Soranoha

復讐

ふくしゅう

レニエ アンリ・ド

一

バルタザル・アルドラミンは生きてゐた間、己おれが大ぶ精くはしく知つてゐたから、己が今あの男に成り代つて身上話をして、諸君に聞かせることが出来る。もうあれが口は開く時は無い。笑ふためにも歌ふためにも、ジエンツアノの葡萄酒を飲むためにも、ピエンツアの無花果いちぢくを食ふためにも、その外の事をするためにも、永遠に開く時は無い。なぜと云ふに、あれはサン・ステフアノの寺の石畳みの下に眠つてゐるからである。両手を胸の創口の上に組み合せて眠つてゐる。此創が一七七九年三月三日にあれが若い命を忽然こつぜん絶つてしまつたのである。

バルタザルは三十になり掛けてゐた。丁度バルタザルの父と己の父とが小さい時から近附きになつてゐたやうに、バルタザルと己とも早くから親しい友達になつてゐた。己達二人は殆ど同時に父を喪つた。その亡くなつた父も略ほゞ同年位であつた。あれが館やかたと己の館とは隣同士になつてゐて、二つの館が同じ運河の水に影をうつして、変つた壁の色を交ぜ合つてゐた。バルタザルが館の正面は白塗で、それに大さの違ふ淡紅色たんこうしよくの大理石で刻んだロゼツトが二つ嵌めてあつた。それが化石した花のやうに見えた。己の家族の住んでゐる館、即ちヰマニ家の館は、壁が赤み掛かつた色に塗つてあつた。館から運河に降りる石階せきかいの上の二段は、久しく人に踏まれて刓ちびてすべつこくなつてゐた。上から三段目は水に漬つかつたり水の上に出たりするので、湿つてぬる〱してゐた。

大抵バルタザルは毎日此石階に出た。朝か昼か、さうでないと松明たいまつの光に照されて晩に出た。あれが己の館の石階に片足を踏み掛ける時、反対の足に力が入ると、乗つて来たゴンドラの舟がごぼ〱と揺れた。己はあれが石階の上から呼ぶ声を聞いた。あれは随分善く話して善く笑ふ男であつた。あれも己も少しも拘束せられずに青春を弄んでゐたのである。大抵遊びの場所へ己を引き出すのはあれが首唱の力であつた。あれは強い熱心と変つた工夫とを以て遊びを試みる男であつた。受用はあれが性命の核心になつてゐたので、あれはそれを多く味はふために夜を以て日に継いだ。その遊びの中で主位を占めてゐたものは恋愛であつた。

バルタザルは女に好かれた。そして己を好いてくれた。それだから宴会の席でも散歩の街でもあれと己とは離れずにゐた。そこで二人が一層離れずにゐられるやうに、あれと己とは友達同士になつてゐる女を情人にした。偶たまに情人と分かれてゐる時は、二人は中洲へ往つて魚や貝の料理を食つた。凡そ市にありとあらゆる肉欲に満足を与へる遊びには、己達二人の与あづからぬことは無い。そしてそんな遊びの多いことは言げんを須またない。尼寺の応接所に二人が据わつて、干菓子をかじつたり、ソルベツトを啜つたりしながら、尼達の饒舌しやべるのを聞いて、偸目ぬすみめをして尼達の胸の薄衣うすぎぬの開あき掛かつてゐる所をのぞいてゐたことは幾度いくたびであらう。二人が賭博の卓に倚つて、人の金を取つたり、人に金を取られたりしてゐたことも幾晩であらう。カルネワレの祭の頃、二人で町中まちなかを暴あれ廻り跳ね廻つたのも幾度であらう。仮装舞踏に一しよに往つて、一しよにそこから帰る時は、二人の外套の袖と袖とが狭い巷こうぢで触れ合つたものである。彼誰時たそがれどきの空には星の色が褪め掛かる。運河の岸まで歩いて来ると、潮気のある風が海から吹いて来て、二人の着物の裾を翻ひるがへす。二人は色々に塗つた仮面の下の熱した頬の上に、暁の冷たい息を感じたのである。

こんな風に己達の青春は過ぎた。ヱネチアの少女等は恋愛でこれに味を附けて過させてくれた。波の上をすべるゴンドラの舟が、ひまな己達の体をゆすつてくれた。歌の声や笑声が、柔かい烈しさで己達のひまな時間を慰めてくれた。その時の反響がまだ己の耳の底に残つてゐる。こんな楽しかつた日の記念の数々は、運河のうねりの数々よりも多く、その記念のかゞやきは、運河の水の光より強い。今から思つて見ても、あの生活を永遠に継続することが出来たなら、己は別に何物をも求めようとはしなかつただらう。あの生活をどう変更しようと云ふ欲望は、己には無かつただらう。只目の前にゐる美しい女の微笑ほほゑみが折々変つて、その唇が己に新なる刺戟を与へてくれさへしたら、己はそれに満足してゐただらう。

併しバルタザルはさうは思はなかつた。己の胸はあれが館の窓々が鎖されて、只白壁の上に淡紅色の大理石の花ばかりが開くやうに見えてゐた時、どんなにか血を流しただらう。バルタザルは遠い旅に立つた。世間を見ようと思つたのである。あれは三年の間遠い所にゐた。そして去る時飄然として去つたやうに、或る日、又飄然として帰つて来た。朝が来れば、あれの声が石階の上から又己を呼ぶ。晩にはあれと己とが又博奕の卓を囲む。己達は又昔の通りの生活を始めた。そのうち或る日不思議な出来事があつて、あれを永遠に復また起つことの出来ないやうにしてしまつた。それからと云ふものは、あれはサン・ステフアノの寺の石畳みの下に眠つてゐる。両手を胸の創口の上に組み合せて眠つてゐる。

それだから己の口から今諸君にあれが身上話をしなくてはならぬことになつた。そこで己、ロレンツオ・ヰラミは諸君にことわつて置くが、己の話すのは、己の確かに知つてゐる事でほ無い。只あれが不思議な死を説明するために、己の推察したあれが生涯である。只或る夜、幹の赤い縦の木の林で、己の友人のヱネチア人、バルタザル・アルドラミンが己に囁いだやうに思はれた伝記である。

――――――――――――

ロレンツオや、聞いてくれ。或る日の事であつた。己(バルタザル)は情人バルビさんと一しよにスキアヲニ河の岸に立つてゐた。バルビさんは日の当たる所にゐるのが好きだつた。それは髪が金色をしてゐて、それが日に照されると、美しく光るからだ。その光るのが己の気に入ると思つてゐたからだ。なんでも自分の美しい所を己に見せて、己に気に入るやうにと努めてゐたのだ。そこでなる丈久しく日の当たる所にゐようと思つて、自分のまはりを飛び廻つてゐる鳩に穀物を蒔いて遣るのが面白いと云つた。バルビさんの手から散る粒は、金色の雨が降るやうに見えた。併し己にはバルビさんは容色が余り気に入つてゐなかつたので、それを眺めてゐる代りに、その手から餌を貰つてゐる小鳥を見てゐた。十二羽位もゐただらう。羽は滑かで、足には鱗が畳なつてゐて、吭のどは紫掛かつて赤く、嘴は珊瑚色をしてゐる。皆むく〱太つてゐるのに、争つて粒を啄ついばんでゐる。この卑しい餌を食ふのが得意らしい。そのうち鳩は仲間を呼び寄せた。仲間が密集してそこへおろして来た。このとたんに己は目を転じて赫くラクナの水を見た。一羽の大きい純白な鴎が咳嗄しはがれた声をして鳴きながら飛んで通つた。鋭い翼で風を截つて、力強く又素早く飛ぶ。己は此時鳩と鴎との懸隔に心附いて、己の身の上を顧みた。なんだかあの水鳥が己に尊い訓誨を垂れてくれたやうであつた。けふはこゝに、あすは遠方に、いつも活動してゐる水鳥の気象は、毎日暖い敷石の上で僥倖の餌を争つてゐる鳩とは違ふと思つた。ロレンツオや、聞いてくれ。己はこの鳥の寓言を理解したのだ。

ロレンツオや。己は即日世間へ出て、その千態万状の間に己の楽を求めようと発意ほついした。先づ己の第一の最愛の友たるお前を回抱くわいはうして別を告げた。次にバルビさんに暇乞をした。それから銀行へ往つた。そして喜んで己の命を聴く役人共の手に金をわたした。どこへ往つてもたつぷり金を賭けて、博奕をして、土地の流行はやりの衣服きものを着て、その外勝手な為払しはらひをするに事足る程の金をわたした。

それから出立した。ゴンドラの舟に身を托して陸に上つた。ヱネチアの運河の網は、少し乗り廻つてゐると、川筋がちよつと曲がると思ふや否や、元の所に帰つてゐる。なんだか自分が往来で自分に出逢ふやうな気がする。それに今陸に上のぼつて見ると、これから真直にどこまででも行かれる。元の所に帰るやうな虞おそれは無い。これまでとは大ぶ工合が違ふ。ずん〱歩いて行くうちには、きつと何か新しい事に出逢ふに違ひ無い。乗つてゐる馬車からして己には面白い。巌畳に出来てゐて、場席ばせきも広い。己は先づゆつたりと身をくつろげた。車の輪が一廻転する毎に、並木の木が一本背後うしろへ逃げる毎に、己は今までに知らぬ歓喜を覚えた。一匹の小犬が己の馬車に附いて走りながら、己の顔を見てひどくおこつて吠える。己はそれを見て、涙の出る程笑つた。そんな風で、どんな瑣細な事でも、己に面白く無いものは無かつた。

己は親類の老人アンドレア・バルヂピエロの別荘に泊る積りであつた。別荘はメストレから五時間行程の所にある。己はアンドレアに暇乞をしに寄つて、一晩泊らうと思つたのだ。別荘の建築は物好を尽したもので、庭園も立派だ。庭園は主人の老議官が自分で手を入れて、絶えず大勢の植木屋を使つてゐる。主人は大抵此別荘にばかりゐる。土地の空気は好い。主人が人間の齢よはひの尋常の境を逈はるかに越してゐて、老後に罹り易い病のどれにも罹らずに、壮んな気力を養つてゐるのは、好い空気の賜たまものである。主人は生涯に赫々たる功名を遂げた人である。広く世間を見た人である。主人は一面剛毅な人で、一面又温和な人であつたから、随分種々の女をも愛した。国々の女を一々験ためしてゐる。別荘の部屋や庭にゐて、余り世間へ顔を出さぬが、主人はまだ頗る立派な風采をしてゐる。

さう云ふ交際を好まぬ人ではあるが、主人は好意を以て己を迎へてくれた。只その顔の表情にどこやら不安の影があるのに、己は気が附いた。物を言ふ間にも、白髪かつらの長い毛の端を口に銜くはへて咬んでゐる。己が此度の旅立の事、その旅の目的の事なぞを話して聞かす間も、主人はぢつとして聞いてゐられぬらしい。

己が話してしまふと、主人は旅立をすると云ふことにも、何を旅の目的にすると云ふことにも同意してくれて、何かの用に立つだらうと云つて手紙を二三通くれる約束をした。それからその手紙を書くと云つて席を起つた。長い廊下の果に、主人の花紋くわもんを印いんした上衣うはぎの後影が隠れた。上衣の裾は軽かろく廊下の大理石の上を曳いて、跡には麝香じやかうと竜涎香りうえんかうとの匂を残した。

己は此香気と、さつき己の来たのを見て不快を掩ひ得なかつたらしい態度とを思ひ合せて、多分主人が色気のある催をしてゐる最中に、己は飛び込んで来たので、邪魔になるのだらうと推察した。昔久しい間自分の主な為事しごとにしてゐた色気のある事を、主人がまだ断つてゐないと云ふことは、主人の年が積もつてゐるにも拘はらず、世間で認めてゐる。甚しきに至つてはこの目的のためには、主人は或る冒険をも敢てするので、女房妹を持つてゐる人は主人を怖れてゐるとさへ云ふものがある。さう云ふ噂をする人に聞けば、主人は目的を達するために、暴力をも権謀をも、其他のあらゆる直接間接の手段をも避けない。女を盗み出したとか、待伏して奪つたとか云ふ噂もあつた。併しそれがいつも密ひそかに計画して、巧みに実施せられるので、世間には只ぼんやりした流言が伝はつてゐる丈で、証拠や事実の挙げられたことは無い。己はさう云ふ催しのある所へ来たのでは無いかと思つたので、手紙を受け取つたら、なるべく早く此別荘を立ち去らうと決心した。手紙はロオマとパリイとに宛てゝ書いて貰ふ筈だつた。実は己はどちらへ先に往かうかと迷つて、どうもフランスの方へ心が引かれるやうに感じてゐたのだ。

このどちらを先きにしようかと云ふ問題の得失を、とつおいつして考へて見ながら、己は此間このまにあつた大鏡に姿をうつして、自分の風采の好いのを楽んでゐた。絹の上衣、刺繍のしてあるチヨキ、帯革に金剛石を鐫ちりばめた靴、この総ては随分立派で、栄耀ええうに慣れた目をも満足させさうに見える。己の目の火のやうな特別な光も人を誘いざなふには十分だ。これ丈の服装と容貌とを持つてゐれば、幸福の女神ぢよしんに対して、極ごく大胆な要求をしても好ささうだ。噂に聞けば、フランスの美人は或る風姿や態度の細かい所に気が附いて、その欲望にかなふやうにしてゐれば、決して情を通ずるに吝やぶさかでないさうだ。それに己はヱネチア製の首飾の鎖や、レエスや、小さい肖像を嵌めた印籠を、沢山為入しいれて持つて来た。女に贈る品物にも事は闕かない。

己は庭に降りて歩きながら、自分がきつと経験するに極まつてゐる千差万別の奇遇の事を想像した。無論その相手は女である。己は目の前に恋愛の美しい幻影が新に現ずるのを見た。恋愛なぞと云ふものは、どこの国でも同じ事で、風俗習慣に従つて変態を生ずることは少いと云ふことを、己はまだ悟つてゐなかつたのだ。なんでも自分に千万無量の奇蹟や、意外の出来事が発見せられるやうに思つて、其間に何の疑をも挾さしはさまなかつた。己は忽然こつぜん強烈な欲望を感じた。そしてもう自分がその物語めいた境界に身を置いてゐるやうに思つた。若し此刹那に己を呼び醒まして、お前はまだヱネチアを距さること数哩マイルの議官アンドレア・バルヂピエロの別荘にゐるのではないかと云ふものがあつたら、己は何よりも奇怪な詞ことばとしてそれを聞いただらう。そんな風に自分の平生の活計と慣熟した境遇とを脱離したやうな感じが、己の胸一ぱいになつてゐたので、自分が極めて奇怪な極めて愉快な目的に向つて往くのだと云ふことが、己には争ふべからざる事実のやうに思はれた。こんな我ながら不思議な期待の情のお蔭で、現在の心で観察すれば、尋常一般の物が皆異様の形相を呈するやうに見えた。今歩いてゐる、細かい粒の揃つた砂の敷いてある庭の小径も、一曲り曲つた向うには、意外な眺望が展開しはせぬかと疑はれた。円形に苅り込んである「あさまつげ」の木を見れば、そのこんもりした緑の中にも秘密が蔵してありはせぬかと疑はれた。

かう云ふ心持で己は或る岩窟いはむろの前に来た。入口は野生の葡萄が鎖してゐる。もう日は瑣やゝ西に傾いてゐるが、外は暑いから、常なら己は只涼しい蔭を尋ねて其中に這入つただらう。然るに此時入口を這入る己の心の臓は跳つた。この田舎めいた岩窟の中の迂回した道を歩いて行つたら、際限の無い不思議のある処、又事によつたら己の生涯の禍福が岐わかれる処に出はせぬかと思つたからだ。

岩窟の中は涼しくて愉快であつた。湿つた石壁に凝こつて滴したたる水が流れて二つの水盤に入る。寂しい妄想まうざうに耽りながら此中の道を歩く人に伴侶を与へるためか、穹窿きうりうには銅で鋳た種々いろ〱の鳥獣とりけものが据ゑ附けてある。最初這入つた一室の奥には第二の瑣暗い室がある。その又奥には第三の全く暗い室がある。こゝでは只水の滴たり落ちる声が聞える。それがこの寂寞の境の単調な時間の推移を示す天然の漏刻ろうこくかとあやまたれる。床とこにはひどい凸凹とつあふがある。己は闇の中を辿つて行くうちに足を挫きさうになつた。その先きは低い隧道すゐだうになつたので、己は腰を屈かゞめて進んだ。折々岩角が肩に触れる。暫く歩くうちに屈めた腰が疲を覚えて来た。己は推測した。多分此道はわざと難渋にしてあるのだらう。こゝを通り過ぎて、又日の目を見、軽らかな空気を呼吸する時の喜を大きくするために、わざと難渋にしてあるのだらうと云ふのである。此推測は吾を欺かなかつた。潜り抜けて出た処は、絶勝の地点で庭園の全体は勿論、別荘の正面と其石柱いしばしらの美しい排列とをも見わたすやうになつてゐる。晴れ切つた空を、別荘の屋根の線がかつきりと横断してゐる。己はこれを眺めながら、あさまつげの苦味のある香かと、柑子かうじの木の砂糖のやうに甘い匂とを吸つてゐた。

己は此二様の香気を嗅いでゐるうちに、ふと妙な事に気が附いた。それは別荘の窓は悉こと〲く開け放つてあるのに、只一箇所の窓丈鎖してあると云ふ事である。熟よく視れば、この二つの窓は重げな扉で厳重に閉ぢてある。全体の正面は開けた窓の硝子ガラスに日光がさして光つてゐる。この二つの密閉した窓丈が暗い。なぜだらうか。己が怪訝くわいがの念を禁じ得ずして立つてゐると、己の肩の上に誰やらの手が置かれた。それは主人バルヂピエロの手であつた。主人は今一つの手には己のために書いた紹介状を持つてゐて、それを己にわたした。

二

己は礼を言つて、すぐに出立しようとした。まだノレツタまで往つて泊られる丈の日足は十分あつたのだ。ところが意外にも主人は己を留とめて一晩泊らせようと云つた。己はとう〱主人の意に任せることにして、それから二人で庭を歩いた。主人は己にまだ見なかつた所々を案内して見せた。主人の花紋のある長い上衣の褄が、砂の上を曳いてゐる。そして手には長い杖を衝いてゐて、折々その握りの処を歯で噬かむ癖がある。

バルヂピエロはまだ杖に縋つて歩くやうな体では無い。綺麗に剃つた頬に刈株のやうな白い髯の尖が出掛かつてはゐるが、体は丈夫でしつかりしてゐる。己達は緑の木立に囲まれた立像の前に足を駐めた。主人はその裸体を褒めたが、其詞ことばは此人が形の美を解してゐると云ふことを証する詞であつた。その外主人は杖の握りに附いてゐる森のニンフをも褒めたが、その褒めかたに己は殊に感服した。そのニンフの彫物ほりものは、主人の太い、荒々しい手で握つてゐる杖の頭かしらに附いてゐて、指の間からはそれを鋳た黄金わうごんがきら附いてゐるのである。

そのうち食事の時刻になつた。奢おごりを極めた食事で、随分時間が長く掛かつた。己達の食卓に就いたのは、周囲の壁に鏡を為込しこんだ円形の大広間であつた。給仕は黒ん坊で、黙つて音もさせずに出たり這入つたりする。その影が鏡にうつつて、不思議に大勢に見えるので、己はなんだか物に魅せられたやうな心持がした。黒ん坊は絿ちゞれた毛の上に黄絹きぎぬの帽を被かぶつてゐる。帽の上には鷺の羽がゆら〱と動いてゐる。耳には黄金の環が嵌めてある。黒い手で注いでくれるのは、己の大好なジエンツアノの葡萄酒だ。己はそれを飲めば飲む程機嫌が好くなつたが、主人の顔は見る見る陰気になつた。己に盛んに飲食させながら、主人は杯にも皿にも手を着けずにゐる。併し此場合に己の食機しよくきの振ふるつたのは、矢張模範として好い事かと思ふ。無論旅をして腹を空かしてゐるので、不断より盛んに飲食したには違ひない。併しそればかりでは無い。一体世間を広く渡つた人の言つてゐる事が譃でないなら、己は今にもどんな事に出逢ふかも知れず、又その出逢ふかも知れぬ事が千差万別なのだから、己はしつかり腹を拵へて掛かるべき身の上ではあるまいか。兎に角己はいつに無い上機嫌になつて来た。己は酒に逆のぼせて、顔が健すこやかな濃い紅くれなゐに染まつた。それを主人は妬ましげに見てゐるらしい。心身共に丈夫な主人の事だから、誰をも妬むには及ばぬ筈なのに。

主人は岩畳なには相違ない。併し明るい燈ともしびの下でつく〲見てゐると、どうも顔に疲労の痕が現れてゐるやうに思はれた。庭を余り久しく散歩した為めか、それとも外に原因があるのか。此人は見掛けが丈夫らしくても、どこか悪い処があるのだらうか。バルヂピエロの年齢はもう性命を維持して行く丈の力しか無くなる頃になつてゐる。あれでも若し将来に於いて自分にふさはしい限の事をしてゐたら、まだ長く体を保つて行かれるだらう。然るにこのバルヂピエロはもう若いもので無いと諦念あきらめを附けることの出来ない人として、世間の人に知られてゐる。此人は今も機会があつたら若いものの真似をしようとしてゐる。自分では控目にしてゐるのかも知れぬが、それでもその冒険が度を過ぎてゐるらしい。

いろ〱話をしてゐるうちに、己がかうではあるまいかと思ひ遣つたやうな事を、主人が公然打ち明けて訴へ出した。己を為合しあはせだと云つて褒めて、それを自分の老衰に較べた。その口吻こうふんが特別に不満らしかつた。己は気を着けて聞いてはゐない。己の考では、それはどうせ人間の一度は出逢ふ運命で、人間は早晩さうなると云ふことを知つて、さうならぬうちに早く出来る丈の快楽を極めるが好いのだ。そこで己は話をしながらも盛んにジエンツアノの葡萄酒を飲み続けて、肴には果物を食つた。その果物は黒ん坊が銀の針金で編んだ籠に盛つて持つて来たのだ。己は果物の旨いのを機会として、主人に馳走の礼を言つた。主人がこれに答へた辞令は頗る巧なものだつた。余り思ひ設けぬ来訪に逢つたので、心に思ふ程の馳走をすることが出来ない。只庭を見せて食事を一しよにする位の事で堪忍して貰はんではならない。その食事も面白い相客を呼び集める余裕は無いから、自分のやうな不機嫌な老人を相手にして我慢して貰はんではならない。せめて音楽でもあると好いのだが、それも無いと云ふのだつた。己はかう云ふ返事をした。相客や音楽は決して欲しくは無い。先輩たる主人と差向ひで静に食事をするのが愉快だ。只主人の清閑を妨げるのでは無いかと云ふ事丈が気に懸かる。勿論かう云ふ機会に聞く有益な話が、どれ丈自分の為めになると云ふことは知つてゐると云つた。主人は項垂うなだれて聞いてゐたが、己の詞が尽きると頭を挙げた。そしてかう云つた。お前の礼儀を厚うした返事を聞いて満足に思ふ。お前も今さう云つてゐる瞬間には、その通りに感じてゐるかも知れない。併しも少しするとお前の考が変るだらう。それはお前が一人で敷布団と被布団きぶとんとの間に潜り込む時だ。若いものにはさう云ふ事は向くまい。殊に女に可哀かはいがられる若いものにはと、主人は云つた。

女と云ふ詞を聞くと同時に、なぜだか自分にも分からぬが、さつき見て気になつた、鎖してある窓の事が思ひ出された。己は主人の顔を見た。今此座敷にゐるものは主人と己との二人切りで、給仕の黒ん坊はゐなくなつてゐる。己には天井から吊り下げてある大燭台がぶら〱と揺れてゐるやうな気がする。そして其影が壁の鏡にうつつて幾千の燭火ともしびになつて見える。己はもうジエンツアノの葡萄酒を随分飲んでゐる。そして今主人の何か言ふのに耳を傾けながら、ピエンツアの無花果いちぢくの一つを取つて皮をむいてゐる。己はその汁の多い、赤い肉がひどく好きなのだ。

主人の詞が己の耳には妙に聞える。なんだか己の前にゐる主人の口から出るのではなくて、遠い所から聞えて来るやうだ。周囲の壁に嵌めてある許多あまたの鏡から反射してゐる大勢の主人が物を言つてゐるやうにも思はれる。それにその詞の中で己に提供してゐる事柄には、己は随分驚かされた。尤もつとも当時の己の意識は此驚きをもはつきり領略してはゐなかつたが、兎に角己は驚いてゐたには違ひ無い。なぜと云ふに己は突然かう云ふことを聴き取つたのだ。己は只即坐に立ち上がつて、さつき気にした、あの窓の鎖してある部屋に往けば好い。そこには寝台の上に眠つてゐる女があると云ふのだ。それに就いて己は誓言せいごんをさせられた。それはその女が何者だとか、どこから来たのだとか云ふことを、決して探らうとしてはならぬと云ふのだ。それから己はかう云ふことを先づ以て教へられた。その女は必ず多少抗抵を試みるだらう。併し主人は己をそれに打ち勝つ丈の男と見込んで頼むと云ふのだ。いかにも己にはその位の気力はある。

己は急劇な猛烈な欲望の発作を感じた。己は立ち上がつた。それと同時に周囲の鏡にうつつてゐる大勢のバルヂピエロが一斉に立ち上がつた。そしてその中うちの一人が己の手を取つて、鏡の広間を出た。

広間を出て見れば、寂しい別荘はどこも皆真つ暗だつた。主人は己を延ひいて、梯はしごを一つ登つた。その着てゐる長い上衣の裾が、大理石の階段の上を曳いて、微かな、鈍い音をさせる。己の靴の踵がその階段を踏んで反響を起す。幾度いくたびも廊下の角を曲がつた末に、主人と己とは一つの扉の前に立ち留まつた。鍵のから〱鳴るのが聞えた。続いて鍵で錠を開けた。油の引いてある枢くるるが滑かに廻つて、扉が徐しづかに開いた。主人は己の肩を衝いて、己を室内へ推し遣つた。

己はひとり闇の中に立つてゐた。深い沈黙が身辺を繞つてゐる。己は耳を澄まして聞いた。微かな、規則正しい息遣ひが聞えるやうだ。室内は只なんとなく暖く、そして匂のある闇であつた。

此夜は奇怪な、名状すべからざる夜であつた。

己はこの室内で、不思議なことに遭遇して、そのうちにどれだけ時間が立つたか知らない。

やう〱己は起つて戸口に往つた。そして肩で扉を押し開けようとした。併し扉は開かない。誰か外から力を極めて開けるのを妨げてゐるやうだつた。その隙ひまに衣服のさわつく音がして、続いて廊下を歩み去る軽い足音がした。

己は又扉を押した。戸は開いた。己は二三歩出て、又跡へ引き返さうとした。暁の薄明かりと共に再び室内へ帰らうと思つたのだ。併し己は前の誓言を思ひ出して、急ぎ足にそこを立ち退いた。

廊下が尽きて梯になる。梯の下の前房には人影が無い。己は柱列のある所に出た。朝の空気には柑子の香が籠つてゐる。

己の馬車には馬が附けて中庭に待たせてある。己は車に乗つた。そして車が動き出すと共に、己はぐつすり寐入つた。

バルヂピエロの別荘での不思議な遭遇は、己を夢のやうな状態に陥いらせた。旅の慰みが次第に此夢を醒した時、己は其顛末を考へて見て、どうした事か分からぬやうに思つた。又それをどうして分からせようと云ふ手段も、己には見出されない。一体あの沈黙した未知の女は誰だつたか。それに対してバルヂピエロの取つた手段にはどう云ふ意味があつたのか。主人があの女を憎んで己を復讐の器械に使つたのだらうか。それとも主人はわざと只周囲の状況を秘密らしくして、己にする饗応に味を加へたまでの事か。

己はミラノへ来た。滞留が長引いた。己は上流の人達と一しよに遊び暮らした。己を優待してくれた女は大勢ある。その中で己を一箇月以上楽ませてくれたのが一人ある。其女は己に自分の内で逢つたり、芝居で逢つたり、又己と一しよに公園を散歩したりした。夜燭火ともしびの下で逢ふ時は、其女は顔をも体をも己に隠さなかつた。そのうちにバルヂピエロの別荘にゐた未知の女の俤は、己の記憶の中で次第に朧気になつて、己がフランスへ旅立つ頃には、とう〱痕なく消えてしまつた。

パリイと云ふ美しい都会の遊興は、その多寡を以て論じても、その精粗を以て論じても、全く人の意表に出てゐる。己はあらゆる遊興に身を委ねて、月日の過ぎるのを忘れてゐた。舞踏があり、合奏会があり、演劇があるが、そればかりでは無い。バルヂピエロの紹介状が用に立つて、己は種々しゆ〲の立派な人達に交際することが出来た。己は昏迷の中うちに日を送つて、ヱネチアの事やそこの友達の事を忘れてしまつた。併しそれは己ばかりの咎とがでは無い。ロレンツオや、君も外の友達も己を忘れてゐたやうだ。そんな風で殆ど一年ばかり立つた。

己はペロンワルと云ふ女を情人にしてゐた。体の小さい、動作の活溌な、舞踏の上手な女であつた。己は此女とロンドンへ往つた。これは女のためには職業上の旅行で、己はその道中の慰みに連れて行かれたのだ。ところがロンドンでロオド・ブロツクボオルと云ふ大檀那だいだんなが段々不遠慮に此女に近づいて来て、女は又ロオドと己との共有物になりたさうな素振をして来た。そこで己はペロンワルと切れた。

パリイに帰つて見ると、イタリアから己に宛てた大きい封書が届いてゐた。中にはバルヂピエロの長い手紙があつた。種々いろ〱な事が書いてある。ジエンツアノの葡萄酒やピエンツアの無花果の事がある。それから例の不思議な事件の其後の成行がある。あの事件はそつちのためには不愉快では無かつただらうが、そつちを或る葛藤かつとうの中に引き入れたのは気の毒だと云つてある。兎に角客にあんな事をさせる主人は無い筈だから、主人を変に思つただらうと云つてある。今其手紙の一部を読んで聞かせよう。

「あゝ、我が愛する甥よ。御身もいつかは老の哀あはれを知ることだらう。御身が顔を見なかつたあの娘を、その住んでゐた土地から、非常な用心をして秘密に奪つて来させた時、己は自分の老衰を好くも顧慮してゐなかつた。御身が来るまでにあれはもう二週間ばかり己の所にゐた。それに己はまだ一度もあれを遇すべき道を以てあれを遇することが出来なかつた。御身にも気が附いたらしかつた己の不機嫌はそれゆゑであつた。それに御身の若い盛んな容貌は愈いよ〱己の心を激させた。あゝ。己は御身の青春をどれ丈か妬ねたましく思つただらう。此思を機縁として、己のあの晩の処置は生れて来たのだ。己はあの鏡の間で御身と対坐した時、あの美しい囚人のゐる密室を、御身がために開かうと決心した。己はあの女に、あいつの運命が全く我手に委ねられてあると云ふことを、此処置で見せ附けて遣る積りであつた。それと今一つの己の予期した事がある。それはあの女が御身に身を委せたと知つたら、己の恋が褪めるだらうと云ふことであつた。己の既往の経験によれば、己は自分の好いてゐる女が別の男に身を委せたと知ると、己の恋は大抵褪めた。畢竟ひつきやう情人の不実を知ると云ふことは、恋を滅す最好の毒である。そして御身は苦もなく己がために此毒を作つてくれるだらうと、己は予期したのだ。

己が御身の肩を押して、御身をあの暗室に入いらせたのはかう云ふわけであつた。然るになんと云ふ物数奇か知らぬが、己はふとあの暗室の戸口に忍び寄つて、扉に耳を附けて偸聴たちぎきをする気になつた。御身等二人の格闘、あの女の降服、呻吟が己の耳に入つた。戦は反復せられる。暗中の鈍い音響が聞える。あゝ、此時己は意外の事を感じた。形容すべからざる嫉妬の念が、老衰した己の筋肉の間を狂奔して、その拘攣こうれんしてゐた生活力を鞭うち起たしめた。己は闥たつを排して闖入しようとしたことが二十度たびにも及んだだらう。さて最後に御身が戸を開けて出た時、己は却つて廊下伝ひに逃げ去つた。なぜかと云ふにあの時御身の顔を見たら、己には御身を殺さずに置くことが出来なかつたからだ。己は自分の徳としなくてはならぬ御身を殺すに忍びなかつたのだ。実に嫉妬の効果には驚くべきものがある。己の嫉妬は己の気力を恢復せしめた。己はあの時に再生した其気力を使役してゐる。

あの女は漸く自分の境遇に安んずる態度を示して来た。そこで己は女を密室から出した。鏡の間の壁に嵌めた無数の鏡は、女の艶姿えんし嬌態けうたいを千万倍にして映じ出だした。庭園には女の軽々とした歩みの反響がし始めた。己が晩年に贏かち得た、これ程の楽しい月日は、総て是れ御身の賜ものだ。己は折々女と一しよにあの岩窟いはむろに入いることがある。其時は女の若やかな涼しい声が、あの岩の隙間から石盤の中に流れ落ちる水の音にも優つて聞える。己は幸福の身となつた。女は己に略奪せられたことをも、過度の用心のために己に拘禁せられてゐたことをも、最早遺恨とはしないらしかつた。今の新生活が女には気に入るらしかつた。女は此間に己の心を左右する無制限の威力を得た。己はとう〱御身の名を白状した。女は今御身が誰だと云ふことを知つてゐる。そして己を憎むと同じやうに、御身をも憎んでゐる。

女は毎晩己にジエンツアノの葡萄酒一杯を薦める。黒ずんだ、ふくよかな瓶を繊ほそい指で擡もたげて酌をする姿はいかにも美しい。酒は青み掛かつた軽い古風な杯に流れ入る。唇に触れて冷やかさを覚えさせる此杯を、己は楽んで口に銜ふくむ。併し己は此酒には丁寧に毒が調合してあることを知つてゐる。女は毎目手づから暗赤色あんせきしよくの薬汁やくじふを、酒の色の変ぜぬ程注ぎ込んで置く。己は次第に身に薬の功験を感じて来る。己の血は次第に脈絡の中に凝滞して来る。なぜ己は甘んじて其杯を乾すかと云ふに、己の命にはもう強ひて保存する程の価値がないからだ。均ひとしく尽きる命数を、よしや些ちとばかり早めたと云つて、何事かあらう。可哀かはいい娘が復讐の旨味しみを嘗なめるのを妨げなくても好いではないか。己は毎晩その恐ろしい杯を、微笑を含んで飲み干してゐる。

併し、我が愛する甥よ。御身はまだ若い。己は御身に警告せずして罷やむに忍びない。己の次は御身だ。危険が御身に及ぶと云ふことは、この珍らしい娘の目の中で己が読んだ。己が此危険を御身に予告するのは、己が嘗て御身に禍を遺した罪を贖あがなふ所以ゆゐんである。

此予測は或は御身が思ふ程厭いとふべき事では無いかも知れない。今からは目に視えぬ脅迫が御身の頭上に垂れ懸かつてゐる。併し今から後御身が一切の受用に臨んで、一層身を入れて一層熱烈にこれを享うけるのは、此脅迫の賜ものであらう。青年は兎角何事をも明日に譲つて恬然てんぜんとしてゐたがる。御身のこれまでの快楽には必要な刺とげが無かつた。己は其刺を御身に貽おくるのだ。御身は己に感謝しても好からう。さらばよ。我指はもう拘攣して来た。老いたるバルヂピエロは恐らくは今晩最終の一杯を傾けたのだらう。」

三

評議官の手紙の中で言つてゐることは吾を欺かなかつた。此手紙を読んだ日から己の心の内には新しい感じが生じた。此精神状態はこれまで夢にも見たことの無い状態である。手紙によれば己の性命を覗ふものがある。少くも心の内では、己の玉の緒を絶たうと企ててゐるものがある。これまでは己の死ぬる時刻を極めるのは自然そのものであつたが、もうこれからは自然が単独にそれを極めることは出来ない。或る一人の人が己の性命の時計の鍼はりを前へ進めることを自分の特別な任務にしてゐるのである。その人のためには己の死が偶然の出来事では無くて、一の願はしい、殊更に贏かち得た恩恵である。此人の手に偶然の出来事がいつ己の性命を委ねてしまふか知れない。そればかりでは無い。この目に見えぬ脅迫を避けようとか、この作用を防遏ばうあつしようとか云ふ手段は、毫も己の手中には無い。己の只生きてゐると云ふ丈の事実が、己を迫害の目的物にするのである。

まあ、なんと云ふ事態の変りやうであらう。己はこれまで謂いはば総ての人の同意を得て生きてゐた。己の周囲には己を援助して生を聊いささかせしめてくれようと云ふ合意が成立してゐた。己を取り巻いてゐる総ての人が此問題のために力を借してくれてゐた。生活と云ふものの驚歎に値する資料を己に供給しようとして、知るも知らぬも、直接又間接に、幾たりの人かが働いてゐた。己の食ふパンを焼うとして小麦粉を捏こねてゐたパン屋も、己の着る衣類を縫つてゐた為立物師も、己にそのパンを食はせよう、その衣類を着せようと云ふより外には、何等の欲望をも目的をも有してゐなかつた。己のために穀物が収穫せられ、己のために葡萄が醸造場の桶に投ぜられた。その外人一人を生きてゐさせるために働いてゐる工匠の数を誰が数へ挙げることが出来よう。人間と云ふものは幾多の労作の形づくつてゐる圏線けんせんの中心点に立つてゐる。併しそれは皆人生の必要品ばかりを言つたのである。若し更に進んで贅沢物に移つて見たら、どうだらう。理髪師と踊の師匠は、丁度外の工匠が己のために必要品を供給してくれるやうに、己に粧飾や消遣せうけんを寄与してゐるではないか。謂はば己は一切の人間の共同して造り上げてゐた製作物であつたのだ。又不幸にして己が或る災難に出合つたとすると、すぐに医者や薬剤師が現れて来て、創や病気の経過を整へてくれ、悪い転帰てんきを取らせぬやうに防ぎ止めてくれた。全体人体の構造を窮め知つて、自然の次第に破壊して行く力を遮り留めるやうにするのは、決して容易な業では無いのだ。

約つゞめて言へば、人間が孤立してゐて、只自己のためにばかり警戒し憂慮してゐたら、必然陥いる筈になつてゐる危険と疲労とを、或る程度まで周囲のあらゆる人間が抑留してくれて、己はその恩沢を蒙つて生きてゐたのだ。世間は己の需要を予測して、潤沢に己に属饜しよくえんさせてくれた。世間は己の活動して行くに都合の好い丈の意欲を己に起させてくれた。然るに今や忽然こつぜんとして或る未知の女が現れて来て、この一切の好意に反抗しようとする。そいつは啻たゞに周囲の援助を妨礙ばうがいしようとするばかりでは無い。却つて反対の方向に働かうとする。そいつは公々然として己の敵だと名告なのる。そいつは個個の善意の団体を離れて、独立して働く。そいつの意志の要求する所のものは何か。答へて曰く。己の死である。なぜ己の死を欲するか。答へて曰く。己に侮辱せられた報酬である。併しその侮辱は己が故意に加へたのでは無い。第三者の盲目なる器械となつて、期せずして加へたに過ぎない。それに或る未知の女は己の死を欲する。想ふにそいつは必ず目的を達することだらう。事によつたら明日己を殺すかも知れない。己がその女の名も知らず顔も知らぬのだから、女は目的を達する上に一層の便宜を得てゐるのである。

以上の事柄を総括して見るに、己に不安を感ぜしむるには十分の功力がある。最初此自覚が己に憂慮を感ぜしめたことを、己は告白しないわけには行かない。併しそれは暫時にして経過してしまつた。そして程なく己は一種の満足を感じた。バルヂピエロ翁は真に吾を欺かない。己の頭の上に漂つてゐる此脅迫は、己を煩はす程に切迫してゐるものでは無いらしい。只己の未来を不確実にするので、己はそれを望んで、一層力を放つて現在の受用を完全にすることを努めなくてはならぬのである。

その頃から女の顔と云ふものが、己のためには特別の意味のあるものになつた。それは彼未知の女を捜索するからである。己の現にゐる所に其女が来てゐさうには無い。併し此事件の全体には随分偶然が勢力を逞しうしてゐるのだから、それが愈々活動し続けて、深く己の運命に立ち入り、遂には覿面に其女と己とを相対せしめることになるまいものでも無いのである。

かう云ふ己の感じは、程なく己の許に届いたバルヂピエロの訃音によつて一層強められた。老人は死に臨んで己にその別荘とそこに蓄へてある一切の物品とを遺贈した。併し己はあの美しい荘園を受け取りに往くことを急がなかつた。なぜと云ふに、丁度その時己は或る地位の高い夫人に対して恋をしてゐて、それに身を委ねて飽くことを知らなかつたからである。夫人の恋愛は己に総ての事を忘れさせた。バルヂピエロが遺贈の事も、久しく故郷を離れてゐると云ふ事も、警戒を与へられてゐる脅迫の事も忘れさせた。現在の恋愛に胸を剜えぐるやうな鋭さがあり、身を殺すやうな劇烈な作用があつて見れば、何も未知の女の己の上に加へようとする匕首ひしゆや毒薬を顧みるには及ばない。

この不幸な恋をのがれようとして、己は一時旅などをしたこともある。そのうち一年ばかり立つた。或る時己は忽然本国が見たくなつた。中にも見たかつたのはヱネチアである。丁度その時己はアムステルダムにゐた。あそこは幾多の運河が市を貫いて流てゐる所丈恋しいヱネチアに似てゐるが、土地の美しさも天の色も遙かに劣つてゐる。己は博奕の卓に向つて坐して、勝つたり負けたりしてゐるうちに、ふいと卓に覆つてある緑の羅紗の上に散らばつた貨幣の中に、金のチエツキノが一つ交つてゐるのを見附けた。己はそれを拾ひ上げて手まさぐつた。貨幣はヱネチア共和政府の鋳造したもので、羽の生えた獅子の図がある。その時己の目の前に料はからずもヱネチアが浮かんだ。幾条かの運河が縦横に流れ、美しい天が晴れ渡つてゐる。そこには宮殿があり、鐘楼がある。そこにはアルドラミン家の館の淡紅色の大理石の花形がある。そして、ロレンツオよ、君の住んでゐる館の赤み掛かつた壁と水に漬つかつた三段の石級せききふとがある。己は忽然として又リワ・スキアヲニに立つてゐる。遊歴を思ひ立つた其日のやうに、立つてゐる己の傍にはバルビさんが立つてゐる。ラグナの澄み切つた空気を穿つて、大きい白い鴎が飛んでゐる。バルビさんは鳩に穀物を投げて遣つてゐる。鳩は皆餌に飽いて、むく〱と太つてゐる。己はその鳩の一羽を手の平に載せてゐるやうな気がした。その鳩は白くて温かで、吭のどの下に丁度匕首で刺されたやうな、血痕のやうな、赤い斑を持つてゐる。

二三週の後には己はもうイタリアへ帰る途中にゐた。此旅行にはなんの故障もなかつた。己はバルヂピエロの譲つてくれた別荘に泊つた。丁度その日は天気が好くて、庭には花の香が満ちてゐた。己は黒ん坊に案内させて、別荘の間毎まごとの戸を開けさせて見た。併し己を不思議な目に合せて、続いて老人が手紙で注意してくれたやうな運命に陥いれた、例の部屋は見附からなかつた。どの部屋へも窓から日が一ぱいにさし込んでゐる。どの部屋も秩序と平和との姿を見せてゐる。己は記憶のある鏡の広間に食事を出させて食べた。その時己は考へた。この一切の事件は悉こと〲く己の妄想の産み出した架空の話ではあるまいか。あの日に飲んだジエンツアノの葡萄酒に酔つて見た夢ではあるまいかと考へた。バルヂピエロのをぢさんのよこした手紙だつてあの日の笑談ぜうだんの続きだと思はれぬこともない。無論をぢさんは死んだには違ひない。併しあの年になれば死ぬのは当然あたりまへである。何も誰かがわざ〱手段を弄してそれを早めたと見なくてはならぬことは無い。己はこんな風に考へて疑問の解決を他日に譲ることにした。

ヱネチアに帰つてから己の最初に尋ねたのは、ロレンツオよ、君だつた。丁度昔のやうに、己は波にゆらいでゐるゴンドラの舟を離れて、水に洗はれて耗へつた、君が館の三段の石級を踏んだ。丁度昔のやうに、己が石級の上から君の名を呼ぶと、君はすぐに返事をした。己は白状するが、あの時己は予期しなかつた嫉妬を感じた。それは君が昔のやうに独りでゐないで、青年紳士と一しよにゐたからである。己が這入つて行くと、その紳士が立ち上がつた。紳士は可哀かはいらしくて、上品な体附きをしてゐた。己の這入つたのを見て、紳士は手に持つてゐた楽器を、気の無いやうな表情をして、無造做むざうさに卓の上に投げて、心から相許した友達同志が互に顔色を覗ひ合ふやうな様子で、君の顔を見た。己は初の間此人のゐるのを稍やゝ不快に感じた。それは此人が君の親友になつてゐて、己が独りで占めてゐるやうに思つた地位を奪つたらしく見えるからであつた。併し己はこの最初の感情に打勝つた。己はかう思つたのである。己は長い間留守を明けてゐた。長い間君に背いて交情を曠むなしうしてゐた。さうして見れば、己の不実にも放浪生活をしてゐた間、此人が君を慰めてくれたのは、感謝しなくてはならぬ事だと思つたのである。そこで己は青年紳士に好意を表した。紳士は十分に品格と礼節とを備へた態度を以て己に接した。そして君は紳士と己との二人の手を一つにして握つてくれた。

そんなわけで、君が彼青年紳士レオネルロの友人になつたやうに、己も亦あの人の友人になつた。己は君がどうしてあの人と相識になつたかと云ふ来歴を聞いた。レオネルロはパレルモに生れたのだ。それを両親が当世風の生活に慣れさせるためにヱネチアに来させたのだと、レオネルロが自ら語つた。もう此土地に来てから一年ばかり立つてゐて、レオネルロはどうやら此土地を第二の故郷にして、パレルモの事を忘れてしまつたらしかつた。レオネルロは全くシチリア風の特徴を具へた美少年である。目は生々として表情に富んでゐる。鼻には上品な趣がある。口も人に気に入る恰好をしてゐて、髭は少しも生えてゐない。それに歩く様子がひどく好い。それから手のひどく小さいのを己は珍らしく思つた。段々心安くなつて見ると、温和と謙遜との両面から見て、あの人の性格がいかにも懐かしかつた。あの人は女好では無い。わざとらしく女に接近することを避けてゐた。宗教の信者だらうと思はれた。併し君と己とが遊ぶ時は、あの人も一しよになつては遊ばぬまでも、傍看者として附き合つて丈はくれた。

己達は又青春の最も美しい快楽を味ひ始めた。君と己とのはもう行楽の時代が過ぎ去らうとしてゐるのに、あの人のはまだ水の出端でばなである。それにあの人が控目にしてゐるのだから、君と己とはそれを手本にして節制を加へなくてはならなかつたが、二人にはそれが出来ぬのであつた。己達は昔のやうに又島の倶楽部の卓を囲むことになり、それよりは屡しば〱博奕の卓を囲むことになつた。紙で拵へた仮面は己達の顔を掩つた。己達は興を縦ほしいままにした。一体ヱネチアと云ふ土地ではさうせずにはゐられぬ事になつてゐる。君も己もヱネチアの子だから為様しやうが無い。二人の痴戯ちきを窮めるのを見て、レオネルロは微笑ほゝゑんだ。

そのうちに千七百七十九年のカルネワレの祭日が来た。祭日は例年よりも華美で賑かであつた。遊びは厭きる程ある中に、己達は一日を己の別荘で暮らすことにした。先づそれ丈の約束をして置いて、己は先へ別荘に来て、準備をした。翌日は君とレオネルロと二三の親友とが来る筈である。その又次の日には大勢の客が案内してある。寒気が珍らしく軽いので、大勢の客の来る日には、暮れてから庭で遊びをすることにしてある。己はそれが余程立派になることを期待してゐた。

君は約束の日に期を愆あやまらずに来てくれた。一しよに来たのは、兼て極めてあつた五人の友達である。君達は皆仮装をして、それを一輛の美しい馬車が満載して来た。そこで己は君達を別荘の所々しよ〱に連れて廻つて、あすの遊びの準備を見せた。あすの晩には、庭の岩窟いはむろに蝋燭を焚いて舞踏会をして、それから鏡の広間で宴会をしようと云ふので、己は君達と種々しゆ〲の評議をして、今宵は明かりの工合を試験して置くと云ふことになつた。己はレオネルロと臂を組み合せて鏡の広間に立つてゐた。レオネルロは笑ひながら仮面を扇のやうにして顔のほてりをさましてゐた。己は中央に吊る燭台の明かりをためすために、窓を締めて窓掛を卸すことを、家隷けらい共に命じた。真つ暗でなくては、明かりの工合が分からぬからである。窓を締め窓掛を卸して、蝋燭がまだ附かぬので、広間が一刹那真の闇になつた。己達はその中に立つてゐて、己は家隷共に明かりの催促をした。「早くしないか。いつまでも暗くしてゐては困るぢやないか」と云つたのである。その時突然己は或る冷やかな尖つた物が胸を貫いて、己の性命の中心に達し、己の口一ぱいに血が漲るのを感じた。

――――――――――――

蝋燭が附いてから、己達がバルタザル・アルドラミンを抱き起して見たら、その胸には一つの匕首が深く刺し貫いてあつた。その尖は心の臓を穿つたと見えて、アルドラミンは即死してゐたのである。

四

我々七人の客はあつけに取られて、身動きも出来ずに、屍骸しがいの周囲に立つてゐた。七人と云ふのはルドヰコ・バルバリゴ、ニコレ・ヲレダン、アントニオ・ピルミアニ、ジユリオ・ボツタロル、オクタヰオ・ヱルヌツチ、それからレオネルロと己とである。どれもどれもアルドラミンの親友で、愛したり愛せられたりしてゐるのだから、一人として危険を冒しても此別荘の主人の性命を救つて遣りたいと思はぬものは無い。我々は互に嫉妬などをし合つたことが無い。喧嘩と云ふ程の衝突をもしたことが無い。我々の間には只敬愛の情があつた丈である。

さうして見れば、アルドラミンは自殺したに違ひ無い。此男の性命を絶つた鋭い匕首は、自分で胸に刺し貫いたものに極まつてゐる。併しなぜこんな事をして死んだのだらうか。年はまだ若い。財産はある。幸福に暮らしてゐる。かうした身の上でゐて、我々一同にどんな憂悶を隠してゐたのだらうか。我々はどう考へて見ても解決が附かぬので、皆眉を顰ひそめてゐた。我々は早速支度をして、亡き友の死顔を石膏型に取つたが、その型の石膏と同じやうに、皆の顔には血の色が無かつた。

どうしてもアルドラミンは自殺したとより外思ひやうが無い。我々は只いつ迄も死骸を目守まもつてゐる。そのうち我々一同の中に同時に恐るべき、非常な疑惑が生じて来た。それは一応自殺らしくは見えるものの、ひよつとしたら我々の中の一人が窓を閉ぢ窓掛を卸した闇を利用して、アルドラミンを刺したのかも知れぬと云ふ疑惑である。人間の心は秘密を蔵してゐるものである。世間には隠蔽せられてゐる事が沢山ある。併しそれにしても其刺客せきかくは誰だらう。誰がこれ程の陰険な事を敢てしただらう。あれだらうか。これだらうか。

誰の胸の中にも不安の念がひそやかに萌して来た。そして互に相猜疑あひさいぎして、平気で目を見合せることが出来なくなつた。我々は物を探る様な目なざしをして鏡の影を見た。鏡の一面毎に我々の顔とアルドラミンの死骸とが変つてうつつてゐる。そしてその死骸が我々の中の誰をも皆仇敵として指さしてゐるかと思はれる。

アルドラミンの死骸はサン・ステフアノの寺に葬られた。両手を赤い創の上に組み合はせて葬つたのである。葬式が済んでからも我々は同じ疑惑を除くことが出来ない。バルバリゴだらうか、ヲレダンだらうか、ピルミアニだらうか、それともボツタロルだらうか。我々は出逢ふ度毎に猜疑の念を起さずにはゐられない。握手するにも気が置かれてならぬ。

絶えずかう云ふ不安の念に悩まされて、次第に双方機嫌の悪くなつたバルバリゴとボツタロルとは、とう〱争論をして決闘することになつた。争論の生じた真の原因は公に言はれぬので、二人は詰らぬ尾籠な事を表向の理由にした。ボツタロルは負傷した。バルバリゴはそのために大陸へ逃亡しなくてはならなくなつた。

己は深い悲みに沈んだ。それはアルドラミンの死を忘れることが出来ぬからである。レオネルロは己を慰めようとした。種々しゆ〲の楽器を弄することが上手なので、その音色で己の鬱を散じてくれようとした。己とレオネルロとは相変らず毎日逢つてゐる。此男を疑ふ念は一度たびも己には萌さなかつた。此男は物柔なのと物事を打ち明けるのとで、己を陰気な思想に耽らせぬやうにして、己の絶えず胸に思つてゐる事を口に出させずにゐた。

或る日己はヲレダンに逢つた。ヲレダンはレオネルロはどうしてゐるかと問うた。丁度レオネルロが己の館に住むことになつてから、暫く立つた時の事である。ヲレダンは己の返事を聞いた後に、毒々しい笑をして、「暗い所では用心してゐ給へよ」と云つた。己は胸を裂かれるやうな気がした。レオネルロとの交誼を傷ける詞だからである。

レオネルロは己の憂鬱が日々加はるのを見て、己に旅行を勧めた。理由として言つたのは、ロオマに用事があると云ふことゝ、それからパレルモから手紙が届いて、急に帰つて貰ひたいと云つて来たと云ふこととの二つである。己はレオネルロが只此土地を離れようとしてゐて、口実を設けるのだと悟つたが、それを色にあらはさずに、其表面の理由を信ずるやうに粧よそほつた。己は実にヱネチアの生活が厭になつてゐた。館に近いサン・ステフアノ寺の鐘の声は己の心を戦慄させる。それは悲惨なアルドラミンの事を憶ひ起させるからである。己はレオネルロの勧誘に応じて、少しばかりの旅の支度をして、あの波に洗はれて窪んでゐる館の石級を降りた。其時己は度々アルドラミン家の白い石壁を振り返つて見た。赤い大理石の二つの花形が雨に洗はれたのが、二つの創の新しい瘢痕のやうに見えた。

レオネルロと己とは一つ馬車に乗つた。二人はピエンツアに泊る筈であつたのに、市より余程手前で日が暮れた。そこはひどく暗いピニイの林の中であつた。今少しで林を出離れようとした時、恐ろしい叫声が聞えた。一群ひとむれの剽盗おひはぎが馬車を取り巻いた。中にも大胆な奴等が馬の鼻の先で松明たいまつを振ると、外の奴等は拳銃の口を己達に向けた。己達の連れてゐた家隷けらいは皆逃げてしまつた。

己達は囲かこみを突いて出ようとしたが、二人の剣は功を奏せなかつた。己は造做ぞうさもなく打ち倒されて、猿轡を嵌められ布で目隠しをせられた。己はまだレオネルロが賊を相手にして切り合つてゐるのを見ながら、目隠しをせられたのである。賊の二人が己の頭と足とを持つて、大ぶ遠くへ己を運んで行つて、それから己を下に置いた。己が起ち上がると、賊は己の肩を撲うつて追ひ立てた。足の踏む所は一面に針葉樹の葉で掩はれてゐて、すべつて歩きにくかつた。暫く歩かせた後、賊は己の衣服を剥いで、己をピニイの木の幹に縛り附けた。己の背は木の皮でこすられて、肌には樹脂やにが黏ねばり附いた。

己の周囲に足音がした。多分レオネルロを己と同じ目に逢はせるのだらう。どうもそれにレオネルロが抗抵するらしい。己のやうに賊のする儘にさせてゐないらしい。物音で判断すると、さう思はれるのである。己はレオネルロが抗抵して、ひどい怪我をしないと好いがと思つた。こんな時には敵対しないで、人のするやうにさせてゐるが好い。避けられぬ事を避けようとしたつて、なんの役にも立たぬからと、己はレオネルロに忠告したかつたが、猿轡を嵌められてゐるので、詞を出すことが出来なかつた。

暫くして周囲がひつそりした。己は賊等が目的を達してしまつたのだなと思つた。その時突然大勢が何やらどなりながら大声で笑ふのが聞えた。併しそれは只一刹那の事で、其跡は又ひつそりした。己は賊等が為事しごとをしおほせて満足して逃げたなと思つた。風が静かに木々の頂いただきをゆすつてゐる。夜の鳥が早い、鈍い羽搏はゞたきをして飛んで行く。そして折々ピニイの木の実が湿つた地に墜ちる音がする。

己とレオネルロとの二人は寂しい林の真ん中にゐるのだ。一人々々ピニイの木の幹に縛り附けられてゐるのだ。此境遇は随分悲惨であるが、己はそれを考へるよりは、どうにかして今の苦痛を軽減しようと工夫した。幸な事には目隠しの布が少し弛んだので、己は次第にそれをゐざらせて、とう〱ずば抜けさせた。そして己はあたりを見廻した。

地に插した一本の松明が今少しで燃えてしまふ所である。そのゆらめく燄がピニイの木の赤い幹を照す。それに裸体の人が縛り附けられてゐる。レオネルロであらう。忽ち一陣の風が吹いて来て、松明がぱつと明るくなつた。レオネルロに違ひない。闇夜を背景にして白皙な体が浮いて見える。併しこれは夜目の迷であらうか。まやかしの幻影であらうか。その体は女の体である。併し女の体でゐて、矢張レオネルロである。顔はそむけてゐて見えない。見えるのは只髪を短く刈つた頭と項うなじと丈である。併し体は女で、それがレオネルロに違ひない。木の幹を攫むやうにしてゐる、小さい、優しい手は、見覚えのあるレオネルロの手である。

女だ。思ひ掛けぬ発見は残酷にも己の心を掻き乱した。そして恐ろしい疑念を萌さしめた。女であつたか。併しなぜ男装してゐたのだらう。なぜそんな秘密をしてゐたのだらう。女であつた。レオネルロが女であつた。あゝ、匕首の一えぐり。紅くれなゐの創口。アルドラミン。

松明は次第に燃え尽した。猿轡は己の口を噤ませてゐても、己の頭には思想が相駆逐してゐる。此思想は初め生じた時糾紛きうふんして曖昧であつたが、それが次第に透徹になつて来た。事実の真相が露呈して来た。そして己はアルドラミンの口から、今己の話した通りの事を聞くやうな気がした。

夜よが明けて樵夫きこりが一人通り掛かつた。それが己の繩を解いてくれた。その時は己は苦痛と疲労とのために失神してゐたのである。己は気が附いて見ると、地に僵たふれてゐた。己の目はすぐにレオネルロに似た裸体の女の縛り附けられてゐたピニイの木を尋ねた。併しもうそこには姿が見えなかつた。察するに其人は夜の明けぬ間に繩を抜けて逃げたのだらう。己は木の下に歩み寄つた。一箇処繩で摩すられて、木の皮が溝のやうに窪んでゐた。そして木の根にはちぎれた繩が落ちてゐた。樵夫はそれを拾つて嚢ふくろに入れた。薪を束ねる料にしようと思つたのだらう。己は黙つて樵夫に附いて小屋まで往つて、樵夫に荒い布の衣服を貰つた。

己は無事にヱネチアに帰つた。紫色の空気を波立たせて、サン・ステフアノ寺の鐘が響いてゐた。そしてアルドラミンの家の館の古い壁に嵌めてある、血のやうな色の大理石の花形が、運河の水にうつつてゐた。

底本 / Source edition

底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店
1979(昭和54)年12月19日第1刷発行
初出:「三田文学 四ノ一―四」
1913(大正2)年1~4月
入力:tatsuki
校正:しず
2001年9月14日公開
2016年2月1日修正
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レニエ アンリ・ド「復讐」(新字旧仮名)、底本『鴎外選集 第14巻』岩波書店、1979年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002060_000356, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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