Soranoha

津下四郎左衛門

つげしろうざえもん

森 鴎外

津下四郎左衛門つげしらうざゑもんは私の父である。(私とは誰たれかと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名は只たゞ聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸木さうもくと同じく朽くちたと云はれても、私はさうでないと弁ずることが出来ない。

かうは云ふものの、若もし私がここに一言を附け加へたら、人が、「ああ、さうか」とだけは云つてくれるだらう。其その一言はかうである。「津下四郎左衛門は横井平四郎よこゐへいしらうの首を取つた男である。」

丁度ちやうど世間の人が私の父を知らぬやうに、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠せうなん先生を知つてゐる。

私の立場から見れば、横井氏が栄誉あり慶祥けいしやうある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎あうきうある家であつて、私はそれを歎かずにはゐられない。

此この禍福とそれに伴ふ晦顕くわいけんとがどうして生じたか。私はそれを推おし窮きはめて父の冤ゑんを雪そゝぎたいのである。

徳川幕府の末造ばつざうに当つて、天下の言論は尊王と佐幕とに分かれた。苟いやしくも気節を重んずるものは皆尊王に趨はしつた。其時尊王には攘夷じやういが附帯し、佐幕には開国が附帯して唱道せられてゐた。どちらも二つ宛づゝのものを一つ〲に引き離しては考へられなかつたのである。

私は引き離しては考へられなかつたと云ふ。是これは群集心理の上から云ふのである。

歴史の大勢から見れば、開国は避くべからざる事であつた。攘夷は不可能の事であつた。智慧ちゑのある者はそれを知つてゐた。知つてゐてそれを秘してゐた。衰運の幕府に最後の打撃を食くらはせるには、これに責むるに不可能の攘夷を以てするに若しくはないからであつた。此秘密は群集心理の上には少しも滲徹しんてつしてゐなかつたのである。

開国は避くべからざる事であつた。其の避くべからざるは、当時外夷ぐわいいとせられてゐたヨオロツパ諸国やアメリカは、我に優まさつた文化を有してゐたからである。智慧のあるものはそれを知つてゐた。横井平四郎は最も早くそれを知つた一人である。私の父は身を終ふるまでそれを暁さとらなかつた一人である。

弘化四年に横井の兄が病気になつた。横井は福間某ふくまぼうと云ふ蘭法医らんぱふいに治療を託した。当時元田永孚もとだながざねなどと交まじはつて、塾を開いて程朱ていしゆの学を教へてゐた横井が、肉身の兄の病を治療してもらふ段になると、ヨオロツパの医術にたよつた。横井が三十九歳の時の事である。

嘉永五年に池辺啓太いけべけいたが熊本で和蘭おらんだの砲術を教へた時、横井は門人を遣やつて伝習させた。池辺は長崎の高島秋帆たかしましうはんの弟子で、高島が嫌疑を被かうむつて江戸に召し寄せられた時、一しよに拘禁せられた男である。兵器とそれを使ふ技術ともヨオロツパが優つてゐたのを横井は知つてゐた。横井が四十四歳の時の事である。

翌年横井が四十五歳になつた時、Perry が横浜に来た。横井は早くも開国の必要を感じ始めた。安政元年には四十六歳で、ロシアの使節に逢あはうとして長崎へ往いつた。其留守には吉田松陰が尋ねて来て、置手紙をして帰つた。智者と智者との気息きそくが漸やうやく通ぜられて来た。翌年四十七歳の時、長崎に遣やつてゐた門人が、海軍の事を研究しに来た勝義邦かつよしくにと識合しりあひになつて、勝と横井とが交通し始めた。これも智者の交まじはりである。慶応二年五十八歳の時横井は左平太さへいた、太平たへいの二人の姪てつを米国に遣つた。海軍の事を学ばせるためであつた。此洋行者は皆横井が兄の子で、後に兄を伊勢太郎いせたらうと曰いひ、弟を沼川三郎ぬまがはさぶらうと曰つた。横井は初め兄の家を継いだものなので、其家を左平太の伊勢太郎に譲つた。

智者は尊王家の中にも、佐幕家の中にもあつた。しかし尊王家の智者は其智慧の光を晦くらますことを努めた。晦ますのが、多数を制するには有利であつたからである。開国の必要と云ふことが、群集心理の上に滲徹しんてつしなかつたのは、智慧の秘密が善よく保たれたのである。此間かんの消息を一の drame の如くに、観照的に錬稠れんちうして見せたのは、梧陰存稿ごいんそんかうの中に、井上毅ゐのうへこはしの書き残した岩倉具視いはくらともみと玉松操たままつみさをとの物語である。これは教科書にさへ抜き出されてゐるのだから、今更ここに繰り返す必要はあるまい。そんなら其秘密はどうして保たれたか。岩倉村幽居いうきよの「裏のかくれ戸」は、どうして人の耳目に触れずにゐたか。それは多数が愚おろかだからである。

私は残念ながら父が愚であつたことを承認しなくてはならない。父は愚であつた。しかし私は父を弁護するために、二箇条の事実を提出したい。一つは父が青年であつたと云ふこと、今一つは父の身分が低かつたと云ふことである。

父が生れた時、智者横井は四十歳であつた。三十一歳で江戸に遊学して三十二歳で熊本に帰つた。当時の江戸帰えどがへりは今の洋行帰と同じである。父が横井を刺した時、横井は六十一歳で、参与と云ふ顕要の地位にをつた。父は二十二歳の浮浪の青年であつた。

智者横井は知行二百石足らずの家とは云ひながら、兎とに角かく細川家の奉行職ぶぎやうしよくの子に生れたのに、父は岡山在の里正りせいの子に生れた。伊木若狭いぎわかさが備中越前鎮撫総督ちんぶそうとくになつた時、父は其勇戦隊の卒伍そつごに加はらうとするにも、幾多の抗抵に出逢つたのである。

人の智慧は年齢と共に発展する。父は生れながらの智者ではなかつたにしても、其の僅わづかに持つてゐた智慧だに未だ発展するに遑いとまあらずして已やんだのかも知れない。又人の智慧は遭遇によつて補足せられる。父は縦よしや愚であつたにしても、若し智者に親近することが出来たなら、自ら発明する所があつたのかも知れない。父は縦よしや預言者たる素質を有してゐなかつたにしても、遂つひに consacrés の群に加はることが出来ずに時勢の秘密を覗うかゞひ得なかつたのは、単に身分が低かつたためではあるまいか。人は「あが仏尊し」と云ふかも知れぬが、私はかう云ふ思議に渉わたることを禁じ得ない。

私の家は代々備前びぜん国上道じやうたう郡浮田うきた村の里正を勤めてゐた。浮田村は古く沼ぬま村と云つた所で、宇喜多直家うきたなほいへの城址じやうしがある。其城壕しろぼりのまだ残つてゐる土地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ばかりで、何一つ人の目を惹ひくものもない田舎ゐなかである。

私の祖父を里正津下市郎左衛門つげいちらうざゑもんと云つた。旧家に善くある習ならひで、祖父は分家で同姓の家の娘を娶めとつた。祖母の名は千代ちよであつた。千代は備前侯池田家に縁故のあつた人で、駕籠かごで岡山の御殿に乗り附ける特権を有してゐたさうである。恐らくは乳母うばではなかつたかと、私は想像する。此夫婦の間に私の父は生れた。

父は嘉永二年に生れた。幼名は鹿太しかたであつた。これも旧家に善くある習で、鹿太は両親の望に任せて小さい時に婚礼をした。塩見氏しほみうぢの丈たけと云ふ娘と盃をしたのである。多分嘉永四年で、鹿太は四歳、丈は一つ上の五歳であつたかと思ふ。

鹿太は物騒がしい世の中で、「黒船」の噂うはさの間に成長した。市郎左衛門の所へ来る客の会話を聞けば、其詞そのことばの中に何某なにがしは「正義」の人、何某は「因循いんじゆん」の人と云ふことが必ず出る。正義とは尊王攘夷の事で、因循とは佐幕開国の事である。開国は寧むしろ大胆な、進取的な策であるべき筈はずなのに、それが因循と云はれたのは、外夷ぐわいいの脅迫を懾おそれて、これに屈従するのだと云ふ意味から、さう云はれたのである。其背後には支那の歴史に夷狄いてきに対して和親を議するのは奸臣かんしんだと云ふことが書いてあるのが、心理上に réminiscence として作用した。現に開国を説く人を憎む情の背後には、秦檜しんくわいのやうな歴史上の人物を憎む情が潜ひそんでゐたのである。鹿太は早く大きくなりたいと願ふと同時に、早く大きくなつて正義の人になりたいと願つた。

文久二年に鹿太は十五歳で元服して、額髪ひたひがみを剃そり落した。骨組の逞たくましい、大柄な子が、大綰総おほたぶさに結つたので天晴あつぱれ大人おとなのやうに見えた。通称四郎左衛門、名告なのりは正義まさよしとなつた。それを公の帳簿に四郎とばかり書かれたのは、池田家に左衛門と云ふ人があつたので、遠慮したのださうである。祖父の市郎左衛門も、公おほやけには矢張やはり市郎で通つてゐた。

鹿太は元服すると間もなく、これまで姉のやうにして親したしんでゐた丈と、真の夫婦になつた。此頃から鹿太は岡山の阿部守衛あべもりゑの内弟子になつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を以て関西に鳴つてゐたのである。

文久三年二月には私が生れた。父四郎左衛門は十六歳、母は十七歳であつた。私は父の幼名を襲ついで鹿太と呼ばれた。

慶応三年の冬、此年頃醞醸うんぢやうせられてゐた世変が漸やうやく成熟の期に達して、徳川慶喜よしのぶは大政たいせいを奉還し、将軍の職を辞した。岡山には、当時の藩主池田越前守茂政いけだゑちぜんのかみもちまさの家老に、伊木若狭いぎわかさと云ふ尊王家があつて、兼かねて水戸の香川敬三かがはけいざう、因幡いなばの河田左久馬かはたさくま、長門ながとの桂小五郎かつらこごらう等を泊らせて置いた位であるので、翌年明治元年正月に、此伊木が備中越前びつちゆうゑちぜん鎮撫総督ちんぶそうとくにせられた。

伊木の手には卒三百人しか無かつた。それでは不足なので、松本箕之介まつもとみのすけが建策して先づ勇戦隊と云ふものを編成した。岡山藩の士分のものから有志者を募つのつたのである。四郎左衛門はすぐにこれに応ぜようとしたが、里正の子で身分が低いので斥しりぞけられた。

そのうち勇戦隊はもう編成せられて、能呂勝之進のろかつのしんがそれを引率して、備中国松山に向つて進発した。隊が岡山を離れて、まだ幾程いくほどもない時、能呂がふと前方を見ると、隊の先頭を少し離れて、一人の男が道の真中を闊歩してゐる。隊の先導をするとでも云ふやうに見える。骨組の逞たくましい大男で、頭に烏帽子ゑぼしを戴き、身に直垂ひたゝれを著、奴袴ぬばかまを穿はいて、太刀たちを弔つつてゐる。能呂は隊の行進を停めて、其男を呼び寄せさせた。男は阿部守衛の門人津下四郎左衛門と名告なのつて、さて能呂にかう云つた。自分は兼てより尊王の志を懐いだいてゐるものである。此度このたび勇戦隊が編成せられるに就ついては、是非共其一員に加はりたいので、早速志願したが、一里正の子だと云ふ廉かどで御採用にならなかつた。しかし隊の勇ましい門出かどでを余所よそに見て、独ひとり岡山に留とゞまるに忍びないから、若もし戦闘が始まつたら、微力ながら応援いたさうと思つて、同じ街道を進んでゐるのだと云つた。能呂は其風采をも口吻こうふんをも面白く思つて、すぐに伊木に請うて、四郎左衛門を隊伍に入れた。四郎左衛門が二十一歳の時である。

松山の板倉伊賀守勝静いたくらいがのかみかつきよは老中を勤めてゐた身分ではあるが、時勢に背そむき王師わうしに抗すると云ふ意志は無かつたので、伊木の隊は血を流さずに鎮撫ちんぶの目的を遂げた。それから隊が六月まで約半年間松山に駐屯して、そこで伊木は第二隊を募集した。備中の藤島政之進ふぢしままさのしんが指揮した義戦隊と云ふのがそれである。

或る日城外の調練場で武芸を試みようと云ふことになつて、備前組と備中組とが分かれて技を競くらべた。然しかるに撃剣の上手は備中組に多かつたので、備前組が頻しきりに敗まけを取つた。其時四郎左衛門が出て、備中組の手剛てごはい相手数人に勝つた。伊木は喜んで、自分の乗つて来た馬を四郎左衛門に与へた。競技が済すんで帰る時、四郎左衛門が其馬に騎のつて行くと、沿道のものが伊木だと思つて敬礼をした。

六月に伊木は勇戦義戦の両隊を纏まとめて岡山に引き上げた。両隊は国富くにとみ村操山みさをやまの少林寺せうりんじに舎営することになつた。四郎左衛門は隊の勤務の旁かたはら、伊木の分家伊木木工いぎもくの側雇そばやとひと云ふものになつて、撃剣の指南などをしてゐた。

四郎左衛門は勇戦隊にゐるうちに、義戦隊長藤島政之進の下に参謀のやうな職務を取つてゐた上田立夫うへだりつぷと心安くなつた。二人が会合すれば、いつも尊王攘夷の事を談じて慷慨かうがいし、所謂いはゆる万機一新の朝廷の措置に、動やゝもすれば因循の形迹けいせきが見あらはれ、外国人が分外ぶんぐわいの尊敬を受けるのを慊あきたらぬことに思つた。それは議定ぎぢやう参与の人々の間には、初から開国の下心があつて、それが漸やうやく施政の上に発露して来たからである。

或る日二人は相談して、藩籍を脱して京都に上ることにした。偕ともに輦轂れんこくの下もとに住んで、親しく政府の施設を見ようと云ふのである。二人の心底には、秕政ひせいの根本を窮きはめて、君側くんそくの奸かんを発見したら、直たゞちにこれを除かうと云ふ企図が、早くも此時から萌きざしてゐた。

二人は京都に出た。さて議定参与の中で、誰が洋夷に心を傾けてゐるかと探つて見た。其時二人の目に奸人の巨魁きよくわいとして映じたのは、三月に徴士ちようしとなつて熊本から入京し、制度局の判事を経て、参与に進んだ横井平四郎であつた。

横井は久しく越前侯松平慶永まつだひらよしながの親任を受けてゐて、公武合体論を唱へ、慶永に開国の策を献じた男である。其外そのほか大阪の城代土屋采女正寅直つちやうねめのしやうともなほの用人大久保要おほくぼかなめに由つて徳川慶喜に上書し、又藤田誠之進を介して水戸斉昭みとなりあきに上書したこともある。世間では其論策の内容を錯あやまり伝へて、廃帝を議したなどゝ云つたり、又洋夷と密約して、基督きりすと教を公許しようとしてゐるなどゝ云つたりした。

公武合体論者の横井が、純粋な尊王家の目から視みて、灰色に見えたのは当然の事であるが、それが真黒に見えたのは、別に由よつて来たる所がある。横井は当時の智者ではあつたが、其思想は比較的単純で、それを発表するに、世の嫌疑を避けるだけの用心をしなかつた。横井は政治の歴史の上から、共和政の価値を認めて、アテエネに先だつこと数百年、尭舜げうしゆんの時に早く共和政が有つたと断じた。「人君何天職じんくんなんぞてんしよくなる。代天治百姓てんにかはりてひやくせいををさむ。自非天徳人てんとくのひとにあらざるよりは。何以愜天命なにをもつてかてんめいにかなはん。所以尭巽舜げうのしゆんにゆづりしゆゑん。是真為大聖これまことにたいせいたり。」これは共和政を日本に行はうと云ふ意ではない。横井は又ヨオロツパやアメリカで基督教が、人心を統一する上に於いて、頗すこぶる有力であるのを見て、神儒仏三教の不振を歎いた。「西洋有正教せいやうにせいけうあり。其教本上帝そのをしへはじやうていをもととす。戒律以導人かいりつもてひとをみちびき。勧善懲悪戻ぜんをすすめてあくれいをこらしむ。上下信奉之しやうかこれをしんぽうし。因教立法制をしへによりてはふせいをたつ。治教不相離ちとけうあひはなれず。是以人奮励ここをもつてひとふんれいす。」これは基督教を日本に弘めようと云ふ意ではない。同じ詩の末解にも、「嗟乎唐虞道あゝたうぐのみち、明白如朝霽めいはくなることあさのはるるがごとし、捨之不知用これをすててもちふることをしらず、甘為西洋隷あまんじてせいやうのれいとなる」と云つてある。横井は政治上には尊王家で、思想上には儒者であつた。甘んじて西洋の隷となることを憤つた心は、攘夷家の心と全く同じである。しかし当時の尊王攘夷論者の思想は、横井よりは一層単純であつたので、遂に横井を誤解することになつた。

横井が志士の間に奸人として視られてゐたのは、此時に始まつたことでは無い。六年前、文久元年に江戸で留守居になつてゐた時も、都筑つづき四郎、吉田平之助と一しよに、呉服町の料理屋で酒を飲んでゐるところへ、刺客せきかくが踏み込んで殺さうとしたことがある。吉田は刺客に立ち向つて、肩先を深く切られて、創きずのために命を隕おとしたが、横井は刺客の袖の下を潜くゞつて、都筑と共に其場を逃げた。吉田の子巳熊みくまは仇討あだうちに出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での挙動が、いかにも卑怯ひけふであつたと云ふので、熊本に帰つてから禄を褫うばはれた。

上田立夫と四郎左衛門とは、時機を覗うかゞつて横井を斬らうと決心した。しかし当時の横井はもう六年前の一藩士では無い。朝廷の大官で、駕籠かごに乗つて出入する。身辺には門人や従者がゐる。若し二人で襲撃して為損しそんじてはならない。そこで内密に京都に出てゐた処士の間に物色して、四人の同志を得た。一人は郡山こほりやま藩の柳田徳蔵、今一人は尾州藩の鹿島復之丞かしままたのじよう、跡あとの二人は皆十津川とつがはの人で、前岡力雄りきを、中井刀禰雄とねをと云つた。

四郎左衛門は土屋信雄と変名して、京都粟田あはた白川橋南に入る堤町の三宅典膳と云ふものゝ家に潜伏してゐた。そして時々七人の同志と会合して、所謂斬奸ざんかんの手筈てはずを相談した。然るに生憎あいにく横井は腸を傷いためて、久しく出勤しなかつた。邸宅の辺を徘徊はいくわいして窺うかゞふに、大きい文箱ふばこを持つた太政官だじやうくわんの使が頻しきりに往反わうへんするばかりである。

同志の人々はいつそ邸内に踏み込んで撃たうかとも思つた。しかし此秘密結社の牛耳を執とつてゐた上田が聴かなかつた。なぜと云ふに、横井は処士に忌まれてゐることを好く知つてゐて、邸宅には十分に警戒をしてゐた。そこへ踏み込んでは、六人の力を以てしても必ず成功するとは云はれなかつたからである。

歳暮に迫つて、横井は全快して日々出勤するやうになつた。同志の人々は会合して、来年早々事を挙げようと議決した。さて約束が極きまつた時、四郎左衛門は訣別けつべつのために故郷へ立つた。

四郎左衛門が京都に上つてからも、浮田村の家からは市郎左衛門が終始密使を遣やつて金を送つてゐた。同志の会合は人の耳目を欺くためにわざと祇園ぎをん新地の揚屋あげやで催されたが、其費用を払ふのは大抵四郎左衛門であつた。色が白く、柔和に落ち著いてゐて、酒を飲んでも行儀を崩さぬ四郎左衛門は、芸者や仲居にもてはやされたさうである。或る時同志の中の誰やらがかう云つた。かうして津下にばかり金を遣つかはせては気の毒だ。軍資を募るには手段がある。我々も人真似に守銭奴を脅おどして見ようではないかと云つた。其時四郎左衛門がきつと居直つて、一座を見廻してかう云つた。我々の交まじはりは正義の交である。君国に捧さゝぐべき身を以て、盗賊にまぎらはしい振舞は出来ない。仮に死んでしまふ自分は瑕瑾かきんを顧みぬとしても、父祖の名を汚し、恥を子孫に遺のこしてはならない。自分だけは同意が出来ないと云つた。

大晦日おおみそかの雪の夜であつた。津下氏の親類で、同じ浮田村に住んでゐた杉本某の所から、津下の留守宅へ使が来た。急用があるから、在宅の人達は皆揃そろつて、こつそり来て貰ひたいと云ふことであつた。市郎左衛門夫婦は何事かと不審に思つたが、よめの丈たけには、兎とに角かく急いで支度をせいと言ひ附けた。若しや夫の身の上に掛かつた事ではあるまいかと心配しつゝも、祖父母の跡に附いて、当時二十二歳の母は、六歳になつた私を連れて往つた。

杉本方に待つてゐたのは父四郎左衛門であつた。私は幼かつたので、父がどんな容貌をしてゐたか、はつきりと思ひ浮べることだに出来ない。只たゞ「坊主好よく来た」と云つて、微笑ほゝゑみつゝ頭を撫なでゝくれたことだけを、微かすかに記憶してゐる。両親と母とには、余り逗留とうりうが長くなるので、一寸ちよつと逢ひに帰つたと云つたさうである。父は夜の明けぬうちに浮田村を立つて、急いで京都へ引き返した。

明治二年正月五日の午後である。太政官を退出した横井平四郎の駕籠が、寺町を御霊社ごりやうしやの南まで来掛かつた。駕籠の両脇には門人横山助之丞すけのじようと下津鹿之介とが引き添つてゐる。若党上野友次郎、松村金三郎の二人に、草履取ざうりとりが附いて供をしてゐる。忽たちまち一発の銃声が薄曇の日の重い空気を震動させて、とある町家の廂間ひあはひから、五六人の士が刀を抜き連れて出た。上田等の同志のものである。短銃は駕籠舁かごかきや家来を威嚇ゐかくするために、中井がわざと空に向つて放つたのである。

駕籠舁は駕籠を棄てゝ逃げた。横井の門人横山、下津は、兼かねて途中の異変を慮おもんばかつて、武芸の心得のあるものを選んで附けたのであるから、刀を抜き合せて立ち向つた。横山は鹿島と渡り合ひ、下津は柳田と渡り合ふ。前岡、中井は従者等を支へて寄せ附けぬやうにする。

上田と四郎左衛門とは一歩後に控へて見てゐると、駕籠の戸を開いて横井が出た。列藩徴士中の高齢者で、少し疎まばらになつた白髪を髻もとゞりに束ねてゐる。当年六十一歳である。少しも驚き慌あわてた様子はなく、抜き放つた短刀を右手に握つて、冷かに同志の人々を見遣つた。横井は撃剣を好んでゐた。七年前に品川で刺客に背を見せたのは、逃げる余裕があつたから逃げたのである。今日は逃げられぬと見定めて、飽くまで闘はうと思つてゐる。

上田が「それ」と、四郎左衛門に目くばせして云つた。四郎左衛門は只一打にと切つて掛かつた。しかし横井は容易たやすく手元に附け入らせずに、剣術自慢の四郎左衛門を相手にして、十四五合打ち合つた。此短刀は今も横井家に伝はつてゐるが、刃がこぼれて簓さゝらのやうになつてゐる。

横井が四郎左衛門の刀を防いでゐるうちに、横山は鹿島の額を一刀切つた。鹿島は血が目に流れ込むので、二三歩飛びしざつた。横山が附け入つて討ち果さうとするのを、上田が見て、横合から切つて掛かつた。其勢が余り烈はげしかつたので、横山は上田の腕に微傷かすりきずを負はせたにも拘かゝはらず、刃やいばを引いて逃げ出した。上田は追ひ縋すがつて、横山の後頭を一刀切つて引き返した。

四郎左衛門が意外の抗抵に逢つて怒を発し、勢鋭く打ち込む刀に、横井は遂に短刀を打ち落された。四郎左衛門は素早く附け入つて、横井を押し伏せ、髻を掴つかんで首を斬つた。

四郎左衛門は「引上げ」と一声叫んで、左手に横井の首を提さげて駆け出した。寺町通の町人や往来の人は、打ち合ふ一群を恐る〱取り巻いて見てゐたが、四郎左衛門が血刀ちがたなと生首なまくびとを持つて来るのを見て、さつと道を開いた。

此時横井の門人下津は、初め柳田に前額を一刀切られたのに屈せず、奮闘した末、柳田の肩尖かたさきを一刀深く切り下げた。柳田は痛痍いたでにたまらず、ばたりと地に倒れた。下津は四郎左衛門が師匠の首を取つて逃げるのを見て、柳田を棄てゝ、四郎左衛門の跡を追ひ掛けた。

下津が四郎左衛門を追ひ掛けると同時に、前岡、中井に支へられてゐた従者の中から、上野が一人引きはづして、下津と共に駆け出した。

上野は足が下津より早いので、殆ほとんど四郎左衛門に追ひ附きさうになつた。四郎左衛門は振り返りしなに、首を上野に投げ附けた。首は上野の右の腕に強く中あたつた。上野がたじろく隙すきに、四郎左衛門は逃げ伸びた。

上野が四郎左衛門を追ひ掛けて行つた跡で、従者等は前岡、中井に切りまくられて、跡へ跡へと引いた。前岡、中井は四郎左衛門が横井を討つたのを見たので、方角を換へて逃げた。横山に額を切られた鹿島も、上田も、隙すきを覗うかゞつて逃げた。同志のうちで其場に残つたのは深痍ふかでを負つた柳田一人であつた。

四郎左衛門の投げ附けた首を拾つた上野と一しよに、下津が師匠の骸むくろの傍かたはらへ引き返す所へ、横山も戻つて来た。取り巻いてゐた群集の中から、其外の従者が出て来て、下津等に手伝つて、身首所ところを異にしてゐる骸を駕籠の内に収めた。市中の警戒をしてゐた警吏が大勢来て、柳田を捕へて往つたのは、此時の事であつた。

四郎左衛門は市中を一走りに駈かけ抜けて、田圃道たんぼみちに出ると、刀の血を道傍みちばたの小河で洗つて鞘さやに納め、それから道を転じて嵯峨さがの三宅左近の家をさして行つた。左近は四郎左衛門が三宅典膳の家で相識さうしきになつた剣客である。左近方の裏には小さい酒屋があつた。四郎左衛門はそこで酒を一升買つて、其徳利を手に提げて、竹藪の中にある裏門から這入はひつた。左近方には四郎左衛門が捕はれて死んだ後に、此徳利が紫縮緬むらさきちりめんの袱紗ふくさに包んで、大切に蔵しまつてあつたさうである。

捕へられた柳田は一言も物を言はず、又取調を命ぜられた裁判官等も、強しひて問ひ窮きはめようともせぬので、同志の名は暫く知られずにゐた。しかし柳田と往来したことのある人達が次第に召喚せられて中には牢屋に繋つながれたものがある。

四郎左衛門は毎日市中に出て、捕へられた柳田の生死を知らうと思ひ、又どんな人が逮捕せられたか知らうと思つて、諸方で問ひ合せた。柳田は深痍ふかでに悩んでゐて、まだ死なぬと云ふこと、同志の名を明さぬと云ふことなどは、市中の評判になつてゐた。召喚せられて役所に留め置かれたり、又捕縛せられて牢屋に入れられたりしたのは、多くは尊王攘夷を唱へて世に名を知られた人々である。中にも名高いのは和泉いづみの中瑞雲斎なかずゐうんさいで、これは長男克己、二男鼎、三男建と共に入牢した。出雲の金本顕蔵、十津川の増田二郎、下総の子安利平治、越後の大隈熊二なども入牢にふらうした。四郎左衛門の同郷人では、海間かいま十郎左衛門が召喚せられたが、これは一応尋問を受けて、すぐに帰された。海間は岡山紙屋町に吉田屋と云ふ旅人宿を出してゐた男で、志士を援助すると云ふ評判のあつたものである。

市中の評判は大抵同志に同情して、却かへつて殺された横井の罪を責めると云ふ傾向を示した。柳田の沈黙が称たゝへられる。同志の善よく秘密を守つて、形跡を晦くらましたのが驚歎せられる。それには横井の殺された二三日後に、辻々つじ〱に貼り出された文書などが、影響を与へてゐるのであつた。此文書は何者の手に出でたか、同志の干あづかり知らぬものであつたが、其文章を推するに、例の落首などの如き悪戯いたづらではなく、全く同志を庇護ひごしようとしたものと見えた。貼札は間もなく警吏が剥はいで廻つたが、市中には写し伝へたものが少く無かつた。其文はかうである。

「去んぬる五日、徴士横井平四郎を、寺町に於いて、白日斬殺に及びし者あり。一人は縛ばくに就つき、余党は厳しく追捕せられると云いふ。右斬奸之徒ざんかんのと、吾未いまだ其人を雖不知しらずといへども、全く憂国之至誠より出でたる事と察せらる。夫それ平四郎が奸邪、天下所皆知也みなしるところなり。初め旧幕に阿諛あゆし、恐多おそれおほくも廃帝之説を唱へ、万古一統の天日嗣あまつひつぎを危あやううせんとす。且かつ憂国之正士を構陥讒戮こうかんざんりくし、此頃外夷ぐわいいに内通し、耶蘇やそ教を皇国に蔓布まんぷすることを約す。又朝廷の急務とする所の兵機を屏棄へいきせんとす。其余之罪悪、不遑枚挙まいきよにいとまあらず。今王政一新、四海属目しよくもく之時に当りて、如此かくのごとき大奸要路に横よこたはり、朝典を敗壊し、朝権を毀損きそんし、朝土を惑乱し、堂々たる我神州をして犬羊に斉ひとしき醜夷の属国たらしめんとす。彼徒かのとは之これを寛仮すること能あたはず、不得已やむをえず斬殺に及びしものなり。其壮烈果敢、桜田の挙にも可比較ひかくすべし。是この故ゆゑに苟いやしくも有義気ぎきある者、愉快と称せざるはなし。抑如此そも〱かくのごとき事変は、下情の壅塞ようそくせるより起る。前には言路洞開を令せらると雖いへども、空名のみにして其実じつなし。忠誠鯁直かうちやく之者は固陋ころうなりとして擯斥ひんせきせられ、平四郎の如き朝廷を誣罔ぶまうする大奸賊登庸とうようせられ、類を以て集り、政体を頽壊たいくわいし、外夷愈いよ〱跋扈ばつこせり。有志之士、不堪杞憂きいうにたへず、屡しば〱正論讜議たうぎすと雖、雲霧濛々もう〱、毫がうも採用せられず。乃すなはち断然奸魁かんくわいを斃たふして、朝廷の反省を促す。下情壅塞ようそくせるより起ると云ふは即是也すなはちこれなり。切に願ふ、朝廷此情実を諒りやうとし給ひ、詔みことのりを下して朝野の直言を求め、奸佞かんねいを駆逐し、忠正を登庸し、邪説を破り、大体を明あきらかにし給はむことを。若夫もしそれ斬奸之徒は、其情を嘉よみし、其実を不論あげつらはず、其実を推し、其名を不問とはず、速すみやかに放赦はうしやせられよ。果して然らば、啻たゞに国体を維持し、外夷の軽侮を絶つのみならず、天下之士、朝廷改過の速すみやかなるに悦服し、斬奸の挙も亦迹あとを絶たむ。然らずんば奸臣朝てうに満ち、乾綱けんかう紐ひもを解き、内憂外患交こも〲至り、彼かの衰亡の幕府と択えらぶなきに至らむ。於是乎こゝにおいてか、憂国之士、奮然蹶起けつきして、奸邪を芟夷さんいし、孑遺げつゐなきを期すべし。是れ朝廷の威信を繋つなぐ所以ゆゑんの道に非ず。皇祖天神照鑒在上。吾説の是非、豈あに論ずるを須もちゐんや。吾に左袒さたんする者は、檄げきの至るを待ち、叡山えいざんに来会せよ。共に回天の大策を可議者也ぎすべきものなり。明治二年春王正月、大日本憂世子。」

此貼札に更に紙片を貼り附けて、「右三日之間令掲示けいじせしめ候間、猥みだりに取除候者あらば斬捨可申きりすてまうすべく候事」と書いてあつた。これは後に弾正台だんじやうだいに勤めてゐた、四郎左衛門の剣術の師阿部守衛が、公文書の中から写し取つて置いたものである。

横井を殺してから九日目の正月十四日に、四郎左衛門が当時官吏になつてゐた信州の知人近藤十兵衛の所に往つて、官辺での取沙汰を尋ねてゐると、そこへ警吏が踏み込んで、主人と客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山の麓ふもとで捕へられたために、上田の親友であつた四郎左衛門が逮捕せられることになつたのである。初め海間が喚よばれた時、裁判官は備前の志士の事を糺問きうもんしたが、海間は言を左右に託して、嫌疑の上田等の上に及ぶことを避けた。しかし腕に切創きりきずのある上田が捕へられて見れば、海間の心づくしも徒事とじになつた。

四郎左衛門が捕へられてから中一日置いて、十六日に柳田は創のために死んだ。牢屋にはまだ旧幕の遺風が行はれてゐたので、其屍しかばねは塩漬にせられた。上田と四郎左衛門とが捕へられた後に、備前で勇戦隊を編成した松本箕之介みのすけは入牢にふらうし、これに与あづかつた家老戸倉左膳の臣斎藤直彦も取調を受けた。

当時の法廷の摸様は、信憑しんぴようすべき記載もなく、又其事に与あづかつた人も亡くなつたので、私は精くはしく知らぬが、裁判官の中にも同志の人たちに同情するものがあつたので、苛酷な処置には出いでなかつたさうである。私は又薫子にほこと云ふ女があつて、四郎左衛門を放免して貰はうとして周旋したと云ふことを聞いた。幼年の私は、天子様のために働いて入牢した父を、救はうとした女だと云ふので、下髪さげがみに緋ひの袴はかまを穿はいた官女のやうに思つてゐた。しかし実はどう云ふ身分の女であつたかわからない。後明治十一二年の頃、薫子は岡山に来て、人を集めて敬神尊王の話をしたり、人に歌を書いて遣やつたりしたさうであるが、私は其頃もう岡山にゐなかつた。

父四郎左衛門は明治三年十月十日に斬られたと云ふことである。官辺への遠慮があるので、墓は立てずにしまつた。私には香花かうげを手向たむくべき父の墓と云ふものが無いのである。私は今は記おぼえてゐぬが、父の訃音ふいんが聞えた時、私はどうして死んだのかと尋ねたさうである。母が私に斬られて死んだと答へた。私は斬られたなら敵かたきがあらう、其敵は私がかうして討つと云つて、庭に飛び降りて、木刀で山梔くちなしの枝を敲たゝき折つた。母はそれに驚いて、其後は私の聴く所で父の噂をしなくなつたさうである。

父が亡くなつてから、祖父は力を落して、田畑を預けた小作人の監督をもしなくなつた。収穫は次第に耗へつて、家が貧しくなつて、跡には母と私とが殆ど無財産の寡婦くわふ孤児として残つた。啻ただに寡婦孤児だといふのみではない。私共は刑余けいよの人の妻子である。日蔭ものである。

母は私を養育し、又段々と成長する私を学校へ遣るために、身を粉に砕くやうな苦労をした。

私は母のお蔭で、東京大学に籍を置くまでになつたが、種々の障礙しやうがいのために半途で退学した。私は今其障礙を数へて、めめしい分疏いひわけをしたくは無い。しかし只一つ言ひたいのは、私が幼い時から、刑死した父の冤ゑんを雪そゝがうと思ふ熱烈な情に駆られて、専念に学問を研究することが出来なかつたといふ事実である。

人は或は云ふかも知れない。学問を勉強して、名を成し家を興すのが、即ち父の冤を雪ぐ所以ゆゑんではないかといふかも知れない。しかしそれは理窟である。私は亡父のために日夜憂悶して、学問に思を潜ひそめることが出来なかつた。燃えるやうな私の情を押し鎮しづめるには冷かな理性の力が余りに微弱であつた。

父は人を殺した。それは悪事である。しかし其の殺された人が悪人であつたら、又末代まで悪人と認められる人であつたら、殺したのが当然の事になるだらう。生憎あいにく其の殺された人は悪人ではなかつた。今から顧みて、それを悪人だといふ人は無い。そんなら父は善人を殺したのか。否、父は自ら認めて悪人となした人を殺したのである。それは父が一人さう認めたのでは無い。当時の世間が一般に悪人だと認めたのだといつても好い。善悪の標準は時と所とに従つて変化する。当時の父は当時の悪人を殺したのだ。其父がなぜ刑死しなくてはならなかつたか。其父の妻子がなぜ日蔭ものにならなくてはならぬか。かう云ふ取留とりとめのない、tautologie に類し、circulus vitiosus に類した思想の連鎖が、蜘蛛くもの糸のやうに私の精神に絡み附いて、私の読みさした巻を閉ぢさせ、書き掛けた筆を抛なげうたせたのである。

私は学問を廃してから、下級の官公吏の間に伍して、母子の口を糊のりするだけの俸給を得た。それからは私の執る職務が、器械的の精神上労作に限られたので、私は父の冤を雪ぐと云ふことに、全力を用ゐようとした。しかしそれは譬たとへやうのない困難な事であつた。

私は先づ父の行状を出来るだけ精くはしく知らうとした。それは父が善良な人であつたと云ふことを、私は固く信じてゐるので、父の行状が精しく知れれば知れる程、父の名誉を大きくすることになると思つたからである。私は休暇を得る毎ごとに旅行して、父の足跡を印した土地を悉こと〲く踏破した。私は父を知つてゐた人、又は父の事を聞いたことのある人があると、遠近を問はず訪問して話を聞いた。しかし父が亡くなつてから、もう五十年立つてゐる。山河は依然として在つても、旧道が絶え、新道が開け、田畑が変じて邸宅市街になつてゐる。人も亦またさうである。父を知つてゐた人は勿論、父の事を聞いたことのある人は絶無僅有で、其の僅わづかに存してゐる人も、記憶のおぼろげになり、耳の遠くなつたのをかこつばかりである。

私の前に話したのは、此かくの如くにして集めた片々たる事実を、任意に湊合そうがふしたものである。伝へ誤りもあらう、聞き誤りもあらう。又識しらず知しらずの間に、私の想像力が威ゐを逞たくましうして、無中むちゆうに有いうを生じた処も無いには限らない。しかし大体の上から、私はかう云ふことが出来ると信ずる。私の予想は私を欺かなかつた。私の予想は成心せいしんではなかつた。私の父は善人である。気節を重んじた人である。勤王家である。愛国者である。生命財産より貴きものを有してゐた入である。理想家である。

私はかう信ずると共に、聊いさゝか自ら慰めた。然しながら其反面に於いて、私は父が時勢を洞察することの出来ぬ昧者まいしやであつた、愚おろかであつたと云ふことをも認めずにはゐられない。父の天分の不足を惜み、父を啓発してくれる人のなかつたのを歎かずにはゐられない。これが私の断案である。父の伝記に添へる論讃ろんさんである。

私は父の上を私に語つてくれた人々に、ここに感謝する。主な一人は未亡人海間の刀自とじである。婦人の持前として、繊小な神経が微細な刺戟に感応して、人の記憶してゐぬことを記憶してゐてくれたので、私は未亡人に、父の経歴中の幾多の details を提供して貰つた。今一人は父を流離瑣尾さびの間に認識して、久しく家に蔵匿ざうとくせしめて置いた三宅氏の後たる武彦君である。私は次に父を弁護してくれた二人の名を挙げる。丹羽寛夫君と鈴木無隠君とである。丹羽君は備前の重臣で、三千石取つてゐた人である。それがかう云つた。四郎左衛門を昧者まいしやだと云つて責めるのは酷である。当時の日本は鎖国で、備前は又鎖国中の鎖国であつた。岡山の人は足を藩の領域の外に踏み出すことが出来なかつた。青年共は女が恋しくなると、岡山の西一里ばかりの宮内みやうちへ往つた。しかし人に無礼をせられても咎とがめることが出来なかつた。咎めると、自分が備中界に入つたことが露顕するからである。其青年共に世界の大勢に通じてゐなかつたのを責めるのは無理である。己も京都にゐた時、或る人を刺さうとしたことがある。しかし事に阻さまたげられて果さずに岡山に帰つた。そのうち比較的に身分が好いので、少属せうさくわんに採用せられた。それから当路者と交際して、やう〱外国の事情を聞いた。己おのれは智者を以て自ら居るわけではないが、己と四郎左衛門との間には軒輊けんちする所は無い筈だと云つた。鈴木君は内外典ないげてんに通じた学者で、荒尾精あらをせい君等と国事を謀はかつてゐた人である。それが私にかう云ふ伝言をした。己は四郎左衛門を知つて居た。四郎左衛門は昧者ではなかつた。横井を刺したには相応の理由があると云ふのであつた。しかし私の面会せぬうちに、鈴木君は亡くなつた。どんな説を持つてゐたか知らぬが、残惜のこりをしいやうな気がする。

私は父の事蹟を探つただけで満足したのではない。顔に塗られた泥を洗ふやうに、積極的に父の冤ゑんを雪そゝぎたいと云ふのが、私の幼い時からの欲望である。幼い時にはかう思つた。父は天子様のために働いた。それを人が殺した。私は其の殺した人を殺さなくてはならぬと思つた。稍やや成長してから、私は父を殺したのは人ではない、法律だと云ふことを知つた。其時私はねらつてゐた的まとを失つたやうに思つた。自分の生活が無意味になつたやうに思つた。私は此発見が長い月日の間私を苦めたことを記憶してゐる。

私は此内面の争闘を閲けみした後に、暫しばらくは惘然ばうぜんとしてゐたが、思量の均衡がやうやう恢復くわいふくせられると共に、従来回抱してゐた雪冤せつゑんの積極手段が、全く面目を改めて意識に上つて来た。私はどうにかして亡き父を朝廷の恩典に浴させたいと思ひ立つた。父は王政復古の時に当つて、人に先んじて起たつて王事に勤めたのである。其の人を殺したのは、政治上の意見が相あひ容いれなかつたためである。殺されたものは政争の犠牲である。さうして見れば、時代が既に推移した今、恩讎おんしう両ふたつながら滅した今になつて、枯骨ここつが朝恩てうおんに沾うるほつたとて、何の不可なることがあらうぞ。私はかう思つて同郷の先輩に謀はかり、当路の大官に愬うつたへた。それは私が学問を廃することになつた後の事である。

明治十九年から二十年に掛けて、津下四郎左衛門に贈位する可否と云ふことは、一時其筋の問題になつてゐたさうである。しかし結局、特赦を蒙かうむらずして刑死したものに、贈位を奏請することは出来ぬと云ふことになつた。私は落胆して、再び自分の生活が無意味になつたやうに思つた。尤もつとも此時の苦悶は、昔復讎の対象物を失つた時に比べて、余程軽く又短かつた。私が老成人になつてゐたためかも知れぬが或は私の神経が鈍くなつたためだとも思へば思はれる。

私はもうあきらめた。譲歩に譲歩を重ねて、次第に小さくなつた私の望は、今では只此話を誰かに書いて貰つて、後世に残したいと云ふ位のものである。

――――――――――――――――――――

聞書きゝがきはここに終る。文中に「私」と云つてあるのは、津下四郎左衛門正義の子で、名を鹿太と云つた人である。それだけの事は既に文中に見えてゐる。それのみでは無い。読者は、鹿太がどんな性質の人で、どんな境遇にゐて、どんな閲歴を有してゐると云ふことも、おほよそは窺うかゞふことが出来たであらう。

私は此聞書の éditeur として、多くの事を書き添へる必要を感ぜない。只これが私の手で公にせられることになつた来歴を言つて置きたい。私は既に大学を出て、父の許もとにゐて、弟篤次郎とくじらうがまだ大学にゐた時の事である。私は篤次郎に、「どうだ、学生仲間にえらい人があるか」と云つた。弟はすぐに二人の同級生の名を挙げた。一人はKと云つて、豪放な人物、今一人は津下正高といつて、狷介けんかいな人物だといふことであつた。弟は後に才子を理想とするやうになつたが、当時はまだ豪傑を理想としてゐたのである。Kも津下君も弟が私に紹介した。Kは力士のやうに肥満した男で、柔術が好すきであつた。気の毒な事には、酒興に任せて強盗にまぎらはしい事をして、学生の籍を削られた。津下君は即鹿太で、此聞書の auteur である。

津下君は色の蒼白あをじろい細面ほそおもての青年で、いつも眉根まゆねに皺しわを寄せてゐた。私は君の一家の否運が Kain のしるしのやうに、君の相貌の上に見あらはれてゐたかと思ふ。君は寡言くわげんの人で、私も当時余り饒舌しやべらなかつたので、此会見は殆ほとんど睨合にらみあひを以て終つたらしい。しかしそれから後三十年の今に至るまで、津下君は私に通信することを怠らない。私が不精ぶしやうで返事をせぬのを、君は意に介せない。津下君は私に面会してから、間もなく大学を去つて、所々に流寓りうぐうした。其手紙は北海道から来たこともある。朝鮮から来たこともある。兎に角私は始終君を視野の外に失はずにゐた。

大正二年十月十三日に、津下君は突然私の家を尋ねて、父四郎左衛門の事を話した。聞書は話の殆ほとんど其儘まゝである。君は私に書き直させようとしたが、私は君の肺腑はいふから流れ出た語の権威を尊重して、殆其儘これを公にする。只物語の時と所とに就いて、杉孫七郎、青木梅三郎、中岡黙もく、徳富猪一郎、志水小一郎、山辺丈夫やまのべたけをの諸君に質たゞして、二三の補正を加へただけである。津下君は久しく見ぬ間に、体格の巌畳がんでふな、顔色の晴々した人になつてゐて、昔の憂愁の影はもう痕あとだになかつた。私は「書後」の筆を投ずるに臨のぞんで敬つゝしんで君の健康を祝する。

――――――――――――――――――――

上の中央公論に載せた初稿は媒なかだちとなつて、わたくしに数多あまたの人を識らしめた。中には当時四郎左衛門と親善であつた人さへある。此等の人々の談話、書牘しよとく、その所蔵の文書等に由つて、わたくしは上の一篇の中なる人名等に多少の改刪かいさんを加へた。比較的正確だと認めたものを取つたのである。わたくしは猶なほ下の数事を知ることを得た。

津下四郎左衛門の容貌が彼かの正高さんに似てゐたことは本文でも察せられる。しかし四郎左衛門は躯幹くかんが稍やゝ長大で、顔が稍円まるかつたさうである。

京都で四郎左衛門の潜伏してゐた三宅典膳の家の土蔵は、其後母屋は改築せられたのに、猶旧形を存してゐて、道路より望見することが出来るさうである。当時食を土蔵に運びなどした女が現存して、白山はくさん御殿町に住んでゐるが、氏名を公にすることを欲せぬと云ふことである。

本文にわたくしは上田立夫と四郎左衛門とが故郷を出でゝ京都に入る時、早く斬奸ざんかんの謀はかりごとを定めてゐたと書いた。しかし是これは必ずしもさうではなかつたであらう。二人は京都に入つてから、一時所謂いはゆる御親兵問題にたづさはつて奔走してゐた。堂上家の某が家を脱して、浪人等を募集し、皇室を守護せむことを謀はかつた。その浪人を以て員かずに充あてむと欲したのは、諸藩の士には各其主のために謀る虞おそれがあると慮おもんばかつたが故である。わたくしは此こゝに堂上家の名を書せずに置く。しかし他日維新史料が公にせられたなら、此問題は復また秘することを須もちゐぬものとなるかも知れない。

浪人には十津川産の士が多かつた。其他は諸国より出てゐた。知名の士にして親兵の籍に入つたものには、先づ中瑞雲斎なかずゐうんさいがある。

中氏は昔瓜上うりかみと称し、河内かはちの名族であつた。承応二年和泉国いづみのくに熊取村五門に徙うつつて、世郷士よゝがうしを以て聞えてゐた。此中氏の分家に江戸本所住の三千六百石の旗本根来ねごろ氏があつた。瑞雲斎は根来氏の三男に生れて宗家そうけを襲つぎ、三子を生んだ。伯は克己、仲は鼎、季は建である。別に養子薫がある。瑞雲斎は早く家を克己に譲つて、京都に入り、志士に交つた。四郎左衛門等の獄起るに及んで、三子と共に拘引せられ、瑞雲斎は青森県に護送せられる途中で死し、克己、建は京都の獄舎に死し、鼎は幽囚十年の後赦ゆるされた。此間このかん故郷熊取村には三女があつた。支配人某が世話をして、小谷村原文平の二男辰之助を迎へて、長女すみの壻むこにした。鼎は出獄後、辰之助等に善遇せられぬので、名を謙一郎と改め、堺市に遷うつつて商業を営み、資本を耗尽かうじんし、後に大阪府下南河内郡古市ふるいち村の誉田こんだ神社の社司となつた。謙一郎の子は香苗、武夫、幸男で、香苗は税務属さかん、武夫は台湾総督府技手、幸男は学生で史学に従事してゐる。一女は三宅典膳の孫徹男に嫁した。わたくしは幸男さんに由つて此世系を聞くことを得た。

瑞雲斎と事を与ともにした人に十津川産の宮太柱みやたちゆうがある。当時大木主水もんどと称してゐた。太柱は和漢洋の三学に通ずるを以て聞えてゐた。四郎左衛門等の獄に連坐せられて、三宅島に流され、赦しやに遭あうて帰ることを得た。太柱の子大茂さんは四谷区北伊賀町十九番地に住んでゐる。

同じく連坐せられた十津川の士上平うへひら(一に錯あやまつて下平に作る)主税ちからは新島に流され、これも還ることを得た。

一瀬主殿とのもも亦十津川の士で連坐せられ、八丈島に流され、後赦ゆるされて帰つた。

中なか等の親兵団は成らむと欲して成らなかつた。是は神田孝平、中井浩、横井平四郎等に阻はゞまれたのである。

此時に当つて天道革命論と云ふ一篇の文章が志士の間に伝へられた。当時の風説に従へば、文は横井平四郎の作る所で、阿蘇神社の社司の手より出で、古賀十郎を経て流伝したと云ふことである。其文に曰く。

「夫それ宇宙の間、山川草木人類鳥獣の属ある、猶なほ人の身体の四支百骸ひやくがいあるがごとし。故ゆゑに宇宙の理を知らざる者は、身に手足の具あるを知らざるに異なることなし。然れば宇宙有る所の諸国皆是れ一身体にして、人なく我なし。宜よろしく親疎の理を明あきらかにし、内外同一なることを審つまびらかにすべし。古いにしへより英明の主、威徳宇宙に溥あまねく、万国の帰嚮ききやうするに至る者は、其胸襟きやうきん闊達くわつたつ、物として相容あひいれざることなく、事として取らざることなく、其仁慈化育の心、天下と異なることなきなり。此かくの如くにして世界の主、蒼生さうせいの君と云ふべきなり。若もし夫それ其見そのけん小にして、一体一物の理を知らざるは、猶全身痿ゐして疾痛疴痒あやうを覚えざるごとし。百世身を終るまで開悟すること能あたはず。亦憐あはれむべからずや。(中略)今日の如き、実に天地開闢かいびやく以来興治の機運なるが故に、海外の諸国、天理の自然に基き、開悟発明、文化の域に至らむとする者少からず。唯日本、蕞爾さいじたる孤島に拠よつて、(中略)行ふこと能はず。其の亡滅を取ること必せり。速すみやかに固陋積弊ころうせきへいの大害を攘除じやうぢよし、天地無窮の大意に基き、偏見を看破し、宇宙第一の国とならむことを欲せずんばあるべからず。此の如き理を推窮せば、遂に大活眼だいくわつがんの域に至らしむる者乎か。丁卯ひのとう三月南窓下偶書、小楠。」

わたくしは忌憚きたんなき文字二三百言を刪けづつて此に写し出した。しかし其体裁ていさい措辞そじは大概窺知きちせられるであらう。丁卯は慶応三年である。大意は「人君何天職」の五古を敷衍ふえんしたものである。そしてこれを横井の手に成れりとせむには、余りに拙せつである。

四郎左衛門等はこれを読んで、その横井の文なることを疑はなかつた。そして事体容易ならずと思惟し、親兵団の事を抛なげうつて、横井を刺すことを謀つたのださうである。

四郎左衛門等の横井を刺した地は丸太町と寺町との交叉点を南に下り、既に御霊社の前を過ぎて、未だ光堂くわうだうの前に至らざる間であつたと云ふ。此考証は南純一の風聞録に拠よる。純一は後に久時と称した。

事変は明治二年正月五日であつた。翌六日行政官布告が出た。「徴士横井平四郎を殺害に及候儀、朝憲を不憚はゞからず、以之外之もつてのほかの事ことに候。元来暗殺等之所業、全以すべてもつて府藩県正籍に列れつし候者には不可有事あるべからざることに候。万一壅閉之筋ようへいのすぢを以て右等之儀に及候哉や。御一新後言語洞開、府藩県不可達の地は無之筈これなきはずに候。若もし脱藩之徒、暗に天下の是非を制し、朝廷の典刑を乱候様にては、何を以て綱紀を張り、皇国を維持し得むやと、深く宸怒被為在しんどあらせられ候。京地は勿論、府藩県に於て厳重探索を遂げ、且平常無油断取締方屹度可相立旨きつとあひたつべきのむね被仰出おほせいだされ候事。」此文は尾佐竹猛たけきさんの録存する所である。尾佐竹氏は今四谷区霞丘町に住んでゐる。

四郎左衛門が事変の前に潜ひそんでゐた家の主人三宅典膳も、事変の後に訪とうた家の主人三宅左近も、皆備中国連島つらじまの人である。典膳、号は瓦全ぐわぜんの嗣子武彦さんの左近の事を言ふ書は下の如くである。「御先考様の記事中、酒屋云々うんぬん、徳利云々は、勘考するに、其頃矢張連島人にて、嵯峨さが御所の御家来に、三宅左近と申す老人有之、此人は無妻無子の壮士風の老人にて、京都在の嵯峨に住せり。成程なるほど其家の裏に藪やぶあり、酒屋ありき。此三宅左近が拙宅(典膳宅)にて御先考様と出会し、剣術自慢なる故、遂に仕合ひいたし、立派に打負け、夫それより敬服して弟子の如くなり居り候。御先考様は其左近の宅に酒を持ち行かれし者と想像致候。左近は本名佐平と申候。」中氏が武彦さんの姻戚なることは上に云つた。武彦さんは麹町かうぢまち区土手三番町四番地に住んでゐる。

本文に四郎左衛門を回護したと云ふ女子薫子は伏見宮諸大夫若江修理大夫しゆりのだいぶの女むすめださうである。薫子の尾州藩徴士荒川甚作に与へた書は下の如くである。「当月五日横井平四郎を殺害致し候者御処置之儀、如何之御儀いかゞのおんぎに被為在候哉あらせられそろや。是は御役辺之儀故、決而可伺儀けつしてうかゞふべきぎに而者無之候てはこれなくさふらへ共、右殺害に及候者より差出し候書附にも、天主教を天下に蔓延まんえんせしめんとする奸謀之由申立かんぼうのよしまうしたて有之、尤もつとも、此書附而已のみに候へば、公議を借て私怨を価(一本作憤いつぽんはふんにつくる、恐並非おそらくはならびにひならん)候哉共被疑そろやともうたがはれ候へ共、横井奸謀之事は天下衆人皆存知候所に御座候間、公議を借候とは難申まうしがたく、朝廷之参与を殺害仕候は不容易、勿論厳刑に可被処しよせらるべく候へ共、右様天下衆人之能存候よくぞんじそろ罪状有之者を誅戮ちゆうりく仕候事、実に報国赤心之者に御座候間、非常之御処置を以もつて手を下し候者も死一等を被減候様仕度げんぜられそろやうつかまつりたく、如斯かくのごとく申上候へば、先般天誅之儀に付彼此かれこれ申上候と齟齬そご仕、御不審可被為在あらせらるべく候へ共、方今之時勢彼之者共かのものども厳科に被行候おこなはれさふらへ者ば、忽たちまち人心離叛仕つかまつり、他の変を激生仕事つかまつること鏡に掛て見る如くと奉存候。且又手を下候者に無之同志之由を申自訴仕候者まうしじそつかまつりそろもの多分御座候由伝聞仕候。右自訴之人共何いづれも純粋正義之名ある者之由承候。是等の者は別而べつして寛典を以もつて御赦免被為在可然御儀あらせられてしかるべきおんぎと奉存候。実に正義之人者は国之元気に御座候間、一人に而ても戮りくせられ候へば、自ら元気を戕そこなひ候。自ら元気を戕候へ者ば、性命も随而したがつて滅絶仕候。此理を能々よく〱御考被為在あらせられ候而、何卒なにとぞ非常回天之御処置を以もつて、魁くわいたる者も死一等を免ゆるされ、同志と申自訴者は一概に御赦免に相成候様と奉存候。尤もつとも大罪に候へ共、朝敵に比例仕候へ者ば、軽浅之罪と奉存候。如此申上候へ者ば、私も其事に関係仕候者に而て右様申上候哉やと御疑も可被為あらせらるべく在奉存候ぞんじたてまつりそろ。若もし私にも御嫌疑被為在候へば、何等の弁解も不仕候間、速すみやかに私御召捕おめしとりに相成、私一人誅戮ちゆうりく被為遊あそばされ、他之者は不残のこらず御赦免之御処置相願度あひねがひたく奉存候。若もし魁くわいたる者も同志之者も御差別なく厳刑に相成候へ者ば、天下正義之者忽たちまち朝廷を憤怨ふんゑんし、人心瓦解し、収拾すべからざる御場合と奉存候。旧臘きうらふ幕府暴政之節被戮りくされ候者祭祀迄被仰出おほせいだされ候由、既に死候者は被為祭、生きたる者は被戮候而者ては、御政体不相立御儀あひたゝざるおんぎと奉存候。此辺之処閣下御洞察に而、御病中ながら何卒なにとぞ御処置被遊候御儀、単ひとへに奉願候也。正月二十一日薫子。」此書を得た荒川甚作は、明治元年三月病を以て参与の職を辞し、氏名を改めて尾崎良知よしともと云ひ、名古屋に住んでゐたさうである。

薫子の書は田中不二麿若くは丹羽淳太郎、後の名賢の手より出で、前海相八代やしろ氏の実兄尾藩磅礴はうはく隊士松山義根よしねを経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏はわたくしを介してこれを津下氏に贈与した。倉知氏はその薫子の自筆なることを信じてゐる。一説に薫子の書の正本は丹波国船井郡新荘しんしやう村船枝の船枝神社の神職西田次郎と云ふ人が蔵してゐると云ふ。是は三宅武彦さんの語る所である。

薫子の書は既に印行せられたことがある。それは「開成学校御構内辻(新次)後藤(謙吉)両氏蔵版遠近新聞第五号、明治二年四月十日発兌はつだ」の冊中にある。新聞は尾佐竹氏が蔵してゐる。上に載する所は倉知本を底本とし、遠近新聞の謄本を以て対校した。二本には多少の出入がある。倉知本の自筆なることは稍やゝ疑はしい。

御牧みまき基賢さんの云ふを聞くに、薫子は容貌が醜くかつたが、女丈夫ぢよぢやうふであつた。昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講した事がある。又自分も薫子の講書を聴いた事がある。国事を言つたために謹慎を命ぜられ、伏見宮家職かしよく田中氏にあづけられた。後に失行があつたために士林の歯よはひせざる所となり、須磨明石すまあかし辺に屏居へいきよして歿したらしいと云ふことである。

薫子の詩歌は往々世間に伝はつてゐる。三宅武彦さんは短冊を蔵してゐる。大正四年六月明治記念博覧会が名古屋の万松寺に開かれた。其出品中に薫子の詩幅があつた。「幽居日日易凄涼いうきよ ひびせいりやうたりやすく。兀坐愁吟送夕陽こつざ しうぎん せきやうをおくる。午枕清風知暑退ごちん せいふう しよのしりぞくをしり。暁窓残雨覚更長げうさう ざんう かうのながきをおぼゆ。人間褒貶事千古じんかんのほうへん ことせんこ。身世浮沈夢一場しんせいのふちん ゆめいちぢやう。設使幾回遭挫折たとひいくくわいかざせつにあふも。依然不変旧疎狂いぜんかはらずきうそきやう。早秋囚居さうしうしうきよにて。薫子。」印いん一顆くわがあつて、文に「菅氏」と曰いつてあつた。若江氏は菅原姓であつたと見える。是は倉知氏の写して寄せたものである。又薫子が「神州男子幾千万しんしうだんしいくせんまん、歎慨有誰与我同たんがいす たれかわれとおなじきものあらんやと」の句を書したのを看みたと云ふ人がある。

――――――――――――――――――――

若江修理大夫の女むすめ薫子の事は、既に一たび上に補説したが、わたくしは其後本多辰次郎さんに由つて、修理大夫の名を量長かずながと云ひ、曾かつて諸陵頭しよりようのかみたりしことを聞いた。それゆゑ芝葛盛さんに乞うて此等の事を記してもらつた。下の文が即すなはち此である。

女子薫子の父若江量長は伏見宮家職の筆頭で、殿上人てんじやうびとの家格のあつた人である。この若江氏はもと菅原氏で、その先は式部しきぶ権大輔ごんのたいふ菅原公輔の男だん在公から出てゐる。初め壬生坊城と号し、後に中御門といひ、更に改めて若江と称した。在公より十代目に当る長近の時、初めて伏見宮に候することになつた。長近は寛文四年三月廿九日に生れ、享保五年七月九日五十七歳で卒した人である。量長は長近より五代目に当る公義の子で、文化九年十二月十三日誕生、文政八年三月廿八日十四歳を以て元服、越後権介ごんのすけに任じ、同日院昇殿を聴ゆるされ、その後弾正少弼だんじやうせうひつを経て修理大夫に至り、位は天保十三年十二月廿二日従四位上に叙せられたことまでは、地下家伝ぢげかでんによつて知ることが出来る。更に又野宮定功のゝみやさだいさの日記によるに、元治元年二月二十四日に諸陵寮再興の事が仰出されたがその時諸陵頭に任ぜられたものはこの量長であつた。併し量長は山陵の事に就て格別知識があつた訳ではないらしい。山陵の事に関しては専らその下僚たる大和介やまとのすけ谷森種松と筑前守ちくぜんのかみ鈴鹿勝芸との両人に打ち委まかしたやうである。さてその娘薫子については面白い事がある。薫子が女丈夫であつて、学和漢に亘わたり、とりわけ漢学を能よくした所から、昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講したといふ事は御牧基賢さんの話にも見えて居るが、戸田忠至履歴といふものに次の如き記事がある。「皇后陛下御入輿じゆよの儀に付ては、維新前年より二条殿、中山殿等特ことの外ほか心配致され、両卿より忠至に心懸御依頼に付奔走の折柄、兼て山陵の事に付懇意たりし若江修理大夫娘薫儀、一条殿姫君御姉妹へ和歌其外の御教授申上居事を心付き、同人へ皇后宮の御事相談に及び候処、一条殿御次女の方は特別の御方に渡らせられ候由薫申聞候に付、右の段二条、中山両卿へ内申に及び候処忠至参殿の上篤とくと御様子見上げ参るべき様にとの御内おんうち沙汰ざたを蒙かうむり、右薫と申談じ、同人同道一条殿へ参殿の上御姉妹へ拝謁、御次女の御方御様子復命に及びたり。此場合に二条殿には御嫌疑の為め御役御免に相成、御婚姻御用係を命ぜらる、万事御用向担当滞とゞこほり無く御婚儀相済あひすませられたり云々。」此によつて見れば、昭憲皇太后の御入内ごじゆだいには、薫子の口入が与あづかつて力があつたらしく見える。慶応三年六月昭憲皇太后の入内治定じゆだいぢぢやうの事が発表せられ、次ついで御召抱おめしかゝへ上﨟じやうらふ、中﨟等の人選があつたが、その際この薫子にも改めて御稽古の為参殿の事を申付けられた。橋本実麗さねあきら卿記是年このとし八月九日の条に、「又若江修理大夫妹年来学問有志がくもんにこゝろざしあり、於今天晴いまにおいてあつぱれ宏才之聞きこえ有之候間、女御にようご為御稽古参上可然哉否しかるべきやいなや、於左大将殿可宜御沙汰よろしかるべきごさたに付被談由だんぜられしよし、於予可然しかるべく存候間其旨申答了そのむねまうしこたへをはんぬ」と見えて居るが、一条家の書類御入用御用記を見ると、九月三日の条に、「伏見宮御使則賢出会之処、過日御相談被進候若江修理大夫女お文ふみ女御様御素読そどく御頼に被召候而も御差支無之旨御返答也」とあつて、その十日には、「女御御方、此御方御同居中御本御講釈之儀、お文殿に御依頼被成度候事」と見えて、十五日には御稽古の為局口つぼねぐち御玄関より参殿、孝経を御教授申上げたことが見えて居る。是は蓋けだし女御御治定に付き改めてこの御沙汰があつたもので、この時初めて御稽古申上げたものではあるまい。但し実麗卿記に修理大夫の妹とせるは如何なる訳であらうか。又その名のお文といへるは薫子の前名であつたのであらうか。昭憲皇太后御入内後薫子の宮中に出入した事に就ては、その徴証を見出さない。恐くは国事に奔走した事などの為め、御召出しの運はこびに行かなかつたものであらう。後のち失行があつて終をよくしなかつたのも惜しむべきである。上田景二君の昭憲皇太后史には、「皇太后御入内後も薫子は特別の御優遇を賜つたが、明治十四年に讃岐さぬきの丸亀において安らかに歿し、その遺蹟は今も尚なほ残つてゐる」と書かれて居るが、その拠る処を明あきらかにしがたい。

私(芝氏)は量長が一時諸陵頭であつた関係から、其の寮官であつた故谷森種松(後に善臣)翁の次男建男さんに就いて何か見聞して居ることはないかを聞かうと試みた。(善臣翁は私の外祖父、建男さんは叔父に当るのである。)その言はるゝ所はかうである。京都の出水でみづ辺に若江の天神といふ小祠があつて、その側に若江氏は住んで居た。十歳位の時でもあつたか、或日父につれられて若江氏の宅を訪うた事があつた。その時量長の娘であるといふ二人の女子にも会つた。妹の方は普通の婦女で、髪もすべらかしにして公卿の娘らしい風をしてゐたが、姉の方は変つた女で、色も黒く、御化粧もせず、髪も無造作に一束につかねて居つた。男まさりの女で、頻しきりに父に向つて論議を挑いどんで居つたことを記憶する。父もかういふ女には辟易へきえきすると云つてゐた。これが即ち薫子であつただらう。後に不行跡のあつた事も聞いてゐるが、何分家の生計も豊かでなかつたから、誘惑を受けたについては、むしろ同情に値するものがあつたであらう。讃岐辺で死んだ事も事実であらうが、普通の死ではなかつたかと思ふ。自分はこの婦人が量長の妹であつたとは思はない。娘として引きあはされたやうに記憶するといふことであつた。

底本 / Source edition

底本:「鴎外歴史文學集 第三巻」岩波書店
1999(平成11)年11月25日発行
※漢詩に添えられた訓読文は略し、代えてルビ形式で書き下しを添えた。書き下しに当たっては、底本の訓読文を参考とした。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2001年8月28日公開
2006年5月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/002082_000129/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/002082_000129/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/002082_000129/

森 鴎外「津下四郎左衛門」(新字旧仮名)、底本『鴎外歴史文學集 第三巻』岩波書店、1999年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002082_000129, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite