<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の洋行の<ruby><rb>土産話</rb><rt>みやげばなし</rt></ruby>ですか。

イヤハヤどうも……あんまり古い事なんで忘れちゃいましたよ。何なら御勘弁願いたいもんで……ただもうビックリして<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>って、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>からがら逃げて<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>って来たダケのお話でゲスから……。

……ヘエ……あの話。あの話と申しますと？　ヘエ。世界が丸いお蔭で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>が<ruby><rb>腸詰</rb><rt>ソーセージ</rt></ruby>になり損なった話……。

うわあ。こいつあ驚いた。誰からお聞きになったんで。ヘエ。あの植木屋の六から……弱ったなあドウも。飛んでもねえ秘密をバラしやがって……アイツのお<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべり</rt></ruby>と来た日にゃ手が附けらんねえ。死んだ<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>から聞きやがったんだナ畜生……誰にも話したこたあねえのに……。

ヘエヘエ。これあドウモ御馳走様でゲス。こうやって自分の手にかけたお座敷で、<ruby><rb>兄弟分</rb><rt>きょうでえぶん</rt></ruby>がこしれえたお庭を眺めながら、旦那様のお<ruby><rb>相伴</rb><rt>しょうばん</rt></ruby>をして<ruby><rb>一杯</rb><rt>いっぺえ</rt></ruby>頂戴出来るなんて職人<ruby><rb>冥利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>の行止まりでげしょう。ヤッ、これあドウモ奥様のお<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>で……どうぞお構い遊ばしませんで……手酌で頂戴いたしやす。チイット世界が丸過ぎるようで。ヘヘヘ。オットット……こぼれますこぼれます。

それじゃそのガリガリの一件から世界のマン丸いわけが、わかったてえお話を<ruby><rb>冒頭</rb><rt>まくら</rt></ruby>からやって見やすかね……ガリガリてなあ人間を豚や犬とゴッチャにして<ruby><rb>腸詰</rb><rt>ちょうづ</rt></ruby>めにする器械の音なんで……ヘエ。<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>に今でも在る。旦那様も御存じ……ヘエヘエ……そのガリガリの中へあっしが<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>り<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねたお話なんでゲスからアンマリ気持のいいお話じゃ御座んせん。<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アチラ</rt></ruby>では人を殺すとアトがわからねえように腸詰めにしちまうんだそうですからね。今思い出してもゾッとしますよ。お酒のお<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>になるようなお話じゃねえんで……何なら御免を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>りてえんで……。

ヘエッ。奥様はソンナお話が<ruby><rb>大</rb><rt>だい</rt></ruby>のお好きと<ruby><rb>仰言</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>る……恐れ入りやしたなあドウモ。そんな話を聞いてる<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に眼尻が釣上って来て自然と<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>になる……<ruby><rb>新手</rb><rt>あらて</rt></ruby>の美容術……ウワア。エライ事になりましたなあドウモ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の<ruby><rb>嬶</rb><rt>かかあ</rt></ruby>なんぞはモウ<ruby><rb>以前</rb><rt>せん</rt></ruby>に水天宮で<ruby><rb>轆轤首</rb><rt>ろくろっくび</rt></ruby>の見世物を見て<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>って来ると、その晩、夜通し<ruby><rb>魘</rb><rt>うな</rt></ruby>されやがったもんで……ほかじゃあ御座んせん。<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>の首が抜けそうで心配になっちゃったんだそうです。……ヒヤア、抜ける抜けるとか何とか<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>らねえ声を真夜中出しやがるんで……<ruby><rb>篦棒</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>めえ、抜ける程の別嬪と思ってやがるのか……ってんで、背中を一つドヤシ付けてやりましたらヤット正気付きましたがね。あれがドウモいけなかったようで……とうとう一生涯、別嬪にならず<ruby><rb>仕舞</rb><rt>じま</rt></ruby>いで、惜しい事をしましたよ。まったく。ヘヘヘ。世の中は変れば変るもんでげす。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>が二十七の年でゲスから三十年ばかり前のことでしょう……明治三十何年かのお正月の話でゲス。その時分は台湾の総督府で仕事さして頂いておりましたが、その春から夏へかけて<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>の<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>てえ処で世界一の博覧会がオッ<ruby><rb>初</rb><rt>ぱじ</rt></ruby>まるてんで、日本の台湾からも<ruby><rb>烏龍茶</rb><rt>ウーロンちゃ</rt></ruby>の店を出して宣伝してはドウかてえお話が持上りました。その時分までは何でもカンでも<ruby><rb>舶来</rb><rt>はくれえ</rt></ruby><ruby><rb>舶来</rb><rt>はくれえ</rt></ruby>ってんで紅茶でも何でもメード・イン・<ruby><rb>毛唐</rb><rt>けとう</rt></ruby>でねえと幅が利かねえのが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>だってんで……。<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>産の極上品よりもズット<ruby><rb>芳香</rb><rt>かおり</rt></ruby>の高い、味の<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い烏龍茶を一つ毛唐に宣伝してみろってえ、その時の民政長官の男爵様で、<ruby><rb>後藤新平</rb><rt>ごとうしんぺい</rt></ruby>てえ方が……ヘエ。その<ruby><rb>蛮爵</rb><rt>ばんしゃく</rt></ruby>様が号令をおかけになったんだそうで……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>も一つ台湾風の大きなカフェエを、この博覧会の中へ建てに行かねえかってえ蛮爵様からのお言葉でしたがね、ビックリしやしたよマッタク。

自慢じゃ御座んせんが小学校を出たばかりのタタキ大工なんで……雀がチューチュー<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>がカアカア。チイチイパアパアが幼稚園の先生ぐれえの事しか知らねえ江戸ッ子一流の世間見ずでゲス。箱根の向うへ行ったら日本語でせえ通じなくなるんですから、洋行なんて事あ考えてみた事も御座んせん。

総督府の官舎を建てに台湾へ渡る時にも、乗っている船が<ruby><rb>陸地</rb><rt>おか</rt></ruby>の見えない海の上を平気でドンドン走って行きますので、何だか妙な気持になっちゃいましてね。<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>たちを引率している藤村てえ工学士の方に聞いたら笑われましたよ。

「地球は丸いものだから心配しなくてもいいよ。イクラ行ったって、おしまいにはキット日本へ帰り着くんだから」

「ヘエ、誰か見た者がおりますかえ」

「見なくたってわかっている。日本男児の癖に<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>が<ruby><rb>無</rb><rt>ね</rt></ruby>えんだナお前は……。天草の女を御覧……世界が丸いか四角いか、わかりもしない娘ッ子の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>から世界中を股にかけて色んな人種を手玉に取って、お金を捲上げちゃあ日本の両親の処へ送るんだ。大したもんだよソレア。世界中のどこの隅々に行っても天草女の居ない処は無いんだよ」

「ヘエッ……成る程ねえ。そんなもんですかねえ」

「まったくだよ。洋行するとわかる」

「ヘエ、そんなに天草女ってものは大勢居るんもんですかねえ」

「居るか居ないか知らないが、外国では炭坑でも、<ruby><rb>金山</rb><rt>かなやま</rt></ruby>でも<ruby><rb>護謨</rb><rt>ゴム</rt></ruby>林でも開けると器械より先に、まず日本の天草女が行くんだ。それからその尻を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ嗅ぎ毛唐の野郎がくっ付いて行って仕事を初める。町が出来る。鉄道がかかるという順序だ。<ruby><rb>善</rb><rt>い</rt></ruby>い事でも悪い事でも何でも、皮切りをやるのはドッチミチ日本の女だってえから<ruby><rb>豪気</rb><rt>ごうぎ</rt></ruby>なもんだよ。まったく思いがけない処でヒョイヒョイ天草女にぶつかるんだからね」

「ヘエ。そんな女は、おしまいにドウなるんでしょうか」

「それアキマリ切っている。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に世界の丸いことがホントウにわかって来ると、そこで一人前の女になって日本へ帰って来て、チャンと<ruby><rb>普通</rb><rt>あたりまえ</rt></ruby>の結婚をするんだ。又……それ位の女でないと天草では<ruby><rb>嬶</rb><rt>かかあ</rt></ruby>に<ruby><rb>招</rb><rt>よ</rt></ruby>び手が無い事になっているんだから仕方がない」

「嫁入道具に地球儀を持ってくようなもんですね」

「まあソンナもんだ。だから天草には、世界の丸いことがわからないと洋行出来ないナンテ意気地の無い女は一匹も居ないんだよ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は余計な恥を掻いたんで赤くなっちゃいましたよ。それでもイクラか安心するにはしましたがね。

ですから<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>へ渡る時には相当、落付いておりましたよ。仲間の奴に……大工と左官とで、植木屋の六の親子も入れて十四五人ぐれえ居りましたっけが……そんな連中に<ruby><rb>基隆</rb><rt>キールン</rt></ruby>で買った七十銭の地球儀を見せびらかして、日本の小さい処を講釈して聞かせたりして片付いておりましたがね。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に毎日毎日アンマリ長いこと海の上ばっかりを走って行くのに気が付くと妙なもので、理窟は呑込んでいる癖に、何となく心配になって来ました。今でも初めて洋行する人は、よくソンナような頭のヘンテコになる病気にかかるんだそうで、熱ぐらいあったかも知れません。別に何ともないのに、何だかミンナが欺されて島流しにされるんじゃねえか。佐渡が島へ<ruby><rb>金坑</rb><rt>かね</rt></ruby>掘りに遣られるんじゃねえか……なんて考えているとドウモ頂くものが<ruby><rb>美味</rb><rt>おい</rt></ruby>しく御座んせん。毎日毎日そのライスカレーとシチウとコロッケに飽きちゃったのかも知れませんがね。

その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に船の中で演芸会が初まりました。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>がステテコを踊ることになったんで……船の中に派手な<ruby><rb>三桝</rb><rt>みます</rt></ruby>模様の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>と……その頃まだ<ruby><rb>団十郎</rb><rt>くだいめ</rt></ruby>が生きておりました時分で……それから赤い<ruby><rb>褌木綿</rb><rt>ふんどしもめん</rt></ruby>と、スリ<ruby><rb>鉦</rb><rt>がね</rt></ruby>、太鼓、<ruby><rb>三味線</rb><rt>さみせん</rt></ruby>なんぞがチャント揃ってたのには驚きましたよ。

当日になると中甲板の五六百人ぐらい<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>る<ruby><rb>広間</rb><rt>ホール</rt></ruby>に舞台が出来て、そこへ一等の船客から吾々特別三等の連中まで一パイになって見物するんで、皮切りにヒョウキンな西洋人の船長が飛出して西洋手品を初める。ナカナカ鮮かなもんでしたが、これあ当り前でさあ。そのあとへ日本人が上ってヤッパリ西洋手品を使いましたがアンマリ<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えません。メード・イン・ジャパンが今でも幅の利かないのは手品ばっかりでしょう。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>のステテコの番が来たんで立上ろうとしているところへ今の植木屋の六の親父でゲス。その時はモウいい<ruby><rb>禿頭</rb><rt>はげあたま</rt></ruby>の赤ッ鼻でしたっけが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>から世界の丸い話を<ruby><rb>聞</rb><rt>きい</rt></ruby>てからというもの毎日毎日甲板に出て、船の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>をグルグルまわってゆく蓄音器のレコードみたいに平べったい海を見まわしながら首をひねっていた奴なんで……その日も、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>と組になってステテコを踊ることになっていたんですが、そいつが派手な浴衣に<ruby><rb>赤褌</rb><rt>あかふん</rt></ruby>のまんまボンヤリ甲板から降りて来やして、<ruby><rb>出</rb><rt>で</rt></ruby>の<ruby><rb>囃子</rb><rt>はやし</rt></ruby>を聞いている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の顔をジイッと穴のあくほど見ながら、<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>ッポケなドングリ<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>をパチパチさせたもんです。

「おれあドウしてもわからねえ」

「何がわからねえ」

「世界が丸いてえ理窟が……」

「馬鹿だな<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>は……イクラ云って聞かせたってわからねえ。台湾へ渡った時にヤットわかったって安心してたじゃねえか」

「それはお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>だけだ。<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>あアレからチットモ安心していねえんだ。不思議でしようがねえんだ」

「何が不思議だえ」

「だって<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えても見ねえ。あの地球儀みてえなマン丸いものの上にドウしてコンナに水が溜まっているんだえ……。おまけに大きな浪が打ってるじゃねえか……ええ……」

そう聞くと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>も頭の<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>がジインとして<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>え込んじまいました。口では強いことを云いながら心の奥ではやっぱり心配していたんですね。そこが病気のセイだったかも知れませんが、図星を指されてハッとしたようなアンバイで変テコレンな眼のまわるような気もちになっちゃいました。そこいらがだんだん薄暗くなって気が遠くなって行くようなアンバイで……そのまんま引っくり<ruby><rb>返</rb><rt>けえ</rt></ruby>っちゃったらしいんです。気が弱かったんですね、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は……もっともその時にはモウ六の<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>と一緒に揃ってソンナ病気にかかっていたんだそうですから仕方がありませんがね。妙な病気があればあったもんでゲス。<ruby><rb>癲癇</rb><rt>てんかん</rt></ruby>なら<ruby><rb>差詰</rb><rt>さしづ</rt></ruby>め地球癲癇だったのでしょうが、そんなオボエは毛頭なかったんで……自分でも、おかしいと思いましたよ。

ですから同じ病気にかかっていた六の<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>も、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>が引っくり<ruby><rb>返</rb><rt>けえ</rt></ruby>ったのを見ると直ぐに追っかけて引っくり<ruby><rb>返</rb><rt>けえ</rt></ruby>りやがったんだそうで……これは大変だと思ったトタンに世界中が平ベタクなったてんですからダラシのねえ野郎で……お蔭でステテコはオジャンになっちまいました。誰が云い出しものか知れませんが、モトモト平べったい処に住んでいる人間に「世界は丸い」なんて罪な<ruby><rb>御布告</rb><rt>おふれ</rt></ruby>を出したものですよ。まったく、<ruby><rb>大本教</rb><rt>おおもときょう</rt></ruby>のお<ruby><rb>筆先</rb><rt>ふでさき</rt></ruby>に引っかかったみてえで……それから亜米利加へ着くまで二週間ばかりの間、六の親父と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>と二人で上甲板の病室に入れられてウンウン云っておりました。

アトから聞いてみると揃いも揃ったステテコが二人つながって引っくり<ruby><rb>返</rb><rt>けえ</rt></ruby>った。場違いのステテコだ……てんで船中の大評判になったんだそうで……おまけに二人とも……大変だ大変だ……とか何とか変な<ruby><rb>譫語</rb><rt>うわごと</rt></ruby>を並べたもんですから、念のために血を取って調べてみると恐ろしいもんでゲス。浮気の<ruby><rb>痕跡</rb><rt>あと</rt></ruby>がタップリと血の中に残っている。この<ruby><rb>白痴</rb><rt>こけ</rt></ruby>野郎ッ……てな毒の<ruby><rb>名前</rb><rt>なめえ</rt></ruby>だったと思いますがね。ヘエ。そのゴノゴッケンの陽性なんで、テッキリ脳梅毒……何をするかわからねえということになって<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>め込みを喰ったもんです。その又、船のお医者って奴がチャチな<ruby><rb>塩</rb><rt>しょ</rt></ruby>っぱい野郎だったのでしょう。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にホントの病気の<ruby><rb>名前</rb><rt>なめえ</rt></ruby>がわかったんだそうですが……。

ヘエ。その病気の名前でゲスか。エエト……そうそう六の<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>のが「<ruby><rb>野垂</rb><rt>のた</rt></ruby>れ死に」てえんで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>のが「<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>・<ruby><rb>小便</rb><rt>シッコ</rt></ruby>」てんだそうで……笑いごとじゃねえんで……ヘエ。ノスタレジイ……ノスタルジヤにホーム・シックでゲスかい。どうもおかしいと思った。お笑いになっちゃ困ります。二人とも熱が八度ばかり出ましたよ。日本へ帰ってから聞いてみたら舶来の神経衰弱なんだそうで……重いのがノスタレジイで軽いのがオーム・シッコてんだそうですが、ハイカラな病気があればあるもんですな。派手な浴衣の<ruby><rb>赤褌</rb><rt>あかふんどし</rt></ruby>に、黄色い手拭の向う鉢巻がノスタレのオーム・シッコでウンウン云ってるんですから世話ありやせんや……。

それでも亜米利加へ<ruby><rb>上陸</rb><rt>あが</rt></ruby>ると二人とも急に元気になりましてね。<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>へ着くと直ぐに<ruby><rb>建前</rb><rt>たてまえ</rt></ruby>にかかりやした。藤村てえ工学士さんが引いてくれた図面の通りに台湾式の御殿を建てましたが大した評判でげしたよ。ソレア<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>とノスタレ<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>の写真が大きく新聞に出ましたよ。ノスタレ爺の方は植木屋でゲスからその台湾館の前に作った日本式のお庭が大受けに受けちゃったんで……ノスタレ爺の野郎は雪舟の子孫だってえ事になったんですから<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れて物が云えませんや。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の方はモットおかしいんで……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>はこれでも<ruby><rb>小手斧</rb><rt>こちょうな</rt></ruby>の癇持ちでげして、<ruby><rb>小手斧</rb><rt>こちょうな</rt></ruby>の<ruby><rb>木片</rb><rt>こっぱ</rt></ruby>が散らかるのが大嫌いでげす。そこで<ruby><rb>最初</rb><rt>ノッケ</rt></ruby>から手を附けた四十尺ばかりの美事な<ruby><rb>米松</rb><rt>べいまつ</rt></ruby>の<ruby><rb>棟木</rb><rt>むなぎ</rt></ruby>をコツンコツンと<ruby><rb>削</rb><rt>こな</rt></ruby>して行く<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に四十尺ブッ通しの<ruby><rb>継</rb><rt>つな</rt></ruby>がった<ruby><rb>削屑</rb><rt>アラ</rt></ruby>をブッ放しちゃったんで、見ていた毛唐の技師が<ruby><rb>肝</rb><rt>きも</rt></ruby>を潰したもんだそうです。その話が亜米利加中の新聞に出たってんで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>が船の中で退屈<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎに作った箱根細工のカラクリ箱が、まだ博覧会の初まらねえ<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にスッカリ売約済みになる。六の<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>をお雪の旦那のピイピイモルガンて奴が買いに来るってなアンバイで大した景気でしたよ。毛唐って奴はつまらねえ事を感心するんですね。ヘヘヘ。

その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に屋根の<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>ックリ<ruby><rb>返</rb><rt>けえ</rt></ruby>った、<ruby><rb>破風造</rb><rt>はふづくり</rt></ruby>のお化けみてえな台湾館が赤や青で塗り上って、<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>の博覧会がオッ<ruby><rb>初</rb><rt>ぱじ</rt></ruby>まる事になりますと、今のノスタレとオーム・シッコが二人でフロッキコートてえ<ruby><rb>活弁</rb><rt>かつべん</rt></ruby>のお仕着せみてえなものを着込んで入口の処へ突立って、藤村さんから<ruby><rb>教</rb><rt>おそ</rt></ruby>わった通りの英語を、毎日毎日大きな声で怒鳴るんです。

「じゃぱん、がばめん、ふおるもさ、ううろんち、わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」

お笑いになっちゃ困ります。何てえ意味だかチットモ知らなかったんで……最初の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>は茶目好きの藤村さんが「右や左のお旦那様」を英語で教えたんじゃねえかと思ってましたがそうでもないらしいです。お大師様の「あぼきゃあ<ruby><rb>兵衛</rb><rt>べえ</rt></ruby>。<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシヤ</rt></ruby>のう、中村だあ」式の英語で、毛唐の厄払いか、荒神<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>りの文句じゃねえかとも<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えてみましたがそうでもないらしんで……ズット<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になって聞いてみましたら「<ruby><rb>日本</rb><rt>じゃぱん</rt></ruby><ruby><rb>専売局</rb><rt>がばめん</rt></ruby><ruby><rb>台湾</rb><rt>ふおるもさ</rt></ruby><ruby><rb>烏龍茶</rb><rt>ううろんち</rt></ruby><ruby><rb>一杯</rb><rt>わんかぷ</rt></ruby><ruby><rb>十銭</rb><rt>てんせんす</rt></ruby>、<ruby><rb>イラハイ</rb><rt>かむいん</rt></ruby><ruby><rb>イラハイ</rb><rt>かむいん</rt></ruby>」てんですから<ruby><rb>禁厭</rb><rt>まじない</rt></ruby>にも薬にもなれあしません。

もっともこのお<ruby><rb>祓</rb><rt>はら</rt></ruby>いの文句の意味が、そんなに早くからわかってたら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>は無かったかも知れません。舶来の<ruby><rb>腸詰</rb><rt>ソーセージ</rt></ruby>になっちゃって、毛唐の<ruby><rb>糞小便</rb><rt>くそしょうべん</rt></ruby>に生れかわっていたかも知れねえんで……変テコなお話でゲスが人間の運てえものは、ドンナ事から廻り合わせて来るか知れたもんじゃ御座んせん。正直のところ「わんかぷ、てんせんす」と米の<ruby><rb>生</rb><rt>な</rt></ruby>る木が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>の親なんで……。

とにかくソイツを訳のわからねえまんまに台湾館の前に突立って、<ruby><rb>滅法矢鱈</rb><rt>めっぽうやたら</rt></ruby>に威勢よく怒鳴っているとドシドシ毛唐が這入って来る。台湾館の中では<ruby><rb>選抜</rb><rt>よりぬ</rt></ruby>き<ruby><rb>飛切</rb><rt>とびき</rt></ruby>りの台湾生れの<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>が、英語ペラペラで烏龍茶の講釈をしながら一枚八<ruby><rb>仙</rb><rt>セント</rt></ruby>の<ruby><rb>芭蕉煎餅</rb><rt>ばしょうせんべい</rt></ruby>を出してお給仕をする。その毛唐らが這入りがけや出て行きがけに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>とノスタレに五<ruby><rb>仙</rb><rt>セント</rt></ruby>か十<ruby><rb>仙</rb><rt>セント</rt></ruby>ずつ呉れて行きます。たまには一<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>も五<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>も呉れる奴が居る。そうかと思うと何も呉れねえでソッポ向いて行く<ruby><rb>猶太人</rb><rt>ジュー</rt></ruby>みてえな奴も居るってな訳で、いいお小遣いになりやしたよ。

その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に英語がチットずつわかって参りやした。水の事を「ワラ」ってんで……ワラワセやがるてのは、これから初まったのかも知れません。舟に乗って来るのがナベゲタ。<ruby><rb>席亭話</rb><rt>よせばなし</rt></ruby>の<ruby><rb>鍋草履</rb><rt>なべぞうり</rt></ruby>てえのと間違いそうですね。女の事が「レデー」ですから男の事が「デレー」かと思ったら<ruby><rb>豈計</rb><rt>あにはか</rt></ruby>らんや「ゼニトルマン」でげす。成る程これあ理窟でゲスが失礼したくなりますね。奥さんのことが「マム」……「女はマモノ」ってえ<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>かも知れませんがドウカと思いますよ。「お早よう」てのが「グルモン」、こいつは「グル」だけでも間に合います。江戸ッ子の「コンチワ」が「チヤア」で済むようなもんでげしょう。今晩はが「グルナイ」。「勝手にしゃアガレ」てクッ付けてやりてえくれえで……「左様なら」が「グルバイ」……どうしてこう毛唐はグルグル云いたがるんだか……<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>から人間になり立てみてえで……もっとも毛唐は毛の字が付くだけに手も足も毛ムクジャラですからね。女なんかでも顔はパヤパヤとした<ruby><rb>生</rb><rt>う</rt></ruby>ぶ<ruby><rb>毛</rb><rt>げ</rt></ruby>だらけで<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>中は鳥の毛を<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>ったようにブツブツだらけでゲス。傍へ寄ると動物園臭くって遣り切れませんがね。男でも女でも物を呉れるたんびに「タヌキ」と云ってやると喜んでいるんですからヤッパリ<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>なんでげしょう。

ところが、その毛唐のタヌキ野郎に<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目に合わされたお話なんで……<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>だけに悪智恵にかけちゃ日本人は<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>いませんや。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>等が人寄せをやっている台湾館の中には六人の台湾娘が居て、お茶の給仕をしておりました。そいつ等の<ruby><rb>名前</rb><rt>なめえ</rt></ruby>は三十年も<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>の事ですから忘れちゃいましたが、何でもフン、パア、チョキ、ピン、キリ、ゲタってな八百屋の符牒みたいな苗字の女の子が、揃って台湾<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>り抜きの別嬪ばかりなんで、年はみんな十七か八ぐれえの水の<ruby><rb>出花</rb><rt>でばな</rt></ruby>ってえ奴でしたが、最初っからの固いお<ruby><rb>布告</rb><rt>ふれ</rt></ruby>で、そんな女たちに指一本でも指したら最後の<ruby><rb>助</rb><rt>すけ</rt></ruby>、お給金が貰えねえばかりでなく、亜米利加でタタキ放しにするという<ruby><rb>蛮爵</rb><rt>ばんしゃく</rt></ruby>様からの御達しなんで、おまけに藤村さんは藤村さんで、一足でも博覧会場から踏み出すことはならねえ。亜米利加の町にはギャングとかガメンとかいう奴がどこにでも居て昼日中でも強盗や<ruby><rb>人浚</rb><rt>ひとさら</rt></ruby>いをやらかす。気の弱い奴と見たらピストルで<ruby><rb>脅威</rb><rt>おど</rt></ruby>かして<ruby><rb>大盗賊</rb><rt>おおどろぼう</rt></ruby>や密輸入の手先にしちまうから気を附けろ。一度ソンナ奴に狙われたら生きて日本に<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>れねえからそう思えってサンザ<ruby><rb>威嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かされておりましたからね。何の事あねえ不動様の金縛りを喰った<ruby><rb>山狼</rb><rt>やまいぬ</rt></ruby>みてえな恰好で、みんな指を<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて、<ruby><rb>唾液</rb><rt>つばき</rt></ruby>を呑み呑みソンナ女たちを眺めているばかりでした。

可哀相に女の出来ねえ職人たら歌を忘れたカナリアみてえなもんで……ヘエ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>ゃ今でも気が若い方なんで、その頃はまだ三十になるやならずの元気一杯の奴が、青い<ruby><rb>瞳</rb><rt>め</rt></ruby>をしたセルロイドじゃあるめえし、言葉も通じなけあ西も東もわからねえ人間の山奥みてえな亜米利加三界へ連れて来られて、毎日毎日そんな別嬪たちの色目づかいを見せ付けられながら涙声を張り上げて、

「わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」

をやらされているんですから、たまりませんや。ノスタレ爺もオームのオシッコも眼が釣上っちゃって、今にもポンポンパリパリと破裂しちまいそうな<ruby><rb>南京</rb><rt>ナンキン</rt></ruby>花火みてえな気もちになっちまいましてね。哀れとも愚かとも何とも早や、申上げようのない「ふおるもさ、ううろんち」が一<ruby><rb>対</rb><rt>つい</rt></ruby>、出来上ったもんでゲス。

ところがここに一つうまい事が持上りました。その女たちの中でも一等<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>けるピン<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>とチョキ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>という二人がノスタレだかオシッコだかわかりませんが病気になっちゃったんで、とりあえずの埋め合わせに<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>の支那料理屋に居たというチイチイっていうのとフイフイっていうのと二人の別嬪が手助けに来たんでげす。何しろ一人で<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>を六つ<ruby><rb>宛</rb><rt>ずつ</rt></ruby>も持っているんで一人欠けても<ruby><rb>頬返</rb><rt>ほおげえ</rt></ruby>しが附かないですからね。占めた。こいつは有難いことになったもんだと<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>は内心でゾクゾク喜んじゃいました。ねえ。そうでしょう。今まで居た女には指一本さしても<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>なかったかも知れねえが、今度来た女なら<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつけ</rt></ruby>えなかろう。しかも向うが二人前ならこっちも二人前と云いてえが、片っ方が<ruby><rb>禿頭</rb><rt>はげあたま</rt></ruby>の赤ッ鼻のノスタレじゃ問題にならねえ。若さといい、男前といい、一番<ruby><rb>鬮</rb><rt>くじ</rt></ruby>の<ruby><rb>本鬮</rb><rt>ほんくじ</rt></ruby>はドッチミチこっちのもんだがハテ。ドッチから先に<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を取ろうかテンデ、知らん顔をして「わんかぷ、てんせんす」の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おまじない</span>を唱えながら二三日ジッと様子を見ているとドウです。このチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>とフイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>の二人が一緒に、あっしの方へ色目を使い初めたじゃ御座んせんか。

ヘヘ……どうも恐れ入りやす。おっとっと……こぼれます、こぼれます。どうもコンナに御馳走になったり、勝手なお<ruby><rb>惚気</rb><rt>のろけ</rt></ruby>を聞かしたりしちゃ<ruby><rb>申訳</rb><rt>もうしわけ</rt></ruby>御座んせんが、ここんところが一番恐ろしい話の本筋なんで<ruby><rb>致方</rb><rt>いたしかた</rt></ruby>が御座んせん。どっちみち混線させないようにお話しとかないと、あとで筋道がわからなくなりやすからね。ヘヘ、恐れ入りやす。

二人の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>でもフイフイっていうのは、まだ十七か八の<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しい<ruby><rb>聡明</rb><rt>りこう</rt></ruby>そうな<ruby><rb>瞳</rb><rt>め</rt></ruby>をした、スンナリとした小娘でしたが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>に色目を使いはじめたのはドウヤラ<ruby><rb>此娘</rb><rt>こいつ</rt></ruby>の方が先だったらしいんです。台湾館に来る<ruby><rb>匆々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>から<ruby><rb>何</rb><rt>どう</rt></ruby>やら物を言いたそうな眼付きをして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の方を見ておったように思いますがね。そいつを一方のチイチイって<ruby><rb>娘</rb><rt>やつ</rt></ruby>が感付いて横槍を入れたものらしいんです。ヘエヘエ。その通りその通り。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の取り合いっこが始った訳なんで、ヘヘヘ。ヘエヘエ。大した色男になっちゃったんで……油をかけちゃいけません。ああ暑い暑い……イエイエ。モウ頂けやせん。ロレツが廻らなくなっちゃ困るんで……アトにモノスゴイ話がつながってるんでゲスから……ヘエ。

……というのはこのチイチイって奴が大変なものなんでげす。あとから聞いた話では支那人と<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリ</rt></ruby>人の<ruby><rb>混血娘</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>だったそうですが、とても素晴らしい別嬪でげしたよソレア。おまけにテエブルの六ツは愚か二十でも三十でも持って来て下さい。一人で<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>いて見せるからナンテ大それた熱を吹きやがって、来る早々から仲間に憎まれておりましたがね。生やさしい女じゃ御座んせんでしたよ。

そうですねえ。年はあれでも二十二三ぐらいでしたろうか、スッカリ若返りにしておりましたので<ruby><rb>一寸見</rb><rt>ちょっとみ</rt></ruby>はフイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>よりも可愛いくれえで、フイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>とお揃いの前髪を垂らして両方の耳ッ<ruby><rb>朶</rb><rt>たぼ</rt></ruby>に大きな真珠をブラ下げた<ruby><rb>娘</rb><rt>やつ</rt></ruby>が、<ruby><rb>翡翠</rb><rt>ひすい</rt></ruby>色の<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の服の間から、<ruby><rb>支那</rb><rt>チャンチャン</rt></ruby>一流の<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>げ付くような真紅の下着の裾をビラ付かせながらジロリと使う色眼の凄かったこと……<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>も一ぺんにダアとなっちゃったんで……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">流石の</span>だけ余計かも知れませんが、誰だってアイツにぶつかったらタッタ一目のアタリ一発でげしょう。ハタからフイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>がオロオロ気を揉んでいるようでしたが、そうなるとモウ問題じゃ御座んせん。

その場でインキを二つ三つぶっ付け合うと……ヘエ……ウインクですか……どうも相すみません。亜米利加じゃインキの方が通りがいいんで……ツイうっかり、そのインキの方にきめちゃったんで……そいつに気が付くとフイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>が慌てて<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の向うから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>に手を振って見せましたが、そうなったら夢中でゲスから気にも止めません。ただその時にフイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>を振り返って睨み付けたチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>の眼付の怖しかった事ばっかりは今でも骨身にコタえて<ruby><rb>記憶</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えております。その睨みにぶつかったフイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>が、真青になってフラフラとブッ倒おれそうになったんですからね。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>もズット<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になって、そのチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>の睨みの恐ろしい意味がわかってスッカリ震え上がっちゃったもんですがね。

その晩のことです。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は台湾館の地下室で一緒に寝ているノスタレ爺に感づかれないようにソーッと起き出して、首尾よく台湾館を抜け出しちゃいました。それから約束通り噴水の横でチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>に会って、演芸館の裏で夜間出勤のサンドウィチマンを二人買収して、チイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>と二人で薄い布張りの四角い箱の中に這入って、入口の看守にテケツだけ見せて会場を抜け出しました。アトから<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>ゃこの時にいい二本棒に見立てられていたんですなあ。<ruby><rb>節劇</rb><rt>ふしげき</rt></ruby>の文句じゃ御座んせんが「殺されるとは<ruby><rb>露</rb><rt>つゆ</rt></ruby>知らず」でゲス。<ruby><rb>屠所</rb><rt>としょ</rt></ruby>の羊どころじゃねえ。大喜びで<ruby><rb>腸詰</rb><rt>ソーセージ</rt></ruby>になりに行ったんですからね。

博覧会の会場を出るともう、カイモク西だか東だかわからねえ<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>の町つづきでさあ。イルミネーションの海の底を続きつながって流れて行く馬車と電車の洪水でサ。その頃はまだ亜米利加にも円タクなんて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>が無かったんですからね。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の先に立ったチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>は、一町ばかり行った処の薄暗い町角に在るポストの下で<ruby><rb>立停</rb><rt>たちど</rt></ruby>まりましたから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>もその横で立停まって巻煙草に火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けました。すると間もなく白い馬を二頭附けた立派な馬車が来て、ポストの前に止まりましたが、それを見るとチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>はイキナリ<ruby><rb>広告</rb><rt>サンドイチ</rt></ruby>の服を脱いで<ruby><rb>地面</rb><rt>じべた</rt></ruby>に放り出して、その馬車に飛乗って手招きするんです。ですから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>も慌てて女の真似をして馬車に飛乗るトタンに、前後左右のスクリンを<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>したチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の首ッ玉にカジり付いてチュウッ……ヘヘヘ……どうも相すみません。ここがヤッパリその本筋なんで……このチュッてえ奴が<ruby><rb>腸詰</rb><rt>ソーセージ</rt></ruby>の<ruby><rb>材料</rb><rt>タネ</rt></ruby>に合格の<ruby><rb>紫</rb><rt>アニリン</rt></ruby>スタムプみてえなチューだったんで……実際眼が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>んじまいましたよマッタク。いい<ruby><rb>芳香</rb><rt>におい</rt></ruby>が<ruby><rb>臓腑</rb><rt>はらわた</rt></ruby>のドン底まで<ruby><rb>泌</rb><rt>し</rt></ruby>み渡りましたよ。そうなると香水だか肌の<ruby><rb>香</rb><rt>におい</rt></ruby>だか解かれあしません。おまけにハッキリした日本語で、

「まあ……よく来てくれたねえ、アンタ」

と来たもんです。

トタンに前後の考えなんか、笠の台と一緒にどっかへふッ飛んじゃいましたね、キチガイが<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>を飲んで火事見舞に来たようなアンバイなんで……暫くして女がスクリンを上げてから気が付いてみると、その馬車の走り方のスゴイのにチョット驚きましたよ。ほかの馬車をグングン抜いて行くので、金ピカ服の交通巡査が何度も何度も向うから近付いて来て手を揚げて<ruby><rb>制止</rb><rt>とめ</rt></ruby>にかかったようでしたが、<ruby><rb>私等</rb><rt>あっしら</rt></ruby>の馬車に乗っている黒い<ruby><rb>頬鬚</rb><rt>ほおひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>生</rb><rt>はや</rt></ruby>した<ruby><rb>絹帽</rb><rt>シルクハット</rt></ruby>の馭者がチョット<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を揚げて合図みたいな真似をすると、どの巡査もどの巡査も直ぐにクルリと向うを向いて行っちまったんです。

それが右へ曲っても左に曲っても、どこまで行ってもどこまで行ってもそうなんですから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>はだんだん不思議になって来ましたが、アトから聞いてみると無理もない話です。その馭者というのが旦那様……<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>切ってのギャングの大親分で、カント・デックてえ凄い奴だったそうです。<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>の町中の巡査はミンナこのデックの<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>みてえなものだったってえんですから豪勢なもんで……しかも一緒に乗っている支那娘のチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>と、もう一人のフイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>とは揃いも揃ってこのカント・デックの<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>だって事がそんな時の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>にわかったら、そのまんま目を<ruby><rb>眩</rb><rt>まわ</rt></ruby>しちゃったかも知れませんね。地球が丸いどころの騒ぎじゃ御座んせんからね。

それでなくとも何だか少々、薄ッ気味が悪くなりかけているところへ馬車が止って、一軒の立派な明るい店の前に着きました。チイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>はそこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>のキタネエ首根ッ子に今一つキッスをしますと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の手を引きながらその店の中に這入って行きましたが、それは大きなレコード屋だったんですね。スバラシイ花輪や<ruby><rb>流行児</rb><rt>はやりっこ</rt></ruby>の歌い手らしい男や女の写真が、四方の壁一パイに並んでいる店の広間へ、縦横十文字に並んだ長椅子に<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかった毛唐と<ruby><rb>女唐</rb><rt>めとう</rt></ruby>とが、フロック張りの番頭や手代の鳴らすレコードを知らん顔をして聞いていたようです。

その横ッチョの<ruby><rb>木煉瓦張</rb><rt>もくれんがば</rt></ruby>りの<ruby><rb>通路</rb><rt>とおりみち</rt></ruby>をやはり女に手を引かれながら通り抜けて、奥の行当りのドアを抜けるとヤット肩幅ぐらいの狭い廊下に出ました。その廊下は向う下りになっていて、黒いマットが一面に敷いて在るために足音も何もしないまま地下室へ降りて行くようになっていたらしいんですが、その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に右に曲ったり左に折れたりして<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を三つか四つぐらい潜って、もうだいぶ下へ降りたナ……と思ったトタンに廊下の天井に<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた電燈が<ruby><rb>突然</rb><rt>だしぬけ</rt></ruby>に消えちゃって<ruby><rb>真暗闇</rb><rt>まっくらやみ</rt></ruby>になっちまいました。それがチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>の顔の見納めだったんで……今度目、見た時は夕刊の新聞で手錠をかけられた笑い顔で、その次に見たのはデックと並んで死刑の宣告を受けている写真ニュースの横顔でしたがね。

もちろんソン時の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>にゃそんな事がわかりっこありゃせん。神様だって知らなかったんですから……それと<ruby><rb>一所</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>に女も手を放しちゃったんですから、あっしはタッタ一人真暗闇の中に取残されちゃったんで……往生しましたよ。まったく。

それでもまだ<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れが残っていたんですから感心なもんでげしょう。さては女がイタズラをしやがったんだナ……ヨオシ……その気ならこっちでも探り出して見せるぞ……てんで鬼ゴッコみたいに手探りで向うの方へ行きますと、いつの間にか廊下の行当りの<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を通り抜けて一つの立派な部屋に出ていたんですね。不意討ちにパッとアカリが<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いたのを見ると、太陽が二十も三十も一時に出て来たようで今度こそホントウに腰を抜かすところでしたよ。何しろそこいら中反射鏡ダラケの部屋に、天井一パイの花電燈が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いたんですからね。

世の中には立派な部屋が在れば在るもんだと思いましたねえ。この節なら銀座へ行けあアレ位の部屋がザラに在るんですから格別驚かなかったかも知れませんがね。何の事はない、竜宮みてえな金ピカずくめの戸棚や、椅子、テーブル、花束や花輪で埋まった部屋なんで、ムンムンする香水の匂いで息が詰りそうな中にタッタ一人突立っている<ruby><rb>見窄</rb><rt>みすぼ</rt></ruby>らしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の姿が、向うの壁一パイに篏め込んで在る大鏡に映ったのを見た時にゃ、思わずポケットへ手を当てましたよ。コンナ立派な部屋でチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>を抱いて寝た日にゃ、イクラ取られるかわからないと思いましてね。そこまで来てもまだ<ruby><rb>瘡毒気</rb><rt>かさけ</rt></ruby>が残っていたんですから大したもんでゲス。

「アハハハ。お金のこと心配してはイケマセン……ミスタ・ハルキチ……アハハハハ……」

だしぬけに大きな笑い声がしたのでビックリして振向きますと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の大きな蘭の葉陰から四十年輩の夜会服の紳士が、歩み出して来ました。その柔和な笑顔を見ると、たしかにどこかで会ったことの在る顔だとは思いましたが、どうしても思い出せません。<ruby><rb>真逆</rb><rt>まさか</rt></ruby>にツイ今サッキ乗って来た馬車の馭者が黒い頬髯を取ったものだとは気付きませんでしたので、多分台湾館に居る時にチップを余計に呉れたお客の一人じゃないかと思いながらホッとタメ息しておりますと、その紳士は右手を差出して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>と心安そうに握手しながら一層、眼を細くして申しました。しかも、それが片言まじりの日本語なんです。

「……アナタ……この<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>がドンナ<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>ですか、よく御存知でしょう。それですからメンド臭いお話やめましょうね。用事だけお話しましょうねえ。コチラへお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で下さい」

と<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>を手招きしながら部屋の隅の<ruby><rb>巨大</rb><rt>おおき</rt></ruby>な銀色の花瓶の処へ来ました。それは人間ぐらいの大きさの花瓶に<ruby><rb>蝦夷菊</rb><rt>えぞぎく</rt></ruby>の花を山盛りに挿したもので、四五人がかりでもドウかと思われるのをその紳士は何の<ruby><rb>雑作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>もなく一人で抱え<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けますと、その花瓶の向うの<ruby><rb>寄木細工</rb><rt>よせぎざいく</rt></ruby>の板壁の隅に小さな虫喰いみたいな穴が二つ三つ出来ております。その穴の一つに紳士が、時計の鎖に附いている鍵を突込みますとパタリと音がして二尺に二尺五寸ぐらいの壁板が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、奥の浅い十段ばかりに仕切った棚があらわれました。それがその毛唐の紳士が片言まじりの日本語と手真似で話すのを聞いてみるとこうなんです。

――この秘密の棚を錠前を使わないで開けられるようにしてもらいたい。材料と道具は入用なだけ直ぐに取寄せてやる。お前は台湾館の横で売っている不思議な箱根細工のマジック箱を作った大工さんだろう。だからアノ箱根細工の通りにここへ秘密のカラクリを取付けてもらいたいのだ。そうしてその開き方を自分にだけ教えて、直ぐに日本へ帰ってもらいたいのだ。お金はイクラでも遣る――

と云うのです。毛唐人の大工なんてものは無器用でゲスからあの箱根細工のような細かい仕事が、お手本を見せられても真似られないらしいですね。

しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>はこの時に虫が知らしたんでげしょう、何となく……これあイヤナ処へ来たナ……と思いましたよ。ちいっと虫の知らせ方が遅う御座んしたがね。とにかく……

「これあ何に使う棚だい。その目的がわからなくちゃ作る事あ出来ねえ」

て云ってやりますとね。その毛唐がホンノちょっとの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>でしたっけが青い眼を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き出して恐しい顔になりましたよ。けれども直ぐに又モトの通りの柔和な顔に返って、前の通りの愛嬌のいい片言まじりの日本語で手真似を初めました。

「これは宝石の袋を<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>っとく棚だ。私は昔からの宝石道楽で世界中の宝石を集めるのが楽しみなんだから、万一泥棒が這入っても心配のないようにコンナ仕事を頼むんだ。千<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>でも一万<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>でも欲しいだけお金を上げる。あの娘も附けてやっていいから是非どうか一つ請合って下さい」

てんで見かけに似合わずペコペコ頭を下げて頼むんです。

「私は亜米利加中に別荘を持っているのだから万一ここで<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の仕事が気に入ったら、まだ方々で、お頼みしたいのだ。貴方に一生涯喰えるだけの賃金を上げる事が出来るのだ」

と顔を真赤にして揉み手をしいしいペコペコお辞儀をするんです。カント・デックは前からチャンと研究して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>を<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>き落す手を<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えていたらしいんですね。仕事の出来る日本人なら金を呉れて頭を下げさえすれあコロリと手に乗って来るものと思っていたらしいんですが、コイツが<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>なことに見当違いだったのです。イクラ「わんかぷ、てんせんす」だって時と場合によりけりです。<ruby><rb>支那人</rb><rt>チャンチャン</rt></ruby>と違って日本人には虫の居どころって奴がありますからね。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>はデックの話を聞いている<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にピインと来ちゃいました。さてはあのチイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>の色目は喰わせものだったのか、この毛唐人が俺をここまで引っぱり込むために<ruby><rb>囮</rb><rt>おとり</rt></ruby>に使ってやがったのか、この野郎、俺をいい二本棒に見立てやがったんだな、俺を女で釣って泥棒仕事のカラクリ細工に使おうとしやがったんだナ。して見るとコイツア飛んでもない処へマグレ込んで来ちゃったぞ。しかもここまで深入りしたからにゃトテも生きて日本にゃ<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>れめえ……と気が付くと腰を抜かすドコロかあべこべに気持がシャンとなっちまいました。

……妙な性分で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は気が長い時にゃヤタラに長いんですが、何かの拍子にカーッとしちまうと、それから先が<ruby><rb>盲滅法</rb><rt>めくらめっぽう</rt></ruby>に手ッ取り早いんで……<ruby><rb>篦棒</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>めえ日本人じゃねえか。金やピストルに眼が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>んで毛唐の<ruby><rb>追剥</rb><rt>おいはぎ</rt></ruby>や泥棒の手伝いが出来るかってんだ。「ふおるもさ、ううろんち」を知らねえかってんで、イキナリその毛唐に組付いて大腰をかけようとしたもんです。これでも柔道二段の腕前ですからね。

ヘエ。それあ見上げたもんでしたよ。そこんとこだけがね。アトがカラッキシ意気地が<ruby><rb>無</rb><rt>ね</rt></ruby>えんで……。

今から<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えてみるとあん時によく殺されなかったもんで……多分、出来ることなら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>を<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>かし上げて<ruby><rb>柔順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくして、彼の棚の扉の細工をさせようってえ腹だったのでしょう。……コイツは日本一の細工人に違いない。コイツを<ruby><rb>取逃</rb><rt>とりに</rt></ruby>がしたら二度と再びコンナ細工は出来っこねえ……ぐれえに<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えていたのかも知れませんがアブネエもんでゲス。今から<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えるとゾッとしますよ。

組み付いたと思った時にゃカント・デックに両腕をシッカリと掴まれておりました。しかもその指の力の強さったらありません。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の腕の骨が<ruby><rb>粉々</rb><rt>こなごな</rt></ruby>になって行くような気持ちで、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>中が<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れ上っちゃいました。トテモ<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わないと思わせられましたね。手錠を<ruby><rb>引千切</rb><rt>ひきちぎ</rt></ruby>って逃げたっていう亜米利加でも指折りのカント・デックですから、柔道二段ぐれえじゃ歯が立ちませんや。

デック野郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の腕を掴んだまま顔の筋一つ動かさねえでニコニコしながら<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かしました。

「アナタ。<ruby><rb>憤</rb><rt>おこ</rt></ruby>るといけません。あたしカント・デックです。ゆっくりして下さい。面白いものを見せますから……」

と云ううちに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>を廻転椅子みたいにクルリと向うむきにして軽々と抱え上げて、横のドアから出て行きました。

「いけねえいけねえ。<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>あ<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>っから又、台湾館の前に突立って怒鳴らなくちゃならねえ約束がして在るんだ。放してくれ放してくれ」

と大暴れに暴れたもんですが何の足しにもなりません。そのまんまその次の部屋だったか、その次の部屋だったか忘れましたが、小さな粗末な部屋へ抱え込まれますと、そこのコンクリートの荒壁に取付けられている一枚<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の小窓から向うの部屋を覗かせられました。ちょうど赤ちゃんがオシッコをさせられるようなアンバイ式にね……。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は暴れるのをやめてボンヤリと<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れてしまいましたよ。向うの部屋の<ruby><rb>状態</rb><rt>ようす</rt></ruby>がアンマリ<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>いんで、呆れ返ってしまったんです。

ヘエ。それがドウモここではお話出来<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>いんで……お<ruby><rb>二方</rb><rt>ふたかた</rt></ruby>お揃いの前ではねえ。ヘヘヘヘヘ……。

何の事あねえ。水溜りに湧いたお<ruby><rb>玉杓子</rb><rt>たまじゃくし</rt></ruby>でゲス。それがみんな<ruby><rb>丸裸体</rb><rt>まるはだか</rt></ruby>の人間ばっかりなんですから<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた口が<ruby><rb>閉</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がりませんや。相当に広い部屋でしたがね。大きな<ruby><rb>椰子</rb><rt>やし</rt></ruby>や、<ruby><rb>橄欖</rb><rt>かんらん</rt></ruby>や、ゴムの樹の植木鉢の間に、長椅子だのマットだの、クッションだの毛皮だのが<ruby><rb>大浪</rb><rt>おおなみ</rt></ruby>のように重なり合っている間を、甘ったるい恰好の<ruby><rb>裸虫</rb><rt>はだかむし</rt></ruby>連中が上になり下になりウジャウジャとのたくりまわっているんですからトテモ人間たあ思えませんよ。金魚鉢に<ruby><rb>鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>をブチ<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>けたぐらいの騒ぎじゃ御座んせん。

不思議なものでね。そんなのを見せ付けられていながらエロ気分なんてコレンバカリも起りませんでしたよ。今<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えてもあの時の気持ばっかりはわかりませんがね。多分、<ruby><rb>冥途</rb><rt>めいど</rt></ruby>の土産……てえな気持で見ていたんでしょう。何がなしに見っともなくて、馬鹿馬鹿しくて、胸が悪くなるようで、横ッ腹の処がゾクゾクして無性に腹が立って来ましたが、その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の耳へカント・デックの野郎が口を寄せて<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かしやがったもんです。

「あそこへ行きたいなら仕事をなさい」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は又、あらん限りの死物狂いにアバレ初めました。部屋の中がムンムンと暑いので、汗みどろになってしまいましたが、何しろ<ruby><rb>太刀山</rb><rt>たちやま</rt></ruby>みたいな<ruby><rb>強力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>に押えられているんでゲスから子供に捕まったバッタみてえなもんで……ウッカリすると手足が<ruby><rb>挘</rb><rt>も</rt></ruby>げそうになるんです。

「そんなら今一つ面白いものを見せましょう」

と云うと今度はその小窓と反対側の低い<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けて、そこに掛かっている鉄の<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>伝いに奇妙な<ruby><rb>眩</rb><rt>ま</rt></ruby>ぶしい広い部屋へ降りて来ました。日本へ帰って来てから早稲田大学へ仕事をしに行った時にヤットわかりましたが、あれが水銀燈というものだったのですね。部屋のズット向うの隅のアーク燈みてえな<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しい、妙な色の電燈が一つ<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いているキリなんですが、その光りで見るとカント・デックの顔色から自分の手の甲の色までも、まるきり死人のような鉛色に見えるんです。それでなくとも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>はサッキから死物狂いに暴れたアトで精も気魂も尽き果てておりましたので、カント・デックの片手に吊下げられたまま死人のように手足をブラ下げながらそこいらを見まわしますと、それはどこかの<ruby><rb>工場</rb><rt>こうば</rt></ruby>の地下室としか思えません。コンクリートの天井と、床の間が頭の<ruby><rb>閊</rb><rt>つか</rt></ruby>える位低い、ダダッ広い部屋になっているんで、ジメジメと濡れたタタキの上には机も、椅子も<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>っ<ruby><rb>端</rb><rt>ぱ</rt></ruby>一本散らかっておりません。ただ向うの隅の水銀燈の下に、大きな大理石の<ruby><rb>臼</rb><rt>うす</rt></ruby>みたようなものがあって、その中で天井から突出たモートル仕掛けの鉄の棒がガリガリガリガリと廻転しているだけなんです。つまり特別<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えの大きな<ruby><rb>肉挽</rb><rt>にくひき</rt></ruby>器械ですね。博覧会の中で見たことのあるソーセージ製造器械なんです。

しかしスッカリくたびれ切って、物を<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>える力も何もなくなっていた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>にはソレが何の意味なんだかサッパリわかりませんでした。……ハテナ……蓄音機屋の地下室が、<ruby><rb>腸詰</rb><rt>ちょうづめ</rt></ruby>工場になっているのか知らん。コンクリの床の上をズルズルと引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>られながら、その臼の処へ連れて行かれましたが、別に怖くも何ともありませんでした。

けどもカント・デックに首ッ玉を押えられてその臼の中を覗かせられた時には、思わずゾッとして手足を縮めちゃいましたよ。その臼は、もちろん底抜けなんで、その底の抜けた穴の上にステキに大きな肉挽き器械のギザギザの渦巻きが、狼の歯みたいに銀色に光りながらグラグラグラと廻転しているのですから落っこったら最後、何もかもおしまいでさあ。頭から尻までゴチャゴチャになってしまうんですからドンナに有難いお経を聞かされたって<ruby><rb>成仏</rb><rt>じょうぶつ</rt></ruby>出来っこありません。

「あなた。この中に這入ること好きですか……仕事しますかしませんか」

<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>も……流石でなくたってヘタバッちまいますよ。イクラ元気を出そう……好きじゃありません……と云おうと思っても<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>中がコンクリートみたいになってガタガタ震え出すんですから仕様がありません。お笑いになりますけどもその場へ行って御覧なさい。ナカナカそう平気でいられるもんじゃ御座んせん。自分が何を<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えていたか、今でも<ruby><rb>記憶</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えていない位なんで、多分気絶する一歩手前だったのでしょう。タッタ一つ眼に残っているのはあの鉛色の水銀燈のイヤアな光りだけなんで……まったくあの陰気臭い<ruby><rb>生冷</rb><rt>なまづ</rt></ruby>めてえ光りばっかりは骨身に泌みて怖ろしゅうがしたよ。ネオン・サインが極楽の光りなら水銀燈は地獄のアカリなんでしょう。生きた人間でも死人に見えるんですからね。今思い出してもゾオッとしちまいますよ。

そこへカント・デックが何か合図をしたのでしょう。ズット<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方の薄暗い処の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、青い<ruby><rb>菜</rb><rt>な</rt></ruby>ッ<ruby><rb>葉服</rb><rt>ぱふく</rt></ruby>を着た顔中髯だらけの大男が一人トロッコをノロノロと押しながら出て来たんです。その時まで気が付かなかったんですが、その入口から<ruby><rb>肉挽</rb><rt>にくひき</rt></ruby>器械の前まで幅の狭い<ruby><rb>軌道</rb><rt>レール</rt></ruby>が敷いて在ったんで……その菜ッ葉服の男が押しているトロッコが、あっし等の眼の前まで来て停まりますと、そのトロッコの上に乗っているものの上に<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せた白い<ruby><rb>布片</rb><rt>きれ</rt></ruby>をカント・デックが<ruby><rb>取除</rb><rt>とりの</rt></ruby>けました。そうして思わず「ワッ」と云って逃げ出そうとする<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>をガッシリと抱きすくめてしまいました。

それは若い女の<ruby><rb>丸裸体</rb><rt>まるはだか</rt></ruby>の死体だったのです。しかもその小さな下唇を前歯で噛み破ったらしく鼻の下から乳の間へかけてベットリとコビリ付いている血が、水銀燈に照らされて妙に<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>ずんだ<ruby><rb>腮鬚</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>みたいに見えるのです。おまけにその右の手の中に何かしら大切なものを握り込んでいるらしく、シッカリと握り固めている上から左の手を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いかぶせてピッタリと胸の上に押え付けている姿が、たまらなくイジラシイものに見えましたが、その黒い<ruby><rb>髪毛</rb><rt>かみ</rt></ruby>の前の方を切り下げている恰好がドウ見ても西洋人とは思えません。支那人か日本人に相違ないんで……。

そう思っている<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に菜ッ葉服の大男が、カント・デックに腮でシャクられると直ぐに一つうなずいて菜ッ葉服の袖口をマクリ上げて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の<ruby><rb>太股</rb><rt>ふともも</rt></ruby>くれえある毛ムクジャラの腕を二本、突出しました。その熊みたいな手で何の雑作もなく女の手を<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>かせて、シッカリ握っている右手を開かせますと、中から見覚えのある台湾館<ruby><rb>備付</rb><rt>そなえつ</rt></ruby>けの桃色の支那便箋を幾つにも折ったものが出て来ました。そのレターペーパの折り目を拡げたやつを受取ったカント・デックは、あっしの鼻の先にブラ下げて見せながら、今一度ニコニコと笑いました。赤チャンをあやすような顔で、あっしの顔を覗き込みましたがね。

それは筆と墨で書いた立派な日本文でした。多分、台湾館の事務室に在った藤村さんの<ruby><rb>硯箱</rb><rt>すずりばこ</rt></ruby>を使ったものでしょう。昔の百人一首に書いて在るような立派な文字でしたがね。

「チイちゃんと一所に出かけてはいけません。チイちゃんは支那人です。亜米利加のギャングの手先です。わたくしはチイちゃんと一緒にギャングのメカケになった、かわいそうな日本の女です。あたしの事を日本の両親につたえて下さい。

天草<ruby><rb>早浦</rb><rt>はやうら</rt></ruby>生れ

ハル吉親方様中田フジ子より」

その死骸がフイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>の死骸だとわかると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は何かしら叫びながら飛び付こうとしたように思います。今までに無い力が出たので、あぶなくデックを振り離すところでしたが、その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の左の手首をガッシリと掴み止めたデックは面と向って立ちながら今一度ニヤニヤと笑って見せました。

「わかりましたか。仕事しますか」

「何をッ」

とか何とか怒鳴ったように思います。だしぬけに思いがけない力が出たもんで、鉄の<ruby><rb>噛締器</rb><rt>バイト</rt></ruby>みてえなデックの手を振放して、火の玉のようになって相手に飛びかかろうとしましたが間に合いませんでした。<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から菜ッ葉服の男に息の詰まるほどガッチリと抱きすくめられちゃったんです。そうして犬ころでも棄てるように軽々とデックの夜会服の腕の中へ<ruby><rb>投渡</rb><rt>なげわた</rt></ruby>されちゃったんです。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>を受取ったデックは喰い付いたり引っ掻いたりする<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の手と足を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>にしてギューと掴み締めてしまいました。それから何か英語で二言三言云ったと思うと毛ムクジャラの菜ッ葉服が、トロッコの上の女の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を抱き上げて、何の雑作もなく傍の肉挽器械の中へ投込みました。

……ヘエ。その時に肉挽き器械の中から聞えて来た恐ろしい声を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は一生涯忘れないでしょう。フイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>はまだ生きてたんです。多分、日本人の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>を<ruby><rb>救</rb><rt>たす</rt></ruby>けるためにギャング仲間を裏切った<ruby><rb>廉</rb><rt>かど</rt></ruby>で、デックの<ruby><rb>配下</rb><rt>てした</rt></ruby>に拷問されて気絶していたものなんでしょう。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>もそのまんま気絶していたようです。

「じゃぱん、がばめん、ふおるもさ、ううろんち、わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」

てお呼び声がどこからか聞えるように思ってフイッと眼を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いてみるてえと、コンクリート作りの馬<ruby><rb>小舎</rb><rt>ごや</rt></ruby>みてえに狭い<ruby><rb>藁束</rb><rt>わらたば</rt></ruby>だらけの床の上へ投げ出されているのに気が付きました。

片隅の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の前に置いて在る汚いバケツの中を這い寄って覗いてみますと、ジャガ芋と肉のゴッタ煮の上にパンの<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まりと水と、牛乳の瓶が投込んで在ります。……つまり何ですね。まだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>を殺す気じゃなかったのでしょう。あわよくば仲間に引っぱり込んで仕事をさせる気でいたのでしょう。

しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は助かったのが嬉しくも悲しくも何ともありませんでした。今から<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えてみるとあの時はヨッポド頭が変テコになっていたんですね。やっぱり地球<ruby><rb>癲癇</rb><rt>てんかん</rt></ruby>の続きだったかも知れませんでしたがね。自分がどこに居るやら、どうなっているやらわからないまま、眼が醒めない<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>から続けていたらしい<ruby><rb>譫言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>を、そのまんま云いつづけておりました。

「じゃぱん、がばめん、ふおるもさ、ううろんち、わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」

と繰り返し繰り返し大きな声で云ってたようですが、口癖ってものは恐ろしいものですね。

ところがこの御祈祷の文句のお蔭で、無事にこうやって日本に帰ることが出来たんですから、人間の運てえものはドコまでも不思議なもので……ヘエ……。

博覧会の方では大騒ぎだったそうです。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>と二人の女がダシヌケに行方不明になったてんで警察に頼んだり何かして騒いだそうですが、わかる気づかいはありませんや。気の毒なのは藤村さんで、あっしの代りに<ruby><rb>礼服</rb><rt>フロッキ</rt></ruby>を着て台湾館の前に立たされて、代りが出来るまでノスタレ<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>と一所に「わんかぷ、てんせんす」をやらされたもんだそうで、二三日やってる中にお尻のポケツへジャラジャラ銀貨が溜まったのはいいが、声がスッカリ<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>れちゃって電話にかかれなくなっちゃったそうで……無理もありませんや。木遣りなんか唄ったこたあねえんですからね。おまけに怒鳴りながらも、ずいぶん気も<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んだそうですからね。……多分<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>が二人の女を<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>したんだろうテンデ、あべこべに世話あした<ruby><rb>支那料理店</rb><rt>しなりょうりや</rt></ruby>から台湾館が損害を取られそうになっちゃったそうで……大工の<ruby><rb>治公</rb><rt>はるこう</rt></ruby>って奴はソンナ大それた人間じゃねえテンデ藤村さんが一生懸命、頑張ってくれたそうですがね。

そのうちに<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>の何とか云いましたっけが、<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>の通りに在るホテルの七階の屋上に夜遅くなってから幽霊が出る。そいつがドウヤラ新聞に出た台湾館の行方不明の客呼び男らしいていう噂がホテルのお客さんたちの間に立ち初めました。馬鹿馬鹿しい<ruby><rb>怪談</rb><rt>おばけばなし</rt></ruby>ですがね……<ruby><rb>治公</rb><rt>はるこう</rt></ruby>がまだチャント生きているのに<ruby><rb>幽的</rb><rt>ゆうてき</rt></ruby>が出る筈はないんですが、毛唐って奴は元来ゾッコン<ruby><rb>怪談</rb><rt>おばけばなし</rt></ruby>が好きなんだそうで……つまらねえものを<ruby><rb>怪談</rb><rt>おばけ</rt></ruby>にしちまう癖があるんだそうですが、そんな噂がどこともなく散り拡がって行く<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に運よくギャング連中の耳に這入らないまに、藤村さんの耳に這入ったもんです。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>……お聞きになりましたか、あのホテルのお化けの話を……」

「イイエ。まだ聞きませんわ。聞かして頂戴」

「一週間ばかり前からの事です。真夜中の二時頃……電車の<ruby><rb>絶</rb><rt>と</rt></ruby>まる頃になるとあのホテルの屋上庭園のマン中に在る旗竿の処へフロッキコートを着た日本人の幽霊が出るんです。ホラ直ぐそこに若いスマートな男と、赤っ鼻の<ruby><rb>禿頭</rb><rt>はげあたま</rt></ruby>が立っているでしょう。あの通りの姿で幽霊が出て来て、あの通りの事を云うんだそうです」

「アラ怖い……ホント……」

「ホントですとも……それがあの新聞に出た行方不明の……ホラ……ずっと前に来た時にあすこに立っていたでしょう。ミスタ・ハルコーっていうあの男の姿にソックリなんだそうです」

「まあ……ホテルじゃ困っているでしょうねえ」

「ところが<ruby><rb>反対</rb><rt>あべこべ</rt></ruby>ですよ。お蔭で屋上庭園に行く者は一人も居なくなった代りに、その声を聞きに行く者であのホテルは一パイなんだそうです。警察ではまだ知らないそうですが、あの日本人の行方不明事件はあのホテルと台湾館とが組んでやっている日本人一流の宣伝方法に違いないってミンナ云っておりますがね」

「シッ聞えるわよ。日本人に……」

「ナアニ。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>等は英語がわかりやしません。暗記した事だけを繰り返している忠実な奴隷なんですから……」

こんな話を入口の近くの<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>でやっているのを小耳に挿んだ藤村さんが、指を折って数えてみると、ちょうど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>が行方不明になってから八日目だったそうです。

藤村さんは西洋通ですから直ぐにピインと来たんでしょう。直ぐにその晩ホテルへ泊って、夜中の二時頃コッソリと屋上庭園へ来てみると世にも哀れっぽい<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな微かな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の声で、

「じゃぱアーん。がばアーンめんとオー。ふおるもっさあアー。うう……ろん……ちいイイイ。わんかぷう……ウ。てんせえんすう――ッ……」

てやっているんだそうです。そこで藤村さんは胸をドキドキさせながら抜き足、さし足その声の聞える方に近付いてみると、その声の主は屋上庭園のどこにも居ない。その向い側のメイ・フラワ・ビルデングの七階の片隅に在る真暗な小窓の中から聞えて来る事が、夜が更けて来るにつれてハッキリとわかって来た……というんです。

しかし亜米利加通の藤村さんは決して慌てませんでした。何喰わぬ顔をして翌る朝、台湾館へ帰って来ると直ぐに<ruby><rb>華盛頓</rb><rt>ワシントン</rt></ruby>の大使に頼んで、<ruby><rb>紐育</rb><rt>ニューヨーク</rt></ruby>のプレーグっていう腕っこきの警察官に頼んだものだそうです。

ちょうどそのプレーグっていう警察官は一生懸命になってギャングの巣を探していたところだったそうで、早速<ruby><rb>紐育</rb><rt>ニューヨーク</rt></ruby>の警視庁へズキをまわして取っときの刑事や巡査を借りて<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>へ乗込んで、土地の警察へも知らさないようにメイ・フラワ・ビルの様子を探ると、出入りする奴はみんな変装した前科者ばかりなんで、イヨイヨそれと目星を附けて水も洩らさねえように手配りをきめた二十人ばかりのプレーグの<ruby><rb>配下</rb><rt>てした</rt></ruby>が、アッという間もないうちにメイ・フラワ・ビルの地下室から七階まで総マクリにしてしまいました。双方とも<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>人や死人が出来たりして一時は戦争みたいな騒ぎだったそうですが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>はチットも知りませんでした。そこから抱え出されて<ruby><rb>聖路易</rb><rt>セントルイス</rt></ruby>の市立病院の<ruby><rb>病床</rb><rt>ベット</rt></ruby>に寝かされても相も変らず「わんかぷ、てんせんす」をやっていたそうです。

……ところで、まだ話があるんです。これからがホントに凄いんですね。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>があらん限りの注射と滋養物のお蔭で、やっとモトの頭になって退院させられた時はもうユーカリの葉が散っちゃった秋の末で、博覧会なんかトックの昔におしまいになっておりました。退院すると直ぐに警察に呼び出されて、ほんの型ばかりの訊問を通訳附きで受けますと、領事さんからの旅費を貰って<ruby><rb>桑港</rb><rt>シスコ</rt></ruby>から日本へ帰りましたが、その途中のことです。たしか出帆してから十日目ぐらいのお天気のいい朝でしたがね。あんまり<ruby><rb>航海</rb><rt>ナベゲタ</rt></ruby>が退屈なもんですから、眼が醒めても起き上る気がしません。そのまんま<ruby><rb>特別三等</rb><rt>とくさん</rt></ruby>の寝床の中で足をツン伸ばしてアーッと一つ大きな<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をしたもんですが、そのトタンに<ruby><rb>桑港</rb><rt>シスコ</rt></ruby>で知り合いの領事館の人からお土産に貰った小さな紙包みのことを思い出しました。ハテ何だったろうと思いながら、寝床の下のバスケットの中からその紙包を取り出して開けてみると、どうでげす。それが平べったいソーセージの缶なんで……。

コイツは占めたと思って飛び起きると、食堂から五十二<ruby><rb>仙</rb><rt>セント</rt></ruby>の日本ビールを一本買って来て、ベットの上にアグラを掻きながら、缶の蓋を開けて、<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>そうな<ruby><rb>腸詰</rb><rt>ちょうづめ</rt></ruby>の横ッ腹をジャクナイフで薄く切り初めたもんですが、その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に何やらナイフの<ruby><rb>刃</rb><rt>は</rt></ruby>に<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>まるものがあります。……ハテ……おかしいなと思いながら、そのナイフの刃を暗い窓あかりに透かしてみるとソイツが黒い女の髪の毛なんで……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>はドキンとしましたよ。それでもマサカと思いながら今のソーセージの切口をよく見ると、薄桃色の肉の間に何だか白い三角<ruby><rb>型</rb><rt>がた</rt></ruby>のものが挟まっているようです。ハテナと思い思いホジクリ出してみると、そいつがどうです。三<ruby><rb>分角</rb><rt>ぶかく</rt></ruby>ぐらいの薄桃色の<ruby><rb>紙片</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>の端なんで……永いこと赤い肉の間に挟まってフヤケちゃっているんですから色合いなんかアテになりませんし、紙の質だって支那出来のレターペーパだか何だか、わかったもんじゃ御座んせんが、それでもその紙が、その黒い髪の毛と一つ<ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>に這入っていたことだけは間違いねえんで……。

それでもマサカ……とは思いましたがドウモ変な心持ちになりましたよ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>に惚れていたフイ<ruby><rb>嬢</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の身代りにソーセージになって、ここまで<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来たんじゃねえか……ナンテ<ruby><rb>考</rb><rt>かんげ</rt></ruby>えておりますと、<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>、ビールの<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>どころじゃ御座んせん。こっちの頭がソーセージみたいにゴチャゴチャになっちまいました。世界の丸っこい道理がズンズンとわかって来るように思いましてね……まったく……ヘエ……。

……ヘエ。どうも奥様……いろいろと御馳走様で……これで御免を蒙りやす。