Soranoha

純粋小説論

じゅんすいしょうせつろん

横光 利一

もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない、と今も私は思っている。私がこのように書けば、文学について錬達れんたつの人であるなら、もうこの上私の何事の附加なくとも、直ちに通じる筈はずの言葉である。しかし、私はこの言葉の誤解を少くするために、少し書いてみようと思う。

今の文壇の中から、真の純粋小説がもし起り得るとするなら、それは通俗小説の中から現れるであろうと、このように書いた達識の眼光を持っていた人物は、河上徹太郎氏である。次に通俗小説と純文芸とを何故に分けたのか、別わけたのが間違いだと云った大通だいつうは、幸田露伴氏である。次に、もし日本の代表作家を誰か一人あげよと外人から迫られたら、自分は菊池寛をあげると云った高邁こうまいな批評家は、小林秀雄氏である。今日の行き詰った純文学に於て以上のような名言が文学に何の影響も与えずに、素通りして来たのは、どうした理由であろうかと、もう一度考え直してみなければ、純文学は衰滅するより最早やいかんともなし難いとこのように思った私は、この正月の五日の読売新聞へ、純文学にして通俗小説の一文を書いた。私の文章は、以上の人々の尻馬しりうまに乗ったまでで、何ら独創的な見解があったわけではない。しかし、今は、達識の文学者の中では、私の云ったような言葉は定説とさえなっているのであるが、言葉の意味は、さまざまな誤解をまねいたようであった。

今の文学の種類には、純文学と、芸術文学と、純粋小説と大衆文学と、通俗小説と、およそ五つの概念が巴ともえとなって乱れているが、最も高級な文学は、純文学でもなければ、芸術文学でもない。それは純粋小説である。しかし、日本の文壇には、その一番高級な純粋小説というものは、諸家の言のごとく、殆ほとんど一つも現れていないと思う。純粋小説の一つも現れていない純文学や芸術文学が、いかに盛んになろうと、衰滅しようと、実はどうでも良いのであって、激しく云うなら、純粋小説が現れないような純文学や芸術文学なら、むしろ滅んでしまう方が良いであろうと云われても、何とも返答に困る方が、真実のことである。

それなら、いったい純粋小説とはいかなるものかということになるのだが、この難しい問題の前には、通俗小説と純文学の相違を、出来る限り明瞭めいりょうにしなければならぬ関所がある。人々は、この最初の関所で間誤間誤まごまごしてしまって、ここ以上には通ろうとしないのが、現状であるが、それでは一層ややこしくなる純粋小説の説明など、手のつけようがなくなって、誰もそのまま捨ててしまい、今は手放しの形であるのは尤もっともといわねばならぬ。しかし、考えてみれば、純文学の衰弱は、何と云っても純粋小説の現れないということにあるのであるから、文壇全体の眼が、純粋小説に向って開かれたら、恐らく急流のごとき勢いで純文学が発展し、真の文芸復興もそのとき初めて、完成されるにちがいないと、このように思った私は、危険とは知りつつ、その手段として、純文学にして通俗小説の意見を数行書いてみたのである。

いったい純文学と通俗小説との相違については、今までさまざまな人が考えたが、結局のところ、意見は二つである。純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと、とこれ以外に私はまだ見ていない。しかし、偶然とは何か、感傷とは何か、となると、その言葉の内容は簡単に説明されるものではなく、従ってその説明も、私はまだ一つも見たことも聞いたこともないのであるが、しかし、事がこの最初で面倒になると、必ず、そんなことは勘かんで分るではないかと人々はいう。少し難しい言葉を使う人は、偶然のことを、一時性といい、偶然の反対の必然性のことを、日常性といっているが、感傷となると、これこそ勘で分らなければ、分り難い。先まずあるなら、一般妥当と認められる理智りちの批判に耐え得られぬもの、とでも解するより今のところ仕方もない。

私はこのような概念の詮索せんさくから始めるのは、面倒なので、通俗小説と純文学とを一つにしたもの、このものこそ今後の文学だと云ったのであるが、誤解を招いた責任は、私も持たねばならぬ。けれども、私の犯したこの冒険をせずして、純文学の概念に移ることは、容易ならぬ事業である。私はこの概念を明瞭にするためにここに罪と罰を引こう。ドストエフスキイの罪と罰という小説を、今私は読みつつあるところだが、この小説には、通俗小説の概念の根柢こんていをなすところの、偶然(一時性)ということが、実に最初から多いのである。思わぬ人物がその小説の中で、どうしても是非その場合に出現しなければ、役に立たぬと思うときあつらえ向きに、ひょっこり現れ、しかも、不意に唐突なことばかりをやるという風の、一見世人の妥当な理智の批判に耐え得ぬような、いわゆる感傷性を備えた現れ方をして、われわれ読者を喜ばす。先ずどこから云っても、通俗小説の二大要素である偶然と感傷性とを多分に含んでいる。そうであるにもかかわらず、これこそ純文学よりも一層高級な、純粋小説の範とも云わるべき優れた作品であると、何人なんぴとにも思わせるのである。また同じ作者の悪霊にしてもそうであり、トルストイの戦争と平和にしても、スタンダール、バルザック、これらの大作家の作品にも、偶然性がなかなかに多い。それなら、これらはみな通俗小説ではないかと云えば、実はその通り私は通俗小説だと思う。しかし、それが単に通俗小説であるばかりではなく、純文学にして、しかも純粋小説であるという定評のある原因は、それらの作品に一般妥当とされる理智の批判に耐え得て来た思想性と、それに適当したリアリティがあるからだ。

私は通俗小説にして純文学が、作者にとって、一番困難なものだと読売で書いたが、ここに偶然性と感傷性との持つリアリティの何ものよりも難事な表現の問題が、横わっていると思う。純粋小説論の難儀さも、ここから最初に始って来るのだが、いったい純粋小説に於ける偶然(一時性もしくは特殊性)というものは、その小説の構造の大部分であるところの、日常性(必然性もしくは普遍性)の集中から、当然起って来るある特殊な運動の奇形部であるか、あるいは、その偶然の起る可能が、その偶然の起ったがために、一層それまでの日常性を強度にするかどちらかである。この二つの中の一つを脱はずれて偶然が作中に現れるなら、そこに現れた偶然はたちまち感傷に変化してしまう。このため、偶然の持つリアリティというものほど表現するに困難なものはない。しかも、日常生活に於ける感動というものは、この偶然に一番多くあるのである。ところが、わが国の純文学は、一番生活に感動を与える偶然を取り捨てたり、そこを避けたりして、生活に懐疑と倦怠けんたいと疲労と無力さとをばかり与える日常性をのみ撰択せんたくして、これこそリアリズムだと、レッテルを張り廻めぐらして来たのである。勿論もちろん私はこれらの日常性をのみ撰択することを、悪リアリズムだとは思わないが、自己身辺の日常経験のみを書きつらねることが、何よりの真実の表現だと、素朴実在論的な考えから撰択した日常性の表現ばかりを、リアリズムとして来たのであるから、まして作中の偶然などにぶつかると、たちまちこれを通俗小説と呼ぶがごとき、感傷性さえ持つにいたったのである。けれども、これが通俗小説となると、日常性も偶然性もあったものではない。そのときに最も好都合な事件を、矢庭やにわに何らの理由も必然性もなくくっつけ、変化と色彩とで読者を釣り歩いて行く感傷を用いるのであるが、しかし、何といっても、ここには自己身辺の経験事実をのみ書きつらねることはなく、いかに安手であろうと、創造がある。事、創造である限り、自己身辺の記事より高度だと、云えば云える議論の出る可能性があるのみならず、何より強みの生活の感動があるのだから、通俗小説に圧倒せられた純文学の衰亡は必然的なことだと思う。純文学の作家にして、心あるものなら、これを復興させようと努力することは、何の不思議もないのであるが、それを自身の足場の薄弱さを立て直そうともせずに、大衆文学通俗文学の撲滅ぼくめつを叫んだとて、何事にもなり得ない。そこで最も文芸復興の手段として、私は純粋小説論の一端を書いたのだが、文学に於ける能動精神も、浪曼主義ろうまんしゅぎも、ここから、発足しなければ、いったいいかなる能動主義の立場をとり、浪曼主義の立場を取ろうとするのか、足場がぐらぐらしていては、恐らくどのような文学主張も、水泡に帰するにちがいあるまい。しかし、文学作品を一層高度のものたらしめ、文芸復興の足場を造るためには、最早や純文学では無力であるから、これを純粋小説たらしめる努力をしなければならぬとなると、またさらに第二の難関が生じて来る。それは短篇小説たんぺんしょうせつでは、純粋小説は書けぬということだ。先まず一例を上げて、通俗小説の持つ何よりの武器たるところの、感動の根源をなす偶然と感傷とについて云うなら、この偶然と感傷とに、純粋小説としての高度の必然性を与えるためにさえ、中島健蔵氏の云われる表現と生活との間に潜んだ例の多くの、「深淵しんえん」を渡らねばならぬ。しかも、その深淵は、ただに表現と生活との中間のみの深淵とは限らず、生活に於ける人間の深淵と、それを表現した場合に於ける深淵と、三重に複合して来るのであってみれば、小量の短篇では、よほどの大天才といえども、純粋小説を書くということは不可能なことになって来る。なおその上に、純粋小説としての思想の肉化を企てねば、高貴な現代文学が望めないとするなら、なおさら、百枚や二百枚の短篇ではどうするわけにもいかない。

しかし、ここで、一度小説というものの、生い立ちを考えて見るべき用が起って来る。私は純粋小説は、今までの純文学の作品を高めることではなく、今までの通俗小説を高めたものだと思う方が強いのであるが、しかし、それも一概にそのようには云い切れないところがあるので、純文学にして通俗小説というような、一番に誤解される代りに、聡明そうめいな人には直ちに理解せられる云い方をしてみたのだけれども、それはさておき、近代小説の生成というものは、その昔、物語を書こうとした意志と、日記を書きつけようとした意志とが、別々に成長して来て、裁判の方法がつかなくなったところへもって、物語を書くことこそ文学だとして来て迷わなかった創造的な精神が、通俗小説となって発展し、その反対の日記を書く随筆趣味が、純文学となって、自己身辺の事実のみまめまめしく書きつけ、これこそ物語にうつつをぬかすがごとき野鄙やひな文学ではないと高くとまり、最も肝要な可能の世界の創造ということを忘れてしまって、文体まで日記随筆の文体のみを、われわれに残してくれたのである。ここに、若い純文学者の心的革命が当然起らずにはいられぬ原因がひそんでいて、純文学の正統は日記文学か、それとも通俗小説か、そのどちらかという疑問が起って来た。リアリズムと浪曼主義の問題の根柢こんていも、実はここにあって、私などは初めから浪曼主義の立場を守り小説は可能の世界の創造でなければ、純粋小説とはなり得ないと思う方であるのだが、しかし、純文学が、物語を書こうとするこの通俗小説の精神を失わずに、一方日記文学の文体や精神をとり入れようとしているうちに、いつの間にか、その健康な小説の精神は徐々として、事実の報告のみにリアリティを見出すという錯覚に落ち込んで来たのである。この病勢は、さながら季節の推移のように、根強く襲って来ていたために、物語を構成する小説本来の本格的なリアリズムの発展を、いちじるしく遅らせてしまった。そうして、文学者たちは、純文学の衰微がどこに原因していたかを探り始めて、最後に気附いたことは、通俗小説を軽蔑けいべつして来た自身の低俗さに思いあたらねばならなくなったのであるが、そのときには、最早遅い。身中には自意識の過剰という、どうにも始末のつかぬ現代的特長の新しい自我の襲来を受けて、立ち上ることが不可能になっていた。このとき、文学を本道にひき上げる運動が、諸々方々から起って来たのは、理由なきことではあるまい。文芸復興は、まだこれからなのである。

文芸を復興させねばならぬと説く主張をさまざま私は眺めて来たが、具体的な説はまだ見たことがなかった。文芸を復興させる精神の問題は、今ここで触れずに他日にゆずるが、本年に這入はいって旺さかんになった能動精神といい、浪曼主義というのも、云い出さねばおられぬ多くの原因の潜んでいることは、何人も認めねばなるまい。しかし、これらの主張も皆それらは純粋小説論の後から起るべき問題であって、今、純粋小説を等閑なおざりにして文学としての能動主義も浪曼主義も、意味をなさぬと思う。その理由は、前にも述べた現代的特長であるところの、智識階級の自意識過剰の問題が横よこたわっているからであるが、いったい、浪曼主義と云い、能動主義を云う人々で、一番に解決困難な自意識の問題を取り扱った人々を、かつて私は見たことがない。この難問に何らかの態度を決めずに、どのような浪曼主義や、能動主義を主張しようとするのであろうか、疑問は誰にも残らざるを得ないのだ。一例を云えば、ここ三四年来捲まき起って来ていた心理の問題にしても、道徳の問題にしても、理智の問題にしても、すべてが智識階級最後の、しかも一番重要な問題ばかりであったのだが、浪曼主義も能動主義も、これらの問題から切り放れて、簡単に進行出来るものなら、それらは茶番にすぎまい。恐らく、今後いくらかの時間をへて必ず起って来るにちがいない真の浪曼主義や能動主義の文学は、心理主義の中から起って来るか、真理主義としての実証主義の中からか、個人道徳の追求の中から起って来るか、理知主義の中から起って来るか、どちらかにちがいあるまいと思うが、それがそうではなくて、ただどうしようもない感傷主義の中から、起って来たかのように見誤られる浪曼主義や、能動主義なら、むしろ消えるがために泡立ち上った前ぶれと見られても、仕方がないのである。わが国に現れた文学運動の最初は、いつもそのような運命に出逢であっているのだ。多分、今現れている能動主義も、今後起って来る浪曼主義の運動の中へ、一つに溶け込む運命的な剰余を当然持っていると見られるが、その浪曼主義にしてからが、法則主義への適合と、法則への反抗との、二つに分裂している状態であってみれば、いずれも実証主義への介意から出発した挙動と見ても、さし閊つかえはないであろう。けれども、それはともかく、浪漫主義ろうまんしゅぎである以上は、何らかの意味に於ける旧リアリズムへの反抗であり、新しいリアリズムの創造であるべき筈はずだ。メルヘン的な青い花の開花は、逃げ口上の諦念主義ていねんしゅぎと変化しても、悪政治の強力なときとしては致し方もあるまいが、しかし、いずれも新しいリアリズムの創造であるからは、法則に反抗した実証主義としての新しい浪曼主義がシェストフの思想となって流れて来た昨今の文壇面では、それと必然的に関聯かんれんする自意識の整理方法として必ずいまに起って来る新浪曼主義に転ぜずにはおられまい。能動主義も、作家が何かせずにはいられない衝動主義と見ても、我ら何をなすべきかを探索する精神であってみれば、知識階級を釘付くぎづけにした道徳と理智との抗争問題の起点となるべき、自意識の整理に向わなければ、恐らく何事も今はなし得られるものでもない。純粋小説の問題はこのようなときに、それらの表現形式として、当然現れねばならぬ新しいリアリズムの問題である。今、諸々の文学機関に現れている通俗小説と純文学との問題は、すべて純粋小説論であることはさして不思議ではないのである。

中島健蔵氏の通俗小説と純文学の説論、阿部知二氏の純文学の普及化問題、深田久弥氏の純文学の拡大論、川端康成氏の文壇改革論、広津和郎氏、久米正雄氏、木村毅氏、上司小剣氏、大佛次郎氏、等の通俗小説の高級化説、岡田三郎氏の二元論、豊田三郎氏の俗化論、これらはすべて、私の見たところでは、純粋小説論であるが、それらの人々は、すべて実際的な見地に立って、それぞれの立場から、純粋小説を書くために起る共通した利益にならぬ苦痛を取り除く主張であると見えても、さし閊つかえはないのである。それらは通俗小説を書けというのでは勿論もちろんない。現代の日本文学を、少くとも第一流の世界小説に近づける高級化論であって、先まず通俗への合同低下の企劃きかくと思い間違える低俗との、戦いとなって現れて来たのである。そうして、今はこの問題の通過なくして、文芸復興のどこから着手すべきものか私は知らない。恐らく、この現れは困難多岐な道をとることと思うが、作家共通の苦痛を除くためには、是非とも緊急なことであって、それなればこそ異口同音の説が形を変えて湧わき興って来たと見るべきで、私は新人として現れるものなら、主義流派はともかくも少くとも純粋小説をもって現れなければ意義がないと思うばかりでなく、旧人といえども、純粋小説に関心なくして、今後の成長打開の道はあるまいと思う。

ここで少し私は自分の純粋小説論を簡単に書いてみたい。今までのべて来たところの事は、誰にでも通じることであったが、以下書くことは、現代小説を書こうと試みた人でなければ興味のない部分に触れると思う。――今までの日本の純文学に現れた小説というものは、作者が、おのれひとり物事を考えていると思って生活している小説である。少くとも、もしそれが作者でなければ、その作中に現れたある一人物ばかりが、自分こそ物事を考えていると人々に思わす小説であって、多くの人々がめいめい勝手に物事を考えているという世間の事実には、盲目同然であった。もしこのようなときに、眼に見えた世間の人物も、それぞれ自分同様に、勝手気儘かってきままに思うだけは思って生活しているものだと分って来ると、突然、今までの純文学の行き方が、どんなに狭小なものであったかということに気づいて来るのである。もしそれに気がつけば、早や、日記文学の延長の日本的記述リアリズムでは、一人の人物の幾らかの心理と活動とには役には立とうが大部分の人間の役には立たなくなるのである。前にものべたように、人々が、めいめい勝手に物事を考えていることが事実であり、作中に現れた幾人かの人物も、同様に自分一人のようには物事を思うものでないと作者が気附いたとき、それなら、ただ一人よりいない作者は、いったいいかなるリアリズムを用いたら良いのであろうか。このとき、作者は、万難を切りぬけて、ともかく一応は幾人もの人間と顔を合せ、そうして、それらの人物の思うところをある関聯に於てとらえ、これを作者の思想と均衡させつつ、中心に向って集中して行かねばならぬ。このような小説構造の最因難な中で、一番作者に役立つものは、それは観察でもなければ、霊感でもなく、想像力でもない。スタイルという音符ばかりのものである。しかし、この音符を連ねる力は、ただ一つ作者の思想である。思想といっても、この思想を抽象的なものに考えたり、公式主義的な思考と考えるようなものには、アランの云ったように思想の何ものをも掴つかめないにちがいはないが、登場人物各人の尽ことごとくの思う内部を、一人の作者が尽く一人で掴むことなど不可能事であってみれば、何事か作者の企画に馳はせ参ずる人物の廻転面かいてんめんの集合が、作者の内部と相関関係を保って進行しなければならぬ。このときその進行過程が初めて思想というある時間になる。けれども、ここに、近代小説にとっては、ただそればかりでは赦ゆるされぬ面倒な怪物が、新しく発見せられて来たのである。その怪物は現実に於て、着々有力な事実となり、今までの心理を崩し、道徳モラルを崩し、理智を破り、感情を歪ゆがめ、しかもそれらの混乱が新しい現実となって世間を動かして来た。それは自意識という不安な精神だ。この「自分を見る自分」という新しい存在物としての人称が生じてからは、すでに役に立たなくなった古いリアリズムでは、一層役に立たなくなって来たのは、云うまでもないことだが、不便はそれのみにはあらずして、この人々の内面を支配している強力な自意識の表現の場合に、幾らかでも真実に近づけてリアリティを与えようとするなら、作家はも早や、いかなる方法かで、自身の操作に適合した四人称の発明工夫をしない限り、表現の方法はないのである。もうこのようになれば、どんな風に藻掻もがこうと、短篇たんぺんでは作家はただ死ぬばかりだ。純粋小説論の起って来たのは、すべてがこの不安に源を発していると思う。「すべて美しきものを」と浪曼主義者は云う。しかし、現代のように、一人の人間が人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなお且かつ作者としての眼さえ持った上に、しかもただ一途いちずに頼んだ道徳や理智までが再び分解せられた今になって、何が美しきものであろうか。われわれの最大の美しい関心事は、人間活動の中の最も高い部分に位置する道徳と理智とを見脱みのがして、どこにも美しさを求めることが出来ぬ。「われら何をなすべきか」と能動主義者は云う。しかし、いかに分らぬとはいえ、近代個人の道徳と理智との探索を見捨てて、われら何をなすべきであるのか。けれども、ここに作家の楽しみが新しく生れて来たのである。それはわれわれには、四人称の設定の自由が赦されているということだ。純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ。まだ何人なんぴとも企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ。新しい浪曼主義は、ここから出発しなければ、創造は不可能である。しかも、ただ単に創造に関する事ばかりではない。どんなに着実非情な実証主義者といえども、法則愛玩ほうそくあいがんの理由を、おのれの理智と道徳とのいずれからの愛玩とも決定を与えぬ限り、人としての眼も、個人としての自分の眼も、自分を見る自分の眼も、容赦なくふらつくのだ。私はこの眼のふらつかぬものを、まだそんなに見たことがない。いったい、われわれの眼は、理智と道徳の前まで来ると、何ぜふらつくのであろう。純粋小説の内容は、このふらつく眼の、どこを眼ざしてふらつくか、何が故にふらつくかを索さぐることだ。これが純粋小説の思想であり、そうして、最高の美しきものの創造である。も早やここに来れば、通俗小説とか、純文学とか、これらの馬鹿馬鹿しい有名無実の議論は、万事何事でもない。

しかし、純粋小説に関して、なお細こまかい説明をつけようとすれば、ここにまた次の新しい技術の問題が現れて来なければならぬ。それは自然の中に現れる人物(人間)というものは、どこからどこまでが小説的人物であるかという、残しておいたまことに厄介な解釈である。純粋小説論は哲学とここの所で一致して進むべきものと思うが、しかし同時にここから、技術の問題として、袂たもとを分けて進まねばならぬ。私は話意を明瞭めいりょうにするために、前からのべて来たところをしばらく重複させねばならぬが、いったい、人間は存在しているだけでは人間ではない。それは行為をし、思考をする。このとき、人間にリアリティを与える最も強力なものは、人間の行為と思考の中間の何ものであろうかと思い煩う技術精神に、作者は決定を与えなければならぬ。しかも、一人の人間に於ける行為と思考との中間は、何物であろうか。この一番に重要な、一番に不明確な「場所」に、ある何ものかと混合して、人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼とが意識となって横よこたわっている。そうして、行為と思考とは、様々なこれらの複眼的な意識に支配を受けて活動するが、このような介在物に、人間の行為と思考とが別わかたれて活動するものなら、外部にいる他人からは、一人の人間の活動の本態は分り得るものではない。それ故に、人は人間の行為を観察しただけでは、近代人の道徳も分明せず、思考を追求しただけでは、思考という理智りちと、行為の連結力も、洞察することは出来ないのである。そのうえに、一層難事なものがまたここにひかえている。それは思考の起る根元の先験ということだが、実証主義者は、今はこれを認めるものもないとすればそれなら、感情をもこめた一切の人間の日常性というこの思考と行為との中間を繋つなぐところの、行為でもなく思考でもない聯態れんたいは、すべて偶然によって支配せられるものと見なければならぬ。しかし、それが偶然の支配ではなくて、必然性の支配であると思わなければ、人間活動として最も重要な、日常性について説明がつかぬばかりではない、日常性なるものさえがあり得ないと思わねばならぬのである。これは明らかに間違いである。

こうなれば、作家が人間を書くとは、どんなことを云うのであろうか。純粋小説論の結論は、所詮しょせんここへ来なければ落ちつかぬのである。しかし、人間を書き、それの活動にリアリティを与えねばならぬとなれば、いかなる作家といえども、この難渋困難な場合に触れずに、一行たりとも筆は動かぬ。すなわち、人間を書くということは、先まず人間のどこからどこまでを書くかという問題である。すでにのべたように、人間の外部に現れた行為だけでは、人間ではなく、内部の思考のみにても人間でないなら、その外部と内部との中間に、最も重心を置かねばならぬのは、これは作家必然の態度であろう。けれども、その中間の重心に、自意識という介在物があって、人間の外部と内部を引き裂いているかのごとき働きをなしつつ、恰あたかも人間の活動をしてそれが全く偶然的に、突発的に起って来るかのごとき観を呈せしめている近代人というものは、まことに通俗小説内に於ける偶然の頻発と同様に、われわれにとって興味溢あふれたものなのである。しかも、ただ一人にしてその多くの偶然を持っている人間が、二人以上現れて活動する世の中であってみれば、さらにそれらの偶然の集合は大偶然となって、日常いたる所にひしめき合っているのである。これが近代人の日常性であり必然性であるが、このようにして、人間活動の真に迫れば迫るほど、人間の活動というものは、実に瞠目どうもくするほど通俗的な何物かで満ちているとすれば、この不思議な秘密と事実を、世界の一流の大作家は見逃がす筈はずはないのである。しかも彼らは、この通俗的な人間の面白さを、その面白さのままに近づけて真実に書けば書くほど、通俗ではなくなったのだ。そうして、このとき、卑怯ひきょうな低劣さでもって、この通俗を通俗として恐れ、その真実であり必然である人間性の通俗から遠ざかれば遠ざかるに従って、その意志とは反対に通俗になっているという逆説的な人間描法の魔術に落ち込んだ感傷家が、われわれ日本の純文学の作家であったのだ。この感傷の中から一流小説の生れる理由がない。しかし、も早やこの感傷は赦ゆるされぬのだ。われわれは真の通俗を廃しなければならぬ。そのためには、何より人間活動の通俗を恐れぬ精神が必要なのだ。純粋小説は、この断乎だんことした実証主義的な作家精神から生れねばならぬと思う。

私は目下現れているさまざまな文学問題に触れつつ廻まわり道をして純粋小説に関する覚書を書きすすめて来たが、人間をいかに書くかという最後の項には、触れることをやめよう。これは作家各自の秘密と手腕に属することであり、云い得られることでもない。唯ここでは、私は、自分の試みた作品、上海、寝園、紋章、時計、花花、盛装、天使、これらの長篇制作ちょうへんせいさくに関するノートを書きつけたような結果になったが、他の人々も今後旺さかんに純粋小説論を書かれることを希望したい。今はこのことに関する意見の交換が、何より必要なときだと思う。そのために、作家は延び上り成長するべきときである。浪曼主義者ろうまんしゅぎしゃも、能動主義者も、共にこの問題について今しばらく考えられたい。行動主義と自由主義については、その前に飛び越すわけには行かぬ民族の問題があるから、今は一先ずこれにはペンをつつしもう。今日本がヨーロッパと同一の位置にいるとは私には思えないからだ。私はヨーロッパの理智が、亜細亜アジアの感情や位置の中で、どこまで共通の線となって貫き得られるものかという限界を、前から考えてみたが、まだ今は我国のマルキシズムさえが、外部から見れば一種の国粋主義のごとき観さえ帯びている時代である。転向して来た作家評論家の行為も何となく一番自然に無理なく見えるのも、原因はここにあるのだ。これらの人の行為は、内部からばかり見るものではなく、外部からも見なければ、自然や人間に忠実な見方とはいえないと思う。日本人の思想運用の限界が、これで一般文人に判明してしまった以上は、日本の真の意味の現実が初めて人々の面前に生じて来たのと同様であるのだから、いままであまりに考えられなかった民族について考える時機も、いよいよ来たのだと思う。私に今一番外国の文人の中で興味深く思うのは、ヴァレリイとジイドであるが、ジイドの転向に反して、ヴァレリイの動かぬのはただ単に思想実践力の両者の相違とばかりには思えない。一人は分ったから動き、一人は分ったから動かぬのか、あるいは、一人は分らぬから動き、他は分らぬから動かぬか、そのどちらかであろう。しかし、分り、分らぬとは、どこが違うか誰も定めたのではない。ただ私には、亜細亜のことは自分は知らぬから、云わないだけだと云ったヴァレリイの言葉が一番に私の胸を打つ。ところが、わが国の文人は、亜細亜のことよりヨーロッパの事の方をよく知っているのである。日本文学の伝統とは、フランス文学であり、ロシア文学だ。もうこの上、日本から日本人としての純粋小説が現れなければ、むしろ作家は筆を折るに如しくはあるまい。近ごろ、英国では十八世紀の通俗小説として通っていたトムジョーンズという作品が、純粋小説として英国文壇で復活して来たということだが、我国の通俗小説の中にも、念入りに験しらべたなら、あるいは純粋小説があるのかもしれない。このごろ私はスタンダールのパルムの僧院を贈られたので読んでいるが、これは純粋小説の見本ともいうべきものだ。この作者は「赤と黒」とを書いているとき、すでにトムジョーンズを読みつつ書いたといわれただけあって、この「パルム」も原色を多分に用いた大通俗小説である。もし日本の文壇にこの小説が現れたら、直ちに通俗小説として一蹴いっしゅうせられるにちがいあるまい。純文学を救うものは純文学ではなく、通俗小説を救うものも、絶対に通俗小説ではない。等しく純粋小説に向って両道から攻略して行けば、必ず結果は良くなるに定っていると思う。純粋小説の社会性と云うような問題は他に適当な人が論じられるであろうから、私は今はこれには触れないが、しかし、純粋小説は可能不可能の問題ではない。ただ作家がこれを実行するかしないかの問題だけで、それをせずにはおれぬときだと思う事が、肝腎かんじんだと思う。

底本 / Source edition

底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
1981(昭和56)年6月~
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2002年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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横光 利一「純粋小説論」(新字新仮名)、底本『昭和文学全集 第5巻』小学館、1986年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002152_000168, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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