昭和×年の十月三日午後六時半。

<ruby><rb>玄海洋</rb><rt>げんかいなだ</rt></ruby>の<ruby><rb>颱風雲</rb><rt>たいふうぐも</rt></ruby>を帯びた曇天がもうトップリと暮れていた。

下関の桟橋へ着いた七千<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>級の<ruby><rb>関釜</rb><rt>かんぷ</rt></ruby>連絡船、<ruby><rb>楽浪丸</rb><rt>らくろうまる</rt></ruby>の一等船室から一人の<ruby><rb>見窄</rb><rt>みすぼ</rt></ruby>らしい西洋人がヒョロヒョロと出て来た。背丈が日本人よりも低い貧弱な老人で、何の病気かわからないが骨と皮ばかりに瘠せ衰えている。綺麗に剃り上げた頬の皺は、濡れた紙のように弾力を失って、<ruby><rb>甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>の上からトロンと見据えた大きな真珠色の瞳は、夢遊病者のソレのようにウットリと下関駅の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を映している。<ruby><rb>白茶気</rb><rt>しらちゃけ</rt></ruby>た<ruby><rb>羅紗</rb><rt>ラシャ</rt></ruby>の旅行服に、銀鼠色のフェルト帽を<ruby><rb>眉深</rb><rt>まぶか</rt></ruby>く冠って、カンガルー皮の靴を音もなく運んで来た姿は、幽霊さながらの弱々しい感じである。手荷物は赤帽に托したものらしい。瘠せ枯れた<ruby><rb>生白</rb><rt>なまじろ</rt></ruby>い手には細い、<ruby><rb>銀頭</rb><rt>ぎんがしら</rt></ruby>の竹のステッキを一本<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んでいるきり、何も持っていない。<ruby><rb>甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>まで見送って来た連絡船のボーイ連にチョット脱帽したが、頭は真白く禿げたツルツル坊主であった。

ボーイ連も何となく彼の姿を奇妙に感じたのであろう。高い<ruby><rb>甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>の上から五六人、瞳を揃えて遠ざかって行く彼のうしろ姿を見送っていた。彼もタッタ一人でトボトボと税関の前アタリまで来ると何かしら不安を感じたらしく、眩しい電燈の下で立停まって、そこいらを見まわしていたが、その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に、三等船室の方から一人の背の高い、モーニングを着た、顔にアバタのある朝鮮人らしい紳士が降りて来るのを見ると、初めて安心したらしくチョコチョコと歩き出して、そのアトを追いかけ始めた。

朝鮮紳士はソンナ事を気付かぬらしくサッサと桟橋を渡って下関駅の改札口を出た。そのままコソコソと人ごみの蔭に隠れると何気もない<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で振り返って、今の小さな西洋人が、新しいハンカチで額の汗を拭き拭き八時三十分発急行列車富士号の方へヨチヨチと歩いて行くのを見送ると、直ぐに公衆電報取扱所へ走り寄って、前から準備して書いていたらしい電報を一通打った。

「レコード」シモノセキツク」フジニノル」

打電先は東京銀座尾張町×丁目×番地、コンドル・レコード商会古川某であった。

打ってしまうと朝鮮紳士は自分の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に順番を待っているらしいデップリした、色の黒い、人相の悪い中年の紳士を振り返ってジロリと睨み付けた……が……しかしその人相の悪い紳士は見向きもせずに、自分の電報を窓口に置いて切手を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めてトントンと叩き付けて差出した。そうして係員が受取るのを、やはり見向きもせずに駅を出て、程近い駅前の山陽ホテルにサッサと<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行った。

山陽ホテルの駅前街路を見晴らす豪華な一室に、立派な<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の支那服を着た、<ruby><rb>鬚髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>と眉毛の長い<ruby><rb>巨漢</rb><rt>おおおとこ</rt></ruby>が坐っていた。白々と肥満した恰好から、切れ目の長い<ruby><rb>一重瞼</rb><rt>ひとえまぶた</rt></ruby>まで縦から見ても横から見ても支那人としか思えなかったが、その前にツカツカと近づいた今の人相の悪い紳士が<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく一礼すると、その支那人風の<ruby><rb>巨漢</rb><rt>おおおとこ</rt></ruby>は鮮やかなドッシリした日本語で<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>り出した。

「ヤア。御苦労御苦労。どうだったね。結果は……」

人相の悪い紳士は苦笑いと一緒に頭を下げた。<ruby><rb>中禿</rb><rt>なかはげ</rt></ruby>の額の汗を拭き拭き椅子に腰をかけた<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に支那人風の<ruby><rb>巨漢</rb><rt>おおおとこ</rt></ruby>に顔をさし寄せて声を潜めた。

「満洲に這入ると直ぐに憲兵司令に命じまして、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>を国境脱出者と見做して<ruby><rb>手酷</rb><rt>てきび</rt></ruby>しく責めてみましたが、弱々しい<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>の癖にナカナカ泥を吐きません」

「旅券を持っていなかったのか」

「持っておりましたが私がその前に<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>り取っておいたのです。古い手ですが……旅券は完全なもので、東京××大使館<ruby><rb>雇員</rb><rt>やとい</rt></ruby>を任命されて<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>に赴任する形式になっております。ここに持っておりますが」

「買収してみたかい」

「テンデ応じませんし、ホントウに何も知らないらしいのです。仕方がありませんから××領事へ紹介して旅券の再交付をして立たせましたが、チットも怪しむべき点はありません」

「そんな事だろうと思った。大抵の奴なら君の手にかかれば一も二もない筈だがね」

「それがホントウに何も知らないらしいのです。ただタイプライターが上手で、日本文字に精通しているというだけの<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>としか見えませんから、仕方なしに××領事の了解を経てコチラへ立たせた訳ですが、しかし、どう考えても怪しい気がしてなりませんので取敢えず閣下に<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の<ruby><rb>写真</rb><rt>スナップ</rt></ruby>をお送りしておいて、ここまでアトを<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けて来た訳ですが……」

「ウム。君の着眼は間違いない。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>は密使に相違ないと僕も思う。この頃、欧洲の時局が緊張して、露独の国境が険悪になったので、露国は満蒙、<ruby><rb>新疆</rb><rt>しんきょう</rt></ruby>方面にばかり力を入れる訳に行かぬ。じゃから遠からず東亜の武力工作をやめて、赤化宣伝工作に移るに違いないのじゃ。露国が一番恐れているのは日本の武力でもなければ、科学文化の力でもない。日本人の民族的に底強い素質じゃ。三千年来その良心として死守し、伝統して来た忠君愛国の信念じゃからのう。コイツを赤化してしまえば、東洋諸国は全部<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>のものと彼等は確信しているのじゃからのう」

「成る程」

「その赤化宣伝工作に関する重大なメッセージか何かを、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>がどこかに隠して持って来ているに違いないのじゃが……」

「昏睡させておいて<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>は勿論<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の旅行服の縫目から、フェルト帽から、カンガルー靴の底まで念入りに調べましたが疑うべき点は一つも御座いません。ただ一つ……」

「何だ……」

「ただ一つ……」

「何がタダ一つだ……」

「あの老人を<ruby><rb>哈爾賓</rb><rt>ハルピン</rt></ruby>から見送って来た朝鮮人が、下関駅でタッタ今電報を打ちました。銀座尾張町のレコード屋の古川という男に打ったものですが……」

「ウムウム。あの男なら監視させておるから大丈夫じゃが……その電文の内容は……」

「レコード着いた。富士に乗る……というので……」

「しめたぞッ……それでええのじゃ」

支那人風の<ruby><rb>巨漢</rb><rt>おおおとこ</rt></ruby>がイキナリ膝を打って大きな声を出した。

「エッ」

人相の悪い紳士は眼をパチクリさせた。

支那人風の<ruby><rb>巨漢</rb><rt>おおおとこ</rt></ruby>は顔中に<ruby><rb>張切</rb><rt>はちき</rt></ruby>れんばかりの<ruby><rb>笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>を浮かめて立上った。

「ハハハ。イヨイヨ人間レコードを使いおったわい」

「エッ……人間レコード……」

「ウム。<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>で発明された人間レコードじゃ。本人は何一つ記憶せんのに脳髄にだけ電気吹込みで、複雑な文句を記憶させるという医学上の新発見を応用した人間レコードというものじゃ。ずっと以前からネバ河口の信号所の地下室で作り出して<ruby><rb>欧羅巴</rb><rt>ヨーロッパ</rt></ruby>方面の密使に使用しておったものじゃが、この頃日本の機密探知手段が極度に巧妙になって来たのでヤリ切れなくなって使い始めたものに違いない。事によると今度が皮切りかも知れんて……」

「人間レコード……人間レコード……」

「ウム」

支那人風の<ruby><rb>巨漢</rb><rt>おおおとこ</rt></ruby>は唖然となっている相手の顔を見下して大笑した。

「アハハハ。モウ手配はチャントしてあるよ。君の手におえん位の奴ならモウ人間レコードにきまっとるからのう。ハハハ」

山陽線の<ruby><rb>厚狭</rb><rt>あさ</rt></ruby>を出たばかりの特急列車、富士号がフル・スピードをかけて南に大曲りをしている。今まで列車の尻ベタに吸い付いていた真赤な三日月をヤット地平線上に振り離したばかりのところである。

展望車に接近した特別貸切室の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の前に、二十二三ぐらいのスマートな青年ボーイが突立ったまま<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れかかってコクリコクリと<ruby><rb>居睡</rb><rt>いねむ</rt></ruby>りをしている。その毛布の下から出た一本の細い、黒いゴム管が、ボーイの上衣の下から、何気なく後に廻わした左手の指先に伝わって、お尻の蔭の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の鍵穴に刺さっている。音も何もしない。ボーイは帽子を傾けたままコクリコクリと動揺に揺られている。

そこへ<ruby><rb>水瓶</rb><rt>みずがめ</rt></ruby>とコップのお盆を抱えた十八九の綺麗な少年ボーイが爪先走りに通りかかったが、青年ボーイの前に来るとピタリと立停まって、伸び上りながら耳に口を寄せた。

「持って来ました」

青年ボーイは眼を青白く見開いて冷やかに笑った。無言のまま毛布と、黒い毛糸で包んだガス発生器らしいものと、ゴム管を一まとめにして毛布の中に丸め込んで弟分のボーイに渡すと、車掌用の合鍵とネジ廻しを使って迅速に<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の掛金と鍵を開いた。ハンカチで鼻を蔽いながら少年ボーイと二人で室内に這入ってガッチリと鍵を卸した。大急ぎで窓を開くと、つめたい夜気と共に、急に高まった列車の轟音が室内にみちみちた。

赤茶気た室内電燈に照らされた寝台の中には最前の小柄な瘠せ枯れた白人の老爺が、<ruby><rb>被布</rb><rt>シーツ</rt></ruby>から脱け出してゴリゴリギューギューと<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>を掻いている。

青年ボーイが少年ボーイを振返った。

「列車の中に相棒は居ないね」

少年ボーイが簡単にうなずいた。青年ボーイが今一度冷笑した。

「フン。ここまで来れば東京まで一直線だからね。人間レコードだと思って安心していやがる」

「エッ。人間レコード……」

少年ボーイがビックリしたらしく眼を丸くした。青年ボーイの凄味に冴えかえった顔を見上げて唇をわななかした。

「ウン。この<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>が人間レコードなんだよ。アンマリ度々人間レコードに使われるもんだからコンナに瘠せ衰えているんだ」

「人間レコード……」

少年ボーイはさながら生きた幽霊でも見るかのように、暗い逆光線をゲッソリと浮出させた老人の寝顔を見下した。

「ウン。今見てろ。このレコードを回転させて見せるから……」

青年ボーイの手が敏活に動き出した。老人の胸を掻き開いて、肋骨の並んだ乳の上に無色透明の液二筒と茶褐色の液一筒と都合三筒ほど、慣れた手付で注射をした。そのまま窓を閉めて<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の外へ出ると帽子を冠り直して、少年ボーイが捧げる水瓶とコップのお盆を受取って、ツカツカと展望車に歩み入った。ズッと向うの<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>のクッションに埋まっている、派手な<ruby><rb>姿</rb><rt>なり</rt></ruby>した白人のお婆さんの前に近付いた。

「ヘイ。お待遠さま」

「アリガト」

そう云った口紅、頬紅の<ruby><rb>嫌味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>たらしいお婆さんが青年ボーイの手に何枚かの銀貨を渡すと、彼は帽子を脱いで意気地なくペコペコした。

「マア……キレイ……お月様……」

老婦人が<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>す方を見ると又も一曲りした列車の後尾に、醜い黄疸色をした巨大な三日月が沈みかかっていた。

青年ボーイはニッコリと笑って<ruby><rb>首肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。今一度帽子を脱いで展望車から出て行った。

一等車のボーイ室では少年ボーイが、山のように積上げた乗客の手荷物を片付けていた。トランク、<ruby><rb>信玄袋</rb><rt>しんげんぶくろ</rt></ruby>、亀の子<ruby><rb>煎餅</rb><rt>せんべい</rt></ruby>、バナナ籠、風呂敷包み……その下から出て来た、ビラの付かないズックの四角い鞄の中から受話器を取出して耳に当てた。そこへ帰って来た青年ボーイが<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>で入口を蔽いながら笑った。

「馬鹿……見付かったらドウする」

少年ボーイは顔を真赤にした。慌てて受話器をズック鞄の中へ返したが、その眼は好奇心に輝いていた。

「何か聞こえるかい」

「ええ。あの<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>のイビキの声が聞こえます。すこしイビキの調子が変ったようです」

「コードの連絡の工合はいいな」

「ええ上等です。あの豆電燈のマイクロフォンも、この部屋へ連絡している人絹コードも僕の新発明のパリパリですからね」

「ウン。今度のことがうまく行けばタンマリ貰えるぞ」

「ええ。僕は勲章が欲しいんですけど……」

「ハハ。今に貰ってやらあ……オット……モウ十分間過ぎちゃったぞ。それじゃもう一回注射して来るからな……録音器は大丈夫だろうな」

「ええ。一パイの十キロにしておきました。心配なのは鞄の内側の遮音装置だけです」

「ウム。毛布でも引っかけておけ。モトの通りに荷物を積んどけよ」

「聞いちゃいけないんですか。人間レコードの内容を……」

「ウン。仕方がない。こっちへ来い」

「モウ<ruby><rb>小郡</rb><rt>おごおり</rt></ruby>に着きますよ」

「構うものか。五分間停車ぐらい‥‥」

二人はそのまま以前の特別貸切室に這入った。内側からガッチリと掛金をかけると、青年ボーイがポケットから注射器を出して、無色透明の液を一筒、寝台の上の老人の腕に消毒も何もしないまま注射した。

老人はモウ全くの死人同様になっていた。全身がグタグタになって、半分開いた瞼の中から覗いている青い瞳が<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>のように光り、ゲッソリと<ruby><rb>凹</rb><rt>へこ</rt></ruby>んだ両頬の間にポカンと開いた唇と、そこから剥き出された<ruby><rb>義歯</rb><rt>いれば</rt></ruby>がカラカラにカラビ付いて、さながらに<ruby><rb>木乃伊</rb><rt>ミイラ</rt></ruby>の出来たてのような気味の悪い感じをあらわしていた。

それから少年ボーイは枕元の豆電燈の<ruby><rb>球</rb><rt>たま</rt></ruby>を抜いて、代りに白い六角の角砂糖ぐらいの小さなマイクロフォンを捻じ込んだ。そのまま二人は真暗になった車室のクッションに腰を卸して耳を澄ましていた。

列車の速力がダンダン<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>くなって来て、蒼白いのや黄色いのや、色々の光線が窓<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>を<ruby><rb>匐</rb><rt>は</rt></ruby>い<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>った。やがて窓の外を大きな声が、

「小郡イ――イ。オゴオリイ――イ」

と怒鳴って行った。

青年ボーイが身動きしないまま<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>の少年ボーイに囁いた。

「今のも録音機のフイルムに感じたろうか」

「感じてます。器械を列車の蓄電池と繋ぎ合わせて<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>け放していますから……まだ五十分ぐらいはフイルムが持ちますよ。今の<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の声だって這入ってますよ」

「フフフ……」

二人は又、沈黙に陥った。青年ボーイは所在なさに紙巻を<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。

少年ボーイが闇の中で手を出した。

「僕にも一本下さいな」

「馬鹿。フイルムに感じちゃうぞ」

「構いませんから下さい」

「<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>。持ってるじゃないか」

「バットなら持ってます。<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>のは<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>巻でしょう」

「よく知ってるな。ハハア。匂いでわかったナ」

「イイエ。見てたんです。さっき注射なすった時にあの<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>のパジャマのポケットから……」

「シッ。フフフ……」

突然列車が烈しくガタガタと揺れた。小郡駅構内の上り線ポイントを通過したのだ。車室の中が又真暗くシインとなってしまった。

すると突然に列車の動揺にユスリ出されたような奇妙な声が、寝台の中から起って来た。それはカスレた金属性の、低い、老人の声で、しかもハッキリした日本語であった。夢のようにユックリと落付いた口調であった。

「日本の………、……、……、……、…………………諸君よ……諸君、民衆の民族的……のために……せよ……諸君……日本の…………が……土地……に目ざめ、成長する事を……のである」

「わかるかい」

と青年ボーイの声……。

「わかります。ソビエットの宣伝でしょう」

と少年ボーイの緊張に震えた声……。

「<ruby><rb>片山潜</rb><rt>かたやません</rt></ruby>の口調だよ。これあ……」

「エッ片山潜……」

「そうだ。日本で××××運動をやって<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>へ逃込んだ今年七十か八十ぐらいの老闘士だ。今東洋方面の宣伝係長みたいなものをやっている。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>の声だよ、これあ」

「どうしてわかります」

「この前コイツの宣伝レコードが日本に紛れ込んだ事がある。そいつを機密局の地下室で聞かせてもらったことがあるが、声までソックリだよ。人間レコードって恐ろしいもんだね」

「呆れた<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>ですね。その片山って<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>は……」

「ウン。あんまり学問をし過ぎちゃって頭が普通でなくなっているんだよ。医学上でヒポマニーという精神病だがね。普通の人間以上のことをしていなくちゃ生きていられないようになっているんだ。そいつを知らないもんだから日本の×の連中は片山潜といったら神様みたいに思っているんだ。ソイツを利用してソビエットが宣伝に使っているんだ」

「つまりこの声をレコードに移して、片山潜の肉声だと云って配るんですね」

「そのつもりらしいね。<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>い真似をしやがる」

人間レコードの声は、なおも本物のレコードさながらに続く。

「……英仏の帝国主義政府は、日本のこの皇道精神の発露を公然と妨害しているが、これは単に自己の強盗的利益のために……支那分割の過程に割込んで新しい地域を掴む機会を得んとしている準備工作に過ぎない。

帝国主義戦争を製造する国際聯盟、及びリットン報告書が、日本を裡面より如何に煽動し、中国の国際管理と分割を如何に執拗に提議しているかは、欧洲政局の裡面が最よく見透かされ得るモスコーに居なければわからないであろう。

米国の汎アメリカニズムと×××××××の矛盾は益々増大しつつあると、中国国民党の<ruby><rb>走狗</rb><rt>そうく</rt></ruby>どもは云っているが、これは間違いである。米国が××××××しようとしていることは、彼等のヒリッピンの統治方法を見ればわかる事である。

これ等の工作の全部を一挙に<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>し、地上から××と××の影を潜めしむる任務は×××××諸君の双肩にかかっている。支那をしてソビエット政府の光栄ある治下に置き、彼等<ruby><rb>虎狼</rb><rt>ころう</rt></ruby>の<ruby><rb>爪牙</rb><rt>そうが</rt></ruby>から免れしむることは一に新興×××××諸君の奮起力にかかっている。

起て。奮起せよ。武装せよ。

全世界を×××××の治下に置け。

××××万歳。

×××××××万歳。

××とソビエットの×××万歳。

（一九三×年九月×日党、団、中央）」

「何だ。お前、ふるえてるじゃないか」

「ふるえてやしません。ソビエット帝国主義の宣伝の<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>さが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>っているだけです」

「アハハ。ソビエット帝国主義はよかったナ。この宣伝に欺されてうっかりソビエットの治下に這入ったら最後、その国の労働者農民は、今のソビエットと同様に、運の尽きだからね。資本主義の国が人民から<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>るものはお金だけ……ところがソビエット主義が人民から<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>り取るものは血から涙から魂のドン底までと云っていいんだからね」

「しかし支那人は直ぐにソビエット主義に共鳴するでしょう」

「ウン。非常な共鳴のし方だ。ドエライ勢で新疆方面に拡がっているが、しかし支那人の考えている共産主義は、ホントウのソビエット主義とはすこし違うんだよ」

「ヘエ。ドンナ風に違うんですか」

「ホントの共産主義は要するに『他人のものは我が物。わが物は他人のもの』というんだろう」

「そうですね。まあそうですね」

「ところが支那人のは違うんだ。『他人の物は我が物。我が物は我が物』というんだから」

「アハハハハ」

「ワハッハッハッハッ」

「シッ……フイルムに残りますよ」

「……オヤ……。人間レコードが黙り込んだね。モウ済んだんじゃないかな」

「さあ、どうでしょうか。フイルムは三田尻まで大丈夫持ちますよ」

「号外号外。号外号外。号外号外。東都日報号外。吾外務当局の重大声明。ソビエット政府に対する重大抗議の内容。外交断絶の第一工作……号外号外」

「号外号外。売国奴古川某の捕縛号外。ソビエット連絡係逮捕の号外。号外号外。夕刊電報号外号外」

この二枚の号外を応接室の椅子の中で事務員の手から受取った東京<ruby><rb>駐箚</rb><rt>ちゅうさつ</rt></ruby>××大使は<ruby><rb>俄然</rb><rt>がぜん</rt></ruby>として色を失った。やおらモーニングの巨体を起して眼の前の安楽椅子に旅行服のままかしこまっている弱々しい<ruby><rb>禿頭</rb><rt>とくとう</rt></ruby>の老人の眼の前にその号外を突付けた。

老人は受取って眼鏡をかけた。ショボショボと椅子の中に縮み込んで読み終ったが、キョトンとして巨大な大使の顔を見上げた。

その顔を見下した××大使は見る見る鬼のような顔になった。イキナリ老人にピストルを突付けて威丈高になった。ハッキリとしたモスコー語で云った。

「どこかで<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ったナ。メッセージの内容を……」

老人は椅子から飛上った。ピストルを持つ毛ムクジャラの大使の腕に両手で<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付いて<ruby><rb>喚</rb><rt>わ</rt></ruby>めいた。

「ト……飛んでもない。わ……私は人間レコードです。ど……どうしてメッセージの内容を……知っておりましょう」

「黙れ。知っていたに違いない。それを知らぬふりをして日本に売ったに違いない。タッタ一人残っている日本人の連絡係の名前と一緒に……」

「ワッ……」

と云うなり老人は宙を飛んで<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の方へ逃げ出したが、その両手がまだ<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>へ触れない<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に高く空間に揚がった。キリキリと二三回回転して床の上に倒れた。<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の表面に赤い血の火花を焦げ附かしたまま……。

その<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が向うから<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて大使夫人が半分顔を出した。モジャモジャした金髪の下から青い瞳と、真赤な唇をポカンと開いて見せた。大使は慌ててまだ煙の出ているピストルを尻のポケットに押込んだ。

「まあ。どうしたの。アンタ」

「ナアニ。レコードを一枚壊したダケだよ。ハッハッハ」

ちょうどその頃、東京駅入口階上の食堂の片隅で、若い海軍軍医と中学生が紅茶を啜っていた。

ゴチャゴチャと出入りする人の足音や、皿小鉢の触れ合う音に紛れて二人は仲よく<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き合っているが、よく見ると、それは<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の富士列車に居た青年ボーイと少年ボーイであった。

「馬鹿に早く手をまわしたもんですね」

「ナアニ。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の録音フイルムが、徳山から海軍飛行機に乗って大阪まで飛んで行く<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に現像されると、そのまま夜の明けない<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に東京に着いたんだよ。あの録音の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の方に在った英国、<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>、支那の三国密約の内容を聞いたので外務省が初めて決心が出来たんだ。大ビラで売国奴の名を付けて古川某を<ruby><rb>引括</rb><rt>ひっくく</rt></ruby>る事が出来たんだ。みんな予定の行動だったのだよ。徳山と岡山と、広島と姫路にはそれぞれ水上飛行機が待機していたんだよ。今頃はモウ露満国境の守備兵が動き出しているだろう」

中学生が光栄に酔うたように顔を真赤にして紅茶を啜った。

「君の発明したオモチャが大した働きをした訳だよ。勲章ぐらいじゃないと思うね」

「……でも僕は気味が悪かったですよ。途中で怖くなっちゃったんです。あの人間レコードの声を聞いた時に……人間レコードって一体何ですかアレは……」

海軍軍医は左右を見まわした。一段と少年に顔を近付けて紅茶の皿を抱え込んだ。

「イイかい。絶対秘密だよ」

「大丈夫です」

「わかってみれば何でもない話だがね。つまりアンナ風な各国語に通じた正直な人間を<ruby><rb>高価</rb><rt>たか</rt></ruby>い金でレコード用に雇っておいて、極めて重要なメッセージを送る場合に使うんだ。書類なんかイクラ隠したって見付かるし、暗号だって解けない暗号はないんだからね。本人に暗記さしておけばいいようなもんだが、日本人と違って外国人は買収が利くんだから、つまるところ、密書を持たせるよりも<ruby><rb>険難</rb><rt>けんのん</rt></ruby>な事になるんだ。ことに<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>なんかは世界中が敵で、秘密外交の必要な度合が一番高いもんだからトウトウアンナ事を発明したんだね。

先ずアンナ風に何も知らない人間を、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆんべ</rt></ruby>みたいに麻酔さしておいて、スコポラミンと<ruby><rb>阿片</rb><rt>アヘン</rt></ruby>の合剤を注射して、一層深い、奇妙な、変ダラケの昏睡に<ruby><rb>陥</rb><rt>おとしい</rt></ruby>れる。それから十分ばかりしてコカインと、安息香酸と、アイヌの矢尻に使うブシという草の汁のアルカロイドの少量を配合した液を注射すると、本人は意識しないまま、脳髄の中の或る一部分が眼ざめる。そこへ電気吹込みしたレコードの文句を……ドウも肉声では工合が悪いようだがね。そのレコードの<ruby><rb>音</rb><rt>おん</rt></ruby>を耳に当てがうと不思議なほどハッキリと記憶する。十枚分ぐらいは楽に這入るもんだがね。それから本人が眼をさますと、ただ頭が痛いばっかりで何一つ記憶していない。イクラ拷問されても、買収されても白状する事がないのだから、どこへ送っても秘密の洩れる心配がない……という事になるんだ。ところがその人間レコードを向うへ着いてから前の順序で麻酔させて、コカインを一筒注射すると、前に云った脳髄のどこかの一部分が眼を醒ますんだね。最近に聞いたレコードの文句を夢うつつにハッキリと繰返す事実が、モウ東京の大学で実験済みなんだ」

「ヘエ。その薬を貴方が発明したんですか」

「発明なんか出来るもんじゃない。盗んだんだよ。ペトログラードのネバ河口に在る信号所の地下室にこの人間レコード製造所が在ることを日本の機密局では大戦以前から知っていて、苦心惨憺して、その遣り方を盗んでおいたんだ。ところが露国は今まで、日本に対してだけこの手段を使ったことがない。つまり取っときにしといたのを今度初めて使いやがったんだ。一番重大なメッセージだからね」

「何故取っときにしたんでしょう」

「日本の医学は世界一だからね。怖かったんだよ。その上に人間レコードに度々なる奴は、なればなる程、注射がよく利いて、レコードの作用がハッキリなる代りに、薬の中毒で妙な顔色になって瘠せ衰えるんだ。気を付けていると直ぐに普通の人間と見分けが付くんだ」

「つまりアノ<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>みたいになるんですね」

「そうだよ。永い事、<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>に居た若島中将閣下は<ruby><rb>哈爾賓</rb><rt>ハルピン</rt></ruby>から飛行機で来たあの<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>の写真を見ただけで、テッキリ人間レコードということがわかったという位だからね」

「若島中将……誰ですか。若島中将って……」

「日本の機密局長さ。支那服を着た立派な人だがね。僕等の親玉なんだ。君を海軍兵学校に入れてやるというのはその人さ……」

中学生は今一度真赤になった。

「でもあの小ちゃな爺さんは気の毒ですね」

「気の毒ぐらいじゃない。きょうの号外を見たら××大使に殺されやしまいかと思うんだがね。裏切者という疑いで……」

「エッ。殺されるんですか。何も知らないのに……」

「殺されるとも。ソビエットの唯物主義の奴等は血も涙もないんだからね。政治外交上の問題で少しでも疑わしい奴は<ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>っ<ruby><rb>端</rb><rt>ぱし</rt></ruby>から殺して行くのが奴等の方針だよ」

「残酷ですなあ」

「ナアニ。レコードを一枚壊すくらいにしか思ってやしないだろう。ハハハ」