死後に発見して途方に暮れた夫人は、令息を伴つれて良人をつとの友人である倫敦ロンドンの今の良人をつとの許もとに頼つて来た。親切な今の良人をつとは此この若い未亡人びばうじんと幼児をさなごとを助けたい為ために進んで結婚を求めたのであつたと夫人が語られた。同じく食堂には薄桃色をした鸚鵡あうむの籠が吊されて居た。鸚鵡あうむは自分達が朝の食事を取る度にけたたましい声を立てて食物しよくもつの催促をするので、夫人は何時いつも「静かになさい」と云ひ乍ながら麺包パンを与へられた。夫人は早く起きて割烹をし、広い四階屋かいやの各室の掃除から水の用意までを一人で済すまして置いて、暇があれば此この鸚鵡あうむの籠の下もとで編物や読書に耽られるのであつた。

夫人は四十五六であらうか、色の白い細面ほそおもての、目の大きくぱつちりとした、小皺こじはが寄り乍ながらも肉附にくづきの豊かな頬ほゝなどの様子は四十歳計ばかりとしか見えない。途上の行ゆきずりに聞く英国婦人の言葉遣ひと違つて、英語も此この様に物優しい国語かと思ふ程美しく品ひんの好いい発音をする人である。物を言はれると温かい表情が顔に上のぼるけれど、黙つて居られると何処どことなく心の上に苦労を経験した人に免れない一種の淋しさを覚えるのであつた。自分達の出立しゆつたつする時夫人は涙を目にいつぱいためて自動車の窓越ごしに手を執られた。自分は此後こののち英国を思おもひ出す度に先まづ此この夫人の顔が目に浮ぶであらう。

ブリユツセル

ドオバアからオスタンド迄の海上三時間は少し許ばかり波の立つのを感じた。晶子を酒場バアの側そばの寝台ねだいへ休息させて置いて、自分は甲板かんぱんの上の船客せんきやくに交つて涼しい汐風に吹かれて居た。白耳義ベルジツクは仏蘭西フランスと同じ貨幤を用ひて居るが、唯たゞ十文銭や二十五文銭の孔あなの開あいて居るのが異ことなつて居る。自分は酒場バアの釣銭に其その孔あなの開あいた白銅を受取つて欧洲の銭で無い気がした。汽船と直すぐ接続するオスタンド発の汽車に乗つたが途中ガン市に住んで居る画家の児島君を訪とふ約束をして置いたに拘かゝはらず、其その所書アドレツスを巴里パリイへ忘れて来た事に気が附いたので下車げしやを見合せ、ずつと直行ちよくかうして夜よの十時三十分にブリユツセル市へ着いた。停車場ステエシヨンを出ると大きな珈琲店キヤツフエが幾つも並んで店先テラスの椅子に男女なんによの客が満ちて居る。耳に聞く言葉は凡すべて仏蘭西フランス語である。小巴里せうパリイと謂いはれる首府丈だけあつて自分は巴里パリイに帰つた様な気安さを感じた。旅館ホテルの食堂で夜食を済ませた後あとで自分達は明るい街の人通りを眺め乍ながら遅く迄或ある珈琲店キヤツフエに涼んで居た。

ブリユツセルは京都程の大きさに過ぎない都で、其れが麹町区の様な高台と神田日本橋両区程の低地とに際立きはだつて区分され、高台の方に王宮初め諸官衙がや諸学校や美術館やが凡すべて集あつまつて居る。高台と低地との間の傾斜地に属する街が最も旧い街なのでサン・ギユドユルだの、ノオトルダム・ド・サブロンだのと云ふ十三四世紀のお寺や、奇体な窓を幾つも屋上に建て出した古風な老屋をくなどが其処そこに多く見出いだされる。而そして一般の低地は商人街あきんどまちである。王宮は立派な近年の建築であるが、寂さびの附いて居ない白い石造いしづくりには難有ありがた味が乏しい。美術館では和蘭ヲランダの古画と併せてリユウバンスとヷン・ダイクの作品に注意すべき物が少し有あつた。近代博物館の方ではレエスの人物画を好いと思つた外白耳義ベルジツクの十九世紀の画家に取立てて感服すべき絵が無い様に思はれた。此処ここで感謝すべきことはロダンに対抗すべき大彫刻家ムニエの芸術に接し得ることである。市しの東にある先王せんわうの金婚式記念の博物館をも訪とうたが、其処そこの日本部には凡およそ十室に亘わたつて歌麿、春信、広重、豊国其他そのたの浮世絵が蒐集せられて居た。随分如何いかゞはしい飜刻物ほんこくものも混まじつて居るが、是丈これだけ多数に蒐集せられた処ところは英仏は勿論本国の日本にも無い事である。白耳義ベルジツク政府が其その購入に定めて巨額を支出したのであらうし、又其その保存に年年ねん〱少すくなからぬ財力を費しもするだらうと想像して感謝の念に撲うたれざるを得なかつた。

一体にブリユツセル市民は日本人に対し好感情を持つて居て、何かと自分達に便宜を与へて呉くれる事が多かつた。辻馬車の馭者ぎよしや迄が特に親切であるのを感じた。又市民は前の浮世絵の博物館ミユウゼと市外のロオヤル公園の中に前年の博覧会の記念として保存されて居る日本の五重塔ぢゆうたふとを有する事をブリユツセルの誇ほこりとして居る様である。自分達が浮世絵の博物館を訪とふた時は曇つた日の午後三時頃であつたが、各室の監視人は自分達の為に被おほひの帷とばりを徹てつして浮世絵の一一いち〱を実は内内ない〱迷惑を感じるまで仕細に観せて呉くれ、閉館の時間を余程よほど過ぎても出よとは云はなかつた。中に一枚歌磨の自画像だと称して特に金紙きんしの装幀を施した絵をわざと高い処ところから降ろして観せて呉くれたのが有触ありふれた遊冶郎いうやらうの絵であつたのは驚いた。好いい加減な事を日本人の誰かが説明して聞かせたのであらう。兎とに角かく欧洲の旅客りよかくがブリユツセルを過ぎて是非ぜひ訪とふべきものは此この浮世絵の博物館ミユウゼである。

ブリユツセルの街を歩いて居て或ある辻角に出た時鉄柵の中に珍らしい噴水のあるのに気が附いた。愛くるしい三歳位ぐらゐの小児せうにの裸の石像が無邪気な姿勢をして立ち乍ながら手で軽く支へた前の物から、細い噴水が勢ひよく円を描いて流れて落ちるのである。之これと同じ姿勢をした木彫の小児せうにを巴里パリイのクルニイの博物館ミユウゼで観た事を思おもひ出したが、此この奇抜な放尿の噴水に如何いかなる由来があるかは早速さつそく繰返して見た案内書ヹヂカアにも見当ら無い。僕は欧洲の公園を巡つて初めて噴水の美を知つた。併しかし木立こだちの間などから稍やゝ遠く離れて見渡す大噴水こそ美であるが、近く寄つて女体ぢよたいの人魚や海馬かいばなどの口から吐き出す形を見るのは決して懐かしい物で無いと想つて居る。僕に此この放尿の噴水が不快の感を与へないのみか却かへつて自然の天地に帰つて胸を開く様な快さを覚えしめるのは童貞の無邪気と純潔とを人間の作法に拘泥せずして具体化した芸術家の力であらう、之これがわざわざ広場プラスや公園の真中まんなかに設けられずに、古ぼけた街裏まちうらの狭い辻角に建つて居るのも附近の民家の幼児をさなごが一寸ちよつと横町の塀下へいしたで立小便をして居るのと同じ感じであるのを面白いと思つた。後あとで或ある絵葉書屋を漁あさつて居ると、此処ここの王立博物館にあるリユウバンスの諸作中で僕の好きな「火神バチカンの工場を訪とへるヹヌス」の絵葉書と並んで此この童子の噴水の絵葉書もあつたので早速さつそく併せて買収かひをさめた。絵葉書に迄成つて居るのだから何か由来があるだらうと思つて絵葉書屋の神かみさんに聞くと、此この可愛かあいい童子はマヌケン・ピスと云ふ名の昔の幼王である。戦争中父の王が亡くなつたので将士の心を繋ぐ為に此この頑是ない幼王を陣中へ伴つて来たが、或ある日幼王が此この石像の如く一人で無邪気に放尿して居る処ところへ我軍大勝利の快報が達した。其その歴史上のめでたい記念に建てられたのが此この石像の由来である。後世奈破翁ナポレオン始め幾多の君主が此この噴水を訪とうて裸の幼王に捧げた衣裳が日本で云へば長持ながもちに一杯と云ふ程今も保存されて居る相さうである。僕は由来を聞かないで独り合点がつてんをして居た方が一層興味が深かつたと思つた。

アントワアプ

少し曇つた日の涼しい朝ブリユツセルから四十分間汽車に乗つてアントワアプに着いた二人は、中央停車場ステエシヨンの横の建築家ケエセエの名を負うた通とほりの旅館オテルに鞄を下おろした。日が永いから此この港街の見物は一日で済まされるのだが、倫敦ロンドン以来晶子が慣れない徒歩を余り続けて少し疲労して居るので一晩此処ここに泊つて明日巴里パリイへ帰る事にした。

巴里パリイや倫敦ロンドンを経て来た旅客りよかくに取つて狭い他たの郡市の見物は地図一枚を便りにする丈だけで案内者を頼む必要も無く宛さながら嚢ふくろの中を探る様に自在である。先まづ手近なリユウバンス町まちへ曲つて画家が晩年を其処そこに送つて終焉を遂げた旧宅を訪とうたが、今は其れが私人の有に帰して二戸に分れ、一戸の方は住む人も無く常に門を閉ぢて居るが、右の方の一戸は商会に成つて居て門を入はひつた内ない玄関の上にリユウバンスの石膏せきかう像が据ゑられて居た。親切な其その家の主人は中門ちゆうもんを開いて内庭うちにはへ導き、画家の昔の邸やしきも改築せられて仕舞しまつた今日こんにち唯たゞ残つて居るのは彼あれ丈だけだと云つて、塀越へいごしに隣の家の内庭にある二階家やを指さして説明して呉くれた。縦覧を許されないから其その内部は知らないが、薄桃うすもも色の塗料の雨風に褪あせた、外観の平凡な画室であつた。其処そこを辞して電車の通つて居るメエル町ちやうを真直まつすぐに行ゆくと、三角に成つた街の人家に打附ぶつつかつて路みちが俄にはかに細く左右に分れ、間口の狭い雑貨店がごたごたと並んで人通りの多い様子が大阪の御霊ごりやう神社の境内へ入はひる横町よこちやうの感じと似て居るのに興を覚え乍ながら電車の通らない右の方の路みちを廻つてヹルトの広場に出た。珈琲店キヤツフエや安やす料理屋が四方を囲んで居る穢きたない且かつ狭い広場プラスである。疎まばらなマロニエの樹立こだちの中央に例の寛衣くわんいを着けて劔けんを帯び庇ひさしの広い帽を少し逸反そりかへらして被かぶつた風姿の颯爽さつさうとしたリユウバンスの銅像が立つて、其その前にバナナや桜実さくらんぼを堆うづたかく盛つた果物屋の車が其れを輓ひかせて来た頸に綱を附けた三匹の犬と一人の老婆とに由よつて店を出して居た。而さうして京都の八坂神社の塔を意外な建たて込んだ街中まちなかに発見する如く、広場の一方の人家の上に有名なノオトル・ダムのカテドラルが古色を帯びて屹立きつりつする雄姿を仰ぐのであつた。僕等は細い小路こうぢを曲つて吸はれる如くカテドラルの二重扉の中へ入はひつて行つた。薄暗い穹窿きゆうりゆうの下もとに蝋燭の火と薫香の煙と白と黄金きんの僧衣の光とが神秘な色を呈して入交いりまじり、静かな読経どくきやうの声が洞窟の奥に谺こだまする微風そよかぜの様に吹いて居る。僕等は数列の椅子に就ついて居る敬虔けいけんな信者の黙祷もくたうを驚かさない様にと心掛けて靴音を潜め乍ながら壁画の中にリユウバンスの諸作を探して歩いた。

カテドラルの直下すぐしたの家の三階に金字で画家ヷン・ダイクの生れた家だと書いてあるのを見附けて、其その家の一部にある煙草たばこ屋で記念の絵葉書を買つた。僕等がカテドラルに入はひつたのは横の入口で、表の入口へ廻ると其処そこはグランド広場へ面し、露店の並んだ広場を隔てて市庁と対して居た。

半町ちやう程行つてエスカウト河へ出たが、大小の汽船が煙を吐いて荷揚人足や荷車の行交ゆきかふ忙せはしい港街の光景に久し振ぶりに接する心地も悪くない。画家の名を負うたヷン・ダイクの河岸かしの凹凸あうとつの多い石畳を踏み、石炭、干魚ほしうを、酒などの匂ひの入交いりまじるのを嗅ぎ乍ながら色んな店を覗のぞいて歩いた。郵船会社の寄港地丈だけに日本の雑貨を店頭に見出いだす事の少すくなく無いのも勿論粗末な廉物やすもの許ばかりであるが嬉うれしかつた。

足を痛めて居る晶子の為に馬車を探し乍ながらナシヨナル通どほりを歩いて行ゆく中うちに目的のロオヤル博物館へ来て仕舞しまつた。富んで居る国民の設計丈だけあつて、ブリユツセルの博物館も此処ここのも立派な建築である。殊ことに此処ここのは四方の庭園が広いので見栄みばえがして居る。土地に縁のある丈だけリユウバンスとヷン・ダイクの作を多く蔵をさめて居るが、巴里パリイや倫敦ロンドンで見受ける様な二家かの傑作は見当らない。寺院から頼まれて描かいた物に大作は多いが何どれも其その構図から僕等の気に入らない。寧むしろ小幅せうふくの肖像画に捨て難い物を発見する。実際云ふとヷン・ダイクは兎とに角かく、リユウバンスには余り多くを白耳義ベルジツクで観せつけられた所為せいか少し厭倦あきが来た様である。近代の作品にも目を惹く物は無かつた。十六世紀の和蘭ヲランダ古画の中にあるケンタン・マツシスの「サロメ」の濃厚な色彩の調子が、英国近代のバアン・ジヨオンスやロセツチの作と似通かよふ所のあるのを珍らしいと思つて出口で其その絵葉書を買つた。

午後二時近く成つたので酷ひどく空腹を感じた。博物館前の料理屋レスタウランでゆつくり午餐ひるめしを済ませた上疲労して居る晶子を馬車に載せて市の中央にある公園の池の畔ほとりを一周し、旅館ホテルへ一旦引返して晶子を休養させ、更に僕一人で午後の見物に出掛けた。後に残した晶子が気に成るので時間を節約する為に自動車を命じたが、其その運転手の独逸ドイツ人は未まだ土地慣れないのか、サン・ジヤツク寺じもサン・パウル寺もサン・シヤル寺も知らなかつた。地図を目の先へ突附けて教へて遣つても異ちがつた街へ入はひつてまごまごするので、短気な僕は途中から狭い運転手台へ一緒に乗つて地図と街とを見比べ乍ながら、右へ行け、左へ曲れと命ずるのであつた、サン・パウル寺は夕方の一時間しか観せないと門番が云ふのでリユウバンスの壁画を観ずに仕舞しまつたが、どの御お寺も其その外観の荒廃し掛けて黒く煤すゝびて居るのを仰いで過ぎる方が通りすがりの旅客りよかくの心に趣おもむきが深い様に思はれた。再びヷン・ダイクの河岸かしへ出て自動車を捨て、河に臨んだ旧屋にあるスチインの小博物館ミユウゼを訪とうたが午前中で無くては観られないのであつた。赤く入日いりひを受けた雲の水に映るのを眺めて高く突き出た桟橋の上に立つて居た時は何だか漂泊者らしい感がした。傍かたはらに来合せた巡査に日本の汽船が碇泊して居るかと聞いたら、一昨日をととひ常陸丸が出て仕舞しまつたと語つて、本国へ帰る為めに船待ちをして居る日本人だとでも思つたらしく其その巡査から気の毒相さうに顔を眺められたのも淋しかつた。

午前観たカテドラルの下もとを今一度徘徊してヷン・ダイクの故こ宅の前の店でエスカウト河の帆掛船ぶねの景色を描かいた小さな陶器を買つて居ると、汚れた労働服を着た一人の風来者ふうらいものが傍そばから口を出して彼かれにせよ之これにせよなどと云ふ。煩うるさくも感じなかつたので好いい加減な応答をして居たら、買物を済ませた後のちも先に立つて一緒に歩き乍ながらプランタスの博物館ミユウゼを観たかと問ふので、まだ観ないが今日けふは時間が遅からうと言ふと、自分と一緒に来なさい、必ず特別に観られる様にすると云つて僕の断るのも聞かずに其その方の街へ曲つて行く。少し酒気を帯びては居るが人の悪い案内者風の男でも無いから僕も附いて行つた。此この老人としよりの立たちん坊ばうと話し乍ながら行ゆく日本人を珍らしがつて附近の子供の一群ぐんもぞろぞろと附いて来た。博物館の門は立たちん坊ばうの指先で押した鈴ベルに由よつて開あけられ、僕は中庭へ入はひつたが、番人の妻は縦覧時間が過ぎたと云つて謝絶した。立たちん坊ばう君が頻しきりに押おし問答をするので番人の妻は三度迄階上へ昇つて館員に議はかつて呉くれた。僕に取つては観たくも無い博物館ミユウゼなんだが、見ず知らずの風来者に伴つれられて来て其その厚意と𤍠心を目撃すると、つい其れに絆ほだされて、番人の妻が三度目に階上へ昇らうとする時は僕も進んで口を出し、明日あすの滞留を許さない身の上だから出来る事なら是非ぜひ今日けふ観て行ゆきたいと云ふ様な事を可成かなり𤍠心に主張した。併しかし館員は終つひに其れを許さなかつた。其れで僕は無駄に時を費した上に某なにがしかの銅貨を其その風来者に与へて礼を述べざるを得なかつた。

コンメルスの大通おほどほりに出て土地に過ぎた程立派な二つの大劇場を眺め、美術学校前の広場プラスを横ぎつてヷン・ダイクの新しい石像を一瞥べつして旅館オテルへ帰つた。夜は晶子と公園の木陰を散歩し、引返して旅館オテルの近所の珈琲店キヤツフエで遅く迄音楽の中に居た。

今朝けさに成つて出立しゆつたつ迄時間の余つて居るのを利用して停車場ステイシヨンの後うしろの動物園を観た。有名な丈だけに完備して居るが、倫敦ロンドンの大動物園を観た目には驚く事も無い。唯たゞ象や駱駝らくだを入れた室の内外の装飾を鮮かな埃及エヂプト模様で描いてあるのを面白いと思ふのである。東京の動物園でも熊の室をアイヌ模様で装飾する位の趣味を加へるが好からう。動物園内の珈琲店キヤツフエの一卓で僕は今此この筆を擱おいた。早く巴里パリイへ帰らう。(七月十日)

巴里パリイの独立祭(晶子)

七月十三日の晩、自分は独立祭の宵祭の街の賑にぎはひを見て帰つて、子供の時、お祭の前の夜よの嬉うれしかつたのと殆ほとんど同じほどの思ひで、明日着て出る服や帽を長椅子の上に揃へて寝た。夜中に二三度雨が降つて居ないかと聞耳きゝみゝを立てもした。けれど、それは日本の習慣が自分にあるからで、高い処ところに寝て居る身には、雨が地を打つ音などは聞きこえやうが無い。マロニエの梢を渡る風がそれかと思はれるやうな事がままあるくらゐである。そんなに思つて居ながら、夜更よぶかしをしたあとなので、矢張やはり朝が起きにくい。それに、此処ここは四時前にすつかり空が明るくなつてしまふ。神経質の自分には、到底安眠が続けられないので、眠い思ひをしながら何時いつも起き上るのである。顔を洗つて髪を結つた時、女中のマリイがパンとシヨコラアを運んで来た。まだ八時前で、平生ふだんよりも一時間ほど朝の食事には早いのである。

「お祭を見に出るか。」

と良人をつとが云ふと、

「ウイ、ウイ。」

と点頭うなづきながら答へるマリイの目は嬉うれしさに輝いて居た。

「祭は午後でないと見に行つても面白くないのだよ。」

と良人をつとに云はれた時、自分はまた子供らしい失望をしないでは居られなかつた。読書をして居ると十時前にマリイが廻つて来た。何時いつもは午後四時過ぎでないと来てくれないのである。良人をつとが市街の地図を出して、何処どこが一番賑にぎやかなのかと聞くと、プラス・ペピユブリツクだと云ふ。其処そこは巴里パリイ市内の東に当つて革命の記念像が立つて居る広場である。マリイは十一時頃に晴着のロオヴを着て出掛けて行つた。自分はトランクの上の台所で昼御ご飯の仕度にかかつて、有合せの野菜や鶏卵たまごや冷肉れいにくでお菜かずを作つた。お祭だと云ふ特別な心持で居ながら、やはり二人ぎりで箸を取る食事は寂しかつた。一時半頃に服を更かへて家を出た。

「まあペピユブリツクへ行つて見るんだね。」

と良人をつとは云つて、ピガルの広場から地下電車に乗ることにした。人が込むだらうからと云つて一等の切符を買つたが、車は平生ふだんよりも乗客のりてが少すくなかつた。同室の四五人の婦人客は皆ペピユブリツクで降りた。この停留場ぢやうは余程よほど地の上へ遠いのでエレベエタアで客を上あげ下おろしもするのである。音楽の囃はやしを耳にしながら何方どちらへ行ゆかうかと暫しばらく良人をつとと自分は広場の端を迷つて居た。聞いた程の人出は未まだないが、ルナパアク式の興行物の多いのに目が眩くらむ様である。高く低く上あがり下おりしながら廻る自動車台の女七分ぶの客の中に、一人薄絹のロオヴの上に恐ろしい様な黒の毛皮の長い襟巻をして、片手で緋の大きな花の一輪附いた広い帽を散ちらすまいと押へた、水際だつて美しい女が一人居た。子供客は作りものの馬や豚に乗せて回転する興行物に多く集まつて居る。聞けばミカレエム祭さいや謝肉祭のやうに人が皆仮装をして歩いたり、コンフエツチと云ふ色紙いろがみの細かく切つた物を投げ合つたりする事はこの日の祭にはないのである。自分等はそれからルウヴル行ゆきの市街電車に乗つた。初めて自分は二階の席へ乗つたのである。細い曲つた梯子段に足を掛けるや否や動き出すので、其その危ないことは云ひ様もない。唯たゞこの蒸むし暑い日に其処そこではどんなに涼しさが得られるか知れないと云ふ気がしたのと、ルウヴルが終点であるから降りるのに心配がないと思ふからでもあつた。この祭は労働者を喜ばす祭と云はれて居るだけあつて、高い席から見て行ゆく街街まち〱の料理店レスタウランには酒を飲んで歌ふ男の労働者、嬉うれしさうに食事をして居るマリイの様な女の組が数知れず居た。悪い気持のしない事である。自分等は電車から降りてルウヴル宮に沿うたセエヌの河岸かしのマロニエの樹下道こしたみちを歩いてトユイルリイ公園へ入はひつた。上野の動物園前の様な林の中の出茶屋でぢややで休んで居ると、傍そばで鬼ごつこを一家族寄つてする人たちも居た。コンコルドの広場へ出ると各州を代表した沢山たくさんの彫像の立つて居る中に、普仏戦争の結果、独逸ドイツ領になつたアルサス、ロオレン二州の代表像には喪章が附けられ、うづだかく花輪が捧げられてあるのを見て、外国人の自分さへもうら悲しい気がした。花を手向たむけたい様な気もした。けれど其その廻りを取巻いた人達は何も皆悄然として居るのではない。未来に燃える様な希望を持つ人らしい面持おももちが多いのであつた。それから自分等はシテエ・フワルギエエルの滿谷氏の画室近ぢかくまで、また地下電車に乗つて行つたが、滿谷氏等はもう祭見物に出掛けた跡あとであつた。それから、カンパン・プルミエの徳永さんの画室まで歩いて行つた。氏とは昨夜ゆうべ宵祭を見て歩いたのである。日本の話をした後あとで近日から自分が此この画室へ油画あぶらゑの稽古に通はして貰ふ約束などをして、氏と別れてリユクサンブル公園へ入はひつた。そして、その近くのレスタウランで夕食ゆふげを済すまして、また公園へ帰つて来た。一人一人に変化のある、そして気の利きいた点の共通である巴里パリイ婦人の服装を樹蔭こかげの椅子で眺めながら、セエヌ河に煙花はなびの上あがる時の近づくのを待つて居た。七時半頃になつて街へ出たが、まだ飾瓦斯かざりがすも飾提灯かざりぢやうちんの灯ひもちらほらよりついて居ない。サン・ミツセルの通とほりに並んだ露店が皆ぶん廻し風の賭物かけもの遊びの店であるのに自分は少し情なさけない気がした。河岸かしへ出るともう煙花はなびの見物人が続続ぞく〱と立て込んで居る。警固の兵士が下士かしに伴つれられて二間けんおきぐらゐに配置されて立つて居た。河下かはしもへ向いて自分等は歩いて居るのである。昼間歩いた向河岸むかうがしに当る辺へんは見物するのに好いい場所と見えて、人が多い。今夜は橋の上を通る人に立留たちどまることを許されない。また遊覧船を除いた外の船は皆岸に繋がれて居た。振返つて見ると高台にはもう灯ひが多くついて瞬間に火の都となつた様に思はれる。自分等はルウヴル宮の横の橋を渡つて北岸ぎしで見物する事にしたが、待つて居るのに丁度ちやうど程よい場所がない。ふと橋の下から掛けて左右に荷揚場ばの石だたみが広く河に突き出て造られてあるのに気が附いて、良人をつとは其処そこへ降りやうと言つた。降り口の石段が二処ふたどころに附いて居る。降りて見ると下にはまだ見物人が四五人より来て居ない。併しかし此処ここにも兵士が三人許ばかり警固に置かれてあつた。何故なぜだか橋を境にして左の方へは行ゆくことを許されない。水際の石崖いしがけに腰を下おろすと、涼しくて、そして悲しい様な河風が頬ほを吹く。十分二十分と経つ中うちに河岸かしの上の人数が次第に殖え、自分達の場所を目掛けて降りて来る人も多くなつて行ゆく。積んだ材木の上に初めは腰を掛けて居たのが、何時いつの間まにか其その上に上あがつて坐る人の出来る事なども、東京の夏の夜よの河岸かしの風情ふぜいと同じ様である。両国の川開きであるなどと、自分は興じて良人をつとに言つて居た。九時半頃に、それは極ごく小さい煙花はなびの一つがノオトル・ダムのお寺の上かと思ふ空に上あがつた。風でも引いては成らないからもう帰らうと良人をつとが言つて、十時頃に三四発続いて上あがるのを見てから河岸かしの上へ上あがつた。丁度ちやうどさうした頃から華美はでな大きい煙花はなびが少しの休みもなしに三ヶ所程から上あがるやうになつたのである。自分等はまたルウヴル宮の橋の袂たもとの人込に交つて空を仰いで居た。四種か五種の変化より無くて、日本のに比べては技巧の拙つたないことを思はせるのであるが、満一時間少時しばらくも休む間ま無しに打上げられる壮観は、煙花はなびは消えるもの、楽しさとはかなさとを続いて思はせるものだなどとは、夢にも思はれない華美はでな珍らしい感を与へられるのであつた。二十分程のうちに其その後うしろの空に火の色の雲が出来た。最終のは殊ことに大きく長く続いてセエヌ河も亦また火の河になるかと思はれる程であつた。今夜は辻待つじまちの自動車や馬車が大方おほかた休んで居て偶たまにあつても平生ふだんの四倍ぐらゐの価ねを云ふので、自分等は其処そこからゆるゆると〔濁点付き井〕クトル・マツセの下宿まで歩いて帰つた。途中の街々まち〱のイルミナシヨンの中ではオペラの前の王冠が一番好いいと思つた。寝台ねだいへ疲れた身体からだを横たへ乍ながら、街街まち〱の広場の俄拵にはかごしらへの囃はやし場ばで奏して居る音楽に伴つれて多数の男女なんによが一対の団を作り乍ながら楽しさうに踊つて居た事などを思つて、微笑ほゝゑんで居た。門かど涼みをして居る人達までもじつとしては居られない気持になつて、暗がりで手を拡げて踊る振ふりをして居た事なども思ひ出された。女中のマリイは暁方あけがたの四時に帰つたと、次の日に話して居た。(七月十五日)

欧洲婦人の髪(晶子)

自分は外国へ来て初めて日本婦人の頭髪の押並おしなべて美しい事を思ふ者である。あの房やかな長い髪を本国の人は其程それほど誇りとも思つて居ないのであらう。勿論自分もさう思つて居た。写真で見る外国婦人の曲線をして額を覆うた前髪や大きく結ばれた束髪を見ては、天賦の美を羨まずには居られなかつた一人ひとりだつたのである。さうして巴里パリイへ来た当座も自動車の上の少女をとめ、劇場で見る貴婦人、街を歩く巴里女パリイジエンヌをやつぱりそんな気分で眺めて居た。生憎あいにく其内そのうちに隠れた方の事が自分の目に見え出して来た。巴里パリイの街は大通おほどほりでも横町よこちやうでも亦またどんな辺鄙な処ところでも一町ちやうの片側だけにも三軒四軒の女の髪結所かみゆひどころがある。其れは別段驚くべき事でもないが、其その床屋の店飾棚ヸトランが悉ことごとく鬘かつらと附髷つけまげ、前髪の添毛そへげで満たされて居るのを見ると、其それ等の需要の多い事が先まづ解わかる。さうして巴里パリイの女の十中の七八迄は其それ等で髪を美しく繕はれて居るのであると知つた時は少しあさましく思はれた。けれど髪を結ふ上に其れが最も簡便な法であると感心もされた。自分の泊とまつて居る家には主婦の外に三四人も若い女が居るが、お天気の好いい日の朝などは皆庭へ出て附髷つけまげを膝に載せて結ひ替へて居る事なども目に附いて来た。巴里パリイで毛の多い女と云はれるのは前髪や鬢びん、つまり髪の外輪ぐわいりんだけが地毛ぢげで出来る人で、髷まげは大方おほかた附髷つけまげをして居るのである。其その外輪ぐわいりんさへも完全に行ゆかない人は前髪にも添毛そへげをする。つまり前だけの鬘かつらを附ける。さう云ふ場合には地毛ぢげは短く縮らせて添毛そへげの下から出してあるのもあるが、真中まんなかへ其れを置いて両鬢びんを地毛ぢげで上へ上げて居るのが多い様である。もう一層進むと地毛ぢげは引ひき詰めにして総体の鬘かつらを着ける。其れが極ごく軽く和やはらかく出来て居て、切地きれぢでふうわりと毛を巻いた位にしか感ぜられないと云ふ事である。自分の知つて居る日本婦人が物好きに一つ買つたのは毛が三処みところに附けられて居て、前のを左右に下へ梳いて後うしろへ廻し、其れと一緒に後うしろの毛を真中まんなかへ持つて行つて大きい櫛で止めるともう髪が出来上るのだ相さうである。旅行して居る際などは早く髪が出来るので便利であつたと其その人が云つて居た。序ついでに其その人の払つた価あたひをも書いて置く。其れは日本貨にして八十円だつた相さうである。好いい毛になると二百円位のもあると聞いた。尤もつとも三四十円のもあるのであらうが兎とも角かくも高価な品しなとされて居る。其れだから此この附髷つけまげや帽の流行品などに浮身うきみをやつして食べる物も食べずに若死じにをする独身者ものもあると云ふことである。大昔の支那の王様が細い身体からだを好んだ為に餓死をした女官ぢよくわん達に似寄つた事をする女が二十世紀にもあるとは恐ろしい事である。

一体に西洋の女が何故なぜさう毛が少すくないかと云ふと、其れは毛を自然に任せず、酷ひどくいぢめ過すぎるからである事は云ふ迄もあるまい。濃こいい珈琲カツフエを飲むからだと云ふ人のあるのは点頭うなづき難い事である。生れ立だてから十五六迄の女の子の髪は皆房房ふさ〱として居る。其れが焼鏝やきごてを当てる様になり、乃至ないし「ヌマ」と云ふ曲つたピンに巻いて縮ちゞらす様になると、癖を附けぬ毛の三倍程も毛は膨ふくれるが、其その右に曲り合つた髪が真直まつすぐな歯の櫛くしに梳かれる時に切れ落ちるのは是非ぜひもない。少すくなくなれば一層多く縮ちゞらさなければならなくなつて、結局はみじめな髪になつて仕舞しまふのである。髪を自然に垂たらして置く日本の或ある島の女が驚くべき美事な毛を持つて居るのは之これと反比例である。

×

序ついでに此頃このごろの巴里パリイの髪の形を紹介して置く。今多く結つて居る髷まげは毛を小ちひさく分けて指の先でふうわりと一寸程の高さの輪に巻いてピンを横に差して押さへた、機はたを織る杼ひの中の管糸巻くだいとまきの様なのを、多いのは二十程、少すくなくとも十四五を円く並べた物である。それから其その輪を大きくして横に三つ日本の三つ輪と同じ様な形を拵こしらへた者もある。後ろに大きく一つ巻き上げたものもある。三つ組ぐみのくるくる巻も少しはある。又丸髷まげの型と同じ様な物を中に入れて結つた種種いろ〱な形もある。附髷つけまげをした時地毛ぢげの相当に残つた人は其れを後うしろで二つに分けて髷まげの縁ふちを巻くのである。さうでない人はリボンなどでも巻く。金属で巻く飾りも出来て居る。前髪を前で分けたり七三で分けたりしてあるのが若い女の頭で、四十以上の人は日本の廂ひさし髪と同じ形を好んでして居る。添毛そへげをするのに一層勝手が好いからであるらしい。前に云ふのを忘れたが、髪結かみゆひの店には白髪交まじりの附髷つけまげや鬘かつら、全まつたく白いのなども夥おびたゞしくあるのである。それから前で分ける形の中に此間このあひだコメデイ・フランセエズ座の女優で三つに分けた人があつた。真中まんなかが立ててあるから丁度ちやうど日本髪の様であつた。

西洋婦人の様に真中まんなかで毛を分けて其その毛で額を作つた形は日本の王朝の貴婦人も同じであつた事が想はれる。今の日本人の様に額を剥むき出しにして居るのは王朝の尼額あまびたひと一緒である。若い尼が男と話して居るうちに後うしろへ撫で附けた髪を前へ引いて、そつと額をつくるなどと云ふ事も何かで見た様である。今の日本婦人は額を作る事を忘れて居る。生際はへぎはの好い人は其れでも好いが、さうでない人は何とか工夫を施したいものである。日本の様に剥むき出しにしなければならない事になつたら、巴里パリイの美人の数は日本と同じ位にも減る事であらう。縮ちゞらせたりしない以上は髪が損はれる気遣ひも無いのであるから、出来る丈だけ工夫して欲ほしいと日本婦人の為に自分は痛切に思ふのである。

自分も巴里パリイで時時とき〲其その床屋へ行く。其れは髪の毛が一本でも散ちらばつて居ないのを礼らいとする此処ここでは自分で手際よく髪を持ち扱ひ難にくいからである。髪結かみゆひは多く男である。瓦斯ガスの火で𤍠くされた二挺ちやうの鏝こてが代かはる代がはる当てられる。鏝こてをちよんちよんと音させたり、焼け過ぎたのを醒さます時に其その鏝こての片脚を持つてきりきりと廻したりするのが面白相さうである。そして櫛くしの目を髪に立てやうとは思はないのであるから、鏝こてを当てると直すぐ手で上へ差櫛さしぐしで止めて、やがて護謨ごむの紐で其れが結ばれ、自分の髪は三つに組まれて投げる様に輪にされる。其れが極めて和やはらかに組んであるのと、横に立てて上うはすぼみの輪にされるのとでピンで止めた時は或ある一種面白い形の物が寄集よりあつまつて居る様になるのである。それから頭全体が目に見えない様な極繊ごくほそい毛網で包まれる。毛が一筋も零こぼれないのも道理である。種種いろ〱の髷まげが自分の居る傍そばで結はれるのであるが、心しんに入れる毛(此処ここでは云はないが、それを英国辺あたりでは其その形から聯想して「死んだ鼠」と仇名あだなを呼んで居る相さうである。あなたの傍そばへ寄ると鼠の香にほひがしますよなどと男が戯談じやうだんを云ふと云ふ事である。)だの、かもじだの、髷形まげがたなどを皆持つて来る。かもじは初めから三つに組んで置いて地毛ぢげの束髪の外そとを巻く様である。かもじの価あたいも日本の十倍位するのである。首筋の辺あたりで髪を切つて、そして唯たゞ縮ちゞらせて垂らした人もあるが、さう云ふ人も床屋へ来て網を掛けさせて居る。髪を洗はせて瓦斯ガスの火力で煽あふられて乾かし、そして直すぐ髪を結はせる人もある。自分は此頃このごろマガザンで毛網を買つて来て独りで結ふ事が多くなつた。然し乍ながら後おくれ毛げがあつても咎とがめる事のない気楽な日本へ早く帰りたいと思つて居る。(八月十八日巴里にて)

日記の一節(晶子)

私等は五時頃にリユクサンブル公園を出ました。私が油絵を外よそへ描かきに出るやうになつてこれが三度目です。

「絵の具が身体からだ中に附いて居るやうな気がして気持が悪いんですよ。」

私は五六歩先に歩いて居る良人をつとに追おひ附いて斯かう云ひました。

「さうかい。」

と云つて、良人をつとは私の方を向きました。

「穢きたないのねえ。」

私はテレピン油ゆで拭ふいた後あとのグリインの浸染にじんだ掌てのひらを開いて良人をつとに見せました、

「リラへ行つて洗ふさ。」

と良人をつとは云ひました。

「さうしませうね。」

と云ひながら私も一緒に足早あしはやに歩いて行ゆきました。

「それからあの辺へんで夕飯ゆふめしを食べて徳永君の処ところへでも行ゆかうか。」

「ええ。」

と私は云つて居ました。海馬かいばの噴水の横から道を斜はすに行ゆくともう白に赤の細い縁ふちを取つたリラの店前テラスの張出した日覆ひおほひが、目の前でぱたぱた風に動いて居ました。

良人をつとは張出しの下の一つの大理石の卓を選んで水色の椅子に腰を掛けました。私は絵具箱を良人をつとの横の椅子に置いて家の中へ手を洗ひに行ゆきました。

人が物を云ひ掛けますと私はいい加減に、「セツサ」とか「メルシイ」とか「ウイ、ウイ」とか云ひながら良人をつとの傍そばへ出て来ました。何時いつの間にか画家のSさんが来て良人をつとの向むかひの椅子に居ました。

「奥様おくさん、お暑いですね。」

「お暑う御ご座いますねえ。」

私はSさんにかう云ひながら絵具箱を下へ降して其の椅子へ腰を掛けました。Sさんの白い顔が今日けふは目に立つて青味を帯びて居るんです。私は直覚的にSさんは今日けふ何か不愉快なことに逢つたに違ひないと思ひました。先に良人をつとに云ひ附けられました珈琲カツフエを二つ卓の上へ運んで来ましたギヤルソンに、Sさんは、

「ウヰスキイ」

と云つて、持つて来ることを命じました。こんなことも何時いつもとは違つたことなんです。Sさんは良人をつとと同じ京都の人で、評判の柔順おとなしい人交際ひとづきあひの好いい人なんです。米国の或ある家庭へ傭やとはれて其処そこで仏蘭西フランスに三年間居るだけの学資を作つて巴里パリイへ来た人なんです。親孝行な人で毎月学資の中から日本へ逆に送金して居ると云ふ噂もありました。

Sさんはウヰスキイを半分程飲んだ時、

「奥さん、西洋人の親と子は接吻をしますね、西洋人の親子はさうして肉体が触れるのですね、僕等は日本へ帰つたらゆきなり親父おやぢにぶん撲なぐられるんです、さうしてそれが親子の肉体が触れる時なんです。」

と云ひました。

杜鵑とけん亭(晶子)

杜鵑とけん亭(レスタウラン・ド・クツクウ)は巴里パリイにある一つの伊太利亜イタリア料理店である。モンマルトルの高い所に白い凄すさまじい大きい姿を見せて居るサクレエ・クウル寺じの近くにあるのである。

プツティイ・パリジヤンの記者のフアロウさんの家のお茶に呼ばれた日の夕方、其処そこを出た自分等夫婦は杜鵑とけん亭を未まだ御ご存じでないやうに伺つた松岡曙村しよそんさんに晩餐をその家うちで上あげることに同意して頂いた。

巴里パリイの道ももう此辺このへんはアスフワルトでもなければ切石きりいしを敷いた道でもない。清水の三年坂ざか程の勾配を上のぼる靴はかなり迷惑な土ぼこりを身体からだに上げる。八月の中頃であるから未まだ暑さも一通ひととほりではない。左側に続いた赤い煉瓦塀の家の中で先まづピヤノの音がする。主人達が避暑に行つた跡あとを預かつた用人ようにんの娘か小間使こまづかひの手すさびの音とも聞かれる。右手は千駄が谷辺へんで貸地と云ふ札などのよく立てられてある処ところのやうな広い唯たゞの土のでこぼこである。正面の崖の上は籠こもつた木立こだちになつて居る。曙村さんは優しい方かたで、

「お苦しいでせう、奥さん。」

とばかり云ひ続けておいでになつた。踵かかとの上あがつた靴も穿はかない草履穿ざうりばきで今日けふも出たなら疲れはもつとひどかつたかも知れないと、上あがり切つた処ところで立ち留どまつて息を突きながら思つた。人通りなどの殆ほとんどない心安さに、扇を出して使はうとすると、

「もう直すぐ其処そこぢやないか。」

と良人をつとが苦にがい顔をして急せき立てた。もう此処ここはサクレエ・クウル寺じの寺じ域なのである。絵葉書とか、この寺の絵を模様に附けた陶器とか、十字架とか、キリストの像とかを売る露店が四五軒出されてあつて客を待つて居る前を通つて行ゆく。陶器の中の品は何であるか濃こいい紫地に金で彩いろどつたものが甚しく頭を刺激した。本堂を半円に廻つて後うしろへ出た。まだ実は普請の出来上つてない処ところなどが気附かれる、寺院らしい威厳の少しも見出されない建築は其その色とともに不愉快なものの象徴のやうである。誰も名所巡りの客でないから振向いても見ずに街の方へ足を早めた。

場末街まちらしい小さい床屋に黄色くなつた莢隠元アリコ・ヹエルや萎しなびた胡瓜コンコンブルの淋しく残つた八百屋、廉やすい櫛や髪針ピンの紙につけたのから箒、茶碗、石鹸などまでを並べた荒物屋、洗濯屋などがみじめに並んだ前の道では、さうした家家いへ〱の女房子供が出て居る。皆穢きたない姿なりをした中にも男の子は目立つた襤褸ぼろで身を包んで居る。自分等がこの道の方から上あがつて来たのは今日けふが初めであつたから、少し道が違はないかなどとも危ぶまれたのであつたが、其処そこを横切つて南北の中位ちゆうくらゐの幅の道に出ると直すぐ見知りの空地あきちがあつた。今日けふもテニスをする女学生の姿が見られた。七八間けん歩くともう杜鵑とけん亭の前の空地あきちへ出た。その南北の通りは空地あきちの前まで続いて居るだけで尽きて居る。道はあるがそれは石段になつて居るのである。愛宕山あたごさん程の石段が四よ段程も附いて居て、此処ここを降りれば帰りは十と息かそこらの間にクリツシイの通とほりへ出られるのである。石段の口からは巴里パリイの半なかばが絵のやうに見える。ルウヴル宮の大きいのとオペラの図抜けた屋根とが何時いつも乍ながら磁石の役をして自分などにも彼処此処かしこここが何なんの所在と云ふ事が点頭うなづかれるのである。ふらふらと風に散つて居る雲もある。未まだ土の上には斑まだらに日影が残つて居て午後六時頃かと自分は一人で思はれるのであつた。杜鵑とけん亭の食堂の一つの卓を自分等は選んで席に着いた。杜鵑とけん亭の食堂は即すなはち道の入いり込んだ空地あきちなのであるから十四五分して小さい料理店の家の中から客を見附けた給仕女が布巾ふきんを持つて出て来て卓を拭く。酒だけを飲んで行ゆくのか、食事をするのかを聞いた後あとで、食事がしたいのだと分ると白い卓覆ひを持つて掛けに来る。卓の数は五六十あるがまだ外に相客あひきやくはない。今に家の中から古ふる卓古ふる椅子を運び出さないと席が不足する迄に到らうとは一寸ちよつと想像が出来ないやうである。

空地あきちの正面の突当つきあたりは大きい家の塀で、其処そこの入口は料理店の直すぐ左にあるのである。塀には蔦つたが心地よく這はひまつはつて居る。左の家並やならびが三軒げん程に分れて居るがどれも低さの同じ程の二階建の間口の余りない小さい家である。一番奥になつた最も小さいのが料理店である。田舎ゐなかめいた赤地に白の格子縞のある窓掛をして、硝子がらす戸の外そとに葵あふひの花が三み鉢づつ程並べられた窓が二つあるが、人があれで立つて居ることが出来やうかと思はれる程の低い二階である。下の入口から中は暗くて見透すかされないが、やはり小さい卓の四よつ五いつつは土間に置かれてあるやうである。それから門口かどぐちに藤棚のやうにして藪からしが沢山たくさん這ははせてある。こんな曲りかけた家などに配合すると藪からしの太い蔓も忍草しのぶぐさよりもはかない風情ふぜいが見えないでもない。道の向むかひの塀の隣りで、此処こことは筋向むかうの鼠色の家の一番上殆ほとんど家根とすれすれの処ところに一つきりある窓から十六七の少女をとめが顔を出して先刻さつきから曙村さんを手真似てまねなどでからかつて居るのてあつた。空地あきちの左の大きい高い家は思ひ切つて酒落しやれて建てられた家で、家の壁にはいろんなモザイク模様がある。石段の直すぐ脇になつて居る門の二つの柱には鬼のやうな恐こはい顔が描かかれてゐる。顔は茶色でそれを囲つた桂かつらの葉は萌黄もえぎで地ぢの塗りは灰色がかつたお納戸なんどである。塀は態わざとらしく庭の中から伸び余つた蔓草ぐさであつさりと緑の房を掛けさせてあるのである。これは絵師の家であると云ふことは前に聞いたことがあるので自分は知つて居た。そして其その絵師が未まだ独身ひとりみの変り者であると云ふことも何故なぜだか知つて居た。

自分は少し寒くなつて来た。暑いと云ふ心地の忘られたのは此処ここへ着いた時からなのであらうか、市中を見下おろして居た時の涼風すゞかぜからか、よく意識しない。自分は前に来た時寒いであらうと云つて夜が更けてからであつたが給仕女をんなが貸して呉くれた白い毛糸の肩掛のことを思ひ出した。気味悪さに着るにもよう着ないで居た自分の姿が可笑をかしく目に浮ぶのであつたから寒いなどとは誰たれにも告げやうとはしなかつた。自動車が出て来たから此処ここの客かと思ふと、さうではなくて石段に尽きた道に失望して引返すのであつた。三人伴づれが一組来た。男ばかりである。漸やうやく最初のメロンが運び出された。メロンは唐茄子なすのやうな形も中味の色も有もつた真桑瓜まくはうりに似た味の瓜で氷で冷ひやしてあるのを皮を離して砂糖を附けて食べるのである。五色しきの藁の苞つとで半なかば包まれた伊太利亜イタリアの赤い酒も来た。鼠色の家の子供が道に出て来て曙村さんを指差して笑ふ。二階に居た娘の妹などであるらしい。絵師の家の門が開あいて黒い服の女が出て来た。後あとから出て来て門の前に更にある低い柵の木戸の錠を開あけて握手して客と別れて居たのが画伯であるらしい。三十余りの姿の好いい女は何か独笑ひとりゑみをして石段から隠れて行つた。帽に附けてあつた桜実さくらんぼの赤さが何故なぜかいつまでも頭に残つた。夕雲と思つた美しい空の色が次第に藍気あゐけを帯びて来て鼠色の家の上の窓なども定かに見えなくなつて来た。小さい揮発油のかんてらが七八なゝや組になつた客の卓にそれぞれ置かれた。風にあふられて青い火を出す時、肌の寒さと共に苦にがい心細さが胸の底から首を出だするのを覚えた。

一尺程の大きさの伊勢海老が持ち出され、薄黄の色のソオスが白い磁じの器うつはに入れられて来たので貧乏ぶるひをするやうであつた卓もいささかの花やかさが加はつた。馬車で来た一組の中に、白い羽の帽子を被きた二十四五の飛び離れた美人があつた。巴里パリイ人であることは云ふ迄もないが、伴つれの男達は皆英人であつた。直すぐ自分等の隣で絵師の家の塀際の卓に着いた。後うしろの方では頻しきりに独逸ドイツ語の話が交かはされて居た。かんてらの数が多くなる程ますます食堂は暗くなつて行ゆく。何時いつの間にかもう客の数は百に多く余る程のものになつて居る。この間白い肩掛を借りて着て居る女客をんなきやくを自分は暗い中に透すかし見て知つて苦笑した。

絵師の家の主人が出て木戸の錠を下おろして出掛けて行つた。先刻さきの女客をんなきやくの行つたと同じやうにまた石段から直すぐ隠れてしまつた。

「早く家根の下したへ入はひりたい。」

赤い酒に少しお酔ひになつた曙村さんは頸をすくめながらかうお云ひになつた。

「なかなか此処ここの連中れんぢゆうは気が長いから溜らないね。」

と良人をつとも自分に云つて居た。マカロニが湯気ゆげを立てて来た。星が踊場をどりばの灯ひのやうに上に白く数多く輝いて居る。そしてそれの余り遠いのを笑止に思つた。自分の足元の見えないやうな所に居ることは巴里パリイであるだけ心細くも覚えるのであらう。

自分は沢山たくさんの石段を降りる快さなどを思つて見た。急に明るいクリツシイ通どほりに出て行ゆきつけの珈琲店キヤツフエへ入はひつて行ゆくことも思つて見た。其処そこの演奏者の中の大きいハアプの琴を真中まんなかに居て弾いて居る女を伊太利亜イタリア美人だと云つて、毎夜よあちこちの柱の陰から男の目が覗のぞくその人気者の顔を心に描かいても見た。ハアプ弾きの持つて居る美は丁度ちやうど今夜の空のやうな冷ひえ冷びえとしたものであるなどと批判して思つたりなどもして居た。

家の中の灯ひは藪からしの繁りを美しくして見せた。二階からはぼんやりした明りよりさして居ない。真実ほんとうに冷つめたくなつて来た。白い卓覆ひに指が触れると少し身慄ぶるひの起おこるのを覚えられる。自分の背にして居る方の塀越しに大きいマロニエが自分の臆病心しんをおびやかして居る。巴里パリイの一番高い土地の杜鵑とけん亭へ食事をしに来ることももう終りの度たびになるかも知れない。秋になるから。(八月十日)

髑髏洞カタコンブ(晶子)

巴里パリイは七月の中頃から曇天と微雨とが続いて秋の末方すゑがたの様な冷気に誰たれも冬衣ぎを着けて居る。此この陰鬱な天候に加へて諒闇りやうあんの中に居る自分達は一層気が滅入めいる許ばかりである。御ご大葬の済む迄は御ご遠慮したいと思ふので芝居へも行ゆかない。独逸ドイツから和蘭ヲランダへかけて旅行しようと思ふが雨天の為に其れも延び勝がちである。

和田三造さんから切符を貰つたので巴里パリイの髑髏洞カタコンブを一昨日をとゝひの土曜日に観に行つた。予あらかじめ市庁へ願つて置くと毎月げつ一日じつと土曜日と丈だけに観ることが許されるのである。自分は一体さう云ふ不気味な処ところを見たくない。平生へいぜいから骨董がかつた物に余り興味を持つてない自分は、況まして自分の生活と全まつたく交渉の無い地下の髑髏どくろなどは猶更なほさら観たくないが、好奇心の多い、何物でも異かはつた物は見逃すまいとする良人をつとから「自動車を驕おごるから」などと誘そゝのかされて下宿を出た。零時半の開門の時間まで横町よこちやうの角の店前テラスで午飯ひるはんを取つて待つて居ると、見物人が自動車や馬車で次第に髑髏洞カタコンブの門前に集あつまつて来た。中に厚紙の台に木の柄えを附けて蝋燭を立てた手燭てしよくを売る老爺おやぢが一人混まじつて居る。見物人は皆其れを争つて買ふのである。其内そのうちに和田三造さんと大隅さんとが平岡氏夫婦を案内して馬車を下おりるのが見えた。自分達もレスタウランを出て皆さんと一緒に成つた。

群集は門衛に切符を渡し、一列に成つて電灯の点ついて居る狭い螺旋形がたの石階いしだんを徐徐じよ〱と地下へ降り始めた。戯れに御経おきやうを唱へ出す男の群むれがあつて皆を笑はせた。日本ならば念仏と云ふ所であらう。凡およそ三百段も降りた時いよいよ闇穴道あんけつだうの入口に差掛さしかゝつて、其処そこには鬼ならぬ一人の巡査がカンテラを持つて立つて居る。人人は其そのカンテラの前に立留たちどまつて蝋燭の火を点つけた。

洞ほらは三縦列に成つて歩く事の出来る広さで、上は普通の家の天井よりも高く、其れが一面御影みかげ質の巌石がんせきで掩おほはれて居るのを見ると巴里パリイの地盤の堅牢な事が想はれる。下は白い砂を敷いた様な清潔な道が両壁へきの巌いはから自然に沁しみ出る水があるのか少し湿つて居る。洞ほらの左右には処処ところ〲に暗い大きな龕がんが掘られて居て、人人は蝋燭を其その中へ差入れて覗のぞいたが何物も見えなかつた。石壁せきへきの上に地上の街の名が書かれて其れが度度たび〱変るので凡およそ三町ちやうも屈折して歩いて居る事が解わかつた。死の世界にも人間界の街の名が及んで居るのを可笑をかしいと思つた。

或ある龕がんの中へ身を片寄せて二三間げん後あとに成つて居る和田さんと良人をつととを待ち合せた時、幼い時に聞いた三途さんづの河の道連みちづれの話を思ひ出すのであつた。又半町ちやう程行つて二十畳敷許ばかりの円い広場へ出たと思ふと、正面に大きな厳いかめしい石門せきもんが立つて居る。石門せきもんの中も亦また広場になつて居て、更に第二の石門せきもんが闇やみの口を開くのに出逢ふ。是これからが髑髏洞カタコンブの奥の院である。門を入はひつて右に折れると洞ほらの屈曲は蠑螺さざえ貝の底の様に急に成り、初めて髑髏どくろの祭壇が見られる。飴色あめいろや暗紫色あんししよくをした肋骨ろくこつと手足の骨とが左右に一間けん程の高さでぎつしりと積まれ、其その横へ幾列にか目鼻の空うつろに成つた髑髏どくろが掛けられて、中には一つの髑髏どくろを中心として周囲に手足の骨で種種いろ〱の形に模様づけられたのもある。千九百幾年に何処どこの墓地で掘出したと云ふ様な事が一区域毎ごとに記されて居るのは、巴里パリイの市区改正や地下電車の土工どこうの際などに各墓地から無縁の骸骨を集めたからである。多少知名な人人の遺骨で改葬すべき子孫の無い物は特に墓標が設けられて居る。之これが凡およそ五町ちやう程も続くのであるが案外に不気味で無い。或ある人は手際よく積まれた手足の骨を見て日本の薪まき屋の前を通る様だと云つた。如何いかにも其その様な感じがするに過ぎない。死に対する厳粛げんしゆくな感念かんねんなどは勿論起おこりさうに無かつた。和田垣博士が曾かつて之これを評して「巴里パリイ人は髑髏どくろを見世物扱あつかひにして居る」と批難せられたといふのは尤もつともである。

先に立つた見物人が足を留とゞめて故もとの墓地の名や偶たま〱ある墓標の主ぬしの姓氏を読んだり、又英米の旅客りよかくが自身の名を石壁せきへきの上に留とゞめたりするので生きた亡者まうじやの線は幾度か低徊ていくわいする。自分は手燭てしよくの火で前の女の帽の縁ふちや裳もの後うしろを焼きはしないかと案じる外に何の思ふ所も無かつた。不気味と云へば倫敦ロンドンの博物館の数室で見た埃及エヂプトの木乃伊みいらの幾十体の方が何程どれほど不気味であつたか知れない。髑髏洞どくろどうの尽きた所にある二つの石門せきもんを潜くゞつて更に一町ちやう程の闇穴道あんけつだうを過ぎ、再び螺旋の石階いしばしを昇ると、初めの入口いりくちから七八町ちやうも遠ざかつた街に出口が開かれて居た。買つた蝋燭は殆ほとんど燃え尽きて居る。皆出口に置いた箱の中に手燭てしよくの儘まゝ捨てて出るのであつた。曇つた大空を馬車の上で仰いでほつと新しく呼吸した時、自分は地上ならぬ世界の暗黒などん底を一時間余りも歩んだ経験を愉快に思つた。(八月二十日)

ミユンヘン(晶子)

自分の思郷病しきやうびやうは益ます〱人目に附く迄劇はげしく成つた。其れで土地が変かはれば少しは気の紛れる事もあらうと良人をつとに勧められて不順な天候の中に強ひて独墺及び和蘭陀ヲランダの旅を思ひ立つのであつた。ナンシイ市を過ぎて仏蘭西フランスの国境を離れた汽車の中で二人は初秋はつあきの夜寒よさむを詫びた。自分は三等室の冷たい板の腰掛の上で良人をつとの膝を枕に足を屈かゞめて辛からうじて横に成つて居た。心に上のぼる物の凡すべてが灰色を隔てつつ眺められるのは今夜に限らず近頃の病的な心の癖くせである。

海底みなぞこの砂に横たふ魚うをの如ごと身の衰へて旅寝するかな

眠ること無くてわが見る悪あしき夢うとましき夢数まさり行く

とり縋すがる児こ等の諸手もろでのまぼろしは無残と呼びて母を追ひ来る

欧羅巴ユウロプの光の中を行ゆきながら飽くこと知らで泣く女われ

青白き天あまつ日一つわが上を照して寒し外ほかに物無し

子を捨てて君に来きたりしその日より物狂ものぐるほしくなりにけるかな

わが心よし狂ふとも恋人よ君が口より教へ給ふな

朝着いたミユンヘン市には小雨こさめが降つて居た。モツワルト街まちのヒルレンブラント夫人の家を訪とうて二階の扉の鈴を押した時、在留の日本学生から「日本婆ばあさん」と謂いはれて居る物優しい老夫人が自みづから出迎へて呉くれた。良人をつとが仏蘭西フランス語でドクトル近江あふみの住所は何処どこかと尋ねて居ると、其その時偶然隣の扉を開あけて黄八丈の日本寝巻ねまきの儘まゝ石鹸シヤボンの箱と手拭とを提さげ乍ながら現れた人は近江さんであつた。去年良人をつとの出発した時自分は横浜から同じ船で神戸迄見送つたが、其その時初めて自分達は近江さんにお目に掛つた。文学好ずきの此この青年医学士は特に良人をつとの乗る船を択えらび、部屋迄も同じ部屋を択んで渡欧するのであると語られた。若い美しい其その夫人が横浜での別れに泣崩れて居ゐられたのは今も目に泛うかぶ様である。近江さんが近頃下宿を此処ここに変へられた事を知らぬ自分達は其その奇遇に驚いたが、氏のお世話で直すぐに此この家の一室へ落附く事が出来た。

ミユンヘンは第一衛生上の設備が行ゆき届いて市街の清潔な事の著しい都である。下水工事の完備して居る点などに就ついて近江さんから色色いろ〱と説明を聞いた。四十年前ぜん迄窒扶斯ちぶすの巣窟さうくつと云はれた此この地が、今では医科大学での臨床材料として毎年一二の窒扶斯ちぶす患者を得うる事すら甚だ困難な相さうである。建築を初め何事にもどつしりとした趣おもむきに富んで居るのは、之これが独逸ドイツ流なのであらう。珈琲店カツフエの椅子一つでも頑丈な木に革を張つて真鍮の太い鋲で留めてあると云ふ風である。重苦しい趣味が幾分支那に似て居ると自分は感じた。大通おほどほりから少し横へ這入はひれば何どの家も四方を庭園で繞めぐらし、蔦つたなどを窓や壁に這ははせた家も少すくなく無いのは仏蘭西フランスと異ことなつて居る。花壇の花迄が仏蘭西フランスの様に繊巧きやしやで無く「意志の華はな」とでも言ひたい様に底力のある鮮かな色をして居る。古い都丈だけに建築が寂びて居て清潔な割に生なまな感を与へないのも好い。独逸ドイツは南北に由よつて風土にも人情にも差があると聞いて居たが、南独逸ドイツの精粋せいすゐであるミユンヘンは自然の景勝も人づきあひも自おのづから仏蘭西フランスに似た所が多い様である。

学問に於て伯林ベルリンや維納ヰインに対峙して居ると云はれるこの都は、更に芸術に於て独墺両国中に卓出して居ると云ふ事である。音楽は聞く機会が無かつた。設たとひ機会があつたとしても、知らない事の多い自分の最も知らない物は欧洲の音楽であるから一辞をも着け得べきで無いのは勿論である。自分達は幾つかの美術館を訪とうて、ラフワエル、チチアン、ベラスケツ、ムリリヨオ、リユウバンス、ヷン・ダイク等外国の傑作の多く集められて居るのに益を受けた許ばかりか、レンバツハ、シユインド、フオオエバツハ、ベツクリン等独逸ドイツ近代の大家の名品に初めて接する事の出来たのを嬉うれしいと思つた。自分はムリリヨオの果物を食べて居る少年の図の四よ枚ある前から暫しばらく立去る事が出来なかつた。又ベツクリン其他そのた独逸ドイツ近代の大家の作品は其その理想主義と云ひ其その手法と云ひ自分には李太白の詩を読む心地で遠い世界へ引入れられる感がした。五月から十月迄開かれて居ると云ふ新しい絵の展覧会をも観た。よく選抜されて居るので駄作は無い様であるが特に目を引く物は無かつた。多く近世独逸ドイツ派の踏襲で無ければ仏蘭西フランス印象派の模倣であると良人をつとは評して居た。

近江さんに案内して頂いて自分達はイザル川を横ぎり森の中を雨に濡れ乍ながら歩いた。川は石灰いしばひを融とかした様に真白まつしろな流れが激げきして居た。森には種種いろ〱の樹きが鮮かに黄ばんで居る。真赤まかに染そんだのも稀に混まじつて居て其度そのたびに日本の秋を想はせた。

目の白く盲しひたる群むれの争ひて走るが如きイザル川かな

イザル川白き濁りに渡したる長き橋より仰ぐ夕ぐれ

うら寒く錫すゞのやうなる雨降りぬイザルの川の秋の切崖きりぎし

如何いかばかり物思ふらん君が手にわが手はあれど倒れんとしぬ

青き枝こがねの繍ぬひをおける枝朱しゆを盛れる枝雨の流るる

其処此処そこここに紅葉もみぢの旗を隠したる木深こぶかき森の秋のたはぶれ

事無ことなさにイザルの森をさまよふか雲居くもゐの外そとに子等は待たぬか

何事に附けても東京に残した子供の思ひ出だされるのが自分の思郷病しきやうびやうの主な現象であり又基礎となる物である。此このミユンヘンの宿で湯に入はひつて居て、ふと洗つて遣る子供等が傍そばに居ない事を思うて覚えず自分は泣くのであつた。我ながら随分辛抱強いと考へて居た自分が今では次第に堪こらへ力ぢからが無くなつて行ゆく。子供の名を一一声に出して喚よぶ事なども近頃は珍らしく無い。勿論其れは唯たゞ一人居る時の事であるが、時には良人をつとの前でも思はず口を開くのである。其度そのたびに気が附いて自分は次第に発狂するのでは無いかと思ふと怖おそろしさに身を慄ふるはさずには居られない。良人をつとは或あるひは叱つたり或あるひは賺すかしたりして自分の気鬱症きうつしやうを紛らさせやうと力つとめて居る。自分は斯か様な妻を伴つれて欧洲を旅行する良人をつとが気の毒でならない。其れで度度たび〱一人で先に日本に帰らうとも思ふのである。

哀かなしみは遠き窓より我に来きぬ夜よるを催す黒雲くろくもの如ごと

恋人と世界を歩む旅に居てなどわれ一人さびしかるらん

わが脊子せこよ君も物憂し斯かかること言放いひはなつまで狂ほしきかな

宿の近くにババリヤ公園があつて、其処そこにバイエルン国の精神を表示した女神ぢよしん像が立つて居るが、徒いたづらに巨大な許ばかりで少しも崇高な感の起おこらない物である。自分は絵にしても彫像にしても余りに大きな物は却かへつて空虚な心地がするので好まない。大作と云ふ物が物質的の容積と比例すると思ふ様な迷信を早く世界の上から無くしたい物である。一年一度の賑にぎはひであると云ふ十月祭さいの用意に、東京の青山練兵場を半分にした程の公園が見世物小屋の普請で一杯に成つて居る。靖国神社のお祭の見世物小屋が一週間前ぜんから用意せられるのに比べて、一箇月も前から永久の建築物かと思はれる位頑丈な普請を念入ねんいりにして居るのは矢張やはり独逸ドイツ流の遣方やりかたであると思つた。公園の後うしろの高台に工業博覧会が五月以来開かれて居た。自分は宿のバルコンを掩おほうた蔦紅葉つたもみぢを写生する気に成つて絵の具弄いぢりをして居たので観に行ゆかなかつたが、観て来た良人をつとは其その博覧会の実質に富んだ事を讃ほめて居た。自動車に乗つてニンフンブルグに在る離宮を観に行つたが、之これは仏蘭西フランスのヹルサイユ宮の庭園を模して及ばざる物であつた。其それよりも自分の面白いと思つたのは王立醸造場ホウフブロイの夜よるの光景である。ミユンヘン麦酒ビイルの産地丈だけに大きな醸造場ぢやうが幾つも有つて何どの醸造場ぢやうでも大きな樽から直すぐに生麦酒なまビイルを杯さかづきに注ついで客に飲ませるのであるが、中にもバイエルン王の自みづから営んで居をられる大醸造場ぢやうは外観の宏壮な事が劇場の如く、内うちは階上階下の二室に別れて併せて五千人の客を入れ得うる装置が出来て居る。階下は労働者の室であり、階上は他たの階級の客の室である。昼の間は稀にしか客を見受けないが、日が暮れ初めると次第に各階級の人人が加はつて十時頃には早はや座席が無くなり立ち乍ながら杯さかづきを手にする人も少すくなく無い。その杯さかづきは頑丈な陶器で出来て居て側面に王冠の模様を焼附け、同じく頑丈な把手とつてと蓋とが附いて居る。階上の室には音楽の壇があつて独逸ドイツの名家の曲を初め各国の音楽が入いり替はり奏せられる。波波なみ〱と注ついだ杯さかづきを前にし、其それ等の音楽を聞き乍ながら皆呑気のんきに夜を徹する。一種の特色ある菓子麺麭ぱんや軽い幾品ひんかの夜食を取る事も出来るのである。良人をつとは毎夜よ此処ここに遊んで殊ことに階下の室の労働者で一杯に成つて居る光景を喜んで居た。自分が近江さんに伴はれて階上の室へ行つた晩は四五人の日本学生の人人の外に、日本学生の語学教師であるエエドル嬢も一緒であつた。麦酒ビイルを唯たゞ苦にがい物だと思つて居た自分にも此この王立醸造場ホウフブロイの麦酒ビイルは好い味の物に感ぜられた。此処ここへ来る事は恥で無いので立派な風采ふうさいの客も相応に多い。若い令嬢を伴つれた親達も見受けられた。王立の酒舗と云ふのは如何いかにもミユンヘンに限つて有る世界唯一の名物であらう。(九月一日)

維納ヰイン(晶子)

汽車で渡つたドナウ河は濁つて居た。加特力カトリツク教のユウカリストの大会があつて六十万人の信者が諸国から入いり込んで居る維納ヰインへ、其れとは知らずに着いた風来の自分達は宿の無いのに困つた。ミユンヘン大学のドクトル試験に及第して猶なほ此処ここの病院で研究を続けて居る深瀬さんのお世話で日本人に縁の深いパンシヨン・バトリヤの一室ひとまに漸やつと泊とまる事が出来た。自分達と前後して土耳其トルコから着いた外務省の留学生の某なにがしさんは自分達が出立しゆつたつした後あとの部屋へ泊とまられる積つもりで、其それ迄は隣の杉村医学士の部屋の長椅子で寝て居られた。此この下宿の主婦も日本婆ばアさんと呼ばれて居るが、ミユンヘンのヒルレンブラント婦人に比べられる様な親切な人柄では無かつた。

来た折が生憎あひにくなのか墺地利オオストリヤの首都として予想して居たのに反し優雅な趣おもむきに乏しい都である。何となく田舎ゐなからしく又何となく東洋じみた都である。勿論之これは二三日の滞在に外観を一瞥べつした丈だけの感じであつて、其その学問芸術の方面に伯林ベルリンを圧する力を持つて居ると云ふ最近の維納ヰインの内景に到つては容易に窺うかゞひ得うべくも無かつた。

どの街も屋根と云ふ屋根から黄色の長い旗がお祭の為に靡なびいて居る。黄色計ばかりでなく黄色に赤や黒や緑を配した旗である。其その下の人道じんだうを胸の辺あたりに真鍮の徽章を附けた善男善女の団体が坊さんに伴つれられて幾組も練つて歩き、電車も皆其その団体で一杯に成つて居る。どのお寺も黄色の旗と常緑樹ときはぎの門とで、外部を飾り、其その内部の壮厳さうごんは有らゆる美を尽つくして、いろんな法衣はふえの坊さんと参拝者と香煙と灯明とうみやうとで満ちて居る。黄色の旗と巡拝者とで埋まつた此この都は何となく西蔵チベツトとか印度インドとか云ふ国へ来た感を起おこさせるのであつた。

羅馬ロオマ法王から此この大会に寄越よこした使節僧の一行を皇帝自身に迎へられる儀式があると云ふので、其その日の見物の桟敷が王宮の前にも内庭うちにはにも黄いろい布を張つて設けられてあつた。自分は西班牙スペインの闘牛場の絵を観る様な気持で、其れ等を眺めて通つた。どの街も雑沓ざつたふして居たが王宮の内庭うちにはを横断してステフワン寺じへ抜ける間あひだが殊ことに甚だしかつた。皇帝の御お居間の直下すぐしたに当ると云ふ広場などは人間の塊かたまりで身動きの成らぬ程であつたが、自分達は自動車に乗つて居たお蔭で辛からうじて通り抜ける事が出来た。

道路はミユンヘンと反対に不潔である。市の中央を円く囲んだリンクと云ふ大通おほどほりは建築も立派で殊ことに王宮、議事堂、大学、オペラ、新古の両博物館などの集つて居る辺あたりは小巴里せうパリイの称に負そむかないとも想はれた。併しかし博物館は観るべき物に乏しかつた。市の外れにある離宮センブルンは仏蘭西フランスのヹルサイユを真似まねたものであるが、芝草の青青あを〱とした三笠山の様な丘の上にある層楼そうらうの石の色を夕暮に見上げた感じは好かつた。此処ここでは流石さすがに欧洲の覇者であつた昔が追憶しのばれた。

自分達は此この地で明治天皇陛下の御ご大葬の当日を過すごした。折悪あしく風を帯びた寒い雨の降る朝であつた。二人は徒歩で博物館へ行つて人込ひとごみの中を分けつつ絵を観たが、定められた十一時少し前に馬車を急がせて日本大使館へ行つた。大野書記官の部屋でお話をして居ると、階上の室で最後の御おん別れに御ご聖影を拝し奉る時間が来た。集あつまつた者は秋月大使始め十七八人であつた。自分は御ご聖影のおん前に何か祭壇が設けられて居るであらう、白絹しらぎぬや榊で斎いはひ清められて居るであらうと想つて居たが少しも其辺そのへんの用意が見え無かつたので、一方に満都の加特力カトリツク教徒が荘厳な宗教的儀式に𤍠狂して居るのに比べて甚だ物足らなかつた。そして又斯かかる場合に猶なほ官位に由よつて礼拝らいはいの順序を譲り合ひ、其れが為に自分達に迄少すくなからぬ時間を空費せしめた官人くわんじんの風習を忌忌いま〱しく思つた。

伯林ベルリン停車場ぢやう(晶子)

ああ重苦しく、赤黒ぐろく、

高く、濶ひろく、奥深い穹窿きゆうりゆうの、

神秘な人工の威圧と、

沸沸ふつふつと迸ほとばしる銀白ぱくの蒸気と、

濛濛もうもうと渦巻く煤煙ばいえんと、

爆はぜる火と、哮ほえる鉄と、

人間の動悸どうき、汗の香か、

および靴音くつおととに、

絶えず窒息いきづまり、

絶えず戦慄する

伯林ベルリンの厳おごそかなる大停車場ぢやう。

ああ此処ここなんだ、世界の人類が、

善の代かはりに力を、

静止の代かはりに活動を、

弛緩ちくわんの代かはりに緊張を、

平和の代かはりに戦闘を、

涙の代かはりに生血いきちを、

信仰の代かはりに実行を、

自みづから探し求めて出入でいりする、

現代の偉大な、新しい

人性じんせいを主とする寺院エグリイズは。

此処ここに大きなプラツト・フォオムが

地中海の沿岸のやうに横よこたはり、

その下もとに波打つ幾線の鉄の縄なはが

世界の隅隅すみ〲までを繋つなぎ合せ、

それに断えず手繰たぐり寄せられて、

汽車は此処ここに三分間毎ごとに東西南北より着ちやくし、

また三分間毎ごとに東西南北へ此処ここを出て行ゆく。

此処ここに世界のあらゆる目覚めた人人は

髪の黒いのも、赤いのも、

目の碧あをいのも、黄いろいのも、

みんな乗りはづすまい、

降りはぐれまいと気を配り、

固もとより発車を報しらせる鈴ベルも無ければ、

みんな自分で検しらべて大切な自分の「時」を知つて居る。

どんな危険も、どんな冐険も此処ここにある、

どんな鋭音えいおんも、どんな騒音も此処ここにある、

どんな期待も、どんな興奮も、どんな痙攣けいれんも、

どんな接吻も、どんな告別アデイユも此処ここにある。

どんな異国の珍しい酒、果物、煙草たばこ、香料、

麻、絹布けんぷ、毛織物、

また書物、新聞、美術品、郵便物も此処ここにある。

此処ここでは何もかも全身の気息いきのつまるやうな、

全身の筋すぢのはちきれるやうな、

全身の血の蒸発するやうな、

鋭い、忙せはしい、白𤍠の肉感の歓びに満ちて居る。

どうして少しの隙すきや猶予があらう、

あつけらかんと眺めて居る休息があらう、

乗り遅れたからつて誰が気の毒がらう。

此処ここでは皆の人が唯ただ自分の行先ゆくさき許ばかりを考へる。

此処ここへ出入でいりする人人は、

男も女も皆選ばれて来た優者いうしやの風があり、

額ひたひがほんのりと汗ばんで、

光を睨にらみ返す様な目附をして、

口は歌ふ前の様にきゆつと緊しまり、

肩と胸が張つて、

腰から足の先までは

きやしやな、しかも堅固な植物の幹が歩いてる様である、

みんなの神経は苛苛いら〱として居るけれど、

みんなの意志は悠揚いうやうとして

鉄の軸の様に正しく動いて居る。

みんながどの刹那せつなをも空むなしくせずに、

ほんとに生きてる人達だ、ほんとに動いてる人達だ、

みんながほんとの今日けふの人達だ、ほんとの明日あすの人達だ。

あれ、巨象マンモスの様な大機関車を先さきにして、

どの汽車よりも大きな地響ぢひゞきを立てて、

ウラジホストツクから倫敦ロンドンまでを

十二日間で突破する

ノオル・エキスプレスの最大急行列車が入はひつて来た、

怖おそろしい威風を持つた機関車は

今いま世界の凡すべての機関車を圧倒する様にして駐とまつた。

ああわたしも是これに乗つて来たんだ、

またわたしも是これに乗つて行ゆくんだ。

(一九一二年、九月十四日)

伯林ベルリンの一瞥いつべつ(晶子)

自分達は伯林ベルリンに五日いつか滞在した。何となく支那風に重苦しい、そして田舎ゐなか者が成り上あがつたやうに生生なま〱しい凡すべての感じは、其れ以上滞在して居られない様な気がした。併しかしこんな気がしたのは伯林ベルリンの皮相ばかりを忙せはしく一瞥いつべつした為であることは云ふ迄もない。独逸ドイツ語が少しでも解わかつて、そしてせめて三月みつきでも此処ここに留とゞまることが出来たら北独逸ドイツの生活の面白さが少しは内部的に解わかつたであらう。兎とに角かく五日いつか位の短い滞留の間に伯林ベルリンから受けた表面の印象はミユンヘンやヰインに比べて反対に面白くないものであることを正直に述べて置く外はない。

市街の家屋が五階建に制限せられて居るのは、規則づくめな日本に慊あきたらない自分達に取つて第一に窮屈で、また単調で、目の疲労を覚えた。

北独逸ドイツの人は男も女も牛の様に大きく肥ふとつて一般に赤面あかづらをして居る。巴里パリイや倫敦ロンドンでは自分達と同じ背丈の、小作こづくりな、きやしやな人間の方が多いのに、此処ここではどの男もどの女も仰いで見ねばならない。断えず出会ふ人間から威圧を受ける気がする。

其れから、どの建築も、どの道路も、どの家具も、皆堂堂だうだうとして大だいと堅牢と器械的の調整とを誇つて、其れが又自分達を不愉快に威圧する。仏蘭西フランス風の軽快と洗錬との美を全まつたく欠いた点がやがて独逸ドイツ文明の世界に重きをなす所以ゆゑんであらうが、自分達の様な体質や気質を持つた者には容易に親したしみにくい文明である。建築の外観の宏壮なのも、実は近寄つて見ると巨石を用ひた英仏の古い奥ゆかしい建築と異ちがつて、概おほむね人造石で堅めてあるのでがつかりする。どの博物館も新式の建築術を用ひて間取まどりや明り取りの設備には敬服させられるが、陳列品に自国の美術としては殆ほとんど何物をも有もつて居ないのは気の毒な程である。併しかし仏蘭西フランスの印象派や最も新しい後期印象派の絵までが蔵をさめられて居るのには感服した。

伯林ベルリンの女は肥満した形が既に美でないのに、服装も姿態も仏蘭西フランスの女を見た目には随分田舎ゐなか臭いものである。

女の帽子針の尖さきに鞘さやを篏はめて居るのは、仏蘭西フランスの女が長い針の尖さきを危険あぶなくむき出しにして居るのと異ちがふ。衛生思想が何事なにごとにも行亘ゆきわたつて居るのはさすがに独逸ドイツである。

ウンデル・リンデンの並木路みちを美しいと聞いて居たが、其れは巴里パリイのシヤンゼリゼエを知らない人の言ふことであつた。

自分達は澤木梢せうさんと其その友人の西村さんとに伴つれられて度度たび〲ポツダム・プラアツの角かどにあるロステイと云ふ珈琲店カツフエへ行つた。一つは其処そこへよく遊びに来ると聞いて居た画家のルンプさんに逢ひたかつたのであるが、折悪わるく一度も逢はなかつた。或ある日其その隣の何とか云ふレスタウランで澤木さん達と晩餐を一緒にしたが、其処そこの建築は珍しく一切木造で出来て居て、用材は各館共何と名を云ふのか、黒檀こくたん質の立派な木である。其その一室の如きは二抱ふたかゝへもある四角な黒檀こくたん質の柱が参拾本じつぽん以上並び、其れに電灯の映つた下もとで幾十の食事の客が大理石の卓を囲んで居る光景は他たに見られない壮観であつた。

物価は巴里パリイに比べて概して二三割方廉やすい様である。自分達は巴里パリイのボン・マルセに似た大きな店で羽蒲団はねぶとんを二つ買つた。羽と蒲団とを別別べつべつに買つて詰めさせるのである。羽には日本の綿わたの様にいろいろの種類があるが、自分達の買つた羽は中位ちゆうぐらゐの品で、其その価は一枚分が四十八マアク(弐拾四円)であつた。(九月十五日)

和蘭陀ヲランダへ着いた夜よ(晶子)

わたしは先刻さきから眠くてならない。

「もう二時間でアムステルダムですつて。」

「さうさ。眠いかい。」

と云ふ良人をつとも眠さうである。この人は昨夜ゆうべ鼻加太児びかたるから発𤍠して苦しがつて夜通よどほし寝なかつたのである。私も心細くて起きたままで居た。伯林ベルリンは昼の十二時半に立つて来た。今は夜の九時過ぎである。

「あの国境でね、あなたが取られていらしつた払はらひ増しが余り高いのね、二等の切符を別に買はせたのぢやないかしら。」

眠気ねむけざましに私はこんな話を持ち出した。

「さうかも知れないね。何方どちらの仏蘭西フランス語が悪いのか知らないが、よく通じないままで金を払つて来たのだから。」

「でも好いいわ。旅つてそんなものでせう。実際ね、彼方此方あちこちで払はらひ増しをして二等に乗り替へるのに三等の廻遊切符なんか初めから買ふのがもういけないんだわ。」

わたしは斯かう云つて笑つて、一人づつの仕切になつて居る肱掛に頭をかがめて載せて居た。

「余程よほど眠いと見えるね。」

「眠くつてね。真実ほんとうに。」

わたしはもう余程よほど意識が朦朧もうろうとなつて来た。

「和蘭陀ヲランダと云ふ国は可愛かあいさうな位小さい国だね。素通りしてしまはうと思へば七時間位で通つてしまへるのだからね。」

こんなことを良人をつとは云つて居たやうである。風かぜを引くから外套を掛けてやらうかとも聞いたやうである。わたしは首を振つたかどうしたか知らないが、外套は身体からだに掛かゝつて来ないやうである。やや眠ねむりが浅い境さかひへ帰つて来た頃、良人をつとは誰たれかと頻しきりに話して居た。目を開あいても見たが、良人をつとと並んで向むかふ側に黒い人が一人居るのを知つて居た。汽車が徐行しかかつたと思つた時、

「ムツシユウ、もう此処ここがアムステルダムですか。」

と良人をつとの云つたのに対して、

「ウイ、ウイ。」

と相手の答へたのがわたしの耳に入はひると、わたしはふらふらとして立つた。

「アムステルダムだよ。」

「さう。」

「綺麗ぢやないか、見て御ご覧。」

良人をつとは窓から外を見て居るらしい。よくは分らない。私も何とか云つて居るらしい。黒い空と黄色い灯ひが並んでるのと、それと同じ灯ひが下で慄ふるへながら同じ処ところまで長く長く伸びて居るのと、近い所に大きい粗末な建物の続いて立つて居るのとが意識されたやうであつた。それよりも向むかふは海だと直覚で感じた方が鋭かつた。それで居てもうわたしは棚の上の帽子を取つて、それから髪を包んで居た切れを外してそれを被きて、外套の前を胸で合せて居た。しまひに極めて落着いた黒地の中の停車場ステエシヨンへわたし等二人は降りた。ばらばらと二三十人位ぐらゐが歩いて居るだけである。切符を調べさせて、ぎらぎらとした硝子がらすの反射の作る光線の中を通つて広場へ出た。自動車と馬車と交ぜて七八なゝやつあつたかも知れない。無いやうな気もする。〔濁点付き井〕クトリヤ・ホテルは一町いつちやうとない処ところと云ふので、赤帽に鞄を持たせて、その跡を私等二入は歩いて行つた。わたしは目が覚さめた。見えない暗い中も見透とほせる程頭がはつきりとして来た。初秋はつあきの風が心地よく醒めた私を吹いた。広い水の堀割が前にある。松葉形がたで、右手になる方は一つで、丁度ちやうどわたし等の渡つて行ゆく橋からは二ふた筋に分れて居る水が地面とすれすれに静かに流れて居るのである。柳と同じ和やはらか味みを持つた、夜目には見分わきの附かない大木が岸の並木になつて居る。あちこちに捨石すていしがいくつも置かれてあつた。黄色い灯ひ、黒ずんだ紅玉かうぎよくの色の灯ひ、花やかな桃色の灯ひ、青い灯ひ白い灯ひが水に泳いで居る。窓から引いた光と船から引いた光とがまじつて縦横たてよこに縞を作つて居る。家は皆それ程高くなくて、それの上半分は霧の中にぼやけてしまつて居る。帆柱が際立つた黒い木立こだちのやうに見えて両岸ぎしにそれぞれ寄りかたまつて居た。ひらひらと横長い旗が動いて居るのも見えた。

「大阪の川口かはぐちのやうな処ところだね。」

早足で歩いて居る良人をつとは後うしろを見返つて云つた。

「静かで好いい処ところね。」

良人をつとは聞いたか聞かぬか知らない。わたしは身に沁しむ程アムステルダムが好きになつてしまつた。赤帽は橋詰の右角の、夜目よめに鼠色に見える家へ入はひつて行つた。〔濁点付き井〕クトリヤ・ホテルなのであらう。中ちゆふ老人の帳場番頭の居ること、制服のギヤルソンが二三人敬うやうやしさうに立つて居ること、此これ等はどの国の旅館ホテルも少しの違ひがない。客が三四人帰つて来てエレベイタアで上へ上あがつて行ゆくのなどもさうである。二つ部屋があると云ふので、見せて貰ふことにして二階へ上あがつた。廊下を二角ふたかど程曲まがつてギヤルソンの開あけたのは白い冷たい感じのする部屋であつた。かちかちと云はせてあちこちの捩ねぢをねぢると、あるだけの灯ひが皆点ついた。黄色い間まに見えるやうになつた。そしてギヤルソンは隣の化粧部屋へ通ふ戸、談話室との間に垂れた帳とばりなどを皆開あけた。バルコンもある。棕櫚竹しゆろちくの大きい鉢が二つ置いてあつた。わたしはバルコンへ出た。目の下が水である。丘のやうな堤のやうな遠い先の方に灯ひが無数に見える。向むかふ河岸がしの並木の間からは馬車のゆききなどが見えた。近い処ところに炉ろを置いたやうな火光くわかうを見せたのは停車場ステイシヨンである。

「あまり立派過ぎるぢやないか。」

「ええ、さうですわ。」

と答へたが、私はバルコンを離れて他たの室へ行ゆくのが残り惜しく思はれた。良人をつとがその事を通じるとギヤルソンは点頭うなづきながらまたわたし等を一階上へ導ひた。室まの広さは前のよりは広い位に思はれたが副室は一つもない。良人をつとは直すぐ此処ここに決めた。五分間もしないうちに荷物が運ばれて、それぞれの所へ配置された。部屋附づきの女も来た。

「温かい珈琲キヤツフエでも貰はうね。」

と云つて、良人をつとが命じると女は出て行つた。

「わたしは葡萄酒でも貰はうかしら。」

「外国を歩いて居る間は葡萄酒は実際贅沢ぜいたくなんだからね、巴里パリイへ帰つたらいくらでも飲ませて上あげるよ。」

「厭なこと、そんなことを云はれると酒飲さけのみのやうよ。唯たゞね、脳貧血が起おこるやうな気がしたからさう思つたのですよ。」

「ぢやあお貰ひよ。」

「珈琲キヤツフエでも濃こければいいでせうよ。」

「菓子も頼んだから。」

「さう、うれしいわ。」

わたしは帽子を取つたり、着て居たものを上から一つ一つ剥はいだりした。身軽になつて窓の処ところへ走り寄つたわたしは、

「あら、小林萬吾さんのお描かきになつた橋がある。」

と大きい声を出した。(九月十六日)

和蘭陀ヲランダの二日ふつか

和蘭陀ヲランダはアムステルダムと海牙ハアグとの両都を纔わづか二日ふつかで観て通つたに過ぎない。海面より低い此この国は、何処どこへ行つても狭い運河カナルが縦横に通じて、小橋こばしと色色いろいろに塗つた美しい船との多いのが他たに見られない景色である。建築は一体に矮ひくい家ばかりで三階がい以上の物は少すくない。古い文明国だけに凡すべてが寂びて居る。市街も人間も何だか疲れて居て活気に乏しい。男は皆水夫上りの様な田舎ゐなかびた印象を与へるし、女は皆尼さんの様な慎つゝましやかさと寂しさとを持つて居る。秋の季節に来たせいもあらうが、まことに秋の国とも云ふべき、調子の弱い、色の柔やはらかい、人間の欲望を滅入めいらせる様な国である。どの運河カナルの水も鏡のやうに明るくて井ゐどのやうに深く、其その上に黄いろく染そんだ並木や、淡紅うすあかく塗つた家の壁や、いろいろに彩いろどつた荷船にぶねやが静かに映つて居るのを見ると、平和会議が此この国で開かれるのも其その所を得て居る気がした。どの博物館ミユウゼにもレンブランを除けば格別記憶に留とゞめたい画ゑもない。レンブランとても海牙ハアグにある有名な「解剖図」位ぐらゐなもので、其その傑作は却かへつて白耳義ベルジツクその他たの国に散在して居る。僕は何処どこか此この国の田舎ゐなかへ入はひつて一週間も留とゞまりたいと思つたが、東京に残して来た子供等をひどく気にする晶子が此この月の二十一日にマルセエユを出る平野丸で急に先に帰りたいと云ふので、海牙ハアグを夜半よなかに発する汽車に乗つて巴里パリイへ直行して帰つて来た。(九月十八日)

巴里パリイに於ける第一印象(晶子)

(これは自分が巴里パリイの文芸雑誌「レザンナアル」の記者の望みに応じて書いた所感の一部である。)

自分は仏蘭西フランスへ来て未まだ数箇月を経たに過ぎません。又自分は未まだ仏蘭西フランスの中流以上の家庭を覗うかゞふ機会の少すくない為に、自分の知りたいと思ふ仏蘭西フランス婦人の最も優れた性格と其その最近の生活状態とに就ついて何等の資料を得て居をりません。

自分は偶然の機会に由よつてモンマルトルに下宿して居る。其れが遊楽の街である事を知つたのは巴里パリイに着いて後のち数日の事であつた。自分は之これに由よつて艶冶えんやを衒てらふ或ある階級の巴里パリイ婦人を観察する事が出来ました。併しかし是これ等の仮装の天使が真の仏蘭西フランス婦人の代表者で無い事は勿論である。是これ等の賤劣せんれつなる婦人と交際する男子を仏蘭西フランスの道徳が排斥するのは日本の其れと同じであらう。而さうして自分の驚く事は其それ等の娼婦の需用者が概おほむね英米其他そのたの諸外国より来きたれる旅客りよきやくである事である。常に婦人を堕落させる者は婦人自みづからで無くて、男子の不道徳に原因すると信じて居る自分は、同じく巴里パリイの遊里を盛大ならしめる者は、其その富と不良な好奇心とを以もつて異邦の若き女子を飜弄ほんろうする事を恥ぢない英米の偽善的男子であると想像する。

併しかし又自分は、なぜに是これ等娼婦の増加を防止する運動が教育ある仏蘭西フランスの紳士貴婦人の間から起おこらないかと怪しんで居る。まさか仏蘭西フランス人は是これ等の放逸な歓楽を以もつて外国の旅客りよきやくを巴里パリイに招致しようとするのでもありますまい。仏蘭西フランスには誇るべき芸術、哲学、科学、及び卓絶した天然の景勝を沢山たくさんに持つて居るではありませんか。或ある人は之これを以もつて仏蘭西フランスの自由を称揚する様ですが、併しかし自由とは決して悪徳の異名いみやうで無いと思ひます。

又自分は是これ等娼婦の公開――モンマルトルに限らず巴里パリイ全市に亘わたつて――が子女の教育を妨害する事の多大であるのを想像して窃ひそかに戦慄致します。聞く所に由よれば仏蘭西フランスの中流以上の家庭は概おほむね今猶なほ数世紀前の禁欲主義的な教育を以もつて若い女子を家庭に閉とぢ込め、社会の悪風に感染しない様に警戒して居ると云ふ事ですが、其その様な消極的な教育が子女に害を及ぼす事の多大な事は最早もはや論ずる迄も無い事だと思ひます。又如何いかに家庭に閉とぢ込めて置けばとて其それ等の悪風が全まつたく若い女子の耳目じもくに触れないとは定められないでせう。

世の人は少年少女を目して他た日の社会の一員だと考へる様ですが、自分は彼等を以もつて矢張やはり現在の社会の若き一員だと考へる所から、賢くて慈愛な父母の保護の下もとに常に彼等を解放して有らゆる社会の活動を目撃させ、其れに由よつて彼等子女の智識と情操とを養はせたいと云ふ思想を持つて居ります。時代遅れの宗教に教育を託する事の有害なのは云ふ迄も無く、家庭と書籍と丈だけで今後の子女を教育しようと云ふ事も不可能だと思ふのです。其れで若もし彼等子女の目に触れて有害な物があれば其等を社会から滅絶させるか、社会の一都に閉とぢ込めて隔離するかの手段を取るのが宜よろしいと思ふ。

自分は前に述べた通り未まだ仏蘭西フランスの中流以上の家庭を委くはしく観察する機会を得ないのを遺憾に思つて居をります。併しかし中流以上の家庭にある婦人のみが仏蘭西フランス婦人の優秀なる性格を専有して居るでせうか。恐らくは否いなと云ひたい。自分は猶なほ他たの婦人に於て仏蘭西フランス婦人固有の元始的な根強い優れた本性ほんしやうを認め得えられると信じます。其れは何かと云へば巴里パリイに於る下級な一般商家、一般工場の婦人等及ぴ仏蘭西フランスの田舎ゐなかに於る一般の婦人等である。自分が多少此この方面に費した観察に由よれば、概して如何いかに彼等が貞淑で、正直で、己おのが職業に勤勉で、己おのが父母に向むかつて敬虔けいけんで、己おのが良人をつとに向むかつて調和的であるかは予想外に感服すべきことであります。勿論彼等は現代の文明に就ついて、より少すくなく教育せられて居をりますから其その愚直は軽率なる罪悪を醸かもす原因となる場合もあるでせう。併しかし彼等は概して野生の草花さうくわの如く物優しく、其その草花さうくわの根の風霜に耐へる如く根気強く己おのが義務に忠実であるのです。(自分は日本の下級婦人の多数に就ついても同じ感を持つて居る。)

自分は如此かくのごとく信じます。是これ等の固有の美質を堅く貯へて持続する婦人の多数を有して居る以上、仏蘭西フランス婦人の将来、否いな仏蘭西フランス人全体の将来は益ます〱光栄と幸福とに富んで居ると。なぜなれば真の貴女きぢよは是これ等多数の低級なる而さうして美質に満ちた婦人の間から将来益ます〱発生する事を期待するからである。貴女きぢよとは今日及ぴ将来に於て最早もはや爵位や物質的の富に由よつて定まるもので無く、家庭及び社会に貢献する実蹟じつせきに由よつて決するものである以上、又優秀なる教育の必要が益ます〱一般婦人に自覚せられて行ゆく以上、必ず真の貴女きぢよは本来の美質に富む是これ等多数の婦人から起おこつて来る事を疑ひません。之これを日本に於ける最近十二年間の事実に見ても、新しい教育を受けて社会の各事莱に貢献しつつある優秀な婦人は概して平民より出て居をります。其れで自分は日本婦人の将来を楽観する如く仏蘭西フランス婦人の将来を楽観したいのです。

併しかし将来の事は兎とも角かく、今日こんにち自分の想像する所では、仏蘭西フランスの婦人は自己の権利を主張する事につき英国の新しい婦人に比して少し遜色がないでせうか。今のジヨウジ・サン女史は誰たれですか。或あるひは自己の権利を主張する事を要しない程仏蘭西フランスの中流以上の家庭は既に自由と幸福とに満ちて居るのでせうか。

自分は日本に於て斯か様な事を屡しば〱論じました。柔順を以もつて女子が最良唯一の美徳とせられる間は、人間の道徳は未いまだ低く、世界の文明は未いまだ高度に達して居ない。何故なにゆゑに男子と女子とは対等の生活を楽たのしむことが出来ないのであらうか。其れは男子が女子を従属物だと思ふ野蛮な気習を改めず、女子も遅疑ちぎして其その気習から脱する勇気が無いからであると。自分の直覚を以もつて間違なしとすれば、どうやら仏蘭西フランスの男子諸君も亦また東洋の男子と同じく其その内心の奥には女子を従属物視し、或あるひは玩具視し、或あるひは厄介物やくかいもの視して居る様である。若もし然さうであるならば、如何いかに女子が富と位地と四季折折をりをりの遊楽とに飽くとも、依然数世紀前の貴婦人たるに過ぎないであらうと想はれる。自分は敢て問ふ、仏蘭西フランスの婦人は何故なにゆゑに自みづから奮ひ立つて各おのおの自己の教育を男子と斉ひとしくすることを謀らないのか。我等女子が現代文明の幸福に均霑きんてんせん為ため――我等自みづからの幸福の為ためとのみ云はず、我等の良人をつと及び子女の幸福の為ため――要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。自分は仏蘭西フランスに於ける婦人運動が過去三十年前に比して甚だ手温てぬるいのを不思議に感じます。と申して英国の婦人の様な過激な運動を望まないのは勿論です。伶俐な仏蘭西フランスの婦人達は必ず之これに対する立派な御ご意見がありませう。自分は其れを聞きたい。

此この点に就ついて日本に於ける妙齢の女子は最近三四年間に非常な内心の覚醒を自みづからして居をります。併しかし日本婦人の美質として過激な運動に出いでやうとはせず、表面には隠忍しつつ実際に於ては有らゆる刻苦を尽つくして自己の教育を高める事に努力し、又経済上の独立を得うる事に著眼して、何いづれかの職業に従事して各おの〱自活の計を営まうとして居ります。温健にして𤍠烈な是これ等の新運動は今や非常な速度で日本の到る処ところの青年女子の間に伝播でんぱして居をります。日本政府及ぴ日本の父母は表面保守主義な様ですが、事実に於て世界の思潮を見越みこす事に鋭敏ですから、時には舵かぢを取る為に馬鹿げた干渉もする様ですが、概して温健な推移ならば寛大に見て居る風がありますので、我我われわれは二三十年前ぜんの日本婦人に比べて雲泥の差と云ふべき思想上の自由を得て居をります。

自分は想像する。仏蘭西フランスの男子も亦また女子を家庭に閉とぢ込め、日常の雑用と台所向むきの仕事とのみに犠牲たらしめようとするのでは無からうか。若もし然さうであるなら、其れは昔の社会が男子のみで成立つて居ると思ふ迷信の致す所である。世に婦人の胎たいより生れない偉人があらうか。何人なんびとも大半は婦人に由よつて教育せられるのであると云ふ一事じを見ても、婦人は男子と対等の生活を営み得うる権利を有もつて居るのは明あきらかである。若もし前に述べたやうな大多数の婦人の正直と労力とが仏国今日こんにちの富を助長して居る事の大おほいなのを想ふならば、台所に許ばかり閉籠とぢこもつて居る婦人の然さまで役立たないことが解わかるであらう。

自分は女子のみを男子の助成者だと云ふことを好みません。女子が男子の助成者となるには古来既に女子の可能を傾けて捧げて居る。女子の助成者としての男子は従来余りに不親切では無かつたでせうか。女子の自立的運動は男子も進んで之これを助けて欲ほしいと思ふ。

男女が互たがひに助成して社会を円満に形造かたちづくるのは二十世紀以後の文明に賦与された幸福である。男女は対等に教育せよ。併せて対等に社会に立つて活動せよ。而さうして対等に社会上の権利を得うるに到れよとは自分の願ねがひである。但ただし自分は常に「対等」と云つて「同等」とは云はない。人は男子同志でも体質と性情を異ことにして居て「同等」なる者は有り得ない。殊ことに男子と女子とは互たがひに体質と性情の差に由よつて其その能力に長短があり、同等たることを得ないのは勿論であるが、要するに其その適した所に赴おもむいて可能を尽つくし、対等の義務を負ふて対等の幸福の下もとに生活を楽たのしみたいのである。尤もつとも従来男子の専有であつた職業に女子が参加して、男子と同じ丈だけ又は其れ以上の効果を挙げ得うるかも知れないから、男子は従来の独占を捨てて有らゆる職業を女子に開放する時機が早晩来ることを自分は期待する。

自分は家庭を尊重する。家庭は社会の奮闘の中に置かれた自分及び自分の子弟の大本営であり、兵站へいたん部であり、練兵場である。従来は余りに家庭が社会と隔絶して居た。家庭で聞いた教訓が社会へ出いでて役に立たない事が多かつた。自分は家庭を以もつて社会の縮図たらしめ、家庭教育を以もつて子女が社会を知る基礎たらしめたいと思つて居る。其れで父母は社会に立つて対等であると共に、家庭に於ても対等に正直と賢明と勤勉と慈愛とを示して其その子女の模範とならねばならぬ。子女をして其その母を軽蔑せしめる様な事があつては成らぬ。

自分は日本に在つて「台所を縮少せよ」と論じた。台所に時間を費すのは人生を空費する者である。自分が東京に居て台所に働く事を恰あたかも書斎に働くと等しく楽しい事にして居たのは、之これに分外ぶんぐわいの時間を費さず、適当な時間を以もつて簡潔に処理する習慣を養つたからであつた。自分等の母の為した如く終日台所に齷齪あくせくとして居る事は自分等に取つて苦痛であるけれども、或ある程度に之これに時間を費すのは読書に費すのと等しく快楽である。従つて自分は台所を女中にのみ放任する主婦を憎らしく思ふ。彼等は如何いかなる労働にも相応の快楽のあることを知らない怠惰な婦人である。それに附けても自分は仏国の貴婦人の台所振ぶりを観たいと思ふ。

自分は仏蘭西フランスの女の姿態の醇化せられて気の利いたのと、仏蘭西フランスの風物の明るくして幽静なのとを愛します。併しかし未まだ自分は仏蘭西フランスの景物けいぶつに就ついて製作を持ちません。唯ただ目を見開いて驚く許ばかりです。詩も亦また牝鶏めんどりが卵を抱く様に或ある孵化ふくわの時日を要するものなんでせう。

妻を送りて

僕は九月二十日の夜汽車よぎしやで日本へ帰る晶子をマルセエユまで送つて行つた。倫敦ロンドンから着いた平野丸は乗客じようかくが満員になつて居て、一二等を通じて空いた部屋が無かつた。纔わづかに一人いちにん専用の特別一等室だけが塞ふさがらずにあると聞いて、六百円の一等乗船券に更に一割の増金ましきんを払つて辛からうじて其れに載せることが出来た。其その日は積荷の都合で出帆しないと云ふので、其その晩は僕も平野丸の客室サロンに蚊に食はれながら泊とめて貰つた。晶子は思郷病しきやうびやうに罹つてひどくヒステリツクになつて居る。其れに少し体の加減も損じて居る。気強づよく思ひ立つて巴里パリイを立つて来たものの、今マルセエユを離れやうとすると心細くもあるらしい。彼かれは黙つて涙ぐんで居た。慣れない途中の航海と晶子の不安な健康状態とを想像して、僕も何だか之これが再びと会はれない別れの様な悲哀を覚えるのであつた。此処ここから偶然同船して帰朝する安達大使館参事官と、其その夫人と、船の加藤事務長とに彼かれの事を頼んで置いて、僕は翌朝てう六時に平野丸を見捨てた。

マルセエユから巴里パリイへ帰る途中にリオンへ寄つて其処そこの博物館を観た。シヤヷンヌの秀すぐれた壁画の外にロダンの彫像の逸品が三つばかり心に遺つて居る。シヤヷンヌは此この地に生れたのである。仏蘭西フランスの河は何処どこへ行つても美しいが、リオンもまた市内を屈折して流れる河に由よつて明媚な風致に富んで居る。折悪あしく日曜日であつた為に三井物産会社の支店へ尋ねた某氏に会ふことが出来なかつた。其れで観たいと思ふ織物工場こうぢやうを案内して貰はずに仕舞しまつた。

リオンから夜更けて乗つた巴里行パリイゆきの汽車の三等室は途中で降りる労働者を満載して居たが、労働者同志で座席の事から喧嘩を初めて、酒気を帯びた一人がピストルを取出して輪のやうに振廻した。其れが僕と背中合せの席での事である。田舎ゐなか廻りの汽車でボギイ車でないから逃にげ出すべき廊も附いて居ない。「おお」と云つて片隅へ他たの女客をんなきやくと一緒に避ける間まもなく発射せられた一発は窓硝子がらすを裂さいて外そとへ逸それて仕舞しまつた。其その時仲間の労働者がピストルをもぎ取つて、大勢で其その暴漢あばれものを抑おさへて呉くれたので、ほつと誰れも安心した。こんな狼藉を見たのは欧洲へ来て之これが初めてである。(九月二十三日)

MADAMEマダム KIKIキキイ

おれが此このモンマルトルの下宿へ移つて来たのは一月の末であつた。もう十ヶ月経つ。此間このあひだにいろんな種類の下宿人が出たり入はひつたりした。今ではおれとKIKIキキイと云ふ女とが古参になつて仕舞しまつた。

キキイは田舎ゐなかから出た女であらう、其その言葉の調子が純粋の巴里パリイつ子では無さ相さうだ。或ある時キキイ自身がおれに向むかつて二十二歳だと云つたけれど、下宿の細君が二十五歳だと話したのが真実ほんとうであらう。

おれが此この下宿へ来た始めの頃のキキイは第一階に住んで居た。壁を桃色に塗つた、大きなピヤノを据ゑた、派出はでな部屋であつた。今では其その部屋に踊場パルタバランへ出る西班牙スペインの姉妹の踊子が住んで居る。其れからキキイはいろんな部屋へ移つて廻つた。おれの部屋の下に当あたる二階の、今ムウラン・ルウヂユの踊場をどりばへ出る音楽者しや夫婦が住んで居る部屋などにも二ヶ月居た。次第に落魄らくはくして近頃はおれの部屋からまだ二階上にある屋根裏に移つて居る。おれはキキイの住んでる部屋を覗のぞいて見たことはないが、下宿の細君が参考に見て置けと云ふので、或ある日屋根裏へ昇つて行つてキキイの隣の明間あきまを見たことかある。亜鉛トタンで作つた一人寝の寝台ねだいを一つ据ゑた前に一脚の椅子と鏡とが備へてある。窓は唯ただ一つ寝台ねだいの上の矮ひくい天井に附けられたばかりで、寝ながら其その窓を開あけて空気を入れられるやうになつて居る。雨の降る夜よるなどは窓硝子がらすを打つ音で寝附かれないと云ふことである。

おれは会話を覚える必要から、初めの四月よつき程は主人夫婦の食卓で飯を食つて居た。飯を一緒に食ふ下宿人はおれの外に四人の女が居た。下宿人は大勢居るのだが、大抵各自めい〱の部屋で自炊するか、さもなくば現在のおれのやうに外そとへ出て食ふのである。

初めて此この下宿の食卓に就いた日から、おれはなぜだか正座しやうざへ据ゑられた。そして下宿の主人夫婦がおれを四人の女に紹介した。其その中にキキイも居た。巴里パリイへ著いてまだ一ヶ月にしかならないおれは、突然多勢おほぜいの若い女の間へまじつたので少すくなからずどぎまぎした。主人の紹介した所に由よると、どの女の名の上にもマダムが附いて居る。それで、おれは敬意を表して「皆さんと御ご交際致すのは私わたくしに取つて非常な光栄に存じます」と云ふ様な改まつた文句を用ひて挨拶したもんだ。それが今から考へると可笑をかしくてならない。

食事の終りに、隣に坐つて居たキキイは美しい手で胡桃くるみの割りやうをおれに教へて呉くれた。快濶な主人夫婦はじめ四人の女は皆親切に話しかけて、仏蘭西フランスの風俗と言語とに慣れないおれを気拙きまづく思はさないやうに努めて呉くれた。女達は皆おれの職業を聞いてお世辞を並べた。併しかしおれは礼を失すると思つて彼等の職業を問ひ返すことをしなかつた。

此この下宿の食事は始まるのも終るのも珍しく遅い。昼飯は午後一時半に始まつて三時に終る。晩飯は八時に始まつて十時に終る。雑談を交換しながら呑気のんきに飲み且かつ食ふのである。外ほかの在留して居る日本人が下宿の飯は吝けち臭いと云つてよくこぼすが、おれの下宿は反対に潤沢なのに驚く。元来少食なおれは兎角とかく辞退ばかりしなければならないのに弱る程である。食事が済んでもまだ雑談は尽きない、時には歌留多かるたを取ることもある。十二時頃になるとキキイを除いた三人の女は、派手はでな身装みなりをして大きな帽の蔭に白粉おしろいを濃く刷はいた顔を面紗ヹエルに包み、見違へるやうな美しい女になつて各自めい〱何処どこへか散歩に出て行ゆく。主人夫婦もおめかしをして寄席よせや珈琲店キヤツフエへ出掛ける。おれも初めの頃はよく主人夫婦と夜明よあけ近くまで遊び歩いたもんだ。

おれは最初此この女どもを皆財産があつて気楽に遊んで暮くらしてる連中れんちゆうだと想つて居た。オネエと云ふ一人の女などは、「昨日きのふも競馬で儲かりましたから今夜酒場キヤバレエモニコへ御ご一緒に参りませう」なんて、よくおれの部屋を叩いて云ふことがあつた。おれは辞退して其その女と一緒に歩いたことは無かつたが、おれは其その女の巧たくみに素早く化粧する所を彼かれの部屋で見せて貰つたことなどもあつた。目の四方に青い隈くまを注さしたり、一方の頬ほに黒い頬黒ほくろを拵こしらへたりする女であつた。おれは又この女どもを人の情婦いろをんなになつて囲はれて居るのかとも思つた。併しかし格別男らしい者がどの女の部屋へも尋ねて来る様子はなかつた。

キキイは其その頃から蒼ざめた顔をして居た。灰色を帯びた鳶とび色の髪を無造作に束つかねて、多分其れ一枚しか無いのだらうと思はれるやうな古びたオリイヴ色の外套を襯衣シユミイズの上から着て居た。古びた裳ジユツプも同じくオリイヴ色である。襯衣シユミイズ丈だけは三日位ぐらゐに取換へるので白く目立つて居た。おれはキキイがなぜこんな服装みなりをして居るのか、他たの夜毎よごとに盛装して散歩に出る三人の女とキキイとの間にどんな身分の懸隔けんかくがあるのか解わからなかつた。

おれは初めの間語学に𤍠中して居たので、よく主人夫婦をつかまへて解わからない所を質問した。又外出せずに居るキキイが中庭へ下おりて来て、大きなアカシヤの木の蔭の青く塗つた長椅子バンクで新聞を読んだり小犬をあやしたりして居るのを見附けて質問する事もあつたが、主人夫婦に比べてキキイが非常に無教育な女だと云ふことはおれにも想像された。

おれは大分だいぶキキイと親しくなつたので、或ある日例の中庭でこんな話をした。

「キキイ、おまへの希望のぞみは何なんだね、毎日斯かうして何を待つて居るんだね。」

「わたしには何もないの。唯ただ早く此このアカシヤが葉をつけて、美しい日光のさす時節が来ればいいと思ふばかり。」

おれは詩の一節を読んだ気がして、あとは黙つて勝手な聯想に耽ふけつて仕舞しまつた。キキイも後あとの言葉を次がなかつた。

四月に入はひつておれは初めて明るい欧洲の春に接した。庭のアカシヤに夜が白み初めた頃からメルルが来て啼なくやうになつた。下宿ではキキイの外の三人の女が何処どこかへ引越して仕舞しまつて、其そのあとにはモニコの踊子を落籍ひかせて情婦いろをんなにして居る大学生のピエルと画家のコツトとが食卓へ就くことになつたが、陽気がよくなつて以来主人夫婦がよく外そとへ出掛けて飯を食ふので、下宿人ばかりが女中のマリイの給仕で食卓に就くのは何だか淋しい気がする。其れで二人減り一人減りして、十日とをか程の後のちにはおれとキキイが向むかひ合つて不景気な飯を食ふ日が多くなつた。キキイは前月あたりから食事を多く取らない。初めの中うちはいろいろと話して呉くれたのに何どうしたのか口を利きくのも太儀相たいぎさうである。例の外套の襟を合せて腹部を片手で押すやうにしながら、食卓越しにおれの名を呼んで握手する手が非常に冷たい。姿も一層淋しく細つて行ゆくやうである。おれはもう大分だいぶ巴里パリイの事情に通じた気がするので、四月の末日限り此この陰気な食卓から逃れて仕舞しまつた。

おれは其その頃になつて、引越して行つた三人の女の職業を漸やうやく想像することが出来た。或ある日下宿の細君に、

「あれは皆夜よるの天使だつたんですね。」

と囁さゝやいた。細君は笑つて頷うなづきながら、

「モンマルトルのああ云ふ種類の女の中ではどれも第二流スコンデエルですよ。」

と教へて呉くれた。それでよく夜明よあけがたに階段エタアジユを昇つて帰つて来る靴音を聞いたことも合点がてんが行つた。此この下宿の食事の時間が遅いのも、あの女どもが正午ひる過ぎまで寝込んで居るからであつた。おれは同じ時、

「なぜキキイだけはああして内にばかし居るんです。」

と細君に聞くと、

「キキイもやつぱり売る女ですよ。併しかし冬から姙娠して居ます。もう六月むつき目ですの。」

と細君は云つて、

「日本では女が幾日目に赤さんを生みますか。」

と問うた。おれは笑ひながら、

「それはどの国の女でも同じです。十月とつきで生むのが。」

と、うつかり斯こんな事を云つたら、細君は目を円くして、

「十月とつきですつて。」と驚いた調子で云つて「仏蘭西フランスの女はそんなに長くは掛かゝりません。」

と云つて、大抵二百三十幾日目とかで生むと云ふことを教へて呉くれた。細かい日数の計算をするものだとおれは感心して聞いて居た。それから、おれが、

「キキイは何どうして生活して居るんですか。色男から送つてでも来るのか、貯金でもあるんですか。」

と聞くと、

「全まつたく貧乏なんですよ。市外の会社に勤めて居る弟――折折をりをり昼中なかに尋ねて来て、正午ひるの食卓に就くことがあるでせう――あの弟が姉思ひで、月給の中うちから貢みついで居るんですよ。」

「仏蘭西フランスの女は素人しらうとでさへ姙はらむことが無いのに、なぜキキイが姙はらんだんだらう。」

と笑ひながら聞くと、細君も笑つて、

「其れは過失あやまちです。」

と云つた。五月の中頃過ぎに日本から妻が巴里パリイへ来たので、おれは俄にはかに妻を伴つれて欧洲の各地へ旅行することになつた。九月の中頃に和蘭陀ヲランダから巴里パリイへ帰つて来ると、下宿の細君が十日とをか程前の晩キキイが女の児こを産んだと云ふ話をした。次の朝偶然おれの部屋の窓から下を見ると、食堂の入口に見なれない婆さんと二十二三の女とが立つて下宿の細君と何か話して居る。二人とも帽を着ないで、田舎ゐなからしい拡がつた裳ジユツプを着けて居た。午後女中のマリイが部屋を掃除に着た時、

「キキイの赤ん坊は今朝けさ田舎ゐなかの人が迎ひに来て伴つれて行つて仕舞しまひましたよ。」

と云つた。

「僕は其その伴つれに来た女づれを窓から見たよ。キキイは赤ん坊を預けたのかね。」

「いいえ。」

とマリイは頭かぶりを振りながら云つて、蔑さげすむやうな目附と身振をした。おれは重ねて問はなかつたが、金を添へて永久に呉くれて仕舞しまつたのだと云ふことがマリイの様子で想像された。其その金もやつぱり人の好さ相さうなあの弟が算段したのだらうと想つた。

其れから五日いつかほど経つて、おれは妻と芝居を出て夜の十二時過ぎに自動車で下宿の前まで帰つて来ると、丁度ちやうど其その時門の戸を押して外へ出た女が、おれ達を見附けて、

「今晩は、ヨサノさん、ヨサノの奥さん。」

と云つた。おれが

「おお、マダム・キキイ、今晩は。おまへの体はすつかりいいのかい。」

と云ふと、

「有難ありがたう、もう、すつかり宜よろしいのよ。」

斯かう云つて、クリツシイ街まちの方へ金糸きんしの光る手提サツクを手にしながら行つて仕舞しまつた。月明りで見たのだが、こんなに盛装した、またこんなに美しく化粧した、こんなに得意相さうなキキイを見たのは其その晩が初めであつた。

附け足して置く。夏の初めであつた。食事の後あとで名の話が出て、キキイが

「ヨサノは伊太利イタリイ人のやうな名ですね。」

とおれの名を云つた。おれは無邪気な冗戯じやうだんの積つもりで、

「キキイは猿の啼なき声だ、日本では。」

と云つたら、キキイは何時いつになく気色けしきを変へて、

「わたしの真実ほんとうの名はCHESANNEシユザンヌです。」

と云つたことがある。其れが真実ほんとうで、キキイは字シユルノムかも知れない。

未来派フユチユリストの芸術

欧洲の芸術界に最も新しい傾向を何かと言へば未来派フユチユリストの勃興ぼつこうである。之これは三四年前ぜんに伊太利イタリイの詩人画家の一団が未来主義フユチユリズムを唱へ出して以来の新運動である。其その宣言書の一条に「予等は狂人と呼ばるることを最上の光栄とす」と云つて居る位であるから、万事を昨日きのふの標準で眺めようとする習癖を脱しかねて居る我我われわれに取つて、彼等未来派の宣言や其その芸術が一見奇怪と錯誤とに満ち、正気しやうきの沙汰さたと思はれないのも道理であるが、さりとて僕の如きは此この春ベルンハイムで開かれた伊太利イタリイの画会を観て以来、この秋のサロンに数室を占めることの寛大を許された仏蘭西フランス未来派の絵画に到るまで、奇怪至極とは思ひながらも、其れに背を向けること難く、ぐつと襟元を掴つかんで引寄せられるやうな強い魅力を感じると共に、果はては我れを忘れて其中そのなかへ突き入いつて共に顛倒てんだうし共に混迷したいやうな気持になるのは何どう云ふ訣わけであらう。言ひ換かへれば前印象派乃至ないし後こう印象派の芸術には僕等と共鳴する世界の多いに関かゝはらず、猶なほ越え難がたい距離のあるのを覚えて、ロダンの彫刻にしても、セザンヌ、ゴツホ、マチス諸家の絵にしても、僕等の容易に接近し難い天才の世界であるが、未来派の芸術、と言ふよりも未来派の芸術家の生きて居る世界は、やがて又僕等の生きて居る世界であるのを感じるまで、ひたと全人的に共鳴し得うる様である。

未来派の人人自身も、他たの芸術家も、未来派を以もつて芸術界の無政府主義者だと考へ、芸術界の猛烈な破壊者であると思惟するやうであるが、僕が見る所では矢張やはり芸術界の当然な推移であり、現代思想の大河だいがに波を揚げる一脈の流ながれに外ならないと思ふ。

立体派キユビストの絵がセザンヌの芸術に負ふ所多くして、従つて印象派の芸術が立体派キユビストに一いつ分科したものだと見るのが至当である如く、未来派の絵も亦また印象を張大ちやうだいする点に於て固もとより印象派の別運動であり、其れに立体派キユビストの手法テクニツクを大胆に採用して居るし、また動的の材題のみを極端に描くことを特色とするのは、ロダンの彫刻や、ヹルハアレンの詩の動的芸術を徹底させたものと見るべきである。殊ことに近頃の未来派は流動を力説りよくせつするベルグソンの哲学に刺激せられた所が多いと云はれて居る。

未来派の絵の特色は種種しゆ〲あるが、一刹那いつせつなに幾多の印象が「併存」し、「連続」し、「混融」し、「反撥」し、且かつ「乱迷」して流動しつつあることを画布の上に再現しようとするのが其一そのいつである。従つて其その絵は万花鏡ばんくわきやうを覗のぞく如く、活動写真を観た後あとの心象の如く、大顕微鏡下に水中の有機体を検けみする如く、雑多な印象が剪綵せんさいせられずに其儘そのまゝ並べられて居るが、印象には自おのづから強弱と明暗があるから、画家が故意に求めずして一幀いつてうの上に核心となる印象と縁暈えんくんとなる印象とが出来て居る。併しかし其その核心となるものが決して在来の絵で云ふ中心でも、主題でもなく、其れが全体の調和を引緊ひきしめて居るのでもない。要するに、在来の意味で云ふ調和を度外視して、雑然と混乱し分裂して居る動的生命の印象を誇示しようとするのが今日けふまでの未来派の絵である。

其れは未来派の音楽に由よつて最もよく此この派の思想を味解することが出来ると云ふことである。僕は此この派の音楽を聴く機会をまだ得ないが、評判に由よると、不協音を以もつて新音楽を建設しようとするのが此この派の主張であつて、其その音楽はあらゆる猛獣と鷙鳥してう類と、飛行機を初めあらゆる近世の科学が生んだ器械や発動機とを、同時に鳴かせ、吼ほえさせ、唸うならせ、軋きしらせた如きものであると云ふ。是これ等の騒音の大集団が現在及び未来に亘わたる我等の生活を象徴し、鼓舞し、創造する音楽であり、我等の生活の伴奏となる音楽であると主張するのである。猶なほ此この派の踊をどりも奇抜だ相さうである。

僕等は古今の天才の芸術に憬あこがれる。希臘ギリシヤ、羅馬ロオマの昔から、アンゼロ、ラフワエル、チチアノ、ダ・〔濁点付き井〕ンチ等の伊太利イタリイルネツサンスの芸術、グレコ、ベラスケス等の西班牙スペイン派、レンブラン、リユウバンス、ダイク等の「ダイク等の」はママ和蘭陀ヲランダ派及びフラマン派、マネ以下の仏蘭西フランス近代の印象派、其それ等天才の芸術が地上にあるのは、常に僕等の生活に新しい元気エツサンスを齎もたらすものである。其その意味に於て我も人も古今の天才に帰依する。併しかし僕等を最も力附づける芸術は、僕等と同じ時代に、僕等と共に苦くるしみ、共に踠 《もが》いて、最もよく現代を領解し、最もよく未来を見越した芸術家に期待せねばならぬ。不協音の芸術、混乱妄動まうどうの芸術、僕が刻下こくかの生活はより多く此この末来派の思想に傾倒せざるを得ない。なぜなら僕の生活は分裂して居る。中心もない、調和は固もとよりない、右往左往に妄動まうどうを続けて居る。盲目めくらではなく、眼は開あいて居ながら周囲と混融し、或あるひは反発し合つて妄動まうどうして居る。未来派の絵はやがて僕の世界なのである。

けれど又、未来派の絵を此この様に解釈するのは僕の得手勝手かも知れない。末来派の絵は僕の生活のやうにみすぼらしくない、弱くない、疲れて居ない。其その絵は力に満ちて居る。猛烈な鮮新フレツシユな力の妄動まうどうである。其れに対すると僕までが血を湧わかし、肉が引緊ひきしまる程に力強さを覚える。果して僕にも其れ丈だけの活力ヸタリテ[#「ルビの「※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]タリテ」は底本では「※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]リリテ」]があるか、何どうか。矢張やはり未来派も僕と一緒にされない新しい天才の芸術か。

末来派の詩に就ついて少し書かう。其その主領とも云ふべきは伊太利イタリイミラノの詩人マリネツティイ氏で、其その同派の詩人にはアルトマレ、ベテュダ、ビツッティ、カバックシオリ、ダルバ、フォルゴレ、ゴヺンニイ、フロンティニイ、バラッチェッシイ等の伊太利イタリイ詩人があつて、既に多くの詩集が出て居る。マリネッティイ氏はミラノで機関雑誌「ポエジア」を出して居るが、巴里パリイへ来ては仏蘭西フランス語で詩を作り、ポオル・フォオル氏の雑誌「詩と散文」などに稿を寄せる。氏の崇拝者は欧洲の諸国に亘わたつて漸次ぜんじ増加して行ゆく様である。巴里パリイではヷランティイヌ・ド・サンポワン女史が氏の高弟と称すべき女ぢよ詩人である。

此この派の詩の根調こんてうとなるものは新英雄主義ヌウボウ・ヒロイズムである。また活動主義である。一いつはニイチエなどの感化、一いつはヹルハアレンなどの影響であらう。其その題材に飛行機、自動車、砲兵工廠、戦争などを喜んで用ひ、推進機の音、発動機の爆発、砲丸の炸裂、自動車の躍進などを歌つて活動的生活を讃美するのはベルグソンと行ゆき方が似て居る。其その女性を攻撃するのも弱者を蹂躙じうりんするニイチエズムに外ならない。また其その詩中に雑多な印象の並存と混乱とを許するのは従来の自由詩を徹底させたものであつて、此この派の絵や音楽と同じ行ゆき方である。そして猶なほ其その詩中に砲丸や、飛行機や、あらゆる器械の音、工場の騒音などが聞かれるのは、ヹルハアレンの詩が近世の鋼鉄で出来た器械の壮大な音おとに富んで居るのを更に押し進めたものだとも見られる。

マリネツティイ氏等は謂いはゆる新理想主義者の急先鋒なのであらう。併しかし同じ未来派でも、僕は絵に於る如き親しみを以もつて氏等の詩に同感することは出来ない。まだ氏等の詩を多く読んだのでも無いから僕の判断が間違つて居るかも知れないが、今日けふまでの所では、読む時には可かなり引入れられるやうであるけれど、読み終つた後あとでは何だか縁遠どほい世界の消息の気がするし、多少の反感さへ残るやうである。マリネッティイ氏等は余りに英雄主義者である、余りに天才気取きどりである。

マリネッティイ氏は近頃更に新しい詩体を案出して発表した。其れは、従来の詩は甚だ其の叙し方が冗漫だ、一刻を争ひ寸陰を惜をしむ現代人に其その様な手緩ぬるい形式を把とつて居る事は作者も読者も堪へ得ない事だ、今日こんにち猶なほ従来の文法を守つて居るのは馬鹿の骨頂こつちあうだと云ふ主張から、氏の詩は文典を一切排斥するのみならず、氏の語彙の中には一切の冠詞、前置詞は愚かな事、一切の副詞、感嘆詞、動詞、代名詞、形容詞を採用しない、唯たゞ名詞と熟語及び数字丈だけが保留される。其れから一切の句読くどく点其他そのたの記号をも排斥する代かはりに代数学の符号が新あらたに採用され、行ぎやうや聯れんを分わかつのも不経済だとあつて唯ただ聯れんの場合丈だけに約一寸すん許ばかり字間を明あけ、其他そのたは散文の如くに続けて書く。又定きまつた綴音シラブルも脚韻も顧慮しない代かはりに頻しきりに頭韻法を繰返す。氏は自みづから未来派フユチユリストの天才であると公言し、古臭い詩風の破壊を敢てした事を光栄とすると言つて居る。僕は氏が自みづから傑作なりとして世に出した「戦争」と題する長篇の中の一聯れんを見本として紹介する。

前衛:300メエトル 附け剣 前へ 大道だいだう 散兵 熱心 激励 群馬ぐんば 腋わき 項うなじ 褐色 銅色どうしよく 気息いきづかひ +《プラス》 背嚢はいなう 30キロ 警戒=大秤量機ひやうりやうき 鉄屑 貯金筒づつ 怯儒きよだ:3戦慄 号令 石 熱狂 敵 誘導物 敏捷 名誉

此この一聯れんは敵の接近したのを見て司令官が我わが隊を激励する光景を叙した物だと云ふが、数学者に判断して貰つても一寸ちよつと解わかりさうにない。以前電報体と云ふ詩体を考へ出した詩人のあつた事を聞いたが、名詞を並べる所から見るとマリネツティイ氏の発明も其その電報体から暗示を得たものであらうか。絵具を画板パレツトで練らずに生なまな色のまま並べようとする画家の技巧テクニツクにも似て居るやうであるが、之これは無理な試みであらう。(十月三日)

オテル・スフロオから

十月一日じつからモンマルトルの下宿を引払つて再びパンテオンに近いオテル・スフロオに移つた。間もなく伊太利イタリイへ出掛ける積つもりだから、荷物の預け場所にと思つて四階の狭い部屋を択えらんだが、下の部屋よりも明るいのは儲け物である。三階がいの一室に土屋工学士が居る。其その下の僕が巴里パリイへ着いた初めに居た一室に槇田まきた中尉が居る。近頃は近所のリユウ・デ・ゼコルに住んで居る内藤理学士とすつかり気の合ふ友人になつて仕舞しまつた。内藤とよく街をぶらつく。一緒によく仏蘭西フランス人を訪問する。よくレスタウランへも珈琲店キヤツフエへも一緒に行ゆく。

モンマルトルのピオレエの家へ洗濯料を払はずに来たことに気が附いて持つて行つたら、細君のブランシユが寝台ねだいの下から之これが見附かつたと云つて晶子の遺つかつてた絵具箱を渡して呉くれた。馬車の中に置き忘れたのだらうと思つてた物が出たので、僕もふと絵具いじりがして見たくなつて、此この頃はホテルの窓で間まがあると林檎りんごや撫子なでしこを描かいて居る。山本鼎かなへがホテルの湯に入はひりに来ては真面目まじめに手解てほどきをして呉くれる。

秋のサロンがグラン・パレエに開かれて居る。菊の花の競進会も同じ画堂ぐわだうの一室を占めて居る。之これを観ると日本の菊作りは最早もはや顔色がんしよくが無い気がする。欧洲の園芸家は科学的知識と美的趣味とを応用して、我等日本人の夢にも想ひ及ばない形と色とを備へた見事な花を咲かせて居る。形は概おほむね手毬てまりの様に円く大きく盛上り、色は異かはつた種種しゆ〲の複色ふくしよくを出して、中には冴さえた緑青ろくしやう色をした物さへある。すべて鉢植でなく切花きりばなを硝子罎がらすびんに挿して陳列して居る。菊と一緒に果物の競進会も開かれて居るが、李すもゝより大きい葡萄ぶだうのあるのは日本の子供に見せたい。

秋のサロンで先まづ僕の注意を惹くのは、展覧会向むきの大きな絵よりも建築と室内装飾との見本の幾つかである。コバルトと赤と薄黄うすきの三色しよくで濃厚な中に沈静な趣おもむきを出した「菊と薔薇ばらの間ま」が最も気に入つた。其間そのまに属した小さな控室に一鵬斎ほうさいの美人絵が薄明あかりに照てらされて二枚掛かゝつて居るのも好い取合とりあはせである。一体に何どの建築にも多少支那及び日本の匂ひがする。庭園の隅の休憩所に擬した物に壁へ鍵の手に狐格子きつねがうしを廻めぐらし其その上に刷硝子すりがらすの角行灯かくあんどうを掛けて中に電灯を点つけ、其その前に一脚の長椅子を据ゑて周囲に紅あかい小菊を植ゑたのなどが其れだ。凡すべてをキユビズムで行いつた書斎も悪くない。此この画風が装飾的にのみ意義と効果のある事が益ます〱頷うなづかれる。其その次には織物や刺繍の図案が目を引く。何いづれも派手はでと濃厚とを極めた奇抜な大おほ模様で我国の桃山式を聯想れんさうせしめる物許ばかりである。其それ等の図案の下もとに其それ等を応用した織物や刺繍が併せて陳列されて居るのは効果を鮮明にして居て好い。絵の部は余りに無鑑別に沢山たくさん並べてある為か、又は僕の目が巴里パリイの絵に慣れて仕舞しまつた為か、兎とに角かく感服すべき物に乏しい。展覧会向むきに描かかれた大幅たいふくの前には日本の其それ等と同じく人だかりがする。僕にはマチスの婦人肖像一枚が水際立だつて光を放つてる気がする外、ヷン・ドンゲンの「鳩」と「海」との二幀ていが奇抜な装飾画として興味を惹く。其れから仏蘭西フランスの未来派が数室を占めて居るのは、大分だいぶん世間の批難があるらしいけれど、僕は其その奇怪を極めた画面に苦しめられながらも、猶なほ何となく其その新しい力に引附けられるのを感じる。但ただし何いづれかと云ふと僕は此この春の伊太利イタリイの未来派の絵の方に余計に同感せられる。仏蘭西フランスの其れは画家の詩でも音楽でもなく、画家の印象を冷さまして装飾画化して行ゆく嫌ひのあるのを不満に思ふ。余りに立体派キユビストの技巧テクニツクを採用し過ぎたせいかも知れない。近代の諸大家だいかの人物画を集めた参考室の中に一八八〇年代のルノワアルの婦人像が一枚目に附く。併しかし其その近作に新しい興味を覚え出した僕に取つて其れは物足りない。

僕は大分だいぶん巴里パリイに慣れて仕舞しまつた気がするが、何時いつも飽くことを知らないのはジユラン・リユイル氏の本邸へ印象派諸大家たいけの絵を観に行ゆくのと、芝居と、サン・クルウの森の散歩とだ。サン・クルウは森其その物が四季折折をりをりに面白い許ばかりで無く、行ゆきに機関車附づきの旧式な乗合車の二階に乗つて、モネが屡しば〱描かいたサン・クルウ橋けうを渡り、帰りに八銭均一の小こ蒸気でセエヌを遡さかのぼるのも面白い。

此この夏徳永、澤木、晶子と四人で無駄話に気を取られて居て怖おそろしい雷雨に遇つたのも其その森だし、僕が新しく買つた絵具箱を画家然と提さげて行つたのは好いが、絵を初めた第一日に出来上つた物をアンデパンダンだと同行の小林萬吾に笑はれたのも其その森だ。其れから詩人ヹルアレン翁が住んで居ると云ふ事もサン・クルウの好きな一つの理由である。翁の新しい詩集「戦そよぐ麦」には以前の詩集「触手しよくしゆある都会」と反対に作者自身の郊外生活から贏かち得た題目が多い。

一日にち、セエヌ河の秋雨あきさめを観がてら翁を訪とはうと思つて降る中を雨染あまじみのする気持の悪い靴を穿はいてサン・クルウへ出掛けたが、落葉おちばし尽した木立こだちの間から石と泥とを混ぜた家家いへいへの白茶しらちやけた壁に真赤まつかな蔦紅葉つたもみぢの這はつて居るのは綴つゞれの錦にしきとでも月並乍ながら云ひたい景色であつた。雨が降つて居ても快く明るい感じを受けるのは東京の郊外の灰がかつたのと異ちがふ。ムンツルツウ街まちの五番地も矢張やはり石と泥とを混ぜた壁の家だ。正面には四階しがいとも御納戸おなんど色と白とで瀟洒あつさりとした模様が施してある。

裏庭の雑木林が少しの黄色を残して居るのが横手の空地くうちから見えて居た。之これが東洋に迄も名を知られた大詩人の寓居であらうとは思はれぬ程、粗末な田舎家ゐなかやである。下の室の窓から季節外れの淡紅とき色の裳もを穿はいた十七八の娘が首を出して居たので「詩人は居ゐられるか」と問ふと「知りません、門番コンシエルジユにお聞きなさい」と甚だ素気すげない返事をする。我が大詩人を知らないとは怪けしからんと同行の内藤理学士に囁さゝやき乍ながら、内に入はひつて門番コンシエルジユの婆さんに尋ねると、愛嬌あいけうの好い田舎気質ゐなかかたぎを保つて居る婆さんは、夏の旅行から引続いて未まだ詩人の帰つて来ない事を告げた。「何時いつお帰りだらう」と問ふと「こんなに曇り勝がちな寒い季候には何処どこに居ゐられても面白く無いでせうから二週間以内には屹度きつと帰られるに違ちがひ無い、然さうぢやありませんか」と笑ひ乍ながら云つた答が面白いので、僕等は詩人に就ついていろんな事を尋ねた。写真で知つて居る詩人の垂下たれさがつた長い髭ひげは最もう白く成つて居るかと云ふ様な事を聞いた。詩人は故郷の白耳義ベルジツクを旅行して居るのである。婆さんは日本のオト大将と島川しまかは少将とを一度泊とめた事があると話したが「オト」は奥おくの間違まちがひかも知れない。此この婆さんは「戦そよぐ麦」の中の「小作女こさくをんな」と云ふ詩に歌はれた人好ずきのする快濶くわいくわつな婆さんである。(十月二十日)

火曜日の夜よ

夕方ノエル・ヌエ君が訪ねて来た。貧乏な若い詩人に似合はず何時いつも服の畳目の乱れて居ないのは感心だ。僕が薄暗い部屋の中に居たので、「何かよい瞑想に耽つて居たのを妨げはしなかつたか」と問うたのも謙遜な此この詩人の問ひ相さうな事だ。「いや、絵具箱を掃除して居たのだ」と僕は云つて電灯を点つけた。壁に掛けて置いたキユビストの絵を見附けて「あなたは這麼こんな物を好くか」と云ふから、「好きでは無いが、僕は何でも新しく発生した物には多少の同情を持つて居る。力つとめて其れに新しい価値を見出いださうとする。奇異を以もつて人を刺激する所があれば其れも新しい価値の一種でないか」と僕が答へたら、ヌエは苦痛を額の皺しわに現して「わたしには解わからない絵だ」と云つた。ヌエは内衣嚢うちがくしから白耳義ベルジツクの雑誌に載つた自分の詩の六頁ペイジ折をりの抄本を出して之これを読んで呉くれと云つた。日本と異ちがつて作物さくぶつが印刷されると云ふ事は欧洲の若い文人に取つて容易で無い。況まして其れで若干なにがしかの報酬を得うると云ふ事は殆ほとんど不可能である。発行者の厚意から其その掲載された雑誌を幾冊か貰ふのが普通で、其その雑誌の中の自分の詩の部分の抄本を幾十部か恵まれるのが最も好く酬むくいられた物だとヌエは語つた。僕は其れを読んだ。解わからない文字に出会くわす度にヌエは傍そばから日本の辞書を引いて説明して呉くれた。七篇の中うちで「新しい建物に」と云ふ詩は近頃の君の象徴だらうと云つたら、ヌエは淋し相さうに微笑ほゝゑんで頷うなづいた。君が前年出した詩集の伊太利イタリイに遊んだ時の諸作に比べると近頃の詩は苦味にがみが加はつて来た。其丈それだけ世間の圧迫を君が感ずる様に成つたのだらうと僕は云つた。

午後七時に内藤理学士が来た。今夜三人で食事をしようと約束して置いたのであつた。外へ出ると朝から曇つてた空は寒い劇はげしい吹降ふきぶりに成つて居る。リユクサンブル公園の前まで歩いて馬車に乗つた。途中でヌエはユウゴオやサント・ブウブの住んで居た家家いへいへを誨をしへて呉くれた。ヌエが厳格な菜食主義者なので巴里パリイ唯一の菜食料理屋レスタウラン・ヹジタリヤンへ行つた。同主義者の男女なんによが大勢食ひに来て居る。独逸ドイツの菜食主義者ヹジタリヤンには肉を食つては成らない病人が多く混じつて居ると聞いて居たが、今夜の此処ここの客に病人らしい者は見当らなかつた。菜食料理と云つてもバタや牛乳を用ひるのだから日本の精進料理と同様には云へないが、黒麦の茄うでたのに牛乳を掛けた物などは内藤も僕も少すくなからず閉口した。唯ただ何かの野菜の太い根を日本の風呂吹ふきの様にした物だけが気に入いつた。酒も酒精アルコホルを抜いた変な味の麦酒ビイルが出た。這麼こんな物を食つて一人前にんまへ五フラン以上払はされたのを見ると菜食料理は倹約になる訳で無い。此この家の入口いりくちの右手は本屋に成つて居て諸国の菜食主義ヹジタリズムの出版物許ばかりを並べて居た。

食後、僕等は是これからクロツスリイ・ド・リラの火曜会へ行ゆく積つもりだと云つたら、ヌエが詩人等の集まるのは九時後ごだから其れ迄の時をわたしの下宿で費しては何どうだと云ふので其その言葉に従つた。度度たびたび傘を紛失ふんじつして買ふのも癪しやくだと云つて居る内藤は僕の傘の中へ入はひつて歩いた。自動車にでも乗らうと云つたが、謙遜なヌエは近い所だと云つて聞かなかつた。ラスパイユの通りへ出た。Aの字形じがたに間口を引込ひつこめて建てた大きな家をヌエは指さして、あの妙な恰好かつかふの家の理由を知つて居るかと問ふた。何時いつも変な建物だと思つて見て通る許ばかりだと内藤が云ふと、以前まだ此辺このへんが森であつた時分にユウゴオが此処ここに住んで居た。あの家の前に曲くねつて立つて居る木はユウゴオが手づから植ゑたのだ。あの一本の木を旧もとの位置の儘まゝ保存する為に這麼形こんなかたちの家を建てたのだとヌエが云つた。髑髏洞カタコンブの手前の獅子の銅像のある処ところまで来た時、あの獅子の体が雨に濡れて居るのは油を掛けた様だとヌエが云つたので、流石さすがに詩人の観察だと数学者の内藤が感心して居た。其処そこから左へ折れて巴里パリイ天文台の傍そばのヌエの下宿の三階へ上のぼつた。

若い詩人は其その粗末な小さな部屋を小綺麗こぎれいに片附づけて居た。一つしか無い窓を開けると小路こうぢを隔てて塀の高い監獄の構内を直すぐ見下おろすのである。妙な処ところに住んでるね。朝夕に囚人を見下おろすのは残酷だと云つたら、皆自分の影だ、成るべく其その窓の方へ寄らない様にして居る。併しかし今時分あの監獄の黒い窓や疎まばらな灯火ともしびを見るのは好い。其処そこに沢山たくさんの人の慰安と平和がある。却かへつて自分には彼等の様な穏かな眠ねむりが無い、夜も生活の資を得うる為に働かねば成らないからとヌエは云つた。

ヌエは三方ぱうの壁に書棚を掛けて、其れをクラシツクと現代大家たいかの作と自分と同じ程の青年作家の物とに区別して居る。寝台ねだいの外に一つの卓と三脚の椅子とを除けば是これ等の書棚がヌエの貴たつとい家財の凡すべてである。僕が殆ほとんど若い作家の詩のみに留意して居る事を知つて居るヌエは、一方の書棚の前に立つて洋灯ランプを左の手で照てらし乍ながら、其それ等の若い詩人の詩集を抽ぬいて一一の作者の特長や詩の題目及び傾向を簡潔に聞かせて呉くれた。中にもレオ・ラルゲエやエル・メルシイやジユル・ロオマン等を褒ほめた。ロオマンの「群集年活ラ・ヸイ・ウナニムは世人に顧みられないで絶滅に成つて居るが、此この若い詩人は劇場、珈琲店キヤツフエ、競馬場、寄席よせ、音楽堂、市場いちばと云つた風の題目を好み、多数人の群居した心理を歌ふ。「壁を撤てつした生活」と云ふ詩には巴里パリイの夜の街のどの家の壁も作者の前に無くなつて各人の心持が大音楽の様に聞きこえる光景を歌つて居る。其れから與謝野夫人に見せたかつたのはエレンヌ・リセルとエミル・アルネルと此この二人の女ぢよ詩人の詩集だなどとヌエは云つた。是これ等青年詩人の詩で多数の若い詩人の間に愛誦せられる物も稀にあるが、大抵は世に知られずに古本屋の庫くらの隅に葬られて仕舞しまふ運命を有もつて居る。併しかし黄金は砂中しやちゆうに在つて人間の手に触れない方が黄金の質を汚けがさないで好い。詩は詩人の心に生きてさへ居れば満足であらうとヌエは附つけ足した。僕は心の中で詩の盛さかんで無い国に生れた日本の詩人を幸福だと思つた。仏蘭西フランスなどに在つては何かの機会で世に著あらはれた詩人の下積したづみに成つて、老おいも若きも多数の作家は全まつたく泛うかぶ瀬を失ひ、勢ひヌエの様に諦めを附けて独ひとりを楽しむ外は無いのである。

僕等は今夜斯かうして夜通どほしでも話して居たい気持に成つた。併しかしヌエが何か夜業やげふをする妨げをしては好くないと思ひ、又火曜会も一寸ちよつと覗のぞいて見たかつたので此この下宿を辞さうとしたが、平生いつもから淋し相さうなヌエが殊ことに今夜は一層淋し相さうに見えたから、僕は一人残して置かれない気に成つて、君も僕等と一緒にリラへ行ゆかないかと云つた。然さう云ふ会合に加はることをヌエが好すかないことを知つて居る僕等はヌエが多分当惑するだらうと思つたら、わたしは多くの時を有もたないが一寸ちよつとなら行つても好いと云つた。雨の中を又歩いてリラへ来た。

其処そこにはもう大分だいぶん詩人が集まつて居た。ポォル・フォォルの夫人が令嬢を伴つれて奥の方に来て居た。

夫人の左には詩の評をする某夫人、右には二十はたち前後の女ぢよ詩人が三四人並んで居た。僕の後あとから日本でなら小山内おさない君兄妹きやうだいと云つた様な若い詩人が妹の手を取つて入はひつて来た。どの文人も皆最初にフォォル夫人に挨拶して握手した。幸ひ夫人に近い場所に一卓が空いて居たので僕等三人は其れを囲んだ。詩人に交際の少すくない、否いな寧むしろ交際を避けて居るヌエは誰たれとも握手をしなかつた。皆思ひ思ひに好む飲料の杯さかづきを前に据ゑて雑談に耽ふけつて居る。暫しばらくして気が附いたが稍やゝ離れた後あとの卓に滿谷、徳永、小柴こしば、柚木、などの画家が食後の珈琲キヤツフエを取りに来て居たので僕が挨拶に行つたら最もう立上つて帰る所であつた。一人の若い詩人が入はひつて来て僕の隣へ坐つた。其その男をヌエは知つて居て互たがひに手を握つた。其その男と内田魯ろ庵氏の様な風采ふうさいの中ちゆう老人とが頻しきりに稿料の話をして、中ちゆう老人は誰が何を書いて幾百フラン儲けたと云ふ様な事を細細こま〲と話して居たが、後あとで聞けば其その中ちゆう老人は文学雑誌フワランジユの主筆であつた。

ポォル・フォォル氏が遅れて遺つて来た。僕は此この人の詩を読まないが散文詩許ばかりを書いて近年巴里パリイの若い詩人の人気を一身に集めて居る大家たいかだ。此この夏詩人王に選挙せられたが、真面目まじめな選挙で無いと云ふ批難を少数の識者から受けて居る。今夜の会に集あつまつた若い詩人は大抵此この人の崇拝者である。四十五六歳の筈はずだが三十五六にしか見えない若い男だ。黒い髪を長く垂れて反そり身に成つて気取つた物言ものいひをする。場内を卓から卓へ軽卒あわたゞしく歩き廻つて何人なにびとにも愛嬌あいけうを振撤ふりまくのを見ると其れが人気者たる所以ゆゑんであらう。僕が此この人と物を言ふのは今夜が初めで多分又同時に最後であらう。僕が持合せた紹介状を出すと「おお是これはヷレツト君の手跡しゆせきだ、中を見ないでも解わかつて居る」とフォォル氏が云つた。彼と握手をする時何どうした機会はずみか僕の足が老人と話して居た若い詩人の卓の下に引掛ひきかゝつて其その上の杯さかづきが高い音を立てて覆ひつくりかへつた。其その音に場内の視線は皆僕に集あつまつたが、誰たれ一人顔や声に出して笑ふ者の無かつたのは感心だ。過失を僕も若い男に謝したがヌエも僕の為に謝して呉くれた。フォォル氏はいろんな文人を僕に引合せた。其中そのなかにバルザツクの旧宅を保管して居ると云ふ老人は内藤鳴雪めいせつ翁そつくりの顔をして居た。フォォル氏は僕に名刺を呉くれると云つて夫人と一緒に探して居たが、やつと一枚服の衣嚢かくしの何処どこからか見附みつけ出して皺しわを直し乍ながら呉くれたのは黄色く成つた古ふる名刺であつた。僕は此この名刺の古茶けたのを受取つて、矢張やはり詩人らしい無頓着な所があると思つた。十二時を過ぎると例の自作の朗読などが始まるのだが、僕は風邪かぜの気味を覚えたのと、ヌエが不愉快を忍んで附つき合つて居て呉くれるのが気の毒なのとで内藤を促して帰つて来た。(十月二十八日)

平野丸より良人をつとに(晶子)

(一)

自みづから穿うがちて入いりし白き墓穴はかあなより文ふみまゐらせ候さふらふ。御おん別れ致して自みづからを忘れ居をりし間まに船は動き初そめしに候さふらふ。斯かく私わたくしの気附き候さふらひしもまこと一二時間の後のちに候さふらひけん。されば必ず見よと云ひ給ひし狭き港口かうこうを出いづる大船おほふねの運転士の手際も知らず過ごし候さふらふ。南仏蘭西フランスの海辺うみべに立てる木の少すくなき山を船室の窓より見ながら、私はいかなる思ひをか致し候さふらひし。そは今書かず候さふらふ。千斤きんの錘おもりこの日より我胸を押すと唯たゞ知り給へ。昼前ベツカ夫人に誘はれ私は甲板かふばんに出でて籐とう椅子の上の一人ひとりとなり申し候さふらふ。安達様御ご夫婦も傍かたはらにて書見しよけんなど遊ばし居をられ候さふらふ。十二時に近き頃より波の起伏おきふしの忙せはしくおどろしくなり申し候さふらひしか、食事に参るとて安達夫人私の手をとりて甲板かふばんをお下おろし下され候さふらふ。食堂に入いり候さふらひしに我卓の長者三重みへ機関長の君、奥様のお強きことよ、されどこは未いまだ少しの暴風しけなりと申され候さふらふ。実は私は御ご返事申し上ぐるさへ能はぬばかりに船暈せんうんを覚え居をりしに候さふらへば、其その時前に運ばれしキヤベツの料理を少し戴きしまま、失礼致すべしとて船室に帰り申し候さふらふ。眠りしと覚えて目覚め候さふらふ頃、船は二丈に近く竪たてに揺れ居をり申し候さふらひき。猶なほ一つの上の甲板かふばんを越ゆる浪の音、荷を棄つる用に立働く水夫の声も聞き馴れぬものにて、いかに心細く候さふらひけん。三時の喫茶きつさの時にはもとより、夕ゆふべの卓にも私は出いで得ず候さふらひき。船のドクトル佐藤の君、いかにとて訪ね給ひ、我が室の前の廊など海水の入いりて流るる事一尺に余り、帰りも得ずなど云ひ給ひ、今日けふの食堂の淋しかりしことよ、女にてはカトリツク派の尼君あまぎみの三人みたりの中の一人ひとりが居給ふを見しのみなどとも語られ候さふらふ。先の程波浪はらうの中に投げられしはかかる際に危険なりとせらるる硫酸の類たぐひなりと云ふ事も此この時に知り申し候さふらふ。赤塚あかつかドクトルも見舞に見え給ひしかど御おん顔をわづかに見参らせしのみ、御身体おんからだはセルロイドの上軽かろく足重く作られし人形の様さまして戸口より帰らせ給ふを御お気の毒に見申せしに候さふらふ。私はこの夜よ氷を頂きていささかの眠りを求め候さふらひき。またの暁あかつきより波風なみかぜやや凪なぎしを覚え申し候さふらふ。この日も終日私は船室を出いでず、夕飯ゆふはんの時辛からうじて食堂に参り候さふらひしが、何ばかりの物も取らず人目醜きことと恥しく思ひ申し候さふらひき。唯たゞ明日あすの夜明よあけにシシリイ島、エトナの火の山などの見えんと云ふ話を得て船室へ帰り申し候さふらひしに、赤塚氏お出いでになりしかば、いろいろ昨日きのふよりの事を問ひ問はれ致し候さふらふ。ミユンヘン、ヰインの話をなほ後のち長き事として糸口いとぐち許ばかり語り居をりしも此夜このよに候さふらふ。巴里パリイと此処ここと未まださばかり時の掛け隔つまじと思ひ候さふらものからいとど悲しく、居給ふ間まの中を心はいく度たび歩み候さふらひけん。足音など或あるひは聞き給ひけん。夜よもすがら眠らず、前の甲板かふばんの朝掃除の音をそれと聞きし後のち、私は火の山見るべく甲板かふばんに上のぼり候さふらふ。誰たれにも逢はず、雨しきりに降り、風にしぶきて目も開あくまじく散り来きたり候さふらへば、縮緬ちりめんの上着の袖またたく間まにみにくく縮み申して候さふらふ。島も山もほのかなる青を見みするのみ。煙けむりかと思ひなしに思ふべきものもなきに失望致し申し候さふらふ。帰りてまた床とこの中に入いり申し候さふらひしが、うつらうつらと致し居をりて給仕が運び参りし時、悩ましき頭つむりを上げ申し候さふらふ。さ候さふらへど紅茶ならで番茶に梅干を添へたる給仕の心入れは嬉うれしと思はれ候さふらふ。なほ聞けば、この梅干は給仕が自身の母の持たせし品しななる由よしに候さふらふ。この少女をとめ鈴木と云ふ名なるよしに候さふらふ。厨夫長ちうふちやう見舞に見え、粥かゆを召し給はばいかになど云はれしかば、今日の昼より鶏卵たまごとそれを貰もらふ事に致し候さふらふ。さ候さふらへど私の取り得べき量を十倍もしたるばかりの粥かゆを白き平たき皿に盛りて鈴木の参りし時は呆あきれ申し候さふらふ。午後赤塚氏の診察を受け申し候さふらふ。脈の昂進こうしんし居をれる外にさばかり憂ふべき所もなしと語られ候さふらひしかば心やすくなり申し候さふらふ。君も嬉うれしとし給はんなど、昨日きのふ一昨日をととひの我わがさま知り給ふならねど思はれ申し候さふらふ。夕ゆふべも粥かゆを乞ひ申し候さふらふ。四日よつか目は朝より甲板かふばんに居をり候さふらひき。伊太利亜イタリアの山の色の美しきを見つつ、かの国を君と見歩くゆかりの無くやはありける。魔にみいられたる人よ、生命いのちを遥はるかなるあたりに置き、故郷ふるさとへ急ぐ船にあるよなど思ひ、両りやうの袖を胸の上に合せて、そこはかとなく歩み候さふらふに、寒色かんしよくの波に面おもてはとどまる期ご知らぬ涙を私に流さしめ申し候さふらふ。夕ゆふべまで只たゞ斯かく思ひ、夜よに入いりて赤塚氏の来給ひし時、船の余りに苦しければポオト・サイドの港に入いる日我や下船すべきなど浅はかなる訴へを致し居をり候さふらひき。私の心は其処そこに君を呼びまゐらせて再び巴里パリイの家に伴はれんと思へるにて候さふらひけん。初めてこの夜よ入浴致し候さふらふ。身内みうち拭ひ居をる時、前の窓より外なる波に月光のひたひたと宿れるさまを見候さふらふては、さすがに今ある境さかひの面白からざるにもあらず、絵の中のおのれかなど月並なる事をも思ふ程にて候さふらひき。君が眠り得ぬ夜のために飲むべく云ひ置き給へりしベルモツトはさすがに舌なれぬ心地、未まだ知らぬ酔ゑひの案ぜられも致され、赤の葡萄酒を紅べに色のカツプに一つつがせてのち床とこに横よこたはり候さふらふ。子の上に関かゝる憂うき夢より醒め候さふらひしは二三時の頃に候さふらひけん、月明あかく水色みづいろの船室を照てらし居をり申し候さふらひき。翌日甲板かんぱんに出いで申し候さふらふに、明日あすはポオト・サイドに着く日なりとて誰たれの面おもてにも少すくなからぬ色の動くを知り申し候さふらふ。彼処かしこにて恋人の文ふみ得うる人もあるべしなど、あやにくなることの思はれ候さふらて、ふと涙零こぼし候さふらふなど、いかにもいかにも不覚なる私わたくしに候さふらふ。さるはこの船の客人まろうどの中に花嫁となり給ふために海渡る人六人むたりありと云ふことを三重の君語り給ひしを知ればにも候さふらふべし。食事は邦人のコツクの手になる日本料理をこの日より船室に配らせ候さふらふ。安達夫人と共に船ばたに立ち居をり候さふらひしに、夕映ゆふはえの際立ちてきらやかに美しく見え申して候さふらへば、その奥なるアフリカの陸りくも思ひ遺られて微笑ほゝゑまれも致し候さふらひし。夜は舳先へさきに見る月の清らなること昨日きのふに異らず候さふらふ。ベツカ夫人鈴子すゞこの君の愛子まなご、マリイ、エヂツ、アンネスト、エレクの君達皆私に馴れ給ひ、就眠の際の御ご挨拶をも受け申し候さふらふ。母君はゝぎみの頼ほにキスして行ゆき給ふ愛らしさ、傍目わきめにも子を持たぬ人の覚え能あたはぬ快さを覚え申し候さふらふ。巴里パリイとははや三時間も時の違ひ候さふらふらん。味気あぢきなく候さふらふかな。我髪梳きて口そそぎ枕に就き候さふらふとき、君は未いまだカンパン・プルミエにある人人の画室に語り興じ居ゐ給ふらん、あるはパンテオンのキヤツフエに寒ければとてアメリカンなど飲みて居ゐ給ふらん、ピガルの広場の前の例の家の伊太利亜少女イタリアをとめの楽人にや聞きほれて居ゐ給ふらん。〔濁点付き井〕クトル・マツセの三階がいの暗き梯子をたどり上あがりて、部屋を開ひらき、手さぐりにダルメツトとりつつ灯ひを点じ給ひて後のちも、光及ばぬ隅の暗さを見入りて我をや切に恋ひ居ゐ給ふらん。二十七日の十時に船はポオト・サイド港に入いり申し候さふらひき。暑気俄にはかに加はり、薄き単衣ひとへとなりて甲板かふばんに居をり候さふらへど堪へ難くも候さふらふかな。安達御ご夫婦、富谷とみたに判事、山崎大尉の君、赤塚ドクトル達、皆船を雇ひて出いで行ゆかれ候さふらふ。私にも同行をお勧め下されしに候さふらへど、心進まづして留とゞまり居をりしに候さふらふ。船に来る商人あきびとの荷をベツカの君と見歩き候さふらひしが、鈴木に掛け合はさせ、縫ぬひ入れの壁掛二枚を買ひ申し候さふらふ。一つはクレオパトラと思はるる女王ぢよわうと男とが一樹じゆの下もとに空を仰ぎ居る図、もとより木の上には鳥形とりがた星形ほしがたの形象字あまたあるものに候さふらふ。今一つは駱駝らくだに乗りたる武者二人ふたり、馬に乗れる二人ふたり、一つおきに並びて鎗、刀などを振れる形のものに候さふらふ。馬は黒く、駱駝らくだは栗色に候さふらふ。人の顔もやや薄きと濃きと何いづれも代赭たいしやにて色少し変へあり申し候さふらふ。まことに此この商人あきびとども、石炭積みに来きたり居をれる人ども、何いづれも皆代赭たいしやならぬ色もなしなどと独り思ひ居をり候さふらひき。みすまるの玉たま、もとより硝子がらすに候さふらふべけれど、美しければ二人の娘の料れうに緑と薄紫の二掛ふたかけを求め候さふらふ。珠数じゆずにして朝に夕ゆふべに白き手に打ち揉むにも宜よろしからん。レモンを日に焼けぬまじなひに買ひ申し候さふらへど、おそらく君いまさぬ日にさるたしなみを続け得うべしと思はれぬ境さかひに候さふらふ。手の筋すぢを相さうする男も参り、英国の紳士達の前に片膝立てつついみじき占うらなひを致すさまも見え申し候さふらふ。二シリングとやらの価あたひ払はばよきよしなれど、私は恐ろしき事云はれんかと、ありのすさびにも心おびえ候さふらふて手を見みすることを惜しみ申し候さふらふ。午後いよいよ発𤍠致し申し候さふらふ。俄にはかなる暑さの身につらく覚ゆる故にて候さふらふべきなれど、船の動かぬが苦しきならんかなどとも思ひ申し候さふらふ。この国の煙草たばこの香かも病やまひせぬ日にてありなば慕ゆかしくもあらまし、日本人の売子うりこのそを勧め候さふらふにも今はうるさくのみ思ひ申し候さふらふ。石炭を積むこと終り、上下の甲板かふばんに張られし帆木綿ほもめんの幕取り去られ候さふらへば少しくむし暑さも直り、銭乞ふ群むれの船に乗りて楽の音ね立つるなどもやや面白く思はれ申し候さふらふ。六時に碇いかりは抜かれ候さふらふ。嬉うれしと思へるは私わたくし一人ひとりなるやも知らず候さふらふ。ピラミツト形したる塩の山、白き、鼠色、黒になりたるものあるを左右に見つつ、船は運河に進み入いり候さふらふ。君も見給ひし所ながら蘆の青やかに美くしく生おひたる河岸かはぎしに、さまで高からぬ灯火の柱の立てるなど、余りに人気ひとげ近きが斯かばかりの世界の関せきとも思はれ難がたく候さふらふよ。夜通よどほし河の景色を見つつ起きて明あかさんと云ひ給ふ君も無きにはあらず候さふらひしが、私は船の進行すると同時に窓の開かれし船室に帰り、朝よりもてわづらひし𤍠ある身体からだを横たへ申し候さふらふ。赤塚氏例のごと見舞ひ給ひ、今日けふ陸にての買物のしくじりなど真面目まじめに語られ候さふらふ。この夜中よなかには船の度度たびたび停とゞまれるを感じ申し候さふらふ。ゆきちがひになる船のためにか候さふらひけん。朝まだき外そとに出いで候さふらふに、左右なる砂山に数多あまた鴨の居る如く見えて駱駝らくだの眠り居るが見え申し候さふらふ。やや日たけ行ゆけば、その獣けものにうち乗りて往来ゆききするアラビヤ人なども多く見え候さふらふ。水色の波砂山の下に目ざむるばかりに見ゆるスエズ港に入いりて、この文ふみは出いだしまゐらせ候さふらふ。

(二)

かばかりの炎𤍠は未まだ知らぬ身なりしかなと、日も夜よるも苦しみ続け候さふらふ程は、この航海よ、我わが想像の外ほかなりし世界を歩むよと憎く、甲板かふばんに出いでて浪の起伏おきふしを見候さふらふことも悲しく、ベツドの中に朝より読書のみ致して髪も唯たゞ梳きて根束ねつかぬるばかりのさまにて居をり候さふらひき。旋風器せんぷうきの起す風はわが髪の雫しづくたるる濡髪ぬれがみとなるをすら救はず候さふらへば、その音おとの頭に響く音おとの愈いよ〱疎うとましく覚え、それも止とめ候さふらうては身は唯たゞ𤍠湯の中にあると思はばよからんと心を定め申し候さふらふ。さは云へ身の衰へ行ゆくを思ひ候さふらふて束つかの間まの眠ねむりをも得たき願ひに夜は何時いつも氷を頂きて寝いね申し候さふらふ。紅海に出でて四日よつか目の夜は睡眠の欲と外囲ぐわいゐの苦しさとに枕持ちて甲板かふばんの籐椅子を床とことしに出いで申し候さふらふ。灯ひの一つ二つ残れる広き所に散りぼひたる長椅子の上には、私より先に早はや三四人の人、白き団扇うちはを稀に動かしつつ眠ねむりを求めてあるを見受け候さふらふ。三十分さんじつぷんもその一人ひとりとなりてあり候さふらひけん。くらがりの海のものおそろしさも、衰弱の極きよくとなれる神経を刺すこと多く、はてはもとの𤍠湯の中に死なずして目を開ひらく魚うをとなり申し候さふらひき。其その頃私が人に打うち語りしことに心細き筋多かりしに候さふらふべし。明日あすの朝より印度洋の向むかひ風吹くと云ひて船員達の喜びて語れる夜のやや更けゆくに、早く私の船室の窓は風を運び初そめ候さふらふ。いかばかりの嬉うれしさに候さふらひけん。翌朝よくてうはわが室附づきの男女なんによの顔に血の気け多く見えしは思ひなしにや。運動会、競技の会、この日より続続ぞくぞく行はれ、私も漸やうやく船内を散歩しまはるやうになり申し候さふらふ。後方の下甲板したかふばんには何時いつも二十にじふを四五しごまで越せしと見るばかりの品ひんよき英国紳士十五六人、四五人づつ横の列つくりて手を取り合ひ足揃へて歩めるを見受け候さふらふが、この人達は香港ホンコンへ巡査となりて渡る人と云ふことを赤塚氏より聞きて知り申し候さふらふ。大英国は羨うらやむべき国よなど密ひそかに思ひ申し候さふらふ。この甲板かふばんへ藁蒲団わらぶとん敷き詰めて角力すまふの催しなどもありしよしに候さふらふ。私の室附づきの山中は五人抜きの勝利を得し由よしに候さふらふ。大阪生れの者にや梅やんとか云ふ優名やさなを呼ばれ居をる人がと可笑をかしく候さふらひき。ボオイの仲間ばかりならず白人の客人まろうども多く負かせしとかに候さふらふ。私の見候さふらひしは洗濯の競技にて、香港へ行ゆく若き人達に貴婦人の一部うち交りて、出火の際の水を運ぶ桶に七分の水を入れたると、洗濯石鹸しやぼん一つづつ前へ置き、ボオイが大籠に入れて穢よごれしタオルを持ち来きたるを、目に見分けず後うしろへ手をやりてその一つを皆の取れば初めの笛鳴り、中にも紳士はホワイトシヤツの袖口を厭いとひもあへずしやぶしやぶと洗濯を初め候さふらふ。地ぢの厚きタオルなれば、彼かのいひなづけの許もとに行ゆき給ふ中の一人二人ひとりふたりの姫達のために私はいたましき気の致し候さふらふ。審判長は鷲鼻わしばなせる英人の大僧正に候さふらふ。見る人見らるる人の笑ひ声の中にまた笛鳴りて、ボオイの引ける麻綱の上にタオルは乾ほされ申し候さふらふ。この競技の審判の陪審官は女の中より出いづるよし聞き候さふらひしかど、乾きし上にて決ることに候さふらへば、私はその儘まゝ帰り申し候さふらふ。前方の下甲板かふばんには水泳場の設けられあり候さふらふ。実は早はや四五日の前、紅海に入いりてよりの設備なりしことにも候さふらひけん、私は今日けふ迄知らざりしに候さふらふ。ベツカの愛女あいぢよマリイの君は黒の水泳服、ヱヂツの君はお納戸なんどの服着て船長に泳ぎを習ひ居ゐ給ふを見申し候さふらふ。男女をとこをんなと一時間おきに代るよしに候さふらふ。向むかひ風の日になりたりとは申すものの有るは印度洋に候さふらふ。額髪ひたひがみの湯のしづく落す苦しさも昼と夜に一度づつは嘗なめ申し候さふらふ。ベツカ夫人、君は寿命のあり給はばコロンボに上陸し給ふやと或ある日私を諷ふうし給ひ候さふらふ。心弱き人は醜くも候さふらふかな。子を見ん命、君を見ん命のさばかり惜しく歎かるるにて候さふらふべし。明後日あさつてコロンボに入いると云ふ日の夜、音楽会のありとてベツカの君誘ひ給ひたれば、例れいは波の音おとに唯たゞ聞き耽ふけりて過ぎし日のまぼろしを追ふ頃を、髪上げ衣きぬ更かへて甲板かふばんに出いで申し候さふらふに、はや会場の整ひ居をり候さふらふて、私は招かるる儘まゝに大使の姪とやらん聞えたるスペインの貴婦人に並びて前列の椅子に着き申し候さふらふ。飾かざり電気の灯火常つねよりも倍したる明るさをもて海のくらがりを破るありさまは、余りなる人の子よと竜神わたつみの怒いからずやなど思ひ申し候さふらふ。初めの程のピヤニストの勝すぐれたれば声曲家せいきよくかは皆色いろなく見え申し候さふらふ。かの香港ホンコンへ志し給ふ若き人達の中よりも弾手ひきて歌ひ手の代かはる代がはる出いで候さふらひしは物優しき限りに覚え申し候さふらふ。中に至りて大僧正の君立ち給ひ、この程の競技に勝ちたる人人を呼び出すを、そが美しき夫人、一人一人ひとりひとりの手に賞を与へ申し候さふらふ。一人ひとりにて十四五の賞得しはかの香港ホンコンへの君達の中にて候さふらひき。それより後方の甲板かふばんに立食場りつしよくじやうは開かれ、案内致されし私は僧正の君の勧めにて、サンドウヰツチ、アイスクリイムなどの御ご馳走を戴き候さふらふ。平野踊をどりの舞人まひびとと思はるる黒紋附に白袴しろばかま穿はきたるいでたちのボオイ達、こちたく塗れるおしろいの顔、出場でばを待遠まちどほげに此方彼方こなたかなたするが、夜よ目に変化へんげのものの心地もせられて可笑をかしく候さふらひき。遠州灘を夢の間まにとか云ふやうなる歌に合せる手は誰の附けしか知らず、四人の舞人まひびと二人ふたりづつからみ合ひ候さふらふ振ふりの奇妙さ、顔と顔擦する注文通りに合はぬ気の毒さ、中に座頭ざがしらと見ゆる端の舞手まひてはわが風呂を世話する男に候さふらふ。地ぢなる太鼓三味線の擲なぐらるる如き音たて申し候さふらふこと、彼かの倫敦ロンドンの地下の家にて聞きし印度楽インドがくの思はれて独り苦笑致し候さふらふ。その夜よ帰りてよりまた心地悪あしくなり申し候さふらふ。コロンボに着きしは九日こゝのかの朝に候さふらひき。木彫きぼりの羅漢達の如き人人船の中を右往左往し、荷上げの音かしましき中へ私はまたよろめきながら出いで行ゆき候さふらふ。窓の皆閉とざさるる苦しさ、港なる日は船室にあるにもあられぬために候さふらふ。妹の料れうにとて宝石二つ三つ求め候さふらひしは土地にて名の知られし商人あきびとに候さふらふやらん、我等を見て日本の大使、公使、大だい武官、小せう武官、学者、実業家の名刺を数知れず見せ候さふらふがうるさく候さふらひし。はては私のをも乞はれ、与へ候さふらふに、よき商人あきびとなりと云ふ筋を書けよと重ねて乞はれ候さふらひしかば、

この人は何をあきなふ恋人の紅あかき涙としろき涙と

と致して逃げ出いだし候さふらふ。此処ここにてもまた文ふみ得給ふ人多く候さふらひき。安達様御ご親戚の君ボンベイより来てあり給ふ筈はずなるが、昼過すぐるまで船へ見え給はず、夫人の心づかひし居ゐ給ひしはこの船の一日早く入港せし故とお気の毒に思ひ申し候さふらふ。午後は此この君達あらかた留守になり申し候さふらふ。残れるは小ちさき人伴へる婦人達のみ、さあらぬは私わたくしの如き病人に候さふらふ。スペインの君は幼き人二人ふたり伴つれたる身にて、なほ病やまひがちに弱げなるをいとほしく何時いつも見てあり候さふらふ。もつとも支那人のまめまめしき乳母は随したがへるに候さふらふ。結婚して六年間に六度むたび海越えて故郷ふるさとを見に行ゆくと云ひ居ゐ給へるを、思ふ儘まゝに事する憎き婦人なりと云ひ合へる男達もあるよしに候さふらふ。この君の室は私わたくしなどの室よりは一階下の食堂の隣に候さふらふ。やや広ければ特別室とせられ、価あたひも其れに添ひたるもののよしに候さふらへど、機関に近く窓の小さければ、特別は特別に𤍠き意なりしかなど船員を揶揄やゆしあるを見申し候さふらふ。新聞の届きしとて人の見せ給ふを見れば何いづれも既に巴里パリイの宿にて読みしものに候さふらへば、今更の如く水上すゐじやうに日月じつげつなしと覚束なさを歎かれ候さふらひき。今宵こよい出帆する予定の変りて明日あす未明に碇を抜く由よしに候さふらふ。錫蘭セイロンルビイ、錫蘭セイロンダイヤ、エメラルド、見切りて安く商あきなはんと云ひつつ客を追ひ歩き候さふらふ商人あきびとは、客室サロンの中にまで満ち申し、行ゆく処ところもあらぬ儘まゝに一隅いちぐうに小ちさく腰掛け居をれるに、後うしろの窓より貴婦人貴婦人レデイレデイと云ふ人人のあり候さふらふに、見返ればこれも宝の玉たま安げにざらざらと音させて勧むる群むれに候さふらひき。梛子やしを松と見れば唯たゞ大磯あたりの心地する海岸のホテルども、夜は木こがくれの灯ひの美しく見え申し候さふらふ。赤塚氏は父君ちちぎみへの御土産おんつとに菩提樹の実の珠数玉じゆずだまを買はんと再び船を雇ひて出いで行ゆかれ候さふらふ。夜は暑くるしき床とこの中に、西部利亜シベリアの汽車の食堂にありし二十はたちばかりのボオイの露人、六代目菊五郎に生いきうつしなりと思へりしに、今日けふ見し荷揚人足の黒人奴くろんぼの中に頭くるくると青く剃そりたりし一人ひとりがまたその六代目の顔してありしことなどを思ひ出いでて可笑をかしがり居をり候さふらひき。十日とをかの朝八時頃、𤍠田丸の此処ここに入港せしと云ふを聞き、私は心ときめき申し候さふらふ。去年こぞ君の乗り給ひたればとて今その影の留とゞまれるならねど、ゆかりはうれしくはた悲しきものに候さふらふ。行ゆき違ひたらばとの懸念より新聞など皆新嘉坡シンガポオルに置き来たりしとか、ボオイが彼かの船のことを云ひてあるうちに早はや私の船は進行を初め候さふらふ。なつかしき船は終つひに私の目に入いらぬものに候さふらひき。この日の夕飯は食堂のも日本料理なれば彼処かしこへ出いで給へとの人の言葉を反そむくも少し憎げなりと思ひ候さふらふうへ、物好ずき心ごゝろも進み居をり候さふらひけん、私は船に入いり候さふらうて後のち初めての洋装を致して下へ参り候さふらふ。料理は鮪の刺身、照焼の魚、鴫焼しぎやきの茄子なす、ひややつこ、薩摩汁などに候さふらひき。さ候さふらへど、この日は浪やや高く、殊ことに昨日きのふより今日けふまで一日一夜いちにちひとよの静止の後のちに候さふらへば、客人まろうど達は船酔ひがちに食事も進まぬ様やうに候さふらひき。赤塚氏朝夕二度来給ふこと変らず、独逸ドイツと仏蘭西フランスをかたみに賞ほめ合ふ事のみ致し、英えいは大国の風ありとのみをよき事にして話より何時いつも遠ざけられ居をり候さふらふも、こはこの小ちさき一室のみの事にて、まことは満船の客英人ならぬは敷島のやまとの国を故郷ふるさととして帰る七人と、独逸ドイツ人一人ひとり、西班牙スペイン人一人ひとり、仏蘭西フランス人一組の夫婦あるのみに候さふらふ。彼かれも英人なりと誇ほこりかに云ひし黒人くろんぼのドクトルはコロンボにて降りしに候さふらふ。

(三)

十月十四日かの午後の出来事を先まづ書くべきに候さふらはん。その前夜ぜんや私常よりも一層眠り苦ぐるしく、ほとほとと一睡の夢も結びかねて明かせしに候さふらふ。昼餐ちうざんを運ばれ、服薬を致しなどせし後のち、何程なにほどの時の間まにてもなく候さふらへど、意地悪き迄の深き眠りに落ちしに候さふらふ。目覚め候さふらひしは前の甲板かふばん、上の甲板かふばんに起りし騒音の神経を叩きしにて候さふらふ。多くの人の足音、入いり交まじる声、波ならぬ喞筒ポンプとも覚ゆる水の音、また桶より流す水の音、また例の火事の際の予習の初まりつれ、最上層の甲板かんぱんにてはボオトを降ろすならんなど、寝返りして目の開ひらきし瞬間に我わが思ひしは之これにて候さふらひき。

急ぎ足にて自室に帰り来給ひし安達氏が、夫人に、

「火事ぞ。」

と云ひ給ひし声よ、いかばかりの驚怖きやうふを私にも与へ候さふらひけん、思ひ出いづべくも余りに複雑に候さふらふ。されどまた、

「さばかりのものならねど。」

と続きて云ひ居ゐ給ふに聊いさゝか心落ち居候ゐさふらひぬ。この時起き上らんとする心ながら手の一つも私は動かず候さふらひき。いかなる際と云ふとも、この部屋に夜よも昼も籠こもれる女の一人ひとりを忘れ給はぬ人の幾人いくたりかはあるべし。溜息つくうちに、私は斯かく思ひ申し候さふらふ。ボオイの松本の顔の現あらはれ候さふらふ。

「煙の臭ひうるさしと思おぼさずや。」

「否いな。火は何処いづくにて。」

「右舷の客室サロン。」

「なほ燃えてあるや。」

「今少し。さらば、用おはさば召し給へ。」

この男の出いで行ゆきし後のち、何時いつの程にか我身の力附きたりと云ふよりも常に倍したる活気を覚え候さふらひて、私は手早く身づくろひを致し終り候さふらふ。

「與謝野の君、火のありと申すなれば、とにかく御身おんみ一つの用意ばしなさせ給へ。」

安達夫人は静かに帷とばりの外そとよりかく云ひ給ひ候さふらふ。紙入かみいれを唯たゞ一つふところに入れて廊下に出いで候さふらふに、此処ここは出水でみずのさまに水行ゆきかひ、草履穿ざうりばきの足の踏み入れ難がたく覚えられ候さふらひしかば、食堂の上の円き欄てすりに一人ひとりもたれ居ゐしに、安達氏、富谷とみたに氏など来給ひて、早はや消火し尽つくしたる如しと仰せられ候さふらふ。原因は電線の発火に候さふらひき。それより後のち二夜ふたよは満船蝋らふの火の光に夜を照てらし続けられ候さふらふ。くらがりの海を外そとに漏り難がたき弱き火を点つけて船の進み行ゆくさま、昔の遠洋とほやう航海のさまも思はれ申し候さふらひき。かかる時船ばたの燐りんの光の時得顔ときえがほに金光きんくわうを散らし候さふらふこと、はためざましく候さふらひき。カトリツクの尼君昨夜よべ紐にて燐りんを釣られしなど語る人もおはしき。喪もの国へ帰り行ゆく船と申す如き心地も此夜頃このよごろに深く身に沁み候さふらひしか。ピアノの音、蓄音器の声もせず、波の響ひゞきのみ凄すごげに立ち居をり申し候さふらふ。

公園と植物園に行ゆく事、乗物は自動車にする事、同行には船附ふねづきのドクトルの君または赤塚氏にお頼みする事、私も洋装する事など、新嘉坡シンガポウル入港と云ふ十六日の朝より、いく度たび、小林夫人と大事だいじの如く語り合はれ候さふらひけん。されどそれも皆夫人が足運び来給はるにて、私は此この日も甲斐なく寝台ねだいに横たはり居をりしに候さふらふ。昼前に久し振ぶりにて鬢びんにさし櫛ぐしする髪に結ひ上げ候さふらひしは、帽子の留針とめばりのために候さふらふ。鼠色の服を着け候さふらて、帽は黒の羅らを覆おほへるをして甲板かんぱんに立ち候さふらふに、私を不思議相さうに覗のぞき行ゆかぬはなく、恥はづかしく候さふらひき。いよいよ船の港に進み入いり候さふらふに、丸木船漕げる土人多く見え申し候さふらふ中に、十二三の子の一人ひとり乗りたるを見て、

「君の如き子よ。」

と小林氏の子息に私語さゝやき申し候さふらふ。光るに戯たはぶるると覚えて心も嬉うれしく候さふらひき。此この港に許嫁いひなづけを見給ふ三人みたりの花嫁の君の顔覗のぞき見ずやと云ふ人のありしは誰たれに候さふらひけん。桟橋に船の着き候さふらふに出迎への人多く、ほとほと百に余り候さふらふ人の一時に船へ進み入いり候さふらふ。終つひに花婿の君達もそれと見分け得ず候さふらひき。此この頃より我心地悪あしくなり候さふらひしは陸の𤍠風ひたと船に迫り来きたりし故かとも思ひ候さふらふ。鈴木を尋ね、預けたる鍵を受取りて部屋に入いり、私はまた靴の儘まゝうち臥し居をることになり申し候さふらふ。此処ここにて必ず得うべきものと思ひし家よりの手紙を手にするを得ざりし力ちから落しも加はり候さふらひけん。小林の君、赤塚の君皆上あがり給ひ候さふらふ。四時頃に悩ましさのやや静まりたれば絵の具箱をもちて廊甲板らうかんぱんに座を取りスケツチを一枚いたし候さふらふ。たそがれと云ふもののなき辺あたりとは聞き候さふらひしが、絵筆を持てる時とてより強くその感を味あぢはひ候さふらふ。今日けふより点火されし遊歩甲板かんぱんの電灯の光にて、水色の麻のナフキン、象牙の箸、象牙の櫛など勧めらるるが儘まゝにあがなひ候さふらふ。初更しよかうの頃、甲板かふばんの長椅子に居をり候さふらふに、オルレアンやツウルあたりの野の雛罌粟コクリコの花の盛りの目に見え候さふらうて私は泣き申し候さふらひき。尋ひろばかり隔たれる後うしろの方に居ゐ給ひし安達夫人の何事かと歩み寄り給ひしこそ恥しく候さふらひしか。

「雛罌粟コクリコの盛りの頃には猶なほ未いまだ一人ひとりして故郷ふるさとを見に帰るべき心ゆめ持たず候さふらひき。」

かく語りし時、彼かの君の御目おんめにも光る露の見え申し候さふらふ。

「明日あす領事の奥村氏が我等を招かんと云ひ給ひしが、曲げてその仲間に加はり給へ。今日けふ逢ひしに君の上うへをいとよく知り給へば。」

と、この時勧められ候さふらひき。今日けふの如く早くより支度したくせず、静かに其その時までなし居ゐてなど心に思ひ候さふらひて、

「嬉うれしき事に思ひ侍はべり。」

と答へまつり候さふらふ。夜もすがら前の甲板かふばんに荷を積む音の私を眠らしめず候さふらひしが、なほ其そのあたりに立働く人の上うへを思はれぬに候さふらはねば腹も立てず候さふらひき。翌日は朝より赤塚氏の訪とひ来給ひてさまざまの興ある話を聞かせ給ひ候さふらふ、昨夜よべの散歩に天草辺あたりより来きたれる哀れなる女達の住める街を通り給ひて、門涼かどすゞみせる二人ふたりの女の故国人ここくじんと見て語りし身の上話などにて候さふらひき。

領事館のあるは市の外そとなる山の中にてほぼ三里の路みちに候さふらふ。自動車にありて二十分が程に我眼の見し所のもの総すべて珍しからぬはなかりしこと、幾多の西の国にも勝まさり候さふらふ。裸体はだかの車夫が引ける武者絵の人力車に相乗あひのりせる裸体人はだかびと、青物市場いちばなどに見る如き土間に売品ばいひんを並べたる商家よ、中形ちゆうがたの湯帷巾ゆかたを着たる天草女をんなよ、あなさがな、悪きは数へ候さふらふまじ。焔の木と云へるアカシヤに似たる大木の並木が附けし火の雲、二月の花、三月の花、はた楓の紅葉もみぢの盛りを仮にも紅あかしと思ひ候さふらひけん、かばかり積極的なる植物はまだ見知らず、魂を奪はれ候さふらひき。

奥村氏の家は青銅色いろに塗られしものにて、突出つきだされたる楼上ろうじやうの間まの八方はつぱうは支那簾すだれに囲はれ、一間けん二間けんそれの掲げられたるより、なつかしき雛罌粟ひなげしの色せる絹笠を被きたる灯火の見ゆるを下より仰ぎ見候さふらひし時、いかばかり心をどり候さふらひけん。欄らん近き籐椅子に倚より候さふらふに、見渡さるる限りのオレンヂの森、海のやうにて、近き庭には名も知らぬ百花、百花と云ふ字の貧弱なることよ、万花ばんくわとや申し候さふらふべき。宿り木、蔓かづらなどにて少すくなくも一木ひとぎに五色ごしきの花附けぬはなく候さふらへば、実れる木も多く、葉の紅葉もみぢはた雁来紅がんらいこうの色したる棕櫚しゆろに似たる木など目もあやに夕闇に浮び居ゐ申し候さふらひき。夢ごこちなる耳に遠方をちかたの虫の声の入いり来きたりしこそ云ふよしもなき艶なまめかしさを感ぜしめ候さふらふ。日本食のかずかずの御おん料理頂きしよりも猶なほ主人夫妻の君の私をもてなし給ふ厚さの嬉うれしく候さふらひき。帰り候さふらふ時、車に乗りし私に、「夫人よ、心強く持ちてあり給へ」など云ひ給ひ候さふらふ。望まれて書きし歌に君のことの思はず出いで来きたりて、密ひそかに拭へりし袖の雫や見られ候さふらひけん。卓にかざられし緋と桃色のホノルルの花を束にして私等女三人をんなさんにんに取らせ給ひ候さふらふ。新婚し給ひて一月ひとつきとか云ひ給ひし郵船会社支店長某氏の夫人に、

ホノルルは何を祝ひて咲くやらん此この若き日の妹いもと背せのため

と書きて贈りしその花に候さふらふ。奥村氏の前庭ぜんていの紅木槿垣べにむくげがきに這はひまつはりしもその花に候さふらふ。翌日は早はやほろほろと船室の中に紅べにを零こぼし候さふらふ。十八日に新嘉坡シンガポウルを出いで、二十三日に香港ホンコンに入いり候さふらふ迄また私は甲板かふばんを覗のぞかんともせず候さふらひき。気候は次第に冷ひやゝかになりセルさへ軽かろきに過ぐる心地する夜よもあり候さふらふ。新嘉坡シンガポウルにて積まれし数数かずかずの𤍠帯の果物は食事の度たびに並べられ候さふらふ。マンゴスチンと申す茄子なすの如き色形いろかたちせるもの、皮やむくべき、甘き汁を吸ふ事やすると惑ひ居をり候さふらひしに、鈴木の来きたりて、二つに竪たてに割りて中子なかごを匙さじにて食へと教へ申し候さふらふ。これを中中なかなか味よきものと私は覚え申し候さふらひき。機関長の君の見舞に見え、欧洲より極東まで寝て通り給ふ君などと諷ふうし給ひ候さふらふ。大阪の小野氏に此この船中にて初しよ対面を遂げんとはゆめ思はざりしことに候さふらふ。十二三年前に文ふみの上の交まじはりせし同氏は今新嘉坡シンガポウルより五六十里奥の山にて護謨ゴムの栽培に従事され居をるよしに候さふらふ。兄君あにぎみの病やまひ重ければとて大阪へ帰り給ふ不幸の際にいましけれど何時いつも話多くなり申し候さふらひき。初め船のドクトルの君より紹介せんと云ひ給ひし時、同じ姓持つ人、大阪の同じ町にありしが名の変り居をるにやと云ひ候さふらひしが、当りしも不思議に候さふらふ。香港ホンコンの夜の灯ひは珠玉なりと君のかねて云ひ給ひしが、この港に入いり候さふらひしは夕ゆふべも過ぎし頃にて、甲板かふばんへ出いでし私の目は余りのまばゆさに暈くらまむと致し候さふらふ。京の円山を十倍したる様やうにほのかに輸廓りんくわくの思はるる山の傾斜の木こがくれに建てられし館やかたどもに点ともれる青き火、黄なる火、紫の火、さては近き海岸の紅あかき火など波に映るさまは何人なんびとの想像にか上のぼり候さふらふべき。夜よる見しにつゆ劣らぬこの山の街の朝の眺めもまた嬉うれしきものに候さふらひき。されど支那商人の来きたりて真鍮の器うつは並べて商ふ、それはまだよし、孔雀の色に何時いつも変らぬ紺青こんじやう、青竹色あおたけいろのこちたき色を交へし絹の模様物を左右より見せ附けられ候さふらふが苦苦にがにがしく候さふらひき。赤塚氏など皆云ふ迄もなく上陸し給ひケエブルカアに乗り給ひしよしに候さふらふ。此処ここにても東京よりの文ふみは手に致さず候さふらひき。書き難がたき節ふしの起りつつあるにやあらんなど、思ひ候さふらひき。かくて漸やうやく明日あすの朝薩摩富士の見ゆべしと云ふ海に来きたり候さふらふ。これにて船中せんちゆうの筆ふでとどめ申し候さふらふ。かしこ。(十月廿七日)

晶子への書翰しよかん

雑誌レザンナルの主筆に頼まれて晶子が書いた「仏蘭西フランスに於ける第一印象」に就ついていろんな手紙を受取つた。東帰とうきを急ぐ晶子は第二第三の印象を書く暇も無く匆匆そうそうとして巴里パリイを見捨てたから、其その出立後しゆつたつごに受取つた其それ等の手紙の中の二三を訳して晶子へ送る事とする。晶子の批評が仏蘭西フランス中流の婦人に同情してあつた為に、反響は概おほむね其それ等の階級から起おこつた様やうである。初めの手紙は仏蘭西フランス女権拡張会の副会頭ブリユンシユ・〔濁点付き井〕ツク夫人から来た。

(一)

私わたくしは種種いろいろの新聞雑誌であなたに関した記事を非常な興味を以もつて読みました。其れから私は仏蘭西フランスの婦人に向むかつてあなたが甚だ厳格であつた事を苦痛を以もつて考察しました。想ふにあなたは我我われわれ同国人に就ついて少し早計さうけいに判断なさいました様やうです。勿論巴里パリイへ来られた外国婦人が公衆の間に散在して挑発的の化粧をした流行の人形に対して多く寛容でない事は私にもよく領解せられます。併しかしあなたに断言致します、其それ等が決して所謂いはゆる仏蘭西フランス婦人でないと云ふ事を。若もしあなたが我国の精神其その物である、真面目まじめな活動的の婦人を知らうとお考へになるならば、あなたが其それ等を何処どこにお見出いだしになるかと云ふ事を申上げる事が出来ます。女権論者は我国に存在して居ります。仏蘭西フランス女権拡張会は数千人の会員を有して居ります。夫人よ、私共の要求が何であるかと云ふ事をお知りに成らうとお望みですか。私は喜んであなたに其れを示すの光栄を有もつでせう。また御ご希望ならば私共の出版物をお送り致しませう。若又もしまたあなたが私の許もとにお出いで下さるならば、私の所持して居る種種いろいろの参考書類に由よつて私共の勢力如何いかん、私共の組織如何いかんを御ご覧に成る事が出来ると存じます。私が日本の温健な婦人改良論者であるあなたと御ご交際を得ると云ふ事は私の全まつたく感謝する所です。私は其その点に就ついてお互たがひの国語が相違して居るに関かゝはらずお互たがひの意見が領会りやうくわいし得られると云ふ事を信じます。(下略)

次の手紙は巴里パリイ市民中の一老紳士ジユウル・フレエル氏から来たものだ。

(二)

あなたが「仏蘭西フランスでの第一印象」と云ふ題でアンナル誌にお書きに成つたのを、私わたくしは最も溌剌はつらつたる感興を以もつて読みました。あなたの一般的批評は其その観察の深く且かつ大にして肯綮こうけいに当つて居る事を示して居り、併あはせてあなたの天才を引立たせて居ります。仏蘭西フランスの婦人に就ついてあなたが彼等の精神及び感情の質を善く叙述された事を私は感嘆致します。私は常に国民の中堅に住んで、あなたのお述べに成つた其それ等の者を最も親しく観察して居る七十五歳の一老人です。夫人よ、彼等は仏蘭西フランス国民の精粋せいすゐの位置を占めて居る者です。私は精粋せいすゐと云ひます。何となれば彼等自身の労作と生活の威厳とに由よつて、彼等は謙遜なる平和の中に名誉と廉直との情緒に包まれた団欒だんらんを形作つて居る家庭を成就した者ですから。又あなたの御ご意見の如く、たとひ教育は乏しくとも情操の質を価値あらしめる婦人を見出いだすと云ふ事、及び賞讃すべき犠牲的精神を以もつて子女を育て上あげる所の慈母を見出いだすと云ふ事は凡すべて此この単純なる階級の間により多くあるのです。又更に物質上の整理、経済上の種種しゆ〲の用意、幸福と歓喜との源みなもとである家政を好く按排あんばいする等の為に熟達した機敏を有もつて居る事も、此この階級を除いて何処いづくに発見せられるでせうか。

私は我我われわれの社会的約束例へば門閥、富、又は学校教育等に由よつて高い階級に置かれた様な婦人を敢て誹謗しようと欲するのでは無いが、私は以上の事を断言し得うると信じます。何故なにゆゑなれば高貴なる婦人を最も近く観る時は凡すべて偽造的である。凡すべて贅沢ぜいたくの陳列及び事事ことごとしき嬌飾けうしよくの其それ等よりも、卓越した機敏と貞淑な点を却かへつて卑ひくい階級の婦人に見出いだすのです。猶なほ此この問題に関しては複雑な討議を費さねば成らぬ筈はずです。

私は余りに傍径わきみちをしましたから最もう休やめませう。夫人よ、私は自分の驚嘆と敬意とを表明して、仏蘭西フランス婦人の上に与へられたあなたの非凡にして公明な批判に対する感謝をあなたに捧呈ほうていするのが此この手紙の目的でした。(下略)

次の手紙はマルセエユ市のヱム、デエと云ふ未婚婦人から来た。多分教育にでも従事して居る若い女であらう。

(三)

拝啓、夫人よ、あなたがアンナル誌にお書きに成つた「仏蘭西フランスに於る第一印象」を深い注意と新しい興味とを以もつて拝読しました。就ついてはあなたのお筆が与へた動機に因よる反省をあなたに向むかつて書送る事を年若き一仏蘭西フランス婦人にお許し下さい。私わたくしの認したゝめた所書ところがきが稍やゝ不完全ですから此この手紙が果してお手許もとに達するか否かを懸念しますが、併しかしあなたは巴里パリイに於て既に著名なお人ひとですから多分無事にお手許てもとに届くだらうと思ひます。著名な卓識ある一女ぢよ詩人に対して一小せう市民の娘が手紙を捧げると云ふ事は甚だ大胆に過ぎますが何卒なにとぞお許し下さい。実は以前から日本と云ふあなたの美しい国が絶えず私を引附けて居りました。私は其その優雅な島、菊及び蓮はちすの国に関し、種種いろいろの書冊しよさつの中にある美しい記載に由よつて読みました。そして最近数年の間に其その文明国民たる知識に由よつて一等国の中に重大な一地位を贏かち得た国民の住まつて居る其その国に一度遊びたいと云ふ事が私の希望であつたのです。

さて私があなたに手紙を捧げる事を敢あへてする理由は、あなたのお書きに成つた問題に対して仏蘭西フランス婦人の意見を知りたいと云ふ御ご希望をあなたの記事に見出いだしたからです。私は市民の中級に位置して居る女ですから、あなたが私共を対象とせられた感想文は特に私を感動させました。あなたは例へば英国婦人の為す如く仏蘭西フランスの婦人は其その権利を要求しない様であるとお述べに成りました。其れは真実です。併しかし兎とに角かく女権論者は我国に於ても非常な進歩を致しました。そして私一個人としては男子と女子との間が本来平等のものであると考へて居る上から女子も亦また選挙権を有すると云ふ如き日の早晩到来する事を期待して居ります。併しかし夫人よ、政治上や社会上の或ある位地が女子の自然の職務と一致しないでは無からうかと云ふ事をあなたはお考へに成りませんか。私には政治上の位地を占有した婦人は比較的深い注意と興味とを以もつて婦人自身の義務に竭つくす事が出来ない様に見えます。と云つて私共婦人を退化した因循いんじゆん卑屈の人種であると思ふのでは無いのです。教育に由よつて益ます〱自己を修養しようと望む仏蘭西フランスの若い婦人は現に非常に多数であると信じます。ああ夫人よ、私は有らゆる手段を以もつて自身を教育しようと力つとめて居る一人いちにんです。私は無智です。私には知らない事が沢山たくさんにあります。私は読書と研究に由よつて常に自身を完全にしようと心掛けて居ります。併しかし私は沢山たくさんな時ときがありません。而しかも時ときは只たゞ迅速に過ぎ去ります。私は何どうも未まだ私の時ときを整理する事を知らないのでせうか。ああ夫人よ、あなたの仰おつしやつた事は道理であると信じます。併しかし特に下婢かひなどの寡すくない、或あるひは全まつたく其それ等の者を有して居ない処ところの一婦人に於て家庭の仕事を節減する方法が何どうして有りませうか。私の理想はお説の如く、家庭の義務及び智識上の修養を融会ゆうくわいする事を知つた、教養ある敏活な一婦人と成りたい事です。又お説の如く子女の教育が母としての本質的の職能であると云ふ事は私にも信ぜられます。如何いかにも婦人は此このいたいたげな愛らしい者の精神に優良な原理と偉大にして善美な愛とを注ぎ入れて未来の社会を形作ると云ふ事に其その身を献さゝげねば成らないでせう。夫人よ、厚顔にもあなたに対して手紙を書いた事を何どうぞお赦ゆるし下さい。私に取つて会話の際に甚だ嫻雅かんがであると想像せられるあなたの国語を解しないと云ふ事は甚だ遺憾に存じます。猶なほ又またたとひあなたが私の国語を御ご承知に成りませんとしても兎とに角かく此この手紙の内容を御会得ごゑとく下さる事を私は希望致します。夫人よ、此この希望を何卒なにとぞ此この差出人にお許し下さい。

私は私共の国と格段に異つた美しい国の日本婦人と話したいと常に願つて居ります。日本婦人があれ程しとやかな形の好い固有の服装を次第に捨てようとして居ると云ふ事は真実ですか。夫人よ、私の尊敬と称讃とをお受け下さい。地中海の岸も甚だ好風景に富んで居りますから少しく其れを御ご賞玩にお出いでに成りませんか。(下略)

ミラノ

僕は往復二ヶ月間の割引二等乗車券を買つて伊太利行イタリイゆきの汽車に乗つた。仏蘭西フランスから瑞西スヰスへ入はひると最もう真冬の景色で枯残つた菊の花に綿わたの様な雪が降つて居た。襞ひだと云ふ襞ひだを白く曵ひいたアルプス連山の姿は予かねて想像して居た様な雄大な趣おもむきで無く、白い盛装をした欧洲婦人の群むれを望む様に優美であつた。其れに湖は未まだ凍らずに好いい御納戸おなんど色を湛たゝへ、最もう遊客いうかくの帰つて仕舞しまつた湖畔の別荘やホテルがいろいろに数奇すきを凝らした美しい建築を静かに湖水に映して居たのは目も覚さめる心地がした。冬ですら彩色いろ絵葉書で見た通りの色彩に富んで居るのだから、夏の湖畔は何どれ丈だけ豊麗な風致に満ちるのだか知れないと思つた。

少年の時に地理書で教へられた長い隧道トンネルを越えて伊太利イタリイへ入はひり、マヂオル湖に沿うて汽車の駛はしる儘まゝに風物は秋に逆戻りして、葡萄ぶだうの葉は赤く、板屋楓プラタアンは黄きな広葉ひろばを光らし、青草ぐさの氈かもの上に並んだ積藁わらによからは紫の陽炎かげろふが立つて居た。アロナ附近でベツクリンの絵の「死の島」は之これに由よつたのだらうと想はれる湖上の島を眺め乍ながら昼食ちうじきを取つて居ると、同じ卓へ向むかひ合せに着いた姉妹きやうだいの英国婦人の、少し容色きりやうの劣つた姉の方が頻しきりに拙まづい仏蘭西フランス語で僕に話し掛けて「日本は我わが英国と兄弟の国だ」とか「ゼネラル乃木が何どうだ」とか愛嬌あいけうを撒まいた。一体に他た国人の話す仏蘭西フランス語は僕等に仏蘭西フランス人のよりも聞取きゝとりよい。此方こちらも先方さきに劣らず拙まづいのだが、双方で動詞の変化などを間違へ乍ながら意思が通じ合ふから面白い。妹の方は顔を赤くして話す様な内気な娘だが、瑞西スヰスで棒の様な垂氷つらゝを見たことなどを語ると姉の方が其れを訳して聞かせた。互たがひに面倒な言葉を要する内容の話を避ける様にするのだから随分気の利かない会話許ばかりだが、食事が済んでも女達が席を去らないので終つひにミラノまで話し込んで仕舞しまつた。姉の方が伊太利イタリイのホテルの安心のならないことを僕に注意して、ヹネチヤでは自分達が先に行つて泊つて居る父の馴染なじみのホテルへ来る様にと言つたが、一等室に乗つて居る二人に書生旅行の僕が附合へ相さうに無いから其その親切を謝して僕はミラノへ降りた。

早速さつそく停車場ステエシヨンから遠くない「伊太利亜イタリアホテル」へ入はひつて行つた。ベデカアで読んで置いた中位ちゆうぐらゐのホテルだ。二日ふつか以上なら下宿並なみにすると主婦が言ふ。部屋代と三度の食事其他そのた一切を込めて二日で十フランと云ふ廉やすい約束で泊つた。僕の姓のヨサノから想像して主婦は僕を伊太利イタリイ人の子孫かと云つて笑はせた。明日あすの晩の、ヹネチヤ行ゆきの汽車の時間を下部ギヤルソンに問うて二十三時二十分と答へられたのには一寸ちよつと面喰くらつた。此この国には午前午後の区別が無いと予かねてベデカア氏に注意せられて居たのだが余り唐突だしぬけなので弱つた。見れば頭上の時計迄が二十四時間で書かれて居るのである。其れから僕の時計を五十五分進ませた。

夜食に鮎あゆのフライが出た。日本の様な風味だ。鶏にはとりにあしらつた米も日本米まいの様に美味うまかつた。壜びんの腰を藁わらで巻いた赤い葡萄ぶだう酒は何どうせ廉物やすものだらうが、巴里パリイで飲んだ同じ物より本場丈だけに快く僕を酔はせた。

ミラノは伊太利イタリイの大阪だ。商工業地として仏蘭西フランスの里昂リオンと同じ程度に活気に満ちた街丈だけあつて僕の様な風来の旅客りよかくには落着いて滞在の出来ない土地の様だ。町の名にダンテ、〔濁点付き井〕ンチ、ガリバルヂイ、マクマホンなどと耳慣れた偉人の名が附いて居るので忙せはしく見物して廻る者の記憶に便利である。先まづ市しの中央にある大寺院ドオモを訪とうた。是これ迄竪長いゴシツクを見慣れてた目に此この方形ほうけいに大きな伊太利イタリイ式ゴシツクの荘さう美と優美とを兼ねた外観に驚かされた。外壁ぐわいへきの上の彫像は二千躯くあると云ふが一一いちいちに好いい形をして居る。ベデカア氏は月夜げつやの光景を賞ほめたが、此この下で折柄をりからの時雨しぐれに立濡れた僕の感じも悪くなかつた。二万人を容いれ得ると云ふ堂内には、暗い中に立つた幾十の大石柱が四方の窓の濃麗な彩色硝子さいしきがらすから射さす薄明うすあかりにぼんやりと白しらんで、正面の聖壇には蝋燭の星が黄金きんを綴り、其その前の椅子には幾列かの善男善女が静しづかに黙祷もくたうに耽ふけつて居る。精進しやうじんの悪い僕も思はず靴音を偸ぬすんで歩まねば成らなかつた。

ドオモの前の広場には伊太利イタリイ皇帝としての奈破翁ナポレオンの騎馬の記念銅像があり、其処そこが各所に通ずる電車の交叉点丈だけに人と車で雑沓ざつたふを極めて居る。僕がドオモを出ると三人の怪しい男が寄つて来て、初めはポルトガル語で、其れから英仏両語で食事を一緒にしようなどと勧める。僕の顔は何どう云ふ訳か、兎角とかくポルトガル人に間違へられる。支那人シノワアと云はれるよりか余程よほど気持がいい。ポルトガルも今こそ衰へたれ、欧洲人の一部である。さて其それ等の男に口を利かれて、伊太利イタリイの険呑けんのんなのは之これだと思つたから、僕は答もせずにずんずんと附近の宏荘な商品陳列所じよ〔濁点付き井〕ツトリオ・エマヌエルの中へ入はひつた。其処そこを通とほり抜けて〔濁点付き井〕ンチの石像のある広場で絵葉書を買つて居ると横から口を出す奴がある。見れば今の三人だ。斯麼こんな奴に見込まれては溜たまらないと思つて、急足いそぎあしで伊太利イタリイ銀行の前へ出て折好く来合せた六号の電車に飛乗つてサンタ・マリア・デレ・グラツチイ寺じの方に向むかつた。

此寺このてらの式は何と云ふのか知らないが、赤煉瓦造づくりの大分だいぶ東洋臭い古い建築である。聖壇がモザイクで出来て居る。内院の廊の壁に坊さん達の肖像を濃厚な色彩で描かいたのが大半剥はげて居る。もう夕暮だつたが有名な食堂の壁画を観ることを許された。僕の此この地へ留とゞまつたのは実はロンバルド派の第一人にんたるレオナルド・ダ・〔濁点付き井〕ンチの此この「最後の晩餐ばんさん」の為であつた。一方に小さな窓が一つある許ばかりの暗い室だから善くは見えないが、僕は望遠鏡を取出して眺めた。模写コツピイで見て居たのと異ちがつて剥落はくらくを極めて居る。基督キリストの顔が女の様に描かかれて居た。

翌朝てうは早く出てブレラの美術館ピナコテカが開あくまで市内の各所を駆かけ歩いた。スフオルチエスコの古城こじやうは方形はうけいの珍しい城であつた。其後そのうしろの新公園を朝霧の中に濡れた落葉を踏んで凱旋門まで抜けたのは気持を清清すが〲させた。其処そこで逢つた三人連づれの小学の女生徒が黒い服に揃ひの青い帽を冠かぶつて背嚢はいなうを負うて居たのは可愛かあいかつた。一人は俗謡らしい物を歌ひ一人は口笛を吹いて其れに合せて居る労働者にも其処そこで逢つた。サン・ロレンツオ寺の頽くづれた古廊こらうも秋の季節に見るべき物である。

美術館ピナコテカでは沢山たくさんあるリユニイの絵を面白いと思つた。ラフワエルの「処女のマリア」は呼物よびものであるに拘かゝはらず芝居掛がゝつた有難くない絵であつた。〔濁点付き井〕ンチの作だらうと云ふ「基督キリスト」は一も二も無く〔濁点付き井〕ンチに決めて仕舞しまひたい程佳よい絵である。之これも女らしい基督キリストで、顔にも髪にも緑色を用ひたのが其の悲し味みのある表情に適して居た。

ヹネチヤ

午前四時にヹネチヤへ着いた。水の上の街は夜霧よぎりの中にぼんやりと黒く浮いて居る。乗客じようかくの少すくない夜汽車よぎしやから降りた三十人程の者は夜が明けて後のちに来る一銭蒸汽を待つ積つもりか大抵停車場ステエシヨンの待合室へ入はひつて仕舞しまつた。前の岸には五六隻のゴンドラが寄つて客を呼んで居る。三四人其れに乗る人もある様だから僕も其その内の一隻へ飛乗つた。いや飛乗らうものなら直すぐに顛覆てんぷくするに決つてるが、其れと見て岸に居る一人の立たちン坊ばうが船を押おさへて呉くれる。其処そこへ船の中から差出す船頭の手につかまつて徐そつと乗つたのだ。早速さつそく立たちン坊ばう君に五文銭一枚を与へねば成らなかつた。ゴンドラは軽く跳をどる様に水を切つて小さな運河へ入はひつた。天鵞絨ビロウドを張つた真黒まつくろな屋形やがたの中に腰を掛けた気持は上海シヤンハイで夜中に乗つた支那の端艇はしけを思ひ出させた。狭い運河の左右は高い家家いへいへで劃しきられ、前は暗やみと夜霧とで二間けんと先が見えない。運河は矢鱈やたらと曲り、曲り角の高い壁に折折をりをり小さな瓦斯がす灯とうの霞んでる所もある。出会ふ舟も無いのだが、大きな曲り角へ来る度に船頭が「ホオイ」と妙に淋しい調子で声を掛ける。あとはなみなみとした水を切る櫓ろの音許ばかりだ。一人乗つてる僕は大分だいぶ心細かつたが二十分の後のちに再び大きな運河へ出て詩人の名を家に附けたホテル・カサ・ペトラルカの門前へ着いたのでほつと安心した。門かどの鈴を船頭が稍やゝ久しく押してると、之これがヹネチヤ美人と云ふのだらう、目の大きく張つた、チチヤノの絵に見る様な若い女が寝巻の上に遽にはかに着けたらしい赤い格子縞の前掛まへかけ姿で白い蝋燭を手にして門を開あけて呉くれた。

一寝入ひとねいりしたと思ふ間まも無く寺寺てらでらの朝の鐘が遠近をちこちから水を渡つて響くので目が覚めた。窓の下が騒がしいのでリドウを揚げると運河には未まだ水色みづいろの霧が降つて居る。弱い朝日の光が霧を透すので青青あをあをとした水が、紫を帯び、其れに前の家家いへいへの柱や欄干や旗やゴンドラを繋ぐ杭くひなどが様様さま〲の色を映してるのが溜たまらなく美しい。そして騒がしいのは行ゆき交かふゴンドラの船頭の声であつた。

朝の食事を済すませてホテルの門を出ると、直すぐ半町ちやう程左に面白い形の橋がある。橋の両側も通路だが、中央の通路は両側に商家が並んで織物や土地の名物の硝子ガラスの器又はモザイクの細工物などを売つて居る。之これがヹネチヤに四百以上もある橋の中で第一に古くて名高いリアルト橋けうであつた。僕は其それを渡つて地図の示す儘まゝに右へ折れたが、細い路みちは突当つきあたると思ふと、左右に、又斜はすに幾筋となく分れ、橋又橋を越へて屡しば〱突当つきあたり、屡しば〱曲る。丸で迷宮の中を歩むのだ。男は然程さほど注意を惹かないが、行ゆき交かふ女が老おいも若きも引擦ずる様な広い裳ジユツプを穿はいて、腰の下迄ある長い黒の肩掛を一寸ちよつと中から片手で胸の所の合目あはせめを抓つまんで歩くのが目に附く。石井柏亭の気に入つたのは此この姿ステイルだと思つたが、僕には十数年前ぜんの日本の田舎ゐなかの女学生を見る様で野暮やぼ臭かつた。一体にヹネチヤ女と褒ほめるけれど目が大きいのと鼻が馬鹿に高い丈だけで色は青黒くろいし表情は沈んでる。尤もつとも柏亭君の滞在は長かつたから良家りやうかの女を見た上の批評だらうが、僕の短い逗留とうりう中では先刻迎へに出て呉くれたホテルの一人ひとり娘を除いた外ほかに美しいと思ふ女は見当らなかつた。

突然出た広場は歩廊ほらうのある大きな層楼で三方ぱうを囲まれ、一方に幾つかの円まる屋根と様様さまさまの色大理石を用ひた幾十の柱と五つの扉とを外にしたサン・マルコの大寺院が金碧朱白きんぺきしゆはくの沈雅な趣おもむきをした外壁ぐわいへきの絵を、前に立つた三つの大きな幡はたの上に光らせて居る。広場の中央には名物の鳩が幾百となく下おりて豆や菓子を呉くれる旅客りよかくを繞めぐり、肩や手に上のぼつて驚かぬものもある。歩廊ほらうの中にづらりと並んだ店から土産物を勧める声に振返りもせず、左に高い鐘楼を一瞥べつした儘まゝ僕はサン・マルコ寺じの煤色すゝいろをした扉を押して入はひつた。朝の勤行ごんぎやうが白い法衣はふえに金色こんじきの袈裟けさの長老を主座にして行はれてる最中であつた。初めて見るビザンチン式の建築やモザイクの壁画はゴシツクやルネツサンス式以外に古雅な特色を有もつて居る。案内者が頼みもしないに錠を開あけていろんな所を見せた。中二階の様な所へも上あがらせて高い壁画や天井画に接近させたが、出る時に一フランを強請ねだつた。隣にある昔の市長の住んだドガアルの宮殿はモネが此この春描かいた絵で見知つて居たが、僕の着いた当日は何かの節会せちゑで縦覧させない。美術館も休んでると聞いて向むかひの岸へ渡ることを止め、海岸へ出て真直まつすぐに北へ歩いた。アドリヤ海は春の様に霞んで碇泊してる大小の汽船は節会せちゑの為に満艦飾をして居る。僕はヹネチヤが海上の一覇は王として東洋に迄交通して居た貴族政治の昔を忍ばずに居られなかつた。絵葉書売うりと擬宝玉売にせだまうりとが煩うるさく行ゆき交かふ旅客りよかくに附纒つきまとつた。僕は何時いつしかコバルト色の服と猩猩緋しやうじやうひの胴衣ヹストンを着た此この国の青年海軍士官と仏蘭西フランス語で話し乍ながら歩いた。士官は中世から今迄引続いてる海軍造船所へ伴つれて行つて節会せちゑに関かゝはらず縦覧させて呉くれた。古代の船の模型などにも益を受けたが、門前にある希臘ギリシヤから持つて来た四つの大獅子おほじしの古い彫刻の方が僕には面白かつた。

ホテルで昼食ちうじきを済すませてからゴンドラを雇つてサンタ・マリヤ寺じを始め沢山たくさんなお寺廻りをした。大運河の両岸がんの層楼は何いづれも昔の建築で大抵は当時の貴族の邸宅だが、今はホテルや又は名も無い富家ふかの有いうに帰して、碧榭へきしや朱欄さては金泥きんでいの画壁ぐわへきを水に映し、階上より色色いろいろの大きな旗を靡なびかせて、川に臨んだ入口毎ごとにゴンドラを繋く数本の杭くひが是亦これまた青や赤に彩られて居る。船頭はフオスカリだの、ムシユコだの、バルバルコだのと昔の主人の貴族の名を呼びつつ其邸そのやしきを指点してんして教へた。仏蘭西フランス語を知つて居る船頭が其それ等の貴族の旧邸で今は美術品の製造所に成つて居る家家いへいへへ矢鱈やたらに船を着けて記念の為に縦覧せよと勧める。モザイクの製造所其他そのたを二三縦覧して土産物を買はせられたのに懲りて、後あとは何と云つても船から上あがらなかつた。夕方ホテルの裏に当る青物市場いちばや魚市場うをいちばを過ぎて最も奮い市街を散歩したが、狭い間口の雑貨店が不調和に濃厚な色彩を見せたのと、人間の風采ふうさいの甚ひどく穢きたないのとが上海シヤンハイの旧城内によく似て居た。此辺このあたりの狭い町角では薩摩藷いもや梨を茹うでて湯気ゆげの立つのを売つて居た。

三日みつか目には美術館でチチアノの「基督クリスト昇天」、「ピエタ」を始めチエボオロの画ゑを観み、又貴族政治時代の栄華をドガアルの宮殿に眺めたが、フイイレンチエ行ゆきの汽車の時間が迫つたから委くはしく書く余裕が無い。最後に昨夜の月明げつめいに何処どこからとも無く響くギタルの音ねを聞いて寝たのが何だか物哀ものがなしかつたことを附記して置く。

フィイレンチェ

ヂヨツト、ダンテ、ミケランゼロ、ボツカチオ、ラフワエル、アンゼリコ、バルトロメオ等とう芸術史上の偉人を多く出したフイイレンチエに来てアルノ河の岸に宿やどつた。彼寺かのてら、此邸このてい、皆其それ等古人の目に触れ、前の橋、後うしろの路みち、凡すべて其それ等偉人の足跡を印しるして居るのだと思へば予の胸は自おのづから跳をどる。

シニヨリヤの狭い広場が先まづ面白い。昔も今も市の中心として数す百の男女なんによが常にうようよとして居る前に、十四世紀初期の建築の粗樸そぼくな外観を以もつて城の如く屹立きつりつして居るのは、ヹツクチオ邸だ。其れと斜なゝめに対して右方うはうに聳そびえたウフイツチ邸は階下の広大な看棚ロオヂアを広場に面せしめて、其その中には希臘ギリシヤ羅馬ロオマ時代の古彫像が生ける如く群ぐんを成して居る。予はヹツクチオ邸の階かいを昇つて、〔濁点付き井〕ンチとミケランゼロ二人の意匠に成つた「五百人の広間」の色いろ大理石の装飾其他そのたを観み、更に隣のウフイツチ邸を訪とうて幾十室に満ちた絵と彫刻を唯ただ一瞥べつする丈だけに二時間を費した。

〔濁点付き井〕ンチ、バルトロメオ、ラフワエル、リツピ、チチアノ等の傑作の多い中に、チチアノの花神フロラ、ラフワエルの自画像、ヂヨツトのマドンナの前には暫しばらく低徊ていくわいせざるを得なかつた。数百の肖像画のみを陳ならべた室には〔濁点付き井〕ンチ、ミケランゼロ、リツピ等の肖像もあつた。ミケランゼロのデツサンやスケツチを多く蔵をさめて居るのも他たに類が無からう。伊太利イタリイ各派の名品許ばかりで無く欧洲各派の佳作も多数に蔵をさめられて居る。

予は和蘭ヲランダ派のリユウバンスに就ついて其その気魄きはくと精力の偉大、其その技巧の自由を驚歎し乍ながら、何となく官臭とも云ふべき厭味いやみのあるのに服しなかつたが、此処ここにある両幀ていの内の「バツカスの興宴きようえん」の超脱して居るのを観て初めて此この大画家が好きに成つた。愛神あいしんキユピツトに立小便をさせたなどは実に他た人を眼中に置かない遣方やりかただと思ふ。此この邸の裏から直すぐ対岸のピチ邸へ連接する為ためヹツクチオ橋の中央に長い石廊せきらうが架せられて居る。予は其れを越へてピチ邸の絵画館をも観た。

ウフイツチ邸に劣らぬ多数の名幅を蔵をさめた中にラフワエルとチチアノの傑作が最も多く、就中なかんづく予はラフワエルの円形の中に描いたマドンナが毫がうも宗教臭味しうみを帯びず、唯ただ画題をマドンナに仮かつて崇高優美な人間を描き出した見識と筆力とに敬服した。是これ等の諸邸は何いづれもフイイレンチエ歴代の貴族である。日本の岩崎、三井、安田の諸富豪、島津、毛利、前田、鍋島の各貴族が其その私邸と所蔵の美術品とを公開し若もしくは国家に寄附して一般に縦覧せしめるのは何いづれの日であらうか。

予はフイイレンチエの偉人廟パンテオンであるサンタ・クロス寺じの広場へ来てダンテの大石像を仰ぎ、寺内じないへ入はひつてヂヨツトの筆に成る粗樸そぼくにして雄健ゆうけんな大壁画に見恍みとれた。堂の四壁しへきにはミケランゼロ、ガレリヨ、マキアベリイ等とう芸術家、学者、政治家の墓が無数にある。ダンテのもあるが、真の墓はラヹンナにあつて此処ここのは名誉的空墓くうぼだ。

フイイレンチエ随一ずゐいちの大寺院ドオモは十四世紀以来数百年を費して大成し、伊太利イタリイゴシツク建築中最も著しい特色を有もつて居る。外観の配色は柔かい白と緑とより成り、何となく木造の感を起おこさせるが凡すべて石造だ。其その左側さそくの鐘楼も亦また荘麗である。予は屡しば〱此この門前を徘徊はいくわいして帰るに忍びなかつた。

予はもと貴族の邸やしきであつて後世牢獄とも成つた事のあるバルゼロの国立博物館を訪とうて、ミケランゼロのダ〔濁点付き井〕ツド其他そのたの彫像を観み、又其その最上の一室を占めたドナテロの諸作を観た。就中なかんづくドナテロのダ〔濁点付き井〕ツドの情なさけもあり勇気も智慧もある微笑びせうの立像に心を惹かされた。又有名なダンテの肖像をも壁画の中に仰ぎ見た。ダンテは頭巾づきんも上衣うはぎも共に赤かつた。

案内者は其その右手の女群ぢよぐんの一人ひとりがベアトリチエだと教へて呉くれた。併しかしベアトリチエは詩人が空想の女で史実には何の憑拠ひようきよもないらしい。ダンテもウフイツチ邸で見たラフワエルも美男子びだんしだが、之これが昔からフイイレンチエの男の型タイプなのであらう。今も此この土地の男にはダンテやラフワエル風の好男子が多い様だ。其それに反して女は皆ボチセリイの「春」に描かいた女の様に顔だちが堅く引緊ひきしまり過ぎて居る。

ボチセリイの「春」と云へば其れは此処ここの美術学校の絵画館で見る事が出来た。写真版で見た時向むかつて右手の蔦つたの葉を咬くはへた女の形を厭いやだと思つたが実物に対しても同じ感を失はなかつた。其処そこにはボチセリイの作も多くあつたが、ミケランゼロの彫像には巨大なダ〔濁点付き井〕ツドを初め多数に傑作を蒐あつめて居た。予は此処ここですつかり彫刻が好きになつて仕舞しまつた。羅馬ロオマへ行つたら更に此この感が深からうと想はれる。予はまた此この絵画館でリユニイが書いた「女人によにん水浴」の図を見て、近世のシヤヷンヌの画風の由来する所を知つた気がした。

ルネツサンス芸術の保護者であつた貴族メデイチ家けの霊廟をサン・ロレンツオ寺じに訪とうてミケランゼロの建築に良やゝ久しく陶然とした。種種しゆじゆの色いろ大理石を自由に使役して、此この高雅と壮大と優麗との調和を成就した彼かれの才の絶大さよ。此処ここには彼れの雄偉ゆうゐなる未成品「昼ちう」「夜や」「朝てう」「夕せき」の四像もあつた。予はフイイレンチエに来て初はじめてミケランゼロとドナテロの彫像を観み、さうして彼等の精神を真に黙会もくくわいした現代の天才は唯ただ一人ひとりのロダン翁であることを感じた。ロダンはミケランゼロの直系である。

下宿の主人ロツテイニイ夫婦は予を詩人だと聞いて非常に歓待して呉くれる。毎夜よ予を芝居や珈琲店キヤツフエへ伴つて行つて其その支払を何どう云つても予にさせないと云ふ様なことは、欧洲のホテルや下宿の主人にして珍らしい。一体に此この地の人は正直で親切である。なぜ僕はもつと早く来て此処ここに三月みつきも留とゞまらなかつたか。

巴里パリイを去らうとして

羅馬ロオマに七日なぬか、ナポリとポンペイに二日ふつかと云ふ駆歩かけあしの旅をして伊太利イタリイから帰つて見ると、予が巴里パリイに留とゞまる時日は残り少すくなくなつて居る。せめて今いま半年ねんも此処ここに遊んで居たいのだが家郷かきやうの事情は其れを許さない。俄にはかに心忙せはしくなつて来た。

告別の為に内藤とロダン翁を訪とうて、翁の手紙を受取つた大阪の水落露石みづおちろせきの伝言など述べ、露石から託された蕙斎けいさい漫画集を呈した。翁は画集を喜んで姑しばらく巻くわんを放たずに眺め込み、蕙斎けいさいの略伝を問うた後のち、日本人の名は覚えにくいからと云つて画集の末すゑに作者と水落君との名を記す事を望まれた。翁の談話中に多年巴里パリイに学んで居る彫塑家藤川勇造君の製作を近頃観たと云つて激賞して居た。

翁は自みづから案内して数室に亘わたる自分の製作を観せ、「何どう感じるか、自分は此この部分が好いいと思ふ。之これは不充分だ」などと一一いち〱謙遜する所なく自讃して聞かせた。其その中に日本の踊子「花子の首」は特に絹の小こ蒲団の上に横たへられて居た。翁のデツサン二百余点と十幾個の製作とを東京に送つて展覧会を開く相談は、目下もくか日本大使館の安達あだち峰みね一郎氏が引受けて東京へ帰つて居るが、翁は東京の有島氏とも協議して便宜に取計らふやう予に依頼された。翁は日本の外務省から通知があり次第荷造りをして発送すると云はれた。製作の中には「花子の首」をも加へると云つて居た。

詩宗しそうヹルアアレン翁を約束して置いた日に訪とうた。扉とを開あけて呉くれた快濶な女中に名刺を渡すと、気軽な詩人は直すぐに出迎へて握手し乍ながら「あなた方は此この遠方へ三度まで訪ねて下さつて初めてお目に掛かゝる事が出来たのですね」と云つた。内藤理学士と一緒に訪とうたのである。ロダン翁は老齢としの所為せゐで少し日常の事には耄碌まうろくの気味だから、逢ふ度に初対面の挨拶をしたり以前の話を忘れて居たりして訪客はうかくを困らすが、其れに比べてヹルアアレン翁が前に二度其その留守へ尋ねた予等の事を覚えて居て呉くれたのは嬉うれしかつた。

尤もつとも翁は五十幾歳の元気盛りだから七十三歳のロダン翁と一緒には云はれない。翁の書斎は予が見た此この国の他たの文学者の書斎に比べて非常に狭く且かつ質素な物で、六畳敷程の二室ふたまを日本の座敷流に真中まんなかを打抜き、其れに幾つかの大きな書棚や二つの大きな卓タアブル其他そのたが据ゑられて居るから、やつと四五脚の椅子を並べる空席がある許ばかりだ。予等の外に白耳義ベルジツクの青年詩人が一人先に来合せて居た。翁は自分の椅子を予に与へて暖炉シユミネの横の狭い壁の隅へ身を退ひいて坐られた。

室内は流石さすがに詩人の神経質な用意が行ゆき渡つて、筆一つでも歪ゆがんで置かれない程整然として居た。小さな卓に菊の花が活いけてあつた。四方の壁に幾十の小さな額が掛かゝつて居るが、見渡した所凡すべてが近頃の親しい作家の絵許ばかりであるのは一奇きだ。予が幾枚かの浮世絵を呈したので、談は日本画に移つたが、久しく東洋の研究に興味を有もつて居る翁が我わが浮世絵の作家の名を幾人もすらすらと列挙して「自分は春信をより多く好む」などと肯綮こうけいに中あたつた批評をせられたのは意外であつた。詩人レニエ氏の髭ひげも有名だが、ヹルアアレン翁の頤おとがひまで垂れ下さがつた口髭も名物である。翁は少し背を屈かゞめて其その口髭のある顔を前に出し乍ながら、予等の為に自家の詩に就ついて快濶に色色いろ〱と語られた。「或ある人は自分の作物さくぶつに東洋の思想と共通の点があると評したが君達は何と思ふか」と問はれた。又「自分の作物さくぶつを読んだ一外国人が自分に向むかつて印度へ旅行した事があるだらうと問ふから、否いなと云つたら、其れは不思議だ、あなたの或ある象徴サンボルに用ひた花が同じ様な意味で印度の何処どこかの門に描かれて居ると云つたが、全まつたくの暗合だ」とも語られた。

予は又晶子が翁に呈する為に残して置いた「春泥しゆんでい集」を翁に贈つた。翁は日本の三十一音から成るタンカを知つて居て「今も猶なほ如此かくのごとき素朴な詩の作られるのは懐かしい」と云ひ、其その装幀さうていの美を褒ほめて「之これが自分の書斎へ来た最初の日本の出版物だ」と云はれた。談は出版物に及んで「先年日本の書肆しよしの希望に任せて小さな一書を東京で出版した事がある」と語られたのは予等に取つて初耳であつた。予が先生の新しい詩集「戦そよぐ麦」の特別刷ずりを買つた事を告げたら「其れは好かつた。もう一月前に品切と成つたので此この某君などは買かい遅れた相さうだ」と傍かたはらの若い詩人を見て云はれた。

翁は日本の詩壇の近状を問ひ、仏蘭西フランスの象徴主義の影響した事を聞いて驚き、主な日本詩人の名を予等より聞いて書留かきとめられた。翁は死なない中うちに一度日本を訪問すると云はれた。翁の名を、ヹルアアレンと発音し、同じく白耳義ベルジツク人であるメエテルリンクをメテルランクと発音することを今日けふ翁に質たゞして知つた。翁は其その詩集「触手しよくしゆある都会」を其その初めに自署して予に与へられた。翁の夫人に会ふことを得なかつたが、翌朝てう翁と夫人から鄭重な礼状を受け取つた。夫人に捧げた日本の織物に対してである。

国立劇場コメデイイ・フランセエズを辞した老優ル・バルヂイが噂の如くポルト・サン・マルタン座へ入はひつて首席となり、文芸院学士アカデミシヤンアンリイ・バタイユの新作「炬火たいまつ」を演じると云ふので巴里パリイ初冬しよとうの劇壇は其その方へ一寸ちよつと人気を集めて居る。其れに巨万の慰労金を貰つて国立劇場を隠退した俳優は巴里パリイ市で興行することの出来ない規定があるのに、剛腹がうふくと我儘わがまゝとを極めた性格の老優が其れを破つてサン・マルタン座へ出たのだから、初日にはコメデイイ・フランセエズの役員が揃つて見物し翌日直ちに裁判沙汰ざたが持上つた。ル・バルヂイ氏に何どう云ふ言分いひぶんがあるか知らないが、新聞の上の批評では裁判の予測が衆口しゆうこう一斉に不利な様だ。

梅原と内藤と三人で「炬火たいまつ」を観たが、愛情の生活から思想の生活に復かへると云ふ筋の全体は甘く出来た作だが、部分に少しづつ面白い所を見受けた。舞台に出る男女が凡すべて医学界の名家であるのも目先が変つて居た。主人公たる老大医たいいを演じたのでル・バルデイの芸を予は初めて観たのだが、ムネ・シユリイ以外に円熟した老優としては如何いかにも此この人を推さざるを得ないと感服した。決闘の負傷に由よつて絶入たへいる迄の昂張かうちやうした最後の一幕の長台詞ながぜりふを斯かくまで醇化して森厳しんげんの気に満ち、一秒の隙すきも有あらせず演じる名優は仏国に二人ふたりと見出いだし難いと思つた。予は何となく故団蔵の俤おもかげを思おもひ出すのであつた。予は此この人が近く更に演じやうとするロスタンの「シラノ・ド・ベルジユラツク」を観ずして東に帰らねば成らないのを悲かなしむ。

此この前二月ふたつき程日本に滞在して居る中うち母堂の訃ふに接して巴里パリイへ帰つたシヤランソン嬢が再び予と前後して東京へ行ゆく筈はずだ。シベリヤを経るのだから予よりも先に着くであらう。嬢は富豪の女むすめで珍らしい日本贔屓びいきの婦人だ。殊ことに日本文学を愛して、日本語を巧たくみに語り、日本文をも立派に書く。源氏物語を湖月抄と首引くびびきで読んで其その質問で予の友人を困らせた程の𤍠心家だ。嬢は日本の文人と交まじはることを望んで居る。日本の文人が嬢をして失望せしめないならば彼女は永久桜咲く国に留とゞまりたいと云ふ希望をさへ有もつて居るのである。(十二月十日)

巴里より をはり

底本 / Source edition

底本:「巴里より」金尾文淵堂
1914(大正3)年5月3日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※「壽《じゆ》の字を中に書いた」の「壽」は、文意から新字にはあらためませんでした。
※底本の総ルビをパララルビに変更しました。被ルビ文字の選定に当たっては、以下の方針で対処しました。
(1)漢語の読みが明治大正期特有の場合は付す。
(例 寝台《ねだい》、未亡人《びばうじん》、旅客《りよかく》等)
(2)外国の土地や事物名等に片仮名を振っている場合は付す。
(例 巴里《パリイ》、珈琲店《キヤツフエ》等)
(3)和語や俗語の読みを当てた場合は付す。
(例 幸福《さひはひ》、簡短《てみじか》、井《ゐど》、流行子《はやりつこ》、厭倦《あき》、退散《ひけ》等)
(4)送り仮名に省略がある場合は付す。
(例 許《ばかり》、留《とゞま》る等)
(5)複数の読みがあったり、常用音訓以外の読みがあって、音読した際に読み誤る可能性が高いと判断される場合は付す。
振り仮名の表記が揺れている場合。
(例 前《まえ》/前《ぜん》、連中《れんちゆう》/連中《れんぢゆう》、甲板《かふばん》/甲板《かんぱん》、空地《あきち》/空地《くうち》、先刻《さつき》/先刻《さき》、発動機《モツウル》/発動機《モウツル》等)
平仮名と片仮名両方の表記がある場合。
(例 護謨《ごむ》/護謨《ゴム》、硝子《がらす》/硝子《ガラス》、麺麭《ぱん》/麺麭《パン》等)
※疑わしい表記の一部は、初出の東京朝日新聞ほか、「定本 與謝野晶子全集 第二十巻」講談社(1981(昭56)年)、「世界紀行文学全集」フランス篇、イギリス篇ほか、修道社(1971(昭和46)~1972(昭和47)年)、「鉄幹と晶子 第三号」和泉書院(1997(平成9)年)、「与謝野晶子研究」赤塚行雄、學藝書林(1994(平成6)年)を参考にしてあらため、底本の形を、当該箇所に注記しました。
※底本の組み版にはルビ付き活字が用いられたと思われ、これが、不自然なルビ付けの要因になったと推測されます。
※片仮名表記の揺れは、底本通りにしました。
※底本の写真、絵葉書、挿画および題字については、このファイルにはおさめていません。また、「裝幀及び挿画(徳永柳洲氏作)」も、同様に収録していません。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:武田秀男
校正:松永正敏
2011年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/002168_000320/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/002168_000320/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/002168_000320/

与謝野 寛、与謝野 晶子「巴里より」(新字旧仮名)、底本『巴里より』金尾文淵堂、1914年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002168_000320, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite