真白い西洋紙を<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて、その上に落ちてくる午後の光線をぼんやり<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていると、眼はその紙のなかに吸込まれて行くようで、心はかすかな光線のうつろいに<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えているのであった。紙を<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べた机は<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>一つない、清らかな、冷たい触感を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えた<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>、彼の前にあった。障子の<ruby><rb>硝子越</rb><rt>ガラスご</rt></ruby>しに、<ruby><rb>黐</rb><rt>もち</rt></ruby>の樹が見え、その樹の上の空に青白い雲がただよっているらしいことが光線の具合で感じられる。冷え冷えとして、今にも<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>が降りだしそうな時刻であった。廊下を隔てた隣室の方では、さきほどまで妻と女中の話声がしていたが、今はひっそりとしている。端近い近壁の家々も不思議に静かである。何か書きはじめるなら今だ。今なら深い文章の脈が浮上って来るであろう。だが、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>かすぐにペンを紙の上に走らすことは<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>された。西洋紙は<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>つめているほどに青味を帯びて来て、そのなかには数々の幻影が潜んでいそうだ。弱々しく神経を消耗させて滅びて行く男の話、ものに脅えものに<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれて死んでゆく友の話、いずれも失敗者の姿ばかりが彼の心には浮ぶのであった。……時雨に<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れて枯野を行く昔の漂泊詩人の面影がふと浮んで来る、気がつくと<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>ハラハラと降りだしたのである。そして今、露次の方に<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がして、それが玄関の方へ近づいて来ると、彼はハッとして、きき慣れた跫音がその次にともなう動作をすぐ予想した。やがて玄関の戸がひらき、<ruby><rb>牛乳壜</rb><rt>ぎゅうにゅうびん</rt></ruby>を置く音がする。かすかにかち合う壜の音と「こんちは」と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>く低い声がするのである。彼はずしんと、真空に投出されたような気持になる。<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かにかち合う壜の音がまだ心の中で鳴りひびき、遠ざかって行く跫音が絶望的に耳に残る。それは毎日<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど同じ時刻に同じ動作で現れ、それを同じ状態の下にきく彼であった。だが、このもの音を区切りにやがてあたりの状態は少しずつ変って行く。バタンと乱暴に戸の開く音がして、けたたましい声で前の家の主婦は<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りだす。すると、もう<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>でも<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>にとりかかる時刻らしかった。雨は<ruby><rb>歇</rb><rt>や</rt></ruby>んだようだが、廊下の方に暮色がしのびよって来て、もう<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げた紙の上にあった微妙な美しい青も消え失せている。手を伸べて、スタンドのスイッチを<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>ればよさそうであったが、それさえ彼には躊躇された。薄暗くなる部屋に<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>ったまま、彼はじりじりともの狂おしい想いを<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えた。ものを書こうとして、書こうとしては躊躇し、この二三年をいつのまにか空費してしまった彼は、今もその躊躇の跡をいぶかりながら吟味しているのであったが、――時にこの悶えは<ruby><rb>娯</rb><rt>たの</rt></ruby>しくもあったが、更により悲痛でもあったのだ。「<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>は狂人たちを<ruby><rb>煽情</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>する」とボオドレエルの散文詩にある老人のように、失意のうちに年老いてじりじりと夕暮を迎えねばならぬとしたら、――彼はそれがもう<ruby><rb>他人事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>ではないように思えた。「マルテの手記」にある<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>する老人が彼の方に近づいて来そうであった。

『ベルリン――ロオマ行の急行列車が、ある中位な駅の構内に進み入ったのは、曇った薄暗い<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>寒い時刻だった。幅の広い、<ruby><rb>粗天鵞絨</rb><rt>あらびろうど</rt></ruby>の安楽椅子にレエスの<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>いを掛けた一等の車室で、或る<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>旅</rb><rt>たび</rt></ruby>の客が身を起した――アルブレヒト・ファンクワアレンである。彼は眼を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ましたのである』

夕食後、彼は妻の<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>でトオマス・マンの「<ruby><rb>衣裳戸棚</rb><rt>いしょうとだな</rt></ruby>」の冒頭を<ruby><rb>暗誦</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>してきかせた。女中のたつは通いで夜は帰って行ったから、その部屋はいま二人きりの領分であった。病気の妻はギラギラと眼を輝かし、彼の言葉に耳傾けていたが「絶唱だね」と彼がつけ加えると、それが他人の作品だと分り多少あきたらない面持にかえったが、<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>も彼の意中をさぐろうとするように、<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と空間を見詰めている。長い間、彼は何も書こうとしないが、まだ書こうとする熱意を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>ってはいないのだろうか――そう妻は無言のうちに<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねているようであった。だが、それはそれとして、妻も「衣裳戸棚」の旅の話を知っていた。あのような奇怪な絶望のはての<ruby><rb>娯</rb><rt>たの</rt></ruby>しい旅へ出られたら、――それはこの頃二人に共通する夢でもあった。じりじりと押迫って来る何か不吉なものが、今にもこの小さな生活を<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>しそうな秋であった。台所の硝子戸にドタンと風のあたる音がして、遠くの方にヒューッと<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>る<ruby><rb>凩</rb><rt>こがらし</rt></ruby>の音がする。電車が<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>りながらすぐ近くの小駅に近づいて来る。不思議に外部のもの音が心に<ruby><rb>喰込</rb><rt>くいこ</rt></ruby>んで来る。すると急に電灯のあかりが薄暗く感じられ、見慣れた部屋の壁の色がおそろしく<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えているのだ。ここには妻の一日の<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>がすっかり<ruby><rb>立籠</rb><rt>たちこも</rt></ruby>っている。妻もまたこの二三年を病の床で暮し、来る日来る日をさびしく見送っているのだった。日によって、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>が火照ったり、そうして、その後ではきっと熱が高かったが、<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>なことがらがひどく気に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>ることがある。かと思うと、ふと<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかな<ruby><rb>恢復期</rb><rt>かいふくき</rt></ruby>の<ruby><rb>兆</rb><rt>きざし</rt></ruby>が見えたりして、病気は絶えず一進一退していた。寝たままで、女中のたつを口で使っていたが、おつかいから帰って来るたつは、変動してゆく外の空気をいつも妻に語りつたえた。そうして、妻の<ruby><rb>焦躁</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>は無言の時、<ruby><rb>一際</rb><rt>ひときわ</rt></ruby>はっきりと彼の方へ反映して来るようであった。その高い額の押黙って電灯に<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>されている姿が、今も何となく彼には堪えがたくなる。彼はふと思いついたように座を立って、毎日の習慣である冷水摩擦の用意にとりかかる。タオルを堅く洗面器の上で絞ると、シイツの上に両足を投出している妻の方へ持って行き、足さきの方から皮膚をこすって行くのであったが、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>から<ruby><rb>脇腹</rb><rt>わきばら</rt></ruby>の方へ進むに<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って、妻の下半身の表情がおもむろに現れて来る。彼はそれを<ruby><rb>愛撫</rb><rt>あいぶ</rt></ruby>するというよりも、何か器具の光沢を<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>いているような錯覚に陥りながら、やがて摩擦は上半身へ移って行く。すると、ここにはまるで少女のように細っそりした胸があり、背の方の筋肉は無表情の儘であるが、やがて首筋のあたりを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて行くと、妻は<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らして、快げに眼を細めている。こうして、摩擦は完了する。この肉体的接触の後の爽やかさが、どうやらお互の気分をかすかに落着かすのではあったが……。

青黒い水の上を<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>って行く汽船が、悲しい情緒に<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>びながら、港らしいところへ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行く。ぎっしりと詰った旅客たちの間に<ruby><rb>挿</rb><rt>はさ</rt></ruby>まれ、彼も岸の方へ進んで行くのだが、彼の<ruby><rb>旅行鞄</rb><rt>りょこうかばん</rt></ruby>には小さな袋に入れた<ruby><rb>糸瓜</rb><rt>へちま</rt></ruby>の種が這入っていて、その白い種の姿がはっきりと目にちらついてならない。その上、その種はある神秘な力があって、彼の固疾にはなくてはならない良薬なのだし、それを今持運んでいるということが、かぎりない慰を与えてくれるとともに、何ともいえない不安な気持をそそる。狭い暗い桟橋を渡ったかと思うと更に心細げな<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>が<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わり、つづいてまた水の見える場所に来ている。そうして、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くすると、彼はまたはてしない汽船の旅をつづけているのであった。

――夏の頃、彼は窓の下にへちまの種を<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>いて、<ruby><rb>痩土</rb><rt>やせつち</rt></ruby>に生長して行く植物の姿を、つくづくと、まるで<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたように眺めていた。<ruby><rb>繊</rb><rt>ほそ</rt></ruby>い<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>の<ruby><rb>尖端</rb><rt>せんたん</rt></ruby>が宙に浮んで、何かまきつくものをさがしている、そのかぼそいもののいとなみは見ているものの心をうっとりとさせるのであったが、どうかするとかすかな苦悩をともなって来るのでもあった。この二三年彼の顔の皮膚をほしいままに荒らしている湿疹も、微妙なるものの営みではあった。それは殆ど<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えかけてはいたが、ちょっとした気温の変動でも<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに応じて来た。たとえば、雨の近い夕方、息をしているのも不思議なような一刻、微かに皮膚の下側を<ruby><rb>匐</rb><rt>は</rt></ruby>い廻るもののけはいがあって、それをじっと<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えていると、今にも神経は張裂けそうになるのであった。……固疾に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まる<ruby><rb>哀</rb><rt>かな</rt></ruby>しい夢をみたので、彼の心は<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としていたが、くるんでいる毛布の妙に生暖かいのがまた雨の近い<ruby><rb>徴</rb><rt>しるし</rt></ruby>のように想えた。暫くすると、また明け方の夢が現れた。

ぎっしりと人々の押込められた乗合自動車が<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>い<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>をなした電車軌道の脇を異常な緊迫感で疾走している。そこは郷里の街の一部で、少し行くと河に出る道だということが先程から彼にはわかっている。が、そういうことを考えている暇もなく、いきなり<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しいもの音の予感に<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>く。<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>轟音</rb><rt>ごうおん</rt></ruby>とともに自動車が猛煙につつまれた。人々はことごとく<ruby><rb>木端微塵</rb><rt>こっぱみじん</rt></ruby>になっている。それなのに、彼だけがひとり不思議に助かっている。おおらかな感銘の<ruby><rb>漾</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っているのも<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>で、やがて四辺は<ruby><rb>修羅場</rb><rt>しゅらじょう</rt></ruby>と化す。烈しい<ruby><rb>火焔</rb><rt>かえん</rt></ruby>の下をくぐり抜け、叫び、彼は向側へつき抜けて行く。向側へ。この不思議な装置の重圧する機械はゆるゆると地下を匐い、それ<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>、全身はさかしまに<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>されながら暗黒の中を匐って行く。苦しい<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎと<ruby><rb>身悶</rb><rt>みもだ</rt></ruby>えの末、更に恐しい音響が破裂する。ここですべては消滅し、やがて再び気がつくと、彼はある老練な歯科医の椅子の上に<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>り着いているのであった。

――その日、彼はそれらの夢を小さな手帳に書きとめておいた。その手帳は、日記の役割をしていたが、気象に関する記録と夢の採集のほかは、故意に世相への感想を避けていた。だが夢ははっきりとある感想を述べているのでもあった。誰しもが避け難い破滅を予感し、ひそかに救済を祈っているのではあるまいか。その夢の最後に現れて来る歯科医は妻も知っている人物であった。少しでも患者が痛そうな表情をすると手を休め、その癖、少しずつ確実に手術を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>し遂げてゆく巧みな医者であった。ふと、彼は妻にみた夢の内容を語りたい誘惑を覚えた。しかし、それを話せば、頭上に迫っている更に<ruby><rb>酷</rb><rt>きび</rt></ruby>しいものの印象を強めるだけのことであった。

『そのとき天の方では、日の沈む側に雲が<ruby><rb>叢</rb><rt>むらが</rt></ruby>っていた。その一つは<ruby><rb>凱旋門</rb><rt>がいせんもん</rt></ruby>に似ていて、次のはライオンに、三番目のは<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>に似ている。……雲の後から幅のひろい緑色の光が<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>して、空の<ruby><rb>央</rb><rt>なか</rt></ruby>ばまで達している。暫くするとこの光は紫色の光が来て並ぶ。その隣には金色のが、それから<ruby><rb>薔薇色</rb><rt>ばらいろ</rt></ruby>のが。が空はやがて柔かな<ruby><rb>紫丁香</rb><rt>ライラック</rt></ruby>色になる。この魅するばかりの華麗な空を見て、はじめ大洋は<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>め<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をする。が、間もなく海面も、優しい、悦ばしい、情熱的な――とても人間の言葉では<ruby><rb>名指</rb><rt>なざ</rt></ruby>すことの出来ぬ色合になる』

彼はとても人間の言葉では名指すことの出来ぬ情熱的な色合をしきりに想い浮べていた。すると目の前に、<ruby><rb>鱶</rb><rt>ふか</rt></ruby>の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>と化するはかない人間の姿と、チェーホフの心の色合が海底のように見えて来るのだった。そして、三年前彼がはじめて「グーセフ」を読んだ時から残されている骨を刺すような冷やかなものと<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>くような熱さがまた<ruby><rb>身裡</rb><rt>みうち</rt></ruby>に<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来るのでもあった。奇妙なことに、それを読んだ三年前の季節の部屋の容子とその頃の心のありさままでこまごまと彼には回想されるのであったが、それは殆ど現在の彼と異っていないようでもあった。その頃、彼は一度東京へ出て知人を<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねようと思っていた。がたったそれだけのことが彼にとってはなかなか決行できなかった。電車で行けば一時間あまりのところにある地点が彼には無限のかなたにあるもののように想像されたし、もしかするとその都会は一夜のうちに消滅しているかもしれないと、<ruby><rb>妄想</rb><rt>もうそう</rt></ruby>は更に飛躍して行った。もの音の<ruby><rb>杜絶</rb><rt>とぜつ</rt></ruby>した夜半、泥海と<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>たる野づらの<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>しなくつづくそこの土地の<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しい空気をすぐ外に感じながら、ひとりでそんなことを考えていると、都会の<ruby><rb>兇悪</rb><rt>きょうあく</rt></ruby>な相貌がぐるぐると胸裡を駆けめぐりそれは一瞬たりとも彼のようなものの<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>りつけそうにない場所に変っていた。そこには今では、彼にとって全く無縁のものや、激しく彼を拒否しようとするもののみが満ち<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていた。それでなくても、顔の固疾や、<ruby><rb>脆弱</rb><rt>ぜいじゃく</rt></ruby>な体質が出足を鈍らすのであったが、着つけない服をつけ、久し振りに靴を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて出掛ける時には、まるで大旅行に出て行くように悲壮な気持がしたものであった。……鱶の泳ぎ廻る海底の姿と黙示録の幻影がいつまでも重たく彼の心にかさなり合っていた。

生涯のある時期に<ruby><rb>於</rb><rt>お</rt></ruby>いて、教師をするということは、僕にとって予定されていたことかも知れません、とにかく、やってみるつもりです。――彼はある朝、ひっそりとした時刻に、友人に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>ってこんな手紙を書いた。そしてペンを<ruby><rb>擱</rb><rt>お</rt></ruby>くと、障子の<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の向うに見える空が、いまどこまでも白く寒々と無限に<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がってゆくように想えた。あの寒々とした中に、以前からこの予言は<ruby><rb>誌</rb><rt>しる</rt></ruby>されていたのであろうか――近く始ろうとする教師の姿をぼんやり考えてみた。殆ど何の自信も期待も持てなかったが、それでも、そこへ<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いてゆくものが、たしかにあった。彼の安静な、そしてまた業苦多い、孤独の<ruby><rb>三昧境</rb><rt>さんまいきょう</rt></ruby>は既にこの二三年前から内からも外からも少しずつ破壊されていた。ある時は猛然と立って、敵を防ごうとしたが、空白の中に行詰ってゆく心理は、死守しようとするものを自ら弱めて行っているのでもあった。（だが、彼の力の絶したところに、やはり死守すべきものがあることだけは疑えなかった）生計の不安や激変の世の姿が今<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>となって身辺にあれ狂っていた。絶えず忌避していた世間へ、一歩踏込んで行かねばならなかった。「中学生を相手にするのは何だか<ruby><rb>怕</rb><rt>おそろ</rt></ruby>しいようです」そう云う彼を先輩は<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>むように眺め、「そんなことはありません、余程あなたは世間を<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れているのですね、なあに、やってみるまでのことです」と励ましてくれるのであった。その人の家を辞して帰ってくる途中、家の近くの小駅のほとりで、中年の男が着流しで寒々と歩いている<ruby><rb>佗</rb><rt>わび</rt></ruby>しい後姿を認めた。近所の男であった。ひどい酒癖がはじまると、隣近所に配給酒を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>うて歩くが、今も<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>へ出て乏しい酒を<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>って帰るところらしかった。寒々とした夕空がかすかに明るかった。

……それから間もなく、あの恐しい朝（十二月八日）がやって来たのだった。気を<ruby><rb>滅入</rb><rt>めい</rt></ruby>らす<ruby><rb>氷雨</rb><rt>ひさめ</rt></ruby>が朝から音もなく降りつづいていて、開け放たれた窓の外まで、まるで夕暮のように<ruby><rb>惨澹</rb><rt>さんたん</rt></ruby>としていたが、ふと近所のラジオのただならぬ調子が彼の<ruby><rb>耳朶</rb><rt>じだ</rt></ruby>にピンと来た。スイッチを入れてみると、忽ち狂おしげな軍歌や興奮の声が轟々と室内を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き乱した。彼は<ruby><rb>惘然</rb><rt>もうぜん</rt></ruby>として、息を潜め、それから氷のようなものが<ruby><rb>背筋</rb><rt>せすじ</rt></ruby>を貫いて走るのを感じた。<ruby><rb>苛酷</rb><rt>かこく</rt></ruby>な冬が来る、恐しい日は始ったのだ。――彼は身に降りかかるものに対して身構えるように、じっと<ruby><rb>頑</rb><rt>かたくな</rt></ruby>な気持で畳の上に蹲っていた。日の暮れる前から何処の家でも申合わせたように雨戸を立ててしまった。黒いカーテンを張りめぐらした部屋ではくつくつと<ruby><rb>鳥鍋</rb><rt>とりなべ</rt></ruby>が煮えていた。「こんな大戦争が始ったというのに、鳥鍋がいただけるとは何と<ruby><rb>幸</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>なことでしょう」と若い女中のたつは全く浮々していた。が、妻は<ruby><rb>震駭</rb><rt>しんがい</rt></ruby>のあとの発熱を怖れるように<ruby><rb>愁</rb><rt>うれ</rt></ruby>い沈んでいた。

押入の奥から古びた英語の参考書を取出して、彼はぼんやり<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていた。久しく忘れていた英語を<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出そうとするように、あちこちの<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>をめくっていると、ふと昔の教室の姿が浮ぶ。<ruby><rb>円味</rb><rt>まるみ</rt></ruby>を帯びた柔かな声で<ruby><rb>流暢</rb><rt>りゅうちょう</rt></ruby>にリーダーを読み<ruby><rb>了</rb><rt>おわ</rt></ruby>った先生は、黒い<ruby><rb>閻魔帳</rb><rt>えんまちょう</rt></ruby>をひらいて、鉛筆でそっと名列の上をさぐっている。中学生の彼は息をのみ、自分があてられそうなのを心の中で一生懸命防ごうとしている。先生の鉛筆は宙を迷いなかなか指名は決まらない。やがて、先生は彼から二三番前の者にあてると、瞬間<ruby><rb>吻</rb><rt>ほっ</rt></ruby>としたような顔つきになる。先生は彼の気持は知っているのだ。孤独で内気な、その中学生に読みをあてれば、どんなに彼が<ruby><rb>間誤</rb><rt>まご</rt></ruby>つき、<ruby><rb>真赮</rb><rt>まっか</rt></ruby>になるかをちゃんと<ruby><rb>呑込</rb><rt>のみこ</rt></ruby>んでいたのだ。だから、どうしても指名しなければならない場合には、まるで長い<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>の後の<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ない結果のように、<ruby><rb>態</rb><rt>わざ</rt></ruby>とぶっきら棒な調子で彼の名をあてる。あんな微妙な心づかいをする先生は、やはり孤独で内気な人間なのかもしれない。どうかすると、生徒たちの視線にも堪えられないような、<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れ<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いものをそっと内に<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いているようなところがあり、それでいて、粘り強い意志を<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎ澄ましている人のようだった。……いつも周囲には獣のような生徒がいて、無意味なことを騒ぎ廻っていた。それでなくても、彼にはこの世の中に生れて来たことが不思議に堪えがたいもののようになっていたが、学校の<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な空気はともすれば、居たたまらないものになっていた。それだから、彼はよく学校を休んだ。それは大概冬の日のことであったが、家でひとり静かに休息をとり、久し振りに学校へ出て行くと、彼の魂も、肉体もそれから周囲の様子まで少し新鮮になっていた。黒い服を着て大きな眼鏡をした先生は、彼の欠席していたことについては何も<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねようとしなかった。

――彼は久し振りに学校へ出掛けて行く中学生のようであったが、その昔の中学生がまだ根強く心の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に<ruby><rb>蔓</rb><rt>はびこ</rt></ruby>っているのであった。就職が決まりそうになると、女中のたつは、この生活の変化にひどく<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みをもち、靴下や手袋を新しく買いととのえて来てくれた。弁当箱も、それはこの頃既に巷から影を潜めていたが、どうやら手に入れることが出来た。

とらえどころのない空がどこまでも続いており、単調な坂路がはるかに展がっている。その風景は寒くて<ruby><rb>凍</rb><rt>い</rt></ruby>てついていたが、どこかにまだギラギラと燃える海や青野の<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えを潜めているようで、ふと<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しく強烈なものが、すぐ足もとにも感じられた。<ruby><rb>空漠</rb><rt>くうばく</rt></ruby>としたなかにあって、荒れ狂うものに<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われまいとしているし、<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>や枯木も鋭い抵抗の表情をもっていた。だが、すべてはさり気なく、冬の朝日に洗われて静まっている。

坂の中ほどまでやって来ると、視野が改まり、向うに中学の色<ruby><rb>褪</rb><rt>あ</rt></ruby>せた校舎が見えたが、彼の<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>はひだるく熱っぽかった。家を出て電車で二十分、ここまで来ただけで、もうそんなに疲労するのだったが（荒天悪路だ、この坂を往かねばならぬのだ）と、彼は使い慣れぬ筋肉を酷使するように、速い足どりで歩いた。その癖、自分の魂は壊れもののようにおずおずと運んでいるのでもあった。彼には今の家に置いて来たもう一つの姿が<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに気に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>った。それは今もじっと書斎の机に<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>り、――<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>から彼の心の隅を射抜こうとしている。戸惑った表情の<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>、<ruby><rb>前屈</rb><rt>まえかが</rt></ruby>みの姿勢でせかせかと歩いている姿は、かえって何か影のように<ruby><rb>稀薄</rb><rt>きはく</rt></ruby>なものに想われて来る。彼は背後に、<ruby><rb>附纏</rb><rt>つきまと</rt></ruby>う書斎からの視線を<ruby><rb>避</rb><rt>のが</rt></ruby>れるように急いで中学の門へ這入って行く。そうして、その小さな門を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>った瞬間から、ともかくあの書斎からつき纏って来たものと別れることが出来た。だが、そのかわり今度は更に<ruby><rb>錯綜</rb><rt>さくそう</rt></ruby>した視線の下に彼は<ruby><rb>剥出</rb><rt>むきだ</rt></ruby>しで<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>されるのであった。

――その夜、<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ろうとすると、<ruby><rb>鼻腔</rb><rt>びこう</rt></ruby>にものの<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いがまだしつこく残っているのを彼は感じたが、たしかそれは今日の昼間、小使室で弁当を食べた時<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いだものに<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>ならなかった。その日、はじめて彼も教員室へ入ったが、そこにはいろんな年配のさまざまの<ruby><rb>容貌</rb><rt>ようぼう</rt></ruby>をした教師たちが絶えず出入していた。弁当の時間になると、日南の狭い小使室に皆はぞろぞろと集っていた。彼はその部屋の片隅で、佗しいものの臭い――それは毛糸か何かが<ruby><rb>煉炭</rb><rt>れんたん</rt></ruby>で焦げるような臭いであった――を感じた。家へ戻ると<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>、彼はその臭いの佗しさを病妻に語った。妻は<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みながら「そんなに侘しいのなら、勤めなきゃいいでしょう」と<ruby><rb>労</rb><rt>いた</rt></ruby>わるように云った。長い間、人なかに出たことのない彼にとっては、人間の臭いの生々しさが、まず神経を掻き乱すのであった。……ふと、昼間の光景が<ruby><rb>睡</rb><rt>ね</rt></ruby>つけない<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中に描かれた。階段を昇って、ザラザラの廊下を行くと、黄色く汚れた窓の中に少年たちのいきれが立こもっていた。そっと、教室の後の方の入口から這入って行ったのに、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち四十あまりの顔と眼鼻が一斉に振返って彼の方へ注がれた。その視線のなかには、火のように<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しいものも混っていた。彼はかすかに青ざめてゆく自分を意識した。睡つけない闇のなかには、いつまでも何かはっきりしないものの像が揺れかえっていた。彼<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>はどうした<ruby><rb>貌</rb><rt>かお</rt></ruby>なのだろう、なにを感じなにに<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>ろうとする姿なのだろう。

それはひどい雪の降っている朝のことだった。彼は電車の中で<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>とした姿勢の軍人の顔をつくづく眺めていた。人々は強いて昂然としているらしかったが、雪に<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>された窓の外の景色は、混濁した海を控えていて、ひそかに暗い<ruby><rb>愁</rb><rt>うれい</rt></ruby>を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えているのだった。道すがら雪は容赦なく靴のやぶれから彼の足にしみていたが、<ruby><rb>泥濘</rb><rt>でいねい</rt></ruby>の中をリヤカーで病人を運んで来る百姓の姿も――更に悲惨な日の前触のように、彼の心を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>くのだった。坂路のあちこちには、バタバタと汚れた紙片が<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>ってあって、それには烈しい、そして空虚な文字が誌されていた。……寒さと慣れない仕事にうち<ruby><rb>克</rb><rt>か</rt></ruby>つためには、彼は絶えず背中をピンと張りつめていなければならなかった。教員室には、普通の家庭で使用する<ruby><rb>煉炭火鉢</rb><rt>れんたんひばち</rt></ruby>が一つ置いてあった。その貧弱な火をとり囲んで教師達は<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りにガヤガヤと談じ合った。そういう佗しいなかに交っていると、彼はふと、家に置忘れて来た自分の姿を振返ることがあった。長い間かかって、人生の隠微なるものの姿を<ruby><rb>把</rb><rt>とら</rt></ruby>えようとしていたのに、それらはもうあのままに放置されてあった。学校から帰って来る彼の姿には外の新鮮な空気が附着しているのであろうか、妻は珍しげに彼を眺め、病んでいる彼女の顔にも前には見られなかった明るみが添った。行列に加わってものを買って帰ると、妻の喜びは一層大きかった。

ある朝、一羽の大きな鳥が運動場の枯木に来てとまった。あたりは今、妙にひっそりしていたが、枯木にいる鳥はゆっくりと孤独を<ruby><rb>娯</rb><rt>たの</rt></ruby>しんでいるように枝から枝へと移り歩いている。その落着はらった動作は見ているうちに<ruby><rb>羨</rb><rt>うらやま</rt></ruby>しくなるのであった。こういう静かな時刻というのも、あるにはあったのか。彼はその孤独な鳥の姿がしみじみと眼に<ruby><rb>泌</rb><rt>し</rt></ruby>みるのだった。……この運動場の砂は絶えず吹き<ruby><rb>荒</rb><rt>す</rt></ruby>さぶ風のために、一尺から<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>んでしまったのです、とある教師が語ったことがある。絶えず吹き荒さぶものは風ばかりではなかった。<ruby><rb>無慙</rb><rt>むざん</rt></ruby>な季節に<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>られて、生徒達はひどく騒々しく殺伐になっていた。旗行列の準備で学校中が沸騰している時も、彼はひとり職員室に残りぼんやりと異端者の位置にいた。もしも、こういう時代に自分が中学生だったら……と、彼はいつもそれを思うとぞっとする。そうして、生徒たちにものを教えていながらも、ふと向うの席に紛れている<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの中学生姿を見ることがあった。異端者の言葉がすぐ、口もとまで出かかっているのであった。

（昭和二十一年九月号『文明』）