老いはようやく身に迫ってくる。

前途に希望の光が薄らぐとともに、みずから背後の影をかえりみるは人の常情である。人は老いてレトロスペクチイフの境界に入る。

わたくしは医を学んで仕えた。しかしかつて医として社会の問題に上ったことはない。「<ruby><rb>􂃻􂷢雕朽木</rb><rt>えんあきゅうぼくをえり</rt></ruby>、<ruby><rb>老大免左遷</rb><rt>ろうだいさせんをまぬがる</rt></ruby>」の句がある。

わたくしの多少社会に認められたのは文士としての生涯である。抒情詩においては、和歌の形式がいまの思想を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>るるに足らざるをおもい、また詩が到底アルシャイスムを脱しがたく、国民文学として立つゆえんにあらざるをいったので、<ruby><rb>款</rb><rt>かん</rt></ruby>を新詩社とあららぎ派とに通じて国風新興を夢みた。小説においては、<ruby><rb>済勝</rb><rt>せいしょう</rt></ruby>の足ならしに短篇数十を作り試みたが、長篇の山口にたどりついて<ruby><rb>挫折</rb><rt>ざせつ</rt></ruby>した。戯曲においては、同じ足ならしの一幕物若干が成ったのみで、三幕以上の作はいたずらに<ruby><rb>見放</rb><rt>みさ</rt></ruby>くる山たるにとどまった。哲学においては医者であったために自然科学の統一するところなきに惑い、ハルトマンの無意識哲学に仮りの足場を求めた。おそらくは幼いときに聞いた<ruby><rb>宋儒理気</rb><rt>そうじゅりき</rt></ruby>の説が、かすかなレミニスサンスとして心の底に残っていて、針路をショオペンハウエルの流派に引きつけたのであろうか。しかし哲学者として立言するには至らなかった。歴史においては、初め手を下すことを予期せぬ境であったのに、経歴と<ruby><rb>遭遇</rb><rt>そうぐう</rt></ruby>とが人のために伝記を作らしむるに至った。そしてその<ruby><rb>体裁</rb><rt>ていさい</rt></ruby>をして荒涼なるジェネアロジックの方向を取らしめたのは、あるいはかのゾラにルゴン・マカアルの血統を追尋させた自然科学の余勢でもあろうか。

しかるにわたくしには初めより自己が文士である、芸術家であるという覚悟はなかった。また哲学者をもってみずからおったこともなく、歴史家をもってみずから任じたこともない。ただ、<ruby><rb>暫留</rb><rt>ざんりゅう</rt></ruby>の地がたまたま田園なりしゆえに耕し、たまたま水涯なりしゆえに釣ったごときものである。つづめていえばわたくしは終始ヂレッタンチスムをもって人に知られた。

歳計をなすものに<ruby><rb>中為切</rb><rt>なかじきり</rt></ruby>ということがある。わたくしはこの数行を書して一生の中為切とする。しかし中為切があるいはすなわち総勘定であるかも知れない。少くも官歴より観れば、総勘定もまたかくのごときにすぎない。

これが過去である。そして現在はなにをしているか。

わたくしはなにもしていない。一閑人として生存している。しかし人間はウェジェタチイフにのみ生くること能わざるものである。人間は生きている限りは思量する。閑人が往々<ruby><rb>棋</rb><rt>ご</rt></ruby>を囲みかるたをもてあそぶゆえんである。

あますところの問題はわたくしが思量の小児にいかなる<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>を授けているかというにある。ここにその玩具を検してみようか。わたくしは書を読んでいる。それが<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>の古書であるのは、いま西洋の書が<ruby><rb>獲</rb><rt>え</rt></ruby>がたくして、そのたまたま<ruby><rb>獲</rb><rt>う</rt></ruby>べきものがみな戦争をいうがゆえである。これはレセプチイフの一面である。他のプロドュクチイフの一面においては、かの文士としての生涯の惰力が、わずかに抒情詩と歴史との部分に遺残してウィタ、ミニマを営んでいる。

わたくしは詩を作り歌を<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>む。彼は知人の<ruby><rb>采録</rb><rt>さいろく</rt></ruby>するところとなって<ruby><rb>時々</rb><rt>じじ</rt></ruby>世間に出るが、これは友人某に示すにすぎない。前にアルシャイスムとして排した詩、いまの思想を容るるに足らずとして排した歌を、何故になお作り試みるか。他無し、未だ依るべき新たなる形式を得ざるゆえである。これが抒情詩である。

わたくしは叙実の文を作る。新聞紙のために古人の伝記を草するのも人の請うがままに碑文を作るのも、ここに属する。何故に現在の思量が伝記をしてジェネアロジックの方向を取らしめているかは、未だまったくみずから明かにせざるところで、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>にいった自然科学の影響のごときは、少くも動機の全部ではなさそうである。<ruby><rb>趙翼</rb><rt>ちょうよく</rt></ruby>は<ruby><rb>魏収</rb><rt>ぎしゅう</rt></ruby>をそしって「<ruby><rb>代人作家譜</rb><rt>ひとにかわってかふをつくる</rt></ruby>」といった。しかしわたくしの伝記を作るのと、支那人が史を修めたのとは、その動機に同じからざるものがあるかとおもう。碑文に漢文体を用いるのも、また形式未成のゆえである。これが歴史である。現在はかくのごとくである。

近ごろわたくしを訪うて文学芸術の問題ないし社会問題に関する意見を徴し、また小説を求むるものが多い。わたくしはその<ruby><rb>煩</rb><rt>はん</rt></ruby>にたえない。あえてあからさまに過去と現在とを告げて徴求の源をふさぐ。

顧炎武はかつて<ruby><rb>牌</rb><rt>はい</rt></ruby>を室に懸けて応酬文字を拒絶した。この「なかじきり」もまた顧家懸牌の類である。

大正六年九月