１

<ruby><rb>植峰</rb><rt>うえみね</rt></ruby>――植木屋の<ruby><rb>峰吉</rb><rt>みねきち</rt></ruby>というよりも、消防の<ruby><rb>副小頭</rb><rt>ふくこがしら</rt></ruby>として知られた、浅黒い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でっぷり</span>した五十男だった。雨のことをおしめりとしか言わず、鼻のわきの<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>に一本長い毛が生えていて、その毛を<ruby><rb>浹々</rb><rt>しょうしょう</rt></ruby>と<ruby><rb>洗湯</rb><rt>せんとう</rt></ruby>の湯に浮かべて、出入りの誰かれと呵々大笑する。そうすると、春ならば笑い声は窓を抜けて低く曇った空に吸われるであろうし、秋ならば、横の露路に咲いたコスモスのおそ咲きに絡まる。

「入湯の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>だがね、このコスモスてえ花は――」と峰吉は<ruby><rb>矢鱈</rb><rt>やたら</rt></ruby>に人をつかまえて講釈をするのだ。コスモス――何という寂然たる病的な存在だろう。こいつを土に倒しておくと、茎から白い根が生える。まるで都会の恋人の神経みたいな。と、もし峰吉に表現の能力があったら言ったかも知れない。そして、湯に浮んだ一筋の毛をゆらら、ゆららと動かすことによって、窓から映っている蒼空の色を砕く。とにかく、<ruby><rb>俳境</rb><rt>はいきょう</rt></ruby>のようなものを自得しつつある峰吉だった。だから、峰吉は峰吉以外の何ものでもなかったし、またこの眠っている町の消防の副小頭以外の何ものでもあり得なかったのである。

さて、この植峰がお八重の前借を払って、お八重を長火鉢のむこうに据えてから三年ほど経った。長火鉢はおっかあ――一ばんに植峰のおっかあと呼ばれていた死んだ峰吉の女房の手垢で黒く光っていたが、お八重ははじめのうち、それをひどく嫌がった。なぜ嫌がったかというと、これによって峰吉が前の妻を思い出すことを<ruby><rb>懼</rb><rt>おそ</rt></ruby>れるほど、それ程お八重は峰吉に惚れて――愛という相対的なものよりも惚れるという一方的な感情のほうを問題にする人たちだった――いたのか、あるいは、そうして惚れているらしく見せかけようとしたお八重のこんたんか、どっちかだったろう。こういうといかにもお八重が近代的な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>つきで、どんな若紳士の恋のお相手でも勤まりそうに聞えるけれど、言わばこんな技巧は、お八重が無意識のあいだに習得した手練手管の一つなのであって、早くいえばお八重は、投げ入れの乾からびている<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>の宿、といった感じのする、埃りの白っぽい隣の町で長いこと酌婦奉公をしていた。

このお八重である。長火鉢のことはそれでよかったが、もう三年にもなるのに、峰吉の落胆にまで子供がなかった。もっとも子供は前の女房にもなかったので、峰吉は半ば以上諦めてはいたものの、それでも祭の日なんかに肩上げのした<ruby><rb>印絆纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>を着て頭を剃った「餓鬼」を見ると、峰吉は、植峰の家もおれでとまりだなあと思ったりした。この、子供がないがために、養子とも居候ともつかない茂助が、お八重のはいるまえから、植峰の家にごろごろしていたのだが、茂助は茂助で、いまは十八から十九になろうとして、お湯屋の番台のおとめちゃんを思って、一日に二度も「入湯」して、そして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てかてか</span>光る顔ににきびを一ぱい吹き出さしていた。

「えんやらや、やれこうのえんやらや――」といったわけで、茂助もいい若い者だった。それで峰吉の光りで、消防のほうでも梯子を受持っていた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">十長</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">機関</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">鳶</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">巻車</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">らっぱ</span>などという消防関係の男たちがしじゅう植峰に出入りしていたがみんな意気振れば意気ぶるだけ田舎者ばかりで、ほんとに話せないねえとお八重はすっかり<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>気取りで考えていた。

と、お八重に子供が出来たのである。まだ生れはしないけれど、自慢なほど痩せぎすなお八重のことだから、早くから人の眼についた。おいおい、もす――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>は茂助の略称である――途法もねえ野郎だ、おめえだろう、おかみさんをあんなにしたのは。だの、もすさんも親方の面に泥を塗って、どうもはやえらいことをやらかしたもんだ、しかし、ああ落ちついてるのが不思譲だなあ、などという声が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">十長</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">機関</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">鳶</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">巻車</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">らっぱ</span>のあいだに拡がって行って、それがお八重の耳にも、茂助の耳にも、最後に峰吉の耳にも<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。お八重は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くすくす</span>笑っていたし、茂助は色男めかしてにっこりしたし、最後に峰吉は、<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>の毛を引っばりながら、重ねておいて四つにするという古い言葉を思出して、ちょっと、正月の餅のようだと感じた。三人とも何にも言わずに解りあっていたのだ。もすの子だなんて、そんな馬鹿げたことがあるもんか、と。

が、このあられもない風評にそそのかされでもしたようにお八重は不必要にも一つのあそびを思いついた。じっさいそれは遊びとしかいいようのない計画で、いや、計画とまでのはっきりした形をさえ取らないさきに、お八重はもうその遊びをはじめていた。というのは、お八重は、自分が峰吉の眼をかすめて茂助と親しくしているようなふうを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せっせ</span>と見せ出したのである。もっともこれは、こうすることによって、うちの人――お八重は二十も年の違う峰吉をわざとらしくうちの人と言っていた――の気を引いてみようとした、つまり矢張り単なる遊びに過ぎなかったものか、またはもっともっと峰吉に大事にされたかったのか、つまりより以上に真剣な心もちを包んでいたのか、あるいは、万が一ほんとにお八重が茂助という少年を知っていたのか、つまりその大それた交渉をおおっぴらに現わしはじめたのか、そのへんのことは神ならぬ身の峰吉にはさっぱり判断がつかなかったが、そこは老年に近い峰吉としては、お八重の腹の子に対する<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったい<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びに混って、茂助の顔を見るたびに覚える真黒な動物的な親密――この小僧がお八重をおれと共有しているかも知れねえのだからなあ――からくる一種へんな感心の気もちを味わわなければならなかった。峰吉がとしよりだったから、こんなところを<ruby><rb>低徊</rb><rt>ていかい</rt></ruby>していたのかも知れないし、一方から言えば年寄りなればこそ、そうして副小頭なればこそ、ここを一つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐっ</span>と押さえることが出来たのかも知れない。それは、これが植峰の峰吉にとってこの上ない悲壮な、英雄的な感激だったのでもわかろう。火のないところにけむりは立たぬ。町内で知らぬは亭主ばかりなり――なあに、おりゃあ知ってる。知ってて眼をねむってるんだ。まあ、待て待て、と洗湯の湯の表面に<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>の毛を浮かべて、そもそも何度峰吉が自分じしんに言いきかせたことか。思えば、苦しいこころで笑っている植峰の親方ではあった。

そんなこととは知らないから、茂助は依然として「やれこうのえんやらや」の茂助だった。ときどき三里ほどの夜の山道を歩いて、遊廓のある町へ行ったり、その町から帰って来たりする途中も、茂助は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずうっ</span>とお湯屋の番台にすわっているおとめちゃんのことを思いつづけた。親方のおかみと何かあっても、恐らくは平気でこうであろう茂助は、何もなくても平気でそうだった。ただ変化と言えば、にきびが熟して黒くなったり、穴があいたりしただけだった。

２

で、きょうというこの日である。

茂助が風呂から帰ってきたとき、茶の間は真くらだった。いつものとおり縁側から上って、濡れ手試いを釘へかけて、茂助は茶の間へ這入って行って電燈を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>った。すると、茂助があっけにとられたことには、例の長火鉢のむこうにお八重が横すわりに崩れて、暗いなかにひとりで酒を呑んでいる。

「あ！　びっくりした。何だ、おかみさんだね。どうしたんだね、<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りもつけずに」

「誰だ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さんかい。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さんだね。暗くってねえ、済みませんでしたよ」

「ああれ、また酒だ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">また</span>ってのは何だよ、または余計じゃないか。何年何月何日にあたしがそんなにお酒を呑みました？――まあさ、お<ruby><rb>据</rb><rt>すわ</rt></ruby>りよ、もすさん」

「え。ちょっと――親方は？」

「そこにいるじゃあないか」

「そこに？　<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>に？」

「そこにさ。ははは、見廻してらあ。正直だね、お前さん」

「親方さ。どこにいるんだね」

「だからそこにいるって言ってるじゃないか。お前だよ、お前があたしの親方なんだ」

「なんとか言ってらあ。うふふ、おかみさんは人が悪くてね、おれちなんか<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わねえね」

「誰がこんなに人が悪くしたのさ。おすわりよ。一ぱい呑ませて上げよう。ね、お据りったらお据り」

「いやだなあ」

「いいからさ。じれったいねえ。子供なら子供らしく貰って飲んだらいいじゃないか」

「おかみさんにかかっちゃあ子供――」

「子供じゃないか。どこへ行って来たの？」

「え？　ちょっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざあ</span>っと一風呂浴びて来ました。親方は？」

「お湯屋のおとめちゃんだね、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さん。浮気をするときかないよ。沢庵やろうか」

「うん。<ruby><rb>冷酒</rb><rt>ひや</rt></ruby>には沢庵が一番いいね」

「生意気言ってらあ――けどね、おとめちゃんには親方が眼をつけてるんだろう？　横から手を出すと目にあうよ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さん」

「そんなことありませんよ。親方はおかみさんに惚れ切ってますからね。首ったけ――てんだ。ようよう！」

「何が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ようよう</span>だい。けど、お前さんほんとにそう思う？」

「そう思うって何を」

「いま言ったことさ。うちの人があたしに、って」

「うん。そりゃあそうだとも！　お八重が、お八重がって何処へ行っても言ってますよ。御馳走さま――これ何て酒だね。腹へしみるね」

「ほんとにそうかしら――」

「うん。いやに腹わたへしみらあ」

「そんなこっちゃないよ」

「え？」

「あたし何だか親方に済まないよねえ」

「おかみさん、おら、一まわりそこらを歩いてくるよ」

「お待ちよ。お待ちったら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さん、お前この頃、へんな噂を聞くだろう？　お前とあたしのことさ。おなかの子が<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うとかこうとかって、莫迦莫迦しい――お前みたいな子供の子なんか、考えてもいやなこった。親方んだよ。いいかい、覚えてておくれよ、誰が何を言ったって親方んだからね――」

お八重はすこし芝居がかって、ここで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がっぱ</span>とばかり泣き伏した。

「知ってるよ。泣かねえでくれよおかみさん。親方が帰ってくるとおれが困るからよう――泣き<ruby><rb>上戸</rb><rt>じょうご</rt></ruby>だなあ」

「泣き上戸だって、嫌だよお前の子なんか！　いやだ、いやだ、いやだあっ！」

「だからよ、困るなあ――」

「<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしてくれる、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さん、さ、何うしてくれるのだい」

「だっておかみさん、おまえ今親方んだって自分で言ったくせに、自分でそ言っときながら――知らねえよ、おらあ」

「知らねえ？　知らねえ？　ほんとに知らねえか。ああ、薄情野郎め、知らねえか、ほんとに」

「困るなあ、困るなあ」

「なら、なぜ困るようなことをしたんだ？」

「何を？　何だと？　なぜ困るようなことをした？　どこを押せばそんな<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が――この――」

「およしよ、もすさん、そんなに飲むの」

「いいじゃねえか。おらあ今夜飲んで飲んで――」

「何だい、そんな顔してあたしを<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んでさ。どうしようっての。あたしを殺す気なの？」

「ふん、だ！」

「あたしは殺されてもいいけれど、おなかの子はお前んじゃないからね。親方んだからね」

「知ってますよ。はいはい、わかってますよ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さん、もっとこっちへお寄り」

「赤えかい、顔、おれの」

「色男！　もっとこっちへお寄りってば」

「嫌だ――こうかね」

「もすさん、ふふふ、お前とんだ子供だねえ」

「知らねえよおらあ、そんなこと」

「いいじゃないか」

「親方は？」

「知らねえよおらあ、そんなこと。はははは」

「何とか言ってらあ――」

茂助は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てれ</span>てこう言った時、植木屋だけにちょっと洒落た<ruby><rb>柴折戸</rb><rt>しおりど</rt></ruby>をあけて、売物の植木が植わっているなかを、家のほうへ歩いてくる下駄の跫音がした。特徴のある、引きずるような歩調が、峰吉の帰ってきたことを知らせていた。

「あ！　親方だよ」

お八重は突っ立った。そして、

「おかみさん、何をするんだね」

と茂助があわてているうちに、すうっと手を上げて電燈を消してしまった。

くらい茶の間の縁側のまえまで来て、足音が訊いた。かすれている峰吉の声だった。

「お！　暗えな」と、それから「誰もいねえのかよそこに」

「はい」障子のなかからお八重が答えた。「お帰んなさい」

「おお、お八重か。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>は？」

「あのね――」

「うん」

「電気をね――」

「うん」

「――直して貰ってんの」

「電気が消えたのか」

「ええ。故障なの。だからね、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さんに直してもらってたの。もう点くわ」

「そうか――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>！」

「へ。今つきます。もうすぐ」

仕方なしにしばらく電燈を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がちゃがちゃ</span>やったのち、茂助は頃あいを見てスウィッチを捻った。暗いあいだに、お八重がそこらの酒や小皿を片づけた。これでよしと見て、

「つきました――お帰り――」

茂助が障子をあけると、庭には松の枝に月がさすきりで、誰もいなかった。

３

その晩、それから間もなくだった。娘のいる近所の湯屋が火事になって、二、三軒にひろがって朝まで燃えつづけた。

「はい、点きました――お帰り――」

さっき、こういって障子をあけて見ても、いままで声のしていた親方がどこにもいないので、茂助もお八重もいささか怖いような気がして、それからは障子を開け放して、二人とも縁側に出て何ということもなく話しこんでいた。

すると、夜中に近くなって、また峰吉が帰ってきたが、すぐ寝るというので、めいめいその仕度にかかった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すりばん</span>が鳴って、湯屋から植峰へかけての空が真赤になったのはこの時である。峰吉は副小頭、茂助は梯子の係りとして、装束を固めて逸早く本部へ駈けつけて行った。そこから勢ぞろいして火元の湯屋へ繰り出したのだが、その夜は乾いた北西が吹いていて、どうにもならなかった。で、比較的大きくなって明方に及んだ。

ところが、さわぎはこれだけではなかった。というわけは、湯屋の焼跡から二つの焼屍体が発見されたのだった。一つは湯屋の娘おとめちゃんで、他の一つは茂助だった。だから、こうして茂助を殉職消防夫として死後表彰することになったのである。

怪火だった。火の気のあるべきはずのない物置から発火したとあって、放火だろうと警察が活躍していた。おとめちゃんの死んだのは逃げおくれたからで、これは気の毒だがまず<ruby><rb>致方</rb><rt>いたしかた</rt></ruby>ないとしても、茂助は、事実世評のごとくおとめちゃんを助けに這入って死んだものなら、恋仲だろうが何だろうが消防夫として火事で死んだ以上は、町としてうっちゃってはおけない――よろしく町葬にすべし、表彰すべしというので<ruby><rb>在</rb><rt>ざい</rt></ruby>から茂助の伯父伯母を呼んで、ちょうど火事から三日後の今日が、そこでこの茂助の町葬の日なのである。

午後三時、町の有志をはじめ消防夫一同が役場のまえに集って、行列をつくって<ruby><rb>智行寺</rb><rt>ちぎょうじ</rt></ruby>へねりこむことになっている。

いそがないと間にあわない。植峰では、副小頭の峰吉が、お八重を急がせて<ruby><rb>羽職袴</rb><rt>はおりはかま</rt></ruby>をつけていた。縞の<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>に、紋の直径が二寸もある紋付を着て、下にはあたらしいめりやすが見える。こうして見ると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の人も立派な男ぶりだと思いながら、お八重はうしろから袴の腰板を当てている。そのくせ、弟のように思っていた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さんの葬式だもの、これが泣かずにおられようかといって、眼を真赤にしているのだ。泣きながら、なぜ自分は茂助の子なんか生むようなことになったんだろう。しかし、このおじいさんが茂助のように力づよくあたしを可変がってくれたら――そうだよ、きっとこれからはもっともっと眼をかけてくれるよ。そうしたら、これはおとっつぁんの子なの、えええ、おとっつぁんの子ですともさ――峰吉は火事以来黙ったまんまだ。

「ねえ、おとっつぁん」お八重がいう。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さんの死んだ時どうだったのさ」

これは何度となくお八重が発した質問である。「なに、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うだったといったところで」峰吉ははじめて口をひらいた。「おりゃあ見ていたわけじゃねえから――」

「うそ、うそ、うそ！　そりゃあ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>だ」

「――？」

「それ御らん。あんた、何も言えないじゃないか」

「それが、だからよ、おりゃあ見てたわけじゃなし――」

「お湯屋のおとめちゃんが死んでお気の毒さま」

「何を言ってるんだ」

「けどねえ、おとめちゃんと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さんとは惚れあってた仲なんですからね」

「だからよ。心中だろうってみんなも言ってるじゃねえか。<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>せ。面白くもねえ」

「そらね、二人が心中したというと<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ怒る」

「てめえこそ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>のこととなると嫌にしつこいじゃねえか。そのわけをあとで聞くからな、返答を考えとけ」

「わけも何もあるもんか。一つお釜のご飯を食べてた人が死んだんだから――それに、心中でもないものを心中だなんて！」

「こら！　口惜しいかよ、お八重」

「くやしかないさ。口惜しかないけど――おとっつぁんもあんまりじゃないか。死人に口なしだと思って――」

「だからよ、誰も心中だとは言い切ってやしねえ。心中のようなものかも知れないと――」

「ようなものもあるもんか。ふん！　自分が殺しといて」

「これ、お八重、何をいう？」

「おとっつぁんが殺したんだろう？」

「誰をよ？」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さんをさ。火をつけたのもおとっつぁんだろう？」

「しょうのねえ<ruby><rb>女</rb><rt>やつ</rt></ruby>だ」

「そら！　もうそんな蒼い顔をしてる！　ねえ、おとっつぁんが殺したんだ。ほかの人に聞けば、もすさんはあの晩纏いを持ってお湯屋の屋根へ上ってたってけど、梯子がまといを持って屋根へ上るわけはないじゃないか」

「やかましいっ！　纏持ちの源が手に怪我して――」

「うそをお言いでないよ、うそを。あたしはね、源さんにききましたよ。手に怪我をしたのは火事の最中で、<ruby><rb>最初</rb><rt>はな</rt></ruby>行った時に、お前さんが源さんからまといを取って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さんに渡して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>や、今夜おまえこれを持って俺と一しょに屋根へ来いって――」

「そうよ。そうすると、屋根へ火が抜けたんだ。なあ、見るてえと下におとめちゃんが燃えてる。いいか、よせってのに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>の野郎が覗きこんでて動かねえから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>、さあ来い、下りべえと俺が言った拍子に、あの水だ、滑りやがる――」

「へん！　そこを一つ突いたんだろう」

「誰を？」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もす</span>さんをさ、滑るところを」

「何を言やがる！　助かるものなら助けてえって下の娘を覗いてやがるから、おれが――」

「突いたんだ。ついたんだ、やっばり突きおとしたんだ！」

「ばか言え！」

峰吉は土いろをしていた。一生懸命だった。袴へ片足入れたまま、羽織の袖をひろげて茂助の滑る真似をして見せた。それは、いまにも泣きだしそうな不思議な顔だった。

「こうよ――いいか――こう滑って、足をはずして――こう廻ってな、な、こう――いいか、こう――」

「突き落したのかい」

「そうじゃねえってのに！　ただこう右足が左足に絡んでよ――いいか、こう転がってよ――」

「もういいじゃないの。何だなえ、嫌だよ、へんな恰好をして――わかったっていうのに」

お八重はとうとう笑い崩れた。きょとんとして、峰吉が首すじの汗をふいていると、いきなり御めんと障子があいて、巡査が顔を出した。

「あ！　旦那！」峰吉は尻もちをついた。

「何です、にぎやかですねえ。あ、これね、署長があんたへ渡すようにと――なに、表彰文だよ、校長さんに書いてもらったんでね、あんたが式で読むんだそうだ。や、では」

巡査が行こうとすると、お八重が、「あの、旦那」

と呼びとめた。峰吉は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょっ</span>として表彰文を読み出した。

「何だね」

「いえ、あの、お世話さまでございました」

巡査が立ち去ると、あとは峰吉の大声だった。

「消防組梯子係り故石川茂助君は、<ruby><rb>資性温順</rb><rt>しせいおんじゅん</rt></ruby>にして――資性温順にして、か、何だこりゃあ――職に忠、ええと、職に忠――忠、忠、と――」

ちゅう、ちゅうが可笑しいといってお八重は腹を抱えた。で、峰吉は、汗と涙で濡れた顔を、出来るだけ「滑稽」に歪めて、<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>の毛を引っぱりながら、いつまでも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゅうちゅう</span>ちゅうちゅうとつづけていた。

（〈新青年〉昭和二年十月号発表）