Soranoha

難船小僧

エス・オー・エス・ボーイ

夢野 久作

船長おやじの横顔をジッと見ていると、だんだん人間らしい感じがなくなって来るんだ。骸骨を渋紙しぶがみで貼り固めてワニスで塗上げたような黒いガッチリした凸額おでこの下に、硝子球ガラスだまじみたギョロギョロする眼玉が二つコビリ付いている。マドロス煙管パイプをギュウと引啣ひっくわえた横一文字の口が、旧式軍艦の衝角しょうかくみたいな巨大おおきな顎あごと一所いっしょに、鋼鉄の噛締機バイトそっくりの頑固な根性を露出むきだしている。それが船橋ブリッジの欄干クロスに両肱ひじを凭もたせて、青い青い秋空の下に横たわる陸地おかの方を凝視みつめているのだ。

そのギロリと固定した視線の一直線上に、巨大な百貨店らしい建物の赤い旗がフラフラ動いている。その周囲に上海シャンハイの市街まちが展開している上をフウワリと白い雲が並んで行く。

……といったような無事平穏な朝だったがね。昭和二年頃の十月の末だったっけが……。

足音高く船橋ブリッジに登って行った俺は、その船長おやじの背後うしろでワザと足音高く立停まった。

「おはよう……」

と声をかけたが渋紙面しぶがみづらは見向きもしない。何なんしろ船長仲間でも指折ゆびおりの変人だからね。何か一心に考えていたらしい。

俺は右手に提げた黄色い、四角い紙包かみづつみを船長の鼻の先にブラ下げてキリキリと回転さした。

「御註文の西蔵チベット紅茶です。やッと探し出したんです」

船長おやじはやっと吃驚びっくりしたらしく首を縮めた。無言のまま六尺しゃく豊かの長身をニューとこっちへ向けて紅茶を受取った。

「ウウ……機関長おやかたか……アリガト……」

とプッスリ云った。コンナ時にニンガリともしないのがこの渋紙船長の特徴なんだ。取付とりつきの悪い事なら日本一だろう。こんな男には何でも構わない。殴られたらなぐり返す覚悟でポンポン云ってしまった方が、早わかりするものだ。

「……昨夜ゆんべ、陸上おかで妙な話を聞いて来たんですがね。今度お雇いになったあの伊那いな一郎って小僧ですね。あの小僧は有名な難船小僧っていう曰いわく附きの代物しろものだって、皆みんな、云ってますぜ」

俺はそう云いさしてチョックラ船長おやじの顔色を窺うかがってみたが、何の反応も無い。相も変らず茶色の謎語像スフィンクスみたいにプッスリしている。無愛相ぶあいそうの標本だ。

「あの小僧が乗組んだ船はキット沈むんだそうです。Iアイ・INAイナって聞くと毛唐けとうの高級船員なんか慄ふるえ上るんだそうです。乗ったら最後どんな船でも沈めるってんでね。……だから今度はこのアラスカ丸が危あぶねえってんで、大変な評判ですがね。陸上おかの方では……」

これだけ云っても船長の渋紙面は依然として渋紙面である。ネービー・カットの煙けむをプウと吹いた切り、軍艦みたいな顎あごを固定してしまった。しかし黒い硝子球ガラスだまは依然として俺の眼と鼻の間をギョロリと凝視している。モット俺の話を聞きたがっているらしいんだ。

「あの小僧は小ちっちゃくて容姿ようすが美いいので毛唐の変態好色すけべえ連中が非常に好すくんだそうです。あの小僧も亦また、毛唐の高級ハイクラスに抱かれるとステキに金が儲もうかるんで、船にばっかり乗りたがるんだそうですが、不思議な事にあの小僧が乗った船で、沈まない船は一艘そうも無いんだそうです。初めてあの小僧を欧州航路に雇傭チャータした郵船のバイカル丸が、ジブラルタルで独逸ハンのU何号かに魚雷ヤキイモを喰くわされた話は誰でも知っているでしょう。そん時に漂流端舟ながれボートに這はい上ってハンカチを振ったのが彼小僧あいつのSOSの振出ふりだしだそうですがね。……それから第二丹洋丸がスコタラ沖でエムデンにアッパーカットを喰わされた時も、あの小僧は丁度、新式救命機の着込み方のモデルにされていたところだったそうで、そのまんま飛込んで助かっちまったんだそうです。……まあ運の良いい奴といえばいえましょうが、彼小僧あいつの運が良いいたんびに船全体の運命がメチャメチャになるんだから敵かないません。……まだ他にも二三艘、大きな船やつを沈めているんだそうですが、そんなに大きな船でなくとも、チョット乗った木葉船こっぱぶねでも間違いなく沈めるってんで、迚とても凄すごがられているんです。早い話が房州通がよいの白鷺しらさぎ丸にチョイと乗組んだと思うと、直ぐに横須賀の水雷艇と衝突させる。毛唐けとうの重役の随伴おともをしてブライトスター石油社オイルの超速自働艇モーターていに乗ると羽田沖で筋斗とんぼ返りを打たせるといった調子で、どこへ行っても泣きの涙の三りんぼう扱いにされているうちに、運よく神戸でエムプレス・チャイナ号のAクラス・ボーイに紛れ込んで知らん顔をして上海まで来た。そいつを、どこかで伊那の顔を見識みしっていた毛唐の一等船客が発見して、あの小僧ボーイと一所なら船を降りると云って騒ぎ出した。そこで今度は事務長が面喰めんくらって、早速小僧を逐出おいだしにかかったが、小僧がなかなか降りようとしない。食堂の柱へ噛かじり付いて泣き叫ぶ奴を、下級船員が寄ってたかって、拳銃ピストルや鉄棒パイプを突付つきつけてヘトヘトになるまで小突きまわして、泥棒猫でも逐おい出すようにして桟橋へたたき出してしまった。そこで小僧はエムプレス・チャイナの給仕服ユニフォームのまま生命辛々いのちからがらの手提籠バスケット一個ひとつを抱えて税関の石垣の上でワイワイ泣いているのを、チャイナ号の向い合わせに繋留かかっていたアラスカ丸の船長……貴下あなたが発見みつけて拾い上げた……チャイナ号へ面当つらあてみたいに小僧の頭を撫なでて、慰め慰め拾い上げて行った……という話なんです。現在、陸上おかでは酒場のみやでも税関でも海員ふねの奴等やつらが寄ると触さわるとその噂うわさばっかりで持切もちきってますぜ。アラスカ丸の船長おやじはそんな曰いわく因縁、故事来歴附の小僧だって事を、知って拾ったんだか……どうだかってんでね。非道ひどい奴はアラスカ丸が日本に着くまでに沈むか、沈まないかって賭かけをしている奴なんか居るんですぜ」

俺は元来デリケートに出来た人間じゃない。君等きみらみたいな高等常識を持った記者諸君に「海上の迷信」なんて鹿爪しかつめらしい、学者振った話なんか出来る柄じゃ、むろんないんだ。尤もっとも若いうちは不良の文学青年でバイロンの「海の詩」なんかを女学生に暗誦あんしょうして聞かせたりなんかして得意になっていたもんだがね。しかしそれから後のち、永年荒っぽい海上生活を続けて来たお蔭で性根しょうねが丸で変ってしまった。身体からだこそこんなに貧弱な野郎だが、兇状持揃きょうじょうもちぞろいの機関室でも、相当押え付けるだけの腕うでッ節ぷしと度胸だけは口幅くちはばったいが持っているつもりだ。現に船員連中ふねじゅうから地獄の親方と呼ばれている位だ。……けども、その俺が、この渋紙船長おやじの前に出ると、出るたんびに妙に顔負けしてしまう。いつもこうしてペラペラと安っぽく喋舌しゃべらせられるから妙なんだ。しかも忠告する気で云っている話が、ツイお伽話とぎばなしか何ぞのようにフワフワと浮付うわついてしまう。圧おしの利かない事夥おびただしい。

「何も御幣ごへいを担ぐんじゃありませんがね。そんな篦棒べらぼうな話が在あるかって反対もしてみたんですがね。今まであの小僧が乗った船が一艘残らず沈んだのが事実だったら、今度沈むのも事実に違いない。乗組員全体の生命いのちにも拘かかわる話だ。何もあの小僧が居なけあ船が出ねえって理窟りくつもあるめえし……お前めえんとこの船長おやじがいくら変者かわりものだってそんな無鉄砲な酔狂をして乗組員のりくみを腐らせるような馬鹿ばかでもあんめえ。あの小僧の曰いわく因縁、故事来歴を知らねえから平気で雇ったに違ちげえねえんだ。悪い事こたあ云わねえから早く船長おやじに話して、あの小僧を降してもらいな。多人数おおぜいの云う事こたあ聴いとくもんだ。あとで必定きっと後悔するもんだから……てな事を皆みんなして色々云うもんですからね……ハハハ……」

船長の表情は依然として動かない。渋紙色の仮面マスクが、頭の上の青空に凍り付いたように動かない。無表情もここまで来ると少々精神異状者きちがいじみて来る。俺は思い切りブツカルように云った。

「今の中うちに降しちゃったらどうです」

船長の左の眼の下にピクピクと皺しわが寄った。同時に片目を半分ほど細くして、唇の片隅を上の方へ歪ゆがめた。これがこの船長おやじの笑い顔なんだが、知らない人間が見たらとても笑い顔とは思えない。単なる渋紙の痙攣ひっつりとしか見えないだろう。

「郵船名物のS・O・S・BOYだろう」

と船長が嗄しゃがれた声でプッスリと云った。同時に眉まゆの間と頬ほっペタの頸筋くびすじ近くに、新しい皴が二三本ギューと寄った。冷笑しているのだ。

「エヘッ、知ってるんですか。貴方あなたも……」

「ムフムフ……」

と船長が笑いかけて煙草たばこに噎むせた。船橋ブリッジから高らかに唾液つばを吐いた。

「ムフムフ、知らんじゃったがね。皆みんな、そう云うとる」

「皆みんなって誰がですか。どんな連中が……」

「船中ふねじゅうで云うとるらしい。水夫の兼かねの野郎が代表で談判に来た。ツイ今じゃった」

「ヘエエ……何と云って」

「下おろさなければあの小僧をたたき殺すが宜ええかチウてな。胸の処の生首なまくびの刺青いれずみをまくって見せよった。ムフムフ」

「ヘエ。それで……下さないんですか」

船長が片目を静かに閉じたり開いたりした。それからネービー・カットの煙けむを私の顔の真正面ましょうめんに吹き付けた。

「……迷信だよ……」

「それあそうでしょうけどね。迷信は迷信でしょうけどね」

「ムフムフ。ナンセン小僧をノンセンス小僧に切り変えるんだ。迷信が勝つか。俺達の動かす器械が勝つかだ」

「つまり一種の実験ですね」

「……ムフムフ。ノンセンスの実験だよ」

「……………」

二人の間に鉄壁のような沈黙が続いた。船長は平気でコバルト色の煙をプカプカやり出した。俺は、どうしたらこの船長を説き伏せる事が出来るかと考え続けた。

「君はいつからこの船に乗ったっけなあ」

と船長が突然に妙な事を云い出した。

「一昨年の今頃でしたっけなあ」

「乗る時に機械は検査したろうな」

「しましたよ。推進機スクリュウの切端きっぱしまで鉄槌ハマでぶん殴ってみましたよ。それがどうかしたんですか」

「ムフムフ。その時に機械の間に、迷信とか、超科学の力とか、幽霊とか、妖怪ばけもんとか、理外の理とかいうものが挟まったり、引っかかったりしているのを発見したかね。君が検査した時に……」

「それあ……そんな事はありません。この船の機械は全部近代科学の理論一点張りで出来て動いているんですがね」

「現在いまでもそうかね」

「……………」

「そんなら……宜ええじゃろ。中学生にでもわかる話じゃろ。あのS・O・S小僧が颱風たいふうや、竜巻スパウトや、暗礁リーフをこの船の前途コースに招寄よびよせる魔力を持っちょる事が、合理的に証明出来るチウならタッタ今でもあの小僧を降す」

「……………」

「元来、物理、化学で固まった地球の表面を、物理、化学で固めた船で走るんじゃろ。それが信じられん奴は……君や僕が運用する数理計算が当てにならんナンテいう奴は、最初はなから船に乗らんが宜ええ」

俺はギューと参ってしまった。一言いちごんない……面目めんぼくない……と思って残念ながら頭を下げた。

「ムフムフ。シッカリし給たまえ。オイオイ伊那一郎……S・O・S……ハハハ。ここだここだ……上あがっち来い」

船長おやじを探すらしく巨大なバナナを抱えて船長室を駈出かけだして行く青服の少年こどもを船長おやじは手招きして呼び上げた。俺が買って来た西蔵チベット紅茶の箱を、鼻の先に突付つきつけて命令した。

「これを船長室ケビンへ持って行いて蒸留水で入れちくれい。地獄の親方と一所に飲むけにナ」

「CAPTAIN」と真鍮札しんちゅうふだを打った扉ドアを開くと強烈な酸類、アルカリ類、オゾン、アルコオルの異臭においがムラムラと顔を撲うつ。その中に厚硝子張あつガラスばり、樫材オークざいの固定薬品棚、書類、ビーカー、レトルト、精巧な金工器具、銅板、鉛板、亜鉛板、各種の針金、酸水素瓦斯ガス筒、電気鎔接ようせつ機、天秤てんびん、バロメータなんぞが歯医者か理髪店の片隅みたいにゴチャゴチャと重なり合っている……というのがこのアラスカ丸の船長室なんだ。その片隅の八日ようか巻の時計の下の折釘おれくぎに、墨西哥メキシコかケンタッキーの山奥あたりにしかないようなスバらしく長い、物凄ものすごい銀色の拳銃が二挺ちょう、十数発の実弾を頬張ほおばったまま並んで引っかかっているのだ。

話は脱線するがこのアラスカ丸の船長はむろん独身生活者ひとりもので、女も酒も嫌いなんだ。上陸なんか滅多めったにしないんだ。その代りに応用化学の本家本元の仏蘭西フランスの大学で、理学博士の学位を取っている一種の発明狂と来ているんだ。持っているパテントの数すうでも十や二十じゃ利かないだろう。みんなこの実験室でヒネリ出したっていうんだから豪勢なもんだろう。去年の冬だっけが、そんなパテントの権利も、巨万の財産も海員擁済会ようさいかいに寄附して、胃癌いがんで死んじゃったが、惜しい人間だったよ。……その時分……昭和二年頃には、小型な、軽い、無尽蔵に強力な乾蓄電池の製作に夢中になっていたっけ。世界中の動力を蓄電池の一点張りにするてんで、誠に結構な話だが、その実験をするたんびに、船中の電動力を吸い集めて、電燈を薄暗くしちまったりヒューズを飛ばしたりするのには降参させられたよ。おまけに舶来の絹巻線きぬまきせんが気に入らないと云って、自分で器械を作って絹巻線を製作しては切り棄すて、作っては切り棄てる事二万哩マイル。その仕事に行き詰まると、今のピストルを二挺持って上甲板じょうかんぱんに駈かけ上る。主檣メーンマストに群がる軍艦鳥を両手でパンパンと狙ねらい撃うちにして「アハハハハ」と高笑いしながら、落ちて来るのを見向きもしないでスタスタと実験室に引返ひきかえすという変りようだからトテモ吾々われわれ凡俗には寄付よりつけない。恐ろしく小面倒な動力の計算書なんかを一週間がかりで書き上げて甲板デッキに持って行くと、「アリガトウ」と云って、見る片端かたはしから一枚一枚海の風に飛ばしてしまう。……ナアニ、タッタ一目でみんな頭に入れちゃうんだ。ズット後のちになって船体検査なんかが来ると自分で機械の側へ立って、何百という数字を暗記そらでペラペラ並べるんだから、計算した本人が舌を捲まいちまう。……そうかと思うと独逸ドイツの潜航艇やエムデンの出現時間と、場所をギッシリ書き入れた海図を睨にらんで「モウわかった。彼奴等きゃつらの根拠地と、通信網と、速力がわかった」と云うとその海図をクシャクシャにして海へ飛ばす。それから毛唐けとうの嫌う金曜日金曜日に汽笛を鳴らして、到る処の港々を震駭しんがいさせながら出帆しゅっぱんする、倫敦ロンドンから一気に新嘉坡シンガポールまで、大手を振って帰って来る位の離れ業わざは平気の平左なんだから、到底吾々われわれのアタマでは計り知る事の出来ないアタマだよ。

そうした一種の鬼気すごみを含んだ船長の顔と、部屋の隅でバナナを切っている伊那少年の横顔を見比みくらべると、まるで北極と南洋ほど感じが違う。

毬栗いがぐりの丸い恰好かっこうのいい頭が、若い比丘尼びくにみたいに青々としている。皮膚の色は近頃流行のオリーブって奴だろう。眼の縁ふちと頬ほおがホンノリして唇が苺いちごみたいだ。睫毛まつげの濃い、張りのある二重瞼ふたえまぶた、青々と長い三日月眉まゆ、スッキリした白い鼻筋、紅あかい耳朶みみたぼの背後うしろから肩へ流れるキャベツ色の襟筋えりすじが、女のように色っぽいんだ。青地に金モールの給仕服ユニフォームが身体からだにピッタリと吸付すいついているが、振袖ふりそでを着せたら、お化粧をしなくとも坊主頭のまんま、生娘きむすめに見えるだろう。なるほど毛唐けとうが抱いてみたがる筈だ……と思っているトタンに、白いバナナの皿を捧げた小僧がクルリとこっち向きになって頭を一つ下げた。俺の顔を、憐あわれみを乞こうようにソッと見上げた。それから恋人に出会った少女みたいな桃色の、悩ましげな微笑を一つニッコリとして見せたもんだ。

俺はゾッとしてしまったよ。……まったく……魔物らしい妖気が、小僧の背後うしろの暗闇くらやみから襲いかかって来たように思ったもんだよ。

俺は紅茶もバナナも良いい加減にして故郷の地獄……機関室へ帰って来た。今にも「オホホホ」と笑い出しそうな人形じみた小僧の、変態的な愛嬌顔あいきょうづらと向い合っているよりも、機関室の連中の真黒な、猛獣面づらと睨にらみ合っている方が、ドレ位気が楽だか知れないと思って……。

ところが機関室に帰ってみると船員の伊那少年に対する憎しみが……否いな、恐怖が、予想外に酷ひどいのに驚いた。船長おやじが是非ともあの小僧を乗組ませると云うんならこっちでも量見がある……というので大変な鼻息だ。水夫デッキ連中は沖へ出次第に小僧を餌にして鱶ふかを釣ると云っているそうだし、機関室の連中は汽鑵ボイラに突込つっこんで石炭の足しにするんだと云ってフウフウ云っている。海員なんてものはコンナ事になると妙に調子付いて面白半分にドンナ無茶でも遣やりかねないから困るがね。現に水夫の中でも兄い分の「向むこう疵きずの兼かね」がわざわざ鉄梯子ばしごを降りて、俺に談判を捻ねじ込んで来た位だ。

「向う疵の兼」というのは恐ろしい出歯でばだから一名「出歯兼でばかね」ともいう。クリクリ坊主の額おでこが脳天から二つに割れて、又喰付くいつき合った創痕きずあとが、眉まゆの間へグッと切れ込んでいるんだ。そいつが出刃包丁でばぼうちょうを啣くわえた女の生首なまくびの刺青ほりものの上に、俺達の太股ももぐらいある真黒な腕を組んで、俺の寝台ねだいにドッカリと腰を卸おろして出でッ歯ぱをグッと剥むき出したもんだ。

「チョットお邪魔アしますが親方ア。今、船長おやじの処とこへ行って来たんでがしょう。親方ア」

「ウン。行って来たよ。それがどうしたい」

「すみませんが船長おやじがあの小僧の事を何と云ってたか聞かしておくんなさい。……わっしゃ親方が船長に何とか云ったらしいんで、水夫デッキ連中の代表になって、船長おやじの云い草を聞かしてもらいに来たんですが」

「アハハハ。それあ御苦労だが、何とも云わなかったよ」

「お前さん何にも船長おやじに云わなかったんけエ」

「ウン。ちょっと云うには云ったがね。何も返事をしなかったんだ。船長おやじは……」

「ヘエー。何も返事をしねえ」

「ウン。いつもああなんだからな船長おやじは……」

「あの小僧を大事でえじにしてくれとも何とも……親方に頼まなかったんけえ」

「馬鹿。頼まれたって引受けるもんか」

「エムプレス・チャイナへ面当つらあてにした事でもねえんだな」

「むろんないよ。船長おやじはあの小僧を、皆みんなが寄って集たかって怖がるのが、気に入らないらしいんだ」

「よしッ。わかったッ。そんで船長おやじの了簡りょうけんがわかったッ」

「馬鹿な。何を云うんだ。船長おやじだって何もお前達の気持を踏み付けて、あの小僧を可愛がろうってえ了簡じゃないよ。今にわかるよ」

「インニャ。何も船長おやじを悪く云うんじゃねえんでがす。此船うちの船長おやじと来た日にゃ海の上の神様なんで、万に一つも間違いがあろうたあ思わねえんでがすが、癪しゃくに障さわるのはあの小僧でがす。……手前の不吉いやな前科こうらも知らねえでノメノメとこの船へ押しかけて来やがったのが癪に触さわるんで……遠慮しやがるのが当前あたりまえだのに……ねえ……親方……」

「それあそうだ。自分の過去を考えたら、遠慮するのが常識的だが、しかし、そこは子供だからなあ。何も、お前達の顔を潰つぶす気で乗った訳じゃなかろう」

「顔は潰れねえでも、船が潰れりゃ、おんなじ事でさあ」

「まあまあそう云うなよ。俺に任せとけ」

「折角だがお任かせ出来ねえね。この向う疵きずは承知しても他はたの奴等やつらが承知出来ねえ。可哀相かわいそうと思うんなら早くあの小僧を卸おろしてやっておくんなさい。面つらを見ても胸糞むなくそが悪いから」

「アッハッハッ。恐ろしく担ぐじゃねえか」

「担ぐんじゃねえよ。親方。本気で云うんだ。この船がこの桟橋を離れたら、あの小僧の生命いのちがねえ事ばっかりは間違いねえんで……だから云うんだ」

「よしよし。俺が引受けた」

「ヘエ。どう引受けるんで……」

「お前達の顔も潰れず、船も潰れなかったら文句はあるめえ。つまりあの小僧の生命いのちを俺が預かるんだ。船長が飼っているものを、お前達めえたちが勝手にタタキ殺すってのは穏やかじゃねえからナ。犬でも猫でも……」

「ヘエ。そんなもんですかね。ヘエ。成る程。親方がそこまで云うんなら私等あっしらあ手を引きましょうが、しかし機関室こっちの兄貴達に、先に手を出されたら承知しませんよ。モトモトあの小僧は甲板組デッキの者もんですからね」

「わかってるよ。それ位の事こたあ」

「ありがとうゴンス。出娑婆でしゃばった口を利いて済みません。兄貴達も容赦して下せえ」

と会釈をして兼は甲板へ帰った。生命いのち知らずの兇状持きょうじょうもちばかりを拾い込んでいる機関部へ来て、これだけの文句を並べ得る水夫は兼の外には居ない。現に機関部の連中は、私の寝室へやの入口一パイに立塞たちふさがって、二人の談判に耳を傾けていたが……むろんデッキ野郎の癖に、わざわざ親方の私の処へ押しかけて来る兼の利いた風な態度を憎んで、今にも飛びかかりそうな眼付めつきをしながら扉ドアの蔭に犇ひしめいていたものであるが、兼が「兄貴達も容赦してくれ」と云って頭をグッと下げた会釈ぶりが気に入ったらしく、皆顔色を柔らげて道を開あけて通してやった。平生ふだんなら甲板から塵ちり一本、機関室へ落し込んでも、只ただはおかない連中であるが……。

そんな訳で、風前の燈火ともしびみたような小僧の生命いのちを乗せたアラスカ丸が、無事に上海シャンハイを出た。S・O・Sどころか時化しけ一つ喰くわずに門司もじを抜けて神戸に着いた。それから船長おやじ一流の冒険だが六時間の航程コースを節約つめるために、鳴戸なるとの瀬戸の渦巻を七千噸トンの巨体で一気に突切って、御本尊のS・O・S・BOYを慄ふるえ上がらせながら平気の平左で横浜に着いてしまった。

横浜で印度インド綿花と南洋材を全部上げてしまうと、今度は晩香坡行バンクーバゆきの木綿類を吃水きっすい一パイに積込つみこむ。同時にアラスカ近海の難航海に堪え得るだけの食料や石炭すみを、船が割れる程突込つっこむ訳だが、その作業は平生いつもの通り二三日がかりで遣るのでさえ相当忙せわしいのに、向岸むこうぎしの晩香坡バンクーバから突然だしぬけに大至急云々うんぬんの電報が来て、二十四時間以内の出帆しゅっぱんという事になったので、その忙がしさといったら話にならない。おまけに横浜市内の道路工事の影響おかげとかで、臨時人夫エキストラが間に合わないと来たので、機関部の石炭すみ運びなんかは、文字通りの地獄状態に陥ってしまったものだ。

それも一口に地獄と云っただけじゃ局外者しろうとにはわからないだろう。普通の客船メイルボートは別であるが、外国通いの気の利いた荷物船カーゴボートになればなるほど、荷物をウンと詰め込まれる。人間の通れる……荷役の出来る処ならばどこでも構わない。空隙すきまのあらん限り押し込んでしまうので、石炭を積む処は炭庫すみぐら以外に殆ほとんど無いと云っていい。そこへ今度のアラスカまわりみたいな難航路になると必要以上の石炭を積んでおかないとドンナ海難にぶつかって、どこへ流されるかわからないので、楕円形の船の胴体と、四角い部屋部屋が交錯して作っているあらゆる狭い、人間の通れないような歪ゆがみ曲った空隙くうげきに石炭をギッシリと詰め込まなければならない。その作業の危険さと骨の折れる事といったら、それこそこの世よの生き地獄と云っても形容が足りないだろう。この船の料理部屋の背後うしろの空隙なんかへ行く連中は、ドン底の水槽タンクの鉄蓋てつぶたまで突き抜けた鉄骨の隙間すきまに、一枚の板を渡して在る。左右の壁には火のような蒸気スチームの鉄管パイプが一面にぬたくっているので、通り抜けただけでも呼吸いきが詰まって眼がまわる上に、手でも足でも触れたら最後大火傷おおやけどだ。そこに濛々もうもうと渦巻く熱気と、石炭の粉の中に、臨時に吊つるした二百燭光しょくの電球のカーボンだけが、赤い糸か何ぞのようにチラチラとしか見えていない。そこを二三度も石炭籠すみかごを担いで往復してから急に上甲板じょうかんぱんの冷つめたい空気に触れると、眼がクラクラして、足がよろめいて、鬼のような荒くれ男が他愛なくブッ倒たおれるんだ。ところがブッ倒たおれたと見ると直ぐに、兄イ連れんが舷側ふなばたに引ひきずり出して頭から潮水しおみずのホースを引っかけて、尻ペタを大きなスコップでバチンバチンとブン殴るんだから、息のある奴なら大抵驚いて立ち上る。

「見やがれ。コン畜生ちくしょう。死くたばるんなら手際よくクタバレ」

といった調子である。残酷なようであるが、限られた人数にんずで限られた時間に仕事をしなければ、機関長の沽券こけんにかかわるんだから止やむを得ない。所謂いわゆる、近代文明って奴の裡面りめんには到る処にこうした恐ろしい地獄が転がっているんだ。勿論、俺自身が、その中からタタキ上げて来たんだから部下に文句は云わさないがね……。

その俺が横浜桟橋のショボショボ雨の中に突立って、積込つみこむ石炭を一々検査していると汗と炭粉で菜葉服なっぱふくを真黒にした二等機関士セカンドのチャプリン髭ひげが、喘あえぎ喘ぎ駈け降りて来て「トテモ手が足りません。何とかして下さい」と云うんだ。

「馬鹿。そう右から左へ人が雇えるか」

と一喝いっかつすると「それでもデッキの方で誰か一人でもいいんですから」と泣きそうな顔をする。

「馬鹿ッ。デッキの方だって相当忙がしいんだ。殴られるぞ」

「……でも船長室のボーイが遊んでいます」

「あんな奴が何の役に立つんだ」

「……でも、みんなそう云っているんです。この際、紅茶のお盆なんか持ってブラブラしている奴はタタキ殺しちまえって……」

「君から船長にそう云い給え」

「ドウモ……そいつが苦手なんで」

「よし。俺が云ってやろう」

忙がしいのでイライラしていた俺は、二等運転手チャプリンの話が五月蠅うるさかったんだろう。そのまま一気にタラップを馳上かけあがって、船長室に飛込んだ。船長は相も変らず渋紙色の無表情な顔をして、湯気の立つ紅茶を啜すすっていた。傍の鉛張なまりばりの実験台の上で、問題の伊那少年が銀のナイフでホットケーキを切っていた。

俺は菜葉服のポケットに両手を突込んだまま小僧の無邪気な、ういういしい横顔をジロリと見た。

「この小僧を借してくれませんか」

伊那少年の横顔からサッと血の気が失うせた。魘おびえたように眼を丸くして俺と船長の顔を見比みくらべた。ホットケーキを切りかけた白い指が、ワナワナと震えた。……船長も内心愕然ぎょっとしたらしい。飲みさしの紅茶を静かに下に置いた。すぐに云った。

「どうするんだ」

「石炭すみ運びの手が足りないって云うんです。みんなブツブツ云っているらしいんです……済みませんが……」

「臨時は雇えないのか」

「急には雇えません。二十四時間以内の積込つみこみですからね。明日あしたの間まになら合うかも知れませんが……皆みんなモウ……ヘトヘトなんで……」

船長の額ひたいに深い竪皺たてじわが這入はいった。コメカミがピクリピクリと動いた。当惑した時の緊張した表情だ。こうした場合の、そうした船員の気持が、わかり過ぎる位わかっているんだからね。

それから船長は白いハンカチで唇のまわりを叮寧ていねいに拭ふいた。ソロソロと立ち上って伊那少年を見下した。伊那少年も唇を真白にして、涙ぐんだ瞳めを一パイに見開いて船長の顔を見上げたもんだ。

その時の船長の云うに云われぬ悲痛な、同時に冷え切った鋼鉄のような表情ばかりは、今でも眼の底にコビリ付いているがね。

船長はコメカミをピクピクさせながら大きく二度ばかり眼をしばたたいた。俺の顔をジッと見て念を押すように云った。

「大丈夫だろうな」

俺は無言のまま無造作にうなずいた。

俺と一所いっしょに静かに、二三度うなずいた船長は伊那少年を顧みて、硝子ガラスのような眼球めだまをギラリと光らした。決然とした低い声で云った。

「……ヨシッ……行けッ……」

「ウワア――アッ……」

と伊那少年は悲鳴を揚げながら船長室を飛出したが……その形容の出来ない恐怖の叫び、悲痛の響ひびき、絶体絶命の声が俺は、今でも思い出すたんびにゾッとする。伊那少年は石炭運びの恐ろしさを知っていたのだ。否いな、ソレ以上の恐ろしい運命が、石炭運びの仕事の中に入れ交まじっているのを予感していたのだね。

しかし伊那少年は逃れ得なかった。船長室の外には、俺のアトから様子を見に来た向う疵の兼が立っていた。大手を拡げて伊那少年を抱きすくめてしまったもんだ。

「ギャア――。ウワアッ。助けて助けて……カンニンして下サアイ。僕はこの船を降りますから……どうぞどうぞ……助けてエ助けてエッ……」

「アハハハ。どうもしねえだよ。仕事を手伝いせえすれあ、ええんだ」

「許して……許して下さあい。僕……僕は……お母さんが……姉さんが家うちに居るんですから……」

伊那少年は濡ぬれたデッキに押え付けられたまま、手足をバタバタさして泣き叫んだ。

「ウハハハハ。何を吐ぬかすんだ小僧。心配しんぺいしるなって事……俺おらが引受けるんだ。この兼かねが受合うけおうたら、指一本指ささしゃしねえかんな。……云う事を聴かねえとコレだぞ」

兼は横に在った露西亜ロシア製の大スコップを引寄せた。そうして手を合わせて拝んでいる少年を片手で宙に吊つるした。小雨こさめの中で金モール服がキリキリと廻転した。

「致します致します。何でも致します。……すぐに……すぐに船から下して下さい。殺さないで下さい」

「知ってやがったか。ワハハハハハハハ」

兼は大口を開あいて笑いながら私たちを見まわした。船長も二等運転手も、多分俺の顔も石のように剛こわばっていた。あんまり兼の笑い顔が恐ろしかったので……額ひたいの向疵むこうきずまでが左右に開ひらいて笑ったように見えたので……。

「……サ柔順おとなしく働らけ。誰も手前てめえの事なんか云ってる奴は居ねえんだからな。ハハハ」

小雨の中に肩をすぼめて艙口ハッチを降りて行く伊那少年の背後うしろ姿は、世にもイジラシイ憐あわれなものであった。

そうして俺達はソレッキリ伊那少年の姿を見なかったのだ。

犬吠埼いぬぼうさきから金華山きんかざん沖の燈台を離れると、北海名物の霧がグングン深くなって行く。汽笛を矢鱈やたらに吹くので汽鑵きかんの圧力計ゲージがナカナカ上らない。速力も半減で、能率の不経済な事夥おびただしい。

一等運転手と船長と、俺とが、食堂でウイスキー入りの紅茶を飲みながらコンナ話をした。

「今度は霧が早く来たようだね」

「すぐ近くに氷山がプカプカやっているんじゃねえかな。霧が恐ろしく濃いようだが……」

「そういえば少し寒過さむすぎるようだ。コンナ時にはウイスキー紅茶に限るて……」

「紅茶で思い出したがアノS・O・Sの伊那一郎は船長が降おろしたんですか」

船長は木像のように表情を剛こわばらせた。無言のまま頭を軽く左右に振った。

「おかしいな。横浜以来姿が見えませんぜ」

「ムフムフ。何も云やせん。あの時、君に貸してやった切りだ」

「ジョジョ冗談じゃない。僕に責任なんか無いですよ。デッキの兼に渡した切り知りませんが、貴方も見ていたでしょう」

「殺やったんじゃねえかな……兼が」

と云ううちに一等運転手チーフメートが自分でサッと青い顔になった。

「……まさか。本人も降りると云ってたんだからな……無茶な事はしまいよ」

「しかし降りるなら降りるで挨拶あいさつぐらいして行きそうなもんだがねえ」

「ムフムフ。まだ船の中に居るかも知れん……どこかに隠れて……」

と船長が云って冷笑した。例の通り渋紙の片隅へ皺しわを寄せて……硝子球ガラスだまをギョロリと光らして……。俺は何かしらゾッとした。そのまま紅茶をグッと飲んで立上った。

こうした俺たちの会話は、どこから洩もれたか判然わからないが忽たちまち船の中へパッと拡がった。

「捜し出せ捜し出せ。見当り次第海にブチ込め。ロクな野郎じゃねえ」

と騒ぎまわる連中も居たが、そんな事ではいつでも先に立つ例の向むこう疵きずの兼かねが、この時に限って妙に落付いて、

「居るもんけえ。飲まず食わずでコンナ船の中へ居おれるもんじゃねえちたら。逃げたんだよ」

と皆みんなを制したのでソレッキリ探そうとする者もなかった。しかし、それでも伊那少年の行方は妙に皆みんなの気にかかってしまったらしく、狭い廊下や、デッキの片隅を行く船員の眼はともすると暗い処を覗のぞきまわって行くようであった。

船を包む霧は益々ますます深く暗くなって来た。

モウ横浜を出てから十六日目だから、大圏コースで三千哩マイル近くは来ている。ソロソロ舵かじをE・S・Eに取らなければ……とか何とか船長と運転手が話し合っているが、俺はどうも、そんなに進んでいるような気がしなかった。しかもその割りに石炭の減りようが烈はげしいように思った。これは要するに俺の腹加減で永年の経験から来た微妙な感じに過ぎないのだが、それでも用心のために警笛を吹く度数を半分から三分の一に減らしてもらった。同時に一時間八浬ノットの経済速度エコノミカルスピードの半運転を、モウ一つ半分に落したものだから、七千噸トンの巨体が蟻ありの匍はうようにしか進まなかった。

「オイ。どこいらだろうな」

「そうさなあ。どこいらかなあ」

といったような会話がよく甲板の隅々で聞こえた。むろん片手を伸ばすと指の先がボーッと見える位ヒドイ霧だから話している奴の正体はわからない。

「汽笛ふえを鳴らすと矢鱈やたらにモノスゴイが、鳴らさないと又ヤタラに淋さびしいもんだなあ」

「アリュウシャン群島に近いだろうな」

「サア……わからねえ。太陽も星もねえんだかんな。六分儀なんかまるで役に立たねえそうだ」

「どこいらだろうな」

「……サア……どこいらだろうな」

コンナ会話が交換されているところへ、老人の主厨しゅちゅうが飼っている斑まだらのフォックステリヤが、甲板に馳かけ上って来ると突然に船首の方を向いてピッタリと立停たちどまった。クフンクフンと空中を嗅かぎ出した。同時にワンワンワンワンと火の附くように吠ほえ初めた。

「オイ。陸おかだ陸だッ」

とアトから跟ついて来た主厨の禿頭はげあたまが叫ぶ。成る程、波の形が変化して、眼の前にボーッと島の影が接近している。

「ウワッ……陸おかだッ……大変だッ」

「後退ゴスタン……ゴスタン……陸おかだ陸だッ」

「大変だ大変だ。ぶつかるぞッ……」

ワアワアワアワアと蜂はちの巣を突つついたような騒ぎの中うちに、船は忽たちまちゴースタンして七千噸トンの惰力をヤット喰止くいとめながら沖へ離れた。船首にグングンのしかかって来る断崖だんがい絶壁の姿を間一髪の瀬戸際まで見せ付けられた連中の額ひたいには皆生汗なまあせが滲にじんだ。

「あぶねえあぶねえ。冗談じゃねえ。汽笛ふえを鳴らさねえもんだから反響がわからねえんだ。だから陸おかに近いのが知れなかったんだ」

「機関長の奴ヤタラにスチームを惜しみやがるもんだからな……テキメンだ」

「今の島はどこだったろう」

「セント・ジョジじゃねえかな」

「……手前てめえ……行ったことあんのか」

「ウン。飛行機を拾いに行った事がある」

「何だ何だセント・ジョジだって……」

「ウン。間違まちげえねえと思う。波打際なみうちぎわの恰好かっこうに見おぼえがあるんだ」

「篦棒べらぼうめえ。セント・ジョジったらアリュウシャン群島の奥じゃねえか」

「ウン。船が霧ん中でアリュウシャンを突つん抜けて白令海ベーリングへ這入はいっちゃったんだ」

「間抜けめえ。船長おやじがソンナ半間はんまな処へ船を遣やるもんけえ」

「駄目だよ。船長おやじにはもうケチが附いてんだよ。S・O・S小僧に祟たたられてんだ」

「でも小僧はモウ居ねえってんじゃねえか」

「居るともよ。船長おやじがどこかに隠してやがるんだ。夜中に船長室を覗のぞいたらシッカリ抱き合って寝てたっていうぜ」

「ゲエッ。ホントウけえ」

「……真実まったくだよ……まだ驚く話があるんだ。主厨カカンの話だがね、あのS・O・S小僧ってな女だっていうぜ。……おめえ川島芳子よしこッてえ女知らねえか」

「知らねえね。○○女優だろう」

「ウン……あんな女だっていうぜ。毛唐けとうの船長なんか、よくそんな女をボーイに仕立てて飼ってるって話だぜ。寝台ねだいの下の箱に入れとくんだそうだ。自分の喰物くいものを領わけてね」

「フウン。そういえば理窟がわかるような気もする。女ならS・O・Sに違ちげえねえ」

「だからよ。この船の船霊様ふなだまさまア、もうトックの昔に腐っちゃってるんだ」

「ああ嫌いやだ嫌だ。俺おらアゾオッとしちゃった」

「だからよ。船員みんなは小僧を見付みつけ次第タタキ殺して船霊様ふなだまさまを浄きよめるって云ってんだ。汽鑵かまへブチ込めやあ五分間で灰も残らねえってんだ」

「おやじの量見が知れねえな」

「ナアニヨ。S・O・Sなんて迷信だって機関長に云ってんだそうだ。俺の計算に、迷信が這入はいってると思うかって機関長に喰くってかかったんだそうだ」

「機関長は何と云った」

「ヘエエッて引き退さがって来たんだそうだ」

「ダラシがねえな。みんなと一所に船を降りちまうぞって威おどかしゃあいいのに」

「駄目だよ。ウチの船長おやじは会社の宝物ほうもつだからな。チットぐれえの気紛きまぐれなら会社の方で大目に見るにきまっている。船員のりくみだって船長おやじが桟橋に立って片手を揚げれや百や二百は集まって来るんだ」

「それあそうかも知れねえ」

「だからよ。晩香坡バンクーバに着いてっからS・O・Sの女郎めろうをヒョッコリ甲板デッキに立たせて、ドンナもんだい。無事に着いたじゃねえかってんで、コチトラを初め、今まで怖がっていた毛唐連中をギャフンと喰くらわせようって心算つもりじゃねえかよ」

「フウン。タチがよくねえな。事によりけりだ。コチトラ生命いのちがけじゃねえか」

「まったくだよ。船長おやじはソンナ事が好きなんだからな」

「機関長も船長おやじにはペコペコだからな」

「ウムウム。この塩梅あんばいじゃどこへ持ってかれるかわからねえ」

「まったくだ。計算にケチが付かねえでも、アタマにケチが付けあ、仕事に狂いが来るのあ、おんなじ事じゃねえかな」

「そうだともよ。スンデの事にタッタ今だって、S・O・Sだったじぇねえか」

「ああ。いやだいやだ……ペッペッ……」

コンナ会話を主檣メインマストの蔭で聞いた俺は、何ともいえない腐った気持になって、霧の中を機関室へ降りて行った。……これが迷信というものだかどうだか知らないが、自分の頭の中まで濃霧のうむに鎖とざされたような気になって……。

それから三日ばかりした真夜中から、波濤なみの音が急に違って来たので眼が醒さめた。アラスカ沿岸を洗う暖流に乗り込んだのだ……と思ったのでホッとして万年寝床ベッドの中に起上たちあがった。

同時に船橋ブリッジから電話が来て、すぐに半運転を全運転に切りかえる。霧笛むてきをやめる。探照燈を消す。機関室は生き上あがったように陽気になった。一等運転手の声が電話口に響いた。

「石炭はドウダイ」

「桑港シスコまで請け合うよ。霧は晴れたんかい」

「まだだよ。海路コースは見通しだが空一面に残ってるもんだから天測が出来ねえ」

「位置も方角もわからねえんだな」

「わからねえがモウ大丈夫だよ。サッキ女帝星座カシオペヤが、ちょうどそこいらと思う近処きんじょへウッスリ見えたからな。すぐに曇ったようだが、モウこっちのもんだよ」

「アハハハ。S・O・Sはどうしたい」

「どっかへフッ飛んじゃったい。船長おやじは晩香坡バンクーバから鮭さけと蟹かにを積んで桑港シスコから布哇ハワイへ廻わって帰るんだってニコニコしてるぜ」

「安心したア。お休みい……」

「布哇ハワイでクリスマスだよオオ――だ……」

「勝手にしやがれエエ……エ……だ……」

「アハアハアハアハアハ……」

ところがこうした愉快な会話が、霧が晴れると同時にグングン裏切られて行ったから不思議であった。

夜が明けて、霧が晴れてから、久し振りに輝き出した太陽の下を見ると、船はたしかに計算より遅れている。しかも航路をズッと北に取り過ぎて、晩香坡バンクーバとは全然方角違いのアドミラルチー湾に深入りして雪を被かむった聖セントエリアスの岩山と、フェア・ウェザー山の中間にガッチリと船首を固定さしているのには呆あきれ返った。……船長と運転手の計算も、又は俺の腹加減までもが、ガラリと外はずれてしまっていたのだ。

そればかりではない。

船に乗ってアラスカ近海へ廻わった経験のある人間でなければ、あの近海の波の大きさと、恐ろしさはチョット見当が付きかねるだろう。こんな処でイクラ法螺ほらを吹いても、あの波濤なみのスバラシサばっかりは説明が出来ないと思うが、何もかも無い。これが波かと思う紺青色こんじょういろの大山脈が、海抜五千米突メートルの聖セントエリアス山脈を打ち越す勢いで、青い青い澄み切った空の下を涯はてしもなく重なり合いながら押し寄せて来る。アラスカ丸は七千噸トンだから荷物船カーゴボートでは第一級の大型だったが、たとい七千噸が七万噸でもあの波に引っかかったら木こっ葉ぱも同然だ。

一つの波の絶頂に乗上げると、岩と氷河で固めた恐ろしい恰好かっこうの聖セントエリアスが直ぐ鼻の先に浮き上る。文句なしに手が届きそうに見える。これは、空気が徹底的に乾燥しているから、そんなに近くに見えるんだが、水蒸気の多い日本から行くと特別にソンナ感じがするんだ。望遠鏡で覗のぞいてもチットも霞かすんで見えない。山腹を這はう蟻ありまで見えやしまいかと思うくらいハッキリと岩の角々が太陽に輝いている……と思う間に、その大山脈の絶頂から真逆落まっさかおとしに七千噸の巨体が黒煙くろけむりを棚引たなびかせて辷すべり落ちる。スキーの感じとソックリだね。高い高い波の横っ腹に引き残して来る推進器スクリュウの泡をジイッと振り返っていると、七千噸の船体が千噸ぐらいにしか感じられなくなって来る。

……と思ううちに、やがて谷底へ落ち付いた一刹那せつな、次の波の横っ腹に艦首トップを突込んでドンイイインと七噸から十噸ぐらいの波に艦首トップの甲板デッキをタタキ付けられる。グーンと沈んで甲板をザアザアザアと洗われながら次の大山脈のドテッ腹へ潜もぐり込む。何なんしろ船脚ふなあしがギッシリと重いのだから一度、大きな波やつにたたかれると容易に浮き上らない。船室ケビンという船室ケビンの窓が、青い、水族館みたいな波の底の光線に鎖とざされたまま、堅板パーテカルや、内竜骨キールソンが、水圧でもって……キイッ……キイッ……キシキシキシキシと鳴るのを聞いていると、それだけの水圧を勘定に入れた、材料強弱ストレングス・オブ・マテリヤルスの公式一点張りで出来上っている船体だとわかり切っていても決していい心持ちはしない。そのうちにヤット波の絶頂まで登り詰めてホットしたと思う束の間に、又もスクリュウを一シキリ空転さして、潮煙しおけむりを捲立まきたてながら、文字通り千仭せんじんの谷底へ真逆落しだ。これを一日のうちに何千回か何万回か繰返すと、機関室の寝床ベッドにジッと寝転んでいても、ヘトヘトに疲れて来る。

「オイオイ。機関長か……」

船長室から電話がかかる。

「僕です。何か用ですか」

「ウン。もっとスピードが出せまいか」

「出せますが、何故なぜですか」

「船がチットも進まんチウて一等運転手チーフメートが訴えて来きおるんだ」

「今十六節ノット出ているんですがね。義勇艦隊のスピードですぜ」

「馬鹿。出せと云ったら出せ」

「ドレ位ですか」

「十八ばっか出しちくれい」

「最大限フルですね」

「ウン。石炭すみは在るかな」

「まだ在ります。全速力フルで四五日分……」

「……ヨシ……」

ガチャリと電話が切れたと思うと、やがて船腹ふなばらを震撼しんかんする波濤なみの轟音おとが急に高まって来た。タッタ二節ノットの違いでも波が倍以上大きくなったような気がする。又実際、船体のコタエ方は倍以上違って来るので、石炭の消費量でもチットやソットの違いじゃない。

そのうちに高緯度の癖で、いつとなく日ばボンヤリと暮れて、地獄座のフットライト見たいなオーロラがダラダラと船尾スターンにブラ下った。その下の波の大山脈の重なりを、夜通しがかりで白泡しらあわを噛かみながら昇ったり降ったり、シーソーを繰り返して翌あくる朝の薄明りになってみると、不思議な事に船体ふねは、昨日きのうの朝の通り聖セントエリアスとフェア・ウェザーの中間に船首を固定さしている。昨日きのうから固定していたんだか、夜の間に逆戻りしたんだかわからない。

「どうしたんだ」

「シッカリしろ」

とか何とか運転手と文句を云い合っているうちに、昨日きのうの朝の通りの白い太陽がギラギラと出て来た。空気が乾燥しているから岸の形がハッキリしている。山腹を這はう蟻ありの影法師まで見えそうである。

流石さすがに沈着な船長もコレには少々驚いたらしい。船橋ブリッジに上のぼって、珍らしそうに白い太陽を凝視している。その横に一等運転手がカラも附けないまま寒そうに震えている。

「逆戻りしたんだな」

「イヤ。波に押し戻されているんです。十八節ノットの速力スピードがこの波じゃチットモ利かないんです」

「そんな馬鹿な事が……」

「いや実際なんです。去年の波とはタチが違うらしいんです」

「おんなじ波じゃないか」

「イヤ。たしかに違います」

一等運転手と船長がコンナ下らない議論をしているところへ、俺は危険を冒おかして梯子ラダを這い登って行った。船長は、真向いの聖セントエリアスの岩山に負けない位のゴツゴツした表情で云った。

「モウ……スピードは出ないな。機関長おやかた……」

「出ませんな。安全弁バルブが夜通しブウブウいっていたんですから」

「……弱ったな……」

この船長が、コンナ弱音を吐いたのを俺はこの時に初めて聞いた。

「……妙ですねえ。今度ばかりは……変テコな事ばかりお眼にかかるじゃないですか」

「あの小僧を乗せたせいじゃないかな。チョットでも……」

と一等運転手がヨロケながら独言ひとりごとのように云った。蒼白あおじろい、剛こわばった顔をして……俺は強く咳払せきばらいをした。

「エヘン。そうかも知れねえ。しかし最早もう船には居ねえ筈だからな」

船長は何も云わなかった。苦い苦い顔をしたまま十八倍の双眼鏡を聖セントエリアスに向けた。

三人はそのまま気拙きまずい思いをして別れたが、それから第三日目の朝になっても、依然としてフェア・ウェザーとセント・エリアスが真正面に見えた時には、流石さすがの俺も、ジイイーンと痺しびれ上るような不思議を、脳髄の中心に感じた。同時に何ともいえない神秘的な気持になって、胸がドキドキした事を告白する。自分の魂が、船体と一所に、どうにもならない不可思議な力にガッシリと掴つかまれているような気がしたからだ。

石のように固こわばった俺と、一等運転手チーフメートと、船長の顔がモウ一度、船長室でブツカリ合った。

「ここいらを北上する暖流の速力が変ったっていう報告はまだ聞きませんよ」

運転手が裁判の被告みたような口調で船長に云った。船長が他所事よそごとのようにネービー・カットの煙を吹いた。

「ムフムフ。変ったにしたところが、一時間十八節ノットの船を押し流すような海流が、地球表面上に発生し得うる理由はないてや」

と飽くまでも科学者らしく嘯うそぶいた。俺もエンチャントレスに火を付けながら首肯うなずいた。

「とにかく俺のせいじゃないよ。石炭はたしかに減っているんだからな」

一等運転手チーフメートも眼を白くしてコックリと首肯うなずいた。同時に一層青白くなりながら白い唇を動かした。

「……何か……あの小僧の持物でも……船に……残っているんじゃ……ないでしょうか」

船長は片目をつむって、唇を歪ゆがめて冷笑した。しかし一等運転手は真顔まがおになって、真剣に腰を屈かがめながら、船長室内のそこ、ここを覗のぞきまわり初めた。おしまいには船長と俺が腰をかけている寝台ねだいまでも抱え上げて覗いたが、寝台の下には独逸ドイツや仏蘭西フランスの科学雑誌が一パイに詰まっているキリであった。ボーイのスリッパさえ発見出来なかった。

とうとう船全体が、動かす事の出来ない迷信に囚とらわれて、スッカリ震え上がらせられてしまった。乗組員の眼付めつきは皆みんなオドオドと震えていた。

……船が動かない……S・O・S小僧の祟たたりだ……。

晴れ渡った青い青い空、澄み渡った太陽。静かな、切れるような冷つめたい風の中で、碧玉へきぎょくのような大濤おおなみに揺られながらの海難……。

……行けども行けども涯はてしのない海難……S・O・Sの無電を打つ理由もない海難……理由のわからない……前代未聞の海難……。

「サアサア。みんな文句云うところアねえ、在りったけの石炭すみを悉皆みんな、汽鑵かまにブチ込むんだ。それで足りなけあ船底ダンブロの木綿の巻荷ロールをブチ込むんだ。それでも足りなけあ俺から先に汽鑵かまの中へ匍はい込むんだ。ハハハ。サアサア。みんな石炭すみ運びだ石炭すみ運びだ……」

事実石炭は最早もう、残りがイクラも無かったのだ。横浜はまで積込つみこんだ時の苦労を逆に繰返して、飛んでもない遠方から掘り出すようにしいしい、機関室へ拾い集めるのであったが、その作業を初めると間もなく、残炭のこりを下検分したみに廻わった二等機関士のチャプリン髭ひげが、俺の部屋へ転がり込んで来た。

「……タ……大変です。S・O・Sの死骸が見つかりました」

「ナニ。S・O・S……伊那の死骸がか……」

「エエ。そうなんです……ああ驚いた。ちょっとその水を一パイ。ああたまらねえ」

「サア飲め。意気地無し。どこに在ったんだ」

「ああ驚いちゃった。料理部屋の背面うしろなんです。あすこの石炭すみの山の上にエムプレス・チャイナの青い金モール服を着たまんま半腐りの骸骨になって寝ていたんです。イガ栗頭の恰好かっこうがあいつに違いないんですが」

「骸骨……?……」

「ええ。あそこは鉄管パイプがゴチャゴチャしていてステキに暑いもんですから腐りが早かったんでしょう。白い歯を一パイに剥むき出してね。蛆うじ一匹居なかったんですが……随分臭かったんですよ」

俺は黙って鉄梯子てつばしごを昇って、中甲板ちゅうかんぱんの水夫部屋に来た。入口に掴つかまって仁王立におうだちになったまま大声で怒鳴った。

「おおい。兼公かねこう居るかア。出歯でっぱの兼公……生首なまくびの兼公は居ねえかア……」

「おおおオ――……」

と隅ッコの暗い寝台棚かいこだなから、寝ぼけたらしい声がした。

「誰だあ……」

「おれだあ……」

「おお。地獄の親方さんか。これあどうも……」

「済まねえが一寸ちょっと、顔を貸してくれい」

「ウワアア。とうとう見付かったかね」

「シッ……」

と眼顔で制しながら兼公を水夫食堂へ誘い込んだ。天井の綱にブラ下りながら兼に金口煙草きんぐちを一本呉くれた。兼はしきりに頭を掻かいた。

「どうも横浜はまじゃ、警察が怖こわーがしたからね。つい秘密ないしょにしちゃったんで……」

「石炭すみ運びの途中で殺やったんか」

「図星ずぼしなんで……ヘエ。もっとも最初はじめから殺やる気じゃなかったんで、みんながあの小僧は女だ女だって云いましたからね。仕事にかからせる前にチョット調べて見る気であすこに引っぱり込んだんで……ヘエ……」

「馬鹿野郎……そんで女だったのか」

「それがわからねえんで……あすこへ捻ねじ伏せて洋服を引んめくりにかかったら恐ろしく暴れやがってね」

「当前あたりまえだあ……それからどうした」

「イキナリ飛び付きやがって、ここん処とこをコレ……コンナに喰くい切りやがったんで……」

兼は菜葉服なっぱふくとメリヤスの襯衣シャツをまくって、左腕の力瘤ちからこぶの上の繃帯ほうたいを出して見せた。

「まだ腫はれてんで……ズキズキしてるんですがね……恐ろしいもんですね」

「間抜けめえ。そん時に手前てめえ裸体はだかだったのか」

「エヘヘヘヘヘ」

「変な笑い方をしるねえ。それからどうした」

「わっしゃカーッとなっちゃってね。コイツ奴め、降りるといったって他の船へ乗れあ、又、災難わざをしやがるんだからここで片付けた方が早道だ。男だか女だか殺おとしてから検査しらべた方が早道だと思っちゃったところへ、血だらけの口をしたS・O・Sの野郎が、私の横ッ面つらへ喰い切った肉をパッと吹っかけて「悪魔」とか何とか悪態を吐つきやがったんで……手前てめえの悪魔は棚へ上げやがってね。……おまけに後で船長おとっさんに告訴いいつけてやるから……とか何とか吐ぬかしやがったんでイヨイヨ助けておけないと思って、首ッ玉をギューッと……まったくなんで……ヘエ……」

「非道ひどい事をするなあ。そんで女だったかい」

「……それがその……野郎なんで……」

「プッ。馬鹿だなあ。それからどうしたい」

「それっきりでさ。……ウンザリしちゃって放ほったらかして来ちゃったんです」

「何故なぜ海に投ほうり込まねえ」

「それが誰にも見つからねえように放り込みたかったんで……親方や機関室ダンブロの兄貴あにき達にも申し訳ねえし、おまけに上海シャンハイで、あっしが談判に行った時に船長おやじが入歯をガチガチさして、こんな事を云ったんです。あの小僧をタタキ殺すのに文句はないが……」

「チョット待ってくれ。たたき殺すのに文句はないって云ったんだね」

「そうなんで……しかし死骸は勿論、髪の毛一本でも外へ持ち出したら只ただはおかないぞッ……てね。そう云って船長おやじに白眼にらみ付けられた時にゃ、あっしゃゾッとしましたぜ。あんな気味の悪い面つらア初めてお眼にかかったんで……ヘエ……まったくなんで……」

「フーム。妙な事を云ったもんだな」

「そう云ったんで……何だかわからねえけども……万一見付かって首になっちゃ詰まらねえ。事によるとあの二挺ちょうのパチンコで穴を明あけられちゃ叶かなわねえと思って、そのまんまにしといたんです。まったくなんです」

「案外意気地がねえんだな……手前てめえは……」

「まったくなんで……それからっていうものあの死骸の事が気になって気になって今日は運び出そうか、明日あすは片付けようかと思ううちに、だんだん船にケチが附いて来るでしょう……死骸は腐って手が付けられなくなって来るし、わっしゃもう少しで病気になるところだったんで……もう懲こり懲ごりしました。どうぞ勘弁かんべんしておくんなさい。あやまっても追付おっつくめえけんど……」

「ハハハ。そんな事こたアもうどうでもいいんだ。今日は文句はねえ。手前てめえ行って大ビラであの死骸コツを片付けて来い。船長おやじには俺が行って話を付けてやる」

「ヘエッ。本当ですかい親方ア」

「同じ事を二度たあ云わねえ」

「……ありが……ありがとう御座ござんす。すぐに片付けます。……ああサッパリした」

「馬鹿野郎……片付けてからサッパリしろ」

兼はS・O・Sの金モールの骸骨コツを胴中どうなかから真二まふたつにスコップでたたき截きって、大きなバケツ二杯に詰めて出て来た。甲板に出て生命綱いのちづなに掴つかまり掴まり二つのバケツを海の上へ投げ出したが、その骨の一片が、波にぶつかって、又、兼の足元へ跳ね返って来た時、兼は真青になってその骨を引掴ひっつかむと危あぶなくツンノメリながら、

「南無阿弥陀仏なむあみだぶつッ……」

と遠くへ投げた。

それは兼の一生懸命の震え上った念仏らしかったが、とてもその恰好かっこうが滑稽こっけいだったので、見ていた俺はたった一人で腹を抱えさせられた。

アラスカ丸は、それから何の故障もなくスラスラと晩香坡バンクーバへ着いた。

同じ波の上を、同じスピードで……馬鹿馬鹿しい話だが、まったくなんだ。

ところで話はこれからなんだ。

船長の横顔は見れば見るほど人間らしい感じがなくなって来るんだ。

骸骨コツを渋紙で貼はり固めてワニスで塗り上げたような黒光りする凸額おでこの奥に、硝子玉ガラスだまじみたギラギラする眼球めだまが二個ふたつコビリ付いている。それがマドロス煙管パイプを横一文字にギューと啣くわえたまま、船橋ブリッジの欄干てすりに両肱ひじを凭もたせて、青い青い空の下を凝視しているんだ。その乾涸ひからびた、固定した視線の一直線上に、雪で真白になった晩香坡バンクーバの桟橋がある。その向う一面に美しい燈火ともしびがズラリと並んでいようという……ところまで、やっと漕こぎ付けたんだがね。文字通りに……。

その桟橋の上に群がっている人間は、五日ほど遅れて着いたアラスカ丸をどうしたのかと気づかって、待ちかねていた連中なんだ。

「S・O・Sの野郎……骸骨ほねになってまで祟たたりやがったんだナ……」

船長おやじが突然だしぬけに振返って俺の顔を見た。白い義歯いればを一ぱいに剥むき出して物凄ものすごく哄笑こうしょうしたもんだ。

「アハハハハ。イヤ……面白い実験だったね。やっぱり理外の理って奴は、あるもんかなあ……タハハハ。ガハハハハハ……」

底本 / Source edition

底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年3月24日第1刷発行
※表題の「難船小僧」には、「S・O・S・BOY」とルビがふられています。
入力:柴田卓治
校正:kazuishi
2004年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/002105_000096/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/002105_000096/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/002105_000096/

夢野 久作「難船小僧」(新字新仮名)、底本『夢野久作全集6』ちくま文庫、筑摩書房、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002105_000096, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite