Soranoha

元禄十三年

げんろくじゅうさんねん

林 不忘

問題を入れた扇箱

一

「いや、勤まらぬことはありますまい。」

土屋相模守は、じろりと二人を見た。

「勤まらぬといってしまえば、だれにもつとまらぬ。一生に一度のお役であるから、万事承知しておる者は、誰もないのです。みな同じく不慣れである。で、不慣れのゆえをもってこの勅使饗応役ちょくしきょうおうやくを御辞退なされるということは、なんら口実こうじつにならんのです。御再考ありたい。」

しかし、一、二度押し返したうえで引き受ける習慣になっていた。

浅野事件の前年だった。

元禄十三年三月三日に、岡部美濃守と立花出雲守が、城中の一室で土屋相模守の前に呼び出されていた。土屋相模守は老中だった。

年に一回京都の宮廷から、公卿くげが江戸に下って、将軍家に政治上の勅旨ちょくしを伝える例になっていた。その天奏衆てんそうしゅうの江戸滞在中、色いろ取持ちするのが、この饗応役だった。毎年きまったことなのに、関東では一年ごとに、諸大名が代って勤めることになっていた。

初めてつとめるのだし、大役だしするから、天奏饗応役に当てられた諸侯は、迷惑だった。心配だった。形式的にも、一応は辞退したかった。

饗応役には、正副二人立つのだった。この元禄十三年度の饗応役に、本役には岡部美濃守、添役そえやくには立花出雲守が振りあてられた、と、土屋相模守にいい渡されたとき、出雲守は顔いろを変えた。

「おそれいりますが、私は、堂上どうじょう方の扱いをよく存じません。それに、家来には田舎侍多く、この大切なお役をお受けして万一不都合がありましては、上へ対して申訳ありませんから、勝手ながら余人へ――。」

これは、毎年のように、誰もが一度饗応役を辞退する時の定り文句になっていた。相模守は、聞き飽きていた。

そして、これも、この場合、毎年繰りかえしてきた言葉だが、

「御再考ありたい。上野こうずけがすべて心得おるから、あれに尋ねたなら勤まらぬことはあるまいと思われるが――。」

と、眼を苦笑させて、ちらと岡部美濃守を見た。

そういわれると、それでもつとまらないとはいえないのだった。

「さようならば――。」

無理往生だった。出雲守は、仕方なしに、引き受けないわけにはいかなかった。

「身に余る栄誉――。」

と小さな声だった。が、相模守の眼を受けた岡部美濃守は、口を歪めて、微笑していた。

「お受けいたします。なに吉良殿などに訊きくことはありません。私は、私一個の平常の心掛けだけでやりとおす考えです。」

どさり、と、重く、畳に両手をついて、横を向くようなおじぎをした。

二

上野介こうずけのすけは、無意識に、冷えた茶をふくんだのに気がついた。吐き出したかったが、吐き出すかわりに、ごくりと飲み下して眉根を寄せた。

「何だ、これは――何だと訊いておるに、なぜ返事をせんか。」

すこし離れて、公用人の左右田そうだ孫三郎が、頸くびすじを撫でながら、主人を見上げた。

「御覧のとおり、扇箱おうぎばこでございます。」

「扇箱は、見てわかっておる。その扇箱がどうしたというのだ。」

鍛冶橋かじばし内の吉良きらの邸で、不機嫌な顔を据えた上野介の前に、扇箱が一つ、ちょこなんと置いてあった。

年玉などに使う、八丈を貼った一本入れの、粗末なものだった。空箱で、竹串がはいっていて振るとがらがら音がした。高価たかく踏んで、四十五文か、精ぜい五十文の物だった。

「立花出雲は、添役じゃぞ。」吉良は、漆うるしのように黒く光る眼を、いそがしく瞬またたいた。「孫三、出雲から、何がまいったとやらいうたのう――。」

「は。天瓜冬の砂糖漬、鯛一折、その他国産色いろ――。」

「砂糖漬には――これだけとか申したな?」

ちょっと逡巡ためらったのち、上野は、人さし指を一本立てて見せた。百両ひとつの意味だった。

珍奇な、天瓜冬の砂糖菓子に小判を潜めて、賄賂まいないを贈る風習だった。天瓜冬の砂糖漬といえば、やるほうにも貰うほうにも、菓子のあいだに相当の現金ものが挾はさめてある、無言の了解があった。

孫三郎も閃めくように指一本出してうなずいた。

扇箱を顎でさして、吉良が、呻うめいていた。

「気の毒だな。添役が、そんなにせんでもええに。本役の岡部殿からは、この扇箱ひとつ――ふふふ、二重底であろう。見い。」

孫三郎は、箱を手に取って、弄いじくりまわした。

「ただの扇箱で――。」

「使いの者は?」

「何とか申す用人でございました。逃ぐるように引き取りましたが――。」

「口上をきいておるのだ、口上を。」

「口上は、その、このたび、岡部美濃守様が天奏饗応役を仰せつけられましたについて、殿中よろしくお引廻しのほどを、という――。」

骨張った吉良の額に、太い青筋がはってきて、

「よい。嘲弄ちょうろうする気であろう、この上野を。」

と、口びるを白くした時、襖をあけて、平手で頭を叩いた者があった。

「へっ、殿様、御機嫌伺い。」

お錠口御免の出入りの小間物屋だった。平野屋茂吉が、ずかずかはいってきていた。

「一大事出来しゅったい。平茂ひらも、御注進に。じつぁね、例の女の子、行火あんかがわりの、へへへ、賞ほめてやっていただきやしょう。見ただけで、ぶるるとくるようなやつが、殿様、みつかりやしたんで。」

平茂に、新しい妾の周旋せわを頼んであったことを思い出しながら、吉良は、不愉快な感情のやり場がなくて、孫三郎をきめつけていた。

「扇箱一つで、殿中引廻し、か。虫のいい! これ、進物の額たかをいうのではない。が、ものには順があるぞ、順が。」

蒼ざめた吉良の顔に、無礼を愛嬌にしている、幇間のような平茂も飽気あっけに取られた。

三

「相手が悪いから、心配するのだ。」

辰馬たつまは、江戸ふうの青年だけに、めっきり浪人めいて来ていた。

大きな胡坐あぐらをかいて、御用部屋の壁によりかかった。

吉良へ扇箱を届けて帰邸かえってきた久野彦七も納戸なんど役人の北鏡蔵きょうぞうも金奉行の十寸見ますみ兵九郎も黙っていた。

岡部辰馬は、岡部美濃守の弟だった。分家してぶらぶらしていたが、兄が勅使取持役を受けてからは、ほとんどこの屋敷に詰めきりだった。

「まずかったかな。」と、口をへの字にして、もう一度老人たちを見まわした。「誰が扇箱などを持って行けといったのだ。まるで、からかうようなものじゃないか。いい年寄りが多勢揃っていて――。」

久野彦七は、汗をかいていた。

「いやはや、子供の使いでしたよ。あの扇箱を置いて、すたこら逃げて来ましたわい。まったく、あとが怖い。憎い鷹たかには餌をやれで、例の天瓜冬の三百か五百――先方さきもあてにしているんですなあ。」

「それだけ知っていて、なぜやらぬ。」

「殿様の御気性ごきしょうを御存じでしょう――。」

納戸役の北が、腕組みをして溜息を吐いた。

十寸見が、乗り出した。

「立花様のほうへ、それとなく伺ってみました。添役だから、内輪うちわにして百両――だいたいそんなところだったらしい。」

「そうだろう。添役で百両いっそくなら、本役の当家は、やっぱり、五百という見当だ。そこを、扇箱一個ひとつなんて、間抜けめ! 吉良のやつ、今ごろかんかんだぞ。」

三人は無言だった。

「訊いてくる。」

辰馬が、膝に手を突っ張って、起き上りかけた。

「ちょっと、お待ちを――。」

「停めるな。泉州岸和田五万三千石と、一時の下くだらぬ強情ごうじょうと、どっちが大切か、兄貴にきいてくるのだ。」

歩き出すと、久野が、追いすがった。

「しかし、殿様はもう、吉良殿と一喧嘩なさるおつもりで、気が立っておられますから――。」

「その前に、おれが兄貴と喧嘩する。金で円まるくすむのに、家のことも思わずに、何だ。おれにも考えがある。離せ!」

振りきって、跫音が、美濃守の居間のほうへ、廊下を鳴らして曲った。

夜の客

一

「平茂か。進むがよい。」

吉良の声を機しおに助かったように孫三郎が座を辷すべると、入れ違いに、平野屋茂吉が吉良の前にすわった。

「驚きました。達磨だるまは面壁めんぺき、殿様肝癖かんぺき――。」

つるりと顔を撫でて、平伏しながら、

「何ごとかは存じませんが、平に御容赦。ほどよい女子を探しあてましたる手前の手柄に免じて、ここは一つ、お笑い下さいまし。お笑い下さいまし。」

吉良は、穿はき古した草鞋わらじのような感じの、細長い顔をまっすぐ立てたまま、平茂のことばは、聞こえていて聞こえていなかった。

「美濃めが――。」

と、口の隅から、つぶやいた。

――高家筆頭こうけひっとうとして、公卿堂上の取次ぎ、神仏の代参、天奏衆上下の古礼、その他有職故実ゆうそくこじつに通じている吉良だった。勅使饗応を命じられた大名は、吉良の手引きがなくては、手も足も出ないのだった。自然、この役を勤める諸侯から吉良へ賄賂わいろを贈ることが、毎年の例になっていて、吉良のほうでも、いつのまにか、今度は誰それがつとめるのだから、およそいくらぐらいは持って来るであろう、と、心待ちするようになっていた。吉良は、その、天瓜冬の砂糖漬に隠された現金の進物を、賄賂とは解釈していなかった。自分に教えを受けるについての、当然の謝礼――挨拶、と周囲から思わせられてきていた。

添役立花出雲守は、奥州下手渡三万石で、それが百両もはずんだのだから、本役で五万三千石の岡部家からは、まず、五百両は動かないところ、と踏んでいた矢さきに、この扇箱ひとつだった。

「侮辱ぶじょくだ。立派な挑戦じゃ――。」

また独言ひとりごとが出た。

「うむ。おれに訊かんでも、饗応方が勤まるという意じゃろう。面白い。勤めてみるがよい。物のたかではないぞ。この無礼な仕打ち――はじめてじゃ。」

「殿様。」平茂が、前の扇箱に眼をつけて、手を伸ばした。「酔興すいきょうなお品がこれに。松飾まつがとれますと、扇箱のお払いものはございませんか、って、裏ぐちから顔を出しますな。あれは、買いあつめて、箱屋へ返して、来新春らいはるまた――。」

吉良は、黙って起った。扇箱を、うしろの違い棚へ置いて、褥しとねへ返った。

「よいのがあるとか申したのう。」

「現れました。」

いつもの吉良を見て、平茂は、羽織の裾をひろげながら、膝を進め出した。

「あちこち口を掛けておきましたところが、これも縁でございますな。いや、逸物いちもつ、尤物ゆうぶつ――なんぼ人形食いの殿様でも、これがお気に召しませんようでは、今後こういう御相談は、平茂、まっぴら御免、なんて、前置きが大変。」

「ううむ、どうしてくれよう。」

急に吉良は、両手を握りしめてうつ向いたが、すぐ蒼白く笑って、

「美濃か。美濃か。はっはっは――そうさのう、伴つれてまいれ、その女を。」

二

弊風へいふう、という字を、美濃守は、宙に書いては消していた。

上野介が、三州吉良大浜で四千二百石を食はみ、従四位少将の位にあるのは、殿中諸礼式の第一人者だからだった。そして、役目のなかには、もっぱらこの天奏饗応などに際して、慣れない役に当たった大名の面倒を見、万端手落ちのないように勤めさせることが、含まれていていいはずだった。

それなのに、近年――贈るほうもおくるほうだが、うけとるほうも受け取るほうだ、と美濃守は、弛緩しかんしかけた幕政のあらわれの一つのように思えて、憂憤ゆうふんを禁じえなかった。

個人的にも美濃守はあの吉良という人間に普段から、何かしら許しておけないものを感じてきていた。

手違い、不便、吉良の手によって続けさまに、それらの障害が投げられるであろうことは承知の上で――と、美濃守は、ふたたび、弊風、それに、打破の二字を加えて、自分を鞭撻べんたつするように、こころに大書した。

「兄者、お在室いでかな。」

大声がして、縁の障子が開いた。辰馬が、荒あらしく踏みこんで来た。

立ったままで、

「兄者、聞こう! 公卿相手の茶坊主ごときやつに抗さからって、先祖代々の家をつぶして何が面白い――。」

振りあおいだ美濃守の片面に、燭台の火が、辰馬の持って来た廊下からの風にあおられて、黄色く息づいた。

「賢才ぶったことをいうな。」

といった兄には、やはり、ちょっと兄らしい重みがあった。その偉躯いくとともに、武芸家として、また、世事に通じた大名らしくない大名として、平常辰馬の尊敬している兄でもあった。

それだけに、今度の、事を好むような態度が、いっそう不思議でならなかった。

「やるものをやらんと、意地悪をしますぞ、兄者。」

どかりと、坐った。

「わざとうそを教えて役儀に不都合をきたさしめ、それとなく賄賂を催促するということです――。」

「賄賂の督促など、おれには馬の耳に念仏だよ。何もやらんのではない。久野に命じて、四十五文の扇箱をやった。」

「師匠番ですぞ。いくらか風にならって――。」

美濃守は、大きな声を出した。

「吉良には、頼まん。」

「兄者は、殿上の扱いをすべて御存じか。」

「自慢じゃないが、何も知らんよ。しかし、先例というものがある。」

「先例はあっても、時に応じて変ることもあります。」

「そんなら、そのときのことだ。」

「万一、粗忽そこつがあったらどうなさる。」

「おれ一人が、責任を持ったらいいだろう。」

「お一人ではすみません。お家を、お郷藩くにを――。」

「なんじゃ、賢さかしらな! 肩をそびやかして詰め寄って――。」

美濃守が、いつものようにぬうっとしているので、辰馬は、焦立いらだってきた。

「兄者は、吉良に怒らせられて、きっと殿中で刀を抜く。刃傷にんじょう――。」

「おれが吉良を斬る――。」馬のように笑って「馬鹿な!」

「いや、必ずそんなことになる。そうすると岸和田五万三千――。」

「斬りなどせんよ、大丈夫――ただ、逆を往くのだ。ははは、は、万事、吉良のいう逆を、な。」

歯を食いしばって、辰馬は、考えに落ちた。

美濃守は、他人ひとごとのようにけろりとして、その、沈痛な弟の顔を、珍しそうに見ていた。

三

「いや、手前ども主人も、昨年、吉良殿には泣かされました。」

多湖たご外記げきは、亀井能登守の江戸家老だった。べっこうぶちの大眼鏡を額へ押し上げて、微笑の漂っている視線を、岡部辰馬のうえに据えた。

「今年は、お兄上岡部様が、御本役で、お添役は?」

「立花殿です。」

と、辰馬は、夜おそくこうして亀井の邸を訪ねて来た要むきに、早く触れたかった。

外記も、この客の要件をいろいろ推測しながら、

「立花出雲守さま――添役は、まあ、なんですが、本役となると、お察しします。」

辰馬は、態わざわざ頼みにきたことを、どう切り出していいかわからなくなった。で、黙っていると、外記がひとりでつづけて、

「気骨が折れて、出金が多い。それで、無事勤めたところで、戦場一番槍ほどの功にはならんのですから、一生に一度の、まず名誉かもしらんが、正直、ありがたくありませんな。ところで、申すまでもなく、そこらに抜かりはありますまいが、吉良さまのほうへ、いくらかお遣つかわしになった――。」

辰馬は、待っていた話題が来たので、四角くなった。

「兄に、何か考えがあるとみえて、吉良への進物は断じてならぬと申しますので、困っております。」

外記は、ぎょっとしたように、

「岡部様らしい。が、それはいかん。それは、危ない。」

「それにつきまして、じつは――。」

「最初の贈り額だかがたりませんでな。手前の主人も、さんざ吉良様にいじめ抜かれ、すんでのことで刃傷にんじょうにおよぶところ、手前が、遅ればせに、例の天瓜冬の届け直しをやって、はははは――。」

「おそれいりますが、」辰馬は、やっと用を口に出した。

「昨年の勅使お日取りが、お手元にありましたら、ちょっと借覧願いたいのですが――。」

「お易い御用。ありますはずです。」

外記は、そんなことだろうと思っていたといったように、せかせかと鈴を振って、用人を呼んだ。

四

野武士めいた、肩幅の広い美濃守のうしろ姿を、吉良が、憎悪をこめて凝視みつめている時、美濃守が、ふり返った。

眼が合うと、両方が立ち停まって、しげしげと眺めあった。それは、たがいに、珍奇きわまる生物を発見したとでもいうような、やゆと敵意の交錯した、視線の戦争だった。

吉良を見上げ見下ろしながら、美濃守が、厚い胸を張って、近づいて来た。

城の廊下で、いそがしく往き交かう役人や坊主の影が、壁に明るかった。

「吉良殿、自分は、勅使取持役は不調法です、よろしく。」

吉良は、傍わきを向いて、小声に、いわでものことをいった。

「不調法なものを、なぜお受けなされた。」

美濃守が、聞き咎めた。

「これは、異なことを! 上野介殿はそのほうは専門家であるから、万事お手前の指図を仰ぐように、という、土屋相模守殿のお言葉添えがあったればこそ、お引受けしたものを――それを、とやかくいわるるなら、拙者は、これより相模守殿に申達して――。」

吉良は、取り合わずに、さっさと歩き出していた。美濃守の声が、追っかけた。

「お出迎えは、どこまで出るのですか。」

吉良を振り向かせるまでに、美濃守は、同じ問を根気よく、三、四度くり返した。

「お! 美濃守じゃったな。先日はまた、結構な扇箱を――お出迎えぐらいのことを御存じないとは、御冗談でしょう。」

「知っておれば訊きませぬ。知らぬから訊く。品川までかな?」

「品川にはおよびません。芝御霊屋みたまやの前あたりまで出られたら、よろしかろう。」

「しからば、」美濃守は、顔いっぱいに笑って、「品川までお出迎えいたしましょう。どうも自分は、吉良殿の逆を往くことが好きでな。」

ほんとうは、もちろん品川まで迎えに出なければならないのだった。

「御随意に。」

さっと赤くなった吉良は、すぐ蒼く、こまかくふるえて、美濃守に背中を見せた。

が、足をゆるめて、肩越しに、

「勅使院使のお日取り――御存じのうてはかないませぬぞ。」

美濃守は、首を傾かしげた。

「知りませんな。が、これだけのことは存じておる――勅使院使公家参向当日、お使い御老中、高家さしそえこれをつかわさる。御対顔につき、登城。摂家宮せっけのみや、門跡もんぜき方、その他使者楽人、三職人御礼。溜詰御譜代衆、お役人出仕。御対顔済み、下され物あり。御饗応前、お能見物の儀、御三家、両番頭ばんがしらの内。御返答につき、公家衆地下一統出仕。おいとま仰せ出ださる。一同拝領物。発駕はつが之日、御馳走大名お届け登城――。」

おや! と思いながら、

「もうよろしい。お日取りというのは、それです。」

「何だ、これしきのことですか。」

吉良は、むっとした。しかし、殿中だった。じっと自分を抑えて、美濃守の嘲笑をあとに、足を早めた。

身を変えて

一

「御覧になったでしょうか。」

糸重いとえは、白い顔を上げて、良人を見た。

床柱にもたれて、辰馬は、眼をつぶっていた。しばらく答えなかった。

辰馬の住いに、水のような暮色が、忍び寄っていた。室内は、灯がほしかった。

「見たろう。」辰馬がいった。「机の上に置いてきたから――。」

「紙にお書きになって――。」

「うむ。多湖殿に頼んで、写さしてもらったのだ。気持ちよく見せてくれたよ。お日取りなどは、毎年変るものではないから、兄貴が、あれさえ記憶おぼえておれば、だいたい間違いはあるまい。」

夫婦はふたりいっしょにほっと安心の息をもらした。

糸重が、笑った。

「ほんとに、昨年の御本役、亀井様にお尋ねとは、思いつきでございました。」

「兄貴がああいう性質だから、傍がやきもきして、手落ちのないように盛り立てねばならぬ。お日取りという第一の難関は、これで過ぎたが――いや、賄賂さえつかわせば、何のことはないんだがなあ。」

「兄上様に知れずに、こっそり――。」

「それはできぬ。吉良の態度で、兄にすぐ知れるよ。」

糸重は、黙り込んだ。

腕を組み直して、辰馬が、妻の顔を覗きこむように、

「亀井殿に訊くことも、そうたびたびはならぬ。また、昨年と今年で、じっさい変ることもあるに相違ない。土台、兄貴の頑固ときたら、何も知らんくせに、自分一個の量見りょうけんで押し通すなどと、おれにさえ聴こうとはせぬ。書き物にして、そっと机のうえに残しておくと、人のおらぬのを見すまして一生懸命に読む始末だ。兄貴の面白いところだが、今度は困ったよ。あれで、短気だから、吉良の性悪しょうわるに勘忍しきれずに、大事にならねばよいが――。」

糸重が、しんみりと、

「おあにい様のお身の上――ひいては、お家が第一でございますから。」

「ついては、おれに策がないでもない。お前にも、ちょっと働いてもらわねばならんかもしれぬが。」

辰馬の声に、きっとしたものが聞かれて、糸重は、身を固くした。

「はい、何なりと――。」

「平茂のう、あの、担かつぎ小間物の――。」

と私語になって、辰馬がにじり寄って来ていた。

二

駿河町の裏通りの自宅を出た平野屋茂吉は、高価な商売物のはいった桐箱を、風呂敷包にして提げて、片手に傘をさして歩いていた。

鎌倉河岸かまくらがしに、三月の雪が降って、茶いろのぬかるみに白い斑点があった。

「おい、平茂じゃあねえか。」

辰馬は、御家人くずれといった、やくざな服装でそこらをぶらつきながら、平茂を張っていたのだった。

声をかけて、傘の下へはいって行った。

「どこへ行く。嫌なものが、落ちたぜ。」

「おや、これは、岡部の若殿様でしたか。」

きょとんとしたが、顔中に愛嬌を見せた平茂は、

「そのお拵こしらえは――ははあ、雪の日に、尾羽おは打うち枯らした御浪人、刀をさした案山子かかしという御趣向で、なるほどな、おそれいりました。おそれいりました。」

「胡麻ごまをするなよ。好きで、こんな恰好ができるか。」

並んで、歩き出した。

「しかし、御無沙汰つづきで――お見それ申しやしたよ。」

だしぬけに、辰馬がいった。

「兄貴が、かまってくれぬ。恥かしながら、このざまだ――。」

「へ?」

平茂が訊き返したが、辰馬は、ひとり合点でしゃべりつづけた。

「不如意だらけ――どうにもこうにもやりきれんのだ。一時、女房を預けたいと思うのだが――。」

「糸重様を?」平茂は、歩をとめて、狡猾そうに辰馬を見た。「御冗談で。」

「背に腹は換えられぬ。本人も承知だ。妾奉公でも何でも、といっておる。」

二人は、どっちからともなく、降雪ゆきの中に、膝を包んでしゃがんでいた。

声をひそめて、辰馬が、

「貴様、鍛冶橋のおやじにひとり、頼まれてるというじゃねえか。」

「吉良様ですか。よく御存じで。」

「地獄耳よ。早えやな。きまったのか、そっちのほうは。」

「いえ、まだお見せしたわけではなし、決まったというわけではございませんが――ほんとですか、殿様。」

「うそでこんなことがいえるか。ぜひ糸重を吉良へ世話してくれ。頼む。勿論もとより、五万三千石の弟の奥では困るから、そこはそれ、そちのいつもの伝で、要領よく、魚屋なり灰買いなり、仮親に立てて――。」

「糸重さまを、ね。糸重様なら、申し分ござんせんが、御身分を隠して、と――。」

平茂の眼に、異様な輝きが来た。

三

日光は、どこにでもあって、石も、木も、庭ぜんたいが幸福そうにあたためられていた。

小さな寒梅かんばいの鉢植を、自分で地に根下ろして、岡部美濃守は、手を土だらけにしていた。

背中に跫音を聞いて、ふり返った。

久野が、腰を屈かがめて近づいて来ていた。一人だと思ったのが、重なっていた十寸見ますみが、うしろに動いて見えた。

そばまで来ないうちに、美濃守の大声だった。

「訊いてまいったか。」

「は。吉良様にはお眼通りかないませんでしたが、御用人をとおしまして――。」

ならんで立ち停まって、久野が答えた。

「天奏衆お宿坊の儀は広光院なそうにござります。」

美濃守は、大きな音を立てて、土を払った。

「広光院か。そんなことは、はじめからわかっておる。普請等手当て、掃除万端は、何といった?」

「は。」十寸見が、かわって、「修繕ていれは、何も要いりませんそうで。」

「なに、手入れはいらん?」

「ただ、お庭だけはちょっと掃除しておけばよいと申されました。」

「そうか。」美濃守は、青い空を仰いで考えていたが、「壁の塗りかえは?」

「質たずねましたが、まったく不要との御返事でした。」

「障子の貼り替えは?」

「それも、心配いらぬとのことで――。」

「畳がえは、どうだな。」

「今のままで結構といわれましたが――。」

「廊下、厠かわやなどは、もとより丹念に磨かずばなるまい。」

「いえ、ざっと掃くだけでよいとの――。」

美濃守は、大きなからだを揺すぶって、上を向いて哄笑わらった。

「御苦労。いや、それでよくわかった。大儀、大儀――それではな、さっそく手配して、庭から屋内から、すっかり修理するようにいたせ。」

「しかし、」久野が不審気に、「そういう必要がないと吉良様が――。」

「よい。黙って聞け。壁は、なかなか乾かぬから、至急に塗りかえさせろ。」

「ですが、吉良さまがおっしゃるには――。」

「障子の貼りかえ、畳がえ、廊下、厠の掃除、万事念入りに、な。」

久野と十寸見が、不思議そうに、無言の顔を見合わせていると、美濃守が、神経をぴりりとさせて、

「早くせぬか。吉良は吉良、おれにはおれのやり方がある。」

そんなら訊かせになどやらなければいいのに、と、久野と十寸見は、不平だった。

四

広光院の内玄関に、人声が沸いて、吉良の一行が着いた。勅使の宿舎を、下検分に来たのだった。

その天奏の江戸入りの日も、近かった。吉良は、先日岡部から、この宿坊のことを訊きに来たとき、ざっと掃くくらいでよいといってやってあるので、手入れなどは何もできていないであろうから、それを機会きっかけに、美濃守をとっちめてやろうと、いくぶん今日をたのしみにしていた。

いうまでもなく、とり換え得るものはすべて新しくして、隅ずみまで細かい注意を払っておくべきなのだった。

今日になって騒いだとて、もうお着の日が迫っている。間に合わぬ――吉良は、完全に美濃守に復讐した気で、久しぶりに晴ればれと、広光院の門を潜った。

が、まず庭に、見事に手が届いているのが、吉良の腑ふに落ちなかった。そして玄関をはいると、新壁あらかべと、あたらしい畳のにおいが、鼻をついた。

「すっかりやってあるわい。」つぶやいた吉良は、裏切られたような別の怒りが、こみ上げてきた。「何からなにまで、法どおりに準備ととのえおったらしいぞ。」

奥から、美濃守の大声が聞こえてきていたが、取次ぎが、吉良の来たことを知らせても、出てくる気配はなかった。

久野と十寸見に案内させて、各部屋を見て廻りながら、吉良は、歯を食いしばっていた。

「これでよい。何も申すことはござらぬ。美濃守は、手前以上に御存じでいらっしゃるから――。」

と、ふと、座敷の隅を見て、

「あそこには屏風びょうぶが一双ほしいところじゃが――。」

閉めきった隣りの室から、声が聞こえてきた。

「兄上、ここを開けましたる次の部屋に置きます屏風は、狩野かのう法眼ほうげん永徳えいとくあたりが、出ず入らずのところと――。」

そのとおりだった。永徳とは、適かなったことをいうやつ――誰だろう、と吉良は、不審に思った。

ぐっとつまって、立ちすくんだように黙っていると、隣室からは、美濃守の声で、

「これ、辰馬の申すように、永徳の屏風をひとつ、つぎの座敷へ入れておくのじゃ。」

係の者が、承知して、頭を下げているようすだった。

五

平茂が、目見得に伴つれてきて、ちょっと顔を見た時から、吉良は、気に入ってはいた。

が、何となく、したしみ難いところがあった。といっても、妾めかけ奉公を承知で来ている女には違いなかったから、いずれは、先方から、そんな意味でのつとめを申し出るであろう、と、吉良は、そのままにして、迫らないでいるのだった。

夜になって、吉良が寝しんにつく世話をしてしまうと、女は、さっさと自分の部屋へ退って行った。側女そばめとして来ているのに、そうすることが当然であるような、女の態度だった。しかし、格別避けているようでもなかった。何でも、はきはき返辞をするし、愛想はいいのだった。

名を訊くと、お糸といった。請人うけにんの平茂の話では、親元は、長谷川町のほうで仏具師をしているとのことだった。吉良には、お糸がどんなつもりでいるかわからなかったが、了解りょうかいしているはずのことをことごとしくいいだすのも業腹ごうはらだったし、それに、食べようと思えばいつでも食べられるものを、眼のまえに見ながら、いつでも食べられるだけに、そして好きなものだけに、いつまでも食べないでいるのも、老人らしい吉良の趣味に合わないでもなかった。

「変った女だ――。」

こっちからは手出しをすまい。どういう気か、黙って見ていてやろうと吉良は思った。

で、吉良の床をとって帰って行くお糸を、一度も引きとめはしなかった。朝、洗面の手つだいに顔を出すまで、呼びもしなかった。名ばかりの妾のまま、日が経って行っていた。

馬鹿にされているような気がしないでもなかった。

吉良のこころに、女性とのあいだにそういう話をすすめるという、忘れていた、若わかしい興味も起こって、

「は、ははは、一つ、今夜あたり口説くどいてみるかな――。」

口のなかでつぶやいて、苦笑している時だった。

明るい色が、控えの間のさかいに動いて、そこに何の屈託くったくもなさそうなお糸の顔があった。

通りすぎるほど通っている鼻すじだった。それが、すこし険のある表情にしているのかもしれなかった。

敷居しきいに、三つ指をついていた。

重い髪を、ゆらりと上げかけて、

「あの、立花様から、お使者の方がお見えになりましてございます。夜中ながら、お役柄の儀につきまして、ちょっとお上に伺いたいことがございますとか――お通し申しましょうか。」

お糸の白い額を見ながら、いったい、取次ぎにこの女を雇ったはずではなかった、と、吉良は思った。

じっとお糸に眼を据えて、無言でうなずいていた。

六

玉虫靱負ゆきえは、立花出雲守の公用人だった。一間に案内されて、待っていた。

正面のふすまが、左右にひらいて、ふところ手の吉良が、せかせかした足どりではいって来た。

腰元らしい女をひとりしたがえているのを、玉虫は、平伏しながら、上眼づかいに見ていた。

「どうもおそく参上いたしまして――。」

「いや、なに、かまいません。」

吉良が、痩せた膝を座蒲団にならべると、女も、そのうしろに引きそうように、すわった。

用談を持ってきた客には、吉良は、気が短かった。

「お役目のことといえば、御主人出雲殿の饗応お添役についてでしょうが、どういう――。」

すぐ、吉良からきりだした。

用人の左右田そうだ孫三郎が、縁の障子の根に、ななめに顔を見せていた。

「申し上げます。ただ今、立花様より、家老へ白銀十枚――。」

「これは、これは。そうたびたび、恐縮ですな。」

吉良は、礼のための礼のように、冷淡をよそおっても、出雲守へ好意を示したいこころが、声に滲にじんでいた。

「お役上、何か御不審でも――。」

「は。御饗応にさし上げますお料理のことでございます。」

「その料理を――。」

「当日は、清らかなお席、生臭なまぐさを断たって精進しょうじん精物でございましょうか。」

「いや、精物というは、潔きよきものという意です。堂上方が、初春慶賀のため御下向なさる。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は必ず御精進はいたされません。魚類は結構、と申すより、魚類でなければなりません。」

「ありがとうございました。じつは、お精進ものであると申すものと、いや、魚類だという者と、二派に別れまして――そのため、たしかなことを承うけたまわりに上りましたようなわけで。」

吉良は、権威者らしい微笑を漂わせていた。

「精進だなどと、どなたがそんなことをいったかしらんが、断じて精進ではない。今申したように、精進日でも、魚類です。」

吉良の背ろに控えているお糸が、玉虫と同じように、終始緊張して聴いていた。

礼を述べて、起とうとする玉虫へ、吉良が、いった。

「元来このお役は、難しいといえばいうようなものの、先例もあり、いくらお手前でも、万事は上野こうずけが引き受けます。お指図をいたしますから、何なりとお訊き下すって、大丈夫安心いたされまするよう。一度ならず丁寧な御挨拶に預かり、かえって痛みいります。出雲殿へ、よろしく、申し伝えられたい。」

お糸は、何か胸中にうなずいている態ていで、玉虫を送りに、つづいた。

親抱きの松

一

饗応役の打合せに当てられた、城中の仕度部屋だった。

不意の声が、美濃守の首を捻ねじ向けた。

「岡部殿!」

吉良だった。

美濃守は、無言で、眼で訊いた。

「――――。」

「お手前は、私に何ごともお尋ねないが、元より御本役をお引受けなされたくらい、万事心得ておらるるであろうの。」

うそぶくように、美濃守が、

「ところが、何も知らぬ。われながら、笑止。」

「とすましておられて、それでよいのか。」

「よいも悪いも、知らぬことはどうにもならぬげな。」

憎さげに口びるを噛んで、吉良は、もう、顔いろが変りかけてきた。

「知らぬことは、どうにもならぬ? よく、さような口が――。」

「が、また、そこはよくしたもので、こうしておれば、貴殿のような親切な仁じんが、何かと教えてくれるであろうから、まあ、どうにかなるでしょう。などと考えて、あえてあわてませぬ。」

「多用です。お手前ごときを弄して、暇を欠かしてはおられん。が、当日さし上げるお料理の儀は、いうまでもなく御存じでありましょう。」

「それも御存じないから、呆れたものですな。」

「美濃殿!」

吉良は、この岡部美濃という人間は、莫迦なのか偉いのか、わからなくなって、焦いらだった声を出した。

「おふざけ召さるる場合でない。手前の落度になりますから、これだけ申し上げておく――お着の日、御饗餐ごきょうさんは、魚類をいといます。精進料理ですぞ。」

美濃守は、弟の辰馬と、このごろまるで筆談のようなことをしているのだった。

今朝も、出がけに辰馬がそっと机上に書いておいた紙片を、美濃守は見ないふりをして、素早く読んできていた。

にっと、笑って、

「いや、吉良殿ともあろう者が、それはとんでもないお間違いです。精物というは、清らかなるものという意、堂上方が、初春はつはるの慶賀に御下向なさるに、何で精進料理ということがありましょうや。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は、けっして精進はいたされません。魚類で結構、どころか、魚類でなければならぬ。手前は、誰が何といっても、魚類を進ぜるつもりです。」

吉良は、背骨が棒に化なったように硬直して、唾を呑のんでいるだけだった。

手が、自動的に、ひらいたり閉じたりして、袴の膝を握りしめていた。

二

「いえ、けっして、お思召しに添わないなどと、さようなことを申すのではございません。ただ――。」

押さえ来かかった吉良の手だった。それを、あまり強く払ったことに気づいて、お糸は、はっとしていた。

ここで、こんなことで露顕しては――と、お糸の糸重は、無理に艶つややかな媚笑わらいを作った。

「そのお約束で、御奉公に上っております糸でございます。何で御意ぎょいに抗さからいましょう。殿様さえお心変りなさらなければ、末長く――でも、きっとすぐお飽きになって――。」

いいながら、いくら間者かんじゃとしても、心にもない言ことを――と思いながらも、糸重は、現在、良人、良人の兄、自分を苦しめている吉良へ、こんなことまで口にして、媚こびを、と、ぞっとした。

刺し殺したいほど、吉良への憎悪に燃えた。

「ただ、何だ――それなら、なぜ肯きかれぬ、と申すのじゃ。」

蒲団にすわった吉良は、みょうに白けた顔で、眼が、異常に光っていた。

はらわれた手のやり場に困って、襟をかき合わせた。

乾いた音だった。

「妾が――意に添うも添わぬもないはず。理由わけを申してみい。」

いつものように、吉良の就寝を見て、自室へやへ引きとろうとしていた糸重だった。軽くあらそった衣紋の崩れをなおして、夜着の裾のほうに、遠くすわっていた。

「わけと申して、べつに――。」

吉良は、何気なくよそおっていた。が、老人としよりらしくもなく、手出しして拒はねられたという照れ臭さが、寝巻きの肩のあたりに見られた。

しかし、お糸は、はじめから妾に来たのだった。妾に、こんな手間ひまのかかる女が、あってもいいものだろうか、と、吉良は、不思議な気がした。ばかばかしく思った。

いっそ暇を――が、そうもならなかった。それは、たんに未知へのあこがれかもしれなかったが、いつの間にか、愛着らしいもののできているのも、いなめなかった。平茂と、本人のお糸への、意地もあった。

何だか、考えこんでいる吉良を見ていて、糸重は、良人の辰馬の顔を思い出してみた。同時に、吉良が気の毒のような感情も、ふっと横切ったりした。

糸重は、泣いていた。

吉良が、いつになくやさしく、

「何を泣く――?」

一寸逃のがれを、いわなければならなかった。

「ほしいものがございます。それさえ下されましたら――。」

「ほほう、物が欲しい。」吉良は、にこにこして、「子供よのう。必ずともに寵愛いたす――との証拠しるしにな。面白いぞ。して何が所望しょもうじゃ。」

とっさの思いつきに、困って、

「あの――。」

と、部屋中を走った糸重の視線は、違い棚の扇箱にとまった。

「あれか。はっはっは、あの扇箱か。」

糸重は、あわてた。

「はい――いえ、あれに、扇をお入れ下さいまして――そうして、その扇に、ちょっと好みがございます。」

ほっとして、いった。

三

「骨は――と、木を用いて、変り材のごとく観すること、か。厄介なことを思いつきやがったなあ!」

職人のひとり言だった。

吉良からの注文書を置くと、すぐ、奇科百種新述きかひゃくしゅしんじゅつと標題のある工学書を参考して、

「ええと、何だって?――木地を塗りて玳瑁たいまいあるいは大理石マルメルの観をなさしむる法、とくらあ。まず材をよく磨きてのち、鉛丹たんに膠水にかわ、または尋常よのつねの荏油えのゆ仮漆かしつを和あわせたる、黄赤にしてたいまい色をなすところの元料もとを塗る。さてこれに、血竭二羅度らど、焼酎十六度よりなる越幾斯エキスにて、雲様の斑点とらふを模彩うつす。かつ、あらかじめ原色料くすりをよく乾かすよう注意きをつけ、清澄たる洋漆を全面そうたいへ浴あびせるべし。」

常磐橋ときわばしの東の、石町こくちょう一丁目にあって、御影堂みかげどうとして知られた、扇をつくる家だった。京都五条の橋の西の御影堂が本家で、敦盛あつもりの後室こうしつが落飾して尼になり、阿古屋扇あこやおうぎを折って売り出したのが、いまに伝わっているといわれていた。おうぎ形の槻板つきいたに、大きく屋号を書いた招牌かんばんが、さがっていた。

そこの工作しごと場だった。

扇工は、その、指南書のさきを読みつづけた。

「大理石の様模はだをあたうるには、随意おもうところの一色を塗り、これに脈理を施して天然のものに擬まぎらし、後に落古ラッカを被きせて艶つや出しするを善よしとす――。」

そして、この式にしたがって、扇の骨に加工しているのだった。

それができ上れば、吉良の意に任す――それまでは、枕を交かわすことはできない、と、糸重が、難題として、吉良に持ちかけた扇子なのだった。

風流人をもって自ら許している吉良だった。この糸重の申し出を、面白い――と笑って、さっそく御影堂へ注文しないわけにはいかなかった。

義兄美濃守が、無事に饗応役を果すまで――それまでにでき上らない扇でさえあれば、何でもよかった。なるたけ時日の費かかりそうな、むずかしい扇を、でたらめに考え出した。扇が、例の扇箱に納められて、吉良から下げられない前に、美濃守は、役目を解かれるに相違なかった。そうすれば、糸重は、そっと吉良から脱けて、元のままのからだで辰馬の許へ帰れるはずだった。

吉良は、この扇のことを、女との交渉のまえの、ちょっとした遊戯として、興がっていた。

毎日のように、御影堂へ催促が飛んだ。もうできかかっているのだった。

四

立花出雲守の使者に渡すはずのお次第書を、糸重は、こっそり懐中していた。

お次第書は、追加の御沙汰といって、当の式の順序を認したためた、重要な書類だった。饗応役のもっとも大切な一日を、具体的に説明しているものだった。

人気ひとけのないのを見すまして、背戸の柴折しおり戸をあけた。

いつものように、宵闇に紛まぎれて、折助おりすけすがたに装つくった辰馬が、ぼんやり佇たっていた。

手早く、お次第書を渡しながら、糸重が、

「これは、饗応役の一ばん大事の日のことを、細ごまと書いた、申せば、お役のこつなそうにございます。立花様から受取りに来られれば、失くなったことがわかって、おっつけ騒ぎになりましょう。」

辰馬は、頬被りの奥から、

「ほかに、心得は?」

「当日は、必ず大紋烏帽子だいもんえぼしのこと――。」

「その他――気が急せく。」

垣根を離れて、行こうとするので、

「それから勅使院使さまがお上りのとき、吉良とお取持役おふたりが、お出迎えなされます。」

「うむ。それで?」

「その節、吉良は、高家筆頭の格式でお掛縁かけえんとやらまで出ますそうでございますが、兄上さまと立花様は、本座に――。」

「本座――ではわからぬ。どこだ、本座と申すのは。」

「何でも、おひき出しと申す場所だと――。」

「よし。お抽斗ひきだしだな。」

去りかけた辰馬が、引っかえしてきて、

「扇は、は、ははははは、まだであろうな。」

「はい。まだでございます。でも、もうすぐ――危のうございますので、変り骨だけでは心細いと、あとから、いま一つ、難題を加えてやりました。吉良の知行、下野の稲葉の里に、親抱きの松というのがございまして、常から吉良が自慢にいたしております。いつぞや順礼がその松の下で相果てましたので、土地の者が、葬いのしるしに、それなる老木の傍に若松を一本植えましたところが、小松が枝を伸ばして、親松の幹を押さえましたそうで――さながら枝で支えようとしております恰好から、吉良が命名なづけまして親抱きの松と呼んでおります。これから考えつきまして、扇面いっぱいに、三万三千三百三十三の松の絵を、梨地蒔絵なしじまきえで、幸阿弥こうあみ風に――面倒な注文でございますが、御影堂では、夜も昼も、職人から主人からかかりきりで、それもやがて、仕上げに近いと聞きましてございます。心配でございますが、どうすることもならず――。」

影絵を見る

一

お白書院しろしょいんに、飾りつけができていた。

大広間上席、帝鑑の間、柳の間、雁の間、菊の間と、相役が席についた。

静寂が、城中に渡って、柳原大納言、正親町おおぎまち中納言、甘露寺かんろじ中納言の三卿が、お上りという時だった。

服装のことなど、教えてないはずだから、場違いの長裃ながかみしもでも着けていはしまいか――そうだと面白いのだが、と、吉良が、美濃守の姿を求めると、立派に大紋烏帽子だった。

吉良は、拍子抜けがして、美濃守が前へ来ても、このあいだからのように、何か一こと敵意を示してやるだけの気にも、なれなかった。

口を切ったのは、美濃守だった。

「御次第書とかいうものがあろうかの。見せられい。」

横柄おうへいなことばつきになっていた。

吉良は、無言で、相手を凝視みつめた。

「おい、御次第書は、どうした。ないのか。本役の美濃である。一応、眼を通しておかなければ、不都合だ。さし出すがよい。」

眼に見えて、吉良は、ふるえてきた。

「ござらぬ。」

「紛失いたしたな。」

「いや、持っておる。が、このほうは高家筆頭じゃ。わしが見ておれば、それで充分。お手前に関係したことではない。」

「なに、御饗応のお次第書が、本役のおれの知ったことではないと――。」

吉良は、生えぎわに汗を見せて、

「まあさ、そう大きな声をされんでも――今にも天奏衆がお着きになる。その銅鑼声どらごえがお耳にはいっては、おそれ多い。」

が、美濃守は、たたみかけるように、

「御老中連名のお次第書だ。天奏衆御出発の用意等、出ておるであろう。こちらから老中へ返納いたす。出せ!」

どうして、お次第書などというものがあることを、この美濃は知っているのだろう――吉良は、相手になるまいとした。

美濃守は、にやりとして、

「これだけの心得がなくて、本役をお受けできるか――勅使両山御霊屋へ御参詣、お目付お徒士頭かちがしらが出る。定例じゃぞ。十三日が、天奏衆御馳走のお能。高砂たかさごに、三番叟さんばそう。名人鷺太夫がつとめる。御三家、老若譜代大名、諸番がしら、物頭、お医師まで拝観、とある。おぼえておけ。」

吉良は、死人のような顔いろになって、美濃守を白眼にらんで立った。

二

「や、どうも、おっそろしく混みいった注文だったもんで、すっかり手間を食っちゃいましたが、やっとできましたよ。」

京都の御影堂本家の主人は、店に、本尊法然ほうねんの像をまつって、時宗だったから、僧形で妻帯していたが、円頂で扇をつくって京の名物男だった。

それに、負けず劣らずだった、江戸の御影堂は、坊主ではなかったが、口の荒い職人膚だった。やはり、一風かわった人物だった。

辰馬が、吉良家から来たといって、でき上った扇を受け取りに行くと、奥の、手文庫のようなものから、自分で出してきた。

手のうえに置いて、離すのが惜しいといったように、惚ほれぼれと眺めた。

辰馬は、屋敷侍らしい着つけで来ていた。口も、そんなようにきいて、

「いかさま、見事――眼の果報じゃ。」

「なにしろ、凝ってこって凝り抜いたもんでわしょう? どうですい、この扇骨ほねの色は。十本物だが、磨きは、自慢じゃあねえが、蘭法でも、ちょいと新しい式でね、いや、職人泣かせでしたよ、まったく。」

「うなずかれる――。」

「吉良のお殿様が、何を思いたって、こんな途方もねえものをお誂えになったか知らねえが――。」御影堂は、急に、声を落とした。

「噂ですぜ。うわさだから、間違ったらごめんなさい。お妾が、いうことを肯かねえで、こんな変ったものを考え出して、それができたら、へへへへ――するてえと、今まで殿様あお預けを食ってらしったんですね。ざまあねえや。道理で、値は構わねえから、早く、早くと――。」

「松がまた、よく描けておるな。」

辰馬は、扇を手にして、眼のさきにかざしてみた。

「細かい松じゃな。うむ、どこからどこまで、いい細工さいくだて――これで、松の数は、三万三千三百三十三あるのか。」

「ございますとも。虫眼鏡で、お算え下さいまし――殿様がお待ちかねです。あっしも、もうすこし、ゆっくり見ていてえが、お持ち帰り願いましょう。」

「見れば、見るほど精巧なる出来栄に、殿も、およろこび下さろう。代は、後から屋敷へ取りにまいれ。」

「ええ、そんなもの、いつだって――。」

歩きかけた辰馬の手から、自然らしく、扇が落ちて、土間を打った。

辰馬が、おとしたのだった。

扇面が破れて、一、二本、骨が折れた。

「お! これは、とんだ――。」

叫んだ時、御影堂が、足袋はだしで駆け降りて来た。

「何をしやがる! 直すのに、また何日かかると思うんだ――。」

「粗相だ。許せ!」

もう一度、よろめいて、わざとでないように、扇を踏みにじりながら、辰馬は、微笑をふくんで、逃げ出していた。

三

勅使が、玄関に着こうとしていた。吉良上野介は、お掛縁かけえんに控えて、最後に、すべての配くばりはよいかと、あたりを見廻した。

岡部美濃守が、じぶんとおなじように、玄関に着座しているのに、気がついた。

いままでは、強情我慢で、そしてまた、どこからか聞きだしてきては勤めてきたが、身についていないということは、争あらそえないと吉良は思った。

仕方がなかった。それが、ここに現われたのだった――そう考えて、吉良は、ちょっとおかしかった。

吉良は、高家筆頭だから、そこにいるのが当然だったが、

「岡部が、ここに出しゃばっておるとはなにごと! 今に、顔の上らないほど、手きびしくたしなめてやろう――。」

扇箱以来の美濃守への不愉快さが、吉良に、この報復の機会を得たことを、痛快がらせた。横眼に、美濃守を見やって、待っていた。

勅使の一行が、近くへ来たとき、吉良は、わざと低声だった。

「美濃殿――。」

聞こえないらしかった。

「美濃殿!」

のっそりと、美濃守が、答えた。

「何じゃい。」

「お席が違いますぞ。」

「はあ?」

吉良は、面白くなってきた。

「お席が違う。」急調子に、「お席が違うというに。これ、お席――。」

「なに? 何をぶつぶついわれおる。」

美濃守は、大きな肩を丘のように据えて、動こうともしなかった。

「本座にお直りなさい、本座に!」

「本座? 本座とはどこですかな。」

「しっ! さような大声を――早く、本座へ!」

「わからぬことをいうなっ。本座とはどこだ。」

「何を申す!」吉良が、きっとなった。「急場になって、本座はどこだなどと訊いておるどころではない! ええいっ! 本座へ控えるのだ、本座へ。」

つと起った美濃守が、小腰をかがめて、すり足に、見事に、お抽斗ひきだしへ直なおるのを見ると、吉良は、かっとした。

美濃守は、はじめから知っていて、自分を揶揄していたのであったことに気がついた。

翻弄ほんろうされぬいていた――眼のまえに、何か赤いものが躍おどり立つように、吉良は、感じた。

四

「関東の武家、名は何といわるる?」

正親町おおぎまち中納言が、ものずきに、岡部美濃守をふり返って、訊いた。

饗応役は、勅使にしたがって、松の廊下まで来かかっていた。

「岡部美濃守です。」

ぶっきら棒にいうと、中納言は、笑って、

「関東は武をもって治むる国である。頼母たのもしい御体格ですな。定めしお力があろう。見たい。」

「心得ました。」

と、それを掛け声に、美濃守は、やにわに、すぐ前を往く吉良に手をかけた。

「何をなさる! 乱心――。」

踠もがいたが、枯れた吉良のからだは、美濃守の両手に差しあげられて、頭のうえを高く、空に泳いでいた。

烏帽子えぼしがまがり、中啓ちゅうけいが、飛んだ。と、吉良は、美濃守に受けとめられて、すうっと、労いたわるように、抱き下ろされていた。

武骨な座興ざきょう――として、笑い声をあとに、天奏衆は、もう、かなり先へ進んで行っていた。出雲守をはじめ、あっけにとられた人々の顔が、まわりにあった。

吉良は口がきけなかった。なんという暴!――もはや、これまでだと思った。

「美濃、待てっ!」

叫んだ――ような気がした。同時に、家を捨て、身を忘れて、腰の小さな刀に手を――かけた自分を、とっさに、想像してみた。

美濃守は、すでに、平気で、むこうへ歩いて行こうとしていた。

刃傷にんじょうだった。吉良は、それを、一瞬にこころに描いた。

殿中だった。松の廊下だった。たとえ誤ちでも、鯉口こいぐち三寸ひろげれば、大変なことになるのだった。

が、勘忍かんにんぶくろの緒おが切れた。じぶんは、どうなってもよかった。乱心といわれても、切腹でも、そんなことは、かまっていられなかった。

吉良は、心中に、刀を抜いた。そして、恨み重なる美濃守へ斬りつけるところを、考えた。

松の廊下――ちょうど、隅の柱六本目のかげだった。

初太刀しょだちは、烏帽子の金具に当って、流れた。二の太刀は、伸びて肩先へ行った。

美濃は、逃げようとして、戸にぶつかって倒れた。起き上ろうとするところを、ここだ、と振り下ろしたが、その時、吉良は、うしろから、しっかり抱きとめられているのを知った。梶川かじかわ与惣兵衛よそべえだった。大力の人で、すっかり羽掻はがい締じめに、うごきが取れなかった――吉良は、身をゆすぶった。

「残念――。」

「いかがめされた、吉良殿!」

ゆらゆらと立っていた吉良だった。梶川与惣兵衛が、にこにこして、うしろから手を廻して支えていてくれた。

「抛ほうり上げられて、眼が廻ります。どうも乱暴だ。」

「いくら天奏衆の御機嫌を取り結ぶのが饗応役とはいえ、御老体を――。」梶川は笑った。「歩けますかな?」

吉良も、仕方なしに、苦笑していた。

「まったく、美濃殿は、いささか荒いようです。」

勅使に随ついて、廊下の端に、美濃守のすがたが小さく見えていた。

底本 / Source edition

底本:「一人三人全集2[#「2」はローマ数字、1-13-22]時代小説丹下左膳」河出書房新社
1970(昭和45)年4月15日初版発行
入力:奥村正明
校正:小林繁雄
2002年12月3日作成
2008年3月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/001808_000290/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/001808_000290/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/001808_000290/

林 不忘「元禄十三年」(新字新仮名)、底本『一人三人全集Ⅱ時代小説丹下左膳』河出書房新社、1970年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001808_000290, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite