Soranoha

税務署長の冒険

ぜいむしょちょうのぼうけん

宮沢 賢治

一、濁密防止講演会

〔冒頭原稿数枚なし〕

イギリスの大学の試験では牛オックスでさへ酒を呑のませると目方が増すと云いひます。又これは実に人間エネルギーの根元です。酒は圧縮せる液体のパンと云ふのは実に名言です。堀部安兵衛が高田の馬場で三十人の仇討あだうちさへ出来たのも実に酒の為にエネルギーが沢山あったからです。みなさん、国家のため世界のため大に酒を呑んで下さい。」(小学校長が青くなってゐる。役場から云はれて仕方なく学校を貸したのだが何が何でもこれではあんまりだと思ってすっかり青くなったな)と税務署長は思ひました。けれどもそれは大ちがひで小学校長の青く見えたのはあんまりほめられて一そう酒が呑みたくなったのでした。なぜならこの校長さんは樽たるこ先生といふあだ名で一ぺんに一升ぐらゐは何でもなかったのです。みんなはもちろん大賛成でうまいぞ、えらいぞ、と手をたゝいてほめたのでした。税務署長がまた見掛けの太ったざっくばらんらしい男でいかにも正直らしくみんなが怒るかも知れないなんといふことは気にもとめずどんどん云ひたいことを云ひました。実際それはひどい悪口もあってどうしてもみんなひどく怒らなければならない筈はずなのにも係はらずみんなはほんたうに面白さうに何べんも何べんも手を叩たたいたり笑ったりして聞いてゐました。

そのはじめの方をちゞめて見ますとこんな工合ぐあひです。

「濁密をやるにしてもさ、あんまり下手なことはやってもらひたくないな。なぁんだ、味噌桶みそをけの中に、醪にごりざけを仕込んで上に板をのせて味噌を塗って置く、ステッキでつっついて見るとすぐ板が出るぢゃないか。廐うまやの枯草の中にかくして置く、いゝ馬だなあ、乳もしぼれるかいと云ふと顔いろを変へてゐる。

新らしい肥樽こえだるの中に仕込んで林の萱かやの中に置く。誰たれかにこっそり持って行かれても大声で怒られない。煤すすだらけの天井裏にこさへて置いて取って帰って来るときは眼めをまっ赤にしてゐる。

できあがった酒ものだって見られたざまぢゃない。どうせにごり酒だから濁ってゐるのはいゝとして酸っぱいのもある、甘いのもある、アイヌや生蕃せいばんにやってもまあご免蒙かうむりませうといふやうなのだ。そんなものはこの電燈時代の進歩した人類が呑むべきもんぢゃない。どうせやるならなぜもう少し大仕掛けに設備を整へて共同ででもやらないか。すべからく米も電気で研ぐべし、しぼるときには水圧機を使ふべし、乳酸菌を利用し、ピペット、ビーカー、ビュウレット立派な化学の試験器械を使って清潔に上等の酒をつくらないか。もっともその時は税金は出して貰もらひたい。さう云ふふうにやるならばわれわれは実に歓迎する。技師やなんかの世話までして上げてもいゝ。こそこそ半分かうじのまゝの酒を三升つくって罰金を百円とられるよりは大びらでいゝ酒を七斗呑めよ。」

まだまだずゐぶんひどく悪にくまれ口もきゝ耳の痛い筈なやうなことも云ひましたが誰も気持ち悪くする人はなく話が進めば進むほど、いよいよみんな愉快さうに顔を熱ほてらして笑ったり手を叩たたいたりしました。

どうもをかしいどうもをかしい、どうもをかしいとみんなの顔つきをきょろきょろ見ながらその割合ざっくばらんの少しずるい税務署長が思ひました。税務署長の考ではうんと悪口を云ってどれ位赤くなって怒る人があるかを見て大体その村の濁密の数を勘定しようと云ふのでした。それがいけないやうでしたから今度はだんだんおどしにかゝって青くなる人を見てやらうと思ひました。

ところがやっぱり面白さうに笑ひます。

税務署長は気が気でなく卒倒しさうになって頭に手をあげました。

全体こんなにおれの悪口をよろこんで笑ふのはみんなが一人も密造をしてゐないのか、それともおれの心底がわかってゐるのか、どうも気味が悪い、よしもう一つだけ山をかけて見ようと思って最後にコップの水を一口のんでできる丈だけ落ち着いて斯かう云ひました。

「正直を云ふとみんながどんなにこっそり濁密をやった所でおれの方ではちゃんとわかってゐる。この会衆の中にも七人のおれの方への密告者がまじってゐるのだ。」

みんなはしいんとなりました。それからザアッと鳴りました。さあ、こゝだおれを撲なぐりにかゝるやつがあるぞ、遁にげみちはちゃんときまってゐる、あしたの午ひるころみんな仕事に出たころ係二十人一斉に自転車でやって来てそいつを押へてしまふ、斯う考へて税務署長はシラトリキキチに眼くばせして次を云ひました。

「おれの方では誰たれの家の納屋の中に何斗あるか誰の家の床下に何升あるかちゃんと表になってあるのだ。」するとどうです、いまあれほど気が立ったみんなが一斉に面白さうにどっと吹き出したのです。もうだめだ、おしまひだ、しくじったと署長は思ひました。そしてもうすっかりぐるぐるして壇を下りてしまひました。

二、税務署長歓迎会

税務署長が壇を下りましたらすぐ名誉村長が笑ひながら少しかゞんで署長の前にやって来ました。そして礼を云ひました。

「たゞ今は実に有益なご講演を寔まことに感謝いたします。何もございませんがいさゝか歓迎のしるしまで一献さしあげたいと存じます。ご迷惑は重々でございませうがどうかぢきそこまで御光来を願ひたう存じます。」

税務署長はいよいよ卒倒しさうになって

「いや、それはよろしい。」とかすれた声で返事しました。「では、」村長はみんなの方に向いて

「今晩の講演会はこれで閉会といたします。」と云ってから又署長たちの方に向き直って「さあ、ではどうぞ。」と右手で玄関の方を指しました。署長はなんとも変な気がしましたが仕方なくシラトリ属と一緒に村長たちに案内されて小学校の玄関を出すぐ一町ばかりさきの村会議員の家に行きました。村会議員の家は立派なもので五十畳の広間にはあかりがぞろっとともり正面には銀屏風ぎんびゃうぶが立ってそこに二人は座らされました。すぐ村の有志たちが三十人ばかりきちんと座りました。たちまち立派な膳ぜんがならびたしかに税金を納めてある透明な黄いろないゝ酒が座をまはりはじめました。

みんなが交る交る税務署長のところへ盃さかづきを持ってやって来ました。

「いや、本日はお疲れでございませう。失礼ながら献盃けんぱい致しまする。」

「や、ありがたう、どうも悪口を云って済まなかった。どうも悪にくまれ商売でね、いやになるよ。」

「どう致しまして。閣下のやうな献身的のお方ばかりでしたら実に国家も大発展です。さあどうぞ。」

「はっはっは、いや、ありがたう。」なんて云ふ工合ぐあひでシラトリキキチ氏の云ったやうにだんだんみんなの心は融とけて来たやうに見えましたが実は税務署長は決して油断をしないで絶えず左右に眼を配ってゐました。そのうちにいよいよみんなは酔ってしまってだんだん本音を吹いて来ました。

「や、署長さん。一杯いかゞ、どうです。ワッハッハ。濁り酒、味噌桶みそをけに作るといふのはあんまり旧式だな。もっと最新法の方はいゝな。おい、署長さん。さあ、一杯いかゞ、私の盃をあなた取りませんか。閣下ぁ、ハッハッハ。さあ一杯、」

「いや、わかった、わかった。いや、今晩は実に酩めいていした。辱かたじけない。」

「ワッハッハ。やあ、今度はシラトリさん、さあ、おやりなさい。男子はすべからく決然たるところがなくてはだめですよ。さあ、高田の馬場で堀部安兵衛金丸が三十人を切ったのは実際酒の力だ、面白い、牛も酒を呑のむと酔ふといふのは面白い。さあ一杯。なかなかあなたは酒が強い。さあ一杯。」

一人が行ったと思ふと又一人が来るのでした。

「署長さん。はじめてお目通りを致します。」

「いやはじめて。」

「はじめて、はてなさっきも来ましたかな、二度目だ、ハッハッハ。署長さん、いや献杯、つゝしんで献杯仕つかまつります。ハッハッハこの村の濁り酒はもう手に取るやうにわかってゐる、本当にか、さあ、本当ならいつでもやって来い。来るか、畜生、来て見やがれ。アッハッハ、失礼、署長さん署長さん、もう斯かうなったらいっそのこと無礼講にしませう。無礼講。おゝい、みんな無礼講だぞ、そもそもだ、濁密の害悪は国家も保証する、税務署も保証すると、ううぃ。献杯、いや献杯、」

「もう沢山、」

「遁にげるのか、遁げる気か。ようし、ようし、その気なら許さんぞ。献杯、さあ献杯だ、おゝい貴様ぁ。」

税務署長はもうすっかり酔ってゐました。シラトリ属も酔ってはゐました。けれども二人とも決して職業も忘れず又油断もしなかったのです。

それでももうぐたぐたになって何もかもわからないといふふりをしてゐました。それにくらべたら村の方の人たちこそ却かへって本当に酔ってしまったのでした。そのうちに税務署長は少し酒の匂にほひが変って来たのに気がつきました。たしかに今までの酒とはちがった酒が座をまはりはじめてゐました。署長は見ないふりをしながらよく気をつけて盃さかづきを見ましたが少しも濁ってはゐませんでした。どうもをかしい。これは決してこゝらのどの酒屋でできる酒でもない、他県から来るのだってもう大ていはきまってゐる。どうもをかしいと斯かう署長はひとりで考へました。そのうちさっきの村会議員が又やって来てきちんと座って云ひました。

「いや、もう閣下、ひどくご無礼をいたしました。こんな乱雑な席にご光来をねがひまして面目次第もございません。たゞもうほんの村民の志だけをお汲くみ下されまして至らぬところ又すぎました処ところは平にご容赦をねがひます。」

署長はすっかり酔った風をしながら笑って答へました。

「いや、君、こんな愉快なうちとけた宴会ははじめてだよ。こんなことならたびたびやって来たいもんだね。斯う出られたら困るだらう。」

村会議員はちらっと署長を見あげました。本当はまだ酔ってゐないなと気がついたのです。署長が又云ひました。

「どうも斯う高い税金のかかった酒を斯う多分に貰もらっちゃお気の毒だ。一つ内密でこの村だけ無税にしようかな。」

「いや、ハッハッハ。ご冗談。」村会議員は少しあわてて台所の方へ引っ込んで行きました。

「もう失礼しよう、おい君。」署長は立ちあがりました。

「もうお帰りですか。まあまあ。」村長やみんなが立って留めようとしたときそこはもう商売で署長と白鳥属とはまるで忍術のやうに座敷から姿を消し台所にあった靴くつをつまんだと思ふともう二人の自転車は暗い田圃たんぼみちをときどき懐中電燈をぱっぱっとさせて一目散にハーナムキヤの町の方へ走ってゐたのです。

三、署長室の策戦

次の日税務署長は役所へ出て自分の室へやに入り出勤簿を検査しますとチリンチリンと卓上ベルを鳴らして給仕を呼び「デンドウイを呼べ。」とあごで云ひつけました。

すぐ白服のデンドウイ属がいかにも敬虔けいけんに入って来ました。

「まあ掛け給たまへ。」署長はやさしく云って話の口をきりました。

「ユグチュユモトの村へ出張して呉くれ給へ。」

「は、」

「変装して行って貰もらひたいな。一寸ちょっと売薬商人がいゝだらう。あの千金丹の洋傘かうもりがさがあった筈はずだね。」

「は、ございます。」

「ぢゃ、ライオン堂へ行ってこれでウヰスキーを一本買ってねそれから広告をくばってやるからと云って何かのちらしを二百枚も貰ひたまへ。そいつを持って入って行くんだ。君の顔は誰たれも知ってやしない。どうもあの村はわからないとこがある。どうも誰かがどこかで一斗や二斗でなしにつくってゐる。一つ豪胆にうまくやって呉れ給へ。」

「は、畏かしこまりました。」

デンドウイ属はもう胸がわくわくしました。うまく見付けて帰って来よう。そしたら月給だってもうきっと三円はあがる、ひとつまるっきり探偵風にやってやらう。

「概算旅費を受け取って行きたまへ。」署長はまた云ひました。

「ありがたうございます。」デンドウイ属は礼をして自分の席へ帰ってそれから会計へ行って七日間の概算旅費を受け取って自分の下宿へ帰って行きました。

さて八日目の朝署長が役所へ出て出勤簿を検査してそれから机の上へ両手を重ねてふうと一つ息をしたとき扉とがかたっと開いてデンドウイ属があの八日前の白服のまゝでまた入って来ました。どうもその顔がひどくやつれて見えました。署長は思はず椅子いすをかたっと云はせました。

「どうだったね、少しはわかりましたか。」心配さうにそれにまたにこにこしながら訊きいたのです。

「どうもいけませんでした。あの村には濁密はないやうであります。」

「さうですか。どう云ふやうにしてしらべました。」署長は少しこはい顔をしました。

「ニタナイのとこに丁度老人でなくなった人があったのです。人が集ったらいづれ酒を呑のまないでゐないからと存じましてすぐその前のうちへ無理に一晩泊めて貰ひました。するとそのうちからみんな手伝ひに参りまして道具やなんかも貸したのでございます。私は二階からじっと隣りの人たちの云ふことを一晩寝ないで聞いて居をりました。すると夜中すぎに酒が出ました。もう一語でもきゝもらすまいと思ってゐましたら、そのうち一人がすうと口をまげて歯へ風を入れたやうな音がしました。これはもうどうしても濁り酒でないと思ってゐましたら、」

「ふんふん、なかなか君の観察は鋭い。それから。」

「そしたら一人が斯かう云ひました。いゝ、ほんとにいゝ、これではもうイーハトヴの友もなにも及ばないな。と云ひました。イーハトヴの友も及ばないとしますととても密造酒ではないと存じました。」

「その酒の名前を聞きましたか。」

「私は北の輝てるだらうと思ひます。」

署長は俄にはかにこはい顔をしました。

「いゝや、北の輝てるぢゃない。断じてさうでない。そのいゝ酒がどこから出来てゐるかどの県から入ってるかそれをよくしらべに君をたのんだのだ。けれどもそしてそれからあと七日君はいったい何をして居たのだ。」

「それからあとは毎日林の中や谷をあるいて山地密造酒を探して居りました。」

「あったか。」

「ありませんでした。」

「見給へ。そんな藪やぶの中にこっそり作るやうなそんなのぢゃない。どこか床下をほるかなんかしても少し大きくやってゐるだらうとはじめから僕が注意して置いたぢゃないか。」

デンドウイ属はもう頭を垂れてしまひました。そのやつれた青い顔を見ると署長もまた少し気の毒になって来ました。

「いや、よろしい。帰ってやすみ給へ。ご苦労でした。シラトリ君に一寸ちょっと来いと云って呉れ給へ。」

デンドウイ属はしほしほ出て行きました。間もなく、例のシラトリ属がすまし込んで入って来ました。

「君、ユグチュユモトへ行ってくれ給へ。却かへってそのまゝの方がいゝ。あのね、この前の村会議員のとこへ行ってね、僕からと云ふ口上でね、先せんころはごちそうをいたゞいて実にありがたう、と、ね、その節席上で戯談じょうだん半分酒造会社設立のことをおはなししたところ何だか大分本気らしいご挨拶あいさつがあったとね、で一つこの際こちらから技術員も出すから模範的なその造酒工場をその村ではじめてはどうだらう、原料も丁度そちらのは醸造に適してゐると思ふと斯かう吹っかけて見てじっと顔いろを見て呉れ給へ。きっと向ふが資本がありませんでと斯う云ふからね、そしたらどうでせう、半官半民風にやらうぢゃありませんかと斯うやって呉れ給へ。そしてその返事をもうせき一つまでよく覚え込んで帰って呉れ給へ。いますぐです。今日中に帰れるだらう、あしたは休んでもいゝから。」

「帰れます。」シラトリキキチ氏はしゃんと礼をして出て行きました。署長はもう一生けん命何かを考へ込んで昼飯さへ忘れる風でした。ひるすぎはそはそは窓に立ってシラトリ属の帰るのをいまかいまかと待ってゐました。

ところがシラトリ属は夕方になっても帰りませんでした。

署長はもうみんなも帰る時分だしと思って自分も一ぺん家へ帰るふりをして町をぐるっとまはりみんなが戻ったころまた役所へ来て小使に自分の室へやへ電燈をつけさせて待ってゐました。すると八時過ぎて玄関でがたっと自転車を置いた音がしてそれからシラトリ属がまるで息を切らして帰って来たのです。

「どうだった。」署長は待ち兼ねてさう訊たづねました。

「だめです。」

「いけなかったか。」署長はがっかりしました。

「仰おっしゃったとほり云ってだまって向ふの顔いろを見てゐたのですけれどもまるで反応がありませんな、さあ、まあそんなことも仰っしゃっておいででしたがどうもお役人方の仰っしゃることはご無理もあればむづかしいことも多くてなんててんでとり合はないのです。」

「顔色を変へなかったか。」

「少しも変りませんでした。」

「それからどうした。」

「仕方ありませんからそこを出て村の居酒屋へいきなり乗り込んであった位の酒を瓶詰びんづめのもはかり売のも全部片っぱしから検査しました。」

「うんうん。そしたら。」

「そしたら瓶詰はみんなイーハトヴの友でしたしはかり売のはたしかに北の輝てるです。」

「北の輝の方がいくらか廉やすいんだな。」

「さうです。」

「たしかに北の輝かね。」

「さうです。それから酒屋の主人に帳簿を出さしてしらべて見ましたが酒の売れ高がこのごろ毎年減って行くやうであります。」

「をかしいな。前にはあの村はみんな濁り酒ばかり呑のんでゐたのにこのごろ検挙が厳しくてだんだん密造が減るならば清酒の売れ高はいくらかづつ増さなければいけない。」

「けれどもどうも前ぐらゐは誰たれも酒を呑まないやうであります。」

「さうかね。」

「それに酒屋の主人のはなしでは近頃は道路もよくなったし荷馬車も通るのでどこの家でもみんな町から直ぢかに買ふからこっちはだんだん商売がすたれると云ひました。」

「をかしいぞ。そんなに町からどしどし買って行くくらゐの現金があの村にある筈はずはない。どうもをかしい。よろしい。こんどは私が行って見よう。どうもをかしい。明日から三四日留守するからね。あとをよく気をつけて呉れ給へ。さあ帰ってやすみ給へ。」

税務署長は唇くちびるに指をあて、眼を変に光らせて考へ込みながらそろそろ帰り支度をしました。

四、署長の探偵

税務署長のその晩の下宿での仕度ときたら実際科学的なもんだった。

まづ第一にひげをはさみでぢゃきぢゃき刈りとって次に揮発油へ木タールを少しまぜて茶いろな液体をつくって顔から首すぢいっぱいに手にも塗った。鼻の横や耳の下には殊に濃く塗ったのだ。それからアスファルトの屋根材の継目に塗りつける黒いペイントを顎あごのとこへ大きな点につけてしばらくの間じっとそんな油や何かの乾くのを待ってたが、それがきれいに乾くとこんどは鏡台の引出しをあけてにせものの金歯を二枚出して犬歯へはめました。すると税務署長がすっかり変ってしまって請負師か何かの大将のやうに見えて来た。それから署長は押し入れからふだん魚釣りに行くときにつかふ古いきゅうくつな上着を出して着ておまけに乗馬ズボンと長靴ながぐつをはいた。そして葉書入れを逆まにしてしばらく古い名刺をしらべてゐたがその中からトケウ乾物商サヘタコキチと書いたやつをえらんでうちかくしへ入れた。独りものの署長のことだから実際こんなことができたのだ。それから帽子をかぶり洋傘かうもりがさを持って外へ出たけれども何と思ったかもう一ぺん長靴をぬいでそれを持って座敷へあがった。古い新聞紙を鏡の前の畳へ敷いて又長靴をはいてちゃんと立って鏡をのぞいてさあもうにかにかにかにかし出した。

それから俄にはかにまじめになってしばらく顔をくしゃくしゃにしてゐたがいよいよ勇気に充みちて来たらしく一ぺんに畳をはね越えておもてに飛び出し大股おほまたに通りをまがった。実にその晩の夜の十時すぎに勇敢な献身的なこの署長は町の安宿へ行って一晩とめて呉れと云った。そしたらまじめにお湯はどうかとか夕飯はいらないかとか宿屋では聞いた。署長はもうすっかり占めたと思ったのだ。そして次の朝早く署長はユグチュユモトの村へ向った。

村の入口に来てさっそく署長はあの小売酒屋へ行った。

「えゝ伺ひますが、この村の椎蕈しひたけ山はどちらでせうか。」

「椎蕈山かね。おまへさんは買付けに来たのかい。」

「へえ、さうです。」

「そんなら組合へ行ったらいゝだらう。」

「組合はどちらでございませう。」

「こっから十町ばかりこのみちをまっすぐに行くとね学校がある、」

知ってるとも、そこでおれが講演までしてひどい目にあってるぢゃないか、署長は腹の底で思った。

「その学校の向ひに産業組合事務所って看板がかけてあるからそこへ行って談はなしたらいゝだらう。」

「さうですか。どうもありがたうございました。お蔭かげさまでございます。」署長はまるで飛ぶやうにおもてに出てまた戻って来た。

「どうもせいがきれていけない。一杯くれませんか。えゝ瓶びんでない方。ううい。いゝ酒ですね。何て云ひます。」

「北の輝てるです。」

「これはいゝ酒だ。こゝへ来てこんな酒を呑のまうと思はなかった。どこで売ります。」

「私のとこでおろしもしますよ。」

「はあ、しかし町で買った方が安いでせう。」

「さうでもありません。」

「だめだ。持って行くにひどいから。」

署長は金を十銭おいて又飛び出した。それから組合の事務所へ行った。さあもうつかまへるぞ今日中につかまへるぞ、署長はひとりで思った。ところが事務所にはたった一人髪をてかてか分けて白いしごきをだらりとした若者が椅子いすに座って何か書いてゐた。こいつはうまいと署長は思った。

「今日は、いゝお天気でございます。ごめん下さい。私はトケイから参りました斯かう云ふものでございますがどうかお取次をねがひます。」署長はあの古い名刺をだいぶ黄いろになってるぞと思ひながら出した。若者は率直に立って「あゝさうすか。」と云って名刺を受けとったがあとは何も云はないでもぢもぢしてゐた。

「今朝はまだどなたもお見えにならないんですか。」

「はあ、見えないで。」若者は当惑したやうに答へた。

「えゝ、ではお待ちいたします、どうかお構ひなく。いかゞでございませう。本年は椎蕈しひたけの方は。この雨でだいぶ豊作でございませうね。」

「あんまりよくないさうだよ。」

「はあいや匂にほひやなにかは悪いでせうが生えることは沢山生えましてございませうね。」

「できたらう。」若者はだんだん言ことばも粗末になって来た。

「どうでせうね。わたしあ東京の乾物屋なんだが貸しの代りに酒をたくさんとったのがあるんだがどうでせう。椎蕈ととり代へるのを承知下さらないでせうかね。安くしますが。」

「さあだめだらう。酒はこっちにもあるんだから。」

「町から買ふんでせう。」

「いゝや」

「どこかに酒屋があるんですか。」

「酒屋ってわけぢゃない。」

さあ署長はどきっとしました。

「どこですか。」

「どこって、組合とはまた別だからね。」若者はぴたっと口をつぐんでしまひました。さあ税務署長はまるで踊りあがるやうな気がした。もうたゞ一息だ。少くとも月一石づつつくってあちこちへ四五升づつ売ってゐるやつがある。今日中にはきっとつかまへてしまふぞ。

「椎蕈山は遠いんですか。」

「一里あるよ。」

「このみちを行っていゝんですか。」

「行けるよ。」

「それでは私山の方へ行って見ますからね、向ふにも係りの方がおいででせう。」

「居るよ。」

「ではさうしませう。こっちでいつまでも待ってるよりはどうせ行かなけぁいけないんだから。ではお邪魔さまでした、いまにまた伺ひます。」

署長は小さな組合の小屋を出た。少し行ったらみちが二つにわかれた。署長はちょっと迷ったけれども向ふから十五ばかりになる子供が草をしょって来るのを見て待ってゐて訊きいた。

「おい、椎蕈しひたけ山へはどう行くね。」

すると子供はよく聞えないらしく顔をかしげて眼を片っ方つぶって云った。

「どこね、会社へかね。」会社、さあ大変だと署長は思った。

「あゝ会社だよ。会社は椎蕈山とは近いんだらう。」

「ちがふよ。椎蕈山こっちだし会社ならこっちだ。」

「会社まで何里あるね。」

「一里だよ。」

「どうだらう。会社から毎日荷馬車の便りがあるだらうか。」

「三日に一度ぐらゐだよ。」

ふん、その会社は木材の会社でもなけぁ醋酸さくさんの会社でもない、途方もないことをしてやがる、行ってつかまへてしまふと署長はもうどぎどぎして眼がくらむやうにさへ思った。そして子供はまた重い荷をしょって行ってしまった。署長はまるではじめて汽車に乗る小学校の子供のやうに勇んでみちを進んで行った。それから丁度半里ばかり行ったらもう山になった。みちは谷に沿った細いきれいな台地を進んで行ったがまだ荷馬車のわだちははっきり切り込んでゐた。向ふに枯草の三角な丘が見えてそこを雲の影がゆっくりはせた。

「おい、どこへ行くんだい。」ホークを持ち首に黒いハンケチを結び付けた一人の立派な男が道の左手の小さな家の前に立って署長に叫んだ。

「椎蕈山へ行きますよ。」署長は落ちついて答へた。

「椎蕈山こっちぢゃない。すっかりみちをまちがったな。」青年が怒ったやうに含み声で云った。

「さうですか。こゝからそっちの方へ出るみちはないでせうか。」

「ないね、戻るより仕方ないよ。」

「さうですか。では戻りませう。」もう喧嘩けんくゎをしたらとても勝てない。一たまりもないと思ったから署長は大急ぎで一つおじぎをして戻り出した。もう大ていいゝだらうと思ってうしろをちょっと振り返って見たらその若者はみちのまん中に傲然がうぜんと立ってまるでにらみ殺すやうにこっちを見てゐた。そのそばには心配さうな身ぶりをした若い女がより添ってゐたのだ。署長はまるで足が地につかないやうな気がした。もういまの家のもう少し川上にちゃんと小さな密造所がたってゐるんだ。毎月三四石づつ出してゐる。大した脱税だ。よし山をまはって行っても見てやらうと考へた。そしてずっと下ってまがり角を三つ四つまがってから、非常に警戒しながらふり向いて見るともう向ふは一本の松の木が崖がけの上につき出てゐるばかりすっかりあの男も家も見えなくなってゐた。さあいまだと税務署長は考へて一とびにみちから横の草の崖に飛びあがった。それからめちゃくちゃにその丘をのぼった。丘の頂上には小さな三角標があってそこから頂がずうっと向ふのあの三角な丘までつゞいてゐた。税務署長は汗を拭ふくひまもなく息をやすめるひまもなくそのきらきらする枯草をこいでそっちの方へ進んだ。どこかで蜂はちか何かぶうぶう鳴り風はかれ草や松やにのいゝ匂にほひを運んで来た。

ちょっとふりかへって見るとユグチュユモトの村は平和にきれいに横たはりそのずうっと向ふには河が銀の帯になって流れその岸にはハーナムキヤの町の赤い煙突も見えた。

署長はちょっとの間濁密をさがすなんてことをいやになってしまった、けれどもまた気を取り直してあの三角山の方へつゝじに足をとられたりしながら急いだ。実にあのペイントを塗った顔から黒い汗がぼとぼとに落ちてシャツを黄いろに染めたのだ。ところが三角山の上まで来ると思はず署長は息を殺した。すぐ下の谷間にちょっと見ると椎蕈しひたけ乾燥場のやうな形の可成かなり大きな小屋がたって煙突もあったのだ。そして殊にあやしいことは小屋がきっぱりうしろの崖にくっついて建ててあっておまけにその崖が柔らかな岩をわざと切り崩したものらしかった。たしかにその小屋の奥手から岩を切ってこさへた室へやがあって大ていの仕事はそこでやってゐるらしく思はれた。これはもう余程の大きさだ。小さな酒屋ぐらゐのことはある、たしかにさっきの語ことばのとほり会社にちがひない、いったい誰々の仕事だらう、どうもあの村会議員はあやしい、巡査を借りてやって来て村の方とこっちと一ぺんに手を入れないと証拠があがらない、誰か来るかも知れない今日一日見てゐようと税務署長は頬杖ほほづゑをついて見てゐた。するとまるで注文通り小屋の中からさっきの若い男がぽろっと出て来た。それから手を大きく振ったやうに見えた、と思ふと、おゝい、サキチ、と叫ぶ声が聞えて来た。見ると荷馬車が一台おいてある。その横から膝ひざの曲った男が出て来て二人一緒に小屋へ入った。さあ大変だと署長が思ってゐたら間もなく二人は大きな二斗樽だるを両方から持って出て来た。そしてどっこいといふ風に荷馬車にのっけてあたりをじっと見まはした。馬が黒くてかてか光ってゐたし谷はごうと流れてしづかなもんだった、署長はもう興奮して頭をやけに振った。二人はまた小屋へ入った。そして又腰をかゞめて樽を持って来た。と思ったらすぐあとからまた一人出て来た。そして荷馬車の上に立って川下の方を見てゐる。二人はまた中へ入った、そしてまた樽を持って出て来たもんだ、(さあ、これでもう六斗になるまさかこれっきりだらう、これっきりにしても月六石になる大した脱税だ)と署長は考へた。ところがまた出て来た。そしてまた入ってまた出て来た。もう一石だ月十石だと署長はぐるぐるしてしまった。ところが又入ったのだ。こんどは月十二石だ、それからこんどは十四石十六石十八石、二十石とそこまで署長が夢のやうに計算したときは荷馬車の上はもう樽たるでぎっしりだった。すると三人がそれへ小屋の横から松の生枝をのせたりかぶせたりし出した。

見る間にすっかり縛られて車が青くなり樽が見えなくなってもう誰たれが見ても山から松枝をテレピン工場へでも運ぶとしか見えなくなった。荷馬車がうごき出した。馬がじっさい蹄ひづめをけるやうにし、よほど重さうに見えた。するとさっきの若い男は荷馬車のあとへついた。それから十間ばかり行く間一番おしまひに小屋から出た男は腕を組んで立って待ってゐたが俄にはかに歩き出してやっぱりついて行った。(実に巧妙だ。一体こんなことをいつからやってゐたらう。さあもうあの小屋に誰も居ない、今のうちにすっかりしらべてしまはう、証拠書類もきっとある。)税務署長は風のやうに三角山のてっぺんから小屋をめがけてかけおりた。ところが小屋の入口はちゃんと洋風の錠が下りてゐたのだ。(さあもういよいよ誰も居ない。あいつが村まで行って帰るまでどうしても二時間はかゝる。どこからか入らなけぁならない。)税務署長は狐きつねのやうにうろうろ小屋のまはりをめぐった。すると一とこ窓が一分ばかりあいてゐた。署長はそこへ爪つめを入れて押し上げて見たらカラッと硝子ガラスは上にのぼった。もう有頂天になって中へ飛び込んで見るとくらくて急には何も見えなかったががらんとした何もない室へやだった。煙突の出てるのは次の室らしかった。急いでそっちへかけて行って見たらあったあったもう径二米メートルほどの大きな鉄釜てつがまがちゃんと煉瓦れんぐゎで組んで据ゑつけられてゐる。署長は眼をこすってよく室の中を見まはした。隅すみの棚たなのとこにアセチレン燈が一つあった。マッチも添へてあった。すばやくそれをおろしてみたらたったいま使ったらしくまだあつかった。栓せんをねぢって瓦斯ガスを吹き出させ火をつけたら室の中は俄にはかに明るくなった。署長はまるで突貫する兵隊のやうな勢でその奥の室へ入った。そこは白い凝灰岩をきり開いた室でたしか四十坪はあると署長は見てとった。奥の方には二十石入の酒樽が十五本ばかりずらっとならび横には麹室かうじむろらしい別の室さへあったのだ。おまけにビューレットも純粋培養の乳酸菌もピペットも何から何まで実に整然とそろってゐたのだ。(あゝもうだめだ、おれの講演を手を叩たたいて笑ったやつはみんな同類なのだ。あの村半分以上引っ括くくらなければならない。もうとても大変だ)署長はあぶなく倒れさうになった。その時だ、何か黄いろなやうなものがさっとうしろの方で光った。

見ると小屋の入口の扉とがあいて二人の黒い人かげがこっちへ入って来てゐるではないか。税務署長はちょっと鹿踊ししをどりのやうな足つきをしたがとっさにふっとアセチレンの火を消した。そしてそろそろとあの十五本の暗い酒だるのかげの方へ走った。足音と語ことばががんがん反響してやって来た。「いぬだいぬだ。」「かくれてるぞかくれてるぞ。」「ふんじばっちまへ。」「おい、気を付けろ、ピストルぐらゐ持ってるぞ。」ズドンと一発やりたいなと署長は思った。とたん、アセチレンの火が向ふでとまった。青じろいいやな焔ほのほをあげながらその火は注意深くこっちの方へやって来た。「酒だるのうしろだぞ」二人は這はふやうにそろそろとやって来た。

署長はくるくると樽の間をすりまはった。

そしたらたうとう桶をけと桶の間のあんまりせまい処へはさまってのくも引くもできなくなってしまった。

アセチレンの火はすぐ横から足もとへやって来た。と思ふと黒い太い手がやって来ていきなり署長のくびをつかまへた。ガアンと頭が鳴った。署長は自分が酒桶の前の広場へ蟹かにのやうになって倒れてゐるのを見た。まるで力もなにもなかった。アセチレン燈もまだ持ってゐる。

「立て、こん畜生太いやつだ。炭焼がまの中へ入れちまふから、さう思へ。」

(炭焼がまの中に入れられたらおれの煙は木のけむりといっしょに山に立つ。あんまり情ない。)署長は青ざめながら考へた。

「誰たれだ、きさん、収税だらう。」

「いゝや。」署長は気の毒なやうな返事をした。

「とにかく引っ括くくれ。」一人が顎あごでさし図した。一人はアセチレンをそこへ置いてまるで風のやうにうごいて綱を持って来た。署長はくるくるにしばられてしまった。

「おい、おれが番してるから早く社長と鑑査役に知らせて来い。」

「おゝ。」一人は又すばやくかけて出て行った。

「おい、云はなぃかこん畜生、貴さん収税だらう。」

「さうでない。」

「収税でなくて何しに入るんだ。」署長はやうやく気を取り直した。

「おいらトケイの乾物商だよ。」

「トケイの乾物商が何しにこんなとこへ来るんだ。」

「椎蕈しひたけ買ひに来たよ。」

「椎蕈。」

「あゝこゝで椎蕈つくってると思ったから見てゐたんだ。名刺もちゃんと組合の方へ置いてある。」

「正直な椎蕈商が何しに錠前のかかった家の窓からくぐり込むんだ。」

「椎蕈小屋の中へはひったっていゝと思ったんだ。外で待ってゐても厭あきたからついはひって見たんだよ。」

「うん。さう云やさうだなあ。」こゝだと署長は思った。みんなの来ないうちに早く遁にげないともうほんたうに殺されてしまふ。もう一生けん命だと考へた。

「おい、いゝ加減にして繩なはをといて呉れよ。椎蕈はいくらでも高く買ふからさ。おれだってトケイにぁ妻も子供もあるんだ。こゝらへ来て、こんな目にあっちゃ叶かなはねえ。どうか繩をといて呉れよ。」

「うん、まあいまみんな来るから少し待てよ。よく聞いてから社長や重役の方へ申しあげれぁよかったなあ。」

「だからさ、遁にがして呉れよ。おれお前にあとでトケイへ帰ったら百円送るからさ。」

「まあ少し待てよ。」あゝもう少し待ったら、どんなことになるかわからない。署長はぐるぐるしてまた倒れさうになった。

ところがもういけなかったのだ。入口の方がどやどやして実に六人ばかりの黒い影が走り込んで来た。(もう地獄だ、これっきりだ。)署長は思った。今まで番をしてゐた男は立ってそれを迎へた。ぐるっとみんなが署長を囲んだ。

「こいつはトケイの椎蕈しひたけ商人ださうです。椎蕈を買はうと思って来たんださうです。」

「うん。さっき組合へうさんなやつが名刺を置いて行ったさうだがこいつだらう。」りんとした声が云った。署長は聞きおぼえのある声だと思って顔をあげたらじっさいぎくりとしてしまった。それは名誉村長だった。しばらくしんとした。

「どうだ。放してやるか。」また一人が云った。署長は横目でそっちを見上げた。あの村会議員なのだ。

「いや、よく調べないといけません。念に念を入れないとあとでとんだことになります。」

署長はまたちらっとそっちを見た。それはあの講演の時青くなった小学校長だった。すなはちわれらの樽たるコ先生ではないか。

「いゝえ、こいつはさっき一ぺん私が番所から追ひ帰したのです。どうもあやしいと思ひましたからとがめましたら椎蕈山はこっちかと云ふんです。こっちぢゃない帰れ帰れって云ひましたらさうですかここらからまはるみちはないかとまた云ひやがるんです。ないない。帰れと云ひましたら仕方なく戻って行きました。そいつをいつの間にどこをまはってこゝへ入ったかもうこいつはきっと税務署のまはしものです」

「うん。さう云へばどうもおれにもつらに見おぼえがある。表へ引っぱり出してみろ。てめへは行って番所に居ろ。」社長の名誉村長が云った。

「立てこの野郎」署長はえり首をつかまへられて猫のやうに引っぱり出された。おもてへ出て見ると日光は実に暖かくぽかぽか飴あめ色に照ってゐた。(おれが炭焼がまに入れられて炭化されてもお日さまはやっぱりこんなにきれいに照ってゐるんだなあ。)署長はぽっと夢のやうに考へた。

「何だこいつは税務署長ぢゃないか。」名誉村長はびっくりしたやうに叫んだ。それからみんなはにゅうと遁げるやうなかたちになった。署長はもうすっかり決心してすっくと立ちあがった。

「いかにもおれは税務署長だ。きさまらはよくも国家の法律を犯してこんな大それたことをしたな。おれは早くからにらんでゐたのだ。もうすっかり証拠があがってゐる。おれのことなどは潰つぶすなり灼やくなり勝手にしろ。もう準備はちゃんとできてゐる。きさまたちは密造罪と職務執行妨害罪と殺人罪で一人残らず検挙されるからさう思へ。」

社長も鑑査役も実に青くなってしまった。しばらくみんなしいんとした。

こゝだと署長が考へた。

「さあ、おれを殺すなら殺せ、官吏が公務のために倒れることはもう当然だ。」署長は大へんいゝ気持がした。といきなりうしろから一つがぁんとやられた。又かと思ひながら署長が倒れたらみんな一ぺんに殺気立った。

「木へ吊つるせ吊るせ。なあに証拠だなんてまだ挙がってる筈はずはない。こいつ一人片付ければもう大丈夫だ。樺花かばはなの炭釜すみがまに入れちまへ。」たちまち署長は松の木へつるしあげられてしまった。村会議員が出て云った。

「この野郎、ひとの家でご馳走ちそうになったのも忘れてづうづうしい野郎だ。ゆぶしをかけるか。」

「野蛮なことをするな。」署長が吊られて苦しがってばたばたしながら云った。

「とにかく善後策を講じようぢゃないか。まあ中で相談するとしよう。」村長が云った。

みんなは中へはひった。署長は木の上で気が遠くなってしまった。

五、署長のかん禁

しばらくたって署長は自分があの奥の室へやの中に入れられてゐるのを気がついた。頭には冷たい巾きれがのせてあったし毛布もかけてあった。いちばんあとから小屋を出た男が虔つつましく番をしながら看病してゐた。おもてではがやがやみんなが談はなしてゐた。何でも善後策を協議してゐるか酒盛りをやってゐるらしかった。署長がからだをうごかしたらすぐその若者が近くへ寄って模様を見た。それから戸をあけてそしても一つ戸をあけて外の大きな室に出て行った。と思ふと名誉村長が入って来た。茶いろの洋服を着てゐた。(そして見るとおれは二日か三日寝てゐたんだな。)署長は考へた。名誉村長は座って恭しく礼をして云った。

「署長さん。先日はどうも飛んだ乱暴をいたしました。

実は前後の見境ひもなくあんなことをいたしましてお申し訳けございません。実は私どもの方でもあなたの方のお手入があんまり厳しいためつい会社組織にしてこんなことまでいたしましたやうな訳で誠に面目次第もございません。就つきましていかゞでございませう。私どもの会社ももうかっきり今日ぎり解散いたしまして酒は全部私の名義でつくったとして税金も納めます。あなたはお宅まで自働車でお送りいたしますがこの度限り特にご内密にねがひませんでせうか。」

署長はもう勝ったと思った。

「いやお語ことばで痛み入ります。私も職務上いろいろいたしましたがお立場はよくわかって居ります。しかしどうも事こゝに至れば到底内密といふことはでき兼ねる次第です。もう談はなしがすっかりひろがって居りますからどうしても二三人の犠牲者はいたし方ありますまい。尤もっとも私に関するさまざまのことはこれは決して公にいたしません。まあ罰金だけ納めて下さってそれでいゝやうな訳です。」

「それがそのどうも私どもはじめ名前を出したくないので。」

この時だ、表が俄にはかにやかましくなって烈はげしい叫声や組討ちの音が起った。まるでもう嵐のやうだった。

「署長署長」誰たれかが叫んだ。署長はばっと立ちあがった。

「おゝ、こゝに居るぞよくやったよくやった。シラトリ、こゝに居るぞ。」

すぐ二三人が室へやの戸をけやぶって入って来た。

「署長、ご健勝で。もうみんな捕縛しました。」とシラトリ属が泣いてかけて来た。

「よくわかったなあ、警察の方もたのんだか。」

「えゝ総動員です。二十人捕縛してあります。この方は。」

「名誉村長だ。けれども仕方ない繩なはをかけ申せ。」署長はわくわくして云った。

「署長ご健勝で。」署員たちが向ふ鉢巻はちまきをしたり棍棒こんぼうをもったりしてかけ寄った。署長は痛いからだを室から出た。

「樽たるにみんな封印しろ。証拠品は小さな器具だけ、集めろ。その乳酸菌の培養も。うん。よろしい。いやどうもご苦労をねがひました。」署長は巡査部長に挨拶あいさつした。

「お変りなくて結構です。いや本署でも大へん心配いたしました。おい。みんな外へ引っぱれ。」

そしてもうぞろぞろみんなはイーハトヴ密造会社の工場を出たのだ。五分ののちこの変な行列があの番所の少し向ふを通ってゐた。

署長は名誉村長とならんで歩いてゐた。

「今日は何日だ。」署長はふっとうしろを向いてシラトリ属にきいた。

「五日です。」

「あゝもうあの日から四日たってゐるなあ。ちょっとの間に木の芽が大きくなった。」

署長はそらを見あげた。春らしいしめった白い雲が丘の山からぼおっと出てくろもじのにほひが風にふうっと漂って来た。

「あゝいゝ匂にほひだな。」署長が云った。

「いゝ匂ですな。」名誉村長が云った。

底本 / Source edition

底本:「新修宮沢賢治全集 第十一巻」筑摩書房
1979(昭和54)年11月15日初版第1刷発行
※底本本文の編集方針に合わせて、ルビの拗音、促音、「喧嘩《けんくゎ》」、「煉瓦《れんぐゎ》」を小書きしました。
入力:田代信行
校正:斉藤知子
2005年1月8日作成
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書誌 / Bibliography
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宮沢 賢治「税務署長の冒険」(新字旧仮名)、底本『新修宮沢賢治全集 第十一巻』筑摩書房、1979年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001941_000081, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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