九月一日

どっどどどどうど　どどうど　どどう、

ああまいざくろも吹きとばせ

すっぱいざくろもふきとばせ

どっどどどどうど　どどうど　どどう

谷川の岸に小さな四角な学校がありました。

学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室がひとつあるきりでほかには<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りも教員室もなく運動場はテニスコートのくらいでした。

先生はたった一人で、五つの級を教えるのでした。それはみんなでちょうど二十人になるのです。三年生はひとりもありません。

さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い<ruby><rb>雪袴</rb><rt>ゆきばかま</rt></ruby>をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかに<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>も来ていないのを見て

「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>びながら<ruby><rb>大悦</rb><rt>おおよろこ</rt></ruby>びで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。がひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけはそのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の子供がひとり一番前の机にちゃんと<ruby><rb>座</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をりんと張ってそっちの方をにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

「ちゃうはあぶどり、ちゃうはあぶどり」と高く叫ぶ声がしてそれからいなずまのように<ruby><rb>嘉助</rb><rt>かすけ</rt></ruby>が、かばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎だの耕助だのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をつかまえて<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛のおかしな子がすましてしゃんとすわっているのが目につきました。みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集って来ましたが誰も何とも云えませんでした。赤毛の子どもは一向こわがる風もなくやっぱりじっと座っています。すると六年生の一郎が来ました。一郎はまるで<ruby><rb>坑夫</rb><rt>こうふ</rt></ruby>のようにゆっくり<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>にやってきて、みんなを見て「<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>した」とききました。みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指しました。一郎はしばらくそっちを見ていましたがやがて<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>をしっかりかかえてさっさと窓の下へ行きました。みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>だ、時間にならなぃに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して云いました。

「先生にうんと<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>らえるぞ。」窓の下の耕助が云いました。

「叱らえでもおら知らなぃよ。」嘉助が云いました。

「早ぐ出はって来、出はって来。」一郎が云いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中やみんなの方を見るばかりでやっぱりちゃんとひざに手をおいて<ruby><rb>腰掛</rb><rt>こしかけ</rt></ruby>に座っていました。

ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこな<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>いろのマントを着て<ruby><rb>水晶</rb><rt>すいしょう</rt></ruby>かガラスか、とにかくきれいなすきとおった<ruby><rb>沓</rb><rt>くつ</rt></ruby>をはいていました。それに顔と云ったら、まるで熟した<ruby><rb>苹果</rb><rt>りんご</rt></ruby>のよう<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に眼はまん円でまっくろなのでした。一向<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

「外国人だな。」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云いました。ところが五年生の嘉助がいきなり

「ああ、三年生さ入るのだ。」と叫びましたので

「ああ、そうだ。」と小さいこどもらは思いましたが一郎はだまってくびをまげました。

変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけきちんと腰掛けています。ところがおかしいことは、先生がいつものキラキラ光る呼子<ruby><rb>笛</rb><rt>ぶえ</rt></ruby>を持っていきなり出入口から出て来られたのです。そしてわらって

「みなさんお早う。どなたも元気ですね。」と云いながら笛を口にあててピルㇽと<ruby><rb>吹</rb><rt>ふ</rt></ruby>きました。そこでみんなはきちんと運動場に整列しました。

「気を付けっ」

みんな気を付けをしました。けれども誰の眼もみんな教室の中の変な子に向いていました。先生も何があるのかと思ったらしく、ちょっとうしろを<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>り向いて見ましたが、なあになんでもないという風でまたこっちを向いて

「右ぃおいっ」と号令をかけました。ところがおかしな子どもはやっぱりちゃんとこしかけたままきろきろこっちを見ています。みんなはそれから番号をかけて右向けをして順に入口からはいりましたが、その間中も変な子供は少し額に<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を寄せて〔以下原稿数枚なし〕

と一郎が一番うしろからあまりさわぐものを一人ずつ叱りました。みんなはしんとなりました。

「みなさん休みは<ruby><rb>面白</rb><rt>おもしろ</rt></ruby>かったね。朝から水泳ぎもできたし林の中で<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>にも負けないくらい高く叫んだりまた兄さんの<ruby><rb>草刈</rb><rt>くさか</rt></ruby>りについて行ったりした。それはほんとうにいいことです。けれどももう休みは終りました。これからは秋です。むかしから秋は一番勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんも今日から<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>しっかり勉強しましょう。みなさんは休み中でいちばん面白かったことは何ですか。」

「先生。」と四年生の悦治が手をあげました。

「はい。」

「先生さっきたの人あ何だったべす。」

先生はしばらくおかしな顔をして

「さっきの人……」

「さっきたの髪の赤いわらすだんす。」みんなもどっと叫びました。

「先生髪のまっ赤なおかしなやづだったんす。」

「マント着てたで。」

「笛鳴らなぃに教室さはいってたぞ。」

先生は困って

「一人ずつ云うのです。髪の赤い人がここに居たのですか。」

「そうです、先生。」〔以下原稿数枚なし〕

の山にのぼってよくそこらを見ておいでなさい。それからあしたは道具をもってくるのです。それではここまで。」と先生は云いました。みんなもうあの山の上ばかり見ていたのです。

「気を付けっ。」一郎が叫びました。「礼っ。」みんなおじぎをするや<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>やまるで風のように教室を出ました。それからがやがやその草山へ走ったのです。女の子たちもこっそりついて行きました。けれどもみんなは山にのぼるとがっかりしてしまいました。みんながやっとその<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>の木の下まで行ったときはその変な子はもう見えませんでした。そこには十本ばかりのたけにぐさが先生の云ったとおり風にひるがえっているだけだったのです。けれども小さい方のこどもらはもうあんまりその変な子のことばかり考えていたもんですからもうそろそろ<ruby><rb>厭</rb><rt>あ</rt></ruby>きていました。

そしてみんなはわかれてうちへ帰りましたが一郎や嘉助は仲々それを忘れてしまうことはできませんでした。

九月二日

次の日もよく晴れて谷川の波はちらちらひかりました。

一郎と五年生の耕一とは、丁度<ruby><rb>午后</rb><rt>ごご</rt></ruby>二時に授業がすみましたので、いつものように教室の<ruby><rb>掃除</rb><rt>そうじ</rt></ruby>をして、それから二人<ruby><rb>一緒</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>に学校の門を出ましたが、その時二人の頭の中は、昨日の変な子供で<ruby><rb>一杯</rb><rt>いっぱい</rt></ruby>になっていました。そこで二人はもう一度、あの青山の栗の木まで行って見ようと相談しました。二人は鞄をきちんと背負い、川を<ruby><rb>渡</rb><rt>わた</rt></ruby>って<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>をぐんぐん登って行きました。

ところがどうです。丘の<ruby><rb>途中</rb><rt>とちゅう</rt></ruby>の小さな段を一つ<ruby><rb>越</rb><rt>こ</rt></ruby>えて、ひょっと上の栗の木を見ますと、たしかにあの赤髪の鼠色のマントを着た変な子が草に足を投げ出して、だまって空を見上げているのです。今日こそ全く<ruby><rb>間違</rb><rt>まちが</rt></ruby>いありません。たけにぐさは栗の木の左の方でかすかにゆれ、栗の木のかげは黒く草の上に落ちています。

その黒い<ruby><rb>影</rb><rt>かげ</rt></ruby>は変な子のマントの上にもかかっているのでした。二人はそこで胸をどきどきさせて、まるで風のようにかけ上りました。その子は大きな目をして、じっと二人を見ていましたが、<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げようともしなければ笑いもしませんでした。小さな<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を強そうにきっと結んだまま、<ruby><rb>黙</rb><rt>だま</rt></ruby>って二人のかけ上って来るのを見ていました。

二人はやっとその子の前まで来ました。けれどもあんまり息がはあはあしてすぐには何も云えませんでした。耕一などはあんまりもどかしいもんですから空へ向いて、

「ホッホウ。」と叫んで早く息を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>いてしまおうとしました。するとその子が口を曲げて<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>笑いました。

一郎がまだはあはあ云いながら、切れ切れに叫びました。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>うな</rt></ruby>ぁ<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>だ。何だ<ruby><rb>汝</rb><rt>うな</rt></ruby>ぁ。」

するとその子は落ちついて、まるで大人のようにしっかり答えました。

「風野又三郎。」

「どこの人だ、ロシヤ人か。」

するとその子は空を向いて、はあはあはあはあ笑い出しました。その声はまるで<ruby><rb>鹿</rb><rt>しか</rt></ruby>の笛のようでした。それからやっとまじめになって、

「又三郎だい。」とぶっきら棒に返事しました。

「ああ風の又三郎だ。」一郎と耕一とは思わず叫んで顔を見合せました。

「だからそう云ったじゃないか。」又三郎は少し<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>ったようにマントからとがった小さな手を出して、草を一本むしってぷいっと投げつけながら云いました。

「そんだらあっちこっち飛んで歩くな。」一郎がたずねました。

「うん。」

「面白いか。」と耕一が言いました。すると風の又三郎は又笑い出して空を見ました。

「うん面白い。」

「昨日<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>して逃げた。」

「逃げたんじゃないや。昨日は二百十日だい。本当なら兄さんたちと一緒にずうっと北の方へ行ってるんだ。」

「<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>して行かなかった。」

「兄さんが呼びに来なかったからさ。」

「何て云う、<ruby><rb>汝</rb><rt>うな</rt></ruby>の<ruby><rb>兄</rb><rt>あい</rt></ruby>なは。」

「風野又三郎。きまってるじゃないか。」又三郎は又<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を悪くしました。

「あ、<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>った。うなの兄なも風野又三郎、うなぃのお父さんも風野又三郎、うなぃの<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんも風野又三郎だな。」と耕一が言いました。

「そうそう。そうだよ。<ruby><rb>僕</rb><rt>ぼく</rt></ruby>はどこへでも行くんだよ。」

「<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>へも行ったか。」

「うん。」

「岩手山へも行ったが。」

「岩手山から今来たんじゃないか。ゆうべは岩手山の谷へ<ruby><rb>泊</rb><rt>とま</rt></ruby>ったんだよ。」

「いいなぁ、おらも風になるたぃなぁ。」

すると風の又三郎はよろこんだの何のって、顔をまるでりんごのようにかがやくばかり赤くしながら、いきなり立ってきりきりきりっと二三べんかかとで<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>りました。鼠色のマントがまるでギラギラする白光りに見えました。それから又三郎は座って話し出しました。

「面白かったぞ。今朝のはなし聞かせようか、そら、僕は昨日の朝ここに居たろう。」

「あれから岩手山へ行ったな。」耕一がたずねました。

「あったりまえさ、あったりまえ。」又三郎は口を曲げて耕一を<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>にしたような顔をしました。

「そう僕のはなしへ口を入れないで黙っておいで。ね、そら、昨日の朝、僕はここから北の方へ行ったんだ。途中で六十五回もいねむりをしたんだ。」

「<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>してそんなにひるねした？」

「仕方ないさ。僕たちが起きてはね廻っていようたって、行くところがなくなればあるけないじゃないか。あるけなくなりゃ、いねむりだい。きまってらぁ。」

「歩けないたって立つが<ruby><rb>座</rb><rt>ねま</rt></ruby>るかして目をさましていればいい。」

「うるさいねえ、いねむりたって僕がねむるんじゃないんだよ。お前たちがそう云うんじゃないか。お前たちは僕らのじっと立ったり座ったりしているのを、風がねむると云うんじゃないか。僕はわざとお前たちにわかるように云ってるんだよ。うるさいねえ。もう僕、行っちまうぞ。黙って聞くんだ。ね、そら、僕は途中で六十五回いねむりをして、その間考えたり笑ったりして、夜中の一時に岩手山の丁度三合目についたろう。あすこの小屋にはもう人が居ないねえ。僕は小屋のまわりを一ぺんぐるっとまわったんだよ。そしてまっくろな地面をじっと見おろしていたら何だか足もとがふらふらするんだ。見ると谷の底がだいぶ<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いてるんだ。僕らは、もう、少しでも、空いているところを見たらすぐ走って行かないといけないんだからね、僕はどんどん下りて行ったんだ。谷底はいいねえ。僕は三本の<ruby><rb>白樺</rb><rt>しらかば</rt></ruby>の木のかげへはいってじっとしずかにしていたんだ。朝までお星さまを数えたりいろいろこれからの面白いことを考えたりしていたんだ。あすこの谷底はいいねえ。そんなにしずかじゃないんだけれど。それは僕の前にまっ黒な<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>があってねえ、そこから一晩中ころころかさかさ石かけや火山灰のかたまったのやが<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れて落ちて来るんだ。けれどもじっとその音を聞いてるとね、なかなか面白いんだよ。そして今朝少し明るくなるとその崖がまるで火が燃えているようにまっ赤なんだろう。そうそう、まだ明るくならないうちにね、谷の上の方をまっ赤な火がちらちらちらちら通って行くんだ。<ruby><rb>楢</rb><rt>なら</rt></ruby>の木や樺の木が火にすかし出されてまるで<ruby><rb>烏瓜</rb><rt>からすうり</rt></ruby>の<ruby><rb>燈籠</rb><rt>とうろう</rt></ruby>のように見えたぜ。」

「そうだ。おら去年烏瓜の<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかし</rt></ruby><ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>えた。そして<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>へ<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>して置いたら風吹いて落ちた。」と耕一が言いました。

すると又三郎は<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き出してしまいました。

「僕お前の烏瓜の燈籠を見たよ。あいつは<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>だったねい、だから僕がいきなり<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>き当って落してやったんだ。」

「うわぁい。」

耕一はただ一言云ってそれから何ともいえない変な顔をしました。

又三郎はおかしくておかしくてまるで<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を波のようにして一生けん命空の方に向いて笑っていましたがやっとこらえて<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>きながら申しました。

「僕失敬したよ。僕そのかわり今度いいものを持って来てあげるよ。お前んとこへね、きれいなはこやなぎの木を五本持って行ってあげるよ。いいだろう。」

耕一はやっと怒るのをやめました。そこで又三郎は又お話をつづけました。

「ね、その谷の上を行く人たちはね、みんな白いきものを着て一番はじめの人はたいまつを待っていただろう。僕すぐもう行って見たくて行って見たくて仕方なかったんだ。けれどどうしてもまだ歩けないんだろう、そしたらね、そのうちに東が少し白くなって鳥がなき出したろう。ね、あすこにはやぶうぐいすや<ruby><rb>岩燕</rb><rt>いわつばめ</rt></ruby>やいろいろ居るんだ。鳥がチッチクチッチクなき出したろう。もう僕は早く谷から飛び出したくて飛び出したくて仕方なかったんだよ。すると丁度いいことにはね、いつの間にか上の方が大へん<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いてるんだ。さあ僕はひらっと飛びあがった。そしてピゥ、ただ一足でさっきの白いきものの人たちのとこまで行った。その人たちはね一列になってつつじやなんかの生えた石からをのぼっているだろう。そのたいまつはもうみじかくなって消えそうなんだ。僕がマントをフゥとやって通ったら火がぽっぽっと青くうごいてね、とうとう消えてしまったよ。ほんとうはもう消えてもよかったんだ。東が<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>のようになって大きなとかげの形の雲が<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby><ruby><rb>浮</rb><rt>うか</rt></ruby>んでいた。

『あ、とうとう<ruby><rb>消</rb><rt>け</rt></ruby>だ。』と<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>かが叫んでいた。おかしいのはねえ、列のまん中ごろに一人の少し<ruby><rb>年老</rb><rt>としと</rt></ruby>った人が居たんだ。その人がね、年を老って<ruby><rb>大儀</rb><rt>たいぎ</rt></ruby>なもんだから前をのぼって行く若い人のシャツのはじにね、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>とりついたんだよ。するとその若い人が怒ってね、

『引っ張るなったら、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>たがらいで<ruby><rb>処</rb><rt>とこ</rt></ruby>さ来るづどいっつも引っ張らが。』と<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>んだ。みんなどっと笑ったね。僕も笑ったねえ。そして又一あしでもう頂上に来ていたんだ。それからあの<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>の火口のあとにはいって僕は二時間ねむった。ほんとうにねむったのさ。するとね、ガヤガヤ云うだろう、見るとさっきの人たちがやっと登って来たんだ。みんなで火口のふちの三十三の石ぼとけにね、バラリバラリとお米を投げつけてね、もうみんな早く頂上へ行こうと競争なんだ。向うの方ではまるで泣いたばかりのような<ruby><rb>群青</rb><rt>ぐんじょう</rt></ruby>の山脈や<ruby><rb>杉</rb><rt>すぎ</rt></ruby>ごけの丘のようなきれいな山にまっ白な雲が所々かかっているだろう。すぐ下にはお<ruby><rb>苗代</rb><rt>なわしろ</rt></ruby>や<ruby><rb>御釜</rb><rt>おかま</rt></ruby>火口湖がまっ<ruby><rb>蒼</rb><rt>さお</rt></ruby>に光って<ruby><rb>白樺</rb><rt>しらかば</rt></ruby>の林の中に見えるんだ。面白かったねい。みんなぐんぐんぐんぐん走っているんだ。すると頂上までの処にも一つ坂があるだろう。あすこをのぼるとき又さっきの<ruby><rb>年老</rb><rt>としよ</rt></ruby>りがね、前の若い人のシャツを引っぱったんだ。怒っていたねえ。それでも頂上に着いてしまうとそのとし<ruby><rb>老</rb><rt>よ</rt></ruby>りがガラスの<ruby><rb>瓶</rb><rt>びん</rt></ruby>を出してちいさなちいさなコップについでそれをそのぷんぷん怒っている若い人に持って行って笑って拝むまねをして出したんだよ。すると若い人もね、急に笑い出してしまってコップを<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>していたよ。そしておしまいとうとうのんだろうかねえ。僕はもう丁度こっちへ来ないといけなかったもんだからホウと一つ叫んで岩手山の頂上からはなれてしまったんだ。どうだ面白いだろう。」

「面白いな。ホウ。」と耕一が答えました。

「又三郎さん。お<ruby><rb>前</rb><rt>まい</rt></ruby>はまだここらに居るのか。」一郎がたずねました。

又三郎はじっと空を見ていましたが

「そうだねえ。もう五六日は居るだろう。歩いたってあんまり遠くへは行かないだろう。それでももう九日たつと二百二十日だからね。その日は、事によると僕はタスカロラ<ruby><rb>海床</rb><rt>かいしょう</rt></ruby>のすっかり北のはじまで行っちまうかも知れないぜ。今日もこれから一寸向うまで行くんだ。僕たちお友達になろうかねえ。」

「はじめから友だちだ。」一郎が少し顔を赤くしながら云いました。

「あした僕は又どっかであうよ。学校から帰る時もし僕がここに居たようならすぐおいで。ね。みんなも連れて来ていいんだよ。僕はいくらでもいいこと知ってんだよ。えらいだろう。あ、もう行くんだ。さよなら。」

又三郎は立ちあがってマントをひろげたと思うとフィウと音がしてもう形が見えませんでした。

一郎と耕一とは、あした又あうのを楽しみに、丘を下っておうちに帰りました。

九月三日

その次の日は九月三日でした。昼すぎになってから一郎は大きな声で<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>いました。

「おう、又三郎は昨日<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>来たぞ。今日も来るかも知れないぞ。又三郎の話聞きたいものは<ruby><rb>一緒</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>にあべ。」

残っていた十人の子供らがよろこんで、

「わぁっ」と叫びました。

そしてもう早くもみんなが<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>にかけ上ったのでした。ところが又三郎は来ていないのです。みんなは声をそろえて叫びました。

「又三郎、又三郎、どうどっと<ruby><rb>吹</rb><rt>ふ</rt></ruby>いで<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>。」

それでも、又三郎は一向来ませんでした。

「風どうと吹いて<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>、豆<ruby><rb>呉</rb><rt>け</rt></ruby>ら風どうと吹いで<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>。」

空には今日も青光りが<ruby><rb>一杯</rb><rt>いっぱい</rt></ruby>に<ruby><rb>漲</rb><rt>みな</rt></ruby>ぎり、白いまばゆい雲が大きな<ruby><rb>環</rb><rt>わ</rt></ruby>になって、しずかにめぐるばかりです。みんなは又叫びました。

「又三郎、又三郎、どうと吹いて降りで<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>。」

又三郎は来ないで、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってみんな見上げた青空に、小さな小さなすき通った<ruby><rb>渦巻</rb><rt>うずまき</rt></ruby>が、みずすましの様に、ツイツイと、上ったり下ったりするばかりです。みんなは又叫びました。

「又三郎、又三郎、<ruby><rb>汝</rb><rt>うな</rt></ruby>、<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>して早ぐ来ない。」

それでも又三郎はやっぱり来ませんでした。

ただ一<ruby><rb>疋</rb><rt>ぴき</rt></ruby>の<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>が銀色の羽をひるがえして、空の青光を咽喉一杯に<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みながら、東の方へ飛んで行くばかりです。みんなは又叫びました。

「又三郎、又三郎、早ぐ<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>さ飛んで<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>。」

その時です。あのすきとおる<ruby><rb>沓</rb><rt>くつ</rt></ruby>とマントがギラッと白く光って、風の又三郎は顔をまっ赤に<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>らせて、はあはあしながらみんなの前の草の中に立ちました。

「ほう、又三郎、待っていたぞ。」

みんなはてんでに叫びました。又三郎はマントのかくしから、うすい黄色のはんけちを出して、額の<ruby><rb>汗</rb><rt>あせ</rt></ruby>を拭きながら申しました。

「僕ね、もっと早く来るつもりだったんだよ。ところがあんまりさっき高いところへ行きすぎたもんだから、お前達の来たのがわかっていても、すぐ来られなかったんだよ。それは僕は高いところまで行って、そら、あすこに白い雲が環になって光っているんだろう。僕はあのまん中をつきぬけてもっと上に行ったんだ。そして<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんに<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>して来たんだ。僕の叔父さんなんか<ruby><rb>偉</rb><rt>えら</rt></ruby>いぜ。今日だってもう三十里から歩いているんだ。僕にも一緒に行こうって云ったけれどもね、僕なんかまだ行かなくてもいいんだよ。」

「<ruby><rb>汝</rb><rt>うな</rt></ruby>ぃの叔父さんどごまで行く。」

「僕の叔父さんかい。叔父さんはね、今度ずうっと高いところをまっすぐに北へすすんでいるんだ。

叔父さんのマントなんか、まるで冷えてしまっているよ。小さな小さな氷のかけらがさらさらぶっかかるんだもの、そのかけらはここから見えやしないよ」

「又三郎さんは去年なも<ruby><rb>今頃</rb><rt>いまごろ</rt></ruby>ここへ来たか。」

「去年は今よりもう少し早かったろう。<ruby><rb>面白</rb><rt>おもしろ</rt></ruby>かったねえ。九州からまるで一飛びに<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>けて馳けてまっすぐに東京へ来たろう。そしたら丁度僕は保久大将の家を通りかかったんだ。僕はね、あの人を前にも知っているんだよ。だから面白くて家の中をのぞきこんだんだ。障子が二枚はずれてね『すっかり<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>になった』とつぶやきながら障子を立てたんだ。僕はそこから走って庭へでた。あすこにはざくろの木がたくさんあるねえ。若い大工がかなづちを<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>にはさんで、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もらしい顔をして庭の<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>や屋根を<ruby><rb>見廻</rb><rt>みまわ</rt></ruby>っていたがね、本当はやっこさん、僕たちの馳けまわるのが大変面白かったようだよ。<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>がぴくぴくして、いかにもうれしいのを、無理にまじめになって歩きまわっていたらしかったんだ。

そして落ちたざくろを一つ拾って<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>ったろう、さあ僕はおかしくて笑ったね、そこで僕は、<ruby><rb>屋敷</rb><rt>やしき</rt></ruby>の塀に沿って一寸戻ったんだ。それから<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに叫んで大工の頭の上をかけ<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けたねえ。

ドッドド　ドドウド　ドドウド　ドドウ、

甘いざくろも吹き飛ばせ

<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>っぱいざくろも吹き飛ばせ

ホラね、ざくろの実がばたばた落ちた。大工はあわてたような変なかたちをしてるんだ。僕はもう笑って笑って走った。

電信ばしらの針金を一本切ったぜ、それからその晩、夜どおし馳けてここまで来たんだ。

ここを通ったのは丁度あけがただった。その時僕は、あの<ruby><rb>高洞山</rb><rt>たかぼらやま</rt></ruby>のまっ黒な<ruby><rb>蛇紋岩</rb><rt>じゃもんがん</rt></ruby>に、一つかみの雲を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にいたんだ。海と云ったって見えはしない。もう僕はゆっくり歩いていたからね。<ruby><rb>霧</rb><rt>きり</rt></ruby>が一杯にかかってその中で波がドンブラゴッコ、ドンブラゴッコ、と云ってるような気がするだけさ。今年だって二百二十日になったら僕は又馳けて行くんだ。面白いなあ。」

「ほう、いいなあ、又三郎さんだちはいいなあ。」

小さな子供たちは一緒に云いました。

すると又三郎はこんどは少し<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>りました。

「お前たちはだめだねえ。なぜ人のことをうらやましがるんだい。僕だってつらいことはいくらもあるんだい。お前たちにもいいことはたくさんあるんだい。僕は自分のことを一向考えもしないで人のことばかりうらやんだり<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>にしているやつらを一番いやなんだぜ。僕たちの方ではね、自分を<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>のものとくらべることが一番はずかしいことになっているんだ。僕たちはみんな一人一人なんだよ。さっきも云ったような僕たちの一年に一ぺんか二へんの大演習の時にね、いくら早くばかり行ったって、うしろをふりむいたり<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>んで行くものの足なみを見たりするものがあると、もう<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>も相手にしないんだぜ。やっぱりお前たちはだめだねえ。外の人とくらべることばかり考えているんじゃないか。僕はそこへ行くとさっき空で<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>った鷹がすきだねえ。あいつは天気の悪い日なんか、ずいぶん意地の悪いこともあるけれども空をまっすぐに馳けてゆくから、僕はすきなんだ。銀色の羽をひらりひらりとさせながら、空の青光の中や空の<ruby><rb>影</rb><rt>かげ</rt></ruby>の中を、まっすぐにまっすぐに、まるでどこまで行くかわからない不思議な矢のように馳けて行くんだ。だからあいつは意地悪で、あまりいい気持はしないけれども、さっきも、よう、あんまり空の青い石を突っつかないでくれっ、て挨拶したんだ。するとあいつが云ったねえ、ふん、青い石に穴があいたら、お前にも向う世界を見物させてやろうって云うんだ。云うことはずいぶん生意気だけれども僕は悪い気がしなかったねえ。」

一郎がそこで云いました。

「又三郎さん。おらはお前をうらやましがったんでないよ、お前をほめたんだ。おらはいつでも先生から習っているんだ。本当に男らしいものは、自分の仕事を立派に仕上げることをよろこぶ。決して自分が出来ないからって人をねたんだり、出来たからって出来ない人を見くびったりさない。お前もそう怒らなくてもいい。」

又三郎もよろこんで笑いました。それから一寸立ち上ってきりきりっとかかとで一ぺんまわりました。そこでマントがギラギラ光り、ガラスの沓がカチッ、カチッとぶっつかって鳴ったようでした。又三郎はそれから又<ruby><rb>座</rb><rt>すわ</rt></ruby>って云いました。

「そうだろう。だから僕は君たちもすきなんだよ。君たちばかりでない。子供はみんなすきなんだ。僕がいつでもあらんかぎり叫んで馳ける時、よろこんできゃっきゃっ云うのは子供ばかりだよ。<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>だってそうさ。ひるすぎから俄かに僕たちがやり出したんだ。そして僕はある<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>を通ったね。<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>の木の青いいがを落したり、青葉までがりがりむしってやったね。その時峠の頂上を、雨の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>もしないで二人の兄弟が通るんだ、兄さんの方は丁度おまえくらいだったろうかね。」　　

又三郎は一郎を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>った指で指しながら又言葉を続けました。

「弟の方はまるで小さいんだ。その顔の赤い子よりもっと小さいんだ。その小さな子がね、まるでまっ青になってぶるぶるふるえているだろう。それは僕たちはいつでも人間の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>から火花を出せるんだ。僕の前に行ったやつがいたずらして、その兄弟の眼を横の方からひどく<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>しつけて、とうとうパチパチ火花が<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>ったように思わせたんだ。そう見えるだけさ、本当は火花なんかないさ。それでもその小さな子は空が<ruby><rb>紫色</rb><rt>むらさきいろ</rt></ruby>がかった<ruby><rb>白光</rb><rt>しろびかり</rt></ruby>をしてパリパリパリパリと燃えて行くように思ったんだ。そしてもう天地がいまひっくりかえって焼けて、自分も兄さんもお母さんもみんなちりぢりに死んでしまうと思ったんだい。かあいそうに。そして兄さんにまるで石のように<ruby><rb>堅</rb><rt>かた</rt></ruby>くなって<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>きついていたね。ところがその大きな方の子はどうだい。小さな子を風のかげになるようにいたわってやりながら、自分はさも気持がいいというように、僕の方を向いて高く叫んだんだ。そこで僕も少ししゃくにさわったから、一つ大あばれにあばれたんだ。豆つぶぐらいある石ころをばらばら吹きあげて、たたきつけてやったんだ。小さな子はもう本当に大声で泣いたねえ。それでも大きな子はやっぱり笑うのをやめなかったよ。けれどとうとうあんまり弟が泣くもんだから、自分も<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くなったと見えて口がピクッと横の方へまがった、そこで僕は急に気の毒になって、丁度その時行く道がふさがったのを<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>に、ぴたっとまるでしずかな湖のように静まってやった。それから兄弟と一緒に峠を下りながら横の方の草原から<ruby><rb>百合</rb><rt>ゆり</rt></ruby>の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>を二人の方へもって行ってやったりした。

どうしたんだろう、急に向うが<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いちまった。僕は向うへ行くんだ。さよなら。あしたも又来てごらん。又遭えるかも知れないから。」

風の又三郎のすきとおるマントはひるがえり、たちまちその姿は見えなくなりました。みんなはいろいろ今のことを話し合いながら丘を下り、わかれてめいめいの家に帰りました。

九月四日

「サイクルホールの話聞かせてやろうか。」

又三郎はみんなが丘の栗の木の下に着くやいなや、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う云っていきなり形をあらわしました。けれどもみんなは、サイクルホールなんて何だか知りませんでしたから、だまっていましたら、又三郎はもどかしそうに又言いました。

「サイクルホールの話、お前たちは<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>きたくないかい。聴きたくないなら早くはっきりそう云ったらいいじゃないか。僕行っちまうから。」

「聴きたい。」一郎はあわてて云いました。又三郎は少し<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を悪くしながらぼつりぼつり話しはじめました。

「サイクルホールは面白い。人間だってやるだろう。見たことはないかい。秋のお祭なんかにはよくそんな看板を見るんだがなあ、自転車ですりばちの形になった<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>の中を馳けるんだよ。だんだん上にのぼって行って、とうとうそのすりばちのふちまで行った時、片手でハンドルを持ってハンケチなどを<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>るんだ。なかなかあれでひどいんだろう。ところが僕等がやるサイクルホールは、あんな小さなもんじゃない。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も小さい時もあるにはあるよ。お前たちのかまいたちっていうのは、サイクルホールの小さいのだよ。」

「ほ、おら、かまいたぢに足切られたぞ。」

嘉助が叫びました。

「何だって足を切られた？　本当かい。どれ足を出してごらん。」

又三郎はずいぶんいやな顔をしながら斯う言いました。嘉助はまっ赤になりながら足を出しました。又三郎はしばらくそれを見てから、

「ふうん。」

と医者のような物の言い方をしてそれから、

「<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>脈をお見せ。」

と言うのでした。嘉助は右手を出しましたが、その時の又三郎のまじめくさった顔といったら、とうとう一郎は<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き出しました。けれども又三郎は知らん振りをして、だまって嘉助の脈を見てそれから云いました。

「なるほどね、お前ならことによったら足を切られるかも知れない。この子はね、大へんからだの皮が<ruby><rb>薄</rb><rt>うす</rt></ruby>いんだよ。それに<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に心臓が強いんだ。<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>を少し吸っても血が出るくらいなんだ。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にその時足をすりむきでもしていたんだろう。かまいたちで切れるさ。」

「<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>して切れる。」一郎はたずねました。

「それはね、すりむいたとこから、もう血がでるばかりにでもなっているだろう。それを空気が<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>して押さえてあるんだ。ところがかまいたちのまん中では、わり<ruby><rb>合</rb><rt>あい</rt></ruby>空気が押さないだろう。いきなりそんな足をかまいたちのまん中に入れると、すぐ血が出るさ。」

「切るのだないのか。」一郎がたずねました。

「切るのじゃないさ、血が出るだけさ。痛くなかったろう。」又三郎は嘉助に聴きました。

「痛くなかった。」嘉助はまだ顔を赤くしながら笑いました。

「ふん、そうだろう。痛いはずはないんだ。切れたんじゃないからね。そんな小さなサイクルホールなら僕たちたった一人でも出来る。くるくるまわって走れぁいいからね。そうすれば木の葉や何かマントにからまって、丁度うまい<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>かまいたちになるんだ。ところが大きなサイクルホールはとても一人じゃ出来あしない。小さいのなら十人ぐらい。大きなやつなら大人もはいって千人だってあるんだよ。やる時は<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby>ふたいろあるよ。日がかんかんどこか一とこに照る時か、また僕たちが上と下と反対にかける時ぶっつかってしまうことがあるんだ。そんな時とまあふたいろにきまっているねえ。あんまり大きなやつは、僕よく知らないんだ。南の方の海から起って、だんだんこっちにやってくる時、一寸僕等がはいるだけなんだ。ふうと<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>けて行って十ぺんばかりまわったと思うと、もうずっと上の方へのぼって行って、みんなゆっくり歩きながら笑っているんだ。そんな大きなやつへうまくはいると、九州からこっちの方まで一ぺんに来ることも出来るんだ。けれどもまあ、大抵は<ruby><rb>途中</rb><rt>とちゅう</rt></ruby>で高いとこへ行っちまうね。だから大きなのはあんまり面白かあないんだ。十人ぐらいでやる時は一番<ruby><rb>愉快</rb><rt>ゆかい</rt></ruby>だよ。甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が<ruby><rb>八</rb><rt>やつ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>岳</rb><rt>たけ</rt></ruby>の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の野原でやすんでたろう。<ruby><rb>曇</rb><rt>くも</rt></ruby>った日でねえ、すると向うの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから

『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけない様だよ。』ってみんなの云うのが聞えたんだ。

『やろう』僕はたち上って<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>んだねえ、

『やろう』『やろう』声があっちこっちから聞えたね。

『いいかい、じゃ行くよ。』僕はその平地をめがけてピーッと飛んで行った。するといつでもそうなんだが、まっすぐに平地に行かさらないんだ。急げば急ぐほど右へまがるよ、尤もそれでサイクルホールになるんだよ。さあ、みんながつづいたらしいんだ。僕はもうまるで、汽車よりも早くなっていた。下に富士川の白い帯を見てかけて行った。けれども間もなく、僕はずっと高いところにのぼって、しずかに歩いていたねえ。サイクルホールはだんだん向うへ移って行って、だんだんみんなもはいって行って、ずいぶん大きな音をたてながら、東京の方へ行ったんだ。きっと東京でもいろいろ面白いことをやったねえ。それから海へ行ったろう。海へ行ってこんどは<ruby><rb>竜巻</rb><rt>たつまき</rt></ruby>をやったにちがいないんだ。竜巻はねえ、ずいぶん<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いよ。海のには僕はいったことはないんだけれど、小さいのを沼でやったことがあるよ。丁度お前達の方のご<ruby><rb>維新</rb><rt>いしん</rt></ruby>前ね、<ruby><rb>日詰</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>の近くに源五沼という沼があったんだ。そのすぐ<ruby><rb>隣</rb><rt>とな</rt></ruby>りの草はらで、僕等は五人でサイクルホールをやった。ぐるぐるひどくまわっていたら、まるで木も折れるくらい<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくなってしまった。丁度雨も降るばかりのところだった。一人の僕の友だちがね、沼を通る時、とうとう<ruby><rb>機</rb><rt>はず</rt></ruby>みで水を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>っちゃったんだ。さあ僕等はもう黒雲の中に突き入ってまわって馳けたねえ、水が丁度<ruby><rb>漏斗</rb><rt>じょうご</rt></ruby>の<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>のようになって来るんだ。下から見たら本当にこわかったろう。

『ああ<ruby><rb>竜</rb><rt>りゅう</rt></ruby>だ、竜だ。』みんなは叫んだよ。実際下から見たら、さっきの水はぎらぎら白く光って黒雲の中にはいって、竜のしっぽのように見えたかも知れない。その時友だちがまわるのをやめたもんだから、水はざあっと一ぺんに日詰の町に落ちかかったんだ。その時は僕はもうまわるのをやめて、少し下に降りて見ていたがね、さっきの水の中にいた<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>やなまずが、ばらばらと往来や屋根に降っていたんだ。みんなは外へ出て<ruby><rb>恭恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく僕等の方を拝んだり、降って来た魚を押し<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>いていたよ。僕等は竜じゃないんだけれども拝まれるとやっぱりうれしいからね、友だち同志にこにこしながらゆっくりゆっくり北の方へ走って行ったんだ。まったくサイクルホールは面白いよ。

それから逆サイクルホールというのもあるよ。これは高いところから、さっきの逆にまわって下りてくることなんだ。この時ならば、そんなに急なことはない。冬は僕等は大抵シベリヤに行ってそれをやったり、そっちからこっちに走って来たりするんだ。僕たちがこれをやってる間はよく晴れるんだ。冬ならば<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を痛くするものがたくさん出来る。けれどもそれは僕等の知ったことじゃない。それから五月か六月には、南の方では、大抵<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>の<ruby><rb>揚子江</rb><rt>ようすこう</rt></ruby>の野原で大きなサイクルホールがあるんだよ。その時丁度北のタスカロラ<ruby><rb>海床</rb><rt>かいしょう</rt></ruby>の上では、別に大きな逆サイクルホールがある。両方だんだんぶっつかるとそこが<ruby><rb>梅雨</rb><rt>つゆ</rt></ruby>になるんだ。日本が丁度それにあたるんだからね、仕方がないや。けれどもお前達のところは割合北から西へ外れてるから、梅雨らしいことはあんまりないだろう。あんまりサイクルホールの話をしたから何だか頭がぐるぐるしちゃった。もうさよなら。僕はどこへも行かないんだけれど少し<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りたいんだ。さよなら。」

又三郎のマントがぎらっと光ったと思うと、もうその姿は消えて、みんなは、はじめてほうと息をつきました。それからいろいろいまのことを話しながら、丘を下って<ruby><rb>銘銘</rb><rt>めいめい</rt></ruby>わかれておうちへ帰って行ったのです。

九月五日

「僕は<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>だって何べんも知ってるよ。」みんなが丘へのぼったとき又三郎がいきなりマントをぎらっとさせてそこらの草へ<ruby><rb>橙</rb><rt>だいだい</rt></ruby>や青の光を落しながら出て来てそれから指をひろげてみんなの前に<ruby><rb>突</rb><rt>つ</rt></ruby>き出して云いました。

「上海と東京は僕たちの仲間なら<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>でもみんな通りたがるんだ。どうしてか知ってるかい。」

又三郎はまっ黒な眼を少し意地わるそうにくりくりさせながらみんなを見まわしました。けれども上海と東京ということは一郎も誰も何のことかわかりませんでしたからお<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>しばらく顔を見合せてだまっていましたら又三郎がもう大得意でにやにや笑いながら言ったのです。

「僕たちの仲間はみんな上海と東京を通りたがるよ。どうしてって東京には日本の中央気象台があるし上海には支那の<ruby><rb>中華</rb><rt>ちゅうか</rt></ruby>大気象台があるだろう。どっちだって<ruby><rb>偉</rb><rt>えら</rt></ruby>い人がたくさん居るんだ。本当は気象台の上をかけるときは僕たちはみんな急ぎたがるんだ。どうしてって風力計がくるくるくるくる<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>っていて僕たちのレコードはちゃんと下の機械に出て新聞にも<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>るんだろう。誰だっていいレコードを作りたいからそれはどうしても急ぐんだよ。けれども僕たちの方のきめでは気象台や測候所の近くへ来たからって<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に急いだりすることは大へん<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>なことにされてあるんだ。お前たちだってきっとそうだろう、試験の時ばかりむやみに勉強したりするのはいけないことになってるだろう。だから僕たちも急ぎたくたってわざと急がないんだ。そのかわりほんとうに一生けん命かけてる最中に気象台へ通りかかるときはうれしいねえ、風力計をまるでのぼせるくらいにまわしてピーッとかけぬけるだろう、胸もすっとなるんだ。<ruby><rb>面白</rb><rt>おもしろ</rt></ruby>かったねえ、一昨年だったけれど六月ころ僕丁度上海に居たんだ。昼の間には海から陸へ移って行き夜には陸から海へ行ってたねえ、大抵朝は十時<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>海から陸の方へかけぬけるようになっていたんだがそのときはいつでも、うまい<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に気象台を通るようになるんだ。すると気象台の風力計や風信器や置いてある屋根の上のやぐらにいつでも一人の支那人の理学博士と子供の助手とが立っているんだ。

博士はだまっていたが子供の助手はいつでも何か言っているんだ。そいつは頭をくりくりの<ruby><rb>芥子坊主</rb><rt>けしぼうず</rt></ruby>にしてね、着物だって<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>の広い支那服だろう、<ruby><rb>沓</rb><rt>くつ</rt></ruby>もはいてるねえ、大へんかあいらしいんだよ、一番はじめの日僕がそこを通ったら<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う言っていた。

『これはきっと<ruby><rb>颶風</rb><rt>ぐふう</rt></ruby>ですね。ずぶんひどい風ですね。』

すると支那人の博士が葉巻をくわえたままふんふん笑って

『家が飛ばないじゃないか。』

と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うと子供の助手はまるで口を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らせて、

『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます。』というんだ。博士は笑って相手にしないで<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>を下りて行くねえ、子供の助手は少し<ruby><rb>悄気</rb><rt>しょげ</rt></ruby>ながら手を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまね</rt></ruby>いてあとから恭々しくついて行く。

僕はそのとき二・五<ruby><rb>米</rb><rt>メートル</rt></ruby>というレコードを風力計にのこして笑って行ってしまったんだ。

次の日も九時頃僕は海の<ruby><rb>霧</rb><rt>きり</rt></ruby>の中で眼がさめてそれから霧がだんだん<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>けて空が青くなりお日さまが<ruby><rb>黄金</rb><rt>きん</rt></ruby>のばらのようにかがやき出したころそろそろ陸の方へ向ったんだ。これは仕方ないんだよ、お日さんさえ出たらきっともう僕たちは陸の方へ行かなけぁならないようになるんだ、僕はだんだん岸へよって<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>が白い<ruby><rb>蓮華</rb><rt>れんげ</rt></ruby>の花のように波に<ruby><rb>浮</rb><rt>うか</rt></ruby>んでいるのも見たし、また沢山のジャンクの黄いろの<ruby><rb>帆</rb><rt>ほ</rt></ruby>や白く<ruby><rb>塗</rb><rt>ぬ</rt></ruby>られた蒸気船の<ruby><rb>舷</rb><rt>げん</rt></ruby>を通ったりなんかして昨日の気象台に通りかかると僕はもう遠くからあの風力計のくるくるくるくる廻るのを見て胸が<ruby><rb>踊</rb><rt>おど</rt></ruby>るんだ。すっとかけぬけただろう。レコードが一秒五米と出たねえ、そのとき下を見ると昨日の博士と子供の助手とが今日も出て居て子供の助手がやっぱり云っているんだ。

『この風はたしかに<ruby><rb>颶風</rb><rt>ぐふう</rt></ruby>ですね。』

支那人の博士はやっぱりわらって気がないように、

『<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>も石も<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>い上らんじゃないか。』と答えながらもう壇を下りかかるんだ。子供の助手はまるで一生けん命になって

『だって木の<ruby><rb>枝</rb><rt>えだ</rt></ruby>が動いてますよ。』と云うんだ。それでも博士はまるで相手にしないねえ、僕もその時はもう気象台をずうっとはなれてしまってあとどうなったか知らない。

そしてその日はずうっと西の方の瀬戸物の<ruby><rb>塔</rb><rt>とう</rt></ruby>のあるあたりまで行ってぶらぶらし、その晩十七夜のお月さまの出るころ海へ<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>って睡ったんだ。

ところがその次の日もなんだ。その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出ていた。

『こいつはもう本とうの暴風ですね、』<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>あの子供の助手が<ruby><rb>尤</rb><rt>もっとも</rt></ruby>らしい顔つきで<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>を拱いてそう云っているだろう。博士はやっぱり鼻であしらうといった風で

『だって木が根こぎにならんじゃないか。』と云うんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして

『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云うんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね、そんなに気象台の所にばかり永くとまっているわけには行かなかったんだ。そしてその次の日だよ、やっぱり僕は海へ帰っていたんだ。そして丁度八時ころから雲も一ぱいにやって来て波も高かった。僕はこの時はもう両手をひろげ叫び声をあげて気象台を通った。やっぱり二人とも出ていたねえ、子供は高い<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>なもんだからもうぶるぶる<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えて手すりにとりついているんだ。雨も<ruby><rb>幾</rb><rt>いく</rt></ruby>つぶか落ちたよ。そんなにこわそうにしながらまた斯う云っているんだ。

『これは本当の暴風ですね、林ががあがあ云ってますよ、枝も折れてますよ。』

ところが博士は落ちついてからだを少しまげながら海の方へ手をかざして云ったねえ

『うん、けれどもまだ暴風というわけじゃないな。もう降りよう。』僕はその<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>をきれぎれに<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>きながらそこをはなれたんだそれからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな<ruby><rb>狂人</rb><rt>きょうじん</rt></ruby>のようにゆすぶらせ丘を通るときは草も花もめっちゃめちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>から八十里も南西の方の山の中に行ったんだ。そして少し<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れたのでみんなとわかれてやすんでいたらその晩また僕たちは上海から北の方の海へ<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けて今度はもうまっすぐにこっちの方までやって来るということになったんだ。そいつは低気圧だよ、あいつに<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行くことになったんだ。さあ僕はその晩中あしたもう一ぺん上海の気象台を通りたいといくら考えたか知れやしない。ところがうまいこと通ったんだ。そして僕は遠くから風力計の<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>がまるで眼にも見えない位速くまわっているのを見、又あの支那人の博士が黄いろなレーンコートを着子供の助手が黒い<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>を着てやぐらの上に立って一生けん命空を見あげているのを見た。さあ僕はもう<ruby><rb>笛</rb><rt>ふえ</rt></ruby>のように鳴りいなずまのように飛んで

『今日は暴風ですよ、そら、暴風ですよ。今日は。さよなら。』と叫びながら通ったんだ。もう子供の助手が何を云ったかただその小さな口がぴくっとまがったのを見ただけ少しも僕にはわからなかった。

そうだ、そのときは僕は海をぐんぐんわたってこっちへ来たけれども来る<ruby><rb>途中</rb><rt>とちゅう</rt></ruby>でだんだんかけるのをやめてそれから丁度五日目にここも通ったよ。その前の日はあの水沢の臨時<ruby><rb>緯度</rb><rt>いど</rt></ruby>観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国の方まで知れるようになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では<ruby><rb>入梅</rb><rt>にゅうばい</rt></ruby>だったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでいたねえ、やすんで居たって本当は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で

『大丈夫です、すっかり<ruby><rb>乾</rb><rt>かわ</rt></ruby>きましたから。』と云う声がするんだろう。見ると木村博士と気象の方の<ruby><rb>技手</rb><rt>ぎて</rt></ruby>とがラケットをさげて出て来ていたんだ。木村博士は<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せて眼のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好きだねえ、それに非常にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見てたねえ、どうしてもその技手の人はかなわない、まるっきり<ruby><rb>汗</rb><rt>あせ</rt></ruby>だらけになってよろよろしているんだ。あんまり僕も気の毒になったから屋根の上からじっとボールの往来をにらめてすきを見て置いてねえ、丁度博士がサーヴをつかったときふうっと飛び出して行って球を横の方へ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らしてしまったんだ。博士はすぐもう一つの球を打ちこんだねえ。そいつは僕は途中に居て途方もなく遠くへけとばしてやった。

『こんな<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はないぞ。』と博士は云ったねえ、僕はもう博士にこれ位云わせれば沢山だと思って観測所をはなれて次の日丁度ここへ来たんだよ。ところでね、僕は少し向うへ行かなくちゃいけないから今日はこれでお別れしよう。さよなら。」

又三郎はすっと見えなくなってしまいました。

みんなは今日は又三郎ばかりあんまり勝手なことを云ってあんまり勝手に行ってしまったりするもんですから少し変な気もしましたが一所に丘を降りて帰りました。

九月六日

<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>からだんだん曇って来たそらはとうとうその朝は低い雨雲を下してまるで冬にでも降るようなまっすぐなしずかな雨がやっと<ruby><rb>穂</rb><rt>ほ</rt></ruby>を出した草や青い木の葉にそそぎました。

みんなは<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>をさしたり小さな<ruby><rb>簑</rb><rt>みの</rt></ruby>からすきとおるつめたい<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>をぽたぽた落したりして学校に来ました。

雨はたびたび<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れて雲も白く光りましたけれども今日は<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>もあんまり教室の窓からあの丘の<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>の木の処を見ませんでした。又三郎などもはじめこそはほんとうにめずらしく<ruby><rb>奇体</rb><rt>きたい</rt></ruby>だったのですがだんだんなれて見ると割合ありふれたことになってしまってまるで東京からふいに<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の学校へ移って来た友だちぐらいにしか思われなくなって来たのです。

おひるすぎ授業が済んでからはもう雨はすっかり晴れて小さな<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>などもカンカン鳴きはじめたりしましたけれども誰も今日はあの栗の木の処へ行こうとも云わず一郎も耕一も学校の門の処で「あばえ。」と言ったきり別れてしまいました。

耕一の家は学校から<ruby><rb>川添</rb><rt>かわぞ</rt></ruby>いに十五町ばかり<ruby><rb>溯</rb><rt>のぼ</rt></ruby>った処にありました。耕一の方から来ている子供では一年生の生徒が二人ありましたけれどもそれはもう午前中に帰ってしまっていましたし耕一はかばんと傘を持ってひとりみちを川上の方へ帰って行きました。みちは岩の<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>になった処の中ごろを通るのでずいぶん<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>山の<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>みや谷に添ってまわらなければなりませんでした。ところどころには<ruby><rb>湧水</rb><rt>わきみず</rt></ruby>もあり、又みちの砂だってまっ白で平らでしたから耕一は今日も<ruby><rb>足駄</rb><rt>あしだ</rt></ruby>をぬいで傘と<ruby><rb>一緒</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>にもって歩いて行きました。

まがり角を二つまわってもう学校も見えなくなり前にもうしろにも人は一人も居ず谷の水だけ崖の下で少し<ruby><rb>濁</rb><rt>にご</rt></ruby>ってごうごう鳴るだけ大へんさびしくなりましたので耕一は<ruby><rb>口笛</rb><rt>くちぶえ</rt></ruby>を<ruby><rb>吹</rb><rt>ふ</rt></ruby>きながら少し早足に歩きました。

ところが<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>の一とこに崖からからだをつき出すようにした<ruby><rb>楢</rb><rt>なら</rt></ruby>や<ruby><rb>樺</rb><rt>かば</rt></ruby>の木が路に<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>さったとこがありました。耕一が何気なくその下を通りましたら<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに木がぐらっとゆれてつめたい雫が一ぺんにざっと落ちて来ました。耕一は<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>からせなかから水へ入ったようになりました。それほどひどく落ちて来たのです。

耕一はその<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>をちょっと見あげて少し顔を赤くして笑いながら行き過ぎました。

ところが次の木のトンネルを通るとき又ざっとその雫が落ちて来たのです。今度はもうすっかりからだまで水がしみる位にぬれました。耕一はぎょっとしましたけれどもやっぱり口笛を吹いて歩いて行きました。

ところが間もなく又木のかぶさった処を通るようになりました。それは大へんに今までとはちがって長かったのです。耕一は通る前に一ぺんその青い枝を見あげました。雫は一ぱいにたまって全く今にも落ちそうには見えましたしおまけに二度あることは三度あるとも云うのでしたから少し立ちどまって考えて見ましたけれどもまさか三度が三度とも丁度下を通るときそれが落ちて来るということはないと思って少しびくびくしながらその下を急いで通って行きました。そしたらやっぱり、今度もざあっと雫が落ちて来たのです。耕一はもう少し口がまがって泣くようになって上を見あげました。けれども何とも仕方ありませんでしたから冷たさに一ぺんぶるっとしながらもう少し行きました。すると、又ざあと来たのです。

「<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>だ。誰だ。」耕一はもうきっと誰かのいたずらだと思ってしばらく上をにらんでいましたがしんとして何の返事もなくただ下の方で川がごうごう鳴るばかりでした。そこで耕一は今度は傘をさして行こうと思って足駄を下におろして傘を開きました。そしたら<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>にどうっと風がやって来て傘はぱっと開きあぶなく吹き飛ばされそうになりました、耕一はよろよろしながらしっかり<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>をつかまえていましたらとうとう傘はがりがり風にこわされて開いた<ruby><rb>蕈</rb><rt>きのこ</rt></ruby>のような形になりました。

耕一はとうとう泣き出してしまいました。

すると丁度それと一緒に向うではあはあ笑う声がしたのです。びっくりしてそちらを見ましたらそいつは、そいつは風の又三郎でした。ガラスのマントも雫でいっぱい<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の毛もぬれて<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>になり赤い顔からは湯気さえ立てながらはあはあはあはあふいごのように笑っていました。

耕一はあたりがきぃんと鳴るように思ったくらい<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>ってしまいました。

「<ruby><rb>何</rb><rt>なに</rt></ruby><ruby><rb>為</rb><rt>す</rt></ruby>ぁ、ひとの傘ぶっかして。」

又三郎はいよいよひどく笑ってまるでそこら中ころげるようにしました。

耕一はもうこらえ切れなくなって持っていた傘をいきなり又三郎に投げつけてそれから泣きながら組み付いて行きました。

すると又三郎はすばやくガラスマントをひろげて飛びあがってしまいました。もうどこへ行ったか見えないのです。

耕一はまだ泣いてそらを見上げました。そしてしばらく<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさにしくしく泣いていましたがやっとあきらめてその<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れた傘も持たずうちへ帰ってしまいました。そして<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>から入ろうとしてふと見ましたらさっきの傘がひろげて干してあるのです。照井耕一という名もちゃんと書いてありましたし、さっきはなれた処もすっかりくっつききれた糸も<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の糸でつないでありました。耕一は縁側に座りながらとうとう笑い出してしまったのです。

九月七日

次の日は雨もすっかり霽れました。日曜日でしたから<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>も学校に出ませんでした。ただ耕一は昨日又三郎にあんなひどい<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をされましたのでどうしても今日は<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>ってうんとひどくいじめてやらなければと思って自分一人でもこわかったもんですから一郎をさそって朝の八時<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>からあの草山の栗の木の下に行って待っていました。

すると又三郎の方でもどう云うつもりか大へんに早く丁度九時ころ、丘の横の方から何か非常に考え込んだような風をして<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>いろのマントをうしろへはねて腕組みをして二人の方へやって来たのでした。さあ、しっかり談判しなくちゃいけないと考えて耕一はどきっとしました。又三郎はたしかに二人の居たのも知っていたようでしたが、わざといかにも考え込んでいるという風で二人の前を知らないふりして通って行こうとしました。

「又三郎、うわぁい。」耕一はいきなりどなりました。又三郎はぎょっとしたようにふり向いて、

「おや、お早う。もう来ていたのかい。どうして今日はこんなに早いんだい。」とたずねました。

「日曜でさ。」一郎が云いました。

「ああ、今日は日曜だったんだね、<ruby><rb>僕</rb><rt>ぼく</rt></ruby>すっかり忘れていた。そうだ八月三十一日が日曜だったからね、七日目で今日が又日曜なんだね。」

「うん。」一郎はこたえましたが耕一はぷりぷり怒っていました。又三郎が昨日のことなど一言も云わずあんまりそらぞらしいもんですからそれに耕一に何も云われないように又日曜のことなどばかり云うもんですからじっさいしゃくにさわったのです。そこでとうとういきなり<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>びました。

「うわぁい、又三郎、<ruby><rb>汝</rb><rt>うな</rt></ruby>などぁ、世界に無くてもいいな。うわぁぃ。」

すると又三郎はずるそうに笑いました。

「やあ、耕一君、お早う。昨日はずいぶん失敬したね。」

耕一は何かもっと別のことを言おうと思いましたがあんまり怒ってしまって考え出すことができませんでしたので又同じように叫びました。

「うわぁい、うわぁいだが、又三郎、うななどぁ世界中に無くてもいいな、うわぁい。」

「昨日は実際失敬したよ。僕雨が降ってあんまり気持ちが悪かったもんだからね。」

又三郎は少し<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をパチパチさせて気の毒そうに云いましたけれども耕一の怒りは仲々解けませんでした。そして三度同じことを繰り返したのです。

「うわぁい、うななどぁ、無くてもいいな。うわぁい。」

すると又三郎は少し<ruby><rb>面白</rb><rt>おもしろ</rt></ruby>くなったようでした。いつもの通りずるそうに笑って<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねました。

「僕たちが世界中になくてもいいってどう云うんだい。<ruby><rb>箇条</rb><rt>かじょう</rt></ruby>を立てて云ってごらん。そら。」

耕一は試験のようだしつまらないことになったと思って大へん口惜しかったのですが仕方なくしばらく考えてから答えました。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>うな</rt></ruby>などぁ悪戯ばりさな。傘ぶっ<ruby><rb>壊</rb><rt>か</rt></ruby>したり。」

「それから？　それから？」又三郎は面白そうに一足進んで云いました。

「それがら、<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>折ったり<ruby><rb>転覆</rb><rt>おっけあ</rt></ruby>したりさな。」

「それから？　それから、どうだい。」

「それがら、<ruby><rb>稲</rb><rt>いね</rt></ruby>も<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>さな。」

「それから？　あとはどうだい。」

「家もぶっ<ruby><rb>壊</rb><rt>か</rt></ruby>さな。」

「それから？　それから？　あとはどうだい。」

「砂も飛ばさな。」

「それから？　あとは？　それから？　あとはどうだい。」

「シャッポも飛ばさな。」

「それから？　それから？　あとは？　あとはどうだい。」

「それがら、うう、電信ばしらも倒さな。」

「それから？　それから？　それから？」

「それがら、<ruby><rb>塔</rb><rt>とう</rt></ruby>も倒さな。」

「アアハハハ、塔は家のうちだい、どうだいまだあるかい。それから？　それから？」

「それがら、うう、それがら、」耕一はつまってしまいました。<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby>もう云ってしまったのですからいくら考えてももう出ませんでした。

又三郎はいよいよ面白そうに指を一本立てながら

「それから？　それから？　ええ？　それから。」と云うのでした。耕一は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。

「それがら、<ruby><rb>風車</rb><rt>かざぐるま</rt></ruby>もぶっ<ruby><rb>壊</rb><rt>か</rt></ruby>さな。」

すると又三郎は今度こそはまるで飛びあがって笑ってしまいました。笑って笑って笑いました。マントも一緒にひらひら波を立てました。

「そうらごらん、とうとう風車などを云っちゃった。風車なら僕を悪く思っちゃいないんだよ。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>時々壊すこともあるけれども<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>してやるときの方がずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。うそと思ったら<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いてごらん。お前たちはまるで勝手だねえ、僕たちがちっとばっかしいたずらすることは<ruby><rb>大業</rb><rt>おおぎょう</rt></ruby>に悪口を云っていいとこはちっとも見ないんだ。それに第一お前のさっきからの数えようがあんまりおかしいや。うう、ううてばかりいたんだろう。おしまいはとうとう風車なんか数えちゃった。ああおかしい。」

又三郎は又<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>の出るほど笑いました。

耕一もさっきからあんまり困ったために怒っていたのもだんだん忘れて来ました。そしてつい又三郎と一所にわらいだしてしまったのです。さあ又三郎のよろこんだこと俄かにしゃべりはじめました。

「ね、そら、僕たちのやるいたずらで一番ひどいことは日本ならば稲を倒すことだよ、二百十日から二百二十日ころまで、<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>はその頃ほんとうに僕たちはこわがられたよ。なぜってその頃は丁度稲に花のかかるときだろう。その時僕たちにかけられたら花がみんな散ってしまってまるで実にならないだろう、だから前は本当にこわがったんだ、僕たちだってわざとするんじゃない、どうしてもその頃かけなくちゃいかないからかけるんだ、もう三四日たてばきっと又そうなるよ。けれどもいまはもう農業が進んでお前たちの家の近くなどでは二百十日のころになど花の咲いている稲なんか一本もないだろう、大抵もう<ruby><rb>柔</rb><rt>やわ</rt></ruby>らかな実になってるんだ。早い稲はもうよほど<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>くさえなってるよ、僕らがかけあるいて少し位倒れたってそんなにひどくとりいれが減りはしないんだ。だから結局何でもないさ。それからも一つは木を倒すことだよ。家を倒すなんてそんなことはほんの少しだからね、木を倒すことだよ、これだって<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>じゃないんだよ。倒れないようにして置けぁいいんだ。葉の<ruby><rb>濶</rb><rt>ひろ</rt></ruby>い樹なら<ruby><rb>丈夫</rb><rt>じょうぶ</rt></ruby>だよ。僕たちが少しぐらいひどくぶっつかっても仲々倒れやしない。それに林の樹が倒れるなんかそれは林の持主が悪いんだよ。林を<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>るときはね、よく一年中の強い風向を考えてその風下の方からだんだん伐って行くんだよ。林の外側の木は強いけれども中の方の木はせいばかり高くて弱いからよくそんなことも気をつけなけぁいけないんだ。だからまず僕たちのこと悪く云う前によく自分の方に気をつけりゃいいんだよ。海岸ではね、僕たちが波のしぶきを運んで行くとすぐ<ruby><rb>枯</rb><rt>か</rt></ruby>れるやつも枯れないやつもあるよ。<ruby><rb>苹果</rb><rt>りんご</rt></ruby>や<ruby><rb>梨</rb><rt>なし</rt></ruby>やまるめろや<ruby><rb>胡瓜</rb><rt>きゅうり</rt></ruby>はだめだ、すぐ枯れる、稲や<ruby><rb>薄荷</rb><rt>はっか</rt></ruby>やだいこんなどはなかなか強い、牧草なども強いねえ。」

又三郎はちょっと話をやめました。耕一もすっかり<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を直して云いました。

「又三郎、おれぁあんまり<ruby><rb>怒</rb><rt>ごしゃ</rt></ruby>で悪がた。許せな。」

すると又三郎はすっかり<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びました。

「ああありがとう、お前はほんとうにさっぱりしていい子供だねえ、だから僕はおまえはすきだよ、すきだから昨日もいたずらしたんだ、僕だっていたずらはするけれど、いいことはもっと<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>するんだよ、そら数えてごらん、僕は松の花でも<ruby><rb>楊</rb><rt>やなぎ</rt></ruby>の花でも<ruby><rb>草棉</rb><rt>くさわた</rt></ruby>の毛でも運んで行くだろう。稲の<ruby><rb>花粉</rb><rt>かふん</rt></ruby>だってやっぱり僕らが運ぶんだよ。それから僕が通ると草木はみんな丈夫になるよ。悪い空気も持って行っていい空気も運んで来る。東京の浅草のまるで<ruby><rb>濁</rb><rt>にご</rt></ruby>った寒天のような空気をうまく太平洋の方へさらって行って日本アルプスのいい空気だって代りに持って行ってやるんだ。もし僕がいなかったら病気も<ruby><rb>湿気</rb><rt>しっけ</rt></ruby>もいくらふえるか知れないんだ。ところで今日はお前たちは僕にあうためにばかりここへ来たのかい。けれども僕は今日は十時半から演習へ出なけぁいけないからもう別れなけぁならないんだ。あした<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>来ておくれ。ね。じゃ、さよなら。」

又三郎はもう見えなくなっていました。一郎と耕一も「さよなら」と云いながら丘を下りて学校の<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>もいない運動場で鉄棒にとりついたりいろいろ遊んでひるころうちへ帰りました。

九月八日

その次の日は大へんいい天気でした。そらには<ruby><rb>霜</rb><rt>しも</rt></ruby>の織物のような又白い<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>のはねのような雲がうすくかかってその下を<ruby><rb>鳶</rb><rt>とんび</rt></ruby>が<ruby><rb>黄金</rb><rt>きん</rt></ruby>いろに光ってゆるく<ruby><rb>環</rb><rt>わ</rt></ruby>をかいて飛びました。

みんなは、

「とんびとんび、とっとび。」とかわるがわるそっちへ叫びながら丘をのぼりました。そしていつもの<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>の木の下へかけ上るかあがらないうちにもう又三郎のガラスの<ruby><rb>沓</rb><rt>くつ</rt></ruby>がキラッと光って又三郎は<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>の通りまじめくさった顔をして草に立っていました。

「今日は<ruby><rb>退屈</rb><rt>たいくつ</rt></ruby>だったよ。朝からどこへも行きゃしない。お前たちの学校の上を二三べんあるいたし谷底へ二三べん下りただけだ。ここらはずいぶんいい<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>だけれどもやっぱり僕はもうあきたねえ。」又三郎は草に足を投げ出しながら斯う云いました。

「又三郎さん北極だの南極だのおべだな。」

一郎は又三郎に話させることになれてしまって斯う云って話を<ruby><rb>釣</rb><rt>つ</rt></ruby>り出そうとしました。

すると又三郎は少し馬鹿にしたように笑って答えました。

「ふん、北極かい。北極は寒いよ。」

ところが耕一は昨日からまだ<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>っていましたしそれにいまの返事が大へんしゃくにさわりましたので

「北極は寒いかね。」とふざけたように云ったのです。さあすると今度は又三郎がすっかり怒ってしまいました。

「何だい、お前は僕をばかにしようと思ってるのかい。僕はお前たちにばかにされぁしないよ。悪口を云うならも少し上手にやるんだよ。何だい、北極は寒いかねってのは、北極は寒いかね、ほんとうに田舎くさいねえ。」

耕一も怒りました。

「<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>した、<ruby><rb>汝</rb><rt>うな</rt></ruby>などそだら東京だが。一年中うろうろど歩ってばがり居でいだずらばがりさな。」

ところが<ruby><rb>奇体</rb><rt>きたい</rt></ruby>なことは、斯う云ったとき、又三郎が又<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かによろこんで笑い出したのです。

「もちろん僕は東京なんかじゃないさ。一年中旅行さ。旅行の方が東京よりは<ruby><rb>偉</rb><rt>えら</rt></ruby>いんだよ。旅行たって僕のはうろうろじゃないや。かけるときはきぃっとかけるんだ。赤道から北極まで<ruby><rb>大循環</rb><rt>だいじゅんかん</rt></ruby>さえやるんだ。東京なんかよりいくらいいか知れない。」

耕一はまだ怒ってにぎりこぶしをにぎっていましたけれども又三郎は大機嫌でした。

「北極の話聞かせなぃが。」一郎が又云いました。すると又三郎はもっとひどくにこにこしました。

「大循環の話なら面白いけれどむずかしいよ。あんまり小さな子はわからないよ。」

「わがる。」一年生の子が顔を赤くして叫びました。

「わかるかね。僕は大循環のことを話すのはほんとうはすきなんだ。僕は大循環は二<ruby><rb>遍</rb><rt>へん</rt></ruby>やったよ。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も一遍は<ruby><rb>途中</rb><rt>とちゅう</rt></ruby>からやめて下りたけれど、僕たちは五遍大循環をやって来ると、もうそれぁ<ruby><rb>幅</rb><rt>はば</rt></ruby>が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>くんだからね、だからみんなでかけるんだよ、けれども仲々うまく行かないからねえ、ギルバート群島からのぼって<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>ったときはうまくいったけれどねえ、ボルネオから発ったときはすっかりしくじっちゃったんだ。それでも面白かったねえ、ギルバート群島の中の何と云う島かしら小さいけれども<ruby><rb>白壁</rb><rt>しらかべ</rt></ruby>の教会もあった、その島の近くに僕は行ったねえ、行くたって仲々容易じゃないや、あすこらは赤道無風帯ってお前たちが云うんだろう。僕たちはめったに歩けやしない。それでも無風帯のはじの方から<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>い上ったんじゃ中々高いとこへ行かないし高いとこへ行かなきゃ北極だなんて遠い<ruby><rb>処</rb><rt>とこ</rt></ruby>へも行けないから<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>でもみんななるべく無風帯のまん中へ行こう行こうとするんだ。僕は一生けん命すきをねらってはひるのうちに海から向うの島へ行くようにし夜のうちに島から又向うの海へ出るようにして何べんも何べんも<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>ったりしながらやっとすっかり赤道まで行ったんだ。赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指導標が立っているよ。お前たちが見たんじゃわかりゃしない。大循環志願者出発線、これより北極に至る八千九百ベェスター南極に至る八千七百ベェスターと書いてあるんだ。そのスタートに立って僕は待っていたねえ、向うの島の<ruby><rb>椰子</rb><rt>やし</rt></ruby>の木は黒いくらい青く、教会の白壁は<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>へしみる位白く光っているだろう。だんだんひるになって暑くなる、海は油のようにとろっとなってそれでもほんの申しわけに白い波がしらを<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>っている。

ひるすぎの二時頃になったろう。島で<ruby><rb>銅鑼</rb><rt>どら</rt></ruby>がだるそうにぼんぼんと鳴り椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむっているよう、赤い魚も水の中でもうふらふら泳いだりじっととまったりして<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>を見ているんだ。その夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでいるんだ。青ぞらをぷかぷか泳いでいると思っているんだ。魚というものは生意気なもんだねえ、ところがほんとうは、その時、空を<ruby><rb>騰</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って行くのは僕たちなんだ、魚じゃないんだ。もうきっとその辺にさえ居れや、空へ騰って行かなくちゃいけないような気がするんだ。けれどものぼって行くたってそれはそれはそおっとのぼって行くんだよ。椰子の樹の葉にもさわらず魚の夢もさまさないようにまるでまるでそおっとのぼって行くんだ。はじめはそれでも割合早いけれどもだんだんのぼって行って海がまるで青い板のように見え、その中の白いなみがしらもまるで<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>のように小さくちらちらするようになり、さっきの島などはまるで一<ruby><rb>粒</rb><rt>つぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>緑柱石</rb><rt>りょくちゅうせき</rt></ruby>のように見えて来るころは、僕たちはもう上の方のずうっと冷たい所に居てふうと大きく息をつく、ガラスのマントがぱっと曇ったり又さっと消えたり何べんも何べんもするんだよ。けれどもとうとうすっかり冷くなって僕たちはがたがたふるえちまうんだ。そうすると僕たちの仲間はみんな集って手をつなぐ。そしてまだまだ<ruby><rb>騰</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って行くねえ、そのうちとうとうもう騰れない処まで来ちまうんだよ。その辺の寒さなら北極とくらべたってそんなに<ruby><rb>違</rb><rt>ちが</rt></ruby>やしない。その時僕たちはどうしても北の方に行かなきゃいけないようになるんだ。うしろの方では

『ああ今度はいよいよ、かけるんだな。南極はここから八千七百ベェスターだねえ、ずいぶん遠いねえ』なんて云っている、僕たちもふり向いて、ああそうですね、もうお別れです、僕たちはこれから北極へ行くんです、ほんの<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>の間でしたね、ご<ruby><rb>一緒</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>したのも、じゃさよならって云うんだよ。もうそう云ってしまうかしまわないうち僕たち北極行きの方はどんどんどんどん走り出しているんだ。<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>もかわき息もつかずまるで矢のようにどんどんどんどんかける。それでも少しも<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れぁしない、ただ北極へ北極へとみんな一生けん命なんだ。下の方はまっ白な雲になっていることもあれば海か陸かただ<ruby><rb>蒼黝</rb><rt>あおぐろ</rt></ruby>く見えることもある、昼はお日さまの下を夜はお星さまたちの下をどんどんどんどんかけて行くんだ。ほんとうにもう休みなしでかけるんだ。

ところがだんだん進んで行くうちに僕たちは何だかお<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>の間が<ruby><rb>狭</rb><rt>せま</rt></ruby>くなったような気がして前はひとりで広い場所をとって手だけつなぎ合ってかけて居たのが今度は何だかとなりの人のマントとぶっつかったり、手だって前のようにのばして居られなくなって縮まるんだろう。それがひどく疲れるんだよ。もう疲れて疲れて手をはなしそうになるんだ。それでもみんな早く北極へ行こうと思うから仲々手をはなさない、それでもとうとうたまらなくなって一人二人ずつ手をはなすんだ。そして

『もう僕だめだ。おりるよ。さよなら。』

とずうっと下の方で聞えたりする。

二日ばかりの間に半分ぐらいになってしまった。僕たちは新らしい仲間と又手をつないでお互顔を見合せながらどこまでもどこまでも北を指して進むんだ。<ruby><rb>先頃</rb><rt>せんころ</rt></ruby>僕行って<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>して来たおじさんはもう十六回目の大循環なんだ。飛びようだってそれぁ落ち着いているからね、僕が下から、おじさん、大丈夫ですかって云ったらおじさんは大きな大きなまるで僕なんか四人も入るようなマントのぼたんをゆっくりとかけながら、うん、お前は今度はタスカロラのはじに行くことになってるのだな、おれはタスカロラにはあさっての朝着くだろう。戻りにどこかで又あうよ。あんまり乱暴するんじゃないよってんだ。僕がええ、あばれませんからと云ったときはおじさんはもうずうっと向うへ行っていてそのマントのひろいせなかが見えていた、僕がそう云ってもただ大きくうなずいただけなんだ。えらいだろう。ところが僕たちのかけて行ったときはそんなにゆっくりしてはいなかった。みんな若いものばかりだからどうしても急ぐんだ。

『ここの下はハワイになっているよ。』なんて<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>か<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>ぶものもあるねえ、どんどんどんどん僕たちは急ぐだろう。にわかにポーッと<ruby><rb>霧</rb><rt>きり</rt></ruby>の出ることがあるだろう。お前たちはそれがみんな水玉だと考えるだろう。そうじゃない、みんな小さな小さな氷のかけらなんだよ、<ruby><rb>顕微鏡</rb><rt>けんびきょう</rt></ruby>で見たらもういくらすきとおって<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>っているか知れやしない。

そんな旅を何日も何日もつづけるんだ。

ずいぶん美しいこともあるし<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しいこともある。雲なんかほんとうに<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>なことがあるよ。」

「赤くてが。」耕一がたずねました。

「いいや、赤くはないよ。雲の赤くなるのは戻りさ。南極か北極へ向いて上の方をどんどん行くときは雲なんか赤かぁないんだよ。赤かぁないんだけれど、それあ美しいよ。ごく<ruby><rb>淡</rb><rt>あわ</rt></ruby>いいろの<ruby><rb>虹</rb><rt>にじ</rt></ruby>のように見えるときもあるしねえ、いろいろなんだ。

だんだん行くだろう。そのうちに僕たちは大分低く下っていることに気がつくよ。

夜がぼんやりうすあかるくてそして大へんみじかくなる。ふっと気がついて見るともう北極<ruby><rb>圏</rb><rt>けん</rt></ruby>に入っているんだ。海は<ruby><rb>蒼黝</rb><rt>あおぐろ</rt></ruby>くて見るから冷たそうだ。船も居ない。そのうちにとうとう僕たちは氷山を見る。朝ならその<ruby><rb>稜</rb><rt>かど</rt></ruby>が日に光っている。下の方に大きな白い陸地が見えて来る。それはみんながちがちの氷なんだ。向うの方は灰のようなけむりのような白いものがぼんやりかかってよくわからない。それは氷の霧なんだ。ただその霧のところどころから尖ったまっ黒な岩があちこち朝の海の船のように顔を出しているねえ。

『あすこはグリーンランドだよ。』僕たちは話し合うんだ。いままでどこをとんでいたのかもう今度で三度目だなんていう少し大きい方の人などが<ruby><rb>大威張</rb><rt>おおいばり</rt></ruby>でやって来ていろいろその辺のことなど云うんだ。

『そら、あすこのとこがゲーキイ湾だよ。知ってるだろう。英国のサア、アーキバルド、ゲーキーの名をつけた湾なんだ。ごらんそら、氷河ね、氷河が海にはいるねえ、あれで少しずつ<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>されてだんだん<ruby><rb>喰</rb><rt>は</rt></ruby>み出してるんだよ、そしてとうとう氷河から<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>れて氷山にならあね。あっちは？　あっちが英国さ、ここはもう地球の頂上だからどっちへ行くたって近いやね、少し間違えば途方もない方へ降りちまうよ。あっち？　あっちが英国さ。』なんてほんとうに威張ってるんだ。僕たちはもう<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど東の方へ東の方へと北極を一まわりするようになるんだ。この時だよ、僕らのこわいのは。大循環でいちばんこわいのはこの時なんだよ、この僕たちのまわるもっと中の方に<ruby><rb>極渦</rb><rt>きょくうず</rt></ruby>といって大きな<ruby><rb>環</rb><rt>わ</rt></ruby>があるんだ。その環にはいったらもう仲々出られない。<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>なものはそれでもみんな入っちまうよ。環のまん中に名高い、ヘルマン大佐がいるんだ。人間じゃないよ。僕たちの方のだよ。ヘルマン大佐はまっすぐに立って<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>を組んでじろじろあたりをめぐっているものを見ているねえ、そして僕たちの眼の色で卑怯だったものをすぐ見わけるんだ。そして

『こら、その赤毛、入れ。』と<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う云うんだ。そう云われたらもうおしまいだ極渦の中へはいってぐるぐるぐるぐるまわる、仲々出ていいとは云わないんだ。だから僕たちそのときは本当に<ruby><rb>緊張</rb><rt>きんちょう</rt></ruby>するよ。けれどもなんにも卑怯をしないものは割合平気だねえ、大循環の途中でわざとつかれた<ruby><rb>隣</rb><rt>とな</rt></ruby>りの人の手をはなしたものだの早くみんなやめるといいと考えてきろきろみんなの足なみを見たりしたものはどれもすっかり入れられちまうんだ。

そのうちだんだん僕らはめぐるだろう。そして下の方におりるんだ。おしまいはまるで海とすれすれになる。そのときあちこちの氷山に、大循環<ruby><rb>到着者</rb><rt>とうちゃくしゃ</rt></ruby>はこの<ruby><rb>附近</rb><rt>ふきん</rt></ruby>に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て数日間休養すべし、帰路は各人の任意なるも<ruby><rb>障碍</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>は来路に倍するを<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て<ruby><rb>充分</rb><rt>じゅうぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>覚悟</rb><rt>かくご</rt></ruby>を要す。海洋は<ruby><rb>摩擦</rb><rt>まさつ</rt></ruby>少きも<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って速度は大ならず。最も<ruby><rb>愚鈍</rb><rt>ぐどん</rt></ruby>なるもの最も<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>きものなり、という白い<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>が立っている。これより赤道に至る八千六百ベスターというような標もあちこちにある。だから僕たちはその辺でまあ五六日はやすむねえ、そしてまったくあの辺は面白いんだよ。<ruby><rb>白熊</rb><rt>しろくま</rt></ruby>は居るしね、テッデーベーヤさ。あいつはふざけたやつだねえ、氷のはじに立ってとぼけた顔をしてじっと海の水を見ているかと思うと俄かに<ruby><rb>前肢</rb><rt>まえあし</rt></ruby>で頭をかかえるようにしてね、ざぶんと水の中へ飛び込むんだ。するとからだ中の毛がみんなまるで銀の針のように見えるよ。あっぷあっぷ<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れるまねをしたりなんかもするねえ、そんなことをしてふざけながらちゃんと魚をつかまえるんだからえらいや、魚をつかまえてこんどは大威張りで又氷にあがるんだ。魚というものは本当にばかなもんだ、ふざけてさえ居れば<ruby><rb>大丈夫</rb><rt>だいじょうぶ</rt></ruby>こわくないと思ってるんだ。白熊はなかなか賢いよ。それからその次に面白いのは<ruby><rb>北極光</rb><rt>オーロラ</rt></ruby>だよ。ぱちぱち鳴るんだ、ほんとうに鳴るんだよ。<ruby><rb>紫</rb><rt>むらさき</rt></ruby>だの緑だのずいぶん奇麗な見世物だよ、僕らはその下で手をつなぎ合ってぐるぐるまわったり歌ったりする。

そのうちとうとう又帰るようになるんだ。今度は海の上を<ruby><rb>渡</rb><rt>わた</rt></ruby>って来る。あ、もう演習の時間だ。あした又話すからね。じゃさよなら。」又三郎は一ぺんに見えなくなってしまいました。みんなも丘をおりたのです。

九月九日

「北極は面白いけれどもそんなに永くとまっている<ruby><rb>処</rb><rt>とこ</rt></ruby>じゃない。うっかりはせまわってふらふらしているとこなどを、ヘルマン大佐になど見られようもんならさっそく、おいその赤毛、入れ、なんて来るからねえ、いくら面白いたって少し疲れさえなおったら出発をはじめるんだよ。帰りはもう自由だからみんなで手をつながなくてもいいんだ。気の合った友達と二人三人ずつ向うの<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>き次第<ruby><rb>出掛</rb><rt>でか</rt></ruby>けるだろう。僕の通って来たのはベーリング<ruby><rb>海峡</rb><rt>かいきょう</rt></ruby>から太平洋を渡って北海道へかかったんだ。どうしてどうして途中のひどいこと前に高いとこをぐんぐんかけたどこじゃない、南の方から来てぶっつかるやつはあるし、ぶっつかったときは霧ができたり雨をちらしたり負ければあと戻りをしなけぁいけないし丁度力が同じだとしばらくとまったりこの前のサイクルホールになったりするし勝ったってよっぽど手間取るんだからそらぁ実際気がいらいらするんだよ。<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>だってずいぶんするよ。けれども決して卑怯はしない。そら僕らが三人ぐらい北の方から少し西へ寄って南の方へ進んで行くだろう、向うから丁度反対にやって来るねえ、こっちが三人で向うが十人のこともある、向うが一人のこともある、けれども勝まけは人数じゃない力なんだよ、人数へ速さをかけたものなんだよ、

君たちはどこまで行こうっての、こっちが遠くからきくねえ、アラスカだよ。向うが答えるだろう。<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>じゃないや、アラスカなんか行くとこはありゃしない。僕たちがそっちから来たんじゃないか。いいや、行くように云われて来たんだ、さあ通してお<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れ、いいや僕たちこそ<ruby><rb>大循環</rb><rt>だいじゅんかん</rt></ruby>なんだ、よくマークを見てごらん、大循環と云われると<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby><ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>でも<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>顔いろを<ruby><rb>和</rb><rt>やわ</rt></ruby>らげてマークをよく見るねえ、はじめから、ああ大循環だ通してやれなんて云うものもそれぁあるよ。けれども仲々大人なんかにはたちの悪いのもあるからね、なんだ、大循環だ、かっぱめ、ばかにしやがるな。どけ。なんてわざと空っぽな大きな声を出すものもあるんだ。いいえどかれません、じゃ法令の通りボックシングをやりましょうとなるだろう、勝つことも負けることもある、けれども僕は卑怯は<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いだからねえ、もしすきをねらって<ruby><rb>遁</rb><rt>に</rt></ruby>げたりするものがあってもそんなやつを追いかけやしない、あとでヘルマン大佐につかまるよってだけ云うんだ。しずかな日きまった速さで海面を南西へかけて行くときはほんとうにうれしいねえ、そんな日だって十日に三日はあるよ、そう云うふうにして丁度北極から一ヶ月目に僕は津軽海峡を通ったよ、あけがたでね、<ruby><rb>函館</rb><rt>はこだて</rt></ruby>の<ruby><rb>砲台</rb><rt>ほうだい</rt></ruby>のある山には低く雲がかかっている、僕はそれを少し押しながら進んだ、海すずめが何重もの<ruby><rb>環</rb><rt>わ</rt></ruby>になって白い水にすれすれにめぐっている、かもめも居る、船も通る、えとろふ丸なんて云う荷物を一杯に積んだ大きな船もあれば白く<ruby><rb>塗</rb><rt>ぬ</rt></ruby>られた<ruby><rb>連絡</rb><rt>れんらく</rt></ruby>船もある。そうそう、そのとき僕は北海道の大学の伊藤さんにも会った。あの人も気象をやってるから僕は知っている。

それから僕は少し南へまっすぐに朝鮮へかかったよ。あの途中のさびしかったことね、僕はたった一人になっていたもんだから、雲は大へんきれいだったし<ruby><rb>邪魔</rb><rt>じゃま</rt></ruby>もあんまりなかったけれどもほんとうにさびしかったねえ、朝鮮から僕は又東の方へ西風に送られて行ったんだ。海の中ばかりあるいたよ。商船の甲板でシガアの紫の<ruby><rb>煙</rb><rt>けむり</rt></ruby>をあげるチーフメートの耳の処で、もしもしお子さんはもう歩いておいでですよ、なんて云って行くんだ。船の上の人たちへの僕たちの挨拶は大抵<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな工合なんだよ、

上の方を見るとあの冷たい氷の雲がしずかに流れている。そうだあすこを新らしい大循環の志願者たちが走って行く。いつ又僕は大循環へ入るだろう、ああもう二十日かそこらでこんどのは卒業するんだ、と考えるとほんとうに何とも云えずうれしい気がするねえ。」

「おらの方の試験ど同じだな。」耕一が云いました。

「うん、だけどおまえたちの試験よりはむずかしいよ。お前たちの試験のようなもんならただ毎日学校へさえ来ていれば遊んでいても卒業するだろう。」又三郎はきっと<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>か<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>るだろうと思って少し口をまげて笑いながら斯う云いました。

「おらの方だて毎日学校さ来るのひでじゃぃ。」耕一が大して怒ったでもなしに斯う云いました。

「ふん、そうかい、誰だって同じことだな。さあ僕は今日もいそがしい。もうさよなら。」

又三郎のかたちはもうみんなの前にありませんでした。みんなはばらばら丘をおりました。

九月十日

「ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ、

ああまいざくろも<ruby><rb>吹</rb><rt>ふ</rt></ruby>き飛ばせ、

すっぱいざくろも吹き飛ばせ、

ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ

ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ。」

<ruby><rb>先頃</rb><rt>せんころ</rt></ruby>又三郎から<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いたばかりのその歌を一郎は<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>の中で<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>きいたのです。

びっくりして<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きて見ましたら外ではほんとうにひどく風が吹いてうしろの林はまるで<ruby><rb>咆</rb><rt>ほ</rt></ruby>えるよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが障子や<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>の上の<ruby><rb>提灯箱</rb><rt>ちょうちんばこ</rt></ruby>や家中いっぱいでした。

一郎はすばやく帯をしてそれから<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>をはいて土間に下り馬屋の前を通って<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>りをあけましたら風がつめたい雨のつぶと<ruby><rb>一緒</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>にどうっと入って来ました。馬屋のうしろの方で何かの戸がばたっと<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>れ馬はぶるるっと鼻を鳴らしました。

一郎は風が胸の底まで<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>み込んだように思ってはあと強く息を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>きました。そして外へかけ出しました。

外はもうよほど明るく土はぬれて<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>りました。家の前の<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>の木の列は変に青く白く見えてそれがまるで風と雨とで今<ruby><rb>洗濯</rb><rt>せんたく</rt></ruby>をするとでも云うように<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくもまれていました。青い葉も二三枚飛び吹きちぎられた栗のいがは黒い地面にたくさん落ちて居りました。

空では雲がけわしい銀いろに光りどんどんどんどん北の方へ吹きとばされていました。

遠くの方の林はまるで海が荒れているようにごとんごとんと鳴ったりざあと聞えたりするのでした。一郎は顔や手につめたい雨の<ruby><rb>粒</rb><rt>つぶ</rt></ruby>を投げつけられ風にきものも取って行かれそうになりながらだまってその音を聴きすましじっと空を見あげました。もう又三郎が行ってしまったのだろうかそれとも<ruby><rb>先頃</rb><rt>せんころ</rt></ruby><ruby><rb>約束</rb><rt>やくそく</rt></ruby>したように誰かの目をさますうち少し待って居て呉れたのかと考えて一郎は大へんさびしく胸がさらさら波をたてるように思いました。けれども又じっとその鳴って<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>えてうなってかけて行く風をみていますと今度は胸がどかどかなってくるのでした。昨日まで丘や野原の空の底に<ruby><rb>澄</rb><rt>す</rt></ruby>みきってしんとしていた風どもが今朝夜あけ方<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに<ruby><rb>一斉</rb><rt>いっせい</rt></ruby>に斯う動き出してどんどんどんどんタスカロラ<ruby><rb>海床</rb><rt>かいしょう</rt></ruby>の北のはじをめがけて行くことを考えますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一緒に空を<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>けて行くように胸を一杯にはり手をひろげて<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>びました。

「ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドードドドウ。」

その声はまるできれぎれに風にひきさかれて持って行かれましたがそれと一緒にうしろの遠くの風の中から、斯ういう声がきれぎれに聞えたのです。

「ドッドドドドウドドドウドドドウ、

<ruby><rb>楢</rb><rt>なら</rt></ruby>の木の葉も引っちぎれ

とちもくるみもふきおとせ

ドッドドドドウドドドウドドドウ。」

一郎は声の来た栗の木の方を見ました。俄かに頭の上で

「さよなら、一郎さん、」と云ったかと思うとその声はもう向うのひのきのかきねの方へ行っていました。一郎は高く叫びました。

「又三郎さん。さよなら。」

かきねのずうっと向うで又三郎のガラスマントがぎらっと光りそれからあの赤い<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>とみだれた赤毛とがちらっと見えたと思うと、もうすうっと見えなくなってただ雲がどんどん飛ぶばかり一郎はせなか一杯風を受けながら手をそっちへのばして立っていたのです。

「ああ<ruby><rb>烈</rb><rt>ひ</rt></ruby>で風だ。今度はすっかりやらへる。一郎。ぬれる、入れ。」いつか一郎のおじいさんが潜りの処でそらを見上げて立っていました。一郎は早く仕度をして学校へ行ってみんなに又三郎のさようならを伝えたいと思って少しもどかしく思いながらいそいで家の中へ入りました。