Soranoha

鼻の表現

はなのひょうげん

夢野 久作

はしがき

「鼻の表現」なぞいう標題を掲げますと、人を馬鹿にしている――大方おしまいにお化粧品の効能書きでも出て来るのじゃないかと、初めから鼻であしらってしまわれる方が無いとも限りません。

しかし「鼻の表現」の一篇は、そんな不真面目なものではないのであります。初めからおしまい迄、「鼻の表現」なるものを、大にしては人類の盛衰、小にしては個人の死活にも関する大問題として極めて真面目に研究を進めて行ったものである事を、前以って御断り致しておきます。

それならば、この「鼻の表現」の一篇は独特の研究に依よって編み出された新しい表現法であるかと云うに、これも左様さようでない事を御承知おき願わねばなりませぬ。

昔から人類の中うちには随分この鼻の表現という問題に就いて苦心研鑽を重ねた人が多いのであります。唯明らかに「鼻の表現」と銘を打って公表したり、又は直接に「これは鼻の事である」と裏書をしていないだけで、その道を得た人の多い事、そうしてこれに就いて述べてある心得の夥おびただしい事、書物だけにしても山を築くは愚か、殆ど想像も及ばぬであろうと考えられる位であります。

それならば何故なにゆえに「鼻」と名乗って研究しなかったか。又は如何いかなる仔細で「鼻の表現」として公表しなかったか。この仔細又は理由の在るところはこの全篇を読み終られましたならば成る程と膝を打たれるところがあるでありましょう。要するに「鼻の表現」の一篇はそれ等の受け売りであります。それ等の書物の中から必要に随って文句や意味を選み出しては綴り合わせ、綴り合わせては拾い出して、恰あたかも一個人の意見であるかのようにして研究を進めて行ったものに過ぎませぬ。

これは一つは、今日迄に遂げられた各方面の先覚者の研究が実に到れり尽せりで、新発見のつもりで研究を進めて行っても直ぐに鼻が閊つかえるからで、今一つは、この研究に一々独逸ドイツ式の例証を引いていたら、たった一つの問題の上に実に千百無数の各方面の説を積み上げなければならぬ事になります。それでは第一煩に堪たえません。それよりも註釈をそっくりそのまま受け売りにして説明致しました方が早わかりであると信ぜられるからであります。

前口上はこれ位に致しまして、早速さっそく本論に取りかかります。

鼻の使命とは?

――懐疑と解釈のいろいろ

鏡にうつる御自分の鼻を御覧になると、御満足御不満足は別問題と致しまして、鼻の恰好その物に就いて一種のぼんやりとした疑問を懐いだかれた方が些すくなくないであろうと考えられます。些くとも一生に一度位はきっと……

鼻ってものはどうしてこんなに高くなっているのか知らん……

何故こんな恰好をしているのであろう……

物を嗅いだり呼吸をしたりするほかには何の役にも立たないのか知らん……

なぞと考えられた御経験がおありになる事と想像されます。さもなくとも誰でも一寸ちょっと気になるものだけに、お茶受け話しか何かにこの疑問を持ち出して、結局は矢張りお茶受程度の無駄話に落ちてしまった……なぞいう御記憶も矢張り一生に一度位はおありになる事と推測されます。

ここで強しいて鼻なるものの正体に解釈を下しますといろいろな事になります。

人間万事を実用一点張りで解釈して行こうとする人は先まず……

「鼻というものは元来不必要なものである。平面の上に穴が二つ開あいているだけで結構用は足りるものである。耳朶じだが音を受ける程にも役に立たない。臭を吸い寄せる目的で高まっているものならば、もっとずっと長くなって穴はその先端になければならぬ」

というところに気付かれるでありましょう。

「これは大方鼻をかむという刺激が積り積ってこんな事になったのじゃないか」

なぞいう解釈を下している人もあります。

「しかしそれにしては鼻の頭が丸過ぎるし、左右の根っ株もふくれ過ぎている」

という事も同時に気付かれるであろうと考えられます。

これに反してもっと気取った人の中うちにはこんな解釈を下しておられる向きもあります。

「鼻というものは万有進化の道程に於て一つの有力な条件と見られている美的方面の原理に則のっとって出来たものである。一つは眉毛と同様に顔面の装飾のため。それから今一つは、その文化向上のプライドを何等なんらかの方法に依って標示したいという内的の刺激からこんな風に発達して来たものである。その証拠には下等動物程鼻が低くて、上等動物ほど鼻が高い。要するに鼻は、ピラミッドの芸術的価値と自由女神像の宗教的価値とを一つにした意味をもっているものである。鼻というものは只それだけのものである」

ところがもっと神経の鋭い人は、こうした断定があるにしてもまだまだ不満足が感ぜられるに違いありません。依然としてこの鼻に対して懐疑の念を持ち続けられるに違いありませぬ。

「たしかに何等かの使命を持っているものに違いない。もっともっと高潮した意義を含む存在の理由……人間の内的生活に対して何等かの深い関係を持っているもののように思われてならぬ……そうして又見れば見る程不思議な恰好……恐ろしく神秘的なもののような……同時に又恐ろしく無意義なるもののような……」

こうしてとうとう要領を得ずじまいに終られる方が多いであろうと考えられます。

しかしこの疑問に対してもっと突込んで研究して行こうというのは、いずれにしても余程の閑人か又はかなりの生まれ損ないでなければなりませぬ。この忙しい世の中に自分の鼻を睨んで考え詰めるというような人は滅多にあるまいと想像されます。

実際上世間では千人中の九百九十八人か九人位までは、生活の問題とその慰安或あるいは特別のお楽しみ筋なんぞのために寸暇も無い位頭を使っておられるように見受けられます。

「鼻の表現なんてあるかないか当あてになったものじゃない。あったにしたところが、持って生れた親ゆずりの鼻だ、動きの取れない作り付の鼻だ、鼻だけに惚れる奴がありゃあ格別、今日迄鼻の御厄介になって飯を喰った覚えはない。どうなろうとこうなろうといらざる心配だ。鼻の落ちない苦労だけで沢山だ。鼻の下の方がどれ位大切だか知れない。ひとの鼻の世話を焼いてるより自分の鼻糞でも掃除してろ」

とお叱りを受けそうであります。

こうなると鼻も可哀相で、折角顔のお城の御本丸に生うぶ声を挙げながらとんだお客分扱いにされてしまいます。

方向と位置と

――鼻の静的表現(一)

こんな御意見は詰まるところ、

「鼻は無いと困る。見っともなくて極りが悪いから」

というだけで、それ以上には鼻の表現の価値も権威も認められぬという事であります。

しかし如何程この意見を固守される方でも、御自分の鼻が御自分の向って行かれる方向を示している事だけは相違なく御認め下さるであろうと信ぜられます。

「どこへ行くんだ」

「鼻の向いた方へ」

なぞいった調子で、鼻がその持主の行く方向を示す事、船の舳じくと同様であるという事は、三尺の童子と雖いえども容易に認め得るところであります。

同時に鼻が時々自分というもののすべてを代表する意味に於て認められている事も明かな事実であります。

「この鼻様がいるのを知らぬか」

とか、

「この鼻を見忘れたか」

なぞいう古い科白せりふもある位で、大抵の場合自分というものを示す全権公使には鼻が指定されるようであります。

この二つの実例は何でもない事のようでありますが、鼻というものの表現……否、その鼻の持主のすべての表現と絶対の関係を持っているものであります。

しかし普通の場合に於てはそこまで重大な意義を認められておりませぬ。極めて軽い意味で前者は本人の意志を表明し、後者はその存在を提示するもの位にしか考えられておりませぬ。

その恰好と人物

――鼻の静的表現(二)

鼻は又その恰好に依ってその持主の性格、意志、感性なぞを表明しているものとも考えられておるようであります。それかあらぬか鼻にはいろんな名称があって、その名前を聞いただけでもその感じがわかる位であります。

尤もっともこれ等の名称は芸術家や人類学者又は骨相学者なぞが各おのおのその立場立場に依ってそのつけ方を違えているのだそうでありますが、鼻の表現の研究材料としてはその名前と感じだけがわかればよろしいのであります。

先ず和製では、野生的の勇気を表わす「獅子鼻」を筆頭に、意地の悪い感じを与える「鷲わし鼻」、お人好しと見られる「団子鼻」、無智を示す「蓮切鼻」、無能を示す「トンネル鼻」、慌あわて者を表白するという「二連銃」、むずかし屋を表明する「碇いかり鼻」(「怒り鼻」?)、分別を見せる「鉤かぎ鼻」、又は物々しい「二段鼻」、安っぽい「抓つまみ鼻」なぞいうのがあります。

意気筋では、よくは存じませぬが、江戸前の「ツンケン型」、上方式の「京人形型」、「オキャーセ型」、「アキマヘン型」、「バッテン型」なぞいうのが、その地方地方のこうした社会の気前を代表しているのだそうであります。

これを人類学的に分類致しますと、「アイヌ型」「コーカサス型」「モンゴリア型」「天孫型」「アレイ型」なぞの数種になる。いずれも本来はその文化程度を標示している筈のものだと申します。

一方舶来では各人種それぞれに共通の標準型があって、各その国民性もしくは民族性を代表しているそうであります。先ず上品な「希臘ギリシャ型」、勇敢な「羅馬ローマ型」、悪ごすそうな「猶太ユダヤ型」、高慢チキな「アングロサクソン型」、意地の強い「ゲルマン型」、単純な「スラブ型」、そのほかいろいろ。下って「ニグロ型」「食人種型」「擬人猿類型」、就中なかんずく「狒狒ひひ型」「猩猩しょうじょう型」なぞいうものがありますが、もうこの辺になると、呑のんだくれの異名か好色漢の綽名あだなか、又は進化論者が人類侮辱の刷毛序はけついでにつけた醜名しこなか、その辺のところがはっきりしません。先ず「赤っ鼻」や「潰れ鼻」又は「ポカン鼻」なぞいう病的表現と一所にここでは唯敬意だけ払っておく事に致します。

初対面の場合なぞは、この鼻の恰好から来る感じをソックリそのままその人の全人格の感じと認められている場合がたまにあるようであります。つまり鼻の恰好も一つの表現として見れば見られぬ事はないようであります。しかし鼻の方向や位置がその人の意志や存在を示す場合と違って、鼻の恰好が即ちその人の人格の表現であるとイキナリ決定して了しまうのは、あまりに早計でチト物騒ではあるまいかと考えられるようであります。

近来西洋では、

「学問のある女性の鼻の方が、学問の無い女性のそれよりも高い」

という統計が出来ているそうであります。つまり鼻の低い女性でも学問さえすれば鼻が高くなるという……まるで落し話しでありますが、「その人類の文化程度は建築物の高さとあらかた一致する」というのと同じ論法で真面目に伝えられているそうであります。

そんなところからみれば鼻の形と人間の素養、性格なぞとはまるきり関係が無いとは言えないかも知れませぬ――否、大いにあってもらいたいものであります。

学問のある人の鼻は高く、人格者の鼻は端正に、無学文盲の鼻はヒシャゲて、悪人の鼻はねじくれていたら、世界の文化はどれ位向上し、人類の生活はどれ位幸福になるか知れませぬ。さらに今一歩を進めて、すべての男女の鼻が義務教育終了程度、中等学校程度、専門学校程度、学士、博士、大博士程度とそれぞれ高さが違って行く位になったら、世界の文運はどれ位進展するか知れますまい。

ところが実際から見るとこんな事例は先ず認め難いのであります。それどころか却かえって正反対の現象がのべたらに上のぼって来るのであります。西洋人は生れながらにして日本人よりも学者という訳ではありませぬ。ニグロの中にも印伊インイ人を凌しのぐ学者がいるのであります。些くともこれは大勢同志を比較した統計で、ふだん出合頭であいがしらに鼻の高し低しを見てその人間の文化程度を測定するのは大間違いの初まりではあるまいかと考えられます。

尤も一方にこんな事実も多少はあり得ないと限らないのであります。

元来自分の鼻の恰好というものは存外に気にかかるものでありまして、一度鏡で見ておきますとどうかした時によく思い出すものであります。威勢のいい獅子鼻なぞを持っている人は、自分の鼻に対してもじっとしておられない場合が無いとも限らない。他人でも初対面の時なぞは一寸頼もしそうな鼻に思えて、ついおだてて見る気になる。一方不景気な抓み鼻を持っている人は、何だか顔を出しても出し栄ばえがしないような気がするし、他人も目星をつけないままについ引込思案になるような事がないとも云えませぬ。

ところでこれが何しろ長い間の事でありますから、チョイチョイそんな気になっているうちには幾分性格にも差し響いて来る。つまり自分の鼻の恰好に感化を受けるという事も全く無いとは保障出来ないのであります。これは顔付でも同様で、多少共にこの傾向を持った人が存外多いものではないかと考えられます。

しかしこれは何と云っても愚かな話で、何も自分の鼻の恰好に義理を立てて余計な苦労を求める必要はあるまいと考えられます。持って生まれた根性と持って生まれた鼻の恰好とは、偶然に一致していない限り全く無関係なものであります。いくら鼻に義理を立てようとしても、本心に無い事である限り、そうそうは立て切れるものであるまいと思われます。

事実上その例証はいくらでもあります。

高利貸のような凄い鼻を持っている人でも交際つきあって見ると存外無欲な人であったり、チョイとした愛嬌タップリの鼻の持主でも意想外に兇暴残忍な奴がいたりします。高徳な人の鼻の穴が正面から底まで見えたり、下司げす張った奴の鼻の恰好が芝居の殿様のようであったりするといったような実例はザラにあります。「人は見かけに依らぬもの」という格言が鼻にも通用するものであるならば、この格言の出来た理由の一つにこんな実例も加えて決して差し支つかえあるまいと思われる程、左様に多いのであります。

その人の先天的もしくは後天的の性格と鼻の恰好との間にはこれと云って取り立てる程の関係はない。

鼻の恰好から来る感じをその人の性格その他の表現と見るのは間違いと断定して大過は無い。

こうした判断のしかたは非常な危険を伴うものである。

という事はここまで研究して参りますと一目瞭然するのであります。

鼻と諦め

――鼻の静的表現(三)

以上は人体に於ける鼻の位置、高低、恰好等から見た鼻の表現の研究でありますが、この種の表現は元来固定的且かつ先天的なもので、人間の力で変化させる事は先ず出来ないものとなっております。蓮切鼻の人は死ぬまで蓮切鼻でいる。希臘ギリシャ型のを授かった人は睡ねむっている間も希臘型というのが原則として認められております。

そのために又ここに一つの鼻の表現に対して大きな誤解を持っている人が頗すこぶる多い事になって来ております。

即ち鼻は絶対に静的なもので、眼や口なぞのように動的な表現力は全然持っていない。耳と同様に一種の飾りに過ぎぬものと昔から認められている事であります。逆に云えば、人間の意志や感情又は性格なぞいうものは何の影響をも鼻に与え得ないという事になります。

これは一般の人々ばかりではありませぬ。かなり進んだ頭を持った芸術家でも同様であります。芝居のお化粧なぞを見ましても鼻の動的表現の方は初めから問題にしないで、只鼻の恰好に現われる感じばかりを活いかすべく苦心されてあるように見えます。

喜怒色に現わさずという事をすべての修養の根本、社交の第一義とまでに尊重して来た東洋の人々を相手とする芸術家の間に「鼻の動的表現」が問題とならぬのは、無理からぬと云えば云えぬ理由もあります。しかしこれと反対に表情を極度に誇張しようと努めている西洋の芸術家や婦人達の間にも「鼻の動的表現」、言葉を換えて云えば「鼻の表情」とでもいうべきものが独立して研究されたという事を未だ嘗かつて一度も承わった事が無いのであります。

活動やお芝居なぞを見ておりましても一層この感じを深く裏書きされるのであります。世界を挙げて人類は鼻の表現を一切打ち忘れて、鼻以外の表現法ばかりを研究しているものときめかかって差し支えないようであります。

大袈裟なところでは眉が逆立ちをしたり、眼が宙釣りになったり、口が反そりくり返ったりします。デリケートなところでは唇がふるえたり、眼尻に漣さざなみが流れたり、眉がそっと近寄ったりします。その他頬がふくれたり、顳顬こめかみがビクビクしたり、歯がガッシガッシしたりする。しまいには赤い舌までが飛び出して、上唇や下唇をなめずりまわし、又はペロリと長く垂れ下ったりします。

その上に足の踏み方、手の動かし方、肩のゆすぶり方、腰のひねり方、又はお尻の振り方なぞいう、顔面表現の動的背景ともいうべき大道具までが参加して、縦横無尽千変万化、殆ど無限ともいうべき各種の表現を行って着々と成果を挙げているのであります。

然るにその中央のお眼通り正座に控えた鼻ばかりはいつも無でいるようであります。只のっそりぼんやりとかしこまったり、胡坐こざをかいたり、寝ころんだりしております。精々奮発したところで暑い時に汗をかいたり、寒い時に赤くなったりする位の静的表現しか出来ない。たまに動的表現が出来たかと思うと、それは美味おいしいにおいを嗅ぎ付けてヒコ付いたのであったなぞいう次第であります。どちらにしても恐ろしく低級な、殆ど無いと云ってもいい位な表現力しか持たぬものとして、人類の大部分に諦められているようであります。

その中うちでもこの鼻の表現力に対する女性たちの諦め方は、特にお気の毒とも何とも申し上げようが無い位であります。

容色の美醜は特に鼻の静的表現、即ち鼻の恰好に依って大変な違いが出来て来ますので、鼻に動的の表現が無い限りどうにも誤魔化しようが無いのであります。然るに天はなかなかこの鼻を思う通りの美的条件に合わせて生み付けてくれませぬので、たった鼻一つで売れ口の遅れるような実例が方々に出来て来るのであります。このような女性は毎日鏡を見るたんびに、遺伝という学問を編み出した学者を呪ったり、自分の鼻に似た恰好の鼻を持っている肉親の方を怨んだりしておられます。又は白粉おしろいの濃淡や頬紅の掛け引きなんぞでせめて正面から見た感じなりと誤魔化そうと、明け暮れどれ位苦心惨憺しておられるか知れませぬ。

隆鼻術は、こんな方々のこんな心理状態が社会に鬱積して生み出した医道の副産物であります。もしこれが百発百中糝粉しんこ細工のように人間の鼻を改造し得る迄に発達致しましたならば、それこそ副産物どころでない、仁術中の仁術と推賞しても差し支えないであろうと考えられます。

動的表現能力

――鼻の動的表現(一)

これを要するに、眼や口と同様に数限りない表現が鼻にも存在するということを、確信を以て断言し得る人はあまりあるまいと考えられます。

しかし又それと同時に、鼻というものは絶対に動的表現の能力を持たぬものと断定し得る人もあまり沢山はありますまい。つまるところ、あると云えばあるような、無いと思えばないような位のところが最も常識的な考え方であろうと思われます。

ところでそれはそれでいいとして、もしこの鼻の動的表現、即ち「鼻の表情」と名付けられるものが実際に於て絶対に無いものとしたらどんな事になるでしょうか。

怒いかった鼻を持った人はどんなに柔和な表情をして見せても、鼻だけはいつも顔の真中でこれを裏切って「怪けしからん奴だ」という感じを相手に与えるもの……又貧相な鼻の人は如何に脂切った景気のいい人相をしていても内実はいつもピイピイ風車と他人に見られるものと思い諦めている人がもしあったとしたら、その鼻は如何に呪わしいものでありましょうか。

これに反して鼻の表情なるものがもし存在するとなりましたならば、そんな人にとっては実に天来の福音として歓迎されるに違いありません。

同時に女神像のような恰好の好いい鼻やエジプト犬のようなとおった鼻すじを持っていて、自分の鼻はいつも大得意で鏡を覗いている時の通りの感じを他人にも与えているものと信じていた人々にとっては、この「鼻の表現」の存在は実に青天の霹靂へきれきとも言うべき不安と脅威とを齎もたらすものでなければなりませぬ。

鼻にも表情がある。

美しい鼻でも心掛けようでは醜く見える。見っともない恰好の鼻でも了簡りょうけん一つでは美しい感じを他人に与える。うっかり出来ないと思われるに違いありませぬ。

さらに一歩を進めて、この鼻なるものは断じてそんな表現界の死物ではない。又は中風病みか鉛毒に罹かかった役者位にしか顔の舞台面の表現に役に立たぬものではない。他の眼や口なぞいう動的役者以上に多くの表現をそれ等以上に深刻に表現するものである。顔面表現の大立物である。

しかも顔面表現のみならず、その人の全身の表現と深厚なる関係を持っているものである。もしこの鼻の表現と鼻以外のすべての表情とが一致しない時は、その人の表現は全然失敗となる。その人の表情は尽ことごとくその純な美しさを失って決して相手に徹底せぬ。

もし又この鼻の表現を自由に支配して他の各部の表現と一致共鳴させる事が出来たならば、二重、三重、否、数重の意味を同時に表現することが出来る。芸術的の表現の場合なぞは殊ことにそうで、この技術を体得した人は千古の名優と称して差し支えない。又この事実を認めぬ時は如何に表情が巧みであっても後代に感銘を残す程の役者には絶対になり得ないものである事がわかったら、どんな事になるでしょうか。

更に更に一歩を進めて、この鼻の表現を研究し練磨し修養をするということが人生終極の目的と一致するものである。大は歴史の推移転変から小は個人同士の離合集散まで、殆どこの「鼻の表現」に依って影響され支配されぬものは無いときまったら、そもそもどんな騒ぎが持上るでしょうか。

鼻に表情があるということすら信じ得ない程に常識の勝まさった人々には、とてもこんな事は信ぜられますまい。要するに一種の詭弁きべんか又は思い違いの深入りしたものに過ぎぬ。邪宗信者の感話位のねうちしか無い話である。現代の文明社会に生きて行く人々又は芸術家なぞが真剣に頭を突込むべき問題でない。肩の表現すら西洋人に及ばぬ日本人が「鼻の表現」なぞ云い出すのは、一種の負け惜しみか山っ子ではないか位にしか考えられぬであろうと考えられます。

古人の研究

――鼻の動的表現(二)

鼻の表現の存在、表現の方法、及びその価値に就いての研究応用、及びその影響は昔から鼻が閊つかえる程存在している事は前に申述べた通りであります。

その権威は厳として宇宙に磅礴ほうはくし、その光輝は燦さんとして天地を照破し、その美徳は杳ようとして万生を薫化しております。唯これ等の事実が無意識の裡うちに認められて、無意識の裡に行われておりまするために、今日鼻の表現なる言葉を標示する事が、甚だ事新しい奇異な感じをそそるに過ぎないのであります。

事実上鼻の表現なるものに就いて真正面から堂々と論じてある例はあまり見当らないようであります。

しかしそれでも鼻という文字や言葉を使って鼻の表現の存在、方法、価値なぞいうものを端的に裏書してある実例はかなり発見する事が出来るのであります。

劈頭へきとう第一に掲げなければならぬのは、能楽喜多流の『舞い方及び作法の概要』と名づくる心得書の中に示されてある「鼻の表現」に関する一齣せつであります。

既に人が舞台に立って舞いを舞うという場合にその姿勢をどうしたら乱さずに保てるか、その眼や口の表現は如何なる心の落ち着きに依って正しく発露する事が出来るかという事から芸道の活き死にを説明してある中で「鼻」という項にこんな事が書いてあります。

鼻は不動のものなれば心するに及ばざる如くなれども、鼻うごめかすと俗にも云ふ如く心の色何となく此処ここに映うつるものなり、心に慢おこたりある時の如き最もよく鼻にて知らるゝものなれば意を止とどむ可べし(下略)

この能楽というものはその開祖以来代々の名人が受け継いでは演練し、演練しては研究して些すこしずつ改良を加えつつ次の代に残して行ったもので、つまり時代とか流行とかを超越した民衆最高の芸術的良心を対象物として永久に亘わたって完成に近付けて行かるべき民族的芸術だそうであります。それゆえにこれに就いて云い残された言葉は、いずれも数代を隔てて現出した名人たちが如何にもとうなずき合ったものばかり、一寸手軽く云っている一句でも、よく穿鑿せんさくして見ると非常に深遠重大な意義を含んでいるのだそうであります。

鼻の表現に就いての心得もその通りで、これだけの言葉のうちに代々の舞台上の聖人の惨憺たる研鑽の結果が籠こめられている事は申すまでもないのであります。

「心の色が鼻にうつる」

という事は取りも直さず鼻の表現の事であります。ここで成る程と早くも膝を打たれる人はやがてこの「心」と「鼻」とが如何に密接な「表現の関係」を持っているかという事を、如々実々に了解されるお方であります。

第一今の「鼻うごめかす」という事は、内心大得意の場合に「どうだ、おれはえらいだろう」という気持から鼻をうそうそさせる、又は「オホン」とか「ウフン」とかいう気分が鼻の頭の処に浮き出して来る事を云うので、別嬪べっぴんの奥様御同伴の時、競技で勝った場合、試験に及第した時、わけても芸自慢の方が舞台に立たれる時なぞによく見受けられる表現であります。

勿論この際その鼻の色合いや恰好は別にどうといって変化する訳ではありませぬ。眼や口とても格別鼻の表現に加勢をする訳ではないので、只チンと済ましてニッコリともしないのであります。そのままにこの気分がどことなく鼻の頭に浮き出して来るので、

「心の色が鼻にうつる」

とは如何にもよくこの間の兼ね合いを云い現わしてあると、今更に感心させられるのであります。さらに、

「心の底の慢おこたりが最もよく鼻に現われる」

という事は、本来この鼻の静的表現の中に自己の存在的価値を代表する意味がある。もしくは前に掲げました一説「人類文化向上のプライドを標示したいという内的刺激に依って出来た」という「鼻の進化論」なぞと関連しているように思われる。即ち鼻柱出現の第一の使命がその辺にあるために、こうした気分が動ややもすれば高潮して表現され易いのではないかと考え合わされまして、古人の研究の微妙さ又は鼻の表現研究の面白さに思わず一膝進めたくなる位であります。

意志、感情、性格

――鼻の動的表現(三)

しかし「鼻の表現」の実例はなかなかこれ位のものではありませぬ。小説、講談、文芸物、その他普通世間に云い伝えられていながら、鼻の表現としてはっきりと認められていない文句や言葉だけでもかなりの数に達するのであります。

「鼻にかける」という表現は、前の「鼻うごめかす」というのと同じような心理状態から出て来るものであります。「天下の色男は吾輩で御座い」なぞいうのがそれであります。持参金付きのお嫁さんなぞにもよくこの気持が出ているものだそうで、そのほか身分、容色、家柄なぞ、何でも本人の腹にあるものがこの気持ちの根拠地となるものらしく見受けられます。

「お天狗――鼻高々」なぞいうのは、この気持ちが今一層高潮して現われた場合の形容詞で、鼻が高かろうが低かろうがそんな事は些すこしもこの気持ちの表現に影響しませぬ。

これに反して「鼻じろむ」というのは、強敵にぶつかって「到底叶かなわぬ」と気が付いたり、又は物の見事にしくじったりした場合なぞに心の底の悲観や落胆が鼻に現われたもので、何だか鼻の頭の油の気や毒気がスーッと抜けて行くような気がするものだそうであります。

古い文章なぞに「鼻うちかむ」という言葉があります。これは何かに非道ひどく感激同情した涙ぐましい鼻の表現を形容したものらしく思われます。涙というものは沢山に出ると涙管から吸い込まれて鼻の方へ抜けて来るものだそうで、その辺からこんな言葉が出たものかも知れませぬ。お芝居で孝行者に同情した近所の者なぞは矢鱈やたらに鼻をこすり上げます。又忠臣を手討ちにする殿様やそれを憐れむ奥方なぞがそっと鼻の下に手を当てます。つまりこうしてこうした舞台上の鼻の表現を補たすけるためではないかと考えられます。

「鼻であしらう」というのは頗すこぶる簡短明瞭で、相手を頭から相手にしない軽蔑し切った表現を云ったものでありましょう。

「鼻つき合い」というのは、これが両方からブツカッてスパークを発した場合で、局外者から見るとハラハラするような、面白いような表現を双方から見せ合っているものであります。

「鼻につく」という言葉は、始めのうちは珍らしさに紛まぎれていた臭味くさみがだんだんとわかって来てうんざりした、嫌になった、飽き飽きしたという、多少前の「鼻白じろむ」というのと似通ったような表現であります。これが極端になると普通の嫌なものに出合った時と同様に「鼻をしかめる」、もっと高潮すると「鼻をそむける」なぞいう表現にかわります。又同じような表現で「鼻をつまむ」というのは臭いという意味から転化したもので、「鼻もちならぬ」という表現に手の表現を添えたものであります。尚「鼻つまみ」というのは、主として人物に対してのみ用いられる形容詞で鼻の表現ではありませぬが、鼻の表現から転化したものである事はいう迄もありませぬ。

尚これは少々コジ付けの嫌いがありますが、「鼻ぐすり」という言葉があります。この種の薬を用いるのに何も特別に鼻という文字を担ぎ出さなくともよさそうに思われるのでありますが、実はしっかりした拠り処があるのであります。

つまり相手が兼ねてから見せていた「不賛成」とか「怪けしからん」という不快な鼻の表情が、このお薬を用いると遠からずか忽ちにかボヤケてしまって、曖昧な表現にかわります。トドのつまり、まあ考えて見ようから「止むを得ぬ」程度までに変化して終しまうから、かように名前をつけたものと推察されるのであります。つまりこの薬が如何に相手の感情に利きいて、その鼻の表現に如何に芽出度い変化を及ぼすかという事が、無意識の中に一般に認められているからでありましょう。

以上は主として感情から来た鼻の表現の中うちで昔から言い慣ならわして来た言葉を拾い出したものでありますが、またこの他に刹那的又は半永久的もしくは永久的に現われる意志や性格又はそれ等のすべてを綜合した鼻の表現として認められているものも些くないのであります。「鼻を明ける」とか「鼻を明けてくれる」とかいう言葉なぞはその代表的なものの一つで、一方の決然たる意志を示すと共に、相手方の高慢チキな鼻の表現が引ひっくり返って「アッケラカン」と空虚になった鼻の表現を期待した言葉であります。

「鼻を折る」とか「折られる」とかいうのもこれと同様の意味で、こちらの「どうするか見ろ」とかかって行く意気組と共に、先方の同じような突張り返った鼻の表現がタタキ落とされるかヘシ曲げられるかして、「もう堪忍」とか「無念」とかいうセンチメンタルな表現になるのを形容した言葉であります。

「鼻息が荒い」というのは、決して凹へこまないという猛烈な意気組が鼻の先に横溢して、意志や感情の風雨雷電をはためかしているのを鼻息になぞらえたものでありましょう。

「鼻っ張りが強い」という言葉は、「五分も引かぬ」「理が非でも勝つ」という意志が鼻っ柱に充実している場合を指す事は明らかであります。見様に依ってはこの表現が如何なる場合にも連続して発揮されるため、その本人の性格の象徴として認められているものとも考えられるのであります。

「鼻息を殺す」という形容詞も同様に鼻の表現の一つとして認められ得るのであります。これは「息を凝こらす」とか「詰める」とかいう言葉の代りに用いられるので、それよりももっと緊張した感じを見せる表現として認められているようであります。即ち「息を殺す」という方は他人の武術や運動の勝敗なぞを見る時に主として用いられるようでありますが、「鼻息を殺す」という気分は直接自分に利害関係のある問題に対して現わす事が多いようであります。つまり形勢奈何いかんとか様子如何にというような場合に自分の意志、感情、妄想なぞいうものをピタリと押え付けた気持ちを云ったものであります。かようするとその気持ちは平生とはまるで違って、眼はあらゆる注意力を奥深く輝かせ、口はあらゆる意志を一文字に啣くわえ込む。耳はすべての響に対して底の底まで澄み渡る。同時に鼻の頭のすべての表現は八方に消え失せて、只無暗むやみに強く深く冴え渡った緊張味だけが全身の気組を代表して残っているという事になるのであります。

泥棒や掏摸すり、刑事、巡査、その他の司法官又は武術家、運動家なぞの鼻の頭には、この気分がコビリ付いてふだんに緊張した表現を見せているのがあります。

「鼻息を窺う」というのもこれに似た気分であります。但しこれは相手が人間であって、しかも自分よりも上手うわてに対して「鼻息を殺した」場合の形容詞と認めて差し支えありません。

自分の鼻の表現を一切引き締めて、相手の気分の虚実に乗じてやろう、弱味があったらつけ込もう、強味があったら受け流そう、笑ったら笑ってやろう、泣いたら泣いてやろう、そうして相手を動かしてやろうというので、前に述べました「鼻ぐすり」の代りに掛け引き一つで行こうとする極めて徳用向きな――同時に千番に一番の兼ね合あい迄に緊張した鼻の表現であります。

この表現を高潮させるには、先ず自分の性格、意志、感情なぞと同時に阿吽あうんの呼吸までも相手にわからぬようにソーッと殺して終しまうので、この辺は自分の「鼻息を窺っ」ているようにも見えます。同時に無意識にせよ有意識にせよ、相手の鼻の表現に対して極めて刹那的且つ連続的な注意力と理解力とを同時に集中して働かせていなければなりませぬ。それ程さようにデリケートな、そして或る一面から見れば暗い感じを持った鼻の表現で、時勢が進むに連れまして生存競争に打ち勝とうとするものは何人なにびとも是非共この表現の方法を一応は心得ていなければならぬものだそうでございます。

主として性格を表わす分では、前に挙げました「鼻つまみ」の外にもっと主観的な形容の方では「鼻下長びかちょう」とか「鼻毛が長い」という言葉もあります。もあります位ではない、随分と方々で承わるようであります。

御知合いの中うちにおいでになるかも知れませぬが、お美しい夫人を持たれて内心恐悦がっておられるお方や、すこし渋皮の剥むけた異性さえ見れば直ぐにデレリボーッとなられる各位の鼻の表現を指したもので、何も必ずしも具体的に鼻の下や鼻毛が長いという意味ではありません。唯そうした方々のそういったような心理状態を鼻が表現しているために、こういったような形容詞を用いたものらしく考えられるのであります。

その証拠には事実上の鼻下長の方でも、随分鼻の下や鼻毛の切り詰まった方が多いのであります。これに反して鼻の下がレッテルの落ちたビール瓶のようにのろりとしていたり、鼻毛が埃を珠数つなぎにする程長かったりする人でも、猛烈に奥様を虐待される方があります。

つまり異性に対して恍惚としていられる方の気持はともかくもダレていて、天下泰平ノンビリフンナリしているところがあります。そのために鼻の付近に緊張味が無くなって、鼻の穴が縦に伸びて中の鼻毛でも見えそうな気分を示すので、これは誠に是非も無い鼻の表現と申し上ぐべきでありましょう。

「鼻毛をよむ」というのは、こうした鼻の表現と相対性を持った言葉であります。但し鼻という言葉が使ってはありますが鼻の表現とは認めにくいので、先ず鼻の表現の副産物といった位の格でありましょう。ただその態度のうちに相手をすっかり馬鹿にし切って鼻毛までも数え得るという冷静さと同時に、上うわっ面つらだけは甘ったれたのんびりした気分から鼻毛でも勘定して見ようかという閑日月が出て来る。その気持ちを代表した睡ねむそうな薄笑いがそうした場合の女性の鼻の表現に上のぼってはいまいかと想像し得る位の事であります。

これに反して純然たる性格を代表した鼻の表現の批評に「意地悪根性の鼻まがり、ぬかるみ辷すべってツンのめろ」という俚謡りようがあります。「ぬかるみ辷って」云々は余計な言葉のようでありますが、実は左様さようでないので、相手があまり嵩かさにかかって意地悪を発揮して来る、こちらを圧倒すべく鼻がイヤに下を向いて折れ曲って来るような感じを与える、此奴こやつがツンノメッテヒシャゲてしまったら嘸さぞいい心持ちであろうという心を唄ったもので、小供が大人にいじめられて安全地帯まで逃げ出した時なぞによくこんな事を云ってはやし立てているのを見受けます。

「鼻がつまったような奴」という形容詞は一寸ちょっと珍らしく感ぜられるかも知れませぬが、あるにはあります。これも前のと同様に純然たる性格の表現で、一寸当世向きしないような感じを与えるものであります。

相手が茫々ぼうぼうたる無感覚でちっとも鼻の表現をしない、時々腹の底で薄笑いしているようにも見える、この方を馬鹿にしているようにも見えるし尊敬しているようにも見える、わかったのやらわからぬのやら賛成やら不賛成やらサッパリ判然せぬ、大人物やら小人物やら大馬鹿やら大利口やらそれすら見当が付かない、無意味か有意味か知らず、ただ空むなしく有耶無耶うやむやとしているもののように見える場合に云うので、極端にえらい人やえらくない人、大人物を装うものや負け惜しみの強い卑怯者、又はいくらか頭のわるい人の鼻によく現われるニューッとした表現であります。

蓄膿症や鼻加答児ビカタルなぞで鼻の中が始終グズグズして、判断力や決断力の鈍った人なぞにも多く見受けられるようであります。

馬鹿囃子

――鼻の動的表現(四)

昔から認められている「鼻の表現」の数々をここまで研究して参りますと、どうしても問題にしない訳に参りませぬのは、「おかめ」と「ヒョットコ」と「天狗」のお面であります。

いずれも子供衆のお相手位くらいのもので、真面目腐って研究するのは馬鹿馬鹿しいようでありますが、お伽噺とぎばなしの中に人生の大問題が含まれているように、この三通りのお面にもなかなか容易ならぬ意味が含まれているのであります。

これ等のお面の表現の中心になっておりまする三様の鼻の表現は、人間の性格を三つの方面に分解して、その一つ一つの方面を芸術的に誇張された鼻の表現に依って代表させたものと見るのが最も早わかりで面白くて、しかも意味が深長なようであります。

「天狗」はその才能、通力なぞいうものに対する極度の誇りを、その素破すばらしく高い鼻に依って表明しております。そうして鼻以外の処は眼を怒らし歯を噛みしめ顎鬚を翻して、

「何が来ても恐れ入らないぞ、何を持って来ても満足を与えないぞ、おれ様がどんなに豪えらいか知らないのか」

と、虚勢を張った表現をしております。

「おかめ」はこれと正反対に、普通以下に低いその鼻の形でそんなプライドが少しもない心を見せております。同時にその眼は細く波打ち口はすぼまり頬ペタは笑えくぼを高やかに盛り上げて、

「すっかり満足致しておりまする。何もかも勿体ない位面白くておかしい事ばかり。只もう嬉しくて嬉しくて」

という表現を作っております。その表現はそのチョッピリとした鼻の背景として、そうした気分を弥いやが上にも引っ立てているかのように見えます。「おかめ」の一名をお多福というのは、こうして現在のすべてに満足している気持ちを云ったものと推察されるようであります。

畢竟ひっきょうするところ、この二つの鼻の表現は人間の性格の両方向の行き詰りで、「天狗」は極度の増長と高慢を――又「おかめ」は極度の謙遜と無知無能とを表現しているのであります。

然るに「ヒョットコ」となると、その高慢も謙遜もありませぬ。全く明け放しの鼻の表現をしております。

すべてに対して驚いております、不思議がっております、ビクビクしております、うろたえております、ヒョットコヒョットコしております。只色気を見せる鼻毛と、喰毛くいけを見せる口だけが並外れて長いという、つまり極度に文化程度の低下した無知無能な性格を表わしております。地方に依りまして「ヒョットコ」の一名を「モグラ」というのは、土から顔を出して眼をパチクリさせるなり慌ててもとの土にもぐり込む〔鼠+(偃-イ)〕鼠もぐらの鼻の表現に似た表現だからではありますまいか。

この三種の仮面はかようにして、いずれもその思い切り誇張された鼻の形に依って、一時的もしくは永久的に現われる人間の性格の三つの傾向を代表させております。

この三種類の鼻の表現が代表する人間の性格の三つの傾向は、大きく云うと人類の文化――小さく云えば個人の性格と非常に深い関係があるのであります。即ち人間の性格は、この三つの中うちどちらに傾いてもその向上発展は望まれなくなるのであります。その代りこの三つのお面が自覚さえすれば直ただちに進歩発達の道に入ることが出来るのであります。「天狗」の自慢が消え、「おかめ」の無知無能が眼覚め、「ヒョットコ」がその色気と喰気から救われるのであります。

この三つの傾向を自覚というものに依って取り纏めて行くところに人間の性格の向上進展があるので、この三種類の鼻の表現を取り合わせて人間らしい高さと恰好に加減して行くところに、鼻の表現の根本原理が含まれているのではないかと考えられます。その証拠には人間が無自覚であればあるだけこんな鼻の表現に陥り易い。同様に国家や民族がこの三つの傾向のうちのどれかに囚とらわれた時、その国家や民族の運命は下り坂となるのであります。

こんな風に観察して参りますと、この三つのお面が活躍する「お神楽かぐら」というものは、鼻の表現によって象徴された無自覚な性格の分解踊りとも見られるようであります。同時に馬鹿囃子という音曲の名前も、まことにふさわしいものとなって来るのであります。

かの三つの鼻の表現が、この馬鹿囃子に連れて動きまわる。極めて低級な芸術的価値しかない伝統的な踊りをおどる。そのつまらない単調子さのうちにどことなく騒々しいような、淋しいような――面白いような、自烈度じれったいような気がする。人生の或る基調に触れて人の心をひきつけるようなところがある。

……実は永遠に無自覚な人類生活の悲哀を「鼻の表現」と「馬鹿囃子」に依って象徴した最も哲学的な舞踊劇である、人生もしくは宇宙その物の諷刺である……という事を、舞っているものも見ている人も、知らずにいるのではあるまいかと考えられて来るのであります。

本来無表現

――鼻の動的表現(五)

この他ほか古今の文献、詩歌小説、演劇講談、落語俗謡、その他たの言語文章、絵画彫刻なぞいうもの、又は外国語等にも亘って調べましたならば、随分沢山の鼻の表現が現われて来るであろうと想像されます。しかし以上述べましただけでも「鼻の表現」は存在するものである、就中なかんずくその動的表現は意想外に夥おびただしいもので、しかも顔面の表現の中うちで最も偉大な役割を勤めているものであるという事があらかた御諒解出来たであろう事を信じます。

しかし或る一部にはまだこの鼻の表現について疑いを有しておられる方が無いとも限りませぬ。

「それはそんな気がするだけで、コジ付けと云えば云われぬ事もないが」

と考えられる方がおられる事と思います。これはかような方面にあまり興味を持たれぬ方々の云い草でありましょうが、同時に「表現」とか「表情」とかいう方面に特殊の注意を払っておられる人々はかような疑問を挿まれはしまいかと推測されるのであります。

「鼻の表現というのは一種の錯覚に過ぎぬ。顔面の他の部分の表現が鼻を中心として飛び違うために、その十字線が丁度鼻の上に結ばって一種の錯覚を起すものである。強あながちに鼻ばかりが本心の動き方を表現し得るものでない。寧むしろ鼻というものは舞台の中心に置かれた作り物と見るべきが至当で、その場面の表現は他の役者が遣るからその作り物にも意義が出て来るのと同じわけのものではないか」

この二つの疑問や反駁は詰るところ同じ意味で、誠に御尤ごもっとも至極な理屈と申し上げなければなりませぬ。

事実上鼻はヒクヒクと動いたり、時々赤くなったり白けたりする外何等の変化も見えませぬ。

仮りに「鼻の表現というものがあると云うから一つ正体を見届けてやろう」という篤志家があって、他人と向い合った時なぞに相手の鼻ばかりをギョロギョロと見詰めておられたとします。生憎あいにくな事にはそんな場合に限ってかどうかわかりませぬが、とにかく相手の鼻は何等の表現を見せませぬ。色や形を微塵もかえませぬ。

これに反して眼や口や眉は盛んに活躍します。その表現はその変化の刹那刹那に悉ことごとく鼻を中心として焦点を結んで、こちらの顔に飛びかかって来るように思われます。

しかし鼻はそんな場合でも吾不関焉われかんせずえんと済ましております。まるで嵐の中うちに在る鉄筋コンクリートの建築物のようで、只風景の中心の締りにだけなっているかの観があります。意志のお天気の変り工合や感情の風雲なぞの動き工合で色や形の感じが違って行くように見えるだけであります。

……矢っ張り鼻には動的の表現は無い……変化の出来ないものに表現力のあろう筈がない

……あっても他動的で自動的ではないにきまっている……

という事になります。

この観察は悉く中あたっているのであります。鼻は本来自動的には極めて単純な表現力しか持たない……本来無表情と見られても差し支えない事を鼻自身も直ただちに肯定するに吝やぶさかなるものでないと信じられるのであります。

ところがその本来無表現を自認している鼻が、その本来無表現をそのままにあらゆる自動的表現をするから奇妙であります。有意識無意識のあらゆる方面に於ける内的実在もしくはその変化を、如何なる繊細深遠な範囲程度迄も自在に表現し得るから不思議であります。

人間のあらゆる表現を受け持つ顔の舞台面に於て眉や眼や唇なぞが受け持つ役は実に無限と云ってもよろしい程であります。しかしその中にはどうしても鼻でなければ受け持ち得ない役が又どの位あるか判わからないのであります。鼻が登場しなければ眼や口がいくら騒いでも象徴し躍動せしめ得ない表現が、矢張り無限と言ってもいい位にあるのであります。

手近い例を挙げましても今までに出て来た……

……鼻をうごめかす……

……鼻にかける……

……鼻じろむ……

……鼻であしらう……

……鼻っ張りが強い……

……鼻毛が長い……

というような感じの中一つでも眼や口に出来るのがありましょうか。

眼尻を下げても鼻毛はよまれぬ人が沢山にあります。腮あごが突張っているのは受け身に強い表現で、働きかけの烈しい鼻っ張りとは場面が違います。鼻であしらうのと腮でしゃくるのとは、初対面の軽蔑と旧対面の傲慢程感じが相違しております。眉をひそめて唇を震わしただけでは「鼻じろむ」の感じは出せませぬ。殊に自慢高慢に到っては、鼻にかけてうごめかすより他たにかけてうごめかし処が無いのであります。これ等の事実を考え合わされましたならば、鼻の表現の可能不可能問題は自ら解決されるであろうと考えられます。

鼻の審判

――鼻の動的表現(六)

時は紀元前千二百三十四年、埃及エジプトはナイル河の上空に天地の神々が寄り集って、物々しい光景を呈しました。これはこの時に死亡しました埃及王ダメス二世の鼻の裁判が開かれるためでありました。

埃及国の慣わしと致しまして、人間は死にますとすぐに神の法廷に召されて審判を受けます。即ちその心臓を秤はかりにかけられて罪の軽重を秤はかられ、罪無き者は神と合がっし、罪の軽いものは禽獣草木に生れ換り、悪業の深い者は魔神のために喰ってしまわれる事になっておりました。

ダメス王はその統治する埃及国に於きまして、世界最初の文化の真盛りの時代を作った名王でありました。従ってその鼻の高さは世界最初のレコードを見せておりましたために、特別に天地の諸神の注意を惹ひきまして、扨さてこそかような御念入り裁判が開かれたものと察せられました。

その時の裁判の情景は、その法廷の記録係タータというものに依って詳細に記録されて今日に伝えられております。これに依って見ますと、鼻の表現的使命は、既に紀元前一千二百余年前に於て明確に決定されているのであります。

タータの記録した象形文字は、次のごとく訳されております。

……………………………………………………

正面中央の高座、白雲黒雲の帳とばりの中には、太陽を象徴した天地諸神の主神ホリシス神が、風雨雷電の神を従えて座を構えておる様子であります。

その左右中段には四十二人の判官が、笏形しゃくがたの杖を持って整然と着席しております。

下段右側には動的表現界の代表者、犢こうし、犬、猫、鷹、甲虫かぶとむし、鰐、紅鶴等の神々が列座し、左側には静的表現界の代表者、月、星、山、川、木、草、石等の神々が居流れております。

その中央に黄金の鼻輪に繋がれて引き出されたのが、今日の被告ダメス王の鼻で、その背後には同じ王の眉と眼と口と耳とが証人として出廷着座しております。

ダメス王の鼻の前には一基の天秤がありまして、豹の頭を持ったマスピス神が鼻の罪量を計るべく跪ひざまずき、その直ぐうしろには記録係タータが矢立てを持って、眼を瞠みはり耳を澄まして突立っております。その又うしろには頭が鰐、身体からだが獅子、尻は河馬という奇怪な姿の魔神ラマムが、罪の決定し次第に鼻を喰べさせてもらおうと待ち構えております。

これ等はすべて、この空前絶後の鼻の裁判開始前の光景であります。

やがて正面上段の白雲黒雲の帳とばりが開かれますと、水晶の玉座の上に朝の雲、夕の雲、五色七彩の袖そで眼も眩まばゆく、虹霓こうげいの後光鮮かにホリシス神が出現しまして、赫燿たる顔色に遍あまねく法廷を白昼の如く照し出します。同時に正面中央の二名の判官が立ち上って、「鼻の裁判開廷の理由書」を同音に読み上げます。

「被告ダメス王の鼻は、王の顔面の静的動的両表現界の中央に位し、王の存命中傲然として何等の動的表現をなさむ。王の眼、眉、口等が無量の動的表現を以て王の知徳を国民に知らしむべく努力したるにも拘らず、国民の尊信は悉く王の鼻にのみ集中せり。その状恰あたかも王のすべての表現の功を奪えるに似たり。凡およそ無為徒食して他の功労を奪う者は重罪者たるべき事、神則人法共に知るところなり。依ってこの裁判を開き、ダメス王の鼻の罪の有無を諸神の批判に措おき、ホリシス神の御名に依って処断せむと欲するものなり」

読み終った判官の一人は厳然としてダメス王の鼻に問いました。

「被告ダメス王の鼻よ、汝に於て弁疏べんそせむと欲するところあれば速すみやかに述べよ」

ダメス王の鼻は面倒臭そうに唯一言、

「弁疏無し」

と答えました。

この態度を見た満廷の諸神は、皆驚きの評を発しました。今まで死後の裁判に引き出されて、怖れ戦おののきつつ自分の善行を陳のべ立てぬものは只の一人も無かったのであります。既に木乃伊ミイラにされたダメス王自身でさえも、一平民と同様に法廷の甃いしだたみにひれ伏した位でありました。然るにその鼻ばかりが王の生前の威儀を保ち、神々を恐れる気ぶりも見せぬという事は、実に前代未聞の事であったからであります。

顔を見合わせた判官たちは、次々に立ってダメス王の鼻の訊問を初めました。

問…被告ダメス王の鼻よ、汝は汝自身に静的と動的の両表現界のいずれに属するものと信ずるや。

答…予は両表現界の代表者なり。

問…王の眼、口、眉等は王の生前、各独立してその固有の動的表現をなし得たり。汝は独立して何等かの表現をなし得たる記憶ありや。

答…無し。

問…被告ダメス王の鼻よ。汝は汝自身に非ざればなし得ざる表現として他に認められたるものありや。

答…無限にあり。

問…そは他の顔面表現係の補助を受けてなし得たるものに非ざるなきか。

答…記憶せず。

問…この事に就いて考えたる事なきや。

答…考えてなし得る表現は尽く虚偽なり。生命は刻々に流転す。予はその真実を知るのみ。

問…知りしのみにて表現はせざりしか。

答…記憶せず。

問…王の眼、口等は王の命に依ってその敵手たるキタ人、エチオピア人、アッシリア人、リビア人、又はその愛する女性等に対し屡しばしば虚偽の表現をなせり。而して屡その虚偽なる事を看破されたり。王の本心を知り得る汝は窃ひそかにこれを表現したる事なきや。

答…記憶せず。

問…然からば汝は如何なる能力を自信して王の表現のすべての代表者なりと云うか。

答…予はダメス王の鼻なり。

問…王の動作もしくは静的表現の成果のすべてを盗みしに非ざるか。

答…知ってこれを代表せしのみ。

問…ダメス王は汝が王のすべてを知れる事を知れりや。

答…知らず。

問…何故に知らざるか。

答…自惚うぬぼれのために。

問…汝の知り且つ代表せる範囲とは、王自身の有意識界、無意識界、動的表現界、静的表現界のすべてを意味するか。

答…それ以上。

問…王の生前死後の総てを含むか。

答…それ以上。

問…王を中心とする自界他界、宇宙万有、地獄天堂の過去現在未来までもか。

答…それ以上。

問…叱しっ! 汝はホリシス神の御前にある事を忘れたるか。

答…ホリシス神が予の前に在るを知るのみ。

問…咄とっ! 然らば汝は神なるか。

答…人間の鼻なり。

問…汝の答弁は尽くその真なる事をホリシス神に誓い得るか。

答…誓うに及ばず。

問…言語道断! 何故に。

答…ダメス王の鼻、神の鼻に非ず。

独立不羈ふき、神を神とも思わず、ダメス王の鼻はこうして遂に神の法廷を威圧して終しまいました。その答弁は一つ一つに諸神を驚かすばかりでありました。真実まことか虚偽うそか、本気か冗談か、平気か狂気か、イカサマ師か怪物か、そうして有罪か無罪か判断に苦しむ大胆さ、しかも生前の主人ダメス王の真価値は勿論、神の権威の軽重までも計りそうな意気組を示しております。

只ホリシス神の御機嫌のみは益ますます麗しいと見えまして、その顔色は益晴れやかに輝き渡りました。

これに力を得た判官の一人は立ち上って、眉と眼と口と耳の四人の証人に向って、鼻の言葉の真実まことであるか否やを問いました。然るに驚くべし、眉は最前から逆立ちをしております。同様に眼は色が変り果てております。口は顋あごが外れたと見えまして開きっ放しになっております。耳は大熱に浮かされて火のように赤く燃え上っております。今まで友達と思っていた鼻が、生前の温柔おとなしさにも似ず余りに無法な方言をするのに驚かされて、巻き添いを喰いはしまいかという極度の恐怖から、かように正気を失ったものと察せられました。命に依って現われた法廷の掃除人、蟻の神は四人の証人をそのままにダメス王の木乃伊の寝棺に返してしまいました。

判官は仕方なしに仮りに鼻の答弁を真実と認めて、これに依って検事と弁護士とに罪の有無を論争させる事にしました。

権威と使命

――鼻の動的表現(七)

検事の役目を承わった動的表現界の代表者、犢こうしの神は鼻息荒く立ち上って、劈頭へきとう左の如く論じ出しました。

「被告ダメス王の鼻には動的表現があったと認めなければなりませぬ。動的表現界に於ける詐欺行為者と認める訳には参りませぬ。ダメス王の鼻は王の生前に於て眼や口その他の動的表現係より受けたる恩義に酬むくゆるために王の死後、『動的表現をなしたる記憶無し』と主張している者である事を先程よりの答弁の中うちに充分に認める事が出来たのであります」

この言葉は又法廷の全部をどよめかすに充分でありました。検事が真先に被告の無罪を主張するという事も空前絶後の一つに数えられたからであります。しかも後半の議論に依って、犢の神が果してダメス王の鼻の弁護をしているものか、していないものかがわからなくなってしまいました。これこそ世界最初の詭弁きべんではあるまいかと、益ますます一同の耳を引っ立てさせたのであります。

「ダメス王の鼻の無罪を主張する理由は、左の三ヶ条に尽きております。

第一には、王の鼻が何等かの理由無しに王の顔の真中に存在する筈がないのであります。眼や口なぞいう動的表現役者の真中に取り囲まれながら、悠然として静的表現を守っていられる筈はない。矢張り何等かの動的表現の使命を持っているものと認められなければなりません。

第二には、鼻という言葉を用いなければ説明の出来ない表現が沢山に存在する事であります。便宜上だけでもよろしい。鼻という文字を使わなければ受け取れない表現の形容が頗すこぶる多いので、どうしても鼻の動的表現を認めなければならぬ事になるのであります。

第三には、錯覚でも何でもよろしい、鼻というものの動的表現の可能性を認めなければ、社会風教上その他万事につけて不都合なのであります。すべての鼻に絶対に動的表現が無いとすると、眼や口だけで表わしている意志や感情、性格なぞが全然虚偽であっても、その虚偽である事が永久に判明しないで済む事になるのであります。どんな悪心を蔵している奴でも顔付がニコニコしている以上、その悪人である事が永久に露顕しないで終る事が無いとも限りませぬ。ダメス王の虚偽の表現は、その鼻に依って裏切られていたものと認めた方が、神の戒いましめ、人の恐れとして誠に結構な実例を残すことになるのであります。さもない限り世間は虚偽の表現のみに埋め尽されて、世道人心は忽ちに腐敗し去るのであります。神は地上に何等の神的表現を見せませぬ。けれども下界の人間は、天体地上の万象を悉く神として尊信しております。さらに恐れ多い事ながら、それ等のすべての主宰として、これ等のすべてを知ろし召す唯一神の神的御在位をも信じ奉っているのであります。況んやこの明知赫燿たる神の法廷に於て、ダメス王のすべてを知っている鼻が、その有意識界無意識界の変化に対して、何等かの表現能力を持っている事を認め得られない筈はありませぬ」

果せる哉かな、検事の論告は、矢張り検事の役目に背いたものでありませんでした。この三ヶ条の議論は表面上、鼻の動的表現能力存在の可能性を極力主張しているようでありますが、よく考えて見ると左様でないのでありました。いくら鼻が動的表現に埋もれていても、何ぼ形容詞が沢山にあっても、何程都合がよくっても、又は鼻が神様と同格のものであるとしても、眼や口と同じような表現を鼻に押しつけるのは無理であるという事を、深く深く認めさせようという議論の立て方でありました。

「動的表現界に於ける鼻の詐欺行為」は、こうして尽ことごとく肯定本料に依って埋めつくされそうに見えました。

この巧妙なる論告に対して静的表現界の代表者、月の神は立上りました。冷やかな態度でかような弁護をしました。

「私は鼻の動的表現を認める事が出来ませぬ。最前の審問に於て、ダメス王の鼻は――記憶せず――と云い抜けて、暗あんにその無能力を認めております。

すべて動的表現をするものは、色か形か何かを動かしていなければなりませぬ。波を切りわけて行く船の舳じくは、動的表現をしていなければなりませぬ。嵐の前に黒ずんで行く海も同様であります。船も海も生命があります。動的表現は悉ことごとく生命を持っているものでなければ出来ないのであります。

色も形もかえ得ないものは、総て静的表現しか持たないものと考えなければなりませぬ。死物と同様に見なければなりませぬ。牛の鼻も人間の鼻もこの意味に於て死物同様であります。静的表現ばかりしか持ちませぬ。

ダメス王の鼻も同様でなければなりませぬ。王の鼻の表現は、死んでも生きても何等の変化も無い筈であります。色彩を施された王の木像の鼻とすこしも変りが無い筈であります。仮令たとえダメス王の鼻が、その生前に於て眼に止まらぬ位の僅かな変化で、その本人や性格を極めて微弱に表わしておったとしても、眼に見えぬ変化が人に感動を与える筈はありませぬ。鼻の動的表現は悉く錯覚であります。ダメス王の鼻は、王の顔面に築かれたピラミッドに過ぎませぬ」

この強い、そうして静かな議論は、その一言一句が悉く生と死――動と静の反語ばかりで成り立っている事を並いる神々に認めさせました。同時に鼻は生き物である、神秘世界の産物である、鼻の動的表現は理屈では認められぬ、ただ事実上にのみ存在し得るという事を深く深くうなずかせました。

法廷のそこここに溜息の評が洩れました。月の神はさらに議論を続けました。

「但し、これだけの事実は認められます。ダメス王の鼻が王自身の表現界の王であった事は、恰あたかもダメス王が埃及エジプト国の王であったと同様でありました。王の顔面の表現機関は王の鼻の左右大臣であり、その他の全身各部の表現作用は、その召使であり奴隷でありました。しかしこれ等の事実は、そのままに動的表現が不可能である事を証明していたのであります。王の鼻はこれ等の表現の補助を受けなければ、何等の動的表現もなし得なかったのであります。そうしてこれ等の補助機関が細かに動き得れば得る程、王の鼻の表現は殖ふえて行ったのであります。

ダメス王の鼻は、王の意志、感情、性格、その他王自身に就て、王の知らない事共までも存じていると申します。しかし、知っているということは、表現し得るという事ではありませぬ。

王の鼻は、その知っている事、感じている事をその臣下たる動的表現係の各大臣に申し付けて表現させました。そうして自分自身の表現であるかの如くに装いました。眼や口には出来ぬ、鼻でなくては到底ここまで深く現わし得ぬものと見られていた表現でも、それは王の鼻が他の表現機関を巧たくみに使い別けて、二重三重の表現をさせて、その表現の中心に結ばった感じを自分の表現と見せかけたものであります。人々はこれ等はすべてを王の鼻の表現と認めまして、これに嘆服し、これを崇拝しました。しかし実は王の鼻は、何等の表現をもしないのでありました。只顔の真中の王座に反そり返っているのでありました。

王の顔面の総ての表現が、その鼻の表現と認められていた事、恰も埃及国内のすべての出来事が王の責任と認められていた如くでありました。王の全身の表現が、その鼻に依って代表されて他人に受け渡しをされていた事、恰も埃及国の全権が、ダメス王に依って掌握され、ダメス王の名に依って他国と批准交換されていた如くでありました。しかも王は太平楽の裡に無為徒食しておりました。

王の鼻が総ての表現を代表する事が出来たのは、その鼻自身が無表現だからでありました。

王の鼻の動的表現の可能性は、その絶対不動のところにあったのであります。

すべて動的活社会の統一的代表者は、不動的人格の所有者でなければなりませぬ。

同様に動的表現の支配的象徴者は、不動的表現の具有物でなければなりませぬ。

ダメス王の王座はこの如くにして、埃及の国家組織の中心に自ら胚胎した事でありました。

王の鼻の座もこの如くにして、王の顔面の中央に天然自然と開設されたものに相違ありませぬ。

王の鼻の動的表現が無から有を生じた事は、かようにして遺憾なく証明されるのであります。その動的表現の存在はかようにして否定され得るのであります。

その間に何等の不可思議もありませぬ。

何等の予質もありませぬ。

人間の知識では驚異に値するかも知れませぬ。しかし神の国に於いては、不可解の存在は許されませぬ。予質の神秘は認められませぬ」

月の神はかようにしてダメス王の鼻の動的表現能力を絶対に否定して、席に着きました。同時に並居る諸神は悉く絶対に、鼻の動的表現能力を認め得たのでありました。そうしてこの時、月の神と犢の神とが人知れず顔を見合わせてニッコリと笑いました。これを気付いていたのは只記録係タータの神ばかりでありました。

ここに於て四十二名の判官は別室に退いて、一つの判決文を作りました。そうして再び打ち揃って着席の上、中央の二名が立ち上って同音に読み上げました。

「ダメス王は無為徒食せるが故に国家の罪人とは認められざりき。王の鼻も又何等の動的表現を有せざりしという理由のもとに、動的表現界の罪人として認めらるべきものに非ず。その表現界統一の功績は、埃及に於けるダメス王の沿蹟と等しく万人の敬仰礼讃を受くべきものに属す」

次いで鼻はその黄金の鼻輪を除かれまして、正面の天秤の一方に載せられました。マスピス神はその反対の秤に、誠実を表す鳥の羽根を載せて罪の軽重を計量しましたが、左右の秤は物の見事に平均して、今の判決の真実である事を証明しました。

ダメス王の鼻は、ロルス神に導かれて正面の上段、ホリシス神の御前に進み寄りました。ホリシス神はこれを掌の上に招き載せて一同に見せながら、玉音朗かに宣言をされました。

「鼻は人間の神である。人界の動静両表現界を主宰させるために余が代理として遣わしたものである。

独立不動と不羈の向上――は余が秘密に授けた鼻の使命であった。

ダメス王の鼻が、この使命を最もよく発揮して、ここに人類界最高の記録を破り得た事を嘉よみする。さらにその死後に於ける裁判に於ても、この本領を空前絶後にまで発揮し得た事を嘉する。

人類の文化は最早もはや絶頂に達した。最早鼻の神秘は破れて差し支えない時が来た。ダメス王の鼻に依って月の神と犢の神がこれを破った。ダメス王の鼻以前にダメス王の鼻無く、ダメス王の鼻以後にダメス王の鼻は無いのである。

ダメス王の鼻は、魔神ラマムに与えらるべきものでない。

余――ホリシスに与えらるべきものである」

と云ううちにホリシス神はダメス王の鼻を口に入れてムシャムシャと喰ってしまいました。

最前から秤の傍かたわらに待っていたラマムはこの様子を見ると、ベロベロと舌なめずりをしながら他の鼻を探しに暗黒世界に去りました。

満廷の諸神は開あいた口が塞ふさがりませんでした。

……………………………………………………

これは三千年前の神の裁判の判決でありますが、これを二十一世紀の今日に於ける鼻の表現の実際に徴して見ると、どんな事になるでありましょうか。

無意識の表現

――鼻の動的表現(八)

三千年前の「タータの記録」に依りますと、鼻は絶対不動という事になっておりますが、今日では多少動いたり色が変ったりする鼻も珍らしくないようであります。これはタータの記録があまりに哲学的に論じてあるためか、又は今日の人類がそれだけに進化したためか、どちらかでなければなりませぬ。

しかしいずれにしましても、鼻が独力を以て動的表現をなし得ない事は先ず事実と認めて差し支えありますまい。鼻がたった一人で如何に色を換え、形を換え、手を変え品をかえて見ても、結局それは何を意味しているのか判然しませぬ。眼だけが細く波打って笑いを見せ、口だけがへの字になって怒りを見せるのとは同日の論でないのであります。

しかし同時に鼻が些すこしでも鼻以外の表現能力の補助を受けると、直ちに驚くべき表現力を発揮し得る事は、事実が証明しているのであります。さながら竜の水を得たるが如く、又は虎の山に凭もたれるが如く無辺際に亘って活躍して、鼻以外の表現能力が発揮し得ない範囲にまでも遠く深く及ぶものであります。

ここに於て鼻の表現能力は如何なる哲学、如何なる宗教、如何なる芸術も解決し得ない不可思議その者となって来るのであります。

永久に解決出来ない神秘で、しかも眼前にある明白な事実となって来るのであります。

所詮、鼻は表現界中央の重鎮……表現界のドミナントであります。

偉い人はたった一人でいる時は、宿賃の工面は愚か車の後押あとおしも出来ません。しかるにこれにいったん有意有能な同志や乾児こぶんがくっつくと、無限不動の裡うちにその同志や乾児の総ての能力以上の価値を示す事が出来るのであります。又鼻は、顔面表現の舞台面に於ける千両役者とも見る事が出来るのであります。

……御注進御注進、一大事一大事……ナ、何事じゃ……と慌てふためく動的はした役者よりも、舞台の真中に神色自若としている千両役者の方が、はるかに深い感動を見物に与えるようなものであります。

鼻は云わずして云う者以上に云い、泣かずして泣く者以上に泣き、笑わずして笑う者以上に笑い、怒らずして怒る者以上に怒る好個の千両役者であります。

同時に鼻は、他の動的表現係がいくら騒いでいる場合でも、その騒ぎが本物でない限り一切これに関係しない。却かえってその騒ぎの裡面の真相を、不変不動の中に発表して行くという英雄的真面目さを持っているのであります。

眼が表す悲しみや怒り、口が示す喜びや悲しみ、そんな通り一遍、一目瞭然の表現は、鼻には無いと云ってもいい位であります。

鼻の表現はもっと深刻であります。

もっと真率であります。

もっとデリケートであります。

それだけに有意識的に相手に認められ難い。

それだけに無意識的に相手に深い感銘を与えるのであります。

眼や口がその人間の感情や意志を現わして相手の感情を刺激するものならば、鼻はその魂を表して相手の魂に感じさせるものであります。世に云う以心伝心という事は、鼻の存在に依ってその可能性を裏書きされると云っても決して過言ではあるまいと考えられます。

全霊の真相

――鼻の動的表現(九)

鼻はその人の全霊の真相を表明するものであります。そうして最も忠実にこの任務を果しているものであります。

ここまで研究して参りますと、鼻の静的表現なぞは全く問題でなくなって参ります。

その人の本心が喜ばない以上、鼻は決して喜びの色を見せませぬ。そうして内心不平であれば遠慮なくムッとした色を見せ、残念であれば差し構い無しに怨めしい色をほのめかしているのであります。

「妾わたしはもうとても皆様の御噂にかかるような顔じゃ御座いませんよ。毎日鏡を見るたんびに親を怨んでいるので御座いますよ」

と如何にも口惜くやしそうに云っていても、鼻ばかりは正直に、

「そう云っとかないと悪いからね」

という気持ちをうごめかしているのであります。

世間への義理や家内への示しのため、親類会議の真中へ一人息子を呼び出して、

「久離きゅうり切っての勘当」

を云い渡す親達の怒った眼と正反対に涙ぐましい鼻の表現――そこにすっかり現われている千万無量の胸のうちは、その座にいる人々をして道理至極とうなずかせずには措おきません。

「あの後家さんはいつも呑気そうに気さくな事ばかり云っては人を笑わしているけれど、流石さすがにどことなく淋しそうな顔をしているわね」

と界隈の噂に上るのは、その後家さんの鼻の表現が他人にうつるからであります。心の貞節や人知れぬ涙を決して人に見せまいとする悩みから湧くこの世の淋しさが、まざまざと鼻に現われて来るからであります。

情ない時、しくじった時、困った時、又はギャフンと参った時なぞは、その気持が特に著しく鼻にあらわれるものであります。

「ナアニ。何でもないよ。アハハハ」

と笑いながら、鼻はすっかりしょげている。

「人間到る所青山ありさ」

なぞ達観したような事を云いながら、鼻だけはゲッソリして白茶気ている。甚だしいのになると、何だか水洟みずっぱなでもシタタリ落ちそうで、今些しで泣き笑いにでもなろうかという、極度に悲観した心理状態を見せているものさえあります。

かようにして眼や口なぞが如何に努力をしても、その人間の本心から湧き出して来る感情が鼻の上に現われるのばかりは瞞着する事が出来ないように出来ているのであります。

同様に鼻はその本人の真底の意志を少しも偽らずに表明しているものであります。

意志がグラグラしている以上、鼻は如何なる場合でも決意の閃ひらめきを見せませぬ。如何に威勢よく飛び出しても、心から行こうという気がなければ鼻は必ず進まぬ色をしているのであります。

惚れたお方を婿殿にと図星をさされた娘がテレ隠しに、

「妾わたしあんな人はいや」

と口では云いながら飛び立つ思いを見せた鼻の表現がある――一方に嫌な男の処へ行けという親の前に両手を突いて温柔おとなしく、

「私はどうでも」

という進まぬ鼻の表情……仮令たとえそれが悲し気に痛々しくなってやがてホロリと一雫ひとしずくしないまでも、ここを見損ねた親たちや仲人は、あったら娘を一生不幸の淵に沈淪ちんりんさせる事になるのであります。

「オッと来きたり承知の助。さあさあ何でも持って来い。すっかり俺わしが片付けてやる」

といった程度の安請合いに対する誠意の有る無しは、その眼よりも口よりも真中でニヤニヤ笑っているところに最もよく現われていなければなりませぬ。

「何様どなたも御馳走様になりまして。お珍らしいものばかり。イヤ頂戴致します」

と云いながらちっとも頂戴する気にならない気もちは、細く波打つ眼とおちょぼ口との間にありありと見えすいているものであります。

男と死ぬ約束をして奉公先からそれとなく暇乞いとまごいに来た娘が帰るさに、

「身体からだを大切にしておくれ」

と云われて、

「アイヨ」

と笑った眼つき口もと。その間に云い知れぬ悲しい決意を示す鼻の表現……それがそれとなく気にかかって、

「ああ。無分別な事でも仕出かしてくれなければよいが」

という物思い……。

その他「重々恐れ入りました」という奴の鼻が「今に見ろ」という気ぶりを見せ、「貴方はおえらいですよ」と賞める鼻が「賞めたい事はちっともない」と裏書きし、「妾わたしもうお芝居は見飽きちゃったのよ」と見栄を言いながら実は行きたい鼻の先のジレンマなぞ、数え立てると随分あります。

鼻の表現がその本人の意志を偽らないと同様に、その本人の性格を表現する場合でも決してその真相を誤らないのであります。

性格が愚鈍である以上、その鼻の尖端に才気の閃きは決して見る事が出来ないのであります。いくら謹み返っていても性得ガサツ者である限り、鼻は何となくソワソワしているものであります。

「もう私は今度でこりごりしました。ふっつり道楽を思い止とどまりました。ふだんの御恩がわかりました。何卒今度切りですから、助けると思って今一度お金を頂戴」

と両手を突いて涙をこぼしている息子の鼻が、昔の通りニューとしている。こんなのはテッペンから、

「糞でも喰らえ、この野郎。今度切りが何遍あるんだ。トットと出てうせろ」

とたたき出されます。

「何だ喧嘩だ。喧嘩なら持って来い。俺が相手になってやる。篦棒べらぼうめえ、誰だと思っていやがるんだ」

と大見得を切って立ち上っても、臆病者の鼻の表現は必ず魘おびえた色を見せております。

小田原評定の場合なぞ、真中へ出て理屈をこねまわしている鼻が案外無責任らしく見える一方に、隅っこで黙って聞いている鼻が却かえって頼もし気に見える事なぞはよくあります。

こんな例は挙げたら限りも無い事でありますからこれ位で略します。

いずれにしても、鼻が如何に忠実に各種の表現の主役をつとめているものであるか。その補助機関が如何に誤魔化そうとしても鼻の表現ばかりは偽る事が出来ないものであるという事は、右に挙げました実例だけでも一通り説明し尽されている事と信じます。

極めて大掴みに考えて見ますと、鼻以外の表現はその人の上うわっ面つらの表現だけを受け持っているもののようであります。偽ろうと思えば偽り得る範囲に限られていると見て大した過ちは無いようであります。

それ以外のものは全部鼻が受け持って表現していると考えてよろしいようで、しかも又この任務は断じて奪う事は出来ないのが原則と認めて差し支えありませぬ。手で撫でても、ハンケチで拭いても、又は別誂えの咳払いをしても、鼻の表現ばかりは掻き消す事も吹き払う事も出来ないのであります。

よく出鱈目や茶羅鉾ちゃらっぽこを云って他人を瞞着しようとする時又は気がさしたり図星を刺されたり素すッ破ぱ抜かれたりした場合なぞに、手が思わず鼻の処に行ったり又は何となくエヘンが出たりするのは、鼻の頭の表現が無意識に気にかかるからで、何とかして誤魔化さねばその事実を鼻に裏書きされるか又は反証を挙げられそうな気もちから起った反射運動に他ならないのであります。

表現の受け渡し

――鼻の動的表現(十)

▼鼻の表現は眼にも止まらず心にも残らぬ。

▼しかも不断にその人の真実の奥底まで表現してソックリそのまま相手に感銘させている。

▼そして鼻自身は知らん顔をしている。

▼その相手の感銘にこっちの鼻以外の表現で瞞だましたり乱したりする事が出来る。

▼しかし鼻の表現だけは偽る事も誤魔化す事も出来ない。

この事実の如何に一般に認められていないかという事は驚くべきものがあります。それは恰あたかも一般人士が常に自分の鼻に導かれて歩行しながら、些しも鼻の御厄介になった覚えはないと考えておられるのと同比例しはしまいかと考えられる位であります。

同時にこの偽り得る表現と偽り得ない表現とが如何に入れ交まじり飛び違って日常の交際に活躍していることでしょうか。舌筆に尽されぬ位複雑多角形な人類生活の各種の場面に出合った人々の、形容も出来ぬ位込み入った各種の表現が、如何に巧みに、或いは如何にゴチャゴチャと刹那的に行われつつある事でしょうか。そうして如何なる反応と共鳴とを交換しつつある事でしょうか。

「こんな高価たかい帯地が買えるものかね」

と番頭さんには云いながら、「欲しいわねえ」という鼻の表現を御主人に振り向けられます。御主人はさり気なく葉巻の煙をさり気なく吹き上げながら、

「そうだなあ」

と鼻だけニッタリとさせて、「ネーアナタ」を期待しておられます。序ついでに「些し困るけどお前のためなら」という恩着せがましい表情を鼻の御隅おんすみに添え付けておられる……といったような場面はちょいちょい拝見するようであります。この表現を見分けるか見分けぬかが又番頭さんの腕前の分かれるところで、この潮合に乗りかけて、

「その代り柄や色合はしっかり致しておりますから却かえって御徳用でゲス。第一見栄みばえが他のものとは全く御覧の通り違いますから……近頃ではどなた様も消費経済とかいう思召おぼしめしで却ってこのようなのが、エヘヘヘヘヘ」

とか何とか思い切って踏ん込めば、最後の「ネーアナタ」と「止むを得ぬ」とを同時に占領する事が出来るのであります。

「あなたの御蔭で私は起死回生の思いを致しました。御鴻恩ごこうおんは死んでも忘却致しませぬ」

「どう致しまして。畢竟ひっきょうあなたの御運がいいので……何しろ結構で御座いました」

というような会話が如何にもまことしやかに取り換わされます。ところがお礼を云われた方では何だか物足りないような気がしている。

「あいつどうも本当に有難がっていないらしい。世話をして見ると案外軽薄な奴に見える。一寸一杯喰わされたかな」

という一種の不愉快と不安が湧いている。そのような場合はきっと相手の鼻が衷心からの感謝の意を表明していないためで、

「こう云っときゃあ喜ぶだろう。又頼む時にも都合がいいから」

位の有難さしか感じていないその熱誠の度合いがそっくりそのまま鼻の頭に顕あらわれていて、その眼や口が表現している熱度よりも著しく低い度合を示しているからであります。

「お宅に伺いますとついのんびりして了しまうので御座いますよ。ほんとに気が置けなくて……それにまあいつも晴々した見晴らしで御座いますこと……オヤ坊ちゃんおとなしですこと……一寸入いらっしゃい、抱だっこしましょう」

と口では云いながら、内心実はつまらない。長居したくない。ほんの義理で来ているので、うちにはまだ用事がドッサリあるとノツソツしていると、眼や口はニコニコしながら鼻だけどことなくソワソワしております。

デリケートな相手になると直すぐにこれに感じて、ちっとも落ち着かぬまますっかり落ち着いたふりをして、

「ホントニ御ゆっくり遊ばせな。お久し振りですから」

とか何とかバツを合わせながら障子の蔭で鼻の頭をイライラさせつつ、急いでゆっくりとお茶やお菓子を出します。

双方のびやかにお茶を嘗なめてお菓子を嗅いで眼や口を細くして語り合いながら、お互いの鼻同志はとっくに気がさし合ってウンザリしている。いい加減シビレが切れたところで、

「アノ……では……又」

「アラまあお宜しいじゃ御座いませんか」

と立ち上って玄関へ出る。ここで初めてどちらもホッとした鼻の表現を見せ合いながら、イソイソと出て行かれる。一方はサッサと引込まれるといったような御経験は、特におつとめの些すくない、率直を重んぜられる吾が日本の御婦人方にとってお珍らしいであろうと考えられます。

田舎から出てきた叔父さんが天下泰平の長逗留をする。これに閉口した若夫婦が、

「お国のお子さん方は淋しいでしょうね」

と親切そうに云う時の鼻の表現を見損ねた叔父さんは、

「有難う。そのうちに学校が済んだら三人共呼び寄せるかね」

と飛んでもない感謝を表明する事になります。その時に見合わせる若夫婦の鼻の表現……。

「死にたい、死にたい」

と云いながら死にたい気ぶりも見えぬ姑の鼻。どうぞそう願えますなら――と云いたい一パイのところを、

「アレ、又あんな事。後生ですからおっしゃらずに」

と打ち消す嫁の取りなし顔の鼻の表現。そこに起こる明暗二ふた道の鼻の表現の撫で合いとつつき合いは、あまり有りふれ過ぎております。

寧むしろ姑の方でニヤニヤ笑いながら、

「私はノラ見たいな女が好きだよ」

というキルク抜式の鼻の表現――これに対するお嫁さんがまたエヘヘンと云う見得で、

「私は矢張り乃木大将の夫人式が本当と信じますわ」

と応こたえるサイダ抜式鼻の表現――この対照の方が表現派向きかも知れませぬ。

鼻と実社会

――鼻の動的表現(十一)

こうして鼻の表現は、その大小、深浅、厚薄取り取りをそのままに、無意識の裡に相手に感応させております。相手も又無意識のまま感応に相当する意志や感情を動かしてその鼻に表現しているのであります。

この点に気付かない人が多いのと同比例に、世の中の事が思い通りに行かぬ人が多いらしいのであります。そうしてそこに鼻の表現の使命が遺憾なく裏書きされているのであります。

「おれがこんなにお百度を踏むのに、彼奴きゃつは何だって賛成しないのだろう」

「妾わたしがこれだけ口説いているのに、あの旦突だんつくは何故身請してくれないのだろう」

「親仁おやじはどうして僕を信用してくれないんだろう」

「彼奴きゃつ威おどかしても知らん顔していやがる」

なぞよく承わる事でありますが、これはさも有るべき事で、御本人の誠意が無い限り鼻が決してその誠意を裏書きしてくれないからであります。お向う様を怨むよりお手前の鼻に文句をつけた方が早わかりかも知れませぬ。このほか……

「親仁は癪に障るけど、おふくろが可哀相だから帰って来た」

という意気地無しの土性骨。

「奥様がおかわいそう」

という居候のねらい処。

「一ひねりだぞ」

と睨む空威張。

「会いとうて会いとうて」

という空涙。いずれもすっかり鼻に現われて相手の反感を買っているのであります。

しかもこうした鼻の表現の影響は単に差し向いの場合に限られたものではありませぬ。もっと大きな世間的の行事又は社会的の運動――そんなものにも現われて、その如何に偉大深刻なものであるかを切実に証明しているのであります。

「資本家を倒すのは人類のためだ」

と揚言しながら「実はおれ自身のためだ」というさもしい欲求――

「労働運動は多数を恃たのむ卑怯者の群れだ」

と罵倒しながら「おれの儲け処が貴様達にわかるものか」という陋劣ろうれつな本心――

「多数党如何に横暴なりとも正義が許さぬぞ」

という物欲しさ――

「本大臣は充分責任を負うております」

という不誠意――

どれもこれもその云う口の下からの鼻の表現に依って値打ちは付けられて、天下の軽侮嘲弄を買い、同時にその成功不成功を未然に判断させているのであります。

鼻の表現は随分遠方からでも見えるらしいのであります。

議会壇上に立って満場の選良に対して、

「本大臣は本日ここに諸君に見まみゆる光栄を有する事を喜ぶ」

とか何とか音吐朗々とやっております。然るに内心では、

「ヤレヤレ又馬の糞議員共が寄り集まった。此奴こやつ等と見え透いた議論をしなければ日が暮らされぬのか。要するに余計な手数なんだが、馬鹿馬鹿しい」

という考えでおりますと、不思議に議場の隅に生あくびを噛み殺す奴が出て来るのであります。御同様に議員さんが立ち上って、

「国家のために政府案に賛成するのだ」

と拳固をふりまわしているのを見ると、

「これも役目だから」

という気持がスッカリ鼻の表現をだれさせているために、「国家のため」という言葉が根っから感動を与えないのがあります。

数万の聴衆を飽かせない大雄弁家でも、

「とにかくおれの演説はうまいだろう」

という気もちを鼻の頭にブラ下げて壇を下くだれば、人々の頭には演説の趣旨は一つも残らずに只、

「うまいもんだなあ」

という印象だけが残ります。うっかりすると「演説使い」だとか「雄弁売り」――又は時と場合では「偽国士」とか「似而非えせ愛国者」とかいう尊号を受うけないとも限りませぬ。

喰い詰めた宗教家はよく十字街頭に立ちます。鬚だらけの穢きたない姿に殊勝気な眼付、口もとして、

「アア天よ。この恵まれざる人々を……」

なぞやっております。しかしその下から、

「皆さん、欲をお離れなさい。そして私に御喜捨をなさい。私が神様に取次いで上げますから」

という情ない心境をその日に焼けた鼻に表現しておりまするために、人々に嘲笑冷視を以て迎えられております。

彼等はこれを知らずして只徒いたずらに天を仰いで空しく世道人心の頽廃を浩歎こうたんしているのであります。思い切って鼻を往来の塵に埋めて、

「どうぞや、どうぞ」

と言う乞食よりも賢明でないものである事を同時にその鼻が表明しているのであります。

悪魔の鼻

――悪魔式鼻の表現(一)

こうして鼻の表現は絶対に偽る事は出来ないものでしょうか。どんなにうまい口前で如何ように眼や口を使いわけても、それが心にもない事である限りいつも鼻の表現に裏切られていなければならぬ筈のものでありましょうか。喜怒色に表わさずというモットーを文字通りに守り得る程の社交的人物でも、鼻ばかりは常に喜怒を表わしていなければならぬ筈のものでありましょうか。

フットライトの中に浮き出してあでやかに笑いまわる舞姫の鼻の表現のわびしさは、絶対に拭い除のける事の出来ないものでしょうか。展望車の安楽椅子に金口きんぐちを輪に吹く紳士の鼻の淋しさは、何とも包む術すべはないものでしょうか。リモシンのフクント硝子ガラスの裡うちに行く人をふり返らすボネットの蔭からチラリと見える白い鼻の愁い、悲壮な最後を遂げた名士の棺側に付添いながら金モール服揚々たる八の字鬚の誇り……これ等の表現は絶対的に不可抗力のあらわれとして諦められなければならないものでありましょうか。

鼻の表現は眼や口なんぞと同じように支配する事は絶対に出来ないものと決っているものでありましょうか。

もしこの鼻の表現を自由自在に使いこなして、如何なる出鱈目でも嘘っ八でも決して他人に看破されない位に充実した鼻の表現でもって、その真実である事を裏書きして行く事が出来るものがいるとしたら、その者は如何に恐るべき成功を世渡りの上に博する事が出来るでありましょうか。

如何なる残忍酷薄な奴でもその鼻の表現に、自由自在に熱情の光を輝かす事が出来るものとしたならば、その人間の運命は如何に光明に満ち満ちたものとなり、その人間以外の社会生活は如何に暗黒な不安の裡うちに鎖とざされる事でしょうか。

ここに「悪魔の鼻」と題しましたのは、この鼻の表現をある程度まで自由に支配しうる種族が人間社会にかなり沢山に存在しているのを総括して研究し批判して見たいためであります。

一面から申しますれば、眼付きや口もとの表現で他人を欺き得るものはまだ徹底的に欺き得るものとは云えない……悪魔の名を冠かぶらせるに足りない。鼻の表現に依って人を欺き得たもの――即ち全然虚偽の表現を徹頭徹尾真実の表現と見せかけて他人を心から感動せしめ得るものこそ真の悪魔でなければならぬという見方から、かように悪魔式鼻の表現なるものを仮定した次第であります。

先ず悪魔の鼻の研究に先だって是非とも研究しておかなければならぬ鼻が一種類あります。それは名優と称する人種の鼻であります。

名優の鼻

――悪魔式鼻の表現(二)

昔から名優と名を付けられた程の人々は、その身体からだのこなしや眼や口の表現は勿論、鼻の表現までも遺憾なく支配し得たものと認め得べき理由があります。

泣く時は衷心から泣き、笑う時は腹の底から笑う。怒る時は鼻柱から眉宇びうにかけて暗澹あんたんたる色を漲みなぎらし、落胆する時は鼻の表現があせ落ちて行くのが手に取るように見えるまで悄気しょげ返る。悠々たる態度の裡に無限の愁いを含ませ、怒気満面の中に万斛ばんこくの涙を湛たたえ、ニコニコイソイソとしているうちに腹一パイの不平をほのめかす。

これが所謂腹芸という奴で、こうして名優の心の底の変化は腹の底から鼻の頭へ表現されて、自由自在に見物に感動を与える事、恰あたかも無線電信のそれの如くであります……。しきりにシカメ面をして涙を拭う真似をしていながら、鼻だけはノホホンとしているために見物には何の感動をも与え得ないヘッポコ役者の表現法とは、その根底の在り処が違うのであります。

彼等名優がどうしてこのような不可思議な術を弄する事が出来るかという疑問は、昔から既に解決されております。その人物になり切ってしまう――その境界になり切ってしまう――という芸術界の最大の標語がそれであります。

その人物になり切ってしまう――見物の中にいい女がいようと、道具方が不行届であろうと、相手方がまずかろうと、人気があろうと無かろうと、そんな事は一切お構い無しに、すべての娑婆世界の利害損失の観念、即ち自己から離れてしまって、その持ち役の人物の性格や身の上を自分の事と思い込んで終しまう。その持ち役の人物と扮装と科白せりふと仕草とに自分の本心を明け渡して終う。

その境界になり切ってしまう――すべての実世間の時間と空間とを脱却して、舞台上の時間と空間に魂の底まではまり込んでしまう。舞台の道具立て、入れかわり立ちかわる役者の表現、そこに移りかわってゆく出来事と気分、そこにしか自分の生命は無いようになってしまう。

実在する悪魔

――悪魔式鼻の表現(三)

然るにここに、この名優式の鼻の表現法を堂々と実世間で御披露に及んで、名優以上の木戸銭や纏頭はなを取っているものがザラにいるのには驚かされるのであります。

その主なるものは、毒婦とか色魔とか悪党とか又は横着政治家(政治家でいて横着でないものはあまりありますまいが、ここでは仮りに正真正銘の憂国慨世の士と対照してかく名付けたのであります)とか名づけられる種類であります。この他その商売商売に依っていろいろの悪魔性を帯びた者がいくらもあるに違いありませぬが、ここにはこの四つを代表的なものとして取り扱って見る事に致します。

彼等がその鼻の表現を使いわける代価として望むものはいろいろあります。男女の貞操を手はじめに、金銭、貴金属、衣服、財産、その他何でも……わけても横着政治家となりますとずっと狙い処が大きくなって、名誉権勢、地位人望、利権領土、その他あらゆるものを鼻の表現で釣り寄せようとするのであります。

毒婦とか色魔とかが異性を操る事の自由自在さは全く驚くべきものがあります。何方どなたにしても嘘とわかっているのにどうしてあんなに根こそげ欺されるのであろうと、さながらに魔術のように感ぜられるのであります。

これには引っかけられる側の自惚うぬぼれや色気や意志の弱さなぞもありましょう。又は引っかける側の弁才や容色もありましょう。しかしその中うちにも働きかける側の表現の上手なこと――わけても鼻の先の気分の扱い方の巧たくみなために、受け身側に徹底的の感動を与えるためであることも無論であります。

「それでは私に死ねとおっしゃるのですね」

と云うと、相手の異性は真青になってしまうのであります。これはその鼻が本当に死にたいという切り詰まった表現をしていると同時に、あなたより他に思う人は無いという気心を裏書きしているからであります。同様に、

「あなたとならばドコマデモ……」

という月並みな文句で相手をグンニャリトロリとさせて終しまうのは、その秋波が五分もすかさぬ冴え加減を見せると一所に、その鼻の表現がその場合にふさわしい真実味をあらわしているからであります。

これが少々ハイカラなのになって来ると、

「あなたを恋してはじめて私の卑しいすべてが私をさいなみ初めました」

と告白するその鼻が、その謙遜と誠意とをもって自己のアラを蔽おおい、且つ相手の同情を動かすべく如何につつましいつらさを示しているか。

「私のようなもののためにあなたのような貴いお美しい方の生涯を傷つけるという事はあまりに残酷だと思うと、つい気が引けて……」

と恥じらいを含んだ鼻の表現が、如何に相手の気を引き動かすに充分であるか、そうしてその自尊心をゾッとするまでに満足させるか……。

毒婦、色魔、悪党

――悪魔式鼻の表現(四)

敵は本能寺にあり、相手の生血を吸い取り得れば――相手を丸裸になし得れば――又はどこかに売りこかし得れば、あとは野となれ山となれ――泣こうが喚わめこうが発狂しようが、どこを風が吹くという鼻の表現で取り付く島もなくふり捨ててしまうのであります。

毒婦や色魔は世間を摺れ枯らした結果、すべてに対して捨て鉢であると同時に高を括くくっているのであります。すべてに対して絶対に冷やかな態度を執り得ると同時に、その相手に対して寸分の未練も残さないのであります。鵜の毛で突いた程でも未練があればそれが直ぐにこちらの弱味……鼻の表現の変化の妨げ……になる事をよく心得ているので、いつ何時でも「嫌なら嫌でいい」という態度を取り得るまでに腹を締めているのであります。

ですからすべての執着や気がかりを離れて、どんな気もちにでもなる事が出来るのであります。名優と同じように、その境界や場面のうちで最も相手の弱点を捕え得べき感情や意志を腹の底から表現する事が出来るのであります。真そこから泣き、笑い、怒り、怨み、拗すね、甘ったれ、しなだれかかり、威おどし、すかし、あやなす事が出来るのであります。

悪党とても同様であります。彼等は実世間を舞台とし背景として名優の鼻の表現法を行うものであります。

彼等は無言の裡に満腔の涙をその鼻の表現に浮き上らせて、相手の真実の感銘を誘います。彼等は物事が如何に思う壺にはまっても、そんな事はこっちの本旨ではないという、冷然たる鼻の表現を示し得るのであります。

「おれを引き渡すなら引渡せ。そうなりゃあ貴様も地獄の道連みちづれだぞ」

と度胸をきめた鼻の表現の物凄さは、大抵の向う見ずでも震え上らせずにはおきませぬ。

「思いもかけぬ御尋たずね。何と申開きを致してよいやら。露おぼえの無い事……」

とひれ伏した鼻の表現の神妙さ。一通りのお役人なら一杯喰わされるにきまっております。

彼等の偉大なものになると、泰平の世に何十万石の知行とか何万両の財産とかを手に入れるため、十数年もしくは数十年の間忠実無二の性格を鼻の頭に輝かしつつ明かし暮らす事が出来るのであります。明日こそ毒殺してくれようという当の相手の主人の前に出て、「恐悦至極」の表現を鼻の頭に捧げ奉る事が出来るのであります。

本心を殺して時節を見る事を知らずに正面から諫言をする一刻者の鼻の表現のうちに当然含まれている良心の輝き、主人に対する怨恨、不平、さかしら振り、そのようなものがいろいろ主人の反感を買うのとうらはらに、悪党たちの柔和な、へり下った鼻の表現が着々として成果を収めて行くのは無理もない事であります。

こうして回を重ねた揚句あげく、事遂ついに発覚して首の座に坐って、いよいよこれで一代記の読み切りという処まで来ても、彼等悪党は自若として鼻の表現をたじろがせずに一命を終るものすら珍らしくないのであります。

横着政治家

――悪魔式鼻の表現(五)

横着政治家も亦またこの例ためしに洩れません。殊ことにマキャベリー式政治家に鼻の表現を使いわけるタチの人が多いようであります。

この種政治家は事実でもない事を事実として吹聴して人を驚かしたり、確信も無い事を実際に出来るかのように世間に認めさせたりしなければならぬ場合に数限りなく出合うために、つい有意識無意識の間に鼻の表現の使い方をおぼえ込んでしまうのであります。

老人に会えば「旧式の教育法を復活しない限り国家は滅亡の他ない」と悠然として長大息し、青年と席を同じくしては「日本文化の時代遅れ」を慨然として痛論します。軍人に出会って、世界の帝国主義が事実上に高潮しつつある事を厳然として指摘するかと思えば、社会主義者の顔を見ては、人類社会に於ける形而上と形而下のすべてが宗教、政治、芸術、経済の各方面に亘って民衆化し共産化しつつある事を決然として断言します。

みんなを一所に聞いていると何の事やらさっぱり見当がつきませぬが、相手は皆一人一人に本当だと思って傾聴し感激し共鳴しているのであります。つまり本人はその都度別の人間になって衷心からそう信じて云うから、鼻の頭までも熱誠と確信の光りを帯おびて来るので、これに影響された相手は、如何にもあの人は感心だ。話せる人物だ。えらいお方だと思うようになる。そこが又横着政治家御本人の狙うところなのであります。

さらに大嫌いの先輩に腹の底からの好意を示し、真誠無双の国士に白い眼を見せ、資本家のノラ息子の人格に絶大の敬意を払い、失脚者の孝行息子を無下に軽侮した鼻の表現を以て迎える。又は有力家の前に堂々たる容儀を整え、金銭の奴隷に下足を揃えて御機嫌を伺う。しかも微塵も鼻の表現をたじろがせずに常に先方に遺憾なき感動を与えるのをお茶の子仕事と心得ているのであります。

彼等は幾度か身の毛も竦立よだつ浮き沈みに出合った揚句、所謂「度胸一つがすべての資本」という悟りを開いております。あらゆる失敗をやってあらん限りの恥を掻き上げた結果、羞恥心が思い切り摺り切れております。

一、すべてに対する未練、執着、気がかり、気兼ね等から超脱する事

一、すべてを冷眼視し得る度胸で本心のゆらめきを圧迫し去る事

一、如何なる俄にわか作りの感情、お座なりの意志、間に合わせの信念でも直ただちに本心一パイに充実させ得るように心掛ける事

といったような術を天然自然と会得しております。猫を冠かぶるは愚かな事、獅子でも豚でも蛙でも蛇でも、何の皮でも自由自在に脱けかわり被かぶりかわる事が出来るのであります。

こうしてその心にすこしのわだかまりも不安も無しに如何なる場面にでもしっくりと落ち着き合う事が出来るのであります。

どんな気分にでもゆったりと調和し合う事が出来るのであります。

ここに於て……

……鼻の表現はその本心や性格の色彩を現わす。故にその本心や性格を変化させ得るものは、その鼻の表現を支配する事が出来る……

という逆定理が完全に彼等のものとなって来るのであります。この逆定理を応用してその本心を打ち消し、その性格を隠して、鼻の表現をさながらにそれらしく変化させて行く事が出来るのであります。

この逆定理を舞台上の修業で手に入れたものは直ただちに名優となる事が出来るのであります。同様に実世間の舞台面で修得したものは直に悪魔式鼻の表現の大家、毒婦、色魔、悪党、横着政治家となり得るのであります。そうしてこの程度まで鼻の表現を研究し得れば、最早もはや所謂、機略縦横、神出鬼没の行き止まりとして世間から一種の敬意を払われるので、しかもこれを世渡りの秘訣、処生法の免許皆伝と心得ている人が又頗すこぶる多いように見受けられるのであります。

この悪魔式鼻の表現に威かされたり、感銘したり、共鳴したりする人も又頗る多いように見受けられます。そのままに世の中は滔々とうとうとして動き流れて行くのであります。

しかしこれを正しい鼻の表現法から見れば、極めて浅薄な皮相的な研究法で、鼻の表現の真諦に入る階梯とはならないのであります。却かえって一つの大きな邪道と見るべきものである事をここに特に力を入れて闡明せんめいしておきたいのであります。

鼻の表現法の真意義の研究に入るには、先ずその邪道なるものを飽く迄も知り抜いていなければ、その真意義なるものがはっきりとわかりにくいのみならず、却ってこの邪道に陥って又と再び本通りに帰る事が出来ないようになる恐れがあるのであります。

鼻の表現法の邪道なるものは、一度踏み込んでみると中中面白いものであります。大抵の奴はこの邪道でコロリコロリと参る……俗物は色気や欲気で誘い出し、君子はその道を以てこれを欺くといった風に、その効果が眼の前に現われます。どんな場合でもフン詰まらず、如何なる逆境でも順境に引っくり返す事が出来て、世間はどこまでも拡がって行くように見える。とうとうこれに浮されて、一生しんみりした鼻の表現の価値を認めず人間らしいつき合いの味を知らずに、しかも得々として眼をつぶる者さえ些すくなくないのであります。

正表現、邪表現

――悪魔式鼻の表現(六)

このような人々は悪魔に一生を捧げ尽した人と云うべきでありましょう。否、虚偽を以て真実を弄もてあそびつくすのでありますから、この人等をこそ悪魔と呼ぶべきではありますまいか。何等社会に与あずかるところなくして、社会からあらゆるものを奪い取るからであります。

その中うちでも偉い奴になると栄燿えいよう栄華心に任せ、権威名望意に従わざる無く、上は神仏の眼を眩くらまし、下は人界の純美を穢けがし去って、傲然として人間の愚を冷笑しつつ土の中に消え込むからであります。これを羨みこれを慕う凡俗の群は、踵くびすを揃えてこれに学びこれに倣って、万古に尽きせぬ濁流を人類文化の裡面に逆流させるからであります。

それならそれでもいいじゃないかと功利派の人は云うかも知れませぬが、左様さようばかり行かぬから困るのであります。悪魔式の鼻の表現は矢張り悪魔式鼻の表現で、どうしても正しい鼻の表現とは違うのであります。如何に巧みに、如何に徹底的に装っていても、必ずはっきりと見分けのつくところがあるのであります。

鼻の表現研究の面白味はここに到って益ますます高潮して来るのであります。

最初から只今までズーッと述べて参りました鼻の表現の実例は、これを大別すると二通りになるのであります。

前の方に述べました実例は、主として鼻の表現を支配し得ぬ人々で、これを支配するは愚なこと、そんな表現機関が自分の顔の真中に存在している事すら夢にも気付かずにいた人々がその大部分を占めているのであります。

それからおしまいの方に悪魔式鼻の表現法として挙げましたのは、虚偽であれ何であれ、兎とにも角かくにも鼻の表現を支配し得る人々で、中には鼻の表現法を悉ことごとく飲み込んでいる人もあるそうであります。そんな人は先ず世間では珍らしい方でありましょう。

ところでこの鼻の表現の支配し得る人々が何故に相手に深い感動を与え得るかと云うと、その眼や口や身ぶりの表現が鼻の表現と悉く一致しているからであります。だから本心からそう云っているように見える。思っているように察せられる。信ぜられる。

だから相手も疑わない。共鳴する。本気になる。とどのつまりが真っ赤な偽ものを真実至誠の者と認めて、身命を惜しまず奉公するという順序になって来るのであります。

個人もしくは民衆を徹底的に動かすものは真情の流露、至誠の発動であるという事は、今衆口の一致するところであります。而しかして真情の流露する時、至誠の発動するところ、必ずや全身のすべての表現の渾然たる一致を見なければならぬ筈であります。

本当に喜んでいるものならば、その全身の表現はその上っ面の表現機関たる眼や口や身ぶりはもとより、鼻の表現までも一貫して徹底的に喜んでいる筈であります。

衷心からそう信じているものならば、その鼻の表現は他の表現機関ともろともに徹頭徹尾確信の輝きに満ちていなければなりませぬ。

こうしてその人のすべての表現が鼻のために少しも裏切られていない事が相手にわかった時に初めて、その人の表現が純一であると認められ得るのであります。その人の真剣味や至誠の力が相手を動かし得るものなのであります。

すべての表現の渾然たる一致――それが相手たる個人及び民衆に及ぼす影響の偉大さ――この機微を盗んで或る程度まで成功しているものがかの名優、その他仮りに悪魔式鼻の表現家と名づけた人々であります。

この中でも名優は商売でありますし、その表現は或る意味に於て実社会と直接交渉が無いのでありますから咎とがむべきではありませぬが、その他の人々は遺憾ながら知恵の果くだものを盗み過ぎて食傷した猿と評する外ありませぬ。

この種の人々はその最大限度に於て仮りの本心、仮りの性格に依ってその鼻の表現を支配し得るに止とどまるので、まだ本当に本心や性格を改め得るとは云えませぬ。況いわんや持って生れた魂とか根性とかいうもの――ハイカラな言葉で云えば、大にしては国民性、小にしては個性と名づけられているもの――即ち鼻の表現のあらゆる変化の根柢を作っているそのものまでも転換し支配し得るわけではありませぬ。それ程左様さように深刻偉大な鼻の表現の研究者とは云えないのであります。

如何に徹底した悪魔式の鼻の表現であっても、無欲にして明鏡の如くに澄み切った心――悪魔以上に廓然かくぜん冷々たる態度を以てこれに対すれば、その底の底に悪魔らしい明智と胆力に対する確信の誇りが浮き上っているのがわけもなく見え透くのであります。さもなくとも普通人でも冷静な気持でこれに対するか、又は初めから呑んでかかるかすれば、大抵この種の鼻の表現使用者の腹の底――世間人間を馬鹿にし切っている気持ちがありありと見抜かれるのであります。況んや万に一つにも鼻の表現法の真髄に体達した人にこれ等の悪魔式鼻の表現が出会ったならば、すぐに根こそげ本性を見破られるでありましょう

何となき疑い

――悪魔式鼻の表現(七)

悪魔はあらゆる霊智の存在を無視し、世間人間を馬鹿にしております。その無視しているところにその本性を看破される原因が存在し、その馬鹿にしているところに馬鹿にされる原因が潜ひそんでいるのであります。

更にこれを名優の鼻の表現と比較すれば一目瞭然であります。名優の鼻の表現の根本基調を作なしているものはその芸術に対する熱誠只一つでありますが、悪魔の鼻の表現の基調をなしているものは、大胆さ、図々しさ、冷淡さ、狡猾さなぞで、決して澄み切った明るい表現とは見えないのであります。況ましてやその表現の根底が仮りの本心、仮りの性格であるに於てをやであります。

鼻の表現はこれ等を飽く迄も如実に写し出します。それは如何に上等の硝子ガラスで張った鏡でも、横から見れば必ず硝子の厚みがわかると同時に濃淡二様の二重映像が見えるのと同じ道理であります。如何なる悪魔の二重三重の底意でもさながらにその鼻に写し出されるのであります。

更にこの事実が相手方の共鳴又は反響の程度に依ってありありと証拠立てられるに到っては、鼻の表現研究に対して無限の興味を感じないわけには参りませぬ。

「人民保護の警官が人民を斬るとはなに事ぞ」

と大道演説壇上で男泣きに泣く人を民衆は神様として担ぎ上げます。しかしこの人のためなら生命いのちを捨ててもと思うものはただの一人も無いのであります。

天下を窺う奸物の部下に就くものは、恩賞に眼がくれた欲張りか情誼じょうぎにほだされた愚物か、又は奸物を承知でくっ付いた奸物かに限られているようであります。聡明敏慧びんけい抜群の士でも、権謀術策を以て人を率いようとする限り、その部下に心服されないという実例は、昔から数多く伝えられているようであります。

「添われぬ位なら一層死にます」

と親には云いながら、女には土壇場で、

「お前はおれを欺すのじゃあるまいね」

と今一度念を押したくなるのは、その女の鼻の表現の底に横たわる冷やかな或るものに感じている証拠ではありますまいか。

云い寄る男に心は引き付けられながら、親しい学友にそっと手紙を見せて、

「あたしどうしようかと思っているのよ」

と相談をして見るのは、相手の言葉と鼻の表現とにそぐわないところがあるのにいつとなく感じた不安からでありましょう。

悪魔式鼻の表現の苦手は、いつでも音おとなしい正直な人間か又は数等上手うわてを行く明眼達識の士かであります。このような人々の無欲な静かな、そうして澄み切った眼は、悪魔式鼻の表現家の最も忌み嫌うところであります。

うっかりするといたいけな小児たちまでも、恐るべき苦手となる事が些なくないのであります。家内眷族が尽ことごとく信用し切っている叔父さんや伯母さんを、お嬢さんや坊ちゃんがどういう訳だか好かない事があるのであります。

「あの人は嫌い」とか「あの人は嘘吐つき」とか、別に欺だましもしないのに平気で宣告する事があります。これはその純潔な澄み切った心の鏡に、愛想のいい相手の鼻の表現の底に横たわる或るものがチラリチラリとうつるからで、いくら御機嫌を取っても誠意を示しても益ますます反感を買うばかりとなる事すら珍らしくないのであります。

偽った鼻の表現の価値がどれ位のものであるか、同時に鼻がその人の二重三重の底意までも如何にデリケートな程度にまで写し出すものであるかという事は、今まで挙げました例証で最早もはや充分に御了解出来た事と思います。

記憶と鼻

――悪魔式鼻の表現(八)

更にこの鼻の表現の邪道――掴ませものの鼻の表現――悪魔式鼻の表現を根本的に裏切り得る一種の鼻の表現があります。

それは人間の記憶に対する鼻の表現であります。

心に暗い記憶が浮かめば、その人の鼻の表現は自然と暗くなって来るものであります。快濶な輝きが見えなくなって、しまいには黙り込んでしまうようになります。甚だしくなると眼までも閉じて、これを打ち消そうと試みる位になります。しかもそうすればする程益ますますその記憶がありありとなって来る。同時に鼻の表現は益暗くなって来るのであります。

明るい記憶が浮んだ場合は、又これと正反対の結果を鼻の表現に現わすという事は、誰しも容易に認め得る事実であります。

鼻はその記憶の深浅、大小、濃淡から、これに対する良心の反映の明暗、厚薄まで一々残る方なく写し出すのであります。

その結果が如何に恐るべき影響を自分以外の者に及ぼし、その影響が如何に自分に反射して来るものであるか、十目の見るところ十指の指すところ、如何に隠しても隠し切れぬものであるか、神様は見通しという因果関係が如何にして出来て来るものであるかという研究は、さらに鼻の表現に新生面を与えるものでなければなりませぬ。

ここに男性というものがあると仮定します。

その男性なるものは極度に婦人を侮辱し蹂躙する事を得意とする性格を持っていると仮定します。その鼻の表現が如何に記憶に支配されて相手の婦人に影響して行くか……。

昨日は女優、今日はウエイトレス、明日あすは女学生、明後日あさっては交換嬢と、到る処に手を握り締め涙を流して、

「あなたは僕の未来の妻です」

と身をふるわせ得る鳥打帽……。

「きっと身受けして本妻に」

と行く先々で嬉しがらせる金鎖……。

或いは又、吾が家の前で今一度口を拭って、

「ああくたびれた。どうも用事が長引いてね……」

と鞄一パイのお土産を荷かつぎ込む中折れ……。こんな方々が如何に色男で才子で信用があっても、変態心理の所有者でない限りその心に残っている記憶の影を踏み消す訳に参りませぬ。如何に相手に真剣の愛を注いでいる如く如何に巧たくみに装っているにしても、同時に一方に一件の事を思い出さぬわけには行きませぬ。

すべて知られてならぬ事は、知られてならぬ場合に限って特別にハッキリと心に浮かむものであります。長い事忘れていた借銭でも、貸した奴の顔を見ると忽ちに思い出すようなもので、まことに生憎千万なものであります。

色事なぞは取りわけても左様さようなので、隠そうと思えば思う程ハッキリと思い出します。

真剣になろうとすればする程アデな調子になります。

そこでそこいらが何となくクスグッタクなる、コソバユクなる。「ウフン」とか「エヘン」とか「オホン」とか「ウニャムニャ」とかいう誤魔化し気分、又はその当時のモテ加減なぞを思い出して浮ふっかり出た「ニヤニヤ」とか「ウフウフ」とかいう気持ちが、鼻の表現の中うちを往来明滅するのを禁ずる事は出来ないのであります。

このような場合には相手の婦人が鼻の研究者でない限り、又は余程の明眼達識の女性でない限り、もしくは特別の注意を男性の表現に払っていない限り気が付かないのが普通であります。しかしこれは有意識にそれと突き止め得ないだけで、無意識的には必ずこの男性の鼻の表現の裡面を往来する怪しい気分に感付いているものなのであります。女がゾッコン惚れ込んでいればいるだけ、この方面に対する神経は緊張しているものであります。

偽表現の影響

――悪魔式鼻の表現(九)

旦那様を信用し切っている奥様でもいつの間にか一件を感付いて御座るというのは、こんな消息があるからであります。

男性が念には念を入れてその隠し事の気ぶりを晦くらまし、又は知恵の限りを絞ってその秘密の足跡を掻き消していればいるだけ、それだけその努力と苦心の痕は鼻の表現の底に暗い影となって残っているものであります。極めてヒステリックな婦人又は極めて順良な女性には又特にこのような点に敏感なのが多いようであります。

このような女性は動ややもすると理屈なしの不意打ちに男性の言葉を「ウソ」だと否定し、男性が隠し切っている心理状態を思いも寄らぬ方面から抉えぐり出して痛烈な攻撃を加えることがあります。又は眼の前ではさり気なく男の言葉にうなずいていても、いつかどこかで人知れず袖そでを噛みしめていることなぞがあります。

二人切りになった時、妙にしおれた様子をしていて、

「どうしたのか」

と尋ねても理由を云わない。あれかこれかと問い詰めた揚句ワッとばかりに泣き出すので、やっとわかるなぞいうのがあります。

もっとヒステリーなのになると、夫の顔を見るたんびに何だか淋しくたよりなくなる。男の顔を見るのが物悲しく心苦しくなる。理屈も何も無いままにこの世が心細くわびしく思われて来て、

「あたしこの頃何だか変なの。あたし一人でいたくて仕様がないの。どうぞ構わないで頂戴」

なぞ云いながら、自分でも何故そんな気もちになるのだかわからない。身に余る晴れやかな男の親切の裡うちに、たよりなさ、わびしさがますます深く感ぜられて来る。

「これがヒステリーというものでないかしら」

なぞ考えているうちに、とうとう本物のヒステリーにかかってしまう。かかってから初めて潜在意識を意識して、

「あなたは妾を欺していらっしゃるでしょう」

と正面から開き直り得るような事になるのであります。

こんなのになると、いくら云いわけをしてもあやまっても頑として聴き入れないようであります。眼玉が灰落しのように凹へこみ、胸が洗濯板のようになって、怨み死にに死ぬまでもであります。

鼻の表現の影響の深刻さ、ここに到って実に身の毛も竦立よだつ位であります。

一方にこうして女性に図星を指された場合、男性はその面目上憤おこるのが十中八、九のように見受けられます。ジロリと睨んだだけで相手を押え付けてしまう千両役者もありますが、大抵の場合それだけでは気が済みませぬ。

「そんな卑しい男と思うか」

とか何とか眼も口も頬も額も、身体からだ中の表現をむずつかして自分の心底の公明正大を証明しようとします。その中には世間の習慣に楯つこうとする女性の生意気さに対する憤り、今までに与えた恩誼に対する相手の無自覚さに対する不満なぞいう良心の錯覚もまじっているのであります。その錯覚の勢いで相手を圧倒すると同時に、自分の正しからぬ鼻の表現を誤魔化そうと試みるのであります。

しかし生憎あいにくにも鼻はいつもこの表現を裏切っているのであります。その暗い記憶に対する気の引け加減は、眼や口が怒りの表現で大車輪になってるさなかにも、鼻の表現にちゃんと居残っているのであります。

馬鹿にされる

――悪魔式鼻の表現(十)

少々余談に亘りますが、男性の中でも夫と名付くる種類の中うちには、どうかすると吾家わがやに帰って来るたんびに、初めから怒鳴り込んで来るのがあります。

さもなくとも何か知ら機嫌が悪くて、事毎ことごとに難癖をつける。まごまごすると烈火のように爆発するなぞいう難物があります。この心理状態を解剖すると非常に複雑になりますが、要するに吾が家に近付くに従って、前に述べました原則に従って暗い記憶が鮮かに解って来る。それにつれて嬶かかあや子供の何も知らぬ顔付きが、恰あたかも良心の刺激その物のように腹立たしいものにかわって行く。その罪の無い鼻の表現に対する自分の暗い鼻の表現が、無意識のうちに気がかりになって、苛立たしい不愉快な気持ちになって行く。それをそうとは自分でも意識し得罪も無い枕を投げるような事にもなる。又はこのような心理状態を自分で認めていながらのテレ隠しもあるという次第で、鼻の表現がその暗さと空虚さを使いわけて、このような怒りの表現を一々裏切って行く点に変りは無いのであります。

ですからしまいには女子供にまで馬鹿にされて、「ソラお帰りだ」とか「又初まった」位にしか扱われぬ事になります。本人もこの程度の成功に満足して、「とにかく一件がバレなければいい」というような情ない日を送る事になります。自分の鼻の表現に呪われた男ほどミジメなものはありませぬ。

その他、自分の良心に対する女性の正面攻撃に出合った場合、男性の執る態度や手段はいくらでもあります。利口なのや馬鹿なの、気の長いのや短いのなぞに依って種々雑多に千変万化しますが、いずれにしても鼻の表現に裏切られる事は免れ得ませぬ。本当に前非を後悔して、悄然しょうぜんとして異性の膝の前に「お許し」を哀願しない限り、自分自身の鼻の表現の根底を作っている本心の「お許し」も出ませぬ。鼻の表現の底を往来する「暗い記憶の影」は除かれない事になります。

ありとあらゆる男性は、皆申し合せたようにこのお許しの哀願を忌避します。忌避するためにジタバタ致します。知恵のあらん限りを絞って、掛引きのあらん限りを試みます。芝居や小説のタネが尽きませぬ。鼻の表現研究の興味も尽きない事になるのであります。

しかし又世間は御方便なもので、一方から見るとこの鼻の表現の影響は、こう迄厳密に男女関係に当てはまって行きませぬ。

つまり男性ばかりでなく相手の女性の鼻の表現――本心や性格にもいろいろな条件が付いていて、男性の鼻の表現に対する感覚が鈍っているのであります。惚れた弱味や惚れない強味、先入主や後入主、自惚うぬぼれや贔負ひいき目、身の可愛さや子の可愛さなぞいう物質的や精神的な条件が、底も知れぬ位入れ交まじって淀みつ流れつしております。その上をその日その日の気分の風が吹き、その時その時の感情の波が立ち騒ぐといった調子で、相手の鼻の表現を底の底まで映し出しながらも、風に吹かれ波に消され、又は流れに引かれて、思うがままの態度を取りにくいのが普通であります。そのために笑って済ます切なさもあれば、泣き寝入りのあわれさもあります。一方には女郎の千枚起請きしょうや旅役者の夫婦約束が、何の苦もなく相手を自殺させるなぞいう奇蹟が続々と起って来ることになるのであります。

悪魔式鼻の表現はこの間に活躍して縦横無礙むげにその効果を挙げるので、鼻の表現研究の必要もここに到って又益ますます甚だしくなるのであります。

貞操と鼻

――悪魔式鼻の表現(十一)

近来「男子の姦通罪を認めよ」とか「認めるな」とかいう問題が次第に八釜やかましくなって、議会にかけるとかかけぬとか騒がれているようになりました。

現代の社会組織とか、この中に行われる習慣とか、又は一般道徳とかいうものを標準にされる法律では、こんな問題が問題になるかも知れませぬ。市役所に出す婚姻届が絶大の権威を持つ法律では、こんな研究が八釜しい研究材料となるかも知れませぬ。しかし鼻の表現研究の原則から見れば全く問題とするに足りませぬ。研究する事すら馬鹿馬鹿しい位であります。

妻は常に夫に対して純真純美な鼻の表現を見せていなければならぬと同時に、夫は常に妻に対して公明正大な鼻の表現を示していなければなりませぬ。仮かり染そめにも鼻の表現に暗い影響を及ぼすような、暗い心理的経過を持ってはなりませぬ。これは誰にでもわかり切った問題で、又それだけの事であります。

法律の御厄介にならねばならぬような貞操関係を持つ夫婦は、世間的には夫婦かも知れませぬが、人間的には夫婦でありませぬ。市役所の戸籍面では夫婦かも知れませぬが、鼻の表現上の夫婦関係は消滅しているのであります。そんな事ならば初めから夫婦にならぬ方がよろしい。否、初めから恋をせぬ方がよろしい。生涯互たがいに独身主義を守って只一時限りの……又は売り物買い物の低級な性愛や性欲で満足を買って行くがよろしい……と云いたくなりますが、これは机上の空論で実際はなかなかそうは行きませぬ。

世間に習慣というものを生み出した人間が、その習慣の根本原理に対する無理解のある限り――社会というものを組織した人類が、その社会組織の原則に対する無自覚のある限り――又は異性同士が、「性欲」と「恋」と「愛」とに対して無区別、無分別である限り――さらに突込んで云えば、相手の本心の動き方や性格のかたまり方の美しさよりも、肉体や容貌や挙動なぞの美醜――さらに今一つ突込んで云えば、鼻の表現よりも、鼻以外の表現の方が愛の対象としての価値を定める条件としてより多く重んぜられている限り、男女関係の悲喜劇は永久に地球表面上から絶滅しないのであります。警察に出る捜索願いが絶えないわけであります。船板塀に見越しの松や、売れなくともよい小売店の影は決して世の中から消え失せない道理であります。下等のところでは肉の切り売りをする五燭光の影、上等なのでは良心の卸問屋に輝く百燭光の燦きらめきが夜の世間から退散しない筈であります。

つまるところ遺憾ながら、問題は矢張り法律の必要な世界に逆戻りして来るので、結局原則は原則、実際は実際という事になります。親同志で勝手に取り決めた不見転式みずてんしきの許嫁いいなずけが幸福やら、合わせ物、離れ物式が真理やら、今の世の中ではわからない事になって来ます。

日本ではまだ戦国時代の婦人邪魔物的観念、封建時代の人間の消費経済や血統保存、又は家庭経済の成り立ちから来た道徳的習慣なぞが残っております。そのために婦人は多少に拘らず束縛されて、貞操を破り難い立場に置かれておりまして、その貞操に対する道徳的習慣は、殆どその良心の鋭敏さ――純潔無垢な恋の発露と一致せねばならぬ位に切り詰められております。道徳の方からは、「貞女両夫に見まみえず」なぞと睨み付けられているし、習慣の方からは世間の口端くちはという奴が「女にあれがあってはねえ」と冷たい眼で見詰められております。女性の良心はこの点では、直すぐに行き詰づまらせられるのであります。

一面から見れば日本の文化程度は、形而上だけでも婦人の貞操に就いて進歩している、純愛の原則に合致し得る迄に突き詰つめられ、理想化されていると云ってよろしいでしょう。

これに対して男性の貞操はさほどに切り詰められておりませぬ。理想化されておりませぬ。道徳も習慣も男性の貞操に関しては、明瞭はっきりした定義を下しかねているようで、却かえって「男の働きだから仕方がない」なぞと女性の方を押え付けるような傾向さえある位であります。そうして男性の貞操はいつ迄も非文化的、利己的、動物的であるままに放任されているかの観があります。従って男性は神聖なる恋、又は純粋なる愛を婦人と共に享楽する機会を永遠に奪われているかのように見えます。

これに対して近頃「男子の貞操」が問題になりかけて来たのは、誠にさもあるべき事であります。太平楽の並べ合いをする「男女同権」の意味からでなく、家庭和楽のすすめ合いをする「男女同義務」の上から見て――鼻の表現研究の行き方である恋愛至上主義、即ち文化生活向上の意味から見て、取り敢ず大白たいはくを挙げて慶賀すべき現象と考えられるのであります。

ところが男性の貞操に対する道徳観念、又は性的欲求に対する習慣は、なかなかこれ位の威おどかしで改良されそうな気色はありませぬ。「男性の貞操に関する法律」が婦人議会で可決されて、婦人の司法官に依ってビシビシ執行されない限り、一般の男性は依然として旧来の道徳と習慣の中うちに活躍するものと考えるのが至当でありましょう。そんな法律を男性は一笑に付して、益ますますつけあがるでありましょう。自分の良心の許可まで受けている気になって――否、良心の批難の方が時代遅れの世間知らず位に考えて――甚だしきに到っては男性の愛と女性の愛とはその根本の要素に格段の相違があるものなぞと悟りを開いて、盛んに性欲の漏電や性愛の混線をやるに決っております。

さながらに漬物の味見でもするように、異性の性愛の芽立ちから薹とう立ち迄、又は生なまなれから本ほんなれへと漁あさり歩きます。デカダンの非道ひどいのになると、腐りのまわった捨てものが一番いいなぞと云い出す位で、どこ迄行っても男性の良心は行き詰まりませぬ。真の愛を味覚する機会を見出だしませぬ。

こうして男性なるものは、その愛の第一義を二方面にも三方面にも、或あるいは二重にも三重にも使いわけて当り前だという顔をしております。そうしなければエラくないのだという、生存競争場裡の虚栄心までこれに手伝って、そればかりのために死に物狂いに働くはまだしも、不義理、不人情、不道徳はまだしも、詐欺、横領、泥棒なぞまでしても各方面の第一義に入れ上げようとします。

イヤハヤまことに御盛んな事で、容易に寄りつける沙汰ではありませぬ。法律で禁止しようが、社会課で宣伝しようが、救世軍が我鳴がなり立てようがビクともしませぬ。天の岩戸の昔よりという意気組であります。

只ここに鼻の表現なるものが存在して、かような人類文化の頽廃を随所随時に喰い止めて、悪魔式の表現を片っ端から裏切っているのであります。人間の表現を純真にして、社会生活を純美に導くべく、悪魔式鼻の表現を絶滅すべく、鼻という鼻の一つ毎ごとに活躍を続けているのであります。

ずっと前にも研究致しましたように、鼻の表現なるものはその持ち主の意志、感情、信念等の変化を表すと共に、その誠意の充実の程度迄も一々細やかに写し出すものでありますが、これが女性に対するとどうなるか。

実意のある無しが、鼻の表現にすっかり現われるという事になります。事実上口先でどんなにうまい事を云っても、実意のある無しは鼻の表現に依ってチャンと相手に感じているので、只相手の神経の鋭敏さ、又は気持ちの静かさに依って、その感じ方に早し遅しがあるだけの違いであります。

如何に大勢の女性を同時に愛し得る男性でも、その相手の一人と差し向いでいる間は常に第一義の愛を求めているものであります。相手が純真純美の愛を捧げて身も魂も打ち込んで来る事を望んでいるものであります。

これは人情の自然、まことに止むを得ないところで、エイ子にはビー子とシー子の存在を秘密にして偕老同穴かいろうどうけつを誓っている。ビー子にはエイ子とシー子の事に就いて口を拭うて共白髪ともしらがを誓う。シー子の前では又、お前こそ俺のいの一番のシー子さんだと言明する。いずれも注文に応じて即座に情死を承知する位の第一義を挑発しようと努めているのであります。

尤もっとも中には「情夫があったら添わしてやろう」式に恐ろしく大きく世話に砕けたのもあります。しかしこれは相手の第一義式の性愛が望まれないために、思い切ってその第二義第三義以下の愛に対する期待までも捨ててしまって、性愛とは方面違いの人類愛的精神状態に入ったものと見るべきであります。しかも普通の場合に於ては、わざとそういう気前を見せて、せめて相手の深い感謝の念だけでもつなぎ止めようという、一種の未練や負け惜しみから来ております。又は周囲に対するテレ隠しや、相手に対する面当つらあてなどの意味も含まれていない事は無いと考えられます。些すくなくともこの言葉が第一義式性愛から出たものでない事は、こうした種類の黒焼の元祖、大星由良之助氏も承知の前であったであろう事を疑い得ないのであります。

要するにこの種の男性は、自分の第二義第三義以下の性愛を以てしても、相手の女性に求むるところのものは、常にその第一義の性愛であります。そのためには自分の愛が、第一義もしくはそれ以上に高潮したものである事を、相手の女性のそれぞれに対してふんだんに示さなければなりませぬ。男性の本心はそこに大きな空虚を感じない訳には行かないのであります。

この空虚が鼻の表現に顕われて、その実意のある無しを証明するのであります。

仮令たとえその相手が貞操の切り売りをする女性であっても、多少に拘らず本心に眼ざめる力を持っている限り、又は世間というものに対して幾分でも眼醒め得る理智的の力を持っている限り、この種の鼻の表現に対する感得力は持っているものであります。仮令それが惚れたはれたの真只中まっただなか、浮いた浮いたの真最中でも、相手の女性はこの感得力だけは別にチャンと取っておいて、暗黙の裡に男性の心理状態を研究し続けているものであります。

殊にこの傾向は、意地で世間を振り切ったというような、一種緊張した境地を歩む女性、又は男に飽き果てたという極度の濁りから出た、一種の澄み切った気分を楽しむ婦人、或あるいは又全く何にも知らぬポッとした女性に最も甚だしいのであります。こんなのになると金にあかし、望みに明かしてもうんと云わない。「殺す」と威おどしても、勝手にしろと鼻であしらうようなのすら見受けられるのであります。

ここまで来ると鼻の表現の価値の神聖無上さは実に天地の富にも換え難い位で、女性は只男性の鼻の表現のために生きていると云っても差支えないのであります。

「何の二千石君と寝よ」という凄いのが出て来るのもこの理由からであります。

「身体からだは売っても心は売らぬ」という篦棒べらぼうなのが出て来るのもこの意義からであります。

ここに到っては如何なる悪魔式表現も倒退三千里――七里ケッパイの外ないのであります。

記憶と鼻

――悪魔式鼻の表現(十二)

人間に記憶というものが存在する限り、如何に古い出来事でも必ずその鼻の表現に影響を与えずには措おかぬ。同時に人間に鼻というものが存在する限り、その誠意の有無、虚実の程度は証明されずに済まぬ。鼻の使命はそこに在るという事は、ここまで鼻の表現を研究して来られた方が信じて疑われぬところであろう事を信じて疑いませぬ。

然るに一般の人々はこんな事を夢にも気付きませぬ。すべての人は他人に見られさえしなければ、どんな悪い事をしてもわからぬものと考えておられるようであります。もっと端的に云えば、世間では腹の悪いものが勝かちだという意見の方が昔から勝を占めているようであります。

これは至極尤もっともな話であります。

少くとも現在の社会では心からの正直者が大抵の場合、損をしているように見えます。それと同時に現在偉くなっている人々は、大抵他人を見殺しにしたり、又は他人の精神上や物質上の損害を自分の出世の犠牲にして知らぬ顔をする事の上手な人ばかりであるように見受けられます。だから俺もそうしないと損だというように考えられているようで、男の児こなぞは小説などを読み得る年頃になると、ボツボツこんな迷いを起こす。そうして三十か四十になると、吾が児の純な鼻の表現を見て、

「まだ世間知らずだなあ」

なぞと悲観するという。悪魔式鼻の表現研究者の卵は、こうして人間到る処に孵化ふかしつつあるのであります。

これを防止するためには「鼻の表現」の価値と権威とを宣伝するのが一番の近道であります。大きな鼻の絶頂に意志や感情を象徴した五色の旗を立てたポスターなぞは、最も眼新しくて面白かろうとさえ考えられる位であります。いずれにしてもその人間の腹の底にあるものは必ず鼻の表現に現われるのであるという事を、出来るだけ深く明らかに全世界の人類に知らせるのが何より急務であろうと考えられます。

善因善果、悪因悪果、悔い改めよの、心を入れ換えよの、やれ神罰の、仏罰の、天の怒り地の祟たたり、親罰、子罰、嬶罰かかあばちのと、四方八方からの威し文句の宣伝ビラが昔から到る処ふり撒まかれておりますが、近頃の人間は頓とんと相手にしなくなりました。恰あたかも往来の塵ちり同様、ハイカラ風の吹き散らすに任せ、文化の雨がタタキ流すに任せております。

しかし鼻の表現ばかりはそうは行かぬ。「天に口なし、鼻を以て云わしむる」という事を覿面てきめんに証拠立てるものであるという事が、もし本当に人類全体にわかったらどうでしょう。今云っている言葉、今やっている表現が、本当に心から出たのであるかどうかという事を即座に判決する裁判官が、自分の顔の真中に控えているという事が真実に一般に自覚されたらどうでしょう。

「そんな事があるものか」と笑う人の鼻の表現にはきっと負け惜おしみの色が動いているものであるという事が判明したら、そもそもどんな事になるでありましょうか。

鼻の無い方が世間に何人おられるか存じませぬが、そんな方はお気の毒ですからここではイジメませぬ。さもない限りすべての鼻の持主は、正に人類文化の大革命、表現界の大恐慌として狼狽されるに違いありませぬ。

鼻と文化生活

――悪魔式鼻の表現(十三)

悪魔式鼻の表現の弱点をここ迄抉えぐり付けて来ますと、きっと次のように反対論者が世界中から攻撃の矢を向けるに違いありません。

鼻の表現は人の心をアケスケに見せるという事はよくわかった。それが又人類文化向上の原動力だという理屈もよくわかった。しかしこの道理を人類全体が自覚したとしたら変な事になってしまいはしないか。

第一自分の鼻がそんな物騒なものだとわかったら、うっかり口も利けなくなる。人類文化の改良どころか社会生活の破滅になりはしないか。

たった一度しか買わぬのに「毎度有難う」と云う商売人、又かと思ういやなお客に「ホントニお久し振りね」と云う芸者、「貴国の軍備縮小に満腔の敬意を払う」と云う外交官、「とんだ御不幸で」と駈け付ける新聞記者、その他到る処の御世辞や御愛嬌は片っ端からフン詰まりになって、人間到る処、篦棒とブッキラ棒のたたき合いになってしまう。そうなれば人類文化の運の尽つきではないか。これを以てこれを見れば、鼻の表現の研究宣伝は不可能である。可能であっても不賛成である。

……と……。

……まことに事理明白な次第でありますが、幸か不幸かこの御心配は御無用である事を、横町よこちょうの黒犬と竪町たてちょうの白犬とが往来の真中で証明してくれるのであります。

横町の黒犬と竪町の白犬とは初めて曲り角で出会うや否や、俄然がぜんとして態度を緊張させます。ソロソロと近寄って、ウンウンと嗅ぎ合ってその同性同志である事がわかる……何等の利害関係のない赤の他犬である事が判明すると、憤然として鼻に皺を寄せます。やおら白い眼と白い牙をむいて「何だ貴様は」という表現をします。甚だしきに到っては、何等の理由なしに大怒号大叫喚の修羅の巷ちまたを演出したりします。

これは畜生同志が初めて出会った時の心理状態を有りのままに見せた表現でありますが、遺憾ながら万物の霊長たる人間にも、この性質を発見する事が出来るのであります。子供ならば、学校が違ったり部落が違ったりすると、ただ訳もなく睨み合います。大人になってもこの心理作用はなかなか消え失せないので、電車の中や汽車の中、その他到る処にこの気分の発露を見受けられますようで……尤も理由なしに咬み合いは始めませんが、一寸足でも踏むか横っ腹でも突くと、何だこの野郎、失敬な奴だという気持になります。甚だしいのになると、それをきっかけに電車の二三台位は訳なく止めるような事になるので、その云い草や理屈が如何に文化的であっても、要するに野蛮時代から潜在的に遺伝して来た動物性の暴露である事は疑いを容れませぬ。

ですから……これでは人類の共同的文化生活は永久に覚束おぼつかない……とあって発明されたのが儀礼とかお世辞とかいう奴であります。さすがに吾々の祖先は万物の霊長だけあって、途中で出会うたんびに一々尻を嗅ぎまわってイガミ合っていては、手数が大変だという事を直ぐに覚ったのでありましょう。

そこで「ウヌが人間ならオレも人間だ。向うへ行きたけりゃ手前の方からよけて通れ」という鼻の表現を和やわらげて、「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「御免遊ばせ」「失礼を」で行き違います。奇特な人は他家のお葬いにでも帽子を脱ぐといった塩梅あんばい式になります。

これを以てこれを見れば、礼儀作法とか御愛嬌や御挨拶なぞというものは、共同生活の本義から割り出された四海同胞主義、それからまた煎じ出された博愛の精神を標準目標として出来たものと考えられます。商売上の掛引にせよ何にせよ、相手に好感を与えねばならぬという人類共通の本心から出たものである事は間違いないようであります。

同時に精神上から見ても物質上から云っても、世間はだんだん実質本位になって来ます。お世辞でも中味のある方がいい。礼式でも無駄なのは廃してしまえというので、精神上物質上充実されたものでなければ人が相手にしなくなるのは当り前であります。

これが次第に拡充されて来ると、当世流行の人類愛迄漕ぎつけます。赤の他人にでも奉仕する。知らぬ人間でも尊敬をする。何人なんびとも欺し得ず、何ものも傷付け得ぬところまで行き付くのであります。つまり現在の人間がやっているおべっかやお追従ついしょうは、人間が動物から進化して純愛の一大団結たるべき下稽古――霊的文化の世界を組織すべき手習いをやっているものと見るが至当でありましょう。

鼻の表現研究の主目標は、ここにあるのであります。

この光明に達し得る最上の近道が、鼻の表現の研究に外ならないのであります。

「イヤアどうも。一度是非お伺いしなければならぬとはいつも考えながら、ついどうも」

という鼻の表現の内容が如何に充実していないものであるかという事は、本人自身もよくわかっている筈であります。

「アラチョイト。旦那にはどこかでお眼にかかったようだわ。妾わたしこんや嬉しいわ」

という鼻の表現が如何に三十円に値せぬかは、通人ならぬ御客様でも一眼でおわかりの事と存じます。

「お蔭様で助かります」

という仏面ほとけづらと、

「抵当が欲しけりゃ持って行け」

という閻魔面えんまづらとのどちらにも、横着を極めた鼻の表現が共通して存在している事は誰しも認め得るところでありましょう。

鼻の表現はこうして常にその誠意の有無を裏書して、相手の警戒心を挑発します。「嘘から出たまこと」でも「真事まことから出たウソ」でもそのままソックリ写し出して、鼻の表現の邪道の研究範囲を狭くして行きます。三千年前から聖人が心配していた世道人心が、今日迄も案外廃すたれ切らないのは、偏ひとえにこの鼻の表現の御蔭ではありますまいかと考えられる位であります。

親の罪を引き受けて「私が致しました」というしおらしい孝子の鼻の表現と、自分の罪を他人になすり付けて「一向に存じませぬ」と白しらを切る悪党の済まし切った鼻の表現は、どうしても違わなければなりませぬ。同時にあらゆる証拠が揃っていながら「冤罪むじつだな」と名奉行が心付き、又はなんの証拠もなくて反証ばかりあがっていながらテッキリ此奴こやつと名判官が睨むのは、その無私公明、青空止水の如き心鏡に、被告人の鼻の表現がありありと映ったものに違いありませぬ。

かようにして鼻の表現は、人間に記憶力なるものが存在する限り法律上の罪悪をも映し出すので、こうなると現代の証拠裁判なぞいうものは甚だ不確ふたしかなものとなります。指紋などの研究よりも何よりも、先ず鼻の表現の研究の方が刻下の急務ではあるまいかと考えられる位であります。

かようにして法律上の罪悪、又は道徳上の汚行は、その犯行者本人の鼻の表現に依って呪われて行くのであります。この境界を超脱した純正純美なる鼻の表現の持ち主こそ真の紳士、真の淑女と呼ばるべき人々で、人類文化生活の共同的向上は、このような人々に依ってこそ達成せらるべきであります。学識財産、身分の高下、服装の如何等に依ってこの尊号を奉る事が人類堕落の原因である事は説明する迄もないのであります。

輪廻転生

――運命と鼻の表現(一)

その人の個性及び、その個性がその人の修養と経験とで研みがき上げられた人格とが、鼻の表現の変化の根柢を作っている事は、今まで研究して参りましたところに依って最早充分に了解の事と信ぜられます。鼻の表現に現われた喜怒哀楽の基調が卑しいものであるか、高尚なものであるか、又は狡ずるいものであるか、正直なものであるかという事は、その底に表現されている、その人間の性格を見れば一目瞭然するのであります。

勇者の鼻は鉄壁をも貫く気合を見せております。智者の鼻は研磨とぎすまされた心鏡の光を現わしております。仁者の鼻は和やわらかい静かな気持を示しております。聖者の鼻からは上品な清らかな霊感を受うけるのであります。

さもない凡人たちの鼻でも、つつましやかな人の鼻はしおらしく控えております。高ぶった奴の鼻はツンと済ましております。意久地なしの鼻は高くても低く見え、図々しい奴の鼻はヒシャゲていてもニューと上うわ反ぞりになっているかの表現をしております。

これに対する相手の感じよう、又は世間の反響は、直ただちにその鼻の持ち主の運命となって来るのであります。即ち鼻はその持ち主の運命を支配していると云っても差し支えないのであります。

これを逆に観察致しますと、こうした運命に支配されて、或あるいは悲観し、或は楽観し、又はこれに対抗して行く意志や感情や信念は積り積って行く中うちに、更にその人の性格を作って行くものであります。即ちその人の性格は、その人の経歴の縮図で、その性格をすっかり見せている鼻の表現は、その人の将来の運命と共にその持主の経歴も象徴しているのであります。

その人の性格の基礎となるべき個性の中うちには、先天的の分子、即ち遺伝に依って稟うけ継いだ性質が多分に含まれている事は学者の証明するところであります。その先天性の中うちには、動物性もあれば人間性もあります。動物性というのは吾々の祖先が猿か猫か何かであった時代に体験して来た性質で、子供の時に只わけも無く木に登って見たり、動物を生なま殺しにして玩弄おもちゃにして見たり、又は無意味に暗黒を恐れたりするのは、この性質の発露だそうであります。

人間性というのは、これが洪積世以後人間にまで進化してから各種の体験に依って作り上げた特性で、こんなのが通有性と固有性とを問わずゴチャゴチャと遺伝されている事は申すまでもありませぬ。そうしてその固有性を基礎として築き上げられたその人の性格は、その鼻の表現に依って他人に反映して、その人の将来の運命を支配すると同様に、その通有性はその人の属する国家、民族の各個人の個性に含まれている通有性と共鳴して、その通有性に適合した社会を組織し、これにふさわしい宗教、芸術、学術、技術を生み、そうしてその国の民族の盛衰消長を支配して行くのであります。

動物性と人間性……固有性と通有性……ただ個性というものの中にも、これだけの複雑広大な因子が含まれております。これがオギャーと生れてから後のちの修養や経験に依って整理淘汰されたものが、その人の性格となり、これが向上洗練されたものが、その人の人格となる。そうして子孫に伝わるとでも申しましょうか。

顔面中央の一肉団……本来不動、無表現の鼻柱はかくしてその人の個性、性格、人格を表明すると共に、父母未生以前の因果、弥勒みろくの出世以後の因縁までも同時に眼の前に結び止めて、輪廻りんね転生のあらたかさをさながらに拝ませているのであります。吾々の生涯に積んだ悪業善行は、こうして子々孫々の後のちまでも鼻の表現の中を流転して、その運命を支配して行くのであります。

ずっと前に研究を致しました……

「鼻の表現能力は、その無表現のところに在る……

無から有を生ずるところに在る……

不変不動のまま千変万化するところにある……

造化の妙理、自然の大作用はここにも窺う事が出来る……」

という事実が如何に驚異に値するか……ただ言語道断。気を呑み声を呑のんで「鼻」の前に低頭平身する他ありませぬ。

昔から偉人とか傑士とか、又は苦労人と呼ばれる人々は、多少に拘らず無意識の裡にこの間の消息を飲み込んでおったもののようであります。

「人品骨柄卑しからぬものと見えた。召し抱えよう程に名を問うて参れ」

といったような話があります。この人品骨柄卑しからぬという見処みどころは、その鼻の表現にあるので、眼や口が如何に清らかであっても鼻の表現が卑しかったら落第であります。

如何に経歴を偽っても、又は柔和な人相をしていても、

「此奴油断のならぬ奴」

と思わせるのは、その胡乱うろんな経歴から来た性格が鼻に現われているからであります。

戦場場数ばかずの豪の者、千軍万馬を往来した驍将ぎょうしょうの鼻には、どことなく荒涼凄惨たる戦場の殺気を彷彿せしむべき或るものがあります。

泥水商売に身も心も浸ひたして来た鼻には、血も涙も褪せ果てた見すぼらしい本心の姿が見えるというのは、さもあるべき事でありましょう。

この故に大聖孔子は、一野翁老子の前に頭が上らなかったのではありますまいか。

かかるが故に、歴山アレキサンダア大王は一乞食学者ダイオゼニアスを奈何いかんともする事が出来なかったのではないでしょうか。

賤しずが伏せ屋の見すぼらしい母子おやこが只の人でないと眼をつけられ、綾羅錦繍りょうらきんしゅうの裡うちに侍かしずかるる貴婦人がお里を怪しまるるそもそもの理由も、亦またここにあるのではありますまいか。

骨相学者や運命判断の原理は別としましても、その人の経歴と性格と運命とが、鼻の表現を中心として循環転変して行きつつある事は疑う余地ありませぬ。

この道理は歴史の上にも現われて、成る程と思わせられる事が甚だ多いのであります。

歴史上に活躍する人物の性格と、これに対する群集心理との結合は何に依って成り立っているか。何に依って認められ、何に依って反響を招きつつあるか。

思うてここに到る時、鼻の表現の権威の偉大さに驚かざるを得ないのであります。

世界の歴史は誇張した意味でなしに、鼻の表現の歴史と見て差し支えないのであります。

人類文化の推移は掛け引き無しのところ、鼻の表現の推移と考えられるのであります。

スフィンクス

――運命と鼻の表現(二)

世界歴史の表面に鼻を向けるに先立って、是非一度研究しておかねばならぬのは、前に御紹介致しました世界最古の文明国エジプトはナイル河畔に、数千年の昔から横たわっているスフィンクスの鼻の表現であります。

青藍色に澄み切った大空の燦爛さんらんたる烈日の下もとに燃え上る褐色の沙漠の一端、暗黒の大陸を貫いて南から北へ流るるナイル河の氾濫に育はぐくまれたエジプトの文化は、実に奇怪を極めたものでありました。

滴したたるばかりの緑の野に金光赫々かっかくとして輝くファラオの武威は、各王の死後の住家である三角塔と、その功績を地表高く捧ぐる方光塔と、迷い入ったら最後、容易に出口を発見し得ぬという螺堂を生みました。又不可思議をそのまま神として崇拝する万有神教は、輪廻転生の説と木乃伊ミイラとを生みました。その中にわけても不可思議の建造物として、今日迄全世界の学者に首をひねらしているスフィンクスの大石像を生み出したという事は、エジプトの文化の奇怪さを一層強く裏書きしているものではありますまいか。

この石像の不可思議が今日迄解決されないままに「謎語スフィンクス」の象徴として中学校の教科書にまで載せられている事は、あまりに知れ渡り過ぎている事実であります。その「謎語」の「謎語」たる所以ゆえんは、その姿が人面獣身であるところにあるという事も亦あまりに有名な事実であります。

然るにここに注目すべきは、そのスフィンクス像の鼻は偶然か天意か知らず、いつの間にか欠け落ちている事であります。その欠け落ちたのは勿論後世の探検家に発見される以前の事で、本来高かったものか低かったものか、又はどんな恰好をしていたものか、今日からは全く見当のつけようがないのであります。

鼻の表現の研究が世界歴史に触れるに当っては、是非ともこの事実を問題としない訳には参りませぬ。スフィンクスの鼻が欠け落ちているために、如何にそのスフィンクスたる表現を強めているか。スフィンクスの象徴している意味が、如何にスフィンクスられているかということは、「鼻の表現」に与えられた一つの謎語として……人類に与えられた永久に新しい、そうして永久に古い「謎語」として深い注意を払わない訳には参りませぬ。

人類の作った宗教的、哲学的、又は芸術的の芸術品には、そのいずれの一つとして意味の無いものはありませぬ。その中にただ一つ「謎語」と名付けられて残っている、世界最大最古の象徴的芸術品――「彼は彼自身である」という解釈より外に適当な解釈を下された事の無い「謎語」の像――その「謎語」たる彼自身の真面目を標榜しているべきスフィンクスの鼻の表現が、何故なにゆえとも何事とも知らず欠け落ちている。「謎語」の二乗になっているという事は、「世界歴史が鼻の表現の歴史である。人類の文化が鼻の表現の表現である。それを人類は知らないでいる」という天の啓示ではありますまいか。

一方から見ますと、人類進化の道程は先ず獣けものから発している事を証せられております。同様に人類文化の推移は、獣心から人心に進むところに在ると解かれております。数千年前にこの意味を象徴し得たエジプトの万有崇拝教が作った文化は、そのスフィンクスの鼻の表現に於てもこれを象徴し得なかった理由はありませぬ。

しかし同時に、このデザインを建てた程の芸術家ならば、キットこのスフィンクスの鼻の表現を残しておく事が、永久に人類を鼻の表現に対して無自覚に終らしむる所以ゆえんである事を考え得ぬ筈はありませぬ。

ここに於てかその芸術家は、この大作品を当時の埃及エジプト王の御覧に供した後のち、或る夜窃ひそかに梯子を持って行って、その鼻の表現を自然の作用であるかのように欠き落したのではあるまいかとも考えられます。

いずれにしてもスフィンクスのスフィンクスたる所以は、その鼻の表現が無くなっているところにあります。そこにあらゆる芸術的判断、又は宗教的哲学的の思索を超越した「謎語」としての価値が感得されるのであります。

折れたビナス像の腕を再造するという事は、芸術上の大問題になっております。それ程の文化程度に進んだ現代の人類が、スフィンクスの鼻に対し何等の問題を起こさないという事は更に更に大きな「謎語」ではありますまいか。

スフィンクスは世界の終りまで、鼻を再造してもらう事は出来ないでありましょうか。

クレオパトラ

――運命と鼻の表現(三)

鼻の欠け落ちた大怪像スフィンクスの傍かたわらに住んでいた女王クレオパトラの鼻が、世界の歴史を支配したという事も亦、何等かの暗示を人類に与えずには措おきませぬ。些すくなくとも鼻の表現の研究上、かのスフィンクスと相対して、最も奇抜な、そして興味津々たるコントラストを見せている事を否定する訳に参りませぬ。

「彼女――クレオパトラの鼻が、今些すこし低かったならば、羅馬ローマの歴史を通じて世界の歴史に変化を与えたであろう」

という云い伝えが、もし彼女の鼻の静的表現の高さに就いてのみ解説されたものであるとするならば、どうしても鼻の表現の真相を穿うがったものとは考えられませぬ。少くとも近所にスフィンクスが控えている以上、今些し意味深長な理由があるものと考えたいのであります。

クレオパトラは美人の代名詞として今日迄も謳うたわれている位の容色の持ち主であったそうであります。その女性としてのプライドが如何に高かったかは想像するに難くありませぬ。同時に世界文化の先進国たるエジプトの女王たるプライドが、如何に極度以上にまでその鼻の表現を高潮しおった事でありましょうか。彼女の鼻が今些し低かったならば云々という言葉は、この場合精神的方面からの批判と見るが至当ではあるまいかと考えられます。

シーザーは、はるばる羅馬から彼女を見物に来て、この超世界的の女王の鼻の表現を見ると、そのまま黙って羅馬に帰ってしまったと伝えられております。

傲岸不屈、世界を眼下に見るシーザーの鼻の表現が、如何なる男性をも自己の美と女王としての権威の膝下に屈服せしめなければ措かぬというクレオパトラの鼻の表現と相容れ得なかった事は、想像するに難くありませぬ。

こうして世界の運命は、男性と女性の最高のプライドの鉢合せに依って決せられたのであります。

これに反してアントニーは、彼女の鼻の外面的美的条件を見ただけで、これに惑溺したのだそうであります。そうして引き続いてクレオパトラに愛せられたところを見ると、アントニーの鼻の表現は余程のお人好しか好色漢の色彩を帯びたものであったろうと想像されます。

男性の性格の両面とも云うべき「愛」と「功名」――これを代表したこの二つの鼻の表現が、彼女の鼻に対して結んだ因果関係――それに依って支配された二英雄の運命――それに依って支配された羅馬の将来――それに依って運命づけられた世界の今日――。

それは世界歴史の頁ページの大部分を犠牲とし、不可思議の国埃及エジプトの王宮を舞台面として演出された、至大至高の鼻の表現劇ではなかったでしょうか。今日の人類の文化は、未だこの鼻の表現劇の影響から免れ得ていないのではありますまいか。

クレオパトラとアントニーは、各おのおの自分の鼻の表現に依って支配された運命に従って、スフィンクスの膝下に斃たおれたと伝えられております。

一方シーザーは、羅馬に於てブルタスの刃に刺されました。これはその鼻の野心満々たる表現が、識しらず識らずの裡に民衆の反感を買っていたのではないかと想像する事が出来るのであります。

人類史と謎語

――運命と鼻の表現(四)

こうして世界歴史の表面を飾る人々の鼻の表現は、人類進化の道程に於ける何等かの意義を象徴して、その時代の人々を導きました。それ等の人々の盛衰興亡に一新紀元を劃し、それ等の人々が作る文化の栄枯消長に一転機を与えました。そうして後世の人々に、何等かの霊的又は物的の暗示を残して行きました。

骸骨の塔の高さを誇る鼻の種族は、敵を見る事草木の如き剽悍ひょうかん無残の鼻を真っ先に立てて、毒矢毒槍を揮いました。

版図の大を誇る鼻の一団は、智勇豪邁、気宇万軍を圧する鼻に従ってこれに殉じました。

石から大理石に、大理石から銅に、銅から金銀に、その文化の光明を誇る鼻の群れは、公明聡慧一世に冠たる鼻を仰いでその徳を讃美しました。

現界の富強を希こいねがわず、神界の福楽を欣求ごんぐする鼻を貴たっとぶあつまりは、崇高幽玄、霊物を照破する鼻に帰依して財宝身命を捧げました。

吾れに従う人々の安息の地を求むべく、燦さんたる北斗星の光を心あてに、沙漠をうれいさまようた鼻がありました。

精神的にも物質的にも茫々たる不毛の国土を開拓して、隆々たる文化を育はぐくみつつ、世界を併呑すべく雄視した鼻がありました。

高潔沈毅ちんきな鼻の表現に万軍の信頼を集めつつ、天地を震撼する大魔王の鼻を一撃のもとに打ち砕いた英雄がありました。

文化的爛熟期に入った列国代表者のデリケートな鼻の表現の間を、新興民族の蛮勇を象徴した鼻の表現で、片っ端から押しわけて行った巨人がありました。

吾わが民族の文化的実力を過早に自惚うぬぼれて大戦争を起こし、遂に滅亡に近い運命を招いた帝王の鼻がありました。

断頭台上に端然として告別の辞を述べ、信念と慈愛の表現を万世に残して、人々の涙を絞らせる美人の鼻がありました。

出しゃばりたい一パイの鼻の表現をふりまわして、数十万の生命を弄もてあそび殺した女王の鼻がありました。

戦争の惨禍を坐視し得ぬ鼻の表現から、世界的の博愛事業を生み出して、今日まで幾千万の人々をして人類愛に感泣せしめつつある婦人がありました。

天体の推移を睨み詰めつつ、古井戸に落ちた鼻の表現がありました。

徳業にいそしんで九年面壁した鼻がありました。

寡頭政治から民衆政治へ移すべく、街頭に怒号する鼻がありました。

宗乗の誤謬を匡ただすべく、火に灼やかれる迄も正理を標榜した鼻がありました。

形式を破って自由の天地を打開すべく熱狂した鼻がありました。

伝統の文化から個性の文化へ導くべく悶死した鼻がありました。

高い鼻を見ると、無意識にこれを礼拝しました。

大きい鼻に出合うと、無条件でその庇護を受けようとしました。

強い鼻にぶつかると、訳も無くこれに服従しました。

その代り些しでも弱い鼻は圧倒しよう、小さい鼻は併呑しよう、低い鼻は蹂躙しようと、互に押し合いへし合いました。

こうして世界の歴史は芋を洗うように転変し、その文化は雑草のように興亡しました。

……………………………………………………

テン テレツク テレツク ツ

テン テレツク テレツク ツ

という囃子に連れて、恐ろしく高い鼻と、無暗むやみに低い鼻と、全く開け放しの鼻と、三種の鼻が現われてヒョコリヒョコリと踊りまわる。

世界歴史の表面を見渡していると、どことなくこんな感じがします。

現代の人類社会の生活を見渡しても、こんな気持ちがして仕方がない時があります。

何だかタヨリナイような――可笑おかしいような――自烈度じれったいような――のんびりしたような――面白いような――馬鹿馬鹿しいような――有意義なような――無意義なような――。

世界はどこまで行っても、おかめとヒョットコと天狗の踊りに過ぎないものでしょうか。

人類の生活はどこ迄行っても、馬鹿囃子位のものなのでしょうか。

そうして人類の鼻の表現は、行き詰まったところがこの三つの鼻の表現のうちどれかになってしまうよりほかに、仕方がないものでしょうか。

人間というものは、そんなつまらない使命のために生れて来ているものでしょうか。

これは一つの大きな謎語なぞであります。

万有進化と鼻

――運命と鼻の表現(五)

「謎語」という言葉はかの埃及エジプトの大怪像スフィンクスを呼び出す言葉であります。

世界中の鼻の表現のうちで、この鼻の表現研究上の根本的疑問を解決する事が出来るものは、かの鼻の欠け落ちたスフィンクス像よりほかにありませぬ。

スフィンクスは黙ってこの疑問を解決しております。

――頭は人間――身体からだは獣けもの――と。

スフィンクスが出現してから二千年以上経たって後のち、人間はやっとこの暗示を解決する事が出来ました。そうしてこう云いました。

――獣から人間へ――

この理屈を説き証したものが進化論と名付けられております。

進化論の説くところに依りますと、この――獣から人間へ――という事は、天地間、ありとあらゆる森羅万象が進化しているという事実の一端を示した事になるのであります。

――無生物から生物へ――

――生物から植物と動物へ――

――植物は――苔から草へ――草から木へ――

――動物は――虫から魚へ――魚から鳥獣へ――鳥獣から人間へ――

皆進化している――

この進化の原動力は「自己の愛護と向上発展」云々――

何だか中等学校のお講義めいて来ましたが、この証明に依ると、何だか宇宙自身にも本来の「自己の愛護と向上進展」があるそうであります。そうしてその進化の方向は、矢張り進化論の説明と同じ方向であるスフィンクスの暗示、

――獣から人間へ――

というのに一致しているのではないかと考えられます。これが宇宙進化の鼻の向うところで、これがスフィンクスの鼻に依って表現されていたのではありますまいか。

昔は交通が不便でありましたために、お釈迦様やイエス様は、その当時の文化の先進国たる埃及へ洋行された事はなかったものと見えます。もしあんな頭のいい人が一度でも埃及へ行ってスフィンクスを見ましたならば、あんな説法の仕方をしなかったであろう、その流れを汲む人々が今日になってあんなに進化論と喧嘩をしなくてもよかったろうにと、今更遺憾に堪えませぬ。

しかしその上に今一つ遺憾な事を云えば、その進化論も、獣から人間が出て来たところまでしか証明しておりませぬ。人間からこんどは何になるかという事に就いては少しも説明を加えておりませぬ。

……スフィンクスもここまでしか暗示しておりませぬ。

「それから先は説明の限りに非ず」

というのか、

「それから先はわからぬ」

というのか、それとも又、

「それから先はおしまい」

というのかわかりませぬ。鼻の表現を隠して知らん顔をしております。そうしてこれを永久の謎語として人類に暗示しつつ、沙漠の方を向いております。

そこでおかめとヒョットコと天狗様とが飛び出して、馬鹿囃子を初めなければならぬ事になります。

スフィンクスから欠き落とされた表現は、数千里を隔てた日本に吹き散って来ました。

そうしてその中からヒョットコとおかめと天狗様が生れたのではないかと思われる位、スフィンクスと馬鹿囃子の関係は密接なものがあるのであります。

まことに突飛とっぴといって、これ位突飛な対照はありませぬ。しかし何しろ古今独歩の鼻の表現の中に現われた、最も偉大不可思議なる神様達の因縁事でありますから、とても人智の及ぶところではありませぬ。只謹んで神意を伺い奉るよりほか致し方ないのであります。

呪われた鼻

――運命と鼻の表現(六)

獣けものからやっとこさと人間へ進化して来た鼻は、初めて地面から手を離して四方をキョロキョロ見廻しました。ここまではスフィンクスの暗示に依って進化して来たのでありますが、これから先どこに向って進化向上していいか見当がつかなかったからであります。

意地の悪いスフィンクスは折角せっかくここまで連れて来ながら、その鼻の表現を隠して人間を五里霧中に突放つきはなしました。

突放された人間がヒョットコでありました。

ヒョットコは見る物毎に驚きました、呆れました。人間の五官の世界が果しもなく広く美しく眩しく荘厳に不可思議なのに肝を潰してしまいました。えらい処へ来たと思いました。大変なものばかりであると思いました。そのために鼻の穴がスッカリ開け放しになってしまいました。

オッカナビックリ歩きまわって見ました。しかしいくら歩きまわっても、只驚くべき怪しむべき事ばかりで、行っても行っても同じ風が吹いているという事だけがわかりました。どこへどう落ち着いて、どんなに日を送っていいか、まるっきり見当がつかなくなりました。

スッカリスフィンクスに馬鹿にされてしまいました。

仕方がないのでヒョットコは、遂に色気と喰い気に逆もどりをしました。昔獣けものであった時代からこれを生命いのちと守り通して来た利己心――生命いのちの保存と永続の二つの本能のいとなみに凝り固まりました。

姿は人間でありながら、心は昔の獣のまま喰って惚れて生きている――

――絶対の無自覚の姿!

「オホホホホホホ」

とおかめがこれを見て笑い出しました。

「マア、面白い事。おかしい事。一寸ちょっとヒョットコさん、御覧なさいよ。何て奇麗なお月様でしょう。何て明るいお太陽ひ様でしょう。妾わたしすっかり感心しちゃったわよ。こんな有難い事は無いわよ。ホントに勿体ない――嬉しい事……オホホホホ」

おかめはこうして総てに満足しました。この上に何物も望みませんでした。

人間の五官を備えている事だけに満足し切って、空虚な喜びに生きている――

――消極的の無自覚の姿!

この無知無能に対して、恐ろしく憤慨したのは天狗様でした。

「おれは貴様達のような無自覚なものじゃないぞ。何物にも満足するような無知なものではないぞ。如何なる事でも為なし遂げ得る能力を持っているぞ。あらゆる向上力と通力とを持っているぞ」

こうして総てを眼下に見下みくだして、自分だけ慢心してしまいました。たった一人で、俺は人間以上のものだと威張り腐って生きているようになりました。

自覚心があり過ぎて、却かえって無自覚と同じ事になってしまいました。ちっとでも他の生物より優越したところがあれば、直すぐに満足をするようになりました。――スフィンクスが終極の目標を示さないために――

そうしてすべてにこの自覚の誇りを宣伝すべく、全世界を飛びまわりはじめました。

――鼻ばかり高く突き出しながら――

――積極的無自覚の姿!

……………………………………………………

――おかめとヒョットコと天狗様――この三つはこうして人間の無自覚――スフィンクスの鼻の表現から生まれました。

いずれも絶対の馬鹿の表現であります。

無自覚に凝こり固まった鼻の表現であります。

永久にスフィンクスに呪われた姿であります。

子供のオモチャにしかならぬ程度のものであります。

こうなりたくないために――スフィンクスの呪いにかかりたくないために――子供のオモチャにしかならぬ程度の一生を送りたくないために、噴火口や瀑布に飛び込む人すらある位であります。

その他の人々は、しかもそうは考えませぬ。自分の満足するところに満足すりゃいいじゃないかといった調子で、めいめい行き得るところまで行って、これに満足し得意になる。あとは只驚いている。首をひねっている。感心している。喜んだりビクビクしたりしている。こんな鼻の表現がもしあったならば、その持ち主は同時にヒョットコであり、おかめであり、天狗様でなければなりませぬ。

スフィンクスに呪われた人でなければなりませぬ。

鉱物式や植物、動物式の性格

――運命と鼻の表現(七)

スフィンクスは埃及エジプトの万有神教から生れたものだけに、人間の鼻の表現の呪い方も森羅万象式で種々雑多に分かれております。しかしこれを大別しますと、無生物式と植物式と動物式の三つの呪い方にわかれるようであります。

凡およそありとあらゆる人々はスフィンクスにこんな風に呪われながら、自分でもこれを知らず、これに囚とらわれこれに満足して向上発展の意気を喪っているように見受けられます。

先ず無生物式に呪われているというのは、変化の無いつめたい石や金属の性質を帯びている鼻の表現であります。

男性では頑冥不霊の石塔の鼻や、微塵も色気の無い石部金吉の鼻、鉄のように頑強な性質、又は銅臭に囚われた人、或は金ピカ自慢の方なぞがこの部類であります。いずれにしても或る硬度にまで凝り固まった融通の利かぬタチで、中には合金や鍍金めっき、流し金なぞで満足している人もあるという次第で、各おのおのとりどり様々にその持ち前の性格を鼻の表現に光らせております。

女性の方でも同様で、めいめいに御自分のプライドを鉱物や金属に思いなして、囚われておいでになるようであります。鉄や銅のように世帯向きの実用式性格を御自慢の向きもあれば、上流向きの銀子さんや金子さんを以て自ら任じておいでになる方もあります。又は御自分を水晶と見ておられる方もあれば、翡翠ひすいと見られる方もあります。ルビー嬢や真珠夫人、ダイヤ姫なぞと来ると、囚われても囚われ甲斐のある方で、家門の誇り、社交界のお飾りたるべく、皆もう後生大切に研みがきをかけては光り、光っては研きをかけつつ、身動きさえもそっとして、鼻の表現にそのプライドを輝かすばかりに夜を明かし日を暮しておいでになります。

お次に植物式に囚われた鼻の表現のうちで一番多く見うけるのは、極めて狭い処に極く小さな芽をふいて、チョッピリした枝葉を出して、イササカの花を咲かせ実を結んで満足している鼻であります。

これという実も花も持たぬままに、潤うるおいを求めて地を這いまわる蘚苔こけのようなもの、又は風に任する浮草式生活の気楽さに囚われている者に到っては殊に夥しいのであります。恐ろしい毒に身を守って、虫も鳥も寄り付かぬのを誇りとするという、凄い珍しい囚われ方をした鼻の表現も、亦またこの部類に数えらるべきものでありましょう。

梅、桜、牡丹、芍薬しゃくやく、似たりや似たり杜若かきつばた、花菖蒲しょうぶ、萩、菊、桔梗ききょう、女郎花おみなえし、西洋風ではチューリップ、薔薇、菫すみれ、ダリヤ、睡蓮、百合の花なぞ、とりどり様々の花に身をよそえて行く末は、何処いずこの窓、誰が家の床の間に薫るとも知らず、泣きつ笑いつ、はかなくかぐわしい夢に浮かれる人々も亦、この中うちに数えねばならぬのではありますまいか。

しかも植物式の囚われ方をしたものの中うちで偉大なものになると、鳥を宿し、星を停とどめ、雲を払い、風に吼ほえて、素晴らしい偉観を呈するのがあります。他の草木の根を覆くつがえし、枝葉を枯らして自分のこやしにして終しまう一方、巻付いて来る蔦蔓つたかずらから、皮肉に食い込んで来る寄生植物までも引き受けて、共々に盛んに芽を吹き、枝を延ばし、花を咲かせ、実を結んで、大得意になっておる鼻がそれであります。一家一門繁昌して「祝い芽出度めでた」と囃はやされてニコニコと喜んで、

「アア、これでやっと眼が瞑つぶれる」

と安心して閑日月を楽しもうという、このような鼻の表現が何となく物足りなく見えるのは、その表現が植物性を帯びているからではありますまいか。そこが人間の有難いところだと眼を細くしている鼻は、草木が茂り栄えるのをためつすがめつしている鼻と同じ鼻ではありますまいか。

いずれにしてもスフィンクスに呪われているには違いないので、ヒョットコの鼻は免れても、おかめの鼻は免れませぬ。

一方にスフィンクスから動物式に呪われている鼻では、こんなのが眼に付きます。

「俺はそんな外面的の誇り、植物式の生活には囚われないのだ。俺を束縛し得るものは無いのだ。おれは物質的に死ぬるとも精神界に活躍したいのだ」

と宗教界、芸術界、哲学界や他の思想界なぞいう様々な霊界に飛び出してはねまわります。鳥のように天空を翅かけり、獣けもののように猛威を競います。そうして分相応の地歩を占めつつ、これが安全第一だと草葉にすだき、これが最高の自由だと雲に啼き渡り、これが最大の真理だと曠野に吼ほえまわります。それぞれに露を吸い、果みを食い、又は草を噛み、血を啜すすって持ち前の声を発揮しております。或あるいは鼻の頭からやさしい長い触覚を出して、ソロリソロリと動かしながら、リンリンと人を哀れがらせ、嘴くちばしと鼻を兼帯にして阿呆あほう阿呆と鳴き渡り、又は百獣を震い戦おののかせんと鼻息を吹き立てております。

こんなのはヒョットコやおかめの鼻は免れても、天狗たる事は免れませぬ。もちろんスフィンクスから動物式に呪われている事は間違いないので、よく天狗の身体からだが鳥や獣けものになぞらえてあるのも、こうした感じを象徴したものではあるまいかと考えられるのであります。

但しこんなのは端はした天狗で、もっと上等の天狗になると、ちゃんと人間の形をして鼻ばかり高いのが出て来るのであります。これは精神的にも物質的にも囚われていないと自惚うぬぼれた天狗様で、なかなか気の利いた通力を持っているものであります。

「外面的の生活に囚われた奴は人間の形をした植物である。又内面的な生活に囚われた奴は人間の心から動物に退化した奴である。何ものにも囚われぬ人間たる乃公おれの支配下に属すべきものである。

彼等は皆悉くおれの用を達しに来た者である。そうしてみんなおれの厄介にならなければ、何の役にも立たない奴ばかりである。生まれた甲斐の無い奴ばかりである。こんな天狗たちは元来おれの同胞であり後輩である。弟子たちである。同時にこんな後輩たちは、それぞれその囚われた鼻の表現で、おれに囚われてはいけない事を身を以て教えてくれたものである。或る意味から云えばおれの家族、分身である。恐ろしく心配をかける奴ばかりである。

けれ共また、飽く迄も可愛い奴である。

此奴等こいつらがいないと、此方輩こっちはいは早速困る事になるのだ。

沙漠の中の一人ぼっちになるのだ。自滅する外はないのだ。此奴等がいるので、吾々も生き甲斐があるというものである。

それにしても此奴等がみんなおれ位にまでなり得たら、おれもどれ位気が楽になるか知れないがなあ。

――やれやれ――」

と世界を見渡して、羽団扇うちわか何かで鼻の下を煽ぎながらニコニコと笑っております。

こんな大々的の天狗様になると、もう無暗むやみにそこいらにはおりません。鼻も当り前よりはすこし高くて大きい位で、顔もそんなに恐ろしくはありませぬ。その代り正体もなかなか見せませぬので、草になったり木になったり、土百姓に化けたり、旅僧の姿をしたりして、方々の小天狗共を凹へこませては、大天狗道に入らせようと努力しております。

……いつの間にか世界は、天狗様ばかりになってしまいました。

中でも天狗の原産地たる吾国では、到る処の高山深谷に住んで、各おのおの雄名を轟かしております。先ず天狗道の開山として、天孫を導き奉った猿田彦の尊みことの流れとしては、鞍馬山の大僧正が何といっても日本天狗道の管長格でありましょう。九州では彦山の豊前ぶぜん坊、四国では白峯の相模坊、大山たいせんの伯耆ほうき坊、猪綱いのつなの三郎、富士太郎、大嶺の善鬼が一統、葛城天狗、高間山の一類、その他比良岳、横川岳、如意ヶ岳、高尾、愛宕の峯々に住む大天狗の配下に属する眷属けんぞくは、

中天狗、小天狗、山水天狗、独天狗、赤天狗、青天狗、烏天狗、木こっ葉ぱ天狗

といったようなもの共で、今日でも盛んに江湖専門の道場を開いて天狗道を奨励し、又は八方に爪を展のばし、翼を広げて、恰あたかも大道の塵ちりの如く、又は眼に見えぬ黴菌の如く、死ぬが死ぬまでも人間に取り付いております。否、死んでも銅像や記念碑、爵位勲等、生花、放鳥又は坊主の頭数、会葬者の人数、死亡広告の大きさやお墓の高さなぞに取り付いて行こうとするのであります。

世界のある限り、人間のある限り、天狗の取り付き処はなくなりそうに見えませぬ。

無限大の呪い

――運命と鼻の表現(八)

世界はいつになったら、これ等の呪われたる鼻の表現から救われる事が出来るでありましょうか――

いつになったら馬鹿囃子が止む事でしょうか――

スフィンクスはいつ迄も知らぬ顔をして、茫々たる沙漠を見つめております。

その上には日月星辰が晴れやかにめぐりめぐっております。その下には地球が刻々に零下二百七十四度に向って冷ひえて行きつつあります。

四時しじが徐おもむろにそのまわりに移り変って行きます。風雨がこれを洗い、雷電がこれにはためきかかり、地震がこれをゆすぶりつつ、これを楽しませ、威おどかし、励ましております。万有はこれに和して、ドンドン進化の道程を進めて行きます。

――獣から――人間へ――

――人間から……?

スフィンクスは矢っ張り鼻の表現を見せませぬ。依然たる「謎語なぞ」の姿を固持しております。

吾々人類はどちらに向って進化したらいいでしょうか。

どうしたらいいでしょうか? この驚くべき大きさ――限りない長さを。この美しさ、楽しさ――この不思議さ、怪しさを。この騒々しさ、可笑しさ――この淋しさ、悲しさを。

この長たらしい馬鹿囃子――無味単調な茶番神楽を如何に踊ったらいいでしょうか。

矢っ張りすべてはおかめとヒョットコと天狗の面を離れませぬ。吾々は皆スフィンクスに呪われております。

こうなっては仕方がありませぬ。

吾々は自分の鼻の表現を研究するより他に方法がありませぬ。自分の鼻の表現の起こる源に探りを入れて、その根本を明らめて方向をきめる。そうしてその方向に時々刻々に油断なく進むよりほかに致し方ありませぬ。

うっかり立ち止とどまったり、屁古垂へこたれたりしてスフィンクスに呪われないように――天狗かおかめかヒョットコなぞいうような馬鹿なお化けに取りつかれないように――人間一代の恥辱の姿にならぬように――

獣から人間へ――

物質界から精神界へ――

そうして人間から……?……へ

さて又精神界から……?……へ

自分自身がスフィンクスになって――

自分の鼻の表現を研究し完成して――

鼻の表現研究の必要がなくなっても――

これを超越してしまっても――

「アハハハハハハハハハ」

……まだ天狗様が笑っております。

――自覚――自覚――飽く迄も――

――いつ迄も――

そうして、生命いのちのある限り――

地球の冷尽ひえつくす限り――

鼻の表現を――新しく――新しく――

底本 / Source edition

底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年12月3日第1刷発行
※41字詰めの底本で、天地全角空けて、39倍で組まれてれている「…」は、20倍で入力しました。
入力:柴田卓治
校正:小林徹
2004年10月30日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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夢野 久作「鼻の表現」(新字新仮名)、底本『夢野久作全集11』ちくま文庫、筑摩書房、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002145_000096, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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