Ⅰ

<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>に一度、隣に寝ている男の<ruby><rb>呻声</rb><rt>うめきごえ</rt></ruby>を聞いて<ruby><rb>為吉</rb><rt>ためきち</rt></ruby>は寝苦しい儘、裏庭に<ruby><rb>降立</rb><rt>おりた</rt></ruby>ったようだったが、昼間の<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>で間もなく床に帰ったらしかった。その男は前日無免許の歯医者に歯を抜いて貰った後が痛むと言って終日不機嫌だった。為吉が神戸中の海員周旋宿を渡り歩いた末、<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>波止場に近いこの合宿所へ流れ込んで、相部屋でその男と始めて会った時も、男は黙りこくって、<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>そうに為吉を見やった<ruby><rb>丈</rb><rt>だ</rt></ruby>けだった。

彼は<ruby><rb>近海</rb><rt>きんかい</rt></ruby>商船の<ruby><rb>豊岡丸</rb><rt>とよおかまる</rt></ruby>から下船した<ruby><rb>許</rb><rt>ばか</rt></ruby>りの三等油差しだという話だった。遠航専門の甲板部の為吉とは話も合わないので、夜っぴて<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>っていても、為吉は別に気に止めなかったのである。

油臭い<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の中で、朝為吉が眼を覚ました時には、隣の夜具は空だった。彼は別に気に止めなかった。それよりも<ruby><rb>既</rb><rt>も</rt></ruby>う永い間、<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>にいる為吉には機関の震動とその太い低音とが此の上なく懐しかった。殊に朝の眼覚めには、それが<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>淋しく感じられた。

濠洲航路の見習水夫でも、メリケン行の雑役でも好いから、今日こそは一つ乗組まなくては、と為吉は朝飯もそこそこに掲示場へ飛び出した。黒板には只一つ<ruby><rb>樺太</rb><rt>からふと</rt></ruby>定期ブラゴエ丸の二等料理人の口が出ているだけで、その前の大<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上に車座に<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いて、<ruby><rb>例</rb><rt>いつ</rt></ruby>もの連中が朝から壷を伏せていた。

「きあ、張ったり、張ったり！」

と<ruby><rb>鎮洋丸</rb><rt>ちんようまる</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごて</span>って<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>された<ruby><rb>沢口</rb><rt>さわぐち</rt></ruby>が<ruby><rb>駒親</rb><rt>こまおや</rt></ruby>らしかった。

「張って悪いは親父の頭――と」

「へん、張らなきゃ食えねえ<ruby><rb>提燈屋</rb><rt>ちょうちんや</rt></ruby>――か」

為吉は<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>と突っ立って、大きくなって行く場を見詰めていた。<ruby><rb>建福丸</rb><rt>けんぷくまる</rt></ruby>が一人で集めていた。

「いい加減におしよ、此の人達は」

と<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>のおきん婆あが顔を出した。「今一人来てるんだよ、朝っばらから何だね。それから、為さん、<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>顔を貸して――」土間を通って事務所になっている表の入口へ出る迄、おきん婆あは<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>に<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き続けた。

「素直にね、それが一番だよ。誰にだって出来心ってものはあるんだからさ、大したことはなかろうけれど、まあ、素直に、ね」

指の傷を気にし<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、為吉は何故か仏頂面をしていた。何か解ったような、それでいて何も解らないような妙な気もちだった。事務室には明るい午前の陽が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>って、<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくは眼が痛いようだった。

「為ってのはお前か」

と太い声がした。返事をする前に、為吉は瞬きし乍ら声の主を見上げた。洋服を着た四十代の男だった。

「お前は<ruby><rb>坂本新太郎</rb><rt>さかもとしんたろう</rt></ruby>というのを知ってるだろう」

彼は矢継早やに質問した。坂本新太郎というのは昨夜の相部屋の男の名だった。相手の態度から何か<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>わしい事件を直感した為吉は黙った儘頷いた。

「太い奴だ！」と男は為吉の手首を掴んだ。驚いた顔が幾つも戸の隙間に並んでいた。

「僕は<ruby><rb>観音崎署</rb><rt>かんのんざきしょ</rt></ruby>の者だ。一寸同行しろ」

超自然的に為吉は冷静だった。周囲の者が立騒ぐのを却って客観視し乍ら、<ruby><rb>口許</rb><rt>くちもと</rt></ruby>に薄笑いさえ浮べていた。それが彼を極悪人のように見せた。只<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かま</span>を掛けるつもりで荒っぽく出た刑事は、これで一層自信を強くしたようだった。

「さっさと来い」と彼は自分で興奮して為吉を戸口の方へ引擦ろうとした。

「行きますよ、行きさえしたら<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いんでしょう。なあに直ぐ解るこった」

「早くしろ」

と刑事は為吉を小突こうとした。其の手を払って為吉は叫んだ。

「何をしやがる！　Damn You」

刑事の右手が飛んで為吉の<ruby><rb>頬桁</rb><rt>ほおげた</rt></ruby>を打った。

「抵抗すると承知せんぞ」

「まあ、まあ、旦那」と顔役の<ruby><rb>亜弗利加</rb><rt>アフリカ</rt></ruby>丸が飛んで出た。「本人も<ruby><rb>柔順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくお供すると言ってるんですから――が、一体<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたと言うんです」

「太い野郎だ」と刑事は息を切らしていた。

「君等は<ruby><rb>未</rb><rt>ま</rt></ruby>だ知らんのか。昨夜坂本新太郎が殺害されたのだ」

一同は<ruby><rb>愕然</rb><rt>あっ</rt></ruby>と驚いた。最も<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた――或いはそう見えた――のが為吉であった。

「それは<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>ですか、それは」

「白ばくれるな！」と刑事が<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りつけた。

「本署へ引致する前に証拠物件を捜索せにゃならん。前へ出ろ！」

すると「サカモト」と<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>字の彫られたジャック<ruby><rb>小刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>が為吉の<ruby><rb>菜葉洋袴</rb><rt>なっぱズボン</rt></ruby>の隠しから取出された。

「そいつは違う」と為吉は蒼くなって言った。

「黙れ！」刑事は指の傷へ眼を付けた。

「其の繃帯は何だ、血が<ruby><rb>染</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでるじゃないか。兎も角そこまで来い、言う事があるなら刑事部屋で申立てろ、来いっ」

がやがや騒いでいる合宿の船員達を尻眼に掛けて、引立てられる儘に為吉は<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出た。

小春日和の<ruby><rb>麗</rb><rt>うらら</rt></ruby>かさに<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>が燃えていた。海岸通りには荷役の<ruby><rb>権三</rb><rt>ごんぞう</rt></ruby>たちが群を<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>して<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しく呶鳴り合って居た。外国の水夫が三々五々歩き廻っていた。自分でも不思議な程落付き払って為吉はぴたりと刑事に寄り添われて歩いて行った。もう何うなっても好いという気だった。<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れ違う通行人の顔が莫迦莫迦しく眺められた。自分のことが何だか他人の身上のように考えられた。只これで当分海へ出られないと思うとそれが残念でならなかった。

<ruby><rb>払暁</rb><rt>ふつぎょう</rt></ruby>海岸通りを見廻っていた観音崎署の一刑事は、おきん婆あの船員宿の前の歩道に<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい血溜りを発見して驚いた。血痕は<ruby><rb>点滴</rb><rt>てんてき</rt></ruby>となって断続し乍ら南へ半丁程続いて、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>には土に印された<ruby><rb>靴跡</rb><rt>くつあと</rt></ruby>や、辺りに散乱している衣服の<ruby><rb>片</rb><rt>きれ</rt></ruby>などから歴然と格闘の模様が想像された。そこは<ruby><rb>油庫</rb><rt>タンク</rt></ruby>船の着いていた跡であって、岩壁から<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ深い、油ぎった水が洋々と沖へ続いて居た。その石垣の上に坂本新太郎の海員手帳と一枚の質札が落ちていたのである。

時を移さず所轄署の活動となった。動機の点が判然しないので第一の嫌疑者として自然的に其筋が眼星を付けたのが、相部屋同志の森為吉であったことは此の場合仕方があるまい。が、網を曳いてみても、潜水夫を入れても坂本の屍体は勿論<ruby><rb>所有物</rb><rt>もちもの</rt></ruby>一つ揚がらなかった。で、満潮を待って、水上署と協力して一斉に底洗いをする手筈になっていた。

<ruby><rb>小刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>のことや指の傷を考えると、さすがに為吉は自分の姿を絞首台上に見るような気がして何うも足が進まなかった。彼は何よりも海を見捨て得なかったのである。道の突当りに古びた石造の警察の建物が彼を待っていた。異国的な匂いを<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つ潮風が為吉の鼻を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めた。左手に青い水が拡がって、その向うに雲の峯が立っていた。

海が彼を呼んでいた。

九歳の時に<ruby><rb>直江津</rb><rt>なおえつ</rt></ruby>の港を出た<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>り、二十有余年の間、各国の汽船で世界中を乗廻して来た為吉にとって、海は故郷であり、慈母の懐ろであった。

錨を巻く音がした。岩壁の一外国船に黒地に白を四角に抜いた出帆旗が<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>っていた。一眼でそれが<ruby><rb>諾威</rb><rt>ノルウェー</rt></ruby>ＰＮ会社の<ruby><rb>貨物船</rb><rt>フレイタア</rt></ruby>であることを為吉は見て取った。出帆に遅れまいとする船員が三人、買物の包みを抱えて為吉の前を<ruby><rb>急足</rb><rt>いそぎあし</rt></ruby>に通った。濃い<ruby><rb>咽管</rb><rt>パイプ</rt></ruby>煙草の<ruby><rb>薫</rb><rt>かお</rt></ruby>りが彼の嗅覚を突いた。と、遠い外国の港街が幻のように為吉の眼に浮んで消えた。彼は決心した。

「靴擦れで足が痛え――」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょい</span>と<ruby><rb>踞</rb><rt>しゃが</rt></ruby>み乍ら力任せに為吉は刑事の脚を<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>った。

夢中だった。<ruby><rb>呶声</rb><rt>どせい</rt></ruby>を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に聞いたと思った。通行人を二人程投げ飛ばしたようだった。そして<ruby><rb>縄梯子</rb><rt>ジャコップ</rt></ruby>に足を掛けようとしている外国船員のところへ一散に彼は駈付けた。

「乗せて呉れ！」と彼は叫んだ。船員達は<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られて路を開いた。

「乗せて行って呉れ、悪い奴に追っかけられてる。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へでも行く、何でもする。<ruby><rb>諾威</rb><rt>ノルウェー</rt></ruby>船なら二つ三つ歩いてるんだ」船乗仲間にだけ適用する英語を為吉が流暢に話し得るのがこの場合何よりの助けだった。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶらんてん</span>か、手前は」

<ruby><rb>船側</rb><rt>サイド</rt></ruby>の上から<ruby><rb>一等運転士</rb><rt>チイフ・メイト</rt></ruby>が訊いた。

「ノウ、甲板の二等です」と為吉は答えた。

暫く考えた後、

「<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>し、乗せて行く」

<ruby><rb>猿</rb><rt>ましら</rt></ruby>のように為吉は高い<ruby><rb>側</rb><rt>サイド</rt></ruby>を<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じ登って、<ruby><rb>料理場</rb><rt>ギャレイ</rt></ruby>の前の<ruby><rb>倉庫口</rb><rt>ハッチウェイ</rt></ruby>から<ruby><rb>側炭庫</rb><rt>サイドバンカア</rt></ruby>へ逃げ込んだ。

「殺人犯だ！　解らんか、此の<ruby><rb>毛唐奴</rb><rt>けとうめ</rt></ruby>、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>は人殺しを<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったんだ！」

遅れ<ruby><rb>馳</rb><rt>ば</rt></ruby>せに駈けつけた刑事は息せき切って斯う言った。

「解らんか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひ</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">と</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ご</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろ</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">し</span>だ！　早くあの男を返せ。あいつを出せ」

船員達は<ruby><rb>船縁</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>に集って笑い出した。

「し、し、し、し、し」と一人が真似した。

<ruby><rb>梯子</rb><rt>ジャコップ</rt></ruby>が巻上げられた。

「<ruby><rb>皆帰船したか</rb><rt>オウル・アブロウド</rt></ruby>？」と<ruby><rb>舵子長</rb><rt>マスタア</rt></ruby>が<ruby><rb>船橋</rb><rt>ブリッジ</rt></ruby>から呶鳴った。「<ruby><rb>皆居ます</rb><rt>オウルズ・イン</rt></ruby>」と<ruby><rb>水夫長</rb><rt>ボウシン</rt></ruby>が答えた。

がらん、がらん、と機関室への信号が鳴った。船尾に泡を立てて<ruby><rb>航進機</rb><rt>スクルウ</rt></ruby>が舞い始めた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちりん</span>、「<ruby><rb>部署へ着け</rb><rt>スカタア・ラウンド</rt></ruby>！」、水夫達は縦横に走り廻って<ruby><rb>綱</rb><rt>ロウプ</rt></ruby>を投げたり<ruby><rb>立棒</rb><rt>ピット</rt></ruby>を外したりした。<ruby><rb>二等運転士</rb><rt>セケン・メイト</rt></ruby>が船尾へ立った。

「オウライ」

鎖を巻く<ruby><rb>起重機</rb><rt>ウインチ</rt></ruby>の音と共に<ruby><rb>諾威</rb><rt>ノルウェー</rt></ruby>船ヴィクトル・カレニナ号は岩壁を離れた。

「サヨナラ！」

船員の一人が桟橋で地団駄踏んでいる刑事に言った。甲板上の笑声は折柄青空を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて鳴った<ruby><rb>出港笛</rb><rt>ホイッスル</rt></ruby>のために掻き消された。

Ⅱ

<ruby><rb>船長</rb><rt>キャプテン</rt></ruby>の前で一等運転士の作った<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>の契約書に<ruby><rb>署名</rb><rt>サイン</rt></ruby>する時、何ということなしに為吉はシンタロ・サカモトと書いて<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。

<ruby><rb>士官食堂</rb><rt>サルウン</rt></ruby>の掃除と<ruby><rb>下級員</rb><rt>クルウ</rt></ruby>の食事の世話とが為吉のサカモトの毎日の仕事と決められた。鉄板に<ruby><rb>炭油</rb><rt>タアル</rt></ruby>を塗ったり、<ruby><rb>短艇甲板</rb><rt>ボウト・デッキ</rt></ruby>で<ruby><rb>庫布</rb><rt>カヴア</rt></ruby>を修繕したり甲板積みに<ruby><rb>針金</rb><rt>ライン</rt></ruby>を掛けたりするのにも手伝わなければならなかった。

神戸の街が蜃気楼のように霞み出すと、為吉は始めて解放されたように慣れた仕事に手が付いて来た。舷側に<ruby><rb>私語</rb><rt>ささや</rt></ruby>く海の言葉を聞き乍ら、美しい日輪の下で久し振りにボルトの頭へスパナアを合わせたりするのが此の上なく嬉しかった。自分に対して途方もない嫌疑を持っている日本警察の範囲から脱出しつつあるという安心よりも、自分の属する場所に自分を発見した歓喜の方が遙かに大きかった。

こんな風に自分自身に無責任な態度をとることを、永い間の放浪生活が彼に教えていた。

船員達も彼をサアキイと親しみ呼んで重宝がった。

午後から空模様が変って来たので、為吉は水夫一同と一緒に<ruby><rb>七個</rb><rt>ななつ</rt></ruby>ある<ruby><rb>大倉口</rb><rt>メイン・ハッチ</rt></ruby>の押さえ棒へ<ruby><rb>楔</rb><rt>くさび</rt></ruby>を打って廻った。一度で調子好く打込み得るのは為吉だけだった。感心し乍ら皆色々と彼の経験を尋ねた。歯切れのいい<ruby><rb>倫敦風</rb><rt>カクネイ</rt></ruby>の英語で応答しながら彼は大得意だった。そして誰も彼の逃込んで来た理由を尋ねはしなかった。国籍不明の彼等にとってそんな事は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てん</span>で問題でなかったのである。ただ一度<ruby><rb>船長</rb><rt>キャプテン</rt></ruby>に呼ばれて行った時、家庭の事情で伯父の家から逃げて来たと為吉は答えた。ヴィクトル・カレニナ号乗組二等水夫シン・サアキイ、こう地位と名前を頭の中で繰返して為吉は微笑を禁じ得なかった。

<ruby><rb>通路</rb><rt>パセイジ</rt></ruby>に面した<ruby><rb>右舷</rb><rt>ポウルド</rt></ruby>の一室を<ruby><rb>料理人</rb><rt>クック</rt></ruby>と仕官ボウイと為吉が占領することになった。<ruby><rb>下級員</rb><rt>クルウ</rt></ruby>が仕事している間に、船尾の<ruby><rb>食堂</rb><rt>メス</rt></ruby>へ彼等の食事を運んで遣るだけで、後片付けは<ruby><rb>見習</rb><rt>アップ</rt></ruby>がすることになっていたので、為吉が彼等と顔を合わすのは<ruby><rb>昼間甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>で作業する時だけだった。従って機関部の人たちに遇うことは殆どなかった。石炭と灰と油に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れて<ruby><rb>船底</rb><rt>ダンビロ</rt></ruby>に<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いている彼らを、何かと言えば軽蔑する風習が<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>の船の<ruby><rb>甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>部員をも支配していた。機関部の<ruby><rb>油虫</rb><rt>カクロウチ</rt></ruby>なんか<ruby><rb>船乗り</rb><rt>セイラア</rt></ruby>なぞという意気なものではないと為吉も子供の頃から思込んでいた。で、格別の注意を払わなかったが、同室のボウイの口から<ruby><rb>甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>部の<ruby><rb>下級員</rb><rt>クルウ</rt></ruby>が十七人、<ruby><rb>機関</rb><rt>エンジン</rt></ruby>部が二十一人で、船はこれから一直線に南下して木曜島で海鳥糞を積み、<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>を廻って北米西海岸グレイス・ハアバアで角材を仕入れ、解氷を待ってアラスカのユウコン河をクロンダイクまで上る筈だということなどを聞出すのを忘れなかった。それまでが今度の遠洋航路の第一期で、それからは<ruby><rb>傭船</rb><rt>チャアタア</rt></ruby>の都合で何処へ行くか判らないとのことだった。電報一つで世界中何処へでも行く<ruby><rb>不定期貨物船</rb><rt>トランプ・フレイタア</rt></ruby>の一つであった。

出入港には多少の感慨を持つのが、荒っぽいようで感傷的な遠航船員の常だった。それが妙なことには、今度の為吉の場合には安堵と悦びの他何もなかった。その安心が大きければ大きいだけ、彼は無意識の内に恐しい自己暗示にかかっていたのである。

箱のような<ruby><rb>寝台</rb><rt>パアス</rt></ruby>の中で毛布にくるまって眼を閉じた時、自分に掛かっている嫌疑を思って森為吉は始めて<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>とした。隠しの中で坂本の<ruby><rb>小刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>を握ってみた。冷い触感が彼の神経を脅した。彼は何うする事も出来なかった。<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>からともなく自分自身が自分の犯行を確信するといったような<ruby><rb>変態的</rb><rt>へんたいてき</rt></ruby>な心理に落ちて行った。こうした弱い瞬間に、根も葉もない夢みたいな告白をした<ruby><rb>許</rb><rt>ばか</rt></ruby>りに、幾多の「手の白い」人間が法治の名に依って簡単にそうして事務的に葬り去られたことであろう。

が、この場合為吉は自分の無罪――よし彼が無罪であったにしろ――を主張する意地も張りも持合わせていなかった。その証拠さえないように思われた。それよりも海へ出たことの喜びで一杯だった。それでも彼は再び事件の内容を熟考してみようと努めた。が、無駄だった。考えれば考える程、果して自分が坂本を殺したのか、殺さなかったのか其辺が<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る曖昧になって来た。

要するに、そんな事は何うでも<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>かった。今は<ruby><rb>既</rb><rt>も</rt></ruby>う日本の土地を離れ切った。そして坂本新太郎は死んだのである。其の犯人として日本警察に狩立てられている森為吉も既に存在しないのである。新生の坂本新太郎を名乗って自分は当分此の<ruby><rb>諾威</rb><rt>ノルウェー</rt></ruby>船を降りまい、其の内に二つ三つ船を換える間に国籍も解らなくなるに違いない。<ruby><rb>末子</rb><rt>ばっし</rt></ruby>で独身のボヘミアンの彼は日本という海図上の一列島に何らの執着をも感じ得なかった。十一<ruby><rb>浬四分一</rb><rt>ノット・クオタア</rt></ruby>の<ruby><rb>汽力</rb><rt>スチイム</rt></ruby>で船は土佐沖に差掛っているらしかった。十八度位の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がぶり</span>で<ruby><rb>硝子窓</rb><rt>ボウルト</rt></ruby>に浪の<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>が<ruby><rb>夜眼</rb><rt>よめ</rt></ruby>にも白く砕けて見えた。低い機関の廻転が子守唄のように彼の耳に通った。為吉の坂本新太郎は暫らくして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すやすや</span>と<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>を掻き始めた。

何時間寝たか解らない。

為吉が眼を覚ました時は、<ruby><rb>暴風</rb><rt>しけ</rt></ruby>も凪ぎ、夜も明けかかって、船は港内に錨を下していた。<ruby><rb>唐津</rb><rt>からつ</rt></ruby>港あたりに颱風を避難したのだろうと思い乍ら窓から覗いた彼の鼻先に、朝靄を衝いて<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていたのは川崎造船の煙突であった。

「神戸だ！　<ruby><rb>暴風</rb><rt>あれ</rt></ruby>で引返したんだ！」

が、六千<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>もある船が<ruby><rb>晴雨計</rb><rt>バロメイタア</rt></ruby>の針が逆立ちしようと出港地へ帰航するようなことのないのは海で育った彼が先刻承知の筈だった。

<ruby><rb>一等運転士</rb><rt>チイフ・メイト</rt></ruby>と<ruby><rb>水夫長</rb><rt>ボウシン</rt></ruby>が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。

「サアキイ、お前は<ruby><rb>殺人犯</rb><rt>ひとごろし</rt></ruby>だと言うじゃないか」<ruby><rb>水夫長</rb><rt>ボウシン</rt></ruby>が呶鳴った。

「大きな声を出すな」

と為吉は答えた。手は隠しの中に<ruby><rb>小刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>を探しつつ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がたがた</span>と震えていた。海への執着が彼を臆病にしていた。

「はっはっは――」と<ruby><rb>一運</rb><rt>チイフ</rt></ruby>が笑い出した。「水上警察と<ruby><rb>傭船会社</rb><rt>エイジェント</rt></ruby>からの<ruby><rb>無電</rb><rt>ワイヤレス</rt></ruby>で船が呼戻されたのだぞ。警察へ護送される途中だったってえじゃないか、はっはっは」

何が何だか解らなくなった為吉の頭には、絞首台を取巻いて指の傷と<ruby><rb>小刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>が渦を巻いた。そして一方には其処に<ruby><rb>展</rb><rt>ひら</rt></ruby>けかけた自由な海の生活があった。

「今水上警察の<ruby><rb>小艇</rb><rt>ランチ</rt></ruby>が橋を離れたから、もうおっつけ役人が来るだろう」

真蒼になって為吉は<ruby><rb>寝台</rb><rt>パアス</rt></ruby>の上に俯伏した。<ruby><rb>一運</rb><rt>チイフ</rt></ruby>と<ruby><rb>水夫長</rb><rt>ボウシン</rt></ruby>とが何か小声で話し合っていた。

「何うする？」と<ruby><rb>水夫長</rb><rt>ボウシン</rt></ruby>の声がした。

「隠れるか」と<ruby><rb>一等運転士</rb><rt>チイフ・メイト</rt></ruby>が言った。<ruby><rb>弾機</rb><rt>ばね</rt></ruby>のように為吉は其の胸へ噛り付いた。声が出なかった。

「<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>し、じゃ逃げるだけ逃げて見ろ。何とかなる」と<ruby><rb>一運</rb><rt>チイフ</rt></ruby>は又哄笑した。

「機関部の奴に預けましょうか」と<ruby><rb>水夫長</rb><rt>ボウシン</rt></ruby>が尋ねた。

「そうだ、ボストンを呼べ、ボストンを」

<ruby><rb>水夫長</rb><rt>ボウシン</rt></ruby>は毯のように飛び出して行って直ぐ前の機関室の<ruby><rb>汽筩</rb><rt>セリンダア</rt></ruby>の上から呶鳴った。

「ボストン！　<ruby><rb>真夜中</rb><rt>ミド・ナイト</rt></ruby>ボストウン！」

間もなく七尺に近い黒人が<ruby><rb>油布</rb><rt>ウエイス</rt></ruby>を持った儘<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のそっ</span>と這入って来た。

「此奴を隠すんだ、早く連れて行け」

<ruby><rb>一運</rb><rt>チイフ</rt></ruby>は<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>で為吉を指した。ボストンは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちらっ</span>と彼を見遣って黙って先に立った。為吉は一歩<ruby><rb>室外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ踏み出そうとすると、

「<ruby><rb>一等運転士</rb><rt>チイフ・メイツ</rt></ruby>、警察が来ました」とボウイが走込んで来た。<ruby><rb>右舷</rb><rt>スタボウド</rt></ruby>の甲板に当って多勢の日本語の人声がして居た。ボストンの腕の下を駈抜けて為吉は機関室の<ruby><rb>鉄階段</rb><rt>タラップ</rt></ruby>を転がり落ちた。この騒ぎで機関室にも釜前にも誰もいなかった。<ruby><rb>水漉し</rb><rt>フィルタア</rt></ruby>へ逃込もうとした彼は、油に滑って其儘ワイヤア氏<ruby><rb>蒸発機</rb><rt>エヴァボレイタア</rt></ruby>の蔭へ横ざまに倒れた。

「そこは<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ねえ、直ぐ見付かる」と黒人が叫んだ。「<ruby><rb>停泊用釜</rb><rt>ドンキ・ボイラ</rt></ruby>の上から水張りの<ruby><rb>隙間</rb><rt>スペイス</rt></ruby>へ潜込むんだ。早く！」

低い<ruby><rb>掘通</rb><rt>トンネル</rt></ruby>から灰の一<ruby><rb>吋</rb><rt>インチ</rt></ruby>も溜まっている<ruby><rb>停泊用釜</rb><rt>ドンキ・ボイラ</rt></ruby>へ這上って、両脚が一度に這入らない程の穴から為吉は水管の組合っている<ruby><rb>釜</rb><rt>ボイラ</rt></ruby>の外側へ身を縮めた。火の気のない釜の外は<ruby><rb>氷室</rb><rt>ひむろ</rt></ruby>のように冷えていた。<ruby><rb>掘通</rb><rt>トンネル</rt></ruby>の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を締めて出て行くボストンの跫音が聞えた後は、固形化したような空気が四方から彼を包んで、水準下の不気味な静寂に耳を透ましていた為吉は、不自然な姿勢から来る苦痛をさえ感じなかった。が、考えても見なかった、何のためにこんな事をしているのか、それは自分でも解らなかったからである。

こつ、こつ、こつ、じい――い。

と、何処からともなく鉄板を引掻くような音が聞えて来た。おや、と為吉は思った。

こつ、こつ、こつ、じい――い。

音は<ruby><rb>釜</rb><rt>ボイラ</rt></ruby>の中からするようでもあったし、<ruby><rb>釜前</rb><rt>ダンピロ</rt></ruby>の<ruby><rb>通風器</rb><rt>ヴェンチレエタア</rt></ruby>から洩れるようにも聞えた。

こつ、こつ、こつ、じい――い、じい。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と彼は思い付いた。よく船員達が爪で<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>などを叩いて合図する<ruby><rb>無線電信</rb><rt>ワイヤレス</rt></ruby>、万国ＡＢＣの<ruby><rb>略符合</rb><rt>コウド</rt></ruby>なのだ、そして確かに<ruby><rb>停泊用釜</rb><rt>ドンキ・ボイラア</rt></ruby>の中から聞えて来るではないか！

どやどやと靴音がしたかと思うと、

「御覧の通り誰も居りません、わっはっは」という<ruby><rb>一等運転士</rb><rt>チイフ・メイト</rt></ruby>の声がして、続いて二言三言会話があった。一同が出て行った後、為吉は死んだようになって<ruby><rb>水管</rb><rt>ヴァルヴ</rt></ruby>に頬を押付けた。

こつ、こつ、じい――。

前よりも一層明瞭に響いて来た。無意識に彼の頭はそれを翻読した。ＳＯＳ！　難破船が救助を求める信号ではないか！

為吉はぎょっとした。隠しから<ruby><rb>小刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>を取出して水管を叩いた。「ナニコトカ――」

こつ、じい、こつ、こつ、こつ、じ――い。

「Shanghai――」と返信があった。

<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ナニコトカ</span>と彼は又<ruby><rb>水管</rb><rt>ヴァルヴ</rt></ruby>を掻いた。

「Shanghaiされた」

<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>された！　通行人を暴力で船へ<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>って来て出帆後、陸上との交通が完全に絶たれるのを待って、出帆後過激な労役に酷使することを「<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>する」と言って、世界の<ruby><rb>不定期船</rb><rt>トランパア</rt></ruby>に共通の公然の秘密だった。罪悪の暴露を恐れて<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>した人間に再び<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>を踏ませることは決してなかった。絶対に日光を見ない船底の生活、昼夜を<ruby><rb>分</rb><rt>わか</rt></ruby>たない石炭庫の労働、食物其他の虐待から半年と命の続く者は稀だった。

<ruby><rb>狂気</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のように為吉は<ruby><rb>釜</rb><rt>ボイラ</rt></ruby>から降りて音のした<ruby><rb>釜戸</rb><rt>ドア</rt></ruby>の前に立った。外部からは<ruby><rb>把手</rb><rt>ハンドル</rt></ruby>一つで訳なく開けることが出来た。

糞便と人体の悪臭がむっと鼻を打った。真暗な奥の<ruby><rb>薄敷</rb><rt>アンペラ</rt></ruby>と<ruby><rb>麪包</rb><rt>パン</rt></ruby>屑の間から、

「あ、為公じゃねえか」と声がした。

「眼を隠せ！　明りを見ちゃ<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ねえぞ！」

<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の間に為吉は呶鳴った。固く眼を押えて半病人のように這出して来たのは殺された筈の坂本新太郎であった。

「手前生きて居たのか」

「うん。歯が痛んで血が出て仕様がねえから医者を起しに出たところを掴まえられて<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>された。<ruby><rb>停船</rb><rt>ストップ</rt></ruby>してるじゃねえか、何処だ<ruby><rb>此港</rb><rt>ここ</rt></ruby>は？　大連か、<ruby><rb>浦塩</rb><rt>ウラジオ</rt></ruby>か、何処だ」

「神戸だ」

「なに、神戸？　四、五日<ruby><rb>機関</rb><rt>エンジン</rt></ruby>が廻っていたと思ったが――」

「それがよ、此の俺が手前を<ruby><rb>殺</rb><rt>ば</rt></ruby>らしたって騒ぎで、それで俺あ此船へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶらんてん</span>したんだ。すると、いいか、陸から無電が飛んで来て船は召還よ。いってえ、あの梨を剥く時手前に借りた此の<ruby><rb>小刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>が好くねえ、おまけにあれで指を切ってるじゃねえか」

その小刀を逆手に持って為吉は<ruby><rb>奥炭庫</rb><rt>クロス・バンカア</rt></ruby>の前の<ruby><rb>鉄梯子</rb><rt>タラップ</rt></ruby>に腰を掛けながら、白痴のように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にたにた</span>と笑った。彼は明らかに海の呼声を聞いたのである。自分の無罪を立証し得る悦びよりも、<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>死損いの坂本を助ける為めに折角乗った此の船――しかも仲々<ruby><rb>仕事口</rb><rt>チャンス</rt></ruby>のない此頃、望んでも又と得られない好地位を見捨てて――船を降りなければならないのが不満で仕様がなかった。第一、恨みこそあれ、此奴を助け出すなんてそんな義務が何処にある。この男は俺に殺されたことになっているんじゃないか。と彼は考えた。いや、刑事も言った通り確かに俺が殺したんだ。それに何だって今頃になって出て来て<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょろひょろ</span>此処に立ってやがるんだ。それが為吉を<ruby><rb>無性</rb><rt>むしょう</rt></ruby>に怒らせた。いっその事予定通り此野郎が死んでいて呉れたら、そしたら？　そしたら此儘此船で遠い懐しい海外へ行けるじゃないか――いや、待てよ、今だって決して遅くはないぞ。なあに訳はない、奴はあんなに弱り切って死んだも同然だ――否、事実死んでいるんだ。其証拠には此俺が下手人にされているじゃないか――、そして、そしておまけに此処は法の手の届かない貨物船の<ruby><rb>釜前</rb><rt>フレイタア</rt></ruby>じゃないか――そうだ、今が絶好の機会だ――が、一体何の機会だと言うんだ――いや、どうせ森為吉が貰った筈の命なんだ、それでこうやって乗れた船だと言うまでのことなんだ。海外、外国、そうだ、この呪われた<ruby><rb>小刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>で――そうだ――教えられたとおりに――あの刑事に暗示されたとおりに――。

為吉は立上った。

「逃げる前に俺あ水が、水が呑みてえ――水――」坂本は唸るように言った。

Ⅲ

警察の推測通りだった。坂本新太郎は死んだのである。そしてそれと同時に森為吉という男も地球の表面からその存在を失ったのだった。

暫らくして再び神戸を<ruby><rb>抜錨</rb><rt>ばつびょう</rt></ruby>した<ruby><rb>諾威</rb><rt>ノルウェー</rt></ruby>船ヴィクトル・カレニナ号が大洋へ乗出すと間もなく、帆布に包まれて<ruby><rb>火棒</rb><rt>デレキ</rt></ruby>を<ruby><rb>圧石</rb><rt>おもし</rt></ruby>に付けた大きな物が<ruby><rb>舷側</rb><rt>サイド</rt></ruby>から逆巻く怒涛の中へ投込まれた。

その甲板に口笛を吹き乍ら微笑して、坂本新太郎は日本の土地に永久の別れを告げていた。

古来、世界の<ruby><rb>船乗</rb><rt>シイメン</rt></ruby>仲間の不文律に従って「<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>された男」坂本新太郎と自分を「<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>」した坂本新太郎とは共に<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>に二度と再び土を踏めないことになったのである。

（〈新青年〉大正十四年四月号発表）